***  匿名投稿  ***

2003年9月

原作中の実名は全て仮名に変更しました(HP担当)

夏休みを前に、鈴木が三人で北海道に行こうと言い出した。相模原の高校を出てから二浪して入学してきた鈴木は、私にとっては麻雀の師匠格だ。背が高く痩せていて背中を少し猫背気味にして歩くのは、私の目から見れば随分都会的な感じがしたが、宮野は最初から「なんだか、胡散臭い」と言っていた。ビリヤードも上手いし、遊ぶことなら何をやっても上手い。その高校の同級生だった斉藤は対照的だ。ちりちりの髪の毛に黒い顔、前歯の真ん中に一本の挿し歯が入っていて、笑うとよく抜けた。寅さん映画に出てくる佐藤我次郎そっくりだ。何をやらせてもどこか間が抜けている。斉藤は三浪目に突入していたが、一向に受験勉強をしている気配がない。時々私たちに紛れ込んで、大講義室の講義を聴いたり、あとは麻雀や酒を私たちと付き合うという生活をしている。だから、まず来年の受験も無理だと私たちは思っていた。
中学の修学旅行で道南部には行ったことはあっても、ほとんど記憶に残っていない。わずかに札幌の時計台とトラピストをやっと思い浮かべることができる程度だ。鈴木と斉藤は初めてだ。当時、「カニ族」と呼ばれる若者たちの大群が、夏になると北海道に押し寄せるニュースがしきりに流れていたから、流行に弱い鈴木もその気になったのだろう。

しかし、何故鈴木は私を誘ったのだろう。この頃私は鈴木に対してある種の不信感を感じていたから、私がその誘いに応じた理由も良く分からない。私の感情は由美子さんに関係したことだった。
入学当初から鈴木はフラメンコギターの同好会に入り、そこで法学部の由美子さんと出会い、付き合い始めた。私たちの前にも手をつないで現れ、悔しがる私たちを見て喜んでいたから鈴木は趣味が悪い。彼女は色白で、よく笑う美人だった。何度か一緒に酒を飲んだが、明るくて聡明な女性だと私は思った。こんな美人で頭が良いのに、何故、鈴木のような「遊び人」と付き合っているのだろうかというのが、仲間の一致した疑問だった。宮野は会うたびに、「由美子さん、今度一緒に飲みにいこうよ」と誘っていたが実現しなかった。
ある日、「俺、厭きちゃった」と私たちの目の前で、鈴木は彼女に別れを宣告した。由美子さんは泣いた。可哀相だ。憤慨する私に、鈴木は「それじゃお前にやるよ」と彼女の写真を放り投げた。

とりあえず資金を稼がねばならず、私は、ミノルと向井を誘って凸版印刷でのアルバイトを選んだ。鈴木は祖父がつい最近なくなったばかりで、その遺産の中から買ってもらった車で大学に来るようになっている。小遣いには不自由していないのだろう。斉藤はなぜか分からないがアルバイトなどしなくても小遣いは充分足りているようだ。私だけがぎりぎりの仕送りで生活しているから、働かなければならない。ミノルも向井もやはり麻雀仲間で気が合うから、一緒に働こうと思いついたのだった。生まれて初めてアルバイトというものを経験するのに、ひとりでは心細かったせいもある。向井は故郷の小樽に恋人を置いているから、夏休みの帰省前に少し稼いでお土産を買っていくのだと張り切った。

八時始業で昼の休憩一時間をはさんで五時までの仕事だ。B版全紙に印刷され、まだ裁断されていない大量の印刷物が、パレットにうず高く積み上げられている。おもに週刊誌の表紙やグラビアなどだが、それを二人で組になって数えるだけが仕事だ。全くその通りに「員数課」というのが課の名前だったから何だかおかしい。百枚数えたところでその紙を持ち上げ、横においてある空のパレットに百枚単位でずらしながら積んでいく。二人の勘定が違っていればまた一枚から数えなおす。一枚のパレットが終われば、社員が別のパレットをフォークリフトで運んでくる。
単純な仕事だから二日もやればおおよその勘所はつかめるので、特に難しい仕事ではない。さすがにベテラン社員の数え方は素早いが、こんな原始的なやり方をしていることが、私には珍しかった。ミノルはこの会社で頼子さんと知り合った。八時に間に合うように起きなければならないのがきつかったが、なんとか契約期間が終わって五万円の金を手に入れた。

随分早くから並んでいたのに、乗った夜行列車はそんなに混んでいるわけでもなく、楽に座れた。「もっとゆっくり来ても良かったじゃん」と鈴木が文句を言う。上野駅で二時間も待っていたのだ。「俺、由美子さんにお土産持って帰る」と斉藤は嬉しそうだ。
 三人で乗った夜行列車だが、夜は長い。北海道までは随分時間がある。鈴木がトランプを持ってきていたので、それしかやることがない。それがヤツの手口だった。麻雀でもまず負けることがない。相手が高そうな役を狙っていると気がつけば早上りに徹するし、誰かが弱ってきたと思えば嵩にかかって攻め立てる。勝負の見極めが早い。私たちはその鈴木に麻雀を習っているわけだから、トランプでも彼の敵ではなかった。
 見る見るうちに手持ちの金が鈴木の財布に移っていく。私の財布から一万円がなくなったところで、私はやめた。「貸してやるよ」と鈴木は嘯くが、もう騙されてはならない。私たちは二週間ほどを北海道で過ごすつもりだったから、これ以上金を無駄にするわけには行かないのだ。
 二週間ということだけは決めていたのだが、どこに行こうとするのか、全く何の計画も立てていない杜撰な旅行だった。こういうことは、私がアルバイトをしている間に、残りの二人がきちんと考えておく約束だったが、二人とも何もしていない。全く無能な連中だった。

 最初の日から無駄な金を使った。函館市内を巡ったあと大沼の辺りで、旅館で飯を食べるのは高いから腹ごしらえをしておこう、宿は素泊まりで済むという鈴木の意見で、私たちはラーメンの大盛りを腹に入れてから宿を探した。しかし素泊まりを承知してくれる宿はどこにもなく、よりにもよって、「うちは、郷土料理が名物ですから」という格式の高そうな旅館を選ぶ羽目に陥った。既に腹は一杯だが、旅館売り物の郷土料理を食べないわけには行かない。鯉の洗いに始まるその料理は、空腹の状態でも食べきれないだろうと思うほど大量で、私たちは死ぬかと思った。
 翌日は、乗る汽車を間違えて釧路に向かっていた。別に計画を立てている訳ではないから、間違えてもたいしたことではないのだが、コースに無駄が出る。また長い汽車の旅。北海道は何故こんなにも広いのだろう。もうどうでも良くなった私と斉藤は、三人合わせた金額が二週間の旅行に耐えればよいのだと自分を納得させ、鈴木の罠に飛び込んでいくことになる。悔しいが確かに博打の才能はある。三人の金は、ほとんどが鈴木の管理下に入ってしまった。これから私たちが支出しなければならない金額は、全て鈴木からの借金になってしまうのだ。
 八月半ばだというのに寒い。旅館に入ればストーブを焚いている。野宿という可能性も考えてはいたのだが、私たちの用意した夏用の寝袋では、この寒い北海道の夜は過ごせないことが明らかだった。

 私としては一人五万として三人で十五万もあれば、二週間の北海道旅行はなんとかなると計算が立っていたのだが、実は鈴木は二万しかもって来ていなかったことが分かってしまった。ペテンに引っかかっていた。斉藤は四万で、つまり三人で十一万というのが、スタート時点での私たちの持ち金だった。それに「素泊まりか野宿」などと言っていた鈴木の目論見とはすっかり違って、私たちはちゃんとした旅館できちんと料理を食べ、おまけに酒まで飲んでいたから、金はあっという間になくなる。
小樽では向井の実家に厄介になり、水族館でトドを見た。帯広では宗郎の斡旋で畜産大学の寮に泊まることができ、ワインを飲ませてもらった。この二日で多少でも消費が少なかったのは助かったが、それ以上に私たちの金が減っていくのは早かった。七日目の朝、阿寒湖畔の旅館で残金を勘定した私たちは、もう帰らなければならないことを悟った。
 結局私たちの見た北海道は、函館周辺、札幌と小樽、釧路、霧の摩周湖、帯広市街、それに阿寒湖ということになる。旅館で夜遅くまで飲んでいるから朝は眠い。観光バスの中から外にも出ず寝ている私たちを見て、「あんたら、何しに来はったん?」と大阪弁の娘が呆れていたこともあった。阿寒湖のガイドは酷い音痴で、『マリモの唄』のメロディが全然覚えられなかった。利尻や礼文にも行こうと言っていたことなど、どこに消えてしまったのか。

 「とにかく、由美子さんにお土産買わなくちゃ」と斉藤が言う。残った金で買えるのは熊の置物だった。こんなものを喜ぶだろうか。斉藤は、「気持ちだよ、俺の想いが通じれば良いの」と能天気なことを言っている。由美子さんには、それが何かは私にはよく分からなかったが、熊ではないものが相応しいのではないか。しかし、所持金の中からの選択しかできないのは確かだった。これだって鈴木からの借金になってしまうのだ。なぜか斉藤は、「この熊はおれとヨシトの折半だから」と言う。私はすっかり鈴木に腹を立て、東京に帰ってから借金の始末をどうつけようかと悩み始めていた。

 東京にたどり着き、鈴木とは口も利かずに別れた私と斉藤は、経堂にある由美子さんの家へ向かった。由美子さんは広島の出身で、兄と一緒にアパートを借りている。建築家だというお兄さんは髯面の少し怖そうな感じだったが、話し始めると穏やかな人で、私たちにウィスキーを飲ませてくれた。サントリー・オールド。ブルジョアの飲む酒だ。
斉藤の熊を見て由美子さんは「有難う」と言ったが余り喜んでいるようではなかった。「なんだか、斉藤クンみたいだね」と言う通り、熊はどこか斉藤自身に似て、間の抜けた顔をしている。鈴木と別れる前はふっくらとした感じでいつも笑顔が絶えなかったのに、今見ている由美子さんの表情は少しほっそりとして淋しげだった。それでも突然の私たちの訪問に嫌な顔もせず、お兄さんの指示に従って料理を作ってくれる。斉藤だけが浮かれて「お兄さん、ボク由美子さんと付き合って良いですか」などと口に出し、顰蹙を買った。

 あとで宮野が、「俺も由美子さんの家さ行きたかった」と文句を言った。