***  匿名投稿  ***

2003年8月

原作中の実名は全て仮名に変更しました(HP担当)

 純喫茶OMBREには、困った人たちばかりが集まって来た。

 四時近くになってもマスターは帰って来なかった。昼前にあゆみさんが来て、隅の席で何か話していたと思ったら、「ちょっとお願い」と言って出て行ったきりだ。あゆみさんは跡見に通っていて私より年下だが、小麦色の肌に不思議な色っぽい目をした美人だ。マスターと「出来ている」と常連の間ではもっぱら噂になっていた。

 しかし、キッチンに入っている今泉さんが、今日は試験だから四時であがるというのはマスターも知っている筈だ。司法試験のための専門学校だから、休むことは絶対にできない。夕方から来てくれるみっちゃんも、看護学校の期末試験だから昨日から一週間休みだ。私一人になってしまう。今泉さんも「本店に電話してみたら」と心配そうに言う。本店は阿佐ヶ谷にあり、マスターの母親がやっている。私は苦手だが仕方がない。「また克己がいないのかい、誰か回すから、その間ひとりで凌いでいて頂戴、こっちも忙しいんだ」と怒ったようにママさんは電話を切った。

 ママさんが「また」と言うのも無理がない。去年まではこんなことはなかったのだが、今年に入ってからこれで三度目だ。あゆみさんが店に顔を出すようになってからだから、噂は本当だろう。これまでは誰かが必ずいたのでそれほど気にはならなかったが、今日は違う。それに、私はホール専門でキッチンは知らない。時々マスターや今泉さんが作っているのを見ているだけだ。

 この店は、大体四時過ぎから常連客が集まってくる。案の定、今泉さんが抜けた直後に筑摩さんが犬を抱いてやってきて、「あら、マスターはいないの?」と声をかけてきた。毛玉を全身にまとっているような犬だ。前にこの犬の種類を訊ねたときに、「あなた、なんにも知らないのね」とひどく驚かれた。東映の有名な悪役俳優の奥さんだが、映画で見るご主人のイメージからは想像できない、背は高いがほっそりとした、もの静かな女性だ。

 「すみません、ちょっと」と答えると、「また悪い癖?」と言いながら、「それじゃココアちょうだいな」と注文する。そういえば筑摩夫人はいつもココアだが、そんなものは作れない。「マスターがいないんで」と謝るが、ちょうど良い、練習だからやってみろとけし掛ける。しかし、私はココアなど飲んだことがない。今泉さんがやっていたのを思い出しながら作ってみたが砂糖の分量が分からない。えい、お客様がやれと言ったのだ、仕方がないではないかと腹を決めた。

 「不味い」といきなり言われた。まず、砂糖が全然足りない、それに「お塩を入れなくちゃ駄目なのよ。しょうがないからコーヒーにするわ。」コーヒーは、今泉さんが寸胴鍋に大量に仕込んでくれているので、手鍋に分量だけ入れて暖めるだけで良い。

 次は早苗さんがやってきた。あのとき、犬はプードルだと教えてくれた。Tシャツにホットパンツでサンダルを突っ掛けているのは、いつもなら午前中の格好だ。お化粧もしていないから寝ぼけたような細い目で、両目の間隔が異常に広く、むくんだ青白い顔は今起きたばかりだ。頭にはカーラーを巻いている。そろそろ出勤の時間のはずだが「あれ、お店お休みですか」と尋ねると、なんだか頭が痛いからと言う。早苗さんはキャバレー・クインビーの売れっ子だ。まだ早苗さんの仕事用の顔を知らなかった頃、夕方の新宿駅で黛ジュンに声を掛けられたと思った。「あたしよ」という声で早苗さんだと分かったが、呆然とした。「今日はまだ何にも食べてないのよ、ナポリタンね。」「すみません、もうすぐ応援に来るはずなんで、ちょっと待ってもらえませんか」「駄目、猛烈に腹減ってる。じゃサンドイッチなら作れるでしょ、野菜のやつ。」トマトの薄切りで苦労した。やっと挟んでパンに包丁を入れるが、ずれてしまって上手くいかない。「不細工ねぇ」と早苗さんが嘆く。

その間にも客は来る。コーヒーかコーラなど、すぐ出せるものなら悩みはしない。トマトジュースを注文してくれる客は神様みたいだ。しかし忙しい。新しい客には水とお絞りを出し、注文を聞いてキッチンに入る。「おひや」の催促がくる。コーヒーを温めていると、早苗さんから「いっちゃん、タバコ」と声がかかる。アサコさんの灰皿からは盛り上がった吸殻に火が移って煙が上る。常連なんだから、少しはこの状況に同情して欲しい。

 お姉さんが来たのは五時を過ぎた頃だった。「夜勤明けでのんびりしてたんだけど、ママさんから急にね。こんな時ばっかり。でも大変だったわね、私が入るわ」とバッグからエプロンを取り出し、キッチンに入ってくれた。二つ年上だからマスターがお姉さんと呼ぶので、私たちもそう呼んでいた。阿佐ヶ谷にある河北病院の看護婦で、マスターと同棲している。ママさんに嫌われているので結婚できないのだと、タクシー運転手の高橋さんが前に言っていた。

 その高橋さんが「マスターが栄寿司であゆみさんとイチャツイテたぜ」と言いながら入ってきたが、お姉さんの顔を見てすぐに黙った。

 しかし、今日は特別に客が多い。定時制の代々木高校の試験がちょうど終わって、いつもより早い時間に解放された生徒たちがみんなでやって来るのだと、アサコさんが教えてくれた。アサコさんは二年生だから十六、七か。可愛い顔立ちをしているのだが、今日は少し変だ。よく見ると前歯が二、三本欠けている。「ヤキ入れられちゃってさ」と悔しそうにタバコに火をつける。さっき取り替えた灰皿がもう一杯だ。隣に座っている、名前は知らないがよく一緒にいる娘がケラケラ笑っている。

 お姉さんが来てくれたとは言っても、素人だ。今泉さんやマスターのように手際は良くない。何度もオーダーを聞き返す。「いっちゃん、次なんだっけ」「そこの伝票に書いてますけど。十六番にスリーホット、ワンレスカです。」同じような問答を繰り返す。その度に、「十三番ツウホット、ワンコーラ、ワンナポリ」等と確認しなければならない。「伝票は順番においてますからね。慌てないで下さい」と私も苛々してくる。

 国士舘大学の連中が土屋さんを先頭にして五、六人やってきた。この連中は騒々しい。丸テーブル二つの周りに七、八人掛けられる席につく。「なんだ、マスターいないの。お姉さんで大丈夫?」と土屋さんは柔らかくウェーブのかかった自慢の髪を櫛で撫で付けながら、馬鹿にしたように聞く。今日も高そうな細身の背広を着ている。癖なのか、本当に気になるのか櫛をしょっちゅう使う。この人のお蔭で、私の中で「国士舘」のイメージが微妙に崩れた。つい先日、今度部屋を移るから、いっちゃん一緒に住まないかと誘われたときには動?した。あんまり恐怖を感じたので、どうやって断ったかも覚えていない。石井さんは、機動隊のような乱闘服に編み上げの長靴を履いてバットケースを持っている。「いっちゃん、ちょっと見てみな」とケースを開けると、刃渡り一尺五寸ほどの日本刀だ。「組で借りてきた。デモの連中、これ見てびびってやがる、面白かったぜ。」怖い。「石井、あんまり人に見せるんじゃないよ」と土屋さんがたしなめたのでようやくケースに戻す。

 「ねえねえ、知ってる?」また喧しい女が入って来て「チャコはレモンティお願いね」と言いながら早苗さんの前に座った。久子さんは、去年一週間だけこの店で働いたが、すぐに常連客の席に座り込んでお喋りを始めてしまうので、マスターも呆れて辞めてもらったひとだ。お姉さんの顔を窺いながら早苗さんに話しかけている。「あゆみって子とさ、マスターが」と本人は声をひそめている積もりだが全部聞こえる。ホテルから出てくるところを見たのだそうだ。お姉さんは無表情だ。土屋さんが、「チャコちゃん、こっちにお出でよ」と声をかけると「チャコはね、六大学以外は興味ないの」と怖いことを言う。「おっ、いっちゃん、チャコちゃんのご指名だぜ」と土屋さんがニヤニヤする。

 キヨシ君と伊藤くんも来た。ふたりとも国士舘高校の一年生で、土屋さんたちの顔を見つけて「オッス」と挨拶する。「キヨシ、お前きょうチョンコウとやったんだって」と石井さんが聞く。キヨシ君は巨大な坊主頭に不似合いの細い手足をした、いかにもひ弱な子だが、「オッス、自分、頑張りました」と勢いよく答え、石井さんがタバコを取り出すと、すぐさまマッチを擦って目の前に差し出す。しかし目の下が黒い。やられたに違いない。彼はアサコさんを意識しているが彼女の方は鼻も引っ掛けない。伊藤くんはタバコ屋の息子で、時々店のタバコを先輩たちに献上しているから重宝がられている。「自分いないと、こいつ危なかったんっす」とキヨシくんを見ながら報告する。

 シローさんの顔が入り口に見えたが、混んでいる様子に諦めたようにすぐ引き返して行った。助かった。シローさんはいつも煮しめたようなジャンバーを着ていて、傍によると臭い。他のお客が嫌がる。小柄でくちゃくちゃした顔の中年のおじさんだ。時々、駅前におでんの屋台を出していることがあり、私もマスターに連れられて一度だけ食べたことがあるがなんだか気味が悪かった。極東組の準構成員だそうだが、「あんな奴、若い者だって相手にしてないよ」と馬鹿にしたように高橋さんが言っていた。この界隈のことなら高橋さんは何でも知っている。

 早苗さんがお化粧を始めた。頭痛が少し良くなったから高橋さんと遊びに行くのだという。高橋さんは仕事には行かないのだろうか。夕方はこの店で油を売りながら、夜は一所懸命働くのが高橋さんのやり方だった筈なのに。

 いつも閉店の三十分ほど前にきてビールの中瓶を静かに飲んで帰る五十歳前後のおじさんが、「今日は大変みたいだね」と帰りがけに千円札を握らせる。困りますと押し返そうとするが、「いつも良くしてくれるから」と逃げるように帰ってしまった。お姉さんが、良いわよ貰っときなさいと言ったので、ポケットにしまった。

 なんとか十時まで持ちこたえた時はヘトヘトになっていた。客を追い出しお姉さんと二人で一服して、レジの現金を数えだしたときにマスターが現れた。

「いやー、ごめん、ごめん、組合の寄り合いが急にはいっちゃってさ」舌が縺れている。嘘を言うな。息が酒臭い。「あゆみさんとご一緒だったんでしょ、いいわねえ」お姉さんが優しく言うのが不気味だ。「あっ、お腹空いてるでしょ、お寿司食べよ。ね、いっちゃん。お姉さんもいこうよ」 忙しかったはずだ。昨日より一万円近く売り上げが多い。火の始末も確認し、ようやく店を出た。本当に腹が減っていた。

栄寿司の暖簾をくぐると大将がニヤニヤしながら、「マスターお久しぶりで」とわざとらしい声を上げる。「克己くん、あなた、もうお寿司食べたんじゃないの?」お姉さんが嫌味を言う。「もうこの頃お寿司なんて全く、見てない。ほんと、久しぶり。」

 「いっちゃん、こうなったらジャンジャン飲んじゃおう。あ、あなたはお酒のほうが良いんだよね、大将、ビールとお酒ね。それから特上ふたつ」とお姉さんが注文する。「克己君はやめなさい、また痔が痛くなっちゃうからね。こないだもお尻が痛いって泣いてたでしょ。」
食べ終わってお姉さんが化粧を直しに行った隙に、「いっちゃん、今晩うちに泊まって。お姉さんと二人になるの、ボク怖い」とマスターが芝居掛かった様子で手を合わせる。「いいのがあるの、直輸入。モロ。凄い。見せてあげるから、お願い。」少しは嫌味も言いたくなる。マスター、ボク明日は休ませてもらいますよと少し強く言ったが、「大丈夫、明日はボク頑張るから。でもね、あゆみさんはちょっとね、凄いのよ、フフフ。」梅宮辰夫に似ていると一部の女性客が騒いでいるが、このザマを見せてやりたい。
店を出ると都合よくタクシーが停まっていた。高橋さんの車だ。早苗さんは、と聞くと、「やっぱり頭が痛いって帰っちゃった。だからしょうがないよ」と言う。「マスターの調子じゃ、多分こんなことだろうと思ってさ、待っててあげた。これが今夜の口開け。」
阿佐ヶ谷のマンションに着いた。お姉さんがシャワーを使う間、和室にマスターが布団を敷いてくれた。洋室のほうには大きなダブルベッドが見える。これ、これ、モロだからね、じゃお休みと、マスターは隣の部屋に消えた。確かに「モロ」だった。眩暈がしてくる。気が付くと隣の部屋からも怪しい声が聞こえる。ベッドのきしむ音もする。お姉さん、ボクがいるのは分かっているじゃありませんか。あなたがたには慎みというものがないのか。目の前のポルノ雑誌。隣室から洩れてくるお姉さんの抑えた声。私はどうなってしまうのだろう。眠れぬ夜が延々と続いていく。

それからもいろいろなことがあった。
キヨシくんは国士舘高校生と朝鮮高校生との乱闘事件で大怪我を負った。
アサコさんは高校を中退して、ナナハンを乗り回していた柴田くんと同棲するようになった。柴田くんは日大を中退してガソリンスタンドで働いている。春先に一ヶ月ほどOMBREにアルバイトに来ていて、アサコさんと知り合ったのだ。
高橋さんがクインビーに連れて行ってくれた。ミラーボールが光る中で早苗さんが踊っていた。寝起きの顔とは全然違い、やっぱり黛ジュンに似ていると、私は思った。
土屋さんは就職が決まって上原から去って行く前、ちょっと散歩しようと私を代々木公園に誘った。二、三時間ほどぶらついた後サングラスをくれ、それをかけた私の姿を、記念だからと持っていたカメラで写した。なんだか淋しそうだった。
マスターは、ある日いきなり痔から大量出血し、手術のために河北病院に入院した。看護学校が休みになるのを待って、みっちゃんを誘って見舞った帰り、私たちの溜まり場になっていたクールで飲み、酔った私は「みっちゃん、好き」と何度も口走って、彼女に嫌がられた。「大概にさねばな」と北野が横を向き、クールのお姉さんが「あんたって、つくづく馬鹿ね。困った人」と溜息をついた。