***  匿名投稿  ***

2003年8月

 みっちゃんは掛川の高校を出て、今年看護学校に入学するため上京した。同郷のゆりちゃんと一緒に部屋を借りている。夕方からのアルバイトを探していて、慢性的に人手不足のOMBREに応募してきたのだった。
 そばかすの目立つ女の子で、いつも胸当ての付いたジーパンで来る。その下のTシャツの胸が薄い。ゆりちゃんも同じ格好をしているが、ジーパンの色が、みっちゃんが紺で由利ちゃんが赤と、これもいつも決まっている。
 なにかというと小首を傾げ長い髪を揺らしながら「うーっ、茅野さーん」と助けを求めてくる。「げーっ、茅野さん、トイレが」詰まって溢れそうだ。カップを割ってしまった。折角とった注文を忘れてしまった、お願いだからもう一度聞いてきて。「ゴっ、ゴキブリが!」これで看護婦になれるのだろうか。
 その都度、後始末をする私を見ながら、マスターが、「ちのちゃん、大変なことになっちゃったね」と笑う。今泉さんも、みっちゃんが何か失敗する度に「ちのちゃん、出番」と私に声を掛ける。土屋さんがからかうと、細い肩をもっと細くして棒のようにすくんでしまう。土屋さんも呆れて、「ちのちゃん、怖くないって言ってやって」と苦笑する。
 トレイを抱えながら、なにかもぞもぞと身体をくねらせている。どうしたのと聞くと、「うーっ、ブラがずれてしまって」と恨めしそうに私を見つめる。そんな眼で見つめられても私に直せる筈がない。早く直してこいと化粧室に追いやった。本当に子供なのだ。それにみっちゃんの胸にはブラジャーは必要ないと私には思われた。
 私はいつも屈託を抱えていた。人の心理を窺い、どう振舞えば自分の弱みを見せずにいられるかを常に考えることが、ほとんど習性のようになっていた。だから、みっちゃんを見ていると、こんなにも無防備に、無邪気に生きていられるのかと半ば呆れながら、好もしいとさえ思った。

   閉店に近い時間、久しぶりに原田くんがやって来た。いつもはナナハンを乗り回しているが、今日は車を借りてきたそうだ。
「茅野さん、みっちゃん、ドライブしようよ。」以前すこしの間だがOMBREで働いていたので、私を先輩と立てて、ちゃんと「茅野さん」と呼ぶ。「だって、ゆりちゃんが」待っているから、という彼女に、「大丈夫、ゆりちゃんにも声かけてきたから」と段取りが素早い。四人で、夜の東京を走った。「俺A級ライセンス狙ってるんっす」と言いながら原田くんはハンドルを切る。何ということもなく、二、三時間都内を走ってきて、「じゃ、明日も早いから」とふたりのアパートの前で私たちを降ろし、原田くんは去っていった。
 「原田くんって、みっちゃんに気があるんだ」とゆりちゃんが冷やかし、「うーっ、あたしヤダ」とみっチャンが首を振る。長い髪がまた揺れた。昼間ハルコさんが、原田くんとちょっと喧嘩したと言っていたから、憂さ晴らしに車を飛ばしたかっただけだろう。ゆりちゃんの言うのは的が外れている。「ゆりちゃん、違うよ。原田くんはね」私はむきになって否定していた。
 マスターが急に入院したので、みっちゃんの学校の休みを待って、一緒に見舞いに行った。「マスターって渋いですよね。梅宮辰夫みたいって、みんな言ってます。」彼女は酔ったときのマスターをまだ見ていない。「でもね、あたし」本当は梅宮辰夫を知らないのだと白状した。この当時、東映映画を見ない若い娘に、梅宮辰夫と言っても分かる筈はない。たぶん不遇な頃で、山城新伍と一緒になって演っていた『不良番長』シリーズくらいが数少ない仕事ではなかっただろうか。『前略おふくろ様』で渋い顔をテレビで見せたり、『仁義なき戦い』で復活してくるのはもう少し後のことだったと思う。
 マスターは元気だった。お姉さんも白衣で顔を出し、「ありがと、わざわざ悪かったわね。」と言った。「もう来週には退院できるからね。それまでお店、お願いね。」
「お姉さん、素敵」とみっちゃんは感激する。「あたし絶対、看護婦になるから」

 病院を出て阿佐ヶ谷の駅前に戻った私たちは、一番街を少し歩いた。何かの縁日のようで、それぞれの店先にはちょっとした出店が出ている。「うーっ、カワイイ」と見つけたのは、ビーズで作った小さな指輪だった。「欲しいの?」と聞いたが、首を振る。
 『涼』の前に来たので「ちょっとね」と入った。宮野が楢橋と熊田と一緒に飲んでいる。
 「みっちゃん、掛川?俺は三島だら」と楢橋が喜ぶ。「俺も」と熊田も勢い込んで静岡の話を始める。宮野も割り込んできて、「俺とツトムはね、秋田」。「へえー、茅野さん、ツトムって言うんだ。」
みっちゃんはビール一杯をなかなか飲み干せず、ちびちびといつまでもグラスを持っている。お姉さんが、「みっちゃんにはこれが良いね」とレモンスカッシュを作ってくれた。 ビールはまだグラスに半分以上も残っているのに、もう真っ赤な顔をしている。そう言えばこの子はまだ高校を出て半年も経たないのだと気付いたとき、そばかすだらけの顔がとても可愛いと私は思った。
レモンスカッシュを飲んで、「ちょっと風にあたってくる」と赤い顔をした彼女が店を出て行った。私はだんだん酔いが回ってきた。「みっちゃん、可愛いでしょ。俺好き」「お前、蒼子は何なんだよ」「蒼子は一番好き」「アホ」
みっちゃんはなかなか戻って来ない。お姉さんが心配し始める。「ツトムくん、大丈夫?」「大丈夫。と思う」だが私も少し心配になってきた。「あんたね、あんな子供にお酒飲ませちゃ駄目だよ」と私を叱り、「あたしが探してくるよ」とお姉さんが出て行った。

お姉さんと一緒に戻ってきたみっちゃんは、小さな包みを大事そうに持っている。「ビーズのお店にいたんだよ」とお姉さんが説明する。「うーっ、迷ったんだけど。買っちゃった」と開けて見せてくれる。さっき「カワイイ」と言っていた指輪だ。
「なんだ、言ってくれれば買ってやったのに」「でもー」「俺はね、みっちゃん好きだからね、何でも言って」「やだー。」酔っている。こんな子供なのにと頭の片側で意識しながら、一方では不思議なくらい好きだと思った。
その後も、私は何度も、みっちゃん好きだよと口走っていた。だんだん、彼女の顔が引きつってきた。「今日の茅野さん変だよ。」
「絶対、おかしい。ツトムもうやめれ」宮野が呆れて口を出すが、私は既に正常ではない。「良いじゃん、ホントのことなんだから。」「あんたって、つくづく馬鹿」お姉さんが怒る。「あんた、この頃、だんだん人間が下らなくなってる。もうやめな、みっちゃんが嫌がってるよ」
お姉さんがコーヒーを作って、無理やり私に飲ませた。少し正気が戻った。「帰ろうよ」とみっちゃんも言うので、やっと私は腰を上げた。
後ろからお姉さんが、「変なことしたら承知しないからね」と声をあげた。恥ずかしいという気持ちがやっと滲み出してきた。お姉さんの言うとおり私は下らない人間だ。電車の中で私は無理に笑顔を作って「ごねんね」と謝った。
「ふーっ、やっといつもに戻ってきたみたい。」それまで身体を棒のように硬くしてシートに座っていたみっちゃんが、安心したように溜め息をついた。