***  匿名投稿  ***

2003年9月

原作中の実名は全て仮名に変更しました(HP担当)

 芳郎から久しぶりに電話があった。珍しいことだ。養鶏場の経営でいつも忙しい芳郎はなかなか連絡が取れない男だ。
 「ミノルが。」懐かしい名前だ。十年ほど前、私たちの前から姿を消したきり、行方が分からなくなっていた。
 「何か連絡あったか?」
 「死ぬかも知れない。」
 サラ金に多額の借金をし、妻と離婚し行方をくらましたのは聞いていた。それが、癌の末期症状で倒れ、市川の病院に入院しているという。なぜ、市川なのか。事情がまだよく飲み込めないまま、取り敢えず見舞いに行く日を決め電話を切った。

 大学卒業と同時に、結婚するんだとミノルは張り切っていた。一年生の頃からアルバイトに行っていた凸版印刷で比佐子さんと知り合った。初めてのときは私も一緒だったが、朝八時から始まる仕事は私には勤まらない。一週間で私はやめたが、ミノルは、休みになると必ず同じ会社に働きに行った。そのうち、比佐子さんとペアで組む仕事についた、比佐子さんと喫茶店に行った、比佐子さんが髪型を変えた、比佐子さんがお弁当を作ってくれた、「比佐子さんが、比佐子さんが」。ミノルの話は「比佐子」一色になった。彼女のような美人が、こんな牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた、出っ歯の男を本当に好きになるとは、私たちには信じられなかった。
ミノルは好かれていたから、本当に結婚が決まったときは皆が驚き、ミノルのために喜んだ。芳郎と克っちゃんの音頭で、ゼミの仲間が池袋の焼鳥屋「鳥忠」の二階に集まった。先生も喜んで、「あなたが噂の比佐子さん。ミノルをよろしくお願いしますよ」と乾杯の音頭をとってくれた。ミノルも、このときばかりは少し神妙に、「皆さん、ありがとうございます」と頭を垂れたが、すぐに少しのビールに酔いが回り「俺、シアワセ」を連発した。これが二人の結婚式だった。

   状態が良く分からないので大勢を誘うのは少し憚られ、芳郎と二人だけで、その市川の病院に行った。ミノルは喉から管をぶら下げ、その管が腹につながっている。青白い顔で、腕は子どものように細く、足元もよろける。それでも昔と同じ厚い眼鏡の奥から、懐かしい目で、よく来てくれたと何度も礼を言った。
 食道から胃まで全部切り取った。食べた物はそのまま喉の管から小腸へ運ばれる。「だけど、本当は食べちゃいけないんだよ。管が詰まるしね。」実際は、点滴だけで生きているという。腎臓もひとつ取った。「肝臓は半分だけどね」広げて見せてくれた胸と腹には、手術の跡が無数にあるかと思われた。

 数年前ある工事現場で働いている最中に突然倒れた。建設会社の人たちが親身になって世話をしてくれ、一度は退院してまた働き出したのだが、二回目は「もう駄目。だって全然、動けないんだから」。
病院から実家に連絡があったとき、勘当した息子だからと頑固な父親は一切耳を貸さなかった。昔から末っ子のミノルを可愛がってくれていた兄嫁が、地方からの転送、今の病院への手続きから始めて、今は洗い物一切の世話をしてくれているのだそうだ。その兄嫁から芳郎に連絡があったのだ。
 口調は、昔と同じで陽気な調子は余り変わらないが、見た目が余りにも衰えているので、その陽気な声が異様に響く。よく笑った。
「来週、千葉の放医研ってところに移るんだ。そこで、本格的に放射線治療をしてくれる。」あまり喋ると疲れるだろう。「次はみんなで来るよ」と別れた。ミノルは玄関まで送ってくれた。

 私たちは同じゼミに所属していた。担当教員は聖心から引き抜かれてきた気鋭の助教授で、初めて受け持ったゼミが、私たちのような全く勉強をしない連中だったのは、先生には気の毒なことだった。後年、意欲的な著述を次々に発表して学界の重鎮と言ってもよい立場になり、ゼミも厳しいことで有名になったが、私たちだけは最初の学生ということもあってか、可愛がってくれた。勉強はしなかった代わり、一緒によく遊んだ。
私に弁当を作ってくれた克子、いつも落ち着いていた横瀬さん、それに高橋がちょっと好きだった秀子さんも、今では少し貫禄のついた母親になった。可愛らしかったもっちゃんは、昔よりもっときれいになった。優等生の島崎さんは神奈川県のキャリアとして頑張っている。古文書の解読が苦手で「女の両側に男がいるのはゴウカン」などと馬鹿な回答をし、「ナブル」と読むと先生を苦笑させた芳郎は、実家の養鶏場の多角化に忙しい。真面目な池田は藤沢市役所の公務員だ。観光研究会などというサークルでいつも飛びまわっていた杉山は、趣味をそのまま旅行会社に勤めている。それに私とミノルがいた。

琵琶湖北端の菅浦という小さな村にゼミ旅行に行ったのは、私にとっても数少ない学生時代の旅行の思い出だ。膨大な量で残されている中世文書を読み解きながら、まだ少しは残っている中世都市の面影を偲び、土地の古老の談話を取るのが目的だったが、私たちには修学旅行のようなものだった。昼の休憩時間には、芳郎や杉山たちは琵琶湖に飛び込んだ。私とミノルは泳げないのでそれを見ていた。夜は克ちゃんが持ち込んだジンやウィスキーを飲んだ。ミノルは酒が駄目だからカルピスを飲み、トランプをしながら、「比佐子さんと旅行したい」と叫び、女の子たちに笑われた。最終日には宴会になり、私たちの歌に感染した藤木先生が、「それじゃ私も、ちょっと古いけど」と照れながら歌を歌った。
 〜 友と語らん 鈴懸けの道 通いなれたる 学び舎の道(『鈴懸けの道』)
 私たちも声を合わせたが、ミノルは音痴だから歌えない。

 ミノルはいつも私たちを笑わせた。麻雀で満貫級の手に振り込むと悔しがりながら「でも私は生きていくわ」と言うのが口癖だった。余り強くなかった。妙に古い文句も知っていて、誰かに呼び止められたときには「お離しくだされ明珍殿」などと口走る。夏に実施された短期特別講座の合宿最終日の懇親会では、固い髪にリボンをつけ、スカートを穿いて女言葉を連発した。妙なシナを作るが、牛乳瓶の底に出っ歯だから、気持ちが悪いとしか言いようがない。私も髪を肩まで伸ばしていたせいで、スカートをあてがわれ、お化粧までさせられた。私のほうがミノルよりはるかに美しいと私は自慢した。
ゼミの最中だというのに、そろそろだれてきたなと思うと、「うちの比佐子さんは」と話し始める。「しょうがないな、比佐子さんが始まったら、もうやめるしかない」と先生も呆れる。
 酒は弱かった。麻雀のあとで飲みに行っても、ビールをグラスに半分飲んだだけでもう真っ赤になって、フウフウ言う。何を話していても、いつも最後は「比佐子さん」になるのがおかしかったが、余り同じ話を繰り返されるとさすがに疲れた。「うちの比佐子さんは蒼子さんよりも綺麗だと思うぜ」とは余計なことだ。宮野も「ミノルさん、もうやめてくださいよ」と頼む。
砧に古くから住まう職人の三男坊で、「だから、俺なんか、気楽で。だけど、流石に三浪だけはしてくれるなって、親父とお袋に泣かれたの。」二浪だから一番の年上だが、私たちはなんとなく、ミノルを軽く見ていた。本が好きだったが、読書家というよりは、初版本を大事にするような愛書家だった。

 仲間に召集をかけて、千葉駅前で久しぶりにみんなが揃ったのは三週間後だった。タクシーに分乗して、穴川にある放射線医学総合研究所に向かった。ミノルはもう「患者」ではなく、研究対象、実験の材料に変わってしまったのだと、私は思った。
 ミノルははしゃいでいた。「来週から、放射線の量を少し変えるんだってさ。新しい治療法だから、今度は良くなるって。先生が言ってた。」「良かったね」「早く直ると良いね」と言いながら、誰も信じてはいなかった。ほとんど全身に癌細胞が転移し、腸を残してほとんどの器官を切り取ってしまった者に、何を今更新しく治療しようというのか。ミノルだって信じていた筈がない。池田がみんなの集合写真を撮ってくれた。久々の同窓会のようで、ミノルを真ん中に私たちは精一杯笑顔を作って並んだ。

   ミノルがしつこく誘うので、二人の新居を訪問したことがある。「やだ、新婚さんのとこに行くなんて、なんだか恥ずかしいよね」と克子は言ったが、結局みんな集まってきた。卒業してから最初の同窓会のようなものだった。宮野もミノルとは親しかったから一緒に行った。浦和からバスで少しいった住宅地のなかの小奇麗なアパートで、宮野と私は、「我々の部屋とは大違いだな」と囁きあった。ベランダには鉢植えの花がいくつも並んでいた。「比佐子が飯作るからさ、みんな、食べてってよ」。絵に描いたような新婚生活だった。
 愛ちゃんが生まれたときも私たちは喜んだ。私たちの仲間に初めて生まれた赤ん坊だ。比佐子さんは本当に嬉しそうだった。

 その次、また芳郎とふたりだけで行ったのが、ミノルの顔を見た最後になった。一時、危篤状態になりかけ、もうあと本当に一週間くらいと聞かされていた。女性たちを連れて行って泣かれては堪らない。
 ミノルはベッドから起き上がれなかった。かすかな糞臭が部屋の中に漂っている。「これ見てよ」と言って寝衣の裾を開く。「オムツなんだよ。参っちゃうね」。口調は冗談だが、目に涙が光る。
「気がつくとさ、ウンチ漏れてるの。」
 感情が不安定だった。笑おうとするが笑いにならずに、すぐに泣く。「比佐子と愛子に会いたい。」一目で良いから会いたい。会って詫びたい。やはりもう駄目だと私は思った。

  今度、所長になったよ、と自慢そうに話していたのはいつのことだっただろう。私の方は、まだ何をどうやれば良いのかさっぱり見当が付かず、相変わらずの劣等社員を続けていたので、羨ましかった。あのミノルが所長か。それがミノルの人生を狂わす始まりだったと、私たちが気づく筈はなかった。
 業界では、その会社の強引な訪問販売がそろそろ話題になりかけていた。所長であるからには実績を上げなければならない。売れたことにして、実は自分で始末をつけなければならない商品が、少しずつ溜まっていった。見掛けはよさそうな給料だが、実態はほとんどが歩合給で構成されていたようだ。ひとの良いミノルは、ひとりでそれを背負ってしまったのだ。内心は悩んでいたのではないか。そんな気配は少しも見せず、たまに仲間が集まれば、相変わらず比佐子さんの自慢をし、皆を笑わせていた。馬鹿なミノル。

 その会社を辞め、比佐子さんの実家のある信州で民宿をやることになり、ミノルの一家は引っ越していった。今にして思えば、そのときが最後のチャンスだった筈だが、馬鹿なミノルはそれをつかみ損ねた。会社の籍は離れても、「特約代理店」という名の、相変わらずノルマで縛られる仕事からは離れられなかったのだ。会社の方で離さなかったのかも知れない。表面上はコンスタントに売り上げを上げている優秀なセールスマンだったから。何も知らない私たちは、民宿の親父になったミノルを想像して、安く泊めてくれよと冗談を言っていた。
 いろいろなことがあったが、結局は、売れない商品を自分で大量に抱え込んだのが、サラ金に手を出すきっかけだったとミノルが泣く。会社には「売れた」と報告する。売れたものは入金しなければならない。「なにがなんだか分からなくなっちゃって」。売れたことになっている商品を本当に「売る」ために自前で客を接待したが無駄だった。
高価な全集物を家に揃えるような時代ではなくなっていたが、その会社はいつまでも高額な復刻の全集を作り続けていた。歩合制だから成績を下げるわけにはいかず、架空の売り上げを報告する。ピアノが欲しいと愛ちゃんが言えば、また借金した。いつの間にか、借金は目の眩むような額になっていた。「全部、俺が悪いの」ミノルが泣く。

 比佐子さんの親戚が少し出してくれたがそれだけでは足りない。実家の父親は昔気質の職人で、サラ金から借金するような者は息子ではないと、散々罵られた挙句、勘当の通告を受けた。一切、金は出さない。友達にも頼みまわったが焼け石に水だった。理由は聞かずに金を貸してくれと、電話の向こうでおずおずとした口調で頼むミノルを思い出した。私は断ったが、ミノルは「ごめん、気にしないで」と恥ずかしそうに電話を切っていた。こんなに気が弱くて商売で成功する筈がない。後で、池田は百万円渡したと聞いた。池田は優しい男だ。私は冷たい。
二進も三進もいかなくなったとき、比佐子さんの親戚で長老格にあたる人が、離婚をするなら肩代わりしてやると申し出た。ミノルは比佐子さんの家の養子になっていたが、不始末をしでかすような婿はもう要らないのだった。親族会議が開かれ、ミノルの追放が決まった。

 「俺、泣いた。比佐子も泣いた。」でもそれしか方法がなかったのだと、ミノルは呟く。「比佐子にすまない。」
他に選択肢があったのではないかとは口にできない。自己破産を宣告してしまうとか、せめて家族三人がつましく暮らせる方法が他にあったのではないか。比佐子さんの協力さえあれば、とは今のミノルを見て言える筈がなかった。
比佐子さんと別れたミノルは、最初しばらく芳郎の厄介になった後、各地の飯場のようなところを転々とした。芳郎だけには時々、連絡をしていたそうだ。芳郎は優しい。私は何にも知らなかった。ミノルの手帳に芳郎の電話番号が載っていたのを義姉がみつけ、そのお蔭で今、私たちはボロボロになったミノルに会えている。
「比佐子に謝らなくちゃ。俺、このまま死んじゃうの、嫌だ。」

 「俺、声聞くの、辛いから。頼む」と芳郎が無理やり押し付けたので、私が比佐子さんに電話をした。気が重かった。名乗る私に少し驚いたようだったがすぐに思い出し、「お久しぶりです」と答える声が、昔と変わらないと思ったのは私の感傷だっただろう。
 ミノルが死にます。事情は全部分かった上で、敢えてお願いします。会ってやって下さい。できるだけ冷静に、穏やかに話した積もりだった。震えてくる声を無理やり抑えて一所懸命頼んだ。しかし駄目だった。
「あの日、離婚届に印をついたとき、あれが私たちにとっては、お父さんの命日なんです。お父さんはあの日死んだって、愛子と二人、私たち言い聞かせて暮らしてきました」だから会うことはできない。「私たち、死んだお父さん、すごく好きだった。好きだった想い出だけ、私たち持ってます。だから。」だから行けない、ごめんなさいと、電話の向こうで比佐子さんは泣いた。
納得できたわけではないが、それ以上何が言えるだろう。彼女にとってミノルはもう過去の残骸でしかない。騒がせて悪かったと詫び、電話を切った。私はミノルの願いにひとつも応えてやることができなかった。それから三日後、ミノルは死んだ。

 淋しい通夜だった。年齢の随分離れたお兄さんと、最後を看取ってくれた義姉さん、それに二、三人の親戚がいるだけで、あとは私たちだけだった。父親はやはり来てくれなかった。
「放医研に移るとき、一日だけ家に帰って来れたのね。点滴ぶら下げて。そのとき、お寿司を食べた。食べたって言ってもね、ちょっと噛んだら吐き出さなくちゃいけないんだけどね。それでもミノルちゃん、美味しいって。お義姉さん、ありがとうって。」お義姉さんは、とっくに覚悟がついていたのだろう。淡々と話してくれる。「ミノルくん、可哀想」と克子が泣き出した。もっちゃんや、ほかの連中も涙を拭く。
「やっぱり、比佐子さん、来てくれなかったね」ともっちゃんが呟く。死んだことは、私がもう一度電話で伝えてあった。せめて葬儀に出席してくれないかという私の頼みも無駄だった。食道に苦いものがこみ上げてくる。
長く続く読経の中で、もっちゃんの喪服姿は綺麗だなと不謹慎なことを考えていた私だったが、最後の挨拶にたったお兄さんが「ミノルは不幸な奴で」と言いかけて絶句したとき、私は自分の喉からいきなり異様な声が出てくるのを抑えることができなかった。

 翌日の葬儀はもっと淋しかった。
 放射線を大量に浴びてきたせいか、摘もうとしてもミノルの骨はすぐ崩れた。

 もうすぐ、またミノルの命日がやってくる。