佐藤清也とその一族 (1)
2004年6月 佐藤 眞人
父と共同で何とか読み下してみたが、誤読の可能性が充分ある。まだ内容を完全には理解できていず、疑問は多い。 今に続く旧家ではなく、一気に成り上がってすぐさま没落した(と思われる)家には事績を表す文書などは残っていない。資料といえば、この碑文と、『土崎湊町史』(秋田市役所土崎出張所・昭和十六年刊)に見える僅かな記述、それに「秋田魁新報」の特集記事「北前船と秋田の湊商人衆」がある程度だ。 一族の長老佐藤秀三がかつて書き残してくれた、非常に読みにくい手書きのメモを見たのが始まりだった。なんとか読みこなそうとしたが、どうしても筋道が通らぬところもあり、幸い、父が帰秋の折、碑の実物に当たったので、秀三の誤字も明らかになり文字の確定ができた。読みについては学力の問題であり、おいおい解決していくとして、現時点で読んだ内容に基づきながら、わが先祖はどのようであったかと、手探りで想像してみる。今の時点では想像することのほうが多いが、この後さらに事実が膨らんでいくことを期待している。 「由利郡矢島ニ住シ」。矢島とはどんなところだったか。 江戸時代の秋田県は、佐竹氏久保田藩(支藩新田藩=湯沢を含む)がもっとも大きな範囲を支配していたが、県の南部由利地方には岩城氏亀田藩、六郷氏本荘藩、生駒氏矢島藩の小藩が分立していた。北部の鹿角地方は南部藩領に属している。実はこんな基礎的な史実もこれまで知らなかった。郷土史に対する関心の薄さだが、先祖を追うことが、ついでに郷土の歴史を学習する良い機会になったようだ。 因みに亀田藩には、母和子の先祖東海林一族が仕えた。中で文化の頃に活躍した東海林左右兵衛という人は、五百石の高禄で家老永席の地位に登り、藩主岩城の苗字を賜わったこともある。権勢が過ぎて晩年には蟄居を命ぜられるが、先祖で一番偉かった人物はオール東海林の英雄であると、和子の叔父石山皆男は書いている 由利郡矢島は、讃岐十七万石を没収され、僅か一万石の賄料をもって配流された生駒家の藩領である。城郭の建造はできず陣屋を置いたのが、現在八森城址とされている。日本海に面した本荘から子吉川を遡ったところに位置し、海岸線を有していない。南隣の庄内藩との境には鳥海山が聳えている。 物資の輸送は、子吉川を利用した水運に大きく頼らざるを得ない。天保年間(1830−1844)以前は矢島町小板戸が子吉川舟運の遡航の終点だった。小板戸船場は、昭和初期に国鉄矢島線(現在の由利高原鉄道)が開通するまでは、米、杉、杉皮などを本荘に運ぶ基地として活躍したといわれている。子吉川河口の南岸は本荘領古雪港で、対岸は亀田領石ノ脇港になっている。あわせて「本荘港」と言う。安政二年の「東講商人鑑」によれば、南岸には本荘藩の廻船問屋七軒、北岸には亀田の廻船問屋六軒の名が確認される。港には矢島藩の米倉も設置されていた(『秋田県の歴史』より)。 河口に位置した廻船問屋は、日本海を北上してくる北前船からの「下り物」を港から内陸部に供給する役目を負っていた。そして矢島は、そうした物資輸送の中継地点として重要な位置を占めていた。矢島から先は陸送になる。勿論、内陸部の米を本荘港に運ぶことも重要な役割であった。佐竹の藩都久保田を控える土崎とは違って、後背地にそれほど大きな消費地を抱えているとは想像されないが、それでも廻船問屋が存在していたからには、それなりの商いが成り立っていたのだろう。弱小の藩であるからこそ、海上交通における収入が藩の死活を決定する重要な要素だったとも言える。 「世々布帛錦繍ヲ鬻グヲ以テ業ト為ス」とあるが、僅か一万石の城下町で、新品の絹織物が売れたわけはない。「典物」は質物であり、質屋は当時最も安定した商いだったから代々続いた。「布帛錦繍」というのも、北前船が本荘港に持込む、古着古布の類が大部分であろう。これらを商うからには、当然、子吉川舟運に深く関係する。全くの素人が後にいきなり土崎湊に進出して廻船問屋を経営できる筈はなく、河川舟運で蓄えた力を背景に土崎に進出したと考えられる。まだ確認した話を聞かないが、清也の父、清兵衛の墓は矢島にあるのではないか。 これで財を築き、いよいよ海運の本拠地である土崎湊に進出する。当初は弟清一郎に任せたが、「両三年間頻リニ厄ニ罹リ船五艘ヲ壊ス。又回禄(火災)ニ遇ヒ財ヲ失フコト頗ル多ク為ニ家振ハズ」という数度の不運に見舞われた後、「明治七年清一郎ト謀リ」清也自身も土崎に転住する。 「土崎湊」というのは正式な名称ではない。対外的には「秋田湊」であって、室町時代「廻船式目」に「三津七湊」と数えられた北国航路の重要な港だった。三津は、安濃津(三重県津市)、博多津(福岡県)、堺津(大阪府)であり、七湊は越前三国湊(福井県)、加賀本吉湊(石川県美川町)、能登輪島湊(石川県輪島市)、越中岩瀬湊(富山市)、越後今町湊(新潟県直江津)、出羽秋田湊、津軽十三湊(青森県津軽郡)。 雄物川河口に位置し、内陸との物資輸送の最大の拠点であった。「雄物川」は「御物川」とも呼んだという通り、久保田藩領内の物資輸送の一大動脈であった。古代以来、佐竹氏入部以前は、湊は即ち秋田城の地であり、安倍氏の末安東氏が長く支配した。佐竹氏が、湊の南方久保田の地に城下町を開いたため、藩政期には純粋な商人の町として栄えることになる。その中心勢力は廻船問屋である。 寛文八年(1669)頃、「諸廻船問屋ト申者、人別御改メ、私共二十人ニ仰付ケラレ、永々ニ居置サレ候」(間杉家由緒書)とあるように、廻船問屋は永久の「株」と定められた。このとき既に二十人もの廻船問屋が存在した。 北前船の積荷の主体はもちろん米が最大のもので、藩米の回漕は年三万石を基準としたが、地方知行制のもとで、膨大な知行米の移出を含めると、年間十万石から十五万石の米が積み出された。幕府御用の銅の積み出しもある。秋田藩の御用銅の産出は幕府御用の四割から時には五割を超えたという。これらを大阪や江戸へ回漕した後の帰り船には、諸国の品々が満載された。 『土崎港町史』が紹介する『土崎商業史略』によって江戸時代の移出入の状況を見ると、移出品は米、木材、大小豆、油類、その他。移入品は食塩、繰綿、古手、木綿類、砂糖、生蝋、紙類、鉄、石油等。航海業者の多くは「加賀、越中、但馬、石見及び下関より大阪間の船手であって、越前、若狭の船手なども、臨時入港したものである。」「旧正月下旬大阪を出帆して、瀬戸内海の各地に寄港し、秋田向の商品を搭載して二月下旬、下関を発し、三月下旬に土崎湊に着く。これを一番船という。四月中旬上り荷物の米穀などを積み入れ、土崎を出向して兵庫、大阪に向い、下関、備中などで、右積み入れた商品を売りさばき目的地にいたるものである。更には秋田に売るべき品物を積んで、六月に二番下り船として入港するのである。三番船というのは、秋の土用なかば前に来る習慣であって、土用半ばすぎると、航海の困難な季節にはいるからである。」 さらに、蝦夷地航路の中間地点にあることで、中央市場では有力商品となりえないような産物も、遠隔地間の価格差を利用することで充分商売になったのである。 幕末、佐竹藩が大型の七千石船「福海丸」を作ったが廃藩置県にあって不要になり、清也が払い下げを受けたことが、『土崎港町史』に記されている。 七千石というが、実際は二千石を少し超える程度だと推定されている(『北前船と湊商人衆B』)。長さ二十八間(約51m)高さ二丈八尺(約8.5m)、幅七間半(約13.7m)で、大砲十二門を据えた。帆柱大小五本、帆数八枚、水夫五十人で操船する和船である。湊の船大工舘山三郎兵衛はこれほどの大船を造った経験もなかったが、なんとか造り上げた。元治元年(1864)の初航海では英米仏と長州藩との馬関戦争に巻き込まれたりして、前途多難を予感させる。四年後には明治維新を迎えるこの時代、西南雄藩では盛んに蒸気船を購入し、幕府に対抗する力を蓄えようとする時代だ。そのときに、蒸気船ではなく和船を建造したことの意味は、あくまでも経済を重視し、自力での物流を目指したために他ならない。この後明治二十年代までは北前船の全盛時代が続いていく。 大船建造は、久保田の御用商人山中新十郎や、加賀の人竹内伝三郎の進言による。秋田は産物豊富なのに諸国の商人や船頭に儲けられているというのがその理由だ。前述した『土崎商業史略』の記事によっても、他国の業者の活躍が中心であったことが分る。ということは、土崎の廻船問屋の多くは、それまで自前では遠路航海できず、入港する他国北前船の積荷を仲介したり、領内へ再送したりする役割しか持っていなかったのではないか。 『土崎港町史』には古老の話として、福海丸で「江戸へ銅(当時それをガッパ金と言った)を積んでいくのに、黒船(汽船のこと)と競争して黒船が負けた」、「黒船と衝突して沈没したために、佐藤清也は破産した」、「そうして破産しない前は、佐藤清也といえば上酒田町に住んでいて、和船問屋のうちの大旦那といったところであった。」と記されている。昭和十六年時点での聞き書きで年代も定かでないため、払い下げを受けた時期、破産した時期がはっきりしない。沈没したのではなく、「異国船に模して大船にしたのがたたり、頭が重くてふらつきが多く、上方へ三回ほど出かけた後は、解体して通常船三艘に造り替えた」(伊豆園茶話)と言う説もある。(『北前船と秋田の湊商人衆4』) 廃藩置県が明治四年であり、その直後に払い下げを受けたとすれば、清也自身はまだ土崎に居を移していない。実際の業務に当たったのは弟清一郎だったか。 清也が土崎に移住したのが明治七年で十年八月には死亡した。十二年建立の墓誌に破産の記事が現れず、むしろ「余馨衰ヘズ」とあるように繁栄を推定させることから、この破産した「大旦那」の清也は清作改め二代目清也のことだろうと思われる。 清也の家がかなり急速に成り上がったことは間違いない。明治元年の、土崎湊からの軍用金献金者二十四名中にも名前はなく、廻船問屋としての活躍は明治以後に絞られる。維新後、それまでの株仲間の特権が次第に剥奪されていくなかで、明治五年に菅運吉というものが新たに廻船問屋を開いたと、世襲の問屋(株仲間)から訴えられたが、これまでの問屋とは違い「回漕会社より委任相成候」ものであり、問題ないと、運上所が決定を下している(『土崎湊町史』)。 清也の廻船問屋開業がそれ以前であれば、当然問題になっている筈で、その記録がないのは、開業はこの事件以後であったからだと推定してよい。碑文に見える明治七年の土崎移住後「新ニ肆ヲ開店シ船ヲ賈ヒ舶来ヲ商フ」か、あるいはその前しきりに厄災にあった清一郎の管掌した「両三年間」を考えて、明治五年から七年の間に開業した。藩政期以来の商業慣習が次第に変化していく。江戸後期から大正八年まで北前船の船主だった、能登半島門前町赤神の中谷家には、秋田との取引を示す引札が多く残っており、そのなかに、佐藤清也の名前も見える(北前船と秋田の湊商人衆4) 「又遇回禄(火災)失財頗多家為不振」とあるように、この当時、頻繁に火災が発生している。「慶應二年から明治十年までの消失家屋の総戸数を見ると約千八百五十戸にのぼっており、明治十年から大正六年までの消失総戸数は約千百四十戸にのぼっている。」(『土崎港町史』) 実は墓碑銘の「君生商家而好学」に始まる後半部分は、清作改め二代目清也のことを現しているのではないかとの疑いもあるが、今何とも判断がつかない。墓碑銘の構造を見る限り、事績を述べ、最後に「銘曰」と韻文を記す形式は極めて一般的だと思われる。とすれば、そのなかに二人の人物を(しかも一人はまだ生存している)顕彰するという、どちらかといえば異常な文章は考えにくい。ただし、ここで段落が区切れているように思えることもまた事実だ。また、「養清一郎男清作」から、既にこのとき、清一郎は亡くなっているのではないかとも推測される。とすれば、清也(初代)と清一郎の二人の顕彰を目的としたか。但しそうだとすれば、「清也之碑清一郎為助其工云」の読みがよく分らない。この辺は今後の検討課題として残る。 清也の事績として、秀三のメモには、北海道開拓使黒田清隆に北海道開発について相談を受けたということも書かれているが、信頼できる記事かどうかわからない。黒田が北海道開拓使に任ずるのは明治七年六月で、翌年十二月には江華島事件に関して特命全権弁理大臣として朝鮮に派遣されているから、わずか一年半の期間しかない。ちょうど清也が土崎に移住して漸く廻船問屋の看板を掲げた頃と考えられ、そんな新興商人に北海道開拓使長官が、何事かを相談するだろうか。福海丸建造を佐竹藩に進言した竹内伝三郎が、後佐竹藩の開拓庁差配となっており、「開拓」という文字から、これと誤認している可能性がある。竹内ならば、福海丸払い下げをきっかけに、清也と交際したことが充分考えられる。 清也は文政六年(1823)に生まれ明治十年(1877)に死んだ。享年五十五、満でいえば五十四歳。 清也の娘キクの生まれたのは明治二年(1869)。菊の節句と聞いたことがあると、秀三は書いている。清也四十六歳の年にあたる。 わが佐藤家は、キクから始まることになっているが、碑文にはキクの名前はでてこない。清也は「子無し」、弟清一郎の息子清作を嗣とした。ここで言う「子」はおそらく嫡子の意味であり、したがって女のキクはそれに数えられる資格に欠けていたと考えるしかない。キクは小幡左記を婿に迎え、佐藤の分家を立てることになる。江戸期以来、土崎湊で廻船業を営む株仲間の中に小幡屋の名がみえるので、左記はあるいはその一族かもしれない。とすれば、新興勢力の佐藤家が、旧勢力と縁組をして勢力拡張を目論んだものとも考えられる。 キクは「たいそう偉い人であった」と伝えられているが、相当気の強い女傑だったようだ。<木内>(老舗百貨店)の婆、<榮太郎>(老舗旅館、料亭)の婆とならんで、「秋田の三大婆」と呼ばれたこともあったようだ。明治八年にはほぼ全国町村に小学校が設立されているから、キクも学齢期になれば当然入学した筈だ。十年一月、『遐邇新聞』は「妾や女児と雖も米国侃々の論(男女同権論)、英国諤々の説とを聞き、新聞を閲する毎に中心感激せざるはなし」という芸妓の投書を載せている(『秋田県の歴史』)。秋田に政社が結成され、本格的な自由民権運動が展開するのは十三年以降であるから、相当に早い時期のことだが、これはキクが満七歳のときにあたる。湊に育ち、他国の情報にも触れやすい環境に育った上、こうした時代精神の変化も、キクの性格形成に大きく影響したのではないか。清也に「子無し」と墓誌に書かれたとき、キクはどう思ったか。当主がありながら、女の身でわざわざ分家を立てるのも、只事ではないように思われる。 佐藤家没落を決定付けたのは、直接には大正時代、台湾就航中の船の沈没だとされているが、和船から汽船の時代への転換、更に鉄道開通が大きな原因であっただろう。それは土崎湊の衰退と歩を一にしている。土崎湊に初めて商用汽船が入港したのは明治六年の「康午丸」だが、当時の人は、これを黒船と呼んで恐れた。黒船が入港すれば海が荒れ、出てゆけば天気になる。それは黒船のせいだと専らの噂になった。(『土崎港町史』)しかし、明治十三年頃から船木久治(船木家は慶長の頃、土崎湊に最も早く廻船問屋を開いた。久治は、土崎湊で初めてランプをつけた人物とされている)が三菱会社の汽船の荷を扱うようになり、汽船の入港が増えてくる。三菱の支店が土崎に設置され、それに対抗して共同運輸会社が組織された。和船は次第に追い払われ、汽船が独占するようになってくる。 そして鉄道開通が追い討ちをかけた。 「奥羽本線は福島から延びた南線と青森からのびた北線が湯沢でつながって、前線開通するのが明治三十八年九月であった。・・・雄物川を使って土崎まで運ばれていた米は、奥羽線各駅から直接東京へ出荷された。」(『秋田県の歴史』)。 キクの長男賢三が生まれたのは明治二十二年。キクは二十歳。キクと左記との間に生れた男子には全て「三」の文字が使われている。賢三、良三、清三、勝三、秀三、捷三である。儒教に何か典拠があるかも知れないとは、父佳夫の意見だ。 次は賢三のことに入らなければならない。 |