佐藤清也とその一族 (2)

2004年6月  佐藤 眞人


 矢島の城下は戊辰戦争で広範囲に消失した。敗軍の藩兵は陣屋に火を放って退避し、そこに侵入した庄内軍は城下各所に火を放ったから、藩士の家は一軒を除いて全て消失した。矢島町役場企画商工観光課作成ホームページには、『戊辰矢島戦史』を引用して「町家二百二十一軒(焼け残り百七十一軒)」と記されている。二百二十一軒中百七十一軒が残ったのか(だとすれば、約二割の消失)、二百二十一軒焼けて百七十一軒残ったのか(その場合は半分以上)良く分からないが、相当部分が消失したことは間違いない。清也の家も焼かれた可能性がある。藩主に従い、藩兵と領民の多くは平米郷に避難し、後雄勝郡大澤を経て雄物川を渡って土崎に辿り着いた。戦争終結後、総督府の命で帰還したが、清也、清一郎と土崎の関係はこのときにできたものかも知れない。
 清也は名字帯刀を許されたというのも秀三のメモだが、その文脈からは佐竹藩から許されたように読める。それが事実ならば、明治四年の廃藩置県以前のことでなければならないが、先に記したように、清也が土崎に入るのは明治七年のことであり、辻褄が合わない。無理やり辻褄をつけるために勝手に想像して、この戊辰戦争の際に何らかの功績があり、それが認められたため、矢島藩の領民ではあっても許されたとしてみるか。ただ秀三のメモには一切典拠が示されておらず、そのまま信用するわけにいかないのが難点だ。幕末期には土崎湊の廻船問屋の多くは名字帯刀を許されているから、既に矢島でかなりの活躍をしていた(と推定される)清也にとっては、名字帯刀もありえない話ではない。ただその場合も、矢島藩から許可されたと見るほうが自然かも知れない。

また、前回北海道「開拓」に関して竹内伝三郎の関与の可能性を考えたが、秋田県初代権令島義勇の前職が開拓使であり、この線からの可能性もある。しかし、北海道開発に関する清也の意見として秀三の挙げているのは、道民を定着させるために、学校を建てる(子供の教育のため)、遊郭を作る(壮年のため)、寺を建てる(老人安心のため)の三点だが、詰まらない意見だ。開拓使にわざわざ進言するような内容とは思えず、そのこと自体、虚構(法螺)の疑いがある。

佐藤左記が将軍野の区画整理に何らかの役割を果たしたことが『土崎港町史』に記載されている筈だと、隆子伯母の示唆を受けたが、まだ確認できていない。そのかわり、土崎港町会議員の当選者の中に清也の名を発見した。明治三十一年四月(第四回)と、三十七年四月(第六回)にある(『土崎港町史』)。年代からいって、この「清也」は当然二代目(清作)でなければならない。当時の町議会は定員二十四名、任期は六年で三年毎に半数改選だから、清也は連続二期当選したことになる。議員は一級と二級に区別されているが、これは納税額の多寡による区分だろうか。三十一年のときは、清也は一級に区分され、有権者は一級が二十人、二級が五百九十五人。三十七年には清也は二級。有権者は一級が三十八人、二級が六百十七人となる。名簿を見ていると、廻船問屋として名を知られているものが大半を占めているから、やはり、土崎湊の有力層はこれらの商人で占められていたことが、ここからも分かる。
 一級、二級の別が納税額(別に言い換えれば資産)の多寡によるものとすれば、少なくとも三十一年当時、清也は土崎港で二十軒の富豪の一人だったことになる。「大旦那」と呼ばれるに相応しいだろう。三十七年は少し落ちたが、それでも富裕の層にいたことは間違いない。まだ和船は充分に商売になっていたと思われる。ここで連想するのだが、墓碑に「税額少なからず」と書かれているのは、税金が多くて大変だったということではなさそうだ。多額納税者となった、つまり資産が大きく増えたことを意味しているのだろう。初代清也在世中に既に多額納税者として数えられる中に入っていたと思われる。そして墓碑に書かれた通り、初代清也没した後(芝蘭は萎んだが)「余馨衰ヘズ」、家は愈々繁盛していた。

 ちょうど二代清也の町会議員二期目にあたる頃、賢三は秋田中学を卒業し一年志願兵となった。秋田高校同窓会名簿(昭和五十八年)の明治三十八年二月卒のページには、賢三の名が物故者の中に数えられている。この年度の卒業生は七十二名。賢三が入学した当時の秋田県内にある中等教育機関は、太平学校から秋田中学と分離した秋田師範、三十一年に相次いで開校した第二尋常中学(現大館鳳鳴高校)、第三尋常中学(現横手高校)の四校だけだ。三十四年に設立された秋田高女(現秋田北高校)、それに三十七年の秋田工業はまだ存在していない。仮に四校とも学年人数が七十名だったとすれば、全県で中等学校以上に進学するものは、一年間に二百八十人ということになる。多く見積もっても三百人程度か。当時の統計を見なければ正確ではないが、おそらく進学率は一割に満たない筈だ。つまり中学卒業生はそれだけでエリートと見做されたと考えてよい。
二十二年の徴兵令改正によって、志願兵の制度が導入されていた。未成年でも中学を卒業して満十七歳に達した者ならば志願できるのだが、それには条件がある。在営中の食費被服装具の一切を自己負担しなければならない。これを満たせば、予備将校要員として一般の現役召集兵とは区別された特別教育を受け、一年間の現役勤務を終えることが出来た。
改正徴兵令の該当部分は以下の通り。
第十条
 二十歳ニ至ラスト雖モ満十七歳以上ノ者ハ志願ニ由リ現役ニ服スルコトヲ得
第十一条
満十七歳以上満二十六歳以下ニシテ官立学校(帝国大学撰科及小学科ヲ除ク)府県立師範学校中学校若クハ文部大臣ニ於テ中学校ノ学科程度ト同等以上ト認メタル学校若クハ文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学理財学ヲ教授スル私立学校ノ卒業証書ヲ所持シ若クハ陸軍試験委員ノ試験ニ及第シ服役中食料被服装具等ノ費用ヲ自弁スル者ハ志願ニ由リ一箇年間陸軍現役ニ服スルコトヲ得但費用ノ全額ヲ自弁シ能ハサルノ証アル者ニハ其幾部ヲ官給スルコトアル可シ
前項ノ一年志願兵ハ特別ノ教育ヲ授ケ現役満期ノ後二箇年間予備役ニ五箇年間後備役ニ服セシム
満十七歳以上二十六歳以下ニシテ官立府県立師範学校ノ卒業者ハ六箇月間陸軍現役ニ服スルコトヲ得其服役中ノ費用ハ当該学校ヨリ之ヲ弁償スルモノトス
前項志願兵ニシテ現役ヲ終リタル者ハ七箇年間予備役ニ服シ三箇年間後備役ニ服ス

 迂闊なことだが、軍隊勤務は「服役」なのだと初めて知った。やはり懲役と異なることがない。卒業と同時に賢三は満十七歳に達したが、軍役は十二月入隊をもって開始されるから、即志願しても実際の入隊は三十八年末になる。三十七年年二月に始まった日露戦争は三十八年九月に終わるが、その最中に志願すること考えにくい。それとも青年客気の勢いで、戦争最中に志願しただろうか。しかしそれでも実際の入隊は戦後のことになる。ここでは三十八年十二月に入隊したとに決めておく。
徴兵検査終了後の現役召集ならば三年(陸軍)の軍役だが、この場合は一年で済む。しかし、自弁しなければならない費用は百円以上になり、師範学校卒業生は別として、それを志願の時に全額前納することが原則だった。現在の貨幣価値にしてどの程度か。三十九年に満二十歳になった石川啄木は渋民尋常高等小学校の代用教員の職を得て、月給八円。百円はその年間収入に匹敵する。六年後の四十五年に秋田工業を卒業して東京高工受験に失敗し、秋田瓦斯会社に雇員として採用された東海林利生は日給四十銭で、二十五日勤務したとすれば月に十円(実際は隔日勤務だった)。佐藤家と異なり、東海林の一族は実にこまめに記録を残しており、こういう場合にも参考になるのが有難い(東海林家関係の記事は全て石山皆男記『東海林家の兄弟姉妹』による)。
これらの例で比較すれば、この当時の百円はおよそ現在の高卒新入社員の年収程度かと推定される。ただし、家賃は現在よりもかなり安かったはずだし、娯楽遊戯の類も少なく、全体的に質素な生活だったことを考えれば、実質的には現在の三百万円以上の価値はあったろうか。金持ちでなければ志願できない。この時代佐藤家は明らかに富裕の層に位置していた。ある種の優遇策だが、この改正の背景には、徴兵逃れなどによる兵員不足を解消しようとする陸軍の意図がある。
但し、大正四年に一年志願兵となった東海林利生の場合、資産家の範疇には入らない。前納金額百八円のうち父利頴が自分で用意できたのは五十円だけだった。親戚の荒木より三十円借り、残金は銀行やその他の親族から借りてどうにか捻出した。志願の申請書を市役所に届け出た際には、その資産収入があまりに低すぎると、書き直しを命ぜられている。この頃には利生の月給は十三円に上昇し、父利頴は単身北海道天塩で代書業を営んで実家に送金していたが、母と兄弟妹五人を抱える家計維持には充分ではない。この制度は明らかに貧乏人を対象とはしていなかった。利生が借金してまでも一年志願兵となったのは、父不在の家長代行である長男を三年間も兵役にとられるよりは、一年で済ませたほうが総合的に得だと父親が判断したからだ。
 利生の軍歴の例をそのまま賢三に当てはめれば、一年満期の時点で軍曹に任じられ、四十年には九十日間の第一次演習召集で曹長に、四十一年に再び九十日の予備役演習召集を経て、四十二年に少尉任官することになる筈だ。

その後、賢三は新城(新庄か)の木材会社で何らかの責任ある地位についていたが、火事を出し、そこを辞めた。その会社は後に津田清三(賢三の弟)が買い取ることになったそうだが、賢三は家に戻り、「なんだかブラブラと」していた。これは隆子伯母の記憶によるが、賢三は「きちんと勤めに出るというような人ではなかった」。年代が不明なので隆子伯母自身の見聞によるのか、または当時の縁者からの伝聞かがはっきりしない。清也を初代、キクを二代目とすると、どうやら「売り家と唐様で書く三代目」となりそうな雰囲気が既に感じられる。
秀三は、「佐藤家のよさは屈託がない、物欲が余りない」が、勉学に精励という方向とは逆の場合が多いのは「要注意」と書いている。特に賢三を名指した批評ではないが、「財を軽」んじた清也の一面は遺伝したが、「学を好」んだ性格はその一族に伝わらなかったと判断したものだろうか。