佐藤清也とその一族 (3)

2004年7月  佐藤 眞人



 左記と賢三の除籍謄本を入手した結果、左記とキクと子女の関係は前ページのように修正しなければならなくなった。合わせて判明する限りの年月日を付け加えた。この年月日を見るだけでも、左記とキクの結婚には、かなり面倒な事情があったことが明らかだ。
 実は、清也、清一郎、清作についての詳細(特に没年の確認)を知りたかったのだが、これは謄本の保存期限をすぎており入手不可能だった。秋田駅前の市民サービスセンターは、私がいた一時間ほどの間に訪れた者は三人、それに対して職員は四人もいたから、親切に応接してくれた。土崎支所からファクシミリで送ってもらうのだが、申請書を提出してから十分程で手に入る。本籍地が分からないと調査ができないようで、初め賢三の謄本を請求し、そこから左記の本籍地に遡った。賢三の本籍地は、私自身も結婚して籍をつくるまでは同じ場所だった。左記と賢三の謄本は、単に事実関係の確認だけが目的だったのだが、思いがけず新しい事実が発見され、またもうひとつ不審な点が生まれた。
 左記の謄本は、左記が「佐藤左記」として戸籍をたてた時点から始まるもので、それ以前の事跡は明らかでない。キクが戸主であった時代の謄本も既に入手不可能なのは、清也などと同じ理由だ。

 まず、左記の苗字が「大黒」であることに注意しなければならない。これまでは「小幡左記」と記していたから、これが大きな訂正になる。左記は明治三十六年四月十七日にキクと婚姻入夫して佐藤左記となり、同日、前戸主キクの家督を相続した。届け出の時点で、左記は「南秋田郡土崎港上酒田町二十五番地戸主大黒勝三父」であり、その父母は小幡久太郎・ツルである。念のためにキクの欄を見ると、「大黒左記ト婚姻入夫」とある。そして、謄本の家族の欄には勝三の名前はでてこない。生年も不明だ。上酒田町を本籍とするからには、大黒も廻船問屋かそれに近似する商売に携わっていた可能性が高い。文政十三年九月窮民救済のために尽力したとして「御賞御書付」を与えられている三人の中に「大黒屋金蔵」の名が見える(「土崎港町史」)。これは一族ではないか。同じ金蔵は、元治元年の軍用費献金者の中にも三十五両の献金で名を残している。
 大黒勝三は、秀三作成の家系図では、三男清三と長女マサの間に記されており、当然、左記とキクの四男として疑いもしなかったが、これが訂正の第二点になる。勝三とキクとの間に血縁はない。左記が大黒某女との間に儲けたのが勝三であった。しかし何の根拠もなくその位置に記す筈もなく、少なくとも、秀三たちの間での年齢的な序列はその通りだったと判断するしかない。それを信用すれば、この入籍の時点で年齢は二歳から七歳の間になる。後述するように仮に秀三なちと兄弟同様に育ったとすれば、清三やマサと年齢が同じでは不自然さが生じるので、もう少し狭めれば三歳から六歳となる。実父がありながら、幼児が戸主になのは不自然だから、そこには相当な理由がなければならない。

 左記は小幡家二男として生まれて大黒家に入り、勝三を得た。これは間違いない。問題は養子入りの時期だが、これは追跡できない。
 勝三を戸主とした理由について最初に想像したのは、左記は不行跡を理由に戸主の身分を剥奪され、家督を子に譲らざるを得ない事態に陥り、家を放逐されたのではないかということだった。「不行跡」ならば、それはキクとの関係に他ならない。すでに入籍の時点でキクには左記と間に四人の子がいる。しかしこのことを理由にするには、余りにも歳月が経ちすぎてはいないか。十六年もの年月、婿の不行跡を我慢していたとは考えにくい。もっと早く離縁してよい。従ってこの想像は採用しない。
 次に考えたのは、左記の妻である大黒某女が亡くなり、左記はキクと結婚するため勝三に家督を譲り家名存続の手当を施した上で、自由の身を得たということだ。細部の事情についてはまだ考えなければならないが、これが一番自然な推定ではないだろうか。
 更にもうひとつの可能性も、非常に不自然だがあり得ることに気がついた。勝三は、実は左記とキクの間の実子であったが、継嗣のいない大黒家に養子に出し、左記の家督を相続させたと考えてみる。ただ、そうであるならば、何も賢三出生後十五年も待つ必要がない。二男良三でも三男清三でも、後に婿養子の形だが他家を継いでいるのだから、大黒家の養子に出すのに何の不都合もないはずだ。しかし、こんなことは、我が身一身の安寧のために子を売るような所業である。しかもキクにとっては大黒の家は仇のようなもので、そこに自身の子を養子に出すとは到底思えない。従って可能性としては考えられるにしても、この推定は現時点では採用しない。

 こうして次のように推測してみた。
キクの持続的で強固な意志は明確だ。キクは満十七歳を前に分家独立してすぐに二十二歳の左記と出会い、十八歳五ヶ月で賢三を生んだ。あるいは左記と知り合ったのは清也の家に住んでいるときで、分家独立も左記との結婚を前提としたものだったことも考えられる。それならば左記はまだ二十一歳だったかも知れない。初代清也の血統を残すためにも分家独立はあり得るが、未成年の女子(数えて十八歳だが)が単独で分家を立てる例が、それほど頻繁に行われたとは考えにくい。相当な理由がなければならないが、結婚準備はその理由として納得できる。
 現在の戸籍における「筆頭者」とは異なり、明治民法の下での「戸主」はかなり重い意味合いを持っていたようで、その構成員、財産に対する広範囲な支配権を持っている。明治の家族制度のありかたが判然とはつかめていないが、戸主死亡または隠居に際して、その妻は戸主にはなれない。直系男子を優先とするが、男子がいない場合に限って女子が戸主となることも認められていた。女子もいない場合には養子を迎えることもできるが、原則として男子を想定している制度の中で、女子が戸主となるのは例外的な措置になる。キクが分家を立て戸主になったのは、そういう緊急避難的な場合とは違うので、かなり異例のことに属するのではないだろうか。明治の法律用語の「分家」が、本家に対する従属的な関係をも含むものかどうか分からないが、分家は即ち「戸主」になることであるのはキクの例で明らかだ。尋常ではない覚悟を持って、キクは分家したと考えてよいのではないか。

左記は二男であり小幡の家を継ぐ必要はなく、キクにとってはこれ以上ない相手だった筈だが、大きな障害があった。
勝三の年齢(推定)を最高に見積もっても、その誕生は明治二十九年、左記三十一歳のときになる。大黒某との結婚がキクと出会う以前だとすれば、勝三誕生まで最短でも十年かかっている。左記の年齢と、その後キクとの間に儲けた子女の数を考えれば、これは少し不自然なような気がする。従って、キクとの出会いが最初にあったと考える。しかし結婚できないまま、法的には嫡出子と認められない四人の子をキクは育て、十六年もの時が経過した。正式に入籍し、子どもたちも認知されたときのキクの喜びはどれほど大きかっただろう。
 若い二人がすぐに結婚できなかったのはなぜだろうか。以前、廻船問屋における新勢力佐藤が、旧勢力である小幡家と協力する、いわば政略結婚を考えたのだったが、これは撤回しなければならない。むしろ逆だったようだ。新興の佐藤家の勢いを、旧勢力の小幡家が喜ばなかったのではないか。
左記の父小幡久太郎は、佐藤キクとの結婚を絶対に許さなかった。認められぬまま、賢三、良三、清三と子は次々に生まれた。左記も同居していた可能性が高い。その中で賢三を秋田中学に入学させているから、経済的には全く問題はなかったと思うが、キクの精神的な苦労は絶えなかっただろう。しかし久太郎は左記と大黒某との縁談を無理やりまとめ、二人を引き裂いた。いったんは諦めて、左記は大黒某との間に勝三を儲けたが、またキクの元に戻った。四子のマサも生まれる。やがて久太郎が死に、大黒某女も亡くなり、一切の障害が消えた。左記は勝三を大黒家の戸主とした上で、ようやくキクとの婚姻を実現した。
 後年のキクが女傑と呼ばれるようになるためには、こうした経験が必要だったのかと思えば、胸が痛む。
 それに、勝三はキクが引き取り実子同様に育てた可能性がある。秀三が、勝三を四男の位置に記したのも、実際にそう思っていたのではないだろうか。それ程、兄弟同様に育てられたと考えてはどうだろう。賢三、良三、清三(入籍当時満七歳になっている)の三人はすでにある程度成長していて、内実は分かっていただろうが、秀三は二人の正式な入籍の直後に誕生しているから、その辺の事情を知らなかった。この推定が正しければ、大黒某が亡くなった、つまり大黒家には勝三の面倒を見るものがいなくなったことの傍証になると思われる。
余りに感傷的な、一族に同情を寄せ過ぎる想像だろうか。これを確認するためには、小幡久太郎や「佐藤左記」となる以前の左記の戸籍が必要になるが、現在では入手できないのは既に記した通りだ。後世、私のような物好きな子孫が発生することを知っていたなら、きちんとした自史を残しておくべきだったと、左記とキクは思ったかも知れない。
 次第に、見知らぬ曽祖父母の存在が身近になってくる。

 この謄本によってもう一つ不審が生まれた。キクが分家独立したのは明治十九年七月二十四日だが、この件は「南秋田郡土崎港旭町戸主佐藤清也長女分家ス」と記されている。これは、この時点で清也は生存して戸主の位置にあり、キクはその長女であったということだ。キクの父母欄には清也とシノの名が記載され、その続柄は長女となっているから、初代清也の長女に間違いはない。しかし、明治十九年の時点でキクの実父の清也が生存しているとすれば、これまでの碑文の読みの根底が崩れてしまう。しかし、どう読んでみても文政六年に生まれ明治十年に亡くなったのは清也としか考えられない。
 これを解決する解釈はひとつしかない。分家の時点での「戸主清也」は二代目清也である。キクは実父の死後、家督を相続した二代目清也の養女となったと考えれば辻褄が合う。今後碑文の読みが決定的に解読され、これまでの解釈が全くの誤りであることが分かるまでは、こう考えるしか方策がない。戸籍担当官は、キクの父母欄の「清也」の名と続柄欄の「長女」を見て、「戸主清也」をキクの実父清也と誤認して、「長女」と記入した。本来は「養女」と記されなければならないのではないか。ただし養女ではあっても「長女」であることは間違いない筈だから、キク自身は気にもとめなかったのではないか。

 若干の補足を以下に示す。
いったんは分家した清三が、結婚直前になって復籍しているのは、戸主は婿養子になれぬ制度的な制約によるだろう。「入夫」という用語がでてくるが、戸主である女子と結婚することを言う。婿養子、あるいは入り婿と同じ意味になる。通常はその男子が戸主である妻から戸主権(家督)を相続して新たに戸主となるようだ。従って津田姓を存続させるためには、清三が「戸主佐藤清三」ではなく、「佐藤左記三男清三」として入夫しなければならない必要があった。左記が大黒の戸主ではなく、「戸主大黒勝三父」として婚姻入夫し、即日家督相続して戸主に成り変ったのと同じことだろう。やはり、キクと結婚するために勝三に戸主の座を譲り渡したと考えて間違いないようだ。
 因みに、秀三は満十歳で河原田政治、タエ夫妻の養子となったが、この時点で左記の戸籍からは除籍抹消された。十七年後協議離縁して佐藤家に復籍した時にはすでに父左記は亡く、戸主は賢三になっている。従って秀三の離縁復籍は賢三の戸籍に記載される。更に三年後、分家したため除籍となるから、その後の秀三の消息は、賢三の戸籍からは判明しない。清三も、津田継と婚姻入夫した時点で左記の戸籍からは除籍され、同じようにその後の消息は記載されない。
 また、戸主と成年とが関係ないのは大黒勝三の場合によっても明らかだから、当面の問題ではないが、成年に関する規定があるのかどうか。現在の「成年」が満二十歳であるように、明治の成年にも規定はあったのだと思う。分家をした時点のキクを「未成年の女子」と表現したが、その規定が分からない段階では正確な表現ではなかった。選挙権は制限選挙だから参考にならないと思うが、ただ、結婚に関する限り、男子三十歳、女子二十五歳に満たない者は、親の許諾がなければ結婚できない。つまりこれが成年規定に関するものなのか。調べたい事項はますます増えてくる。

 キクの生没年については、その誕生が「菊の節句」だと聞いた秀三の記憶は正しかったが、明治二年はまだ太陽暦を採用する前のことであり、現在の暦に換算すれば十月になる。また土崎に小学校が開設されるのは明治七年のことで、キクは満五歳になる。この時は土崎、大湊、観潤の三つの学校に分かれていたが翌年七月、これらが合併して土崎学校となる。土崎女学校が明治十六年の創設だから、キクは男女共学の小学校で学んだことになる。
 没年が謄本上では判読できない。戸籍担当官が一度間違えて記載したものを抹消して、行間に小さな文字で挿入してあるが、抹消した文字と重なり合っているため読めない。

 なお、菊地えり子氏が入手してくれた『矢島町史』に、清也の父清兵衛であろうかと思われる人物を発見した。文政十一(1828)年正月御礼銭目録に列記されている人物の中に、「佐藤屋清兵エ」とあるのは、年代的にも合致する。詳しくはこれから点検してみなければならないが、とりあえず報告する。