佐藤清也とその一族 (4)

2004年7月  佐藤 眞人


 邦夫伯父から懇切な手紙を頂戴した。その中で伯父は、キクは二代清也(清作)の娘だったのではないかと推理している。キクは明治二年生まれ、初代清也の子とすれば、父は満四十六歳であり、当時その年齢で子を儲けるのは余りないことではないかという点が一つ。もうひとつは、二代目の子だと仮定すれば、碑文に清也(初代)に子なしと記されていることと矛盾しないということだ。
 前回Bでキク分家時の戸籍の記載に「戸主佐藤清也長女」とあることに疑問を感じたことは記しておいた。その時点で初代清也は既に亡く、戸主清也は二代目でなければならない。秀三のメモでは、キクの母シノは初代の妻の位置に記されている。このため謄本を入手した後でも、キクは初代とシノの娘であると思い込んできた。だから、「長女」と記載されていればその父は当然初代のことと考えざるを得ない。戸籍担当官が「養女」を「長女」と誤記したのではないかと苦し紛れの解答を出しておいたのだった。矛盾が生じるはずだ。二代目の実の娘だと考えればすっきりする。と同時にシノは当然二代目の妻でなければならない。二代目の前妻「越後谷氏」の名が不明なことから、あるいはこの越後谷氏がシノだと考えて良いかも知れない。
 清一郎は初代清也の弟だから清也とほぼ同世代と考え、キク誕生の年に(生きていれば)四十歳として、二十歳の時に清作を儲けたとすれば、清作(二代目清也)はちょうど二十歳になる。これならば長女キク誕生にそれほど不自然さは無い。
 この推定が正しければ、初代清也から次の清作(二代目)、キク、賢三、佳夫と続いて、眞人は六代目の末に当る。
 もうひとつ大きな点は、清也(二代目)は大正七年に亡くなっていて、その末子の位置に記載されていた博は大正九年ごろの生れのはずだから辻褄が合わないという指摘だ。清作の長男清一郎を三代目と考えれば、博は三代目の子かも知れない。清伍、清六は名前から見て、清也(二代目)の子に間違いはないと思われる。しかし、左記の実の子である秀三にして、これだけ記憶が違っているのでは、聞き書き、伝聞についてはよほど慎重に取り扱われなければならない。秀三の覚えに間違いが多いのは、十歳で養子に出て、父左記没後に復籍していることが大きく影響しているだろう。秀三は「清也」は一人だけだと思い込んでいるから大きな間違いが生じている。戸籍上だけの養子縁組で実際には同居を続けていたならば、近縁の話で清也が複数いたことはすぐ分る筈ではないか。十歳から二十七歳まで他家で暮したので、その辺が分らなかったと思われる。いずれにしろ僅か数代前の関係図が正確に作れない時代だということが、痛感させられる。手探り状態がどこまで続いていくのか。

 伯父は勝三については、徴兵逃れのために子のいない大黒の姓を買ったのだという話を記憶している。勝三自身にそう聞いたことがあると言う。だとすれば、左記入籍の年月日はただ書類上の手続きだけの問題だが、前にも述べたように、賢三十五歳(既に秋田中学に入学している)になるまで、戸籍をそのまま放置しているとは考えにくい。それに、単に勝三を大黒家に養子に出しただけだとすれば、左記が大黒を名乗る理由は見つからず、これは親戚中でなんとなくタブー視されていた可能性が強い。

 碑文の読みについても教えられた。「糶糶(ちょうちょう)」と読んで、競り売りの声が喧しい様子で商売繁盛を表すと解釈してきたが、文字が間違っていた。「糴糶(てきちょう)」と読んで、穀物などを買うこと、売ることの意だという。なるほど、文字を見れば、米が入って出て行く。このほうが商売繁盛に相応しい。
 また、小幡の墓は保戸野鉄砲町の来迎寺にあって、廻船問屋とは関係ないとも指摘された。一人で勝手に想像しているだけでは、こんなことも誤ってしまう。しかし、いろいろトンチンカンなことを考えながら、親戚中で記憶を辿ってもらい、推理を働かせているうちに、多少は正解に近付くかも知れないと思えば、この文章も無駄ではない。

 次に、左記と賢三について邦夫伯父が書き寄越してくれたことを、少し補足して年表形式で記してみる。左記については「叔父秀三の覚書より」とあるので、どこまで正確であるかは分らない。
◎ 明治32年 左記は<佐清>から分家、土崎港新城町で廻船問屋を開業する。
(それまでは清也の店で番頭のような位置にいたものか。)明治35(1902)年奥羽線開通の頃までは事業好調だった。
◎ 明治41(1908)土崎に鉄道が通ってから次第に事業が傾き始める。
◎ 明治43(1910)賢三、大友キミと結婚。
◎ 大正元 (1912)左記破産。(賢三は満二十四歳になるが、それまで左記の店の手伝いをしていたものか。)前年、船川線が開通したことも影響しているかもしれない。男鹿方面への輸送はそれまで船が頼りだったが、これで鉄道輸送に切り替わった。
◎ 大正2 (1913)新城町の同所で雑貨商(煙草、砂糖、釘、油、百貨)開店。キクは下宿人を置く。
◎ 大正7 (1918)佐藤清也(二代目)没。
◎ 昭和2 (1913)土崎港の大火で類焼。焼け残りの土蔵で一家蔵住まい。雑貨商廃業。
『土崎港町史』でこの年の大火の記事を見れば「四月三日午前一時十分、(中略)東南の風に煽られ同町及び古川町濱相染等延焼、全焼七十四戸、土蔵、物置五十四個、焼失。損害見積三十二万八千三百円」と書かれている。
◎ 昭和3(1928)信用組合からの借金で秋田市寺内将軍野71番地へ家を新築。
キクとキミで下宿屋を開業。左記は毎日釣竿をかついで草生津川などへ釣りに出かける。
◎ 昭和4(1929)12月2日、左記没。肺壊疽であった。
◎ 昭和5(1930)、6年頃 下宿人の山下寅次郎?が同じ下宿人や会社の同僚を呼んで度々麻雀をしていたが、メンバー不足の時に賢三を呼び、麻雀を教えた。賢三はこれで麻雀に開眼する。隆子伯母が「なんだかブラブラブとしていたらしい」と記憶しているのは、この頃のことを覚えているものだろう。
年表によれば、昭和四年に菊池寛を総裁として日本麻雀連盟が結成され、第一回全国麻雀選手権大会が開催された。東京市内に麻雀屋出現、賭博横行とある。「エロ・グロ・ナンセンス」の時代だった。
◎ 昭和7年頃  賢三は土崎愛宕町に部屋を借りて麻雀荘を始めるが、客が少なく一年足らずで廃業。
◎ 昭和8年頃? 弟の津田清三に釜淵(山形県真室川町。奥羽本線の秋田山形県境から、及位、大滝を経由してその次の駅)駅前に製材所を作らせ、自分は工場長として住込んだ。付近の山や原木を買う山歩きの仕事は勝三にやらせた。事業は好調で、その後新庄に製材所を移転拡張した。戦時下のインフレに好況が続き、製材業は波に乗ったらしい。(開業資金は津田材木店が負担した。)
インフレであったことは間違いない、政府は価格統制令を何度となく出している。この頃、小作争議や労働争議は頻発し、東北地方の冷害凶作で欠食児童や娘の身売りが大きな問題となっているから、全国の状況を見る限り、「好況」とは到底思えない。八年三月に三陸大地震・大津波で流失倒壊家屋七千二百戸、翌九年三月には函館大火で罹災二万四千八百戸、同九月に室戸台風によって四国関西地域で全壊流失家屋四万戸以上などの大災害が続いている。復興事業として、製材業は「好況」だったのかもしれない。
◎ 昭和14年夏頃 信用組合の借金返済が滞り、将軍野の家を手放し、本山町の津田の家に移転した。(事業は好調なのに、なぜ返済が滞るのか。邦夫伯父の推測では賢三は製材所から貰う給料はすべて自分の単身赴任生活で費消し、家の借金についてはキクとキミの下宿屋の収入によったものらしい。そのため返済が滞った。)
◎ 昭和18年頃  製材所から出火、全焼。
賢三は土崎に帰り、旭町建築請負師の宇野某、新柳町の小西(あだ名博士)、丸山(日本経済新聞記者か販売店主)の四人で機械模型の工場を創めた。(「博士」というあだ名には、何か胡散臭さを感じる。)
事業が軌道に乗りそうな頃終戦となり廃業。
◎ 昭和23年7月2日 脳溢血で没。
賢三は若いときから肺を病み、中学時代の同級生武田医師に診てもらい、終生ファゴールという薬を手離さなかった。若禿げは、軍隊で帽子を被っていたためだとキクが言っていたが、薬の所為だと言うひともいる。終戦後は清酒、濁酒合わせて大いに晩酌を楽しんだ。

今回の推理に基づき、清也(初代)からキクの世代までの関係図を書きなおしてみた。




これまで、秀三の記す通りにシノは初代清也の妻だと思い込んでいたので小島氏に宛てていた。また、キクと清一郎の序列は不明。但し、長女であるから、キクは清江よりは上に位置する。
博の位置は仮に決めた。

(2004.7.5)
(2004.7.17訂)