佐藤清也とその一族 (5)

2004年7月  佐藤 眞人


 矢島の歴史については殆んど知るところがなく、以下は全面的に『矢島町史』(矢島町教育委員会)による。

 矢島藩の版図は、時代によって若干異なる。生駒氏最初の入部にあたっては(寛永十七年)、前郷九ケ村千五百八十八石一斗一升二号、川内郷三ケ村二百四十八石九升六合、笹子郷二ケ村四百七十四石六斗四升八号、直根郷七ケ村六百八十九石一斗七升二合、仁賀保郷二十二ケ村五千九百九十九石九斗七升二合、大沢村四ケ村千石となっている。これが正保二(1645)年本庄藩との所替えにより、矢島領の仁賀保郷の内十六ケ村と、本庄領の内向郷・玉米・下村三ケ郷十六ケ村との交換が実施された。それぞれ四千六百三十九石一斗七升九合だった。知行高の算出に、「合」の単位まで計算されていることにまず驚かされる。
 文政十二年には、前郷十ケ村、向郷九ケ村、その他川内郷、直根郷、笹子郷、玉米郷、など九ケ郷四十七ケ村であった。
 また大沢郷は旧仙北郡大沢郷村で飛び地であるため、天保二(1831)年公儀に願い出て、その内の四ケ村と上仁賀保郷の公領九ケ村との村替えも行なわれた。これらの数次にわたる所替えは、当初生駒氏に与えられた領地が本庄藩や幕府公領と入り組んでいたことによるもので、国境を巡る公事争論が何度も発生した。
村の行政組織は次のようになる。数ケ村をあわせた「郷」全体を取り仕切るのが大名主で名字帯刀が許される。年貢、小物成などを取り立て遅滞無く藩に治めなければならなし、公事論争にあたっては調停役として、なるべく大名主の段階で解決しなければならない。お触書や布達などを確実に村民に伝達し、その徹底をはからなければならない等の大きな役目を負わされていた。その下に各村に小名主がいた。小名主の下には五人組の組頭がいて、これらを村方三役と呼ぶ。藩行政における上意下達の末端機構であるとともに、下意を上申する役も負っている。年貢は村請け制になっていたから、組または村として完納しなければならない。御触書に違反するものが出た場合には三役にも連帯責任が跳ね返る。

 矢島藩では、田中町、館町の二町を「町方」として扱い、「郷方」とは少しその支配のありかたが異なっている。
田中町は城(八森陣屋)につながる表通りで、最初に開発された町である。その名が示す通り、城下町として整備される以前は田圃の中に散在していた百姓村であったろう。 館町は、城山の真下に屋敷割りされた長い坂道になり、田中町よりは少し遅れて町割がなされた。元禄十六(1703)年に「イサバ(魚類)株」を町家督として許可されているが、正式に屋敷割が完了したのは正徳四(1714)年になる。
 このことから、町屋での商売は、何でも自由に販売できるわけではないことが分る。販売品目の「商い株」は「町家督」として、その町だけの独占販売権であった。館町ではイサバ、田中町では「アイモノ株」(呉服・太物類)が許可されていた。
享保年間、田中町がイサバ商いを行なっているというので、館町との間で係争事件が発生している。四年後の裁きで、イサバの商いは館町に限定されて許可されることになる。
町方が負担する税は、小役銭(商工業者に課せられる営業税といえるもので、定額ではなく、営利の消長、盛衰に応じて変動した)、運上金(小物成役の一種で、商工・漁労・運送などの業者に一定の率を以て賦課した)、冥加金(出願者が免許を得て営業を営むことができるという観点から免許の報恩・謝礼の意味をもつ。主として酒造・醤油・質屋・旅籠屋などが該当する)などに分けられる。運上金と冥加金に対して藩からは「株」という特権が与えられる。
天保三年の田中町の御役銭(小役銭のことだろう)上納の内訳を見ると、「室役銭 七貫二百文、清酒株御役是認二軒 十九貫五百文、引酒商い株二軒 一貫文、商い札御役銭 二貫百七十文、の濁酒株四軒分御役銭 六貫七百五十文、馬役銭 百五十文、〆て三十貫七百七十文」となっている。これを見る限り、個々の商人が上納するのではなく、町全体として請負っていることが分かる。年貢の村請け制と全く同じ構造である。

文政十一(1828)年正月御礼銭目録で、総郷中と町方に分けた御礼銭なるものが判明する。郷の場合は、大名主・山目付・山先・境守猟師頭が五十文、小名主は二十五文となっている。ひとり大沢郷大名主佐藤治郎兵衛だけは二百文となっている。
これに対して町方では、田中町庄屋兼問屋の土屋吉兵衛が別格の百文。館町庄屋鍵屋六左衛門以下、徒士格二人、坊主格、宿老・宿老格までの計十三人が五十文。以下役職の名義が記されていない二十一人に二十五文となっている。町方の分を合計すれば、一貫二百二十五文。これは正月祝いとして町方から藩主に差し出された「御礼」の割り当てだろう。坊主格とは何のことか分らないが、宿老などこれらが町の役職になる。二十五文を割り当てられた二十一人の中に「佐藤屋清兵エ」の名が見える。在郷では大名主、小名主、組頭などによって組織されていたが、町方ではおそらく村の大名主に相当するのが庄屋、小名主に相当するのが徒士格や宿老などか。徒士格は帯刀が許されていた。
このときの二十五文はどの程度の価値だったか。米相場は凶作を除いて十両で四十五俵から三十俵で売買された。一俵が三斗三升か三斗四升として、一両では一石五斗か一石余り買える。一両の両替を六貫文とした場合、一升は四十文から六十文になる。つまり二十五文は、米三合から五合ほどの価値になる。
 町方の規模については、文化十四(1817)年切支丹宗門人別御改帳の覚えによって判明する。田中町八十九軒三百五十八人、館町は六十一軒二百四十八人となる。両町合わせて百五十軒ほどの町方(商人だけでなく職人なども含んだ)で、佐藤屋清兵エの名前が出現する十一年後でもそれほどの変化は考えにくい。この程度の規模の町で、同時期に同姓同名の生じる可能性は非常に少ないと思われる。文政十一年は、清也五歳の時にあたるから時代的にも符合する。おそらくこの「佐藤屋清兵エ」が、清也の父の清兵衛と断定して間違いないと思う。
百五十軒に対して、上記に名を上げられもの町を取り仕切る役職者だったとすれば、二十五文に相当する二十一人でこれを分担すれば、一人当たり七軒程度。庄屋を除く三十三人で割れば四から五軒。五人組の組頭としてほぼ納得できる数字になる。従って清兵エは、村で言う「組頭」に相当する位置を占めていたのだろうと推測することになる。豪商ではないが、まず暮らし向きには困らない、並みの町人からは旦那と呼ばれておかしない程度の商人だったと思われる。その後、清也がどれほど商いの規模を大きくしたかは史料がないので分らないが、この時点では苗字帯刀を許されるような立場にはまだいない。
田中町と館町の分が一括して記載されているため、田中町庄屋兼問屋の土屋、館町庄屋鍵屋以外はどちらの町に所属するものか分らない。ただ、呉服・太物類の販売権が田中町にあり、清也の家が「世々布帛錦繍ヲ鬻(ひさ)グヲ以テ業ト為」していたのであれば、田中町にあった可能性が強い。

 旧幕時代における生活物資、とりわけ上方の文物は、日本海西回り航路によって、年に二回、本庄の古雪港か、仁賀保の三森・平沢港に陸揚げされた。中でも古雪港は明治に至るまで北陸・山陰の北前船を相手に商売を続けていた。土崎湊の項で記したことを再掲すれば、「旧正月下旬大阪を出帆して、瀬戸内海の各地に寄港し、秋田向の商品を搭載して二月下旬、下関を発し、三月下旬に土崎湊に着く。これを一番船という。四月中旬上り荷物の米穀などを積み入れ、土崎を出航して兵庫、大阪に向い、下関、備中などで、右積み入れた商品を売りさばき目的地に至るものである。更には秋田に売るべき品物を積んで、六月に二番下り船として入港するのである。三番船というのは、秋の土用なかば前に来る習慣であって、土用半ばすぎると、航海の困難な季節にはいるからである。」この三番船を省略すれば年二回になる。
 廻船の船頭兼商人は「旦那」と呼ばれ、陸揚げの際には紋付袴姿で船から下りてきて、積み込んできた雑貨類を本庄の卸商人に売りさばいた。その商品は、郡内から集まってきた地方商人へと売りさばかれることになる。
 旦那は、卸商人に、各地の織物や雑貨の商品見本を示し、次回の予約注文を受けて帰航の途につく。帰りの船には、矢島領内から集積した米が積み込まれた。
 矢島の商人たちは、問屋、つまり人馬継立の運送屋を介して、本庄から子吉川を遡上し、物資を輸送した。子吉川は、矢島領内を流れる部分を矢島川と称したが、実際に舟運を担当したのは本庄の船頭たちで、なかなか鼻息が荒かったとされている。雑貨の中には諸種の呉服・太物が尤も多く、紙類や金物なども含まれていた。清也の家もそうした経路をたどって、商品を仕入れたものだろう。それが、「初多儲船舶貿易貨物」の句に表現された内実だったろうと思われる。

 戊辰戦争では、庄内軍に迫われた矢島藩兵は陣屋に火を放って退却した。侵入してきた庄内軍は城下の各所に火をつけたから、矢島の町は大きな被害を受けた。矢島城下の兵火焼失家屋の記録には、「家中侍屋敷 百軒。ただ一軒を残したのみ。足軽小屋 三十六軒。 土蔵 三十二棟。物置 四十五棟。寺 三ケ寺。社 二社。田中町 六十軒と一社。館町 六十六軒と一社。城内村 三十九軒。七日町村 十七軒。」と記されている。
先に挙げた文化四年の町方構成は、この五十年ほど前の記録なので、軒数もそれほど変化してはいないと見れば、田中町は三分の二、館町はほぼ全焼の被害を受けた。陣屋に近いだけ館町の方の被害が大きかった。清兵衛の店が田中町にあったとすれば、焼失したか焼け残ったか、微妙なところだが、町の機能はほぼ全壊したと言って良いだろう。
このとき、藩主に従って、藩兵や領民の多数が秋田藩領に逃げ込み、一部は雄物川を伝って土崎湊まで避難しているから、このとき清也(満四十五歳)も同道したとすれば、土崎湊の繁栄を目撃した可能性がある。商才に長けた者であれば、本庄を中心とする小さな商圏での商いよりは、土崎進出によって更に発展したいと願ったとしても不思議はない。
いつ現在の時点の記述か分らないが、『矢島町史』の「商人一行歴」の章に記された主な老舗商家に、藩政時代から残る屋号はない。その殆んどが明治になってからの開業で、それも大正を越えて存続する名前は少ない。戊辰戦争で壊滅手的な打撃を受けた矢島の商店は、明治になって出現した新人に取って代わられたが、それも、本庄一辺倒の小さな商圏では、後まで代々続く商いは難しかったことを表している。更に太平洋戦争になってさらに新人との交替となる。従って、清也と清一郎の土崎進出は、この時点では正しい判断だった。


(2004.7.11)