佐藤清也とその一族 (6)

2004年7月  佐藤 眞人


 第四回で、博の父は清也ではありえず、一応清一郎に比定したが、それで良いかの確認もしなければならない。しかし、秀三作成の家系図で、清也と水沢キミとの間にできた子女の中で、末子に位置付けされているからには、実質的には、その兄弟として育てられたと考えて間違いない。博の生年が大正九年(邦夫伯父推定)ならば、博の父は誰だろう。
大正九年時点の関係者の年齢を推定すれば、清二郎は十七歳(秋田高校同窓会名簿の大正十年三月卒業者に名がある。慶應卒業になっているから間違いないだろう。卒業年度を満十八歳として計算する)。まだ中学生だからよほどの不良(軟派)でもなければ博の父にはなれない。中学卒業後、土崎出身の菅礼之助(明治三十一年三月の秋田中学卒業生)の書生となり慶應大学を卒業、東京電力に入社して停年まで勤めたという経歴を見れば、無理だと思う。

ここまで考えてきて、基本的な年齢の辻褄が合わないことに気がついた。博は二代清也の子としてありえない(清也没年が大正七年、博の生年推定九年)というのが発端だったが、そもそも、清二郎以下の子供たち全員が、二代目の子として余りに不自然だったのだ。第四回で、キクを生んだのが二代清也二十歳であるならば辻褄が合うと考えた。キクが生まれたのは明治二年、初代清也の年齢からその弟清一郎の年齢を推定し、その子である二代目がかろうじて最短で明治二年に二十歳に到達するからだ。とすれば、清六が生れたとき(大正二年)、二代清也は既に六十四歳に達している。清二郎誕生でさえ、満五十四歳になる。これでは清二郎以下の子女を二代清也の子とするのは明らかに無理がある。根本的に見直さなければならなくなった。

和暦では計算が面倒なので西暦で整理する。
1869年、二代清也が二十歳(としておく)の時、キクが生れた。清一郎がキクの弟であるならば、仮に三歳年下として、1872年に生れた。水沢キミは(これも推定だが)1880年の生まれとする(清二郎誕生を1902年として二十二年遡った)。二代清也とキミの年齢差は三十一歳になり、この二人が結婚するのは無理だろう。従って水沢キミの夫は二代清也ではないと断言できるのではないか。ただし、清二郎以下の子供はキミの子だと考えておくことにすれば、キミが二十三歳から三十七歳までの子となり、それほど不自然ではない。それならば、キミの夫は誰か。
二代清也が清二郎以下の子供の父にはなれない以上、関係する名前の中で、水沢キミと結婚し、これらの子供を儲けられる可能性のある者は清一郎しかいない。邦夫伯父の記憶のなかで、清二郎以下の人物は多少の差はあれ、どこかに出現するが、清一郎はどこにも出てこない。というよりも消息不明なのだ。清一郎とキミの年齢差は推定八歳だから結婚するのに不適当な年齢差ではない。また清六が生れたのは清一郎が四十一歳であり、これも不自然ではない。ここまで考えれば、大正七年に死亡したとされる清也は、二代清也ではなく、三代清也を襲名した清一郎のことではなかったか。清一郎は清也の正嫡であり、またキクの弟でもある。一家の中で話題にならないはずはないと思われるが、既に「清也」襲名以来長期間を経ているため、全員が「清也」と呼び習わしていて、清一郎の名は表現されないと考えてはどうだろう。そして少なくとも博誕生まで生きていたとすれば、その後の死亡時期なども、何かの形で伝えられているのではないか。それが、秀三のメモにある大正七年の「清也死亡」にあたるとしか考えようがない。大正七年は秀三の十五歳の年になるが、十歳の年から河原田の養子となっている秀三は、おそらく「清也さんが亡くなった」とだけ聞いたのではないかと推測する。清也が三人(とここで考える)、清一郎も二人いる状況の中で、秀三の記憶は微妙にずれてしまう。水沢キミも「清也さんの奥さん」と記憶しているものの、まさか初代清也ではありえないから、清作の妻の位置においたのではないか。
こう考えてくると、第二回に記した、土崎湊町会議員も二代清也ではなく、三代清也(清一郎)である可能性もでてきた。
博の生年については、邦夫伯父の推定で大正九年としてきたが、昭和九年三月の秋田中学卒業者に名を残しているので、十八年遡って大正五年の生まれとなり、それならば清一郎(清也)はまだ生きている。名簿のなかで前後数年を点検したが、「佐藤博」の名はここにしか出てこないので、この年次に間違いない。
この同窓会員名簿で佐藤三郎(大正十四年三月卒業。前後数年を見渡して同名はいない。ただし、秋田中学卒業生と仮定しての話だ)、佐藤清伍(昭和五年三月卒業、最終学歴秋田師範)、宮越(佐藤)清六(昭和六年三月卒業)が確認できた。それぞれ卒業年度に満十八歳となるとして、生年を推定した。勝男の名は出てこない。

もう一度整理する。
二代清也はシノと結婚してキク、清一郎、清江を儲けて、いつの時点か分らないが没した。清一郎の名は、清也が実の父を偲んで名づけたものだろう。清也没後、清一郎は清也を襲名する。左記が<佐清>から分家するのが1899年、清也五十歳、キク三十歳、清一郎二十七歳。あるいはこのときが、二代清也の死亡、清一郎の家督相続の時期と重なるのではないだろうか。やがて三代清也は水沢キミと結婚して、清二郎から博までの子を儲けて大正七年に没した。
 これまでの前提では、水沢キミは清也(二代)の後妻であり、清二郎以下の子女はキクの従弟妹の世代に属していたが、世代がひとつ繰り下がった。ただし年齢的には、清伍以下は、賢三の子女の世代に属する。

 邦夫伯父の手紙から、別の事情も分ってきた。
 水沢キミは昭和五、六年頃に<佐清旅館>を秋田組合病院に売却し、十年頃まで、将軍野のキクの家に単身で寄食した。このことからは、昭和五年以前、廻船問屋<佐清>は廃業して旅館業に転じていたこと、キミの夫は既に死亡していることなどしか分らない。
 廻船業でいえば、分家左記の店は大正元年(明治四十五年)に破産した。本家分家は経済的にも密接に繋がっていたと考えられ、また何度も繰り返すように、鉄道の敷設によって物資輸送の状況は大きく変わっていたから、廻船問屋が生き延びる時代ではなくなっている。同時期に破産または廃業に追い込まれたと見るのが自然ではないだろうか。

また、キミは何故、単身でキクの家に身を寄せなければならなかったのだろう。キミにとってキクは義理の姉にあたり、また頼りがいのある女性だったと思われるから、その家に寄食するのは分るのだが、子供たちの問題がある。昭和六年ならば、清二郎は二十八歳となって東京で勤務しているが、キミは秋田を離れたくなかったという理由は考えられる。三郎二十四歳。勝男、静江は、生きていれば成人だが、秀三のメモによれば早逝した可能性がある。清伍は秋田師範在学中か。清六がこの年中学を卒業して、能代の宮越製材の養子になった。それを見届けて旅館を売却したものか。
しかし博はまだ中学生だ。これを置いて、単身で将軍野のキクの家に寄食したのはどういうわけだろう。邦夫伯父は、清六や博がキミに会いに来た記憶がないと言っている。博はどこに住んでいたのか。寄宿舎に住んだか、あるいは下宿したかだが、当時の秋田中学には寄宿舎があったから、その可能性が高い。

図に描いてみる。勝三については、まだ疑問のままとする。



(2004.7.19)