佐藤清也とその一族 (7)

2004年7月  佐藤 眞人


 勝三についてもう少し考えてみる。

「狭い範囲の家系だが、小生一代(清也)から六代(俊之=良平の長男)迄一回でも逢っていると云う事は珍しい。」これは、秀三が従兄良平に宛てた手紙の一節だ。初代清也は明治十年に亡くなっており、秀三の誕生は三十六年だから、秀三が初代清也に会っている筈はない。これは二代清也(元清作)のことでしかないのだが、秀三メモの混乱は、ここに最大の原因がある。「吾々の呑気は父左記以来で大部分がソウダ。ノンキでないのは津田清兄位だろう」という性格からきたものだろうか。従って、「清也」と記憶していることを、二代か三代(いるとすれば清一郎)の事績に当てはめれば、少しずつズレながら、微妙に正しい記憶になっているかも知れない。

「佐藤家は母(キク)もよく云ったが、女の方の出来がいいようだ。嫁さんもソウダと思う。吾々男性は母にコキ降ろされたもので、賢三清三勝三秀三何してると叱責を食ったものだよ(激励の為?)」この思い出によれば、勝三は明らかに賢三以下の兄弟と全く同列に扱われている。自然の感情では、勝三はキクの実子であるということになる。(ここに良三の名が出てこないのは何故だろう。)
邦夫伯父からの補足によって、秀三の記憶によれば勝三の誕生は明治三十二年であることも分った。これは左記が佐清から分家独立開業した年にあたる。

勝三が養子に出たことだけならば、取り立てて問題ではないのだが、左記自身も大黒姓を名乗ることの意味が分らないから困るのだ。
また、邦夫伯父が再三記すように、「徴兵逃れ」を目的としたという点にも若干の不審がある。勝三が養子になったとすれば、勝三誕生の三十二年から、左記が「大黒勝三父」としてキクと婚姻入夫する三十六年の間のことになる。賢三は長男だから養子はありえないが、三十二年の時点で良三は十三歳、清三は七歳、勝三は四歳ということになる。まだ四歳の幼児の「徴兵」を恐れるならば、良三の徴兵を真剣に考えるほうがまだ素直ではあるまいか。それでもまだ若すぎるかも知れない。日清日露の戦争によって、徴兵への怖れが現実的なものになっていたとしても、賢三は志願兵になっているほどだから、戦争や軍隊一般に対する怖れとか不安は、家族の中でそれほど逼迫していたとは思えない。
邦夫伯父は、「兵役を逃れるため、後継ぎのいない絶滅寸前の老婆の姓を買った」のだと、勝三自身の口から聞いている。老婆のために、左記と勝三の二人ともに、大黒姓を名乗る必要があった(老婆のたっての希望によって)とすれば、話は単純化する。左記とキクは単に内縁関係のまま子供を作った。老婆(大黒)が亡くなって義理を果たした上で左記はキクと正式に婚姻した。まだちゃんと納得はできないが、その後の勝三と兄弟たち、甥たちとの関係からして、やはり勝三は左記とキクとの実子であったと考えたほうが自然だ。

しかしこの時期に戸籍を買う、つまり戸主となることが、徴兵忌避に有効だったのかという問題もある。官吏や戸主に認められていた徴兵除外規定は、明治二十二年の徴兵令改正によって全廃されたというのが年表によって教えられる事実だが、法令上の条文と、実際の運用は異なっていたものか。思いついて丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」(『コロンブスの卵』所収)を確認すると、漱石が徴兵忌避を目的として北海道に籍を移したのが明治二十五年のことだった。このことから、三十二年から三十四年になっても、実際上、戸主は徴兵を免除されていたという結論を引き出してもよいのだろうか。
丸谷からの孫引きになるが、松下芳男の研究によれば、明治六年の徴兵令施行以来、普通に行なわれた徴兵逃れのために、@分家、他家に入籍、あるいは絶家廃家を興して戸主となること、A養子となること、B嗣子または承祖の孫となること、C独子、独孫となること、D病気もしくは事故の父兄を作為すること、E北海道および琉球に転籍すること、F戸籍の杜撰なるに乗ずること、G代人料金(二百七十円)を上納すること、などが行なわれた。
二十二年の改正により、@からDについては完全にその特典が廃棄されている。また学生生徒に猶予されていた徴兵猶予も最大限二十六歳を限度に改定されていて、この年漱石は文科大学在学中でちょうど二十六歳だったから徴兵猶予の年限が切れることになる。漱石の「徴兵逃れ」の努力はこのE番目に該当するのだが、これで判断する限り、北海道および琉球への転籍については、従来通り免除が継続されていたもののようだ。因みに北海道に籍を送ること、「送籍」から後に「漱石」の名が選ばれた。
逆に言えば、単に他家を継いで戸主になるだけでは、徴兵猶予の対象にならない。だから勝三が(左記が)この時点で継嗣のいない老婆の戸籍を買ったとしても、徴兵については全く無駄な努力だったのではないか。ただ、F番目の「戸籍の杜撰」というのが少し気になる。賢三が十五歳になるまでキクと左記が婚姻届を出さなかったのは、まさに「戸籍の杜撰」に他ならないからだ。ちょっと話はずれるが、佳夫の戸籍上の誕生は大正十四年四月一日になっているが、実際は十五日だったというのが佳夫の話だ。四月一日と十五日とでは学齢が一年違う。科料五十銭を納めたというのも佳夫の記憶だ。届け出がなされたのが二十八日だから、おそらく届け出期間を過ぎているのが、科料の理由になる。これは「杜撰」というより「損得勘定」に近いか。

不審はひとまず棚上げ、とりあえず勝三はキクの実子だということにして、勝三を追ってみる。
 勝三は菓子職人の修行のため東京に出ていたが、大正十二年に土崎に戻り、大正十五年、佐清旅館の隣にトキワ菓子店を開業した。妻八重は五城目の出身で、八重の妹(ヤス?)が店を手伝った。昭和二年の大火で新城町の雑貨店が類焼してからは、キクやキミ(賢三妻)も、朝から自宅で菓子餡を作り、トキワ菓子店を手伝っていたそうだから、かなり繁盛していたのかもしれない。邦夫たち子供が「何かケレ」とねだると、キミや八重が四角のガラス瓶の中から最中の皮を出して、その餡を包んでくれたものだという。港の祭に子供たちが店によれば、ヤスがカキ氷に苺のシロップをたっぷりかけてくれたそうだ。また子供たちは、トキワで「ヤマハ」を買ってくるよう命じられることもあった。「ヤマハ」というのは語源不明(佐藤家だけの隠語だろうか)だが、破損して売り物にならないもので、これを格安に分けてもらったのだ。
 しかし勝三は商売が下手で、トキワ菓子店は破産し、一家を挙げて釜淵の製材所に移住した。勝三は山歩きの仕事に携わり、八重は工場の賄を手伝っていたようだ。新城の工場が火災に逢うと賢三は土崎に戻ったが、勝三はそのまま清三の会社に雇われていた。待遇はあまりよくなかったようだ。
「勝三叔父が一番祖父左記に似ていました。容貌も話し振りも。」と邦夫伯父は書いている。それならば左記も商売が下手だったのかもしれない。
これまで調べてきたことから、賢三はただ遊び暮していただけの人のように思えるし、勝三は商売が下手、秀三は「ノンキ」。清三だけは堅実にその商売を続けていたようだが、どうもわが一族は、商いをするには何か欠けているようだ。
祖母キミが生前、良く口にしていたので覚えているのが、「縁らば大樹」と言う言葉だ。キミは賢三によって苦労したから、せめて子供たちだけは、きちんとした会社の勤め人になって欲しい、という意味だと思う。もう一つは「形あるもの必ず壊れる」と言う言葉だ。左記の破産、土崎大火による類焼、信用組合への返済遅滞で手放した将軍野の家、勝三の破産、新庄の製材工場の火事。キミの周りは、壊れたもので一杯だった。

(2004.7.25)