佐藤清也とその一族 (8)

2004年8月  佐藤 眞人


 邦夫伯父の示唆(家系図の書き直し)によって考え直してみた結果、単純なことに気がついた。私も同じ資料(秀三が良平に宛てた手紙)を見ていたのだが、最初から秀三作成の家系図に対する不信感を抱いているから、真剣に検討しなかった。邦夫伯父の推理は正しいと思われる。
 秀三作成の家系図の筆頭にある「清也@」を、初代清也とするからさまざまな矛盾が出た。これを二代清也と考えれば、これまでの検討の結果と矛盾がなくなる。秀三は二代清也から始まる正しい図を書いていた。二代清也は、シノとの間に長女キクと清作(自分の名をつけた)の二人の子を儲けた。清作が二人いたことも改めて納得する必要はある。清也と清作を親子関係で示されれば、どうしても、初代清也と、清一郎の息子で養子になった清作との関係しか思いつかなかったのは、頭脳の硬直のせいだろう。



 ここまでは、墓碑銘にある通りだから問題はない。秀三の家系図で省略されているのだ。秀三のものは、清也とシノとの間に清作とキクが生まれたことになっていた。その清也は初代であり、清作は清一郎の弟だと判断して、清一郎を書き加えたのが、@で仮に作った家系図だった。しかし、秀三作成の家系図はこの次から始まるのであって、それならばそのままで良い。ただし、秀三が初代と記した清也は、あくまでも二代目である。混乱の原因は、この清也へのメモとして、北海道開拓使黒田のことや、佐竹氏から船の払い下げを受けたなどの事項を記しているからだし、秀三自身が、この清也を初代とか一代目と言っていることによる。払い下げ等のことが実際にあったことだとしても、明治十年に亡くなった初代清也のことだろうと思い込んだ私の方が悪い。初代清也は「安斉」という号を称しているから、亡くなる以前から家督を二代清也に譲り、隠居の身分になっていたと考えて良いかもしれない。秀三が実際に会ったことのある清也は二代目以降でしかありえず、それを筆頭に位置づけている以上、その家系図から初代は除かれていると考えなければならなかった。
こう考えれば、Eで水沢キミの夫をわざわざ清一郎に宛てたことも撤回しなければならない。繰り上げた清一郎を元の位置に戻し、ここにもう一人の清作を出現させれば、すべての辻褄が合う。清一郎に宛てた事績は、すべてこの清作(二代清也の子であり、かつキクの兄弟である)に当てはめれば良い。
繰り返すと、二代清也(秀三作成か系図では筆頭に位置する)はある時点で亡くなり、キクの弟である清作が三代清也を襲名した。三代目は初め越後谷氏(名前不詳)との間に清一郎と清江を儲けたが、死別の後、水沢キミを後妻に迎え、清二郎以下博までの子を儲けた。清一郎、清二郎、三郎、清伍、清六と名をみても(勝男だけが別だが)、彼らが兄弟であることは自然に感じられる。
没したのは大正七年だと思われる。なぜ、この時に亡くなったのを二代清也でなく三代目と考えるか。末子博の誕生が大正五年頃で、水沢キミが一人で<佐清旅館>を売却するのが昭和五、六年頃だから、三代目がその間に亡くなっているのは明らかだ。本家筋の正嫡が亡くなったのであれば、秀三の記録に必ず現れる筈が、「清也の死」しか出てこないのは、この三代目が「清也」と呼ばれたことを示すからだと思われる。
 従って、二代清也以降は、秀三作成の通り(そして今回邦夫伯父が書いた通り)以下のようになる。ほぼこれで確定されたと思うが、大黒勝三だけはまだ自信がない。


 邦夫伯父の指摘(秀三から良平に宛てた手紙を解読して)によって、次のことも明らかになった。この辺は私には読めなかった部分だが、清作は京都大学で学んだ。京都大学設立は明治三十年だから、清作がキク(明治二年生)の弟だとすれば、年代的には合致する。明治十年頃の生れになるとすれば、水沢キミとは五、六歳の差となる。仕事はせず、画に親しんだ。廻船問屋<佐清>の斜陽の遠因はここにあるかもしれない。
 清一郎、清江ともに二十歳代で早逝したらしい。三郎は、秀三と同級生(土崎小学校か)だった。とすれば明治三十六年の生まれだから、Eで推理した生年より四年早まることになり、秋田中学卒業生の佐藤三郎は別人だった。文学を志し、早逝したと付記されている。

(2004.7.30)
(2004.8.8訂)