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    番外 大山街道を歩く編 其の八 「大山登頂 附 大磯散策」
    平成二十四年十月十三日(土)、十四日(日)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.10.26

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     旧暦八月二十八日。赤坂見附から歩き始めた大山街道も、いよいよ今日で最終回を迎える。雨降山に登るというのに、その異名とは裏腹に秋晴れの暖かい日になった。あんみつ姫は晴れ女の威力だと自慢するだろう。
     今回は山頂の阿夫利神社本社を参詣するグループと下社で我慢するグループと、二手に分かれることになった。桃太郎に言わせれば「幼稚園児も登る」けれど、スナフキンは「舐めてはいけません。中級者向けの山」だと言う。ストックはあった方が良い、装備も万全を期せと言うのでカッパの他に着替えを多めにし、それに四合瓶を入れるとリュックは結構膨らんだ。
     このシリーズを計画して、折角ここまでリーダーを務めてきた姫はとても無理だと最初から諦めて、ロダン、小町、マリー、カズちゃんと一緒に下社グループに入り、スナフキンに先導を頼んだ。彼らの集合時刻は十時である。
     登山組は伊勢原駅に九時半集合、九時四十五分発のバスに乗る予定だ。理由の分からない事故で小田急線には四分程遅れが生じているが、九時十分頃に到着すると、既に先達の桃太郎が待機していた。
     「チケットを買って下さい。」桃太郎は、バス、ケーブルカー込みの往復チケット千四百十円を買えと言う。「エッ、ケーブルカーに乗るのか。」「だって乗らないと随分遅くなってしまうからね。」残念だと思ったが、この時私は大山を舐めていたのである。チケットにすれば、別々に買うより四十円お得になる。
     若紫の顔を見るのは随分久し振りだ。「随分忙しそうだね。」「ゆっくり探す暇がなかったから、娘のリュックを借りて来たの。」そのリュックははち切れそうに膨れている。女性が宿泊するためには、私には分からない様々な物が必要なのだろう。私のリュックを見て何リットルかと難しいことを訊かれたって、そんなことは知らない。「三十リットルかな」と適当に応えて納得して貰った。二年程前に二千九百八十円で買ったもので(普通の半額以下です)、最初から容量の表示はない。それでもウェストベルトはしっかりしているし、背中にぴったりあって楽に背負える。
     定刻に間に合うためには二十二分着(遅れているから実際には二十六分着)で来ていなければいけないのに、三十分になってもまだ現れない人がいる。中将はどうしたのか。念のためにメールを確認すると、高崎線が遅れたので夫婦で下社組に入ると小町から連絡が入っていた。コバケンと画伯からは連絡がないが、次の電車を待っているとバスに乗り遅れてしまうかも知れない。  「じゃ、行っちゃおうか。」早めに来ていたスナフキンに後は任せて階段を下りると、もうバスは待っていた。私たちが乗り込んだ途端に出発したので、どうやら臨時バスだったようだ。お蔭で車内は空いていて楽々座れる。途中でスナフキンから桃太郎に、画伯とコバケンが到着し、当初予定していた四十五分のバスに乗ったと連絡が入った。
     前回寄れなかった比々多神社を窓から眺める。狭い道の途中で停車したのは、下りてくるバスとすれ違うためで、暫く止まっているとやっと下りのバスがやって来た。三の鳥居を潜ると参道に入ったということだろう。この鳥居は、「天保十五年武州所沢の阿波屋善兵衛が創建し、大正十年江戸消防せ組が再建したが老朽化のため、日本鋼管(株)の開発した耐候性鋼板で建立した」ものである。  やがて宿坊や旅館が集まる地域に入っていく。もうすぐだろう。「あっ、そこですね。」「あたご滝」の停留所を過ぎた辺りで、今夜泊る東學坊の看板が見えた。次の「良弁滝」を過ぎると終点だ。駅からおよそ三十分かかった。
     ロータリーのコンクリート壁には、大山詣でに関する浮世絵のパネルが張り付けられていて、それを見ながらコバケンと画伯が来るのを待つ。初代広重「大山道中張交図会」、「東海道五十三次細見図会」、北斎「相州大山ろうべんの滝」、「鎌倉江の島大山・新版往来双六」。
     良弁の滝に打たれる裸の男たちが大きな木刀を持っているのが、若紫にはどうにも気になって仕方がない。「木刀を洗うのかしら。」奉納するものだから、体と一緒に太刀も禊をするのか。江戸から担いできた木刀であれば、かなり砂や埃にまみれているだろう。「禊なのね。」
     大きな独楽を浮き彫りにした石碑も建っていて、「かながわ古街道五十選・大山宿坊街」と書かれている。朝飯が五時過ぎだったので少し腹が減って、コンビニで三個買ったおにぎりの一つを腹に入れたところに、やっと二人が到着した。バスはかなり混んでいたようだ。
     リーダーの桃太郎を別にして、年齢順に並んで貰えば画伯、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、コバケン、若紫、蜻蛉となる。たぶん間違っていないだろう。「何月だっけ。」「四月。」「それなら半年しか違わないじゃないの。」半年だろうが年上は年上である。「お姉さま。」
     ロータリーの出口に建つ童子の立像を載せた石柱には、「関東三十六札所・第一番霊場雨降山大山寺・発心の道場」と彫られていて、その先からは両側に土産物屋や料理屋が並び、その間を石段と踊り場が交互に続く「こま参道」に入る。「踊り場はおかしい」とダンディは拘る。
     「踊り場っていうのは回転しなくちゃいけない。こういう真っ直ぐな場所は踊り場とは言いませんよ。」階段の途中で方向転換するために平らな場所を設けたのは、スペースの問題と危険防止のためだろうが、そこを貴婦人が回転するように通るので「踊り場」と称したという説がある。しかし、ディジタル大辞泉では特に「回転」を条件にせず、「階段の途中に、やや広く場所をとった平らなところ」と言う。広辞苑がどう定義しているかは分からない。英語なら単にmiddle floor(中間階)と言うんじゃなかったかな。これには「踊り」の意味は含まれない。
     明治になって洋風建築が登場するまで、日本の建築に踊り場という概念はなかった。勿論最初は回転、方向転換の意味合いを含んでいたかも知れないが、やがて階段の途中で上にも下にも行かず足踏み状態になる平らな部分を、一律に踊り場と称するようになったと思われる。この言葉を使わなければ、今歩いているような場所を表現する言葉が他にない。
     それはともあれ、「こま参道」は独楽参道である。独楽は大山詣での大事な土産品だった。

    大山独楽
    伝統工芸玩具である大山独楽は、大山詣での際のおみやげとして発達しました。大山には独楽を作る職人である木地師が材料とするミズキが豊富でありました。木地師の仕事場としては最適であり、特に江戸時代中期から庶民の間で大山信仰が盛んになると、大山独楽はこれと結びついて発達しました。おみやげの語源は「御宮笥(おみやげ)」であり、神社仏閣にお参りした際、神仏の恩恵を分かちあうための記念品を意味しました。昔のおみやげは神社や寺に由来する品、特におもちゃ類であり、大山独楽は大山詣での際の男の子へのおみやげとして普及していきました。また、独楽の回ると金運がついて回ると言われ、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛などの縁起物としても買い求められています。(伊勢原青年会議所 http://www.isehara-jc.com/2011/modules/isehara/index.php?content_id=3)

     調べてみるものだ。みやげは「宮笥」に由来するのか。笥が食器、容器のことであるのは、有馬皇子の「家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」を思い出せば分かる。これが「宮笥」となると神社の御札を貼る板のことを言う。つまり神霊を納めた容器の意味だろう。
     旅と言えばお伊勢参りに代表される神社仏閣への参拝が中心で、それは日常からかけ離れた特別なことであった。特に長途の旅になればなる程多くの危険が伴ったから、見送る人は旅の安全と無事帰還を願って餞別を贈った。道中恙無く無事に帰ることができれば、それは餞別をくれた人たちが合力して神仏に願を掛けてくれたお蔭である。だから宮参りを無事に済ませた者は、餞別をくれた人にこの宮笥を配るのである。
     「世界大百科事典」によれば、みやげの語源は「都笥」「宮笥」「屯倉」「都帰」などいくつかあって定説はないと言うが、「宮笥」の説は信用できそうだ。やがて土地の名産などを贈ることに変わって、土産の文字が宛てられるようになる。
     踊り場には独楽の絵がいくつか描かれている。大きな独楽は十、小さな独楽は一を表し、これで何番目の踊り場になったかが分る仕掛けだ。最終的には二十四ほどになるようだ。豆腐屋は勿論、豆腐料理、しし鍋料理、鹿鍋料理の店、きゃらぶき、独楽、木刀を並べる店が並び、その間には歴史を感じさせる宿坊も建っている。帰りにゆっくり覗いてみることにしよう。

     およそ十五分でケーブルカーの駅に着いた。「大山寺には寄らないのかい。」「大丈夫。帰りに寄ります。」それで安心した。大山寺は、石尊大権現の神宮寺として良弁によって開かれたとされる。神社と神宮寺はセットになっているのだから、寄らない訳にはいかない。
     出発時刻は毎時零分、二十分、四十分で、次は四十分発になる。構内は次第に混み合ってきた。ドアが二つしかないケーブルカーに乗り込むと満員状態で、入口のステップしか立つ場所がない。吊り環をしっかり掴んでも体が斜めに傾くのは、傾斜角度二十二度の急斜面のせいだ。窓から下を覗くと、坂を歩いて登る人の姿も見える。
     途中の大山寺駅で降りる人のために運転士が運転席を跨いで出てきた。ドアステップには私と若紫が立っているので、ステップに置いていたリュックを持って、満員の車内に一段上がらなければならない。ドアは運転士しか開けられないのだ。
     後ろのドアから二人降りただけで、混んでいる状態はちっとも変わらない。終点の阿夫利神社下社駅には通算六分で到着した。ケーブルを使ったことで稼いだ標高差は二百七十八メートルである。
     そこから二三分歩くと左は石垣が聳え、右は谷になる道に出て、階段下の石灯篭が見えてきた。阿夫利神社下社に着いたのだ。四軒長屋のような茶屋では団子や甘酒を売っている。ここでトイレに行く人を待つ。
     阿夫利は言うまでもなく「雨降」である。アフリヤマと読むのかと思っていたが、アフリザン、あるいはアブリザンと読むらしい。祭神は大山祇大神(おおやまつみ)、大雷神(おおいかづち)、高龗神(たかおかみ)となっている。しかし中世以来の神仏習合で信仰されていたのは石尊大権現である。つまり石神信仰である。山頂からは縄文時代の土器片が多数発見されている。神社というものが発明されるずっと以前から、山頂の石には霊が宿る、つまり神の憑代として信仰されていたのだ。因みに龗(おかみ)は難しい漢字だが、龍の古語で龍神である。

    明治維新になり、明治元年三月、太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が敢行され、全国的に廃仏毀釈の動きが激しくなる中、大山においても同様の動きが広がる。
    大山での仏教色の排除が進む中、その結果、石尊大権現の名は廃され大山阿夫利神社と改称され、山頂の石尊社は本社(阿夫利神社上社)、大天狗祠は摂社奥宮、小天狗祠は前宮となり、中腹の旧大山寺不動堂(本堂)跡には新たに拝殿が建てられ阿夫利神社下社となり、大山全体は神社として整備されることになる。http://rmrc.rs.sanno.ac.jp/history/20111108_160545.html

     ここはかつての大山寺本堂伽藍の跡である。この記事には明治元年三月と書かれているが、まだ改元していないので正確には慶応四年三月だ。と書いた後に念のため調べてみると、九月八日に出された改元の詔勅では慶応四年一月一日に遡って明治元年と称することに定められていた。従って明治元年三月で法的には何の問題もなかった。
     大天狗小天狗が祀られていたのは山岳修験の霊場だからで、大天狗は伯耆大山(だいせん)に住んでいた大山伯耆坊である。元々この地には相模坊が住んでいたのが、崇徳院の霊を慰めるため讃岐の白峰に行ってしまったので、その代わりに転勤してきたと言われている。
     手摺のついたかなり長い石段を上り切り、鳥居を潜ると広い境内に出た。日本三大獅子山「大山獅子」と称して、大きな岩石を積み上げた三メートル程の山が出来ているのだが、肝心の獅子の姿がない。新たに作った山のようで、獅子が間に合わないのだろうか。調べていると制作者のブログに行きついた。

    この頂上部分に親獅子が乗り左右の中間に子獅子を配置します。下のコンクリート部分には十二支を置き最下部は石を貼るそうです。私が受け持つ部分は獅子の制作と設置監修。今月下旬(十月下旬)から設置作業に入る予定です。http://ameblo.jp/isc-hachi/entry-11371138756.html?frm_src=thumb_module

     まだ完成もしていないのに、「日本三大」を称するのは如何なものでしょうか。それに他の二つはどこにあるのかさっぱり分からない。確か神田明神の獅子山が「関東三大」と称していた筈で、これと関係があるのだろうか。ただ、こちらの「関東三大」も他の二つが分らない。
     「国学の祖」権田直助の座像もあった。長い顎鬚を垂らした老人で、画伯が良く知っているような声をあげたのは同郷人だからだ。毛呂本郷に生まれて平田篤胤の門に入った人である。薩摩屋敷に出入りして、赤報隊の相楽総三とも交流があった。草莽の士である。明治六年に阿夫利神社の初代祠官になっている。
     しかし「国学の祖」は大袈裟過ぎるし、間違いと言うべきだろう。国学の祖と言えば、契沖か荷田春満を指すだろう。系譜を辿れば、契沖に学んだのが荷田春満、春満に学んだのが賀茂真淵、真淵に学んだのが本居宣長となる。平田篤胤は宣長の弟子を自称したが、生前の宣長に会ったことはなく、夢の中で師弟関係を結んだと言い張った。尤も宣長だって真淵に実際に会ったのはただ一度(松坂の夜)のことだけれど。
     平田流の神道家として廃仏毀釈を推し進めた人物だから、石尊権現にとっては仇にも相当する。これは後で大山寺のところで触れることになるだろう。

    維新後、監察司知事、大学中博士、医道御用掛となったが国漢洋の対立から職を追われた。明治六(一八七三)年七月から相模国大山阿夫利神社祠官、大講義に任ぜられ、同十二年には権大教正となり、この年から十四年まで伊豆三島神社の宮司を兼任した。以後は同十五年皇典講究所教授、十六年大教正、十七年神道事務局顧問、神道本局編輯掛などを歴任し明治前期の神道・国学界に活躍した。(『朝日日本歴史人物事典』)

     社殿はかなり大きい。ここで無事を祈願してから登るのだが、私は別に拝まなくてもよい。その左手から登山道入口に向かう。石碑がいくつも並ぶ一画に建つ線刻の大天狗の板碑には、「民族融合」とあって、なんだか五族協和や八紘一宇の臭いがすると勘違いしてしまった。

     碑は高さ三米巾一米の小松石を使用、台石は田中佐一郎、神保朋世の造型、石工は露木久吉、表面は民族融合の文字と正宗得三郎画伯の大天狗の姿、裏面には女流歌人田中御幸の歌一首と永遠に戦争の悲惨さを封じ込め、乾燥しきった都会悪の塵を洗う、原爆十二年の日にと刻まれてあります。
     天狗講初代総講元小生夢坊は敗戦後、米軍占領下で軽薄な世相が氾濫するのを憂えて大山の中腹に大天狗の碑建立を発願しました。大山は関東総鎮護の地、大天狗の邪悪を砕く不動の妙力で戦争反対、民族融合、平和を祈願、日本民族の心と未来を守ることを大山阿夫利神社目黒潔宮司、平塚市長戸川貞雄、東京作家クラブ、浅草の会等の有志と共に呼びかけました。賛成した政・官・財・文化人・芸能人は七百人を超え、一九五七(昭和三十二)年五月二七日、盛大に建立式典が行われました。

     五族協和や八紘一宇とは全く関係がなかった。私は小生夢坊の名前を知らなかった。コイケ・ムボウ(あるいはユメボウ)と読む。プリレタリア芸術系の漫画家、随筆家だったようだが、重要な人物である。

     樋口一葉記念館や下町博物館(現下町資料館)の建設に走り回り、また民俗芸能を守る会の副会長として若手芸能家の育成に尽力。弁天山に唖蝉坊碑を建設したり、五九郎碑「永生の壁」を浅草寺境内奥山に建設したりした。(「浅草イ~トコ」人名帖)http://www.asakusa-e.com/jinmei/jinmei.htm

     登山道の入り口には白木の登拝門が設けられ、すぐ後ろに鳥居が建っている。前方には長い石段が続くのが見える。ここが標高六百九十六メートルだから山頂まで五百五十メートル程を登れば良い。標高差は大したことがないが、石段が続くと厄介だ。

    大山は、古くより霊験あらたかな神体山として崇敬を集めているお山でありましたため、明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(七月二七日~八月一七日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていました。
    登拝門の鍵は遠く元禄時代より、二百八十年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年七月二十七日の夏開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっており、現在もその精神は連綿として継承されています。(案内板)

     腰を痛めた時に一度だけ使ったストックが、やっと本来の役目を果たすことになった。若紫はまだ一度も使ったことがないというストックを二本持ってきていた。ダンディは立山登山記念の木の杖を突いている。両脇と中央に手摺がある真っ直ぐの石段脇の杉の木の横には、「玉垣記念 東京消防第三区」の石柱があった。この石柱自体を玉垣と呼ぶ。
     「阿夫利大神」の古くて大きな墓石型の石碑が建つ辺りから、いよいよ山の風景に入ってきた。石碑の台石に「高崎」の文字が見えるので、高崎の大山講が寄進したものだろう。山道と言ってもほとんどが不規則な石段の続く道だ。後ろから見ていると、画伯の足元がやや不安定で、高い石段を登るのにかなり苦労をしている。「ストックは持ってこなかったの。」「忘れちゃったんだよ。」「これを使ってください」と若紫がストック一本を画伯に渡し、長さの調節までしてくれたのが良かった。ストックの有る無しで足腰への負担がまるで違う。
     しかし私も他人の心配をしている場合ではなかった。左足を石段の端に乗せた時バランスがちょっと崩れて後ろに反ってしまった。右足の蹴りが弱かったのである。リュックには四合瓶が入っているから重心が後ろにかかりやすい。オットットット。二三秒持ち堪えたものの、ついに後ろに倒れて尻餅をついてしまったのは我ながら不覚であった。恥ずかしい。
     それからは慎重になった。なまじ石段があるから登り難いが、できるだけ段差の小さな部分を探しながら左右に足場を変えて登る。画伯はわざわざ一番高いところを選らんだようにヨッコラショと足を持ち上げているので、それではかなり疲れるに違いない。それを見ていた若紫から画伯に助言が入った。「桃太郎の歩いた通りに足を運んで下さい。」
     彼女は山の経験が豊富である。事前のメールでは、暫く登っていないから心配だと言っていたが、そんなことはなく、足取りは着実だ。三丁目、四丁目。「山頂まで何丁あるんだっけ。」「二十八丁です。」これが目安になる。「あと二十。」山ガールが追いついてくれば先を譲る。
     八丁目付近に夫婦杉と名づける大きな杉が生えていて、大勢が写真を撮っている。樹齢五百年と推定される木は、ちょっと見て二本かと思ったが、根元は一つ、途中で別れて伸びている。樹木の切れ間に真っ青な空と下界が見渡せて気持がよい。それにしても良い天気だ。少し汗が出てきた。少し離れてタバコを吸って戻ると、「タバコの臭いがする」と若紫に叱られる。「こんなに空気のいいところなのに。」タバコはできるだけ彼女から離れて吸わなければならない。
     十四丁目には、「ボタン岩」の案内が立っている。「どれがそうなの。」「これかな、分らないね。」ここでドクトルの講釈が始まった。講釈師なら他人の講釈は絶対に聞かないが、私たちは神妙に生徒の役を務める。足元の岩がそれであった。
     「これは岩石学で玉葱状風化と呼ぶ。縦横に筋がはいっているだろ、それに囲まれてできる。」牡丹の花に似ていると言われてもまるで連想できないが、玉葱と言われれば確かにそのように見える。「溶岩が海底で固まって隆起した。」説明してくれるのは有難いのだが、ストックを振りながら岩を指すから、後から登ってくる人の迷惑になってしまう。間違って書くといけないので、ネットで調べてみた。

     東丹沢の厚木市七沢の鐘ヶ岳登山道などでは、幾重にもタマネギの皮をむいたような岩石がよく見られます。大山三峰や大山への登山道等にもよく露出し、ボタン岩等とも称されます。こうした石を一般にタマネギ石、この皮をむいたような構造をタマネギ状構造といいます。こうしたタマネギ石は岩石の風化過程で形成されたものです。
     タマネギ石は一般に三方向の節理面(割れ目)で囲まれています。この節理面に囲まれたタマネギ石と節理との交点には、丸みのある殻皮が認められます。タマネギの殻皮は、この節理面の交点部分で最も厚くなっています。殻皮一枚はタマネギの皮のような曲面形態をとり、それが、幾重にも重なって殻皮を構成します。タマネギ石の中心には風化の進んでいない核が必ず認められます。殻皮の枚数(幅)、核の大きさ、タマネギに占める核の割合には様々なものがあり、風化の進行のいろいろな過程を見ることができます。風化の進行に伴って、親タマネギの中に子タマネギが、子タマネギには孫タマネギが形成されます。二つの子タマネギの間や孫タマネギの間には、副節理が認められます。
       タマネギ石のできやすい岩相は、風化の進んだ、粒子の揃った塊状の砂岩質な岩石です。丹沢では、風化して褐色を帯びた粗粒凝灰岩〜火山礫混じり粗粒凝灰岩〜火山礫凝灰岩、凝灰質粗粒砂岩〜細粒砂岩によく観察されます。これらはいずれも火山性タービダイト(海底の乱泥流堆積物)です。細粒凝灰岩や火山角礫岩・凝灰角礫岩など、極端に細粒ないし粗粒な凝灰岩には、タマネギ石はほとんど見られません。細粒凝灰岩や凝灰質泥岩では、弱風化の場合に小さなタマネギ石が見られることがありますが、風化の進行が早いので縮緬状となることが一般的です。珪酸分に富むデイサイト質の細粒・粗粒凝灰岩や軽石質凝灰岩では全くタマネギ石は見ることができません。
     (平塚市博物館http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/geomado/onion1.html)

     「そもそもこの石は何で出来てるんですか。」「内部を見なくちゃ分らないな。」そう言いながらドクトルが手頃な大きさの石を手にとって、岩にぶつけると簡単に割れた。「だいぶ腐っているな。」岩石が腐るものなのか。「風化ってことですか。」地学の成績不良だった私の眼には、一見したところ砂岩のように見える。「この白いのが石英だよ。」ロダンがいれば更に考え込んだだろうね。山登りの間にこういう説明をしてくれると丁度よい休憩になる。
     「それじゃ行きましょう。」ヨッシーとダンディはどんどん先に行ってしまって、すぐに姿が見えなくなった。最初はやや不安に思えた画伯も順調に前を歩いているようだ。「調子がでてきたみたいですね。」私はシンガリを受け持つことになっていたが、若紫が「自分のペースで歩きたい」と言うので、後ろを譲る。私たちは普通よりゆっくり目のペースだから、後ろから人が追いついてくると彼女から声がかかる。「三人様に譲ってください。」「今度は五人様です。」どこかの店の案内係のようだ。「交通誘導員みたい。」
     「山頂でビール売ってるかな。」「売ってても高いんじゃないの。」追いついてきた山ガール二人の会話が聞こえた。「ビール飲みたいのかい。」「聞かれてましたか、恥ずかしい。」「この中には日本酒は入ってるけどね。」「羨ましい」と笑いながら彼女たち過ぎて行った。
     十五丁目辺りには、天狗の鼻突岩というものがあった。横たわった大きな岩には注連縄がかけられ、側面に直径十センチ程の穴が開いている。上面ならば雨で穴が開いたとも考えられるが、側面にあるのが不思議だ。昔の人はその不思議を天狗の仕業と判断したのである。この辺りは大きな岩がごろごろしている。
     スナフキンから電話が入り、取り敢えず現在地が十六丁目付近であることを伝えたが、すぐに聞こえなくなって切れてしまった。標準的なコース案内では、ここから頂上まで約四十分である。私たちのペースでは一時間近くかかるだろうか。
     二十丁目の富士見台では、本当に白い雲の上に浮かぶ富士山が見えた。「どこ。」「もっと上。雲の上に。」「あった。」青空が良く晴れているからくっきり見える。「あと八丁。」もう先が見えてきたが、そろそろ画伯の息遣いが荒くなってきた。「もうちょっとですよ。」コバケンは流石に専門家だ。ストックも使わず足取りが全く乱れない。
     片手に犬を抱き、鎖で繋いだ犬を引いた男女が下りてきたのを見て、「ホントはいけないんだよ。生態系に影響するからね」とコバケンが小さな声で言う。私もそうだと思ったが、こうまでして犬を山に連れて来なければならないものなのか。「山岳会にはうるさいやつがいるからね。どうぞ、抱いて下りてくださいって丁寧に言うよ。」「丁寧に」と言うのが怪しい。恫喝に近いかも知れないね。
     青銅の鳥居を潜るとき、「下の鳥居ですね」と桃太郎が言う。正確には二の鳥居だ。右の柱には「奉納 東京」、左には「銅器職講」とあって、神田岩本町・鍛冶万、神田弁慶橋・寿司初ほか十数軒の屋号が彫られている。寿司初の名はどう考えても同じ職とは思えないが、これも鋳物師の屋号だろうか。明治三十四年(一九〇一)に奉納された鳥居である。
     その先に何とも知れない不思議な石碑が立っている。四角な石を二段に積み、その上に正体不明の石が載っているのだ。見ようによっては菓子のひよこに似ている。
     一の鳥居は石造りで、火消九組が奉納したものだ。柱に彫られた丸で囲んだ「九」の字が、「れ」のように見える。町火消しの九組というのは私の知識にないので、調べなければいけない。

     第六区が創設された時期は、享保三年(一七一八)いわゆる徳川吉宗の時代、大岡越前守が江戸府内に江戸町火消「いろは組」を創設した時に、大川(現在の隅田川)を渡った本所・深川地区に、大組の「南組・中組・北組」が創設された。「南組・中組・北組」はそれぞれ「深川南組」「深川本所中組」「本所北組」とも記録されている。「南組」は「一組」「二組」「三組」「四組」「六組」、「中組」は「五組」「七組」「八組」「九組」「十組」「十六組」、「北組」は「十一組」「十二組」「十三組」「十四組」「十五組」の「小組合」で構成されていました。また、受持区域は現在の江東区と墨田区です。
     明治五年(一八七二)に「大組」の「第六大区」となり、「一番組」は「二組」「三組」、「二番組」は「一組」「四組」「六組」、「三番組」は「五組」「七組」「八組」、「四番組」は「九組」「十組」「十五組」「十六組」、「五番組」は「十一組」「十二組」、「六番組」は「十三組」「十四組」がそれぞれを元組として、近隣の小組合同士が統合される形に変化した。
     その後、東京が発展し、人口が増加してゆくにつれて、周辺地域から七番組から十番組までが、昭和二三年(一九四八)に第六区に加入した。しかし昭和四〇年代半ばに十番組が抜けて、九番組までの現在の体制になっている。(江戸消防記念会「第六区のあゆみ」
     http://www.edosyoubou.jp/main/kakuku/6ku/6ku.html

     その鳥居からすぐに赤い屋根が見えた。「千木が見えた」と後ろを振り返って報告する。屋根は立派だが、なんだか建物は倉庫みたいだ。その先の石垣沿いに歩き階段を上ると阿夫利神社本社になる。先にも触れたように本来は石尊権現社である。一時ちょうどだ。登拝門に入ったのが十一時頃なので二時間掛ったことになる。ただ、七十八歳の画伯のペースに合わせてきたお蔭で疲労感は全くない。「私も全然疲れてないわ。」時間はともあれ、このペースで登ればケーブルカーを使わなくても大丈夫だったのではないか。

     ここで昼食だ。山頂から一段降りたところにテーブルとベンチがいくつか設置されていて、五六人が座ると一杯になるから、私とコバケンと若紫は石垣に腰を下ろした。「ここの方が日差しに向かわないからいいわ。」頂上ならもう少し涼しいかと思っていたのに、今日は日差しが強くて暑い。「太陽に近づいたからだよ」とドクトルが科学者らしくないことを言う。さっき途中で「頂上でコーヒーを沸かそうと思ったけど寒くてやめた」と言いながら降りてきた男がいたが、午前中はもっと寒かったのだろうか。
     登る前にお握りをひとつ食べてしまったので、残りは二つ。魚肉ソーセージ一本に、カゴメの「野菜生活」を飲んでしまうと、あっという間に食事は終わる。「もう食べちゃったの。」ヨッシーがドライフルーツを配ってくれた。「蜻蛉は甘いものはダメでしょう。」果物は大丈夫だ。「変だな。」ダンディは納得がいかない顔をする。
     そこから更に一段降りた平地からの眺めが素晴らしい。遠くの街は横浜方面になるようだ。「ランドマークは見えるかな。」「それらしいのが見えるね。」手前は海老名か。「それじゃ桃太郎の家はどこなの」と画伯が尋ねる。「あれですね。」見える訳がない。「だけど家から大山が見えるんだから、ここから家が見えない筈がない。」
     小さな本社と奥の院を見て、出発前に山頂の標柱の前で記念写真を撮る。「証拠写真だね。」「ロダンじゃないから証拠は要りません。」一二五一・七メートル。二人組の女性が撮影してくれたのだが、桃太郎のカメラはなんだか難しそうで最初の女性が扱い切れず、若紫のカメラはパノラマモードを修正したりして時間がかかった。その間に順番待ちの人がたくさん並んでしまった。気がつくと、「トイレに行ってました」とヨッシーが遅れてやって来た。気付かなかったのは手落ちだが、残念だった。

     下りは見晴台を経由するコースを行くのだが、その前に社殿裏側に回ってみる。ここでは電波塔らしきものの工事をしている。「機材はヘリで運んだんだ。」ここからは丹沢系の山波が良く見える。「あれが二の塔、三の塔。」桃太郎やコバケンは十一月の三日四日にあの山に登るらしい。「希望者は歓迎しますよ」と言われても誰も手を上げない。私も十一月には草津温泉に行かなければいけないので、お小遣が足りなくなってしまう。塔ノ岳、日高、不動ノ峰、丹沢山などが見えるらしい。
     下り始めたのが一時五十分だ。コースは雷の峰尾根と名付けられている。見晴台までは標準のマップで一時間だ。ところどころ急な石段はあるが、比較的なだらかで歩きやすい地面が続く。それでも早い連中が追い付いてくると道を譲る。背負子に小さな子供を入れた男が降りてきた。「可愛い。」「いくつ。」「二つ。」子供はニコニコ笑っているが、しかし大丈夫なのだろうか。父が転べば子も怪我をするゾ。
     二十分程歩くと、少し開けた場所でダンディとヨッシーがベンチに座りこんで待っていた。リュックを下して少し休憩する。草むらに咲いている黄色の花を若紫が写真に撮っているのを、若い男女が眺めている。「この花は何。」知っている筈なのに名前が浮かんでこないので画伯を呼んだ。「これはね、なんとかフキ、ツワブキじゃないか。」そうだった。確かにツワブキである。
     それを聞いていた二人が、「ツワブキって言うんですか。初めて見ました」と礼を言う。「お寺なんかで植えているところが多いよ」と私は知ったかぶりをする。「じゃ、そろそろ行きましょうか。」
     後ろから少年が一人やって来た。「どうぞ、先に行っていいわよ。」若紫が声をかけると、両親が追いつくのを待つと言いながら一緒になって歩き出した。「お母さんはフーフー言ってる。」「荷物を持ってあげなくちゃ。」「僕は自分のリュックを背負ってるから。」「何年生なの。」「五年。」五年生にしてはちょっと小さいようだ。しかしこの少年はなかなかの者であった。
     「この辺は杉が多くなってきた。上の方にはなかったのに。」なかなか観察しているではないか。「植生を知ってるんだね」とコバケンも感心したような声を出す。杉の大木や植林したての若木を金網でガードしてあるのを見れば、「鹿に食われないようにやってるんだ」と言う。なるほど、そうであったかと、こういうことに全く疎い私は教えられてしまう。「上の神社のところで鹿を見たよ。」観察力も良い。こういう子どもが日本の将来を担う。

     少年よ正しく進め秋の山  蜻蛉

     「いまどこだい。」またスナフキンから電話が入った。「もう少しで見晴台。」「みんな大丈夫かい。」「全員無事健康。」
     見晴台に着いたのは二時四十分だ。ベンチとテーブルがずらりと並び、奥には東屋もある。ベンチに座り込んでいると、漸く少年の両親が追いついてきた。「フーフーして」いた母親は荷物を持たず、リュックは父親と少年だけが背負っている。「楽しかったですよ」と声をかけると、頭を下げながら三人は先に行った。
     充分休憩してから出発する。少し寒くなって来た。「折角持って来たんだから着込んだら。」その言葉でリュックからジャンバーを取りだした。左は崖になっている。いつの間にかダンディ、ヨッシー、ドクトルはずいぶん先に行ってしまったようだ。子供が走ってくる後ろから、二本のストックを持った父親も走ってくる。山道を走るのは危険だ。この辺の地面は少し滑るようだ。
     途中で前が詰まっている。二メートルもない小さな鎖場で立ち往生している女性がいたのである。「先に行ってください」の声で、足踏みしていた五六人が下りて行った。「どうぞ、私たちはゆっくりでいいですから。」亭主はすぐ下で待っていて、「大丈夫だよ、後ろ向きになって鎖を持って」と声をかける。その言葉で女性は後ろ向きになって恐る恐る下に降りた。この程度でも恐怖心があると降りられないのである。幸い私たちのグループではこんなことはなく、全員がちゃんと前を向いて降りた。「初めて他人を追い抜いたわね。」
     やがて滑落注意の標識が出てきた。谷側には三十センチほどの高さに鎖が張ってある。もっと高い方が良いのではあるまいか。この高さでは効果が薄い。「こんなところで落ちるかね。」さっきの親子のように走ってくると、勢いづいて滑ってしまうことがあるかも知れない。
     さっきの少年に追いつくと、母親が「余計なことは言わないの」と子供を叱る声が聞こえた。確かにお喋りの少年ではあったが、叱るほどではなかろう。「お母さんがフーフーしている」と言ったのが癇に障ったのだろうか。
     三時ちょっと前にスナフキンから連絡があった。下社組は既にこま参道でビールを飲み見始めたと言う。「もうすぐ下社。こっちは大山寺に寄って行くから、四時半か五時頃になると思う。」「最後まで気を抜かないように。」私も早く飲みたい。しかし後ろから追いついてくる人には道を譲り、私たちはあくまでもゆっくり歩く。
     二重の滝に着いた。「ニジュウなんて関東の人間は風流じゃない。せめてフタエと言ってほしい。」二本の滝が途中で合流して一本になって流れ落ちているのである。谷の上には小さな太鼓橋が架かり、その傍らに二重社の小さな祠が建っている。

    二重社は阿夫利神社の摂社で、高龗神が奉祀されております。御祭神は殖産、灌漑、雨乞いの守護神で、霊験のあらたかさは、よく知られている所であります。特に萬物の生命の根源である「水」をつかさどり、俗に龍神にもたとえられて、廣く根強い信仰と崇敬が集められています。(案内板)

     赤い幟には「八大竜王」の文字が染め抜いてある。それで思い出した。「時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめ給へ」実朝の『金槐集』末尾の歌である。民が嘆く程の雨を降らせた山である。私たちが雨に逢わなかったのは運が良かった。「私は晴れ女ですから」と自慢する姫の声が聞こえてきそうだ。この辺りには呪いの杉があり、釘が打ち込まれていたなんていう説明もある。今は勿論ない。
     漸く下社に着いた。ダンディやヨッシーはケーブルカーの駅に向かって階段を上って行くが、大山寺に向かうには左の道を行った方が良いのではないか。しかし画伯はもうきつそうだ。「ケーブルで行くよ。」「宿坊の場所は分ってますか。」「知らない。」「東學坊。バスで二つ目の停留所、あたご滝で降りるとすぐですよ。」
     「駅は向うですから」と画伯と別れ石段を下りる。さっきの左の道と合流した辺りで、コバケンもやっぱりケーブルにすると戻って行った。明日早朝に群馬に行かなければいけないらしいのだ。
     「これより女さか」。女坂の名前に騙された。いつ果てるとも知れない石段が続く。しかも既に薄暗くなってきて、老眼にはちょっとつらい。足を踏み外しては大変だから慎重に行く。しかし不規則な段差で、しかもかなり高い段を下りると踵に響く。次第に腿の筋肉が張ってきて腰の右の辺りもやや重くなってきた。さっきまで快調だった若紫も少し音を上げ始めた。
     何故か芭蕉句碑がある。「山寒し心の底や水の月」。七不思議の案内はあるが、とても一所懸命観察している余裕はない。取り敢えず、名前だけでも挙げておく。弘法水、子育て地蔵、爪切地蔵、逆さ菩提樹、無明橋。潮音洞の説明には潮騒の音が聞こえると書かれているので、桃太郎が穴の傍まで行って耳をすますが、特に音が聞こえるようではなかったようだ。「何も聞こえませんけどね。」眼形石。どれが眼の形なのか良く分からない。「これじゃないかしら。」そうかなあ。
     それでもどうにか大山寺に着いた。先にも触れたように良弁上人が開基したとされている。良弁は東大寺初代別当である。「どうしてわざわざこんな所にきたんでしょうか。」「相模の出身だという説もありますぜ。」しかしダンディは信用しない。「鷲に攫われて奈良に行くんですよ。相模じゃ遠すぎる。」ダンディは良弁杉のことを言うのである。それだって伝説だから真偽は不明だ。

    持統三年(六八九)、相模国の柒部氏の出身と言われ義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身で野良作業の母が目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み、後に全国を探し歩いた母と三十年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。(ウィキペディア)

     なるほど、出身は相模説と近江説と二つある。ダンディは畿内原理主義者だから、良弁が関東出身では面白くないだろうね。良弁が鷲にさらわれる話は『元亨釈書』にあり、ここで近江出身とされた。しかし似たような話はいくつもあって、更に古い『日本霊異記』にも但馬国の娘が鷲に攫われた話が出てくる。貴種流離譚の一種になるだろう。日本だけでなく、世界中にもこの種の伝説や童話が流布している。
     大山寺の由緒はこんな風に説明されている。

    大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したのに始まります。
    行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。
    その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。
    また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。
    元慶八年には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。
    これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。
    しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。(大山寺HPよりhttp://www.oyamadera.jp/01.html)

     阿夫利山大山寺は真言宗大覚寺派である。弘法大師が開基したとされる寺は全国にあるが、自ら住職を務めたとされる寺は滅多にないだろう。
     本堂前にある一対の天水受けには、阿吽の龍が彫られている。左に回ってみると、青銅製の宝篋印塔が滅多に見られないような立派なものだったので、本堂を観察している若紫を呼んでみた。「立派よね。」寛政七年(一七九五)に旧大山寺(現阿夫利神社下社境内)に建てられたのだが、しかしこれは復元したものだった。

    権田直助に率いられた廃仏を唱える暴徒たちによってバラバラに壊されて内部のお経とともに谷底に投げ捨てられる。(雨降山大山寺HPhttp://www.oyamadera.jp/09_02.html)

     年代は明記されていないが明治初年のことである。このとき、本堂伽藍すべてが破壊され、貴重な宝物も失われた。破片は信者によって丹念に集められ、大正三年に現在地で復元された。その後関東大震災によって一部破損したものの、大正十五年には修復された。
     地盤(コンクリート)は二丈五尺(九・四五メートル)四方。台石の高さ七尺四寸(二・二四メートル)、重さ八千五百貫(三一・八七トン)。塔本体の高さ二丈八尺(八・四八四メートル)、重さ九千貫(三三・七五トン)と言う。
     阿夫利神社では銅像を建てて権田直助を尊崇しているが、この大山寺では今でも仇のように思っているのである。廃仏毀釈は明治政府の文化政策における最大の愚行であったが、江戸時代には神社は寺院の管理下におかれていたから、二百年の間に神社側の不満は募っていた。それに仏教寺院の腐敗堕落も廃仏毀釈に追い打ちをかけただろう。
     明治政府発足当初は、太政官と並ぶ(建前上はその上位の)官庁として神祇官が設けられ、そこに集結して隆盛を誇った平田派も、あまりにも過激な復古主義のために、やがて中枢から締め出されていく。明治四年には神祇官は降格して神祇省となり、更に翌年には廃止されて神儒仏合同布教体制をとる教部省に改編された。権田直助も明治四年に職を解かれている。この時点で平田派は明治政府からはっきり捨てられたのであり、『夜明け前』の青山半蔵の悲劇の原因もそこにある。
     そもそも、外来文化に全く影響されない純粋な日本なんていうことを考えるから袋小路に陥るのである。玉葱の皮を剥き続けて、何か本質が現れるかと思うのと一緒だ。但し国家神道がここから生まれたことは間違いない。
     日本人には宗教心がないとよく言われるが、それはキリスト教を代表とする一神教からの言い掛かりである。神仏習合の世界だって充分に宗教感情なのだ。そして現代日本人の殆どが、今でも同じ宗教感情を抱いているのではないか。本覚思想に言う山川草木悉有仏性は、エコロジストの胸の中にも流れているだろう。
     狭い境内の崖に面して鳥居が設けられ、「かわらけ投げ道場」と書かれた看板が立っている。前方の谷に設えた直径二・五メートルの赤い輪を通り抜けると良いことがある。「落語にありますね。」「愛宕山です。」かわらけの代わりに小判を投げるお大尽と、それを命がけで拾う幇間一八の話だ。「輪に通すのは難しそうね。」「練習はできるのかな。」しかし三百円を出して挑戦する人はいない。
     このかわらけ投げは京都の神護寺に発祥したとされ、大山寺ではごく最近始められた。ケーブルを利用し山頂まで登る人は、余程関心がないと途中駅では降りないだろう。実際、私たちの他には参詣者はひとりしかいない。若者に来てもらうために、こんなことを始めたのではないだろうか。ロダンは試してみたろうか。

     かわらけを投げる暇なし秋の暮  蜻蛉

     本堂の前で記念写真を撮る。今度はちゃんとヨッシーも収まった。ダンディは下まで歩こうなんて意地を張るが、もう無理だろう。腿の疲れもあるが、それよりも大分暗くなってきて足元が危ない。ダンディもドクトルも、さっきから足元が見え難くなったと言っていたではないか。私は最近変えたばかりの眼鏡が絶好調で心配ないが、老眼者の安全は守らなければならない。
     山頂に着いた時には、あのペースを維持すればケーブルを使わなくても登れると思ったが、それでは時間がかかり過ぎるのである。せめて一時間は早くここに到達していなければならない。それでも部分的にでもケーブルを利用せずに歩いたのは良かった。ちょうど四時二十分に下社を出るケーブルカーに間に合いそうだ。画伯からは二十分遅れになる。
     駅に着けば「ロープを張ってある方が上り」とある。はて、ロープなんてどこにもないぞ。私はホームの入り口に縄でも張ってあるのかと思って、一所懸命探してしまった。「これのことですよ」とヨッシーが指摘してくれたお蔭で「ロープ」の意味が分った。上下線の線路の一方にだけケーブルが敷設されているのだ。「なるほど、そういうことですか。」それならケーブルと言ってくれればよいのだ。
     上り下りは山の上下に決まっているが、ドクトルは別のことを考えて悩んでしまう。「電車は全て東京に向かうのが上りだろう。だから下に行くのが上りだよ。」科学者の頭脳の構造はややこしい。「さっきは向うが開いたから、こっちよね。」
     上り下りが同時に駅に到着した。登って来るのは赤、下りてくるのは緑の車両だ。「やっぱりこっちで良かったね。」乗車口の脇に犬ケージを二段重ねている人がいるので入り難い。すぐに終点に着く。こま参道の石段の下りが腿に堪える。「画伯もきつかったんじゃないかしら。」のんびり観ながら歩こうと思っていたことなんか、すっかり忘れてしまって、早く風呂に入りたいと思うばかりだ。それでも豆腐の味噌漬けを見つけたので買ってみた。「どういうものかな。」「チーズみたいなのよ」と若紫が言うのを店の主人が聞きつけた。「お嬢さんの言う通り。味噌をさっと流して、小さく切って食べる。」
     今日の二次会のつまみになるだろう。「ナイフなんか誰か持ってきてるかしら。」私はアーミ-ナイフをリュックにしまい忘れてしまったが、桃太郎だったら持っていると思う。
     バス停のロータリーに着いたところで、若紫が若い女性に声をかけられた。ランニングシャツに短パン姿で、頂上から駆け降りてきたらしい。バスはここで良いのかと訊いているのだが、ここまで走ってきたのだから、ついでのことに最後まで走っても良いのではないかしら。
     どうせすぐだから歩こうと思っていたのに、すぐにバスが来た。良弁滝を過ぎて次が愛宕の滝である。「あっ、過ぎてしまう。」「さっきの停留所で良かったんじゃないの。」バスは東學坊を百メートル程通り過ぎて停まった。

     東學坊に着いたのは四時四十五分だった。玄関に入ったところで、ちょうど風呂から上がってきた中将と顔を合わせた。宿坊と言うと酒は法度かと思ってしまうが、今は普通の旅館だから心配ない。かつては先達、あるいは御師と呼ばれる人が経営していた。石尊権現を目指す連中は前日ここに泊って、七ツ刻(午前四時頃)に起きて良弁滝で禊をして登ったのである。

    四百余年ものむかし、初代乗眞は鈴川のほとり、渓谷の美しい場所を撰んで御宿「東学坊」を開きました。歴史の重みを脈々と受け継がれた御坊料理の伝統と香り、そして雅のこころを味に託し、寄り来る人には喜びを、去り行く人には幸せを満ち足りた時を皆様に過ごして頂きたく、これが当坊の願いでございます。

     案内されたのは二階の奥の部屋で、一つ手前の小さな部屋では、スナフキンと碁聖が浴衣姿で寛いでいた。碁聖は病み上がりだから下社にもいかず、宿泊だけである。画竜点睛を欠いてしまったと本人は嘆いているが、二ヶ月以上も入院していたのだから仕方がない。
     「画伯は到着したかな。」「知らないぞ、俺は聞いてない。」確かに連絡はしなかったがもう来ていないといけない。「画伯はいませんか」と奥の部屋に声をかけると、いた。画伯は大部屋にひっそり座って私たちを待っていた。
     抹茶を飲んでから風呂に行く。「風呂はどこですか。」一階に下りて仲居に訊くと、「今の時間なら露天風呂ですね」と、玄関脇の廊下から左に曲がって、屋外の狭い通路を案内してくれる。小さな小屋の入り口に掛けられた木札には、十七時から十八時までは男性用と書いてある。引き戸を開けると脱衣所があり、その奥の簾を開けて天井を見ると確かに露天だ。しかし脱衣籠は三つ、洗い場にもカランが三つしかない。早い物勝ちである。
     少し温めのお湯は気持ちが良い。「よくマッサージして下さいね」とダンディが画伯に声をかける。「石鹸はあるかい。」「ボディシャプーが。」「シャンプーは。」「ありますよ、リンスもね。」私はシャンプーもリンスも使わないぞ。「その頭じゃね」と画伯が笑った。
     風呂から出て三人部屋で一服すると、「さっきは、五時から六時まで女性だって言われたぞ」とスナフキンがむくれる。彼らは内風呂に入ったそうだ。
     食事は六時と決まっていて、まだ五時半だ。桃太郎が一升瓶をもって三人部屋に移ってきた。「始めましょう。」桃太郎が持参したのは「越後鶴亀」だ。スナフキンも一押しの銘柄だが、それにしても一升瓶を背負って山に登る人はエライ。私は根性無しだから「菊水」の辛口の四合瓶にした。スナフキンは姫に託された「久保田」万寿の四合瓶を出してきた。中将は缶入り「ふなぐち菊水」を二つ提供してくれた。これは生原酒だから酔う酒です。画伯はペットボトルに詰め替えてきた焼酎を出す。これだけあれば充分だろう。酒を宴会場に持ち込めば大小に関わらず五千円取られるが、部屋の中で飲む分には一向に構わない。
     小町が部屋を覗きに来たので、女性陣も呼んでもらった。「茶碗も持って来てね。」しかしやってきた女性はあまり飲まない。若紫は「食事のときじゃないとね、なかなか飲めないわ」と言うし、姫は「私はさっきのビールで既に酔ってます」と言う。小町は平気で茶碗酒を空ける。
     茶碗で二三杯飲んだところで六時になった。いざ宴会である。一階の大広間は二つに仕切られ、手前の広い部屋に子供連れの家族がいるだけで、ほとんど貸切のような状態だ。一泊二食付き一万二千六百円の一番安いコースである。最初に頼んだビールの中瓶はすぐになくなる。次はどうしようか。スナフキンとメニューを検討した結果、ここで酒を頼んではいけないことが分った。ビール中瓶が八百六十円もするし、日本酒も高い。しかしこれでは物足りない。もう少しだけビールを追加して、合計で十六本になったのだろうか。
     桃太郎は浴衣の上から首にナプキンをぶら下げる。こういう恰好は余り見たことがない。ついでに女性陣の恰好を書いておけば、姫は浴衣、小町はパジャマ(?)の上に半纏、若紫は紫色系統の模様のはいった上下のジャージ(?)である。
     先付から始まって、御造り、八寸と次々に皿が出てくる。豆腐料理が謳い文句だから、当然ほとんどが豆腐に関係している。「奴ってどれだい。」「その湯豆腐のことだろう。」私は最初に出された湯豆腐が一番旨いと思った。昆布出汁が良く効いている。みんなの皿はどんどん空になっていくのに、私の前の皿はなかなか減らない。酒も飲まずにそんなに食えないゾ。早く日本酒が飲みたい。
     皿の下に敷かれた紙には、俳句が墨で書かれていた。私の心は既に日本酒へ向かっていて、それが俳句か和歌か関心を持てない程、集中力を欠いている。「それぞれ違うじゃない」という声で隣を見ると確かに違う。筆は綺麗な女文字だ。大女将の作品らしい。
     炊き込みご飯がでてきたが、私は一口口にしただけだ。そして最後に事件が起きた。「あっ、輪ゴムが。」姫のなめこ汁の中に輪ゴムが入っていたのである。ちょうど皿を運んでいた仲居がすぐに厨房に戻った。しかしなかなか帰ってこない。「すぐに交換してくれるかと思ったのに。」
     タバコを吸いがてら部屋の外に出て、厨房の様子を眺めても何の動きもない。それでは仕方がないではないか。こんなことはしたくないのだ。厨房にはさっきの仲居と、もうひとり、お仕着せではなく普通の着物を着ている女性がいた。「責任者にお目に掛りたい。」若女将だろうか。「済みません。いま代わりを作っています。」そうではないだろう。まず責任者が席にきて謝るのが先ではあるまいか。「分かりました。すぐお伺いします。」それに、もし輪ゴムが鍋に入っていたとすれば、姫一人の問題ではない。我々は輪ゴムの出汁入りのなめこ汁を飲んだことになる。
     しかし、謝りにきた女性はそれを認識しているのかどうか、「今、代わりを作っておりますから」と言うだけである。意味を理解していないではないか。
     姫には漸く代わりの椀が出され、デザートも出て食事も終わった。早く日本酒を飲もう。部屋に戻ると、仲居がさっき使った茶碗を片付け、グラスを持ってきてくれた。それぞれが持参したつまみを広げると、随分贅沢なものになった。珍しいものでは、小町が持参した蒟蒻の燻製、マリーが姫に託してくれた仙台の牛タンがある。チーズ、サキイカ、小魚、ソーセージ、竹輪等々。飲めない碁聖はちょっと寂しそうだが仕方がない。酒が旨いからどんどん進む。

     宿坊に酒沁み渡る夜長かな  蜻蛉

     折角買った豆腐の味噌漬けは、箸で切り分けようとしてもとても切れるものではない。「意外に固いんだね。」桃太郎はナイフを持っているんじゃないか。「持ってません。」「ちょっと待っててね。」姫が部屋に戻ってアーミーナイフを持ってきた。こういうことはスナフキンに任せたい。なかなか器用ではないか。しかし、本来は、店のオジサンが言ったように味噌を拭い取らなければいけないのに、そのまま切ったからしょっぱい。やはり無精をしてはいけない。
     「女坂に騙されちゃったよ。男坂はどんな風なのかな。」「俺も騙したって言われちゃったよ。」スナフキンは下社組を率いて女坂を登ったのである。「ロダンはちゃんと登ったよ。」しかし小町は途中でケーブルに乗ったようだ。
     「ロダンはどうして泊らないのかな。」「外泊は許して貰えないんでしょう。」「半券だけだったんですね。」いなくても話題にされてしまうのは愛妻家ロダンの運命である。私たちは明日まで有効のチケットを買ったのだが、途中で歩いてしまったから得になったかどうか微妙な塩梅だ。
     ダンディが、明日行くことになっている鴫立庵を話題に出して、三夕の歌は何だったかと考える。鴫立庵の名称の由来になったのは勿論西行で、これが第一だ。
     心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮  西行法師
     「それから。」「定家でしょう。花も紅葉もなかりけりですね。」
     見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮  藤原定家
     「あとひとつ。」「寂しさに宿を立ち出でて、じゃないかな」と私は口走り、「それなら百人一首にありますよね」と姫と若紫が後を続ける。
     寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮  良暹法師
     しかしこれは私の勘違いで、無学を暴露した。三夕の歌はいずれも新古今集にあるもので、良暹法師の歌は後拾遺集なのだ。ダンディが辞書を引くと正しいのが表示された。
     寂しさはその色としもなかりけり 槇立つ沢の秋の夕暮  寂蓮法師
     和歌には余り関心のなかった私が新古今を面白いと思うようになったのは、昨日八十七歳で亡くなった丸谷才一のお蔭である。古今や新古今は正岡子規によって罵倒されたが、これこそが日本文学の要である。近代自然主義では新古今は理解できない。そして逆に近代自然主義は高校生の耳に入りやすい。行ったこともない歌枕を詠み、掛け言葉や縁語を使うのは、ただの言葉遊びに過ぎないではないか、人生にとって何の役にも立たないと、高校生の私は思っていた。
     定家のこの歌は、ただ何もないと言っているだけだ。しかし「花も紅葉も」と言った瞬間、ない筈の花や紅葉が眼前に浮かんでしまう。これが定家なのだと丸谷は言う。つまり、ボードレールやヴェルレーヌより遥かに早く、「象徴」という手法を発明したと言うのである。
     姫が大山街道完走証明書を読みあげ、私とスナフキンに授与してくれた。「あなたは大山街道歩きにおいて、阿夫利神社の御利益による雨にも風にも負けずに、全行程を踏破されました。ここに謹んで完走証明証を進呈いたします。」有難いことである。姫は一度だけ体調を崩して歩けなかったから、結局完歩したのは二人だけだった。しかしこれで終わってしまうとなると、些か寂しさも感じる。面白ふてやがて悲しき鵜船かな。
     桃太郎は早々に酔っぱらって眠ってしまった。高齢者軍団を率いて相当気を遣ったのだろう。日本酒が全てなくなったところでお開きとなる。女性陣で一番酒が好きで強いのはどうやら小町に決まった。「一番好きなのはワインだけどね。」
     私は神経が細いようで枕が変わると全く眠れない。こうして団体で泊るときには、誰か必ず誰かの鼾に悩まされるものだが、ダンディがいきなり歌を歌いだしたり、誰かが大きな溜息をついたりしたものの、比較的静かな夜であった。桃太郎は完全に熟睡している。しかし私は一向に眠れない。


     腹が減った。時計を見ると五時半だ。煙草を吸いに一階に降りてみたが、厨房はまだ真っ暗で働いている様子もない。普通の旅館ならこの時間にはもう忙しく働いている筈だが、随分のんびりしている。朝食は八時だから待っている時間が長い。散歩でもしようか思ったのに、歌舞伎門は閂で閉ざされていて外にも出られない。仕方がないので部屋に戻ると、ヨッシーも起きだしてきてテレビをつけた。
     隣の部屋で寝ていたスナフキンが顔を出し、全然眠れなかったとぼやく。某氏(特に名を秘す)の鼾が一晩中続いていたそうだ。「昨日の賞状が落ちてないか。」無くしてはだめじゃないか。「袂に入れてたんだよ。」私はちゃんとポーチにしまったから大丈夫だ。「後で探してみるよ。露天風呂はどこだい。」「こっち」と案内したが、浴槽には覆いを掛けていて入れない。温泉旅館とは違うのだ。
     やがて桃太郎が起きてきて、昨夜飲み残した焼酎を飲み始めた。私も腹が減ったから、残り物の竹輪をつまみに少し飲んだ。部屋中を探していたスナフキンが「あったよ、良かった」と戻ってきた。なくしていたら姫になんと言い訳をしなくてはならなかったか。お湯割りで二杯飲んで空になったところで漸く八時なった。朝飯だ。
     昨日の宴会場に入る。鍋は用意されているのに、なかなか飯が出てこない。仲居がひとつずつ皿を配ってくれるが、その手際の悪さが目に付いてしまう。とにかく、一皿ごとに全員に配り終えてから次の皿に移るのだから、まだろっこしくていけない。鍋には豆腐とやや甘辛い醤油ダレが入っていて、煮込んでから卵とじにするものだ。火をつけて、卵をかき混ぜて用意する。まだご飯がこない。味噌汁は後でいいよ。十分ほども待ってやっと最後にご飯が出された。
     「大女将でございます。」小柄なおばあさんが挨拶を初めた。文子さん八十八歳である。どうやら、大女将の耳には昨夜の事件は伝わっていないようだ。年齢の割には元気な女性で、ひとしきり昨日の書が話題になった。「書は我流です。習ったことないです。一日に四十枚程書くんです。」卵とじをご飯に直接ぶっかけて三杯食べると満腹になった。「昨日はあまり食べなかったものね」と画伯が笑う。デザートに出された葡萄はもう入らない。
     清算すると一人当たり一万三千五百十円也。ビール代が千円程かかったことになるが、まあまあだろう。二万円しか持ってこなかった若紫も、借金することなく無事に済んだ。出発はスナフキンの意見で九時二分発のバスに決まった。男は問題ないだろうが、女性には色々ややこしい儀式があるのではないか。「大丈夫、間に合いますよ。」しかし桃太郎は歯磨きをし損ねた。
     宿を出る間際に、大女将から細い木の枝に八咫烏のマークを刻んだストラップが配られた。講釈師が喜びそうなものだ。「どうして八咫烏なんだろう。」これが東學坊の家紋だとホームページに書いてある。

    その昔、太陽の中には「八咫鴉」(やたがらす)という三本足の鴉が住むといわれ、人を導く神とされてきました。
    熊野本宮大社のご神紋もこの八咫鴉であり、四百年来、大山参拝の先導師しとして入山の先達を勤めてきた当坊の坊印にも、この「八咫鴉」が使われております。

     カウンター脇の壁に大きな漆塗りの木太刀が掲げられているのを見て、若紫はこれはどういう由来なのかと首を捻っている。「頼朝が太刀を奉納したんだよ」と私が言うのに、全然信用してくれずに大女将に訊く。しかし、「昔からですよ」と言うばかりで、何の答にもならない。頼朝が戦勝祈願のために太刀を奉納した故実(真偽はわからない)に倣ったものである。庶民は本身の太刀を奉納する訳にはいかないから、木刀で代用した。「奉納 大山石尊大権現 大天狗 小天狗 請願成就」と書くようだ。
     歌舞伎門の前で、大女将を真ん中にして記念写真を撮る。「いつもは着物なんですけど。」写真を撮るときには着物を着なければいけないと思うらしい。
     昨日の晴天とは変わって曇り空だ。途中で雨が降るかも知れない。「傘は持ってきましたか」と姫が心配そうに訊いてくる。持ってこなかった。「そうですよね、桃太郎さんが傘は役に立たないって言うから。」それは山の話で、平地になれば傘も充分役に立つ。
     渓流にかかる朱塗り欄干の橋の手前が停留所になる。橋の親柱は常夜灯の形を模していて、この橋を渡れば愛宕滝があるようだが、見学している余裕はない。すぐにバスがやって来た。「貸切かな。」「一人先客が。」しかし途中から混み合ってきた。これはれっきとした生活路線であり、地元の人が日常利用するバスであった。中将小町夫妻とは伊勢原駅で別れた。ドクトルも用事があるらしくて別れて行った。
     残った者はスナフキンの案内で大磯に向かう。駅の南口に出るとちょうど平塚行のバスが停まっていた。「歯磨きしなかったから口の中が気持が悪い。」三十分程で平塚駅に着いた。
     平塚駅で駅弁を買う。こういうとき、私は土地の名産ではなく幕の内を買うことに決めている。「定番ですね。」碁聖は鯛飯、スナフキンはシラスの弁当を買っていた。姫のリュックには弁当を収納する余地がないので、桃太郎が代わりにリュックに詰め込んだ。「桃太郎さんとはぐれると、お昼が食べられないのね。」「大丈夫、離れずについていきます。」
     大磯駅には初めて降りたから地理感覚が分からない。とにかく南の方に行けば海に出るだろう。私は大磯と言っても伊藤博文と吉田茂しか思い浮かばない。姫と若紫がコインロッカーに荷物をしまいこんでいる間に、スナフキンは観光案内所にパンフレットを貰いに行った。そのスナフキンがなかなか戻らず、随分時間がかかった。「パンフレットには金が掛ってるって言うんだよ。アンケートに答えたり、結構大変だった。」
     駅前に駐車している車の「湘南」ナンバーを見て、ダンディが怒る。「湘南なんて中国の地名じゃないですか。日本にそんなものはありません。」確かに間違いではないが、こういうことを大きな声で発言すると問題になる恐れがある。「湘南地方は中国の固有の領土だって言われるかも知れない。」そうなれば、この辺りに中国国旗が翩翻と翻るだろう。湘南の地名由来については後で触れるが、有名になったのは『太陽の季節』からではなかろうか。湘南ボーイ、湘南ガール。裕福で暇を持て余す若者が遊ぶ海岸だとイメージされたと思われる。それは慎太郎、裕次郎から加山雄三に繋がっていく。
     駅から左手の方の道を行く。白とグレーの壁の洋館が建ち、閉ざされた門扉に続くエントランスには、ヴェント・マリーノの看板が出ていた。しかしヴェント・マリーノ(イタリア料理店)は昨年既に営業を停止し、現在は大磯町の所有になっている。歴史的建造物として、どう保存するか検討中らしい。

     この建物について、『大磯のすまい』(大磯町教育委員会 平成四年)によれば、山口勝蔵が字坂田山付に土地を購入し、別荘を建てたのは明治末期から大正初期のことと思われるとある。また、大正二年に発行された『建築画報』六月号に写真が掲載されている建物が、この旧木下家別邸であると考えられる。これから、当初の施主が山口勝蔵、竣工年は明治末から大正初期、であることが推察できる。
       (その後、閉鎖登記簿より、大正元年木下建平氏が建てられたことが判明)
     設計者は、この建物と極めて類似していた「小野邸」を手掛けていることから、アメリカ帰りの建築家・小笹三郎であったと推察される。
     建物の特徴は、工法がアメリカ独自の工法であるツーバイフォー工法によることで、現存するツーバイフォー住宅としては、最も古いものといえる。この住宅が建てられた明治末から大正初期は、わが国の人々の日常生活にまで洋風化が浸透し、とりわけ都市中間層の人々の間では伝統的住宅から新しい洋風の住宅に切り替えようとする機運が高まり始めた時期であった。(日本ツーバーフォー建築協会「現存する日本最古のツーバーフォー住宅」)http://www.2x4assoc.or.jp/column/201108/201108_1.html

     「こっちにエリザベス・サンダース・ホームがありました。」オー、そうだったか。現在、一部はアクサ大磯研修センターになっているが、岩崎家の大磯別邸である。この南側に澤田美喜記念館と聖ステパノ学園が並んでいる。「戦災孤児を収容したんですよね。」混血の孤児である。「そうか、戦災孤児は『鐘の鳴る丘』だったね。」
     「澤田美喜は偉い人でしたよ。三菱の娘ですね。」岩崎家三代当主久弥の長女である。戦後、財閥解体で岩崎にも金がない時代、大磯の別荘が財産税として物納されていたものを、美喜が基金を募って買い戻した。一般の学校では混血児が差別される恐れがあったため、学校まで作ってしまった。

     第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。
     ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。
     「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる。」夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。
     執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに」と嘆いた。
     昭和二十二年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホームをスタートさせた。美喜、四十六歳だった。http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man22.html

     歩道にはパネルが埋め込まれている。「藤村と大磯 昭和十六年一月十四日 左義長を見に大磯を訪れた藤村は、温暖なこの地が非常に気に入り、春には台町に移り住み、七十二歳で永眠されるまでに二年余を大磯で過ごしています。」
     「それじゃ島崎藤村に行きます。」島崎藤村の墓は地福寺(古義真言宗)にある。「ここかな。」それらしい寺があったので脇の入口から入ってみた。神奈川県中郡大磯町大磯一一三五番地。墓地に入ってみても見つからない。「どうやって探すの。」「普通、有名人のお墓には案内板が設置されてたりしますよね。」結局見つからず境内に戻った。
     「いいんですか、探さなくても。」「別に藤村は好きじゃないし。」「そうなんですか。漱石が『破戒』を褒めてましたからね。偉い小説家だと思ってました。」確かに漱石は森田草平に宛てた手紙に「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」と書いた。しかし漱石は、それ程でもない作品を褒めることがあるから、すぐに信用してはいけない。森田草平『煤煙』も鈴木三重吉『千鳥』も漱石の推薦によって世に出たが、今これらを読む人はまずいないだろう。欠点には余り触れず、長所を褒めて後進を育てるという教育的配慮があったと思われる。
     「あったよ、ここにあった。」本堂の左手、山門近くにあったのをスナフキンが見つけた。六畳程の藤村の墓所には、五枚二列の踏み石の奥に、黒御影の高さ三十センチほどの大きな台石を据え、その上に細長い墓石が立っている。「別格待遇なんだ。」墓石は谷口吉郎の設計だそうで、十一センチ角で高さ八十一センチだから、ずいぶん細く感じられる。その隣に、それよりは少し小さな静子夫人の墓所が並んでいる。静子は後妻である。
     姫は「子供たちと一緒じゃないんですね、可哀そう」と呟く。私たちは、先妻の冬、長女緑、次女孝、三女縫が西大久保の長光寺に葬られているのを知っている。藤村が『破戒』を執筆している最中に、彼女たちはほとんど飢えて死んだ。(極度の栄養失調が原因で、長女と三女はハシカから脳膜炎、次女は急性腸カタルに冒されて死んだ。そして妻冬は四女出産時の出血による)。
     更に姪のこま子との泥沼のような関係は明らかに藤村に罪がある。藤村という人物にはどうしても共感することができない。これら一連の出来事も、藤村にとっては作家として大きくなるための踏み台に過ぎなかったのではないか。
     静子夫人は藤村の二十七歳も下である。藤村は五十七歳のとき、婦人雑誌『処女地』同人の静子と結婚した。藤村が死んだのは昭和十八年八月二十二日、満七十一歳である。静子は昭和四十八年四月二十九日死去。七十六歳であった。藤村のそばに寄り添いたいという遺言に基づき、隣に葬られた。

     照ケ崎海岸入口の信号から海に向かう道路に、「原敬大磯別荘跡地」の案内看板を立てた駐車場がある。「東京駅で遭難場所を見ましたね。」

     ・・・・現在は小島さん宅の駐車場になっている。外務官僚だった原は、彼を重用した陸奥宗光をはじめ、伊藤博文、山懸有明らが別荘を構えていた大磯をたびたび訪問。小島さんの曽祖父から年間五円で南下町に土地を借りて、一八九六年に別荘を購入した。気候温暖な大磯が、十三歳年下の貞子夫人の病気療養に適していたという理由もあったようだ。
     後にこの別荘を譲り受け、昭和三十六年に解体するまで自宅とつなげて住んでいた小島さんによると、間取りは一階に三畳と六畳、二階に四畳・八畳の部屋と台所。「部屋から海がよく見えたものです」と話す。敷地内には原家と小島家が使用していた共同井戸が昭和八年頃まであったそうで、ポンプにその名残りが見てとれる。http://www.townnews.co.jp/0606/2012/06/08/147182.html

     案内の看板を建てた小島荘三氏からの聞き書きである。別荘を購入した年は外務次官を辞め、朝鮮駐剳特命全権公使になる年だ。高級官僚にしては質素な別荘だ。
     そこから更に海岸方面に下ると、西湘バイパスの向こう側に大きな石塔が見えた。「松本先生謝恩碑」とある。その隣には「海水浴場発祥の地」碑が建っていた。松本先生って誰だ。パンフレットを確認すると松本良順(順)のことだ。そうか、海水浴治療を提唱したことは知っていたが、それが大磯だとは知らなかった。

    明治十八年 天与の自然に恵まれた大磯照ヶ﨑海岸に日本で最初の海水浴場を開いた軍医総監松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため 海水浴が良いと説き その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れて来て祷龍館に泊まらせ 海水浴をさせて大磯町の名を日本中に広めました

     海水浴場を開設するとともに、別荘地としても最適だと評価して政府高官に薦めたのも松本順である。東海道第八番目の宿場として賑わった大磯も、当時は鉄道の開通や大火にあって衰退していた。大磯の再生と拡大発展は偏に松本順のお蔭だと、大磯町のひとは感謝しているのだった。順自身もここに移り住んで、明治四十年に七十六歳で死んだ。墓は妙大寺にある。
     「松本順って誰ですか。」画伯は佐倉の順天堂には行かなかっただろうか。「JRと京成と駅を間違えたときですよ。」順天堂の創始者、佐藤泰然の子で、松本家に養子に出たのである。江戸城奥医師、将軍侍医、幕府陸軍軍医、奥羽列藩同盟軍医を経て、最初の帝国陸軍軍医総監になった。「私は司馬遼太郎の小説でよく知っています」とダンディは言う。『胡蝶の夢』か。講釈師なら、沖田総司を治療したんだと自慢するだろう。板橋駅前にある近藤勇や新撰組隊士の墓は永倉新八の発起になるが、松本順もそれに賛同して協力したと言う。
     旧東海道に入ると、大磯宿南組問屋場跡の案内が立っていた。「あそこに西行饅頭の看板が。」「虎子饅頭もありますね。」讃岐屋菓子舗である。虎子は曽我十郎の恋人虎御前のことだろう。「後で買うわ。」
     「大磯が八番目の宿場なら、七番までは何かな。」品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚。平塚から二十七丁、次の小田原宿までは四里ある。
     「新島襄が亡くなったところだよ。」国道が大きく右にカーブするところに、小さな緑地を設けて碑が立っている。百足屋旅館の跡地だ。「新島襄先生終焉之地。」石碑の裏面に回ると徳富蘇峰の文が彫られていた。

    新嶋先生永眠五十周年に際シ門生建之 昭和十五稔十月 蘇峯徳富政敬書
    石ハ先生故郷碓井ノ産ニシテ半田善四郎君ノ寄贈ナリ

     新島襄は病弱であった。大学設立のための募金運動の行脚中に、前橋で持病の心臓疾患で倒れ、療養先のここ百足屋旅館で明治二十三年(一九八〇)一月二十三日に死んだ。四十六歳十一ヶ月であった。「学校法人同志社ってありますね。」この敷地は同志社が買い取ったのだろう。命日になると、同志社の関係者によって碑前祭が行われる。
     新島襄は元治元年(一八六四)、二十一歳で函館から単身でアメリカに密航した。そして洗礼を受けてピューリタンとなる。同志社のホームページによれば、「新島の畢生の目的は、日本をキリスト教化することと、同志社大学の設立にあった。」その前者は遂に達成されることはない。後者については志半ばで倒れたが後に実現した。
     襄の病弱に引き換え、妻の八重は女丈夫であった。山本覚馬の妹で、戊辰戦争では洋式銃を抱えて若松城に籠城したのが勲章のように語られる。「来年の大河ドラマですよね。」それは知らなかった。念のためにキャストを調べると、なんと、八重を演じるのは綾瀬はるかちゃんではないか。
     八重の写真を見ると相撲取りのようで、ドラマのヒロインになりそうには見えない。それに籠城時代、負傷者の膿を触った手を洗いもせずに握り飯を食ったという逸話が残されている。衛生思想が未発達な時代だとしても、神経のどこかがかなり鈍感だったのではないか。はるかちゃんには演じて欲しくない。
     八重の悪口になってしまったが、新島が八重を大事にしていたことは間違いないようだ。美人ではないが生き方がスマートだとも言っている。明治二十一年五月、心臓疾患で余命長くないと悟った新島は、土倉庄三郎に手紙を書いた。自分が死んだ後の八重の生計を維持するため、土倉が計画しているマッチ用樹木植林の「コンパネー」として金三百円を預けると申し出たのである。

    然し、右の覚悟なし居り候へ共、心に残す所は妻の一事なり。小生なき後に、当分支ふべき事は出来申す候も、往々は覚束なく候間、同人貧困の時の用意を為し置き候て、暮年に及び乞食とはなし度く存ぜず候。・・・・二十年の後貴殿と同じく利益を分つ丈けの御約束を願ひ置き、家妻万一の用に供し置き度く候。・・・・鉄面皮ながらも、此の一事丈けは貴殿に御依頼申上げ置き度く候。左すれば家内の事に付き、別に心を残す所なく、兼ての覚悟の如く、益々鋭意戦地に進み、先づ同志社の基本を固ふする事と、専門校の創設に尽力奔走するの心得に候間、・・・・

     ところで、百足屋は宮代謙吉が経営していた旅館である。宮代は松本順に協力して大磯に海水浴場を開くことに奔走した。後に大磯町長になっている。

     松本順自伝は明治一七年、伊豆熱海から小田原をへての記に、「途大磯を過ぐ。この地に門人あり。これを訪う。・・・・・駅中央の宮代屋に宿し、土人の志ある者二、三人に談ず。この時や、駅中疲弊甚だしく、その資あるもの多く他に移転し、家あるもの稀なり、依って海水浴の人に益あるを説き、百方勧諭するに、宮代新太郎なる者、家まだ窮せざるを以て、これに説くも、他に説く力なく、旅館宮代謙吉なる者、すこぶる識あり、又、人望あるを以てこれに告ぐ。謙吉大いに喜ぶも、郡長甚だ愚にして論ずべからず・・・・・謙吉、自ら奔走し同志者を募らんことを期す。十八年の夏季、計画おおよそ成らんとして・・・・・来浴するもの百余人なりし・・・・・二十年に至りて、鉄道成功し、濤龍館もまた成りたれば、京浜より浴客多く・・・・・以来年に繁盛して、十年前の疲弊は全く痕なきに至れり」(重田哲三『阿波多羅』http://www.yamatolpg.co.jp/koyurugi_folder/awatara/3/aw3_30.html

     井上蒲鉾店は有名な蒲鉾屋のようで、これを目当てにしてきた人も多い。神奈川県中郡大磯町大磯一三〇六。創業は明治十一年である。蒲鉾を買う人を待ちながら斜め前の信号標識を眺めると、「さざれ石」とあった。さっきからマップを見ていた若紫は、この「さざれ石」が随分気になっていた。「この辺にあったのかしら。訊いてきて頂戴。」命令に従って店内に入り、店員に尋ねてみる。「昔はあったんです。今はなくなってしまいました。」そういうことである。
     「千代に八千代にだからね。次第に巌になるって習ったよ」と碁聖が話している。私もそう記憶しているが、しかし下記の説明を見るとちょっと違う。

    「さざれ石」というと、『君が代』を思い出す人が多いのではないでしょうか。大磯のさざれ石は、大磯海岸一帯で産出する目の揃った玉砂利のことをいい、さまざまな色をしていることから後年、さざれ石と呼ばれるようになりました。地名にもなっています。http://www.isotabi.com/asobu-sea.htm#koyurugi

     これを読むと、「さまざまな色をしていることから」さざれ石と呼んだと言う。それなら佐々木信綱の歌がある。

     かず知らぬ浜の小石もそれぞれに おのが色ありおのがかたちあり

     しかし様々な色が命名理由というのは変だ。いくつかの神社に「さざれ石」と称して置かれているのを見たことがあるが、大抵は砂岩や砂利が固まって岩になったものである。玉砂利では岩にはならないのではないだろうか。

    さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には「石灰質角礫岩」などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。

     ダンディ、ヨッシー、姫、スナフキンたちは蒲鉾を選ぶのに随分時間をかけている。先に出てきたダンディが店内から大磯のガイドマップを貰ってきたので、何も買わない人間もついでに貰ってしまった。「こんなに簡単にくれるのか。さっきはアンケートに答えなくちゃいけなかったのに」。
     鴫立庵。神奈川県中郡大磯町大磯一二八九。入口脇に「旧跡鴫立澤」の石碑が立っている。「湘南発祥の地大磯の由来」という立札を読んでみると、湖南省の洞庭湖のほとり瀟湘湖南に、大磯が似ていると言うのである。ここでもダンディが罵倒する。「中国の湘南に似ているなんて、詐称も甚だしい。」
     「湘南」地名には別の説がある。相模国の南部を「相南」と称し、佳字を充てて「相」を「湘」に変えたというものだ。また、相模川を「湘江」と称し、その南に位置するからという説もあるようだ。私は「湘南」の由来は吉井勇じゃないかと思っていた位だから、まるで湘南には縁がなかった。それはこの歌があるからだ。

     君がため瀟湘湖南の少女(おとめ)らは われと遊ばずなりにけるかも 

     しかし考えてみれば、身近な風景を中国の名所に擬え、あるいは漢語で呼ぶのは江戸の漢詩人の趣味でもあった。あちこちにある「八景」は瀟湘八景のもじりである。瀟湘八景は山市晴嵐、漁村夕照、遠浦帰帆、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、洞庭秋月、平沙落雁、江天暮雪だ。ウィキペデイァによれば現在全国に四百もの八景が存在するという。神田川のお茶の水あたりの渓谷を茗渓と呼び、小赤壁と名付けたのも同じ趣味である。

    寛文四年(一六六四)小田原の崇雪が草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(一六九五)俳人の大淀三千風が入庵し、第一世庵主となりました。現在は京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。

     崇雪というのは小田原の外郎売り(台州から亡命してきた陳順祖の子孫で、小田原外郎と呼ばれた宇野家の一族という説もある)で、西行の詠んだ鴫立沢を探し歩いてここに辿りつき、五智如来を祀って小さな庵を結んだと言われる。薬屋の隠居の趣味で作った別荘である。
     その後ここに住んで鴫立庵と名づけたのが大淀三千風だ。三千風は、西鶴が一夜に四千句を詠むまで、矢数俳諧で三千句の記録をもっていたという。三千句を読んだから三千風なのだ。

    また、「松島」のすばらしい景観をより多くの人に知ってもらうべく新作の謡曲を作ったり、また全国の人から俳句や歌を募集し『松島眺望集』として刊行するなど努力した。芭蕉が「奥の細道」の旅に出ることを決意したのも、三千風のこの本の影響とされている。
    http://www.norinagakinenkan.com/whats/ooyodomichikaze.html

     俳諧道場というものがあるのも知らなかった。ガイドマップに三大俳諧道場とあるので、ダンディと笑っていたのだ。私が笑ったのは、この庵は西行の歌に因む筈で、西行の頃に俳諧というものはないし、違うのではないかと思ったからだ。無学であった。三千風を第一世として、現在第二十二世庵主まで続いている。
     しかし去来の別荘だった落柿舎、義仲寺の無名庵とも、特に「日本三大」と称している形跡はない。どうやら、後に出来たものが先行する有名なものにあやかろうとして、「日本三大」を名乗るものらしい。
     「入館料は百円です。」円位堂は三千風が建てた元禄の頃のものである。虎御前碑は元禄十四年に据えられたもので、その横に法虎堂が建っている。堂の中には十九歳の虎御前の木像が安置されているらしいが見えない。『曽我物語』はきちんと読んでいないので詳細が分からないから、取り敢えずウィキペディアを引いておく。

     『吾妻鏡』によると、建久四年(一一九三年)五月二十八日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、六月一日に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久四年六月一日条)、六月十八日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時十九歳だったと記されている(建久四年六月十八日条)。

     急いで『曽我物語』を読んでみた。東洋文庫(平凡社)にある真名本である。虎御前の素性はこうなっている。

     そもそも、かの虎と申す遊君は、母もとより平塚の宿の者なりけり。その父を尋ぬれば、平治の乱の時誅されし悪右衛門督信頼卿の舎兄に、民部権小輔基成とて奥州平泉へ流され給ふ人の御乳母子に、宮内判官家長と云ひし人の娘なり。その故は、この人は平治の逆乱の謀叛に依て都の内にはあり兼ねつつ、東国鎌倉の方へ落ち下りたりけるに、相模の国の住人に海老名源八権守季貞と云ふ人に都にて芳心する事ありける間、その宿所を憑みて居たりける程に、年来になりければ、平塚の宿に夜叉王と云ふ傾城のもとへ通ひける程に女子一人儲けたり。寅の年の寅の日の寅の時に生まれたりければ、その名をば三虎御前とぞ呼びにける。かくて賞し遵きし程に、この子五歳と申しける年、宮内判官家長も空しくなりぬ。父死しての後は、母に副ひつつ宿中に遊びけるを、形のよきに付けて大磯の宿の長者に菊鶴と云ふ傾城の乞ひ取りて、我が娘とぞ遵きける。

     この時代の遊女を江戸の遊女と同じように考えては間違ってしまう。中世の遊女は、まだ古代以来の神に仕える者の面影を引き摺っていた筈だ。遊芸によって神と交信するのであり、だから音楽舞踊の達人でなければならない。静御前の白拍子も同じであろう。また、遊女や白拍子の名に付く「御前」は普通「ゴゼ」と読む。これが後に盲目の旅芸人を瞽女と呼ぶ起源になるようだ。
     俳諧道場などの小さな建物のほかに、庭には歌碑、句碑がやたらに多い。西行の「こころなき」の歌は佐々木信綱の筆になる。松本順の墓碑には「守」の文字が彫られている。順の墓は東海道線の北側の妙大寺にあるのだが。
     自然石に「崇雪 鴫立澤」と彫った碑の裏面には「著盡湘南清絶地」とあるらしいが、風化が激しくて良く読めない。但しこれはレプリカで、本物は郷土資料館に保管されている。ここの説明では、「著盡」を「ああ」と読んでいるがその理由は分からない。普通には「あきらかに尽くす」と読んで何の問題もないだろう。
     五智如来も並んでいる。大日如来(中心)、阿閦如来(東方)、宝生如来(南方)、観自在王如来(阿弥陀如来)(西方)、不空成就如来(北方)の金剛界五仏を言う。密教は良く分からないのだが、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の五つの智を当て嵌めたものである。
     外から庭を眺めると見事な欅の木が立ち、小さな滝も見え渓流の音が聞こえる。鴫立庵を出て、国道から南に入ると、かなり広い別荘地が並んでいた。「この辺が旧徳川邸だった。」その他に、旧東海道と西湘バイパスの間には山県邸、陸奥邸、大隈邸、鍋島邸、伊達邸、西園寺邸、池田邸、伊藤邸などが隣り合っていた。これならこの別荘地で国政が協議できそうだ。伊藤博文の滄浪閣跡には後で寄ることになっている。
     西湘バイパスに出ると、車の音がやたらに喧しい。この辺りの浜が「こゆるぎの浜」と呼ばれる。

     相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 児良波可奈之久 於毛波流留可毛
     相模道(さがむぢ)の 余呂伎(よろぎ)の浜の真砂なす 児らはかなしく思はるゝかも
                  (万葉集 巻十四 東歌相聞)

     「こゆるぎ」は「小」+「揺るぎ」の意味らしい。七十年周期で地震が起きていることと関係あるか、という人がいる。律令制では余綾郡(よろぎのこほり)と表記され、江戸期になって淘綾と書かれるようになったらしい。
     サーファーの姿も見える。それにしても喧しい。私たちは吉田茂邸を目指しているのだが、延々と続く道を黙々と歩いているとなんだか疲れてくる。最後尾を碁聖と一緒に歩いていた若紫が先頭まで走って来た。「もうちょっと気を使ってよ。」「車が喧しくてさ、話も出来ない。」「そうじゃなくて、たまには後ろを振り返って様子を確認して頂戴って言ってるの。」確かに配慮が足りなかった。それに碁聖は少し疲れている様子だ。無理をさせてはいけない。
     バイパスに出た所から一・七キロ。「あそこに見えるよ。」右手の丘の上に吉田茂の銅像が見えた。屋敷は焼失してしまったから、樹木の間に見える銅像だけしか残されていないようだ。鉄柵の隙間から写真を撮る。「この間、テレビでやってましたね。」吉田茂のドラマをやっていたようだが私は知らない。
     東海道に戻ったところに城山公園の信号がある。それ程車が通る訳ではないから赤信号で渡ってしまったが、若紫とドクトル、碁聖は信号が変わるのをじっと待っている。「典型的な日本人ですね。ドイツ人もそうだ。」
     城山というからには城があった。小磯城である。

    文明九年(一四七七)長尾景春が謀叛して山内上杉顕定を滅ぼそうとした時、景春の被官・越後五郎四郎が篭った城という(『鎌倉大草紙』)。しかし太田道灌に攻められ落城したとされる。
    付近は「城山公園」となっているが、正確な城域すら判然としていない状況である。有力説は公園内の旧三井邸のある標高四八・六m頂上部とされているが、『日本城郭大系』は、それより南の、国道一号の両脇の丘陵と想定している。また、公園の北側、東海道本線脇の標高六七mの「城山」とする説もある(明治四〇年『大磯誌』)が、いずれも確定的なことは言えず、明確な遺構も残っていない。http://utsu02.fc2web.com/shiro681.html

     ここは三井財閥の別荘跡だ。かつての財閥は、こんなにも広大な敷地を別荘にしていたのだ。「展望台で食事をしましょう。」
     南門から入る。現在は新しくなっているが、説明によれば、三井時代には薬師寺の鐘楼の柱、当麻寺の講堂の扉、菅原寺の金堂瓦、浅草寺の肘木等を使用して造られていたらしい。園内の草むらにはかなり背の高いホトトギスが咲いている。今年初めて見た。展望台の頂上には船を象ったモニュメントが建っている。ちょっと雨が落ちかけた気がするが、勘違いだったろうか。「雨でしたよね」と姫も言うから間違いではなかったが、それ以上降ることもなかった。
     東屋でリュックを下す。やがて子供たちが大勢集まってきた。何かの観察会だろうか。「男の子がいませんね」と桃太郎に言われるまで気付かなかった。揃いのジャンバーを着た指導員の背中を見ると、ガール・スカウトである。いくつかのグループに分かれて、紅葉した葉っぱや枝などを見つけてくるゲームをやっているようだ。
     そんなことは私たちには関係ないので、ひたすら飯を食う。桃太郎は昨日のつまみの残り物をベンチに広げる。私も今朝姫から預かっていたポテトチップスの袋を出す。ヨッシーは昨日のドライフルーツを出してくれる。
     「写真を撮りましょう」と碁聖がベンチに三脚を据えてカメラをセットした。無線でシャッターを切るのである。最初はタイミングがなかなか難しかったがすぐに調整ができた。「日光写真とはずいぶん違うね。」「隊長だって、もう日光写真なんか使ってないでしょう。」
     丘を降りる途中に横穴墓を見た。およそ十基ほど保存されているようだ。「二十メートル下りてきました。」郷土資料館は平屋だがかなり立派な建物だ。中郡大磯町西小磯四四六番地一。「海老名は負けたと思ったけど、ここは県立なんですね」と桃太郎が納得している。「無料だからね。中身は分からない。」
     廊下には、こゆるぎ(こよろぎ)や大磯に因んだ古歌が壁一杯に掲示されている。万葉の詠み人知らずに始まり、凡河内躬恒、源重之、源顕国、藤原兼宗、西行、兼好、準后道興、谷宗牧、北条氏康、細川幽斎、小堀遠州、浅井了意、本居大平、賀茂真淵、橘千蔭、曲亭馬琴、小沢芦庵、香川景樹、大塚楠緒子、佐々木信綱、正岡子規、伊藤梅子(博文夫人)、山県有朋、落合直文と並ぶと壮観だ。やはり古くから名所として知られた地だったことが分かる。
     「祷龍館繁栄之図は」、明治二十四年の海水浴の様子を描いた大きな錦絵(レプリカ)だ。泳いでいる男たちには、団十郎、幸四郎その他全て歌舞伎役者の名札が書かれている。松本順が海水浴の宣伝のために、歌舞伎役者を集めた時の様子である。祷龍館は旅館兼病院のような施設で、会員制で資金を集めて建てられた。
     土器に興味がないのは我ながら困ったものだ。高来神社大祭の祭り船(船山車)。あっという間に見学は終わってしまった。公園の中には織田有楽斎の茶室「如庵」(国宝)もあったが、今では「跡地」の説明があるだけだ。現在は愛知県犬山に移設されてしまっている。

     国宝「如庵」は、茶の湯の創成期に織田信長の弟の織田有楽が建てた茶室で有楽没後、正伝院に寄進され江戸時代は正伝院の所有でした。明治四年(一八七一年)に正伝院は永源寺と合併されました。
     明治四十一年(一九〇八年)に売却され建物は四散、そのうちの書院と茶室及び露地は麻布の三井家本邸へ移築され、昭和十一年に国宝に指定されました。 さらに昭和十三年(一九一八年)大磯の別邸城山荘に移築されましたが、昭四十五年(一九七〇年)、名古屋鉄道株式会社の所有となり、昭和四十七年に犬山城下御門先の有楽苑に移築され現在に至っています。
     (神奈川県立城山公園)http://www.kanagawa-park.or.jp/ooisojoyama/chasitu1.html

     「どうして、こんなところに西国札所の石碑があるんでしょう。」公園から出た所に、「西國三十三所巡礼講供養」が建っていた。巡礼も講を組んで行くのなら殆ど物見遊山だろう。父母を尋ね歩いて、「とと様の名は」なんて訊かれるような可哀想な連中はいない。「ここから出発したんでしょうか。」供養塔と言うのが気にかかる。何だろうと思えば調べればすぐに分かる。満願成就の記念なのだ。

    江戸時代初期から「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。地域などから依頼を受けて三十三所を三十三回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。(ウィキペディアより)

     巡礼が職業になるというのもなんだかおかしいが、富士講の行者なんかも似たようなものか。脇には「ごろ石」がいくつか置かれている。
     東海道に戻れば松並木が続く中で滄浪閣に着いた。元は小田原に建てられた伊藤博文の別荘の名である。明治三十年(一八九七)に博文が大磯に移転した時、名前も一緒に持ってきた。この時、本籍も大磯に移している。真偽不明だが、借金返済のために東京の自宅を売り払って田舎に安い土地を買ったと言う説を読んだことがある。
     小田原時代には第二次伊藤内閣も組閣され、首相が東京不在では余りにも便が悪く、そのために総理大臣官邸が造られたというのも、何かで読んだ記憶がある。
     大正十年(一九二一)には李王家に譲渡された。関東大震災で倒壊したが直ちに再建される。戦後は米軍に接収された時期を経て、李王家から楢橋渡へ、そして昭和二十六に西武鉄道に売却され、大磯プリンスホテルの別館として営業を続けた。

     二〇〇七年(平成十九年)三月三十一日の営業を以って西武グループとしての営業が終了し、売却されることとなった。
     二〇〇六年(平成十八年)十一月に行われた公開入札で大手建設会社が名乗りを上げ交渉権を獲得したが、大磯町が、歴史的建築物を保存すべく、買取に向けてプリンスホテルと協議することになった。「公有地の拡大の推進に関する法律」に基づき、町が優先的に交渉権を得られるように神奈川県に届出を提出した。
     町はこの法律に基づき買い取り協議を進めたが、町が提示した価格約二十五億五千万円と、交渉権を有していた大手建設会社の提示価格との間に大きな開きがあり協議は難航。結局、町は買取を断念し、今後は新たな所有者に建物の保存を要望することになった。(ウィキペディア)

     つまり建物は当時と変わっていないということだ。赤煉瓦の二階建てである。営業していない筈なのに車が一台駐車している。
     見附跡の案内を見て左の路地に入って行く。静かな住宅地の中で分かり難い場所だ。小さな公園に向かいあって建つ平屋の家が藤村旧居である。さっきまでの政財界人の別荘と較べると、その質素さが目立つ。
     昭和十六年二月二十五日、敷地百四十五坪に二十四坪の家を家賃月額二十七円で借り受け、翌年八月に一万円で買い取った。竹塀に囲まれ、低い門を潜って中に入る。屋内には入れないが、庭から開け放たれた室内が見渡せる。
     「私は『初恋』が好きだな。『千曲川』もいいけれど。」ダンディの言葉で、姫も「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき」と一緒に声を出す。若松甲作曲の歌は私のレパートリーに入っている。『高楼』を藤江英輔が作曲した『惜別の歌』もそうだ。結局、藤村は『若菜集』の詩人として残ったのだ。『破戒』も『夜明け前』も今は誰も読まないだろう。パンフレットから、藤村の最後の様子を引用しておこう。静子が甥に充てた手紙である。

    「青山半蔵には中世の否定ということがあった・・・・」その行から三四行読んだ頃、
    「ひどい頭痛だ」と小さな声で唯一私が聞いたと思うそのうち、伯父さま(藤村)はもう身がるく立って、茶棚にある常備薬を取りに行きましたが、伯母さん(静子)に倒れかかりました。
    「どうしたんだろうね。」いつも通りの静かな伯父さまの声。
    「気分もよくなってきた、頭痛もしないよ・・・・眼まいはちっともしない・・・・涙を拭いて・・・・」
    「原稿が間に合うかね、そう五十枚あるし・・・・あそこで第三章の骨はできているしね・・・・」
    東の方の庭に眼をやってじっと見ているかと思うと、
    「涼しい風だね」
    庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを感じているようです。もう一度
    「涼しい風だね」と・・・・。
    そのまま深い昏睡、意識は遂にかえらず、翌二十二日午前〇時三五分に大磯の地で永眠。

     幸せな死というべきであろう。しかし繰り返すが、先妻の冬と三人の娘は餓えて死んだのである。藤村死後、この家には高田保が住んだ。高田が五十六歳で死んだ後は、静子未亡人が昭和四十八年に死ぬまで住み続けた。
     あとは東海道線に沿って駅まで行くだけだ。後ろから見ていると碁聖の体が左に傾いている。余程疲れたに違いない。それでもすぐに駅に着いた。「あっ、饅頭を買わなかった。」道が違ったのである。姫と若紫は残念そうだが、改めて買いに戻る元気はなさそうだ。
     「反省会はどこでしましょうか」と桃太郎とスナフキンが相談している。まだ二時を過ぎた頃で、さっき昼飯を食ったばかりだから私はなんとなく積極的になれない。「大磯にはないよな。」
     「横浜に行けば何かあるだろう。」
     碁聖は小田原に出て小田急線に乗ると言うので、ここで別れた。大分疲れているようだから、ロマンスカーでゆっくり休みながら帰って欲しい。電車の中でウトウトしているうちに藤沢に着き、ダンディと画伯は湘南新宿ラインを利用すると降りていった。
     横浜で姫と若紫にサヨナラをして三人は街に繰り出す。スナフキンの先導で少し歩いてみたものの、この時間に開いている店はないし、雨が降り出しそうな気配もある。「ライオンにしよう。あそこならやってる。」駅に戻って地下に降りれば確かにライオンは営業していた。昨日からの酒に加えて、殆ど寝ていないからどうかと思ったが、酒は飲めるものである。ビールを一杯飲んでから、「余ったっていいんだから」と焼酎のボトルを頼んで、結局飲んでしまった。流石にこの夜は熟睡できた。
     翌日、先月大山に登った図書館スタッフには、「エーッ、ケーブル使ったんですか」とバカにされた。腿の筋肉痛は火曜まで残った。

    蜻蛉