「東京・歩く・見る・食べる会」
第十回 千住編   平成十九年三月十日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2007.03.10

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 ようやく千住コースが実現した。リーダーの鈴木さんは都合五回も下見を重ね、すでに千住に関しては誰も敵わない。本人S氏出生の地も含めて、事前にもらったコース案は実に多彩で、しっかり見てメモを取らなければ忘れてしまいそうだ。それに一週間前にはこんなことを知らせてきたから、さて今宵はどうなることやら。
二次会は全く問題有りません。行き付けの居酒屋は二時開店、六時まで生中二百五十円、酎ハイ百八十円とサービスタイム、その他美味しいお店も四時開店、四時半開店と北千住だけで三次会、四次会まで出来ます。
 常磐線の南千住駅十時集合。一週間前の予報では雨も心配されたが、一日ずれたようで今日は大丈夫だ。「佐藤さんの企画じゃないからね」といつものようにダンディが笑う。
 今回は特に女性の参加者が多くて賑やかだ。橋本さん、清水さん(南浦和)、あっちゃん、橋口さん、三木さん、佐藤さん(三郷市)。私の従妹平墳順子(藤沢市)。男は、リーダーのS氏を筆頭に、関野碁聖、三澤講釈師、ダンディ松下、平野熊楠、江口宗匠、山下さん、私。十五名の参加はこれまでの最高記録だ。江口さんが時間ぎりぎりに現れたので「遅い」と言ってしまったのだが、実は早すぎた宗匠は山下さんと一緒に谷中天王寺を見てきたそうだ。
 既にメールで貰っていたが、リーダーが改めて配ってくれた資料は、今日の見学予定三十七ヶ所を四ページに渉って説明したもので、六ページの地図もつけてある。これまでの会で最も詳細な資料だ。これがあれば充分ガイドブックに匹敵しそうだ。あっちゃんも両面の資料を用意してくれていて有り難い。「里山もこういう資料を作らなければ」と里山ワンダリング隊長の平野気象予報士が呟く。
 橋口さんと三木さんのマスクは花粉症対策だが、橋本さんのマスクは違う。「うっかりしたこと言って、書かれないように」と、私を避けようとしているのだ。「佐藤さん、怖いから」と笑う。私は変なことは書きません。そんなことを言いながら表情はにこやかだから、言うほど嫌っているわけではないだろうと勝手に思い込むことにする。

 千住の地名の由来には三つの説があって、ちょうどあっちゃんの資料(足立区郷土資料館編『足立風土記1』より抜粋)の冒頭に書かれているから都合が良い。第一は勝専寺の千手観音に由来するというもの。嘉暦二年(一三二七)新井正次が荒川から千手観音を引き上げ勝専寺に祀ったことによる。これは「新編武蔵風土記」に書かれているそうだ。次は、八代将軍足利義政の妾、千寿の前の出身地であったという説だが、なんとなく怪しそうな気がする。よほど特別なことのない限り、人名が地名に転用される例は少ない。義政の妾が何人いたか分らないが、たかが妾の名前を地名にするだろうか。それに義政の頃には室町将軍の権威はほとんど地に落ちている。この説とは逆に、千住(あるいは千寿)の出身者だからその名をつけたと考える方が自然だろう。
 最後は千葉氏の居住地だったという説はどうか。千葉氏については前回「赤塚編」でも調べたが、その苗字に明らかなように元々下総を根拠とする一族だ。関東公方と将軍との争い、公方と管領上杉家との抗争の時代、千葉一族の内紛もあって、十五世紀中頃に実胤、自種兄弟が下総から武蔵国へ逃げ込み、石浜と赤塚に拠った。実胤退隠の後自胤が居住した石浜城は、南千住駅から東南に一キロほどの距離、白髯橋の辺りにあった筈だ。千葉氏が住んだということになれば石浜こそ相応しいが、これを千住と呼ぶなんて言うことは聞いたことがない。
 奥州道と、水戸道、下妻道との分岐点にあたることもあり、戦国時代末期に青物を商う人々が集ってヤッチャ場を形成したのが千住の町の始まりだ。江戸時代には日光街道・奥州街道初宿と定められ日光道中三十六里余、二十一宿中、最大規模の宿場となった。
 寛永二年、日光道中の初駅に指定されたときは、千住一丁目から五丁目が千住宿と呼ばれたのだが、万治元年(一六六一)には掃部宿が加えられ、やがて大橋の南まで拡張して、小塚原町、中村町を加えて、千住八町と定められた。一丁目から五丁目までを北組と称し、掃部宿から小塚原町、中村町を南組と称した。

 駅の南口一帯には小塚原刑場があった。間口六十間(約百九メートル)、奥行き三十間(約五十四・五メートル)。広さ千八百坪の規模だ。
 江戸の刑場では鈴ケ森が有名だが、浅草鳥越にもう一ケ所あった。それが武家地に転用されたため北浅草(「山谷堀今戸橋の南木戸の際、西方寺の前、すこしく土高くなりし明地、十間ばかりの長さ、幅二間ばかりの所」武江年表)に移転し、やがてそこも手狭になったので慶安四年(一六五一)に新設移転した。慶安四年といえば、由比正雪一党の計画が露見し、正雪は自殺したが丸橋忠弥らが鈴ケ森で処刑された年だ。
 鈴ケ森と小塚原のどちらで処刑されるかは、その生地によって決められる。江戸生れではない罪人は事件現場に近い刑場で処刑されるが、日本橋から見て南に生れた罪人は鈴ケ森、北の者が小塚原で処刑された。
 鈴ケ森で処刑される時は南無妙法蓮華経、小塚原は南無阿弥陀仏と唱えたものだと講釈師が断言するが、真偽は分らない。小塚原で処刑された罪人は回向院に葬られ、ここは浄土宗だから南無阿弥陀仏で良いだろうが、鈴ケ森は何故だろう。南品川にある海蔵寺が「品川の投込寺」として刑死者や遊女、無縁仏を葬ったが、この寺は時宗だから南無阿弥陀仏の方だろう。刑場跡に建つ大経寺が日蓮宗で、処刑された者の霊を弔うために開かれたというから、このことによるのだろうか。ただ、この寺の開基は文久二年(一八六二)だから、それ以前も南無妙法蓮華経と称えたかどうかは分らない。「我が家の宗旨では南無大師遍照金剛と称えます」と言うのはダンディだ。
江戸幕府の刑法では、武士の死刑には切腹、死罪、斬罪があり、庶民の場合は磔、火罪、獄門、死罪、下手人の区別があった。死罪、下手人、斬罪はいずれも斬首の刑で、前二者は牢内の切場で、後者の斬罪は小塚原の刑場で施行されるのが通例であった。獄門は牢内で切った首を小塚原の刑場に運んで三日二夜晒し、罪状を記した捨札を三十日間たてた。(『江戸東京学事典』)
 本所の回向院は明暦大火(一六五七)の犠牲者を供養するため創建された。この千住の別院は、刑死者を弔うため、寛文七年(一六六七)本所回向院の住職弟誉義観が常行堂を創建したことに始まる。安政の大獄に連座した吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内などの政治犯が葬られ、それ以外にもご存知高橋お伝がいる。二・二六事件の磯部浅一も眠っている。
 入口左に吉展地蔵。「高校の頃、映画を見たよ」山下さんが言うが、そんな映画があったのかしら。事件自体は私たちが小学生の頃ではなかったか。「そうか、映画は高校の頃だけど、事件そのものはもっと前だったね。犯人は小原保だ」山下さんもよく覚えている人だ。調べてみると事件が起こったのは昭和三八年三月だから、小学校五年生のことになる。犯人小原が逮捕されたのが四十年七月。映画については分らないが、後に泉谷しげるの主演でテレビドラマにはなっているようだ。
 境内の入口の壁に観臓記念碑が埋め込まれている。明和八年(一七七一)三月四日、杉田玄白、前野良沢が小塚原で腑分けを見学したのが日本解剖学の黎明ということになる。しかし実はこれより先に宝暦四年(一七五四)、山脇東洋が京都で解剖を行ない、『臓志』という本を書いた。これが本邦最初の解剖ということに普通はなるのだが、そのことで玄白や良沢の仕事の価値が下がるのではない。だいたい、この頃の書物の流通を現代と同じように考えてはいけない。東洋は幕府に献上したけれど、一般公開を許されなかったのではないか(確信はない)。後に高野長英や渡辺崋山の著が禁制の対象になったことも思い合わせなければならない。それにしてもこの当時の先人の知的情熱は驚くばかりで、下手な要約よりも『蘭学事始』を引用するほうが早いだろう。
もとより臓腑にその名の書き記しあるものならねば、屠者の指し示すを視て落着せしこと、その頃までのならひなるよしなり。その日もかの老屠がかれのこれのと指し示し、心、肝、胆、胃の外にその名のなきものをさして、名は知らねども、おのれ若きより数人を手にかけ解き分けしに、何れの腹内を見てもこゝにかやうの物あり、かしこにこの物ありと示し見せたり。図によりて考ふれば、後に分明を得し動血脈の二幹また小腎などにてありたり。老屠また曰く、只今まで腑分のたびにその医師がたに品々をさし示したれども、誰一人某は何、此は何々なりと疑はれ候御方もなかりしといへり。良沢と相ともに携へ行きし和蘭図に照らし合せ見しに、一としてその図に聊か違ふことなき品々なり。古来医経に解きたるところの、肺の六葉両耳、肝の左三葉右四葉などいへる分ちもなく、腸胃の位置形状も大いに古説と異なり。官医岡田養仙老、藤本立泉老などはその頃まで七八度も腑分し給ひしよしなれども、みな千古の説と違ひしゆゑ、毎度毎度疑惑して不審開けず。その度々異状と見えしものを写し置かれ、つらつら思へば華夷人物違ひありやなど著述せられし書を見たることもありしは、これがためなるべし。さて、その日の解剖こと終り、とてものことに骨骸の形をも見るべしと、刑場に野ざらしになりし骨どもを拾ひとりて、かずかず見しに、これまた旧説とは相違にして、たゞ和蘭図に差へるところなきに、みな人驚嘆せるのみなり。(『蘭学事始』)
 それ以前から医師を伴って解剖したことはあったのだ。だから山脇東洋をもって本邦初というのも、実は正確ではない。しかし、立ち会った医師はただ不思議に思うだけで、追求する意欲も手立てもなかったということになる。玄白と良沢の二人がほぼ同時に「ターヘルアナトミア」を手に入れるという偶然が重なった結果だと言えば言えるのだが、読めもしないオランダ語の解剖書を大金を投じて手に入れる情熱の結果だと言うほうが正しいだろう。
 「腑分け」という用語の意味を山下さんに聞かれたから、明らかにしておかなければならない。五臓六腑と言う。五臓とは心・肺・脾・肝・腎を言い、六腑は小腸・大腸・胃・胆・膀胱・三焦(これって何だろう)を言う。「腑に落ちる」という言葉がある。とにかく、体の中になんだか分らないが色々な器官があって、それらを称して臓腑と言った。腑分けというのは、体を切り裂いて、その内容を調べることだから、要するに解剖のことを言う。

 墓域の一番奥に吉田松陰。実は私は松蔭ってよく分らない。『夷船に乗り込むの記』を読めば、密航失敗の事件は余りに軽率だ。『草莽崛起論』でもただ主観的な「熱誠」だけで、戦術とか方法論とかいう具体的なものがまるで感じられない。その辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」にしても大和魂ということが分らない。ただ松陰門下が明治維新に大きく影響を及ぼしたことは事実なので、私は困ってしまうのだ。変革期には良識や教養などより、もっと何か別のものが時代を動かすのだということか。
 「松陰より立派ですね」とダンディが言う橋本左内の墓は松陰の隣にある。長州藩の一介の罪人と、越前藩主の政治顧問格とでは待遇が違っているのだろう。もっとも松陰の遺骨は高杉晋作が取り出して別に改葬し、そこは松陰神社になっている。
 どうやら橋本左内は余り有名ではなさそうだ。「教科書に出てたじゃないか」と平野さんが言うと、「そうそう二十五ページにね」と清水さんが応じる。面白い。「日本史の教科書になかったんじゃないの」と、あっちゃんが抵抗するが、それは却下する。安政の大獄の犠牲者として名前だけは記されていた筈だが、その事績についての説明がなかったのだと思う。私は左内が越前の村田氏寿に宛てた手紙(奈良本辰也編『変革の思想』所収)を読んだだけで、「傑出した人物ですよ」とダンディが言う意見に完全に同意する。
 左内の幕政改革論(統一国家構想と言って良い)は、一橋慶喜を筆頭に、内政面は松平春嶽(越前)、徳川斉昭(水戸)、島津斉彬(薩摩)に、外交面は鍋島閑叟(肥前)にと、有力大名の合議制をとり、実務面には川路聖謨、永井尚志、岩瀬忠震などを配置し、更に全国から有能の士を登用しようというもので、当時として考えられる限りの最も現実的で有効な政策ではないか。井伊直弼があれほど頑迷でなく、この政策が実現していれば幕府もしばらく永らえたのではないかと思えるほどだ。ただ、左内が期待した慶喜、春嶽、斉昭等の大名が、実はそれほどの能力がなかったことは後の歴史が明らかにしてしまった。所詮、大名は大名ということだが、川路、永井、岩瀬、更に小栗上野介などは福地櫻痴『幕末政治家』、綱淵謙錠『幕臣列伝』などでも優秀な官僚として評価が高い。左内の目は確かだったと言えるだろう。
 最近、NHKが小栗上野介を主人公にしたドラマをやっているようで、純粋理科系の平野さんもこの辺りの事情に詳しくなっている。左内は緒方洪庵の適塾の出身だ。「それじゃ始めは医者を目指していたのかしら」「いや蘭学だよ」松陰は蘭学を知らなかったから、言葉もまるで分らずに、アメリカの船に乗り込んで、どうして上手く行くと思ったのだろうか。己の「誠実な」熱情があれば、言葉は判らなくても通じるはずだというのは、余りにも愚かではあるまいか。
 それにしても松陰三十歳、左内二十六歳は余りに若い。二十六歳のとき私は何者であったろうか。

 鼠小僧の墓もあるはずだが「下見のときに探せなかったんですよ、三澤さん教えてください。」鈴木さんが聞けば「ここだよ」と即座に分るから不思議だ。鼠小僧は本所回向院にも墓がある。本所の墓には「教覚速善居士、俗名は中村次良吉」と刻まれていたが、こちらは「源達居士」になっている。戒名が違うのは納得いかない。墓石を打ち欠くために、別の石が用意されているのは両国と同じだ。ただ鼠小僧が処刑されたのは天保三年、鈴ケ森の刑場だからわざわざここに葬ったというのも不思議な話だ。
 同じ区画に直侍、高橋お伝(谷中墓地にあるのは、死後三周年に愛人小川市太郎を施主として改葬したもの)、腕の喜三郎が並んでいる。「喜三郎って誰ですか。」歌舞伎に詳しければ即座に回答できるはずだが、私は答えることが出来ない。拳を握った片腕を形取った墓なんてまず他にはないだろう。河竹黙阿弥『茲江戸小腕達引』に登場する江戸初期の侠客で、怪我をした腕を自ら鋸で切り落としたというのだが、しかし今の私にはこれ以上の知識がない。
 「直侍って」と誰かが聞くので、天保六花撰、河内山宗俊の仲間だよと答えるが知らない人が多い。吉原の花魁三千歳の情人、片岡直次郎。「河内山っていうのは茶坊主でさ、賄賂をとって強請りたかりの常習者」と講釈師が説明する。歌舞伎の悪党像を全く引っ繰り返して、直次郎の「純愛」を縦糸に、宗俊、金子一之丞、森田屋清蔵、三千歳、やくざの丑松たちが繰り広げるテンヤワンヤのドタバタを、北原亞以子が「やがて哀しき」物語に仕立て上げた。『贋作天保六花撰』は馬鹿馬鹿しくてちょっとホロリとしてしまう。作者は「うそばっかりえどのおはなし」とルビを振っている。
 跨線橋を渡ると延命寺だ。常磐線敷設のため回向院から切り離され、独立した。一丈二尺の首切り地蔵は寛保元年〈一七四一〉、刑死者を弔うために建立された。二十七個の花崗岩を組み合わせている。一丈二尺というのはいかにも半端ではないだろうか。正元坊主の発願した江戸六地蔵は言うまでもなく、その他にも丈六仏はいくつも存在し、一丈六尺が基本の大きさなのだけれど。
 「霊感の強い人は何か感じるんじゃないですか」小塚原だけで二十万人が処刑され、大量の骨が埋まっているのだと鈴木さんが脅すものだから、橋口さん、三木さんは「感じる、ゾクゾクしてきたわ」と強く頷いている。風邪を引いたんじゃないか。

 泪橋の地名について鈴木さんの説明を受けて、三ノ輪の方面に向かう。店先に吊るした鳥篭の中の九官鳥をからかい(あるいは鳥にからかわれ)、木蓮を見ながら(辛夷と木蓮の違いについて説明を受けてもすぐに忘れてしまう)、一泊二千円などと書かれた看板を眺める。極端に安いホテルが数件並んでいるのは、もともと日雇い労働者向けの宿泊施設だったのだろう。「千住は銭湯が多いんですよ」とリーダーが説明してくれるが、こうした宿泊施設とも関係しているだろう。
 五、六百メートルほど歩くと浄閑寺に着く。栄法山清光院と号す。浄土宗。荷風は、大谷石の塀を巡らし門の庇は雨曝しだが僅かに朱塗りの面影を残していると書いているが、すっかり綺麗になっている。明暦元年(一六五五)創建。明暦三年の大火後、日本橋にあった吉原が日本堤に移転し、新吉原と称したときから吉原遊郭との関係が始まり、遊女を葬ったことから、「三ノ輪の投込み寺」と称された。
 墓域の一番手前には角海老楼の花魁、若紫の墓がある。無理心中を迫る客によって殺された。享年二十二。佐竹永陵の誌す碑文があって、『断腸亭日乗』にも記録されている。「新比翼塚」。安政二年の大地震で死んだ遊女が五百人、それも含めて埋葬された遊女の数は二万五千にのぼると推定され、それを供養する「新吉原供養塔」が建つ。台座には「生きては苦界、死しては浄閑寺」の文字を記す。
 「苦界」と書くが、中世において本来は「公界」「無縁」であり、権力の容喙できない自由の地のことだったのだと言うのが網野善彦で、この網野史学に触発され、あり得たかも知れないユートピアを夢みて、隆慶一郎は『吉原御免状』を書いた。
 安政二年十月二日に発生した地震で、江戸では一万四千軒余が倒壊、七千余人が死んだ(『年表日本歴史』「安政二卯年地震災留書」)。『武江年表』は、寺院に葬った人数は武家・浪人・僧尼・神職・町人・百姓あわせて六千六百四十一人と記し、校訂者今井金吾は、一説として、死者二万三千余人、うち吉原の死者六百八十三人との説を紹介する。七千余と二万三千とでは違いすぎるが、どちらの説も、どれだけ信じて良いか分らない。そもそも江戸の総人口がどれだけあったかということさえ正確な数値は掴めないのだから。
 『武江年表』の編者斎藤月岑は、自分の体験を記事にした。
細雨時々降る、夜に至りて雨なく、天色朦朧たりしが、亥の二点、大地俄かに震ふ事甚く、須臾にして大廈高牆を顛倒し、倉廩を破壊せしめ、剰その頽れたる家々より火起こり、熾に燃上りて、黒煙天を翳め、多くの家屋資材を焼却す。神宇梵刹は輪奐の美を失ひ、貴賎の人家は鱗差の観を損ふ。尊卑の大患、東都の物恠、何事が如之。凡此災阨に罹りし儔、家族に離れて道路に逃漂、甚しきは圧に打れ、炎に焦れて生命を損ひしもの、数ふるに遑あるべからず。号哭痛?の声、閭閻に満ち、看るに肝消え、聞に魂奪はる。(『武江年表』)
 昭和十二年六月二二日、三ノ輪の散策にでかけた荷風はこの寺に立ち寄り、自分の死後、墓を建てる者があれば、遊女の墓に混じって葬って欲しいと願った。
六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりのさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。(『断腸亭日乗』)
 死後、実際には雑司ヶ谷墓地に、父永井禾原と並ぶことになるのだが、荷風の思いを汲んだ谷崎潤一郎たちがこの寺に荷風碑を建てた。その碑には「荷風死去四周年の命日、昭和三十八年四月三十日」と記されている。

 山谷労働者の慰霊碑「ひまわり地蔵」。「ひまわりって弁護士会のバッチのシンボルですよ」とあっちゃんが教えてくれる。碑の説明によれば、太陽に曝されて労働する姿がひまわりを連想するからだそうだ。ここで岡林信康『山谷ブルース』を引く必要はないだろう。
 白井権八の首洗い井戸。白井権八って、「お若えの、お待ちなせえ」と幡随院長兵衛に呼び止められ、「待てとお止めなされしは拙者のことか」と応じるシーンしか知らないのだが、井戸の説明を読むと、仇討ちに向かってきた本庄兄弟を返り討ちにしたというようなことが書いてある。モデルになった平井権八は鳥取藩士で人を殺して出奔し、遊女小紫との遊びの金を手に入れるため、辻斬り百三十回に及んだという大悪党だ。
 墓域を出て境内に戻ると、向かいにマンションを見る位置に大きな木が立っていて、「ほら、木造建築だよ」と三澤さんが声を上げる。あのマンションが木造?何を言うのかと思えば、木の上にカラスの巣があり、珍しく木の枝だけで作られているのだ。宗匠が私を試そうと椿の木を見てニヤニヤしながら「これは何?」と聞く。山下さんが「サザンカかい」と口を挟むが、私は「花弁が散っていないから椿」と答え、宗匠が頷く。私は珍しく自信があったのだが、平野さんに確認すると、「ムクだよ」と言うので呆然とし、「違うじゃないの」と宗匠に文句を付ける。ところが平野さんの言うムクは、椿の後の大きな木のことだったので宗匠に叱られてしまう。全く無学な私たち。

 椋の木と 納得したる 椿かな    快歩

 永久寺は天正年間に真言宗の寺として創建されたが、禅寺として再建。その後日蓮宗に改宗、寛永の頃更に幕命によって天台宗に転じる。思想的一貫性というものがない。第七回「駒込・小石川・高田・三ノ輪編」で松下さんが五色不動巡りを企画した時には、到着時刻が遅くなって入れなかった寺だ。あのとき体調の悪くなったあっちゃんが、ここだけは見ておきたいと頑張ったのに、門は無情に閉ざされていた。目黄不動と呼ばれる不動尊は、平安時代初期、天台第三世座主慈覚大師の作と伝えられる。真偽は分らない。
 門は閉まっているようだが、鈴木さんが扉を開けるとちゃんと入れた。薄暗い不動堂の中を覗きながら、見えないねと言い合う中で、橋本さんが「確かに目が黄色い」と確認した。視力三・〇の威力は凄い。こんな視力のある人が日本に現存し、一緒にいることが不思議だ。
 嫌になってしまうほど知識がないので、不動明王というのがそもそもどういう性格のものなのかも分らない。仕方がないから松涛弘道『仏像の見方がかわる小事典』で確認すると、明王の出自は、アーリア人に征服されたインド原住のドラヴィダ族の神であった。
色の黒さはその特徴を表している。またドラヴィダ族が、外来のアアーリア族の支配を受けたことを反映し、明王はそれに従う奴婢や奴隷の姿をしている。おそらくインドの大部分を制圧したアーリア族は、被支配階級のドラヴィダ族を不気味な存在として恐れたあまり、のちにはその神々を、仏教の守護神としてとり入れたものかもしれない。明王の中でも不動明王は、一面二臂という人間とほとんど変わらない姿をしており、この明王が他から際立ち、中心的存在として君臨していることを示している。
 これで納得すれば話は早いのだが、ちょっと違う説明も見つけてしまうから面倒になる。井上光貞編『図説歴史散歩事典』で見てみると、こうなる。
梵名は阿遮羅嚢他というが、この名はヒンズー教の最高神シヴァ神の異名だとする説がある。一説にはシヴァ神が仏教にはいって大自在天となるが、仏陀の命をうけて大自在天を屈服させたのが不動明王だともいう。いずれにせよ、不動明王とよばれるのは、火を観想して動ぜず、あらゆる障害を焼きつくす大智の火を身から発するといわれるからである。
 不動明王は五大明王の中心的存在で、大日如来の使者となり、悪を断じ、善を修し、真言行者を守護する役割をになっている。しかし、本来的には大日如来の教令輪身で、如来そのものなのである。

 この連中、仏像をそう言っては信心深い宗匠に(そう言えば鈴木さんも墓や仏像、神社の前では必ず合掌して拝礼していた)叱られてしまうが、何でもありですね。古代インドの土着の信仰が仏教と習合し、中国、日本と渡ってきてまた日本の民間信仰と混交するから、もともとの姿も様々に変化する。
 ところでこの目黄不動を含む五色不動についてもう一度整理すると、目黒、目白、目赤、目黄、目青の五不動を言う。目黄だけは、この永久寺のほかに江戸川区平井の最勝寺にもあるのは何故か。何やら怪しい気配が漂ってくる。通説では、三代将軍家光が天海僧正の訓えに従って、密教の五色(地水火風空を象徴する)に基づいて江戸府内の要地に不動尊を置いたことになっている。
 これに疑問をもって文献を博捜し、江戸時代には五色不動はなかったと断言するのが、松永英明『まぼろしの五色不動』だ。(http://machi.monokatari.jp/author/fudou.php)この人はまず現代の諸説を三つ紹介する。
 第一は、荒俣宏に代表される説で、天海僧正が風水や訳の分らない方法論を駆使して、江戸市街に結界を巡らすため、五つの不動を配置し、密教の五色を象徴する地水火風空を塩梅したというものだ。(荒俣宏『風水先生 地相占術の驚異』)。一般的な解説としては、これが流布しているのではないだろうか。
 第二は、これとほぼ似ているのだが、天海が設置したのは四箇所(赤・黒・青・白)で、後に黄色をくわえて江戸の五色不動ができたというものだ(本間信治『消えてゆく東京の地名』を代表とする)。四箇所というからには東西南北に違いない。それにもうひとつ加えるとすれば中心あるいは天と考えられる。果たしてそんな配置になっているのかどうか。
 最後は全く違う。八代将軍吉宗が在職二十九年の間、民力休養に心を用いて、享保年間に花見の場所など五か所を選定し、それぞれに不動尊の堂を建てたという説で、要するに幕府の観光政策だったというのだ。これは伊藤栄洪・堀切康司『豊島区史跡散歩』によるようだ。

 最初から五色つくった(荒俣宏)、最初は四色だった(本間信治)、家光と天海には関係なく吉宗の時代の観光政策だった(伊藤・堀切)と、それぞれ意見が異なる。一冊読んだだけでは、たまたま手に取ったものをそのまま信じてしまいそうだが、並べてみると何を信じて良いものやら分らない。そして松永はこれら全てが誤りだと結論づける。江戸時代には目黒、目白、目赤の三色はあったが、目黄、目青はいくら文献を探しても発見できないと言うのだ。
 私も『武江年表』を調べてみたが、あれだけ神社仏閣、出開帳の記事を満載している同書なのに、目青、目黄に関する記事が一つも発見できなかった。一番記事の多いのは目黒不動で、観光名所としても有名だったことが分る。松永はさんざん文献を探し抜いた挙句、岡本靖彦という人の書いた「五色不動存疑」という論文を見つけ出す。『江戸名所図会』『東都歳時記』、切り絵図を探しても目黄、目青は一切発見できなかったことを述べて、
 岡本氏はここで東京日日新聞明治十四年の記事を発見する。これは前年に目黄不動が新設され、横浜に目青不動が安置されることになったという記事だ。とすると、目黄不動・目青不動の出現は明治十三年以降ということになる。
 そして、明治四十四年の『東京年中行事』の記事では五色不動が確立されていることが判明するのである。明治四十四年といえば、明治の終わり。
 岡本氏は、五色不動は明治時代に完成したということを発見したのだ。
 更に傍証を固めて、要するに五色不動は明治以降に作られたという事実に間違いないと結論をだす。永久寺に不動像があったことは間違いないが、「目黄不動」とは決して呼ばれてはいなかった。
 また、浅草勝蔵院にあった明暦不動が江戸時代、メキと訛って呼ばれた可能性はあるらしいが、それだって永久寺にも最勝院にも何も関係ない。まして天海僧正も密教の五色説も全く何の関係もないことが分ってしまうのだ。

 日光街道を北に向かいながら、鈴木さんが鰻屋の店先で肝焼きを一本買っているので、私も摘んでみる。一本百五十円也。「スタミナに不安のある人にお薦め」と鈴木さんが言っていたから食べてみたが、ほろ苦い肝は昼前だと言うのにビールが欲しくなる味だ。
 路地を曲がりこむと真正寺(曹洞宗)だ。江戸時代は門前町が栄え、例外的に町奉行の管轄に入った。例外的にというのは、寺院は本来寺社奉行の管轄になければいけないからだ。質屋の看板を見つけた。
 すぐ向かいには彰義隊に所縁の円通寺がある。曹洞宗で補陀山と号す。ちょうど葬儀の真っ最中で、遠慮しながら境内に侵入する。
 寺伝によれば延暦十年(七九一)坂上田村麻呂が創建し、八幡太郎義家が再建したことになっている。義家が後三年の役で討ち取った首四十八を埋めたものを首塚と言い、これが小塚原の地名の由来とされる。由緒には「奥羽征伐」「賊首」と書かれているが、私は勿論その表現を採用しない。実質は奥羽に対するヤマト国家の領土拡張、侵略戦争だったのだから。首塚の上に七重の塔がある。
 江戸時代には下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に、下谷三寺として有名だった。門前に観音堂があり、秩父・板東・西国の観音像を百体納めていたが、安政の地震で倒壊、散乱し、現在では三十三体しか残っていないそうだ。上野戦争で戦死した彰義隊の死者を埋葬した縁で、寛永寺の黒門を移築した。二百六十六人が葬られている。
 鈴木さんが墓域には入れないと説明するので、他のひとは柵の外から眺めているだけだったが、ちょうど入口が見つかり、私一人だけが中に入ってみた。あとで橋本さんもついてきた。鳥羽伏見、奥羽越、函館戦争で戦死した幕府方の死者を供養する「死節の墓」。松平太郎(榎本武揚の蝦夷共和国副総裁)、天野八郎(彰義隊副頭取)、大鳥圭介の墓がある。土肥庄治郎はちょっと独特な人物で、刀を捨て吉原の幇間になって松廼家露八と名乗った。
 榎本武揚の顕彰碑もあって、「駒込吉祥寺で、武揚の墓を見つけるのは苦労しましたね」と松下さんが思い出す。また福沢諭吉の「痩せ我慢の説」に話題が広がる。益満休之助の名前が松下さんから出た。薩摩屋敷が焼き打ちにあってから海舟に匿われていたが、山岡鉄舟が西郷に会いに行くときに付き添った。益満の死体は見つかっていないから、山田風太郎は蝦夷に渡って生き延びたことにして、『地の果ての獄』に登場させた。そのときの仮名が、独休庵で、英語で読めばドク・ホリディという冗談だ。

 ゆっくり見ていると、もう大半のひとは先に歩き始めていて、リーダーは内心ヤキモキしているのだろう。しかし折角来たからには見るべきものは見ておきたい。分り難い路地の要所々々で、「はぐれてしまうと面倒ですから」鈴木さんが待って案内をしてくれる。
 家と家の間の狭い路地を抜け千住間道に出て、都営南千住アパートの角をまっすぐ進むと、赤レンガの古い塀が延々と続いている。随分広い敷地だったと驚くが、千住製絨所跡地だ。明治十二年(一八七九)に創業された官営の羊毛工場で、明治の富国強兵を担った。当時はまだ女工哀史の時代に入る以前で、最先端の工場へ勤務することは、当人にも家族にとってもかなり名誉なことだった。士族の娘が大量に採用された筈だが、これは富岡製糸工場も同じだ。製絨工場は敗戦によって操業停止した。戦後は地元の大和毛織に売却されたが業績不振で昭和三五年に閉鎖。その後は大映の永田雅一に売られ大毎オリオンズの球場になったりしたが、それも廃止され、今では総合運動公園になっている。大毎オリオンズの話から、松下さんは戦前の職業野球チームの名を色々思い出す。大映スターズと毎日オリオンズが合併して大毎になった。松竹ロビンズもあった。確か小西得郎(「エーッ、なんと申しましょうか」というのが口癖の人)が監督をやっていたのではなかったか。しかし、これについてはダンディも記憶が曖昧だった。
 潟^カハシと言う酒の卸問屋の正面には、酒の銘柄毎にその名を記した古めかしい大きな看板が並んで掛けられているが、「サントリービール」なんていうものがあるから、実はそんなに古いものではない。「昔は店先に薦樽が積み上げられてたよ」講釈師はいつ見ていたのだろう。
 黄色い花はミモザアカシア。これについては、数日後に植物班の間でややこしい議論があって、メール網でギヨウアカシアとかフサアカシアとか、聞いたこともない名前が飛び交った。

 素盞雄神社は延暦一四年(七九五)創建と伝えられる。桃の花が満開で、紅白の取り合わせが美しい。江口さんに向かって「ヤグチモモだよ」と自慢する。だって、名札がぶら下っていたからね。「スサノオってこういう字を書くのね」と女性陣が感心している。スサノオは日本神話ではアマテラスの弟ということになっているが、実は新羅出身だという説があり、また牛頭天王にも関係している。

 すさのおの 神社の桃の 盛りなり   快歩

 雛壇がまだ取り除かれずに飾られている。本殿の前にはかなり大きな岩の上に唐獅子(と私は断言したが、狛犬ではないだろうね。髪の形は明らかに獅子だと思う)が吼えていて、左の吽は子連れだから母獅子なのだろう。「唐獅子って、俺は高倉健しか知らないよ。」『昭和残侠伝』を思い出す山下さんの感覚はおかしい。
 七十年代初頭の東映任侠映画。降りしきる雪の中、傘をさした高倉健(花田秀次郎)が橋の袂に来かかると、そこに池部良(風間重吉)が待っている。「秀次郎さん、あっしもお供します」「そいつはいけねえ、あんたは堅気のおひとだ」「ここであんたを一人で行かせちゃ、風間重吉、渡世の義理も知らない情けねえ男だと、世間の物笑いになります。どうか一緒に連れていっておくんなさい」そこに主題歌『唐獅子牡丹』がかぶさる。
 大公孫樹には子育てをしている母親を描いた絵馬がたくさん吊るしてある。「こういう絵馬は珍しい」と松下さんが首を傾げながら見つけた説明では、イチョウから出る汁が乳の代わりをしたという伝説に因む。それなら「乳房榎」と一緒ではないか。なるほど、絵馬には「子どもが丈夫に育つように」などと書かれている。
 薄黄色の連翹の花。芭蕉旅立ち記念碑の前で、「宗匠、句はできた?」と催促するが、悩んで動揺した宗匠は、切羽詰って「行く春や」などと口走る。芭蕉の名に恐れをなしたか。

 春昼や 千住の宿の 句碑巡る   快歩

 「奥の細道に、西行のことが書いてあるはずなんだけど」と宗匠が言うので探してみるが、その場では分らなかった(私は岩波文庫版を持ってきていた)。後で見てみると、越前吉崎のところに西行が引用されている。
 越前の境、吉崎の入江を舟に掉して、汐越の松を尋ぬ
。    終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松  西行
 この一首にて数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。
 もう一箇所、象潟では、西行「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」を連想する。
先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
   富士塚は慶応元年の築造で、高さ約四メートル。塚の下のほうには瑞光石。社伝では、スサノオ大神とアスカ大神が光を放って降臨した場所とされている。アスカというのは何か分らない。千住大橋を架けるとき、この石の根(って何だろう。岩盤ということだろうか)が大川まで延びていて工事に難渋したという言い伝えもある。平野さんと橋本さんに石を見せるのは問題だった。何か二人で専門的なことを話しているが、私たちにはまるで分らない。「早く行こうぜ」講釈師が急かせ、「今学会で検討中で」と関野さんが笑わせる。
 それでも、四十雀とメジロを見つけると講釈師も動かなくなってしまうから他人のことは言えない。植物の他にも今度は石にも注意しなければならないとすれば、私は大変忙しいことになってしまう。しかし数学出身の橋本さんが石や地質に興味を持つということが分らない。ここに川崎さん(自然地理)が加わるともっと話は長くなるかも知れない。
 小塚原の地名は、円通寺の首塚から来たのだという説と別に、このスサノオ神社の塚に由来するという説もある。

 熊野神社はとても小さくて、門の鍵を開けて入る。伊奈備前守忠次が大橋完成を祈願し、橋が出来上がった時の廃材で社殿を修復したという。伊奈はもともと信州伊那の出身で本貫の地名を苗字にしたが、現在の埼玉県伊奈に領地を得た。だからそれに因んで伊奈の地名をつけたというのは松下さんの説明で「今でも屋敷跡があるでしょう」と橋本さんに話しかけると「そうです。ちゃんとあります」と先生に答えるような回答が返ってくる。伊奈忠次は関東郡代として抜群の功績を上げている。
 「熊野神社って和歌山のかい」と山下さんが不思議そうな顔をする。勿論紀州熊野神社を勧請したもので、熊野神社は全国に分布している。日枝神社などの来歴についても松下さんが説明する。
 元々の山岳信仰に阿弥陀信仰が加わり、補陀落渡海など特異な自殺方法まで考えられたが、中世以降、熊野比丘尼というなかば遊芸化した(時に応じて売色も行なった)連中がその信仰を全国に広めた。白河法皇の頃から朝廷に熊野ブームがおきて、後白河は三十四回、後鳥羽も三十一回御幸している。ほとんど物見遊山なのだが、京都から往復二十日もかかり、道は険阻で、精力絶倫の後鳥羽院に付き合わされる殿上人も大変だった。藤原定家はその日記で愚痴を零している。(堀田善衛『定家明月記抄』による)

 水色の鉄橋が見えてきて、「あれが千住大橋です」とあっちゃんが指差す。近づくと実は水道橋だったから講釈師に散々罵倒され、「だって、色がおんなじですよ。神様じゃないから間違えても仕方がないもん」と拗ねる。三澤さんの記憶にいつまでも残って、事あるごとに言われ続けるかも知れない。
 千住大橋の上に林銑十郎書「八紘一宇」の石碑が建つのは何故だろう。あっちゃんに意味の説明を求められる。八紘は四方、四隅つまり世界を表し、宇は家だ。世界を天皇のもとに一家として統合するという、狂信的な日本帝国主義が採用したスローガンだった。
(文禄三年)九月、千住大橋を始て掛らる(此地の鎮守、同所熊野権現別当円蔵院の記録に、伊奈備前守殿これを奉行す。中流急湍にして橋柱支ゆる事あたはず、橋柱倒れて船を圧し、船中の人、水に漂ふ。伊奈候、熊野権現に祈りて成就すといふ。(『武江年表』
 文禄三年は一五九四年だから、隅田川に掛けられた橋としては両国橋よりはるかに早い。架橋には随分苦労したのだが、一度も落ちたことがないのが自慢になっている。これを渡ると元々の千住宿に入る。橋を渡りきったところが公園になっていて芭蕉の碑があり、壁面には奥の細道の旅程を記した地図も描かれている。
弥生も 末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
   行春や鳥啼魚の目は泪(『おくのほそ道』)
 元禄二年(一六八九)弥生の末の七日、つまり三月二七日は太陽暦では五月一六日にあたる。もう初夏と言ってよい。芭蕉は二七日に船に乗って千住に上陸したと書いているが、曾良日記では「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下剋、千住ニ揚ル」と二十日に深川を出たことになっていて、七日の誤差が生じる。芭蕉か曾良のどちらかの記憶が間違っているか。あるいはこのことから、千住に七日間滞在したのではないかとの推測も生れるようだ。深川から船で千住まで来てどこに上陸したのか、橋の北だったか南だったかも確定できていない。
 芭蕉は四七歳だが(当然、数えで言っているのだろうね)、既に「翁」と呼ばれている。深川の杉風(鯉屋藤左衛門)の別荘で病後の体の療養にあたり当初の予定を大幅に遅れて出発したのだから、この旅は芭蕉にとっては生還期すべからざるものだったに違いない。だから門弟知人が別れを惜しみ、七日も千住に滞在して送別会を続けたというのは充分考えられる。
 千住を出発したその日、『おくのほそ道』では、「其日漸草加と云宿にたどり着けり」とあるのだが、草加までなら二里八町、九キロ程度で一日の旅程としては短すぎる。同じく曾良日記では「カスカベに泊ル」と言う。千住から春日部までならおよそ二十五キロになるか。翌日は間々田まで三十五キロほどを歩いているから、曾良の証言を信用する。芭蕉は結構適当に粉飾しているようだ。

 清水さんが富貴草というものを教えてくれる。よく覚えていないから帰宅後図鑑にあたったが、こんな草だったかしら。記憶力が心許ない。
 橋戸稲荷神社で「鏝絵」と言う珍しいものに(珍しいと思うのは私だけかも知れない)お目にかかった。拝殿の正面左右に、漆喰を鏝で細工した狐のレリーフが置かれている。拝殿の後に土蔵造りの本殿があって、その観音扉の内側に細工されたものだ。本物は年に一回開帳されるだけで、今見ているのはレプリカになる。伊豆長八作。「伊豆に美術館があるだろう」と講釈師は知らないということがない。それなら、その美術館のホームページにアクセスすれば、こんなことが分るのだ。
 (http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/chouhachi_museum.html

 入江長八は天祐又は乾道と号し、文化一二年八月五日(一八一五)伊豆国松崎村明地に生まれました。父は兵助、母はてごといって貧しい農家の長男でした。生来の手先きの器用さに将来は腕をもって身をたてようと志し、十二才のとき同村の左官棟梁関仁助のもとに弟子入りし十九才のとき、青雲の志やみ難く江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学びました。
 かたわら彫塑の技を修めてこれを左官の業に応用し、漆喰を以て絵を画き或は彫塑して華麗な色彩を施し、新機軸をひらいてついに長八独特の芸術を完成しました。
 日本橋茅場町の不動堂再建にあたっては、当時二十六才の長八は選ばれて表口御拝柱の製作にあたり、左右の柱に見るからに風を巻き雲を呼ぶかと思われる一対の龍を描き上げて、一躍名人として名声を博しました。
 浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊など各地に名作を残し、鏝で伊豆長が日本一と全国にその名を讃われました。しかし関東大震災において東京の遺作はほとんど焼失し、この長八美術館に展示するもののほかは、現在では三島の龍沢寺、郷里松崎の浄感寺、春城院、重文岩科学校などにその遺香をとどめるのみとなりました。

 白狐の上の方には卵のような玉が三つ描かれていて、これはなんだろうと聞くと、講釈師は火焔玉だと答える。私が持っていた『図説歴史散歩事典』で確認すると、なるほど、火焔宝珠というものに似ている。狐が火玉を咥えるのは、拝火信仰に関連がありそうだ。
 もういちど日光街道に戻ると中央卸売市場足立市場が右にある。旧ヤッチャ場を引き継ぐ形でできた市場で、現在は鮮魚が専門になっていると、鈴木さんが調べてくれた。しかし、ヤッチャバとは青物市場を言うのであって、それを引き継いだのが鮮魚専門ではおかしくないか。野菜が可哀そうではないか。

   そろそろ昼の時刻だ。京成電鉄千住大橋駅の方に曲がり、あっちゃんがリーダー推薦の定食屋を偵察に先行したが、あいにく休みだった。それでは第二候補ということで、駅構内の食堂に入ると、十五人が充分座れてまだ奥に広い部屋があって、随分余裕がある。
 団体が食事をするときには、できるだけ大勢が注文するものに合わせた方が良い。サバ定食が六人、松下さんがカツカレー、そのほかの人はいろいろなスパゲティ(何種類もある)を注文したが、案の定、カツカレーに続いてサバ定食が出来上がった。市場が近いせいだろうとダンディが推測するように、サバが旨い。ご飯も旨い。小さな冷奴と目玉焼きがついて、食後のコーヒーをセットにしても七百三十五円はお徳です。
 あっちゃんの注文したスパゲティは、生憎ニンニクと油が強すぎたようで、どうやら全部は食べ切れなかったらしい。「あとでお団子食べなくちゃ。」清水さんはスパゲティにセットとしてついてきたサンドイッチも残さず完食した。
 ゆっくり食事を終えて外に出る。「この調子だと五時頃まで掛かってしまいそうです」とリーダーが気を揉む。良いではないか。どうせ夜は反省会と称して一杯飲むことに決まっているのだから。「でも、お茶を楽しみにしている女性もいますから、あんまり遅くなるのはちょっと」と流石にリーダーは考えている。

 日光街道は斜め左に大きく迂回しているが、私たちは真っ直ぐ北上する。これが本来の日光街道になる。道の両側のあちこちには、観光地として生き延びていくために、古い屋号を記した看板が掛けられている。幅二十センチ、縦五十センチほどの木の板に書かれているのは、青物屋、蒟蒻、川魚、紙煙草入れ等。あっちゃんの資料を見なければ、千住の紙煙草入れなんていうのも知らずに済ますところだった。もともと千住は紙漉きの町としても知られていた。和紙を貼り合わせ漆で固めた煙草入れは粋なもので、江戸の鳶職のあいだでは「千住」と言えば、この紙煙草入れのことだったと言う。
 千住歴史プチテラスは元紙漉き問屋の横山家にあった間口二間半、奥行き三間半の土蔵を移築したもので、普段は千住の歴史を分りやすく展示している。市民に開放してギャラリーにもなっていて、中を覗いてみると今日は何か若者達の絵の展覧会の準備の最中らしい。
 花が黄色く、房が一杯ついているのはトサミズキ。房がひとつしかないのがヒュウガミズキ。平野さんに教えられながら歩いていると、すぐにそのヒュウガミズキにも出くわした。町の中を歩いている割には花を見かける機会が多くて、そのたびに植物班が足を止める。
 「旧日光街道」「是より西へ大師堂」の道標を左折する。西新井薬師へ通じる道だ。川原町稲荷はヤッチャ場の鎮守。大きな狛犬は浅草寺のものと同じ形をしているそうだ。ヤッチャ場の商人の財力は侮り難いと鈴木さんが説明する。
 源長寺(浄土宗)にはこの地の新田開発者、石部掃部亮吉胤の墓がある。掃部堤、掃部宿に名を残す。矢野和泉守は大坂冬の陣で大坂方として戦死した。なぜここに墓があるのか分らない。寿老人。千葉さな子の墓もあるらしいのだが気付かなかった。北辰一刀流千葉定吉の娘で、坂本竜馬の妻であると自負し、生涯独身を守った。恐らくそれなりの関係があったのだろう。
 モッコク。朱色のボケ。「赤いボケってあるんですね」と順子が感心する。

 いよいよ千住宿の中心に入っていく。右手に「一里塚」の道標が立っているのが、先日から問題になっていた。千住は日本橋から二里八町。一里塚としては半端ではあるまいか、なぜだろうと鈴木さんが疑問を持ったのが発端だった。都内に現存する一里塚は板橋区志村と北区西ヶ原の二箇所だけになっている。いずれも道の両側に塚を盛り木を植えたものだが、ここの一里塚には塚もないし、道の片側に石標が立っているだけだ。「一里塚」ではないのではないか、それが私の第一勘だった。
 道路の拡張や区画整理で塚が崩され、場所も移動したのではないか、また坂や川など周囲の環境によっては塚を築き難い場所もあって、それを避ければきっちり一里に満たない一里塚も存在するというのがあっちゃん説。鈴木さんの調べでは、この区役所通りは千住堀と呼ばれる小川が流れ、その橋の袂に立っていたというから、彼女の説が正しいかも知れない。
 調べてみると、文化三年(一八〇六)の「日光道中分間延絵図」や幕末ごろの織畑家文書「千住宿宿並図」では、道の片側だけしか描かれていないが、宝暦元年(一七五一年)の「増補行程記」には、ちゃんと道の両側に塚があったことが分るという。とすれば、確かにこれは一里塚だったのだ。川と橋が邪魔をして、ちょうど一里の場所に作ることが出来ず、半端な数値の場所に作られたのかも知れない。

   問屋場、貫目改所跡。天保一五年(一八四四年)の「日光道中宿村大概帳」には、その規模が「宿内町並 南北三十二町一九間、人別九千五百五十六人、家数二千三百七十軒、本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒」と記されている。宿場の規模は大きい。
千住宿における人馬継立ては五十人、五十疋であった。正徳元年(一七一一)の駄賃・人足賃銭は江戸まで荷物一駄九十一文、乗掛荷人共九十一文、軽尻馬一疋六十文、人足一人四十六文であった。(『日本史小百科』)
 宿場女郎、または飯盛女郎は百五十人ほどいた。いつの統計か分らないのだが、旅籠五十五軒のうち、遊女を置いていた店(飯盛旅籠、売食旅籠)が三十六軒あった。
 江戸幕府は公認の場所、つまり吉原以外に遊郭の存在を認めなかった。しかし、人の集る場所には自然発生的に売色産業が勃興する。これは非公認だから、官憲の手入れがあれば文句は言えない。また独占権を維持強化するため、非公認の岡場所に対する吉原遊郭の暴力的攻撃も認められていた。
 千住宿は日本橋から二里八町、わずかに九キロでしかなく、わざわざここに宿泊する人間は少ない。宿駅として宿場の負担も大きく、宿場を維持するためには客を集める施策が必要だった。事情は、江戸四宿といわれる品川、内藤新宿、板橋それぞれに同じだったから、公娼の設置を願い出た。幕府も宿駅を潰すわけにはいかないから(という口実で)許可し、やがて、全国の宿場にもそれなりの許可が与えられた。
 当初認められたのは旅籠一軒について二人の遊女ということだったが、権利は売買され、どの店も平均的に遊女を抱えていたのではない。この千住で五十五軒に対して百五十人ならば三人弱ということになり、規制は緩和されていくのだ。
江戸にて駅妓を宿場女郎と云ふ。三都ともに駅を宿と云ふ。今俗の風なり。江戸の四口、各娼家あり。品川を第一とし、内藤新宿を第二とし、千住を三、板橋を四とす。これ妓品を云ふなり。(『守貞謾稿』)
 
 花魁、格子女郎、夜鷹などの区別について講釈師が講義し「ちょっと寄ってらっしゃいよ」と声色を使う。見てきたみたいだとみんなが笑う。
 通りから左に逸れると鷹野鳥見屋敷跡。邸内には虎斑稲荷があった。今でも中に人が住んでいるらしい。鳥居の正面は入れないように鉄の門で閉ざされ、塀には侵入者を拒絶する金属の棘が付けられている。講釈師が「忍び返しだよ」説明する。なんとか覗けないかと塀の途中に足を掛けたが、狐の石像と祠の屋根が見えるだけだった。

 勝専寺は三宮神山大鷲院と号し、稲荷、毘沙門天、鷲明神を合祀する。浄土宗。閻魔堂に閻魔が存在しているのは当たり前だが「妹(奪衣婆)はいませんね」と宗匠が笑う。赤塚乗蓮寺の閻魔堂には奪衣婆から十王まで賑々しく揃っていたし、新宿太宗寺の閻魔堂には閻魔と並んで奪衣婆がいた。それに比べ、ここにはたった一人閻魔がいるだけだ。
 橋本さんが赤門の謂れを質問してくるのだが私には分らず、トンチンカンな返事をしてしまった。寺の赤門ってそんなに珍しいものなのか。そもそも仏教が中国から伝来した時、寺院建築も伝来し、その派手な色彩もそっくりそのまま移されたのではないかしら。私はとっさに「青丹よし奈良の都」を思い出したのだった。

 青丹よし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり

 「青丹よし」の「丹」は土の色、「青丹色」というと青黒い色であると言う。国語学的には正しい説なのかも知れないのだが、これは華やかで柄の大きな歌に相応しくない。私はむしろ次の説に賛同したい。青と丹は二つのものだ。青は若葉の緑を象徴する。丹(に)は丹頂鶴の「丹」で赤を意味していて、寺院建築に使われた赤の鮮やかさを示している。瑞々しい新緑と寺院の鮮やかな赤との対比。それに咲き乱れる花の白さ。この「花」は梅かも知れない。
 古代のヤマト民族は、アニミズムによる素朴な自然崇拝によって、素木、黒木など、ほとんど加工を施さない材料で社を作っていたから、新文明として渡来した仏教寺院の、その色彩の派手々々しさに驚いたはずだ。
 だから寺に赤門があってもちっとも不思議ではない。というのが無学な私の反応で、それでは赤門のある寺を見たことがあるかと言われれば心許ない。全く当てずっぽうで言うけれど、寺院が現在のように黒を基調とするものになったのは、おそらく禅の影響ではないだろうか。
 私がしどろもどろに説明していると、講釈師が訂正する。私は赤門の「赤」について考えたのだが、橋本さんの質問の眼目は「門」にある。だから講釈師の説明の方が、橋本さんの質問に正しく答えているのだ。歴代将軍が鷹狩の際に休息する場所として定め、宿泊のための仮の御殿も作られたため、赤門を許された。
 講釈師の舌は止まらない。「赤は魔除けの色なんだよ。知ってるだろう、武士の刀に朱鞘があるのは、赤の霊力を信仰しているからだ。」講釈師に「知ってるだろう」と言われても、知っている人はそれ程多くはない。魔除けかどうかは分らないが、勇猛並ぶ者なしという意味で皆朱の槍を許されるのは武士として最高の名誉であった。柄全体を朱塗りにした槍で、秀吉が前田慶次郎に与えた。(隆慶一郎『一夢庵風流記』で読んだ記憶です)

 四つ角で橘井院跡の説明を見ていると、狭い道なのに、ひっきりなしにトラックがこちらの方に左折して来る。危なくて仕方がない。鴎外の父静夫が医院を営んでいた場所で、ドイツ留学前の鴎外も住んで、三宅坂の陸軍病院まで人力車で通っていた。ここから直線距離でも十キロほど、関野さんは人力車の車夫に同情する。鴎外が千駄木団子坂上の観潮楼に居を構えるまで、静夫はここで十四年間、名医と慕われたという。この近くには河合栄治郎の生家もあるはずだ。
 金蔵寺。コンゾウジと読む。真言宗豊山派。二基並んだ供養塔の右側は無縁塔と刻まれていて天保の大飢饉の犠牲者を供養し、観音像を挟んで左の南無阿弥陀仏と彫られているのは病死した千住の遊女を祀ったものだ。葬られた遊女の戒名が並んでいる。信女は確かに遊女だろうが、「童女」というのは禿(かむろ)だろうか。「童子」もある。
 「大塚で見た墓地はずいぶん広々とお墓が点在してたけど、ここは狭い敷地に、まあ、ぎっしりと詰まっていますね」と関野さんが言うので、大塚先儒墓所で橋本さんが「マンションでなく一戸建てだ」と笑わせたのを思い出した。
 本陣跡は百円ショップになっていて、松下さんが嘆く。見番横町の実に狭い路地にはその名の通り見番があり、芸者置屋、俥屋が並んでいたという。こんな狭い路地から人力車が通ったものだろうか。その路地の途中の八百屋の店先で油を売っていたおばさんが私たちを見て、「ここは団体道路になってしまった」と嘆いている。

 「もう急がないと回りきれないよ」と講釈師が急かせる。十五人もいるとどうしても列が乱れ、なかなかまとまらない。
 千住本氷川神社には千住七福神の大黒天を祀る。鳥居の形は「神明系だろうか稲荷系だろうか」と宗匠が聞いてくる。よく分からないが台輪があることに気がつく。台輪をダイリンと読んでしまったが、ダイワと読むらしい。島木に柱が接する部分に付けられているのだが、別に稲荷系だけにあるのではなさそうだ。この頃宗匠は鳥居への関心を強めている。
 石黒飴店では飴を買う人数人。その店先で、自分が持ってきた飴を配ってくれるのは橋口さん。店を離れる私たちの後ろから、「大黒湯は見ないのかい」と声がかかるがそこには行かない。もう一度もとの道に戻ると絵馬屋だ。絵馬を手書きで描く技術はこの店だけに伝えられているそうで、経木に胡粉を塗って、その上に泥絵の具で図柄を描く。
 向かいの横山家は古い佇まいを見せている。安政の大地震の後に立てられた家だ。講釈師がまた一つ知識を披露する。通りに面した間口の長さで負担(冥加金とでもいうのかな)が定められていた。だから、間口を狭くして奥に細長く鰻の寝床のようにするのが慣わしなのだ。京都の町屋も同じことだろう。横山家の敷地は間口十三間、奥行き五十六間というから七百二十坪だ。つまり奥行きは百メートルにも達する。その土地に、間口九間、奥行き十五間、二階建ての母屋を建て、広い敷地の内には土蔵を設け、馬も飼っていた。玄関の柱には彰義隊が切りつけた刀傷が三箇所あると言うのだが、順子と二人でいくら見ても分らない。
 かどやの槍かけ団子。「三澤さんに叱られる前に」と言いながらあっちゃんが素早く買い込み、「四本全部食べてしまいそう」と言いながら、それでも二本で我慢したようだ。松下さんもすぐに口にくわえる。
 名倉医院は駐車場の向こうに長屋門を見る。手前の家を指差して、ここに入院患者を収容したと講釈師。患者を収容する施設がなかった頃は、名倉接骨医の患者を専門に泊めた宿があった。「子供の頃、肘が抜けやすくて、よくこの病院にかかりました」というのは鈴木さんだ。
 安養院は千住で最も古い。真言宗豊山派で文永年間(一二六四〜一二七四)創建。左手奥にかんかん地蔵と呼ばれる地蔵が、顔から胸まで随分滑らかに肌を削られたようにして立っている。鈴木さん、松下さん、橋口さんが叩いてみる。橋口さんは遠慮しいしい叩くから余り音が冴えないが、力を入れるとカンカンと鳴る。
 ここから西へ日光街道を横切って氷川神社。永仁年間(一二九三〜一二九九)創建という。ここでやっと覚えた鳥居についての豆知識を披露する。貫が柱を貫通していないのは古い形で伊勢神宮系統に多い。笠木も反っていないのは古い。両部鳥居は赤塚氷川神社と同じ形だ。両部と言うのは稚児柱を付けているもので、安芸の宮島、厳島神社のものが代表的だ。紙漉きの碑。富士塚は足立区内で最古のものだ。

 「江戸の洒落だよ、分るかな」講釈師は絶好調だ。銭湯の入口に十五センチ四方ほどの板に「わ」の文字を書いた札が掛かっている。「板にわだから、わいた。沸いた。店を開いている間はこっちが向いている。板の裏は、ぬになっていて、抜いた。これが掛かっているときは掃除中だよ。」ちょうど銭湯から出てきたおじさんが、その声に耳を止めて、「そんなことは聞いたことがないな」と呟いている。「地元だって、知らないやつが多いんだ」と講釈師は気にもとめない。
 鈴木さんの説明は正しく、実に銭湯の数が多い。地図で見ると大橋から北側だけで、金の湯、タカラ湯、梅の湯、千代の湯、竹の湯、梅月湯、旭湯、子桜湯、大黒湯とこれだけ確認できた。
 元宿神社には「感旧碑」が建つ。荒川放水路掘削に伴って、父祖伝来の地を離れざるを得なかった人が、大正五年に建てたものだ。荒川は「荒」の文字が現すように、古代からしばしば川筋を変え氾濫を繰返したから下流域の開発は遅れ、戦国時代以降、支配者は治水に苦労した。寛永六年、関東郡代伊奈忠次が熊谷市久下で河道を締め切り、入間川に落ちるようにした。元の河道は熊谷で荒川から離れて吉川で仲川と合流する元荒川になっている。また同時期に、利根川の改修も行なわれて渡良瀬川、鬼怒川と合流した。しかし、付け変え後の荒川(元の入間川)は下流域では隅田川の河道を走り、台風の大雨にしばしば溢れて江戸下町に浸水した。
 近代になって、大正元年から二十年の歳月をかけ、北区から東に荒川放水路を掘り、中川に繋げる大工事を行なって、これを荒川本流とし、さらに新中川が掘られて旧江戸川に結び、その東に江戸川放水路も作られた。こうして現在では荒川の氾濫もほとんど話題になることはなくなったが、そのため故郷を追われる人も出た。感旧碑の一部を引用する。
 (http://www.yamazakishouten.co.jp/ara2.html
明治四十年、同四十三年洪水あり、家屋を浸すこと十余日、田圃荒廃に帰するも、尚去らず。大正元年八月、内務省、荒川改修の工を起こす。我が邑も亦、改修区域に属す。すなわち十四家故地を挙げて之を公に致して、以って四散せり。嗚呼、我が族、此に住みしより四百余年なり。(中略) 今故地を去るに臨みて愛慕の情転た禁ずること能はず。すなわち碑を八幡祠前に建て、その梗概を記して以って不朽に伝へんと爾云。(原漢文、訓読は足立区資料による)
 北千住駅を目指して墨堤通りを南に下る。掃部堤と称した通りだが、左手にある低い道との間にはかなりの高低差があって、この道は水避けの堤だったことが分る。
 鈴木さんは原っぱの向こうにお化け煙突の跡を指差す。幼少の頃の記憶が鮮明に残っていると言う。もともと東京電力火力発電所の煙突が五本、六二・二メートルと一〇・五メートルとの対角線をもつ、ひしゃげた菱形の土地に立っていたから、見る角度によって本数が違ったものだ。火力発電所は大正十五年一月に建てられ、空襲にもあわずに昭和三九年二月に操業をやめた。お化け煙突といえば『少年探偵団』にも登場していなかったかしら。「そうだよ、怪人二十面相なんかじゃ、よく舞台になっていた」と講釈師が教えてくれる。もの侘しく、怪しげな雰囲気があったのではないだろうか。

 リーダーが企画した場所はまだ数ヶ所残っているが、「お茶を飲む時間がなくなってしまいますからね」と残りを割愛することをリーダーが決断した。省略したのは大正記念道碑、千住神社、S氏生誕の地だ。「S氏生誕の地は今日のハイライトだったのに」とダンディが残念がる。
 北千住がこんなに人通りの多い賑やかな町だとは知らなかった。大都会ではないか。なんとなく千住という地名から、昔赤線のあった寂れた町という、理由のない偏見を抱いていた私は深く反省しなければならない。
 千住に対する私のイメージはこんなものから形成されていたらしい。
そんななかでも、やはり時には女のいる街へ出かけた。どこをどう工面したのか、記憶にはない。今覚えているのは、ファジェーエフとか、カターエフとか、オストロフスキーとか、その度に古本屋へ持って行った作家たちの名前だけだ。新宿二丁目あたりは問題にならなかった。あんな所はブルジョア階級が豪遊する場所だと思いこんでいた。一度だけ、配達用の青自転車で駆け抜けたことがある。豪華さと、美人が多いのに驚嘆した。少くとも、当時の私には、そう思われた。私が時たま出かけるのは、北千住の街だった。立石や、鐘ヶ淵の方面へは、近くの採血会社の帰りに寄ったりした。(五木寛之『風に吹かれて』)
 五木寛之の回想は売春防止法以前のことだから、いつまでもこんなイメージを持ち続けていては、千住に対して失礼であった。松下さんと江口さんの万歩計によれば、今日の行程はおよそ十三キロ程度ということになる。僅か一駅の区間だが見るべきものが多く、これだけ歩いてもまだ見足りないものがある。

 もう四時半を過ぎた。清水さんはここで別れたが、十四人の団体が入れる喫茶店はあるろうか。バーミヤンはどうだろうかと鈴木さんが覗いてみるが満員で入れない。「全く流行っていない喫茶店でも良いですか」と案内してくれたのは甘味処で、確かに全く流行っていない。椅子席と小上がりがあり全員が席についたが、他に客はいない。一番奥のテールには、子どもに食べさせていたらしいチャーハンの残り皿が置かれたままだ。この店でも三澤さんの注文した紅茶が一番遅くなった。今日の講釈師はついていない。
 五時半頃に店を出て解散。本当に反省するために飲みに行くのは松下さん、平野さん、鈴木さん、江口さん、山下さん、橋本さん、あっちゃん、順子、私の九人。鈴木さんが構想していた時刻を大幅に遅れてしまったために、第一候補の店は一杯で入れなかった。ただその店は焼き鳥専門のようで、江口さんが焼き鳥の苦手なのは知っているから却って良かった。次ぎの候補の居酒屋になんとか入ることができた。後の席に、小さな子ども連れの客がいる。どこの居酒屋でもそうだが、この頃、子連れの客を多く見かけるが如何なものだろうか。私が言うのもなんだが、煙草の煙は子どもに悪影響を及ぼすのではないか。
 橋本さんは最寄の駅に車を置いてきたので酒が飲めない。残念なことだ。男どもはすぐにビールを空けて焼酎に切り替える。初めての参加だから「猫を被って」と言っていた順子も、ちゃんとビールをお代わりしている。
 次回以降の企画を話し合ううち、五月は松下さんが忙しいので、あっちゃんに企画してもらうことになった。森下から菊川方面ということだから、第一回「深川編」で歩いたところの少し北から東の辺になる。七月は松下さんが品川、馬込方面を考える。九月は宗匠の落合か。そのほか、あっちゃんは赤羽方面も行きたいと言うし、私は板橋宿を中心に前回歩けなかったところもやってみたい。
 二時間ほど楽しんでから、まだ物足りないあっちゃんと平野さんに促されて、鈴木さん、松下さんと一緒に魚の旨い店に入る。どうやら今日は飲みすぎになりそうだ。