「東京・歩く・見る・食べる会」
第十一回 赤坂・麻布編 平成十九年五月十二日
永田町駅平河町口改札に集合。ダンディ松下、三澤講釈師、関野碁聖、江口宗匠、平野予報士(熊楠)、鈴木さん、島村さん、三木さん(本シリーズ初参加。平野さんの大学の先輩で、ただし年齢は逆だと平野さんが言っている。越谷在)。女性は三木さん(偶然にも同じ苗字の人が二人になった)、橋口さん、佐藤さん、清水さん、リーダーのあっちゃん。総勢十四人は前回の千住編に次ぐ。 全員が揃ったところでリーダーから資料が配られる。事前にメールで貰っていたコース案内に更に写真が入り、江戸切絵図のコピーが二枚。彼女は五回も下見をしていて気合が入っている。 昨日の強風が嘘のように、今日は穏やかな散策日和だ。リーダーの心掛けが良いのだろう。午後は少し暑くなるかもしれない。三木さん(男性)は、都内を歩くのだからと背広に革靴の格好で、これで十キロほども歩くのは大変ではないだろうか。ダンディもジャケットを着こなしている。鈴木さんは帽子をかぶってくればよかったと、少し後悔している。講釈師は珍しく眼鏡をかけていて冷やかされている。 五番出口から地上に出ると目の前には首都高速が走る。この光景を見て池波正太郎は嘆いた。
最初は赤坂見附の石垣を見る。江戸城では、堀の分節になるところに枡形の城門を設置し、それを見附と称した。その名の通り、城門の外側には番所を置いて通行を監視するのだ。三十六見附と呼ばれたようだが、実際には江戸城の城門は百近くあり、主要なものに限っても三十六は越えているから、この「三十六」というのは、主要なとか、多数のという意味だ。(大石学『地名で読む江戸の町』による) 古地図を見れば、赤坂見附のところから南に、ちょうど外堀通りになっているのが、溜池へ続く濠だったが、今はない。 弁慶橋を渡る。この橋は明治になって架けられたものだ。
紀尾井町通りの右側、赤坂プリンスホテルの辺りは紀州徳川家の中屋敷で、道の左のニューオオタニのところは彦根藩井伊家中屋敷、井伊家の北側には尾張徳川家(上智大学になっている)の中屋敷があった。そこから紀尾井町と称された。 この赤坂プリンスホテルの地は維新後、北白川宮家、後に李王家の屋敷となったところだ。 宮家についてはダンディが詳しい。(インテリのダンディだが、実は隠れた皇室ファンかも知れない)かつて四親王家というものがあった。天皇の「万世一系」を担保するために保存された血筋だが、伏見宮・有栖川宮・桂宮・閑院宮の四宮家を言う。もともと三親王家と称され、それをヒントに徳川幕府が御三家を創設することにもなるのだが、新井白石の進言で更に閑院宮を加えて四家となったという。皇位継承権でも他の宮家とは違う重要な位置を占めるのだろう。 中でも最も古くから続く伏見宮家は、北朝第三代・崇光天皇の第一皇子・栄仁親王に始まるというから、実に南北朝時代に遡る。仮にこの宮家から皇位継承するものが生じたとして、それでも「万世一系」と言えるものだろうか。 天皇家の場合、継体天皇のときにいったん途絶えている可能性を否定できない。継体は応神天皇五世の孫とされているが本拠は越前にあった。継体の前の武列は同じく六世の孫だが、その死後、継体が即位するまでには二十五年を要したから、そこに王朝の断絶があったと考えるほうが自然だ。そもそも継体以前、血筋をもって継承された「天皇家」というものが存在したかどうかも実は疑いがあって、有力豪族の連合体が、持ち回りで大王を決めたのではないかという説もある筈だ。勿論その当時「天皇」という呼称はない。天武天皇の時代、律令制度の成立に伴って、大王(おおきみ)と言われていたものを「天皇」と称するようになったのだ。和田萃(『大系日本の歴史2』小学館)によれば、継体は息長氏であり、その祖父が大和河内連合王権の外戚として力を蓄えたことで推戴された。 終戦当時は十四宮家が存在した。昭和天皇の実弟である秩父・高松・三笠(直宮家という)に加えて、伏見宮・梨本宮・山階宮・久邇宮・北白川宮・閑院宮・東伏見宮・賀陽宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮家だ。また別格として皇族に準じた王公族の李王家が存在する。このうちの秩父・高松・三笠を除いた十一の宮家は昭和二十二年十月、臣籍降下し、李王家は当然その地位を失った。 臣籍降下した宮家は一挙に無収入となった上に相続税が重くのしかかった。それまでは歳費が給付され税も免除されていたものが、一時金を給付されただけで全ての特権を失った。特に広大な屋敷地を持つ宮家にとっては相続税が最大の問題で、堤康次郎がどんな手口で、これら宮家の屋敷地を手に入れたかは、猪瀬直樹『ミカドの肖像』に詳しい。宮家(プリンス)の土地に建てたホテルだからプリンスホテルと称した。 すぐに小さな公園があって、ここは清水谷公園という。最初に目に付いたのがヤマボウシだ。私はハナミズキとの違いがよく分かっていないが、ほんの少し黄味がかった白い花はすっきりしている。あっちゃんと平野さんが懇切に説明してくれるが、すぐに忘れてしまう。ヤマボウシは葉裏に毛があるのだ。公園の中には躑躅の植え込みが目立つが花はどうやら終わっている。 「清水谷公園って、よくデモの集合場所になったんじゃないかしら」清水さんは意外に古いことを言う。確かに今日のコースは昔の左翼のデモコースともかなり重なり合っている。清水さん自身、デモに参加したことがあるのか。 大久保利通が暗殺されたのがこの近くで、「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建つ。見上げるほど巨大な石碑は緑泥片岩。「犯人は確か六人いたよ」いつものことながら講釈師の記憶には驚かされる。明治十一年五月十四日、大久保を殺害したのは石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の六人に間違いない。 彼らは西郷を殺したのは大久保だと判断したのだが、果たしてそうか。また大久保については、なんとなく冷徹とか権謀術数等のイメージが流布しているのではないか。西郷挙兵に際して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と伊藤博文に書き送った手紙を持ち出して、その冷徹を言う人は多い。 大久保の生前を知る者の談話聞き書きを集めたものがある。報知新聞記者の松原致遠がインタビューして明治四十三年から報知に連載され、後に単行本になった。今は講談社学術文庫で入手できる。その『大久保利通』(佐々木克監修)から少し引用してみる。ちょっとイメージが変わるかも知れない。
もともと武蔵野台地の低地には関東ローム層から水が湧き出て、小さな集落ならば充分に賄える程度の水量は確保されていた。それが江戸の都市化と人口の急増で水は到底まかない切れず、また当時の技術では井戸を深く掘り下げることもできなかったから、幕府は上水道を敷設することになる。その水道に使われた玉川上水石枡も展示されている。 清水谷の碑から突き当たりを左折すれば紀尾井坂だが、そちらには向かわず、ニューオオタニの側に渡って弁慶橋に戻る。頭上の高速道路を見上げながら道を横断すると、「初めての場所だから外国みたい」と佐藤さんが清水さんに話しかける。講釈師が「前田病院だよ」と声を出す。芸能人御用達の病院だと言いながら、橋口さん、三木さん、佐藤さんが少し遅れて来るのを待っている。知識を伝達するためだ。芸能関係のニュースに詳しいのも講釈師の資格には欠かせない。 紀之国坂の標柱がある。紀伊国坂とも書く。坂の西側一帯、迎賓館を含む御用地が紀伊家の下屋敷だったからだ。かつては赤根山とも称され、その山に登る坂であることから赤坂と呼ばれるようになったというのが、地名由来の一つの説になる。赤根は茜で、多く自生していたものだろう。もう一つ、赤土の土地だからという説があるが、これは余り感心しない。関東ローム層の赤土は江戸中至る所で見られるはずだから、ここだけを特にその色で表すだろうか。また染物屋甚三なる者が赤い染物をこの坂に干したことによるという説もある。 小泉八雲『むじな』は、この坂が舞台になっている。のっぺらぼうの話だ。
稲荷は稲荷山に由来する。和銅四年(七一一)二月壬午の日に、秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が勅命を受けて伊奈利山三ヶ峯(東山連峰の最南端に位置する)に三柱の神を祀ったことに始まる。稲荷山全体が神体になる。(秦というから渡来系の氏族だ)稲荷は「稲生り」にも通じ、つまり豊穣祈願が趣旨で農耕神といってよい。 主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)で、別名「御饌津神」(ミケツノカミ)と言う。大気津比売神(オオゲツヒメ)、保食神(ウケモチ)というもの同じ神のことだろう。いずれも五穀豊穣、農耕の起源を象徴している。たまたま狐の古名が「ケツ」であり、御饌津神を「三狐神」とこじ付けた結果、狐が稲荷神の使者、あるいは眷属になってしまった。つまり単なる語呂合わせだった。ただ日本の文化、民俗の起源にこの種の語呂合わせによるものが多いのは、「ことば」は事魂であり、それが同じならば必ずそこに何かの関係があると見做したからだろう。 一方、空海が真言密教を将来したとき、荼枳尼天(荼吉尼天)ダキニテンというものを持ってきた。本来はインドの農業神であったが、やがて人肉や生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。女神だから鬼子母神にも似ている。大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、死者の心臓であれば食べても良いと許可され(これもおかしな話だが)、仏教に帰依した。狐に跨っているのを常態とするので稲荷信仰と習合してしまう。そして伏見神社は真言宗の東寺の総鎮守になった。 おそらく中世の真言密教、それに影響を受けた山岳信仰が民間信仰と習合した。おそらく江戸時代には、これら神仏両系統の信仰が渾然としていたのだろうが、明治の神仏分離令によって、渾然一体は許されなくなった。神道か仏教かの選択を迫られ、大多数の稲荷は神道系を選択し(つまり伏見神社を総本社とする)たが、この豊川稲荷はあくまでも仏教寺院であることに執着し許可された。稲荷が神社かお寺かなんていうことは、江戸人にとっては余り関係ないことだっただろう。神仏習合は中世以来ごく当たり前に存在していた。このコースを歩かなければ、私はこんなことも知る機会がなかった。 本山は三河国円福山豊川閣妙厳寺。真言宗ではなく曹洞宗だ。由緒によれば鎌倉時代、入宋した寒厳義尹が荼吉尼天の加護を受けたことから、その弟子の東海義易によって創建された。宗匠はさすがに本堂の前に垂れ下がっているのが鈴ではなく鰐口だったと、きちんと確認している。千本幟と言われるほど多くの白い幟がぎっしりと並んでいる。油揚げを買って供えている参詣客もいる。 大岡忠相がその晩年、一万石の大名に取り立てられ、知行地の三河国西大平(岡崎市)にある豊川稲荷を信仰したことから、一ツ木にあった江戸の屋敷内(青山通りの向かい側)に勧請したのが別院の起こりになる。大岡邸が明治二十年に赤坂小学校用地となったため、定火消し役屋敷跡地だったここに稲荷が移された。ついでだが、町奉行から大名に昇進したのは他に例がない。 一ツ木通りから赤坂の街に入る。一ツ木。古記録では人継ぎ、あるいは人次とも表記されるが、この辺一帯、すべてがそうであり、赤坂はその一部だったのだが、逆転した。 赤坂は私には縁遠い街だった。テレビ業界人や外人がむらがる街で、私の懐具合ではちょっと飲めるような場所ではあるまい、というのがずっと若い頃からの偏見(?)だった。「コパカバーナ」、「ミカド」、「ニューラテンクォーター」などの店名を聞くだけでも私には縁がなさそうだった。 赤坂を歌った歌謡曲と言えば、清水さんやリーダーは『コモエスタ赤坂』を口にするが、一ツ木通りで私は西田佐知子を思い出す。関口宏と結婚して以来、公の場で彼女の歌声を聞くことがなくなった。少し鼻にかかったノンヴィブラートの歌い方は、いしだあゆみや後に竹内まりあに影響を与えたと思うけれど。
ついでだから、かつて歌謡曲というものが存在したということも言っておこう。昭和三十年代から四十年代半ばに至るまでがその全盛期というべきで、五十二、三年頃まで新宿の赤提灯には流しのギター弾きや、時にはバイオリンを抱えた演歌師の姿も見られた。カラオケの出現によって、その職業は完全に息の根を絶たれたが、おそらくその頃から歌謡曲は死滅への道を辿って行ったのだ。 右手の石坂を登れば威徳寺〈真言宗智山派〉。赤坂不動尊がある。小さな不動尊で、知らなければ民家に入る坂だと思ってしまう。拝殿の脇にあったパンフレットを開いて見ると、五大明王の全てが揃っているというから珍しい。不動明王、金剛夜叉明王、降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王だ。 ちょっと見ただけですぐに裏から出て路地を歩くと赤坂小学校の裏手に出る。どうやら廃校(統合された)になったらしく、「だって子供がいなくなっちゃったんだよ」と講釈師が言う。ここが大岡忠相の屋敷地だったところだ。そこからマンションや民家の間の、こんな所を歩けるのかと思うほどの道を抜けながら、丹後坂という石段を降りる。江戸の山手は坂の街だ。下れば必ず上りがあって、このあとリーダーは何度も、「ここが最後の坂です」と言う羽目になる。三木さんは頻りに切り絵図を見ながら場所を確認しようとするが、江戸の地図を見ながら現代の道を辿るのは容易ではない。 円通寺坂は工事中だ。このあたりは静かな住宅地になっているが、上りの坂道が結構きつい。もともとの赤坂の武家屋敷のあった風景なのだろう。鈴振稲荷という小さな祠にも立ち寄って見る。由緒は古いが、おそらく江戸の町中に無数に作られた稲荷の一つだろう。「江戸に多きもの、伊勢屋稲荷に犬の糞」。円通寺には立ち寄らず、坂の頂上から左に曲がると、「ここは尾根になっている」と鈴木さんが気がつく。確かに左右とも谷になっているからまさにここは尾根道になる。 今回は行かないが、この頂上から右に行けば薬研坂を下って高橋是清邸のあった高橋公園に出ることができる。先日、連休のときに私は小金井の江戸東京建物園で、移築された是清の屋敷を見学したばかりだ。 もともとは住宅地だったに違いないが、ガデリウスビルとかパークビルとか書かれたビルが並んでいる。TBSの敷地になっているのが松平安芸守の中屋敷だったところだ。安芸広島の浅野家本家になる。家康の外孫だから松平の名乗りを許された。 そこから右に曲がる道が三分坂だ。実に急な坂でしかも途中でほぼ直角に曲がっているから、荷車はかなり梃子摺ったに違いない。これをサンプンと読ませる。標柱にSANPUNZAKAと書いてあるから間違いない。車の後押し賃が銀一匁の十分の三だったから名付けられたという説明だ。リーダーが作ってくれた資料でもそうなのだが、いくつかネットで検索した記事でも、この説を採用しながら「三分」は百円程度だと記している。百円というその根拠はどこから来るのか。宗匠の勘では百円というのは安すぎる。 まず「さんぶ」と読めば、一両が四分だから、ちょっとした割り増し料としては大きすぎる。「ふん」の読み方の根拠が分からないのだが、とりあえずこの場ではそのまま信じることにするしかない。 江戸の貨幣制度はややこしい。金、銀、銅銭の交換比率は毎日変動するから両替商というものが非常に大きな力を蓄えた。私は事前に計算してみたのだが、「眞人さん、おかしいよ」と宗匠に一喝されてしまった。実は私の計算では一両が六十万円にもなってしまい、どうやら、どこかで大きな間違いをしてしまっていたようだ。冷静になって計算しなおしてみたい。 一両は四分、一分は四朱。一方、金一両が銀六十匁、銭四千文というのが、慶長の頃定められた公定歩合だったが、幕末期には一両の価値は六千文程度だったと推測される。だからここでは計算しやすいように、金一両=銀六十匁=銭六千文としてみる。 かけ蕎麦の値段は二八という通り十六文が相場だ。駅の立ち食い蕎麦程度として三百円と考えようか。それならば一文は十八円七十五銭、一匁はその百倍で千八百七十五円、一両は十一万二千五百円ということになる。 ところで上方では、銀一匁が十分、その十分の一が一厘(一文)という単位も使われた。これならば一「分」は十文に相当する。この「分」が「ぶ」なのか「ふん」なのかは、やはり分からないが、説明にある通りならば三分坂の「分」はこのことで、三分は三十文で五百六十二円五十銭となる。 大工の手間賃が三匁から五匁という。上の計算からすれば日当五千六百二十五円から九千三百七十五円となる。 一方、米価を基準にとればまた変わってくる。江戸庶民の金銭感覚は基本的には米がどれほど買えるかで決まるはずだ。一両で一石というのは宗匠と意見が一致した。では一石というのは何キログラムか、これが分からないから情けない。調べて見ると百五十キログラムということだった。十キロ五千円とすれば一両は七万五千円で、一匁は千二百五十円、一文が十二円五十銭となる。二八蕎麦は二百円、大工の日当は三千七百五十円から六千二百五十円となる。おそらくこの方が江戸人の感覚に近いのではないだろうか。人間の労働力がいかに安く使われていたか。庶民は一石なんていう単位で買わないから、米一升は六十文で買った。 これならば三分(サンプン)は四百円弱となって、ちょっと贅沢に天ぷら蕎麦が食えるか、あるいは米五合が買える程度ということになる。 しかし、この計算は米価が安定しているときであって、飢饉が主な原因で米価はあっという間に高騰する。天明の飢饉の頃には百文で五合五勺、天保の飢饉でも百文で六合九勺の米しか買えなかった。主食の値段が三倍にもなっては、一揆が起こるのも当たり前だ。 坂が直角に曲がるところが報土寺だ。築地塀は瓦と粘土を交互に積み重ねた形式の練塀で、これは谷中観音寺と同じものだ。ただ、観音寺のほうは今にも崩れそうだったのに、この寺の塀は手入れが行き届いているのかしっかりしている。塀が道のほうに少し弓なりに反っているのが珍しい。「忍び返しじゃないよ」と誰かが言っている。 この寺は雷電為右衛門に所縁がある。雷電は明和四年(一七六七)信州に生まれた。浦風林右衛門の弟子となって十八歳で江戸に上り、二十三歳で雲州松江藩主のお抱え力士となって、「雷電為右衛門」を名乗る。大名の抱え力士というのは、「足軽」か、それよりちょっと下の身分に相当するが、それでも一応士分に準じた扱い「卒」となるようだ。苗字の名乗りを許される。 二十九歳で大関に昇進してから四十五歳で引退するまで大関の地位を維持した。この当時は年に春秋二場所、晴天十日の興行が本場所になる。ある年の冬には、雪、雨の影響で十日の興行を実施するのに三ヶ月もかかったと言われている。 生涯の成績は二百五十四勝十敗、行事預かり他二十一。勝率は九割六分二厘。古今無双と言って良い。少し先輩格にあたる谷風、小野川が横綱免許を許されているのに、この雷電が横綱にならなかったのは何故か。抱え主の出雲藩主の力が弱く、横綱に推挙するための根回しができなかったという説もあるが、よくわからない。 雷電という名の力士は為右衛門のほかに三人いる。一人は一世代前になるが、宝暦から明和・安永にかけて関脇として活躍した雷電為五郎だ。雲州松江藩の抱え力士だから為右衛門と同じだが、わが主人公が力士になる一年ほど前に没した。為右衛門と同時代には明石藩抱えの雷電灘之助がいたが、余りにも実力が違いすぎ、姫路藩に移って手柄山を名乗ることになる。明治になって雷電震右エ門がいる。名乗るときには旧雲州藩主松平家に伺いを立てる手続きが必要だったようだが、大関を陥落してから名を改めた。これ以後雷電を名乗る力士はいない。余りにもかけ離れた力士の名を襲うには、余程の覚悟が必要で、とてもそんな大それた望みを持つ者はいないということだろう。 寺の鐘は文化年間の大火で消失していたため、雷電の発願で鋳造されたが、幕府の忌避にあって取り壊された。雷電については私が読んだ唯一の本、飯嶋和一『雷電本紀』に寄りかかるしかないのだが、この事件には幕閣の間の権力争いが絡んでいる。もちろん小説だから、真偽については保証しかねる。 寛政年間、鐘の再鋳を禁ずる法令が発せられた。鐘再鋳のための勧進と称して、集めた金を私する僧侶や勧進元が相次いだための措置だが(寛政の改革を推し進めた松平定信の硬直した発想を示している)、実際にはどの寺院も鐘を失ったままでは格好がつかず、なんとか理由をつけて鋳造していたのが現実だった。ところが寺社奉行脇坂淡路守の失脚を狙う一派がいて、その在任中に決裁した案件の不備をあげつらうため、雷電の一件を持ち出したことから事件が生まれた。 この結果、雷電は江戸払い(品川、板橋、千住、本所、深川、四谷、各大木戸より内、御構い)の刑に処せられ、内藤新宿に住まいを移した。新宿は江戸払いの範囲外だったことになる。ただ、この辺が江戸の刑法の融通の利くところなのだが、居住は許されないが、旅の途中で江戸府内に立ち寄ることは一向に構わない。但し旅行中であることを証すため、必ず草鞋履きでなければならなかった。すでに現役を引退していた雷電は雲州藩相撲頭取また相撲会所年寄として、草鞋を履いてしょっちゅう江戸に出てきて、斯道繁栄に力を尽くした。当時の相撲取りとしては相当の知識人で、膨大な日記を残していると言う。 鐘は明治になって復元された。太平洋戦争で供出されて行方不明になっていたが、昭和六三年、偶然あきる野市の普光寺に「東京市赤坂咲柳山報土寺」と刻印された鐘が発見され、その後,平成元年になって報土寺に戻された。鐘が戻って三年後新たな鐘楼が完成し、その落慶法要の際には横綱千代の富士が初鐘を撞いたということだ。 雷電が寄進した鐘の竜頭は四つに組んだ力士を象り、鐘の上部には相撲場の水引幕が揚巻きで絞り上げられている図柄が彫り付けられ、その下には相撲場の四本柱、蹲踞している力士の姿が描かれていた。それが「異形」とされ、幕府の忌避にあったと説明されているのだが、私たちが見ている鐘の竜頭は文字通り二匹の龍で、相撲に関する図柄など全く判らない。とすれば明治になって復元したとはいうものの、元の意匠は採用されなかったのではないか。 墓石の前で「関取だから、咳を取る。風邪除けの効果もあった」と講釈師は江戸の駄洒落を持ち出してくる。その前には力石が置かれ、「三十〆目」と書かれているようだが、これが読めない。貫目ではないだろうねと恐る々々提案して見るが、「それじゃ百キロを越えてしまう。そんな筈ないよ」と宗匠が指摘する。 寺を出て坂を下ると突き当たりに「さくら水産」を見つけて鈴木さんが感心する。「こんな所にもあるんですね」懐具合の豊かではない酒飲みにとっては有難い店だ。平日は昼時にもやっているのだが、リーダーが食事の場所を探して事前に聞いてみた結果、土曜日は昼の部は閉めているということだ。 交差点の角にある赤坂五丁目交番は赤レンガ造りの建物だ。赤坂通りを乃木神社まで。和菓子の「青野総本舗」は芸能人御用達の店だとあっちゃんが教えてくれる。ナントカが出演するナントカと言う番組でゲストが土産によく持ってくるのだそうだ。当然のことながら私は知らない。誰かが頻りに「ごようたつ」と言っているから訂正したい。「ごようたし」と読まねばならない。ここに赤坂小学校があった。さっきの元大岡忠助邸から統合によって移転してきたのだろう。 乃木神社ではちょうど結婚式の最中で、烏帽子直垂を身に着け、ヒチリキ(と宗匠に教わった)を奏でる三人が先導して新郎新婦、親族が本殿に向かう場面に出くわした。どうも外人の姿が多いと思っていたのだが、案の定、新郎は白人だった。日本人はクリスチャンでもないのに教会で式を挙げ、西洋人が神社で結婚する。
乃木希典は軍人としては全く無能だった。田原坂で軍旗を奪われたことは言わない。戦いの最中にどんなことが起きても仕方がない。負けることもある。しかし二〇三高地をその頂点とする旅順攻略戦で、日本軍の戦死者一万五千四百人、負傷者四万四千人もの犠牲者をだしたのは完全に乃木の無能無策によるものであり、死者に対して責任がある。己の息子二人を戦死させたことで乃木を悲劇の将軍と見る見方もあるが、私はその意見には賛成しない。しかし明治天皇の信任は厚く、学習院の院長に就任した。こんな人物をどうして神として祀るのか、私にはまるで理解できていない。 漱石『こころ』はよく分からない小説だが、乃木夫妻の殉死を聞いて、「先生」もまた自殺を決意する。鴎外は『阿部一族』を書く。この無能な将軍の自殺が、鴎外漱石という明治最高の知識人に与えた衝撃は大きい。何故か。 来た道をもう一度赤坂に戻って、チサングランド一階の「オーガニックハウス」というカフェに入る。万一満員で入れないことも予想して、リーダーが予約していてくれた。ここに来るまでの間、あっちゃんが「好きなだけ選び放題、支払い放題です」と言っていたものだから、私はてっきり定食屋のようなものを想像していたのだ。野菜の煮付け百円、納豆五十円、焼き魚百五十円といった小皿を選んで会計するような店だ。私の想像力がいかに貧しいかを証明した。 想像とは全く違っていたが、さすがに生態系保護協会の元支部長が選ぶ店だ。オーガニックとは、過去三年以上、無農薬であること、化学肥料や土壌改良剤を使用しないこと、更に人工添加物も遺伝子組み換え材料も使わないということらしい。平日ならばおそらく女性客で満員になってしまうに違いない。土曜日ということもあって、店内は空いている。 ビュッフェ方式というのだろうか、好きなものを皿にとってレジに運ぶと、トレイごと秤にかけて重量で計算される。こういう方式はついつい取りすぎてしまうものだから、私は千百八十二円になった。講釈師は「味噌汁をやめたから安くあがったよ」と自慢する。清水さんはお腹の調子が悪いようで、ミルクだけを飲んでいる。「千住じゃ完食したのにね」と言うが、細身の体でストレスが強いのかしら。ダイエット実行中の鈴木さんは六百円ほど、宗匠も同じ位だ。ダンディが一番多く取ったようで、千五百円を超えている。 食事を終えて店を出ると、T字路の角のソフトタウン赤坂という小さなビルの前に勝海舟邸跡の柱が立っている。ここは勝が幕末から明治維新まで住んでいたところ(赤坂六丁目十二)で、晩年氷川清話で知られている屋敷(六丁目六番十四)とはちょっと違う。私や松下さんの記憶にあるのは、石碑のある安房邸跡(晩年の方)だが、そのあたりは道が分かり難く、今日は探し出すのはあきらめた。(数日後にダンディは石碑の場所を確認した。元氷川小学校の場所だ。) 海舟は安政六年にここに住み始めたが、翌年には軍艦奉行木村摂津守の下で咸臨丸艦長として、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。 福沢諭吉の『痩せ我慢の説』に触れるのは何度目だろう。徳川慶喜は明らかに海舟を嫌っていたが、窮地に陥ったときには海舟を頼らざるを得なかった。対長州戦争で停戦交渉を任せたにもかかわらず途中で梯子を外して海舟の立場を失わせたのも慶喜で、海舟がこれほど義理立てする必要があったとは到底思えない。鳥羽伏見で部下を見捨てて戦場から逃亡して、その時点で榎本武揚をはじめとする幕臣のほとんどは慶喜を見限ったが、この自己顕示欲の強い元将軍の面倒を最後まで見たのは海舟だった。維新後の慶喜家、徳川家の家政は海舟が居なければ成り立たなかった。そんな事情も知らずに諭吉が下らない難癖を付けたから、海舟の啖呵が光る。
ちょうど結婚式の真っ最中で、本殿の中にはこちらを向いた花嫁花婿の顔が見える。「裏参道から出てもいいかしら」とリーダーが控えめに講釈師の承認を求める。「いいよ、今日は裏でも表でも」今日の講釈師はいつもとちょっと違う。 南部坂は狭い坂道で、右手の土手(アメリカ大使館宿舎の方)に小さな花が咲いている。ニワゼキソウと言うのだそうだ。 大石内蔵助が討入前夜に訪ね、討入せずと報告をしたから瑶泉院は激怒する。大石は雪の南部坂を下って行く。忠臣蔵の話になれば講釈師の口は止まらない。身振り手振りが烈しくなる。しかし討入前夜はその準備に忙しく、大石が瑶泉院を訪れることはまず出来なかったのではないかという説もある。 六本木通りに出て、三木さんの会社があると言う桜坂を抜け、アークヒルズという不思議な町に入り込む。丘と谷によって形成されているから迷路のようで、初めての私には方向感覚がつかめない。 年表によれば一九八六年、二十年近い歳月をかけ、森ビルによって当時としては民間最大規模の都市再開発事業として開発された。完成した当時は流行語大賞にもなったというが、田舎者の私は全く知らない。今日のコースに入っていなければ、私自身が主体的にここに足を踏み入れることはなかっただろう。 六十年代の高度経済成長から列島改造まで、東京の景観は大きく変貌したが、その中でもこの赤坂から六本木にかけての地域が、最もその典型を示しているのだろう。職住接近の至便製、洒落た店、コンサートホールなどの文化環境によってこれを評価し、満足する人は当然いるだろう。七つの庭を総称してアークガーデンと称する。専任ガーデナーによって都市緑化に参加できるコミュニティ活動を行い、社会・環境貢献緑地評価システムというものに認定されたという。だが私には違和感がある。 アーク・カラヤン広場という表示を見て、「アークって箱舟ですよね、どういう関係があるんでしょう。」あっちゃんと松下さんの教養にはとてもついていけない。ノアの箱舟ならば命を伝えるために建造されたが、この箱舟は後世に何を伝えるか。ちょうど命名の由来を説明するプレートが見つかった。それによるとAKASAKAのA、ROPPONGIのR、KNOT(繋ぎ目)のKを組み合わせたものだった。 「森ビルの先代はたしか教育者じゃなかったかな」とダンディの知識は正確だ。創業者は森泰吉郎。横浜市立大学商学部長をしながら貸しビル業を営んだ。一九五九年、大学を辞め森ビル創設。バブル期には「フォーブス」の世界資産家ランキングの常連になったというからごく短期間で莫大な資産を成した。普通の人はここに何かのカラクリを想像するのではないか。 これらの再開発事業によって、荷風が住んだ麻布市兵衛町はずたずたになった。崖は切り崩され新しい道路が開通し、静かな住宅地にはビルが立ち並んだ。窓からは遮るものもなく、雲が行くのが眺められたと荷風は日記に書いたが、今では高層ビルに遮られ、景観は一変した。荷風が見下ろした谷町はおそらく泉ガーデンタワーを中心にした一角の中に埋もれてしまったようだ。「だから偏奇館跡には行きません」とリーダーが宣言する。戦前、アークヒルズの辺りは宮内省のご用地で、荷風は散策の途中必ず立ち寄り、詩を読み、落ち葉を踏んだ。家はペンキ塗りにしたので、「偏奇」と洒落た。 関東大震災にも無事だったが、昭和二十年三月十日未明の東京大空襲で焼失した。この年、荷風は六十七歳。 日米開戦の報を聞いて「近隣物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり」と、いわば「紅旗征戎わがことにあらず」(藤原定家)とでも言うように無関心を装った荷風だったが、戦争は個人的な無関心を許さない。
狸穴坂。標柱には「マミ」は雌狸、アナグマ、ムササビの類である、また別の説として採鉱跡だと書かれているが、江戸の後期ともなれば、既にその由来は分からなくなっていた。 曲亭馬琴が『八犬伝・第八輯第五巻』の付録で考証している。『江戸砂子』では雌狸穴と書いているが、この雌狸をマミと読むのは何故かと追求した結果、いろいろややこしいのだが、馬琴によれば「マミ」は本来「モミ」であり、ムササビのことを言う。下野ではムササビのことをモモンガーと言うが、モモはモミの転訛で「ンガー」はその鳴き声をあらわす。また「マミ」は魔魅にも通じるから、なにやら恐ろしいものをも意味する。従って、実際にムササビが住んでいたかどうかは分からないが、恐るべき穴と言う意味で、「マミ穴」と称された。 『武江年表』ではまた別の説を採用して採鉱の跡だと言う。
先月、加治丘陵の山道であっちゃんの手を引いた講釈師が、機会あれば女性と手を繋ごうと、今日はSさんを虎視眈々狙っている。前後二回に及ぶこの振る舞いは、宗匠にこんな風に詠まれてしまった。
下町風の路地をちょっと迷って辿りついた飯倉公園は、遊具の改修工事の最中で、園内のところどころが囲いで覆われている。片隅に説明版があって、赤坂接遇所跡だと分かる。外国人旅宿所とも言われた。ここでしばらく休憩する。
安政五年には日米通商修好条約が朝廷の勅許なしに調印され、日蘭、日露、日英、日仏と各国との調印に及んだ。この結果、各国使節の宿泊所が必要になったための措置だ。周囲は黒板塀で囲まれ、間口十間、奥行き二十間の平屋建てで、その中央に長い廊下が設けられていた。 当然、近隣には各国の公使館も設けられた。麻布善福寺のアメリカ公使館(公使ハリス)、高輪東禅寺のイギリス公使館(オールコック)、三田済海寺のフランス公使館(ロッシュ)、芝西応寺オランダ公使館など。現在外国大使館が港区に集まる端緒はここから始まった。 古川に架かる中の橋にはヒュースケンが暗殺されたとの説明を記すプレートが設置されている。万延元年十二月四日(太陽暦では一八六一年一月十四日)、赤羽接遇所でプロシア使節オイレンベルクと会食して、アメリカ公使館のあった善福寺への帰途、薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死亡した。満二十九歳の誕生日を四日後に控えていた。 万延元年というのは実は安政六年のことで、三月三日の桜田門外の変の影響もあって三月十八日に改元したのだ。しかし翌年二月にはまた改元して文久となるから、きわめて短い元号だった。 幕府はヒュースケンの母に一万ドルの弔慰金を支払い、辻番所に外国人保護を訴える標識を立て、外国御用出役を新設して外国人警護に努めたが、これ以後も攘夷派による外国公使館や幕府要人に対する襲撃事件(東禅寺襲撃事件、坂下門外の変)が続いた。 幕末から明治初期にかけ、西欧から多くの人間が日本にやってきたが、ヒュースケンの感受性はかなり上等な部類にはいるようだ。ハリスの通訳兼書記官として、後発の各国外交官の信頼を集めながら、日本に条約を押し付けることが、本当にこの国にとって良いことなのかと、疑いをも感じるようになる。ハリスと共に初めて将軍(タイクン)に拝謁したときの日記には次のような記述が残されている。
このとき、プロシアとの条約締結が難航していた。幕府は当時のドイツの国情を知らず、条約案を見て初めて、プロシアを盟主とする関税同盟国のザクセン、バイエルン、ハノーヴァーなど総計三十にも及ぶ聞いたこともない緒王国の名前が列挙されているのに気づいた。ただ一国とだけでも大変なとき、三十もの国と条約を締結する理由が幕府には分からなかった。このごたごたで、担当官僚である堀織部正と安藤対馬守との感情的な対立が生まれ、堀は突然自害する。ヒュースケンは何ヶ月にもわたってオイレンベルクの相談に与かっていたから、堀の家臣が主君の仇を討ったのだという説や、水戸浪士の犯行説も流れたが、証拠はない。当時日本に来ていた西洋人の中で、ヒュースケンは最も日本を理解した一人だが、狂信的な攘夷派のテロリズムは、そんな事情は忖度しなかった。 古川に沿う通りから路地を覗けば、三十年代風の民家がまだしぶとく残っている。軽トラックで野菜を売っている傍に、近所の叔母さんが買い物袋を提げて立っている。映画『三丁目の夕日』があれだけ人気を集めたように(実は私は映画を見ていない。西岸良平のマンガを見ただけだ)、こういう場所は郷愁を誘う。 やがて麻布十番の商店街が見えてくる。もともと商店街として地元では堅実に稼業をしていたのだが、電車や地下鉄から見放されたため、世間的には無名の、しかし知る人には愛された商店街だった。『江戸東京物語・山手編』(新潮社)が川本三郎『秘密の花園』を紹介している。私は読んでいないので孫引きになるのだが、東京の変貌のありかたの一つの特異な形だろう。実はこの『江戸東京物語』をダンディも持っていて、清水さんに教えている。
「麻布永坂更科本店」と「永坂更科麻布総本店」とが近くで競り合っている。「本家争いをしてるんだろう」蕎麦のことなら講釈師の薀蓄に任せなければならない。更科はもともと信州蕎麦で白いのが特徴だという。「藪」、「砂場」など蕎麦の老舗についても講義が始まる。 「泳げタイヤキ君のモデルになった店」と講釈師に言われてなんとなくその店を眺めていると、おかしな格好の親父が現れて何かと説明をする。「浪花屋総本店」という、タイヤキ屋にしては大仰な名前がついている。東京ガイドのような雑誌に掲載されている自分の写真を見せ付け、要するに鯛焼き屋の店主が街頭で店の宣伝をしているのだ。今度ビルに建て替えるという。雑誌に紹介され、それに誘われて遠方からも客が集まることで自分自身が有名人になったと思い込んだオヤジだ。何故か「大江戸麻布十番商店街探索マップ」というガイドをくれた。私はタイヤキには何の関心もないが、宗匠は今度来てみたいと言っている。「越の湯・麻布十番温泉」の料金表を見て、入浴料千二百六十円に驚く。 外人女性の姿も多く、宗匠は目移りして仕方がない。「甘納豆」はここ最近、宗匠の発明した隠語だ。
「ホリエモンはどこに住んでいる」三木さんが質問するが、「さっき通り過ぎちゃったよ」と講釈師は冷たい。白人の家族連れがやたらに目に付く。言うべきことはない。 テレビ朝日通りからちょっと路地に入り込む。塀の中に入れるのは年に一回、命日のときだけらしいので、専称寺の塀越しに沖田総司の墓を見る。墓石の前に小さな赤い三角屋根が建っているのがその場所だ。千羽鶴も見える。リーダーの作ってくれた資料に、沖田は白河藩士でこの寺の西側にあった屋敷で生まれたと記されていて、鈴木さんが不思議に思う。私もてっきり総司は多摩の人間かと思っていたのだが(というより、追求さえしなかった)、それではどこで近藤や土方と知り合ったのかと、鈴木さんは思いつめる。それならばたぶん、試衛館が確か神田近辺にあったのではないだろうかと私もあやふやな知識を振り出してみる。講釈師に聞けば即答してくれるのだろうが、癪だから調べて見ると、近藤周助の試衛館は市谷にあって、総司はそこに入門したのだ。 中国大使館の前では警官が閑そうに立哨している。塀にはジュラルミンの盾が立てかけられている。塀の屋根がなんとなく中国風だが、黒い瓦を使っている。その目の前に、派手な色彩のサウナがあった。営業していないんじゃないかとダンディが言うが、二階に上っていく女性がいるから、ちゃんと営業しているのだろう。不思議なコントラストだ。 愛育病院のところから有栖川宮記念公園に入る。誰か皇族の赤ん坊がこの病院で生まれたらしい。もともと浅野家の下屋敷があった場所だが、盛岡藩南部美濃守の下屋敷として維新を迎える。明治二十九年皇族有栖川宮家の御用地になり、その後大正七年には高松宮家の御用地なった。昭和九年一月五日、有栖川宮威仁親王二十周忌の命日に公園用地として東京市に賜与された。有栖川宮は和宮の婚約者として名高い。 丘の上まで登ったのはダンディと清水さんだ。宮の銅像は軍服に乗馬姿だ。「上野公園にも同じものがあります」新聞少年の像がなぜここにあるのか。新聞少年と言えば、私は山田太郎しか思い浮かばないのだが、新聞育英奨学会(?)が建てたものだ。台座に記されている詩はどうも、たいしたものではない。 しばらく待っていたが誰も上ってこない。鈴木さんの姿が見えたような気がしたがすぐに分からなくなったので、下に戻ると結局ほとんどの人が待っていた。まだ全員揃わないのに「早く行こうぜ」と相変わらず講釈師が急かすが、ちょうど池の前に水鳥を解説した案内板がある。「鳥の絵でも見ていれば」と清水さんが冗談を言う。鳥を見ていれば時間を忘れるのが講釈師だ。橋本さんと三木さんが、スケートの清水選手が今ここを走っていったと、興奮している。「太腿がこんなに」と橋口さんが手を広げる。公園を出ると木下坂の標柱。今日はいくつ坂を通っただろう。 今日のコースはここまで。リーダーの計算ではおよそ十一キロということになる。 全員がお茶を飲める店はこの辺りにはなさそうで、恵比寿まで行くことになって、広尾駅で切符を買って改札をくぐる。ところがホームに気象予報士がなかなか現れないのだ。さっき一緒に切符を買っていたのだが、ホームを間違っているのではないか。案の定、向かい側のホームに姿を現したから講釈師の悪口に曝される。「都会を歩かせちゃ行けないよ。ああいう人は山にそっと住ませておくんだよ」平野さんは相当腰が痛そうだ。 恵比寿で下車し、清水さんはここでお別れ。喫茶店「ルノワール」に入ると、いきなり「時間がかかります」と切り口上で言われるのには驚いた。どうやら店員は一人でてんてこ舞いしているのだ。一瞬血が上った私は出ようと声をだしたが、ほかに十三人が入れる店の見当がつかなければ我慢するか。昔のルノワールという店はこんな風ではなかった筈だ。橋口さん、三木さんはそれでも「忙しそうで大変ね」とお愛想を言うから、一番先に注文したものが出た。 いい加減休憩した後、本当に反省するためにはお酒を飲まなければならない。折角恵比寿にきたのだからビールを飲みたいと三木さんが提案し、ガーデンプレイスを目指すことになった。ダンディや島村さんは行ったことがあるのだが、誰も道が分からない。私たちは全員おのぼりさんだった。本社が恵比寿にあって、通勤定期も恵比寿まで買ってある私が知らないものだから、皆の軽蔑の視線が痛い。 「ライオン」で生ビールを飲み、ダンディのチベット旅行の写真を見ているうちに心地よい酔いが回ってくる。大ジョッキを注文した人だけ籤が引く権利があって、ビール券と割引券が当ったが、今日は使えない。翌日から有効というのにはがっかりしてしまう。 私はビールだけでは物足りない。日本のつまみも食べたい。明日、山登りを予定している鈴木さんや平野さん、三木さんと別れて、ダンディ、宗匠、リーダー、島村さんと一緒に駅前の居酒屋に入りこんだ。 次回はダンディが「旧東海道品川宿および馬込文士村」を案内してくれる。 |