「東京・歩く・見る・食べる会」
第十二回 東海道品川宿・大森貝塚編   平成十九年八月四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2007.05.12

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 焦らされた挙句、八月一日になってようやく関東地方に梅雨明け宣言が出された。平年より十日以上も遅い。五月、六月頃の長期予報では、空梅雨になるのではないかと思われたが、七月になって天候は一変した。このシリーズはずっと奇数月の第二土曜日に実施してきたが、七月のその当日は、台風が梅雨前線を刺激して終日雨、翌日は台風、そのまた翌日には中越沖で地震が発生するなど散々なときで、リーダーのダンディ松下が決断して、今日まで延期したのだった。先週の土曜日も猛暑だったが、その後また雨の日があり、漸く梅雨が明けた。しかし気分はすっきりしない。日差しはきつく空気が湿って重い。ねっとりと汗が首筋に絡みつく。
 品川駅は乗換えでは何度も利用しているが改札を出るのは初めてで、港南口というのは直接出られると思って少し探したが分らない。結局、中央口から出て歩いて行くともうかなりの人数が揃っている。平野さんからは少し遅れるかも知れないと連絡が入っていたので、十時十分まで待って、鈴木さんを中継役に残して出発した。それでも品川インターシティを歩き始めるとすぐに平野さんも到着して追いついた。里山隊長のシャツはもう汗でびっしょり濡れている。
 男性はダンディ松下、平野隊長、関野碁聖、ドクトル三木、三澤講釈師、島村さん、鈴木岳人、私。女性は橋本さんとその友人の宍戸さん(和光市在住)、橋口さんと三木サンのコンビ、あっちゃん、順子。これで十四人になる。平野さんは昨日、スズメバチに足を三ヶ所刺されたが、それでも参加するのだから偉い。いつも私の作文に句を添えてくれる江口宗匠が欠席で、私は悩んでしまう。
 インターシティの二階をそのまま歩いてきた筈なのに、踏み切りに出会う。八ツ山橋というところだが、開かずの踏み切りを二度待って渡り、工事中の道の赤信号で停止したりしているうちに三十分も経ってようやく旧東海道品川宿の入り口に入った。

 「一番・東海道八ツ山口」の標柱が建っている。勿論江戸時代の木の標柱ではないから、旧街道品川宿を歩く人のために観光用として立てたものだろう。このところ、江戸歩きや街道歩きが随分あちこちで話題になっている。私たちもいろんなコースで、他の団体と出会うことが多い。通りの右側には案内所兼お休み処があって、店先に「しながわまち歩きマップシリーズ」というパンフレットを並べてある。ヴォランティアなのだろうか、女性数人が、無料だから休んでいけと勧めてくれるが、まだスタートしたばかりで、こんなところで休憩してはいられない。「こんな暑い日には、命を賭けて歩いちゃダメよ」などと声をかけられて歩き出す。
 問答河岸跡碑。寛永十七年(一六四〇)、東海寺を訪れた三代将軍家光と、沢庵が問答をしたことになっている。家光「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」。沢庵「大軍を率ひても将(小)軍と言ふが如し」下らない謎掛けだが、ここに目黒川の河口があったことが分る。(実はちょっと場所が違うらしい)

 東海道品川宿は、日本橋から二里。江戸四宿のうち最大の規模を誇った。
 慶長六年(一六〇一)、東海道五十三次の宿駅・伝馬制度の開始とともに、品川は東海道の初宿と定められた。目黒川を境界に、北側を北品川、南側を南品川と称していたが、宿場の発展とともに、北品川の更に北側に無許可の茶屋が増大したため、歩行新宿(歩行人足を負担する条件)として営業を認め、この結果品川は三宿と称されるようになった。
 人の集まるところには売色産業が発達する。品川の遊郭と言えばまず『品川心中』や『居残り佐平次』か。
「たまにはどうだい、おい。ええ?ひとつ、南イでも足を伸ばそうじゃねエか」
・・・えー、吉原を北国(ほっこく)と言ったそうですな。品川を南と言うン、ね?裏っ手が海だから、「趣が変わってまたいいじゃアねエか」なんてんで、誘い合わせて・・・、あんな遠くまでよく行ったもんですな。ええ、ご婦人の力というのア偉いもんですが。で、どんどんどんどん行く。旅人がお金を落とす。ですからもう、それア栄えて、一時は吉原の向こうを張るというような、たいへんな勢いがあったそうで、(『品川心中』京須偕充編「志ん朝の落語」より)
 もともと幕府は、公認された遊郭以外の場所での売春を禁じていた。公認されたのは京島原、山城伏見柳町、近江大津、駿河中島、武蔵江戸三谷(吉原)、越前敦賀、同三国松下、大和奈良島川、同小網新屋、和泉堺北、同南津守、摂津大阪瓢箪町、同庫磯町、佐渡鮎川、石見塩泉、播磨室八野、備後鞆有、安芸広島、同宮島町、長門下関、筑前博多、肥前丸山、同樺島、薩摩山麓の二十五ヶ所になる。江戸吉原を除いて、戦国期から続く町が選ばれたはずだ。
 廓(くるわ)、囲われた地域であれば治安維持、防犯に都合が良く、また独占排他的に許可することで幕府への見返りが期待できることが、その主な理由であろう。だから、公認された場所以外での売春行為には厳しい刑罰が加えられた。
 一方、参勤交代制度の確立とともに、インフラとしての宿駅制度の維持もまた大きな問題として幕府に突きつけられていた。宿場で旅籠や茶店を開店するためには、伝馬や人足を確保し、人馬継ぎ立ての経費を負担しなければならない。これらの負担に加えて、宿駅制度に伴う様々な負担(公用旅客は無賃であること、参勤交代に供する者たちの無体な値引き要求が頻発したことなど)、非公認の売春行為に対する度重なる厳重な処罰によって、全国的に宿場の経営は慢性的な赤字状態に追い詰められた。廃業する旅籠屋も多く、そのままでは宿駅制度自体の存在さえ危ぶまれた。品川宿を始めとする江戸四宿が遊女設置を願い出たのは、そんな背景がある。
 享保三年(一七一八)、幕府はそれまでの禁制を変更して、旅籠一軒につき二人の飯盛女に限り許可(黙許)したが、いったん与えられた許可は次第に拡大する。安永元年(一七七二)、これを一挙に増やし、品川三宿には五百人、内藤新宿に二百五十人、板橋、千住にそれぞれ百五十人が認められた。ただし、吉原などの公許遊郭とは違って、公式にはあくまでも飯盛り(食事の接待)が主目的であり、そのため飯盛女と呼ばれた。

 江戸の文化を理解するためには遊郭、悪所の存在を切り捨てるわけにはいかないのだが、それでは遊女たちは、どういう事情で遊女になったか。宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』にいくつかの例が紹介されているので、その典型的なものを引いてみる。「請状」という、契約書兼領収証のようなものだ。原文は少々読みにくいので、ちょっと表記を変え、送り仮名や読点を補ってみた。
この「もと」と申す女子は我等の実娘に御座候所、当御年貢諸夫銭に差し障り、御当宿に連れ参り、貴殿方へ道中旅籠屋飯売下女奉公に差出申す所、実正也。年季の儀は当申の八月七日より来る子の八月七日まで中四ケ年に相極め、給金拾五両三分也。ただ今、請状の上、右給金残らず我等方へお渡し下され、たしかに受取申す所相違御座なく候(後略)
 「もと」の実の父親仙次郎は、年貢、夫役銭に窮して、娘を四年の年季、十五両三分で「飯売下女」して売り渡した。「給金」と書いているが、一括前金で仙次郎が受け取っているから、これは売買にほかならない。もとの年齢は分らない。このとき嘉永元年、明治維新はちょうど二十年後に迫っている。
 もうひとつ、今度は数え八歳の「おき」の場合を見る。
 (前略)御百姓まかりあり候ところ、去る卯辰の凶作にて家業行立申さず候につき、御地頭様に御願い相立て、住所離散仕り、当国まで罷り出で候ところ、路用などもこれ無く、必至と行方をさがし候につき、私実子娘「おき」儀、御召抱え下さるべき旨、達して御願い申し候につき御承知下され、年季の儀、当巳四月拾九日より丑四月拾九日まで、出入とも弐拾壱年季に相定め、身代金として弐分弐朱、ただ今たしかに請け取り(後略)
 数え年八歳、つまり小学校一年生の「おき」が、二十一年の年季で「身代金」僅か二分二朱で売られた。父源八、母ちょうは越後国蒲原郡北上村の百姓だったが、村を捨てて流れ歩いた挙句、中山道追分宿で路用を使い果たした。さっきの「もと」に比べて安すぎるが、これは「商売もの」になるまでの「養育」期間を勘定に入れている。この請状の日付は天明五年のことで、「去る卯辰」というのは天明三、四年の大飢饉のことだ。娘の代わりに二分二朱を得た夫婦がその後どうなったか分らない。
 これらの「請状」には、年季の定め、金銭の授受の確認のほかに、病気や不慮の事故で死亡した場合には、債務不履行として金銭を返却すること、その際遺体は親に戻す必要は無いこと、気に入らなければどこへ転売しても良いこと、などの条件が記されている。
 明治になって、いったんは人身売買禁止令、遊女解放令が出されたものの、そこには遊女のその後の身の振り方に対する救済策、配慮がなされていない。色売旅籠は貸し座敷などの名称に変えるだけで、実態は江戸期と変わらぬ営業は続けられた。こうして昭和三十一年の売春防止法公布、翌年四月の施行まで、公認の売春施設が存在した。
 現在、もちろん法的に公認される売春施設はないが、決して存在自体がなくなったわけではないことは誰でも知っている。ただ、江戸から昭和初期に至る、飢餓や貧困による身売りとは、どうやら事情が違ってきているような気がするが、きちんと分析しているわけではありません。

 ここは北品川宿の入り口になるのだが、「北品川って広重の浮世絵にありますよね」と橋本さんが同意を求めてくる。彼女の教養は浮世絵にも及ぶのだ。私も知っている振りをして頷きながら、実は後で調べてみた。春信も広重も品川の潮干狩りの絵を描いている。
 土蔵相模の跡にはマンションが二つ建っている。なまこ塀の白さが土蔵を連想させ、その呼び名がついた。品川宿きっての大旅籠だが、勿論単なる旅館ではない。食売旅籠と言い、遊女を抱えた。高杉晋作はここで宿泊した翌日、御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちに出かけ、また井伊直弼を襲った水戸浪士も襲撃の前夜ここに泊まった。
 狭い通りに車がひっきりなしに走っている。気象庁の予報では一日曇りのはずだったが、既に日差しがきつく、汗が噴出してくる。
 あちこちの路地の入り口には「清水横丁」とか「大横丁」などと記された、高札の形をした板が掲げられている。にぎやかな商店街が続く街道から、虚空蔵横丁を右に曲がると養願寺の阿弥陀堂がる。古いレンガの塀を横目に見ながら、北馬場通りに出る。

 国道を横切れば品川神社だ。石造りの鳥居の左右の柱には竜が彫りつけられている。右が昇り龍、左が下り龍で、こんな鳥居は見たことがない。大正十四年、三徳屋という料亭の主人が奉納した。北品川の総鎮守で、南品川の荏原神社と合わせて五石の社領を与えられた。由緒に因れば源頼朝が文治三年(一一八七)、安房の州崎大明神を勧請したのが始まりだという。江戸時代には東海寺の鎮守とされた。富士塚を見て、「ここには何合目とかの表示がないね、登れるのか」とドクトルが疑問をもつと、島村さんがちゃんと道を見つけてくれる。
 神社の裏手に回れば、板垣退助の墓がある。三十坪ほどの細長い敷地の入り口には乾庄右衛門の小さな墓石があって、土州、文化三年、行年三十三歳と刻まれている。退助の本姓は乾だから、これは父親のものだろうかと思ったが、調べて見ると年代がおかしい。退助が生まれたのは天保八年(一八三七)で、文化三年は一八二〇年だから、父親であるはずがない。いずれにしろ土佐から移してきたものだろうから、親戚であることは間違いない。甲斐源氏の末裔で、甲州武田氏に仕えた板垣氏の裔だというのが、戊辰戦争で甲斐国に出陣した退助の言い分だ。東国の人間に親近感を与えようとする手口ではないだろうか。
 邦光院殿賢徳道円大居士の大きな墓石が板垣退助で、左には夫人の墓石も並んでいる、その右手には、「板垣死すとも自由は死せず」の碑が建つ。自由民主党総裁・佐藤栄作の書だ。土佐の板垣の碑を長州の佐藤栄作が書いたのではおかしくないか。島村さんが、百円札の肖像だよと思い出す。昭和四十九年に日銀では支払い停止となっていて、今では交換不能な紙幣だ。
 実は板垣退助はあまり好きではない。たまたま岐阜遊説中に襲撃され、本人が言ったかどうかはわからないが、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が有名になった。しかし、板垣自身は自由民権なんていうことにはあまり関心がなかったのではないだろうか。自由党も、薩長土肥の権力抗争の手段に過ぎない。その証拠に秩父困民党は板垣自由党から入党を拒否されたし、退助自身も、政局の重要な時期に政府から大金をもらってヨーロッパ旅行に出かけたことは戦線離脱の罪を問われるだろう。
 ここは板垣家の墓だけが固まっているのだが、実は、後で行く東海寺の墓地だったようだ。とすれば、東海寺の敷地は途方もなく広い。

 ここから山手通りに曲がる。道の向かい側に東海禅寺の門札を見ながらそのまままっすぐに歩き、京浜東北線の下を潜ると、官営品川硝子製造所跡の碑が建っている。日本最初の近代的ガラス工場として、明治六年に東海寺の境内に興行社の名称で創建された。明治九年には工部省に移管され官営となり、十八年に西村勝三に払い下げられ、品川硝子会社となった。ガラス工場は経営不振で解散したが、後に品川白煉瓦製造所となって、業界をリードした。橋口さんの書道の先生がこの西村勝三の縁につながる人だそうで、品川を散策するなら是非、墓参りをするよう言われてきたと言う。

 そこから京浜東北線に沿って細い道に入って行くと、東海寺の大山墓地に出る。「東海寺開山澤庵禅師墓道」の標石が立っていて、石段を登ると沢庵の墓がある。墓所の手前には「利休居士追遠塔」が立つ。利休二百年己を七年後に控えた天明三年(一七八三)に建てられたものだ。利休の「休」の字の下に一本、横棒が入っている。沢庵は茶道でも有名らしいから、利休に私淑していたのだろう。
 沢庵は天正元年(一五七三)但馬国出石に生まれた。寛永四年(一六二七)、幕府は、後水尾天皇の紫衣着用勅許について、勅許状を無効とし、これに反対した沢庵、宗珀、単伝、東源などを流罪に処した。沢庵の流されたのは出羽国上山だったが、秀忠没後の大赦で許された。もともと紫衣事件は、朝廷(禁中並公家諸法度)と寺社(諸宗諸山諸法度)への支配統制力の強化を目的としたもので、この事件が後水尾天皇譲位の一つの原因にもなっている。晩年の沢庵は家光の厚い信頼を受け、正保二年(一六四六)、江戸で没した。
 「剣禅一如」なんて言うから困るのだ。幕末の山岡鉄舟も同じことを言う。どうも私はこの手の言葉に違和感がある。吉川英治の『宮本武蔵』に確か沢庵が登場する筈で(中学のときに読んだ記憶だから曖昧だが)、沢庵の名前を知った最初だと思う。時代は下るが富田常雄『姿三四郎』にも禅坊主が登場して、主人公に喝を入れる。武蔵にしても三四郎にしても、若い武人が修行の途中で坊主に叱られ、やがて人格的にも陶冶されていくというのがルーティンの筋書きだ。しかし剣術や柔道は基本的には技術であって、それに気力と体力とを加えてもよいけれど、宗教とは関係ないじゃないか。
 沢庵と言えばいかにも質素を旨としたようなイメージだが、実は権力と癒着して大寺院を建ててもらっているわけで、なんだか違うのではないか。だいたい、私は禅に理解がない。
 石の玉垣が張り巡らされた中に、長さ一メートル、高さ五十センチほどの石が置かれているのが沢庵の墓だ。墓石は何の手もかけない自然石でも、墓所自体は立派なもので、小堀遠州の設計とも言われる。墓石は漬物石を連想させるが、沢庵と沢庵漬けの関係は解明されていない。

 さっきの西村勝三や賀茂真淵の墓もあるはずだが場所が良く分らない。入り口のところまで戻って全員が集まるのを待っていると、民家(ではなく管理事務所だった)の向こうの方から松下さんが呼んでいる。そちららへ向かおうとするとちょうど自転車を押してきた管理人が、見学するなら資料を上げるといって、事務所に入り、「しながわの史跡めぐり・東海寺大山墓地」という小さな手作りのパンフレットをくれた。著名人(と言っても知らない人物も多い)十一人の墓の位置と、簡単なメモが書いてある。自分で作ったものだそうだが、利休については、「なんでも切腹した人だそうだ」というだけで、ものを知らない老人だ。秀吉に忌避されて自死を迫られた千利休を知らないか。
 松下さんが見つけたのは賀茂真淵の墓で、前面に鳥居を据えてその奥にある。「賀茂真淵って誰ですか」真淵には気の毒だが、理科系中心のこの会では有名ではない。「本居宣長は知ってる?」と尋ねれば「それは知ってますよ」と答が返ってくる。「松坂の一夜」の話は戦前の国定教科書に載っていた筈だが、関野さん以外にはそんな年齢の人はいないから知らないか。(しかし私は何故知っているのだろう)伊勢松坂を訪れた賀茂真淵を、はるか年少の本居宣長が訪ねて教えを乞い、真淵によって古事記の研究を勧められた。これが国学史上の大事件ということになっている。
 二人が出会ったのは唯この夜限りのことだが、このことで宣長は真淵の門弟に数えられる。勿論、対面は初めてでも、それ以前から手紙のやり取りをして、強い影響を受けていた。
 国学については積極的に知ろうとしたことがないから、適当なことを言うとボロが出そうだ。万葉や古事記に目を向け、日本古来の文化を再認識させた功績は大きい。上代特殊仮名遣いは宣長によって発見されなかったら(と言うのを初めて知った)、橋本進吉(『古代国語の音韻について』)たちが切り開いた国語学の進歩も幾分か遅れたかも知れない。
 しかし国学者の書く文章、漢語を極端に廃して、のんべんだらりとした大和言葉にこだわりすぎるもので擬古文というのだけれど、それがどうにも読む気力を失わせる。菅江真澄の紀行文でさえ時々気になって仕方がない。漢語を使わずに大和言葉だけを使用しなければならないと言うのだから、どうしても緊張感を欠いたものになってしまう。そもそも大和言葉には文明渡来以前の語彙しかないわけで、まず抽象的なことは表現できない。それに極端な唐意(からごころ)排斥は偏頗な国粋主義を生み出してくる。
 真淵、宣長、平田篤胤と続くと、これはどうも無茶苦茶になってくる。『秋田高等学校校歌』(土井晩翠作詞)には篤胤と佐藤信淵とが「篤胤信淵二つの巨霊生まれし秋田の土こそ薫れ」と歌われていて郷土の偉人に数えられているのだが、余り自慢したいような存在でもない。島崎藤村「夜明け前」の青山半蔵がひとつの典型で、平田流国学が草莽に浸透して明治維新、王政復古に与えた影響は大きい。神仏分離、廃仏毀釈を推し進め国家神道の骨格を作ったのは平田流の一派だったのは間違いない。しかし、余りにも極端なその思想のために、この連中は結局明治政府からも遠ざけられることになる。
 柳田國男が自らの民俗学を新しい国学と位置づけようとして、恐らくそれは成功しなかった。しかし、なんとなく胡散臭い国学のなかでも、たとえば折口信夫(釈迢空)は、民俗学者であり詩人である以上に国学の正統を継ぐ筈で、それならば全く無視するわけにはいかず、私は困ってしまう。そう言えばダンディは釈迢空の孫弟子だった。

 真淵については、伴蒿蹊『近世畸人伝』の「荷田春麿(かだのあずままろ)」の項の付録として、簡単な伝記が記されている。
 真淵は、姓加茂県主(あがたぬし)、岡部衛士と名のる。はじめは三枝といへり。遠州浜松の人。春満に従ひ家僕のごとくして京師に学ぶこと年あり。学成て江府に下り、大に古学を唱ふ。(中略)
 真淵に及びて、はじめて『万葉』の風をよみうつし、文章もまた古言をもてつづり、一家を成シ、世の耳目をおどろかす。その説に、「契沖は新墾(にひぼり)しつれど、いまだによく植つくさぬ程に過にしこそおしけれ。大人(うし。春満をさす也)は歌のみか、ふりぬる千々の書(ふみ)どもをあらすきかへせし(荒鋤返)いたづきの甲斐、さはなけれど、まだ刈おさめ果ざるに病にふしつ」などいひて、おのれ是なりはひ(業)を遂ぐるよし也。実に古を発揮して後世をいざなふ功少なからず。(後略)
 契沖が耕し、荷田春満が鋤返したあと、賀茂真淵が刈り取ったと自賛しているのだ。パンフレットで確認すると、その隣に西村勝三がある。そろそろ皆は歩き出しているのだが、ちょっと遅れて現れた橋口さんに教える。これを見なければ橋口さんは先生に報告できない。他にも井上勝(初代鉄道頭)、渋川春海(貞享暦考案)、服部南郭などの墓がある。南郭は荻生徂徠門下で柳沢吉保に仕えた。儒者というより漢詩人として有名だが、真淵と親しかったというのは初めて知った。
 橋口さんたちを待っている間に、平野さんがクサギやトケイソウを教えてくれる。トケイソウの花を指差し、「この形が卑猥だっていうんだ、なぜだろう」と言うけれど、それを私の口から言わせたいのだろうか。応援団がチャチャチャ、っていう例の稚拙な落書きがあるでしょう、言われてみればあれに似ている。クサギは五弁の白い花で、付け根の辺りが少し赤くなっている。平野隊長は昨日、クサギの写真を撮ろうと川縁の草薮に入ったところでスズメバチに刺された。里山の隊長はもっと注意してもらわなければいけない。「クサギ(臭木)の名前は可哀そう。呼び方を変えようっていう動きもあるんですよ」とあっちゃんが言う。

 萬松山東海寺。大徳寺の末寺として、寛永十四年(一六三七)、沢庵のために創建された。
 寺領五百石を与えられ、最盛期には敷地五万坪、塔頭十七院を数える大伽藍を形成した。しかし近隣の村方からは、「沢庵番」として、毎日九人の夜番人足が徴発された。家光と沢庵が下らない問答をしているとき、民間の負担は大きかった。
 ここから、さっきの大山墓地や板垣退助の墓所までも続く広大な敷地を誇っていたが、維新後は鉄道や道路に分断された。現在の東海寺は、かつての塔頭のひとつ、玄性院が寺号を引き継いだもので、ごく小さな境内しかない。

 そろそろ昼で、「旧街道に戻って蕎麦屋にでも入りましょうか」と松下さんが歩き始める。途中「砂場」を見かけたが、「旨い蕎麦を食わせるけど、あそこは狭いから駄目だ」と講釈師は断言する。「だけど、この時間だからな、全員が入れる店があるかな」。たまたまレストランが開いていて、鈴木さんが覗いてみると全員入れそうなので、そこに決めた。冷房が効いていて丁度良かったと安心したが、すぐに失望に変わってしまうことに、まだ私たちは気付いていない。
 ダンディのティーシャツはブルガリアで買ってきたもので、胸にはキリル文字が並んでいる。この文字を見るたびに、左右反対ではあるまいかと思ってしまうのは、私だけではなく橋本さんも同じようだが、ダンディも翻字対照表がなくては読めない。お腹のあたりにはアルファベットでブルガリアと書かれている。ひとしきりキリル文字についての話題で盛り上がった後、ダンディは今度は漢詩を書いた扇子を取り出す。中国で買ってきたもので、先週の里山ワンダリングの際にも話題になった。今日は『NHK漢詩紀行』を読みながら解説してくれる。李白の詩だ。題は『早(つと)に白帝城を発す』だ。
朝(あした)に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼き往(や)まず
軽舟已に過ぐ 万重の山
 ここに記したのは「中国古典選」(朝日新聞社)の『唐詩選』から高木正一の訓による。先週はじめて見せられたときには、「千里の江陵一日にして還る」の一行しか私には読めなかった。
 宗匠を真似て、身の程も知らずに私も句のようなものを無理やり捻り出してみた。

 李白読む ティーシャツの胸にキリル文字    眞人

 ティーシャツは夏の季語として認めてくれるだろうか。その趣旨は、和漢洋に及ぶダンディの教養と行動範囲への驚きを表した積もりだけれど、こんな説明をつけなければいけないようでは、俳句ではないね。やや字余りであった。しかし懲りずに挑戦して見よう。読者諸兄姉、笑って下さい。
 こういう店で団体が食事するときにはランチが一番無難だ。しかし、三澤さんは「俺はナポリ、イタリアだよ」。橋本さんとあっちゃんは悩んだ挙句タラコスパゲティを注文した。これが問題だったのだ。講釈師のナポリに誘われてあっちゃんはジリオラ・チンクエッテイを連想する。「知りませんか?」と口ずさんでくれても、私は日本の歌謡曲しか知らないから無理だ。真っ先に宍戸さんのオムライスが出て、そのあとすぐにランチが出る。鶏の何とかと、難しい名前がついていたのだが、普通これはピカタと言うのではあるまいかと、あっちゃんが不思議がる。しかしスパゲティは遅い。
 色の黒いナポリタンに続いて、漸く登場したのは異様なピンク色の、うどんのような代物で、なんだか臭いが変だ。ふたりとも少し口を付けただけで匙を投げる。「だけど、なにか食べなくちゃ持たないわ。お腹すいちゃうもの」橋本さんは、宍戸さんが持て余したオムライスを半分もらうことにしたが、あっちゃんはサンドイッチを注文し直した。三澤さんもナポリタンを残している。追加ででてきたミックスサンドは、なんだか、ゆるゆるな(つまり水っぽい)ポテトサラダが入っている。私も一切れ貰ってみたが、まあ、家で妻があわてて作ったサンドイッチのようで、到底レストランで食うようなものではないな。途中で調理を担当しているおばさんが出てきて、口に合わなかったかと尋ねてくる。私ひとりなら喧嘩になっていたかも知れないが、不味いと言い切るには彼女たちは優しすぎる。「いつも食べているのとイメージが違っていたもので」「そうですか、うちではこれが普通です」。私は口を出さない。
 あっちゃんは、こんなものに千九百円も取られてしまった。店を出れば講釈師も「ナポリだって、ケチャップじゃないよ、ソースだよ」と言い出すし、やはりナポリタンを食べた関野さんも、「縁日で売っているソース焼き蕎麦の味だった」と厳しい。そういえば常連客らしい姿は見えなかったから、一見の観光客だけを相手にしている店だった。こういう経験を積んで、ひとは大人になっていく。

 旧街道に戻って目黒川に架かる品川橋を渡る。どうやらこのペースでは、ダンディの企画したコースは回りきれない。「そろそろきついですよ」と島村さんが心細い声を出す。荏原神社は割愛して、橋から眺めるだけにする。緑の向こうに赤い欄干が見えるのは、鎮守橋だろうか。
 創業百三十年を誇るという「吉田屋」は有名な蕎麦屋なのだ。若い頃の講釈師は営業で、この店にも蕎麦粉を卸していた。「あの頃は駐車場がなくてさ、苦労したよ」この人は東京中の蕎麦屋を知っている。
 「三島宿の松」という小さな松を植えた公園に「むかしボックス」という、郵便ポストより少し背の高い、木造の不思議なものが立てられている。正面に二十五センチ四方ほどのラジオを組み込んだもので、「三時の休憩になれば中から人が出てきますから」と関野さんが笑わせる。それが二組あって、片方はうんともすんとも言わないが、もう一つからは確かに声が聞こえてくる。音が小さくてよく分らないが、おそらく品川宿に因む話をしているのだろう。祭囃子の太鼓や笛の音も聞こえてくる。
 「まち歩きマップ」を参照しながら、あれが品川の閻魔様(長徳寺)。あれが天妙国寺(桃中軒雲右衛門の墓)ですねと岳人が確認する。「雲右衛門って、義太夫ですか?」と鈴木さんが聞くが、浪曲です。乞食節と言われて、屋内で演じられることのなかった浪花節を、とにもかくにも、寄席で演じられる浪曲というものに仕立て上げた人物だ。壮士風な格好をし、国粋主義的な物語を語って政治家と結びついた。実は私は浪花節が嫌いではない。特に『天保水滸伝』が良い。
 「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」ただ調子が良いだけで、まるっきり日本語の文章にもなっていない。主人公は平手造酒だが、飯岡助五郎と笹川繁造との間で行われた大利根河原の血闘では、死んだのは平手だけだった。「吐血に似たるむせび泣き」なんていうのも泣かせるじゃありませんか。オペラや能に比べると相当に格が低い。
 町は祭り準備の最中で、神輿所には法被にパッチの男衆が集まっている。かなり立派なお神輿に岳人が見入っている。太鼓や笛の音が聞こえてくる。諏訪神社の境内には露天商が店開きの準備をしている。「まち歩きマップ」にプラタナスの並木(ジュネーブ通り)と記されている道を過ぎる。あちこちの壁やウィンドウに「伊藤忠マンション反対。樹齢六百年のイチョウを守れ」というビラが貼ってある。

 工事現場の囲いの横が品川寺(真言宗醍醐派別格本山)だった。「さっきの神社はシナガワ神社でしょ、ここはホンセンジ。日本語はほんとに難しい」と橋本さんが嘆く。境内入り口には江戸六地蔵第一番の丈六地蔵が悠々と鎮座して、私たちを見下ろしている。「橋本さん、今度はちゃんと見えた?」と聞くと「大丈夫」と答えてれくれる。巣鴨の真性寺では、すぐ目の前にありながら、「お地蔵さんはどこ?」と聞いていた彼女だからだ。
 順子は「これがお地蔵さん?仏様じゃないの」と言うから、どうやら江戸六地蔵のことを知らない。それならばもう一度確認しておく
 深川の沙門正元(一説に八百屋お七の恋人であったという)が病にあって発願し、江戸中を勧進した。実際に丈六地蔵を鋳造したのは神田錦町の鋳物師の太田駿河守正儀で、江戸鎮護のため、六街道の入り口に安置した。第一番品川寺の宝永五年(一七〇八)に始まり、最後の永代寺に安置されたのが享保五年(一七二〇)のことだ。
 丈六とは一丈六尺だからおよそ四・八メートルなのだが、座っている場合はその半分あれば良い。釈迦の身長が一丈六尺あったという伝説に基づく。先日、千住で見た首切り地蔵は一丈二尺と半端な大きさだった。六地蔵のことは、このシリーズ第一回目、深川霊巌寺で初めて知って以来、新宿太宗寺、巣鴨真性寺と見てきて、これで四つ目だ。深川永代寺の地蔵は廃仏毀釈にあって破却されたから、現存する残りは浅草東禅寺ということになる。永代寺の地蔵を復元したと自称している寺がある。上野の言問い通り、寛永寺の向かいにある浄名院だ。ただ、浄名院のものは笠の形が他と違う。他の地蔵は全て笠を被っているのだが、ここ品川寺だけは坊主頭を曝している。

 日盛りに 笠も着けずに 結跏趺坐     眞人

 守らなければいけないイチョウの木は確かに偉大で、しかも乳の垂れたような形が異常に大きい。屋根の上には、観音様だろうか、馬を引き連れている像が立っている。鈴木さんは青面金剛だろうかと言うのだが、馬を連れているのは聞いたことがない。

 また街道に戻って歩き始める。右の路地の向こうにお寺が見えるところに、小さな墓石が立っている。近づいて確認すると墓石ではなく「贈太政大臣岩倉公墓所参道」と彫られている。それならば奥の寺は海晏寺ということになる。「松平春嶽の墓もあるんだね」とドクトルがリーダー作成の資料を確認している。江戸時代には紅葉の名所として知られていて、初代から三代までの広重が描いた。
 うだるような暑さは耐え難く、信号待ちのときにも少しでも日陰を選ぶようになる。すこしづつ遅れはじめる人も出てくる。先頭に立っているリーダーは、何度も立ち止まって、後方の人を待たなければならない。女性の中では宍戸さんが、日傘を差しながら軽快に歩いている。「この調子だと、今日も痩せそうですよ」と島村さんが言う。先週も猛暑の行田を歩いて帰宅したら一キロも減っていたそうだ。橋本さんは今日の散策で痩せるだろうか。ただし夜中に食事をしてはいけません。
 町の表示は鮫洲になった。どこにも寄らずにまっすぐに歩く。車の量が少し少なくなったような気がする。
 講釈師が椿の実のついた枝を折って(拾って?)見せてくれる。まだ余り赤くなってはいない。この中の種を割って椿油を採るのだ。「お相撲さんの髷は、この椿油じゃなくちゃ駄目なんだ」こういうことに講釈師は実に詳しい。「そう言えば、おばあちゃんが鬢につけてたね」と順子が思い出す。男は駄目だね。全然憶えていない。それでも背の小さな祖母キミの、色白の笑顔が浮かんでくる。満十五歳七ヶ月で廻船問屋の跡取り息子に嫁いだときは、ジャジャボコ(ままごと)のような可愛い花嫁だったと伝えられる。やがて廻船問屋は破産し、家を大火で失い、ちっとも働かずに偉そうな議論ばかりしている夫と、女傑と言われた姑に仕えて苦労しながら四男一女を育て上げた。

 祖母偲ぶ 品川宿に椿の実    眞人

 立会川に架かる橋は浜川橋だが、俗に泪橋と呼ばれる。刑場の傍には必ず泪を流して別れを惜しむ橋がある。千住の泪橋は既に川がなく地名に残るだけだが、ここはきちんと残っている。
 品川区民公園でトイレ休憩だ。私は水道の水を頭から被って少し息を吹き返す。ここでみんなからお煎餅やカリントウなどが提供される。岳人はさすがに用意周到で、汗を出したから塩分補給が大事だと、塩煎餅を取り出す。
 水が霧のように霞む噴水を見て、講釈師が写真を撮ろうと近寄ると、その噴水は途端に止まってしまう。樹木には蝉。公園の中を通り抜け、海を見下ろす高台で潮の匂いを嗅ぎながら鈴が森刑場跡地にたどり着く。国道の脇に、小さな林のように樹木が立ちならび、緑陰を作っている。

 慶安四年(一六五一)に置かれた処刑場で、八月十日に執行された最初の処刑者は丸橋忠弥だとされている。由比正雪の一味二十六人が磔、七人が斬罪に処せられ、九月二十三日にも同じく二十三人が磔、獄門になっている。忠弥の墓は、目白不動のある金乗院で見た。
 元禄八年の記録では、間口四十間、奥行き九間とあるから三百六十坪の細長い敷地になる。天一坊、白井権八(平井権八。元鳥取藩士。父の同僚を殺害して逐電、吉原遊郭三浦屋の小紫と馴染みになり、遊興費を稼ぐため辻斬り強盗殺人を繰り返した)、村井長庵(姪を吉原に売り飛ばし、妹婿を殺害。その実の妹も他人に殺させ、その罪を浪人に擦り付けて獄死させた)、日本駄右衛門(左右衛門。美濃から相模に及ぶ八カ国の大盗賊段の首領)、八百屋お七、それに通説では城木屋お駒がここで処刑されたことになっている。
 千住コースを歩いたとき、日本橋より北の住人は小塚原で、それより南の住人は鈴ケ森で処刑されるのだと書いてしまったが、その時から実はちょっと自信がなかった。ただ、『江戸四宿を歩く』(江戸・東京文庫F)にも、この南北説が書かれているから、私はこれを読んでいたのかも知れない。本郷の八百屋の娘お七が処刑されたのは鈴ケ森刑場だ。本郷は日本橋より明らかに北に位置するから、この説は基本的に正しくない。
 こんなことは大抵、西沢爽が考証している筈だと当りをつけると「白子屋お駒」を考証しているところにちゃんと書いてある。浄瑠璃、歌舞伎で白子屋お駒と呼ばれるのは材木商、城(白)木屋の娘お熊だった。番頭と密通し、夫である入り婿を母と共謀して殺害しようとして未遂に終わった。殺人未遂よりも不義密通のほうが刑が重い。お熊は市中引き回しだが、小伝馬町の牢で斬首となっている、ということまで西沢は調べている。
 しかし江戸の芝居で、お熊が鈴ケ森に引かれてゆく筋立てになっているのは解せない。かりにお熊が刑場へ行ったとして、江戸時代は日本橋より東の生まれのものは小塚っ原、西の生まれのものは鈴ケ森で、お熊は日本橋から見てはっきり東の新材木町、鈴ケ森へゆくはずは断じてない。(西沢爽『雑学艶歌の女』)
 日本橋を境に南北ではなく、東西を区切って、小塚原と鈴が森とに分けられたと言うことだ。これで本郷に生まれたお七が鈴が森で処刑されたことも辻褄が合う。お七についてはやや同情すべき点もないではないが、その他の、ここに名を上げた犯罪者には、ほとんど同情の余地がない。白井権八なんかは辻斬り百三十人という極悪非道、どこにヒーローになる条件をもっているのか。それでも彼ら彼女らは歌舞伎に取り上げられて、ヒーロー、ヒロインに祭り上げられた。どうもこの辺の江戸人の感覚が良く分らない
 ところで、幡随院長兵衛が水野十郎左衛門に殺されたのが慶安三年(一六五〇)で、そのとき権八はまだ四歳。「待てとお留めなされしは拙者のことか」なんて言うことも出来ない年齢だった。時代考証関係なし、なんでもありというこの辺りが歌舞伎の凄いところだろう。
 南無妙法蓮華経の七文字題目碑は元禄十一年に建てられた。「一切業障悉皆従妄想生」の碑。一切の業障、悉皆、妄想従り生ず、と読んだ。首洗い井戸。磔台、火炙台が並んでいる。

 炎熱や 八百屋お七が恋の果て    眞人

 こういう場所に来れば、講釈師の独壇場だ。身振り手振りで見てきたような話が止まらない、「三澤さんは不老不死だから」とダンディが宣言すれば、「八百比丘尼でなく、八百比丘爺ね」と順子も結構口が悪い。
 「高橋お伝はどうしたのかしら」と聞くのは三木さんだ。お伝については第三回「谷中編」で谷中墓地を散策したときに調べてある。これも西沢爽の同じ本に拠ったのだが、お伝は小伝馬町で山田浅右衛門によって斬首され、千住回向院に埋葬された。三月の千住コースで、お伝の墓を見たのも思い出す。後、お伝の愛人だった小川市太郎を施主として、仮名書魯文や守田勘弥などの醵金によって谷中墓地に改装された。「祖母(曾祖母だったかな)がお伝を見たことがあるって。きれいなひとだったそうよ」と言うのは橋口さんだ。

 江戸の刑法は享保二年(一七四二)、吉宗の時代に公事方御定書として成文化され、死罪の六種類が確定した。戦国期以来の慣習法を軽減するためだと言うのだが、これで軽減ならば、それ以前はどれほどであったか、想像できるだろうか。
 まず、斬首(軽)=下手人、利欲にかかわらない殺人、およびそれに準ずる罪に適用された。庶民に対する死刑のうち最も軽いもので、十両両以上の窃盗・不義密通・喧嘩口論による殺人・殺人犯逃亡の手助け等に適用された。小伝馬町の中の切場(俗に土壇場)で刑が執行された。埋葬・弔いは許された。
 斬首〈中〉=死罪、利欲にかかわる殺人に科せられた刑罰で、牢屋で執行され、斬首後の死体は様斬りに使用された。弔いは許されず、闕所とされた。さらに、情状の重い者には市中引廻しが付加されることがあった。
 次は火炙刑だ。放火犯に対して公開で執行される。ご存知お七が登場する。
 大斬首刑(重)=獄門刑。斬首後、首を刑場に三日二夜晒らす。梟首、晒首とも言い、首はその後棄てられた。公儀に対する重い謀計、主殺し、親殺し、関所破り等の重罪に適用され、江戸では牢屋内で罪人を斬首したのち、首を浅草小塚原か品川鈴ヶ森の刑場に送り、獄門台の上に首をのせそのそばに罪状を記した立て札を立て、三日二夜さらした。
 磔=十字架刑。引廻しを付加するときと、しないときがあったが、柱にからだを縛りつけた罪人を二人の執行人が左右から、二十〜三十本ぐらいの槍で突き刺し、最後にのどに左から止めの槍を突いた。死体はそのまま三日二夜さらされた。公開刑として実施。
 最も残酷なのが鋸挽刑だろう。反儒教的犯罪である尊属・主人等への殺人罪に適用。罪人を首だけ出して土に埋め、希望者に鋸で首を挽かせた。しかし後年は形式化して、日本橋南の晒し場で二日間さらし、江戸市中を一日引廻し、刑場で磔にした。
 (http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/edosikei.htmより)
 なぜか、講釈師が居残り佐平次を話題にし始めた。川島雄三監督『幕末太陽伝』でフランキー堺が佐平次を演じた。舞台は土蔵相模だが、落語のほうでは店の名前を特定できない。講釈師の話によれば、金がなくて居残りをしたものは、女郎の洗濯をさせられ、雑用にこき使われて大変みたいだ。

 居残りは辛かったよと講釈師    眞人

 思わず、季のないものを作ってしまった。落語の佐平次はちょっと違うワルだ。佐平次は、散々居残りを続けて常連客から可愛がられ、店の方が漸く持て余した頃、主人の仕立て上がりの着物や帯をねだり、金まで貰ってこんな啖呵を切って去ってゆく。さっきの『品川心中』は志ん朝だったから今度は志ん生で。
 佐「お宅の旦那ア、いいかたですねえ」
 若「そりゃア、この宿じゃア、神様か仏様の次といわれている旦那だよ。ご恩を忘れるとバチが当たらア」
 佐「いえさ、いい旦那といやあ、体裁もいいが、上にバカをつけたほうが、よさそうだよ」
 若「何だとッ!」
 佐「なア、おめえも、女郎屋の若い衆で、めしイ食うなら、よオく俺の面ア覚えとけ、千住へ行こうが、板橋へ行こうが、相手にしねえ居残りを商売にしている、佐平次たア俺のことよ。まだ、品川じゃア、一度もやらねえからと、おめえの楼へ足を突っ込んで、フン、オツな小使エ取りになったぜ、じゃア、アバよ」(『志ん生廓ばなし』)
 ここまでは街道をほとんど真っ直ぐ、北から南に一本道で歩いてきたが、西へ向かって二十分ほど歩くと大森貝塚公園に着く。「大森貝塚」の碑が建っている。明治十年(一八七七)六月二十日、エドワード・S・モースは横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見した。その日、東京大学教授への任官を勧められ、ようやく現地調査に着手できたのは九月十六日のことだった。同行したのは松村任三、専門生徒の松浦佐用彦、佐々木忠次郎。
 「この遺跡はいつの時代なのかしら」と橋本さんが地質年代の知識を背景に質問してきても、私にはうまく答えられない。土器のかけらを発見しているから縄文遺跡に間違いないのだけれど、何千年前のものかはわからない。
 種の起源に関するダーウィンの偉大な著作が出版され、人類およびそれ以下の動物の起源にたずさわる学者の考えに革命が起きて以来、人類の遠古史研究に新しい推進力が与えられた。事実、新しい学問が活動をはじめた。(モース『大森貝塚』はしがき)
 モースの報告はこうして始まるが、ダーウィン『種の起源』初版が出版されたのは一八五九年のことで、それから十八年しか経っていない。日本への最初の紹介だったかも知れない。進化論に大きな影響を受けたモースによるこの発掘が、日本の近代的な考古学の嚆矢であったことに間違いない。江戸時代にも日本的な考古学はすでに存在し、優れた成果もないわけではなかった。本草学の一分野として各地で採集した石器や土器が報告されている。しかしそれはまだ萌芽的な段階にとどまっていたと言わざるを得ないからだ。
 ただし、モースの報告には大きな問題が含まれていた。一つは、上古日本人に食人習慣があったというものだ。
 大森貝塚に関連して最も興味のある発見の一つは、そこでみられた食人風習の証拠である。これは、日本に人喰い人種がいたことを、初めてしめす資料である。人骨は、イノシシ・シカその他の獣骨と混在した状況でみいだされている。これらは、獣骨と同様、すべて割れていた。(中略)煮るに便利なように割ったのである。
 「上古」日本に食人慣習があったのならば、それが現代の日本人の直接の祖先であってはならない。それは、日本人渡来以前の先住民族のことであり、「神武東征」によって滅ぼされた先住民族のことでなければならない。おそらく心理的にはこうした強制があったのではないだろうか。坪井正五郎(日本人類学の祖)は、コロボックル説を打ち出し、小金井良精はアイヌ説を主張した。日本の近代科学を切り開いた彼らでさえ、そうだった。食人習慣については、その後の研究に進展があったのかどうか、どうやら有耶無耶のうちに葬り去られたのではないだろうか。
 ただし、大森貝塚人は縄文人であることは明らかになり、それが現代の日本人と全く関わりないと考える者は今ではいない。
 もうひとつ、これは時代的な制約、研究の未熟によるものだが、「そもそも貝塚が、一年のうちの特定期間にせよ、海辺に住んで、難態度物や魚など手に入れやすい食物を得ていた野蛮人のごみすて場である、という事実である」(モース同書)という認識が、随分後まで続いたことだ。昭和四十年代前半、私の高校時代まで、「貝塚はゴミ捨て場」であると言う説は、学校教育の場で公認されていた説ではなかったろうか。考古学の進展によって、この説は改められている。
 縄文時代は新石器時代である。各地の遺跡で発掘された石器を分析すれば、その地方では決して産出しない石材が認められた。特に黒曜石は産地の特定がしやすい。これはとりもなおさず、縄文時代に交易があったことを証明する。また貝が大量に発見される場所と住居跡との地理的な関係にも研究が進み、こうして大型貝塚は、干し貝製造工場の跡であろうと推測されることになる。石を産出する地方(山間部で塩を入手できない)との交易品として製造したのだった。
 若い頃の私は、文字のない時代は歴史の対象ではないなんていう、無知傲岸な態度をとっていたから、考古学については聞きかじり程度の知識しかない。
 すなわち、山地では山地特産の石材や石器を専従的に採取または生産し、それを特定な場所に持ち込んで他の地域の特産物と物々交換していた。そして東京湾岸の縄文人は、石材や石器が乏しいゆえに、山地には乏しくこの地域には豊富な貝類を干貝に加工して、それを山地に豊富な石材や石器と交換していたのである。(後藤和民『縄文人の知恵と生活』森浩一編「日本の古代」四巻所収)
 そんなことがきちんとプレートにかかれて説明してある。掘削した断面に貝殻が一杯残っている穴が保存されている。案内板の絵を見れば、ここで魚の開きを焼いている、このなべで飯を炊いていると講釈師が絵の通りに説明する。
 公園を出て大森駅に向かえば、「ここにも貝塚の碑があるんですよ」とダンディが指差す。こちらのほうは「大森貝墟」とあって、昭和三十年に佐々木忠次郎によって建てられた。佐々木自身がモースに同行して実際に発掘調査に当った人物だ。さっき公園に入ったところで見た「貝塚」碑は、昭和四年、本山彦一、石川千代松によって建てられたから、今見ているほうが随分新しい。最近の研究では、品川のほう(貝塚)がモース発掘の跡らしく、大森駅に近いほう(貝墟)ではないらしい。モースに同行して現場を知っているはずの佐々木が、なぜ別の場所に碑を建てたのかは謎だ。佐々木は考古学ではなく昆虫学に進み、一緒に発掘に当った松浦佐用彦は夭逝し、モースの学統は日本考古学に継続されなかった。その辺りの感情的な縺れがあるのかも知れない。

 三時だ。ダンディの計画ではこの後、馬込文士村を散策し、池上本門寺に向かう予定だったが、今日はここで中断する。なにしろ酷暑と言ってよい一日で、もうこれ以上の歩行は困難だった。平野隊長は腰の痛みに加えてスズメバチに刺された足を引き摺って、難行苦行の一日を過ごした。大森駅前の喫茶店で反省会を兼ねた休憩だ。
 タバコを吸うのは私と橋本さんの二人だけだから、(島村さんはもう十日ほど禁煙実行中)向かい合って座る。橋本さんや橋口さんに、「佐藤さん、四十代後半。四十七、八でしょう」と言われた私は喜んで良いのだろうか。順子は「生活感がないんじゃないのと」と冷たい。そうか、会社でも年下の役員からいつも「佐藤さん、大人になりなさい」と叱られているし、大人としての自覚が不足しているのかも知れない。お世辞が入っているにしても、五十六歳になって四十代にしか見られないのは、何か根本的な欠陥があるのではないだろうか。
 橋口さんは私の拙い作文を褒めてくれ、頻りに「面白かったわよね」と三木さんにも同意を強要するものだから、三木さんも困った顔になってしまう。それでは今度メールで送信するからと名刺を頂戴して驚いた。橋口さんは生態系保護指導員マスターと言う偉いひとだった。次回はどこかと聞かれても、先週飲んだときに、江口さんが確か四谷方面と言っていたような気がするが、鈴木さんもよく覚えていない。

 講釈師と碁聖は先に別れ、みんなが喫茶店を出て解散したのは四時過ぎだが、まだ酒を飲ませる店は開いていない。駅前で、馬込文士村の地図を確認していると、通りの向こう側の坂の辺りに、馬込村の文士の顔のレリーフが見える。あそこから歩いていくのだろう。少し店を探してうろうろしたが、やはり品川まで出ることにした。その方が帰りが楽だ。桜水産はないが、結局「和民」が開いていて、いつものような反省会になった。松下さん、平野さん、三木さん、島村さん、鈴木さん、あっちゃん、私の七人だ。あっちゃんが珍しく「女性ひとりだし」なんてモジモジするのがおかしい。彼女を除けば、先週に引き続くメンバーだ。
 ダンディのルーマニア旅行の写真が披露される。ドラキュラ伯爵の城。若い美女に囲まれたダンディ。平野さんのデジカメの話、携帯電話の話、読書の話、もろもろ語りながら七時頃に解散となった。平野さんはネパール・ヒマラヤトレッキング隊の見送りのため羽田に向かった。

 次回は江口宗匠が担当する筈だったが、郷里で法要のため、ダンディが今日の続きをやってくれることに決まった。