「東京・歩く・見る・食べる会」
第十三回 馬込文士村・池上本門寺・洗足池編 九月八日(土)
この会が始まって三年目に入った。交代で企画してくれるひと、話題を提供してくれる人、いろんな人のお蔭で続いてきた。ひとりだったら、こんなに東京を知ることもできなかった。 今日は大森駅集合。先月、猛暑のために途中断念して解散したところからの再開となる。八月は史上まれに見る猛暑となって、熊谷と岐阜県多治見では四十・九度と、七十四年間山形県が保持していた高温記録を更新した。東京埼玉でも連日三十五度前後の日が続き、地球温暖化を体の芯まで納得させた。それが、最後の週になると秋雨前線が発生してにわかに秋めいた。漸く夜の寝苦しさがなくなったと思ったのも束の間で、九月に入ればまた暑さがぶり返し、一昨日の台風が過ぎて、今日はまた一段と暑い日になった。太陽もそんなに頑張る必要はないのだ。 ダンディ松下、大川さん(久しぶり)、三澤講釈師、ドクトル三木、岳人鈴木、関野碁聖。女性はあっちゃんと順子、私を加えて九人集まった。第一回から皆勤を続けてきた平野隊長は腰の具合が悪くて断念し、宗匠は郷里で法要があるため先月に続き欠席となる。隊長は早く腰を治さなければいけない。 七月は台風で延期したし、今回も直前まで台風が心配されたので、鈴木さんはダンディを「嵐を呼ぶ男」と評した。 馬込文士村の探索は通りを横断して、天祖神社の崖に据えられている文士のレリーフを見るところから始まった。数えると四十三人の顔があり、中でも宇野千代はどこにいてもすぐに分る顔をしている。 馬込には大正の末から昭和にかけて作家、画家が多く集まり住んだ。関東大震災の直前から住み着いた尾崎士郎と宇野千代の夫婦が仲間を誘ったということもあったようだ。それ以前、文士が多く集まったのは田端だ。芥川を一方の中心に、もう一方には室生犀星が陣取った。 関東大震災の後、それまで閑静な郊外だった田端も新興住宅地として都市化の波に曝され、騒がしくなった土地に嫌気のさした作家たちが田端を逃げ出した。昭和二年、芥川が自殺したことで、犀星も、一足先に出た朔太郎を追って馬込に移った。 当時の東京府荏原郡馬込村は、現在では大田区山王、馬込、中央を覆う地域で、馬込文士村として大田区の観光の目玉になっている。「馬込文士村散策マップ」というのを見れば、六十人ほどの名前が確認できる。実に膨大な名簿で知らない名前が多い。 天祖神社を回りこめば、石垣には様々なレリーフが埋め込まれていて、朔太郎の家のダンスパーティの様子も絵になっている。狭い坂道を歩いて行くと、日本帝国小銃射的協会などという碑を見つける。名前はなんだか大仰だが、射的と言えば、温泉地などの盛り場にある薄暗い店を連想する。大したものではないのではないか。あっちゃんは江戸の矢場が頭に浮かんだようだ。「ちょっと寄ってらっしゃいよ、とか言うんですよ」江戸の矢場はちょっと猥褻で危ない。 闇(くらやみ)坂を通って山王会館に着く。薄い煉瓦色の壁をした四階建てのマンションの一階部分が展示室になっている。外の庭も緑の手入れが行き届いている。 昭和初期の馬込村の風景写真が飾られ、それを見れば典型的な農村だ。尾崎士郎、高見順、吉屋信子、村岡花子、山本有三などの写真や手紙の類が展示してある。 尾崎士郎は『人生劇場』しか知らない。映画では青成瓢吉を後ろに回して飛車角や吉良常を主人公にしたことで、任侠映画のはしりになったが、小説そのものは、五木寛之の『青春の門』のようなものだ。歌謡曲の名曲『人生劇場』は、萩原朔太郎の妹と結婚した佐藤惣之助(これも馬込に住んだ)の作詞になる。
高見順なら『故旧忘れ得べき』『如何なる星の下に』かな。高校時代、授業中そんな本を広げていると担任の教師に志が低いと叱られたのを思い出した。ドストエフスキーの研究家を自認している教師だった。確かに左翼運動からの転向者である高見順には、わざと身を低くしている趣があった。しかしもうすっかり内容は忘れてしまっている。 あっちゃんと順子は『赤毛のアン』のファンだから村岡花子がとても気になっている。ここからだともっと南のほうになるが、大田区中央に「赤毛のアン記念館。村岡花子文庫」というのがあるようだ。花子生前に使用していた書斎と応接室を再現したものだそうで、お茶会風のオープンハウスを実施しているということがネットで分る。(http://club.pep.ne.jp/~r.miki/house_j.htm) 吉屋信子も二三冊読んだことがあると言えば、順子がおかしそうに笑う。「真理ちゃんたち(妹)がいたからね」晩年には『徳川の夫人たち』や『女人平家』などの歴史長編を書いたが、私たちの世代では少女小説を連想する。継母や姉に苛められる美しい娘。健気に耐えるその姿をじっと見守るひと。最後は幸せになる。こういうふうに要約すれば、つまりシンデレラ物語であったか。ダンディは婦人雑誌に連載した小説を思い出すようだ。断髪の写真はまだ若い信子のもので、ちょっと綺麗に見える。 山本有三のことも触れなければならない。『路傍の石』は小学生必読の書だったし、「不惜身命」なんていう言葉も山本の小説で覚えた。(坂崎出羽の話だったと思う)後年、貴乃花が横綱昇進のときにこの言葉を使って、新聞などでは随分難しい言葉を使うと驚かれたが、何、有三の少年小説を読んでいたのだろう。戦時中、「日本小国民文庫」を企画して、吉野源三郎に『君たちはどう生きるか』を書かせたのは有三だから、そのリベラリズムは評価する。(ついでに言うと、私はコペル君にはなれなかったが、この本は今でも愛読書のひとつだ) しかし戦後の国語改革はいけない。仮名遣いを改め当用漢字制定に力を尽くしたそのことについては、文句がある。全てが山本の罪かどうかは分らないが、仮名遣いで言えばかつてはきちんと四段で活用していたものが、不自然な五段活用や変格活用になった。「ぢ」「づ」音を「じ」「ず」表記に統一する原則を立てために、原意が失われる結果になった。稲妻を「いなずま」、地震を「じしん」とする類のことだ。送り仮名のルールも例外規定が多すぎて滅茶苦茶になった。当用漢字については今更言うまでもなく、これが最終的に廃止されたのは良かった。 講釈師はこんなことには興味がなく、さっさと玄関のところで靴を履いている。外に出れば日差しは暑いが風が吹くのでなんとか耐えられそうだ。今日は真夏日になるはずだが、風があるだけ先月とは違う。やはり九月だ。 急勾配の狭い坂道が続き、左折する車も苦労している。雪が降れば歩くこともできないような坂道だ。私たちが坂を下りきるのを待って、郵便局の軽自動車がその急勾配を登っていく。「へーっ、登れるんだ」と全員が感嘆する。 室生犀星の旧居跡に行く。当時の家は勿論残ってはいないが、似顔絵と簡単な経歴を記した標識が立っている。順子は犀星の『杏っ子』から娘の名前をとったということだ。この辺りの家は植木が豊かで、緑が嬉しい。 私は彼のすすめで彼の家近くに引っ越し、今日に至っている。(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』) 彼と言うのは萩原朔太郎のことで、犀星と朔太郎の友情は、大正三年二月、犀星が前橋の朔太郎を訪ねたときから(その前、白秋主催の『朱欒』の投稿詩で文通が始まっていた)、昭和十七年五月、朔太郎が五十六歳で死ぬまで続いた。
ちょっと歩けば榊山潤、藤浦洸の標識が並ぶ。榊山については文壇囲碁の名人であることしか知らない。藤浦洸からは、講釈師の口から「二十の扉」「トンチ教室」なんていうラジオ番組名が飛び出してくる。「石黒敬一なんて黒眼鏡をかけてさ」と講釈師が言えば、「柔道家でしたよね」とダンディも答える。 あっちゃんは昭和二十年代から三十年代にかけてのラジオを知らない。物心つくころには家にテレビがあったということだ。私は日曜日の九時になると友達の家に駆け込んで、『月光仮面』などを見せてもらったが、家では夕方五時から始まる連続ラジオドラマがお気に入りだった。『笛吹童子』『紅孔雀』などの北村寿夫の「新諸国物語」シリーズ。インカ帝国の王子を主人公にしたドラマもあったし、『赤胴鈴の助』もあの頃だ。ダンディは大阪の児童劇団に所属していたという。 藤浦洸の名前では、私は淡谷のり子の『別れのブルース』を思い出す。
門の石段脇には「廿三夜塔」という石碑が建つ。私は民俗学的な知識に欠けるので、こんなものは全く知らない。十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食をすることを月待ちと呼んだらしい。二十三夜は月の出が夜半になるため、夜を徹した飲み食いの場になったようで、それなら庚申待ちとも縁がありそうだ。 玄関の前にはカタルバ(アメリカキササゲ)という木が植えられている。新島譲と蘇峰の師弟愛を物語ると記されている。パンフレットによれば五、六月に香りの良い白い花が咲き、秋にはサヤエンドウのような実をつける。明治二十年代に新島譲がアメリカから持ち帰り、蘇峰に贈ったということだ。 蘇峰はここで『近世日本国民史』を書き継いだ。「蘆花は有名だけど、蘇峰って有名な人なんですか」と聞くのはあっちゃんだ。もと文学少女も政治思想歴史にはあまり強くなさそうだ。蘆花が死ぬまで兄の蘇峰にコンプレックスを抱いていたのは有名な話だ。 太平洋戦争まで、国権伸張を主張した大ジャーナリストとして、その影響力は非常に大きかったが、逆に戦後になればその存在感は失われた。私はどうも蘇峰には縁がなく、一冊も読んだことがない。(ただひとつ、蘆花が死んだときの弔辞は読んだ)自由民権運動を担った多くがやがて国権派へと転進し、大陸進出へとその立場を変質させて行った過程を、蘇峰は典型的に示している。私は民権運動の正当な後継者は、明治の初期社会主義だと思っているから、蘇峰の立場に余り同情しない。 昔の小学校の廊下のような壁際には海舟の書簡などが展示されているが、筆で書かれた文書は全く読めない。古文書もちょっと勉強しなおす必要がありそうだ。和室のほうには『近世日本国民史』の原稿が帙に収められている。創刊当時の「国民の友」も置いてある。ライティングデスクのような机も展示されている。 奥のほうから外に出ると緑の濃い庭園になっている。銀杏が落ちていて、「ちょっと早すぎませんか」と、あっちゃんが不思議がる。大川さんも「普通は十月ころだよな」とやはり不思議なようだ。しかしこれは熟して自然に落ちたものではなく、どうやら台風のためだったらしい。講釈師が断言するからそうなのだろう。 古墳のような塚もあるが、構造からみて古墳ではなく、祭祀に使われた平安末期から鎌倉期のものだと書かれてある。その中腹には馬頭観音。もうとっくに花は終わって葉だけになっているところに、ビヨウヤナギの札が立つ。「佐藤さん、ビヨウヤナギは得意なんですよね」とあっちゃんが笑う。そうなのだ。この花を最初に知ったのは平野隊長のブログでだったが、その後石神井川沿いを歩いて見つけ、ちょうどカメラの練習の手始めにと撮ってみた。黄色の五弁花が色鮮やかで、雄蕊が長くて無数にあるかと思えるほど風に震える。七月には行田の緑道で発見して宗匠と川崎さんに自慢した。この花はなぜか心ときめく。行田散策を思い出してでっち上げた句だけれど、 遠き日の胸の震へや美央柳 眞人 蘇峰の胸像があったところは、像が供出されたため、台座だけが残っている。胸像が会った頃の写真を設置してあるが、それくらいなら復元しても良いのではないか。台座の前を翼をつけたライオンが二頭守っている。グリフィンかと思ったが、スフィンクスかも知れない。 この公園も蘇峰旧居の庭だったのだから、相当な規模の屋敷になる。「お金持ちだったんですか」そうだと思う。昭和二十年八月十五日を境にして蘇峰の権威は地に落ちたが、それまでは日本帝国と一体になっていたのだから。ただし、あれだけ権力と密着していたはずの蘇峰が、ポツダム宣言受諾を知らなかったのはおかしい、権力からもそろそろ見放され始めていたからではないか(という記事を何で読んだか覚えていない) 蘇峰公園を出て馬込銀座に戻り、白秋旧居を探して歩いていくうち、住所表示が西大井に変わってしまった。珍しくダンディが道を間違えた。地図を確認しながら方向はあっちのほうだと、もう一度商店街へ戻る。八幡神社の御神輿と太鼓が道路に据えられているが、あまり祭の雰囲気は出ていない。「お茶をどうぞ」と休憩所から声がかかるが、道を探すダンディはそれどころではない。新幹線の高架の見える辺りから曲がるらしいが良く分らずに、ダンディは交番で確認する。「ふたりもいるのに、ものを知らない」と言いながら、住所だけを頼りに路地を曲がり、行き止まりの道(実は通ることが出来たのを岳人があとで発見する)に悩み、漸く坂道の途中の標識に辿り着いた。白秋と添田さつきが並んでいる。白秋が住んだのは、昭和二年三月から翌年の六月までのことだ。そのときの住居表示は、府下大森馬込村霜田になっている。 今日の会の中で添田さつきを知る人はいないから触れておこう。ダンディは女性かと思っていた程だ。代表作は『教育者』なのだろうが読んだことがない。私は唖蝉坊の息子として知った。自身も演歌師として活動したが、後、知道の本名で著作に転じた。演歌師時代の代表作には、『パイノ・パイノ・パイ』『復興節』『月は無常』『ストトン節』などがある。題名を言うと、「それなら聞いたことあるような気がする」とあっちゃんは、結構古いことを知っているが、彼女はエノケンの歌で聞き覚えたようだ。 『添田唖蝉坊・知道著作集』(全五巻・別巻一)が刀水書房から刊行されている。第一巻「唖蝉坊流生記」、第二巻「浅草底流記」、第三巻「浅草空襲下日記」、第四巻「演歌の明治大正史」、第五巻「日本春歌考」、別巻「流行歌明治大正史」の構成になっていて、父親の書いたのは第一巻だけ、あとはさつきの著作になる。普通のひとはこんな本は買わないだろうね。私がこの著作集を持っているのは何故か。流行歌の歴史を探れば近代日本人の精神構造が把握できるのではあるまいか、というのが若い私の直感だったのだが、根気のない私は当然のように途中で挫折した。 環状七号線を横断してまた坂道を登る。実に坂の多い町だ。汗が噴出す。しかし次もなかなか分らない。中心になる大通りと言うものがないから、目標物がない。丘に縦横無尽というか、勝手に家を並べたような按配になっているから、住所表示を確認し、地図を見ながらそれでもなんとか辿りついた。 百日紅また巡り逢ふ迷ひ坂 眞人 山本周五郎。「私はああいうのは嫌いです」とダンディが一蹴する。三好達治と今井達夫が並ぶ。今井達夫と言うのは、申し訳ないが知らない。三好達治は朔太郎の弟子だから、朔太郎の行くところはどこへでも追いかけてくる。 北野神社には祭り提灯がぶら下がっているが、人の気配はない。「昼はこんなものですよ」 尾崎士郎と宇野千代。宇野千代が士郎と同棲を始めたのは大正十一年のことだが、まだそのときは藤村忠との離婚は成立していない。十二年五月に馬込に移り、やっと士郎と正式に結婚したのが十三年四月になる。しかし昭和五年には東郷青児と同棲、九年には北原武夫(正式結婚は十四年)と千代の心は華麗に変転する。 多分ドクトルと私しか気付かなかったのではないだろうか。路地の角に草の生い茂る中に磨墨塚と言うのを見つけた。ドクトルが「これは何だい」と聞いてくるが私には分らない。墨を磨るから文士に関係があるのだろうか、マボクとでも読むのだろうかと実に私は鈍感だ。文字の通りに「するすみ」と読めば良いので、宇治川先陣争いで梶原源太の乗った名馬の塚だった。こんなことをこの時には全く分っていない。あとで洗足池の池月の像を見てから気付くのだから、実に私の感度は鈍い。そもそも馬込の地名から、この辺りは馬の生産地であったことに気付かなければならなかった。ただし、後で岳人が報告してくれたところでは、郡上八幡の奥に「磨墨の里公園」があるそうだ。木曽駒だとすれば、そっちのほうに所縁があってもおかしくない。 宇治川に敗れし馬や秋の草 眞人 梶原が磨墨に乗ることになった経緯を『平家物語』から引用しておこう。
嵐にも耐えて残りし林檎かな 眞人 狭い石段の片側には民家がひしめいている。今度は朔太郎の家を探すのだが、ダンディがまた間違えた。「俺があっちだって言うのを無視していくんだから」と講釈師の毒舌が始まる。今日はこれで三度目の間違いと言うことになる。「迷い道って歌があったよな」渡辺真知子だったかな。住所表示を見ればそんなに離れているわけではないのだが、路地が入り組んでいるから難しい。もう一度来て見ろといわれても、私は絶対に出来ない。この中で地図を見るのが得意なのは、岳人(山登りをする人だから当然だ)と順子だと分った。ついでに私とあっちゃんは地図を読めないことも分った。
朔太郎の妻イネ子は宇野千代に影響されて洋装のモダンガールに変身し、ダンスに狂い、若い学生に恋をした。こうして家族は崩壊し、昭和四年七月、朔太郎は娘二人を伴って前橋の実家に戻ることになる。 右近坂(右近という者が住んでいたとも、おこんという女がすんでいたからともいう)標柱が建っていて、そこに案内図が建っている。左に向かえば倉田百三がいたところらしいが、私たちは右のほうに、団地の脇の緑道のような場所を通っていくと、川端康成と石坂洋次郎の標識を見つけることができる。私は川端にはなんだか不健全なもの、何かひどく鈍感な精神を感じて、まともに読むことが出来ないで過ごした。晩年の不眠症から来る睡眠薬中毒で幽鬼のように痩せ衰えた顔は正視に堪えなかった。ノーベル文学賞受賞などというものも、自殺を早めたのではないかと私は疑っている。 石坂洋次郎を読む若者なんか、今でもいるのだろうか。「私は映画で知りました」というのは関野碁聖だ。おそらく昭和二十四年の今井正監督作品『青い山脈』のことだろう。『石中先生行状記』を口にするのはさすがにダンディだ。津軽を題材にした艶笑譚で、私がそれを父親の本棚から引っ張り出してきて、こっそりと読んだのは小学五六年生の頃だったんじゃないか。 昭和三十年代後半から四十年代初めにかけ、テレビドラマや映画になった。あの当時、あんなに石坂の小説がドラマ化されたのは何故だろう。当時でも相当時代にずれていたのではないか。登場してくる主人公たちの言葉がやけに観念的で、中学生の私でさえ、その薄っぺらな物言いには赤面した。ただ幼い私が、松原智恵子を見て、こんな美しい人がいるのかと思ったのは、そんなテレビドラマの中だったから面目が立たない。映画の主題歌は裕次郎が歌い、テレビの主題歌は舟木一夫が歌った。ブルーコメッツにもひとつあった。歌謡曲の黄金時代だった。 松原智恵子の名前を思い出せば、脱線してしまう。鈴木清順監督『東京流れ者』に限らないのだが、用もないのにわざわざ出てきては悪人に捕まり、渡哲也を危機に陥れてしまう。状況の把握がちっともできず、頭が悪いのではないかと思わざるを得ない。それにしてもあの頃の渡哲也は良かった。今の渡哲也には何の魅力も感じない。ちょっと拗ねたような笑顔で、しかしちょっと怒らせば即座に刺されてしまうような危険な匂いを発散させていた。「哲也さん、行かないで」と懇願する松原智恵子に、渡哲也は言うのだ。 流れ者には女はいらない。女がいちゃあ歩けない。 こんな科白を私もいつか女に投げつけて去っていくのだ、なんていうことを真剣に考えていたから、私は実に下らない。いつだって去っていったのは女のほうだった。川端龍子の家を見て文士村はここで終わる。 このほかに、パンフレットを見て馬込文人の名前を拾ってみると、こんな人たちが住んでいた。日夏耿之介、小島政二郎、広津柳浪、広津和郎、牧野信一、佐多稲子、倉田百三など。 既に二時間半も休憩もせずにアップダウンのきつい坂道を上り下りしてきた。時折風が吹くとは言うものの、暑さがきつい。計画では本門寺の門前で蕎麦を食べることになっている。「あと二・五キロ程です」ダンディが言うのに、「二倍位に見なくちゃだめだ」と講釈師が茶々を入れる。ダンディはどんどん前を進んでいく。「松下さん、早すぎます」と言うあっちゃんの声がか細くなってきたが、無情に歩くダンディにその声は届かない。鬼のダンディ。実はこの頃あっちゃんの足には血豆が出来ていたのだった。
「いつもなら三澤さんが後ろのほうからゆっくり歩けとか、コントロールしてくれるんだけど。たまには良いことも言ってくれるのよ」。ごく稀にそういうこともあるかもしれない。今日の講釈師はダンディが道を間違えないように監視しているつもりか、ぴったりと先頭にくっついている。 汐見坂の頂上に立つと向こうに本門寺の甍が見え、「もうすぐですよ」というダンディに「エーッ、まだ遠い」と美女が嘆く。 それでも三十分ほどで弁天池に辿り着いた。噴水が上り、その脇が本門寺公園になっている。公園の中に入り、グランドの脇から石段を登って歩くのだが、ここでもダンディがちょっと道を間違えたのだが、講釈師が奇妙に優しい言葉をかける。「大変だよな、この暑いのにみんなを引き連れて歩いてくれるんだから。本当にご苦労様です」これは何だろう。全員が驚き、言うべき言葉を失ってしまう。「俺だって悪口ばっかり言ってるんじゃないよ。ちゃんと感謝するところはするんだから」 「黒揚羽」とあっちゃんが声を出す。珍しく講釈師も蝶を見るものだから、早速ダンディに冷やかされる。なにしろ蝶やトンボが飛んでいると追い払おうとする人だ。調子が狂う。「黒揚羽くらい俺だって知っている」 墓地の横から五重塔の脇に出る。井戸水を汲むポンプが据えてあって、全員が冷たい水に腕を濡らして息を吹き返す。 山門の長い石段を下りながら、この石段は加藤清正が寄進したのだと講釈師が説明する。目的の蕎麦屋「本門寺そば・千歳屋」に入ったのが一時をちょっと過ぎた頃だ。生ぬるい麦茶が旨い。私とダンディは鰻丼とモリ蕎麦のセット千三百円を注文し、順子は「若い」と呆れている。ダンディが健啖家であることは間違いない。赤坂を歩いたときも、ビュッフェ式で、選んだものの重量で料金が決まる料理では一番高額を支払っていた。私はそれほど健啖家ではないけれど、蕎麦だけでは物足りず、やはりご飯ものも食べたいから、蕎麦屋では必ずセットをまず探す。大川さんはすき焼丼、ミニ丼にしてお蕎麦のセットもあると店員に勧められるが、さすがにセットには手を出さない。そのほかの人は普通に蕎麦を注文した。 店に入ったときにはやや混んでいて、椅子席に四人、小上がりに五人と、ちょっと窮屈な座席に座らされた。五人の席には、決して痩せているとは言えない順子が肩を小さくして座る。それでも注文した蕎麦が出てくる頃には程よく空いてきて、順子が席を移動した。 講釈師お薦めの店だし、下見のときにダンディもちゃんと味見をしているから、蕎麦が美味しい。私は今年初めて鰻を食ったようだ。前回の昼食では散々な目にあったあっちゃんも、今日は美味しいと満足している。暑い日盛りの中を三時間も歩いたのだから、体が水分を要求する。麦茶を四杯お代わりした。本当はビールといきたいところだが、午後のコースもあるし、我慢、我慢。 ゆっくりと蕎麦を食い終わって、また石段を登る。「もう上りはお終いかと思ってたのに、眩暈がしそう」とあっちゃんは嘆きながら、それでもちゃんと登ってきた。この中は自由見学ということで、大堂の横にあるお休処の前で解散した。集合は三十分後だ。ダンディからは前もって境内の地図を渡されてある。 池上本門寺は日蓮宗の大本山(宗務院)だ。長栄山大国院本門寺と言う。
順子に聞かれたから創価学会は日蓮宗から分かれたと答えたが、法華の系統というのはどうも分りにくい。狭義の日蓮宗といえば、この本門寺の系統だが、別系統に日蓮正宗があって、創価学会はここから分派した、他にも立正佼成会・霊友会などが南無妙法蓮華経の題目を唱える。法華経は明治以降の異端の政治家や文学者に大きく影響を与えるのだが、私には分らない。 松涛園が一般公開中だと記す看板が立っている。めったに見られないものならと、順子がいきたそうなので、あっちゃん、ドクトル、大川さんとそちらに向かう。道を大きく回りこんで、朗峰会館という寺の施設とは思えない、ホテルのような建物に入れば、折り畳みテーブルに受付の人が待ち構えている。「入園料はいくらかしら」と順子が囁いていたが、五人だと言って、代表ということで私の名前住所を記入すると案内図をくれる。無料だった。たまたま今月の三日から明日まで、一週間だけの公開期間だったから運が良いと言うべきなのだろう。 私はそもそも松涛園が何であるかも弁えずに来て見たのだが、要するに大名庭園の一種なのだ。小堀遠州作で、池の周りを回遊するようになっている。明治元年四月には、西郷隆盛と勝海舟とが江戸城明け渡しの会見をした。樹木の手入れが行き届いている。管理には相当金がかかるはずで、この寺がどれほど裕福であるかが分る。「赤とんぼ」と順子が声を上げ、「猩々トンボです」と虫愛ずるひとが訂正する。 一回りするともう集合時刻には五分しかない。露伴の墓も見たいところだが、喫煙所で一服して、とにかくお休み処まで戻ると、もう皆は中でかき氷を食べ始めているらしい。それならばその隙にちょっと見学しようと、ダンディに断って、今度は鈴木さんとあっちゃん、順子と四人で向かう。鈴木さんはさっきの時間に二十ヶ所だか指定されている場所を回ってスタンプを押してきたが、十三ヶ所しか回れなかったとぼやいている。しかし凄いね。 露伴(露伴幸田成行墓とある)と文子の墓はちょうど五重塔を背景にした場所にあった。谷中の五重塔は放火で消失してしまったが、ここのものは慶長十三年(一六〇八)に建立されたのが、空襲にも無事で生き延びた。重要文化財に指定されている。あっちゃんは露伴『五重塔』を読んでみたがちっとも面白くなかったと言う。実は私も露伴をまともには読んでいない。それでも露伴と文子の親子関係は面白い。面白いといえば文子には気の毒だが、世にも珍しい親子関係だと言うべきだろう。娘の教育一切は露伴が引き受けた。炊事掃除にとどまらず、ストリップを見学させたこともある。文子もそれによく耐えたから、夫の家が破産しても身を粉にして生き延びることができた。 岳人が、近くには市川雷蔵の墓がある筈だと探していると、ちょうどそこにいた婦人が、「それならそこの太田さんよ」と教えてくれる。雷蔵の本名が太田なのだろうが、墓石には「太田家」とあるだけで、雷蔵を連想させるものは一切ない。ここに来るまで、「力道山の墓」という矢印はあっても、露伴にしても雷蔵にしても、ほかに案内する矢印は一切見えなかった。日本文化の現状を示すか。 教えてくれた婦人は「エンコウイン様は四代目なのに、五代目って書かれてしまった」と不思議なことを言う。「それって徳川様ですか」とあっちゃんの質問も頓珍漢だが、「違う、そこにあるでしょう」と指をさす。「五代目尾上松助」という石柱がやや斜めに立っている墓所の中で、墓石には確かに「遠厚院」と書かれてあるのだが、さて、その松助が四代目でも五代目でも、私たち四人には全く何のことだか分らない。「私は親族のかたにちゃんと確認しました」と低い声ながら彼女は断言する。「松たか子さんのお祖父様はあそこに」と指差してくれても(八代目幸四郎、白鴎のことか)、もうそろそろ行かなくてはならない。関係者と言うよりも歌舞伎の熱狂的なファンという感じだが、どうも不思議な雰囲気を漂わせているご婦人だ。 配られた資料によれば、著名人としては圧倒的に歌舞伎役者や俳優の名が多く、武士階級の名前は見当たらない。画家の名前も目に付く。英一蝶というのは八丈島に流されたのではなかったかな、とあっちゃんに言ってしまったが、一蝶の流されたのは三宅島だった。流された理由と言うのが、名目上は生類憐みの令に対する違反で、町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)こととされているのだが、元禄文化華やかなりし頃の有名人に対する見せしめの意味が強かった。 大堂の前では子供たちが鉦を鳴らしながら飛び跳ねたり、行進の練習をしたりしている。どうやらお会式というものの練習のようだ。十月十三日が日蓮の命日で、そこで行われる法要のことなのだが、万灯行列というものが池上の町を練り歩くらしいのだ。講釈師は詳しくて、いろいろ説明してくれたのだが、すっかり忘れてしまった。池上の町を練り歩いた後、次にどこかの町に行くのだそうだ。その町の名前が思い浮かばない。 休み処に入ると皆がかき氷を食べているので(と言っても講釈師はいつものようにクリームソーダにストローをさしているが)、私も「しぐれ」を注文した。かき氷なんて何十年振りだろう、少なくとも十数年は口にしていない。順子はあずき、あっちゃんは梅の入ったもの(一番高い)を注文する。氷を食べると頭が痛くなるのは、血管だか神経が急激に収縮するからだとあっちゃんが岳人に教えている。そのそばから私はすぐに頭が痛くなって、途中休憩と称してタバコに火をつける。 氷は多すぎて、しかも下になるに連れ甘さがきつくなるから、全部は食べられない。あっちゃんは苦しいと言いながら最後の梅を口にしている。無理をすると今夜のビールに差し支える。 すでに三時だ。本来ダンディの企画では、ここまでが先月のコースの後半部分なのだ。これを一日で回ろうとしたダンディも凄い。ただ、ひとりで下見をしていると、どうしても足早になってコースを長く設定してしまうのは、私も経験している。 大堂と本殿を分断する道路を横切り、石段を降りると大坊だ。そこを通り抜け、第二京浜国道を横断する。「夜霧の第二国道さ」講釈師の言葉にあっちゃんが不思議がる。「それって何ですか」渡辺はま子は知っていてもフランク永井を知らないひとだ。日活B級映画で、フランク永井が主題歌を歌った。昭和三十一年の歌だ。講釈師が歌ってみせるが、メロディが少しおかしい。
講釈師の説明では『夜霧の第二国道』は小林旭主演で岡田真澄なんかが出ているらしい(見たことはない)。説明を聞いていると、フランス映画だかなんだかちょっと高級そうだが、「そんな偉いもんじゃない、裕次郎映画の添え物だよ」 荏原病院通りという名前から「荏原病院って何で有名ですか」とダンディが講釈師に質問すると即座に答えが返る。「赤痢とか疫痢の患者を隔離するのに収容した。昔はここしかなかった」とにかく知らないということのない人だ。道は二股に分かれているが、その間の狭い路地に入り込み、幅一メートルほどの水路に沿って歩く。水は綺麗に流れ、水草が浮き、鯉が泳いでいる。本来は農業用水なのだろうが、町の中こういう水路があるのは嬉しい。私たちが声を上げると、たまたま隣を歩いていた女性が「だけど、洗足池があふれると、この辺は浸水してしまうの」と教えてくれる。今日は未知の人がいろいろなことを教えてくれる日だ。町にでても水路は続き、桜並木になっている。花の頃には良いだろう。せせらぎの音が涼しい。 鯉泳ぐ水路に秋の風吹きて 眞人 ところが駅が見えてくると、その水路はいきなり幅が三十センチほどになってしまった。歩道の下が暗渠になっているのだろう。 東急池上線のガード下を抜け、洗足池駅前から中原街道の歩道橋を上る。「この辺にさ、雅子さん(だったかな紀子さんだったかしら)の実家があってさ」と講釈師が説明する。皇室関係には絶対の知識を持っている人だ。歩道橋渡ればもう洗足池だ。 部活で疲れたのだろうか、道に広がってダラダラ歩いている三四人の中学生を追い抜いて「海舟別邸洗足軒跡」の看板を見る。その向かい合わせに、妙福寺の入り口に「日蓮上人袈裟掛けの松由来」の説明版が立っている。「鈴木さんだってさ、カバンを忘れれば、鈴木氏カバン忘れの松って言われるよ」 池の東側に進むと海舟・妻タミの墓に出る。三段ほどの石段の上に二つ並んだ五輪塔だ。ここは海舟の別荘の裏手あたっていた。しかしダンディが「奥さんは一緒に入るのを嫌がっていたんですよ」と水をさす。確かにタミは最初青山墓地に葬られたが、後にここに移された。ダンディは半藤一利『それからの海舟』を読んでいて、それによれば、海舟は女中に片っ端から手をつけ、妻妾同居のような形になっていたらしい。「なんだかイメージが違ってしまうわ」と美女たちは嘆く。長崎でも妾に子を産ませているし、そういう点ではだらしがないのは否定できないが時代環境だというだけだ。そしてそのことと、維新以後に徳川家の面倒を見続けた苦労とは別の話になる。海舟を弁護することで、私を女性蔑視者だとは思わないでほしい。 その隣には西郷南洲留魂碑が建てられている。読み下し、ルビを振った説明板がなければ全く読めないけれど、西郷の書はなかなか気分が良い。海舟が建てたものだという。読み下しの通り記録しておく。
馬の像があって「名馬池月の像」の看板が立っている。「池月」の表記では気付きにくい。宇治川の先陣争いかなと、ダンディや講釈師と首を捻っていると、あっちゃんが、「資料にちゃんと書いてあります」と確認してくれる。さっきの磨墨のライバルということになる。 ダンディがくれたコピーには、「池月」の名前は、馬体の白い斑点が、あたかも池に映る月影のようだったため付けられたと書かれている。これは『平家物語』の記述とは違う。 佐々木四郎高綱が生食に乗っているのを見て、腹を立てた梶原源太は「ここにて佐々木を待ちうけ、引組み、刺し違へ、よき侍二人死にて、鎌倉殿に損とらせん」などと思うのだが、佐々木の盗んできたという嘘に手もなく引っかかる。
東急池上線に乗り込んで、十分ほどで五反田についた。講釈師と関野さんはここでお別れ、私たちは「和民」に入った。私は昨日も溝ノ口の「和民」で飲んでいる。五時ちょっと前だが問題なく席に着き、まずなんと言ってもビールを飲まなければならない。ダンディが一杯目をすぐに飲み干し、私もそれに続いて二杯目を頼む。生き返る。順子もビールをお代わりする。あっちゃんはいつものように梅酒のロックから氷を抜いている。やがていつものように焼酎となって、夜は更けていく。 来週は番外編として、あっちゃんが赤坂編の積み残しを案内してくれることになっている。 |