「東京・歩く・見る・食べる会」
第十四回 板橋宿・旧中山道編 十一月十日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2007.11

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 私が企画すれば必ず雨になる筈だと、全員が固く信じ込んでいるのではないだろうか。それに義理を立てたか、空は予想通り雨を降らせてくれた。第三回「谷中編」(平成十八年一月)が強烈で、講釈師には散々悪態を吐かれた。「新井さんなんか泣いてたよ。途中で帰っちゃったひともいた」それに第八回「雑司が谷・巣鴨編」(平成十八年十一月)が雨だったから、雨男の印象を強くしてしまった。しかし、第四回「本郷編」(平成十八年三月)は穏やかな梅日和だったから、全部が全部、雨だったのではない。今日を含めて降雨確率七割五部というのが正確だ。谷中は特別だったが、去年の雑司が谷も今日と同じような天候だったから、責任は立冬の直後というこの季節にある。

     初冬や雨降らしたる宿場町  眞人 

 「こんな雨の日にさ、傘さして歩く馬鹿はいないよ」と悪態を吐きながら、それでも講釈師は一番早くやってきた。改札口の中で、靴の中にビニール袋を仕込み、合羽を着込んで雨対策に万全を期している。彼は最近、新撰組の遺跡を訪ねて京都まで足を伸ばし、その成果を手帳にぎっしりとメモしている。皆が集まる前から、その薀蓄を披露してくれるが、それは全員が集まってからゆっくり聞こう。ダンディは改札からではなく、外から現れ「一勝三敗になりましたね」と笑う。かなり早く到着していたらしい。
 次いで、隊長が女性と一緒に現れる。「地ハイ」(地学ハイキング)で一緒になって、面白いひとがいると、隊長が強引に誘ったのだ。その酒井さんは、「お酒の井戸です」と自己紹介をしてくれる。お酒の方はどうですかと尋ねると、「お酒の井戸だって、ちゃんと言ってるじゃない」と豪快に笑う。どうやら底なしか。橋本さんや川崎さんをよく知っているそうだ。
 碁聖も顔を合わせた途端「佐藤さん、雨男の面目躍如ですね」と言うから仕方がない。岳人、久し振りの宗匠と常連が集まってきた。やっと宗匠の句が楽しめる。
 もうひとり私の高校の同期生、工藤貢が参加してくれたのだが、初参加の癖に遅刻をするから神経が太い。定刻を十五分ほど過ぎて漸く到着し、本日は九人の会と決まった。先週の下見のときに板橋区観光センターで仕入れてきた「観光いたばしガイドマップ」という地図を全員に配り、初参加者のためにそれぞれの名乗りを上げる。貢の得意技を考えたがうまく思いつかず、演歌の達人ですと紹介したのだが、「それじゃ、ふたりとも秋田高校演歌部じゃないですか」とダンディが笑う。貢は確かに演歌の人(ただしムード歌謡中心)だが、私は演歌とはちょっと違う。しかし、この辺は微妙な感覚があって、ここで説明するには時間がかかりすぎる。 あっちゃんは二時過ぎまで仕事だということだが、もしかしたら途中参加してくれるかもしれない。

 近藤勇と土方歳三の墓は、JR板橋駅東口のすぐ目の前だ。近藤は、海舟に体よく追い払われて甲陽鎮撫隊を組織し、最後の果敢ない抵抗を試みようとしたが、慶応四年(一八六八)四月四日、流山で捕らえられ、同月二十五日この辺りの橡林で斬首された。そのため、この辺りは板橋刑場と言われるようになったが、他に処刑された有名人はいない。明治になって長倉新八が政府の許可を得てここに墓を建てた。
 講釈師によれば、この墓所は、墓石を彫った石工の地所で、その石工は夏目漱石の父(夏目小兵衛)と親交があった。夏目家は牛込の名主で、その近所に試衛館があったから、そこで漱石の父親は新撰組の面々と知り合いになったというのだ。試衛館のあった場所は、市谷甲良町(現在の住所表示では新宿区市谷柳町二十五番地)、夏目家の本籍は牛込馬場下(現在の喜久井町)だから、地図で確認すれば歩いて十分ほどの距離になるだろうか。
 講釈師の口からは何故か松本良順や河合継之助の名前も出てくるのだが、それがどういう関係かは良く分らない。漱石自身も長倉新八や斉藤一(藤田五郎)にあったことがある。これは『硝子戸の中』に書いてあると言うのだが、それは知らなかった。しかしざっと読み返してみても、それらしい記事は確認できない(読み方が雑だからかも知れない)。
 「斎藤一は東京高等師範の剣術師範になったから、そこで漱石と会ってたんだよ」本当だろうか。斎藤は西南戦争では抜刀隊に属し抜群の働きをし、警視庁退職後、東京高等師範の警備員になったという記録は知っているが、剣術師範というのはちょっと信用しにくい。こういう、意外な人物が意外なところで会っているという話は、山田風太郎が得意にしているが、『警視庁物語』に斉藤一は登場していた筈だが(『幻燈辻馬車』だったかな)漱石と会った話はどこにもない。会っていれば風太郎は必ず書いているのではないか。

 講釈はとまらない。墓の表面の文字は近藤勇宜昌となっているが、これは昌宜の間違いである。ここで宗匠が電子広辞苑を取り出し、確かに間違っていないと確認する。「なんで信じてくれないの」講釈師は嘆く。

   講釈の 傍で辞書引く 無礼者  《快歩》

 土方歳三は歌人である。こういう歌があるとメモを見せてくれたのは「しれば迷ひしらねばまよはぬ恋の道」「白牡丹月夜月夜に染めてほし」。歌人ではなく俳人なのだった。判定するほどの実力は私にないが、余り大した句ではないように思える。しかも最初の句は季語がないのではないか。これは宗匠に評定してもらわねばなるまい。歳三の俳号は豊玉である。
 「子母沢寛はだいぶ嘘を書いてるよ」ここで突如、坂本竜馬が登場する。子母沢寛は、竜馬が立ち上がったときに頭蓋を切られたとしているが、医学的な所見では、それでは後ろに飛び散った血の位置が低すぎる。座ったままで切られた可能性が高い。こういう細部の状況については私には知識がない。ただ、竜馬を殺したのは新撰組だと信じられていたが、実は京都見廻組の今井信郎であったというのは、誰の本で読んだったのだろう。竜馬暗殺の犯人候補者は、今井信郎のほか、数人を数えるが、未だに決定的な証拠は挙がっていないのではないかしら。
 新撰組の物語については、後世の緒本は、ほとんどが子母沢を種本にしているのではないだろうか。司馬遼太郎の『新撰組血風録』にも、『新撰組始末記』のエピソードがかなり利用されていたような記憶がある。上方人のダンディは近藤に同情しない。「大久保大和なんて名乗って逃げようとする。卑怯未練です」その癖、土方は好きらしいのだから人の好悪は難しい。
 勇にしても歳三にしても要するに百姓なのだが、幕末の百姓や草莽の運命は、実に偶然の要素に支配された。乱世の中で一旗あげようとして、とりあえずは「尊王攘夷」と言っていればどこかに潜り込むことは出来たのだが、その後の政治の激変についていけず、愚直に最初のスローガンを墨守していて、最後に負けた。負けた連中だけが馬鹿だったのではない。たまたま運良く勝ち馬に乗って維新後大官に上り詰めた連中だって、近藤たちとそれほど違っていたわけではない。
 薩摩の中村半次郎(桐野利明)と組んで、江戸霍乱工作(御用盗と称する火付け強盗)を実行した相良総三も、東山道先鋒として年貢半減を掲げて行ったが、どうやら東国も西軍の手に落ちたと判断されたとき、偽官軍として抹殺された。この辺りには岩倉具視と西郷隆盛の意思が働いていると推定され、私が西郷という人物に対して不信感を抱く原因のひとつになっている。相良総三については、長谷川伸『相良総三とその同士』がある。
 講釈師の話は止まらないが、ここで余り時間を使っていると後の行程が終わらない。

   街道に講釈止まぬ冬の雨  眞人

 百メートルも行かずに中山道に突き当たった辺りに、平尾の一里塚があった筈だが今は跡形もない。中山道最初の一里は本郷追分(森川宿)の辺りにあって、この平尾は日本橋から二里にあたる。踏み切りを越えてそのまま歩いていると、酒井さんが「平尾の一里塚ってどこになるの」と聞いてくる。今説明した筈だけれど十人近くになれば、説明もなかなか全員には行き届かない。「ちゃんと説明してくれなくちゃ駄目よ」国道十七号線を突っ切り、スカイラークの脇を入れば、東光寺に着く。
 丹船山薬王樹院、浄土宗の寺院だ。芝増上寺第五世天誉了聞上人の開基になり、最初は船山という地(現、東板橋体育館)にあったが、延宝七年(一六七九)、加賀藩が板橋に広大な下屋敷を拝領してその範囲に含まれていたため、現在地に移転した。
 本堂のすぐ脇の五輪塔には「秀家卿」と記されている。宇喜多秀家の墓だ。秀家については余りよく知らないのだが、豊臣五大老の一人で、秀吉の寵愛を受けて猶子となったため、羽柴秀家、豊臣秀家とも名乗った。関が原の後、島津に匿われたが捉えられ、八丈島に流された。八丈島への流人として公式には第一号となる。明暦五年(一六五五)八十三歳で没したというから、流人として貧窮に喘いでいたのではない。正室豪姫が前田利家の娘であり、八丈島には加賀藩の仕送りがあったからだ。明治になって、八丈島に生き延びていた一族のものが東京に転籍したとき、明治政府の許可を得て、供養塔を建てたのがこれだ。
 すぐ隣には板橋区に現存する最大の庚申塔がある。寛文二年(一六六二)に建立されたもので、「ふるさとの道自然散策会」以来、庚申塔は御馴染みだが、少しまとめおこう。
 体内にいる三尸が、庚申(かのえさる)の日の夜、人の寝ている間にその悪事を天帝に告発する。それを防ぐためには夜通し宴会をして眠らずにいるしかない。そういう道教の民間信仰が渡来したものだが、これに病魔や厄災を退ける青面金剛、神道の猿田彦が習合する。道の分岐点や村の境界に立てられているのを見れば、道祖神にも関係がありそうだ。更に、月を待ち、太陽を待つ、日待ちや月待ちの習俗も混じってくる。あるいはこちらの方が道教よりも先だったのかも知れない。要するに、六十日に一度、村の連中が集まって宴会を開くのだ。この寄り合いを「講」と言い、その結束を確認するために塔を建てた。
 庚申塔の表面に彫られる絵柄にも様々なものがあって、よく見られるのは三猿だが、ここのものには三猿は見えないようだ。庚申の「申」が猿だから、三猿を彫る。青面金剛とその足に踏み躙られる邪鬼は悪鬼払いの意味だし、日月は日待ち、月待ち信仰によるのだろう。講釈師はさかんに酒井さんに説明している。酒井さんが「鳩じゃないよね」と言ったのは明らかに鶏で、これも朝を待つ、つまり日待ちによるのだろう。
 エルサレムから帰ってきたダンディは、向こうにも鶏があったと話してくれる。詳細は忘れてしまったが、夜の明けるまで三度キリストを否認したペテロに関係する話だったんじゃないか。それならば、その鶏も夜明けを象徴する。新約聖書をまともに読んだことがないので、確認するのも手間がかかる。

 「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」。ところが、ペテロはそれを否定して、「知らない。お前が言っていることは何のことだか分からない」と言って、外庭へ出て行った。[すると鶏が鳴いた。]そこでも先の召使の女が彼を見つけ、またもや回りの人々に「この人は彼らの仲間です」と言い始めた。ところがペテロは再びそれを否定した。しばらくしてまた、回りの人たちがペテロに言った、「お前はたしかに彼らの仲間だ。お前もガリラヤ出だから」。ところがペテロは、嘘なら呪われてもよいと言い始め、誓って言った、「あなたがたが話しているそんな男をわたしは知らない」。するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」とイエスが彼に言われた言葉を思いだし、うち砕かれて泣き続けた。(マルコ福音書購解)

 鶏のことからダンディの連想は函谷関に及び、私は清少納言「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」を思い浮かべる。
 ここでも講釈師の弁舌は冴え(?)渡ってとどまることを知らない。きりがないから先に進む。中山道に入ればすぐに観明寺だ。真言宗豊山派、如意山と号す。赤門は加賀家のものを移築したのだろうが、あまり立派には見えない。山門を入ってすぐ脇に、木の檻に閉じ込められた庚申塔があって、これが板橋区内最古のものだ。寛文元年だから、東光寺のものの一年前になる。境内には稲荷が祀られている。私は気付かなかったが、隣家の塀を越えて柿が生っていたようだ。宗匠が確認している。

   お社へ 枝も撓の 熟柿かな  《快歩》

 板橋宿は江戸の方から平尾宿、仲宿、上宿の三つで構成される。都に近いほうが「上」ですからと説明するのはダンディだ。天保四年当時、板橋宿の戸数は五百七十三、人口二千四百四十八人。本陣は中宿にあり、脇本陣は三軒、旅籠五十四軒となっている。江戸四宿のうち、格は最下等でしたと言うと、甲州街道より中山道が格下ですかとダンディが不思議な顔をする。そういう行政面のことではなく遊女の質の問題だった。
 宿場の案内をする看板には、いくつかの見所が書かれているのだが、「シンフジザクラって何ですか」とダンディが不思議がる。確かに新藤桜とあって、これは「桜」の字がおかしい。正しくは「新藤楼」(シンドウロウ)であって、板橋宿有数の食売旅籠(妓楼)だった。その玄関は、赤塚の郷土資料館に移設されている。しかし役所の仕事というやつは実に手抜きが多い。「赤坂番外編」で魚篭坂を歩いたとき、泉州堺を摂津の国と書いてあるのを見て、上方人のダンディは憤慨したものだったが、無学なのか手抜きなのか。

 銭湯の脇の路地を曲がって二十メートルほど行くと、平尾宿脇本陣跡碑が建っている。近藤勇が処刑される前の数日、ここ豊田家に監禁されていた。板橋宿は明治十七年の大火でほとんどが焼失こともあって、江戸の面影を示すものはほとんど残っていない。僅かに、石柱にそれを記すだけになっている。
 王子新道から右に曲がる。この道は、明治になって開かれたもので、江戸時代には加賀藩邸のなかになっている。
 先頭に立って歩いていると後続がついてこない。戻ってみれば、蕎麦屋の店先にある狸について、講釈師が薀蓄を語っているところらしかった。私は途中からだったので、徳利が縁起が良いというところしか分らなかった。

 東板橋体育館の横の公園に圧磨機圧輪記念碑を見る。幕命でオランダに留学した澤太郎左衛門がベルギーで購入した。幕府時代には実用化ならず、明治九年から三十九年まで稼動した。黒色火薬を製造する、要するに大型の粉挽臼か薬研のようなものだ。「火薬をひくんだね」と言えば、「ひくって言うのは、引くじゃなく、挽くんだな」貢が確認する。
 「日本海海戦じゃ、ロシアの大砲は撃ったあと次の照準ができなかった。黒い煙が充満して視界が遮られたのさ。日本の火薬はすぐに次弾が撃てたから勝った。黒色火薬じゃないから、すぐに晴れたんだ。日本海が綺麗に見えた」ここで日露戦争が主題になるとは想像もしなかった。
 講釈師は二百三高地にもいたことがあったが、日本海海戦の現場にも立ち会っていたのだ。「あのとき、山本五十六の指が飛ばされて」
 「黒色じゃなく、白いのは何て言いましたかね、ここまで出てるんだけど」とダンディが記憶を確かめようとしていると、隊長だったか岳人だったか、「シモセ」という単語が飛び出し、「そうそう、下瀬火薬です」とダンディが安心する。この人たちは何故、こんなことを知っているのだろう。悔しいから後でウィキペデイアを調べてみると、確かに正しい。

 下瀬火薬は、海軍技師下瀬雅允が実用化したピクリン酸を主成分とする爆薬の一種である。日露戦争当時の大日本帝国海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。(中略)
 旧日本海軍は一八九三年にこの火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた。これは日清戦争には間に合わなかったが、日露戦争で大いに活躍した。(中略)日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を粉砕した一因は下瀬火薬である。また、黒色火薬ほど煙が出ない。(中略)なお、山本五十六は日本海海戦時に、自爆事故で指を吹き飛ばされる負傷をしている。
 なお、陸軍では黄色薬と呼ばれていた。

 地図を見ていた岳人が、「極地研究所には行かないんですか」と質問する。私は全く関心がなかったのでコース案にも記さなかったが、岳人はこんなことにも興味を持っている。北大探検部OBの隊長はきっと行きたい筈だが、どうしようかと思いながら歩き始めると、すぐそこの通りに面したところにあった。正式には「大学共同利用機関法人・情報・システム研究機・国立極地研究所」と長い名称になっている。展示ホールは見学可能だと書かれているが、残念ながらそれは平日のみの話で、今日はあいにく土曜日だ。「リーダーの企画が杜撰だよ」と講釈師が悪態を吐くが、それを言われても困ってしまう。この会は第二土曜日と決まっているのだから。
 野口研究所は野口英世には関係ない。この場所はもともと陸軍第二造兵工廠で火薬の製造所だったのだ。野口研究所は、旧日窒コンツェルンの野口遵が私財を投じて昭和十五年に創設した。当時の金で二千五百万円、現在の価値に直せば二百五十億円となると言う。戦前の財閥の財力の物凄さ。戦前は横浜、延岡、興南に分散していたが、昭和二十一年に統合してこの地に移転してきた。こういうことはダンディが詳しい。野口財閥はマッカーサーの指令によって解体され、新日本窒素、積水化学、旭化成に分割した。水俣病で評判を一気に落としたのは新日本窒素だ。

 そこからすぐに、加賀前田家下屋敷跡の案内図が立っていて、下屋敷の全貌を示している。総面積二十一万八千坪と言ってもまるで理解の外にある。「百坪以上は想像できない」と碁聖が呟く。およそ七十二万平米と換算されていて、それならば、我が家が約七十三平米だから、それが一万戸分ということになる。「こんなに広いと警備するのも大変ですよね」と岳人が感心するが、たぶん警備なんかしなかったんじゃないか。下屋敷の中間部屋はよく博打場になっていたし、どこで何が起ころうと、ほとんど分らないだろう。
 「下屋敷って日常生活の場所だよね」と酒井さんが同意を求めてくるが、むしろ別荘のようなものではなかったか。「それじゃ、中屋敷とか上屋敷はどうなの」ここで私の記憶はとんでもなくトンチンカンに狂ってしまった。「中屋敷にはお妾さんがいて、だって奥方は国許にいるからね」明らかに間違いだ。大名の妻子は江戸住まいを強要され、それもあって参勤交代の制度が確立する。「そうでしょう、人質だったんだから」と酒井さんが追及する。
 もう一度整理しておこう。上屋敷は江戸城に最も近く、大名の江戸における本拠であって、行政の中心であり、また妻子の住む場所でもあった。中屋敷は、嫡子と定まった子を住まわせたり、隠居となった殿様が住んだりした。下屋敷はおおむね別邸、つまり別荘に相当し、また非常時の備えにもなっていた。ただ、これらの役割は藩によって多少違っていたようで、中屋敷に側室を住まわせていた大名もある。
 屋敷の絵の上部三分の一ほどを横切って、敷地内に石神井川が流れている。「石神井川って下流に行っても石神井川かな」と誰かが尋ね、「神田川だよ」と言ったのは講釈師だ。ダンディは慎重に辞書を検索して隅田川だと訂正する。源流は花小金井の辺りだとされていて「井の頭公園じゃなかったんだ」と岳人が納得する。井の頭公園を源流とすれば、それは神田川になってしまう。
 ここから石神井川に沿って遊歩道を少し歩いてみる。「俳句の散歩道」などと名付けられていて、桜の木が延々と続いている。護岸に這った蔦の紅と、桜の葉の黄色く変容しているのが美しい。晴れていれば、遊歩道のところどころに設置してあるベンチで休むことができるのだが、雨では座り込むこともできない。
川縁の 落葉彩る 散歩道 《快歩》
蔦紅く桜黄葉の雨に濡れ   眞人
 加賀橋を越えて緑橋から、体育館のところまで戻って行く。時計を見れば十一時四十五分になっている。昼食をとるべき時刻で、講釈師はどこかファミリーレストランのようなところでと言うが、それはちょっと淋しい。この辺りには蕎麦屋が多いから講釈師ならば知っているのではないか。「入ったことはないけど、そこでどうだい」と、角の蕎麦屋に入り込む。衝立をはさんで、向こう側のテーブル二つに六人、こちら側は、衝立のところのテーブルに若い男が居座っているものだから、ひとつおいて、碁聖、貢と私の三人が陣取った。私は蕎麦屋ではご飯も食べたいものだから、ついつい、今日もたぬき蕎麦にミニ牛丼のセットを頼んでしまう。碁聖は月見蕎麦、貢はカレー南蛮。向こうの様子は良く見えないが、天麩羅蕎麦の人など様々らしい。酒井さんは、こんなことだとは知らずに大量にお弁当を作ってきてしまった。「だって、歩くときはいつも同じよ。遭難しても大丈夫なように、お弁当をつくるんだから」
 確かに彼女の格好は本格的な登山スタイルだ。これならどこへでも行けそうだ。雨よけのために、ズボンの裾に赤い布切れをまき付けている。私は咄嗟に脚絆とかゲートルなどと余りにも古臭い言葉を思い出してしまったが、これは専門用語でスパッツというものらしい。酒井さんのお弁当は、思いがけず後の反省会で大活躍することになる。
 熱い蕎麦を食べれば汗が出る。私は冬のジャンバーを着てきたから暑い。こういう中途半端な季節には何を着ればよいのか悩んでしまうのだ。つい二ヶ月前には馬込でティシャツに大量に汗をかいていたのが懐かしい。
 講釈師の声は大きいから、隣で食っている人は迷惑だったろう。次回の企画は宗匠の四谷編に決まった。その前の十二月一日には、何の会だか忘れてしまったが、講釈師のところにきた案内状をもとに、川口元郷に九時半に集合して歩くことに決まった。

 蕎麦屋を出れば、雨は少し小止み加減だ。空も少しは明るくなったような気がする。「天気予報じゃ傘のマークが畳んであった」と宗匠が教えてくれる。久し振りの宗匠は口数が少ない。かえって初参加の酒井さんと貢のほうが、ずっと昔からの常連のように良く喋る。とくに酒井さんというのは実に独特なひとだと、私はしみじみと眺めてしまう。講釈師との掛け合いは既に初対面同士とは思えない。二人の様子を隊長が少し悔しそうに眺めている。
 「デザートを出して良いかな。リーダーの許可を得ないとね」宗匠が笑いながら取り出してくれたのは、焼酎が入っているという最中だった。「ウィスキーボンボンみたいなやつかい」と講釈師が割ってみると、そういうものではく、たぶん餡子に練りこんであるのだろう。最中なんて何十年ぶりに口にするだろう。お酒の苦手な碁聖と講釈師も、これなら大丈夫のようだった。

 街道に戻ってから曲がり角を一つ間違えた。「俺が間違えるとみんな非難するのに、なんだよ」と講釈師が少しむくれるが、「佐藤さんは、すぐに間違えましたって、申告しましたよ。三澤さんなら、こっちが近道だって言うんじゃないですか」岳人も反論する。
 もうひとつ先の路地が遍照寺だった。と言っても、これが今も活動している寺だとはちょっと思えない。江戸時代には天台宗寺院だったが、明治四年の廃仏毀釈にあって廃寺になり、戦後、真言宗智山派として再興した。路地の両脇にコンクリートの柱が立っているから、ここから境内だということなのだろう。そこを入れば、左側に馬頭観音がいくつか並んでいる。かつては宿場の馬つなぎ場として、境内には常時五十頭の馬を飼っていたという。馬は境内で飼うものだろうか。馬頭観音に並んで「鹿毛馬・瀬川」と彫られた石碑が立っている。「瀬川さんちの馬か」講釈師がさかんに瀬川さん、瀬川さんと言う。この人の冗談の傾向がすぐ分る。「暎子さんだよ」歌謡曲の世界ならば私や貢の範疇だが、瀬川暎子の歌は私たちは歌わないものね。おそらく瀬川という名馬だったのだろう。
 次の路地の奥に古い煉瓦塀を見つけた岳人が、「何か由緒がありそうですよ」と言うので、曲がってみる。実は先週の下見のときにも歩いてみたのだが、恐らく明治の頃のものだろう、赤レンガの塀が延々と続き、塀の中には広大な洋館が建っている。表札を見ればただの個人の住宅だが、先週は正体不明のままにしていた。この辺が私の観察の足りないところで、ちゃんと「石井医院」の看板がある。病院ならばこの広さは納得できる。
 赤レンガの上は修復のためにセメントで塗り固めたのだろうが、それがところどころ剥げ落ちている。居住するために建物のほうはちゃんと直してあるだろうが、この塀はやっつけ仕事で、どうも中途半端だ。明治の構造物を残したいという意思があるのならば、それなりの修復をしなければならないが、それに金を掛けるのは面倒だから、とりあえずセメントで固めてみました、というような感じなのだ。病院は流行っていないのかもしれない。あとでガイドブックを見てみると、このレンガ塀は、明治の妓楼「伊勢孫楼」の跡だった。

   初時雨妓楼塗り込む赤煉瓦   眞人

 その塀を一周回って街道に戻る。スーパーマーケットの脇には板橋宿本陣跡の石柱。飯田家跡だ。その向かいの石神医院には「水村玄洞旧居跡」の看板がかかっている。小伝馬町の牢獄火災で一時解放された高野長英がそのまま逃亡し、一時匿われていたことがある。玄洞は長英の弟子だ。「火事の後、すぐに出頭していれば罪一等を減じられたんじゃないか」というのが講釈師や岳人の意見だ。しかし、その火事は長英が非人唆して放火させたのだから、確信犯的行動だった。シーボルトの鳴滝塾では塾頭を勤め、天才的な語学力を認められていた。直接的にはモリソン号焼き討ち事件を批判した『戊辰物語』が幕府の忌避に触れたのだが、天保の改革当時の水野忠邦と鳥居耀三のコンビの前では、どこかで必ず捕らえられていたことは間違いない。性格的にはかなり狷介で、毀誉褒貶両様あるのだが、惜しい人物であることは間違いない。吉村昭『長英逃亡』がある。
 貢の「北原謙二」という声が聞こえる。どういうわけか講釈師が北原謙二の歌を歌いながら歩いているらしい。品川の第二京浜を歩いていたときフランク永井を歌うのは分る。しかし、板橋と北原謙二の関係は良く分らない。
 マンションの角を右に曲がると文殊院だ。真言宗豊山派。この辺りは豊山派の寺院が多い。「それは何故だい」貢に聞かれても私に分かる筈がない。「文殊は学問の神様だろう」と言うのは隊長だ。智恵第一の菩薩だが、学問とはちょっと違うんじゃないかしら。山門の左脇に延命地蔵。境内に入れば左に閻魔堂、右に子大権現が祀られている。「子供の頃、幼稚園はお寺が経営するところで、そこに閻魔堂があったんです。あの頃は怖くて怖くて。でも今じゃ全然怖くないのは、成長したんでしょうかね」と岳人が笑わす。

 時々雨がやむと傘を閉じる、暫くするとまた傘を開く。もう余り大した降りにはならないだろう。この程度の雨ならば、谷中に比べれば全く問題ない。街道を北に向かって板橋に着く。鎌倉時代に既に「板橋」の表記があると言う。板の橋が珍しかったということだが、そもそも、橋自体が珍しかったのに加えて、あったとしても丸太に土を盛った土橋がある程度だったからだ。但し、「いた」は崖、「はし」は端だという説もあるようだ。江戸時代には太鼓橋だった。橋のたもとで説明板を見ていると、自転車にのった男が「邪魔だ、通れないじゃないか」と叱り付けるように通っていく。確かに通行の邪魔には違いないが、穏やかに話せば分ることを、すぐに罵声を上げるから両方とも感情が高ぶって喧嘩になる場面に遭遇することがよくある。
 「距日本橋二里二十五町三十三間」の標柱が立つ。江戸の道程をおさらいすれば、一里は三十六町、一町は六十間、一間は六尺。これで換算すれば一万六百四十二メートルとなる。
 欄干も橋も板目模様を施して、いかにも「板」橋だと言いたい様だが、それならば、いっそ太鼓橋の形状も復元して欲しかった。「板橋十景」の一つだと説明されていて、確かに橋から眺める石神井川は綺麗だが、こんな名所は平成になって決められたもので、江戸名所には入っていないのではないか。
 因みに、板橋十景というのは、赤塚溜池公園、板橋、いたばし花火大会、志村一里塚、石神井川の桜並木、松月院、田遊び(徳丸・赤塚)、高島平団地と欅並木、東京大仏、南蔵院の枝垂れ桜となっている。
 有名な縁切榎。もともとは道の反対側にあったらしいが、街道の右側(北に向かって)に移植された。和宮の行列が通過する際には、根元から薦で隠したと言う。ガイドマップの説明に「良縁を結んでくれる」などと書かれているので、酒井さんが「それはおかしい」と憤慨する。看板の説明を見て、それは近代になってからの説だとダンディが納得する。縁切りでは縁起が悪いと、近代人は一見合理的な理屈を考案し、「悪縁を切る」という下らない説をでっち上げたものらしい。こういう一見合理的な説明を施すことで民間信仰や迷信を救済できると考える連中が確かにいるのだ。江戸の川柳を見るが良い。そんな阿呆らしい解釈なんか入る余地はない。
板橋へ三行り半の礼詣り
板橋で別れ鎌倉まで行かず
榎でもいけぬと嫁は松で切り(松は鎌倉、松岡山東慶寺)
 「あれが榎だよ」と隊長が指差してくれた下のほうの葉を見て、これがそうかと思っていたら、「違う、もっと上のほう。それは椿じゃないか」なるほど私の見ているのは椿の葉だが、紛らわしい植え方をしてくれるものだ。こういう名所に他の木を植えてもらっては困るのではないか。
 講釈師の買った(と言うのかしら)ガチャ玉はなかなか開かず、碁聖が代わりに開けてみると中にお御籤が入っている。「ほら、大吉だよ」と講釈師は喜ぶ、「もうこの連中とは縁を切りなさいって書いてある」「嘘言っちゃいけないって書いてませんか」私たちはこれまで何度、講釈師に除名、縁切りを宣告されたか分らないが、不思議なことに未だに縁は続いている。

 ここから十七号線を横断する。信号の変わり目でまだ青にならないうちに歩こうとする若者に、後ろのほうから「まだまだ」と声がかかる。警官がこちらと通りの向こう側に四五人づつ立哨しているのだ。そんなに大勢で暇なのか。「俺たちみたいな老人集団が横断しようとするから、護ってくれるんだよ。」講釈師はとうとう自分を老人と規定した。渡りきれば愛染商栄会という商店街に入る。
 智清寺は浄土宗で、竜光山恵照院と号す。山門のすぐ内側には石橋を埋め込んでいる。この地一体の貴重な農業用水だった根付用水に架かっていた橋だという。境内には木下出世稲荷。「雪廼舎相沢朮の墓」。朮の字に「おけら」とルビが振っていて、ダンディ、宗匠とともに悩む。おけら?私は虫しか思いつかないが、宗匠が辞書を引いて、それは植物のことだと分る。隊長に声をかけると、無造作に「おけら?それは植物だよ」と答えるのでなんだか気が抜ける。入間の熊楠と言われる人には自明のことなのだろうか。
 キク科オケラ属。古名「うけら」が転じたとされる。根茎を乾燥させたものは漢方で健胃整腸作用がある。食べて美味しい野草だともいう。しかし、この「述」のシンニュウを除いた字を「おけら」と読むのですね。相沢朮のことなど全く関心なく、文字だけを追求してしまったが、実は縁切榎では気付かなかったけれど、後ろに相沢朮の歌碑があったらしい。

 縁の糸のむすぶもとくも人にあり 誠しあらば神も聞くらむ 雪廼舎朮 

 余り感心しない歌だが、折角だから、この人についても記録しておこう。

 文政八(一八二五)年越後国(現新潟県)六日町の医者石川有節の長男として生まれる。幼名は富蔵、諱は高尚、後に玄英、周碩と改める。医術を江戸の大久保東渓や成田宗信に、蘭学を大坂の六人部右衛門に学ぶ。弘化三(一八四六)年三河国西尾藩主松平乗全の側医相沢良安の養子となり、その娘扇子と結婚して江戸に住む。後に家督を継いで湛庵と改める。明治元年西尾に移り、明治三年朮の名を藩主乗秩より賜る。
 朮は文学を好み、漢学を江戸の前田観海、桑名の森樅堂に、和歌を井上文雄、加藤千浪、佐々木弘綱に学ぶ。明治九年東京に移り、医を開業するかたわら和歌を楽しむ。明治二十年板橋町に居を構えると医を離れ、門人への和歌の指導に専念する。
 明治37年5月28日逝去。享年81歳。
 (http://members.jcom.home.ne.jp/ja-hama/chisei.htm)

 ついでに、京都八坂神社の「おけら詣」というものがある。たぶん、普通の人はちゃんと知っているだろうが、私は民俗的知識に乏しいから、こんなことも知らない。大晦日の「除夜祭」で、夜八時頃になると朮の篝火に火が付けられる。その「朮灯篭」の火を竹で編んだ「吉兆縄」に移し、火が消えないようにクルクル回しながら帰宅し、これで自宅の灯明の火をつけ、元旦の雑煮や大福茶の火種にするのだ。
 本堂には、右から「論戯無」と書いてある扁額が掛かり、これを何と読むか。試しに「戯れに論ずるなかれ」と読んでみたが、それでは語順がおかしいと貢に一蹴されてしまった。それなら「論じて無に戯れる」これでは何のことか分らないから、この説は自分で却下する。門の板扉には金属製の丸い突起物があり、それを講釈師は酒井さんに説明していたらしい。「おっぱい」という単語が彼女の口から飛び出し、講釈師が慌てる。「大きな声で言うなよ。俺が何か変なことしたと誤解されちゃう。あの連中の視線が怪しい。」

 日曜寺に来れば、ここも真言宗豊山派だ。光明山愛染院。山門脇には「不許入葷辛酒肉山門」の碑が建つ。「酒池肉林は駄目だってさ」本尊は愛染明王になる。「愛染かつらって関係ありますか」と岳人。谷中の自性院の愛染明王と本堂前の桂の木から、川口松太郎が『愛染かつら』というタイトルを思いついた。(谷中ではなく信州の別所温泉だとの説もあるようで、以前、ダンディに教わった記憶がある)「小説ですか」「看護婦と医者のラブロマンスだよ。上原謙と田中絹代」と講釈師。これは昭和十三年の映画になる。「花も嵐も踏み越えて」と私が言えば、「旅の夜風だよ」と貢が言う。
 愛染を「藍染め」と語呂合わせにしたから、藍染め業者が信仰した。境内には業者の寄進した碑があり、寄進者名簿を記した看板も掲げられている。「住所が古いよ、下谷区とかさ」。台東区では何のことか分らないが、下谷区ならば、上野の山の下にあるとすぐに連想がつく。要するに現代の地名、住所表示は行政の勝手な都合で決められたが、その点、まだ明治大正のころには歴史や背景がきちんと押さえられていた。
 扁額の「日曜寺」の文字は松平定信のものだという。独特な丸い字で、「性格が丸い人が書いたんですかね」と貢がダンディに質問するが、定信の性格は決して丸くはなかった筈だ。徹底的な緊縮財政と保守反動の復古政策を推進した。民間への取り締まりも厳しく、蜀山人に「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」と揶揄された。ダンディも「田沼時代のほうがはるかに良かった」と言う。「だけど、日曜ってなんだろう」ダンディが不思議に思うが、木火土金水星に日月を加えて七曜と言う。江戸時代に曜日としての日曜はないから、この寺の名は、要するに日、太陽をあらわすということだろうか。
 道祖神やなんとか童子と彫られた石碑を撫でながら、猿のようだとか、狐みたいだと言うのは酒井さんで、「顔が削られてしまったんですよ」と岳人が答える。抱き合っていないから道祖神ではないと誰かが判定しているが、別に抱き合わずとも並んで立っているだけの道祖神もある。

 ここから志村までは余り見るべきところがない。もう一度旧街道に戻り、縁切榎の前を通って北へ向かう。中山道陸橋のところでは、これを首都高速と勘違いした私をダンディが窘める。十七号線と合流して本蓮沼を過ぎる頃、あっちゃんからの電話が鳴った。日暮里で仕事を終えたところだとのこと。それなら巣鴨から三田線で志村坂上まで来て頂戴、一里塚で合流しましょうと話が決まった。電話を切ったとたん、うっかり、志村三丁目と言ってしまったのに気付いてもう一度確認の電話を入れる。「あっちゃんにお目にかかれるわけですね」貢はまだ見知らぬ美女に対してもう「あっちゃん」と言う。
 「途中参加もありなんだ」という貢に、「自分なんかしょっちゅうですよ、飲み会だけ参加っていうのもありますから」と岳人が応える。そんなことをしていて、うっかり南蔵院を通り過ぎてしまうところを宗匠に注意された。宗匠はちゃんと地図を確認しているから偉い。宵勝山。
 この寺は枝垂れ桜が有名で、さっきの板橋十景という現代版名所にもなっているが、江戸名所図会にもちゃんと記されている。花は咲いていないが黄変した枝垂れ桜も風情がある。境内は清掃が行き届いていて、なかなか気持が良い。地蔵堂には庚申地蔵。ちょうど葬儀の最中らしく、遺影を抱いた人が通るから、邪魔にならないように静かにしなければいけない。その遺影がカラー写真だったのを見て、貢は「俺はカラーは嫌だ」と言う。そんなものかな。
 やがて一里塚が見えてくる。日本橋から三里。都内に現存する一里塚は二つあって、もう一つのほうは、日光御成街道二里目の西ヶ原にある。(王子と上中里のちょうど中間あたり、飛鳥山公園の南の端に近い)「そんなに古い榎じゃないですよね」と岳人が言うように、これは三代目ということだ。
 一里塚にはなぜ榎を植えるのか。家臣に何を植えればよいかを聞かれた家康が、「なにかエエ(良い)木を」あるいは「余の木を」と答えたのが、勘違いされたのだという、冗談みたいな話が残っている。真偽は不明だ。
 榎の小さな実がついた葉を隊長が拾ってくれたので写真を撮っていると、こっちのほうが綺麗だと、酒井さんが差し出してくれる。持っている彼女の手まで写ったが、後で確認してみればこれは近づきすぎてピンボケだ。「食べられる」と隊長が言うので噛んでみたが渋い。
 「おいおい、新井さんがいるよ」と講釈師が指をさす。毛糸の帽子を被り、後姿や横顔が本当に画伯にそっくりな人が、三人連れで一里塚を眺めている。しかし画伯は今頃庄内を旅行中だから、こんなところにいる筈がない。信号を渡って、向かいの一里塚にも行ってみる。生態系保護協会で隊長と顔見知りの女性が自転車で通りかかって、隊長と話し込む。ポストカードを置いたビニールの容器があって、「ご自由にお取りください」と書いてある。雨に濡れて容器にくっついているのを、講釈師が慎重に剥がしてくれる。そのうち、ようやくあっちゃんが登場する。リュックザックを背負っていない彼女の姿も珍しい。

 ここで十人になって、次に移動する。総泉寺は妙亀山と号す曹洞宗の寺だ。もと、浅草橋場にあり、千葉自胤または守胤の開基と言われる。千葉氏については赤塚編でかなり調べていたから御馴染みになっている。関東大震災で被災し、ここに移転して、もとからあった大善寺を吸収した。橋場に残された墓地跡には平賀源内の墓があるそうだ。
 山号の妙亀というのは、謡曲(または能)の『隅田川』のモデルになっているらしい。平安中期、人買いに攫われ京都から、陸奥へ行く途中隅田川で死んだ梅若という吉田惟房の子供がいた。その子供を探して隅田川まで至った母親は、わが子の死を知り出家して、妙亀尼と名乗ることになる。能の世界についてはダンディが詳しい筈だ。
 工事中の本堂の階段の手摺には小さな亀が一杯しがみついていて、階段の石には亀や鶴の絵が書き込まれている。本堂の基礎を作る石垣を碁聖が点検してみて、すごいですよと報告する。「砂岩です」と隊長は簡単に言うが、これだけ大きな(横八十センチ、縦三十センチほど)の石を集めて石垣を作るのは、相当に金がかかる。そんなに金があるのか。酒井さんも石を撫でている。掲示板には本堂再建の金融支援を受けるため、担保に入っていると言う文書が掲げてある。
 寛文九年製作の金銅聖観音や地蔵に合羽を着せてある。「酸性雨から護っているんじゃないの」と言いながら、確認するため、講釈師はわざわざ事務所に聞きに行く。「酸性雨なんて関係ないんだ。冬になれば寒いから合羽を着せるんだってさ」こんな習俗ははじめて見る。その脇に、亀の上に七福神が画かれた直径三十センチほどの球体が乗っている。私は気付かなかったが、誰かが触ってみるとその球体は回るのだ。
 総泉寺を出てもう少し北に行けば、土壁に囲まれた小さな庭園があって、薬師の泉庭園と名付けられている。この辺りは徳川吉宗が良く出没したようで、さっき見た南蔵院も、吉宗の宿所に定められていた。

 享保の頃有徳院殿(八代将軍吉宗)御放鷹の時、境内に清水あり、その流れいと清冷なれば清水の薬師と唱へよとの仰せあり。これより以来近郷にその名高し(新編武蔵風土記)

 この「境内」というのは大善寺で、今では総泉寺に飲み込まれてしまったのだ。低い潜り戸を腰をかがめて入り、少し降りていくと小さな庭だが池があり、花が咲いている。十月の最終土曜日、雨の中、小川町をたった四人で散策したときにヤマホトトギスだと私が思った花が咲いていて、タイワンホトトギスだと隊長が鑑定する。要するに園芸種なのだね。先日撮った写真は形がうまく取れなかったので、ここで写真を撮る。白地に赤の斑点が多く、ちょっと目には濃いピンクに見える。ヤマホトトギス、ヤマジノホトトギスなど素人にはなかなか区別がつかないが、隊長はきちんとその区別を認識している。隊長の説明は忘れてしまって仕方がないからネットで調べた記事を掲げる。

 ホトトギスの仲間は十数種類ありますが、街中でよく見かけるものは園芸によく用いられる丈夫な「タイワンホトトギス」とその交雑種、山中でよく見かける「ヤマジノホトトギス」、「ホトトギス」の3種でしょう。違いは花の中央にオレンジがあれば「ホトトギス」あるいは「タイワンホトトギス」、さらに短毛が枝葉に多ければ「ホトトギス」、頂点で花枝がよく枝分かれして多くの蕾をつけていれば「タイワンホトトギス」、どちらとも判断つきかねる場合は2種の交雑種の可能性が高いでしょう。中央も紫で花びらが外に直角に近く折れ曲がっているのが「ヤマジノホトトギス」です。
 つけくわえるなら「ヤマジノホトトギス」に似た「ヤマホトトギス」は前述二種より花が更に小ぶりで、花びらが外に折れ曲がるだけでなく、もう一度反り返り、花びらの中央が窪み加減です。(http://grasses.partials.net/taiwanhototogisu.htm)

 私たちは江戸東京を歩いている筈なのに、植物にも気を配らなければならない。ムラサキシキブは、先日も雨の中に見た。今日見るのは先日よりも小粒のようだ。ツワブキの花なんて、「どこにでもありますよ」と隊長も酒井さんも冷たくあしらうが、私は初めて見る。葉は全く蕗と同じだ。黄色い菊のような花が咲いている。

   石蕗花や濡れて光りし石畳  眞人

 この庭も、江戸名所図会に記載されている筈だ。貢「それはどういう人が書いたんだい。絵師か。」私「考証家、あるいは江戸の随筆家だ。」『江戸名所図会』は斎藤月岑が祖父の始めた事業を引き継ぎ、三代かかって刊行した。私がときどき引用する『武江年表』は、その月岑の手になるものだ。

 十七号線を横断してすぐ脇の細い道に入り、左の清水坂を登る。中山道最初の難所だったとガイドブックに書かれているから、ここがもともとの街道になる。「リーダーも気が利かないな、腰の痛い平野さんを考えればこんな登り道は駄目だよ」と講釈師が隊長の腰を心配するが、隊長は登り道は大丈夫な筈だ。すぐに平地になるが、右に分岐する角の店の軒下に庚申塔が立つ。「是より富士山大山道」の文字が刻まれている。板橋は富士講、大山講が盛んで、あちこちに、大山道への道標が立っている。
 十七号線の分岐の所まで出て、城山通りを右折する。セブンイレブンのところを左に曲がり、志村第三公園でちょっとトイレ休憩を取る。雨はとっくに止んでいる。
 公園の裏に回り込めば延命寺だ。先週の下見のときには門が閉ざされていて、入れるかどうか不安だったが行ってみればちゃんと入れる。ここも真言宗豊山派の寺で、幼稚園を併設している。キリシタン灯篭があるはずで、「あれがそうかしら」と最初に見たのは全然関係がなく、本物は境内の隅、焼却炉の隣にひっそりと立っていた。正面に刻まれた模様は何だろうか。「キリシタン文字って言うんじゃないの」と講釈師が言うが、「ヘブライ文字でもないし、ヒエログリフでもない」とあっちゃんは悩む。この辺りはダンディが詳しい筈だが、やはり分らない。そもそも、正確な文字である必要はないのであって、当時のキリシタンが、日本語では理解できない模様を書いた、と言うことのほうが正確なのかもしれない。燈籠の下の像はマリア像なのだろうが、表面が削れてしまって細部が分らない。江戸時代には樹齢八百年の巨大な(幹周り十メートル)瘤欅でも有名だったが、昭和四十年代初めには枯れてしまった。

 城山通りを戻って左に創価学会の施設を見ながら下りて行く。屋根のある門を入れば城山公園で、そこから階段を上る。坂を下りてからまた上るのだから無駄な行為だというのは分っている。実はここを通らずに、さっきの延命寺のほうから平地をたどる道があるのではないかと思うのだが、知らないので、一番簡単な(つまり迷わない)道を辿ればこういうことになる。隊長もちゃんと上ってきたし、坂道の苦手なあっちゃんも、「ぜいぜい」と言いながら頂上に着いた。すぐに右手から神社の脇に入れるのだが、講釈師に叱られないように正面まで出る。「そうだよ、ちゃんと正門からはいらなくちゃ。東大だけは裏門から入ったけど」講釈師の意見は毎度おなじみだ。
 鳥居を潜れば、左に志村城跡の看板が立つ。まだ四時半だが、あたりはすっかり薄暗くなり、看板の文字がよく読めない。長久三年(一〇四二)志村将監が紀州熊野神社を勧請。康正二年(一四五六)千葉信胤が赤塚城の出城として築城。大永四年(一五二四)北条氏綱に滅ぼされた。これが志村城の歴史になる。「ここにもヨリタネって書いてある」とあっちゃんが指摘する。千葉自胤の読み方が、赤塚編のときから問題になっていたのだが、ヨリタネと読むもの、コレタニと読むものの二つあって、判定がつかない。「読み方なんか、本人しか分らないよ」と貢は冷たく言い放つ。
 まだ日の落ちる時間ではないがすっかり暗くなった。絵馬殿の内部も全く見えない。空壕の跡を尋ねて、本殿の裏手の草むらを歩く。薄暗い中、落ち葉を踏みながら歩いていると、あっちゃんに「ここに道があります」と指摘され、そちらを歩く。見ることは見たが、大したものではない。
 それでは戻ろうと、金網のすぐ隣に坂道が見えるので、ダンディを先頭にそのまま歩けば、金網の先は行き止まりだ。仕方がないので、またさっきのところに戻って、神社を出る。「また道を間違えたのか。松下さんだろう」講釈師が非難する。この人の前で一度失敗すると、生涯そのことを言われそうで怖い。
黄昏に落ち葉踏み行く城址かな   眞人
時雨るや日暮れの杜の行き止まり
 これで、本日予定したコースは完全に終わった。最近では、回りきれずにどこかを省略することが続いていたから、今回は完璧であったと私は自分で自慢する。「無事終了しましたね」とやや疲れ気味の貢の言葉に、「これからが本番ですよ」とダンディと宗匠が応じる。四時半だから、これで巣鴨に戻ればちょうど良い時間だ。絶妙な時間調整と言うべきだ。私の図上の計算では九キロ程度の予定だったが、宗匠の万歩計によれば、十キロを越えていたようだ。
 講釈師はコーヒーを飲みたいと頻りに言うが、もうそんな時間はない。「純喫茶なんか私は行かないよ」と酒井さんが古い単語を口にする。「純喫茶の純ってなんですかね」岳人は知らないか。それまでの、酒を飲ます店と区別するため、アルコールを一切出さないことを売り物に純喫茶と言うようになった筈だ。ダンディが「アルサロとかね」と言っても、あっちゃんはそれを知らない。「それって何ですか」好んで古い歌謡曲を歌う彼女にしては迂闊ではないだろうか。

 三田線の電車の中で、講釈師とあっちゃんが、「渡辺のジュースの素」や「マーブルチョコレート」の話で盛り上がっている。講釈師の話を聞いていると、私は何故か歴史の乱丁を感じてしまうのだ。「遠足のときは水に溶かさずにそのまま舐めた」とか、上原ゆかりのコマーシャルなんていうのは、私たちの時代、つまり昭和三十年代後半の、テレビが普及してテレビっ子というものが発生した時代のものではなかったか。私たちは、テレビコマーシャルというものに影響を受けた、この国の歴史に初めて登場した世代だと思うのだが、講釈師はその頃既に社会人になっていた筈だ。ダンディや隊長はこんなことは知らないと思う。
 二百三高地や日本海海戦を実見している(?)講釈師が、「渡辺のジュースの素」を懐かしそうに語るのは、どこかおかしい。この人の周りだけ歴史のページが乱丁しているとしか思えない。

 巣鴨駅で講釈師と碁聖は別れ、残った八人は「庄屋」へ入る。ここで酒井さんは、昼に食べられなかったお弁当のおかずを広げようとする。まだ何も揃っていないテーブルに、それはちょっと拙いのではないか。いったんテーブルの下に隠したが、生ビールがきて乾杯し、突き出しが来ると、彼女は本格的に堂々と作業を開始する。ナイフを取り出し、サラミソーセージ二本をスライスする。ポテトサラダにゆで卵を載せてぎっしり詰まった容器を出して、銘々の取り皿に分けてくれる。一夜漬けの漬物がでる。漬物も、ポテトサラダも確かに美味しいが、とてもひとりのお弁当の量ではない。この人なら、どんなことがあっても生き延びる。今日一日一緒に歩いて、その不思議な言動には驚かされることが多かったが、実に独特なひとだと、改めて全員が納得してしまう。天衣無縫と言うべきか。いきなり「幸子はね」と言うからフルネームも分ってしまった。
 てんやわんやで始まったが、いつも通り焼酎も二本開け、結局いつものように、何も反省しない反省会が続いていく。

 今回参考にしたガイドブックは以下の二冊だ。ダンディも同じものを持っていた。
江戸・東京文庫F『江戸四宿を歩く』(街と暮らし社)千六百円。
歴史散歩L『東京の歴史散歩(中)山手』(山川出版社) 千二百円。