「東京・歩く・見る・食べる会」
第十五回 四谷編   平成二十年一月十二日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.01.19

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 寒に入って初めての雨となった。今回は宗匠の企画だから、私だけが雨男ではないことが証明された。「悪いやつが何人かいるんだよ」講釈師は相変わらず、自分だけは雨に関係ないと言い張っているけれど、その雨の会に全て参加しているのだから、責任が無いとは言えない。それにしても碁聖だって結構口が悪い。つい二三日前のメールで、「佐藤さんの企画じゃないから大丈夫でしょう」なんて書いてきていた。

 四ツ谷駅には宗匠、碁聖、講釈師、ダンディ、ドクトル、大川さん、岳人、私の男性陣に加えて、あっちゃん、橋口さん、三木さん、サッチー、順子の女性が集まり、十三人の会となった。ダンディによれば、参加する筈だった橋本さんは、雪が降るから嫌だと言って来なかった。本当に雪になるのかしら。気象予報士に聞いてみたいところだが、あいにく隊長は午後から参加すると連絡してきたから確認の手立てがない。サッチーは今日も完璧な登山姿に身を包んでいる。あっちゃんのリュックサックからはバナナが一本見える。これが江戸東京を歩く姿だろうか。
 ちょっと遅れたドクトルの到着を待って、十時五分にスタートする。駅前の石垣を指して、宗匠が四谷御門址を説明してくれる。江戸城の外掘の分節になっているところには、枡形の城門が築かれ、見附(番所)が置かれた。普通「三十六見附」と言われるが、江戸城の城門は百近くもあって、この「三十六」は主要な、あるいは数多くの、というような意味だったようだ。
 駅の反対側に回って見附橋を通る。その下、今電車が通っているところが外濠だった。赤坂の弁慶掘からそのまま北北東に伸ばせばちょうど四ッ谷駅に突き当たる。ここから中央線に沿って市谷まで、堀は続いていた。橋のデザインは、赤坂離宮(迎賓館)のヴェルサイユ風と周囲の環境に調和するよう、フランス風のデザインが採用された。
 千代田区立外濠公園の看板を見て、ここは千代田区と新宿区との境になっているのだと、今更ながら気付くのだから、私の地理感覚はまだ自慢できる域に達していない。それでも大通りに立てば道路標識のお蔭で何となく方向が分るが、入り組んだ路地に入り込めばもう東西南北すら判断できない。
 外堀通りから三栄通りに入れば大横町だ。明治の住所表示では麹町十一丁目と十二丁目との境をなしている。宗匠の調べてくれたところでは、漱石『硝子戸の中』に書かれているのがこの商店街のことらしい。雨のせいだろう、人通りはほとんどない。
私は両親の晩年になってできたいわゆる末ッ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。
単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
私はその道具屋の我楽多といっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想とでも思ったのだろう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱られたそうである。
 漱石の実家は喜久井町にあったから、ここから歩いて三十分ほどだろうか。
 雨に濡れて色鮮やかに咲いている椿を前に、あっちゃんが椿と山茶花との違いを講義してくれる。椿は雄蕊と雌蕊の根元が一体になって固まっている。花びらがバラバラにならないのはそのせいかも知れない。「根元ってどこだい」自然科学者であるドクトルは細かなことでも追及し、花を開いて確認する。山茶花はこれとは違うから、花びらが一枚づつ散って行く。「だけど、これは普通の椿とは違うみたいだよね。侘び助かな」岳人はこの頃、やけに専門的なことを言う。

  寒椿静かな町に雨は降り   眞人

 新宿歴史博物館に近づくにつれ、路面の所々に三十センチ四方ほどの色鮮やかな絵が埋め込まれているのが、みんなの歓声を誘う。「ちんちん電車」「四谷大木戸水番屋構天図」「淀橋浄水場」「新宿区の花つつじ」。大川さんが写真を撮っているから私も真似をする。
 躑躅が新宿の花になるのは、江戸時代、大久保百人同心が内職のために躑躅栽培を行って以来のことになる筈だ。これは、やはり宗匠の案内で大久保を歩いたときに確認している。都庁の絵なんか誰も見向きもしない。「だって、こんなのはいつでも実物が見られるんですからね」とダンディが言う通りだし、そもそも都庁なんて全く関心がない。「淀橋浄水場なんてさ、昔は淋しいところでさ」講釈師が言う。新宿西口は私が学生の頃からしても全く変わってしまった。
 歴史博物館(新宿区三栄町二十二番地)の入場料は三百円で特に老人割引というものはない。明治の地図で確認するとこの辺りは四谷北伊賀町となっている。江戸時代には伊賀組や御先手組の組屋敷のあったところだ。古代の土器など考古学的な展示物には余り興味がわかないが、内藤新宿の模型を見れば、宿場のおおよそのイメージがつかめる。
 四谷見付橋の高欄が展示されているのを見て、「供出されなかったんだ」とサッチーが感心する。確かに鉄でできているけれど、いくら戦争中とは言ってもこんなものを供出してしまっては、危なくて橋を渡れないだろう。平成三年の改修工事で実際の使用ができなくなり、ここに置いてある。
 一番みんなの関心を引きつけたのは昭和初期の新宿だ。万太郎を真似して「昭和は遠くなりにけり」と言いたい気分になってくる。展示壁の中には裏町のカフェを模したミニチュアのセットを見ることが出来る。「林芙美子がいたのはこういうお店じゃないですか。でもエプロンつけてませんね」文学少女あっちゃんが指摘する。セットの中では、客のズボンに酒をこぼしたらしく、その始末をしている女給もいる。
 新宿に松屋があった。昭和四年、京王電車の終点追分駅(京王線がここまで延びていた)に、ターミナルデパートの草分けとして新宿松屋が開店したのだが、それがいつ頃まで続いたものかは分らない。それに松屋のホームページでその沿革を見ても、新宿に店舗があったなんてどこにも書いていない。どうも今に続く百貨店の松屋とは直接の関係がないのではないか。
 大正十二年、京王線の新宿・府中間が全線複式化し、昭和二年、新宿・小田原間に小田原線が開通した。新宿の発展はこの頃からだろう。昭和二年の新宿駅乗降客は東京駅を抜いて第一位になった。ムーランルージュ、武蔵野館、三越、中村屋のカレー。昭和四年の『東京行進曲』を見れば、昭和のモダニズム、あるいはエログロナンセンスと新宿の発達はほぼ時期を同じくしている。
シネマ見ませうか お茶のみませうか
いつそ小田急で 逃げませうか
かはる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る (西条八十『東京行進曲』)
 復元された文化住宅のラジオからは広沢虎造『石松と三十石船』が流れている。(私は『石松代参』と思っていた。確かに「寿司食いねエ」なんて言っていたから私の勘違いだった)洋風の応接室を見て、「お金持ちだったんでしょうね」とあっちゃんが感想を漏らすが、この博物館の常設展示解説シート「サラリーマンと文化生活」によれば、昭和十年頃のサラリーマンの家をモデルにしていて、設定はこういうことになる。
この文化住宅に住んでいるのは、地方から出てきた大学出のサラリーマンとその家族です。夫婦はまだ三十台前半で、幼い子供が二人います。丸の内に勤めるお父さんは、通勤で新宿駅を利用し、月給は百円です。その中からこの借家に毎月家賃を十八円ぐら払い、食費には三十円ほどかけています。
 昭和十年の大学進学率はおよそ三パーセントで、現在、短大も含めた大学進学率がほぼ五十パーセントに達するのと比べてみれば、「普通」のサラリーマンと言っても、これはかなり恵まれた階層であることは間違いない。
 その昭和十年はどういう年だったか。年表でみると、前年には東北地方は大凶作で欠食児童、娘の身売りが続出し、行き倒れや自殺者が増大した。十年は天皇機関説攻撃で始まる。東北の食糧難は更に深刻化した。コミンテルンは人民戦線戦術を採用し、国内では永田鉄山が殺された。戦前最後のメーデーが実施され、出口王仁三郎が逮捕された(第二次大本教事件)。一方、保田與重郎『日本浪漫派』が創刊され、吉川英治『宮本武蔵』の朝日新聞連載が始まり、第一回芥川賞(石川達三『蒼茫』)、直木賞(川口松太郎『鶴八鶴次郎』)が決定した。流行歌は伊藤久男『雪の国境』、東海林太郎『野崎小唄』、高田浩吉『大江戸出世小唄』『ディック・ミネ『二人は若い』、新橋喜代三『明治一代女』など。東京の喫茶店は一万五千店に達しているが、翌十一年には二二六事件が起こり、そろそろ昭和のモダニズムにも陰がさしてくる。

 映画のコーナーでは、『外人部隊』『未完成交響楽』などの一部分がビデオに再現されている。これらも昭和十年日本公開のもので「この頃はトーキーになってたんでしょうか」「両方あったんじゃないですか」洋画の好きな碁聖とダンディが話している。
 文学関係では漱石山房の家の模型を見ることができるし、普通の人は興味がないかも知れないが、田辺茂一の始めた雑誌『風景』も展示されている。茂一は不思議な人物で、私の知っているのは、入社式で「この会社が合わないと思ったら一日も早く辞めたほうがよい」と訓示する姿だ。その当時の伝説では、毎日サントリーオールドを一本空け、缶入りの(五十本入り)ショートピースを一缶吸った。晩年、入院中の病院に立川談志が見舞いに訪れた時、たまたま談志は紀伊國屋で本を買って行ったものだから、「これが談志の本買い」(男子の本懐)なんて下らない洒落を飛ばした。私たちの世代ではトマトジュースのコマーシャルを記憶している人が多いかも知れない。『風景』は調べてみると昭和三十五年に創刊され、五十一年まで続いているから、どうりで記憶に残っている筈だ。
 できればもっと時間をかけて見ていたいところだが、まだ今日のコースがスタートしたばかりだ。行かなければならない。三百円の入場料は実にお徳であった。さっきも少し引用した「常設展示解説シート」二十種を揃えてバッグにしまいこむ。

 ここが三栄町二十二番地で、二十四番地の辺り(四谷税務署の隣)には平山行蔵が住んでいた。この辺に住んでいたことでも、平山が伊賀者だったということが分る。宗匠の調べでは史蹟などは発見できなかったそうだから行けない。平山の名前を私は勝小吉『夢酔独言』(平凡社ライブラリー)で知った。この本には「平子龍先生遺事」が付録のようについていて、これが平山行蔵のことだ。
 武芸十八般の達人で、同時に文もよくした。総髪で極寒でも袷一枚で過ごし、夜は甲冑を身に着けて寝た。小吉は正式に弟子入りした訳ではないが、だいぶ可愛がられたようだ。行蔵の死後、残された文章は膨大にあったが、「予は文盲故読み申さず過ごしつるが、惜しき事にて、今になりて後悔しぬ。是につけても子孫には学問の事精々申伝ふべき事なり」と小吉は大いに反省し、繰り返し、行蔵の事跡を幼い海舟に語った。
―― 予が十六、七歳の頃、四谷伊賀町の横町組屋敷に借宅せし平山行蔵と云ひし三十俵二人扶持なりし小普請の御家人あり。其頃緒人の評判に、近年これ無き武辺者にて、学問も勝れしと申しける。
―― 常に黒米の飯を食し、味噌を嘗め申され、魚は鰯などの腸も抜かずに、塩を懸けて喰はれけり。酒は至って好まれ、不断共に樽酒にて置かれけり。これは松平越中公より月々贈られけり。(勝小吉『平子龍先生遺事』)
 武芸十八般とは何か。もともと中国からやってきて、流派によって数え方が違うらしいのだが、剣術、槍術、柔術、砲術、馬術、弓術はすぐ思い浮かぶ。その他にも鎖鎌、棒、杖、薙刀、十手、刺又、手裏剣、組討(これは柔術とどう違うのだろう)、居合い、水泳、分銅鎖、砲術などが挙げられる。小吉によれば、大マサカリなんかも扱ったということが書いてある。
 昌平黌で正式に儒学を学び、聖堂出役から御普請見習という役についたものの、おそらく仕事にはすぐ飽きてしまったのだろう。辞表を出して小普請入りして、四谷伊賀町に家塾を開いた。海舟の従兄弟男谷精一郎もここで学んだ。平山の刀の長さは三尺八寸だったという。恐らく柄も含めた長さだろうが、それでも刃渡り三尺程度はあるだろう。常寸は刃渡り二尺三寸と決められているから、その長さが分る。剣道で使われる竹刀が三尺八寸で、あの長さは竹だから(しかも割竹を組み合わせているから)振り回せるので、鉄の刀だとすれば、到底普通の人間には扱えない。まず腰に差して抜くことが出来ないだろう。それに加えて四尺三寸、重さ四貫の鉄杖を常に持っていた。文化文政という江戸文化の爛熟期に、戦国と変わらぬ暮らしをしていたというのは只事ではない。一種の畸人だ。

 三栄町から津ノ守坂通りを通って荒木町に入る。松平摂津守の上屋敷に因んだ地名だ。江戸の受領(国司)名は実態と全く関係なく、摂津守と言ってもその領国は美濃にある。うっかりすると、私もときどき勘違いしてしまうことがある。「松平容保の実家ですよ」と岳人が教えてくれる。
 ここで宗匠がちょっと道を間違え、講釈師に叱られる。「モンマルトルの階段」と名付けられた坂道ではダンディもあっちゃんも、どこにモンマルトルを髣髴させるものがあるのかと唖然とする。
 策(むち)の池と称する池があって、津ノ守弁才天が祀られている。池の名は家康が策を洗ったことによるという。こういうことは余り信用しないほうがよい。いまは片側を雑居ビルで区切られて小さくなっているが、江戸の頃にはもっと大きな池だった。
 「奥の細道って何よ、こんなところに関係あるの」サッチーが大声を出すのは、「荒木町の奥の細道」という看板で、よく見ると「細」と「道」の間に小さく赤い字で「い」の文字が書き足されている。荒木町の細い道。「そうでしょう、おかしいと思ったよ」芭蕉の奥の細道の旅は千住から日光街道を歩いたものだから、こんなところに関係する筈がない。これを抜ければ、料理屋や小さな飲み屋が並ぶ一角に出る。ちょっと花街の雰囲気になってくる。

  花街の池を叩いて寒の雨  眞人

 荒木公園(新宿区荒木町十番地)の角には金丸稲荷神社だ。玉垣には寄進者の名前が彫り付けられ、一番目立つところの大きな石には伊勢丹の名が見える。荒木町三業組合の名前もある。三業とは料理屋、置屋、待合を言う。この三つの業種がそろっている場所が三業地だ。
 工事現場を覆うシートには、荒木町の鈴木さんが作り施主の許可を得たという、荒木町の名所に関わるB4版ほどのポスターがビニールコーティングされて貼られている。さっき下りて来た「モンマルトルの階段」の写真には「永井荷風も歩いた。ヒゲの殿下も歩いた。この長い階段を芸者も裾を持ち上げながら昇り降りしたのだろう」とキャプションが付けられている。なかなか感じがよい。あっちゃんは「新宿は文化地区ですね」と喜ぶ。
 中にひときわ目立つのが、松平容保生誕の地であることを示すポスターだ。荒木町十九番地がそれと示されているのだが、実は荒木町のほぼ全体が、美濃高須藩三万石の松平摂津守の上屋敷地になっていた。安政の地図によれば二万一千四百七十八坪余の広さがあった。さっきの策の池も、当然この敷地の中に入っている。
 美濃高須の松平家は尾張徳川家の支流(連枝)で、尾張本家を始めとして徳川一門に養子を多く供給した。十代藩主義健の子であった容保は会津へ、弟の定敬は桑名へ養子に出た。新撰組と幕末については講釈師の独壇場だ。「容保は騙されてさ、先祖重代の家宝を売り払ってしまったんだ」知ってるだろうと言われても、私は知らない。
 京都守護職を引き受けたのが、容保と会津にとって(そして桑名藩にとって)の悲劇の始まりだった。会津の藩祖保科正之を引き合いに出し、養子である容保は絶対に拒否できないはずだと強引に薦めた一橋慶喜や松平春獄(越前)なんか、さっさと降りてしまった。私が慶喜や春獄を信用しないのは、要するに彼らは日和見で敵前逃亡者であったと判断するからだ。たぶん上方人のダンディは意見が違うだろう。奥羽越列藩同盟からいち早く脱退した秋田県人として、私は会津に対しては何となく負い目を感じてしまうのだ。

 昼食は、宗匠から事前に配られた案内には「平安閣」中華・約八百円と書かれていて、平安閣でそんな値段で食えるのかと、岳人が心配した。「だって結婚式場でしょう」これは実は「平安菜館」という中華料理屋だった。長円形の大きなテーブルに十三人が余裕をもって席に着く。「百人の宴会があって、ちょっと雑然としてるけど、椅子を適当に動かして良いから」と店の主人が言い訳をする。
 メニューの書き方が一風変わっていて「分りにくいでしょう」と主人が説明してくれる。一番上にランチサービスとして、ご飯、スープ、漬物がセットでつくと記されている。その下に一番(麻婆豆腐)から六番(ラーメン)まで番号が振られ、その二つを選べというものだ。二つ選ぶならばそれぞれは小さな皿で、ひとつだけなら大きな皿になる。私の選んだ一番は単品ならば八百五十円、六番ラーメンは九百五十円で、これをイチロクというようにセットにすれば、高いほうの九百五十円が適用される。もちろん、メニューの裏側には、サービスランチではない普通の単品メニューも記されている。
 あっちゃんは、二つも選んでは食べ過ぎになると、五番のワンタンメンを注文した。八百五十円で、これにご飯、漬物、スープ、杏仁豆腐がつけば、まあまあか。先頭を切ってワンタンメンが出てきたのはよいのだが、いつまで経ってもご飯が出てこない。そのうちワンタンメンも冷めてしまいそうになる。料理を運んでいる女将さん(あるいはパートのおばさん?)に聞くと、単品ではそういうものは付かない。「番号言ってもらわないとね」しかし、彼女はちゃんと五番と番号を申告したのだが。「それは七百五十円だから」そんな値段表示はどこにも書いていない。すったもんだの挙句、メニューの表記どおり、八百五十円でご飯その他が付けられることになったのだが、素人には実に分りにくいシステムだ。
 十三人もいるとなかなか全員の料理が出てこない。調理を担当しているのは店の主人ひとりだから大変だ。岳人は「腹が減りましたね」と頻りにぼやいている。今回最も遅くなったのは講釈師と岳人だった。味はちょっと独特で、あっちゃんの感想では八角が使われているのではないかということだ。私は八角なんて知らない。講釈師も口に合わないのか、麻婆豆腐を岳人に分けている。
 料理を作り終えた主人が厨房から出てきて、この字が読めるかと紙切れに書いたものを持ち出した。「迚も」と書かれている。漢字ではなく国字だというけれど、私も分らない。種証しをすれば「とても」と読む。「辻」も漢字ではない、中国人には読めないと言う。それならば「峠」もそうだ。女将さんは、古い映画俳優や歌手の写真を持ち出して見せてくれる。雑誌の特集か何かを切り取ってファイルにしてあるものだ。八千草薫がすごく若い。「これ、丹波哲郎ですか」「なつかしい」こういうものが中華料理とどう結びつくのか分らないが、面白い接待だ。初代から三代目までの三人娘。御三家に三田明を加えて四天王にした写真。ほっそりした轟由起子。原節子。「日本の女性は美しかった」六十六歳の主人がしみじみと感想を述べる。
 よほど暇を持て余しているようで、「物真似できます」と声色をする。「大河内伝次郎でしょう」「そうです」「私はね、人生は旅だとつくづく思う」「何故かって言えば、旅の終わりは荼毘だ」これからお岩稲荷に行くというと、「会っていきなさいよ、美人だよ」と言う。近所に十何代目かになる女性が住んでいるのだそうだ。
 「私は神田の生まれ、神田貧乏町(神保町)なんてね」神田の生まれならば講釈師を忘れてはいけない。入り口のところには紹興酒の壷が大量に置かれていて、持って行って良いと言うけれど、こんな大きな物を持っていくバカはいない。「壷と甕の違いは何か」最後までおかしなことを言う。「口がつぼまっているのが壷。でも本当かどうか分らない」この人の話は何が本当なのか。ほぼ一時間、暇つぶしにはとてもよい経験だった。しかし、この広い店内に、昼時だというのに他の客が全く入ってこないのは何故だろう。

 四谷三丁目の交差点のところに消防博物館がある。「前は倒れそうな建物だった」とは何でも知っている講釈師の話だ。コース案内には書いているのに、宗匠はここを素通りして外苑東通りを行く。またちょっと道を間違えたらしいがすぐに分る。曹洞宗雄峯山全勝寺(新宿区舟町十一番)だ。境内に入ればすぐに大きな石碑が建っている。はじめ私たちは裏面から見ることになって、「明治維新」とか「日本人民」とかいう文字だけが判読できた。「日本人民なんて左翼の用語じゃないですか」とダンディは断罪する。本堂に向いた表面に回れば、上部には顔が浮き彫りにされ、山県大弐記念碑と書かれている。山形大弐が左翼とは思いもよらない。
 ウィキペディアの記事から抜粋してみる。
甲斐国篠原村に生まれる。父が与力の村瀬家を継ぎ、甲府百国町に移住。寛保二年、京都へ遊学。医術のほかに儒学も修め、甲斐国山梨郡下河辺山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説いた。延宝二年(一七五〇)に村瀬家を継ぐが弟の起こした殺人事件に際して改易され、浪人となる。山県昌貞と改め宝暦六年ごろ江戸へ出て、幕府若年寄の大岡忠光に仕える。
忠光の死後は大岡家を辞し、江戸八丁堀長沢町に家塾「柳荘」を開き、古文辞学の立場から儒学や兵学を講じた。上野国小幡藩家老吉田玄蕃など多くの小幡藩士を弟子としていたことから小幡藩の内紛に巻き込まれ、一七六六年(明和三年)門弟に謀反の疑いがあると幕府に密告され、逮捕されて翌一七六七年(明和四年)門弟の藤井右門とともに処刑された。これを明和事件という。(ウィキペディア)
 後世になって、宝暦事件の竹内式部とともに尊王攘夷の先駆けという評価が定着した。尊王攘夷としてはかなり早い時期になる。「水戸光圀だって尊王思想をもっていた」とダンディは言うが、公武合体としての尊王思想は許されても、幕政批判は許されない。上方人は江戸幕府のすることなすこと全てが気に入らない。この碑についてはこんな記事を見つけた。
全勝寺本堂前の山県大弐記念碑は、「明治百年」キャンペーンが政府主導で進められていることに対し、明治維新を民衆思想のレベルからとらえ直そうと、市井三郎・鶴見俊輔・竹内好らが発起人となって建立された。
(山県大弐記念碑 http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j003/j003t.htm)
 ダンディの直感した「左翼」ではなく、これは「思想の科学」だろうね。(市井三郎は無理やり左翼に分類できそうかも知れないが、鶴見俊輔はアメリカ流のプラグマティスト、竹内好は簡単に分類できない)。それにしても竹内好が山県大弐を顕彰するのは何故だろう。独特な立場から近代ナショナリズムを追求したことと、山県大弐の思想とどう関連があるのだろうか。確かにあの頃「明治百年キャンペーン」があった。反対側には明治百年よりも戦後二十年というイデオロギーがあった筈だが、もう一方で、江戸の近代性を評価する立場もあったのだろう。当時の私は知らなかった。
 宝暦、明和、安永、天明と続く十八世紀後半は、文化思想の面で近代へ向かう大きな潮流が生まれていた。山脇東洋が京都で死体解剖を行ったのは宝暦四年(一七五四)、同じ頃奥羽では安藤昌益が『自然真営道』を著し、山県大弐の先駆ともいうべき竹内式部の事件も宝暦九年に起こった。安永三年(一七七四)には『解体新書』が世に出た。国学と蘭学という二つの学問潮流が確立した。一方飢饉、一揆は多発して幕藩体制を揺るがした。ダンディが言うように、鎖国は日本の科学技術の進展を大きく阻害したが、それでもこうして時代は確実に変化していった。
 明治維新をもって近代の画期として「明治百年」なんてキャンペーンを大々的に進めていった政府主導のイデオロギーに対抗して、そうじゃない、江戸時代から近代の萌芽が確実にあったのだということだろうか。それが土着のナショナリズムに執着する竹内好の立場だったのかもしれない。
 しかし、竹内、鶴見、市井なんかのややイデオロギッシュな人たちとは違って、手堅い実証家の見るのは少し違う。中野三敏『近世新畸人伝』に山県大弐を論じた箇所がある。
一件の経緯はすでに多くの書に説かれ尽くされており、いまさらここに細述する必要もあるまいが、約言すれば、竹内式部一件でいささか神経過敏になっていた幕府当局の目に、名文論をふりかざして現在の武断政治を否定し、往古の文治政治に還るべきを講じている大弐の姿が、何か過激な幕府転覆の危険思想の実行者のように映ったというのがその真相らしい。まして大弐の門には絶えず浪人の出入が激しく、彼自身もまた当時浪々の身分だったこととて、幕府の最も恐れた浪人不穏分子の糾合による大逆事件の具体化ととられたのでもあったろう。大弐への罪状申渡書を見ると、そのことが結局第一の理由となったようである。
本来大弐の思想の基礎をなしたものは、その師五味釜川から受けついだ古学者としての学問であり、その古道復古・尚文拆武の精神がいささか現実味を帯びすぎていたために惹起した災難が明和事件だったと言えるように思われる。
 もう一度来た道を戻って、消防博物館(新宿区四谷三丁目十番地)に入る。宗匠が申告し、十三人分の入館証をもらって首にかける。入館料は要らない。「この会は江戸歩きが趣旨だから、江戸時代の消防から見ることにします」宗匠の指示によって、まず五階に上る。ショーケースに江戸火消し四十八組の纏が勢ぞろいしているのは壮観だ。ずいぶん綺麗なものだから勿論レプリカだろう。四五人がかりでなければ持ち上げられそうもない、巨大な刺又がある。江戸の消防の基本は破壊にある。家を破壊するためにこんなものも必要だった。竜吐水なんて実際の役に立ったのだろうか。
 「ヘリコプターに乗ろう」と講釈師が屋上へのドアを開けようとするが、ドアは開かない。「ちゃんと読んでからにしなくちゃ」順子が冷静に指差す通り、ドアの前の看板に、雨のため中止とちゃんと書いてある。晴れていれば操縦席に乗れるのだそうだ。
 四階に降りれば明治以降の消防の変遷を示すエリアに入る。馬で牽く巨大なはしご車がある。真っ赤に塗られたオートバイも、交通渋滞が激化した昭和四十年代には活躍したと書かれているが、後ろに消火器が二本積んであるだけで、こんなもので物の役に立ったとは思えない。最盛期だって精々数台が稼動した程度だというから、気休め程度でしかないように思う。
 三階に降りて漸く現代に入る。あっちゃんが消防の制服とヘルメットを身に着け、消防車の前に立つ。ここは撮影スポットになっていて、カメラが一斉に彼女を狙う。撮影を終えて「それじゃ皆さんもどうぞ」と彼女が薦めても誰も手を出さない。「えーっ、誰もしないの」この建物は全館禁煙で仕方がないので私は一足先に外に出て一服する。そんな私を見て、あとから出てきた橋口さんと三木さんが「すぐに消防車が飛んできますよ」と笑う。一人ではたぶんこんな所に入ろうとは思わないが、珍しい経験をした。今回はちょっと趣向が変わって面白い。

 左門町に入れば通称お岩稲荷、田宮稲荷神社跡(新宿区左門町十七番地)に着く。左門町の名の由来は、寛永の頃、御先手頭の諏訪左門が組屋敷を設けたことによる。御先手組は若年寄に支配で、火付盗賊改を兼務する。御先手弓頭と御先手鉄砲頭とに分れ、戦時の先備えとしての歩兵隊だった。 先手頭は、だいたい二百石から三千五百石の旗本が勤めた。ここが田宮家の跡ならば、田宮家もまた御先手組に属していたことが分る。
 お参りをしていると、斜向かいにも「お岩霊堂」の扁額を掲げる長照山陽運寺があった。こちらは山門の前に「縁結び祈願」の幟がはためく。「お岩生誕之地」なんていう石碑もある。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』はモデルの名前を借りただけで、全くのフィクションなのだが、既に実態と虚構との区別が付いていない。私は知識がないので、『新宿文化絵図』(新宿区地域文化部文化国際課・編集発行)の記事をそのまま引用しておこうと思う。
お岩は、江戸時代初期に実在した人物ですが、実際の話は戯曲とはまったく違います。お岩は幕府御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の伊衛門とは仲むつまじい夫婦だったといいます。美人で働き者で、代々田宮家に伝わるお稲荷を篤く信仰して蓄えを増やし、傾きかけていた田宮家を立て直したと伝えられます。
 田宮家再興はこの稲荷のご利益による、また信心深いお岩の美徳であるとして、これにあやかろうと近隣の人々も信仰するようになったというのだ。この記事が本当なら、お岩および田宮家は南北を名誉毀損で訴えても良いのではないかしら。今日のこの会だって、お岩は美人だったけれど、夫に殺害されたと信じている人が大半だ。狂乱したお岩が走り回ったから「鬼横丁」と名付けられたなんていうに至っては、これはもう江戸人の感覚についていくのは容易ではない。歌舞伎で上演されれば、それはすべて実在したことだと思い込むのだろうか。歌舞伎のヒロインなら、「八百屋お七も見たし」(駒込編)とダンディが言えば、「高橋お伝も見ましたね」(谷中編と千住編)とあっちゃんが応じる。
 お岩の墓は巣鴨の妙行寺にあるそうだ。その寺はもともと四谷にあったもので、何かの加減で西巣鴨に移転したらしいのだ。お岩稲荷はもうひとつ中央区新川にもあるらしい。明治になって市川左団次が、「四谷怪談」上演のたびに四谷左門町までお参りに行くのは面倒だと、当時新川に住んでいた田宮家に相談した。たまたま左門町の稲荷が火災で焼失したこともあって、田宮家の屋敷内に移転した。ただし左門町のほうでも、「田宮神社跡」として旧地を守っているから、お岩稲荷が二つあることになる。講釈師は、「お岩稲荷は四つもあって、どれが本物か分らないからさ、東京都が史跡の指定を取り消そうとしている」と言う。四つというのはどこのことか、私には分らない。

 コース予定には記されていないが、通りがかりに本性寺という寺の山門から覗くと、毘沙門天が祀られている。家康が奥州伊達政宗を牽制するため、北方を睨んで立てたところから「北向き毘沙門天」と呼ばれるという伝説がある。ダンディはここでも家康を罵倒する。この寺の山門と毘沙門堂は、釘を一本も使わない手斧削りの切組造りで、元禄期に建てられた。毘沙門ももともとは江戸城にあったもので、太田道灌の時代には既にあったとされている。
 この界隈、須賀町から若葉にかけては寺町になっている。寛永年間、麹町にあった諸寺が江戸築城の影響でこの地に移されて寺町を形成した。現在四十ほどの寺社があることになっている。現在の若葉二丁目の辺りは、明治四十年頃の地図では四谷寺町だ。
 須賀神社(新宿区須賀町五番地)。寛永十一年、もともと神田明神に祭られていた牛頭天王と、麹町清水谷にあった稲荷を須賀町に移して合祀したものだ。江戸時代には牛頭神社と称していたものを、明治になって改称した。その辺の事情はこんな具合だ。
ここで言う天王とは牛頭天王であって、いわゆる祇園の神のことであるが、もともと典型的な神仏習合の神で、しかも御霊系の神であった。京都の祇園祭も、かつては祇園御霊会と呼ばれていた。明治の神仏分離の後、この神を素盞嗚命にあてて神道化をはかり、神社名としても天王社とは名乗れなくなって、八坂神社、須賀神社、八雲神社、素盞雄神社などと改称し、今に至っている例がよく見られる。しかし、そこに祀られている神はまちがいなく牛頭天王なのであって、地元の氏子は親しみを込めて、いまだにそれを天王様と俗称していることが多い。(長沢利明『江戸東京歳時記』)
 本殿脇には立派な大国主神が米俵の上に立っている。大黒は、古代インドの破壊の神シヴァの化身が大国主と習合した。
 本殿入り口の壁には、吉田亀五郎(煤けてしまっているが松に止まっている鷲のようだ)と伊豆長八の鏝絵が飾られている。亀五郎は長八の弟子で、その絵が伝えられていることを聞いた井上靖が、自分のもっていた長八のものを寄贈したということだ。(宗匠が調べた)ただ長八の絵のほうは暗くて、しかも額に入っていて硝子が反射するから良く見えない。
 本殿の長押には三十六歌仙絵が本殿を囲んでぐるりと掲げられている。千種有功が歌を書き、大岡雲峰が肖像を描いて、天保七年に奉納したものだ。百人一首の読み札の形と一緒で、縦が五十五センチ、横三十七センチある。ただ、私の家で使っていた百人一首には読み札にも絵が描いていなかったから、実はこの形式には余り馴染みがない。今回母に確認してもらったら(いまでも実家の本棚に載っているのを、正月に帰ったときに見ていたので)、定価七十五銭の表示があるから戦前のものだ。祖母が買ったものではないだろうか。昭和三十年代に私たちが使っていて別に破損もしていなかったから、品質的にはかなり高価なものではなかったか。順子の家のものにはちゃんと絵が入っていて、正月に従兄弟姉妹が集まったときには、坊主めくりとか、お姫様が出てくるとどうとか、そんな遊びもしたような気がする。(もしかしたら別の従兄弟のところだったかも知れない)神官の目を気にしながら写真を撮る。
 三十六歌仙とは誰か。こんな機会でもないと調べられない。藤原公任が撰んだ「三十六人撰」がその元になったのだ。公任は長久二年(一〇四一)に七十五歳で死んでいる。藤原氏内部の勢力争いのため正二位権大納言止まりだったというけれど、公卿としてはまずまずであろう。本人の歌としては、こんな歌が百人一首に入っている。

  滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ

 さて三十六歌仙の人と歌は次の通りだ。百人一首に採用されている歌は、カッコの中に上の句を入れてみる。柿本人麻呂、大伴家持、山部赤人、僧正遍照、猿丸太夫(奥山にもみじふみわけ鳴く鹿の)、紀貫之、小野小町、紀友則、壬生忠岑、在原業平、凡河内躬恒、伊勢、素性法師、坂上是則、藤原敏行、藤原兼輔、藤原興風、源重之、源 宗于(山里は冬ぞさびしさまさりける)、斎宮女御、大中臣頼基、源公忠、藤原敦忠、藤綿高光、藤原朝忠、源順、源信明、清原元輔(契りきなかたみに袖をしぼりつつ)、平兼盛(しのぶれど色に出にけりわが恋は)、小大君、大中臣能宣(みかきもり衛士のたく火の夜はもえ)、藤原仲文、中務、藤原元眞、藤原清正、壬生忠見(恋すてふわが名はまだき立ちにけり)となる。三分の一ほどが名前すら知らないから、教養の浅さが露呈してしまう。和泉式部や赤染衛門が入っていないのは、同時代の人間はなかなか評価されないということかも知れない。知らない歌を三つほど挙げてみる。
掬ぶ手の雫に濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな 紀貫之
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして   在原業平
わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ  小野小町
 業平でも小町でも、もっと良い歌があるのではないかと私は思う。小町ならばこんな歌はどうだろう。

  うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき

 どうも甘いね。やっぱり「花の色はうつりにけりないたずらに」かな。しかし私の感覚は定家の風(新古今や百人一首)に影響されている筈だから、平安末期の感覚とは同じではないのだろう。

  淑気満つ 神社の鈴の 音を聞けば  《快歩》

 宗匠は実に信仰心が篤い。私はこういう敬虔な気分になることがない。「淑気」なんて言葉は初めて知ったが、ちゃんと歳時記に載っている。「正月、天地の間に漂う目でたい気配。すがすがしく。荘厳の気に満ちる感がある。」(『俳句歳時記』第三版)
 本殿の前には茅の輪が作られていて、それが私には不思議なのだ。これを初めて見たのは一昨年七月の大久保鬼王神社で、その茅の輪は夏祓えのためだった。「水無月の夏越しの祓をする人は、千歳の命のぶといふなり」という古歌を唱えながら、左回り、右回りを順番に八の字を書くように三度潜らなければならない。水無月と言い、夏越し(なごし)というから、私は茅の輪というのはてっきり夏だけのものだと思い込んでいた。実は隊長もつい二三日前に飯能の竹寺で茅の輪の写真を撮っていて、それを見て何故だろうと思っていたところだ。
 講釈師に聞くと、「二回あるんだよ」とあっさり答えが返ってくる。半年ごとに、つまり夏と冬と両方にある。しかしネットで検索してみると謎は深まる。六月と十二月の晦日(もちろん旧暦で)の年二回実施される除災行事を大祓えと言う。夏は夏越し(なごし)の大祓え、冬は年越しの大祓えだ。神道は(陰陽道かな)いわばお祓いの宗教だから、年に二回のお祓いは重要な行事だ。しかし、夏越しの祓えに茅の輪を潜ることは必ず書いてあるのだが、年越しの祓えのところにはそれが登場しない。
 茅は茅萱のことだろう。端午の節句で使うチマキは茅萱の葉で巻いたことから名付けられたという説があり、それならば毒消しの効果も期待され、夏の祓えにこそ相応しい。歳時記を開けばやはり夏の季語になっている。冬の祓えに使用するのはなぜか。それに冬ならば「水無月の」の歌を唱えるのはどう考えても無理な話で、別の歌がなければならない。今の私にはこれ以上の追求は難しい。
 境内の巨木に立て掛けられている大きな看板を見て、昭和二十九年生まれの運勢は八方塞がりになっているとダンディが指を差す。岳人はまさにそれに相当するのだが、同じ年齢の人間が全て同じ運を持つのならば、話は簡単で悩む必要がない。しかし、ついでだから清めてもらおう。

  松過ぎて歌仙に祓ふ杜の雨  眞人

 須賀神社で落ち合う筈だった隊長は、せっかく近くまで到着したのに、空腹に耐えかねて途中で食事をしてから合流することになった。「先に行っててよ」という隊長の言葉を伝えると、「無理だよ、都会に慣れていない人はきっと迷子になっちゃう」講釈師だけでなく、ダンディもそう思う。里山を歩けば、誰も知らない獣道でも嗅覚を働かせてどこにでもいける人だが、都会には若干の不安がある。しかし、これからのコースはほとんどこの近辺だし、電話もあるから大丈夫だろう(と私は無理やり思い込むことにした)。
 四谷という名の通り坂が多い。ただ四谷地名の語源には、坂が四つあったという他に、茶屋が四つあったからだという説もある。深い谷に降りて行くように階段を下る。相変わらず雨は止まない。寺町、坂道、寒の雨と来れば、嫌でも二年前の谷中散策コースを思い出す。あのとき、あっちゃんは靴下までびっしょり濡れて、「美女がびじょびじょだね」と画伯に洒落を言われたりした。私の靴は防水スプレーを振りかけてきたので、今のところ大丈夫だ。
 祥山寺、日宗寺は省略して愛染院(新宿区若葉二丁目八番)に行く。ここには塙保己一の墓がある。保己一は確か本庄あたりの出身ではなかったかと口にすると、講釈師が八高線のところだと言い、ダンディが電子辞書を調べて児玉だと分る。本庄市児玉町保木野村だ。「一度行ったじゃないか」講釈師がしきりに言うのだが、思い出せない。
 保己一は七歳で失明し、十五歳で江戸に出て按摩や音曲の修行を始めた。しかし不器用のため一向に上達しない。師匠の雨富須賀一検校は保己一の才能に気付いて学問を学ばせた。それが『群書類従』五百三十巻、『続群書類従』千百五十巻に繋がっていく。自分では読めないから人に音読してもらったものを全て記憶した。これは驚くべきことで、どんなに顕彰してもし尽くすことは出来ない。文政四年(一八二一)には総検校の位置に登った。保己一の作った和学講談所は東京大学史料編纂所となって、日本の歴史学の基礎作りに欠かせない組織になっている。
 内藤新宿の開発者である高松喜六の墓もある。本堂の屋根から落ちてくる雨水を受ける甕は、名前はなんと言うのだろう。水を導くために小さな金属片が屋根から甕にまで鎖のように続いていて、それを滴り落ちてくる水が綺麗だ。
 あっちゃんと橋口さんがチョコレートを取り出し、みんなに配給してくれる。私はどう断ろうかと思っていたのに、そんなことには関係なく、「佐藤さんは甘いもの嫌いよね」とあっさりと素通りしてしまう。ちょっと口淋しい私は、サッチーが出してくれた奄美の黒砂糖の小さなかけらを摘んでみる。

 次は勝興寺(新宿区須賀町八番地)で山田朝右衛門の墓を見る。墓碑面には「浅右衛門」と彫られているが、第七世吉利の墓だ。吉田松陰、頼三樹三郎、橋本佐内を斬った。死刑執行人としてのほうが有名になったが、代々公儀御様御用の役柄を世襲した家柄だ。試し切りのためには死体では駄目らしい。生きている人間でなければ、実際の切れ味が試せないということか。特典として、死体から取り出した肝臓を材料として高価な薬「山田丸」製造を独占した。これが相当な収入源だったが、明治維新後禁止された。墓石には夫婦の名前が刻まれていて、このことで、サッチーが講釈師と盛んに何か言い合っている。「偕老同穴ですよ」ダンディが言うと、「それは知ってるけど、この人、変なこと言うんだもの」講釈師は何を言ったのだろう。
 因みに高橋お伝を斬ったのは、八世吉豊の甥である吉亮だ。雲井龍雄、島田一郎、長連豪などもこの吉亮が斬った。

 西応寺(新宿区須賀町十一番地四)には榊原鍵吉がいる。墓地に入って宗匠が探しあぐねていたところを、私が見つけた。それなのにこの会の人たちには知られていない。男谷信友から直心影流を継ぎ、幕府講武所の師範役を務めた。将軍家持臨席の上覧試合では、槍の高橋泥舟に勝って大いに名声を上げた。上野戦争では輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、宮を背負って三河島まで脱出した。
 維新後、明治政府から招聘されたが固辞して受けず、失業した剣術使いの救済のため撃剣会と称して、剣術の見世物興行を主催した。「最後の剣客っていうけど、なにか他に歴史的な仕事はなかったのかな」とドクトルが聞くけれど、剣術しかない男だった。警視庁師範の上田馬之助との間で闘われた兜割にも勝つ。とにかく負けた記録がないのではないかしら。
 全くの小説なのだが、山田風太郎『警視庁物語』に榊原鍵吉がなぜ剣術を見世物にしようとしたのか、そのいきさつに触れた章がある。警視庁の大警視川路利良と旧幕江戸町奉行との対立、大久保暗殺を実行する加賀の連中の傍若無人、高橋お伝が島田一郎に惚れてしまうなんてバカな話も出てくるので、実に面白い。私は風太郎の稗史は正統の歴史学の隙間を埋める貴重な業績だと思う。
 この辺りは入り組んでいて道が良く分らない。「ひとりじゃ二度と来られないわね」橋口さんと三木さんが笑いながら話している。

 戒行寺(新宿区須賀町九番地四)には長谷川平蔵宣以供養碑。「これは武士かい」ドクトルの言葉に講釈師が過剰に反応する。「当たり前じゃないか。鬼平を知らないの。嫌んなっちゃうよ」ドクトルは混じり気なしの純粋理科系だから、鬼平なんて知らなくても良いのだ。
 池波正太郎のお蔭で火付盗賊改役での活躍ばかりが有名になったが、寛政の改革のとき、人足寄場建設を建議して実際に石川島に寄場を作って功績を挙げたのは、行政官としての能力を示している。しかし老中首座の松平定信には嫌われた。小心で糞真面目な秀才タイプの定信に嫌われたのなら、平蔵の人間性に魅力があったことになる。「本所の平蔵様」「今大岡」と庶民には評判が良かった。(「ウィキペディア」より)
 梅の枝に雨の雫が白く蕾のような玉をなしていて、あっちゃんが声を上げる。「句を詠んでくださいよ」宗匠は「そんな急に言われてもでて来ません」。与えられた宿題の回答はこんな風になる。

  冬木立 枝に雨だれ 連なりて  《快歩》
  寒中に蕾となりぬ雨の玉      眞人

 源清麿(山浦環)の墓のある宗福寺(須賀町十番地二)は割愛された。ひとことだけ触れておけば、四谷正宗と称されたその刀は、当時流行の装飾の多い実戦には役立たない刀剣と違って、古刀の強さを維持していたという。近藤勇の虎徹は、この四谷正宗だという説もある。隆慶一郎『鬼丸斬人剣』では主人公鬼丸は清麿の弟子ということになっている。
 観音坂を登って通り過ぎてから、後ろの幟を差して「あれが潮踏観音です」坂を登りきって右に曲がると西念寺(新宿区若葉二丁目九番)だ。私たちが境内に到着したところに、墓地のほうから隊長が姿を現した。「よく来られたね。絶対ダメかと思ってた」「だって地図を持ってるんだから」
 服部半蔵正成は服部保長の五男として三河国に生まれた。もともとは伊賀の土豪の一族で、保長が三河国に移住して松平氏に仕えた。五男だが家督を継いだのはどういう理由か分らない。上の四人の兄が全くの無能であったか、早世したか。槍を取っては、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱と並び称され、「鬼半蔵」とも呼ばれた。槍はおそらく本堂のほうに保管してあるのだろう。見ることはできない。
 岡崎三郎信康が自刃に追い込まれたとき、介錯を命ぜられたものの、三代相恩の主君に刃は向けられないと落涙したということになっている。(ただしこの話は後世の創作であるという説もある)
 本能寺の変に逢って家康が「伊賀越え」をした際、伊賀甲賀の土豪と折衝できたのは、服部家がもともと伊賀の出身者であることが幸いした。家康の江戸入府後は、与力三十騎、伊賀同心二百人を束ね、八千石を領した。「半蔵門だよ。分るだろう」と講釈師が女性陣に講釈を始めている。慶長元年(一五九六)五十五歳で没したが、その生前、信康の菩提を弔うために創建したのが麹町にあった安養院で、それが移転して、この西念寺になった。
 墓石の形がちょっと変わっている。その場では分らないから後で調べてみると、これは宝篋印搭で、本来は「過去現在にわたる諸仏の全身舎利奉蔵するために宝篋印陀羅尼経を納めた供養塔」(『図説歴史散歩事典』)だ。これを墓石にすることがあったようだ。すぐ隣には区画を切ってもう少し大きくて立派なO家の墓があり、「Oさんって誰よ」とサッチーに聞かれても困ってしまう。
 ちょっと奥に行けば岡崎三郎の墓がある。これは典型的な五輪塔で、戦国期の一般的なものよりはかなり大きく、随分立派なものだ。ただしこれは文化十一年、半蔵の子孫が修復したものだという。

 「もう寒いから終わりにしようぜ」と講釈師がせっつくので、宗匠もここで中断することに決めた。このため四谷見附公園(ギリシア風自然公園)、学習院初等科、若葉東公園が外されることになった。寺を出て少し歩くと、塀越しに柚子の実の生っている中に、小さな白い花が見える。本来の開花期は五六月の筈だけれど。柚子の実は秋、花は夏の季語だ。

  実とともに返り花咲く江戸の雨  眞人

 煉瓦塀の角のちょっと気付き難いところに「二葉亭四迷旧居跡」(新宿区四谷一丁目十三番地)の案内板が立っていた。四迷長谷川辰之助が明治十三年、東京外国語学校入学から翌年寄宿舎に入るまでの間、住んだ場所だ。二葉亭は『浮雲』を書き、四迷の名前では売れないと書肆に言われて坪内雄蔵(逍遥)名義で出版した。これが日本近代文学の黎明になった。教科書では言文一致だけが大きく取り上げられているが、言文一致は他にも山田美妙なんかも試みている(山田美妙斎の方は「ですます」体)。口語体の創設というのも勿論重要な事件だったのは間違いない。しかし二葉亭の本領はそこにはなく、近代人の引き裂かれた魂を初めて文字に定着したことにある。『あひびき』(ツルゲーネフの翻訳)には国木田独歩が感動して、後に『武蔵野』を書くきっかけになった。
 ところが本人は小説なんか男子一生の仕事ではない、志士として生きることが自分の使命であると一生思い続けていた。日本文学史上に達成した業績を自分で信じることができず、己の全生涯を失敗だと思い込んだ。日露問題を一挙に解決するためには遊郭を開くのが一番だと思い込み、ウラジオストックへ渡ったたこともある。そのとき、石光真清(ロシア事情探索のために軍事探偵として大陸に生涯を捧げた。『城下の人』以下四部作を残している)の経営する写真店に立ち寄ったりしたが、互いにその本心を明かすことなく、すれ違ったままだった。ついでに言えば、石光真清は、子供は絶対に大陸に関係してくれるなと遺書を残した。彼もまた、生涯を賭けた己の事業が失敗だったと判断せざるを得ない人間だった。
 最後は朝日新聞社の特派員としてロシアに出かけ、持病の結核を悪化させた挙句、帰国の船の中で死んだ。明治四十二年五月十日、インド洋上でのことだった。
 残した遺書が辛い。先妻との間に生まれた子供ふたりは即座に学校を辞め奉公に出ろ。母親は名古屋の実家の世話になれ。妻は二人の子を連れて実家に帰り、時機を見て再婚すること。要するに一家離散の宣言に等しい。朝日新聞社はその遺族の生活を助けるために、二葉亭四迷全集を計画し、その校正係には石川啄木が当った。
憂国の人、完全主義の人、自己嫌悪の人、親孝行の人、愛情に拘泥する人、さまざまな側面を持つ複雑な人格だった二葉亭、明治という栄光と暗黒の時代を生きて近代文体を開拓した二葉亭、そして、おのれのなした仕事の重要性に気づかず、いたずらに煩悶に煩悶を重ね、多くを試みて結局そのどれにも満足することができなった文人ならざる文人、二葉亭四迷長谷川辰之助はこのようにして生涯を終え、歴史上の人となった。(関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』)
 関川夏央は、鴎外を追って来日したエリスに長谷川辰之助が恋をしたという物語を書いた。(関川夏央・谷口ジロー『秋の舞姫』)事実としては絶対にあり得ないことだが、それは不幸だった二葉亭に捧げる関川の友情だったかも知れない。
 結局、隊長は服部半蔵、岡崎三郎とこの二葉亭だけを見るために出てきたことになる。新宿通りに戻って喫茶店に向かう。途中でサッチーは酒屋でお酒を見つけたらしい。あっちゃんはうぐいす餅を見つけて「買っても良いかしら」と、三木さんと一緒に店内に入った。先を歩く講釈師は苛々している。折角入った喫茶店で、十三人も並んだものだから、注文を受け付けるカウンターでちょっと混乱した。それでもなんとか全員が無事、二階の席に収まったから良かった。次回以降の話題に盛り上がる。

 三月の第十六回は小名木川の周辺をあっちゃんが企画する。第一回で歩いた深川辺りの少し北から東にかけてのコースだ。「そう言えば最初は五人で始めたんだよね」講釈師の言うとおり、最初は池田会長(もうこの頃はちっとも遊んでくれなくなった)の音頭で、平野隊長、講釈師、岳人、私が参加して始まったのだった。もっともあっちゃんも途中から参加したけれど。「のらくろにも行って欲しい」とか、勝手な希望が飛び出して来る。「俺は行かないよ」なんて講釈師が意気がるが、なに、この人が参加しないことはない。
 五月は駒場から三軒茶屋の方面をダンディと岳人の共同企画で実施する。「太子堂のほうだったら、若いひとがいたわよね」橋口さんが思い出すのは阿部さんのことではないかしら。それに橋本さんも同じようなところに住んでいた筈だ。
 その間に、二月には番外編として講釈師が企画して隅田川七福神めぐりが実施される。ほかにも宗匠は漱石所縁の場所を歩いて見たいと言うし、私は林芙美子の落合の辺りも歩きたい。まだコースは尽きない。
 店に入ったのが三時半過ぎ。四時三十分頃に一次会は解散する。この時間で開いているのはさくら水産しか思いつかない。四谷駅に向かうひとたちと別れ、酒飲み連中は四谷三丁目に向かう。新宿三丁目にさくら水産があることは、「大久保・余丁町編」を歩いたときに知っているから、地下鉄に乗ろうと思ったのだ。酒を飲むに向かうのは宗匠、隊長、ダンディ、ドクトル、大川さん、岳人、サッチー、あっちゃん、私の九人だ。しかし地下鉄に乗らなくてもさくら水産はちゃんとあった。
 今日もサッチーは自家製の漬物を持参している。今日のものは胡麻油で香りを付けてあり、サッチーはだれかれ構わず、箸で口に突っ込む。年末に五能線のことで勘違いして、彼女の話に水を差した私は心から謝らなければならない。(私は五能線と言うのは能代と五城目を結ぶ路線だとばかり思い込んでいた。本当は能代から鯵ヶ沢まで日本海に沿ってを北上し、そこから内陸に入って五所川原を経由、川部まで行く路線だったのだ。)
 更に酔った勢いで新宿のカラオケ屋に入り込んだのは、ダンディ、隊長、あっちゃん、私。美女は何故か英語の歌を歌い続ける。いつものように自慢しながら歌う私は全員の顰蹙をかう。私は相当に酔ってしまった。

 今回も宗匠の句を拝借した。