「東京・歩く・見る・食べる会」
第十六回 小名木川周辺から亀戸天神編   平成二十年三月八日(土)

「水の都江戸」の面影を偲ぶ

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.03.16

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 ダンディの口真似をすれば、今日は旧暦二月一日にあたる。如月である。雨にでもなれば講釈師に一生罵倒されそうだから、企画するあっちゃんも気が気ではない。夕べ少し雨が降ったものの、今日は予報どおり春本番を思わせる暖かな日だ。「今日が雨だったら、私、本当に雨女になるとこでした」
 思い返せば、一昨年の本郷編(眞人企画)では湯島天神の梅が盛りだったし、去年の千住編(岳人企画)でも素盞嗚神社の桃が満開だった。この三月の第二週というのは、実に穏やかな散策日和に恵まれる。

 集合場所は都営新宿線の東大島駅だ。オオシマではなく、オオジマと読むのはどういう理由なのだろう。「もともと日本語は濁らないんですが」と上方出身のダンディが断言する。この近くには高橋(たかばし)という地名もあるし、それでは濁音は東国独特の言語感覚だろうか。
 駅の前には高層マンション群が広がる。もともとこのあたりは埋立地で、地盤は大丈夫なのだろうかと心配になる。「だいたい五十年から百年経てば大丈夫」とダンディが言う。江東区自体、その大部分は江戸時代の埋立地だから、まず三百年は経っているか。ただ、関東大震災では地盤の陥没が酷く、砂町で二十七・六センチ、亀戸で二十四・六センチの陥没を記録している(吉村昭『関東大震災}』より)から、不安は残る。

 リーダーのあっちゃんを筆頭に女性陣は、橋口、三木、橋本、清水、順子、坪田、佐藤悠子の諸嬢。男性はダンディ、隊長、講釈師、ドクトル、宗匠、岳人、碁聖、ミツグ、私。総勢十七人が集まった。
 橋本さんに会うのは「千住編」(昨年三月)以来かと思ったのは私の勘違いで、実は七月の「品川宿編」で会っていた。年末には、風邪で行けなくなった彼女の代わりに国立能楽堂のチケットを頂戴した私は、感激して電話で「お姉さま」と呼んで、「ぐさっと刺されたわよ」と彼女の神経をかなり傷付けてしまったらしい。彼女は昨日もそのことで隊長と一時間も話していたということだが、敬愛の余りの呼び方なので許して欲しい。
 橋口さんと三木さんは二人仲良く大きなマスクを着けている。去年の三月も同じ様子だったし、花粉症の人はこの季節は大変なのだろうね。佐藤さんと言う女性は何人もいるので、失礼ながら名前まで確認させてもらった。坪田さんとふたりは以前に確かにお目にかかったことがある筈だが、それがどこだったか申し訳ないが覚えていない。
 今日のダンディの帽子は、期待通りアマゾン(勿論アルファベットで書いてある)と記されたブラジルのものだ。「みんなでさ、今度はどんな帽子を被ってくるかって言っていたんだよ。花飾りを一杯つけたやつじゃないか、なんてさ」講釈師は、ダンディがカーニヴァルの半裸の女性を見に行ったに違いないと信じ込んでいて、手を頭の上でひらひらさせる。「私はアマゾン川を見るのが目的ですよ」ピラニアを食べてきたダンディが強く抗議する。
 珍しく碁聖が五分ほど遅れて到着し大きな声で挨拶する。関野さんはいつも元気だと、みんなが感心する。ミツグは更に遅れた。どうも「秋田時間」から抜け出せない。「秋田時間」という言葉が、みんなに通じるだろうか。たぶん、地方のどこでもこんな表現をするかも知れないが、田舎の人間は正確な時間なんか関係ないということだ。遅い人間は置いていくことに決めて、出発する。

 このリーダーの企画する会はいつでも資料が盛り沢山で、頭が下る。切絵図と現代の地図を対照したもの、江東区深川江戸資料館の「資料館ノート」の数枚が配られる。事前準備も大変だがプリント費用もバカにならないから、「会費は集めないのかい」とドクトルが気にする。会費不要という原則なので、ちょっと気が咎めるが有り難く頂戴しておく。
 中川船番所資料館の入場料は二百円、団体扱いになるのは二十人からで、美女がすまなさそうに言う通り、高齢者割引はない。「今日は学芸員がいなくて説明ができませんよ」と職員がぼそぼそと言うけれど、美女の配った資料があれば、並みの学芸員の説明よりはよほど中身が濃い筈だ。それにこの資料館で手に入れた資料は、文体や漢字の使い方からみれば子供向けに作成されたものだが、基礎的な知識が得られて便利だ。
 まず三階に上れば船番所を復元したセットが広がる。
 床には青いライトが光っているから私たちは川に立っているのだ。正面には羽織を着けた役人が座っていて、ドクトルがその前に立つとその人形が喋り始める。

その方ども、何用あってここ参ったか。
―― 見学に参りました。
それは殊勝。お役多忙で案内もできぬが、ゆっくり見学して参れ

 本当か嘘か、ドクトルは笑いながらそう言っていたと言う。手前には薦樽を積んだ船が浮かぶ。本行徳村の善左衛門が、常陸国石岡で醸造された酒を江戸小網町の酒問屋へ運ぶ途中で取調べを受けているのだ。番所の建物の右手には長い槍が三本立てかけられていて、「向こうの船まで刀じゃ届かないだろ。槍でなくちゃ」と今日の講釈はここから始まる。番所の右には番小屋があって、役人が川を見張っている。奥のほうの川では釣りをしていて、なんだか緊迫感に欠ける。
 左奥の別室に行けば展望室になっていて、窓から見える川の向こうの公園の緑が美しい。そうこうしているうちにミツグも到着した。

 江戸時代初めまでは、利根川と荒川とは合流して現在の中川下流の川筋に流れ込んでいて、だから旧中川はそれらの本流ということになる。それが利根川の川筋を東に移し、荒川も大規模に川筋を変えた結果、残った川筋が旧中川だ。
 江戸に出入する船を取り締まるため、最初は小名木川の隅田川口、萬年橋の北に「深川口人改之御番所」が置かれていた。それが寛文元年(一六六一)中川、小名木川、船堀川の交差するこの地に移された。

江戸時代もなかばになると、江戸の後背地である関東では商品生産が進められ、各地に特産物が生まれました。野田のしょう油、銚子の干鰯のほか、穀物・酒・小間物・呉服など地場産業が発展しました。こうした物資はおもに河川交通を利用して運ばれたのです。
 とくに江戸に入る米・酒・硫黄・俵物・樽物・古銅類・材木類・生魚・前栽物と、江戸から出る米・塩は「御規定物」とされ、通関には一定の手続きが必要とされました。また御規定物以外の品は、船頭が持つ手形と積み荷の照合を行い通しました。
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse264.html

 二階に降りると釣竿が展示されている。私は釣りには余り関心がないから、和竿を見ても感動することがない。亡くなった達夫伯父は鮒釣りが好きで、よく甘露煮など釣果のお裾分けにあずかったよねと、順子と話す。達夫伯父の自転車の荷台に載せられて釣りのお供をしたのは、たぶん私が小学校の二年生くらいの時だったが、私は釣りに感動しない子供だったので、伯父はがっかりしただろう。
 「この仲間に釣りをするひとがいました」ダンディがおかしそうに「誰だと思います」と謎を懸けてくる。誰だろう、何も思いつかない私たちに、ダンディは笑いながら「橋本さんですよ」と自慢する。もっとも川釣りではなく海釣りのほうらしい。早速「橋本さんは海釣りをする」とメモをとる。「また書かれちゃうのかしら」
 「三平さんの奥さん、香葉子さんね。あの方のご実家が竿師ですよ」橋口さんは不思議なことを知っているが、講釈師もそうだと断言する。「三月十日の大空襲で家族を亡くしてさ、苦労したんだ。たった一人生き残ったお兄さんが竿師なんだよ。名人だ」何でも知っているダンディが、芸能関係の話題には全く疎い。「その代わり、芸能関係について知らないものはないのが講釈師だ。海老名香葉子の生家は名人「竿忠」である。
 その竿忠は安政二年、中根音吉が墨田区本所に「釣音」の屋号で開業したのを始めとする。その後、音吉の実子忠吉により「竿忠」の屋号を掲げ、二代目仁三郎、三代目音吉と続き、現在では香葉子の兄が五世四代目竿忠・中根喜三郎と名乗っている。四代目なのに五世を名乗るのは、初代の師匠であった秦地屋東作を第一世と数えるからだ。

 本当に穏やかな日で川と緑が気持ち良い。中川を左に見て歩くとすぐに番所橋に辿り着く。橋上から中川に直角に小名木川が交わっているのを確認する。美女は江戸名所図会のコピーをかざして、現在とは全く面影が違うと嘆いているが、時代の流れは仕方がない。
 小名木川は、天正十八年(一五九〇)の家康の江戸入府とほぼ同じ頃、慶長年間に開削された運河だ。行徳方面の塩を江戸府内に運ぶのが目的で、開削を担当した小名木四郎兵衛の名に因む。また鰻がよく取れたので「うなぎ川」、女木山谷が「小名木沢」になったとも言われる。隅田川から中川のここまで、全長四千六百四十メートル、江東区を東西に横断する。
この小名木川をはじめとして、江戸の物資輸送を担った運河を巡るのが、今日のコースの大きな目的になっている。

  江東の川を巡るや春うらら   眞人

 小名木川を左に見ながら西へ行く。川縁の遊歩道に降りられそうな石段があるが、「そっちに行くとちょうど良い場所で上ってこられないの」とリーダーが断言するので、上の道を歩く。歩道の改修工事の真最中で、狭苦しくなっているところを通り抜け、マンションのところを右手に曲がればすぐに宝塔寺が見える。真言宗智山派、稲荷山小名院と号す。
 「塩舐め地蔵」の頭はのっぺらぼうのように少し窪んで、烏賊の頭のような格好に、つまり溶けて流れたような格好になっている。「塩で溶けたんですよ」リーダーの言葉を勘違いした隊長は「塩?塩は溶けるよ」と頓珍漢に応じる。塩は勿論一定の水温で溶ける。ナメクジは塩で溶ける。しかし石が塩で溶けるものか。隊長とドクトルが塩化ナトリウムとか何とか、専門的な議論をしている。
 備え付けられた塩を塗れば疣が取れるので、疣取り地蔵とも呼ばれる。梅が数本咲いているが、既に盛りを過ぎているようだ。この辺は日当たりが良く、花の開花も早いのかも知れない。
 川沿いにもう少し行けば、丸八橋の袂には「松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社」がある。芭蕉坐像があるのは良いが、石碑に「五月雨を集めて早し最上川」の句が彫られているのが納得できない。「その地で詠んだ句を掲げるんじゃないですか」リーダーもがっかりする。平成元年、奥の細道旅立ち三百年記念として建立されたもので、芭蕉が実際にここで詠んだものでは記念にならないと思われたか。
 横にある塚は「女木塚句碑」で、これも「おなぎ」と読む筈だが、「其日菴社中造立」とある。其日菴は数人いるようで、四世を名乗った加藤野逸が一茶とも交流があったからその造立になると推定されているが、はっきりした確証はないようだ。(私はそもそもこれらの人物を全く知らない)

  秋に添て行はや末は小松川  芭蕉

 説明看板には「行」の字に「ユク」とルビが振られている。それなら「ゆくはや」と読まなければならないが、それはおかしい。「行(ゆか)ばや」ではないかと、ダンディが指摘する。確かにそう思う。元禄五年、芭蕉奥州旅立ちの前に詠んだ句だ。
 ここはまた小林一茶にも所縁がある。船番所資料館で手に入れた「江東区観光イラストマップ」には、少し離れた愛宕神社のところに「小林一茶住居跡」と書かれているのだが、「説が両方あるようです」とリーダーが言う。一茶『享和句帖』に、「江戸本所五ツ目大島 愛宕山別当 一茶園雲外」と記されていると言う。愛宕山だから、愛宕神社と関係付けられたのだろう。しかし愛宕山というのは、寺院の山号だ。愛宕山大嶋寺勝智院が大島稲荷神社別当寺として境内にあったというから、文化元年頃に一茶が住んでいたのはこの本殿の裏手のほうらしいというのが正しそうだ。

  かぢの音は耳を離れず星今宵  一茶
  七夕の相伴に出る川辺かな
  水売のいまきた顔や愛宕山

 大島の辺りは飲み水が悪く、小名木川を水売り船が往来していたと説明されている。埋立地ならば水が悪いのは当たり前で、江戸の大半がそうだった。親子の牛だろう、石作りの牛が寝そべっている。「出世開運牛」と書かれていても、岳人を除いて既に諦めている人間には関係ない。

 丸八橋で小名木川を渡るとき、橋の上から見つけたモーターサイクル屋の小さなビルの窓を見て、講釈師が「つり雛」と指を差した。と思うとすぐに清水さんが「つるし雛ね」と訂正する。「伊豆の方じゃすごんだよ」講釈師は何でも知っている。私は初めて見るし、その言葉も知らなかった。近眼だからよく見えないが、色とりどりの端切れで小さな人形などを作ってあるのが、大量にぶら下がっているようだ。調べてみると、こんなことらしい。

 伊豆稲取地区で今日まで伝承された地域限定の伝統工芸。名称、雛のつるし飾り、地元での通称は、吊し雛、又はつるし雛です。
 この珍しく暖かく懐かしい雛のつるし飾りの風習は、江戸時代後期の頃を発端に稲取地区の雛節句のお祝いの一環で、その当時は吊るし雛として近年では雛のつるし飾りとして当地に住む先人達により、稲取地区のみに手作りの愛の形として地域に土着し、稲取地区だけに限定のなごみ深く懐かしい地元の女性の和裁細工として粛々と平成の現在まで受け継がれて来ました。(中略)
 この一見変った稲取地区での雛の和細工のさげ物の風習は、九州柳川地区ではさげもん、山形酒田地区では笠福、ご当地、伊豆稲取地区では、名称、雛のつるし飾り。通称は『つるし雛』と呼ばれており、この三個所のみが歴史的な伝承の由来や雛細工の文献等、つるし飾りの資料が現存してございます。
http://www.izu.co.jp/~hamabe/new_page_4.htm

 伊豆稲取、庄内、九州柳川で主に見られる伝統だというのが、何故この江東にあるのかは不明だ。その地方の出身者でもあるだろうか。しかし講釈師の知識は江戸東京どころか全国に及ぶ。清水さんも「つるし雛」と即座に応答したからその知識は油断がならない。

 今度は川を右にして西に歩くと、左手(南側)には北砂団地という巨大な団地が広がっている。ここから南のほうにかけて、江戸時代の地名では砂村という。江戸府内への野菜供給地として有名だった。
 いくら歩いても団地は途切れないように思えるが、ほぼ中間辺りに来た道路脇に、「精糖工業発祥の地」の説明板が立っている。明治二十一年(一八八八)、日本で初めて白砂糖の精製に成功した鈴木藤三郎が、ここに工場を建て二十八年に日本精糖株式会社を設立した。なぜこの場所かと言えば、八代将軍吉宗が琉球から甘藷を取り寄せて栽培させ、江戸で消費する砂糖を作らせたのがここだったからだ。白砂糖が明治二十八年にならなければ国産できなかったということにも驚いてしまう。
 砂糖の日本伝来は鑑真和上によると言われる。十四世紀半ばには砂糖を使った菓子が流行したものか、『新札往来』と言う書物に「砂糖饅頭」の記述が現れるらしい。ルイス・フロイスが信長に金平糖を贈ったのは永禄十二年(一五六九)、この頃は全て輸入に頼ったものだろう。庶民の口には到底入らない。薩摩の琉球征服によって漸く日本人による黒砂糖の製造が成功するのは江戸の初期。普及するのはやはり吉宗以降になるようだ。和三盆は高松藩の特産だが、黒糖を使って、和菓子の発展に大いに寄与した。

 「向こうなんですけどね」とリーダーが通りを横断する。横断歩道から少し外れたところで、こういうときには必ず講釈師の罵声が飛ぶ。ま、交通量がそれほどでもないから良いではないか。ちょうど渡ったところに案内板があるのは、松平冠山屋敷跡だ。冠山と言われても何者なのか分らないから悔しい。美女は「露姫のことしか知りません」と言う。そんなことは知らなかったが、私も事前に冠山のことだけは調べてきた。
 松平冠山(池田定常)は因幡国鳥取藩の支藩・若桜藩の第五代藩主にあたる。若桜を「わかざくら」と読むとダンディに「わかさ」と読むと教えられる。地名人名は知らなければ正確には読めない。

 明和四年(一七六七)に生まれ、天保四年(一八三三)に死んだ。享年六十七。第四代藩主池田定得死去にあたって、遺言に旗本の池田政勝の子・定常を養子の後継者と指名していたため、それに従って定常が後を継いだ。鳥取池田家は、池田輝政と家康の次女督姫との間に生まれた忠雄を藩祖にしているから、松平の姓と葵の紋を許されている。
 文学に造詣が深く、佐藤一斎、谷文晁、塙保己一、林述斎らと交流し、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた。著作に『論語説』、『周易管穂』、『武蔵名所考』、『浅草寺志』などがある。明和から天保にかけて、幕藩体制には既に綻びが生じていて、多くの藩では藩政改革に血道をあげていたのだが、そんなとき、文学にのめり込んでいたのでは政治なんかできた筈はない。実は若桜藩の政務は、本藩から御付人と呼ばれる人間が来て担当していたのだ。因みに、「文学」という文字から現代の文学リテラチュアを想像してはいけないのは言うまでもない。
 ここまでは調べておいたのだが、それでは美女の言う露姫とは何か。
 露姫は定常の末娘として生まれたが、天然痘のために文政五年(一八二二)僅か六歳で亡くなった。その遺書が余りにも可憐哀切で涙を誘う。それを定常が木版に刷って松平定信、水野忠邦を始めとする幕閣首脳、文化人に配った。冠山は、娘のこの文が公開に値すると判断した。娘の霊を慰めるために、その遺書を後世に残したいと思ったか。感動した人間およそ千五百人が追悼の書画を寄せてくれたので、「玉露童女追悼集」として定常が浅草寺に奉納した。
ひらがなばかりの拙い文字だが、こんな風に書かれている。

(父へ)   おいとたから こしゆあるな つゆがおねがひ申ます 
      おとうさま まつだいらつゆ
  (「おいとたから」には、父は老い年だからというのと、おいとしいからと言う二つの解釈があるようだ。「こしゅ」は御酒。)
(母へ)
  まてしはし なきよのなかのいとまごい むとせのゆめの なごりおしさに 
 おたへさま(母の名)  つゆ
(兄へ)
  つゆほとの はなのさかりや ちこさくら
(侍女たつ、ときへ)
  ゑんありて たつとき われにつかわれし いくとしへても わすれたもふな

 六歳と言っても満年齢ではわずかに五歳。死に臨んでこれだけのものを書き残した。幼女の死は哀れだが、冠山の家族の親密さが感じられる。

 ここは北砂五丁目だから、近くには石田波郷記念館があるらしい。波郷といっても、この会で知っていそうなのは宗匠と、俳句をやっているという橋口さんくらいではないだろうか。波郷は水原秋櫻子の『馬酔木』に参加したから秋櫻子の弟子と言っても良い。

   砂町の波郷死なすな冬紅葉  渡邊白泉

 これは昭和二十二年、戦地で罹患した肋膜炎が悪化した波郷への古い友人の言葉だ。これに対して「砂町は冬木だになし死に得んや」と返した。幸い波郷は翌年、清瀬の国立療養所に入所して死は免れた。明るいものではこんな句が有名だ。

   バスを待ち大路の春をうたがはず  石田波郷

 この句に言う春は今日よりももう少し後、彼岸の頃の気分だろうが、今日はそんな風に「春を疑わず」とでも言ってみたいような陽気だ。歩いていると、あちらこちらに梅のほかにも紅い椿が咲いているのが目立っている。
 三木さんの驚いたような声が聞こえてきた。岳人のちょうど後ろを歩いていた三木さんが、そのジャンバーが全く同じものであることを発見したのだ。焦げ茶色で、肩の下に白い線が水平に入っていて、確かに、同じメーカー、同じ型式だろう。偶然とはいえ、こんなことは滅多にあるものではない。まさか示し合わせて、ペアルックで買ったのではあるまいね。
 進開橋(明治通り)のところから、川沿いに北砂緑道公園が続いていて、そこで休憩だ。女性陣からは様々な差し入れが提供される。チョコレートが配られるが「佐藤さんは駄目なのよね」と美女は冷たく私を通り過ぎる。順子は秋田銘菓「もろこし」をもってきて、「たまには少しくらい口にしなさい」と叱るが、私はポケットにしまったまま、そのうち粉々になってしまった。
 「佐藤さんはこれね」と思いがけず橋口さんが煎餅を出してくれた。嬉しい。そろそろ十一時半を回ったところで、少し空腹を感じてきた頃だった。橋本さんも甘いものは苦手で、煎餅を嬉しそうに食べている。
 赤い蕾をつけた桜を見て「これは寒緋桜でしょうか」と、橋口さんがこともあろうに私に問いかけているのは何かの間違いではあるまいか。横でミツグがニヤニヤしているが、たぶんそうだと思うと答える。ただ、寒緋桜だとすれば、ちょっと季節が遅いような気もする。彼岸桜であろうか。こんなことを私に聞いた橋口さんが悪い。
 釜屋の渡し跡。案内板には写真が載っているが、うっすらと船だろうかと思う影が見えるだけで、ほとんど判別できない。小名木川の対岸に釜屋があったことから、釜屋の渡しという。大正七年七月五日に「営業渡船」として公式に営業を許可され、一日に平均して大人二百人、 自転車五台、 荷車一台が利用した。 料金は一人一銭、 小車一銭、 自転車一銭、 荷車二銭、 牛馬一頭二銭だった。
小名木川と直角に交差して南北に流れるのは横十間川だ。もう少し北のほうには竪川があり、私たちの地図の感覚ではタテヨコが逆のように思える。美女の説明では、江戸城から東を望んだとき、南北に走る線は横に、東西に走る線は縦に見えるからだという。私は思いつきで、江戸切絵図の多くは北を右側にしているから、東西は縦に、南北は横になるんじゃないかと言ってみるが、これは私の勘違いで切絵図の向きは様々だ。ただ、この辺りの地図は北が右になっているから、満更当て鉄砲でもない。別に、隅田川を基準にして、それと平行するのが「横」であり、直角になるのが「縦」だという説もある。ウィキペディアを見てみると、リーダーの言う通り、やはり江戸城から見て平行に流れているのが名称由来としてある。
 その小名木川と横十間川の交差するところ、二つの川をたすきで繋ぐような形をしているのがクローバー橋だ。もうちょっと呼び名を考えられないだろうかとも思う。橋の上から西を眺めれば岩井橋。東海道四谷怪談の「隠亡堀の場」はこのあたりだと言う。四谷怪談そのものをまともに知らない私には良く分らない。講釈師が橋本さんに向かって頻りに四谷怪談の話をしかけるが、残念ながら彼女は歌舞伎は余り好きではないのだ。橋を渡って、小名木川の北に出て、大島橋の袂の釜谷堀公園に立ち寄る。
 コンクリート製の標柱の表面には「釜屋跡」とあって、その左面から順に三面に説明が記されている。回りながら読まないと全体が分らないのは不便と思うのは、こちらが横着だからだろうか。

太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六釜七と称し、寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまもなくこの付近に住い、釜六は明治時代まで、釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ、なべかまの日用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した。

 ここにはまた、化学肥料創業記念碑というのもある。大きな石碑で上に横書きで「尊農」と彫ってある。その下は縦書きだ。

先覚渋沢栄一益田孝の諸氏ハ維新当初ニ於て我国運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増ヲ来シ食料問題ハ実ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ、農業ノ発達ト肥料ノ合理的施用トニ因り之カ増収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲナシ欧米ニ於ケル化学肥料ノ研鑽者タル高峰譲吉氏ノ協力を得テ明治二十年ノ初テ此ノ地ニ東京人造肥料会社ヲ設立シ過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ(略)

 これが一つながりの文だから長い。「益田孝は三井じゃないですか」ダンディはこういうことに詳しいが、裏面を見ても三井の名前はないようだ。当時は最先端の技術だったに違いない。化学肥料の存在価値すら疑われることになる時代がこようとは、「先覚者」たちは全く思わなかっただろう。
 横十間川沿いの木道を模した遊歩道を北に向かう。川にはボートが三四艘ほど浮かび、女子高校生が練習している。のんびり眺めているといきなり罵声が飛んできたのに驚くが、これはコーチが叱咤しているのだった。しかしその口調ははっきり言って下品で、もし私に娘がいたとして、こんなコーチに教えてもらいたくはない。仲間のボートを端に寄せ、一艘のボートがスタートする。おそらく期待されているチームなのだろう、三人で漕ぐボートがコーチの叱咤を浴びて真っ直ぐに川を進んでいく。早い。
 意外なことにボートの経験のある岳人が、「難しいんですよ」と体験談を話してくれる。オールを水から上げるときには水を掻かないようにしなければいけない。ちょっとでも水を掻いてしまうと、オールが腹にまともにぶつかるから、「むちゃくちゃ痛いんですよね」。私は公園のボートに乗ってもオールを操るのは得意ではない。まして競技用のボートなんて、全く駄目だろう。
 十二時半、漸く昼飯だ。本村橋を渡る。「本村」と言うとおり、深川の開発名主で、深川の地名のもとになった深川八郎右衛門の一族がこのあたりに代々居宅を構えた。

 ティアラ江東(江東公会堂)のレストランモアをリーダーが予約している。今朝人数を確認してすぐに予約を入れているから偉い。「だって、これだけの人数ですからね。予約しておかないと」
 本日のサービスランチは豚肉の生姜焼き又は広東麺が八百五十円だ。団体でこういう店に入るときにはサービスランチに限る。七月の品川宿ではタラコスパゲッテイと称する怪しげな麺類に匙を投げたリーダーが、同じ目に逢った橋本さんに、「ここのは大丈夫、お薦めですから」と話している。
 予約席は奥の方の六人掛けのテーブル三つになっている。椅子は木製の長椅子でちょっと狭い。早いもの順につめて行くから、一番奥には講釈師、岳人、私、隊長、宗匠が陣取った。「男ばっかり」と揶揄するダンディ、碁聖、ドクトル、ミツグが真ん中のテーブルであっちゃんと橋本さんが一緒だ。一番向こうのテーブルには、逆に女性ばっかり集まった。隊長は席についても、いつまでもリュックを背負ったままで、みんなに指摘されるまで気がつかない。「山にいる積りなんじゃないの」
 六人しかいないなのに七枚あると食券を回収にきた男が不思議がったのが、真ん中のテーブルだった。ミツグが大胆にも生姜焼きと広東麺の両方を注文していたのだ。年齢と言うものを考えなければいけない。
一番最初に出てきたのは隊長のロースカツで、それに岳人、講釈師、私の生姜焼きが続く。私たちの生姜焼きを見て「それいくら?」と聞く隊長のロースカツは九百円。生姜焼きはサービスランチだから少し安い。「そうか、それ見なかったよ。でもカツは好きだから良いよ」と隊長がちょっと悔しがる。同じサービスランチでも広東麺が遅い。やっと広東麺の丼が見えたと思うと、隣の席から配られるから、最初に注文した筈の宗匠が少し苛々してくる。穏やかな紳士でも腹が減ってくると、やはり心穏やかではない。結局一番遅くなってしまったのは実に気の毒な始末であった。
 ご飯はぼそぼそで余り旨いとは言いかねるが、箸袋の裏を見ると、このレストランは衆参両院の議員食堂、国立国会図書館の喫茶室、江戸東京博物館などかなりの数の公共施設に入っていることが分る。「癒着しているか」「天下りがいるんじゃないか」
 店内は禁煙だから、入り口外の喫煙所(と言っても灰皿が一台置かれているだけだ)でタバコを吸う。橋本さんもやって来た。「食事の後はどうしてもね」喫煙者は次第に非国民、人非人のように扱われ、やがて駆除されていく。

 全員が集まり、出発だ。空を白い鳥の集団が乱れ飛んでいる。野球をしているグラウンドの脇を通って猿江恩賜公園の門に辿り着いたのだが、この門を潜れば公園の外に出てしまう。つまり私たちは裏から入ってきてしまったわけだ。「この会は裏口ばっかりなんだよ」講釈師の口からは何度も聞かされた悪口がでる。
 「猿江材木蔵跡」の石柱を見ると、さっきの釜屋跡と同じように、左から順番に三面に説明が記されている。これはどうやら江東区得意の方式なのだろう。幕府の材木貯蔵地だったが、明治維新後皇室御用地となり、昭和天皇成婚記念として下賜された。
 池に向かう途中の樹木の間の叢にツグミを見つけた誰かから声が上がる。ここ二三ヶ月の間に何度も教えられたから、私もやっと憶えた。二三歩、ツツと歩いて立ち止まり、「気をつけ」の姿勢を取る。心正しき鳥だ。「心正しいね」ミツグがバカにしたように笑う。「そうじゃないのよ。鳥にとっては世界中に敵が満ち々々ているの。だから警戒して周囲を見回してるの」リーダーは鳥の権威だった。
 池の対岸には、暇そうな男たちが三脚にカメラを据えつけたまま立っている。「カワセミがいるんでしょうか」とダンディが呟くと、「こんなところにカメラを設置してるんだ、カワセミしか考えられないよ。常識じゃないか」と講釈師が断定する。「こんなところにカワセミ?」私と宗匠は顔を見合わせる。
 ところが本当にカワセミが飛んできたのだ。近眼の私には青い背しか見えないが、池の中に立っている枝に止まった。時折、ホバリングしてはいきなり水面に向かって何かを咥えてまた枝に戻る。「ホバリングするのもカワセミの特長です」女性たちは「実物をこんなに近くで見るなんて」とやたらに感激しているが、私は以前、柳瀬川で見たことがある。あの時はもっと近くで見たので、濃い水色の背と首から羽の内側にかけて鮮やかなオレンジ色になっているのが良く見えた。カワセミは漢字で書けば翡翠になる。ヒスイのように美しいと誰もが認める鳥だ。碁聖は望遠レンズを持ってこなかったと悔しがりながら、それでもちゃんとカメラに収めた。
 池を離れて少し先に行けば、水を貯めた甕の横に斜めに竹筒を置いてあるところに到着する。すぐに水琴窟だと分ったのは、宗匠の案内で大久保を歩いたとき(第六回)、稲荷鬼王神社で見たことがあるからだ。音を響かせる甕は土中に埋められている。しかしドクトルは初めて見るらしい。耳を当てるべき竹筒の先端に水を注いでは、首を傾げる。何度か繰り返して「なんだ、ここに耳を当てろって書いてある」と気がついて、やっと音を聞く。

   白梅や水琴窟に耳預け  《快歩》

 もう一度さっきの門を出て、四ツ目通りを南に歩き小名木川に戻って来ると、小名木川橋のたもとに五百羅漢道標が立つ。隅田川を渡って四つ目の通りだから四ツ目という。「横四ツ目」の前の最初の一文字が擦れていて、「この字はなにかしらね」と橋口さんと坪田さんと一緒に悩んでいたのだが、なんだ、リーダーが事前に調べてくれていた。

是より五百らかん江右川(通り)
八町ほと先へ参り(申し候)
此横四ツ目橋通り亀戸天神(道)

 五百羅漢寺は本所五ツ目(現在の西大島駅の北側)にあった。綱吉や吉宗の庇護が篤く、「本所の羅漢」として庶民の信仰を集めた。それが度々の洪水や安政の大地震で被害を受け、明治維新とともに没落し移転を重ねた挙句、目黒に落ち着いた。現在、目黒不動のそばにあるのがそれだ。当初は五百三十六体あったものが、現在では三百五体になったという。
 五本松跡。と言っても今ここにある松は三本か。宗匠が通りの向こうを指差して、「あっちも足せば五本だ」と笑う。「江戸名所図会」、広重の錦絵にも描かれた名所だったようだが、明治四十二年に枯れた。芭蕉『続猿蓑』に次の句があるそうだ。

  深川の五本松といふ所に船をさして
   川上とこの川下や月の夜  芭蕉

 もう一度来た道を戻って新大橋通りを西に左折すると猿江神社に着く。永承六年(一〇五一)に始まる前九年の役で活躍した猿藤太と言う武将がいた。と書かれているが、この苗字からは武将というよりも頼義、義家の郎党、家の子のような身分ではなかろうか。その猿氏の遺体がこの地の入江に漂着した。奥州から流れてきたというのは考えにくい。それならこの辺りまでが戦場だったか。
 前九年、後三年の役で、奥州は京都政権に征服されたことになっているが、実態はそうではない。少なくとも奥州藤原氏の頃まで、奥羽は京都政権に対して独立国の位置を保っていたはずで、この日本列島は有史以来、一つの国だったのではない。
 猿藤太と「猿」と入り江の「江」を組み合わせたのが猿江神社の由来だと説明される。こういうのは余り信じないほうが良いかもしれない。信じて良いのは十世紀頃、この辺りは入り江だったことだ。
 神社の由緒を見ると、康平年中(一〇五八〜六四)には稲荷社として近在の信仰を集めていた。前九年の役がいったん終わりになる頃だ。関東大震災後の昭和六年、宮内庁の技術者によって当時としては珍しい「優美な」コンクリート社殿が建てられた。国内最古のコンクリート社殿を誇っているのがおかしいが、このため、東京大空襲の被害を免れた。
 馬頭観音社が併設されているのは珍しいのではないだろうか。「道路の脇によく見るよ」と坪田さんが呟くように、馬頭観音は本来、街道筋や境界領域の道端に置かれたもので、こうして祠に祀られるのは趣旨が違うのではないだろうか。馬頭観音の「音」のところに左向きの小さな馬が浮き彫りになっていて、その石碑の左には寄り添うように半分ほどの大きさの石が並んでいる。説明板には、境内に埋もれていたものが昭和六十年に発見されて祀られたと書かれてある。道路拡幅、あるいは震災や空襲にあって捨てられたものが、いつかこの境内に迷い込んで埋もれていたのだろう。

 新扇橋のたもとには猿江船改番所跡の案内板が立つ。元禄から享保の頃に設置されていたもので、中川の船番所とはちょっと役割が違うようだ。取り締りよりも税の徴収や舟運行政の出先機関とでもいうような位置にいたらしい。
 猿江橋から今度は大横川沿いに歩くことになる。川にはユリカモメが泳いでいる。菊川橋たもとの小さな児童遊園で、後続を待ちながら少し休憩する。あっちゃんとミツグがシーソーに乗る。岳人は大きな体で小さな遊具に腰掛けるし、講釈師はスプリングで上下前後に揺れるイルカに乗って遊ぶ。

    ふらここや童心を呼ぶ講釈師 《快歩》

 そうか、「ふらここ」(鞦韆)は春の季語だ。しかし、そろそろ私も疲れていたのか、ブランコは気づかなかった。
 三ツ目通りの角には、長谷川平蔵、遠山金四郎住居跡の碑が建つ。このビルは丸山歯科医院のものだ。リーダーの調べでは、千二百三十八坪の屋敷地があった筈だから、何もこの歯科医院だけが関係するわけではない。この碑は「ヒストリカルモニュメント」と名付けられ、墨田区教育委員会と丸山歯科医院の共同で作られたと書かれている。美女は鬼平のファンだから、長谷川平蔵には思い入れが深い。赤坂を歩いてその生家跡も見たことがある。「本所の平蔵様」と呼ばれたように庶民には人気があったが、松平定信に嫌われた。
 田中優子編『江戸の懐古』は、大正六年「報知新聞」に連載された記事をまとめたものだが、「無宿島の由来」「本所の平蔵様」の記事で長谷川平蔵を顕彰している。

 もとこの人足寄場は、無宿の者に、家屋を与へ、無職の者に、職業を授くるの制度にして、実に火附盗賊改加役長谷川平蔵以宣(一七四五〜一七九五)の発案にかかる。
 平蔵は世に名高き稲葉小僧を召し取りたる人にして、賞罰正しく、慈心深く、頓知の裁判また多くして、世に今大岡殿と称せらる。(中略)
 これより市中に遊民なく、丐児なく、したがつて放火、盗難の類、また著しく減少するにいたる、長谷川平蔵の功、また偉なりと謂ふべし。(中略)
 平蔵は本所の花町に住し、本所の平蔵様とて、世に隠れなし。
 幕府平蔵の今大岡と称せらるるのみならず、その材幹の用ふべきを知りて、これを町奉行となさむとするの意なきにあらず。
 されどもその持高の少なく、その家格の卑しきをもつて、つひにその沙汰なかりしと云ふ、惜しむべき哉。(「無宿島の由来」)

 「柳家紫文って知ってるか」とミツグが聞いてくる。名前はうろ覚えでも、「三味線漫談で」と言われて思い出した。この江戸歩きの記念すべき第一回は、深川を歩いた後に上野「鈴本」で寄席を見るコースだったのだが、そのとき聞いた漫談が平蔵をダシにしていたのだった。折角思い出したから、ちょっと再掲してみようか。

 火付け盗賊改役長谷川平蔵がいつものように両国橋のたもとにさしかかると、こちらからは今日の商いを無事に終えたか納豆屋が、向こうからは水商売風の女。すれ違うと見ていると男が前のめりに倒れかかる。もし納豆屋さん、だいじょうかえ。へえ、なっとーもねえ。
 「火付け盗賊改役長谷川平蔵がいつものように」と繰り返しながら、これが瀬戸物屋になると、茶碗が「万事急須」。蕎麦屋は女の顔を見て「もしやお前はおつゆ?」。葬儀屋は「もしやお前はおつや」。飛脚屋に対して「お前さん、佐川さんにも黒猫さんにもみえないが」「あっかぼうよ」(赤帽よ、あったぼうよ)。(『第一回・深川編』)

 榎稲荷に着く。榎といえば「縁切りだよ」と講釈師が「この仲間と縁が切れますように」とわざとらしくお参りするのがおかしい。たまたま板橋宿に縁切り榎があったことからの連想だが、榎自体になんの罪もないし、この神社も縁切りとは関係ない。このひとは、いつも「縁切り」「除名」を口にしているが、私たちの縁は一向に切れない。
 隣の竪川地蔵は大空襲の死者を弔うものだ。昭和二十年三月十日の大空襲で、深川、本所一帯は壊滅的な被害を受けた。

 大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に十万人と言います。
 攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数百万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数十四万人、当、菊川公園に埋めた人四五一五人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり同氏の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
  昭和五十九年三月十日 立川四丁目町会

 後段、三百五十字で一つの文になっている。趣旨は理解するが、この長ったらしい文章はもう少し何とかならないか。第二次世界大戦はそれまでの近代戦争の常識を覆して、全く新しい様相を生み出した。私が言うのは、この東京大空襲と原子爆弾投下のことだ。国際法上の戦争のルールからも明白に逸脱して、非戦闘員に対する無差別大量殺戮という、全く新しい形のテロを生み出した。アメリカと言う国家による戦争犯罪、アメリカによるテロリズムとして、いくら弾劾してもしきれるものではない。そのアメリカ国民がこのことを認識して歴史に謝罪をしない限り、イラクや北朝鮮に対してブッシュがどんなに「テロ国家」なんて非難したとしても、まるで信用できないということだ。

   空襲を伝ふ地蔵や梅の花   眞人

 私の下手な句(もどき)よりは、石田波郷を引用したほうが良いだろう。

   百方の焼けて年逝く小名木川  石田波郷

 通りの向こうの稲荷には津軽稲荷の文字が見える。この辺は稲荷が多い。今日は最初からずっと新旧の地図を対照しながら歩いていた岳人が、「津軽越中守の下屋敷があったんですね」と確認してくれる。リーダーが配ってくれた地図には、船番所の近く、白河四丁目のあたりに「元加賀」とある。「加賀藩に所縁もあったんですか。地図では確認できませんね」聞かれた私も分らない。どうやら江戸の初期に加賀藩下屋敷があった場所らしい。後にこれを返上して板橋に広大な敷地をもらったから、リーダーの配ってくれた地図(文久三年発行、安政二年改正)には載っていないのだ。
 首都高速に沿って東西に流れるのが竪川だ。竪川に因む筈の地名が、住所表示では「立川」になっている。戦後「竪」の文字が当用漢字に採用されなかったために「立」に変更されたものだという。実に役所仕事の無神経さを象徴する。竪川に架かるのは三之橋。これを渡って京葉道路に出る。
 京葉道路を東に少し行くと、江東橋で大横川が途切れる。北側は大横川親水公園になっていて、その先は暗渠になっているようだ。岳人が、近くに宮城野部屋があるはずだと指摘する。立浪一門、吉葉山(八代宮城野)の創設にかかり、私の子供の頃には「起重機」明武谷が有名だった。その後は陸奥嵐のほか有力な力士はなかなか育たなかったが、十代宮城野(竹葉山・現熊谷)が白鵬を見出して盛り返した。ただ、九代宮城野(廣川)の未亡人と養子縁組をしてその娘と結婚し十一代目を継承したのが、北の湖部屋(出羽一門)の金親だったから、ややこしいスキャンダルが起こった。

 総武線を越えて、講釈師に「この道、知ってるだろう」と言われてもなかなか気がつかない。「両国を歩いたとき(第二回)、あの道だよ」。つまり、これを西のほうに歩けば北斎生誕の地に続く北斎通りになるのだ。もう錦糸町の町に入っているのだが、私は誤解していた。錦糸町は大都会ではないか。安キャバレー、売れない歌手、「場末の盛り場」と言うのが、私の錦糸町に対するイメージであって、錦糸町界隈に住む人には大変申し訳ないことであった。
 「南口に伊藤左千夫の碑があるんだけど」と宗匠が遠慮勝ちにリーダーに申し出る。「向こうは人混みがすごくて。十七人だと迷子になってしまうから」とリーダーはちゃんと考えて歩いている。念のために中川船番所資料館でもらった地図「江東区観光イラストマップ」を確認してみると、左千夫住居跡は、丸八通りの大島駅のちょっと北の方に書かれている。
 左千夫が牧場を開いたのは、本所茅場町(現在の住居表示では墨田区江東橋)で、錦糸町駅の南口バスターミナルの辺りになる。そうか、この地図は江東区の観光案内だから、墨田区の名所はわざと外してあるのだろう。

 牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる  左千夫

 左千夫は三歳年下の正岡子規に師事して、終生その敬愛が変わらなかった。こういう歌はどうなのだろう。正直言って私には良く分らない。『野菊の墓』の可憐なイメージとは随分違う、容貌魁偉な巨漢であった。
 錦糸公園で二十分ほど休憩する。桜が咲いている。梅も咲いている。錦糸公園は、震災後の帝都復興計画によって、災害時の避難場所を兼ねた三大公園のひとつとして、陸軍糧秣厰跡地に造成されたものだ。あとの二つは、隅田公園、浜町公園になる。「糧秣っていうのは馬の餌だよ」という講釈師に「馬の餌かい」とドクトルの追求は厳しい。正確には、馬の飼料だけではなく、兵員の食糧についても糧秣というが、「秣」の字にひかれるとどうしてもマグサ、馬の餌としか思えない。東京大空襲の後、この公園に一万三千の遺体が仮埋葬された。後に東京都慰霊堂に納骨するための掘り起こす作業に三年を費やしたという。ついでに言えば東京都慰霊堂のある横網公園は、陸軍被服廠跡地で、関東大震災ではそこに避難した被災民三万八千人が死んだ。深川、本所には、関東大震災と東京大空襲の記憶が至る所に染み付いている。
 ここでも女性陣から様々なお菓子が提供される。だから彼女たちは大きなリュックを背負っているのだ。芝生には薄紫の五弁の花が目立つ。これはなんだろう。「ツルニチニチソウでしょう」順子は詳しい。

 天神橋で横十間川を渡る。船橋屋の暖簾と看板の文字を見て、ダンディが「名前が出てこないんですよ」と悩みながらやっと思い出したのは、「吉川英治です」という言葉だ。良く見ると、暖簾の右端には「英治書」とある。「吉川英治は甘党だったんでしょうか」おそらくそうなのだろう。「くず餅の字しか気がつかなかった」と言ったのは誰だったろう。
 船橋屋は文化二年(一八〇五)に創業した。芥川龍之介、永井荷風などもこの店が贔屓だったようだ。船橋屋のホームページをみれば、こんなことが書かれている。

くず餅は上質の小麦でんぷんを地下天然水で一年間発酵精製したうえ丁寧に蒸し上げたものでその製法は二百年昔より変わる事なく受け継がれております。そして秘伝の黒糖蜜と香ばしいきな粉を加える事によって生まれる三位一体の味わいは亀戸天神のみならず東京の名物として親しまれて参りました。
http://homepage3.nifty.com/tenjindori/map/1s005.html

 くず餅と言うから私は葛の粉が原料かと思っていたが、江戸時代から小麦の澱粉を使っていたのだ。リーダーの計画ではここで休憩する筈で、その間「甘いものが苦手の佐藤さんと橋本さんは天神様でデートしていてください」とダンディに言われる。しかし残念ながら、あるいは幸いなことに、春めいたこの土曜日のこの時間、店は満員でくず餅を買うだけでも相当な時間がかかるらしい。しかたがないので、そのまま亀戸天神に向かう。

   くず餅を食ひそこねたる梅見かな  眞人

 『武江年表』から亀戸天神の記事を拾ってみる。

○亀戸天満宮鎮座(寛文にいたり今のところへ移し奉り、社頭造営す。これ大鳥居氏信祐の功なり)(寛永三年・一六二六)
○大鳥居氏信祐、大宰府神願に夢中発句を得、東都に下り亀戸村に宮居再興す(正保三年・一六四六)
○亀戸天満宮、今の地へ営建。楼門・心字の池・反橋等成(寛文三年・一六六三)
○九月、亀戸天満宮神事の法式、白川吉田に便らず、大宰府の例に準ずべき旨、勅許を蒙る。(元禄十年・一六九七)

 神社の由緒によれば、この大鳥居信祐は大宰府天満宮の神職で、道真の末裔と称して、菅原大鳥居を名乗っているが、こんなことは信じなくても良い。西の大宰府に対して東宰府天満宮とも呼ばれた。寛永の頃におそらく地元の人間が小さな祠を建てたところに、正保になって信祐が天満宮を分祀したということになる。
 鳥居を潜れば、境内では船橋屋の出店が箱入りの葛餅を売っている。講釈師はここで買ったのか、後で「亀戸天神に来て、くず餅買わない奴は駄目だ」と断言する。神田明神へ行けば甘酒がつき物で、講釈師はこういうことに厳密だ。いつも必ず奥方への土産を持って帰る宗匠は、さっきの本店のほうでちゃんと買っていたらしい。「だってね、食べきれないよ。家族が五六人いなくちゃね」というのは坪田さんだ。
 本殿に向かって右手は紅梅、左は白梅。「フィルムがなくなっちゃった。撮っておいてよ」と講釈師に催促されるので、本殿正面の絵、太鼓橋から見る梅の写真を撮る。鷽変え神事を説明する碑の前で講釈師が清水さん、橋本さんに講釈している。亀戸天神の公式サイトから引用すると、大体こんな話だ。

「うそ」は幸運を招く鳥とされ、毎年新しいうそ鳥に替えるとこれまでの悪い事が「うそ」になり一年の吉兆を招き開運・出世・幸運を得ることができると信仰されてきました。
江戸時代には、多くの人が集まりうそ鳥を交換する習わしがありましたが、現在は神社にお納めし新しいうそ鳥と取替えるようになり、一月二十・二十五日両日は多くのうそ替えの参拝者で賑わいます。
うそ鳥は、日本海沿岸に生息するスズメ科の鳥で、太宰府天満宮のお祭りの時、害虫を駆除したことで天神様とご縁があります。又、鷽(うそ)の字が學の字に似ていることから、学問の神様である天神様とのつながりが深いと考えられています。

 鷽が學に似ている?「それじゃ嘘つきの写真を撮りましょう」講釈師が気をつけの姿勢を取る。

    天神社鷽と似合いのポーズ取り  《快歩》

 合格祈願の絵馬が多いのに、受験生の姿はそれほど多くないようだ。一昨年三月に行った湯島天神では、梅祭りにお礼参りの親子連れが重なって混雑していたのだが、ここはそれほどではない。湯島と亀戸との地理的な、交通の利便性の違いによるのだろうか。
 絵馬には当然のことながら合格祈願の文字が多いが、中に何も書かれていないものもある。薄れてしまったのか、それとも最初から書かずに懸けた物かが分らない。講釈師は千住宿の手描き絵馬屋「吉田家」の話をするが、橋本さんは全く記憶がないようで、「ぼーっと歩いているからだよ。ちゃんと良く見て憶えておかなくちゃ駄目だ」と講釈師に叱られる。
 広重『名所江戸百景』には藤の花を前景に太鼓橋を見る構図の絵がある。五歳菅公像なんてものがあって、「どうして顔が分ったのかな」と科学者ドクトルは悩む。ここにも撫で牛がいる。無学な私は知らなかったが、道真の生誕が乙丑の日なので、天神様と牛はつき物なのだそうだ。この神社はもうちょっと時間をかけてみて見ていたいところだが、そろそろ出発の時間だ。

 亀命山光明寺は門前の「二世歌川豊国の墓」の石柱を見るだけで通り過ぎる。「下見のとき、お墓の場所が良く分らなかったから」ウィキペディアに初代豊国についての記述はあって、「理想の美しさを表現した役者絵や美人画で絶大な人気を得た」とか書かれているが、二世については、そっけない。「二代豊国は豊国門下の歌川豊重が豊国の養子となり、死去に伴って二代豊国を襲名した」とあるだけだ。どうも余り有名な人ではなさそうだから、見なくても良いか。あるいは、初代の弟子国貞が、二代(実は三代目)豊国を名乗ったとも言うから、こちらのほうだろうか。

国貞は豊国の名をつぎてその晩年「古今役者似顔大全」百余枚を描きぬ。(中略)
その色彩とその画風とは甚だ近世的にして古風の趣少なく懐古の料となすに足らず。国貞が最上の錦絵は文化文政の頃のものたる事(略)(永井荷風『江戸芸術論』)

 慈雲山龍眼寺(天台宗)は萩寺として有名だ。山門の左の柱から半間ほどの巾で屏風のように折れ曲がる石塀に、左には榎本其角の句、右には大納言家長の和歌を彫っているが、磨耗しているからよく読めない。

 つき見とも見えず露あり庭の萩  其角
 ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は  大納言家長


 この家長というのが分らない。芭蕉に気づかなかったのは迂闊だったが、宗匠はちゃんと確認していた。やはり心掛けが違う。

    濡れてゆく人もおかしや雨の萩  芭蕉

 布袋の鎮座する堂。ちょっとだけ開いている戸を、碁聖がもう少し開けられないかと引いてみるが無理のようだ。金ぴかの不動明王を見て、清水さんが「なんだか新興宗教みたい」と呟く。布袋も不動明王も見たところ新しいから、余り有り難味が感じられないのは確かなことだ。私は神も仏も信心することはないが、それでも新し過ぎるよりは、ちょっと時代がかっているほうが嬉しい。
 境内の樹木は手入れが行き届いていて、木には名札がついているから有り難い。白梅だとばかり思った木には「アンズ」の札がかかる。「どっちもバラ科だから」と隊長は素っ気無い。梅よりは香りがきついような気もする。私には判別つかないから、隊長の言葉を引いておく。「果実の時期や葉っぱのあるときを除くと、ガクを見るといいようです。アンズのガクは反り返っていますが、ウメは反り返っていません」
 花も咲いていない、膝のあたりしかない低木にぶら下げられている札を見て「ノボタンだって。マンガみたいだよね」と坪田さんが笑う。文字だけでは分りにくい。こんな例しか思いつかないのだが、石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』というのがある。あっちゃんは映画の鰐淵晴子を思い出すだろうが、それはちょっと擱いて置く。つまり「ノンちゃん」と同じイントネーションで「ノボタン」と発音してみると、植物とは到底思えない。まさにマンガの主人公の名前のようだ。「コボちゃん」、「ロボタン」なんて何かにありそうな気がしてくる。しかし「野原の牡丹と言う意味かしら」と私が思いつくと、坪田さんの笑いが大きくなる。「そうか、そうだよね、おかしいね」夏から秋にかけて咲くらしい。ノボタン科の常緑低木で、花言葉は「平静」である。
 淡い、朦朧としたような紅色の花が文字通り鈴生りについているのは馬酔木だ。初めて教えてもらって私の知識も少しずつ増えてくる。

 柳島橋で青鷺をみた。青というよりは濃い灰色で、カラスよりは少し大きいだろうか。護岸のコンクリートが棚のようになっているところに、首を胸に抱え込むようにしているから、長い首が見えない。私はサギなんていう鳥は田園にしか生息しないのかと思っていたが、こんな街中にも出没しているということは、この川には魚がいる。青みがかった灰色の姿でじっと動かない。

    蒼鷺の蹲りたる町の川  眞人

 青鷺は夏の季語になるが、どうしても初めて見た青鷺を詠んでみたい。
 その角には北辰妙見大菩薩の石柱がある。北辰は北極星。葛飾北斎が北辰を信仰したのは有名で、ここにも来ていたかも知れない。ただ、これは法性寺のはずなのだが、寺には全く気づかなかった。法性寺は明応元年(一四九二)の開基というから由緒は古い。しかし押上、業平、立花、文化地域の広域避難場所計画の策定にあって、堅牢な建物の必要性が要求された。当時、住職が町内会長だったため、寺の敷地をマンションにし、その一階と二階部分を寺とすることを決意したということだ。
 妙見菩薩と並んで「むかしばなし柳塚」がある。これは「柳派」睦会の記念碑だ。落語会の分裂抗争の時代があって、柳家系統の睦会というのが、大正時代に建てたものらしい。
 ここで北十間川から横十間川が分流していた。今度は北十間川に平行して、浅草通りを西に向かう浅草通りに出る。酒屋のショーウィンドウには、一万二千円の日本酒と三万円もする焼酎が飾られている。こんな酒を誰が飲むのか。私は爪に火をともして生きていくのだ。

 最初は石屋の見本かなと思ってしまった。ビルの前に墓石が置かれている。しかし実はこれは見本ではなく、「四谷怪談」で有名な「大南北」四世鶴屋南北の本当の墓で、隣には、四谷怪談に縁のある歌舞伎役者の名前を彫り込んだ石碑が並んでいる。中村時蔵「これは錦ちゃんのお父さん」、幸四郎「これは先代」。中村富十郎、中村吉衛門。こういうことはダンディと講釈師がとても詳しい。つまりこのビルは春慶寺の本堂なのだ。玄関脇には、江守徹の筆になる「岸井左馬之助寄宿之寺」の石碑が立つ。みんなは知っているらしいが私は知らない。「鬼平」の親友だそうだ。そもそも実在した人物なのかどうかも分らない。
 本尊は普賢菩薩で、「押上の普賢様」と信仰された。春慶寺縁起によると、現在安置されている普賢大菩薩は、百済の聖明王が霊夢によって自ら模像したものを、推古天皇の十年(六〇二年頃)に、百済の観勒法師が守護して日本にもたらしたとされる。本当なら、文化財に指定されて然るべきだと思うが、それらしい気配はない。
通りの向こうに渡ればビルの全貌が見える。六階建てのビルだった。「そこなら全景が撮れますか」と碁聖が確認して撮影する。
 四百年の歴史をもち、江戸の頃には境内三千坪ほどを誇った有力な寺院が、何故こんなビルになってしまったか。まず戦前、浅草通りを貫通する時に境内の大半が買い上げられて三百坪ほどに縮小した。昭和二十年三月十日の大空襲で堂宇が消失、南北の墓石も火を被って破損した。ここまでは仕方がないか。有能な住職や檀家があれば、三百坪でも充分再建できたと思われる。しかし住職がアル中になって病院で死亡するに至って、境内は売られてしまった。再興のため、いまの住職が柳島妙見堂から派遣されて小堂を建立し、さらに保険会社のものだったビルを購入して本堂を移した。パソコン上からネットで供養ができるという「納骨堂お参りシステム」をもつ。なんだかね。

 押上駅のエスカレーターに見向きもせず、ひとり階段を上る順子に「若いって言いたいのよね」と女性陣から声がかかる。碁聖はここで別れ、残りのひとは地下鉄で浅草に出る。丁度目の前が神谷バーだ。みんなでお茶を飲もうとリーダーが店内を探ってみるが、土曜日のこの時間では無理だろう。これだけの集団で行動を続けるのは無理と分って、お茶組と酒組とに分かれることになり、ここで解散する。
 既に五時を回った頃で、先月「隅田川七福神巡り」の後に寄った「つぼ八」に入る。リーダー、ダンディ、隊長、ドクトル、宗匠、岳人、ミツグ、私の八人だ。ビールが旨い。焼酎も旨い。浅草の夜はいつものように楽しく更けていく。