「東京・歩く・見る・食べる会」
第十七回 豪徳寺・太子堂・駒場編 平成二十年五月十日(土)
旧暦卯月六日。雨。こんなに雨の多い四月五月は久し振りだ。 小田急線豪徳寺駅には十二人が集まった。コースを共同で企画した岳人とダンディ。講釈師、碁聖、宗匠、チイさん、あっちゃん、のんちゃん、私。それに初登場のロダンと野沢森生。隊長は新宿駅での乗り換えに手間取り、二十分ほど遅れた。「都会は駄目なんだよ、山ばっかり歩いていて、電車になんか乗らないんだから」相変わらず口の悪い人がいるが、みんながそれに同調するから、都会に弱いという隊長の評価は定まる。 里山ワンダリングの会常連のロダンが、「新人です、よろしく」とわざとらしく挨拶する。最初はわざとそっぽを向いていた講釈師が、「新人なんだから、遠慮しなくちゃいけない、余計なことを喋るんじゃないよ」と説教口調で言うが実は嬉しいのだ。講釈師とロダンは一見天敵のようで、実はその掛け合いを楽しんでいるのが分る。ネイチャーウォークという別の会では、ロダンが先行していたのに、いつの間にか講釈師のほうが参加回数を誇っている。「私が紹介して、いろんな手続きを教えたんですよ」とロダンが愚痴をこぼすのもいつものことだ。 本当の新人は、上野の森で生まれたから森生と命名された男だ。中学高校の頃は、上野、谷中、根岸のあたりを縄張りに暴れ回っていた。「子供の頃はイヤだったですよ。野の沢、森で生まれたなんて、猿みたいじゃないですか」昭和二十五年生まれは島村チイさんと一緒だ。私は二十六年、宗匠は二十七年、ロダンは二十八年。二十七、二十八と数えていると、「それは、ただ数を数えているのよね」と美女二人が私を睨んでいる。 清水さんには折角「のんちゃん」の呼び方を進呈したのに、石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』は「わたし読んだことがないの」と言う。そこにロダンが『にあんちゃん』もありましたね、と絡んでくるから話がややこしい。『ノンちゃん』と『にあんちゃん』では世界が随分違う。ロダンの思考回路は少し難しい。 石井桃子の本が書かれたのは昭和二十一年、鰐淵晴子主演で映画になったのは昭和三十年だ。ロダンはまだ物心ついていない。私だってそうだ。肥前杵島炭鉱の大鶴に育った在日朝鮮人の少女、安本末子の日記『にあんちゃん』は昭和二十八年に刊行されたとたんベストセラーになり、昭和二十九年に映画化された。光文社のカッパブックス初期のベストセラーだ。ほとんど両極端に位置すると思われる二人の少女を、ロダンはどこでどう繋ぐのか。 それにしても雨が降ると全てが私のせいにされる。先週の下見に私が参加したのが雨の原因か。世界中のすべての雨の責任を背負って、私は耐えていかなければならないのだろうか。 幸いまだ傘を差すほどではない。豪徳寺商店街には、明日から始まる「たまにゃん祭り」の幕が下り、猫の絵が掲示されている店もある。
だから家並みは変わっても、道路自体は大正昭和そのままの形を保っているに違いない。地図を見ても、真っ直ぐな道というものがほとんどない。道が曲がりくねっているのは、田や畑を潰して住宅地を開発したとき、農道をそのまま残して家を建てていったようだ。 豪徳寺総門に到着する。 今日は通らなかったが、少し離れた山門の位置には石柱の門がたち、門の上には阿吽の狛犬が立っている。右の柱には「大谿山」、左の柱には「豪徳寺」の文字を刻む。ただし、「谿」の文字はサンズイでも良いようで、「大渓山」とも書かれる。(先週の下見のときに確認したものだ) 総門の屋根を見上げて岳人が「屋根に黄檗宗の影響があります」と説明を始める。彼は時々とんでもない教養を披露するので油断がならない。曹洞宗の寺なのだが、私は黄檗宗についてはとんと知識がない。ダンディが「隠元和尚ですよ」と教えてくれる。手っ取り早くウィキペディアのお世話になってしまおう。これだけの記事で分った積りになってはいけないけれど。
戦国時代、このあたりは武蔵吉良氏の支配地だった。今も城址公園が隣接している。文明十二年(一四八〇)吉良頼高の娘で同政忠の伯母にあたる弘徳院のために世田谷城内に創建された小庵で、初め臨済宗に属し、弘徳院と称したと伝えられる。文明年間と言えば、ほぼ『南総里見八犬伝』の時代だ。 吉良氏は清和源氏の名門で、足利義氏の長男である長氏が三河国吉良荘を本拠としたため、吉良を名乗ることになった。三河吉良氏あるいは西条吉良と呼ばれる一族は戦国期まで三河を中心に勢力を築いていたが、家康の三河支配と共に力を失った。たまたま吉良義安の子義定が松平清康の妹を母としていた関係で徳川氏に取り立てられ、その子義弥の代に至り旧吉良荘内で三千石を領して高家の待遇を得た。御馴染みの上野介義央は義弥の孫に当る。 一方、義氏の四男義継に始まる流れは、南北朝期には奥州管領として多賀城に拠って勢力を振るったがやがて衰え、鎌倉公方に仕え世田谷に土着した。三河吉良に対して武蔵吉良と呼ばれる。後、後北条に臣属して、小田原滅亡と共に衰える。世田谷城は、この武蔵吉良氏の居城であった。 さて話の本筋は豪徳寺なのだが、もともと臨済宗だったものの天正十二年(一五八四)曹洞宗に転じた。寛永十年(一六三三)に世田谷領を領した近江彦根藩主井伊直孝が大檀那となったことによって、この寺の繁栄が始まる。 万治二年(一六五九)直孝が没すると、その法号久昌院殿豪徳天英居士にちなみ豪徳寺と寺名を変えた。
他には豊島区自性院(太田道灌に由来)、豊島区西方寺(花魁薄雲太夫に由来)、海運寺(群馬県安中市)、法林寺(京都府京都市左京区)、住吉大社(大阪府大阪市住吉区)、難波八坂神社(大阪府大阪市浪速区)、金山寺(岡山県岡山市)、お松大権現(徳島県阿南市)などが、招き猫伝承を伝えているようだ。「もともとは熊野ですよ」とダンディの断言する説は、今のところ私には検証できていない。ダンディはあらゆる文化は全て上方に由来すると言いたいのではないだろうか。 ところで、右手を上げるのは銭を招き入れるというけれど、この豪徳寺の猫は人を招くことに本来の異議がある筈で、右手を上げているのは何故だろう。武士にとって左手は不浄である。豪徳寺は井伊家の菩提寺だから、不浄な左手を上げてはならないという話もあるが、なんとなく怪しい。武士の左手は不浄であるなんていう話は初めて聞く。 塋域に入ると、墓石の上に屋根をおいた形式の同じような大名墓が並ぶ一角の、一番奥まったところに井伊直弼の墓がある。表面の文字は薄れていて読めないから、東京都教育委員会の立て札を読んでみると「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と書かれている。「羽林中郎将」というのは近衛府のカミに相当する唐の官名で、三位から四位上に相当する官職らしい。 境内は手入れが行き届き、花も供えられている。いまでも恐らく井伊家の裔か、彦根藩所縁の人による供養が続けられているのではないだろうか。 安政の大獄は無茶苦茶であった。水戸斉昭に対する憎悪に発する一橋擁立派への徹底的な弾圧で、そのために尊攘派も開国派もひっくるめて、死ななくて良い有為な人材が多く殺された。 幕府内部でも、岩瀬忠震(永蟄居)、永井尚志(永蟄居)、川路聖謨(隠居慎み)など優秀な官僚が罷免された。
桜田門外で主君を殺された彦根藩士は、何故仇討ちをしなかったのかと岳人が悩んだ。こういうことは、水戸藩士の末である川崎ロダンが詳しい筈だ。そもそもロダン初参加の動機は、今回のコースが井伊直弼と松陰に所縁の場所を巡ることにあったのだ。水戸の直弼に対する怨念は深い。 私は付け焼刃で吉村昭『桜田門外の変』を読んでみたが、当然、水戸藩へ討ち入ろうという動きもあったし、実行犯探索にも井伊家の人間が相当な力を発揮している。ただし、公式には「病死」としなければいけなかった彦根藩では、仇討ちよりも家名存続を選ばなければならなかったのだろう。ロダンも同じ意見だ。 後に元治元年(一八六四)天狗党事件が起こったとき、彦根藩士は中仙道を封鎖して、筑波山から京都に向かった水戸藩士を迎撃しようとしたため、やむなく天狗党は美濃から飛騨を経て越前に入り、敦賀で降伏した。武田耕雲斎など水戸浪士三百五十二人はここで処刑される。彦根藩士にとってはこれが実質的な仇討ちに相当した。水戸と彦根が親善都市提携をして和解するのは実に一九七〇年のことで、これを仲介したのは、天狗党が処刑された土地である敦賀であった。 その後の彦根藩は、譜代大名としては意外なことに他藩に先駆けて明治政府側についているのだ。井伊直弼の失政を理由に、代々守っていた京都守護職をとりあげられ(このことが後に会津容保の悲劇になるのだが)、三十五万石から二十五万石に減知された。おそらく、事件後の幕府体制に葉相当不満があったのではないか。鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩兵とともに東寺や大津を守護したし、近藤勇を流山で捕らえたときは、東山道先鋒隊として大垣藩等とともに進軍していた。 私は誤解していたのだが、明治政府の高官のほとんどは安政の大獄で処刑された吉田松陰の門下であり、維新後の井伊家はかなり逼迫したのではないか、なんて思っていたのだ。ところが、直弼の嫡男である井伊直憲は有栖川宮家から夫人を迎えているから、譜代大名としてはなかなかのものではないだろうか。ただし爵位については損をしている。 大名家に対する叙爵は版籍奉還時点の石高によった。三十五万石の国持ち大名ならば侯爵に列せられる基準があったが、桜田門外の事件後の減知でその資格を失っていたため、井伊家は伯爵に叙された。 「ヘリコプターよ」美女二人が声を出す。緑のモミジの葉の先に、少し赤みがかった双葉のような花(または実)がついている。実が熟すとこれが剥落して、タケトンボのように飛ぶそうだ。宗匠はタケコプターと言う。カエデかモミジかと宗匠と悩んでも答えは出ない。「モミジなんていう木はない」「モミジは総称です」隊長も美女たちも同じことを言う。 境内を出て住宅地を歩く。城山小学校の向かいに「ほっとスクール」と書かれた学校のような建物を見つけて、「幼稚園にしちゃ、遊具がないよ」「老人の何かでしょうかね」と私たちは考える。知識がない連中が推測しても答えは出ない。心理的理由により不登校状態にある、世田谷区内在住の児童・生徒を対象にして、集団生活での対人関係の中で、適応力を養い、自立を促し、学校生活への復帰をめざすものだ。 (http://www.city.setagaya.tokyo.jp/030/d00005679.html) 途中にヤマボウシの咲いているのを見れば、「木の肌が剥がれやすいんだよ」と隊長がハナミズキとの違いを説明してくれる。私はハナミズキよりヤマボウシの白い花(実はガク)の方が好きだ。「でもハナマミズキも綺麗よ。白とピンクがあって」のんちゃんが言う。確かにそうだし、秋に赤い実をつけるハナミズキも綺麗だから、別に不満があるわけではない。そういえば、つい、一二週間前まではハナミズキが盛りと咲いていたのに、今日はもう見えなくなって、ヤマボウシに代わられている。 勝国寺(真言宗)。青龍山と号する。本尊は不動明王で、眼が金色なので「目金不動」と呼ばれている。私だけは賽銭を投げ込まずに覗いてみると、正面の奥に、背に火焔を背負った像らしきものが三体見える。ダンディがペンライトを岳人に渡してみるが、硝子越しでは眼の色まで判別できない。碁聖もカメラを構えるが反射して上手く撮れたかどうか。 烏山川緑道を横目で睨み、「ここは後で嫌になるほど通りますから」と岳人が説明して先に向かう。烏山在住の碁聖もこの川を知らない。「どこから流れているんですか」水源は世田谷区北西の烏山寺町の高源院の鴨池とされているようだ。その池の他にも、牟礼からの排水や玉川上水から分かれた烏山村分水がこの川につなげられている。ただし川は暗渠になって、その上を散策コースの緑道として整備してあるのだ。 国士舘大学が「こんなに綺麗になったのか」と驚くのはモリオだ。昔営業をしていた頃(今でも営業だけれど)によく通ったらしい。「祝日でもないのに、日の丸が掲揚されていますね」とダンディが笑う。柔道オリンピック出場決定者の垂れ幕が下る。柔道はこの頃では国士舘一色になってしまったのだろうか。私は最近の柔道事情には暗いが、山下のいた東海大学や天理大学はどうしたのだろう。 三十数年前、小田急線沿線では国士館の学生と朝鮮高校生との乱闘事件が頻繁に起こっていた。この大学も今では女子学生も増えて、そんなに無茶苦茶なことはできなくなっただろうが、当時、この大学の学生が数人で歩いているのに出くわすと、私たちはできるだけ眼を合わさないように、恐る々々通ったものだ。私がアルバイトをしていた代々木上原の喫茶店は国士舘大学の学生の溜まり場で、機動隊の制服のような服に編み上げの長靴を履き、バットケースに日本刀を隠し持っていた学生を私は知っている。 正門前に赤い花をつけている木を見上げて、美女二人が歓声を上げた。少し黄色がかった薄紅色の花が、ひとつの房に二三十ほどのにぎやかな塊になって上を向いて咲いている。その塊が大きな緑の葉の間から数十個も顔を出す。ベニバナトチノキである。私はトチノキというのは白い花をつけるものと思っていたが、こういう色のものもある。マロニエとアメリカ産のアカバナトチノキを交配させたものだ。 桂太郎の墓の前で「小五郎さんは知ってましたけど、太郎さんは知りませんでした」あっちゃんが告白する。同じ桂姓だが血縁関係はない。というよりも桂小五郎、木戸孝允のほうは、桂姓を藩主に与えられたのであって、本姓は和田だ。 太郎は元老、陸軍大将・正二位・大勲位・功三級・公爵。台湾協会学校(現拓殖大学)創立者初代校長でもある。毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、第十一・十三・十五代内閣総理大臣と経歴は華々しいが、ニコポン宰相と呼ばれた。「ニコポンって何?私初めて聞きますよ」あっちゃんは歴史は苦手だからね。宗匠が辞書を引くとちゃんと出てくる。 ニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったためだというが、要するに八方美人であろう。山県有朋の子分で、明治の元老としては第二世代にあたる。あっちゃんとダンディが、何故か伊藤博文の好色について議論している。「絶対に許せませんよ」「まあ、時代というものもあるから」 伊藤博文の場合はちょっと異常だろうが、桂太郎にもお鯉という有名な愛妾があった。「どう有名なんですか」ダンディに追求されると困ってしまうが、写真をみると、勝気らしく正面を厳しく見つめている眼が印象的で、細面の相当な美人だ。私は太郎より、こっちのほうに関心がある。こんな記事を見つけてみたので、少し加減しながら引用する。
安政六年十月二十七日(新暦一八五九年十一月二十一日、伝馬町の獄で斬首され、千住小塚原の回向院に葬られた。三十歳だった。去年の三月十日「千住編」を歩いたとき、私たちは回向院で松陰の墓を見た。 刑死した四年後の文久三年、高杉晋作などによって回向院からここに改葬され、明治十五年(一八八二)十一月二十一日、門人によって松陰を祀る神社が創建された。萩にある墓は、百ケ日法要にあたり生家の杉家によって遺髪を埋めて建立されたものらしい。 石燈籠が並んでいるのは、松陰没後五十周年に際して寄進されたものだ。伊藤博文、木戸孝允、山県有朋、桂太郎、乃木稀典、井上馨、青木周蔵などの名がある。と言っても燈籠に刻まれた文字は隷書体の一種で、とても読めるものではない。 玉垣に囲まれた慕域には、中央に松陰、左右には頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進等の墓石が並ぶ。井伊家の大名墓石を見た後では、実に質素に見える。墓石の頂は水平ではなく、ちょっと中央に盛り上がった推の形になっている。大塚の先儒墓所で見た室鳩巣の墓に似ている。とすれば儒者(あるいは国学者)に特有な形だろうか。 「吉田寅次郎」の名前を見て、寅年のチイさんが、「松陰も寅年なんだろうね」と溜息を吐く。松陰の生まれた天保元年(一八三〇)は確かに庚寅である。幼名は虎之助。杉家から吉田家へ養子に入り、通称吉田寅次郎と称した。
萩の松下村塾を実物大に復元した建物がある。「子供のそろばん塾みたいなものだね」広さ八畳の講義室は、なるほどそんな感じだ。ポーハタン号への乗り込みが失敗して野山獄に幽閉された後、安政二年、蟄居を命ぜられた松陰が、実家の杉家を増築して塾を開いた。もとは叔父の玉木文之進が開いていた家塾を継承したものだ。木造茅葺の家で、ほかに四畳半と、三畳の部屋二つがついている。安政五年に再び投獄されるまで、僅か三年しか続かなかった塾だが、門弟に与えた思想的な影響が大きい。 塾に見入って少し遅れたロダンに、講釈師が破門、絶縁を言い渡すのはいつものことだ。「松陰の号はどこからきたんだろうか」隊長の疑問には、松下村塾に由来するんじゃないかと好い加減に答えてしまったが、実情は違った。高山彦九郎の諡の「松陰以白居士」によるという。松陰は彦九郎に強い影響を受けたというのだ。それならば高山彦九郎とはなんであろうか。しかし林子平・蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称されたということ程度しか私には知識がない。延享四年(一七四七)上州新田郷に生まれ、寛政五年(一七九三)に死んだ。
そろそろ雨も本格的になってきて、傘を差さなければいけない。それでも緑道に入れば車も通らないから静かな散策が楽しめる。雨だから私たちのほかには人通りも少ない。世田谷線の若林踏み切りのところで環状七号線を横断して更に花を見ながら進んでいく。交差する道は橋だったので、橋の名前を記した石柱が立つ。稲荷橋跡、下堰橋跡、耕世橋跡、昭和橋跡、水車橋跡、西山橋跡。こうやって書いていても、到底全ては記録しきれない。 左手にある小学校は太子堂小学校で、橋本さんと阿部さんの母校である。住宅地の真ん中の狭い校舎だから、プールは屋上にある。太子堂小学校は一躍名所になった。 少し外れて住宅地の細い道を辿れば、正面にコンクリートの塀が見え、それが教学院の敷地になっている。左から回り込んで「正面からじゃないんですが」と岳人が講釈師に断って境内に入る。竹薗山最勝寺(天台宗)であるが、目青不動として知られている。 不動堂は開け放たれていて、正面に青黒いような不動が鎮座している。先週の下見のときには、この扉は締め切られていて、私たちの傍で、熱心に数分間もお祈りをしている男がいたのには驚いた。 「東都五色不動」を説明する看板もあるが、五色不動については、第十回「千住編」で、三ノ輪の永久寺「目黄不動」を訪ねたとき書いておいた。江戸時代に「五色不動」なんていうものはない。明治になって観光用に作られたもので、だから、密教の「五色」も天海僧正も、江戸城の防御も全く関係がない。そもそもこの寺は、閻魔と奪衣婆の像によって「青山の閻魔さま」と親しまれていた。そのうち、どこか廃寺になった寺にあった不動像が持ち込まれ、明治四十二年に青山からこの地に移転してきた頃、「目青不動」を名乗るようになったようだ。 都市伝説というものはある。しかし社会学にしろ民俗学にしろ、それを解明するには厳密な手続きがなければならない。 と言っておいて私は勝手に推測するのだが、日露戦争後の虚脱感に見舞われたこの国には、ある種の伝説が必要だったのではないか。国を挙げて対ロシア戦争を戦って、その結果が、実は「栄光ある日本」近代の終焉であったというのは、山崎正和の『不機嫌な時代』で取り扱われている時代精神であった。明治精神の終焉と言っても良い。そのあたりに、五色不動伝説の誕生にも関係する精神状況が存在したのかも知れない。しかし風水だとか、訳のわからないオカルティズムで説明するような話は一切信用しない。 山門と言っても小さな石柱があるだけで、そこを出て世田谷線に沿った実に狭い路地なを通り抜け、すぐに三軒茶屋の駅舎に入る。切符も買わずにホームを通り抜けることができる。 キャロットタワー最上階のレストランで昼食を取る予定になっていたのだが、十二人は入れない。窓から世田谷の町を展望すると、歩いていた豪徳寺、松陰神社などが、住宅地の間に鬱蒼と森を形作っているのが分る。南側の展望窓のほうは高校生の男女がを占拠していたが、私たちの集団が近づくと物臭そうに脇によけた。 仕方がないので分散して食事をすることに決め、地下のグルメ街に降りて集合場所を決めようとしたところで、信州蕎麦の「そじ坊」という店に、八人と四人に別れて席が取れた。私は鶏丼セットと言うものを注文した。鶏肉のソボロをご飯に掛け、温泉卵をひとつ載せてある。それに冷やしたぬき蕎麦のセットで九百五十円なり。盛り蕎麦系統を注文した人には、生山葵と下し金がついてきて、余った山葵は専用のビニール袋で持ち帰るようになっている。「本物だったら、とても無理だろう。中国産じゃないか」とモリオが疑い、蕎麦屋については知らぬことのない講釈師もそれに同調する。 「そう言えばさ、この会は食べることが目的のひとつだったよね」と講釈師が思い出す。その通り、池田会長の音頭で発足したとき「東京・歩く・見る・食べる会」と命名したのだった。第一回目は昼に深川飯を食べ、夜は御徒町のヘギ蕎麦で飲んだ。第二回は両国で講釈師お薦めの旨い蕎麦を食べ、夜はその蕎麦屋に紹介してもらってちゃんこ鍋をつついた。第三回は谷中の蕎麦と根岸の豆腐料理屋「笹乃雪」。ここまでは確かに食べることも大きな目的になっていたのだが、参加者が増えれば趣旨も変わってくる。まず昼食の場所を確保することが容易でない。 最初は植物なんか話題にもしない人間ばかりだったけれど、私も成長している(?)。江戸東京の歴史とともに、季節を感じる散策に変わってきたのが面白い。「江戸・東京季節を歩く会」という名称はどうだろう。 三軒茶屋の商店街からまた緑道に入って行く。次第に雨足が強くなってきた。ヤマボウシ、ムラサキツユクサ、ユキノシタ。ジャスミンの白い花の香りがきつい。私には苦手な臭いだ。「わたしもちょっと駄目」のんちゃんと趣味があった。
小さな池の手前で左に折れて住宅地に入る。ちょうどゴミ収集車が通っているところだ。狭い道だから車がすれ違うのも容易でない。先週の下見のとき、土曜日にゴミの収集があるということに岳人は驚いていた。私も今まで土曜日収集の地区に住んだことはないが、「浦和じゃ土曜日ですよ」とダンディが言うから、珍しいことではないらしい。 この辺の地名の「太子堂」について、「お菓子の何とかってあるじゃないですか。それと関係があるんですかね」とロダンが悩む。たしかに、「お菓子の太子堂」という会社があって、その本社は世田谷区太子堂二丁目にある。しかし、それが地名の由来になっているのでは勿論ない。すぐに、その由来となった円泉寺に到着する。 山門脇の大きな木(宗匠と相談してケヤキに決めた)のウロに庚申塔が祀られ、新しい花が供えられている。門を入ってすぐ右手にあるのが太子堂だ。聖徳太子信仰は既に七世紀から行われていたようで、その太子を祀る堂を太子堂と称する。各地にあって、たとえば兵庫県加古川の鶴林寺の太子堂は国宝に指定されている。 はるか昔から聖徳太子には伝説がつきまとっていて、史実と伝説の境界がなかなか難しい。そもそも「十七条憲法」自体にも疑いがもたれて、文体や官制から八世紀に作られたものではないかという説もあるくらいだ。あるいは聖徳太子自身、ただの摂政ではなく、当時の大君(まだ天皇称号は存在しなかった)に就いていたと言う説もある。民間における太子信仰は根強くて、親鸞が京都六角堂に篭ったとき、太子の夢告のよって法然の専修念仏門に入ったと言っているから、聖徳太子がいなければ浄土真宗は生まれなかった。 また、四天王寺や法隆寺の建設に聖徳太子が関わったという説があることから、太子の忌日といわれる二月二十二日を「太子講」と定め、大工や木工職人によっても信仰された。 階段を登ると、聖徳太子像の台座には「貴以和」の文字が記されている。禁煙を始めたばかりのチイさんが笑いながら指差す方には、私のための灰皿が設置されている。堂の外壁には奉納された額がいくつか掲げられていて、中に、角書き(で良いのかな)の「奉納」の文字が左から横に書かれている新しい額がある。これはおかしいと、ダンディ、岳人それぞれが口にする。いくら新しい額とはいえ、こういうものはきちんと書いてくれなければ困る。「横書き」と誤解しているのだと思われるが、一行一字縦書きと分ればこんな間違いはしない筈だ。 何を思いついたのか、あっちゃんが笑いながら階段を下りてきた。「三澤さんがいたら聖徳太子も困ったんじゃないかしら」流石の太子も、一人で十人分喋る講釈師を相手にしたら、理解するのは容易でない。本堂の左手には大きな公孫樹の木があって、「これは巨樹ですよね」と岳人が確認を求め、あっちゃんが承認した。単に大きな木と言うだけでは巨樹と言ってはいけないらしい。地上から百三十センチのところの幹周りが三メートル以上なければ駄目なのだ。 墓地を区切る塀の角には林芙美子旧宅跡の案内板が立てられている。狭い路地を入ると、二階建ての家に突き当る。行き止まりかと思えば、手前の家との間に更に狭い、人がやっとすれ違えるほどの路地が続いている。それを左に曲がった左側の二軒長屋に林芙美子が住んでいた。 家は立替えられているだろうが、路の狭さ、日の当らない薄暗い路地は当時と変わるはずがない。二軒長屋ではないけれど、それに近いアパートが建っている。年譜を見ると、大正十三年十二月に、野村吉哉と多摩川べりの借家で同棲をはじめ、翌年、渋谷の道玄坂に移り、四月に、この太子堂に移ってきた。隣には壺井繁治、栄夫妻が住み、近くには平林たい子、黒島伝治がいた。萩原恭次郎、岡本潤、高橋新吉、辻潤が遊びに来た。ダダイストとアナキスト。
『放浪記』を長谷川時雨の「女人芸術」に連載するのは、昭和三年。改造社から単行本として刊行され五十万部のベストセラーになるのが昭和四年だから、芙美子の貧しい生活はそれまで続くことになる。
もう一度緑道に戻って三宿神社の鳥居を左側に見る。並んで「毘沙門天」の石柱が立つっているのは神仏混淆の証人だろうか。毘沙門天は多聞天とも呼ばれ、多門寺があったのだ。緑道の橋跡に「多門寺橋跡」とちゃんと記されている。 湧水のように仕立ててあるのは、水を循環させているのだ。花を見れば植物班が立ち止まる。「花の名前を言っちゃ駄目だ。前に進まないよ」いつものように講釈師はぼやく。右後ろの住宅地の方を振り返れば、大きな煙突が見える。文字を確認すると常盤湯という。太子堂のあたりは世田谷区でも銭湯の密集地帯であるそうだ。 ミカン系統の(と私がわかるはずはない。宗匠が言い出し、美女と隊長が鑑定した)白い花が咲いている。北沢川緑道のほうに曲がると、左側には小流が流れている。不審な集団に驚いたのだろう、水の中の草の間から、オスを先頭にメスも続いて逃げ出した。嘴の先の黄色い部分が大きいのが雄で、小さいのが雌だと、以前のんちゃんに教えてもらったが、この判別方法では、二羽並んでいなければ区別がつかない。
淡島通りの駒場学園の横を通ると「駒場でもないのに」とダンディはその名称に不満だ。住所表示では世田谷区代沢で、目黒区駒場とは行政区分が異なっているのだ。ところが世田谷には「駒場」を名乗る高校がまだある。筑波大学附属駒場高校(池尻)、駒場東邦高校(池尻)。現在の行政区分とは別に、この辺一帯が駒場野と呼ばれても良いのだろう。 「あれは何だい」モリオが指差したのは大学入試センターだ。「入試のないころ、あそこの職員は何をしているのだろう」というのが岳人の素朴な疑問だ。組織をつくり、建物を作れば、必要かどうかは別にして名目上の仕事はいくらでも発生するだろう。それにしても大きな建物だ。今日のメンバーは共通一次試験もセンター入試も縁がないから、入試センターなんて何をしているのかまるで分らない。 駒場野公園は雨で少しぬかるんでいる。「緑の中に入るとほっとするわ」のんちゃんが言う。腐葉土を製造する場所には「落ち葉の工場」と書かれた札が立っている。柵の中は自然観察園になっていて、さまざまな植物名の札がたっているが、花が咲いていないと私にはまるで分らない。 鳥の巣箱の小さな丸い穴に、本当に鳥が入れるのだろうか。「入れるよ。四十雀なら大丈夫」始終カラだからと、講釈師が笑わせる。
実習用のケルネル田圃は、現在では筑波大学附属中学校、高等学校のせいとによって維持管理が行われているのだが、田圃はまだ雑草が生えたままで、まだ何もしていない、時期的に遅いのではないかと言い合っていると、奥のほうの一角で、土が黒くなっているから、そろそろ田を作る作業が始まっているようだ。 このケルネルが初めて化学肥料を導入した。それならば、私たちは前回小名木川周辺を歩いたとき、釜屋跡にあった化学肥料の碑を思い出す。日本で初の化学肥料製造工場だったから、あそこで作られた肥料がこの駒場で使われた。生態系保護協会元支部長の美女は複雑な表情をしているが、少なくとも米作りが東北から北海道まで広がり、江戸時代のような大規模な飢饉が発生しなくなるためには、必要なことだったに違いない。 前田侯爵邸は加賀百万石の第十六代当主、前田利為(一八八五〜一九四二)の本邸として建てられた。本郷の東大が加賀藩上屋敷地であったことは今更言うまでもない。ただし、十万三千八百坪強の地所のうち、明治四年に東京大学に譲ったのは九万一千坪で、残りの一万二千六百坪は、前田家の屋敷地として残っていたのだ。大正十五年、駒場の農学部と向丘の一高を交換した際、本郷の東大敷地が手狭になったため、残っていた一万二千坪と交換に、この駒場野が前田家に譲渡された。 「一万坪と言えば三万三千平米だから、三百かける三百だと広すぎて」岳人がタテヨコの比率を計算しようとする。「万の単位の坪なんて想像できませんよ」碁聖の感想は当然私の感想でもあるが、簡単に、一万坪は百間四方だから百八十メートル四方にあたると考えればよい。 玄関前にはヤマボウシの白い花が雨に濡れて光っている。
畳の部屋もあることはあるが、それは女中のためのものである。主人一家は全て洋風の生活をしていたのだ。三女、三男の部屋もあるから子沢山だった。 前田利為は太平洋戦争中、ボルネオ守備軍司令官として戦死した。戦後は連合軍に接収され、エニス・ホワイトヘッド第五空軍司令官の公邸として使われ、後、マッカーサー解任後の二代目GHQ総司令官であるマシュー・バンカー・リッジウェイの公邸として使用された。そのときに若干の変更は加えられただろうが(野蛮なアメリカ人は何でもペンキを塗りたてたからね)、ほとんどは元のままで残っている。 ついでだが、マッカーサーが更迭されたのは昭和二十六年四月十一日で、私はその前日「マッカーサーの日本」最後の日に生まれた。 近代文学館ではちょうど「声のライブラリー」という、作家による自作朗読の会の真っ最中で、今日の内容は丸谷才一『輝く日の宮』、リービ英雄『千々にくだけて』、日和聡子『虚仮の一念』だ。二階扉の前の受付の机にはサイン会用の単行本が並べてある。丸谷才一だけはちょっと聞いてみたい気もするが、後の二人には興味がない。それに『輝く日の宮』も文庫本になっているから、わざわざ単行本を買うまでもない。「丸谷先生って六十歳を過ぎたかな」とモリオはとんでもないことを言う。大正十四年生まれの今年八十三歳だ。 高見順の胸像があるのは、初代館長として、文学館設立に尽力した業績を顕彰するためだ。 二階に上れば、まず作家たちの自筆原稿や書簡類が展示されている。パソコン、ワープロが普及してしまった今、これからの作家にはもうこんなものも残せないだろう。大衆文芸の作家コーナーには、映画化された作品のポスターも貼られている。「兄弟で出てる」と講釈師が気づくのは、誰の作品だったろうか、次郎長シリーズだとおもうのだが、中村錦之介、賀津男兄弟が出演している。「総天然色」なんていう注意書きを見れば、碁聖の声のトーンが一際上る。映画青年だった碁聖の話題に太刀打ちできるのは、ダンディ、講釈師。それに何故かあっちゃんが加わる。 書簡の類はまず読めない。特に巻紙に筆で書かれたものなんか、もらった人が本当に読めたのだろうかと不思議に思ってしまう。木村荘八の手紙には、自作のマンガが描かれていて楽しい。 別室は川端康成記念室と銘打たれていて、今日は川端の新聞小説を特集している。ダンディは川端が好きで、ほとんどを読んでいるという。残念なことに私は川端は駄目だった。僅かに『伊豆の踊り子』『名人』を読んだ程度だから論評する資格はない。少年時代の私は私小説の悪影響を受けていて、川端の神経を針で突き刺すような繊細さには、人工的な頽廃を感じていた。 ただ、私の感覚は当てにならない。あの頃の私は文学に人生を求めていたから、川端などの「芸術派」に興味を持たなかっただけかもしれない。太宰治と小林秀雄が私の青年時代を丸ごと閉じ込めていた。ちょっと見ればまるで異質な二人だが、一切の論証を拒否して、分る人間だけが分ればよいという傲慢な態度は共通している。太宰は饒舌な弁解口調で、小林は上から押し付ける断定口調で言うだけの違いだ。 そんなことは私だけの感慨で、『浅草紅団』『東京の人』『女であること』など、映画の写真とともに掲示されていれば、その時代の感覚が浮かび上がる。原節子は美しい。久我美子は若い。「久我はコガと読むのです」とダンディが説明する。藤原氏に由来する華族の名前は難しい。 岳人の「青春」とこの近代文学館のために、私は思い出したくもない記憶を蘇らせてしまう。あの女が何故私に関心を抱いたのか、そして私がなぜ一緒にこの近代文学館に来ようなんて思ったのか、今の私には全く分らない。三十五六年も前のことで、その頃はこの文学館は独立の建物ではなく、さっきの侯爵邸の一階部分を借りて、細々とあまり量のない資料を展示していた筈だ。 静岡の高校を出た勝気なお嬢さんだった。私はまだ二十一歳だったが、お嬢様と付き合うには少し薄汚れていた。もう三年越しに悪縁の続く女とどう手を切ろうかと悩みながら、一方では別の女との恋に夢中になっていた。初めから私の心に彼女が占める余地はなかったのだが、少しで気のある振りをしたのは私が悪い。彼女から怒りに満ちた手紙が届くまで、それほどの時間は必要なかった。 一階には灰皿が用意されているから、私は先に降りて煙草を吸う。ナチスの優勢保護法ばりの「健康増進法」なんか、文学館には関係ないのだ。そこにあっちゃんが降りてきて、受付の前においてある絵葉書を選び出す。大量に抜き出したとき、受付カウンターに図録が置かれているのを見つけて、彼女は悩む。「だって、図録のほうは千五百円ですよ、どうしよう」結局絵葉書は元に戻して図録を買うことにしたようだ。 「俺も書くんだ」と講釈師は楽しそうに便箋を買う。この人は実に筆まめで、よく仲間に手紙を出している。 全員が揃ったところで文学館を出て、和館のほうを通る。今回は時間がないから、中には入らない。洋風の暮らしをした前田侯爵も、娘の雛祭りなどでは、やはり畳のある建物が必要だったのだろう。それに和風のほうが似つかわしい客もあったに違いない。 外に出ればこの辺りは豪邸ばかりだ。「坪いくらくらいでしょうか」と岳人が心配するが、私たちには縁がない。あっちゃんがチョコレートを配り、その後ろから、のんちゃんが煎餅を配るために最後尾から先頭まで走りぬける。嬉しい。「今日は役割分担したの」 東大には裏門から入る。知らなければこんな門から入れるなんて気づかないだろう。鬱蒼とした林の中の路を通る。テニスコートではこの雨の中、軟式テニス(と今は言わないか。ソフトテニス)の練習をしている。 『嗚呼玉杯』碑の前で、講釈師が歌う。「何年か前まで寮歌祭ってありましたよね」ロダンはこういうのが好きだ。あの番組がなくなったのは、要するに旧制高校の卒業者がもういなくなってしまったからだ。最後のほうでは、もう好い加減の年寄りが、学生服や羽織袴で自己陶酔して寮歌をがなりたてているのは、実に醜悪でもあった。 「佐藤さんはこういう歌は嫌いでしょう」とダンディが言うけれど、実はそうでもない。美女はこの歌を知らないというので、歌ってみせる。ただ、「治安の夢に耽りたる栄華の巷低く見て」なんていう歌詞には、ちょっとエリート臭が鼻につく。「三高(紅萌ゆる丘の花)も良いよね」隊長もこの手の歌が好きだ。「北大(都ぞ弥生の雲紫に)も素敵です」ダンディは北大探検部OBに敬意を表す。しかし本当のことを言えば、こういう歌はダンディの趣味ではない筈だ。 駒場農学碑を見てから、「イタリアン・トマト」というカフェに入ってコーヒー休憩を取る。この頃では、単なる学食だけでは学生は満足しない。特に女子学生が信じられないほど多くなった時代には、こうした洒落た店を構内にもたなければ、学生が集まってこない。大学の遊園地化が言われだしてもう二十年も経つだろうが、こうした傾向はますます増えるばかりだ。 美女二人はケーキをつける。あっちゃんの選んだのは随分大きなもので、「さっきのお蕎麦じゃ足りなかったのか」と散々冷やかされた。「だって全部食べられなかったんだもの」講釈師は「クリームソーダがなかったからさ」となんだか難しい名前の飲み物を選び、美女からケーキを一切れ分けてもらって嬉しそうだ。四時半過ぎまでゆっくりして、駅に向かう。 博物館を見て「大学ってこんなに簡単に入れるんですね。博物館を見たいから今度きてみます」「でも女子大は難しいわよ」美女たちが口にする。国立大学は国民の税金で運営しているから、国民が入り込むのは構わないのではないだろうか。ただ、御茶ノ水女子大学には「講釈師お断り」の掲示がしてあったような気がする。 「昔は駒場駅と東大前駅とは別でしたね」ダンディと碁聖は昔を知っている。駅間僅かに四百メートルしかなく、昭和四十年に駒場駅を廃して合併し、東大駒場前駅と改称した。だから私は知らない筈だ。元の駒場駅のホーム跡が、池の上駅に向かう踏み切りに痕跡として残っているそうだ。 井の頭線は土曜日のこんな時間だというのに意外に混んでいる。碁聖はここで別れる。渋谷駅で、埼京線に乗り換える講釈師とのんちゃんと別れ、私たちは居酒屋を探す。誰も渋谷は余り知らないが、駅からすぐのところに、大膳という居酒屋が見つかって、その店に入る。五時に一二分早く、まだ他には誰もいないから「いつも一番乗りだね」と宗匠が笑う。 「懐かしい昭和の味」なんていうフレーズで、コロッケや魚肉ソーセージ、鯨ベーコンなどがメニューに載っている。しかし魚肉ソーセージの五百円は高いのではあるまいか。私たちの子供のときの給食のメニューだ。この頃オールディズと称して昭和三十年代への趣味が若者に蔓延しているのは気になるところだ。 あの頃、高度経済成長にのって生活のレベルは確実に上っていった。氷で冷やす式の冷蔵庫から電気冷蔵庫に変わった。我が家にも洗濯機が入り、テレビが来た。食生活も向上していった。子供ごころにも、一年ごとに更に良くなるはずだという期待はあった。とすれば、「貧乏人は麦を食え」と豪語した池田隼人の「所得倍増政策」に始まる自民党の政策は正しかったのだろうか。 展望がないというのはやはり不幸な時代なのだ。しかし戻ることはもうできない。若い者が、自らは経験していない時代に憧れるのは決して健康的ではない。若い世代は自分たちで、新しい形の「革命」を構想しなければならない。 焼酎三本。美女はいつものように氷を除けた梅酒ロックを飲む。二時間ほどいる間、ほかに客が全く来なかったのは何故だろう。 隊長がカラオケに行きたいというのであっちゃん、チイさん、ロダン、私の五人が歌を歌いにいく。その言いだしっぺの隊長はすぐに寝てしまう。チイさんは実にゆったりと落ち着いた歌を歌う。ロダンは次々に曲をリクエストするが、全てを歌うことはできない。解散は十時、今日も飲みすぎた。 |