「東京・歩く・見る・食べる会」
第十八回 早稲田・神楽坂編   平成二十年七月十二日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.07.18

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 西日本では梅雨が明けたが、関東にはまだ梅雨明け宣言が出されていない。ただそれほど雨が多いわけでもなく、気象庁が頑なに拒否しても、私の気分ではもう梅雨が明けた。
 蒸し暑い。きょうは三十度を越える暑さになることが予想されている。「もう若くないんだから、日焼けしちゃ駄目」と妻が日焼け止めクリームを用意してくれ、私は顔から首筋、両腕に塗りたくってきた。
 リーダーの宗匠、チイさん、岳人、碁聖、モリオ、ダンディ、ドクトル、講釈師、私、久し振りの黒須。女性はあっちゃん、大橋(江戸歩きは初めて)、胡桃沢、サッチー、佐藤悠子、のんちゃん、坪田ノボタン、橋口、橋本オケイ、三木、宍戸。珍しい参加者が多く、二十一人の大部隊となった。これも企画した宗匠の人徳というものか。
 「久し振りじゃないの、何年ぶり?」オケイさんとサッチーが抱き合って喜んでいる。同窓会のようだ。隊長は数日前にゴキブリと格闘して骨折したため欠席である。これによって、この江戸歩きのシリーズに全て参加しているのは私だけと決まった。年に六回、丸三年をかけて、公式(?)行事として十八回を数えたのは、かなり大したことではないだろうか。番外編を加えれば二十回を越えている。
 既に体からは汗が噴出している。「今日なんか雨が降って欲しかった。佐藤さんが企画したらよかったのに」碁聖はあくまでも私が雨を降らすと信じているが、私は決して妖怪アメフラシではない。
 夏目坂雨ぞ恋しき梅雨晴れ間  眞人
 東西線早稲田駅の二番出口の階段を登れば、道を渡ったところに酒屋「小倉屋」があり、その脇に「夏目漱石生誕の地」の石碑が建つ。表面の文字は安倍能成の筆になる。漱石は慶応三年一月五日(太陽暦二月九日)、父夏目小兵衛直克、母千枝の五男として江戸牛込馬場下横町(現住所表示は喜久井町一番地)に生まれた。
 慶応三年生まれということは満年齢が明治の年数と一致しているので私たちにはとても便利だ。ほかに尾崎紅葉・幸田露伴・正岡子規・南方熊楠・斎藤緑雨・宮武外骨がいる。
 外骨は知らない人が多いだろうか。一種の奇人だ。本名は亀四郎だが、十九歳のとき自ら改名して戸籍にも届けたから、外骨は本名である。国家権力を罵倒嘲弄して(政治的ばかりではなくエロティックなものもあった)何度も捕まり、発禁処分を受けた。最も有名なのは「滑稽新聞」だろうか。ただし、遊んでばかりいたのではない。昭和二年、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫が設立されて以来、外骨は嘱託となって吉野作造とともに資料収集に貢献した。これがメディア研究の基礎資料となっている。
 緑雨については何度か書いたことがあるが、樋口一葉の読者なら知っている。一葉最晩年に最も心を許した男である。一葉日記を預かり、自らの死に臨んで馬場孤蝶に託した。
 今私たちがいる場所は、文政元年の地図では、かろうじて墨引き(町奉行支配)の線の内側にあるところだ。牛込馬場下のすぐ北側はその線の外側で早稲田村、戸塚村になっているものね。明治になって旧東京市十五区ができたとき、墨引きの線がほぼこれに相当し、朱引きの線(寺社奉行支配地を含む)はこれよりやや外側に少し広がっている。十五区というのは以下になる。麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区 。現在の新宿区を構成した淀橋区はこれに入っていないから、新宿の西側は江戸府内ではないことが分る。豊島区もほとんど駄目だ。
 この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
 私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭な心持は疾くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。(『硝子戸の中』)
 現在では通りの要所に夏目坂の標柱が建っているから、これは父直克のためというより、ひとえに漱石の業績による。「どこに行くにもこの坂を登らなければいけなかったんだな」ドクトルもきちんと『硝子戸の中』を読んできている。
 夏目家はこの地の名主であった。名主(ナヌシ)とは何か。西日本では庄屋、東北では肝煎りと呼ばれることが多いが、江戸の町村行政の末端を担う地方(ジカタ)三役の代表者である。村役人、町屋では町(チョウ)役人として、名主、組頭(年寄)、百姓代がおかれていた。明治五年に廃止され、戸長、副戸長に引き継がれることになる。
 江戸八百八町といわれるが、これは寺町を含まない。享保の頃、門前町を含めて千六百七十二ケ町と集計された。おそらく幕末まで、千六百から千七百というあたりが江戸の町数だ。(田中優子編『江戸の回顧』より)とすれば、江戸に名主もそのくらいの数がいたということだろう。漱石が養子にいった先の塩原昌之助も一時内藤新宿門前町の名主を務めている。
 皆が石碑を眺めている間に、酒飲み連中は酒屋に入り込む。店の商品棚の上には黒塗りの一升枡の写真が掲示されている。(実物は見せてくれない)中山安兵衛がこの枡で一升を飲み干したと伝えられるものだ。
 それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過などに、私はよく恍惚とした魂を、麗かな光に包みながら、御北さんの御浚いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠たせて、佇立んでいた事がある。その御蔭で私はとうとう「旅の衣は篠懸の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。(『硝子戸の中』)
 しかし、これから仇討ちの助っ人に駆けつけようという危急のときに、果たして一升酒を飲む余裕があったかどうか。江戸の講釈師が「見てきたように」捏造した話であろう。宗匠の報告では池波正太郎が「竹の水筒に入れた冷酒であった。それもほんの三口か四口」と書いていると言う。宗匠は疑心暗鬼になってこんな句を詠んだ。
涼風やはてなの枡の馬場の下 《快歩》
 「高田馬場堀部安兵衛」という吟醸酒の四合瓶が千二百六十円で、これも話の種だから一本買った。ただし言うまでもないことだが、高田馬場のときの安兵衛の姓は中山であって、まだ堀部にはなっていない。ダンディ、あっちゃんも買う。岳人は一升瓶は売っていないことを確認して二本買う。「これから歩こうっていうのに、重いじゃないか」モリオが呆れるのは無理もない。常識のある人間は誰でもそう思うだろう。
 このほかに、夏目坂、早稲田の郷といった日本酒、地ビール早稲田などを扱っている。
 信号を渡れば穴八幡。朱塗りの楼門を潜ると、全面黒塗りの本殿は風格がある。寛永十三年(一六三六)松平左衛門尉直次が射術の修練のため、ここに的山を築き弓矢の守護神である八幡神の小祠を営んだのに始まる。布袋像を載せた水鉢は慶安二年のものだという。その前で、「布袋さんに願かけたら、ますます太っちゃうよ」ノボタンが笑わせる。
 菩提樹の前で、宗匠は「江戸名所図会」のコピーを開いて、確かに菩提樹があると講釈する。菩提樹を前にすると西洋のものとは違うという話題が必ず出てくる。ウィキペデイアによれば、仏陀が悟りを開いたのはクワ科イチジク属のインドボダイジュである。それに対して中国原産のシナノキ科シナノキ属のボダイジュがあり(今目の前にあるのがそれか)、またその近縁種としてヨーロッパ原産の西洋ボダイジュがある。
 西洋ボダイジュはリンデンバウムである。そこからダンディはプラタナス、マロニエなどヨーロッパの街路樹を連想し、美女は「泉に沿いて繁る菩提樹」とハミングする。サッチーがブドウを配給してくれる。
 脇から八幡坂に出て向かいの龍泉院(真言宗智山派)から信号を左に曲がり、すこし行ったところで後方から「待って」と声がかかる。一人遭難したようだ。どうやら信号をそのまま夏目坂に向かって直進していったらしい。チイさんと宗匠が捜索に向かいなんとか無事確保できたが、これだけの人数だとリーダーは大変だ。「旗を持って歩かなくちゃいけない」
 寶泉寺には正徳元年(一七一一)鋳造の梵鐘がある。「供出されなかったんでしょうか」「隠したんじゃないですか」撞木が当るちょっと上の部分に阿弥陀如来が彫られているのは珍しい。墓地の脇には古い木造二階建ての民家が残っている。昭和三十年代にしても古いと言われるだろう。よく生き延びているものだ。

 ここから早稲田大学の構内に入る。宗匠が警備員に声をかけたので、警備員は私たち全員に挨拶してくれる。「また横からかい」講釈師得意の科白だ。「正門から入ることがないんだからな」
 宗匠の計画によって、私達は会津八一記念博物館で芸術鑑賞をするのだ。この建物は半世紀以上前、碁聖の学生時代には図書館だった。「もっとも滅多に入りませんでしたよ」「入場無料です」「あっなんだ、お財布を出そうとしてしまったわ」興味があろうがなかろうが、無料だから入らなければならない。
 一階は大隈記念室になっていて、重信の遺品、手紙などを展示している。総長用の緋のガウンを見て、「そんなに大きな人じゃなかったんだ」と講釈師が感心する。しかし、ガウンは床を引き摺るものではないから、そのまま身長と同じ長さではない。重信の身長は百八十センチあったというから、現代の標準でもかなり大きい。
 二階が会津八一の集めた中国、日本の古代遺物のコレクションを展示する。兵馬俑、銅鏡、古銭。私にはこういうものを時間をかけて真剣に見るだけの性根が不足している。それに秋艸道人にはこれまで縁がない。平仮名ばっかりの短歌はとっつきにくいではないか。『自註鹿鳴集』があるということだけ知っていた。自作の歌に自分で注解を施さなければならないほど、その歌は難解なのに違いない。私は読む前から敬遠してきた。意外なことにダンディもこの人物のことを知らず、「会津の人かと思っていました」と言う。西欧派のダンディには無縁であったか。
 折角だから、とりあえず目に付いた歌を少し拾ってみた。無学な私が手当たり次第に選んだから、これが秋艸道人の歌の中でどういう評価が与えられているかは分らない。奈良の古い寺を歌ったものが多いから、もしかしたらダンディの趣味に合うかもしれない。
かすがの に おし てる つき の ほがらか に 
あき の ゆふべ と なり に ける かも
あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に 
   ゆきて しめさむ いも も あら なく に
あまた みし てら には あれど あき の ひ に 
   もゆる いらか は けふ みつる かも
 煙草を吸おうと外に出たが、構内は喫煙所を除いて煙草を吸ってはいけないとある。住み難い世の中だ。広いキャンパス内を放浪してやっと見つけたが、外は暑い。喫煙所には椅子もなく、日陰になるものもない。季節は完全に反対だが、「駒とめて袖打ち払う蔭もなし」と言いたい気分だ。トイレで顔を洗い、日焼け止めクリームを改めて塗り直してすっきりした気分で戻っても、熱心な鑑賞者たちはまだ真面目に見学中だ。
 ここを見学コースに撰んだ宗匠も会津八一には余り関心なさそうだ。チイさんが二日酔いで三キロも痩せてしまったと笑っている。モリオが何かを買っているので見ていると、横山大観・下村観山共同制作による『明暗』をクリアファイルにしたものだ。彼にこんな趣味があるとは知らなかった。無趣味の私にはそれほど大したものだとは思えない。並べてある刊行物をあっちゃんが熱心に見つめている。「手当たり次第、買っていくんじゃないですか」とダンディが冷やかすが、「私だって選びます。趣味というものがありますから」と美女は抵抗する。

 ちょっと早めだが学生食堂で昼食を摂ることになっている。大隈庭園の脇から緑の中を入っていくと生協の立派な建物がある。「学生証見せなくちゃいけないのかしら」悠子さんが心配するが別にそんなものは要らない。ご飯ものは二階、麺類は三階だと宗匠が案内し、十二時二十分まで勝手に行動することになる。
 「トッピング方式だよ」と言うモリオの説明を聞くとなんだか洒落た感じだが、何、要するに定食屋のようにガラスケースから一品づつ撰んでいく方式で、私はキンピラ、ほうれん草に温泉卵を選んで、中華丼に豚汁をつけた。六百二十四円なり。貧しい人のために豚汁(百円)ではなく、ただの味噌汁(三十円)も用意されている。ドクトルは「味噌汁は普通セットでついてくるだろう」と文句を言いながら、チャーハン(またはピラフ?)の上にハンバーグを載せた代物を一所懸命箸で食べている。スプーンも置いてあったはずだが。
 昼食に学食を選んだのは正解だった。二十人を越える部隊の昼飯にはいつだって苦労する。次回以降、コースの選択には大学を中核に据えるのが面倒でなくて良いかもしれないが、果たして上手くそんなコース取りができるものか。
 オープンキャンパスでもあるのか、高校生の姿が多い。私たちのように得体の知れない熟年男女の姿も結構多い。いつものように、あっと言う間に食べ終わった私はまた喫煙所を探す。ウロウロしながら、結局かなり歩いてさっきの場所で一服して、食堂の隣の大隈庭園に行けば、なんということはない。入り口にちゃんと喫煙所が設けられていた。この間にみんなはもう庭園の中を散策していた。サッチーはサングラスを学食に忘れて取りに戻る。(彼女はつい二週間前にも同じ行動をしていた)タイサンボクの木陰に風が吹く。「大学って恵まれてますよね」あっちゃんが溜息をつくが、構内にこれだけの庭園を持つ大学は、それほど多くはない。

 ここまで随分のんびりしたから午後のコースは少しきついかも知れない。美女が『怪傑ハリマオ』の歌を歌いながら歩きだす。さっきの小倉屋の前から夏目坂通りを登り、途中を右に曲がれば亀鶴山易行院誓閑寺に着く。天和二年(一六八二)制作の梵鐘は新宿区内最古のものだ。今日は最初から宗匠が『硝子戸の中』に注意を促しているから、引用が多くなる。今回のこのコースのお蔭で、すっかり読み直す機会を得た。
どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は無論あった。その豆腐屋には油の臭の染み込んだ縄暖簾がかかっていて門口を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。
「区内最古ってどうやって調べたんだい」科学者ドクトルは検証手続きにうるさい。鐘の表面には武州荏原郡と刻まれており、天和の頃には既に豊島郡に編入されていた筈のこの地が、まだ地元では荏原郡と呼ばれていたことも分る。鐘を突く撞木を見て、「これは棕櫚の木ですよ」と黒須さんが判定し、「棕櫚の木は細さが一定なんだよ」講釈師も承認する。普通は「細さ」というより「太さ」と言うのではないだろうか。この木は、輪切りにするのに丁度良い目印になるように、等間隔に黒い線が入っている。
 路地を挟んで紫雲山来迎寺。「浄土宗に相応しい名前ですね」と岳人が納得する。境内に入ればすぐ左に板碑の庚申塔がある。真ん中には三猿、上には日月、下に二鶏。青面金剛はいない。延宝四年(一六七六)の年号が彫られており、端には「武州湯原郡牛込馬場下町」とある。「湯原郡」は、「荏原郡」の間違いだろう。板碑の側面を叩きながら、「これは新しいよ」とサッチーが宣言する。三百年前のものが新しいか古いか。どうやら彼女の感覚では地質学的な年代が基準になっているようだ。
 「口の中から虫がでてくるのよね」悠子さんが庚申塔の由来を思い出そうとしているので私も講釈を垂れる。虫は三尸と言う。庚申の日、人が寝ているときに体内から出て天帝にその人物の悪事を告げる。だからその日は夜通し起きていなくてはならない。道教に基づくものだが、もとからある日待ち、月待ちの民間信仰とも習合して、結局は六十日に一度、共同体の結束を高めるための宴会として機能した。これが庚申講であり、三年十八回続けた記念として搭を立てることが多い。
 隣は感通寺。さざれ石が見所になっている。さざれ石というものを私は以前大塚の天祖神社で見ているが、(オケイさんも同じ)それに比べてかなり大きい。細かな学問的詮索はドクトルやオケイさんに任せるが、要するに礫岩である。「だれか作ったんじゃないの」のんちゃんが笑う。素人がセメント細工に失敗して、無数の小石を上手く按配しそこねたような形でもある。「震災とか空襲の遺物だって言われればそうかなと思います」このさざれ石には苔は生えていないようだ。大阪万国博覧会に展示されたものだそうだが、世界の人はこんな石を見て感動したのだろうか。

 夏目坂を登って更に少し行けば有島武郎旧居跡に出る。「有島武郎は札幌にある」ドクトルが断言する。北大出身者は何年経っても北海道に限りない愛情をもち続ける。武郎は北海道に永住する覚悟だったが、妻の結核のためやむなく東京に戻った。大正三年十一月のことで、その頃の北海道の家が、現在では札幌芸術の森に復元されている。その妻安子も五年八月に亡くなり、武郎が本格的に文学を開始するのはその後のことだ。
 新宿のこの家に入ったのは大正十一年一月のことだが、翌年三月には「婦人公論」記者の波多野秋子と軽井沢で心中した。秋子の夫に脅迫されたのが、たぶんもっとも直接的な原因だろう。武郎は満で四十五歳、秋子二十九歳。私は「白樺」の連中には余り同情を感じない性質だが、武郎だけはちょっと気にかかる。
前途は遠い。而して暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。(『小さき者へ』)
 「小さき者」三人のうち長男は俳優森雅之となり、次男敏行は翻訳家になってマークトウェインの訳書があるようだ。三男行三は母安子の実家神保家を継いで男爵となった。

 漱石終焉の地(新宿区早稲田南町七番地)は「漱石公園」になっている。新築の建物(情報発信センター)があって、ダンディがびっくりする。今年二月にリニューアルしたばかりだ。漱石像、猫塚もある。センターの中は涼しい。時ならぬ大勢の客に管理人が喜んで、ひとりづつに資料を手渡してくれる。「漱石山房秋冬――漱石をめぐる人々」という小冊子が有り難い。
 今見ているのは変形の土地だが、面積は三百四十坪だったというから、現在隣接するマンションもその敷地に入っていたのだろう。その中央に六十坪の平屋が建っていた。家賃は四十円ということだったが、三十五円にまけてもらった。東側が回廊式のベランダになった和洋折衷の構造が当時でも評判を呼んだ。漱石が住んでいた頃の借家はその死後、鏡子夫人が買い取って建て直した。それが空襲で焼け落ちた。
 ロンドン留学から帰国した漱石の東京での住まいの跡を辿れば、明治三十六年三月、最初千駄木の家に入った。(本郷区千駄木五十七)第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家で、漱石以前に鴎外も住んでいたことがある。三十八年(一九〇五)一月『吾輩は猫である』を書いたことから、「猫の家」と呼ばれる。シリーズ第四回「本郷編」で歩いた。ところが斎藤が仙台から帰郷することになって、急遽、明治三十九年十二月、西片町(本郷区西片町十のろの七号)に移転。四十年六月に朝日新聞入社。九月、早稲田南町七のこの地に転居した。以来、大正五年(一九一六)十二月九日死去するまでを過ごした。死んだ時は満で四十九歳。「猫」から始まる作家生活は僅かに十一年に過ぎない。
 「真砂町にはいなかったかい。真砂町の先生っていうからさ」ドクトルは勘違いしている。『婦系図』は別にして、実際に本郷真砂町炭団坂上に住んでいた先生といえば、坪内逍遥だ。
 「お札になったということは、金持ちだったからかい」ドクトルは時々面白い発想をする。それでは樋口一葉はどうであろうか。貧窮に死んだ一葉に、いま少し執筆に専念できる環境と病気を治療するだけの金があれば。
 それはともあれ、明治四十年、漱石の朝日新聞入社につけた条件は、月給二百円、夏冬の賞与を加えれば、年収二千八百円になる。明治四十二年の石川啄木は、朝日新聞社の校正係として月給二十円に夜勤手当平均七円をもらった。合計三十二円とすれば年収三百八十四円であった。ただし、借金を書き出してみると合計千三百七十二円五十銭にのぼった。
 関川夏央の計算では、明治四十年代の一円は、大雑把に計算して一九九十年代の七千円に相当するという(『ただの人の人生』)これからすれば、漱石の年収はおよそ二千万円ということになるか。多くの弟子を抱えたにしては余裕があるという程ではないだろう。啄木の場合は、年収二百七十万の男が一千万円の借金を背負っていることになるわけで、一生返済できるとは思えない。(そして当然のことに返済はついにならずに死んでいった。)

 公園内の水道で頭から水を被ると生き返る。岳人も、チイさんも同じことができる。(髪の毛が短い、または無い人の特権である)オケイさんが羨ましそうに煙草を吸っている。よくぞ男に生まれけり。「だけど冬は寒いぜ」モリオも実感しているか。しかし冷房の効いた室内に閉じこもった連中は、外にいる私たちを指差して何を笑っているのだろう。空を見上げればもうちゃんと夏の雲が浮かんでいる。
  脳髄に水を浴びせて夏の雲  眞人
 雲居山宗参寺(曹洞宗)には山鹿素行の墓がある。月海院殿瑚光浄珊居士墓。「なんて読むのかしら」書道を嗜む橋口さんが悩んでいる。珊瑚の文字を「光浄」の前後に逆さに入れてあるから読み方が分らない。「山鹿流の陣太鼓」とくれば忠臣蔵の好きな講釈師の出番だが、残念ながらそんな陣太鼓はないというのが歴史の冷たいところだ。素行は林羅山門下だが『中朝事実』で朱子学を批判したため赤穂に流された。赤穂で教授していた時期は大石内蔵助の少年時代から青年時代にあたり、その影響は受けているだろう。儒学としては古学を標榜したから、後の徂徠やなんかにも影響を与えたのかも知れない。真面目に勉強したことがないからネットに頼らざるを得ない。完全な孫引きになる。
    儒教によって理想化された武士の生き方を、従来の「武士道」にたいして、とくに士道と呼ぶ。ところでこの士道の形成に最も力をつくしたのは山鹿素行である。彼は武士の職分についてこういっている。
    凡そ士の職と云ふは、其身を顧ふに、主人を得て奉公の忠を尽し、朋輩に交はりて信を篤くし、身の独りを慎んで義を専らとするにあり。而して己れが身に父子兄弟夫婦の不得巳交接あり。是れ亦天下の万民各々なくんば不可有の人倫なりといへども、農工商は其の職業に暇あらざるを以て、常住相従って其の道を不得尽。士は農工商の業をさし置いて此の道を専らつとめ、三民の間苟も人倫をみだらん輩をば速に罰して、以て天下に人倫の正しきを待つ。是れ士に文武之徳治不備ばあるべからず。(『山鹿語録』)
     彼がいおうとしているところは、生産に従事しない武士の職分は、人倫の道を実現し、道徳の面で万民のモデルになるところにある、と思われる。いやしくも武士たるものはこの職分を自覚し、人倫の道の実現に邁進する勇気をもたねばならない。(源了圓『徳川思想小史』)http://www.ne.jp/asahi/village/good/YamagaSoko.htm
 乃木希典遺愛の梅「春日野」なんて木がある。乃木将軍は『中朝事実』の愛読者で、自費で印刷して知人に配っていたという。上記の話からすれば乃木将軍が好きだった理由は分るような気がする。
 おぼろげな記憶で間違っているかもしれないが、高垣眸『怪傑黒頭巾』の主人公が確か、山鹿素行の息子だったか(これでは時代が違いすぎるか)、弟子だったか、その流れを汲むものであったか、そんな設定であったような気がする。「私は庄司薫しか知りません」と美女が言うから、私より若い世代では知らないか。昭和十年代に「少年倶楽部」に連載されたものだが、私は戦後に書き直された単行本を読んでいる。『さよなら怪傑黒頭巾』の庄司薫は昭和十二年生まれだから、ダンディとほぼ同世代にあたる。知っているかもしれない。
 世代と言えば、このところ五十歳代と六十歳代以上とを区分けする指標として、仲間内のメール網では『怪傑ハリマオ』の話題が賑わった。のんちゃんも「私きのう読んだ。メールは週に一回しか開かないのよ」と言う。さっき早稲田大学を出るところで、美女が「真っ赤な太陽燃えている」と歌っていたが、ハリマオの歌は私の持ち歌である。

 牛込氏の墓。上州赤城南麓の大胡(おおご)の豪族で、もと大胡氏を名乗った。『吾妻鏡』『義経記』に大胡太郎と言う人物が登場するらしい。戦国期に北条に仕えて武蔵国に移り、この地の地名牛込を名乗るようになり、北条滅亡後は徳川氏に仕えて旗本となった。藤原秀郷の後裔の足利氏(源氏の足利と区別して藤姓足利という)と称している。
 藤原秀郷といえば俵藤太のムカデ退治が有名で(『今昔物語』)、将門追討によって武蔵、下野二カ国の国司となった。その子孫が関東一円に散らばり、坂東平氏とどちらが多いか分らないが、秀郷流を称する家は多い。一般に土着の豪族がその系図を名家に繋げる(仮冒)風潮は古くからあるので、本当に正しいか判定は難しい。だいたい、秀郷自身が藤原北家の裔と言っていることが本当なのかどうか。
 牛込というからには、牛に関係する土地だった。大宝元年(七〇一)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎が建てられた。実際の場所は分らないが、古代の馬牧が「駒込」「馬込」の地名で残されているから、「牛込」の地名が残っている以上、ここがその「牛牧」であろうと判断されている。(ウィキペデイアより)

 墓参りの人の邪魔にならないよう、私達は静かに行動しなければならない。しかし、私には宗教心はないものの、七月のこの時期のお盆というのには違和感がある。正確な旧暦ではないが、やはり盆と言えば八月十五日を中心とした時期ではあるまいか。「そうよね、私のほうも旧盆ですよ」と悠子さん。上方ではどうなのだろう。東京都内では七月に執り行うのが一般的なようだが、他の地方ではどうなのだろう。ここでもウィキペディアのお世話になろう。
伝統的には、旧暦七月十五日に祝われた。日本では明治六年(一八七三年)一月一日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多かった。
一、 旧暦七月十五日(旧盆)
二、 新暦七月十五日
三、 新暦八月十五日
四、 その他(八月一日など)
しかしながら、明治六年(一八七三年)七月十三日に旧暦盆の廃止の勧告を山梨県(他に新潟県など)が行うということもあり、一は次第に少数派になりつつあり、全国的に三(月遅れのお盆、旧盆)がもっぱらである。ただし何代かに渡り東京に住まう人々は、二の新暦七月一五日をお盆とし、墓参りなどの行事もこの時期に行われる。例えば、神奈川県、東京都に檀家が分布するような寺では、東京都の檀家からは、七月半ば(二)に呼ばれ、神奈川県の檀家からは八月中旬(三)に招かれるというようなことがある。他にも、北海道では函館市や根室市、佐呂間町の一部、北陸の石川県金沢市、静岡県都市部などに二の新暦七月にお盆を行う地域がある。岐阜県中津川市付知町、中津川市加子母は八月一日である。
 つまり、新暦七月十五日と旧暦七月十五日と、その折衷案である新暦八月十五日の三つがあって、例外的に八月一日というものもある。気分としては、こういう歴史的な行事は旧暦でやって欲しいと思うが、旧暦では毎年日が動いて面倒か。折衷案が取り入れられた理由だろう。
 多門院の境内に入れば「芸術比翼塚」を見なければならない。ただ、その前に入り口付近に「吉川湊一の墓」というのがあって、案内板が掲げてあるからそれが最初だ。「そっちじゃないよ、こっちだよ」と気の短い講釈師から声がかかるが、折角説明板があるのだから無視しては申し訳ないではないか。江戸後期、平家琵琶の奥義を極めて検校に上り詰めた人物である。この人物はそれだけにして、今回の主人公に移る。
 大正七年(一九一八)から九年にかけて世界的にスペイン風邪が流行し、全世界で罹患者は二億人、死者は二千万人から四千万人に上ったと推定される。最初松井須磨子がこれに罹り、介抱していた島村抱月に感染した。須磨子は治ったが抱月は治癒せず、大正七年十一月五日に急逝した。満で四十七歳。
 抱月は初め坪内逍遥と文芸協会(余丁町にあった)を設立したが、大正二年、須磨子との恋愛スキャンダルで文芸協会を脱退、芸術座を結成した。大正三年『復活』劇中歌『カチーシャの唄』を須磨子が歌って大ヒットした。
 「カチューシャ可愛いや別れのつらさ」講釈師もあっちゃんも歌い始める。「この仲間ならこういう歌を歌ってもいいんだ」と大橋さんが納得したような顔をする。抱月の死後二ヶ月たった大正八年一月五日、須磨子は抱月の後を追って自殺した。
  舞台のいろはから教えていただいた先生にそむいてまでも縋った人に先立たれ、どう思っても生きてゆけません。申し上げにくいことですが、何卒私の死体はあの方の墓へ埋めるようお取り計らい願います。
 坪内逍遥に宛てた須磨子の遺書だがそれは許されず、須磨子は実家である長野県松代町に葬られた。抱月の墓は雑司が谷霊園にある。それを哀れんだ川柳社の坂井久良岐らによって比翼塚が立てられ、松代から分骨して墓もここに建てられた。今日あとで行くことになっている、抱月の芸術倶楽部が近くにあったためだろう。
 最初私はうっかりして、比翼塚の隣に立つ石橋家の墓を写真に撮ってしまったから、案の定「石橋さんって誰だい」とドクトルに突っ込まれてしまう。「須磨子の実家ですよ」なんて適当に誤魔化そうとしてもすぐにばれてしまう。墓の正面には貞祥院實應須磨大姉、側面に本名小林正子とちゃんと記されている。
 命短し恋せよ乙女。講釈師が歌いだすまで忘れていたが『ゴンドラの唄』も須磨子だった。これはツルゲネフ原作『その前夜』の劇中歌である。つまり須磨子は歌う女優第一号である。そして、『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』とともに、作曲者の中山晋平も一躍有名作曲者になっていく。この頃からレコードによる流行歌というものが生まれ始めていた。ただし講釈師の『ゴンドラの唄』は黒沢映画『生きる』の名シーンによるのだ。「志村喬がさ」彼はこれが得意で、もう何度聞いたか分らない。
 生田春月の詩碑も見たからには取り上げなければならないだろう。余り関心のない人物だけれど。荻原朔太郎が「日本詩壇の燈台」と称賛しているということだが、それほどのものであろうか。はっきり言って私は感心しない。
わが空しくも斃れなば
あまたの友よあとつぎて
われにまされる詩を書けよ
ジヤン・コクトオやワ゛レリイの
伊達のすさびをやめにして
書けよ心の血の叫び     春月
 常榮山浄輪寺(日蓮宗)の墓地には関孝和が眠っている。法行院殿宗達日心大居士。姓藤原諱孝和称関新助。オケイさんはここを見るために今日参加したのだ。関は和算というものを独自に展開した。これもウィキペディアからの引用で、なんだか意味不明な箇所もあるが仕方がない。
若くして関家の養子となる。幼少時から、吉田光由の『塵劫記』を独学で学び、のちに、そろばんや算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。
中国の伝統数学、特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝二年(一六七四)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念をヨーロッパより早い時期に提案したことはよく知られる。
また、関は正一三一〇七二角形を使い、円周率を小数第十一位まで算出した。本計算ではエイトケン加速を用いており、世界的にみても数値的加速法のもっとも早い適用例の一つである。(エイトケンによる導入は一九二六年)
数学者の藤原正彦は関はニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に微分・積分の「一歩手前」までたどり着いた、と述べている。しかし和算が自然科学から独立して発展してしまったため、それ以上の発展を見られなかったと言われている。ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していたことも知られている。
 その能力には驚くしかないのだが、閉ざされた世界での発見が、他の分野への貢献を阻まれた。江戸の科学の不運の象徴であろう。境内入り口にギボウシが咲いているのを教えてもらった。ユリ科あるいはリュウゼツラン科。ムクゲは今年初めて見るような気がする。宗旦と薄紅の取り合わせが綺麗だ。薄紅のほうは、私は時々芙蓉と間違えてしまう。
 狭い路地にノウゼンカズラを見ながら歩くと、もう夏真っ盛りだと思える。狭い路地に泉鏡花住居跡の看板が立つ。「真砂町の先生って、婦系図だったか」さっきからなぜか真砂町の先生に拘っていたドクトルがやっと思い出す。お蔦と主税の恋愛に反対する「真砂町の先生」は尾崎紅葉のことで、紅葉が死ぬまで鏡花はお蔦のモデルである桃太郎(すず夫人)を籍に入れなかった。「私だって反対するよ」ドクトルはわが息子を思い浮かべたのだろう。
 学生が三人、私達に恐れをなしたか、後ろのほうでモジモジしている。「将来のあるもんに道を譲らなくちゃ」講釈師は時々まともなことを言うので、将来のない私達がすぐに道を譲ると、彼らはすぐさま写真を撮りだす。今時鏡花に興味を持つ男の子がいるのだね。ファンタジーが異常に流行るおかしな時代には、幻想文学としての鏡花の読者が増えているのかも知れない。
 志ん朝の亡くなった家の前に立つ。ロダンが好き、隊長も好きだなんて言うまでもない。志ん生には結城昌治『志ん生一代』がある。志ん朝には小林信彦の『名人』(伝記ではないが)がある。いずれ誰かによって決定的な伝記が書かれるだろう。平成十三年十月一日、肝臓癌で亡くなった。享年六十三。
テレビで桂米朝が、
「東京の落語界は、ずいぶん淋しくなるでしょう」
と語っていたが、言いかえれば、東京落語は終わったということである。
護国寺・桂昌殿での盛大な葬儀は、実は江戸から伝わってきた大衆文化の一つ、江戸弁による江戸落語、その美学の葬儀でもあった。(小林信彦『名人』)
 小林は日本橋で九代続いた和菓子屋の倅だから、江戸弁の衰滅を嘆いても許される。
 ここに突然ツカさんが現れた。ダンディと電話で連絡をとっていたらしいが、こんなややこしい小路の中をよく落ち合えた。「もうそろそろ終わりでしょう」と言うが、宗匠作成の計画書では丁度一ページ目が終わったところで、まだ残り一ページある。「まだ半分ありますよ」法事があったとのことで、上着を小脇に抱えて革靴だから暑いだろう。この江戸歩きのシリーズに登場するのもずいぶん久し振りだ。これで総勢二十二人、男女同数となった。

 曲がりくねった路地を迷いもせずに宗匠は案内してくれる。流石に下見二回の成果である。「だって、四谷のときは何度も間違えて講釈師に叱られたから」なにかあれば一生言われ続けるから、講釈師は怖い。これだけの人数がいれば、当然ながら列はかなり伸び、気の短い講釈師はイライラして「どっかで巻いてしまおうぜ」と口走る。「わざと、巻かれてしまおうかしら」「鬼子母神のときみたいに」「イヤ、あれは違います。私達は」ダンディとオケイさんはやっきになって否定しようとする。(何のことか分らない人は、第八回「雑司が谷・巣鴨編」を参照されたい。)
 住所表示は横寺町になっている。「横寺町と言えば、私は旺文社を思い出す」少年ダンディが旺文社の受験雑誌に投稿すると、横寺町の住所から商品が届けられたそうだ。調べてみると旺文社の住所は今でも横寺町五十五になっている。
 尾崎紅葉終焉の地。明治三十六年十月三十日、満で三十五歳。芝門前中町の生誕の地は、このシリーズ第五回目に芝界隈を歩いたとき、あっちゃんに教えてもらっている。紅葉露伴と並び称され、初期明治文学を率いた人物が、こんな年齢だったのだ。
 鏡花の菩提寺である妙徳山円福寺(日蓮宗)。鏡花の没したのは昭和十四年、満六十歳に二ヶ月ほど足りないときだった。墓域に入ることができないが、木陰で女性たちは一息入れる。
緑陰にまた根を生やすうはさかな 《快歩》
 島村抱月終焉の地。横寺町十一番地。『復活』は公演四百回を超える大ヒットになったが、演劇の通俗化を非難されることが多かった。そのため研究公演の必要を感じた抱月が大正四年秋に芸術倶楽部を建築したのだ。スペイン風邪の抱月はこの一室で亡くなり、後を追った須磨子も、ここの道具置き場で首を縊った。雑司が谷霊園の抱月墓にはこんな文が刻まれている。
在るがまゝの現実に即して
全的存在の意義を髣髴す
観照の世界也
味に徹したる人生也
此の心境を芸術という
抱月
 横寺町と箪笥町との境界にある袖摺坂という小さな坂を下りると、目の前は牛込神楽坂駅だ。地蔵坂に入って左手には日本出版クラブ会館があって、そこに説明板が置かれている。かなり大きな説明板だが、下見のときに宗匠は気づかなかったらしい。「牛込天文屋敷跡」だ。「今日の案内には書いていませんが」と宗匠が言うと、「気づかなかったんだろう」と講釈師が突っ込む。ちょっと長いが引用してみる。
当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取壊されてしまった。正保二年居館跡(道路を隔てた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。その後明暦三年、歌舞伎・講談で有名な町奴幡随院長兵衛が、この地で屋敷を構えていた旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとも伝えられている。水野は寛文四年幕府より無頼の所行ありととがめられ切腹し屋敷も消失した。享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和二年当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐々木文次郎が司どり、この火除地の一部に幕府は始めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和六年に修正終了したが、天明二年光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶応までの間、二〜三軒の 武家屋敷として住み続けられた。 弘化年中には御本丸御奥典医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の東京大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し、焼跡地となった。戦後に都所有地として高校グランドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり、会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連等が話題となり、工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。
  二〇〇〇年一月    平木基治 記 (文藝春秋社長)
 幡随院長兵衛と水野十郎左衛門がここに登場するとは思わなかった。長兵衛に代表される江戸の男伊達を語れば、遥か遠く東映仁侠映画にまで及んで収拾がつかなくなるから、ここでは触れない。通りの向かいには樹王山光照寺(浄土宗)。その境内に入るところに「牛込城址」の案内板が建つ。
 諸国旅人供養碑は旅籠屋紀伊國屋主人利八が祀ったものだと書かれている。供養碑の右には多数の地蔵が並んでいる。「本屋さんとの関係は」「関係ありません」紀伊國屋書店の創業者田辺家の先祖は、内藤新宿のはずれで代々薪炭商を営んでいたから旅籠屋とは関係ない。
 狂歌師便々館湖鯉鮒墓碑。狂歌になると私はほとんどお手上げだ。幕臣で唐衣橘洲門下、太田南畝に私淑したというから、ごく普通の狂歌師であろうか。宗匠がその代表作を教えてくれる。西新宿の常円寺に蜀山人筆の狂歌碑があるそうだ。
三度たく 米さえこはし 柔かし おもふままには ならぬ世のなか
 余り才能は感じない(と偉そうに言ってしまう)。境内に咲く白い小さな花は「茗荷かしら」と胡桃沢さんが首を傾げれば、ヤブミョウガであるとのんちゃんが鑑定する。「でもミョウガバナって言う方が素敵よね」葉の形が茗荷に似ているのだそうだが、これはツユクサ科である。「茶花になっているの」のんちゃんはお茶の心得もあるのか。クチナシの花はかなり香りがきつい。英文科の美女は、なんとかにクチナシが登場すると説明してくれるが、迂闊な私は忘れてしまった。
神楽坂に出れば、正面には文具の相馬屋が建つ。寛永十七年(一六四〇)創業。「江戸時代にも文房具ってあったんですか」オケイさんらしくもない質問だ。書道をやる橋口さんだったら(たぶん仲間の三木さんだって)すぐに分るだろう。文房は本来書斎と言うほどの意味であり、そこで使用する道具を文房具という。とりわけ文房四宝と言えば、筆墨紙硯である。明治中期、相馬屋が、それまで和半紙だった原稿用紙を紅葉の助言で洋紙に改良して売り出すと、文士の人気を得て白秋、逍遥、啄木も愛用した。漱石は特性の罫入りのものを作らせた。
 ここで女性陣待望(一番待ち望んでいたのは講釈師か)のコーヒータイムに入る。CAFFE VELOCE。分散しながらもなんとか二十二人が席についた。オレンジジュース二百二十円也。お代わり自由の水が冷たくて上手い。今日はもうペットボトルを二本消費しているのに、まだ体は水分を要求している。黒須さんとチイさんが同じ蓮田原住民だということがわかって、ふたりは地域の話題に忙しい。
しかしこの店もまた全席禁煙である。我慢しれきれず私は早々に店を出た。道路も喫煙禁止か。向かいにある鎮護山善國寺(日蓮宗)では、石段の上には怖そうなおばさんがどっしりと腰を落ち着け、若い女性が一所懸命、盆用の切花を並べている。それをぼんやり眺めながら火をつける。
   一人吸ふ煙草の煙盂蘭盆会  眞人
 玉垣には赤いホオズキも飾られている。神楽坂商店街には、祭り提灯が賑やかに飾られてあるが、祭りは二十三日からだ。二十三、二十四日がホオズキ市、二十五、二十六日が阿波踊りになっている。どうも私は東京で阿波踊りという感覚についていけなくて困る。(おそらく頑迷固陋なのだろうね)
神楽坂はやふはふはと祭り足 《快歩》
 善國寺の沿革をホームページから引用する。神楽坂は本来、この善國寺の門前町であったのだ。
善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄四(一五九五)年で、今からおよそ四百年を遡る。初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方である。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。
上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正十八(一五九十)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた。ここに毘沙門天を奉安する、名刹・善國寺が誕生したのである。
徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文十(一六七十)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったのである。
当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政四(一七九二)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。今から約二百年前のことである。尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により。往時を偲ぶことができる。
毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門》の威光は倍増していった。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。
明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。
 狛犬ではなく虎が睨みを利かせているのは、毘沙門天の化身だからというけれど、これが分らないから困ってしまう。毘沙門は四天王のうち北方守護を担当する。虎は、青龍、朱雀、白虎、玄武から連想すれば西の守護神にあたるのではないか。困ったときにはウィキペディアだ。見るとこれは聖徳太子信仰につながっていく。
 醍醐天皇の時代、平安時代中期の十世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。
 伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、五九四年(推古二年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。また寺の至る所に虎の張り子が置かれているのは、その逸話に由来している。(「信貴山朝護孫子寺」より)
 これが毘沙門天と虎とのつながりであった。聖徳太子の時代に、真夜中、寅の刻をどうやって判定したか(時計はなかったんじゃないか)なんて野暮なことは言わないで置こう。ようやく冷房の効いた店から全員が出てきたところへ、雷が鳴り出した。「どうしてくれるんだよ」講釈師に詰め寄られても、私は雷を呼ぶ使者ではない。「涼しくなってよかった」雲が少し黒くなり、ちょっと雨がぱらついて涼風を誘ったが、それも一瞬のことで、すぐにまた太陽が照りつける。寅年生まれのモリオは社務所で「珍しいんだよ」と虎のストラップを買う。
遠雷や提灯揺らす神楽坂  眞人
 料亭「うを徳」の前では「一見さんお断りですって」と橋口さんが笑う。私は読んでいないが、鏡花『婦系図』には、「うを徳」初代の萩原徳次郎がモデルになった江戸前の魚屋「めの惣」が登場するそうだ。今時「一見拒否」もないだろうが、昼の懐石料理が一万円、一万五千円とある。私には縁がない。
 本多横町、芸者新道。花街を偲ばせる路地を歩けば、岳人はこの辺で飲みたいと溜息をつく。私も、もうすっかりアルコールを待つ態勢が出来上がっている。軽子坂。坂下に神楽河岸があって、そこから船荷を軽籠に背負って運んだ。その人足を軽子と言い、軽子が多く住んでいたと書かれてある。
 坂を降りきれば、正面には全面にガラスの光るビルが建っている。そのセントラルプラザの前に、木の欄干を誂えた橋が架かる。下に水は流れていない。暗渠になっているのだ。牛込揚場跡である。揚場と河岸とはどう違うか。いきなり聞かれても困ってしまう。宗匠が今日始めて電子辞書を取り出して検索し、河岸は市が立つ、揚場はもう少し規模の小さいものであろうと推測する。「見せびらかしたくてしょうがないんだよ」講釈師が悪態を吐くが、便利なものは良い。「私のはもっと大きい」橋口さんが呟いている。逆に「私のはもっと小さい」とダンディは自慢する。
 ただ、さっきの軽子坂の説明では坂下には「神楽河岸」があったことになっているのだが、江戸、明治の地図には神楽河岸という地名は出てこない。新しい地名だ。安政三年の地図では、牛込見附があって武家屋敷が並ぶ中に小さく、飛び地のように揚場町がある。こんな場所では市は開けなかっただろう。ウィキペディアで「河岸」を検索すれば、こんな風に書いてある。
 河岸とは、狭義では河川や運河、湖、沼の岸にできた港や船着場のことである。しかし「魚河岸」などというように、商品売買を行う市場や市場のある地名を意味する場合もある。江戸時代に入ると河岸には問屋を商う商人やその蔵が集まり、一つの商業集落を形成していた。このため広い意味で町村を表す言葉でもあった。(略)
 河岸には船着場や荷揚げ場(あわせて河岸場という場合もある)があり、河岸を仕切る中心として河岸問屋または船問屋があった。河岸問屋は、船の荷揚げや荷積み、荷物の保管などによる口銭や庭銭とよばれる手数料をとっていた。また船を所有する船持や、船で働く水主(かこ)、荷物を運ぶ馬を世話をする馬持や馬子なども暮らした。
 河岸と揚場とは対立するものではなく、河岸を構成する一部分に、船着場や荷揚げ場があったと考えても良いかもしれない。
 本日のコースは全て恙無く終了した。宗匠の万歩計では一万四千歩であった。「あと三キロくらい歩きましょうか」少し涼しくなって元気になったあっちゃんが冗談を言う。地下鉄を利用する人、JRを利用する人たちと別れ、反省会メンバーは「さくら水産」を目指す。のんちゃんは、いつものように「また誘ってね」と明るく去っていく。サッチーは今日は飲まないと、オケイさんと帰っていった。
 四時二分前、開店したばかりの「さくら水産」で席に着く。まだほかに客はいない。「また一番乗りなの」美女の言葉にチイさんが、「ファーストレディですから」と応じる。ダンディ、ドクトル、ツカさん、黒須さん、チイさん、宗匠、岳人、モリオ、あっちゃん、私。ビールが上手い。「重いんだもの、軽くしてね」と朝買ったばかりの「安兵衛」が美女から提供される。今日も散々食べて飲んで一人当たり二千二百円也。

 この日、関東地方は猛暑に襲われ、練馬区では三十五・七度、熊谷市で三十五・八度を記録した。報道によれば熱中症で倒れた人もいる。事故もなく完歩できたのは良かった。
眞人