「東京・歩く・見る・食べる会」
第十八回 早稲田・神楽坂編 平成二十年七月十二日(土)
西日本では梅雨が明けたが、関東にはまだ梅雨明け宣言が出されていない。ただそれほど雨が多いわけでもなく、気象庁が頑なに拒否しても、私の気分ではもう梅雨が明けた。 蒸し暑い。きょうは三十度を越える暑さになることが予想されている。「もう若くないんだから、日焼けしちゃ駄目」と妻が日焼け止めクリームを用意してくれ、私は顔から首筋、両腕に塗りたくってきた。 リーダーの宗匠、チイさん、岳人、碁聖、モリオ、ダンディ、ドクトル、講釈師、私、久し振りの黒須。女性はあっちゃん、大橋(江戸歩きは初めて)、胡桃沢、サッチー、佐藤悠子、のんちゃん、坪田ノボタン、橋口、橋本オケイ、三木、宍戸。珍しい参加者が多く、二十一人の大部隊となった。これも企画した宗匠の人徳というものか。 「久し振りじゃないの、何年ぶり?」オケイさんとサッチーが抱き合って喜んでいる。同窓会のようだ。隊長は数日前にゴキブリと格闘して骨折したため欠席である。これによって、この江戸歩きのシリーズに全て参加しているのは私だけと決まった。年に六回、丸三年をかけて、公式(?)行事として十八回を数えたのは、かなり大したことではないだろうか。番外編を加えれば二十回を越えている。 既に体からは汗が噴出している。「今日なんか雨が降って欲しかった。佐藤さんが企画したらよかったのに」碁聖はあくまでも私が雨を降らすと信じているが、私は決して妖怪アメフラシではない。
慶応三年生まれということは満年齢が明治の年数と一致しているので私たちにはとても便利だ。ほかに尾崎紅葉・幸田露伴・正岡子規・南方熊楠・斎藤緑雨・宮武外骨がいる。 外骨は知らない人が多いだろうか。一種の奇人だ。本名は亀四郎だが、十九歳のとき自ら改名して戸籍にも届けたから、外骨は本名である。国家権力を罵倒嘲弄して(政治的ばかりではなくエロティックなものもあった)何度も捕まり、発禁処分を受けた。最も有名なのは「滑稽新聞」だろうか。ただし、遊んでばかりいたのではない。昭和二年、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫が設立されて以来、外骨は嘱託となって吉野作造とともに資料収集に貢献した。これがメディア研究の基礎資料となっている。 緑雨については何度か書いたことがあるが、樋口一葉の読者なら知っている。一葉最晩年に最も心を許した男である。一葉日記を預かり、自らの死に臨んで馬場孤蝶に託した。 今私たちがいる場所は、文政元年の地図では、かろうじて墨引き(町奉行支配)の線の内側にあるところだ。牛込馬場下のすぐ北側はその線の外側で早稲田村、戸塚村になっているものね。明治になって旧東京市十五区ができたとき、墨引きの線がほぼこれに相当し、朱引きの線(寺社奉行支配地を含む)はこれよりやや外側に少し広がっている。十五区というのは以下になる。麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区 。現在の新宿区を構成した淀橋区はこれに入っていないから、新宿の西側は江戸府内ではないことが分る。豊島区もほとんど駄目だ。
夏目家はこの地の名主であった。名主(ナヌシ)とは何か。西日本では庄屋、東北では肝煎りと呼ばれることが多いが、江戸の町村行政の末端を担う地方(ジカタ)三役の代表者である。村役人、町屋では町(チョウ)役人として、名主、組頭(年寄)、百姓代がおかれていた。明治五年に廃止され、戸長、副戸長に引き継がれることになる。 江戸八百八町といわれるが、これは寺町を含まない。享保の頃、門前町を含めて千六百七十二ケ町と集計された。おそらく幕末まで、千六百から千七百というあたりが江戸の町数だ。(田中優子編『江戸の回顧』より)とすれば、江戸に名主もそのくらいの数がいたということだろう。漱石が養子にいった先の塩原昌之助も一時内藤新宿門前町の名主を務めている。 皆が石碑を眺めている間に、酒飲み連中は酒屋に入り込む。店の商品棚の上には黒塗りの一升枡の写真が掲示されている。(実物は見せてくれない)中山安兵衛がこの枡で一升を飲み干したと伝えられるものだ。
このほかに、夏目坂、早稲田の郷といった日本酒、地ビール早稲田などを扱っている。 信号を渡れば穴八幡。朱塗りの楼門を潜ると、全面黒塗りの本殿は風格がある。寛永十三年(一六三六)松平左衛門尉直次が射術の修練のため、ここに的山を築き弓矢の守護神である八幡神の小祠を営んだのに始まる。布袋像を載せた水鉢は慶安二年のものだという。その前で、「布袋さんに願かけたら、ますます太っちゃうよ」ノボタンが笑わせる。 菩提樹の前で、宗匠は「江戸名所図会」のコピーを開いて、確かに菩提樹があると講釈する。菩提樹を前にすると西洋のものとは違うという話題が必ず出てくる。ウィキペデイアによれば、仏陀が悟りを開いたのはクワ科イチジク属のインドボダイジュである。それに対して中国原産のシナノキ科シナノキ属のボダイジュがあり(今目の前にあるのがそれか)、またその近縁種としてヨーロッパ原産の西洋ボダイジュがある。 西洋ボダイジュはリンデンバウムである。そこからダンディはプラタナス、マロニエなどヨーロッパの街路樹を連想し、美女は「泉に沿いて繁る菩提樹」とハミングする。サッチーがブドウを配給してくれる。 脇から八幡坂に出て向かいの龍泉院(真言宗智山派)から信号を左に曲がり、すこし行ったところで後方から「待って」と声がかかる。一人遭難したようだ。どうやら信号をそのまま夏目坂に向かって直進していったらしい。チイさんと宗匠が捜索に向かいなんとか無事確保できたが、これだけの人数だとリーダーは大変だ。「旗を持って歩かなくちゃいけない」 寶泉寺には正徳元年(一七一一)鋳造の梵鐘がある。「供出されなかったんでしょうか」「隠したんじゃないですか」撞木が当るちょっと上の部分に阿弥陀如来が彫られているのは珍しい。墓地の脇には古い木造二階建ての民家が残っている。昭和三十年代にしても古いと言われるだろう。よく生き延びているものだ。 ここから早稲田大学の構内に入る。宗匠が警備員に声をかけたので、警備員は私たち全員に挨拶してくれる。「また横からかい」講釈師得意の科白だ。「正門から入ることがないんだからな」 宗匠の計画によって、私達は会津八一記念博物館で芸術鑑賞をするのだ。この建物は半世紀以上前、碁聖の学生時代には図書館だった。「もっとも滅多に入りませんでしたよ」「入場無料です」「あっなんだ、お財布を出そうとしてしまったわ」興味があろうがなかろうが、無料だから入らなければならない。 一階は大隈記念室になっていて、重信の遺品、手紙などを展示している。総長用の緋のガウンを見て、「そんなに大きな人じゃなかったんだ」と講釈師が感心する。しかし、ガウンは床を引き摺るものではないから、そのまま身長と同じ長さではない。重信の身長は百八十センチあったというから、現代の標準でもかなり大きい。 二階が会津八一の集めた中国、日本の古代遺物のコレクションを展示する。兵馬俑、銅鏡、古銭。私にはこういうものを時間をかけて真剣に見るだけの性根が不足している。それに秋艸道人にはこれまで縁がない。平仮名ばっかりの短歌はとっつきにくいではないか。『自註鹿鳴集』があるということだけ知っていた。自作の歌に自分で注解を施さなければならないほど、その歌は難解なのに違いない。私は読む前から敬遠してきた。意外なことにダンディもこの人物のことを知らず、「会津の人かと思っていました」と言う。西欧派のダンディには無縁であったか。 折角だから、とりあえず目に付いた歌を少し拾ってみた。無学な私が手当たり次第に選んだから、これが秋艸道人の歌の中でどういう評価が与えられているかは分らない。奈良の古い寺を歌ったものが多いから、もしかしたらダンディの趣味に合うかもしれない。
ここを見学コースに撰んだ宗匠も会津八一には余り関心なさそうだ。チイさんが二日酔いで三キロも痩せてしまったと笑っている。モリオが何かを買っているので見ていると、横山大観・下村観山共同制作による『明暗』をクリアファイルにしたものだ。彼にこんな趣味があるとは知らなかった。無趣味の私にはそれほど大したものだとは思えない。並べてある刊行物をあっちゃんが熱心に見つめている。「手当たり次第、買っていくんじゃないですか」とダンディが冷やかすが、「私だって選びます。趣味というものがありますから」と美女は抵抗する。 ちょっと早めだが学生食堂で昼食を摂ることになっている。大隈庭園の脇から緑の中を入っていくと生協の立派な建物がある。「学生証見せなくちゃいけないのかしら」悠子さんが心配するが別にそんなものは要らない。ご飯ものは二階、麺類は三階だと宗匠が案内し、十二時二十分まで勝手に行動することになる。 「トッピング方式だよ」と言うモリオの説明を聞くとなんだか洒落た感じだが、何、要するに定食屋のようにガラスケースから一品づつ撰んでいく方式で、私はキンピラ、ほうれん草に温泉卵を選んで、中華丼に豚汁をつけた。六百二十四円なり。貧しい人のために豚汁(百円)ではなく、ただの味噌汁(三十円)も用意されている。ドクトルは「味噌汁は普通セットでついてくるだろう」と文句を言いながら、チャーハン(またはピラフ?)の上にハンバーグを載せた代物を一所懸命箸で食べている。スプーンも置いてあったはずだが。 昼食に学食を選んだのは正解だった。二十人を越える部隊の昼飯にはいつだって苦労する。次回以降、コースの選択には大学を中核に据えるのが面倒でなくて良いかもしれないが、果たして上手くそんなコース取りができるものか。 オープンキャンパスでもあるのか、高校生の姿が多い。私たちのように得体の知れない熟年男女の姿も結構多い。いつものように、あっと言う間に食べ終わった私はまた喫煙所を探す。ウロウロしながら、結局かなり歩いてさっきの場所で一服して、食堂の隣の大隈庭園に行けば、なんということはない。入り口にちゃんと喫煙所が設けられていた。この間にみんなはもう庭園の中を散策していた。サッチーはサングラスを学食に忘れて取りに戻る。(彼女はつい二週間前にも同じ行動をしていた)タイサンボクの木陰に風が吹く。「大学って恵まれてますよね」あっちゃんが溜息をつくが、構内にこれだけの庭園を持つ大学は、それほど多くはない。 ここまで随分のんびりしたから午後のコースは少しきついかも知れない。美女が『怪傑ハリマオ』の歌を歌いながら歩きだす。さっきの小倉屋の前から夏目坂通りを登り、途中を右に曲がれば亀鶴山易行院誓閑寺に着く。天和二年(一六八二)制作の梵鐘は新宿区内最古のものだ。今日は最初から宗匠が『硝子戸の中』に注意を促しているから、引用が多くなる。今回のこのコースのお蔭で、すっかり読み直す機会を得た。
路地を挟んで紫雲山来迎寺。「浄土宗に相応しい名前ですね」と岳人が納得する。境内に入ればすぐ左に板碑の庚申塔がある。真ん中には三猿、上には日月、下に二鶏。青面金剛はいない。延宝四年(一六七六)の年号が彫られており、端には「武州湯原郡牛込馬場下町」とある。「湯原郡」は、「荏原郡」の間違いだろう。板碑の側面を叩きながら、「これは新しいよ」とサッチーが宣言する。三百年前のものが新しいか古いか。どうやら彼女の感覚では地質学的な年代が基準になっているようだ。 「口の中から虫がでてくるのよね」悠子さんが庚申塔の由来を思い出そうとしているので私も講釈を垂れる。虫は三尸と言う。庚申の日、人が寝ているときに体内から出て天帝にその人物の悪事を告げる。だからその日は夜通し起きていなくてはならない。道教に基づくものだが、もとからある日待ち、月待ちの民間信仰とも習合して、結局は六十日に一度、共同体の結束を高めるための宴会として機能した。これが庚申講であり、三年十八回続けた記念として搭を立てることが多い。 隣は感通寺。さざれ石が見所になっている。さざれ石というものを私は以前大塚の天祖神社で見ているが、(オケイさんも同じ)それに比べてかなり大きい。細かな学問的詮索はドクトルやオケイさんに任せるが、要するに礫岩である。「だれか作ったんじゃないの」のんちゃんが笑う。素人がセメント細工に失敗して、無数の小石を上手く按配しそこねたような形でもある。「震災とか空襲の遺物だって言われればそうかなと思います」このさざれ石には苔は生えていないようだ。大阪万国博覧会に展示されたものだそうだが、世界の人はこんな石を見て感動したのだろうか。 夏目坂を登って更に少し行けば有島武郎旧居跡に出る。「有島武郎は札幌にある」ドクトルが断言する。北大出身者は何年経っても北海道に限りない愛情をもち続ける。武郎は北海道に永住する覚悟だったが、妻の結核のためやむなく東京に戻った。大正三年十一月のことで、その頃の北海道の家が、現在では札幌芸術の森に復元されている。その妻安子も五年八月に亡くなり、武郎が本格的に文学を開始するのはその後のことだ。 新宿のこの家に入ったのは大正十一年一月のことだが、翌年三月には「婦人公論」記者の波多野秋子と軽井沢で心中した。秋子の夫に脅迫されたのが、たぶんもっとも直接的な原因だろう。武郎は満で四十五歳、秋子二十九歳。私は「白樺」の連中には余り同情を感じない性質だが、武郎だけはちょっと気にかかる。
漱石終焉の地(新宿区早稲田南町七番地)は「漱石公園」になっている。新築の建物(情報発信センター)があって、ダンディがびっくりする。今年二月にリニューアルしたばかりだ。漱石像、猫塚もある。センターの中は涼しい。時ならぬ大勢の客に管理人が喜んで、ひとりづつに資料を手渡してくれる。「漱石山房秋冬――漱石をめぐる人々」という小冊子が有り難い。 今見ているのは変形の土地だが、面積は三百四十坪だったというから、現在隣接するマンションもその敷地に入っていたのだろう。その中央に六十坪の平屋が建っていた。家賃は四十円ということだったが、三十五円にまけてもらった。東側が回廊式のベランダになった和洋折衷の構造が当時でも評判を呼んだ。漱石が住んでいた頃の借家はその死後、鏡子夫人が買い取って建て直した。それが空襲で焼け落ちた。 ロンドン留学から帰国した漱石の東京での住まいの跡を辿れば、明治三十六年三月、最初千駄木の家に入った。(本郷区千駄木五十七)第二高等学校教授斎藤阿具の持ち家で、漱石以前に鴎外も住んでいたことがある。三十八年(一九〇五)一月『吾輩は猫である』を書いたことから、「猫の家」と呼ばれる。シリーズ第四回「本郷編」で歩いた。ところが斎藤が仙台から帰郷することになって、急遽、明治三十九年十二月、西片町(本郷区西片町十のろの七号)に移転。四十年六月に朝日新聞入社。九月、早稲田南町七のこの地に転居した。以来、大正五年(一九一六)十二月九日死去するまでを過ごした。死んだ時は満で四十九歳。「猫」から始まる作家生活は僅かに十一年に過ぎない。 「真砂町にはいなかったかい。真砂町の先生っていうからさ」ドクトルは勘違いしている。『婦系図』は別にして、実際に本郷真砂町炭団坂上に住んでいた先生といえば、坪内逍遥だ。 「お札になったということは、金持ちだったからかい」ドクトルは時々面白い発想をする。それでは樋口一葉はどうであろうか。貧窮に死んだ一葉に、いま少し執筆に専念できる環境と病気を治療するだけの金があれば。 それはともあれ、明治四十年、漱石の朝日新聞入社につけた条件は、月給二百円、夏冬の賞与を加えれば、年収二千八百円になる。明治四十二年の石川啄木は、朝日新聞社の校正係として月給二十円に夜勤手当平均七円をもらった。合計三十二円とすれば年収三百八十四円であった。ただし、借金を書き出してみると合計千三百七十二円五十銭にのぼった。 関川夏央の計算では、明治四十年代の一円は、大雑把に計算して一九九十年代の七千円に相当するという(『ただの人の人生』)これからすれば、漱石の年収はおよそ二千万円ということになるか。多くの弟子を抱えたにしては余裕があるという程ではないだろう。啄木の場合は、年収二百七十万の男が一千万円の借金を背負っていることになるわけで、一生返済できるとは思えない。(そして当然のことに返済はついにならずに死んでいった。) 公園内の水道で頭から水を被ると生き返る。岳人も、チイさんも同じことができる。(髪の毛が短い、または無い人の特権である)オケイさんが羨ましそうに煙草を吸っている。よくぞ男に生まれけり。「だけど冬は寒いぜ」モリオも実感しているか。しかし冷房の効いた室内に閉じこもった連中は、外にいる私たちを指差して何を笑っているのだろう。空を見上げればもうちゃんと夏の雲が浮かんでいる。
おぼろげな記憶で間違っているかもしれないが、高垣眸『怪傑黒頭巾』の主人公が確か、山鹿素行の息子だったか(これでは時代が違いすぎるか)、弟子だったか、その流れを汲むものであったか、そんな設定であったような気がする。「私は庄司薫しか知りません」と美女が言うから、私より若い世代では知らないか。昭和十年代に「少年倶楽部」に連載されたものだが、私は戦後に書き直された単行本を読んでいる。『さよなら怪傑黒頭巾』の庄司薫は昭和十二年生まれだから、ダンディとほぼ同世代にあたる。知っているかもしれない。 世代と言えば、このところ五十歳代と六十歳代以上とを区分けする指標として、仲間内のメール網では『怪傑ハリマオ』の話題が賑わった。のんちゃんも「私きのう読んだ。メールは週に一回しか開かないのよ」と言う。さっき早稲田大学を出るところで、美女が「真っ赤な太陽燃えている」と歌っていたが、ハリマオの歌は私の持ち歌である。 牛込氏の墓。上州赤城南麓の大胡(おおご)の豪族で、もと大胡氏を名乗った。『吾妻鏡』『義経記』に大胡太郎と言う人物が登場するらしい。戦国期に北条に仕えて武蔵国に移り、この地の地名牛込を名乗るようになり、北条滅亡後は徳川氏に仕えて旗本となった。藤原秀郷の後裔の足利氏(源氏の足利と区別して藤姓足利という)と称している。 藤原秀郷といえば俵藤太のムカデ退治が有名で(『今昔物語』)、将門追討によって武蔵、下野二カ国の国司となった。その子孫が関東一円に散らばり、坂東平氏とどちらが多いか分らないが、秀郷流を称する家は多い。一般に土着の豪族がその系図を名家に繋げる(仮冒)風潮は古くからあるので、本当に正しいか判定は難しい。だいたい、秀郷自身が藤原北家の裔と言っていることが本当なのかどうか。 牛込というからには、牛に関係する土地だった。大宝元年(七〇一)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎が建てられた。実際の場所は分らないが、古代の馬牧が「駒込」「馬込」の地名で残されているから、「牛込」の地名が残っている以上、ここがその「牛牧」であろうと判断されている。(ウィキペデイアより) 墓参りの人の邪魔にならないよう、私達は静かに行動しなければならない。しかし、私には宗教心はないものの、七月のこの時期のお盆というのには違和感がある。正確な旧暦ではないが、やはり盆と言えば八月十五日を中心とした時期ではあるまいか。「そうよね、私のほうも旧盆ですよ」と悠子さん。上方ではどうなのだろう。東京都内では七月に執り行うのが一般的なようだが、他の地方ではどうなのだろう。ここでもウィキペディアのお世話になろう。
多門院の境内に入れば「芸術比翼塚」を見なければならない。ただ、その前に入り口付近に「吉川湊一の墓」というのがあって、案内板が掲げてあるからそれが最初だ。「そっちじゃないよ、こっちだよ」と気の短い講釈師から声がかかるが、折角説明板があるのだから無視しては申し訳ないではないか。江戸後期、平家琵琶の奥義を極めて検校に上り詰めた人物である。この人物はそれだけにして、今回の主人公に移る。 大正七年(一九一八)から九年にかけて世界的にスペイン風邪が流行し、全世界で罹患者は二億人、死者は二千万人から四千万人に上ったと推定される。最初松井須磨子がこれに罹り、介抱していた島村抱月に感染した。須磨子は治ったが抱月は治癒せず、大正七年十一月五日に急逝した。満で四十七歳。 抱月は初め坪内逍遥と文芸協会(余丁町にあった)を設立したが、大正二年、須磨子との恋愛スキャンダルで文芸協会を脱退、芸術座を結成した。大正三年『復活』劇中歌『カチーシャの唄』を須磨子が歌って大ヒットした。 「カチューシャ可愛いや別れのつらさ」講釈師もあっちゃんも歌い始める。「この仲間ならこういう歌を歌ってもいいんだ」と大橋さんが納得したような顔をする。抱月の死後二ヶ月たった大正八年一月五日、須磨子は抱月の後を追って自殺した。
最初私はうっかりして、比翼塚の隣に立つ石橋家の墓を写真に撮ってしまったから、案の定「石橋さんって誰だい」とドクトルに突っ込まれてしまう。「須磨子の実家ですよ」なんて適当に誤魔化そうとしてもすぐにばれてしまう。墓の正面には貞祥院實應須磨大姉、側面に本名小林正子とちゃんと記されている。 命短し恋せよ乙女。講釈師が歌いだすまで忘れていたが『ゴンドラの唄』も須磨子だった。これはツルゲネフ原作『その前夜』の劇中歌である。つまり須磨子は歌う女優第一号である。そして、『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』とともに、作曲者の中山晋平も一躍有名作曲者になっていく。この頃からレコードによる流行歌というものが生まれ始めていた。ただし講釈師の『ゴンドラの唄』は黒沢映画『生きる』の名シーンによるのだ。「志村喬がさ」彼はこれが得意で、もう何度聞いたか分らない。 生田春月の詩碑も見たからには取り上げなければならないだろう。余り関心のない人物だけれど。荻原朔太郎が「日本詩壇の燈台」と称賛しているということだが、それほどのものであろうか。はっきり言って私は感心しない。
狭い路地にノウゼンカズラを見ながら歩くと、もう夏真っ盛りだと思える。狭い路地に泉鏡花住居跡の看板が立つ。「真砂町の先生って、婦系図だったか」さっきからなぜか真砂町の先生に拘っていたドクトルがやっと思い出す。お蔦と主税の恋愛に反対する「真砂町の先生」は尾崎紅葉のことで、紅葉が死ぬまで鏡花はお蔦のモデルである桃太郎(すず夫人)を籍に入れなかった。「私だって反対するよ」ドクトルはわが息子を思い浮かべたのだろう。 学生が三人、私達に恐れをなしたか、後ろのほうでモジモジしている。「将来のあるもんに道を譲らなくちゃ」講釈師は時々まともなことを言うので、将来のない私達がすぐに道を譲ると、彼らはすぐさま写真を撮りだす。今時鏡花に興味を持つ男の子がいるのだね。ファンタジーが異常に流行るおかしな時代には、幻想文学としての鏡花の読者が増えているのかも知れない。 志ん朝の亡くなった家の前に立つ。ロダンが好き、隊長も好きだなんて言うまでもない。志ん生には結城昌治『志ん生一代』がある。志ん朝には小林信彦の『名人』(伝記ではないが)がある。いずれ誰かによって決定的な伝記が書かれるだろう。平成十三年十月一日、肝臓癌で亡くなった。享年六十三。
ここに突然ツカさんが現れた。ダンディと電話で連絡をとっていたらしいが、こんなややこしい小路の中をよく落ち合えた。「もうそろそろ終わりでしょう」と言うが、宗匠作成の計画書では丁度一ページ目が終わったところで、まだ残り一ページある。「まだ半分ありますよ」法事があったとのことで、上着を小脇に抱えて革靴だから暑いだろう。この江戸歩きのシリーズに登場するのもずいぶん久し振りだ。これで総勢二十二人、男女同数となった。 曲がりくねった路地を迷いもせずに宗匠は案内してくれる。流石に下見二回の成果である。「だって、四谷のときは何度も間違えて講釈師に叱られたから」なにかあれば一生言われ続けるから、講釈師は怖い。これだけの人数がいれば、当然ながら列はかなり伸び、気の短い講釈師はイライラして「どっかで巻いてしまおうぜ」と口走る。「わざと、巻かれてしまおうかしら」「鬼子母神のときみたいに」「イヤ、あれは違います。私達は」ダンディとオケイさんはやっきになって否定しようとする。(何のことか分らない人は、第八回「雑司が谷・巣鴨編」を参照されたい。) 住所表示は横寺町になっている。「横寺町と言えば、私は旺文社を思い出す」少年ダンディが旺文社の受験雑誌に投稿すると、横寺町の住所から商品が届けられたそうだ。調べてみると旺文社の住所は今でも横寺町五十五になっている。 尾崎紅葉終焉の地。明治三十六年十月三十日、満で三十五歳。芝門前中町の生誕の地は、このシリーズ第五回目に芝界隈を歩いたとき、あっちゃんに教えてもらっている。紅葉露伴と並び称され、初期明治文学を率いた人物が、こんな年齢だったのだ。 鏡花の菩提寺である妙徳山円福寺(日蓮宗)。鏡花の没したのは昭和十四年、満六十歳に二ヶ月ほど足りないときだった。墓域に入ることができないが、木陰で女性たちは一息入れる。
諸国旅人供養碑は旅籠屋紀伊國屋主人利八が祀ったものだと書かれている。供養碑の右には多数の地蔵が並んでいる。「本屋さんとの関係は」「関係ありません」紀伊國屋書店の創業者田辺家の先祖は、内藤新宿のはずれで代々薪炭商を営んでいたから旅籠屋とは関係ない。 狂歌師便々館湖鯉鮒墓碑。狂歌になると私はほとんどお手上げだ。幕臣で唐衣橘洲門下、太田南畝に私淑したというから、ごく普通の狂歌師であろうか。宗匠がその代表作を教えてくれる。西新宿の常円寺に蜀山人筆の狂歌碑があるそうだ。
神楽坂に出れば、正面には文具の相馬屋が建つ。寛永十七年(一六四〇)創業。「江戸時代にも文房具ってあったんですか」オケイさんらしくもない質問だ。書道をやる橋口さんだったら(たぶん仲間の三木さんだって)すぐに分るだろう。文房は本来書斎と言うほどの意味であり、そこで使用する道具を文房具という。とりわけ文房四宝と言えば、筆墨紙硯である。明治中期、相馬屋が、それまで和半紙だった原稿用紙を紅葉の助言で洋紙に改良して売り出すと、文士の人気を得て白秋、逍遥、啄木も愛用した。漱石は特性の罫入りのものを作らせた。 ここで女性陣待望(一番待ち望んでいたのは講釈師か)のコーヒータイムに入る。CAFFE VELOCE。分散しながらもなんとか二十二人が席についた。オレンジジュース二百二十円也。お代わり自由の水が冷たくて上手い。今日はもうペットボトルを二本消費しているのに、まだ体は水分を要求している。黒須さんとチイさんが同じ蓮田原住民だということがわかって、ふたりは地域の話題に忙しい。 しかしこの店もまた全席禁煙である。我慢しれきれず私は早々に店を出た。道路も喫煙禁止か。向かいにある鎮護山善國寺(日蓮宗)では、石段の上には怖そうなおばさんがどっしりと腰を落ち着け、若い女性が一所懸命、盆用の切花を並べている。それをぼんやり眺めながら火をつける。
本多横町、芸者新道。花街を偲ばせる路地を歩けば、岳人はこの辺で飲みたいと溜息をつく。私も、もうすっかりアルコールを待つ態勢が出来上がっている。軽子坂。坂下に神楽河岸があって、そこから船荷を軽籠に背負って運んだ。その人足を軽子と言い、軽子が多く住んでいたと書かれてある。 坂を降りきれば、正面には全面にガラスの光るビルが建っている。そのセントラルプラザの前に、木の欄干を誂えた橋が架かる。下に水は流れていない。暗渠になっているのだ。牛込揚場跡である。揚場と河岸とはどう違うか。いきなり聞かれても困ってしまう。宗匠が今日始めて電子辞書を取り出して検索し、河岸は市が立つ、揚場はもう少し規模の小さいものであろうと推測する。「見せびらかしたくてしょうがないんだよ」講釈師が悪態を吐くが、便利なものは良い。「私のはもっと大きい」橋口さんが呟いている。逆に「私のはもっと小さい」とダンディは自慢する。 ただ、さっきの軽子坂の説明では坂下には「神楽河岸」があったことになっているのだが、江戸、明治の地図には神楽河岸という地名は出てこない。新しい地名だ。安政三年の地図では、牛込見附があって武家屋敷が並ぶ中に小さく、飛び地のように揚場町がある。こんな場所では市は開けなかっただろう。ウィキペディアで「河岸」を検索すれば、こんな風に書いてある。
本日のコースは全て恙無く終了した。宗匠の万歩計では一万四千歩であった。「あと三キロくらい歩きましょうか」少し涼しくなって元気になったあっちゃんが冗談を言う。地下鉄を利用する人、JRを利用する人たちと別れ、反省会メンバーは「さくら水産」を目指す。のんちゃんは、いつものように「また誘ってね」と明るく去っていく。サッチーは今日は飲まないと、オケイさんと帰っていった。 四時二分前、開店したばかりの「さくら水産」で席に着く。まだほかに客はいない。「また一番乗りなの」美女の言葉にチイさんが、「ファーストレディですから」と応じる。ダンディ、ドクトル、ツカさん、黒須さん、チイさん、宗匠、岳人、モリオ、あっちゃん、私。ビールが上手い。「重いんだもの、軽くしてね」と朝買ったばかりの「安兵衛」が美女から提供される。今日も散々食べて飲んで一人当たり二千二百円也。 この日、関東地方は猛暑に襲われ、練馬区では三十五・七度、熊谷市で三十五・八度を記録した。報道によれば熱中症で倒れた人もいる。事故もなく完歩できたのは良かった。 眞人
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