第十九回 目黒編  平成二十年九月十三日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.09.20

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 旧暦八月十四日。秋晴れである。雨になっていたら、講釈師がそれ見たことかと口をとがらしていたに違いない。何度でも言いたいが、今日は秋晴れである。というよりも残暑厳しき日である。今年の夏はおかしな陽気が続き、八月は嫌になるほど空気が湿っていて、全国的に局地的な(なんだか変な表現だな)豪雨が降り続いた。豪雨にならなくても秋の長雨という風情で、素人は毎年のように異常気象だと騒いでいるが、専門家によれば、既にこうした状態が「普通」のことになっているのだ。
 それがここにきて漸く空気が乾燥して、朝晩はめっきり涼しく、日中でも暑いとは言っても風が吹けば確かに秋を思わせる。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども」と古人が歌ったように、かつて秋というものは気付かれないように徐ろにやってきていたのに、この頃の秋はいきなりやってくる。ただし今日は暑い。私の企画だから雨を期待していた人は、やや不満そうな顔をしている。
 今日は目黒コースである。五月に会社が目黒に移転したお蔭でこの近辺に慣れたこと、以前ダンディが計画した五色不動巡りで残されたのが目黒不動であること、こうした理由で、今回は実に安直にコースを決めた。テーマは(そんなものがあるとすれば)、歌舞伎(及び落語)と民間信仰(庚申塔)にまつわる地を中心に巡るということになる。
 橋口さんは目黒に住んだことがあるというし、今日の参加者のなかでもこのコースは知っている人が多いだろう。江戸時代には郊外のハイキングコースとして知られていた。もちろん江戸府内ではなく朱引きの外側、目黒村である。
 女性はあっちゃん、大橋、胡桃沢、悠子、ノンちゃん、橋口、順子、三木、賈秀梅(日本語研究者、埼玉大学に研究留学中の中国人美女である)の九人。男性は宗匠、ロダン、チイさん、碁聖、モリオ、ダンディ、講釈師、私の八人。岳人は昼頃合流する予定だ。
 モリオは二三日前には、「今週はくたびれ果てているから」参加は無理だと言っていながら、二日酔いの赤い顔でなんとかやって来た。「ミツグさんは来ないんですか」あっちゃんが聞くが、彼の方も「疲労困憊」だというメールが入っている。仕事のしすぎではないか。

 行人坂の中腹にある大円寺から今日のコースは始まる。初めてこの坂を見たとき、下りはともかく登るには相当な決意が必要だと覚悟したが、毎日通勤で歩いていると慣れてしまうものだ。出羽湯殿山の修験道の行人が歩いたというのが坂の名の由来だから、江戸の頃にはもっと急峻なものだったかもしれない。今ではハイヒールの女性が平気で登っている。杉野女子大やホリプロの学校なんていうものがあるから、若い女性が結構歩いているのだ。
 脚力に自信がなければ、少し遠回りにはなるが、権之助坂(目黒通り)を回ることもできる。江戸の人たちが現代人よりは遥かに健脚だったとしても、下町から目黒不動に参詣に来る年寄りには、行人坂はきつかっただろう。大体、寺参りと言っても信仰のためというよりも、物見遊山、ハイキングが主な目的だから、できればこんな坂は避けて歩きたいだろう。そのため田道(でんどう)の名主である菅沼権之助は緩やかな坂道を造成したのだろう。それが幕府の許可を得ない工事だったため、処刑されたが、坂にその名を遺した。(別の説もあるらしい)
 松林山大円寺(天台宗)。由緒によれば、寛永の初め、湯殿山の修験僧・大海法印が大日如来を祀り、祈願の道場を開いたことが、この寺の始まりと伝えられている。明和九年(一七七二)の行人坂の火事が、振袖火事(明暦三年・一六五七)、芝車坂火事(文化三年・一八〇六)と並んで江戸三大火事と言われ、大円寺はその火元になった。

 二月二十九日、乾より西南の風激しく、土烟天を覆ひ、日光朦朧たり。午の刻、目黒行人坂大円寺(天台)より出火して、(後略)(斎藤月岑『武江年表』)

 火はたちまち広がり、麻布、京橋、日本橋から千住方面まで延焼した。死者は一万五千に達する。
 門の外には「目黒川架橋供養勢至菩薩」の石像が祀られている。門柱のところには「江戸最初山手七福神・大黒天」の石柱が立つ。江戸で最も古く始まった七福神巡りは谷中だか、「江戸最初」という文字が気になる。それに山手七福神というのもいくつかコースがあって紛らわしい。どうやら目黒駅の東側からこの近辺にかけて、わりに狭い範囲にまとまっているのが、ここでいう山手七福神であるらしい。

 大火後、行人坂大円寺再建なし。その跡へ、ある人、五百羅漢の石像を造立す。(斎藤月岑『武江年表」』)

 境内に入ると左手の崖には五百羅漢の石仏が並ぶ。五百あるかどうかは分からない。石板に浮き彫りにしたような形で、同じ大きさの羅漢が整然と並んでいる。宗匠の鑑定では、どの顔も優しげである。

 秋日和五百羅漢へ笑み返し 《快歩》

 行人坂の火事は、武州無宿の真秀という坊主の放火によるものだが、このため大円寺はその後七十六年間再建を許されず、幕末になって島津藩の援助のもとに漸く認められた。それには被災者を弔うための五百羅漢が大きな力を発揮したはずだ。寺の説明にも各種ガイドブックにも、五百羅漢の謂れをそう書いてあるのだが、「火事の被害者を弔うためなんて、どこにも証拠がないんじゃないの」宗匠の言葉に、「確か武江年表に書いてた」と言ってしまったが、調べてみると、そんなことは書かれていない。私の勇み足であったか。中国の美女に好い加減なことを教えてはいけないから、今回は特に慎重を期さなければならない。
 それはともかく、この年、明和九年はこの火事によって、「めいわく」(迷惑)となったため、急いで改元する。次の年号は安永である。
 西運上人の阿弥陀堂。お七地蔵。西運はこの寺の隣、明王院(今は雅叙園の一部になっているところ)に住んで、坂の修復や橋の架設に努力したという。この西運は八百屋お七における吉三郎の後身だとされているのだが、お七の恋人の名前には吉三郎、庄之介などの諸説がある。それに、江戸六地蔵を勧請した深川の沙門、正元坊が実は吉三郎であるという話もあって、実にややこしい。
 金鍍金が少し剥がれかけた薬師如来像を擦りながら、「悪いところをこうやって撫でてやれば治るんだよ」と講釈師が賈さんに説明する。「三澤さんなら、お腹を撫でなくちゃね、腹黒いところを少しでも治すように」美女が笑う。それとも口を撫でるべきか。
 五百羅漢の手前に小さな地蔵がいくつも並んでいるのだが、それがそれぞれ毛糸の帽子をかぶっているのが可愛い。
 門の脇には三猿だけを彫りこんだ庚申塔が三基立っている。なんども説明しているのだが、チイさんや悠子さんに聞かれるので、もともと道教に由来する庚申信仰に、日待ち月待ちの民間信仰、更に仏教や神道が習合したものだと答えておく。おそらく集落共同体の結束を固めるための講として始まったものが、猿田彦を関連付けたために道祖神、道しるべの役目を負ったところもある。猿田彦は天孫族のニニギノミコトが降り立った時、道案内をしたからだ。巣鴨の庚申塚は猿田彦を祀ってあり、中山道の道標にもなっていた筈だ。
 雅叙園を横目で睨んで太鼓橋に立つ。

 ○今年(明和元年)五月より明和六年九月迄に、目黒村太鼓橋普請成(享保の末、木食某願主にて掛けたるを再修せる所にして、江戸所々の石工寄附する所也。願主は岡崎丁森田屋茂兵衛というものなりとぞ(『武江年表』)

 現代では車が通るから太鼓橋というわけにはいかない。橋の上で広重の「目黒太鼓橋夕日の岡」(名所江戸百景)を開いて見る。夕陽の岡はちょうど目黒駅の辺になるだろうと宗匠と話していたのだが、どうやら大円寺から明王院(雅叙園)のあたりのことだったらしい。もうひとつ「富士見の岡」という名前も有名で、そちらの方は行人坂を登ったあたりというから、駅前になるだろう。
 私が開いた絵は『ここが広重画・東京百景』(小学館文庫)で、宗匠はちゃんとネットから引き出してプリントしたものを持っている。夕日の名所を敢えて雪景色として描くところが広重流なのだろう。周りを見回しても、絵に描いてあるような風景を想像するのは難しい。橋の袂に茶屋のような家が見えるのが、鰻屋「太鼓鰻」になっている場所だろうか。この店とコンビニとの境に夾竹桃が濃い桃色の花をまだ少し残して咲いている。
 ここから緑色に汚れた目黒川に沿って少し歩く。「これって神田川かい」モリオが聞いてくるが、それは違うだろう。烏山川と北沢川(今は暗渠になっている。世田谷編で豪徳寺から太子堂の辺りを歩いたときに確認した)が池尻大橋の辺で合流して目黒川になり東京湾に注ぐ。神田川のほうは、井の頭池に発して、ほぼ中央線に沿って流れ、両国橋脇で隅田川に合流する。「なんだか臭いな」確かにドブの匂いがする。「これが川だなんて、中国の人は笑っちゃうんじゃないの」モリオが笑う。黄河、揚子江と比べても仕方がないが、それと比べれば、どぶ、溝と言ったところだろうか。
 宗匠が、目黒川は江戸の頃には「こりとり川」とも呼ばれたと教えてくれる。水垢離の「こり」であり、不動尊に願掛けする前に水垢離をすることによった。今のこの川の状態では思いもよらないが、当時はそれだけ綺麗だったということだろう。
 狭い路地には昔ながらの鉄工場なんかもある。それを抜け山手通りに出ると、その交差点には「不動前」の標識があって、信号を渡ればそこに某有名書店の本社ビルがあるのだ。その脇から目黒不動への参道が続いている。

 不老山成就院薬師寺(天台宗)は蛸薬師と呼ばれる。本尊が、三匹の蛸に支えられた蓮華に乗った薬師如来だからだそうだ。「前に来たことあるんだけど、こんなところだったかしら」美女がしきりに首をひねる。本堂正面の壁にはマンガのようなタコが描かれていて、その手前には地蔵や観音(かな?)が並んで立っている。そのひとつが保科正之の生母「お静」地蔵だ。正之は秀忠が生涯にただ一人、正室以外の女に産ませた子で、会津藩祖となった。「秀忠って人は本当に恐妻家で、誰かに似てますね」ダンディがロダンの顔を見る。

 恐妻家で知られる秀忠はお静の妊娠を知り、正室お江与の癇気を恐れたためか、お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預けた。そこで生まれた子は幸松と名付けられ、見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことであった。まさに「将軍様の御落胤」である。元和三年(一六一七年)、武田氏ゆかりの信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子という名目で養育される。
 お江与の死後、寛永六年(一六二九)十八歳にして初めて父・秀忠との面会が叶う。寛永八年(一六三一)高遠藩三万石の藩主となり、正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受。以後、通称・肥後守と称される。(ウィキペディア)

 正之は十五カ条の家訓を遺し、特にこの第一条が幕末になって松平容保の行動を拘束した。こういうものである。

 一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
 一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
 一、兄をうやまい、弟を愛すべし
 一、婦人女子の言一切聞くべからず
 一、主をおもんじ、法を畏るべし
 一、家中は風儀をはげむべし
 一、賄をおこない媚をもとむべからず
 一、面々 依怙贔屓すべからず
 一、士をえらぶには便辟便侫の者をとるべからず
 一、賞罰は家老のほかこれに参加すべからず。もし位を出ずる者あらばこれを厳格にすべし。
 一、近侍のものをして人の善悪を告げしむべからず。
 一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし。はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
 一、法を犯すものはゆるすべからず
 一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり。歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
 一、若し志をうしない遊楽をこのみ馳奢をいたし土民をしてその所を失わしめば、すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
  右十五件の旨堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文八年戊申四月十一日

 安養院のチベット美術館は入館料八百円だから、興味のあるひとは別の機会にきてもらおう。あっちゃんは興味がありそうだが、「七百円のコーヒーだって止めたんだぜ(芝離宮の帰り)、八百円なんか出せるわけないじゃないか」講釈師が自信を持って断言する。だから寄らないが、ここは臥龍山安養院能仁寺、天台宗である。寺の由緒によれば、天台宗第三世慈覚大師によって開かれたことになっている。
 この慈覚大師(円仁)が怪しい。最澄没後、承和五年(八三八)唐に渡って十年滞在し、密教を持ち帰って天台宗に大胆に取り入れ、台密を確立した人物だ。『入唐求法巡礼記」をあらわしている。忙しくて、当時の草深い武蔵国の片田舎になんか来ている暇はなかったんじゃないか。ただし、こんな風に書かれれば、実際に来たのかしらとも思われる。

 弘仁七年(八一六)この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に六箇所を選んでそこに宝塔を建て一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。(ウィキペディア「慈覚大師」より)

 しかし、最澄に同行したのだとすれば、開基は最澄(伝教大師)とされるのではあるまいか。ただ、この近辺には天台宗の寺院が多いのは確かなことだ。
 それにしても次の記事は眉に唾しなければ読めない。

 目黒不動として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に二百九寺、東北に三三一寺余このほか北海道にも存在する。

 平安初期に円仁が北海道に渡ったというのか。阿倍比羅夫の時代に大遠征を行って蝦夷征服を試みたが、北海道にまでは渡っていないはずだ。その後も蝦夷の反乱(民族運動)は続いていたし、そんな時代に北海道に天台宗の寺を開いたなんていうことは信じられない。  鰻の西村屋(すいぶん有名な店のようだ)の店先で、ウナギの匂を嗅ぐ。そこから右に曲がるのだが、ロダンは左に行ってしまいそうになる。「おいおい、ウナギの匂いで勘が狂ったんじゃないかい」今日の講釈師は好敵手ロダンがいるので、いつもより攻撃的な口調が滑らかだ。正面に山門が見える。この参道が、毎月二十五日の縁日には露店で一杯になる。
 山門の手前の道端に白井権八、小紫比翼塚が立つ。鈴が森で処刑された権八を追って、ここで小紫は自害した。時代小説の知識で考えれば、そもそも吉原の遊女が廓の外に出るというのは大変だったのではないか。仮に出ることができたとしても、目黒まではかなりの道のりだ。途中で誰かに邪魔されないのがおかしい。「そうですよ、お歯黒どぶに囲まれて、逃亡はできなかったはずですよ」
 江戸の物語はどこまでが実説でどこからが虚構なのか。「実録」と称し、あるいは歌舞伎や歌祭文になれば、とにかく全てが実際あったことと同じになる。
 権八は本名平井権八、出雲藩士の子として生まれた。犬の喧嘩に端を発して父の同僚を殺して逐電、江戸に現れたことになっている。その後、吉原「三浦屋」の遊女小紫と馴染みになって、登楼の金を稼ぐため辻斬り強盗を繰り返した。権八に殺された者は実に百三十余人という。殺人鬼と呼んでよい。こういう男に惚れる女も不思議で仕方がない。江戸人の不思議なのは、こんな希代の極悪人でさえもヒーローにしてしまうということだ。
 歌舞伎では「お若いの、お待ちなせいやし」と幡随院長兵衛が呼び止め、「待てとお止めなされしは拙者がことでござるかな」と権八が応じる。「佐藤さん、長兵衛と権八とは時代が違うって言いますが、ほぼ同時代じゃないですか」ダンディの質問にはこう答えよう。長兵衛が水野十郎左衛門に謀殺されたのが慶安三年(一六五〇)、権八が江戸に出てきたのが延宝元年(一六七三)だから、死後二十三年にもなる長兵衛に会うのは難しい。(村雨退二郎『史談蚤の市」より』
 権八・小紫の連理塚が品川の安楽寺にあると宗匠が教えてくれる。言うまでもないが「比翼」「連理」は白楽天『長恨歌』からきている。玄宗皇帝と楊貴妃の恋が、殺人鬼と遊女の恋にも適用される。久しぶりに読んでみた。

 在天願作比翼鳥  天に在りては 願わくば 比翼の鳥となり
 在地願爲連理枝  地に在りては 願わくば 連理の枝と為らんことを
 天長地久有時盡  天は長く 地は久しくとも 尽きる時有り
 此恨綿綿無盡期  この恨み 綿々として 尽きる時無し

 目黒不動、正しくは泰叡山瀧泉寺(天台宗)で、関東最古の不動霊場だという。ここもまた大同三年(八〇八)円仁の開基のよるという寺伝をもつ。怪しいのは先に言った通りだが、江戸時代初期から庶民に信仰が広まったのは確かなようだ。山手七福神では恵比寿を担当する。
 以前にも触れたが、『定本武江年表』の索引で見る限り、目黒不動については、「堂塔焼亡」「再建」「諸願成就で流行」「不動塔等造営」の記事があるに対して、目赤不動は「目赤不動尊移転」の一件、目白不動は「新長谷寺」の項に不動堂のことが記されているだけだ。五色不動と言われる「目青」「目黄」に関しては一切何の記事もない。

 ○春、目黒不動尊の後在家より火起て堂塔焼亡す(此時、霊像烟中を飛出給ひて、瀧のうへに立給ふと云々。(元和三年の項)
 ○六月上旬より目黒村不動尊、諸願成就するよしにて、俄に江戸中老若男女群衆す。(寛永六年の項)

 仁王門を潜ると目の前には独鈷の滝。伝承では、慈覚大師円仁が寺地を定めようとして独鈷を投げたところに霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。こんな話は全国各地にある弘法大師伝説と同じだから信用しなくても良い。山の手の典型的な湧水だ。
 池に立つ水掛け不動では、講釈師がさっきと同じく「悪い所にかけるんだ」と賈さんに説明しながら水を掛ける。女性陣も一所懸命柄杓を振って水を掛けている。

 お不動の顔に水掛く残暑かな 《快歩》
 懸命に柄杓振るふや秋の空  眞人

 石段の手前の右手には、畳一枚分より余程大きい「春洞西川先生」の石碑が立っている。向島を歩いていたとき西川春洞・寧旧居跡のところで、寺山夫人が「寧先生にはお世話になったのよ」と言っていた、その西川寧の父親で、書の大家である。書道をやっている橋口さんはさすがに春洞の名前を知っている。その奥には筆塚もある。私は知らないから一応経歴を掲げておこう。

肥前唐津藩士、元琳の子として江戸の日本橋に生まれる。西川家は代々、医をもって唐津藩に仕えた。春洞は幼少の頃、祖父の亀年に書を学び、のち嘉永四年(一八五一)五歳のときから中沢雪城の門で学んだ。六歳のときにはすでに楷書千字文を書いている。維新前には尊王攘夷を唱え国事に尽くし、明治元年(一八六八年)二十二歳のとき大蔵省に出仕したがまもなく辞め、書道に専念した。
明治十五年(一八八二)中林梧竹が余元眉の影響で清国に渡り、続いて明治二十四年(一八九一)日下部鳴鶴が楊守敬の影響により渡清するが、春洞は日本で秋山碧城が清国から持ち帰った徐三庚の書を双鉤?墨して学び、徐三庚への傾倒が始まる。晩年、明治書道会を興し、大正四年(一九一五)六十九歳で歿した。(ウィキペディア)

 左のほうには本居長世の碑もあるが今日は寄らない。本居宣長六代の子孫で、『赤い靴』『青い目の人形』『七つの子』などの作曲者だ。本堂を守る狛犬は、ほんとうの犬の形をしている。「可愛い」
 裏手に回れば、大日如来が鎮座している。「下から拝むと、仏さまと視線があうんだよ」講釈師は今日も絶好調だ。
 出発しようとすると人数が足りない。「佐藤さんの姪御さんがいません」碁聖、それは違う。「姪ではなく従妹です」下に見える公園からまっすぐに目黒通りに向かえば、「寄生虫館」があるのだが、もちろん行かない。サナダムシなんかがホルマリン漬けになっているのだ。虫愛づる姫もさすがに寄生虫までは守備範囲にはないらしい。
 目黒不動の裏手の狭い道を歩けば青木昆陽の墓に出る。花を見ていて遅くなったロダンを「二回目の参加で勝手な行動をとるんじゃないよ」と講釈師が罵倒する。墓石の「甘藷先生墓」の文字は昆陽自身の筆になるという。青木昆陽はサツマイモで有名なのは当然だが、蘭学の祖であることも忘れてはいけない。『阿蘭陀文字大通辞答書』『和蘭貨幣考』『和蘭字記』『和蘭文訳』などを著わして蘭学の基礎を作った。これが弟子の前野良沢に引き継がれていく。
 石段を降りると墓地に出る。実は道を間違えたのだが誰にも言わず、隅のほうから回り込んで本堂の正面に出ると、本堂では法事の最中だ。ここは海福寺(黄檗宗)。隠元禅師が承応三年(一六五四)明から渡来して最初に深川に建てた寺だ。七年後には明が滅んでいるから、明末清初の動乱を避けた亡命のふしがある。ところがこの寺は黄檗宗の本山にはならず、後に万治三年(一六六〇)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜って新しく寺を建て、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けたほうが本山となった。
 「関東でインゲン豆っていうのは、隠元が齎したものとは違う種類です。上方にあるのが本物の隠元豆です」ダンディはあらゆる文化は上方にあって、東国にあるのはまがいものだと主張するのだが、どうやらそれは本当のようだ。

 南アメリカのメキシコ近辺。 メキシコのテワカン渓谷の洞窟で発見されたインゲン豆は栽培された品種で紀元前五千年頃のものと考えられています。 コロンブスによる新大陸発見にともなってヨーロッパに伝えられました。 日本には明の僧(後の隠元禅師)が一六五四年に持ち込んだので、 隠元豆という名が付いたと言われています。(しかし隠元が持ち込んだのは本当は藤豆だとも言われています。 関西地方ではこの藤豆を隠元豆と呼び、逆に一般にインゲン豆と呼ばれているものを藤豆と呼んでいます。)(ウィキペディア「隠元豆」より)

 永代橋沈溺諸亡霊塔があるのは、この寺がもともと深川にあったことを示している。文化四年(一八〇七)八月十九日、深川富岡八幡宮十二年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、橋は落ちた。「松平定信の緊縮財政が一因です」日本史が苦手だった筈のあっちゃんが江戸の歴史を勉強している。
 永代橋の維持管理にはかなりの経費がかかるため、享保四年(一七一九)以来公金の支出を廃止して、町方の負担に切り替えていた。とすれば定信というよりも暴れん坊将軍の政策だ。しかし、その後松平定信の寛政の改革では、祭りに対する禁令がたびたび発せられていたし、なににつけても禁止禁止を言い立てる政策が続いていたから庶民の不満は高まっていた。充分な管理が行き届かなかったうえ、久しぶりの富岡八幡宮の祭礼だというので、群衆が一度に集まった。

 山門は朱塗りの四脚門で目黒区の指定文化財になっている。「また裏口から入ったのか」講釈師得意の悪口を耳にしながら海福寺を出てすぐ右の五百羅漢寺に入る。
 天恩山羅漢寺。寺はコンクリート造りで、一見するとなにか新興宗教の会館のような姿をしている。小名木川周辺を歩いたとき、五本松のところに道標が立っていたのを覚えているだろうか。元々この寺は本所五つ目(現在の西大島駅のあたりだという)にあったものだ。「本所の羅漢さん」として信仰を集めていたが、安政の大地震で大被害を受け、幕末から明治にかけては廃寺のような様相となった。折角の羅漢も野晒しのまま放置されていたようだ。
 明治四一年、現在地に移転してから一時は桂太郎の愛妾だったお鯉が晩年に住職を務めたこともある。今の形に再建されたのは昭和五十六年のことである。「昔は確かサザエ堂があったんですよね」あっちゃんはずいぶん詳しい。江戸の盛んな時の様子は、以下のようである。

 本殿、東西羅漢堂、三匝堂などからなる大伽藍を享保十一年(一七二六)までに建立している。三匝堂は江戸時代には珍しかった三層の建物で、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の百か寺の観音を祀ったことから「百観音」ともいい、その特異な構造から「さざえ(さざゐ)堂」とも呼ばれた。建物内部は螺旋構造の通路がめぐり、上りの通路と下りの通路は交差せず一方通行となっていた。三層にはバルコニーのような見晴台があった。この建物の様子は葛飾北斎が代表作『冨嶽三十六景』の中の「五百らかん寺さざゐ堂」で描いているほか、歌川広重、北尾重政などの浮世絵師も題材にしている。松雲元慶の造立した五百羅漢像は本殿とその左右の回廊状の東西羅漢堂に安置され、参詣人が一方通行の通路を通ってすべての羅漢像を参拝できるよう工夫がされていた。『江戸名所図会』などの絵画資料を見ると、参拝用の通路はゆっくり参拝する人たちのための板張りの通路と、旅人が土足のままでも参拝できる通路とに分かれ、それぞれの通路が交差しないようになっていた。(ウィキペディア)

 階段を上って受付(社務所かな)で三百円の拝観料を支払う。木彫りの羅漢はそれぞれに表情や身振りが異なり、一体づつに、なんとか尊者という名前とともに、それぞれの教えの言葉が書かれている。誰でも一つは自分に思い当たる言葉があるというのだ。
 チイさんが「これが私です」と感激する。正確には忘れたが、細部だけを見て全体を忘れてはいけないというような趣旨ではなかったか。「その隣は三澤さんでしょう」とは誰が言ったのか。「他人に厳しく自分に優しい」コーナーを回ると正面に「怖いものがあるの」と美女が言うのは夢を食う獏王の像、スフィンクスのようでもある。この羅漢は松雲元慶(一六四八〜一七一〇)が独力で彫ったものだ。

 阿羅漢の言葉沁み入る秋扇  眞人

 そもそも羅漢とは何か。本来は阿羅漢というべきを略して言っている。仏弟子の中で最高位についたものをいうが、中国、日本では仏法護持を誓った十六人の弟子を、十六羅漢として尊敬した。さらに、釈迦入寂後、仏典を結集するために集まったのが五百羅漢である。私が知っている名前では、十六羅漢の第一位に賓頭盧尊者(おびんずる様)がいる。
 羅漢堂を出て、本堂の右手で虚子の句碑を見る。ごろんとした凹凸のある大きな石に彫りつけてあるから、よく読めない。説明板を見ながら宗匠が一所懸命メモを取っているが、私はお手軽にカメラに収めてしまう。

 盂蘭盆会遠きゆかりと伏しおがむ  高浜虚子

 説明には、虚子は改組初代住職の安藤妙照と親交があったと書かれている。安藤妙照というのは、さっき触れた「お鯉」さんで、その「お鯉観音」も小さな祠に祀られている。天和三年(一六八三)銘のある梵鐘。
 千羽鶴がかけられた桜隊原爆殉難碑のところで賈さんが「鶴は日本では何の象徴ですか」と訊いてくる。「平和祈願」と答えたのだが、それだけはないね。「中国では長寿を表します」と彼女が言うとおり、長寿祈願、病気平癒祈願にも登場する。
 桜隊というのは、新劇の名優丸山定夫を団長にした移動劇団で、広島を巡演中に被爆し、九名全員が死亡した。ここに殉難碑があるのは徳川夢生の呼びかけによるのだ。
 本堂で執り行われていた法事が終わって、空になったところを眺めると、ここにも羅漢が展示されている。さっきの羅漢堂と合わせて、三百体以上が残っているのだ。

 隣接する「らかん茶屋」で昼食だ。この二階は会席料理専門になっていて、一人前五千円から一万円ほどもする。「わたし、この二階の方かと思っていたの」橋口さん、今日の私たちにはそれは無理というものだ。そちらの方はおもに檀家の法事で利用されるものらしいのだが、一階はランチを出すので、手軽に入ることが出来る。折角予約していたのに、一階は私たちの貸切状態で、これなら特に予約する必要もなかったか。
 らかん御膳が八百円、蕎麦や饂飩にはお握りがついて七百円、お握りがいらなければ百円安くなる。精進料理ではないが、なんとなく老人向けのランチのようで、若者だったらちょっと物足りないかも知れない。岳人とはここで合流する筈だったがなかなか現れない。
 出発前にさっき出てきた羅漢堂のトイレを借りる。法事客に向かって茶屋の姐さんが「今日はウォーキングの人でいっぱいなの」と話しているので、「申しわけなくて挨拶してきました」と碁聖が報告する。山手通りとの角に、五百羅漢を彫った松雲元慶が片足を膝に乗せて腰かけている像が建っている。
 山手通りを少し西に向かえば蟠龍寺(浄土宗)がある。わたしは「ばんりゅうじ」と読んだが、宗匠が辞書を開いて、蟠龍は「はんりょう」と読むのだと教えてくれる。門を潜っても、両側には民家が建っているからお寺に来たとは思えない。どんどん進んで本堂の脇から階段を上れば崖下の洞窟の中に弁財天が鎮座しているのだ。これも山手七福神である。
 「弁天様って、神様ですか、仏さま?」チイさんが質問する。もともとインド土着の神が、仏教にとりいれられた時「天」と名付けられた。弁財天(弁才天とも書く)は川の女神である。だから本来仏教の人(?)なのだが、「うちの方じゃ神社になってます」とチイさんの疑問はそこにあったのだ。そういうのも見た記憶がある。弁天さまは七福神の一員だから、神様であっても何の問題もない。
 平安の本地垂迹説以来、日本では神仏は習合したから、神も仏も別に一緒で一向に構わない。ところが平田流の国学者が中心になって進めた明治の神仏分離令は、それらを明確に分離することを要求したから、ところによっては神道に属することを選んだ弁天様があってもおかしくない。参考になるのは豊川稲荷ではあるまいか。普通、お稲荷さんは伏見神社を総社とする神社だが、豊川稲荷だけは寺院である。
 人間だってその気になれば神にも仏にもなってしまうのは、天神様(菅原道真)やダンディの嫌いな東照大権現(家康)を持ち出すまでもない。さっきの「お鯉観音」なんか、元芸者で内閣総理大臣の妾だった女性が観音様になっているくらいだ。
 階段を下りれば「おしろい地蔵」である。顔は欠けていて、何が「おしろい」なのかわからない。コンパクトというのかな、化粧用具も供えられている。
 「これは雑草だろう」モリオの言葉には「雑草という草はない」と偉そうに答える。「これが好きなんだ」葉が縮れたようになっているもので、あっちゃんの鑑定によれば、ケチヂミザサ(毛縮笹)である。イネ科チヂミザサ属。

 松輝山大聖院(天台宗)には切支丹灯篭三基が置かれている。もと、千代ケ崎にあった旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷小祠内にあったもので、大正十五年に大聖院に移された。千代ケ崎というのは、権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(三田二丁目十番)辺りまでの目黒川沿いの台地を呼んだものらしい。説明によると、中央のもっとも高い一基の棹石には変形クルスとキリスト像とおもわれる形状が、また左右面に、漢詩が刻まれる。
 島原藩に切支丹灯籠が保存されていたというのはどういうことだろう。天草四郎の島原の乱の後、その地を領有した藩主は、他の土地以上にキリシタンには神経を使わなければいけなかった筈だ。それでも藩邸にこんなものが持ち込めるほど、島原という土地にはキリシタンの影響が強く残っていたということか。
 小さな寺だが、隣の大鳥神社の別当寺だったのではないだろうか。その大鳥神社にも一基の切支丹灯篭が据えられている。
 「大鳥神社の総社は上方にあります」とにかく上方のことになればダンディは詳しい。大鳥大社は和泉国大鳥郡にあって全国の大鳥神社の本社とされる。東征の帰途、伊吹山で病に罹ったヤマトタケルは伊勢国能褒野で死ぬ。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に和泉国に舞い降りた。その降り立ったところが大鳥神社である。
 目黒の大鳥神社由緒によればこんなことだ。

 景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社がありました。日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、再び剣を持って働く事ができるようになったので、当社を盲神と称え、手近に持って居られた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。
 当社の社伝によると、「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年には、社殿が造営されました。当社の社紋が鳳凰の紋を用いているのはこのためです。

 「ここはお寺ですか、神社ですか」現代中国人の賈さんが悩むので、もともと神社と寺院はセットになっていたのだとダンディが説明している。日本人の宗教感情はどうなっているのか不思議で仕方がないだろう。私だって不思議だ。もうひとつ、宗教は阿片であると教えたマルクスを信奉する(筈だった)国に生まれ育った人は、宗教というものをどう見るのだろうというのも、私にとっては気になるところだ。
 隅に立っている石碑の文字が読めないと橋口さんが悩んでいる。上に「神」下に「塚」(つち偏のないもの)は読めるのだが、真ん中の文字が難しい。こういうときは目を凝らして神経を集中すると分かることがある。「楽」である。それならば神楽塚。大鳥神社には「剣の舞」と称する太々神楽が伝わっている。毎年九月の例祭(今年はちょうど先週の土曜日に行われている)に奉納するのだというが、このことに関係しているのかもしれない。
 更に絵馬に描かれた、低い山に葉っぱが差し込まれたような絵が分からない。モリオが悩んでいたのだが、境内に木の切り株にヒコバエが生えているのが見つかった。これのことじゃないか。ところが調べてみると全然違った。この絵はヤツガシラである。ヤマトタケルが八族平定したことを表すというのだ。「八族」とは何であろうか。「常陸国風土記」というものがある。

 難波の長柄の豊前の大宮にアメノシタシロシメシシ天皇」(孝徳天皇)の世に至りて、高向臣.中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の国を総べ領らしむ。時に我姫(アズマ)の道を分かちて、八つの国となし(後略)(http://www3.ocn.ne.jp/~x484kok8/hitati1.html)

 というのを見れば、要するに東国全体のことか。「オトタチバナが身を投げたのは浦賀水道の走水ですね」ダンディの言葉に、あっちゃんはオトタチバナを祀った妻恋神社(湯島)を思い出す。
 目黒通りを駅と反対方向に行き、寄生虫館を通り過ぎてもう少し歩けば、競馬場跡の碑(小さな馬の像)も立っているから、興味のある人は後日歩いて見ると良い。第一回のダービーが行われたそうだが、私は競馬には興味がない。
 私たちは反対に目黒駅の方向に向かって橋を渡る。横断歩道の信号を待っているところで、向こうに岳人が手を振っている。うまいところで会えた。少し顔が赤いのは、実はあんまり暑いのでビールを一杯引っかけてきたからだと後で岳人は告白した。
 新目黒橋の袂から目黒川沿いの遊歩道を歩く。「桜の頃に来てみたいですね」と碁聖が言うとおり、川沿いの道は桜並木になっている。その葉が緑陰をなしていて気持ちが良い。川の水が上流に向かって流れているのをモリオが確認する。
 ノンちゃんがワード文書を開けないこと、岳人のブログを開くと画面がおかしいことなど、パソコンのことについて宗匠に相談している。メモリの不足か、ネット環境のせいではないかというのが宗匠の診断だ。「だから作文は暫くの間、印刷してちょうだいね」お安いことだ。
 区民センターの裏で遊歩道と離れると、ほぼ直角に曲がった道の角に田道庚申塔群に出会う。七基の庚申塔が屋根を掛けた祠に鎮座しているのだ。結構車が通るので気をつけないといけないが、花が供えられているから、いまでも地元の人たちはちゃんと手入れをしているのだ。さっきの大円寺のものとは違って、こちらの方はすべて青面金剛を彫っている。
 田道の交差点で山手通りを横断してちょっと歩いて、道を間違えたことに気がついた。「なんだよ、間違えたのか」講釈師の声が耳に痛い。すぐに戻って坂道に入る。ちょっと急な坂で後ろとはずいぶん離れてしまった。そろそろみんなの足どりが重くなっているようだが、あっちゃんが一気に駆け上ってくる。一番元気なのは悠子さんだろうか。ちゃんと先頭について歩いている。中国の美女が遅れがちなのは、電子辞書でひとつづつ確認しながら歩いているからだ。人はこんな風に、いつでも勉強しなければならない。
 馬喰坂。標柱によれば、バクロとは道のあちこちに空いた穴ぼこのことで、これは目黒の方言である。博労とは何の関係もない。坂道を登りきったところに、馬喰坂の庚申塔群がある。目黒地区は庚申信仰がずいぶん盛んだったようだ。
 「どこから来たんだい」自転車に乗った男が声をかけてくる。「埼玉県だよ。今日初めて東京と言うところにやってきた」と答えると、「東上線は良いね、成増とか和光とか。この辺の連中はみんなあっちの方に家を建てて出て行っちゃうんだよ」と応じてくる。よほど暇そうな男だ。「俺はゴミ焼却場に行くんだ」と聞きもしないことを口にして自転車は去っていった。
 この角を曲がれば現代美術館の野外展示場が見えてくる。抽象的なオブジェは私にはさっぱり分からない。側溝のコンクリートをただ置いてあるようなものは一体何だろう。「川崎さんがいる」講釈師の声にノンちゃんが不思議がると、「あそこにあるじゃないか」と像を指さす。考えすぎて悩んだか、体が捻じれるような形になっている。「あれは考えすぎたひと」とチイさん。

 彫刻も考えすぎる秋の空  眞人

 現代美術に関心があるのではないが、暑さを凌ぎトイレ休憩を兼ねて、無料だから美術館の中に入る。係の女性がドアを開けて待っていてくれるので、外の連中にも声をかけ、取り敢えず全員中に入ってもらうことにする。こちらのほうは具象の像が中心だ。彫刻に全く関心を示さない人は、場所柄も弁えず大声でなにか喋っている。ひとりで美術館を守っている女性がおかしそうに「どこからいらしたんですか」と笑いかけてくる。
 宗匠は表に立っている多層塔の四面に記された凡字が気になって仕方がない。四面に彫られている以上、阿弥陀如来の下に観音菩薩と勢至菩薩を配する三種子ではない。帰宅してゆっくり調べてみたが、塔の中心を大日如来と見立て、東・南・西・北に阿?(あしゅく)如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来を配置したとすれば、これは金剛界五仏を表す(のではないだろうか)。
 こんなものがあるのは、この美術館が隣接する高峰山長泉院(浄土宗)の経営するものだからだ。座り込んでしまってなかなか立ち上がれない人たちに声をかけて出発する。
 長泉院には松崎慊堂の墓があるという案内板はあるが、墓地の入口は閉ざされていて入ることができない。「有名なひとですか」「有名です」ロダンがメモをとる。天保の頃、佐藤一斎と並び称されたが、学力は断然慊堂のほうが上だったといわれている。門人に渡辺崋山や安井息軒などがいる。
 知らなかったが、武田泰淳が養子に入った先がこの長泉院で、泰淳自身が一時期住職をしていたことがある。泰淳、百合子の墓もここにあるそうだ。こんなこともちゃんと説明してくれるものがあれば有難いのだが、何もない。
 藤の庚申塔。本当に庚申塔が多い。「こういうのは、誰が守っているのかしら」「町内会じゃないですか」そんな話を悠子さんとしていると、「写真に書いてある」と講釈師が掲示板を指さす。「これは神様、仏様、どっちなの」そう聞かれても困ってしまう。邪鬼を踏みつけている青面金剛が彫られているからには、仏様だと言ってもよい。単に共同体団結の象徴とみてもよい。いずれにしろ、神仏分離以前の日本人にはどっちでもよいことだっただろう。山川草木ことごとく仏でもあり神でもあるのが日本人の宗教感情だ。

 この国や悉皆仏性秋の空  眞人

 都立目黒高校出身で祐天寺付近はよく知っている筈の岳人が「この道は通ったことないですよ」と首を捻っている。狭い道なのに車が通る。右手の方を見れば落ち込むような坂道も見える。この道はちょうど尾根にあたるのではないだろうか。
 「あの花の名前が分からないの」ノンちゃんが嘆く。私は見損なってしまったが、ノンちゃんとあっちゃんが知らなければ私に分る筈もない。園芸種じゃないか。「うん、そうなんだけどね。とっても可愛いの」
 駒沢通りに出て左に歩けば祐天寺に到着する。最初は白子組海難供養碑を見る。白子は伊勢湾の中心に位置する港で、上方に産する木綿を集荷し白子廻船によって江戸に送り込む基地になっていた。当時の和船は、その構造上海難事故が多発しても仕方がなかった。
 門前を通り過ぎて母校である目黒高校の現状を確認してきた岳人が戻ってきた。「やっぱり全く変わっていました」四十年近くも経てば面影は残っていないだろう。
 仁王門は綱吉の娘が寄進したものだ。右側には累塚がある。「累」の怨霊なんて言ってもよくわからない。歌舞伎や浄瑠璃になっている筈だから、詳しい人は知っているだろう。「累ケ淵って、登場人物が少しづつ違う」ダンディは歌舞伎に詳しいからね。三遊亭円朝『真景累ケ淵』はもともとの江戸の怨霊話とは異なって、舞台を借りただけの後日談のようだ。その元々の累の怨霊を鎮めたのが祐天上人である。どうやらこの坊さんは江戸時代の悪魔祓い、エクソシストとして有名な人物だったらしい。
 ウィキペデアイからもともとの怪談の梗概を引用する。

 累の物語は江戸時代初期の慶長十七年(一六一二)から寛文十二年(一六七二)までの六十年にわたって繰り広げられた実話に基づいていると言われる。
 下総国岡田郡羽生村(茨城県常総市羽生町)の百姓、与右衛門とその後妻お杉の間には助という娘があった。しかし、連れ子であった助は生まれつき顔が醜く足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。
 両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎を看病し二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保四年(一六四七)八月十一日、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
 その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが尽く死んでしまうという怪現象が続く。ようやく六人目の後妻きよとの間に菊という娘が生まれた。寛文十二年一月、菊に累の霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語って供養を求めて菊の体を苦しめる。近くの弘経寺に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、菊の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて成仏させた。

 円朝のほうは、安永二年(一七七三)十二月に始まる噺だが、こちらの方も歌舞伎で演じられることがある。「可哀そうにね。ブスだからってなにも殺さなくても」順子の言うのは正しい。

 怪談も遠き昔や秋の風  眞人

 祐天上人は増上寺第三十六世住職であったが、没後その墓所と定めて開山したのがこの祐天寺である。
 墓地の一番奥まったところに祐天上人の墓所があり、周りには同じような無縫塔の墓石が並ぶ。歴代の住職の墓だ。そのそばに、柳原二位の局の墓がある。「ほら、お局だよ」講釈師がわざとらしく美女を見る。柳原愛子(ナルコと読むと順子が教えてくれる)は中納言正二位柳原光愛の次女で、柳原前光伯爵の妹。柳原白蓮は姪にあたる。
 「明治天皇の皇后は子供ができなかったんですよね」愛子は大正天皇のほか二男一女をもうけたが、成人したのは大正天皇だけだった。この天皇に暗愚の噂があるのは誰でも知っている。
 賈さんが、天皇に妾がいたのかというような、何か納得いかないような顔で眺めている。天皇の最大の役割は皇統を絶やさないことであって、子供を産むことこそが最大の国事行為なのだ。だから、後宮何千人というほど大掛かりではないが、「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」(『源氏物語』桐壷)という状態こそ正常なのだ。逆に言えば、現代天皇制の最大の問題は、一夫一婦制を守り続ける限りその血統の断絶を生む可能性が高くなっていることだ。つまり、天皇制というのは民主主義や現代の制度には馴染まないのだ。
 「大正天皇の傍に葬ってあげればよかったのにね」「どうしてここにお墓があるのかしら」隣に柳原家の墓を見つけて美女が「それならば淋しくはないわね」と納得する。

 この後は、駒沢通りを西に向かって「さわら庚申」や五本木庚申塔群を見るつもりだったのだが、割愛する。これまでに見た庚申塔とそれほど変わったところがあるわけでもない。ただ、目黒地域にこれだけ多くの庚申塔が残っていることを確認すればよい。
 駒沢通りを中目黒方面に向かって歩く。左手には目黒区の総合庁舎が広がり、その脇の小さな公園に、原爆で焼けただれた旧広島市役所の階段石が展示されていることは記しておこう。天祖神社も割愛する。「さざれ石って見たいですか」「この間見たわよね」誰も関心を示さないから中目黒八幡も寄らないことにする。
 正覚寺(日蓮宗)には日本髪を結った女性の像が建っている。三澤初子である。「うちのひい婆さんなんだ」それならと、賈さんが講釈師を促して像の前に立たせて写真を撮る。「曾祖母」に見下ろされて、講釈師は擽ったいような顔で気をつけをしている。

 講釈は要らぬと初子像の見得 《快歩》
 世が世なら伊達と競ひし秋の空  眞人

 像の銘板にはこう書かれている。

 芝居で名高い先代萩の政岡は六孫王経基の後裔三澤清長の女初子の事で浅岡の局と稱へ仙臺の御家騒動六十二萬石横領の魔の手が絶えず幼君の身邊を脅かした時不惜身命の信仰と母性愛とを力としてあらゆる迫害を忍び遖れ亀千代君に伊達家第二十代綱村を名乗らせた偉勲は實に忠貞両道を全うした日本女子の亀鑑である
 此度初子が永久安息の地とした當山に其の銅像を建立したのは日日に増しゆく道義の頽廃と思想悪化の現状とは正に國本を危うくするものであり之を救ふ途は實物教育に勝るものはないと痛感したからである
 此の銅像建立につきては伊達両家を始め藝術界及び一般有志の後援を辱しうし又製作につきては故矢野誠一氏の遺志を継ぎて氏と友情厚かりし北村西望建畠大夢新田藤太郎三氏協力の構想に依り新田氏が主として製作に當られたのである
 昭和九年十月十九日

 これによれば、初子は浅岡(『伽羅先代萩』では政岡)とされているのだが、そうではなく、三澤初子は幼君亀千代(伊達藩四代藩主綱村)の生母である。伊達騒動については、私にとっては山本周五郎『樅の木は残った』のほうがお馴染みだ。原田甲斐(歌舞伎に登場する悪役仁木弾正)を主人公に据えているから、江戸人の常識とはずいぶん違ってしまっただろう。
 大きな布袋尊を前にして講釈師が賈さんに説明している。「唯一中国人なんだ」そのとおり、七福神中ただ一人実在したと考えられるのが布袋で、本名は契此と言う。唐末(九世紀末〜十世紀初)の禅僧だ。と言ってしまったのだが、禅僧というのは必ずしも正しくはないようだ。

 なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。十世紀後半に記された『宋高僧伝』巻二十一「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって十一世紀初頭、『景徳傳燈録』巻二十七に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。(ウィキペディア「布袋」より)

 瓦には蓮だかザクロだかわからない植物が描かれている。ザクロならば鬼子母神からの連想だが、これは後で宗匠が調べた結果、日蓮上人の家紋が井桁に橘だから橘ではないかということだ。
 母子地蔵の顔が妙にリアルでみんなの笑いを誘う。「モリオさんに似てるんじゃないですか」「そうかな」ここは神社であるか寺院であるか。賈さんが宗匠に質問をして宗匠は鰐口を教えたそうだ。寺には鰐口、神社には鈴と一般的にはそうなのだが、稀に鰐口を使っている神社もあるから注意が必要だ。(どこかで見たような気がするが思い出せない)私たちは別に考えることもなく、寺か神社かなんて自然に区別しているが、中国人からすればその判別は難しいのかもしれない。
 今日のコースはこれで終了として、中目黒に向かう。駅前の喫茶店「コロラド」で反省会だ。ここでも講釈師の口は止まらず、「機関銃のようでした」とチイさんが呆れている。本日、一万三千歩とすれば、七キロか八キロ程度歩いたことになるか。

 飲んで反省する連中は渋谷で別れる。今日は青森のねぶたが渋谷を練り歩くらしい。通りのあちこちに祭りの暖簾がぶら下がっている。そんな中を歩いていて道を間違えた。私は「三平酒寮」を目当てにしていたのだがどうも見つからない。
 「三平は安いけど不味いからな」とモリオも言うので別の店を探していると、客引きの若い衆に呼び止められた。飲み放題で千三百円とか千六百円とか言うものだから、それに釣られて入ったのが「えんや」と言う店だ。あっちゃん、順子、ダンディ、チイさん、モリオ、宗匠、ロダン、岳人、私の九人だった。あまり成功ではなかった。大体あっちゃんが必ず食べなければならないお握りがない。焼酎も含めて飲み放題千六百円は間違いないのだが、お通しに四百円を取られるから結局飲むだけで二千円、つまみをとれば四千円になってしまう。これからは都内全域の「さくら水産」の場所を前もって確認しておかなければならない。電車で移動してもその方が安いよね。
 そのあと、ダンディと岳人は入谷に向かい、宗匠は帰り、残った六人はカラオケに向かう。二時間と時間を限らなければ、夜通し歌いそうな勢いだった。

眞人