「東京・歩く・見る・食べる会」
第二回 両国編  十一月十二日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2005.11


午前中まで雨が残るのではないかと少し心配したが、運良く予報ははずれてくれ、さわやかな秋晴れとなった。しかし、私のほうはスッキリとは言い難い。昨夜の飲み過ぎが祟って、酷い頭痛と吐き気、焼酎のボトルを気がつけば八分目ほども一人で空けてしまったのだから無理はない。そんなに飲めたことのほうが自分で驚く。朝飯も半分ほど残して不安なスタートとなったが、それでも電車のなかで少し眠るとやや回復し、定刻十時半の少し前に両国駅西口に着いた。
今回のリーダー三澤氏は張り切っている。会った早々「大変だったそうだね」と慰められるが恥ずかしいことだ。結石の情報がどこまで広がっているのか。ただ皆さんにご迷惑をおかけしたことを謝るばかりだ。幸い石は四日に無事排出され、何も問題はない。池田氏は定刻ぎりぎりに到着したが平野氏が遅い。遅い遅いと待っていたが、その平野氏も十五分ほど遅れてやっと到着。「これじゃ、今日は平野さんの奢りと決まった」と池田氏が笑う。今回も池田氏が克明な手引きを作ってくれている。三澤氏が「今回は俺がリーダーだから、余計な口を挟まないでよ」と池田氏に釘を刺す。

両国は相撲の町だが、同時に大災害のモニュメントの町でもある。回向院は勧進相撲で有名だが、もともと明暦の大火の犠牲者を弔う目的で建立されたものだ。大震災、東京大空襲にも思いを馳せなければならない。

土曜日だから開いているかどうか分らないと言いながら、先ず足を向けたのは国技館だったが、やはり相撲博物館は土日祝日閉館のため入れず。通常は無料、東京場所開催中は国技館入場者のみに開放している。もと国技館は回向院の隣にあったのだそうだ。占領軍に接収されたため蔵前に移転し、やっと両国に戻ってきたのは、確か春日野理事長(栃錦)時代だったのではないかしら。それが今の国技館だ。国技館通りを回向院に向かう道の両側には横綱ブロンズ像がいくつも設置され、台座には力士の手形が押されている。「俺とあんまり変わらないようだな」と池田氏が合わせて見ると、北の富士、栃錦の手形とほぼ同じ大きさだったのには驚いた。手が大きい、私の手は小さくて問題にもならない。横綱像は誰を模したものか、大鵬に似ているようだとか、これは双葉山かな、などと考えるが分らない。
回向院の建立なったのは万治三年(一六六〇)。明暦大火の犠牲者十万七千余の死者を葬った。明暦三年(一六五七)は、正月元日の四谷竹町、四日赤坂町、五日吉祥寺辺御中間町で火事が発生。こんなことが続いた後、十八日未の刻より、本郷五丁目裏本妙寺から出火、大火になった。世に振袖火事という。相撲に因む力塚。岩瀬(山東)京伝、京山(京伝の弟)の墓。京伝五十六歳で没したとき、最も世話になったはずの馬琴が葬儀にも来なかったと、弟の京山は怒った。その京山は後にいきなり日本を襲った流行り病コロリで死んだ。加藤千蔭というのは知らないが歌人、国学者。竹本義太夫の墓もあるが、実は義太夫は江戸に来た形跡がない。関係者の作った供養塔だろうと、本には書いてある。
鼠小僧墓。「俗名中村次良吉・教覚速善居士」。戒名にある「善」の文字は、義賊を表すか。しかし実際は義賊にはほど遠い。本人が自白しただけでも、大名屋敷から盗んだ金は一万数千両に及び、そのほとんどを博打で費消した。本堂は法事の最中だが、受付のようなところで無料のポストカード四種をもらう。
花火資料館は十二時開館だから時間が早すぎ入れない。中に人の気配が感じられ、池田氏はしつこく戸を叩くが、無理と言うものだ。

両国橋のたもとに着く。明暦三年の大火まで隅田川には橋がなく、火に追われて逃げ遅れたものが川べりで逃げ場を失ったことも、被害を大きくした。もともと江戸の守りのために橋は架けないのが幕府の方針だが、防災上やむを得ず、漸く万治三年(一六六〇)橋を架けた。幅四間、長さおよそ九十六間。百七十メートルほどの計算になるか。もと「大橋」と称したが後に、武蔵国と下総国を結ぶから「両国橋」という。ただし「往古は少し川上にかかりたるが、度々洪水に落て難儀せしに、川村隋見、今のところを見立て」(『武江年表』)とあるので、今の位置とは少し違っていたらしい。
たもとの壁には、錦絵がはめ込んである。花火見物のために両国橋から溢れるほどの人込みを描いたものもあった。江戸人の物見高さ。花火や祭りの際にはこんな風に大勢が繰り出したのだろう。太鼓橋を埋め尽くす人、人、人。しかしこんな状態では、後に深川の永代橋が崩れたのも無理はないと思われる。
大高源吾句碑「日の恩にたちまちくだく厚氷」。「くだく」の変体仮名が読めない。底の浅さが露呈する。三十年以前、無能不学の学生に古文書を教えてくれた故海老沢有道先生、許してください。
東京に二軒しかない猪料理屋のひとつ「ももんじ屋」、猪の剥製がぶら下がっている。もう一軒は新宿大ガード脇の「とちぎ屋」だそうだ。他の三人はこの事を知っているが、私には初耳のことばかりだ。

相撲写真館(工藤写真館)は火曜日のみ開館だからここも入れない。池田氏の説明によれば、もと国技館お抱えの写真館で、独占的に撮影したものを各新聞社に提供していた。時津風、二所ノ関部屋を過ぎる。時津風部屋は随分大きなマンションになっている。横に回ると「双葉山相撲道場」の看板が輝く。双葉山の威光、未だ衰えず。それに較べて二所ノ関は淋しい。後継者問題に発する内紛で大鵬、大麒麟が去り金剛が跡目を継いで以来、この部屋から名のある力士はまだ出ていないのではないか。明日からの九州場所に備え、今は全員九州へ行っているのだから、人の気配がないのは当然。地図で見ると近くに立浪部屋もあるがそこには行かない。「昔立浪部屋で平幕優勝したのがいただろう」と池田氏が言うので思い出した。若浪。もみ上げの長い力士で、小さな体のくせに吊りを得意にした。新宿には若浪のちゃんこ料理屋があり、一度行ったことがある。「俺には俺の相撲道がある」とおかしな啖呵を切って、親方を殴って辞めていった不良横綱双羽黒もこの部屋。
ちょっと路地に入り込めば、大空襲にも会わなかったものか、大正か昭和初期の建築のような小さな家が点在している。四角い印刷屋を見つけると、あれは大正建築だと三澤氏が断言する。私には判定できず、なんとなくアールヌーボーの気配があるとしか言いようがない。この界隈は風の加減で焼け残った家が多いのだそうだ。両国は不思議な町だ。

吉良邸は本来二千五百坪ほどあったそうだが、現在残るのは僅かに一角のみ。赤穂浪士を各藩に分散してお預けを命じた御沙汰書(正式にどう言うのか知らない)の写しがある。吉良方の死者名簿の筆頭は小林平八郎、次が清水一学。もし虚構の人物が許されるなら、その筆頭には丹下典膳を掲げたい。五味康祐『薄桜記』の主人公で、故あって左手を失った。吉良に嫌われながら義理ゆえに助っ人になったのだが、典膳が敵にいては成功期し難いと覚悟した堀部安兵衛が、討ち入り前日に果し合いを挑む。たぶん納得して典膳は死んだ。忠臣蔵外伝ともいうべき物語がどれほどあるか分らないが、これほど孤独が身に沁みる主人公はいないのではないか。時代小説の傑作と私は断言する。
首洗い井戸。上野介顕彰碑もある。知行所の三州吉良では名君と慕われていたという記憶がある。賄賂のお蔭で内緒は裕福で、百姓に対する苛斂誅求が必要なかったものか。話はずれるが、三州吉良と言えば、吉良の仁吉が私の頭に浮かぶ。次郎長の兄弟分で荒神山の喧嘩で知られる。「時世時節は変わろとままよ、吉良の仁吉は男じゃないか、俺も生きたや仁吉のように、義理と人情のこの世界」とは『人生劇場』三番の歌詞だ。
ここで十人ほどの団体と一緒になり、三澤氏はお得意の講釈を聞かせている。中の一人が感心して、私たちを江戸研究家だと信じた。入口すぐそばの大川屋で皆は最中を買う。
両国小学校の角に芥川竜之介文学碑。『杜子春』の一節を刻む。例の団体の中のおばさんが、ここは何かと聞くので、生まれた地だと説明してしまったが、そもそも生れたのは京橋区入船町、その後この地で育った。だから生育地は道の蓮向かいの方だった。どうせ忘れてしまっているだろうと、罪の意識を振り捨てる。
隣の両国公園には勝海舟生誕の地(男谷家)の碑。碑文は法務大臣西郷吉之助書。男谷精一郎は幕末剣豪の一人。小学生の頃、子供向けの講談本で『幕末剣豪伝』を読み、それが私の知識の源泉になった。だからここでも知識の良い加減さが暴露する。海舟が何故、男谷家で生れたのか。「確か、父の小吉と男谷は兄弟で、男谷に養子に行ったのが」と私が言いかけると、三沢氏が訂正する。小吉は男谷で生れた。家を継げない次男以下は厄介叔父だが、後に勝家の御家人株を買って独立したのだった。『夢酔独言』で自分を語る小吉の生涯は無茶苦茶で、この無学な父親から海舟が生れたのもひとつの奇跡ではないか。福沢諭吉が『痩せ我慢の説』で榎本武揚を引き合いに海舟を非難したとき、「行蔵は我に在り」(だったかな、記憶が曖昧で、正確に引用しようとしても何で読んだものか忘れてしまった。もちろん『海舟全集』を読んでいる訳はないから、誰かの引用で知った。たぶん丸谷才一の随筆だと思う)、要するに、出処進退は俺の胸にきちんとある、傍からトヤカク言われる筋合いはない、というような意味の啖呵で切り替えした。私は海舟を贔屓にしているから、諭吉にはなぜかいつも計算の臭いを感じてしまう。

「桐の博物館」に立ち寄る。桐屋田中。桐は表面を削れば瞬く間に新品同様に再生する。削るたびに薄くなるんじゃないかと質問すれば、職人らしい親父が「そんな仕事はしない」とむっとする。ちょうど半分だけ削って違いを際立たせている箪笥があり、その古い部分と新しい部分とを触らせ、ほとんど分からないだろうと説明する。桐は一生使えるものだから、それなりの(かなり高価な)値段がする。陳列してある普通の商品は無理だが、桐の小片を使った携帯ストラップ三百円を三澤氏が買った。携帯電話を持たない人が何に使うか。煙草ケース百円は池田氏と平野氏が購入する。二人とも煙草は吸わないのだが、小物のケースにちょうど良い。ストラップも記念にはなる。
清澄通りに出て、足袋の博物館(喜久屋)というのは小さなショウウィンドウだけのものだが、歴代力士の足袋が展示されている。雷電、大内山、曙などは流石に大きい。照国の足は小指が異常に横に出っ張っていて横広の、足裏全体が菱形のような不思議な形。だから弱かったのだと池田氏が言うが、それはどうだろう。秋田出身の横綱でその伊勢ケ浜部屋は、これも秋田の清国が継いでいるから、私は贔屓にしているのだ。足袋が欲しいと池田氏が希望するがこの店では小売はしない。LLサイズの店で、二十七センチ以上のものしかないと言われてその二十七の足袋を購入。雪駄の専門店もある。鼻緒をすげ替えている間、相撲取りが椅子に座って待つのだが、小さなパイプの椅子はすぐに壊れてしまい、仕方がないので店の主人は頑丈な椅子に交換した、とは三澤氏の説明だ。

昼食は元禄二八蕎麦「玉屋」。朝飯を半分しか食えなかった私もそろそろ腹が空いてきた。宿酔いはすっかり回復したようだ。この店は三澤氏の知り合いで、主人がわざわざ挨拶にくる。
ちょっと調べようと思うと、そんな積もりではなかったのに意外なことにぶつかってしまう。一般に二八蕎麦の語源は、小麦粉と蕎麦粉との混合割合によると説明されているのではないか。私はずっとそう思い込んでいたが、異説がある。「にはち」十六文で売られたからと言うのがその説だ。但し十六文になったのは江戸後期の文政・天保頃のことだから、この説明では元禄の頃には当て嵌まらない。大体、赤穂浪士が食ったのは「蕎麦切り」だった筈だ。『東海道中膝栗毛』には二六蕎麦というのが出てくるらしいが、最近読んだばかりなのにまるでその場面を覚えていない。更に、初めはその掛け算(にはちじゅうろく)から発生したが、その後混合割合になったという説、またその逆など、語源究明の最終結論は出ていないらしい。
池田氏(鴨南蛮)、三澤氏(モリ、通ですね)、平野氏(義士御膳、天丼と蕎麦のセット)、私は蕎麦定食(たぬき蕎麦、てんぷら、ご飯。蕎麦の海苔巻きがひとつついている。少々量が多い)。折角両国に来たからには今晩は両国らしいところで飲みたい。池田氏がもちかけると三澤氏が主人に聞いてくれ、ちゃんこ料理の「巴潟」を紹介された。玉屋の紹介だと言えばサービスしてくれるからと、証拠に店のマッチをくれる。なかなか洒落た意匠で、片面には「誠忠之義士遂本望図」、片面には二八蕎麦の屋台の錦絵が印刷されている。蕎麦屋に扮しているのは誰か、歌舞伎や忠臣蔵に詳しい人なら即座に答えてくれるだろう。悔しいことに私はまるで分からない。百円ライターが誕生する前には、どこの店でも自前のマッチを作っていたものだったが、今ではほとんど見かけることもなくなってしまった。両国はなんだか郷愁を誘う。「電球屋」などという屋号の店もある。

ここで鈴木氏到着、店を出たところ両国三丁目交差点で合流した。仕事で今日は参加できない筈だったが、無理やり早めに仕事を終らして駆けつけたのだ。しかし出会う地点がおかしい。両国駅から回向院に向かっていたはずの鈴木氏が、なぜこの場所にいるか。方角がまるで反対だ。いずれにしろ携帯電話の威力は大きい。平野氏も欲しくなり、さかんに費用がどれほどかを質問する。
榛(ハンノキ)馬場跡の稲荷神社。榛はカバ科の木です。京葉道路を東に進むと野見宿禰神社。歴代横綱碑。緑町公園でトイレ休憩。三澤氏はリーダーの自覚からか、煎餅を配給してくれる。北斎通りを西に歩きながら、街路灯に埋め込まれた浮世絵を見る。「北斎ギャラリー」と記されている。北斎生誕の地は、ただ碑が立っているだけのものだった。

江戸東京博物館の入口前は物凄い風。そういえば今朝の予報で木枯らし一号が吹くかも知れないと言っていた。入場料は高齢者三百円。三澤氏は誕生日を申告、平野氏は免許証を提示。池田氏は何も見せなくても大丈夫だろう。私と鈴木氏は一般の六百円。モギリ嬢はわざわざ「一般の方ですか」と聞くが、勿論、私たちは「特殊な方」ではない。極めて普通の一般人だ。
通訳ボランティアがあちこちで外人の相手をしている。隣で聞いているとフランス語らしいのだが、「ポピュラシオン」というのしか分らない。通訳の勧めで大名駕篭に入った白人もいた。「駕篭」から平野氏は志ん朝を連想する。平野氏は今、志ん朝に夢中だ。『大山詣り』。大山からの戻り道、前夜、酔った挙句の白河夜船の間に長屋の連中に頭を剃られ、置いてけぼりを食った熊公が、夏の暑い盛りだが、駕篭の両側の垂れを下ろし閉め切って、長屋の衆を追い抜いて行く。勿論、町駕篭と大名駕篭とは天と地ほどにも違うが。その志ん朝にもある通り、両国には「垢離場」があって、大山に参詣する者はまず、一週間ここで水垢離をとることになっていた。隅田川は綺麗だったのだ。小林信彦の回想でも戦前まで隅田川に水泳場があったと言う。河水を汚したのは戦後の日本人であることは明らかだ。
ずいぶん丁寧に見て歩いた江戸時代ゾーンで「こんなに時間かけちゃ、予定が消化できないよ」とリーダーが苛々する。別に予定を消化するのが目的ではないのだが、三澤氏の気持も分る。それにじっくり見ているとかなり疲労を覚える。平野氏の腰は大分痛そうだ。
東京ゾーンに移って、三月十日の東京大空襲のコーナーでは一人の白人が見学していたが、何を思うか。
「この空襲はいかにして日本人を〈消滅させる〉かが目的で、E・バートレット・カーの本には地図まで出ている。・・・この、おそらくは人種差別の混じる憎悪は、のちのヒロシマ、ナガサキの原爆投下につながってゆく」(小林信彦)。下町人の恨みは深い。池田氏、三澤氏、平野氏の三人とも、疎開を経験しているから思いは同じではないか。
出口付近の小物屋で小型の風呂敷が五百二十五円で売っている。ちょうどバンダナのサイズに合う。江戸小紋は粋ではなかろうか。早速バンダナと取り替えて見るが、誰も感心してくれない。二階のカフェで休憩。あいにく禁煙席しか空いていないが仕方がない、我慢する。

博物館を出て歩き始めてすぐ、家康像は改修工事中で覆いがしてある。その脇に立っている桜に花が咲いていた。冬桜とも秋桜とも言うが十月桜というのだと三澤氏が断言する。
横網町公園では菊花展をやっていたらしい。もともと陸軍被服工廠の跡地だ。震災の前年に陸軍から東京市に譲渡され、公園を造成中に関東大震災に見舞われた。格好の避難場所だったが、四方から発生した火災が逃げ込んだ被災者を襲い、ここだけで三万八千人とも四万四千人とも言われる犠牲者を出した。
復興記念会館の案内板には入場九時から四時半と書いてある。これは普通には、四時半までに入った者が五時までいられるというように考えられないか。受付に確認すると、四時半まであと十分ほどだから急いで見ろと言う。「土曜日だから早く帰りたいのだ」というのが三澤氏の解釈だ。焼け、溶けたガラスや鉄の残骸。鉄柱がこれほどまで無残に変形してしまうのか。釘の固まり。大きく割れた鉄製の水道本管。震災の様子を描いた絵画が壁一面を飾っている。三澤氏の「急いで」の声にせかされて外に出ると、ここにも多くの残骸が展示してある。関東大震災では十万の人命が失われ、行方不明四万三千、家屋全壊十三万弱、半壊十二万六千。罹災者の合計は三百四十万に上る。
しかし、被害だけを強調するわけにはいかない。社会主義者や朝鮮人暴動の流言を恐れた政府は戒厳令を敷き、自警団と称する民間人もまた、朝鮮人虐殺に手を下した。意図された流言蜚語。要件を満たさぬまま発せられた戒厳令。約六千人の朝鮮人、二百人の中国人が、日本人の手によって殺されたのだ。大杉栄、伊藤野枝、甥の宗一が甘粕正彦の手にかかり、亀戸警察に拘束された平沢計七等十人が、習志野騎兵第十三連隊に虐殺されたのも忘れてはならない。
東京大空襲の犠牲者も合祀した東京都慰霊堂。

安田庭園も駆け足で回った。元禄四年(一六九一)、足利二万石の本庄因幡守が幕府から拝領して造園したのが始まりという。維新後、一時岡山藩主池田氏の邸宅となり、明治二十四年、安田善次郎が買い取った。池に鴨が数羽、「寝てるんじゃないか」と言いながら、池田氏がさっきの煎餅を砕いて投げるが、鴨は見向きもしない。元財閥の池にすむ鴨は口が奢っているか。「なんだか、この庭園は狭すぎるような気がする」と池田氏が疑問を持つ通り、本来は安田学園や同愛病院の敷地にまで及ぶ広さだった。つまり現在の公園の倍以上の広さがあった。隅田川の水を引き入れていた潮入りの池は高度成長期に川の汚染の進行とともに悪臭が激しく、水門が閉ざされた。現在は地下に貯水槽を設置して人工的に池水の増減を繰り返している。

 安田庭園を出るとちょうど五時、もう大分暗くなってきた。東の方に火星、西の空に光るのが金星だと平野氏が教えてくれる。火星がこんなにくっきりと見えるのは珍しいのだそうだ。三澤氏は酒を飲まないので両国駅で別れ、私たちは巴潟へ向かう。
道を挟んで本館、新館と二つの店が向かい合っているが、よほど繁盛しているのだろう。本館に入ると予約で満席。玉屋の紹介だと言うと新館に案内してくれた。巴潟は双葉山時代の力士で、最高位小結に進んだ。現友綱(魁輝)の先々代の友綱親方だが、定年後部屋を改築してこの店を始めたというから、もともとここは相撲部屋だったのだ。
 初め注文しようとした鍋はポン酢で食うものだから自宅でもできる、自宅でできないものをと店の女の子(ちょっと可愛い)に薦められ、魚介類の味噌仕立てに決めた。四人だが三人前で充分との彼女の言葉に随い、するめ烏賊の一夜干しと蟹味噌を注文する。まずビールで乾杯。鯵や鰯のツミレが旨い。酒は冷酒で加賀の「菊姫」を選ぶ。辛口の山廃仕込で旨い。二号徳利を四本。旨い酒が飲める幸せを沁みじみと思う。だんだん私は江戸東京にはまっていく。