第二十回 上野から日本橋  平成二十年十一月八日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.09.20

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 旧暦十月十一日、昨日は立冬だからそれに義理立てしたか、急に寒くなった。それに、予報では昼過ぎに一時小雨が降る程度の筈だったのに、朝から雨が降っている。「大丈夫、こんな雨はすぐに止みます。私とアツコさん、晴れ男と晴れ女が揃っているんですから」そう断定するダンディの姿は、薄手のジャケットを着ているだけだ。寒くはないかと思うのだが、なにしろ六十年間、風邪をひいたことがないという鉄人だ。本日最年長の碁聖も、長袖シャツの上に羽織っているのはずいぶん薄手のジャンバーばかりで、本当にこの人たちの体はどうなっているのだろう。
 久しぶりに顔を見せるのに、いつまでも秋田時間の悪習から抜けきれないミツグからは、十分ほど遅れるというメールが入る。その間に、本日のリーダーあっちゃんが資料を配布し、更にロダンが「千代田区の江戸地図」二枚と、西暦・和暦の対照表を配ってくれる。「ロダンが資料をくれた。しかも、自費でコピーして」講釈師が大声で何度も繰り返す。「みんな、ロダンがくれたんだよ」「別にそんな大したことはしてないですよ」
 そろそろ到着するはずのミツグを待つのはやめ、もう出発しようと先頭が歩き出したところに、その秋田人も到着した。
 女性は美女、大橋さん、胡桃沢さん、橋口さん、それに久しぶりに登場するオケイさんと宍戸ヨシミちゃんの六人。男性はロダン、岳人、碁聖、モリオ、ダンディ、講釈師、ミツグ、私と八人集まった。

 鶯谷駅北口の改札を出ると、怪しげな小さなホテルや定食屋、居酒屋が並ぶ路地になっていて、駅名から連想するかつての風情なんかかけらもない。今は台東区だが、かつては下谷区の根岸であった。文字通り上野の山(忍が岡)の谷になって、雑木林の間で鶯が鳴く閑散とした郊外の地で、明治の文人が愛した。上五に適当な季語を入れ、「根岸の里の侘び住まい」と続ければ、どんな季節にも合う俳句が出来る。そんな話を何かの落語のマクラで聞いたような気がする。つまり、それだけ江戸の自然が残る土地だったのだ。
 饗庭篁村、岡倉天心、森田思軒、幸堂得知、高橋應眞、高橋太華、川崎千虎、中井錦城、宮崎三昧、幸田露伴、陸羯南、須藤南翠などが根岸党を結成した。天心、露伴ならいまどきの高校生でも知っていると信じたい。思軒は『十五少年漂流記』を訳し、篁村は小説や劇評、紀行文を書いたが、よっぽど暇でもない限りいまどき読む人はいないだろう。
 森銑三『明治人物夜話』に、饗庭篁村について記した一編があり、それをみると大正期には既に忘れられた文人であったようだが、森はかなり高く評価している。陸羯南は『日本』に拠って、明治のジャーナリズムの世界では大きな存在だった。正岡子規のファンであれば、晩年の子規の保護者として知っているだろう。そのほかの名前は私も余り馴染みがない。
 「党」と言っても、主義主張があるわけではない。江戸文化を懐かしむ文人気質の連中が集まっては酒を飲み、旅行をした。社交クラブである。山口昌男『敗者の精神史』から孫引きしてみる。

 根岸党の人たちには明治は江戸っ子を追い出していなかものが勝手にふるまった時代なのである。根岸党は生き残った江戸っ子の集りでもあった。根岸党では人から東京の人と見られることを嫌っていなかものになりたがり、利口者であるよりもばかものであろうとした。なかま同士のしゃれや自分たちだけの隠語を好んで用いた。党員となったばかりの露伴はみんなが交している話がわからないで悩まされた。目岸党は子供っぽいことをしちらかしたが、そこが実はかえっておとなの集りであった。根岸党の好むところを篁村は卑下慢と言っている。(塩谷賛『幸田露伴』)

 同じように、田端文士村の小杉放庵を中心にした「ポプラ倶楽部」や、押川春浪の天狗倶楽部があって、双方の交流も多かった。
 こちらの方には野球、テニス、相撲に明け暮れるバンカラ連中が集まった。(横田順弥・会津信吾『快男児押川春浪』は面白い本です。明治の青年の無茶苦茶振りが楽しい。)雑司が谷墓地の案内マップに「春浪」ではなく「春波」と書かれていて、がっかりしたことを思い出す。(ちなみに横田順弥は「ハチャハチャSF」から出発して、今や明治文化研究の大家になっている」
 また子規が死ぬまで住んだから、鶯谷は根岸派の俳句のメッカでもあった。子規が根岸に住むことになったのは陸羯南の世話によるのだ。子規庵は空襲で焼けてしまったが、戦後、復元した建物が公開されている。あんな狭い家で庭の樹木や花を見るだけで、身動きもできず、それでも歌会、句会を催して子規は奮闘していた。
 「子供の頃、三平がジョギングしてるのを見たことがあるよ」上野の森で生まれてこの近辺で育ったモリオだ。「あのころは、ジョギングなんて言葉はなかったけどな」林家三平が「根岸の師匠」と呼ばれたことも書いておかなければならない。しかし、こぶ平が正蔵になるとは何とも時代が変わった。こんなことをぼやいていると、なんだか古老になった気分がする。

 「あんなところに神社が」駅前の定食屋と居酒屋の入る建物の屋上に、鰹木を置いた屋根が見える。元三島神社と看板に書かれているから調べて見た。

 承久の乱(一二二一)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方してほぼ滅亡しましたが、北条時政の娘(政子の妹)を母とした河野通久は鎌倉側にあって河野氏族を継承しました。
 後の蒙古襲来(弘安の役・一二八一)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇神社を上野山の河野館に勧請したことが当社(旧三島社)の縁起です。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けますが(位置不明)御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前四)に移転します(一六五〇)。
 浅草小揚町から当地に再び移転したのは金杉村(現在の根岸〜下谷)から遠くに社が離れてしまったため氏子の要望によるもので、当地にあった熊野権現社と合祀して現在の元三島神社となりました。(中略)
 縁起では一六五〇に浅草に移転とありますが、江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(一六八八〜一七〇四)に下谷坂本(現:下谷一〜下谷三)にあった社を浅草に移転したとあります。
 新編武蔵風土記稿には寛永六年(一六二九)までは小名根岸(位置不明)にあって御用地となったために移転したがご神体を熊野社に仮設置していたのでこの地を元三島という、とあります。上野寛永寺の造営開始が一六二五頃ですから、旧三島社の最初の移転がこれかもしれません。(「江戸名所図絵と神社散策」)
 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/zue/motomishima/index.html

 小雨の中、皆が傘を広げているのに、講釈師は青い合羽をつけて颯爽と歩いて行く。

 初時雨青きマントを翻し  眞人

 線路際の細い道を日暮里方面に少し歩いて寛永寺陸橋の階段を上がれば、橋のたもとに宝暦十三年と記された地蔵二体が立っている。首の周りには少し色褪せた赤い涎かけが(しかし薄汚れた感じはしない)巻かれ、花も供えられている。「こんな所にあったかな」モリオが首をひねるが、子供の頃には興味がなかったから気付かなかったのだろう。
 寛永時寺の門を潜り、「それでは篤姫から行きます」と宣言して、われらの「あつ姫」が歩いて行く。四代将軍家綱霊廟勅額門であるが、鉄格子の塀に囲まれて中に入ることはできない。名前の通り、本来は家綱(院号厳有院)の墓所だが、五代網吉(常憲院)、八代吉宗(有徳院)、十代家治(浚明院)、十一代家斉(愼徳院)、十三代家定(温恭院)の六人が合祀されている。もとはそれぞれ独立したものだったが、明治以降まとめられてしまった。塀の前には篤姫墓所の案内板が立つ。NHKの影響は恐ろしいもので、将軍の説明は一切ないのに、篤姫だけが特別に案内されているのだ。
 「ここでクイズを出します」新しい趣向だ。将軍家の菩提寺は芝増上寺とこの寛永寺と定められ、その双方に将軍が六人づつ葬られている。これは両寺のバランスを配慮したためだが、将軍は十五人、それでは残りの三人はどこにいるのか。
 「家康は久能山でしたか」ダンディが答える。「家康は日光です」元和二年、遺言によって家康は久能山に葬られたが、後に日光東照宮に改葬された。家康を尊敬していた(そして実父である秀忠を嫌いぬいていた)家光もお祖父ちゃんと一緒になった。残る一人は最後の将軍慶喜であり、これは谷中墓地に葬られた。今回の美女は実に用意周到に準備をしていて、どの将軍がどこに葬られているかという資料を配ってくれる。
 来た道を戻ると、根本中堂にいつものように飄々とした足取りでドクトルが現れた。これで総勢十五人になった。
 「この根本中堂は貧弱ですね、延暦寺の方はもっと大きいものですよ」ダンディは徳川所縁のものには必ずなにか文句をつけなければおさまらない。しかし、この中堂は本来の寛永寺のものではなかった。
 寛永寺は寛永二年(一六二五)、天海大僧正(慈眼大師)によって開かれた。上野の山を王城の鬼門(艮)を守護する比叡山に見立て、東叡山と号した。「ついでに不忍池は琵琶湖です」「弁天島は竹生島の代りです」私とダンディがお先走って言うものだから、「今、説明しようと思ってたのに」とリーダーに睨まれる。
 だから上野の山全体が寛永寺の領域であったのだが、慶応四年の上野戦争で壊滅した。つまり徳川幕藩体制の確立とともに起こり、その崩壊とともに滅んだ寺だ。
 上野の地名は、伊賀上野を領した藤堂家の屋敷があったことに由来するという説がある。しかし戦国時代、北条領であったとき既に「江戸上野」の地名が見られるということだから、どうやらこれは違うらしい。小野篁が上野国の任を終えて(いつのことか?)都に帰る際、この地で休養したので地元民が「上野」と呼んだと言う説もあるというが、判断が付かない。
 焼け落ちた上野の山に、帝国大学の医学部を中心に一大医療センターを建設する案もあったのだが(石黒忠悳など)、お雇い外国人ボードインの反対(欧米では都市公園が非常に貴重であるという進言)にあって、大学敷地は加賀藩邸跡に決まり、上野は最も早い近代的な公園のひとつになった。
 その後寛永寺はかつての子院であった大慈院のあった場所に、喜多院の本地堂を移築して本堂とし、辛うじて復興する。つまり、この根本中堂はもともと喜多院のものだったのだが、何故ここに喜多院が登場するかと言えば、喜多院はもともと天海に所縁があるのだ。というよりも、天海の名が文献上で始めて確認されるのは、川越の無量寿北院(現在の喜多院)の住職になった頃からのようだ。それ以前には甲州にいたとも言われているが真偽の程は分からない。

 ところで、天海と言うのは実に謎に満ちた人物である。余りにも長生きしたので、死んだ年齢も百八歳とも百三十五歳とも言われている。その半生を全く語ることがなかったと言うが、自分でも分からなくなっていたのではないか。余りにも怪しいので、後世、荒俣宏輩に、風水とか五色不動とかに付会されるが、本人は知ったことではないだろう。そもそも江戸の初期に陰陽道はあっても、「風水」なんて思想はないんじゃないか。従って、当時として群を抜いた合理主義者であった家康の江戸造りにあたって、風水思想に基づく様々な工夫がなされたなんていう話も、眉唾だと思った方が良い。
 天海の出自は芦名氏であるとか、足利将軍義済の落胤であるとか色々あるうち、一番有名なのは明智光秀の後身であるという説だろう。かつてのライバルであり、信長政権を引き継いだ秀吉とその子には恨みがある。家康のブレーンとなったのはそのためだ。
 死んだはずの人物が実は生きていた、というのは日本人が好きな伝説のパターンで、判官贔屓に由来しているのだろうが、他の国でもこういう伝説はあるのだろうか。義経は奥州から蝦夷ケ島を経由して、大陸に渡ってジンギスカンになった。真田幸村は秀頼とともに薩摩へ落ち延び、豊臣復興を願ったが時に利あらず、志を果たせぬまま天寿を全うした。西郷さんだって城山で死なず、ハワイに渡って子を産んだから、その子孫は日本相撲界にやってきて武蔵丸を名乗った。

 乾山深省蹟。「尾形乾山は光琳の弟です。光琳の方は江戸があんまり好きじゃないから、すぐに京都に戻ったんですが」ダンディは美術に詳しい。光琳は江戸に五年ほど滞在しているうち、「冬木小袖」を残した。弟の乾山は入谷に住んで寛保三年(一七四三)八十一歳で亡くなった。乾山の墓碑は上野駅拡張のため西巣鴨に移転した善養寺に現存していて、ここにあるのはレプリカである。「そう言えば国立博物館で琳派の特別展をやっています」
 寛永寺を出て公園に入っていく。実は私はこの辺を歩くのは初めてだが、芸術に関心の高い人たちはしょっちゅう来ているという。「何度も来てるんだけど、美術館、博物館がいくつもあるから、間違えちゃいますよ」岳人も美術館の好きな人だ。ダンディは国立博物館の年間パスポートを持っていて、もう三回も押されているスタンプを見せてくれる。このパスポートを持っていると、特別展は年に六回まで、一般の展示会はいつでも無料で入れるのだ。「特別展に二回来れば元が取れますから」美術の好きな人にお勧めする。(私はその中に入っていない)
 国立国会図書館子供図書館の建物の前に、小泉八雲記念碑が立つ。台座には八雲の右顔のレリーフを埋め込んでいて、その台座の上では、裸の子供たち(天使?)が大きな球体を取り囲んでいる。何故ここにあるのか。「ここに住んでいたことがあるんでしょうか」大久保から市谷周辺までを歩いた時、八雲の旧居跡を二箇所見ているが、そのとき調べた限りでは上野に住んでいたことはないはずだ。「帝大とか芸大に関係するんじゃないか」という意見を述べる人もいるが、実はこれは土井晩翠による。晩翠の長男は八雲を尊敬していたが、若くして死んだため、晩翠が長男のために建てたものなのであった。

 モリオが教えてくれたのだが、この図書館はもとの国会図書館であった。それならば樋口一葉が通った「上野の図書館」というのはこれであろうか。と思って調べるとちょっと違う。明治三十九年(一九〇六)の建築だから、既に一葉はいない。場所も一葉が通った頃とは少し変わっているようだ。
 この図書館の変遷もややこしい。明治五年、文部省によって書籍館が設立され、ほぼ同時に湯島に設立された博物館に併設した。その後浅草に移って浅草文庫と改称される。さらに湯島に移転して東京書籍館(納本制度開始)、一時東京府に移管された後、明治十三年に再度文部省所管に戻り東京図書館として再出発する。明治十八年、東京教育博物館と合併して上野に移転した。ここから、上野の図書館と呼ばれるようになって、樋口一葉が登場することになる。その後、博物館から分離独立し、明治三十年(一八九七)、帝国図書館官制が施行されて、ようやく帝国図書館となる。組織的にはこれが現在の国会図書館につながっていくのだ。

 「開かずの駅だよ」講釈師の表現は少し舌足らずだろう。ゴシック風(?)のコンクリート造りの小さな建物は、京成電鉄の博物館動物園駅の入り口だ。平成九年に営業停止になったが、地下のホームはまだ残っているらしい。まだ営業している頃も、ほとんど「幻」状態の駅だったようだ。

 暗闇の中を走る電車を一つ目の駅でおりる。怪しい灯のともった、怪人二十面相でも出てきそうな空間。この世のものとも思われぬ、穴ぐらみたいなプラットホーム。
 これが、知る人ぞ知る〈博物館動物園駅〉である。東京生まれのぼくは、今度、初めて、プラットホームにおり立った。
 階段をあがり、駅の建物を見る。
 これがスゴい。柱は円柱、天井は半円球。ベニスにでもありそうな建物である。
 ただし、小さい。おそらく、国立博物館に合わせて、ミニ版を作ったのだろう。天井の下にはネットが張られ、〈いたずらしないでください〉という木の札が出ている。
 道の反対側に立って眺めると、なにか、感動してしまう。そこには、日本人の考える〈西洋建築〉そのものがある。(小林信彦『私説東京放浪記』)

 リーダーが真っ直ぐ進んでいくのに、「こっちだよ」と講釈師は勝手に脇道を右に曲がっていく。突き当りの胸像に向かって、「弟の顔と間違って作ったんだよ」講釈師が説明する。これは「ボードワン博士像」である。さっき、上野に医療センターを作る構想に反対し、公園にすべきであると説いたお雇い外国人を「ボードイン」と書いたのは、新潮社編『江戸東京物語・下町編』によったものだ。ここでは「ボードワン」となっている。オランダ人Baudwinをどう発音し表記するかの問題である。弟云々という講釈師の話は嘘ではなかった。上野恩賜公園ホームページにもちゃんと書いてある。(「又、俺の言うこと信用しないんだから、ヤになっちゃうよ」とぼやく声が聞こえてくる)

公園の産みの親ともいえるオランダの一等軍医ですが、母国であるオランダ政府の資料の錯誤で平成十八年に像を交換するまで、博士の弟の像が建てられていました。

 向こうの方ではリーダーが私たちを待っている。「勝手に横道に入らないでくださいね。予定というものがありますから」
 噴水のところがかつて本堂のあった場所で、国立博物館は御本坊の跡地である。「東都名所上野東叡山全図」のレリーフが立っている。一大伽藍がここを中心に広がっていたのだ。広場では物産展(各地の名産食べ物か)をやっていて、なにかパフォーマンスを演じるらしい人が、モンゴル風の衣装で数人屯している。
 奏楽堂(旧東京音楽学校本館)はあっちゃんお薦めの場所で、入館料三百円。毎月第三木曜日にコンサートを行っている。しかし今日は何かの催し物があって入れない。明治二十三年建築の木造建築で、昭和五十九年に解体修理を施し、ここに移築された。犬山の明治村へ移築するという案もあったようだが、地元民や音楽学校関係者の努力でここに落ち着いた。
 いろいろ問題はあるが、移築するにしてもできるだけ元の場所の近くであることが望ましいのは分かりきった話だ。漱石の「猫の家」にしても啄木の「喜之床」にしても、やはり東京にあってこそではないかと、私はないものねだりをしたくなる。
 「是非、機会を作って来てみてください」美女は強く推奨する。私は「奏楽」という名前から、なにか邦楽に関係するのであろうかと無学な想像をしていたが、これはまるで見当外れだった。「滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人初のオペラデビューを飾った由緒あるホールです」
 山田耕筰が声楽出身だというのも私には初めて知ることだった。山田耕筰ならば、三木露風の詩に山田が曲を付けた『赤とんぼ』のことを思い出す。夕焼け小焼けのアカトンボ。その「アカトンボ」は日本語イントネーションと違うのではないか。この疑問はかなり一般的ではないかしら。私もずっとそう思っていた。あるとき団伊玖磨が問い質したところ、西国から東京に来て山の手に住んでいるものには分からない、下町に行ってみろと言うのが山田の答えで、確かめに行った團は確かにそうだと納得したことであった。この話は『好きな歌・嫌いな歌』だったか。(確かに本棚にある筈だが探せない)

 向こうに見える黒門は因州池田家の表門を移設したものだ。「因州って?」「因幡の国」「鳥取ですか」。因州池田とは知らなかったが、備前岡山の池田輝政の次男忠継を祖として忠雄が継いだ。三十五万石である。忠継、忠雄ともに家康の娘督姫の子であるため優遇され、松平の名乗りを許された。ここまで書けば私も記憶が甦る。第十六回「小名木川編」を歩いた人は覚えていないだろうか。因州池田藩の支藩である若桜藩、松平冠山の屋敷跡に立ち止まったことがある。その娘であった露姫の哀切可憐な遺書が思い出される。
 屋根は入母屋造り、左右に唐破風の番所を備えた長屋門である。ここでリーダーが武家屋敷の門の種類を解説した資料を配布してくれる。(今日は資料の枚数がすごい)これによれば、この門は十万石以上の国持大名でなければ造れない形式である。
 五万石以上では、両番所は石垣突き出し、屋根庇。五万石以下では片番所。譜代大名の場合はまた違う。格式、身分によってすべて定められていた。「我が家の門はどれだろうか」祖先を辿れば播州三木別所氏に由来をもつドクトル(確かそう聞いた気がする)だから、世が世であれば、それは大変なものであったろう。

 ダンディの予告通り、漸く雨も上がってきた。
 上野東照宮は、寛永四年(一六二七)、藤堂高虎が屋敷地内に創建した。社伝によれば、元和二年(一六一六)、家康危篤にあたって、高虎と天海に遺言されたという。現在の社殿は慶安四年(一六五一)の改築である。
 ダンディの嫌いな東照「大権現」の神号(山王一実神道系)は、金地院祟伝の推す「大明神」(吉田神道系)を抑えて、天海が主張したものだ。秀吉に既に明神号が与えられていた(豊国大明神)から、それを嫌ったものか。どちらも本地垂迹による神であり、明治の神仏分離令によって、この神号は公式には使用を禁じられた。かつて比叡山の支配下にあって山王権現を名乗った神社は、今では日枝神社と称している。
 権現は、仮に神の姿をとって現れた。明神は、明らかに神として姿を現した。どう違うのか良くわからない。
 「垂迹してるんだから本地仏がある筈じゃないか。何だろう」ドクトルがいやに専門的な疑問を提出する。私には分からない。全ての日本の神に本地仏を当て嵌めているのかどうかも私は知らない。八百万と言われる日本の神全てに仏を当てるとすれば、仏教のほうも随分忙しくなってくるんじゃないか。神仏習合は本当に難しい。
 石造りの鳥居(寛永十年、酒井忠世建築奉納)から参道に入り、水舎門(慶安四年、阿部重次建築奉納)を潜る。ずらりと並ぶ石灯篭や青銅の灯篭は全国の大名が寄進したもので、年代を確認したロダンがやはり慶安の年号を発見した。「慶安四年と言えば由比正雪の事件」と私がうろ覚えで口にする。もちろん嘘ではない。家光が死んだ年であり、四代家綱が幼少であったことも、この反乱計画に影響を与えたはずだ。「本当かな」ロダンは自分が配った西暦・和暦の対照表を取り出して、「千六百五十一年」と納得する。
 柵で仕切られた向こう側、木が少し邪魔になる位置に五重塔が見えた。寛永寺の五重塔である。露伴が書いたのは谷中感応寺の方だから間違えてはいけない。
 本殿の前に立って、岳人はいつものように丁寧にお参りする。正面左右の上り竜、下り竜は金色である。左手には入口があり、中に入るためには入場料を必要とする。もうじき工事に入るから「なかなか見る機会がないんですよ。見たい方は是非どうぞ」とリーダーが声をかけても、貧乏な一行からはまるで声が出てこない。左手の入口のところに「旧国宝金色殿」とある、その「旧」の文字がわざとらしく小さく書いてある。
 「みんな、入らないんですね、それじゃ出発します」美女は少し残念そうだ。右手の小高いところに鐘楼堂が見えてくる。これも樹木の陰になっているから、注意されなければ気づかずに通り過ぎてしまったかも知れない。

  花の雲鐘は上野か浅草か  芭蕉

 子規はこの鐘を聞いた。深川芭蕉庵に聞こえたのは、さて、どちらの鐘だったろう。「今でもツカレテ(撞かれて)いるんです」「私はいつもツカレっぱなしで」と碁聖が洒落る。普段物静かなのに、洒落るときのタイミングが絶妙だ。
 左には「大仏パゴダ」という立て札が立って、石段が続いたところに、インドかどこかその辺にあるような小さな建造物が見えている。パゴダとは何であろうか。無学な人間はこんなことでも調べなければ分からない。これは仏塔のことであった。ミャンマー・ビルマ形式だということだから、私の感度もまるで見当外れな訳ではない。
 初代大仏は寛永八年に粘土製で作られたが、正保四年(一六四七)の地震で倒壊した。 その後、万治年間(一六六〇頃)に二代目大仏(青銅製)が建立され、元禄年間には大仏殿も完成した。しかし、その後も地震や火事のたびに修復を繰り返した挙句、関東大震災で頭が落ちてしまった。顔の部分だけは寛永寺が保管していたが、身体の方は戦時中に供出された。その顔だけが、ここに残されている。よくよく運の悪い仏様であった。だからその悲運に伝染しないよう私たちは素通りしてしまう。

 次は五条天神だ。ここには花園稲荷も隣り合わせに存在している。もともと江戸の初期に忍岡稲荷が存在し、一七世紀には上野の守護神として祀られていたものだ。だからお稲荷さんの方が先住者だったのだが、関東大震災後に五条天神が引っ越してきて同居したとたん、庇を貸して母屋を取られた格好になった。この天神様は寛永寺境内を転々と移動して歩いた忙しい神である。冒頭の元三島神社のところで利用した「江戸名所図絵と神社散策」からまた引いてみる。

 江戸名所図会では、少彦名命一座のみが書かれて医道の祖神として五条天神と称し、東叡山の東南の麓にあって連歌師瀬川氏の邸宅内で北野天満宮と相殿となっている、とあります。(中略)
 神社庁資料によれば一六五六年に寛永寺の増築で黒門脇に移転とあり、一六九七年に別当である瀬川屋敷内に移転しています。この移転は瀬川昌億が江戸にやってきてから六十年後ですからおそらく瀬川昌億の死去前後であり、その邸宅内には「連歌師と天海僧正の菅原道真」があった。
 ここに瀬川昌億が別当でもあった「少彦名命の五條天神」が移転して相殿となったと考えられます。(中略)
 江戸名所図会の時代での菅原道真は別の社とみなされており、それが少彦名命一座という記事なのでしょう。(中略)
 菅原道真が表面にでてくるのは、おそらくは明治以降ではないかと思われます。
 大正十二年に鉄道建設のために近隣に移転(位置不明)、翌年の関東大震災で全壊。
 不忍池の南西に仮社殿が造られ、都市整備計画によって昭和三年に現在地に移転します。
 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/zue/gojou/index.html

 岳人はここでもお賽銭をあげ、丁寧な拝礼を欠かさない。しかし、境内から出る時、歩道との境が丸く太鼓橋のように盛り上がったコンクリートになっていて、先頭を歩いていた岳人がちょっと足を滑らして尻もちをついてしまった。お賽銭の御利益がなかったものか。ただし、そのおかげで後から続くものは注意をして歩いたから、被害は岳人一人に止まった。

 大吉を手にして転ぶ神無月  眞人

 実は御神籤の大吉を手にしたのは岳人ではないのだけれど。
 動物園通りに出ると、モリオが「ここに都電が走っていた」と教えてくれる。見上げればモノレールが走っている。「子供の頃、高いところが大好きで。あの頃、そんなに高い所ってないじゃないですか。だから乗るたびに嬉しくて」美女は何回もこれに乗ったそうだ。
 道なりに回り込むように行くと、水月鴎外荘に出る。鴎外の顔がホテルの看板になってしまっている。「鴎外懐石」「鴎外温泉」と、鴎外の名前を売り物にしているのだ。チラシを見れば、「鴎外と『舞姫』の甘い想いを偲ぶ」オリジナルワインなんていう代物にもお目にかかることができる。つい最近、ミツグはここで小学校の同窓会に参加したという。

  冬の宿エリスの恋を封じ込め  眞人

 明治二十一年(一八八八)九月にドイツ留学から帰国した鴎外は、翌二十二年三月に西周の媒酌で赤松登志子と結婚し、その夏からここに住んだ。下谷区上野花園町十一番地。花園町の地名は、当然さっきの花園神社に由来する。『舞姫』が発表されたのは翌二十三年一月のことである。
 その九月、長男於菟が生まれてすぐ十月には、鴎外は登志子と離婚し、本郷駒込千駄木町五七に転居する。その家は偶然のことから後に漱石が住んで「猫の家」と名付けられるのだが、鴎外はまだ知らない。したがってこの地に住んだのは、そして登志子との結婚生活は一年ちょっとの間にすぎない。エリスの面影が結婚生活に影を落としたのか。
 ホテルの中に入れば鴎外旧居も一部保存されているようだが、玄関から覗きこんでも何の風情もない。仕方がないから、勝手に連想を始めて見る。

 今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

 はるか後、関川夏央・谷口ジローのコンビは、鴎外を追って日本にやってきたエリスの冒険を描いた。そのなかで、二葉亭四迷の葬儀の後、鴎外が漱石に述懐する。

 もうはるかな昔のことですが、長谷川君(二葉亭)はあるドイツ女性に少なからず惚れておったようです。勇気にあふれた女性だったが、所詮この国ではともに暮らせぬ。
 わたしはかの女を捨て、長谷川君も彼女をひきとめ得なかった。
 ともかくわたしは以来自罰しています。勤務と夜半の執筆のほかにはなにものにも心を動かされまいと。すなわち恋愛を禁じました。(『秋の舞姫』)

 エリスのモデルについては、ずっとエリーゼ・ヴァイゲルトと信じられていた。鴎外が帰国した四日後の九月十二日、客船ゲネラル・ベーダ―号で日本に到着したのは、客船名簿からエリーゼ・ヴァイゲルトまたはエリーゼ・ヴィーゲルトと判読された。エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert)はその時三十一歳の既婚者で、文学サロンを主宰していた。たまたま鴎外が学んだライプチヒ大学に彼女の親族がいたから、その縁で鴎外と知り合ったのはおかしくはない。しかし三十歳を超えたサロンのマダムでは、可憐なエリスに似つかわしくない。それで新説が生まれた。

 鴎外文学にも傾倒している千葉大法経学部教授の植木哲さんは一九九七年から二年間、ベルリンのフンボルト大学の客員教授を務めたとき、戸籍簿や不動産登記簿などの法的な一次資料を丹念に追究して、エリーゼ説の信憑性を洗い直した。結果、この仮説にあざとい違和感を抱いたのだった。
 夫の会社の変遷をたどってみると、エリーゼは夫の没後、後継の社長になり、第一次大戦後、商事事件を担当する名誉裁判官にまで選ばれていた。
 「戒律の厳格なユダヤ社会で駆け落ちまがいのスキャンダルで指弾されたであろう女性が、経営の実権や名誉にあずかれるだろうか」と植木さんは主張する。そのうえ、ベルリンで鴎外の下宿のほど近くにあった「ビーゲルト」姓の既製服店の一人娘で、「エリス」来日のとき十六歳だったルイーゼ・ビーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert)を探し当て、この少女こそモデルにふさわしい、とさらなる新説まで世に問うているのである。 (保科龍朗「森鴎外とエリス」asahi.com)

 この少女の名前アンナ・ベルタ・ルイーゼをよく読めば、杏奴、類ふたつも鴎外の子供の名が入っているではないか。とすれば、鴎外はわが子にその名前を与えるほど、忘れられなかったということではないか。
 十月十七日、エリーゼ・ヴァイゲルトは帰国した。山田風太郎は、築地精養軒に滞在したエリスが、日本人が起こす数々の事件とその死の真相を見事に推理した後、日本人が怖くなったと彼女に言わせている。

 「私、日本人が嘘つきだということがよくわかりました。(中略)彼らはみんな死んでしまいました。それも嘘を覆い隠すための死です。みんな、なんという嘘つきでしょう。私は日本人が恐ろしくなりました」
 帽子のひろい鍔の翳で、エリスの顔は青い花のように見えた。
 「私、ドイツに帰ります」(山田風太郎『明治波濤歌』)

 少し早いが、そば處「亀鶴庵」に入り込む。昼までにはまだ二十分ほどあるので、他に客はいない。すぐに「セット」に目が行ってしまう私、ミツグ、岳人は「ミニ焼肉丼・たぬきそば」セット千円なりを注文する。灰皿はあるのに念のために質問すると、昼時は禁煙だというので、蕎麦できてくるまでに仕方がなく外にでて一服する。天ぷらそば、天セイロ、それぞれ注文しているが、ロダンのセイロ二枚は、それで足りるのだろうか。
 一番に注文して、最初に食べ終わった講釈師が、「もう出ようぜ」と急かしてくるが、他にはまだ誰も食べ終わっていない。それに一番先に出来そうな、ロダンのセイロがまだ出てこないのが不思議だ。控えめに考えても、天セイロができるのであれば、セイロのほうが早くて良い。天麩羅は作り置いていたとしても、それならば同時に出てくるべきではなかろうか。やがて他の客も入り始め「それじゃ、さよなら」と講釈師と碁聖は店を出て、永遠に遠くに去って行った。
 漸く全員が食べ終え店の外に出ると、二人はどこからともなく現れた。
 不忍通りのビルが立ち並ぶ中に、黒塀に囲まれた屋敷がそこだけ静かな雰囲気を醸している。横山大観記念館だ。当初の家は東京大空襲で焼失したが、昭和二十九年、焼失した家屋の土台をそのまま利用して再建された。それを挟んで、大観は明治四十二年(一九〇九)から、昭和三十三年(一九五八)二月、九十歳で死ぬまでこの地に住んだ。

  石蕗の花静かなる塀のうち  眞人

 記念館の入館料は五百円なり。壁に掲示された大観の経歴を読んで、「大観は水戸です」とロダンが意気込んで報告するとおり、明治元年、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれ、十一年には一家をあげて上京した。長男なのに横山家の養子に入ったのは何故なのだろう。画家になることに父が反対していたことと関係があるのだろうか。私は日本画の世界に詳しいものではないので(洋画にも詳しくない)事情は分からない。
 客間(鉦鼓洞)には囲炉裏が切られ、自在鉤に土瓶が掛けられている。廊下のショーケースには大観が絵付けをした磁器も並んでいる。「こんなチマチマした仕事もしてたんですかね、小遣い稼ぎかしら」碁聖の感想は面白い。私は絵は分からないが、東京美術学校の教員たちや、日本美術院の連中を撮影した写真などが面白い。
 広く静かな日本家屋は「心が休まります」と美女が言うが、暖房設備のない冬は寒かっただろう。今日は暖房が利きすぎてやや暑いほどだ。観覧時間は二十分とリーダーが決めていたが、私は早々と外にでてしまう。大橋さん、講釈師もあまり絵には関心がなさそうだ。

 今度は不忍池に向かう。ボート池には水鳥がたくさん浮いている。私は全部カモかと思っていたが、どうやら違うらしい。ここで先頭と後方集団がほぼ二つに分かれてしまった。先頭で待っているところへ、講釈師が走って追いついて来た。「俺は早く行こうぜって言うのに、鳥の名前を聞いてくるんだよ。俺はリーダーに悪いって言ってるのにさ」鳥が一番好きなのは自分であり、自ら積極的に講釈をしていたことなんておくびにも出さない。「みんなオケイさんが悪いんだよ」
 弁財天は、次回(一月)岳人が企画する谷中七福神コースできちんと見ることにして、私たちは急いで下町風俗資料館に入る。入館料は三百円だ。「団体ですか」と聞かれたが、残念ながら団体割引が適用される二十人には少し足りない。「おまけしてもらっても良いです」と私が冗談めかして(実は少し真剣に)話しかけても館員は苦笑いするばかりだ。ロダンも初めて入ると言っていたが、実は私もこの前は何度か通っていても入るのは初めてだ。
 講釈師がまず最初に上がりこんだのは、花緒の製造問屋の店先だ。帳場に五つ玉の算盤が置いてあるのを目ざとく見つけ、早速座り込んで一所懸命算盤玉を弾く振りをする。「丁稚かな」「番頭さんって呼んであげましょう」「番頭さん、帽子が邪魔ですよ」写真撮影を期待して、講釈師は帽子を脱ぎ棄て、肩にかけていたバッグも下におろして得意そうな顔をする。そのあと、数人が畳の上にあがりこんで室内を点検する。土間の壁には出来上がった花緒が美しく掛けられ、その上には「用心籠」が吊るしてある。
 通路をはさんで反対側には、裏店の長屋の一角が復元されていて、これも楽しい。長唄のお師匠さんの家は戸閉まりがしてあるが、軒先に白い足袋が干してあって、なかなか色っぽい。駄菓子屋の小さな店先。
 銅壷職人の家では、茶の間の長火鉢に灰ならしが置いてある。それを見て、「お好み焼きの」とオケイさんが声を上げる。お好み焼きをひっくり返す、あの道具は何というのだろうか。確かにそれと形は似ているかも知れない。しかし、職人の家の火鉢でお好み焼きは作らないだろう。四・〇という驚異的な視力の持ち主にも、灰をならして筋をつけるギザギザは見えなかったのだろうか。
 「だって、見たことないもの」「山の手のお嬢様の家には、火鉢なんかなかったんでしょうね」とダンディが笑う。
 部屋の脇の幅が三尺もない狭い作業場には、小さな坩堝が設置され、金床のそばに槌がおいてある。「ロダンはそっちを持って叩くんだよ。俺はこっちでやるから。これ、何って言うか知ってるかい」「?」「相槌だよ」講釈師は知らないことがない。「だって俺のうちは銅壷屋だったんだから」神田の生まれとは聞いていたが、これは初めて聞く話だ。
 路地の突き当りには御神籤の自動販売機(?)が設置されている。そこにいきなり子供が四五人走ってきて、機械を取り囲んだ。ひとりだけ、私たちを見上げて「おみくじ並ばなくちゃ」と言いながら、私たちの後ろにくっついた子供がいる。「並んでないよ。大丈夫だから」その声に照れたような笑いを浮かべて、その子は仲間の所に走って行った。「真面目な子供ね」この少年がこの国の将来を担う。
 その場を離れれば、いつの間にか小学生がいっぱいいることに気がついた。校外授業、あるいは社会科見学とでもいうものだろう。引率の先生は何もしていないように見える。

 階段を上る途中では明治の物売りの声が聞こえてくる。二階には昔の玩具が特別展示されている。そのお蔭で、いつもは銭湯の番台が設置されてある筈なのに、今日は片付けられて見えない。「一度座ったことがあります。もっと若い頃に座りたかった」ダンディでさえ、番台に憧れる。私も少し残念だ。
 たかが玩具の展示がこれほど面白いものとは、われながら驚いた。精神が「懐旧」に向かっているか。それとも「童心」が残っているか。
 メンコ。但し秋田ではメンコとは言わない。「パッチって言ったんじゃないか」「俺の方じゃパッタンだった」ミツグとは同じ秋田でもちょっと地域差がある。彼は丸いものしかなかったと言うが、私は細長い名刺型のものも覚えている。私が持っていたのは、従兄の良平が集めたものを貰ったのだから、世代的には四年位上のものだ。富山の置き薬の箱に大事にしまってあったね。ショーケースにはその長方形のものの中に、怪傑ハリマオ、白馬童子(山城新吾)の顔も見える。一番多かったのは相撲取り(栃若時代だった)や時代劇俳優(錦之助、千代之介、アラカンなんかを覚えている)の顔ではなかったか。
 ベーゴマがなかった点についてはミツグと記憶が一致した。これには北限というものがあるらしい。黄金バットの紙芝居が展示されているが、私は見ただろうか。「飴が買えないと見ちゃいけなかったのよね」長谷川町子の絵に似た紙芝居も飾られているが題名は分からない。軍人将棋は知らない。「エッ、知らないの」講釈師がバカにしたような声を出す。モリオもミツグも知っているのは不思議だ。
 戦艦の模型は、雑誌の付録(厚紙)を組み立てたものだ。「豪華ですよね」美女は感動する。これほど豪華ではなかったが、私の子供の頃には東京タワーとか地球儀なんかが付録についていた。私は不器用な癖に気が短いものだから、切り取り線を手でむしったりして、いつでも上手く作れなかった。付録ならば、紙の着せ替え人形とか塗り絵もあった。「私たちの頃はきいち(蔦屋喜一)の塗り絵でしたよ」美女の言葉に、講釈師も頷くのは何故だろう。
 橋口さんは、孫のためにカルタを求めて走り回ったが、やっと手に入れたのは旧仮名遣いだから結局使えなかったとぼやいている。「テフテフなんですから」「私だってテフテフでした」とダンディが言うのは当たり前だ。私たちは当然のことながら新仮名遣いのカルタを使っていた筈だ。それが今入手できないというのはどういうことだろう。もしかしたらカルタを買おうなんて、旧仮名遣いを知っている年代しかいないということか。
 講釈師は剣玉も上手だ。「これがホームラン」なんて言いながら振り回すと、これは残念ながらしくじった。そばにいた小学生が詰まらなそうな顔でそれを眺めている。ダンディはちょっと持ち方が違うようで、橋口さんに注意されている。私もやってみたが、余り上手ではない。
 「ほら、本物の日光写真がある」確かに展示ケースの中に、黒い種フィルムが収められてある。しかし、「本物」の「日光写真」と言うのは論理的におかしいね。里山ワンダリングの会員ならば誰でも知っている冗談なのだが、隊長のカメラ(セルフタイマーのタイミングが異常に遅い)を「日光写真」と呼んだ、それと比べている話だ。
 しかしこれではきりがない。リーダーが出発の号令をかける。

 竹馬や時を忘れて昭和の子  眞人

 竹馬なんていう季語を使ってしまうと、当然ながら連想しなければならない句がある。口直しに引いて見る。

 竹馬やいろはにほへとちりぢりに  万太郎

 こんなに無造作に詠んで形がぴたっと決まるのは、芸の力か。万太郎の小説も戯曲も読んだことはないが、粋で華やかで、その癖ほのかに哀愁がある。

 下谷広小路を通る。「上野鈴本」の前で東京の寄席の現状について、ロダンが是非とも報告しなければならないことがある。現在東京で定席としてはこの鈴本演芸場を含めて、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の四つしかない。寄席の伝統を守るため、「皆さん、ぜひ落語を聞きに来てください」とロダンは力を込めて言う。もう知っている人は少なくなったが、実はこのシリーズ第一回で深川を歩いた後、この鈴本で夕方の部に入ったのだった。あのとき岳人と隊長は入船亭扇好の「妾馬」で目を潤ませていたっけね。「すぐ近くに本牧亭もあるんですが」これは講談唯一の定席で、講釈師にお任せしても良い。
 上野三丁目の交差点のビルの角に「日本最初の喫茶店発祥の地」の標柱と説明を発見した。「喫茶店なんて、ずっと前からあったんじゃないの」「コーヒーを飲ませる喫茶店ということのようですよ」
 どうやらみんな初めて見るようだ。説明によれば、明治二十一年四月十三日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(西村鶴吉)によりこの地に設立された。二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。しかしこれではあんまり簡単すぎて分からない。「鄭永慶」を検索するとこんな記事が出てきた。最初の喫茶店の名前は「可否茶館」である。

 現在の様な本格的な珈琲店が開かれたのはというと明治二十一年の春、東京で開店した「可否茶館」が知られています。それまでにもいくつかの似た様な店はありましたが開店の目的がはっきり珈琲を飲ませる為のものであると定義された店と言えるのは「可否茶館」が初めてでその意味からも『日本で最初の珈琲店』と言えるでしょう。(中略)
 永慶の家は長崎で代々、唐通事(中国語の通訳官)の家柄で他の二人の兄弟と共に幼い時から語学に触れる機会が多く、十代にして英、仏、支那の三ヶ国語をマスターしていた。その後アメリカに留学した彼には前途洋々たる未来が待っている筈だったが、肝臓病の為に途中帰国を余儀無くされ、その後の人生が大きく変わる事になる。失意の内に帰国して長崎で養生した永慶はその後の努力もあってなんとか政官界に累進するが留学途中帰国のレッテルを貼られた学位のない彼にはそれ以上の道が開かれる事はなかった。そこで、あっさり官界に見切りをつけた永慶は上京して新たな道を模索しだす。(中略)
 自身の生きる道を模索した永慶は留学中に触れた情報発信基地としてのコーヒーハウスを日本に持ち込む事を思い付き、「可否茶館」を開業する。情報発信基地としての位置付けでいえばこの時すでに伊藤博文門下生によって「鹿鳴館」が名を馳せていたが、限られた上流階級が占有する社交場として中産階級や若い世代の者達は一歩も足を踏み入れる事の出来ないいわば「驕れる社交場」となっていた。これを見た永慶は周囲の者にこう語ったという。
 「俺はあんな表面だけの欧化主義で馬鹿騒ぎをしている社交場なぞとは違った大衆庶民や学生の為の社交サロンであり、知識の共通の広場となる新しい喫茶店を開店して一旗揚げてやる。問題は多いだろうがどうせ浮き世は三分五厘だ。よし、やってみよう。」永慶の理想を具現化した「可否茶館」は珈琲と文化に重きを置き、「知識の共通の広場」を提供する事を目的として珈琲はもちろんの事、トランプ、クリケット、碁、将棋、その他内外の新聞や書籍を取り揃え、現在の珈琲店でもこれ程の設備のものはちょっとないだろうというものであった。
 http://www.hirocoffee.co.jp/hiro/meistan/column/6/6.html

 一軒の喫茶店を開業するのにも、鹿鳴館と渡り合う覚悟が必要だった。しかし、日本にはついに、ヨーロッパ文化の背景にある「サロン」は根付かなかった。
 住所表示はすでに外神田になる。神田末広町の説明板を見ていると、前方に妻恋坂の標識が見えてきた。「そこを左に曲がればすぐですよ」美女はヤマトタケルとオトタチバナが好きで、その妻恋神社には第四回「本郷編」で立ち寄った。しかし今日はそちらには回らず、その手前の道を左に曲がると小さな公園が見えてくる。
 「一番端っこにあるんです」その言葉に従って、とりあえず公園の中を通り抜け、一番端まで行けば、歩道に面して説明を記した案内板が立っている。「公園のほうに向けてくれればいいじゃないですか」美女の文句を聞きながら柵をまたいで見る。滝沢馬琴住居跡だ。神田明神坂下同朋町東新道。現在の住所表示では外神田三丁目。芳林公園内である。ところで、馬琴自身「滝沢馬琴」と名乗ったことは一度もない。だから正しく「曲亭馬琴」と呼ばなければならないだろう。
 文政元年(一八一八)、最初は息子の宗伯が、母、妹ともにここに住んだ。宗伯を医者にするため、馬琴が独立させたのだ。馬琴は相変わらず元飯田町中坂下(千代田区九段北一丁目五)の下駄屋で商いをしていたが、文政七年には長女さきの夫、義嗣に下駄屋の名跡を譲り、ここに移り住んだ。天保七年(一八三六)四谷信濃坂に転居するまで十二年間をここで過ごすことになる。
 天保六年(一八三七)に宗伯は死んだ。とすれば、信濃町への転居はその影響だったかもしれない。老年になって視力を失った馬琴が、嫁の路を相手に口述筆記をして八犬伝を完成させたことはよく知られている。
 ここで女性陣からお煎餅やカリントウ、チョコレートが提供される。これだから女性陣のリュックはいつも膨らんでいる。「佐藤さんのためにお煎餅も買ってきたのよ」橋口さんはいつも優しい。
 案内板のあるほうの道を隔てたビルは昌平小学校だ。どうやら幼稚園や公共施設も同居しているようで、ちょっと見るだけでは小学校とは思えない。校庭らしきものもない。もともとここにあった外神田地区の芳林小学校と、淡路地区の淡路小学校を統合してできた。要するに少子化の結果であるが、統合されてしまった芳林小学校は、安政四年(一八五七)、清水家の侍臣金子政成が神田牛込袋町代地に開いた家塾「芳林堂」に由来するという。塾名の命名は加賀藩主前田斎泰である。なかなか歴史のあるものなのだ。公園の名もそれに由来するから、その記念として片隅には校歌の碑も立っている。
 昌平小学校のビルに丸に昌の文字の紋章が描かれているのは、昌平小学校を意味しているのだが、その名称自体が、すぐ近くにあった昌平黌を意識しているの。

 御徒町から秋葉原に抜ける。もう何十年も前に降りたきりだから、いつもマスメディアで報道される秋葉原の様子なんか、まるで異国のことのように思われる。ヨドバシカメラのビルは、かつてヤッチャバのあった場所だが、面影なんかまるでない。
 路上では若い連中が何かを食いながら歩いている。「あれ何かしら」「ソフトクリームもあるわよ」ヨシミちゃんがオケイさんを突きながら笑っている。「ダメ、言わないで」
 いわゆるメイド喫茶であろう。紺の制服に白い小さなエプロンを身に付けた娘三人が店の前で並んでいる。「何が面白くて行くんだ。お茶を飲むだけだろう」モリオも私と同じで時代についていけない種類の人間だ。メイドとは何か。要するに下女、女中ではないか。下女、女中を貶めているのではない。誰だって好きで女中になんかなる者はいなかった。かなうならば女学校に行きたい、せめて月に一度は休みが欲しいと、儚い夢を見ながら耐えていたのだ。ここに立っている娘たちに、その悲しみがあるのかどうか。
 「オケイさんが先頭にいるじゃないか」講釈師の声がする。「最初は先頭を歩いているのよ。それがいつの間にか一番後ろになってるの。不思議よね」それは歩幅の問題、つまり足の長さのせいではないだろうかと、ちょっと失礼な言葉を口にすると、やはり遅れがちに歩いているミツグが「ピッチの差と言って欲しい」と反論する。
 JRの駅名ではアキハバラと言う。若者たちはアキバと言う。実は無学な若者たちが偶然にも歴史的には正しい呼び方に辿り着いた。明治二年十二月十二日、神田相生町指物師金二郎宅より出火、麹町平河町、相生町、松永町、亀住町、花田町、田代町、山本町などが焼け野原になった。
 「空き場所になったから、アキバです。のちに秋葉神社がやってきました」と美女が説明する。「そうかな、秋葉神社は知っているけれど」とダンディが首をひねる。私も「空き場」が語源というのは初めて聞く話だ。ただ、空地になった場所に誰かが神社を建てたのは確かなことだ。その神の由来は分からない。それが鎮火の神なら遠州秋葉山権現であろうとみんなが勝手に推測したということらしい。(新潮社『江戸東京物語』より)
 秋葉神社とは何者か。

 殆どの祭神は神仏習合の火防・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。(ウィキペディア「秋葉神社」)

 神道に権威づけると、祭神を火之迦具土神ということにするらしい。空き場か、秋葉権現かは今保留しておくが、いずれにしろ、アキバの原であるから、アキバハラあるいはアキバガハラと呼ぶのが正しいことは言うまでもない。もっともJR(遡って国鉄、鉄道省の役人)の無学はこれだけではない。
 和泉橋の袂に、なにやら由緒のありそうな石の建造物があって、文字の判読に悩んだ結果、その読みにくい文字は単に「国旗掲揚石」とあるだけなのが分かってがっかりする。岩本町。そして東松下町に出る。

 この辺りに千葉周作の玄武館があったらしいのだが、正確な場所が分からない。ドクトルの見ている本では、別の場所にちゃんと碑があるらしいのだが、その位置も分からない。どうやら東洋高校という学校の敷地になっているらしい。
 玄武館の門人には清河八郎、山岡鉄舟、新選組の山南敬助、藤堂平助がいる。間違いやすいのは坂本龍馬で、彼は、周作の弟である千葉定吉の道場(桶町千葉)にいた。竜馬の妻であると自負して独身を貫いた千葉さな子は定吉の次女である。甲府の日蓮宗妙清山清運寺にあるさな子の墓石には「坂本龍馬室」と彫られてあるそうだ。
 柔術における嘉納治五郎の立場と、剣術における千葉周作とがよく比較される。つまり武術の近代化であって、秘伝、極意なんていう訳のわからないものを信奉せず、技術に限定して合理的な説明を施した。他の道場では目録(免許)を得るのに十年かかるところ、千葉道場では五年でよかったという。
 「有名な道場があと二つありますよね。桃井なんとか」ロダンはこの手の話題が大好きだ。桃井春蔵(鏡心明智流)士学館。それともうひとり誰だっけ。「斎藤ですか」思いがけず美女が答える。実は美女作成の資料にちゃんと「位の桃井、力の斎藤、技の千葉」と書いてあるのだ。怠け者の私たちは折角の資料も良く読んでいないことが分かる。
 そうだった、斎藤弥九郎(神道無念流)の練兵館だ。弥九郎の長男は歓之助、突きを得意にして鬼歓と呼ばれたなんていうことも思い出す。玄武館を含めてこの三つが幕末の三大道場と言われた。士学館からは武市半平太、岡田以蔵の土佐組。練兵館からは桂小五郎、永倉新八、芹沢鴨(この取り合わせは面白い)が出た。
 狭い路地に入り込むと「お玉ケ池跡」という標柱もある。しかし池らしいものは全く何も見当たらない。お玉稲荷の小さな祠があるだけだ。(岩本町二丁目五)。江戸初期には桜の名所で「桜ケ池」と呼ばれ、お玉はその茶店の看板娘で、二人の男に言い寄られたのを悩んだ挙句、池に身を投げたという伝説である。
 鈴木理生『江戸はこうして造られた』に収められている江戸の原型図を見ると、お玉が池の大きさは、ほぼ不忍池に匹敵する。本来の石神井川が飛鳥山西麓から千駄木、根津を通って不忍池に流れ込み、更にそこから南下して湯島、須田町、神田から日本橋堀留で江戸湾にそそぐ。今の地図で言えば神田駅から秋葉原駅あたりまで広がっていたお玉が池の水は、神田付近で石神井川に注いでいた。江戸市街地の拡張にあたって次第に小さくなったものだろう。
 家康入部以前の江戸は、上野台地、本郷台地のほかは、至る所に沼沢が点在する湿地帯だったようだ。だから家康の江戸造りはこれらの湿地帯を埋め立てることから始まった。

 神田松枝町の説明板のある場所のビルのそばには、「お玉が池種痘所の記念に」と題する御影石の石碑が嵌め込まれている。最初はその文章の方から見始めたのだが、「こっちのほうが分かるよ」と講釈師が教えてくれるので車道から見てみれば、「お玉ケ池種痘所記念・東京大学医学部」とある。さっきの馬琴旧居跡もそうだったが、石碑や説明文が車道側を向いて立ててあることが多いのは何故だろう。読むのは歩いている人間ではないのか。歩道側の文章の方はこうなっている。

 お玉ヶ池種痘所の記念に
 一八五八年・安政五年五月七日
 江戸の蘭學醫たちが資金を出しあつてこの近くの川路聖謨の屋敷内に種痘所を開いた。これがお玉ヶ池種痘所で江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で十一月十五日に類焼にあい下谷和泉橘通へ移つた。この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典をあげた。
 いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえまた別に種痘所跡にしるしを立てて記念とする。
 一九六一年十一月三日
 昭和三十六年文化の日
       東京大學醫學部

 「文科系の方だと蕃書調所をその最初にしていますよね」ダンディの言葉通り、私もそっちの方が東京大学の前身だと思っていた。こちらの方は安政四年(一八五七)、蕃書調所として発足、後に開成所。明治維新後は開成学校となってやがて、大学南校となり、東京医学校と統合して東京大学へと流れ込んでいく。この東京医学校というのが、種痘所の後身であった。

 だんだんみんなが疲れ始めたようで、列が長くなってくる。
 十思公園(日本橋小伝馬町)に入る前に、道路を挟んで建っている大安楽寺のほうを先に見る。江戸伝馬町処刑場跡の石柱が、塀の間に挟まるように立っている。門の左の柱には「新高野山大安楽寺」とあり、右側には「準別格本山」と記されている。八臂弁財天、十一面観音などの幟がはためく。本殿の大提灯に書かれている文字は弘法大師だ。境内には子育て地蔵が鎮座している。
 その隣には身延別院があって、油掛け大黒天という、高さ二十センチほどの黒光りする大黒が祀られている。油をかけるのか。
 伝馬町牢屋敷は、延宝五年(一六六七)、常磐橋門外からここに移されて、明治八年(一八七五)市ヶ谷監獄ができるまで使用された。敷地は二千六百坪強。囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀であり、代々世襲した。

 配下として四十人から八十人程度の牢屋役人、獄丁五十人程度で管理が行われていた。
囚人を収容する牢獄は東牢と西牢で分けられ、また身分によって収容される牢獄が区別されており、大牢と二間牢は庶民、また独立の牢獄として揚座敷が天和三年(一六八三)に設けられ、御目見以上の幕臣、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容するため、ほかの牢より設備は良かったようである。
大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者による有宿者(人別帳に記載されている者)への悪影響を避けるため、宝暦五年(一七五五)に東牢には有宿者、西牢には無宿者を収容し、安永五年(一七七五)には独立して百姓牢が設けられた。女性は身分の区別なく西の揚屋に収容された。
収容者の総数は大体三百から四百人程度だったようである。(ウィキペディア「伝馬町牢屋敷」)

 「松陰先生終焉之地」碑。隣の石には例の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」が彫ってある。千住回向院、松陰神社と、松陰に縁のある場所に来るのはこれで三度目になる。
 石町時の鐘。「あんなのが建っていたかな」とダンディが首をひねる。しかし説明を見れば、ここに鉄筋コンクリートの鐘楼を建てたのは昭和五年だというから、そんなに新しいものでもないし、この鐘楼のない時代をダンディが見ることもできなかった筈だ。
 江戸の時の鐘で最も古い。この鐘は将軍秀忠の時、江戸城内の西の丸で撞いていた城鐘であった。将軍の居所の余り近くでは差し障りがあるため、寛永三年(一六二六)鐘は日本橋石町三丁目に鐘楼堂を作ってそこへ移した。鐘の音は、北は本郷、東は浅草、南は浜松町、西は麹町の辺りまで聞こえたという。江戸府内でその他には、浅草寺、本所横川町、上野寛永寺(さっき見た)、芝切通し、市谷八幡、目白不動、赤坂田町成満寺、四谷天竜寺にあった。江戸の庶民はこの鐘によって時を知ったことになる。

 城内で鐘撞役をしていた辻源七が、一六二六年日本橋本石町三丁目に二百坪の土地を拝領し鐘撞堂を建て、新たに鐘を鋳造し「時の鐘」を知らせる仕事を開始した。これが江戸で最初の「時の鐘」とされている。(中略)
 江戸学辞典によれば「元文三年(一七三八)の記録で、源七の収入は年間約九十両であり、支出の内必要経費は撞木・時計磨料・常香・鐘撞人給金(五人分)・油・飯米・味噌・薪・炭代として四十一両ほどが計上されている」とある。
 ここで注目したいのが、時計磨料と常香という項目が記されていることである。正確な時間を知るために、時計と時香炉も合わせ使っていたのが判る。時香炉は常香盤の香の燃える道筋に時間ごとの印をつけたもので、寺院などでは古くから使われてきている。十七世紀の中頃に江戸城や石町で時計が使われていたことは当時の最先端技術であり、いち早く不定時法の和時計が考案されていたことになる。
 http://kkubota.cool.ne.jp/tokinokane12.html

 素人が考えても定時法ならば原理は簡単だ。しかし、日本の不定時法を刻む機械時計を作ったということは、カラクリ職人の知恵と技術がどれほどのものであったかを示すだろう。鐘楼には階段がついているのだが、鍵がかかっていて上にはいけない。「せめてそばで鐘を見たいと思っていたんですけど」しかし、近づけば必ず悪戯するするものが出る。仕方がないことだろう。

 堀留町には椙森神社がある。あっちゃんの構想ではここにも立ち寄る筈だったが、時間調整のため外から参道を覗き込むだけにした。計画にあったのだから、一応は触れておこう。社伝では、将門追討の命を受けた藤原秀郷(俵藤太)が戦勝祈願をしたのを始まりとする。太田道灌が山城国伏見稲荷の伍社を勧請したので、祭神は伍社稲荷、副神は恵比寿である。柳森稲荷(神田須田町)と烏森稲荷(新橋)とともに江戸三森稲荷と呼ばれた。
 富籤が盛んであったとも言う。江戸で最初に公許された富籤は谷中感應寺、次いで認められた目黒瀧泉寺(目黒不動)、湯島天神を合わせてこの三カ寺が江戸三富と呼ばれる。そのほか、文化年中以降、二三十の寺社で興業が行われたようで、この椙森稲荷もその一つだったのだろう。

 玄冶店跡にはただ標柱があるだけだ。標識のあるのは日本橋人形町三丁目八になっているが、堀留町の一帯がそうだったのだろう。真ん前の店頭からはみ出した商品が、標柱の傍に置かれている。
 玄冶店から「私は歌謡曲しか連想できませんよ」とロダンは言う。みんな似たようなものだろう。「店をタナって読まなくちゃいけないんだよな」ミツグが初歩的なことを言ってくれる。裏店、店子なんて言う言葉を思い出せば良い。今のようにテレビに文字表示が出る時代ではない。子供はみんな耳で覚えて、自分の知識で考えた。「見越しの松って、神輿かと思ってました。不思議だなって」美女の感覚では、「黒塀」は黒兵衛であった。
 この辺りにはかつて幕府の奥医師岡本玄冶法眼の拝領屋敷があった。岡本玄冶は天正十五年、京都に生まれ、後に将軍家光の疱瘡を治したことで有名になった。その後九代にわたって子孫がこの地に住んだために、「玄冶店」が通称となったと言う。芝居の関係者が多く住み、また富裕な町人の妾宅も多くあったようだから、「粋な黒塀、見越しの松」というのはあながち嘘ではないだろう。
 お富与三郎については、西沢爽が三田村鳶魚他いくつかの説を検討しているが、結局モデルの特定はできない。たぶんここに集まっている人には馴染みがないだろうが、西沢は歌謡曲の作曲家であり、かつ、日本歌謡史を研究して大部の書を著した研究者でもある。(高すぎて買えないから、私は当然読んでいない。一応書名だけ挙げておこう。『日本近代歌謡史』全三巻、八万円である)
 『与話情浮名横櫛』では、二人の出会いは木更津である。私は独身の頃(だから三十年近くも前の話だが)、営業で木更津方面に毎週行っていたが、どちらかと言えば寂れた町だという印象しかない。

 木更津は、東京湾の向かい側、江戸の頃は今の東京人が伊豆・熱海などへ気軽にでかけるように、陸路では神奈川県丹沢山塊の大山詣か江の島、海路では木更津船と呼ばれた定期船で、木更津へ行くのがその頃の行楽地であった。
 だから木更津は今とちがい、弦歌さんざめく歓楽街であった。
 そのうえ、木更津船だけが安房、上総、下総一帯の領米輸の特権を一手に握っていたから、船頭たちの暮らしは豪勢なるものであったという。いわゆる江戸前の土地で江戸の土地で江戸の遊客が足繁く通うので、遊芸も江戸の花街にさして遜色はなく、田舎くささは感じられなかった。(西沢爽『雑学艶歌の女たち』)

 どうも今の木更津とは大分印象が違いそうだが、そんな町の博徒に囲われていた(あるいは芸者だった)お富だから、後に長唄の四世芳村伊三郎になる(と言われている)与三郎が一目惚れするほど、粋で美人だったのだろう。「蝙蝠安の墓が木更津にありますよ」ダンディはそんなところまで行っているのか。
 さて、歌謡曲『お富さん』(山崎正作曲・渡久地政信作曲)のほうである。「せめて今夜はさしつさされつ飲んで明かそうお富さん、エッサオー茶碗酒」これはないだろうと西沢は怒る。馬子馬方の立場茶屋ならいざしらず、富裕な町人の囲い者の家で茶碗酒なんて、無学も程があるというのである。そう言われると私も耳が痛い。江戸の趣味からすれば私たちの酒の飲み方なんて、車夫馬丁以下であるかも知れない。

 「アレッ、なんですか」向こうから大きな犬を連れた和服の女性が歩いてきた。それにしても大きな犬だと思って見ていると、これがイノシシだから驚いてしまう。しかもちゃんと服のようなものを着せて、綱を引いているのだ。焦げ茶色の少し長めの毛が結構きれいだ。「猪ですよね」「豚かしら」「イノブタじゃないか」誰も、豚と猪をきちんと区別して見たことはないから正確には判定できない。しかし、たとえ豚だったとしても、この東京の真ん中で、若い女性が連れて歩いているのは、いささか不思議な光景だと思わざるを得ない。

 初冬や猪随へて小舟町  眞人

 みずほ銀行小舟支店は、富士銀行(旧安田銀行)発祥の地である。GHQの財閥解体指令で財閥の名を使うことが許されず、富士銀行と改称した。「ほかの三井、三菱、みんな元の名前に戻しているんですけどね、安田銀行だけが戻さなかった」ダンディは日本経済史の専門である。その時期、三菱は千代田銀行、三井は戦中からの帝国銀行、住友は大阪銀行と名乗っていたのだ。
 割に狭い、人通りの少ない脇道は按針通りと名付けられている。ビルの壁面のちょっと引っ込んだところに石碑が置かれているから、知らない人は全く気付かずに通り過ぎてしまうだろう。三浦按針屋敷跡である。「オランダ人?」「イギリス人です」
 高速道路の下にある日本橋を左に眺め、三越(日本橋室町一丁目)を通り過ぎる。「お子様ランチ発祥の地だよ」こういう知識なら講釈師のお手の物だ。「旗たててあるんだ」

一九三〇年、日本橋三越の食堂部主任であった安藤太郎が、数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案した。当時は「御子様洋食(定食との説もある)」と称されており、値段は三十銭。翌年には上野松坂屋の食堂メニューにも登場し、こちらは「お子さまランチ」と称されていた。この名称が普及し、現在に至っている。(ウィキペディア「お子様ランチ」)

 日本銀行(辰野金吾設計)は日本資本主義の象徴だっただろう。立派な建物であるのは間違いない。

 日本銀行本店は、ベルギーの中央銀行を模範に設計されたといわれています。当初は総石造りの予定でしたが、一八九一年(明治二四年)の濃尾地震の被害状況から、建物上部を軽量化することにより耐震性を高めるため、一階は石造り、二、三階は石を貼り付けた煉瓦造りに変更されました。エレベーターや水洗便所、防火シャッターなど当時としては珍しい設備を備えていました。http://maskweb.jp/b_boj_1_1.html

 「ドアがすごく重いんだよ」モリオは、この中の図書館に入ったことがあるのだ。その向かいの貨幣博物館を横目で睨みながら、やがて常盤橋を渡る。浮浪者が毛布を被って寝ている。この人は、これからの季節にどうやって生きていくのだろう。
 石垣の御門跡には「埼玉県人なら知っていなければ」とダンディが指摘するように、渋沢栄一像が立つ。苦心して青淵の号を読んだのに、ちゃんと説明の方に書いてある。
 石垣のずいぶん上の方に、門跡を説明する銅版が嵌め込まれていて、普通の肉眼では読めないようになっているのは何故だろう。
 これを回りこんで、さっきの橋の上流に架かるもう少し古い橋を渡れば、これがもうひとつの、明治十年、旧常磐橋御門の石材を利用して作られた橋だ。こちらの橋は常磐橋である。常盤と常磐。同じトキワでも文字が違うのに注意しなければならない。都内に残る石橋の中で最も古い。車道と歩道が画然と分かれているのも「これが日本最初でしょう」とロダンが知識を披露する。明治の頃の車道というのは何を想定したか。馬車であろうかとロダンは考える。
 すぐ近くには一石橋がある。イッコクバシかと思っていたが、親柱には平仮名で「いちこくはし」と書いてある。「本来、ヤマト言葉は濁らないんですよ」上方人のダンディの言葉に、秋田ではあらゆる言葉が濁るんですよと答えておく。しかも鼻濁音が多い。
 橋名の由来は、この橋の北側に金座支配の後藤家、南側に呉服支配の後藤家があったので、後藤 (五斗) の両方を合わせて 「一石」 になったという説が有名だろう。「なんだ、江戸の駄洒落か」とミツグが呆れるのも無理はない。しかし、もうひとつ別の説があるようだ。それは、幕府が通用禁止の 「永楽銭一貫」と「米一石」 とを交換したことに由来するというものだ。それとこの橋と、どう関連があるのか分からないから、こちらの説も怪しいものだ。
 金網で囲まれた中に「満よい子の志るへ」と彫られた石柱が残っている。こうしないと、誰かが打ち欠いてしまうのだろう。安政四年(一八五七)この辺りの家主たちが建立した。迷子が頻繁に発生するほどの橋であったか。

 これで本日のコースは恙無く終了した。見所満載でおよそ十一キロを歩いたことになるらしい。腰痛をおしてリーダーを務めた美女に、深く感謝申し上げなければならない。八重洲方面に歩いて見つけた「喫茶室ルノワール」でコーヒータイムをとる。ブレンドコーヒーは五百四十円なり。
 五時頃に一旦解散し、その後ダンディ、ドクトル、ロダン、岳人、モリオ、美女、私は「かあさん」という居酒屋に入り込む。六時半過ぎ、入谷に向かって「金太郎」のご機嫌を伺うと言うダンディ、岳人と別れ、フランク永井の追悼をしなければならない人間は更に「ビッグ・エコー」に雪崩れ込んで行く。

眞人