第二十一回 谷中七福神巡り編  平成二十一年一月十日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.01.17

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 昨日は終日雨で、これで明日は本当に大丈夫だろうかと心配したが、今日は快晴である。しかし風は冷たい。毛糸の帽子にマフラーもしっかり巻きつけてきたが、それでも寒い。チイさんなんか、ズボンの上にもうひとつズボンを履いている。
 田端駅北口には旗を持って同じような格好をした団体がいくつも集まっている。仲間を見失わないよう気をつけなければならない。
 今日のリーダーは岳人である。住職、碁聖、画伯、講釈師、ダンディ、ドクトル、チイさん、宗匠、モリオ、あっちゃん、橋口さん、三木さん、順子、胡桃沢さん、大橋さん、ノンちゃん、私。十八人集まった。ただし岳人が送ってくれた最新版の案内文では「田端駅東口」となっていたため、モリオが「東口なんかないんだよ」と言いながらやってきた。私は案内文を真面目に読まなかったから、最初に聞いていた北口に、何の疑いも持たずにやってきた。「私だってそうですよ。でもこういうのは正しく書かないとね」ダンディの教育的指導に「すみません、何か勘違いしちゃったんだな」とリーダーが謝る。惑わされた胡桃沢さんが少し遅れてしまったのは仕方がない。
 「十八人は過去最高じゃないですか」と碁聖が感心しているが、「目黒編も確か十八人でしたよ」と答えた。あとで調べてみると、過去最高は宗匠が企画した第十八回「早稲田・神楽坂編」の二十一人で、十八人はそれに次ぐ記録と言うことになる。
 「なんだい、ロダンは来ないのか。逃げたんじゃないか」好敵手がいなくて講釈師はちょっと面白くなさそうだ。「仕事が忙しいんですよ」「まだ現役ですからね」私も実は現役であるが。

 「今日は洋服の青山です。そのココロは福だらけ」リーダーの挨拶で今日のコースが始まる。私が服を買うのは「青木」だが、まあ良いだろう。最初は、「七福神とは関係ありませんが面白そうなので最初に立ち寄ります」とリーダーが決めた文士村記念館である。前回でも触れたが、田端には画家や文人が集まったから文士村と呼ばれた。田端文士村がどのように形成されたのか。

 東京府下北豊島郡滝野川町字田端は、明治の末には一面の畑であり、何の変哲もない田舎町にすぎなかった。
 しかし上野美術学校と台地続きであったため、美術人の住まう人が相つぎ、大正のはじめにかけては、美術村の観があった。
 さらに大正三年、東台通りに芥川龍之介一家が移ってくるに及んで、田端は俄かに文士村と化し、作家の往来が目立った。ことに芥川の書斎澄江堂は、彼を慕う新進たちで賑わった。そして龍之介を囲繞する文士文人群と美術家群との間に、大正期特有の人情豊かな濃密な交流がはじまった。
 また犀星、朔太郎の「感情」、中野重治、堀辰雄らの「驢馬」創刊なども、この地で行われている。“詩のみやこ”とさえ犀星は誇った。(近藤富枝『田端文士村』)

 しかし芥川が死に、犀星がこの地を離れたのをきっかけに、やがて文士村の中心は馬込に移っていく。去年一度、地図を片手にこの町を歩いてみたが、標識というものが全く設置されていないので、非常にわかりにくい。これは馬込の文士村と大きく違うところだ。学芸員に聞いてみたが「当館でもそうしたいのは山々なんです」と答える。しかし、馬込とは違って狭い所に集中していること、現在住んでいる人たちの平和な生活を脅かすことはできないこと、そのふたつの理由で標識を設置するのは難しいということであった。「その代わり、当館が主催してご案内することはできます。団体で申し込んで戴ければ」
 仕方がないか。居住者とは全く関係ない一部の人間の好奇心で、その周囲を騒がせるのは私としても本意ではない。このように文化を継承するというのはとても難しい。子規の墓が大龍寺にあることだけは書いておこう。
 色紙を展示してあるコーナーで、犀星の句は平仮名ばかりなのに、たった一文字に苦労した。「ゐ」に間違いはないのだが、その単語「つくゐ」とは何か。宗匠に広辞苑を引いてもらったが「ほら、そんな言葉はないよ」と画面を見せてくれた。うっかりしてメモをとるのを忘れてしまい、調べる手がかりを失った。梅の花が咲いていたとかいうようなものだが、手持ちの福永武彦編『室生犀星詩集』には収録されていない。
 これを宗匠がわざわざ調べてくれた。文字は明らかに「ゐ」であるが、実はこれは「ゑ」であった。「ほろほろのつくゑ買ひけり梅の花」ぼろぼろの、古ぼけた机を買ったのである。「イ」と「エ」の混同は東北方言の特徴だが、犀星の生まれた金沢方言にも似たような傾向があるのかもしれない。
 「わたしは犀星がどうも苦手で」と美女が言う。ちょっと泥臭いところが駄目なのだろうか。犀星の文章は文法的には破格が多いけれど、私は嫌いではない。「順子ちゃんは犀星が好きだったんじゃないか」「そう言うわけではないけどね。ただ、娘の名前をもらっただけ」
 久保田万太郎の句は、中七から下五にかけて、文字が次第に冗談のように小さくなっていて、橋口さんたちが可笑しそうに笑う。「気が小さな人だったのかしら」「もっと大きな感じのひとですよね」
 パンフレットから、田端に住んでいた人たちを列挙しておく。美術の分野では、板谷波山、小杉放庵(未醒)、香取秀真、吉田五郎、池田勇八、竹久夢二、岩田専太郎、田川水泡、村山槐太。半分以上は知識がない。作家、詩人では、芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてう、菊池寛、土屋文明、小林秀雄、堀辰雄、中野重治、佐多稲子、野口雨情、サトウ・ハチロウ等。
 こんなことにまるで関心を持たない人はソファに座り込んで井戸端会議に忙しい。中心にいるのはいつでも講釈師だ。三十分ほどのんびり見学して外に出る。

 駅前から切通しの坂を登って、狭い道を右に曲がるとすぐに東覚寺が見える。真言宗豊山派、白龍山と号する。境内の周りは工事中の塀で囲われ、その中で赤紙仁王にも青いビニールシートの覆いがかけられている。病んでいるところがあれば、仁王の身体の同じ場所に赤い紙を貼って祈願するのだそうだ。
 本日最初の七福神は福禄寿である。さっき記念館で見かけた団体が先着している。玄関には、木の根っこに七福神を彫りつけ、金色に塗装を施した置物が鎮座していて、これがそうかと早合点しそうになるが、右手を見れば、雛段のような段が据えられ、最上段に緑色の道服を着た福禄寿が鎮座している。その一段下には、それぞれ鶴と亀にまたがった老人が二人、更にその下には真ん中にお供え餅をおき、右側にも経巻を手にした老人が一人立っている。
 岳人は受付で御朱印を押すための台紙を購入する。台紙自体は千円で、朱印を貰うたびに二百円のお布施が必要になる。全部回れば二千四百円ということだ。順子も買ったし橋口さんも買ったようだ。実は我が家の電話の前には同じものが飾られている。妻が去年歩いて手に入れたものだ。私が買っては重複することになる。だから買わない。

 「福禄寿って寿老人と同じじゃないか」ドクトルは自然科学者の癖に、こんなこともちゃんと知っているから驚いてしまう。第三回「谷中編」では、この二人は南極星の化身であり、同じ神であると書いておいた。あれから三年もたつと私の知識も少しは増えている。「福」「禄」「寿」は道教の目指す究極の幸福をあらわしたものであり、本来はそれぞれ別々の、三つの神であった。それが日本に渡来していつの頃からか、一人の神格と誤解されるようになった。この「寿」が寿老人であり、南極老人星の化身である。
 岳人が決めた出発時間まではまだちょっとある。「あそこに庭園入口って書いてますよ」美女の言葉でそちらに向かう。狭いながらも手入れの行きとどいた庭で、池を回遊するようにできている。
 まず目についたのは池に釣り糸を垂れている恵比須の石像だ。回遊路の方には、岩の上に右手の宝塔を差し上げた毘沙門天が立つ。なるほど、池の周りを廻っていると、この庭だけで七福神すべてにお目にかかることができるという寸法だ。回り終わったところに、ようやく気付いた岳人とダンディが庭に現れたが、もう、岳人自身が決めた出発時間になってしまっている。「それじゃ、もう見ちゃったんですか。残念だな」リーダーは悔やむが仕方がない。これも運命である。以前田端を歩いた時には庭園の入口が閉まっていたので私も気付かなかった。
 「ここは田端ですよね、それでも谷中七福神って言うんですね」江戸時代の谷中と言うのは、現在言われているよりももう少し範囲の広いものだったか、あるいは寛永寺の支配地域ということかも知れない。

 歩き出してすぐに「ここは谷田川通りって言うだろう。本来は旧石神井川だったんだよ。この道を真っすぐ行けば迷わず不忍池に行ける」とドクトルが教えてくれる。私とは全く関係ありませんとリーダーが言う鈴木医院の看板を眺め、銭湯の煙突を見ながら歩いて行くと道灌山通りに出る。「ここに出るのか」ノンちゃんが気づく。六阿弥陀道という狭い道は、車が通り抜けるから結構危ない。
 次は星雲寺。花見寺とも称された。本堂の隅の畳に緋毛氈が敷かれ、漢詩を書いた黒い屏風を前に、恵比須が祀られている。左手には鯛、右手に釣竿を持つ。

 くねくねと福を探して初戎 《快歩》

 「えびす三郎です」上方人のダンディはエビス神社の総本社、西宮神社が頭に入っている。イザナギ、イザナミの第三子だから三郎なのだが、古事記では第一子である。日本書紀でも本文では第一子、一書(第二)に、ようやく月と日が生まれた後に蛭子が生まれたとある。第三子というのはこれに由来する。蛭子であったため海に流された。もともとヒルコと読む筈だ。
 そのヒルコがエビスに結び付けられたのは、おそらく中世の頃だろうと思われる。恵比須、恵比寿はもとより宛て字であって、夷、戎が元の形であれば、異域からやってきた神というのが本来の姿ではなかったか。第一義には水に関係するだろう。海を渡ってきた渡来神ならば、漁業や航海の安全を祈るのがもともとの信仰で、やがて福を齎すマロウド神として商売繁盛の神になったものだろうか。
 一方でオオクニヌシの息子コトシロヌシがエビスであるという説もある。おそらく、これはもっと新しい付会に違いない。天孫族に国譲りを強要されたオオクニヌシは、息子に聞くべく使者を出したが、そのときコトシロヌシは、国の危急も知らずにのんびりと釣りをしていたのだ。国津神の後継者として、実に怠慢の謗りを免れないだろう。エビスが釣竿を持っているのはそのためである。
 本堂脇には馬琴の筆塚がある。書かれた漢文は最初の一節がかろうじて読めるだけで、あとが続かない。彫られた文字が薄い上に、その上から何かで擦ったように磨滅している部分が多いのだ。読めたのは、「曲亭翁者稗官者流也」だけだ。曲亭翁は稗官者流なり。
 稗官というのは風俗・人情その他さまざまな話を集めて記録するものを言う。その稗官が集めたこまごまとした説話と言う意味から、稗官小説と言う言葉が発生し、後の小説と言う用語ができることになる。
 「宝井馬琴ですか」宝井と言えば講釈師になってしまう。ここにあるのは南総里見八犬伝を書いた曲亭なのだ。この筆塚は、馬琴が使った筆を納めたもので、碑文には馬琴の生涯と業績が記されてあるらしい。ついでだが、曲亭馬琴は「くるわ(廓)で、まこと(誠)」の洒落であるそうだ。

 ちょっと歩くとピンク色の石塀に漫画のような布袋尊の絵が描かれている寺に着く。絵は四枚、春夏秋冬の布袋像だという。ここは修性院だ。宗匠は立派だと言うが、布袋像はなんだか稚拙な感じがする。三角形の底辺が内側に曲がり込んだような目が、マンガの「ちびまるこ」に登場するフジキにそっくりなのだ。もちろん、丸い顔の輪郭はフジキとはまるで違っていて、色も黒いのだが、目の印象が強烈だ。こんな話はまずダンディは分からないだろう。
 「たったひとりの実在の人物です」ダンディと講釈師が口を揃える。皆さん七福神についてはかなり詳しくなっている。

この僧の本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。(中略)
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。十世紀後半に記された『宋高僧伝』巻二十一「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって十一世紀初頭、『景徳傳燈録』巻二十七に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。(ウィキペディア「布袋」)

 「完全なメタボですよね」「肥満は富貴の象徴ですからね。貧乏人は太ることもできない」「だから私たちの世代にメタボなんていないでしょう。戦争中から戦後の食糧難を生きてきたんだから」と言うのはダンディである。「メタボなんて、六十代、五十代以下のひとじゃないですか」
 境内に咲いていた花を見て「シュウメイギクでしょう」と正解を出したのは岳人である。「今頃咲いているのか」宗匠は辞書を調べて秋の花だと改めて確認している。白い大きな花弁が七八枚(ただしこれは花弁ではなくガク)。丸い雌蕊の周りを黄色の短い雄蕊が取り巻いている。秋明菊、キンポウゲ科イチリンソウ属というから菊ではないのだ。貴船菊ともいうらしい。
 御自由にお持ち帰りくださいとオモト(だそうである)を置いてある。「これから歩くのにね、邪魔になるわよね」しかし、ノンちゃんは実際にお持ち帰りをして、ビニール袋をぶら下げた。
 「オモトの葉と葉にかこまれて」講釈師がいきなり不思議な歌を歌いだす。「知らないの、学校で習ったじゃないか」しかし、そんな歌は誰も知らない。「知りませんよ、教科書ですか」ノンちゃんは絶対に知らないと断言する。私も知らない。念のため与田準一編『日本童謡集』、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』を当たってみたが見当たらなかった。適当に作って歌ってるんじゃないか。

 すぐに富士見坂の下に着く。狭い坂だが右側の煉瓦塀が美しい。街灯の形もガス灯のようになっている。「明治の映画を撮るとき、ここを使うんだよ。姿三四郎とかさ」本当に講釈師は知らないということがない。ただ、その話は六義園の塀のところでも聞いたような気がする。
 「一度ここから富士山を見たいって、まだ果たせないでいるんですよ」美女はちょっと早目に出勤して寄り道をしても、まだお目にかからないでいると嘆いていたが、「あっ、見えるよ。あれだろう」とドクトルが指さした。「あっ、見えた」「ホント」坂の頂上付近で振り返れば、確かにビルの間に白い富士山がはっきり見える。
 「いつだって、富士山が見えると嬉しくなってしまうわね」順子も感激している。車が通るたびにそれを避けながら、歩いている人たちはみんなカメラを取り出す。私も撮ってみたが望遠があまり効かず、やはり山は写っていない。その代り、住職の嬉しそうな笑顔が写っていた。住職は布袋のようでもあるな。

 ビルの谷富士を拝むで福笑ひ  眞人

 登りきれば諏訪台通りだ。ここで思い出したので目の前にある浄光寺に寄ってもらった。七福神巡りとは違うのだが勘弁してもらおう。この寺は諏方神社の別当寺である。真言宗豊山派、法輪山法幢院と称す。
 流石に美女は知っているが、ここに江戸六地蔵の第三番があるのだ。第三回「谷中編」(平成十八年一月十四日)では、豪雨のために途中断念して立ち寄れなかったところだから、良い機会だ。江戸六地蔵と言っても、私たちが良く知っている、巣鴨の真性寺や品川寺、新宿大宗寺にある丈六坐像ではない。八尺の立像で、「初めの六地蔵」または「東都六地蔵」とも言う。光輪を背負い、錫杖を持って立っている。元禄四年に鋳造されたはずなのに、わりに新しく見える。実は文化十年(一八一三)に再鋳されているのだった。

○慈済菴空無上人、勧化して造る所の金同立像の六地蔵尊開眼ありて、江戸六所に分つ(寺院並縁起等、『東都歳時記』にあり)。「武江年表」元禄四年(一六九一)の項。

 ところがこの六地蔵はあまり運に恵まれていない。建立当初のままで残っているのは千駄木の専念寺にあるもの(第二番)だけで、一番の本郷向丘の瑞泰寺は昭和六十一年の再建。四番、府中の心行寺(もともと池之端にあった)のものは頭だけが元禄のもので体は木造になっているそうだ。五番、六番は既にない。実は私たちは第四回「本郷編」で千駄木の第二番も見ているのだが、行った人は覚えているだろうか。このときは事前には全く知らず、「ちょっと寄ってみようぜ」という講釈師のお蔭で見ることができたのだった。
 「こんなのがあるよ」福神漬発明者、野田清右衛門の顕彰碑が建っているのをモリオが見つけた。私は福神漬は河村瑞賢によると思っていたが、これは勘違いらしい。私の間違いの原因を考えると、どうやら白土三平『カムイ伝』にあるようだ。お盆に供えた精霊馬(茄子や胡瓜で牛や馬をかたどったもの)を川に流す。これを川下で集めて刻んで漬物にして巨万の富を得たというお話であった。(確認してみようと思ったが、本を取り出すためにはかなり下の方から掘り出さなければならないので諦めた)

寛文十二年(一六七二年)、出羽国雄勝郡八幡村(現秋田県湯沢市)出身の了翁道覚が、上野寛永寺に勧学寮を建立した。勧学寮では寮生に食事が出され、与えられたものは質素なものであったが、おかずとしては、了翁が考案したといわれる漬物が出された。大根、なす、胡瓜など野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし「福神漬」と命名、巷間に広まったとされる。
そして、明治時代初頭、東京・上野の漬物店「酒悦」第十五代野田清右衛門が、自分の経営する茶店で売り出したところ評判となり、日本全国に広まった。いろいろな野菜が入っていること、また店が上野不忍池の弁才天近くにあったこと、更には「ご飯のお供にこれさえあれば他におかずは要らず、食費が抑えられ金がたまる(=家に七福神がやってきたかのような幸福感)」という解釈で、作家の梅亭金鵞が名付けたという説もある。(ウィキペディア「福神漬」)

 「福神漬けってカレーに添えるやつでしょう、いかにも日本的ですね」西欧派のダンディにしてみれば、あまりにも貧弱な食べ物だ。私はあの甘さがあまり得意ではない。
 「ついでだから諏訪神社も行きましょう」岳人が声をかける。スワの「ワ」はゴンベンがつかない筈だ。鳥居の額には確かに「諏方神社」となっているのに、しかし脇に立っている石柱には「諏訪神社」とある。「どうしてでしょう」と橋口さんが不思議がるが、「石柱の方は新しいんでしょう」とダンディが判断を下す。

 町の最大の行事は、高台にある諏方神社の祭礼であった。諏訪ではなく諏方で、町の者たちは、お諏方様と呼んでいた。
 諏方神社は、国電の日暮里駅から西日暮里駅に向かう左手の高台にあり、車窓からもみえる。太田道灌が社領五石を寄進して日暮里と谷中の総鎮守にした神社で、神主は日暮という姓である。小さい神社ながら、神主は、後に明治神宮、日枝神社、東京大神宮、神田明神の神主と同じ高い格についた。(吉村昭『東京の下町』)

 拝殿の右手には鳥居が立って、下に降りる石段が続いている。「こっちが正門でしたか。また我々は裏口から入ったんでしょうか」ダンディが呟きながら確認のため石段を降り、美女も続いて行く。「地蔵坂って書いてますよ」言われて石段のところの案内を読んでみると、さっきの六地蔵への参詣のために作られた坂であった。
 谷中生姜の石碑を見る。ここでも生姜に関わる講釈は続くが、私はもう忘れてしまった。高台だから鉄道線路が何本も見える。「日本でいちばん線路が多い駅です」とダンディが知識を伝授してくれる。山手線、京浜東北線、常磐線、宇都宮・高崎線、東北・上越新幹線。三木さんがエビセンを出してくれ、「私もお煎餅を」と橋口さんが煎餅を取り出す。もうすぐお昼なのだけれど。
 本当にもう昼時だ。朝倉彫塑館に行くのは午後と決め、昼食場所に決められた中華料理屋を目指す。
 通りから少し奥まったところにあるログハウス風の喫茶店を指さして、講釈師が「あそこでお茶を飲んだじゃないか」と思いだす。今見てきたばかりの諏訪神社から青雲寺までを、土砂降りの中で断念して休憩した店だ。「あのとき美女の靴下がビジョ濡れになったんだよね」と画伯が思い出す。「ちょっと素敵そうなお店じゃないの」と橋口さんが言うが、煙草の吸えない店だった。

 更に見るべき寺がある。講釈師の音頭で寄ってみた養福寺には、立派な朱塗りの仁王門がある。中に回れば左側にはおそらく多聞天と思われる神像がいるから、右の方も四天王の誰かだと思う。「この門はコンクリートだろう」なんて住職が言うけれど、きちんとした木造である。朱塗りが少し剥げたところから木肌が見えるじゃありませんか。宝永年間(一七〇四〜一一)に建てられたものだ。真言宗豊山、補陀落山観音院。
   なんとか先生の墓という立派な石碑がたっているが、漢文がよく読めないのが悔しい。「武江の産」「山崎平三右(左)衛門」という文字だけは覚えてきたので何とか調べてみると、これは畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」であった。それならば知っていなければならなかった。中野三敏『近世新畸人伝』の最初に紹介されている。読んでいる筈なのに頭に入っていないから苦労する。この本から引用する。

 自堕落先生北華は江戸の産である。幼名を伊三郎。成人して山崎三左衛門浚明、字を桓と言った。軒を不量軒と名づけ、斎を捨楽斎といい、坊を確蓮坊と申したというから、相当のひねくれ者であったことは間違いない。まだある。自らを天地間一個の無用者と観じて、桓臍人と名乗った。

 三左衛門の前に「平」の字がついているのは、桓武平氏の流れを汲むと言う自称であった。生涯に五度主君を変えたが三十八歳で職を辞し、江戸市中に隠れ住んだ。墓の由来はこうである。同じ本から太田南畝のものも孫引きする。

元文四年(一七三九)己未歳十二月晦日、年四十にしてたはぶれに柩をつくり、みづからその柩に乗り、同好の諸子之を送りて、谷中新堀村補陀山養福寺にいたりて葬儀をなす。
住僧下火の文を唱ふる時に至りて、みづから柩を破りて踊出でしに、葬にしたがふ小諸子、酒肴を携へて、歌ひつ舞ひつたのしみて、人の耳目を驚かせりとぞ。さて養福寺の堂の前に、しだれ桜一本を植えて、碑を建て自ら狂文を書きて「後の北華書」と題して世外の人の思ひをなせり。(『仮名世説』)

 同好の趣味人を集めて自分の葬式を執り行い、自分で墓碑を書いたのである。中野によれば、金鶏(知らない)、馬琴、烏亭焉馬(立川談州楼)が揃って、自堕落先生を江戸戯作の開祖と讃えている。
 「○斎落歯塚」というのも分からない。「なんて読むのかしら」と橋口さんに意見を求められても無駄である。女偏に井を書くのなら「?」、音ではセイと読む。人名だとは思うが、これも自堕落先生に関係しているのか。
 この辺りは日暮しの里として、江戸時代の文人たちが多く訪れた。この養福寺には他にも「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑」や「柏木如亭の碑」がある筈だった。事前に調べておかないから見過ごしてしまう。知っていればもう少し丹念に見るのであった。残念なことだが、こういう思いがけない発見をするのも、歩いている楽しみのひとつだ。
 ついでに「畸人」とは何か。中野の本からもう一度引用する。

 宝暦という年は、まさにこうした人たちの季節であった。享保以来の第一世代の文人たちは多く世を去り、移りゆく時世の中であらゆる面で屈折し、複雑化した精神を持つ第二世代が、一面では創始者たちの緊張を受継ぎつつも、また一面ではすでにその緊張の果てにあるものを見透してしまう覚めきった心情をちらつかせながら、なお文人であることに誇りをいだき、文人であろうと意識しつづけた。これに続く第三世代の文人にとっては、もはや文人であることはそのまま糊口の業であるにすぎなくなっていく場合が多い。宝暦前後の文人群像は、こうした微妙な頽落現象の中で、それぞれに辛うじて身を支えている。世を超え、あるいは世をすね、世に衒う姿勢は、そこに生じてくる。すなわち“畸人”の生まれる所以でもある。

 リーダーが予約してくれていた「珍々亭」という中華屋は経王寺の真正面にあるので、講釈師はなかなか店に入らず、上野戦争の弾痕を説明したがっている。「あとで寄りますから」と岳人が催促して、漸く二階の予約席に落ち着いた。ただし美女はラーメンや脂っこいものは体が受け付けず、一人別れて誰も知らないところへ去って行った。だから十七人が大きな丸テーブル二つについた。二階にはそのテーブルが四つあって、奥の方に二つには先客の団体が陣取っている。変な言い方だが、谷中らしくない大きな店だ。
 私は「半チャン・ラーメン」を注文する。大橋さんと胡桃沢さんがそれにつられて同じものを注文した。こういうセットはサラリーマンとか学生でないと知らないだろう。ラーメンにチャーハンの半分がつくのだが、「だって、ラーメンもハーフサイズかと思っていたんだもの」と彼女たちは後悔している。学生の頃にはラーメンに丼飯をつけて、ラーメンライスというのが私たちの定番であったが、流石に今はできない。  「このところ歯が痛くて。歯医者で抗生物質を貰って飲んできたから今日は大丈夫。お酒も飲めます」ダンディが笑う。「高島易断で見ると今年、運勢は良いはずなのに、正月早々体調を崩したのはおかしいと思ってね。よく考えたら今日は旧暦十二月十五日、まだ年があけてないんですよ」ダンディは旧暦に詳しいからね。「それじゃ昨日が忠臣蔵だったんだ」と宗匠が思いつく。
 岳人が注文した肉野菜炒めは最後になってしまった。それがまだ出てこないのに「もう早く行こうぜ」と、相変わらず一番早く食べ終わった講釈師が急かす。

 店を出て信号を渡って向かいの経王寺の山門扉の弾痕を見る。いくつもある。「結構大きな穴だね」宗匠の疑問に、「あの頃の銃は内部に溝が切ってあって、玉が回転するから穴が大きくなるの」と早速講釈が始まる。「それにしても大きい。講釈師がナイフで削ってるんじゃないの」
 「官軍は向こうの方から、バキューンって」「それで自分はどこで見てたの」「俺は、あそこのルノワールでお茶飲みながら見てた」確かに斜め向かいには喫茶店ルノワールがある。講釈師はあらゆる歴史の現場に立っていた生き証人、タイムトラベラーである。「今日の講釈は音が入っている」官軍とは言いたくない。西軍の圧倒的な火力の前に、彰義隊は僅か半日で敗走した。

 講釈の擬音に緩む寒さかな  眞人

 「一茶の句碑があったのはここじゃなかったかな」「違うんじゃないの」と宗匠に否定され、境内に入ってみると、やはり宗匠のほうが記憶が正しい。実は隣にある本行寺の方であった。一茶の他に、山頭火の句碑もあった。この寺にも大黒天があるのだが、残念ながら谷中七福神の仲間には入れてもらえない。堂も扉が閉ざされていて中が見えない。
 碁聖はこの会には第四回からの参加だが、第三回「谷中編」を読んでくれて、最近、自分で歩いてみたという。それならこの辺りは良く知っているだろう。
 岳人の話では、美女とは夕焼けだんだんで落ち合うことになっている。それじゃ行きましょうかと歩きだしたところに彼女がやってきた。「早く食べ終わってあちこち歩いちゃいました」
 谷中銀座は思ったほど混み合ってはいない。ちょうど昼飯時でどこかの店に入り込んでいるのだろう。竹工芸「翠屋」という竹細工の店で、講釈師は早速携帯ストラップを購入する。こういうものが大好きな人だ。ところが自分だけ買ってしまうと、「もう店に入っちゃダメだ、早く行こうぜ」と我儘なことを言う。
 次は「後藤飴店」に入り込んでなかなか出てこない人を待たなければならない。

 あめ姫はまだですとひぐらしの里 《快歩》

 ずいぶん待たされたが、美女を筆頭に飴を仕入れた人が出てきた。モリオも「女房が好きだから」とお土産の飴を手にしている。偉い。
 今度は「すずき」のメンチカツである。岳人お勧めとあれば並ばなければならない。七八人並んでいる後ろにつく。みんな一個しか買わないが、売れるのはメンチカツばかりのようだ。やっと順番が回ってきて、私も二百円を取り出して「メンチひとつ」と叫んでみる。それを紙袋に入れてくれる。熱いが、歩きながら食べれば旨い。大丈夫たるもの、若者のような歩き食いなんて実はみっともないとは思うけれど。

 歩き食ひ七福神の許可を得て  眞人

 横を見ると、さっき昼食を持て余した大橋さんまでがメンチを食べている。「さっきは残しちゃったんだからね」そうか、大橋さんはメンチを予期していて昼食をセーブした。宗匠は「とても食べられないよ、みんな健啖家だ」と唖然としている。しかしもっと驚くのは岳人だ。メンチとコロッケと、二つも買ったのは彼だけではないか。水泳の北島選手の肉屋の話題もでるが、実は私は事情をよく知らない。

 「わたし、そこのお寿司屋さんで食べたんです」美女の昼食は散らし寿司ランチ千円であった。「食べても食べても下からお刺身が出てくるんですよ」それで千円ならば安いかどうか。「私たちもそれにしたかった」「でもこんなに大勢じゃ入れないんですよね」「いつも、こんなお鮨を食べてるの」「そうよ」ブルジョアである。私は毎日、玉子屋が運んでくる四百五十円の弁当を食べている。サラリーマンは悲しい。「タバコを辞めれば三百円は浮くじゃないの」宗匠はいつも正しいことだけを言う。
 名前の分からない、たぶん珍しい種類の猫が三匹ほど、店の前で悠々と遊んでいるのが見える。谷中は猫の町である。

 朝倉彫塑館には高齢者割引はない。団体として認定されるのは二十人以上だから、私たちはいずれも資格がない。「私は何度もきているから」とダンディは外で待っていると言う。講釈師も住職も画伯も大橋さんも入らない。「三十分ね。ちゃんとそれまでに帰ってくるから」ノンちゃんは実家のお墓が近くにあって折角だから墓参りしてくると言う。
 「彫塑って、彫刻と、それから」岳人の質問に、私はいい加減に「彫るのと粘土と」と言ってしまう。実に無責任だね。館内に入れば、ちゃんと「彫塑のできるまで」というパンフレットが手に入るのだ。私は「彫」と「塑」と別なものかと思っていたのだが、そうではないことが分かる。粘土で作品を作り、この外側に石膏をかけ型を取る。簡単に言えば、この石膏型にブロンズを流し込んで固めたものが彫塑である。型があるから、複数の作品ができるのは当たり前で、早稲田の大隈像もあるし、墓守もある。岳人はどこかの美術館でこの墓守を見たことがあると言う。彼の趣味は山に登るだけではない。
 二階の朝陽の間に続く縁側は畳敷きで、陽が入って暖かい。下を覗き込むと中庭の池の大きな黒い石が光っている。「すごいわね」「とてつもないお金もちだったのね」座敷の天井に張った板は神代杉である。「へーっ、そうなの。古代のものなのね」橋口さんが大袈裟に驚いている。

 その彫刻は、むろん、すぐれたものではあるが、一般人がおどろくのは、家の大きさである。昔の成功者はこういう家に住んでいたのか、と呆然とする。はっきりいって、ぼくは仕事をする気力を失った。
 「うわー、広い!」  と、たいていの見学者は叫び声を上げる。
 東京の住宅事情の極度のひどさから、苦心の彫刻群よりも、家のほうに目がいってしまうのである。(小林信彦『私説東京放浪記』)

 小林信彦がこう書いたのは一九九〇年代初めのことだった。屋上に上がればまた驚く。屋上に樹木が植えられ花壇が作られている。谷中墓地が良く見える。「屋上ビオトープね」橋口さんが感心する。「こんな家を建ててみたい」というのはチイさんで、蓮田の大地主であるチイさんのことだから「建てられるんじゃないの」と私は真剣に思ってしまう。前回は何度も言うように雨だったので、この屋上には入れなかったのだ。
 外に出ると入口の塀には今年の四月から三年間、改装のために休館すると案内がされていた。それなら今日を逃すと暫く見られなかったわけだから、運が良かった。ダンディはこの時間に山岡鉄舟の全生庵に行ってきたそうだ。「やたらに派手な観音様があったでしょう」「金色のね、円朝も見てきました」そこに三遊亭円朝の墓もある。
 ノンちゃんも戻ってきて出発だ。それじゃ塀を見に行きましょうか。リーダーの計画は、ここからまっすぐ天王寺へ向かう筈だったが、私たちのわがままで予定変更を余儀なくされた。

 「赤穂浪士ゆかりの寺があるんだよ」「ここですよ」観音寺である。四十七士のなかに、近松勘六行重と奥田貞右衛門行高というのがいるのだそうだ。その兄弟に、この寺で修行をして、のちに朝山大和尚となった文良がいた。そのためこの寺は浪士たちの会合場所として頻繁に使われたということである。忠臣蔵は講釈師のもっとも得意とする演題だ。
 「どこでしたっけ」「そこを曲がるんですよ」その観音寺の築地塀だ。「これは珍しいものだ」「赤坂の封土寺にもありますよね」三分坂の途中にあって、雷電為右衛門の墓がある。
 「レンペイっていうんですよ」あっちゃん、それは「ネリベイ」と言うんじゃないか。瓦と漆喰を交互に積み重ねて作った塀を「練塀」と言う。確かに「練」は「レン」ではあるが、ここはネリベイと読みたい。そして、その上に、瓦や檜皮、板などで屋根を葺いた塀を築地塀という。この寺の塀の上の瓦は少し波うっていて、崩れ落ちそうにも見える。

 長安寺には寿老人がいる。靴を脱いで本堂に入り込んで像を見る。鎮座しているのは、半間の押入れの上段のような場所で、遠くだからよく判断はつかないが、木彫りだろうか。黒塗りで、鹿が寄り添っている。福禄寿の「禄」が「鹿」と同じ音だから福禄寿には必ず鹿がついてまわる。だから、福禄寿と寿老人が同じ神であるということはこれでも分かるのだ。その像の前には小さな七福神も一緒に並べてある。
 小さな寺だが、弘安の記銘を持つ板碑がある。元寇の頃だからかなり貴重なものだ。しかしわりに無造作に、羅漢像数体と一緒に塀に立て掛けられているように立っている。
 狩野芳崖の墓がある筈で、墓地には矢印が示されているのだが、「見つからないんですよ」とダンディが言っている。「あんまりお墓に長くいたくはないわ」美女が早々に墓地から出ようとした時、「あっ、やっと見つかりました」と言う声が聞こえる。なんだ、矢印のすぐそばに墓はあった。墓石は小さい。東光院伏龍芳崖居士である。「画家ですか」「そうです」

狩野 芳崖(文政十一年一月十三日) - 明治二十一年(一八八八年十一月五日)は、明治期の日本画家。近代日本画の父。
一八二八年下関の狩野派の絵師の家に生まれる。ほぼ同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。フェノロサと知り合った一八八二年、すでに五十四歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた四日後の一八八八年十一月五日、同校の開学を待たずに死去した。(ウィキペディア「狩野芳崖」)

 次は天王寺だが、リーダーは御殿坂に戻って紅葉坂を通る道を考えていたらしい。「そこから曲がって行けば近いんじゃないですか」駅前で働いている美女だから、この辺の地理には詳しい。私もこの辺は何度か歩いているから知っている。
 要するに谷中墓地である。五重塔の跡地では、若い坊主が放火した、心中ものの仕業だったとやかましい。どうやら三島由紀夫の『金閣寺』と混同している人もいる。ここは幸田露伴である。

 明和九年(一七七一)目黒行人坂の火事で焼失し、十九年後の、寛政三年(一七九一)に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら四十八人によって再建された五重塔は幸田露伴の「五重塔」のモデルとしても知られている。総ケヤキ造りで高さ十一丈二尺八寸は関東で一番高い塔であった。明治四十一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三十二年七月六日放火により焼失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩である。(台東区HPより)

 私は通勤で毎日行人坂を歩いているが、その行人坂の火事がここまで影響したとは迂闊にも気付かなかった。確かに「武江年表」にも、火は「千太木入口・根津・谷中感応寺・芋坂・根岸に至る」とある。
 すぐ隣に交番がある。「火事の時もこの交番はあったんだ。それで面目を失って」モリオがこんなことを知っていた。もちろん明和九年の火事ではなく、五重塔が焼失した時の火事のことである。しかしいくら地元でも、五重塔が焼失した時、モリオは七歳である。本当に知っていたのだろうか。「でもね、消防じゃないから仕方がないのよ」焼け跡からは男女の焼死体が発見されたから、心中ではないかと思われる。
 「お伝さんは可哀そうなんですよ、トイレの傍で」橋口さんはよほど高橋お伝が気になると見える。小伝馬町でも話題にしていた。しかし、お伝の墓はメインストリートにあると言ってもいいのではないか。今日は寄らないが、ここからそんなに遠くない。川上音二郎と並んでいたのだから、そんなに悪い場所ではない。
 護国山天王寺の境内には大きな丈六釈迦如来が目立つ。「勘違いしてました。丈六っていう言葉から、江戸六地蔵だと思って」美女は言う。谷中七福神として毘沙門天があるのだが、本堂の一番奥に鎮座していて、小さくて良く見えない。写真を撮ってはみたが黒い小さな像が見えるだけだ。ミツマタの花はまだ開いていないが、白い拳のような蕾が可憐だ。御朱印受付所ではデザイン化された書道の展示会もやっている。こういう絵のような書というのはよく分からない。
 山門の外に出るとまたお煎餅が出される。今日はおやつが多い。
 もう一度谷中墓地から元の道に戻る。途中、講釈師は長谷川一夫の墓にみなの注意を促す。墓地の一番はずれの辺りで、真新しい墓石を前に喪服が集まり、僧侶が読経しているのは納骨であろうか。正月早々、気の毒なことである。

 初音通りに出て、薬膳カレーの店「じねんじょ」、赤塚べっ甲店、スペース小倉屋の蔵を外から眺める。宗匠が声を掛けて小さな寺に入っていったが、門を潜っても何もない。「あれっ、違ったかな」宗匠は笠森お仙の墓があると思い込んでいたらしい。「だって私の地図にはちゃんと赤でマークしてある」宗匠は笠森お仙のファンであった。
 この功徳林寺はお仙に関係がないわけでもない。お仙の水茶屋「鍵屋」のあった笠盛稲荷がこの場所だったと推測されている。かつてこの辺りに、感應寺(今の天王寺)の中門があったらしい。しかしそれを思わせるようなものは何もない。
 「坊さんに春信の絵をもらったのはどこだったっけ」それは大円寺である。土砂降りの雨の中、住職(われらの「住職」ではない)がわざわざ出てきてくれて、笠森お仙にまつわる話をしてくれたあと、美女に、鈴木春信の錦絵をくれたのだった。しかし折角もらった絵は美女のリュックの中でびしょ濡れになってしまった。
 江戸東京歳時記を歩く・第三十七回・谷中大円寺を歩く』(長沢利明。柏書房ホームページに連載)によれば、カサモリの本来の意味は「瘡守」で、天然痘や性病治療として信仰されたものだ。永井荷風がお仙の碑を建てたのは大円寺だが、その稲荷はまさにその瘡守稲荷であった。しかしお仙が働いていた笠森稲荷は功徳林寺場所にあった。その当時この寺はない。その笠森稲荷が上野養寿院に移転した後、明治になって功徳林寺が創建され、ここにもまた新しく笠森稲荷を祭った。つまり大円寺、功徳林寺、上野養寿院と、この付近に三ヶ所のカサモリ稲荷があったことになる。

 「こっちだよ」講釈師が呼んでいるので小さな路地に入ってみる。「なんですか」「三丁目の夕日だよ」確かに昭和三十年代まではどの町にもあったような、狭い路地裏に小さな家が集まっている。「懐かしいだろう」確かに懐かしさは感じるが、今の私たちはこういう環境ではとても快適に住むことはできない。時代が変わり、私たち自身の感覚が変わってしまっている。
 「韋駄天を見ていきましょう」急に思い出して私が声を掛け、西光寺にも立ち寄る。境内に二メートル以上の(これも八尺であろうか)韋駄天の石像が建っているのだ。こういう露天に立っているのを他では見たことがないので、珍しいのではないだろうか。少しうつむき加減で両手を前にしている韋駄天は、何かを反省しているようにも見える。

 仏像も反省をする年初め  眞人

「下から仰ぎみる時に、ちょうど目が合うようにさ。だから仏像は必ず伏し目がちなんだよ」ここでも講釈は冴えている。

もともとはバラモン教の神「スカンダ」(シヴァ神の子、ガネーシャ神の弟)とされる。仏教に入って仏法の守護神となり、特に伽藍を守る神とされている。また小児の病魔を除く神ともいわれる。
四天王の中、南方増長天の八将の一神で、三十二天中の首位を占める天部神。
捷疾鬼が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという俗伝から、よく走る神として知られる。転じて、足の速い人のたとえにされ、「韋駄天走り」などといわれる。しかしこれはあくまでも俗説である。おそらくは「涅槃経」後分に帝釈天が、仏の荼毘処に至って二牙を拾得したが、二捷疾羅刹のために一牙を奪われたという記述に起因するものであるといわれる。(ウィキペディア「韋駄天」)

   更に南に向かい、言問通りを渡っていく。「あの赤い花は何だろう」「梅よ」谷中清水町公園には一本だけの紅梅が咲いている。こんな真冬に真っ赤な花を見るとなんだか嬉しくなってしまう。
 護国院に到着する。「そこの舞台に、昔は相撲取りが来て豆撒きやってた」子供の頃には随分大きな舞台だと思ったとモリオが言う。ここには大黒天がいる。ここでも靴を脱いで本堂に上がる。大黒天は大きな袋を肩にかけ、右手に打ち出の小槌を持っている。この大黒天が、実は怪しい。
 大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(Mahaa-kaala、摩訶迦羅)、暗黒神であり、ダイコクの音から日本の大国主と習合した。大きな袋を持っている。因幡の白ウサギの前には、「大きな袋を肩にかけダイコク様が来かかる」のである。これは大抵の人が知っている。私もここまでは知っていた。
 この大黒像が世間に普及される前、中世の天台密教には実に恐ろしげな大黒が存在するのだ。山本ひろ子『異神―中世日本の秘教的世界』を読み始めているのだが、あまりにも難しくてなかなか手に負えない。簡単に要約なんかできないが、大黒についてはこんなことが書かれている。

マハーカーラ(摩訶迦羅)、大黒天と訳されるこの尊はもとインドの戦闘の神である。降魔の大黒は忿怒相を、施福の大黒は愛楽相を現し、日本では三面六臂の図像が多い。(中略)ここで注意したいのは、大黒天は『渓嵐拾葉集』の編者・光宗ら黒谷流「戒家」(円頓戒を専修する学派)の本尊であった事実である。同書「大黒天口決」の「大黒天名字の事」という項目を引いてみよう。

 大黒とは、一切衆生の「元明惑」(根本の迷妄)であるから、貪・瞋・癡の「三毒」を本性とする。‥・・・「大黒」の二字についてみると、「大」は「法性」(悟り)を表し、「黒」とは「無明」(煩悩)で十二天の中の「伊舎那天」に当たる。これは障礙神である。
 つまり叡山の大黒天とはこれまた「障礙神」であったのだ。と同時に煩悩・迷妄を意味する三毒の当体で、無明即法性、煩悩即菩薩という本覚の理を体現する尊とされている点は記憶されてよい。さて「障礙神」たる大黒天は、次のように語られる。
 ‥・・・此大黒者喰人血肉神也。仍名奪精鬼也。故此神住屍堕林給也。
 墓場に棲んで人の血肉をくらう大黒天。人の精気を奪って死に至らしめる「奪精鬼」である点においては、ダキニ天と何ら変わるところはない。ここで大黒天はダキニの降伏者ではなく、障礙神、奪精鬼としてダキニと重なりあっているのだ。

 障礙神とは祟る神である。ダキニ天と言えば豊川稲荷の本尊であって、人の死を六か月前に知り、その内臓を喰らう。このような恐ろしい神が何故、福神に変容するのか。恐ろしい神、祟りをなす神は、また秘密のうちに祀り上げれば護神にも変化する、と言うことらしいのだ。
 ただし祀るのは非常に難しい。命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もし破れば途端に没落する。外法である。御醍醐天皇が信仰したことでも知られる真言立川流は、このダキニ天、荼枳尼天を祀って髑髏を本尊としていたという。
 中世密教は様々な神を作り上げた。山本はこういう事象を記紀神話とは違う「中世神話」と把えていて、新羅明神、摩多羅神、宇賀神、牛頭天皇などの異様な神を紹介してくれている。いずれにしろ、こういう不可思議な神が福神に変化していく過程というのも不思議でしょうがない。
 境内に生っている赤い実を見て、千両と万両の違いを宗匠が尋ねている。「これは千両、こっちは万両」とノンちゃんが教えてくれたようで、「家にあるのは万両みたいだ」と豪邸に住む宗匠が納得している。
 ここでもらったパンフレットによれば、七福神信仰を広めたのは天海僧正である。「公の御生涯は全く長寿・富財・人望・正直・愛敬・威光・大量の七福を具え給うにより、困難な天下統一の大業を完成され、平和な国土を築かれたが、これは神様で申し上げるとちょうど寿老人の長寿・大黒天の富財・福禄寿の人望・恵比須の正直・弁才天の愛敬・毘沙門天の威光・布袋の大量の御徳を表したものというべきである」と、家康にゴマを擂ったことによるというのだ。まず嘘であろう。七福神の原型は室町時代に形成されたとする見方の方が一般的である。

 ダンディによれば、中国には七福人と似たようなものに「八仙」がいると、賈さんが言っていたそうだ。窪徳忠『道教の神々』から名前を探し出してみた。いずれも実在した人物と考えられている。呂洞賓(リョドウヒン)、漢鐘離(カンショウリ)、張果老(チョウカロウ)、韓湘子(カンショウシ)、李鉄拐(リテツカイ)、曹国舅(ソウコクキュウ)、藍采和(ランサイワ)、何仙姑(カセンコ)。明の太祖の孫、周憲王が一四三二年に作った。日本の神も数が多いが、道教にも神様が多い。日本と違う大きな特徴は、実際に生きていた人間が、修行の結果仙人になって神格を得たというのが非常に多いということではないだろうか。
 日本でも、七福神にもう一人加えて八福神としようとする動きが江戸時代にあったようだ。その一人とは福助であるが、結局普及しなかった。どうも福助ではね。福助なんて足袋会社のことしか知らないから、ついでに調べてしまった。私の作文はどんどん脇道に逸れてしまう。

 元々は、文化元年頃から江戸で流行した福の神の人形叶福助。願いを叶えるとして茶屋や遊女屋などで祀られた。叶福助のモデルとなった人物も実在したと言われている。松浦清の『甲子夜話』にも登場する。当時の浮世絵にも叶福助の有掛絵が描かれ、そこには「ふ」のつく縁起物と共に「睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助」と書かれている。
 一説に、享和二年八月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルである。もともと身長二尺足らずの大頭の身体障害者であったが、近所の笑いものになることをうれい、他行をこころざし東海道をくだる途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物にでたところ、評判がよく、江戸両国の見せ物にだされた。
 江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。見物人のなかに旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助をとせがんで、旗本某は金三十両で香具師から譲り受け、召し抱えた。それから旗本の家は幸運つづきであるのでおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚し、永井町で深草焼をはじめ、自分の容姿に模した像をこしらえ売りにだした。その人形が、福助の死後、流行した、という。(ウィキペディア「福助人形」)

 身体障害を見世物にし、「不具助」が元であるとは、見ようによっては悲惨な話であるが、これも江戸時代の実態である。
 清水坂を降り、公園通りを歩いているとき、宗匠が「円地」の表札を示して教えてくれた。円地文子の家だった。すぐそばには、枯れた蔦が大量に絡みついている古ぼけた蔵(?)が見える。「あの蔵はなんですか」何でも知っている講釈師だが、これは知らないようだ。この辺りは前回(第二十回)のコースに重なっている。鴎外旧居の水月荘。メニューを覗き込んだダンディが、そんなに高くはないと報告してくれる。
 モリオとノンちゃんは、中学や高校の話題で二人だけで盛り上がって、上野中学とか何とか言っている。ちょっと悔しいね。二人とも地元の人間である。「Aさんって知ってる」「私の知ってるAさんはとっても美人だったわ」「それそれ」高校生モリオが胸ときめかせていた美少女はノンちゃんの知り合いだった。
 「このあと弁天様を拝んでから下谷に向かうんですよね」「あっ、それは止めにしました」「えっ、いつ決まったんですか」「さっきです」岳人と私と相談したのだ。
 岳人の当初の計画では、谷中七福神だけでは時間が物足りないし、ついでに下谷七福神も回ってみようと言うものだった。七福神だけを目的に、脇目も振らずに歩くのならそれもできたかもしれない。しかし私たちのように寄り道が多くては(私にもその責任の一端があるが)ちょっと無理だろう。折角来ているのだから駆け足で済ませるより、ゆっくり見学しようと、さっき決めた。もう三時も回っているから、下谷七福神はまた別の機会としたい。岳人の魂胆は分かっている。下谷七福神を回れば、どうしたって「金太郎」に行かなければならないからね。
 不忍池に到着する。竹生島宝厳寺の弁財天を勧請したものだ。弁天様は本堂の奥の方に鎮座していて、私の眼ではよく見えない。「これを撮らなきゃ画竜点睛を欠くじゃないか」と言ったドクトルや碁聖の望遠レンズなら撮影できたろうか。

 弁才天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvat?) が仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じることから財宝神としての性格が付与され、「弁財天」と表記する場合も多い。
 本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされている。弁天とも言われ、七福神の一員である。仏教においては、妙音菩薩と同一視されることがある。
 また、宗像三女神と同一視されることも多く、古くから弁財天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神またはイチキシマヒメを祭っているところが多い。(ウィキペディア「弁才天」)

 実は弁天にも宇賀神弁天という摩訶不思議な神がついてまわるのだが、あまりに難しいから詳細は後にする。これで谷中七福神はすべて廻った。さて、信心深い人には御利益があったか。
 池の周りには様々な碑が立っている。宗匠が教えてくれたのは佐藤春夫の「扇塚」だ。初代花柳寿美が四十五年間愛用した扇を埋めたのだという。

ああ 佳き人か おも影も
しのばざらめや 不忍の
池のほとりに 香を焚き
かたみの 阿ふぎ納めつつ  佐藤春夫

 糸塚、包丁塚、「スッポン感謝の碑」なんていうものもある。フグ供養塔は岸信介が揮毫している。「何故だろう」宗匠が悩んでいるが私に分かる筈がない。しかし岸は長州の出身で、河豚と言えば下関、その関係かしらと私は適当に返事をしておく。
 河豚なんて滅多にお目にかかれないが、その滅多にない機会のひとつに、下関のバアチャンの河豚があった。妻は下関に生まれた。祖母は昔料亭を営んでいてフグ調理の免許を持っていたらしい。もう随分前のことになるが、生前最後に会った時は、下関からわざわざフグを持参して料理してくれた。これも思い出、忍ばざらめやか。
 池の枯れた蓮の間を水鳥が泳いでいる。キンクロハジリというのは黒い鳥である。「バンがいる」その声に講釈師が素早く反応して、口が早くなる。「ユニクロはどこですか」と碁聖が笑う。

枯れ蓮やいきいきと鳥講釈し 《快歩》

 オオバン。シロサギに五位鷺もいる。「偉そうにしてるだろ」その言葉通り、ほかの水鳥は泳ぎ回って一か所にじっとしていないが、五位鷺だけは動かない。「あれだけが位階をもってるんだ」

『大鏡』によれば、醍醐天皇が神泉苑に遊んだとき、池に一羽の鷺が見えた。天皇は下人に鷺を捕獲するよう命じたが、鷺は飛び回りかなわなかった。廷臣の一人が「勅なれば畏まれ」と叫ぶと、鷺は天皇の下へ飛来し、羽根をたたんだ。天皇はこの鷺の行動を喜び、従五位に叙したという。(ウィキペディア「ゴイサギ」)

 これではきりがない。それに寒くなってきた。岳人が「そろそろ」と声をかければ、「誰だい、鳥なんか見たいっていう奴は。ダメだよ早くしなくちゃ」自分が一番熱心に見ていたのだから、お馴染みの責任転嫁である。
 「またケン玉で遊ぶのかい」ドクトルは前回入った下町風俗資料館にも行きたそうだが、今日の計画には入っていない。
 どこかでお茶でも飲もうと動きだしたとき、「佐藤さんなら知ってるんじゃないですか」と美女が石碑を指さした。幕末の剣豪「上州月夜野・櫛淵虚沖軒」とある。知りません。「幕末の剣豪」なんていうのはロダンの得意分野である。知ってるんじゃないだろうか。

利根郡月夜野後閑村(月夜野町)生まれ。篤農家櫛淵弥兵衛宣久の子。父から相伝の天真正伝神道流を学び、のち微塵流・直心影流・柔術の揚心流・薙刀の無敵流などを修め、その長所をとって神道一心流を創始する。四十才で江戸に出て、神田小川町に道場を開く。のち一橋家に召し出される。
(高山彦九郎記念館http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm)

 「折角きたんですから、是非あそこに行きましょうよ」先を歩いて行く岳人に美女が声をかけた。「東北人なら必ず知っておかなければね」私は知っているフリをしながら黙ってついていく。彰義隊の墓である。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/bochi/syougi/

 「ひいじいさんが彰義隊だった」ドクトルが言えば、「私の祖父もそうでした」と橋口さんも声を出す。「でも一日で負けたんだろうって悪口言われますけど」ダンディにも白虎隊の血が流れていた筈だし、われらの会にはなかなかのメンバーが揃っているではないか。
 「ここにあるのを知らない人が多いんですよ」と美女が言う。美女もまた会津にゆかりの人であった。私と順子の先祖は出羽国由利郡矢島(生駒藩領)だから、いち早く奥羽越列藩同盟を脱した口で、いわば裏切り者のほうだ。しかし武士ではなく質屋を営んでいたから勤皇も佐幕も関係なかったろう。それでも戊辰戦争の影響は受けて、庄内藩の攻撃によって矢島の町がほとんど炎上したとき、一族は雄物川を伝って土崎湊に逃げた。やがて佐藤清也は土崎湊で廻船問屋を始めることになる。

 宗匠の万歩計で一万六千歩ということだから、今日のコースは十キロ程度か。これから立川で新年会があるというモリオはここで別れ、残った人はカフェレストラン「黒門」で体を温める。ビールを飲むためには少し体が冷え過ぎている。「反省会の場所は決まっていますか」ドクトルや宗匠が聞いても、岳人は「金太郎は決まっています」と答えるだけだ。「それは迂闊ですよ」岳人は最後に「金太郎」に行くことしか頭に入っていないのだ。
 まだ五時前だが、「さくら水産」ならやっているだろう。ここで飲まない人とはお別れする。たしか上野で「さくら水産」に入ったことがあるような気がして御徒町の方に歩きだしてみたが、方向音痴の私だから、数年前に入った店の場所は分からない。「検索してみましょうか」と美女が携帯電話で検索を試みるがうまくいかないようだ。大体、携帯電話でインターネットを検索するなんて高度な技を私は知らない。言ってはみたものの、美女だって苦労している。ちょうど路地の方に赤提灯が見つかって岳人が偵察に行った。「OKです」大衆酒場「佐久」である。
 岳人、ダンディ、ドクトル、画伯、チイさん、宗匠、美女、私はお馴染みのメンバーだが、ノンちゃんが初めて付き合ってくれるのは嬉しい。岳人もチイさんも喜ぶ。「ほんとに飲めないのよ」と言いながらビールを半分ほどを飲んだノンちゃんは少し顔を赤くする。飲めなくたって、楽しいじゃないか。
 「今日は飲んでカラオケやってくるって、家内に言ってきたから」画伯がそう言うなら行かねばならぬ。宗匠、ノンちゃんはここまで。金太郎に向かうダンディ、岳人と別れて残った五人はビッグエコーに入って行く。

眞人