第二十二回 中野・落合編 平成二十一年三月十四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.03.20

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 昨夜は一晩中風と雨が強かったが、家を出るときには風もなく小降りになっている。天気予報では午後から晴れると言っているので、大丈夫なんとか歩けるだろう。伝説の「谷中編」に比べれば何と言うことはない。そう私は思っていたのだが、ロダンは「誰も来ないんじゃないかって、家じゃ女房にバカにされた」と告白する。越谷、川口、国立方面の人は、朝も風雨が酷く中止になるのではないかと心配していたらしい。鶴ヶ島はそんなことはなかったから、妻は何の心配もせず、バカにもしてくれなかった。そんな天気でも、西武新宿線新井薬師駅南口には九人が集まった。
 リーダーの宗匠快歩氏の他、講釈師、ロダン、岳人、碁聖、モリオ、私、女性はチロリンとクルリン。講釈師はマスクで顔を隠していて、今日はあんまり調子が良さそうではない。岳人はスノウシュー(知っていますか、要するに西洋風カンジキであるらしい)で遊ぶために山へ行くつもりだったが、「この雨ですからね」と諦めてここに参加した。
 ダンディは確かフランス旅行中であり、美女は午後どこかで落ち合うことになっている。
 リーダーは事前に二ページにわたる案内文と地図を作ってくれている。それにモリオが、赤瀬川原平「散歩の言い訳・新井薬師前」(毎日新聞記事)の切り抜きと、「落合の林芙美子と吉屋信子」(『江戸東京物語・山の手篇』)のコピーを持参した。この『江戸東京物語』(新潮社)の単行本はすでに絶版で、文庫本でも入手が難しい。このコピーは私が持っている文庫本とはページ立てが違うから、単行本の方だろう。モリオもだんだん主体的に参加するようになってきたのは喜ばしい。そのうち企画もやってくれるかもしれない。
 ところで今回のタイトルをリーダーは「中野・中井編」としていたのだが、最後に訪れる林芙美子の家を記念して、「中井」ではなく「落合」と変更してみた。当時の住所は下落合だし、芙美子には『落合町山川記』という随筆があるのだ。

 最初は北に向かうのだが、急行が通過しても踏み切りはなかなか開かない。もうひとつ普通電車を待っている間、「西武は遅れている、小田急はもうとっくに高架にしていますからね」と京王線沿線に住む碁聖が言う。碁聖も私も数年前は千歳船橋で働いていて、小田急線が高架になっていく現場を見ているからだ。「堤一族の問題ですよ」
 北口商店街は昔の街道を思わせるようで、両側に所々に古そうな店が見える。そのまま哲学堂通りに出て真っすぐに行き、川を渡る。「この川は何ですか」岳人は地理に関心が深い。妙正寺川である。カルガモが数羽浮かんでいるのが見え、講釈師が早速カメラを構える。

東京都杉並区の妙正寺公園内妙正寺池(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を、新宿区の西武新宿線下落合駅付近で落合水再生センターからの放水路とそれぞれ合わせ、新目白通り(東京都道八号千代田練馬田無線)の下を流れ、新宿区の高田橋付近で神田川に合流する。(ウィキペディア「妙正寺川」)

 林芙美子が各種の随筆で「落合川」と書いているのは、実はこの川のことだ。四村橋を渡れば妙正寺川公園の看板が立つが、すぐ地続きで哲学堂公園に繋がっている。中野区松ヶ丘一―三五。
 この地には和田義盛の陣屋があったという。頼朝の死後、北條独裁政権確立のため、初期鎌倉政権を支えた連中は軒並み北條氏の挑発に乗って滅ぼされていく。その最後を飾るのが和田合戦であり、健暦三年(一二一三)五月、和田一族は滅亡した。余計なことだが、この北条政権確立期における一連の抗争は、頼家、実朝の悲劇も含め、日本史上でも珍しく凄惨なテロリズムであった。
 公園は明治三十七年(一九〇四)、井上円了が四聖堂を建設したことに始まる。当時は江古田和田山であった。私は円了と国家主義者井上哲次郎を混同していて、哲次郎の号が円了であろうかなんて思っていた始末で、実に無学であった。「妖怪博士」と言う名前だけでなんとなく敬遠していたが、ちょっと面白そうな人物である。
 リーダーの指示によって最初に事務所によって園内のガイドマップを購入する。百五十円で買うのは四人。講釈師とモリオが百五十円づつ出した。私とチロリンは二百円づつ払った。合計七百円だから百円のお釣りが返ってこなければならないが、若い職員がもたつきながら五十円だけ返してくれて平然としている。「もう一人いますよ」「えっ」「そこの受け皿に七百円あるでしょう、見てください」計算が苦手な若い衆だ。
 締め切られた蔵のような建物は「絶対城」という図書館である。その脇には二人の童子が大きな本を支えているような石碑が建っている。建物にはそれぞれ独特な名前が付けられている。こういうものが六十とか七十とかあるようなのだが、とても全部見ることは出来ない。
 四聖堂は宝形(方形)造りの屋根を持つ建物で、孔子、釈迦、ソクラテス、カントを祀る。小雨の煙る中で一層古めかしく感じられるお堂で、外から眺めるだけだから余り面白いものではない。古今東西の哲学者の代表を四人選べと言われて、この四人を挙げるのはなかなか不思議な選択ではないか。
 六賢台は朱塗りの六角形、三階建ての建物で、聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅を祀る。この組み合わせも不思議である。日本、中国、インドと出身地で分ければ二人づつになるが、思想的には仏教二人(聖徳太子と龍樹)、儒教二人(菅原道真と朱子)、老荘思想一人(荘子)、そして私の聞いたことのない人物一人(迦毘羅)という分類にもなる。
 その中で菅原道真は、日本思想史上にどんな貢献をしたというのだろうか。生前の業績はほとんど知らないので好い加減に言うけれど、死んで怨霊になり天神として祀られたことだけが、思想史(御霊信仰)上の意義と言えば言えるのかしら。しかし怨霊ならば崇徳院の方がもっと恨みが深い。何しろ「ひとへに魔王となるべき大願をちかひし」(『雨月物語』)という人物である。それに引き替え、道真は梅を見ながらただ泣いていただけじゃないのかな。
 それよりも迦毘羅なんて知っている人がいるのだろうか。大辞林によれば、紀元前三百年頃の哲学者で、サーンキヤ学派の開祖とされる。それは何であろう。

 サーンキヤ学派はダルシャナ(インド哲学)の学派で、精神原理と物質原理を分ける二元論を唱える。シャド・ダルシャナ(六派哲学)の一つに数えられる。
 精神原理であるプルシャは永遠に変化することない実体である。物質原理であるプラクリティは第一原因とも呼ばれ、サットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)という、相互に関わる三つの構成要素からなる。これら構成要素が平衡状態にあるときプラクリティは変化しない。
 しかしプルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる。プラクリティ→理性→自我意識という順序で原理が現れ、自我意識からは思考器官・知覚器官・行為器官が生まれる。知覚器官には耳・皮膚・眼・舌・鼻があり、行為器官には発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官がある。また、自我意識は他方では素粒子(音・触感・色・味・香)を生み、素粒子は五大の要素(虚空・風・火・水・土)を生む。これらの対象は知覚器官に対応している。
 プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが、本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている。
 サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている。(ウィキペディア「サーンキヤ学派」)

 つまりヨーガの祖であったと言っても良いか。インド思想と言う奴はなかなか手に負えない。用語が違うけれど、個体の本質であるアートマンと、宇宙最高実在であるブラフマンとの一体化と似ているような気がする。

 アートマンとブラフマンとの一体性は、現象的存在としての自己からの脱却、最高実在ブラフマンへの帰入あるいはそれとの合一の体験を通して自覚される。(服部正明『古代インドの神秘思想』)

 そうすると、釈迦の始めた仏教も本来これとそんなに違うものではない。ヨーガであれ、釈迦の方法であれ、「悟り」のための方法論であろう。但し釈迦はヨーガの要求する苦行を否定した。しかしこんな議論になれば今の私の知識では太刀打ちできず、もう少し勉強が必要だ。(私はこの頃仏教の勉強を始めているので、もう少ししたら悟りを開いて、仏陀になるかも知れません)
 円了はもともと浄土真宗大谷派の慈光寺に生まれ、東本願寺の国内留学生として上京、東京帝国大学文学部哲学科に学んだ。明治二十年(一八八七)、哲学館を創設して哲学を教え始める。その当時、哲学に関する学校は、ほとんどがキリスト教か仏教各宗派によって設立され、帝国大学を除くと日本で唯一の非宗教系の哲学学校として学生が集まった。これが東洋大学の前身である。
 哲理門の左側には幽霊、右には天狗像が収められている。格子の奥の蜂の巣のように編まれた金網の中は暗くてよく見えない。宗匠がライトを取り出したが光量が弱くてだめで、岳人が出してくれたペンライトのおかげで中がなんとか見えた。雨のせいもあるのだろうが、こんなに暗い中で人が見ることができなくても良いのだろうか。

  幽霊を照らす明かりや菜種梅雨  眞人

 天狗は物質界の、幽霊は精神界の象徴だと説明されている。天狗が物質界の象徴なのか。つまり実在するということだろうか。柳田國男ならば、天狗は先住民族、山人の類であろうと言っていたように思う。山人を研究して「平地人を戦慄せしめよ」なんて言っていた割には、その後、柳田は山人について口を鎖してしまった。
 「妖怪学」と言えば何と言っても水木しげるを忘れてはいけないが、ここでは触れないことにする。本当は諸星大二郎『妖怪ハンター』についても触れておきたいところだが、たぶん、誰も知らないだろうから我慢する。柳田國男は、妖怪とは零落した神だと考えていた(と思う)。円了の妖怪学は、こうした傾向とは違って、科学的実験(心理学も含め)によって、その真偽を解明しようとすることに特徴があるようだ。迷信撲滅のための、明治の啓蒙的精神の現れである。つまり円了はモダニストであったか。どうもこの哲学堂に入ると、疑問符ばかりが多くなる。しかし円了はそれほど簡単ではなさそうだ。
 松葉が覆うように陰を作って、滑りやすい狭い石段を上ると、三角形の東屋のような三学亭に出た。三角のそれぞれの面には名前と画像を彫ったはずの石額が掲げられているのだが、これが薄くてよく判読できない。宗匠がライトを当てて辛うじて分かったのが、篤胤と羅山だった。もうひとりが分からない。宗匠は新井白石だろうかと呟いていたのだが、パンフレットによれば、これは神儒仏の碩学を現していて、平田篤胤、林羅山、釈凝念を祀っているのだ。
 まず、篤胤をもって神道を代表するということが実は良く分からない。それなら誰が神道を代表するかと聞かれても答えようが無いのだが、渡会神道、吉田神道の関係者や、あるいは山崎闇斎の垂下神道はどうだっただろう。平田流神道というのはかなり特殊ではないか。妖怪とか幽界に関する趣味が円了と似ていなくもない。
 篤胤の死後、幕末から明治にかけて廃仏棄釈、仏教排斥を進める上で中心になったのが平田流国学者だったことは、島崎藤村『夜明け前』が書いているところだ。円了は仏教をむしろ尊重しているから、この辺りの折り合いをどうつけたのか気になるところだ。
 さらに、釈凝念が分からない。どうもこの哲学堂は分からないことだらけで困ってしまう。分からないときはウィキペディアに頼るのがお手軽な解決方法である。

 凝然(ぎょうねん、仁治元年(一二四〇)三月六日〜 元亨元年(一三二一)九月五日)は、鎌倉時代後期の東大寺の学僧。号は示観房。伊予国の出身。
 東大寺戒壇院の円照に師事して通受戒を受けたほか、華厳を宗性に、律を証玄に、真言密教を聖守・真空に、浄土教学を長西に学ぶなど博学であった。特に華厳教学に通じており各所で講義を行っている。円照のあとを受けて東大寺戒壇院に住し、法隆寺や唐招提寺など多くの寺院を管理下においていた。(ウィキペディア「凝然」)

 これを見ると仏教界のエンサイクロペディストであったようだ。鎌倉後期の奈良仏教というのは、ほとんど私の頭に入っていない。当時の総合大学は比叡山ばかりだと思っていたから、東大寺が頑張っていたなんて、まるで知らない。無信心で無知を恥じない私とは違って、宗匠は深く反省する。

哲学堂右脳へぽとり木の芽時 《快歩》

 「あれ、なんですか」岳人が指さすのは、遠くに見えるドーム型の建物だ。「駒沢の浄水場のようですけどね」私は何か宗教的な施設かと思ってしまったが、これは岳人の言う通り、水道関係の施設らしい。
 見上げる高さにサンシュユ(山茱萸)の花が黄色に咲いている。椿は雨に濡れて赤く光っている。「これはなんだい」モリオの疑問には自信をもってアセビ(馬酔木)と答える。白とピンクがボンヤリと混じりあったような色の花を今年初めて見たのは、先週、昼休みの間に目黒不動の近くを歩いていた時だった。「この花が毒なんですよ」と宗匠が教えてくれる。馬が酔うのであれば、なにか麻酔のような成分が含まれているのかも知れない。
 「それではもう良いですか」宗匠の声で出発する。今度は晴れたときに来て、残り数十もある施設をゆっくり見学して見たい。
 今度は中野通りからまた南に戻る。雨の具合が安定しない。傘を仕舞っても良いかと思えばまた少し強くなる。本当に午後には上がるのだろうか。

 北野神社(中野区松ヶ丘一―三五)の境内を入るとすぐに「プリンセス雅」なんて言う桜が植えてある。赤ん坊誕生の記念だそうだ。当然ながらまだ花は咲いていない。宗匠、岳人、モリオはきちんと賽銭をあげて拝んでいるから偉い。この人たちの信心深いのにはいつも感心してしまう。
 高さ一メートル程の歌碑の前で「この歌が読めなかった」と宗匠が言う。確かに石碑の表面には緑の苔が付着して文字が見えにくくなっている。「だけど、そこに立札があるよ」「あれっ、下見の時はなかったのに」一週間前にはこんなものはなく、宗匠は宮司に教えてもらったらしい。「何度も聞かれたくないから立札をたてたんだ」と宗匠が判断する。碑面をよく見ると、苔を拭ったように、文字が白く浮き出ている部分もある。これも宮司のサービスかも知れない。

梅の花匂ふあたりの夕くれはあやなく人にあやまたれつつ 大中臣能宣朝臣

 歌の善悪は判定できない。夕暮れで人に間違われた、あるいは道真を偲んで、罪なく人に讒言されたと言う寓意を秘めているのか。大中臣能宣というのは三十六歌仙の一人である。延喜二十一年(九二一)〜正暦二年(九九一)。百人一首に「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ」がある。小学生の私は、「夜はもえ」をずっと「夜は燃えて」と覚えていたのだが、違っていたのか。結構得意な取り札だったのだが。
 「牛は以前どこかで見ましたよね、小名木川を歩いたとき」と碁聖が口を開いたのは、割に新しい、最近作られたような撫で牛がいたからだ。「それならば亀戸天神で」と宗匠が答えている。そこでも確かに見たが、向島牛島神社でも見たんじゃないか。
 「力石」がいくつも並べてある一角があって、石の表面にはそれぞれ三拾貫とか七拾貫とか彫られている。「七十貫っていうと二百五六十キロですか」「こんなものが、そんなにありますか、持ち上げられそうだけどね」岳人なら持ち上げるかも知れない。「地面に埋もれている方が大きいんじゃないの」「そうか、氷山の一角ですね」

 ここから新井薬師はすぐ近くだ。中野区新井五―三―七。入口かと思ったところを、宗匠はどんどん過ぎて歩いて行く。「正面から入ります」そうか、講釈師に叱られないように、道を回り込んで正面入り口から入らなければならないのだ。石造りの柱が立っていて、左には「梅照院」、右に「新井薬師」とある。正しくは梅照院薬王寺(真言宗豊山派)である。

 梅照院(新井薬師)のご本尊は、薬師如来と如意輪観音の二仏一体の黄金仏で、高さ一寸八分(約五.五センチ)の御尊像です。この御本尊は弘法大師御作と言われており、鎌倉時代の代表的な武将、新田家代々の守護仏でした。しかし、鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱のさなかに、ある日の夕方、御尊像を納めたお城の仏間から忽然と光が放たれ、それとともに御尊像は消え失せてしまいました。
 その後、相模国(神奈川県)から行春(ぎょうしゅん)という沙門(僧)が、新井の里を訪れて草庵を結びました。清水の湧きいずるこの地こそ、真言密教の行にふさわしい土地と感じてのことですが、不思議なことに、草庵の庭の梅の古木から光が出るという現象が夜毎に起こり、天正十四年(一五八六)三月二十一日、その梅の木の穴から新田家ゆかりのご尊像が発見されました。この御尊像を安置するために、行春が新たにお堂を建立したのが、梅照院の始まりです。
 不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、その後、広く、深く信仰されました。特に、二代将軍秀忠公の第五子和子の方(東福門院)が患った悪質な眼病が、祈願して快癒したことなどから「目の薬師」と呼ばれ、あるいは第五世玄鏡が元和三年(一六一七)に如来の啓示によって、秀れた小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれて、今日まで大変多くの方に、篤く信仰されております。(「梅照院のご紹介」)

 東福門院和子というのは、後水尾天皇に嫁いだ女人である。幕府と皇室との軋轢、稀に見る剛毅な天皇であった後水尾との生活に疲れきった和子は、やがて衣装道楽に狂う。それが結果的に元禄文化を彩る尾形光琳のデザインを生み出した。これは大石慎三郎『江戸時代』に書いてある。
 そんなことは関係ないが、参道を歩いて山門を潜ると、山門手前と潜ったところに句碑が立つ。

たんぽぽや薬師如来の手には壺  椿八郎
土もなき巌に生き抜く冬の松   廣風

 椿八郎と言うのは探偵小説の作家らしい。薬師如来が薬壷を持っているのは当たり前ではないかと思うのは、私の感度が鈍いせいか。廣風は分からない。ウィキペディアを検索するとこの人が出てきたが、この人物がそうだと言い切る自信はない。

 大谷廣風(天明八年〜 ) 書家。姓は在原、名は業抽初名重之丞、通称助十郎、後広風と号した。京都の人、和様書家大谷業延の弟、天明八年生れ、文化五年三宅兵庫の養子となり梶井宮に仕え主計と称した。文化十年梶井宮の不慮に逢い落髪して広風と号した。兄と共に青蓮院流の書をよくした。

 大悲殿の後ろに回ってみると、髪をみずら(角髪)に結った若き聖徳太子像が立つ。台には「以和為貴」の文字がある。
 ここは水が名物らしく、わざわざ汲みに来ている人の姿が見える。墓地の脇の駐車場の片隅には濃い緋色の桜が咲いている。下を向いた花がいくつかまとまって固まりのようになった房が、いくつも咲いているのだ。「これ、何でしょうかね」岳人と一緒に悩んでみたが、ヒガンザクラとかカンザクラとかいう種類のものではないかとその場ではごまかした。写真を撮って帰宅後に調べてみると、これはカンヒザクラ(寒緋桜)である。
 地蔵尊の前には、「お願い地蔵」という十センチほどの小さな地蔵が百個ほども並んでいる。蝋燭のような白い体で、その頭が全員、赤く塗られているのは何故なのか。涎掛けが赤いのは良く見るが、赤い帽子というのも何か意味があるのでしょうか。

 そろそろ腹が減ってきた。中野駅の方に向かって歩き「大戸屋」に入ったのは、宗匠の計画どおり十一時四十分だ。「ランチにはソフトドリンクがつきます」店員に代わってリーダーが宣伝するので、カキフライ・ランチが四人、鶏肉と野菜の黒酢餡かけランチが二人。リーダーはドリンクのつかない焼きサバ定食、碁聖とロダンは豆乳雑炊なんていう不思議なものを注文した。「ロダンは昨日飲み過ぎたね」「エヘヘ」
 この時間に店に入ったのは正解だった。ちゃんと全員がそろって座れたが、次第に店は混んできて、十二時を過ぎた頃にはもう満席状態になってきた。大戸屋はサラリーマンの昼食のための定食屋だとばかり思っていたから、土曜日に、若い女性客がこんなにいるのは意外だった。偏見を是正しなければならない。
 「大戸屋は池袋で発祥したんですよ」ロダンは池袋近辺のことに詳しいから、こんなことも知っている。社史を見ると、確かに昭和三十一年一月、先代社長三森栄一が池袋に「大戸屋食堂」として開店したことに始まる。当初、「全品五十円均一」で、連日千人を越える客が入ったと言われ、「五十円食堂」という愛称で親しまれたそうだ。現在では全国に百六店舗を数える。「家じゃ滅多に揚げないけど、カキフライおいしいね」「油が面倒でね」クルリンとチロリンが頷きあっている。

 食事を終えてもまだ雨は止まない。中野区役所の周りには通行止めの鎖が張り巡らされているので、まず外側の東京セントラルライオンズクラブが寄贈した犬のブロンズ像を見る。数頭の犬が、寝そべったり立ったり様々な格好で居座っていて、その横には「中野の犬屋敷」という立札が立つ。これは例の悪名高い生類憐みの令の産物で、最盛期には三十万坪の規模を誇った犬屋敷跡である。犬を囲っていたから、旧町名を囲町と言う。

元禄七年(一六九四)四月二十三日、大久保の御用邸二万五千坪を割きて、犬小屋を建て、江戸中を捜索して、主なき犬を捉え、ことごとくここに収容す、その総数十万頭に達して、さしも宏大の犬屋敷も、たちまち狭隘を告ぐ。ここにおいてその翌八年九月、さらに中野の地十万坪を画して、犬小屋を建つ。(田中優子監修『江戸の懐古』)

 中野犬屋敷の説明では最盛期には八万数千頭を収容したと言う。犬一頭に与えられた食料は、一日に下白米三合、味噌五十匁、干鰮一合。『江戸の懐古』によれば、中野だけではなく大久保も含めて、元禄八年十二月の記録では、一日の消費量が米三百三十石六升、味噌十樽、干鰮十俵、薪五十六束となる。これで計算すれば、犬の総数は十一万二十頭になり、米だけで年間の総費用十二万石に及ぶ。
 「大久保・余丁町編」(そこでも犬屋敷跡を見た)と「赤穂浪士編」でも触れておいたが、この頃奥羽、北陸では大飢饉が発生していた。元禄八年、弘前藩では凶作による餓死者三万人余、盛岡藩領内では大凶作で米十万俵(三万七千石)損亡、餓死者四万人余を数えた(「年表日本歴史」より)。

元禄の大飢饉は一六九五年〜一六九六年(元禄八年〜九年)に東北を中心とする東北地方を襲った冷害で、収穫が平年の三割しかなく、津軽藩では領民の三分の一に相当する五万以上の死者を出したという。飢饉の様子を記録した『耳目心痛記』(じもくしんつうき)によると、「道を往けば、餓死者が野ざらしになり、村では死に絶えた家が続き日増しに増えた。肉親が死んでも弔う体力もなく屍骸は放置される。十一月になると積雪のため草木の根を取る事もできず被害は増した。生き残った家庭でも一家心中や子殺しが続いた」という。(ウィキペディア「生類憐みの令」)

 生類憐みの令によって鳥獣を撃つことも禁じられた。鳥や獣の肉を食うことができればまだ人的被害は少なかったろう。さらに鳥獣による収穫への被害も悲劇を拡大した。犬に与える食料の半分でも東北に回していれば、多くの餓死者は死ななくて済んだ筈だ。
 宝永六年(一七〇九)、綱吉の死後廃止された。「その犬はどうしちゃったんでしょうね」「殺したんじゃないの」もともと野良犬であったわけで、引き取り手がいるはずがない。

以降、江戸庶民の間に猪や豚などの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(一七一〇年代)に現れている。(ウィキペディア「生類哀れみの令」)

 なんとなく、日本人が肉を食う習慣は文明開化によって始まったように思われているのではないだろうか。そんなことはなく、江戸時代に既にかなりの人が獣肉を食っていたのである。
 中野区史跡の方はチェーンの内側になっている。区役所の東側の入口は開いているようなので、そちらから回り込めば行けるかもしれない。宗匠の後について区役所内に入ると、入口に陣取っている警備員が不審な顔をする。「怪しいものではありません。史跡を見学にきたのです」。「ダメだよ、ここから入っても、向こうの出口が閉まっているから」「そこを何とか」そんなに見たいのなら、チェーンを跨げと言う。それならチェーンは何のために張り巡らしてあるのか。単に車を入れないためならば、チェーンを固定するポールだけで充分な筈だ。役所のすることは分からない。
 チェーンは二段になっているから、上の方を引っ張り上げ、中を潜るようにして全員を通す。途中で上のチェーンが外れてしまったが、なんだ、最初からこれを外せば良かった。あとで戻せば良いのだ。
 庁舎の脇の芝生の上に黒い御影石の史跡が置かれていて、中野地区の史的由来を示している。鈴木重九郎正蓮(中野長者)が開いたこと、太田道灌が江古田に豊島氏を破ったことなどが書かれている。私も調べてきた。

 中野 淀橋の西をいへり(淀橋の下を流るる上水川をもつて、豊島郡と多摩郡の郡界となす)。この地は多摩郡に属す。武蔵野の中央なるをもて、しか号くといひ伝ふ(永禄二年、小田原北條家の『所領役帳』に、太田新六郎知行のうちに、中野内阿佐ヶ谷、また中野大場源七郎分とある地を注し加ふ)。(『江戸名所図会』)

 宗匠の資料では、「往古はこの武蔵野も上野・中野・末野といふあり。今上野・末野所在詳らかならず(『求涼雑記』)とある。「上野って、今の上野じゃないんですか」「どうやら違うようです」
 中央線を挟んで駅の南側にはかつて桃園があったのだと、宗匠がプリントしてきた「桃園春興」の絵を披露する。私も『新訂江戸名所図会』(ちくま学芸文庫)の挿絵を開いて見せる。

 享保の頃、この辺りの田畝にことごとく桃樹を栽ゑしめたまひ、その頃台命によりて、このところを桃園と呼ばせたまひしといへり。いまも弥生の頃、紅白色をまじへて一時の奇観たり。ここに大将軍家御遊猟のときの御腰掛の地あり。また、岡の前を流るる小川に架せる橋を石神橋と唱ふ(このながれは、石神の三宝寺の池より発するところの余流れなり。)(『江戸名所図絵』)

 しかし、そんなことにまるで関心のない人は、史跡の石のそばに咲いている花の方が大事らしい。薄紫の花はクリスマスローズというものである。今度はみんなが鎖を跨ぎ、その後、上の鎖をポールにセットする。歩道に出ればトサミズキの黄色い花が咲いている。
 ここからは駅北口の飲食店街を通って行く。この辺は若き日の五木寛之が徘徊していた場所だろう。ちょっと懐かしいから『風に吹かれて』を引っ張り出してみた。

 昭和二十八年から三十年にかけての中央線沿線には、不思議な自由さがあったように思う。それ以前の事も、最近の事も知らないが、それは奇妙な季節だった。ある街の空気を作るのは、そこに集まる種族たちであり、また同時に、街が人間を惹きつけるのでもあるのだろう。
 当時、私たちは、中野駅北口の一角を中心にして出没していた。その地帯は、私たちにとってのメコン・デルタであり、<私の大学>でもあった。<私の大学>というのは、ゴーリキーの自伝青春小説のタイトルである。モーイ・ウニヴェルシチェート。私の大学。(五木寛之「私たちの夜の大学」)

 「クラシックで有名な喫茶店もあった」モリオがその店に通ったのは、五木の時代から十五年も後のことになるだろうね。「黒板にリクエスト曲を書くんだよ」モリオが言うのはこんな店のことだろうか。

店に一歩ふみ込むと、最初の客は一瞬ぎょっとする。店内の構造は一種の木造の蜂の巣城であり、ブンブン言う羽音のかわりに、バルトークやバッハの音楽が響いていた。雑然というか、整然というか、とにかく様々なガラクタや、古色蒼然たる蓄音器の砲列が客席をとりかこんでいる。(五木・同上)

 中野ではないが、私にも「私の大学」とも言うべき店はあった。阿佐ヶ谷には「クール」、それに代々木上原のS、新宿区役所裏のY。
 気がつくと住宅地の狭い道に入り込んでいる。「ミモザですね」深川で教えてもらってから、宗匠もよく気がつく。知ってみると私も結構あちこちで目にしている。青い葉の中に黄色が鮮やかで、春めいた気分になってくる。
 「宗匠、よくこんな道を地図も見ないで歩けますね」碁聖が感心するのも当然だ。これは一度通った程度では分からない。すぐに迷ってしまいそうだ。「この道は初めてなんですよ」おいおい、大丈夫か。しかし、やがて「天神商店街」という表示が見えてきた。目的地は北野神社だから、このままいけば着くだろう。「その突き当りです」と宗匠が自信を持って断言する。
 北野神社。中野区中野五―八。打越天神と言う。打越と言うのは、かつて、この辺をさした村名である。「別に由緒ある神社と言う訳ではないんですが、石仏があります」
 左端には傾けた首を手で支えている如意輪観音が一体。その隣に青面金剛が二体並んでいて、元禄の記銘が読める。真ん中の青面金剛の足元には踏みつけられている邪鬼の姿がちゃんと見える。立札の説明によれば、地域住民の庚申信仰の記念であるとともに、青梅街道から新井薬師へ至る道標も兼ねていた。
 ところで、青面金剛にはこれまで随分お目にかかっているのだが、実は出自不詳の仏である。もともとの仏教には存在せず、道教の影響ではないかというのが柳田國男の感想だったようだ。中世の神仏混淆は様々な神や仏を案出してきたから、その中から生まれてきたものだと思われる
 ここで宗匠が庚申塔の形式について様々な種類を説明してくれる。右端のものは青面金剛を浮き彫りにした背後の石が将棋の駒の形をしている。真ん中は舟型である。私は今まで庚申塔の意味や由来ばかりに気を取られていたが、こんな風に形から分類するのも面白そうだ。ハクモクレンが美しい。

  木蓮の雨穏やかに庚申塔  眞人

 さらに住宅地を歩いて行く。やがて、竹垣で小さく囲ったところに立札が立っている所に到着する。『たきび』のうた発祥の地。中野区上高田三―二六―一七。民家の敷地の一角を囲んだもので、その奥はかなり広い敷地を持っているようだ。敷地の周りを囲む竹の垣根が美しい。内部には樹木が多く見られる。懐かしい空気が漂ってくる。今では「たきび」なんてできなくなってしまった。思わず私も沁み々々としてしまう。

 かきねの かきねの まがりかど
 たきびだ たきびだ おちばたき 
 『あたろうか』『あたろうよ』
 きたかぜ ぴいぷう ふいている

 この童謡の作詞者、巽聖歌(たつみせいか)(本名野村七蔵 一九〇五〜一九七三)は、岩手県に生まれ、北原白秋に師事した詩人で、多くの優れた児童詩を残しました。
 聖歌は、この詩が作られた昭和五、六年頃から約十三年の間、萬昌院のすぐ近く、現在の上高田四丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散歩しながら、「たきび」のうたの詩情をわかせたといわれています。
 歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていく中で、けやきの大木がそびえ、垣根の続くこの一画は、今もほのかに当時の面影をしのぶことができる場所といえましょう。
        昭和五八年三月  中野区教育委員会

 「多くの優れた児童詩を残し」たと言う。与田準一編『日本童謡集』を見てみると、「たきび」を含め、聖歌の詩は十曲が採用されている。この本の中では白秋、雨情、八十など二十曲を超える大家はそれほどいない。余り知らない与田の曲が多いのは編集者の役得であろう。聖歌はその次のサトウ・ハチロウ辺りと並ぶ位置にいて、いわば中堅どころになるのだろう。ところが残念ながら私は「たきび」以外の歌を全く知らない。
 白秋が絶賛したという「水口」を見てみよう。

野芹が/咲く田の/水口。
蛙の/こどもら/かへろよ。
尾をとる/相談/尽きせず。
あかねの/雲うく/水口。(原詩は、/のところで改行し、句点の後は一行開き)

 どんな曲が付けられたか分からないが、これでは子どもは歌えないと思う。これは歌うものではなく、読む(または見る)詩であろう。
 一坪にも足りない小さな囲いの中に、地面には藁が敷き詰められ、藁で小さく雪囲いのように作ったものが立ち、木の枝にも同じようなものがぶら下がっている。「納豆でも入ってそうですね」碁聖の言葉で水戸納豆を思い出す。ちょうど、そんな位の大きさなのだ。こういうのは講釈師が詳しいんじゃないか。「よく分からないけど、牡丹を護るためにこういうものを作る」確かに、花を護るためにあるらしい。枝にぶら下がっているのは横に穴が開いているので、ここから花を出すのかも知れない。
 傍らの古い木にはサルノコシカケが二つ。樹木は樹皮が剥がれていて、今にも朽ちてしまいそうだ。「サルノコシカケは、樹木の癌のようなものなんだよ」講釈師の説明である。

 少し歩くと、コンクリート造りの小さなお堂が道端に建っていて、中に石仏が祀ってある。石仏には頭巾と一体になった赤い涎掛けがかけられてある。仏前には花が活けてあり、香呂には線香を燃やした跡も見える。不作法な私が赤い布をめくってみたが、顔面は磨滅していて形がはっきりしない。これは馬頭観音であるということになっていて、文政七年(一八二四)の記銘を持つ。「今でもこうして、ちゃんと、お世話してるんですね」私と同じ程度に信仰心は薄いと思われるロダンだが、なんとなくしみじみと感慨を述べる。
 この馬頭観音を含む「六観音」について宗匠が触れているので、私も少し調べてみた。観音は観世音菩薩、または観自在菩薩のことである。表記が違うのは旧訳と新訳の違いだ。本来、菩薩というのは仏になる前、つまり悟りを開く前の求法者であった。それが大乗仏教に至って、既に仏(悟りを開いたもの)ではあるが、衆生を救うために娑婆世界に現れたものであるという信仰が生まれた。
 観音は「無量寿経」では無量寿仏(阿弥陀如来)の脇侍として勢至菩薩とともに現れる。その姿はこんな風である。

 このぼさつの身のたけは、八十万億・百万ヨージャナである。身体は紫を帯びた金色である。頭の頂部は盛り上がり、項には円光があって、縦横各々百千ヨージャナである。その円光の中に五百の化仏があって、釈尊のようである。一々の化仏に五百の菩薩があって無量の天人たちを侍者としている。全身から発する光の中に、地獄・餓鬼・畜生・人間・天人という五種類の世界にある生ける者どものすべての姿や形が現れている。頭上にはシャクラアビラグナ珠宝の天冠がある。その天冠の中に一人の立った化仏があって、高さ二十五ヨージャナである。(以下略)(中村元・紀野一義訳『観無量寿経』)

 ヨージャナ(由旬)という単位は、仏教では七キロメートルあるいは十四・五キロと説にちょっと違いがある。「八十万億・百万」というのもよく分からないが、いずれにしても考えるのも大変な宇宙的な大きさである。阿弥陀如来はこれよりも更に大きいのだ。
 観音経(観世音菩薩普門品第二十五)になると、あまねく衆生を救うため、相手に応じて「仏身」「声聞身」「梵王身」「婦女身」「童女身」など三十三の姿に変身して現れることになった。西国三十三ヵ所霊場などは、この信仰による。こんなことは、世間一般の人にとっては今更言うまでもない周知の事実なのかも知れないが、私はこの年になって初めて知るのです。いかに宗教的なものと無縁に生きてきたかが分かるでしょう。
 また、観無量寿経では「五種類の世界」と言っていて、まだ六道の概念はなさそうだが、生きとし生けるものは六道に輪廻転生する。あまねく衆生を救わんとすれば、その六道にそれぞれ観音がいなければならない。それが六観音思想であり、真言宗と天台宗とで構成が違う。
 真言系では、地獄道に現れるのが聖観音(一面二臂)、修羅道に十一面観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、天道に如意輪観音、人道に准胝観音とする。天台系では准胝観音の代りに不空羂索観音を持ってくる。合わせて七観音とも称する。六道に迷う衆生救済のためには別に地蔵菩薩もいるはずだが(六地蔵)、これがどんな風に役割を分担しているのかは分からない。
 そして今見ている馬頭観音はこういうものである。

 衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。転輪聖王の宝馬が四方に馳駆して、これを威伏するが如く、生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすという。師子無畏観音ともいう。
 他の観音が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。
 像容は前述のような忿怒相で体色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像が多い。経典によっては馬頭人身の像容も説かれるが、日本での造形例はほとんどない。一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在する。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭を戴き、胸前で馬の口を模した「馬頭印」という印相を示す。剣、斧、棒などを持ち、また蓮華のつぼみを持つ例もある。剣は八本の腕のある像に多い。(ウィキペディア「馬頭観音」)

 もうひとつ、数十年来放っておいたことでやっと知ることもある。菩薩はボディーサッタの音訳(菩提薩?)であるが、意訳すると「覚有情」である。私と同世代の人なら、七十年代に風靡したバロン吉本『柔侠伝』という長編漫画を覚えているだろう。文明開化から昭和まで、親子三代に亘って柔道を縦軸にして日本近代史を描いた傑作である。その二代目主人公、柳勘太郎の背にこの「覚有情」の文字が彫られていたのであった。なんとなく仏教に関係するだろうとは思っていたが、疑問を正すこともなく、うかうかと四十年を過ごしていた私の蒙が啓かれた。

 東中野の方に歩いて行けば萬昌院功運寺(曹洞宗)に出る。中野区上高田四―一四―一。門前には有名人の墓所があることを説明する立札が立っている。吉良上野介、今川長得、歌川豊国、水野十郎左衛門(但し「十」ではなく「重」になっている)、長沼国郷(直心影流開祖)、栗崎道有(外科医)、林芙美子。「この栗崎っていうのが、最初に吉良の傷を手術したんだよ」今日はなんとなく静かだった講釈師が本来の知識を発揮する。忠臣蔵に関して知らないことはない。松の廊下で切られた傷を「何針か縫った」のだそうだ。
 境内に入ろうとすると、山門入口には警備員が立っていて、なんだか入りにくい雰囲気だ。境内に幼稚園を併設していて、たまたま今日がその卒園式に当たってしまった。怪しい人間が入らないよう警備しているのである。「関係者以外、団体の人は入れないようにと言われています。別の機会にしてください」ここで宗匠が粘る。「今日のために、半年も前から計画していたんです。なんとかお願いします」
 警備員が考えること数分、漸く許可がでた。目立たないように、二三人づつ、同じグループではないような振りをして、静かに入ること。特に最後の「静かに」というのを厳重に守らなければならない。この警備員は融通が利いて偉い。「お墓参りの恰好をしてください」

 この寺は萬昌院と功運寺とふたつの寺が合併したもので、萬昌院の方は天正二年(一五七四)今川義元の三男、今川長得が永平寺の佛照圓鑑禅師を招いて半蔵門の近くに開創した。功運寺は慶長三年(一五九八)、老中永井尚政が桜田門外に開いた寺だ。萬昌院は大正三年に中野に移転したがその三年後に焼失、功運寺は大正十一年に現在地に移転し、焼失した萬昌院を吸収合併したのである。
 墓所にはちゃんと案内板が設置されているからわかりやすい。
 「林芙美子墓」の文字は川端康成である。「芙」のクサカンムリがなんとなくタケカンムリのようで、「笑」のようにも見える。芙美子は昭和二十六年六月二十八日没。享年四十八。その隣には小さな「林家累代墓」が並ぶ。
 吉良家墓所には墓石が四基並んでいる。高さ二メートル程もあって、宝篋印塔のようでもあるが、蓮華台に載っているのは五輪塔に似ている。ただ、五輪塔ならば「地」を表わす方形の部分が方形でないから違うのだろう。私の持っている『図説歴史散歩』には出てこない。
 「左から十四代、十五、十六、十七代となっています」とリーダーが事前調査の結果を教えてくれる。つまり十七代当主上野介が向かって一番右端にいる。吉良家忠臣供養塔は五輪塔で、かなり新しく作られたようだ。吉良邸跡と同じく、討ち入りの時の死者を供養する碑もおかれている。
 今川氏の墓所は狭い。「あの今川でしょう、それにしては狭いんじゃないですか」ロダンが疑問を持つが、戦国大名今川氏は有名でも、江戸時代には旗本クラスに落ちている。それに、この寺は移転してきたことを忘れてはいけない。そのときに縮小されたと考える方が自然なようだ。
 塋域で最も立派な墓所は永井家のものである。墓石の形は吉良家のものと同じ種類のようだが、大きさが違うし、それに墓域も広い。功運寺を開いた本家本元の家である。門前の案内板に名前が書かれていないのは、永井家にしてみれば悔しいことではあるまいか。
 「赤穂浪士編」で書いたことをちょっと繰り返すが、延宝八年(一六八〇年)六月二十六日に、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長に対して刃傷に及んでいる。その永井家であるから、吉良家とは、いわば被害者同士、親戚付き合いをしても良さそうに思える。文字が読めたのは小さな供養塔で、「従五位下・大江朝臣永井氏越中守・尚房」と書かれている。永井氏二代当主であった。

 雨の墓地を粛々と見学し、警備員にお礼を言って寺を出る。この辺は寺町を形成していて、実に寺院が多い。これも移転の産物である。余計なことになるが(私の作文は余計なことばっかりなのだけれど)大規模火災による火防地の確保や、市街地拡張のため、江戸の寺院は頻繁に移転し、次第に郊外に移ってきた。移転にあたっては、地面の下の骨まで面倒は見切れないから、当然、ウワモノ、墓石だけを持ってくる。従って、昔寺のあった場所には骨がごろごろ埋まっているのだ。(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』より)。だからこの辺の寺に江戸時代の人骨はないはずだ。こういう場所でも「霊感の強い人」はゾクゾクするだろうか。
 早稲田通りとの交差点に出ると、その角にある寺が正見寺だ。浄土真宗本願寺派。中野区上高田一―一―十。もともとは赤坂一ツ木にあった寺で、明歴の大火後、四谷南元町に移り、明治四十二年に現在地に移転した。ただ、門前の石柱に「真宗木派」と彫られているのが気に掛る。「木派」というのは何か。今の私の知識では追求できない。
 境内に入れば親鸞上人の像が辺りを睥睨している。親鸞って、こんなに偉そうで無骨な顔をしていたのだろうか。歎異抄のイメージとはずいぶん違うような気がする。
 狭い墓地の奥の方の倉地家の墓所が、宗匠の目的である。倉地家の新しい墓石の横には、古い墓石が二基並んでいる。そのなかの一つが笠森お仙なのだ。ただし一人だけの墓石ではなく、名前が二人づつ並んでいるようなので夫婦の墓なのかも知れない。どれがそうだろうかと、わいわい言っているうち、文政の年号を見つけたので、一番手前だと判断する。没年は文政十年(一八二七)一月二十九日。
 第三回「谷中編」では、冷たい雨の中、大円寺の荷風「笠森阿仙乃碑」前で、お仙の子孫が訪ねてきた話を住職に聞いた。第二十一回「谷中七福神編」ではお仙の水茶屋があっとされる功徳林寺にも立ち寄った。だから笠森お仙はこの会ではかなりお馴染みになっている筈だ。
 宗匠はこの明和の美人に恋い焦がれていて、今日も春信の錦絵二枚をきちんとプリントして持参した。グラビア・アイドルである。春信の美人は、後の浮世絵美人のような妖艶さはなく、初々しくて可憐だ。しかし折角の宗匠の思い入れも空しく、講釈師、チロリン、クルリンはその絵に見向きもしない。残念。
 ネットで見つけた記事を引用する。

 時既に暮春にして、日長く風暖かなり。偶々日暮里を過ぎて、遥かに笠森を望む。春風は衣を吹いて、花は薄暮れの鐘に散り、社前には参詣の人もなく、賽銭箱に投げ入れられる銭の音も無い。俄かにして一朶(だ)の紫雲下り、美人の天上より落ちて、茶店の中に。座するを見る年は十六七ばかり、髪は紵糸(しゅす)の如く、顔は瓜犀(うりざね)の如し。翆(みどり)の黛(まゆずみ)、朱(あか)き唇、長き櫛(くし)、低き履(げた)、雅素の色、脂粉に汚さるゝを嫌ひ、美目(めもと)の艶(しな)、往来を流眄(ながしめ)にす。将(まさ)に去らんとして去り難し。閑(しずか)に托子(ちゃだい)の茶を供(はこ)び、解けんと欲して解けず、寛(ひろ)く博多の帯を結ぶ。腰の細きや楚王の宮様(ごてんふう)を圧し、衣の着こなしや小町が立姿かと疑う。十目の見る所、十手の指す所、一たび顧みれば、人の足を駐(と)め、再び顧みれば、人の腰を抜かす。これを望むに儼然(げんぜん)たり。硝子(ビードロ)を倒さに懸くるが如し、実に神仙中の人なり(太田南畝「売飴土平伝」)
http://kkubota.cool.ne.jp/kasamoriosen.html

 明和三美人と謳われた(その中でも一番の美人であると宗匠から注意が入る)お仙は、人気絶頂の明和七年(一七七〇)頃、ふっつりと水茶屋から姿を消した。そのため様々な噂が流れ、幕末には河竹黙阿弥によって、お仙が殺された姉の仇を討つという怪談まで作られた。実は笠森稲荷の地主であり、旗本御庭番の倉地甚左衛門に嫁いでいたのであった。(産んだ子供は二人から九人まで様々な説がある)

 早稲田通りから住宅地の狭い路地に入り込むと、住所表示は上落合だ。もう新宿区に入ったのだ。さらに坂を下りて行くと今度は中井になってきた。西武線の踏切を渡って道なりに歩いて行けば、左に林芙美子記念館の看板が見える。時刻は二時少し過ぎたところだ。宗匠は三時に記念館の無料ボランティアのガイドを予約しているので、時間調整が必要だ。記念館のちょうど真向かいの「ら・ら・ら」という宗匠お薦めの店でティタイムとなる。この店は「出没!アド街ック天国」に登場したらしい。私はこの番組を見たことがないが、一月三十一日放映分の案内にはこうなっている。

二〇〇七年にオープンした南国リゾート風喫茶店。
一歩足を踏み入れれば、そこはまさに中井のセブ島。トロピカルジュースは全てフィリピンから直送しています。細部にまでセブ島らしさにこだわった装飾は、オーナー・前沢康弘さんの手作り。本業は看板屋さんですが、セブ島好きが高じひとりで作り上げたのでした。

 店の前は庭園になっていて、晴れていれば、そこに設置してある東屋風のところでもお茶が飲める。リーダーはそこにしようかと思ったらしいが、「バッカじゃないの。こんな雨の中で」と講釈師に一蹴された。
 宗匠はママと随分親しそうだ。「だって、もう四回目だから」「今日は奥さんは来ないの」ママの言葉で、下見の時も夫人同伴だったことが判明する。「アド街ック、私も見ました」とロダンがママの歓心を惹こうと声を出す。
 店内にあるものは南国の海の写真、帽子、テーブル、椅子その他「だけど、これだけは実家、茨城から持ってきた」という棕櫚を除いて、すべてセブ島から輸入したものである。この店にきたら、「トロピカル」というものを味合わなければならない。私と宗匠はマンゴのジュース、モリオはグァバ(なんだ?)、岳人とロダンはココナッツを頼んだ。ジュースは三百八十円、これは安いんじゃないか。他の人はコーヒーにしている。マンゴジュースと言うものを初めて飲みました。かなり甘いが果物の甘さなら私でも大丈夫だった。桃に似ているような気もする。ロダンと岳人がココナッツは不思議な味だと首を捻っている。
 途中で若い男女が入ってきたが、私たちが座席を占領しているので、寂しそうに帰って行った。「若者の恋路を邪魔してしまった」と心優しき宗匠は悔やむ。若者には試練を与えて良い。

 いよいよ本日のメインイヴェントである林芙美子記念館に向かう。坂道の左側が石塀で囲まれている。石段のある玄関を通り過ぎて、恐らく通用門だったのだろう、そこから入って受付で百五十円を支払う。「いらっしゃいませ」と中から声がかかったのは、あっちゃんであった。「早めに着いちゃって、見学してたんですよ」
 本日案内してくれるガイドは北田さん、穏やかな優しい物言いをするご婦人である。
 第十七回「豪徳寺・太子堂・駒場編」で、太子堂裏の林芙美子旧居跡を訪ねたときは、ちょうど卯の花腐しの雨の中で、墓地裏の狭い路地の突き当りはいかにも侘しくて、まさに放浪記の世界を彷彿させた。
 この家は流行作家になった芙美子が昭和十六年に建てたものだ。今、住所は新宿区中井二―二〇―一になっているが、芙美子の住んでいた当時は淀橋区下落合四―二〇九六である。

 私の生涯で家を建てるなぞとは考えてもみなかったのだけれども、(中略)幸ひ三百坪の地所を求めることができた。私はまず家を建てるについての参考書を二百冊近く求めておよその見当をつけるようになり、材木や瓦や大工についての知識を得た。
 東西南北風の吹き抜ける家というのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけないことと、茶の間と風呂と厠と台所には十二分に金をかけることというのが私の考えであった。生涯を住む家となれば、何よりも愛らしい家を造りたいと思った。(「家をつくるにあたって」)

 当時は建て坪の制限があったようで、一軒の家は三十五坪しか許されなかった。そのため芙美子名義の生活棟と、手塚緑敏名義の仕事場棟を建て、渡り廊下でつないだ。ただし、その渡り廊下は真ん中が塞がれて通ることができない。
 芙美子はよほど落合界隈が気に入っていて、最初は尾崎翠の紹介で上落合の「堰のある落合川のそばの三輪の家」に住み、そこで『放浪記』を出版した。落合川というのは芙美子が勝手に呼んだ名で、先に書いたように正しくは妙正寺川だ。ついでに、妙正寺川と神田川が落ち合う地だから落合と言うようだ。
 『放浪記』の印税で中国やヨーロッパを遊び歩いた後、今度は「吉屋さんの家に近い下落合」に住んだ。その頃のことをこんな風に書いている。

 その頃はまだ手紙を出すのに東京市外上落合と書いていた頃で、私のところは窪地にありながら字上落合三輪と呼んでいた。その上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。(中略)
 この家へ越して一ヶ月すると、(中略)玄関の三和土の濡れた上へ速達が落ちていたのを、めったにない事だと胸をドキドキさせて読んで行くと、「放浪記出版」と云う通知なのであった。(「落合町山川記」)

 私は冗談に自分の住む町をムウドンの丘だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ちつけているがなかなか住みいい処だ。(「わが住む界隈」)

 上落合にはプロレタリア文学が住み、高台の下落合にはもう少し富裕な人種が住んでいたというのが、上落合に住んでいた頃の芙美子の言い方である。芙美子は平林たい子や壷井夫妻などのプロレタリア文学派と親しかった。彼ら彼女たちが「党」に指導される以前の、むしろアナキズムに近い心情が芙美子の気質に合っていたのだと思う。貧しかった芙美子は上落合に住み、やがて成功してから下落合に移った。

また、大正十一年から十四年には、箱根土地会社が中落合一帯の農地や山林を造成し、高級分譲住宅地「目白文化村」を売り出しました。関東大震災による下町からの人口流入や、昭和二年(一九二七)の西武鉄道村山線開通(高田馬場〜東村山間)などが相まって、落合の宅地化は急速に進んでいったのです、
この頃から落合には、都心の喧噪を逃れ、洋画家の中村彝や歌人の九条武子など、多くの文化人が住むようになりました。彝の周辺には、佐伯祐三などの画家が集まり、交友を重ね、郊外の風景を描きました。また妙正寺川沿いには、若き日の尾崎一雄や林芙美子のほか、プロレタリア系の作家が移り住み、文士長屋や文学結社ができました。(「落合の追憶」新宿区地域文化部文化観光国際課)

 箱根土地会社というのは、堤康次郎設立になる後の国土計画である。
 家の中には入れないので、外側から部屋の中を見ることになる。それでも窓がすべて開け放たれているから、見学に支障はない。屋根の形、部屋ごとに違う天井の張り方など、北田さんが丁寧に説明してくれる。
 家には随所にモダンな感覚が取り込まれている。玄関に造りつけの大きな下駄箱は来客用のクローゼットも兼ねている。押入れも実際には抽斗が内臓されているようで、ロフト形式の中二階の収納庫へは、天井から吊るされている釣り輪を引けば階段がでてくるようになっているらしい。「これって、最新式の収納のモデルじゃないですか」トイレだって水洗である。「自家用の浄化槽を持っているんです」
 「女中って言ってはいけなくて、お手伝いさんと言うんですけど」と北田さんは遠慮がちに言うが、その女中部屋はシベリア鉄道で乗った寝台車をイメージしたというように、木製の二段ベッドの形なっている。「昔の寝台車は三段でした」と碁聖が思い出す。私も大学受験のときは、三段の寝台車の上段に寝て上京した。確か、一等車(もうグリーン車と言っていたかも知れない)の方は二段だったんじゃないかしら。北田さんは三段のほうは知らないと言うので、結構お金持ちの人だということが分かる。
 書斎の和机は残念ながら当時のものではない。「尾道の方に行ってしまって」と北田さんも残念そうな声を出す。座布団の左には脇息、右には木を刳り抜いた火鉢が置いてある。庭に面したガラス戸の上半分には障子が嵌め込まれている。「文章を書くときには明るすぎないほうが良かったようです」
 インド更紗を貼った大きな物入れもある。タイル貼りの風呂場には、檜の風呂桶が、一段下げて埋め込まれているのも考えてある。台所には造りつけの収納棚と、芙美子の身長に合わせた流し台を設置した。「芙美子の身長は百四十三センチでした」「チロリン、身長は」「私はもうちょっと」
 更にそこには、日本で最初に作られた東芝製の冷蔵庫もあったと言う。「東芝製っていうと、ホントの電気の」「そうです。電気冷蔵庫だったそうです」私の子供の頃、電気冷蔵庫を買うまでのちょっとした間、氷で冷却する冷蔵庫というのが我が家にあったが、戦前に既に電気冷蔵庫が存在していたのであった。
 但しその冷蔵庫は、芙美子葬儀の後、葬儀委員長だった川端康成が持って行った。「あの人は半分キチガイみたいだから、好き勝手なんですよ」私は差別語を使用して川端康成の悪口を言ってしまった。
 ついでだから東芝電気冷蔵庫の歴史を遡ってみる。

 日本に最初に電気冷蔵庫が登場したのは大正十二年、三井物産により輸入されたGE社製のものでした。昭和初期には米国製品が相次いで輸入され始め、東芝が最初に電気冷蔵庫の開発を手がけたのも、東京電気においてGE社製の販売を手がけたことがきっかけでした。  輸入品の販売と並行して国産化を企画し、昭和四年(東芝の前身)芝浦製作所にて試作を開始。昭和五年に全密閉型コンプレッサと第一号機の電気冷蔵庫が完成するに至りました。標準価格七百二十円。当時としては小さな家一軒が建てられる価格であり、購入者は上流階級か高級レストランなど非常に限られていました。
 その後、日立,三菱も生産販売を開始しましたが、昭和十二年の全国普及台数は一万二千台程度でした。その後、各社の電気冷蔵庫普及活動が盛り上がってきた時期に、太平洋戦争のための物資不足・生産制限が重なり、ついには昭和十五年、一時製造中止となりました。(東芝電気冷蔵庫七十五年の歩み)

 芙美子が家を建てたのが昭和十六年だから、既に一年前に製造中止になっている。それ以前に製造されてストックされていたものか。それとも、この家に移り住む以前に買っていたものか。
 昭和十年頃の教員の初任給が五十円という記録がある。七百二十円はその十四五倍に相当するか。現在の大卒初任給を大雑把に二十万円と見れば、冷蔵庫の価格は二百八十万〜三百万円ということになる。今ならば自動車を買うような感覚になるか。
 その程度の金額で小さな家が買えた。戦後の住宅不足や列島改造による地価高騰を経験していない時代で、戦前の日本は相対的に家や土地が安かったのである。もちろん芙美子の家のような訳にはいかないが、ささやかな家であれば年収程度の金額で買えるというのが、本来あるべき価格ではないか。
 昭和十年代のモダンジャパンには、高度経済成長の後に庶民の間に普及したものが殆ど揃っていたようだ。おぼろげな記憶で典拠を示せないが、昭和三十五年頃になって、やっと戦前の水準に戻ったと江藤淳が言っていた筈だ。もちろん、戦前にその水準を享受していたのは中流階級に限られる。そしてその「中流」は、「一億総中流」なんて言っていた時代とはレベルが違う。今ならば「上流」と言っても良いだろう。
 死の直前のことだが、昭和二十六年当時、芙美子の月収は百二十万円あったという。大学卒初任給が一万円の時代である。それを二十倍して、現在の金額で年収は二億八千万円ということだ。「下積みが長かったので、仕事を辞めてこの生活が破綻することを何よりも恐れていたんです。だから依頼された仕事は決して断らなかった」それが芙美子の死を速めたのだと北田さんが言う。
 アトリエは展示室になっていて、ここは中に入ることができる。講釈師やチロリン、クルリンの関心は、もっぱら映画や演劇のポスターやパンフレットに向かう。『浮雲』のチラシの前では無知な私に「これ、知らないの。森雅之よ」とチロリンが笑っている。「でんぐり返りができなくなったんだったってさ」これは「放浪記」の森光子の話だが、八十歳を超えた女性にそれを期待するのが悪いだろう。
 芙美子の自画像を指さして「私は緑敏の絵より上手いと思います」と北田さんが笑う。美術に弱い私の鑑定だから信用しなくてもよいが、原色の使い方がマチスの風に似ているか。緑敏の「芙美子像」の方は、どちらかと言えば表現派かな。「ここに来てからは、緑敏さんは絵を描くと言うよりも、芙美子の秘書役としての仕事の方が中心だったようです」
 ヨーロッパ滞在中の芙美子から緑敏に宛てた手紙を見てみる。

リヨクさんや  巴里のお芙美さんから小包つきましたか。
よろこんでゐるだらう。
それからそちらの生活費だが、もうないだらう。そしたら、改造社へ私の名で手紙出しなさい。原稿料「改造」にやつてあるのだから。
今日は婦人世界に二十六枚かいた。
早くかへつて、大馬力で仕事する。とても野心家になつた。長編をかきたい野望に燃えてゐる。少し君の手紙が絶へた。
一枚の紙にぴつちりかきなさい。重くていつも割まし取られる。
元気でゐてほしい。私はもうそろそろ金なしだが、仕事のプランがやつと定つたので、何くそと思つてゐる。一ケ月の汽車旅は一ケ月の疲れの、、、つなみがあつた。
もう元気だ。うんとかせぐ。二月始め頃まで、、、、かりて心棒しなさい。岡山にもむしんしてよろしい。いま皆が、もういちど貧しく叩かれるべきだ。私の心に仕事のプランが出来た事をよろこんでほしい。
日本の奴たちにめにものみせてくれる。

 随分乱暴な書き方だが、こうした表現を受け入れる夫(但しまだ籍は入れていない)であれば、姉と弟のような関係に近かったのではないだろうか。芙美子がどんなに無茶なことをしても(他の男を追いかけていても)、その二十三歳から死ぬまでを見つめ続けていた緑敏の包容力も感じられる。二人が正式に夫婦になったのは、昭和十九年三月のことである。昭和二年に同棲を始めてから、これだけの年月が二人には必要だったか。前年十二月に産院から生後間もない男児を貰い受けて泰と名付け、緑敏とともに芙美子の籍に入籍した。

 「放浪記」で芙美子が流行作家となる四年前に知り合い同棲するようになった緑敏は、女の才能をねたむこともなく、金銭の苦労も平等に分かち合おうとした。かつて文泉堂版全集の編集に携わった研究者の今川英子さん(北九州市立文学館開設準備専門研究員)は「緑敏の包容力で、芙美子は生来の開けっぴろげな陽性の気質を薄皮をはぐように取り戻した」という。
 画才に見切りをつけた緑敏は芙美子の秘書役に徹した。雑事万端を引き受けただけでなく、乳飲み子でもらいうけた養子の子守もしていた。福江さんの記憶では、執筆中に辞書を引き、着付けを手伝うのも緑敏だった。母性で芙美子を包みこむような献身である。(保科龍朗「愛の旅人」asahi.com)

 高群逸江を支えた橋本憲三もそうだろうと思うのだが、天才的な女性のそばには時々こういう献身的な男性が現れる。緑敏は芙美子の死後もその愛した家を手放すことがなかった。ただし、折角養子に貰って溺愛した泰は十五歳で死んだと言う。その泰のために備えたアップライトのピアノがおいてある。
 門から玄関まで少し登りになった石段に左右には孟宗竹が植えられている。「最後は、この石段を上るだけでも苦しかったようです」芙美子の死因は心臓麻痺であり、心臓弁膜症の持病があった。
 道祖神や何かの石仏が点在しているのは、「行商の人が売りに来たものを買い取ったんですよ」と北田さんが教えてくれる。秋には紅葉が真っ赤になるというし、もう少しすれば桜も美しくなるそうだ。庭の片隅には小さなスミレが咲いていた。

下萌えや本意なる芙美子記念館 《快歩》
放浪の果ての棲家や菫花  眞人

 漸く雨が上がってきた。およそ一時間弱の見学とガイドは充分楽しめた。これで百五十円は安い。偉い。だから受付に戻って「生誕百年記念・林芙美子展」千円也を購入する。それぞれの花の季節にまた訪れてみたいと思わせる家だ。

 妙正寺川に出れば白い花が咲いている。梅ではないよね。「これって桜ですよね」と美女が改めて確認する。今年初めて見るだろうか。川にはここでもカルガモが浮かぶ。川に沿って中井駅に向かう途中、鯛焼屋を見つけた美女が異常に反応する。「待っててあげますよ」と宗匠が言うが、「だって猫舌だから歩きながらなんか食べられない。残念だわ」時間があれば店に座り込んでしまいそうな勢いである。
 タコヤキ屋の看板を見つけて、講釈師がこれは有名な店であると宣言する。「タコヤキよりは鯛焼の方が良いわ。餡子は偉い」美女はあくまで鯛焼に執着している。そんなに好きなのか。「これからは私のことをアンコと呼んでください」
 宗匠の万歩計で一万五千歩、およそ九キロというところか。「ここで流れ解散をします」という宗匠の宣言で、中井駅から西武線に乗り込む。高田馬場駅で、反省する必要のない人とは別れ、私たちが真っ直ぐに向かうのは毎度御馴染「さくら水産」であった。

眞人