第二十三回 田園調布・等々力・自由が丘編 平成二十一年五月九日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.05.16

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 「われわれの仲間に、この高級住宅地に相応しい人はいないでしょうね」本日の主催者ダンディの言葉に誰も反論できない。「愚痴じゃなけれど世が世でアーレーバー」(『大利根無情』)平手造酒のように呟いてみても無駄である。世が世であっても、私の境遇がそんなに変わっているとは思えない。
 ダンディ、講釈師、宗匠、ロダン、ドクトル、チイさん、岳人、碁聖、モリオ、あんみつ姫、チロリン、クルリン、ハッシー、ミッキー、私。それに本編初登場のシノッチとマルちゃん(仮称。どうも良い呼び名が思いつかない)である。と言っても里山ワンダリングではお馴染みだ。
 チイさんは随分久しぶりだ。「どうしてたの」「遊んでた」こんな好天気だから岳人は山に行きたかっただろうに、義理を感じてここにやって来た。こうして田園調布駅には高級住宅地に縁のない十七人が集まった。
 まだ出発もしないうちから、ハッシーがチョコレートを配り始めた。「だって、暑い日だから溶けちゃうでしょ。お煎餅もありますからね」昨日までとはうって変わって、今日は晴れ上がり、夏日になると予想されている。「私と姫ですよ。雨が降る筈がない」ダンディは得意である。
 「だいたい、田園調布を歩くのにリュック背負ってきてどうするんだ。バッカじゃないの」講釈師の毒舌はここから始まる。「だから田舎モンだって言われるんだ」
 確かに岳人はビジネスバッグのようなショルダーを肩にかけているし、宗匠も割に小さめのショルダ―バッグである。私もどうしようかと考えたのだが、等々力渓谷を歩くことでもあるし、何と言ってもリュックが一番楽なのだから仕方がない。田舎モンで何が悪い、私は開き直ってしまう。
 本来、中流階級向けの住宅地として生まれた田園調布だが、当時の「中流」は、今ならば立派に「上流」と言い換えてよい。

 田園都市はイギリス人都市計画家、エベネザー・ハワードがその著書「明日の田園都市」で提唱したもので、ハワードの思想はヨーロッパで二十世紀の都市づくりや集合住宅の設計などに大きな影響を与えた。明治財界の大御所で、田園調布生みの親、子爵、渋沢栄一は数回の欧米視察で田園都市の必要性を感じ、一九一五年(大正四年)、パナマ運河開通記念万国博覧会に出席のため渡米前に、田園都市作りの企画検討を始めた。
 米国からの帰国後、渋沢栄一は営利活動から身を引いたが、ことあるごとに田園都市構想を説き、一九一八年(大正七年)に計画ができた。引退していた栄一に代わり、翌年、その息子の秀雄が田園都市会社の支配人となった。秀雄はハワードの考えに基づいて作られたイギリスの町、レッチワースを訪れるなど計画の具体化に向け、邁進した。(中略)
 田園調布の町名には、大田区の田園調布一丁目〜五丁目・田園調布本町・田園調布南、世田谷区の玉川田園調布一丁目,二丁目がある。現在、高級住宅街のイメージで語られる際の「田園調布」とは、駅西側に広がる扇状の街路付近の大田区田園調布三丁目を中心とした一帯を指すが、かつては田園調布一丁目から二丁目にかけての国分寺崖線に面した部分、及び田園調布四丁目から五丁目にかけての多摩川に面した国分寺崖線の辺りに大邸宅が集中していた。現在、多摩川駅周辺の斜面に点在するマンション群はその名残である。(ウィキペディア「田園調布」)

 ハワードの理想はこんなものである。

 重工業が発展するロンドンには人口が集中し、環境悪化と貧困の拡大を招いていた。これを憂いたハワードは、アメリカ・シカゴのガーデンシティー構想から刺激を受け、「都市と農村の結婚」を目指して一八九八年に「明日-真の改革にいたる平和な道(To-morrow;A Peaceful Path to Real Reform)」を出版した(一九〇二年にわずかに改訂され「明日の田園都市(Garden City of To-morrow)」と改題)。
 これは人口三~五万程度の限定された規模の、自律した職住近接型の都市を郊外に建設しようとする構想である。そこでは住宅は公園や森に囲まれ、農作業などをするスペースもある。豊かな者や貧しい者、多様な家庭のための賃貸住宅がある。(ウィキペディア「田園都市」)

 渋沢の田園調布だけではなく、阪急の小林一三による桜井駅(箕面市)、千里山(吹田市)などの住宅地開発も、当初の理想はこの辺りにあるようだ。しかし、おそらく渋沢たちが当初想像しもしなかったほど膨れ上がった東京で、職住近接なんて夢の又夢である。彼らが住人として想定していたのは都心部に勤めるサラリーマンであったが、普通のサラリーマンがこの地域に一戸建ての家を持つなんてことも、既に夢まぼろしの世界である。ダンディの言う通り、ここはまさに「高級」住宅地であって、われらには縁がない。
 さて、渋沢の計画が出来上がった大正七年と言えば、世界で四千万人が死んだと言われるスペイン風邪大流行の年でもあった。第一次世界大戦終結の年であり、シベリア出兵が強行され、富山を震源地とした米騒動が勃発した。鈴木三重吉の『赤い鳥』が創刊された。森永ミルクチョコレートが発売され、モボ・モガたちは『コロッケの唄』を歌った。しかし大正モダンの影で、農村の疲弊は拡大していく。そういう時代の田園都市構想であった。
 渋沢家が購入したとき、田園調布の地価は坪当たり四十二、三円であった。(http://www.denden-net.com/history/danwa/danwa2.htmより)。この頃の物価は大正七年を境に急上昇しているのだが、大正十年の大卒初任給が五十円という記録がある。
 (http://edo-ram.hp.infoseek.co.jp/teito/CoC_teito_price.htmlより)
 現在の給与ベースで比較して坪当たり大雑把に十八万円弱とすれば、百坪の土地を購入しても千八百万円か。無茶苦茶な高額と言うわけでもない。平成十七年の川越市の平均地価は二十万円から二十四万円程度だから、それよりも安い。
 ただ物価の比較と言うのは何を基準にするかで様子が違ってくる。もりそば一枚十銭を五百円としてみるか、これならば五千倍すればよい。四十二円を五千倍すれば、二十一万円になる。大工の手間賃ならば二円十銭、これを一万四千円としてみれば六千五百倍となり、四十二円は二十七八万円か。つまり田園調布の坪あたりの地価は現在価格で十八万円から二十七、八万円の間ということになりそうだ。これなら東京の地価としてはむしろ安いと言えるだろう。
 だいたい土地の価格がこんなに上がったのは戦後の、それも田中角栄の列島改造論以来のことで、それまでは、そんなに酷いものではなかった。
 「あの頃は借家を移り住む形が一般的だったんだろう」モリオの言う通り、借家は充分あったから、わざわざ土地を購入すること自体が、ある種のステータスの象徴であったと思われる。

 「これがもともとの駅だよ」二階建て洋館風の駅舎は、複々線化のために使用停止になった後、工事完成後に復元されたものだ。「二階は喫茶店になってたんだ」これを潜って西側にでる。ダンディが配ってくれた地図を見ると、半円形に道路がつくられ、駅から放射状に銀杏並木が伸びている。田園調布の名は、荏原郡調布村に由来すると記された案内が立つ。
 調布の名は言うまでもなく律令制度の税制、租庸調の調に由来する。律令制度の根幹をなす公地公民制はごく短期間で崩壊したから、それに基づく税制も又すぐに原則とはずれてしまうのだが、本来、租は米を納め、庸は労役、調は繊維製品を納める。
 その中で絹を納めるのを調絹、布(麻、苧・葛など)を納めるのを調布と言った。絹だけは特別扱いなのだ。
 田園調布とは別に調布市や布田という地名もあって、この辺りはその布の産地が広がっていたのだと思われる。布を作るためには水の存在が不可欠である。原材料の植物を水に晒して繊維質に解さなければならないのだ。多摩川の存在が大きかったということだろう。
 外から見るだけで何とも言えないが、それぞれの敷地自体はそれほど広いものではないようだ。和風の家はあまりない。「長嶋はさ、庭の手入れを頼むと必ず天麩羅蕎麦をだすんだよ」こういう知識の源泉は何だろう。すぐに蕎麦屋が見え、「それじゃあの店でしょうか」とダンディが頷く。
 ドイツ人や中国人らしい名前の表札も見える。外車に歓声をあげるのは講釈師だ。人の歩いていない、車もあまり走らない静かな住宅地を騒がすのは私たちだけだ。

  静かなる初夏住宅街にリュック行く  眞人

 扇状形の道路の一番外側の辺りで、宝来公園と言う小さな公園に出た。ここから先はトイレがあまりないので休憩を兼ねながら園内を散策する。入ったところからかなり高低差があり、下まで降りて行くと小さな池に出た。黄色い花菖蒲(後で宗匠が調べた黄菖蒲というものだったらしい)が咲き、亀が五六匹甲羅を干している。ドクトルは水が湧いているようなところに手を入れて調査している。「どうも自然の湧水じゃない。水道水だな、あれは」

 本公園は、多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部村の丘陵に位置し、付近は、亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいます。園内には、梅、桜をはじめクヌギ、シイなど、約七十種千五百本の樹木が繁り四季折々の自然の美しさは、今も武蔵野の面影を残しています。
 大正十四年、田園都市の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布株式会社は、街の一角の潮見台の地を公園用の広場として残しました。(大田区「宝来公園の由来」)

 「潮見台」というからには、ここから海が見えたのだろうか。それとも多摩川の水を「潮」としたものか。上の方の枝からは白い花が下をむいて咲いている。これはエゴの木であると教えられる。
 公園を出て歩き始めたところで、「この辺りからは普通の家になります」と言うリーダーの言葉はなんだかおかしい。七十三平米の団地に住んでいる私にしてみれば、庭の広い家は充分に「普通」以上である。どの家もセコム契約のマークを貼り付けている。人通りもなく庭は高い塀で囲まれているから防犯は必要なのだ。「おい、一軒だけALSOKもあるよ」「セコムだらけの市場で、営業マンが必死に受注して」
 玉川浄水場の門は閉ざされ、中に入ることができない。
 「玉川と多摩川と二つあって紛らわしい」モリオが文句を垂れる。確かにそうで、本来これは多摩川なのである。玉川は昔からその別称であり、また同時に町村合併による人工的な名称でもある。

 江戸期には、この地域に用賀村、瀬田村、上野毛村、下野毛村、等々力村、奥沢村、尾山村、野良田村の八ヶ村が存在した。現在の神奈川県川崎市高津区・中原区の一部もこれに含まれる。
 一八八九年(明治二二年)、市町村制の施行により、これらが合併し、玉川村が成立した。旧八ヶ村は、玉川村の大字となる。玉川の名は、各村の関係する多摩川の別名からとられた。(野良田は、玉川中町(現・中町)。下野毛は、現・野毛及び川崎市高津区下野毛の一帯である)
 一九一二年(明治四五年)、府県境を変更し、大字等々力の多摩川以南を橘樹郡中原村に、大字瀬田・下野毛の多摩川以南を橘樹郡高津村にそれぞれ分離編入。逆に橘樹郡高津村の大字諏訪河原字向河原、大字北見方の多摩川以北を玉川村に編入。
 一九三二年(昭和七年)東京市の市域拡張により、玉川村は、周辺の駒沢町、世田ヶ谷町、松沢村と合併、東京府東京市世田谷区が成立する。(ウィキペディア「玉川地域」)

 前を歩いていたチイさんが何故か藤沢秀行の話題をもちだす。シュウコー先生はたまたま昨日亡くなったのだ。無頼派の棋士である。昭和元年に生まれて、アルコール中毒、ギャンブル依存、借金まみれの、社会人としてはどうしようもない人間であったが棋士としては天才であろう。この辺は碁聖に語ってもらいたいところだ。棋聖六連覇を果たした。二十三世本因坊坂田栄寿のライバルでもあり、昭和囲碁界の歴史を飾る重要人物であった。呉清源、木谷實、坂田栄男、藤沢秀行、二十二世本因坊高川秀格。私は彼らの本領を知るほど碁に詳しくはないけれど、昭和の碁の歴史は面白い。
 さて、ここでダンディの方向感覚が狂ってきた。「おかしいですね、行きすぎました」「なんだよ、二人で下見をしたんじゃないの」リーダーとあんみつ姫が一緒に下見をしているのだ。「だってあのときは、高校まではダンディがすいすい行きましたから、私はただついて歩いただけ」田園調布雙葉を目指しているのだが、曲がり角が分からなくなってしまったのだ。「俺なんか、一度歩いたところは死ぬまで忘れない」確かに講釈師ならそうであろう。
 道を戻ると、外壁は錆びたトタンで覆われた、いまにも崩れ落ちそうな本屋があった。こんな店で生活することができるのか。「近所の人が雑誌を定期購読してるんだよ」「老夫婦がやっていて、配達もできなくなってしまったんじゃないか」「みんな地元を大事にしてるから、ちゃんと買いに行くんだ」本当かね。それにしても、この辺には他に商店らしいものが全く見えない。コンビニだってない。田園調布の人は買い物はどうしているのだろう。
 坂道を下り、また坂道を上ると汗が出てくる。宗匠が「岳人の訓練に良いんじゃないの」と笑う。「この程度じゃ岳人には物足りないでしょう」

五月晴道に迷ふも鍛錬と 《快歩》

 ダンディがちょっと悩みながら道を探していると、「これじゃ昼になっても着かないよ、ダメだな」と口が追いかける。「地図を渡してあるんですから、みんなで辿って行けば良いじゃないですか」美女の穏当な提案にも「ダメだ、それじゃリーダーの責任が薄くなってしまう」と講釈師はニベもない。講釈師の悪口に対抗できるのはロダンしかいないが、昨日の酒のせいか、今日のロダンは随分おとなしい。しかし住所表示と地図を見比べればそんなに難しいわけではなく、坂を下り上って、ちゃんと雙葉にたどり着く。「なんだ、これなら、さっきの道をまっすぐ行けば良かったんだよ。何も登り下りをしなくっても」
 校庭の金網のところにはムラサキカタバミが群をなして咲いている。この花の名を、私はつい最近妻に教えられたばかりだ。遠目でサクラソウじゃないかと口走った私は、「葉の形が全然違います」と冷静な妻にバカにされたのである。

夏の日や迷ひ辿りて赤き花  眞人

折角辿り着いた雙葉高校だが、ダンディの目的はここに入ることではなかった。名門と呼ばれるこの女子高校に、我々が足を踏み入れられる筈がないものね。私はこういう名門学校の事情に疎くてダメだ。土曜日だからだろうか、お嬢様らしき人影はない。
ここは宇佐神社を目指すための、途中の単なる目印だったのである。地図を見ればすぐそこだ。
住宅地の民家の塀から伸びている赤い花は「瓶を洗うブラシみたいだろう、だからブラシの木」本当だろうか。そんな正式名称があるのだろうか。「あっ、また俺の言うこと信じない。本当にこの連中はヤになっちゃう」怒った講釈師はどんどん先に行ってしまう。調べてみると確かにブラシノキというものがある。フトモモ科ブラシノキ属である。
すぐそばには、熱帯植物のような黄色と青の鮮やかな花も咲いている。「ゴクラクチョウカです」これはバショウ科の極楽鳥花であった。なるほど鳥が嘴を伸ばしているような形でもある。
ところが傳乗寺の入口のところで、先を行く集団の姿が見えなくなった。「おかしいですね。神社の方に先にまわったのかしら」道を回り込めば、寺のもうひとつの入口から先頭集団の姿が見えた。境内には新しい五重塔がひときわ目立つ。

 松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(一三一六)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本道とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人日は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。
 なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主大平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたともいい伝えられている。さらに時代は下り、江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。(寮の坂由来)

 この北側には宇佐神社がある。社殿の後ろの森が古墳跡であるようだ。社伝によれば、源頼義が前九年の役出陣に際し、この尾山(昔の尾山台)に陣を張り勝利を誓った。そして凱旋の帰り道に八幡社を建て神に勝利を報告したのが起りであるという。頼義、義家にまつわる神社仏閣は数多くあるから、どれが本当かは実は良く分からない。ただ、この辺りが古代から中世にかけての基幹道(奥州道かな)であったことは間違いないようだ。
 石の鳥居はごくシンプルな、全てが直線で作られている神明鳥居に近い。そこを潜って石段を上って境内に入れば、隅には庚申塔が一基、小さな祠に収められている。青面金剛の右後ろの手が十字架のようなものを持っている。「十字架は珍しい」というのがダンディの案内だったが、これは十字架ではなく剣だと思う。宗匠とロダンが熱心に観察しながら何臂だったっけ」と聞いてくる。一面六臂であろう。年代は実際には確認できなかったが、ダンディの調べでは寛延元年(一七四八)の銘を持つと言う。
 本当にいつも感心するのだが、宗匠、岳人、チイさんは必ずお賽銭を上げ、お参りする。日本人の正しい姿であろう。私としては、岳人の上に一日も早い幸が来ることを祈るばかりだ。(そのために何をするわけではないけれど)
 「それじゃ少し早目の食事を目指します。十五分程でしょう」「ダメ、二三倍にみておいたほうが良い。また道を間違えるから」ここから少し下れば丸子川である。川に沿って狭い道が続いている。丸子川を検索してみる。

 東京都世田谷区岡本三―二五にある湧水を水源とする(東京都世田谷区岡本の東名高速道路より下流に位置する仙川の新打越橋付近で取水され、地下の浄化装置を通った水が丸子川に流されているとの説があるが誤りである)。仙川の新打越橋から水神橋までは仙川の護岸沿いに暗渠(西谷戸橋付近からは開渠)として流れ、水神橋付近で仙川から離れる。周辺は整備された丸子川親水公園として南東へ流れ、世田谷区岡本で谷戸川を合わせる。さらに南東へ流れ、世田谷区野毛付近で谷沢川と交差し、大田区田園調布付近で多摩川に合流する。(ウィキペディア「丸子川」)

 住宅地のすぐそばをこんな細い川が流れているのはなかなか雰囲気が良いが、狭い道を時々車が通り抜けるから注意しなければならない。両岸はコンクリートではなく、石垣のような形で保護されている。カルガモが泳ぎ、川べりには花菖蒲や様々な花が咲いている。
 枝に四十雀(シジュウカラ)が止まっていて、目敏い人はすぐに声を上げる。「アラフォーだね」と咄嗟に応じるのは碁聖であった。
 薄紅の小さな四弁花はユウゲショウである。「増えちゃって大変なのよ」ハッシーは迷惑な雑草のように言うけれど、可憐な花じゃないか。「これは外来種です」えっ、そうなのか。「外来種なのに夕化粧なんて和風じゃないの」ロダンも驚く。アカバナ科マツヨイグサ属。原産地は南米から北米南部。日本には明治の頃に観賞用としてもたらされた。我が家の近所でも簡単に見られるようになっている。
 紫色の三弁花はムラサキツユクサである。「えっ、私の思っているのとは違う」チイさんは不満だが、美女のお墨付きをもらったから大丈夫だ。しかしこれも実は外来種である。と言うよりも、遡ってみれば日本固有の種を探す方が難しいのではあるまいか。「この頃、植物にも随分詳しくなったみたいね」ハッシーとミッキーのお世辞にも慢心してはいけない。三歩進んで二歩下がる。うっかりしていると、更に後退してしまう。
 名前が分からないものは全て「園芸種でしょ」の一言で片付けられてしまうから、「便利な言葉だな」とモリオが笑う。それにしても、この雰囲気は里山ワンダリングである。江戸東京歩きのようではないね。

  細流の緑涼しき昼なりき  眞人

 川沿いに歩くと「東京都市大学」なんていう、何の個性もない名前の大学キャンパスに出た。これは元武蔵工業大学で、今年四月に名称を変更したのだ。「五島育英会ですね」相変わらずダンディはよく知っている。この大学と亜細亜大学(但し法人は別)が、五島慶太の創設にかかる。しかし、この名前はなんとかならないものかね。首都大学東京(旧都立大学)と言い、この頃の大学経営者の日本語感覚は少しおかしいのではないか。私が知っている最悪の名称はノースアジア大学というものだが、こんなことを言えば差し障りがあるか。
 「たまき」と言う食堂に入ったのは十一時半だ。道路側が開け放たれた明るい店で、まだほかに客はいないから少しづつ分散して席に座る。講釈師は一人だけで一番端っこにふんぞり返っていて、女性陣に一緒に座ろうと誘われても頑なに拒否していたが、「だって他のお客さんが来たら迷惑でしょ」の一言で、ダンディ、岳人、碁聖の席に合流した。
 一番早かったのは私とモリオと岳人の注文した麻婆豆腐だった。「俺は座る前に注文した」と言う講釈師の注文は、しかしそんなに早く出てこなかった。
 次第に他の客も入り始め、ほぼ満席状態になった。向こうの方で若い客が食べているナポリタンの皿は山のようだ。ダンディの食べている麺の量も多いし、碁聖なんかは食べきれないようだ。
 一番ではなかったが、しかしいつものように「早く行こうぜ」と急かす人の号令で外に出る。麻婆豆腐はかなり辛かったから汗が出てくる。朝、長袖をリュックにしまいこんで半袖にしたのは正解だった。碁聖の長袖シャツは少し厚手のようで、「こんなに暑くなるなんて思わなかった」とぼやいている。

 協栄生命(ジブラルタル生命)の建物を見ながら谷沢川に沿って等々力渓谷に入って行く。私は初めて来たのだが、世田谷の住宅地に近いこんな場所に、これだけの渓谷が残っているのには驚いてしまう。

 谷沢川が等々力付近の国分寺崖線を流下する際に削り形成した渓谷で、台地面との標高差は十メートルほどである。周辺で宅地化が進んだ今もなお森林が残り、斜面の各所より湧水が見られる。
 世田谷区桜丘五丁目付近の湧水に源を発し、上用賀地内の複数の湧水を合わせ、世田谷区中町を経由。世田谷区等々力付近の国分寺崖線を切れ込むように侵食してできた等々力渓谷を流れ、世田谷区野毛付近で丸子川(六郷用水)と交差し、世田谷区玉堤で多摩川に合流する。(ウィキペディア「等々力渓谷」)

 「轟夕起子だよ」言うまでもなく講釈師である。それにつられて「轟先生っていう漫画もあった」とダンディが続ける。「字が違いますけどね」それでも等々力の地名は本来「轟」に由来しているのは間違いないだろう。不動の瀧音が轟いたのである。
 赤紫の花はシラン、黄色い小さな粒を固めたように咲いているのはハハコ草(御形)。ドクトルは貝塚爽平『東京の自然史』を片手に持ち、ロダンと一緒に地形を観察しながら歩いて行く。「泥なんかに興味持って、おかしいんじゃないの」どこから毒舌が始まるか予想がつかない。地質を「泥」と表現するのもおかしい。「良いじゃないですか、何に興味をもっても」やっとロダンの反論が聞こえてきたが、「暗いよ、泥が好きだなんて」と一蹴されてしまう。
 最初は回遊式の庭園のようなところを登っていく。途中はミカン畑になっていて、所々に黄色い大きな実がついている枝には、白い、何となくぼてっとした感じの花が咲いている。「これがミカンの花ですか」香りが高い。

蜜柑の花の香る渓谷日の零れ 《快歩》

 私と碁聖は『みかんの花の咲く頃』(加藤省吾作詞、海沼實作曲)を思い出す。みかんの花が咲いている。思い出の道丘の道。
 登りきったところで「スタンプの好きな人がいましたよね」とダンディが声をかけると、講釈師がすっと右手を挙げる。書院建物の縁側のところにスタンプが置いてあり、座りこんで弁当を使っているグループもいる。建物の中には等々力渓谷の様々な資料があるらしいが、入ることができない。
 仕切り戸の外には芝生が広がっていて、弁当を使っている人も多い。しかし、我々は芝生にはいかず、また下に降りて行く。
 不動の瀧と言っても、崖の中腹からは細い水が二本流れ落ちているだけだ。その水が湧き出しているらしい辺りに、不動明王と制多迦童子、矜羯羅童子の像が立っている。ただ、この像は青銅なのだろうか、緑色だから周囲の若葉と紛れて見落としてしまうところだった。

 若葉陰か細き瀧に不動尊  眞人

 かつては轟々と流れ落ちる滝だっただろう。今ではこんな細くなってしまった。その脇には稲荷堂が立つ。
 ここからは山道を登るようになる。途中の岩窟は、中がコンクリートで保護されてしまっているが、中の像は右手に経巻、左手に錫杖を持っていて、髪は長い。顔は磨滅していて判別できないが、これが役の行者だろうか。
 更に登って行けば等々力不動尊である。瀧轟山明王院満願寺別院。

 当山の不動尊は役の行者の御作になる。役の行者は修験道の開祖で、大和を中心に山岳修験の行を極めていたが、その行の中で不動明王を刻まれた。以来、大和にあって大きな霊験で尊崇を集めていた。
 平安時代の末、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人の夢にこのお不動様のお告げがあった。「武蔵野國、調布の陵に結縁の地がおる。永くその地に留まり衆生を済度せん。」
 覚鑁上人は夢のお告げに従い、お不動様を背負って東国へ向かった。やがて武蔵野國に入ると、夢に見たのと同じ渓谷が目の前に広がった。瑞雲がたなびき嶺をおおう正しく霊地である。
 覚鑁上人が手に持っていた錫杖で岩を穿つと、そこから清らかな滝が溢れ、その水しぶきの中に金色に輝く三十六童子が現れた。上人はその中央に、捧持していたお不動様を安置されたのである。
 それ以来約千年間、この滝は如何なる干ばつにも涸れず、等々力の滝、不動尊利剣の滝とし「修行の道場」として今に受け継がれている。
 http://www.isbs.co.jp/hudou/hudou17.htm

 役の行者の御作なんていうのは眉唾だし、それに覚鑁が不動像を背負ってここまで来たというのも俄かに信じられない。覚鑁上人は真言宗中興の祖であり、同時に新義真言宗の祖である。かなり忙しかったらしいから、武蔵国まで来るような暇はなかったんじゃないか。不信心な者は疑い深くていけないと叱られてしまいそうだが、ついでに基礎知識を得ておこう。

 覚鑁(かくばん)は、平安時代後期に活躍した真言宗の高僧で、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡号興教大師。肥前国藤津庄(現佐賀県鹿島市)生まれ。 父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。
 平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した。即ち、西方極楽教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であるとした。真言宗教典の中でも特に有名な密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)、空の思想を表した月輪観(がちりんかん)の編者として有名。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった五輪九字明秘密釈の著者でもある。(中略)
 三十六歳のとき覚鑁は真言宗総本山である高野山の現状に眼を止める。当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が蠢く有り様であり、真言宗が腐敗衰退した現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。(中略)
 高野山金剛峯寺に大伝法院を建立し座主に就任したのを皮切りに、金剛峯寺座主にも兼ねて就任し事実上同山の主導権を制覇、真言宗の建て直しを図るが、この強硬策に当然に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に一一四〇年、覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払ったうえ金剛峯寺追放という凶行に出る。(中略)
 高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に根来山(ねごろさん)に退いて根来寺を建立、大伝法院や密厳院を移し、真言宗の正しい有り方を説き独自の教義を展開する。
 一一四三年覚鑁の死後、彼の弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、再び根来山に戻り頼瑜を中心として覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」へと発展させていく。(中略)
 後に根来山は豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅、生き延びた一部の僧たちは奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院において新義真言宗の教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺派)、真言宗豊山派、智山派の基礎となった。(ウィキペディア「覚鑁」)

 明日は大曼荼羅供の祭式があるようで、それに参加する稚児を募集する立て看板がたっている。崖を見下ろす側には、展望台なのか、よく分からない建造物が広がっている。「これじゃ木に遮られて見えないよ。これが展望台かい」ドクトルが不満におもう。あるいは二階建ての桟敷席であろうか。いまは、二階には上がれないように縄が張ってある。明日の祭りに観客を呼び込むものなのかもしれない。
 「吹流しの色が五色なのはどうして」チイさんの疑問に、仏教の五大ではないかと答えたのは少し良い加減であった。幟のそれぞれの色は方角を表すと同時に、金剛界五仏を表わす。白は世界の中心に位置する大日如来、紫(東)は阿閃如来、赤(西)は阿弥陀如来、黄(南)は宝生如来、緑(北)は不空成就如来である。
 煙草を吸うために鳥居の外に出てみると、外はもう環状八号線だ。今までの等々力渓谷の景色とあんまり違いすぎて不思議だ。
 おかっぱ髪の稚児大師像は御影石を彫り上げたもののようだ。「讃岐の生まれです」「善通寺ですよね」みんなよく知っているね。

宝亀五年(七七四年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏、幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を六月十五日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である(ウィキペディア「空海」)

 もう一度下に降り、不動の瀧を振り返った宗匠が、「あそこに不動明王がいるんだ」と今更のように気づく。木橋を渡り横穴墓を見に行く。第三号横穴古墳の入口がガラスで遮られているのは、先日三鷹(出山遺跡)で見た横穴と同じだ。ガラスのところは、本来は石でふさいである。案内板には、衣服を身につけた三人が奥の方に横になっていて(死者とは見えない)、穴の口の方で数人が拝んでいるような格好している様子が描かれている。
 「家族三人、一緒に死んだのかい、おかしいな」ドクトルに言われるまでもない。これを見ると、三人が同時に死んだとしか思えないのだが、これはおかしいね。私は古墳に詳しいものではないけれど、奥の方から順に死者を葬っていったのだろうと思う。そのため、入口の石は取り除けやすいように積まれ、死者が出るたびに、穴に葬るのだ。
 第一号、第二号の矢印に沿って探してみるが、斜面に標柱が立っているだけで何もない。よく見ると、こちらのほうはいずれも「跡」であった。つまり埋もれているのだろう。
 川に戻って更に北に向かい、環状八号線の下を潜って行く。ロダンは崖の粘土質や地層を確認している。それでは私も貝塚爽平を読んでみよう。

(前略)谷壁には、上から立川・武蔵野ローム層、M2砂礫層、粘土層(東京層の一部といわれているが、あるいは別の地盤かもしれない)、凝灰質泥岩(上総層群)がみえ、東京区部としては比較的よく地層の観察ができる。段丘礫層と粘土層の間からは湧水があり、それは等々力不動の瀧となっている。(中略)
 等々力渓谷は、地層が見えるだけでなく谷地形としても面白い。それは谷沢川はもとは呑川の支流の九品仏川の上流であったが、等々力付近に南から谷頭浸蝕をしてきた谷沢川に流水を横取りされたのである。こうして九品仏川の上流を「斬首」した川は水量をにわかに増して下刻をたくましくし、等々力渓谷をつくったのである。(『東京の自然史』)

 「自由学校ってあったろう、誰だっけ」「獅子文六です」「バラックに住む連中の話。映画にもなったじゃないか」映画は見ていない。本は昔読んだが記憶は曖昧だ。それが、こんなところに関係していたのか。講釈師の知識は恐ろしい。「ゴルフ橋っていうんです。何故かはわからない」と美女が言う赤い橋が見えてきた。調べてみると、昭和初期にこの辺りにゴルフ場をつくるという暴挙が行われていたのだ。ついでに、講釈師の言葉の正しいことまで証明される。

 現在の谷沢橋付近にゴルフ場の入り口をつくり、大塚山古墳だけを残し、まわり一帯がゴルフ場として昭和六年六月から昭和十四年まで使われました。初めは玉川ゴルフコースと言い、開業間もなく等々力ゴルフコースと改称しました。(中略)
 昭和十四年になると、ゴルフ場は廃止され、この地は内務省防空研究所に買収されて高射砲の陣地となりましたが、訓練だけで終わったものの、当時のゴルフ場の建物は空襲で焼失してしました。そして戦後は東京都公園課の管理になりました。さらに、管理は住宅課に移されて引き揚げ者用のバラックが今の環八道路沿いに百五十戸建てられたといい、その後世の中が落ち着いてから、現在の(玉川野毛町)公園と都営住宅、(公務員住宅)がつくられたということです。
 http://f52.aaa.livedoor.jp/~manami/todoroki/03.htm

 つまり、ゴルフ場の橋なのである。そこから上に出ればとどろき駅前だ。「何の匂い」「油みたいな」急に下町風の匂いが漂ってきた。ちょうどファミリーレストランの横に出たようだ。「本日初めてのコンビニです」なるほど。
 東急大井町線を越え少し歩けば満願寺に到着する。「ロダンは麻雀はしませんか」ダンディの質問に、「並べる程度には」とロダンが答える。私の学生時代には遊びと言えば酒と麻雀しかなかったから、三十時間以上連続という記録を私は持っている。朝学校に行っては見たものの講義に出る気がせず、雀荘を覗いてみると仲間がいた。それから翌日の夕方まで固い椅子に座り続けていたのだから、実に愚劣な二十歳であった。「そのマンガンですよ」マンガンの「ガン」の文字が違うけれど。
 致航山感応院満願寺。さっきのお不動さんの本家である。

古くは平安時代末期の創建とされる。中興として文明二年(一四七〇年)、吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城の祈願寺として吉良氏により開基され、開山は定栄和尚と伝わる。総本山での機能を有した常法談林所である。
もとは深沢の兎々呂城(とどろき)内(現在の都立園芸高校)にあったものが、天文年間に現在地に移転され、江戸時代になると御朱印寺寺領十三石を与えられた。このときそれまでの山号医王山を現在の致航山と改め、本尊を薬師如来から金剛界大日如来とした。(ウィキペディア「満願寺」)

 玉石を敷いた静かな境内は、正面に本堂がたつ左右対称の伽藍配置になっている。細井廣澤墓の石柱にダンディが注意を促す。誰だろう。ダンディは、私だったら知っていなければならないと笑っているが、知識がないのでいつものようにウィキペディアのお世話になるしかない。

 細井広沢(万治元年十月八日(一六五八年十一月三日)~享保二十年十二月二十三日(一七三六年二月四日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家。赤穂四十七士の一人堀部安兵衛と昵懇で吉良邸討ち入りを影から支援した人物として知られる。名は知慎(ともちか)、字は公謹。通称は次郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別号に玉川、室号に思胎斎・蕉林庵・奇勝堂などがある。
 博学をもって元禄前期に柳沢出羽守保明(のちの松平美濃守吉保)に二百石で召抱えられた。また剣術を堀内正春に学び、この堀内道場で師範代の堀部安兵衛と親しくなった。元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)でも堀部安兵衛を通じて赤穂一党に協力し、討ち入り口述書の添削をおこない、また「堀部安兵衛日記」の編纂を託された。
 広沢は書道に多大な貢献をしている。書に関する著述には『観鵞百譚』・『紫微字様』・『撥蹬真詮』など多数。筆譜に『思胎斎管城二譜』がある。
 また日本篆刻の先駆とされる初期江戸派のひとりである。蘭谷元定や松浦静軒などに学び、明の唐寅や一元に師法し、羅公権の『秋間戯銕』などから独学した。また榊原篁洲や池永一峰・今井順斎らとの交流で互いに研鑽した。とりわけ池永一峰とともに正しい篆文の形を世に知らしめようと『篆体異同歌』を著した。また法帖の拓打について新しく正面刷りの方法を考案して『太極帖』を刻している。広沢と子の細井九皋の印を集めた印譜『奇勝堂印譜』があり日本における文人篆刻の嚆矢とされている。門弟に関思恭・柳沢淇園などがいる。
 墓所は東京都世田谷区等々力の満願寺にある。この寺に広沢の自刻印が二十数顆伝わっている。(ウィキペディア「細井広沢」)

 これを見ると相当な有名人である。ただ忠臣蔵のことなら一言も二言も喋らないではいられない筈の講釈師が、何も言わないのは不思議だ。山門の額「致航山」は広沢のもので、本堂の額はその息子九皐の手になる。ハッシーが「見事な字ね」と感心している。書というものにまるで造詣の無い私にはなんとも判定のしようがない。書道をやるハッシーなら分かるのだろう。
 本堂に向かって左手の壁面の御影石に線で彫られているのは、「普賢延命大安楽不空真実一百八臂金剛蔵王大菩薩」という、実に長い名前の仏様である。ただ、さっき不動尊のところで五十円で買ったパンフレットには、「普賢延命金剛蔵王菩薩」と簡単に記されている。百八本も腕をもつと、これを線刻するのも大変だ。
 その脇の地蔵堂には金色に輝く一言地蔵尊が安置されている。願いを一言述べれば叶えてくれる御利益を持つ。これは実は葛城一言主神社と同じ趣向である。一言地蔵というものが葛城山の一言主神のなれの果てだとすれば、これも役の行者に縁がある。
 役の行者は、金峯山で金剛蔵王大権現を感得したことで修験道の基礎を築く。また一言主は、かつては雄略天皇をも恐れさせるほどの恐ろしい神であったが、後には役の小角に使役されるまで力が衰え、やがて讒言して小角が伊豆に流される原因をつくる神である。

 この地蔵はキンピカの身に海老茶色の袈裟を纏っている。こんな金ピカのお地蔵さんは滅多にお目にかかれない。しかも日本三体地蔵の一であると威張っている。しかし、「日本三体地蔵」というのは正体不明だ。ちょっと見た限りでも、「日本三体」を名乗る地蔵はたくさんある。
 西宮市塩瀬町の木之元地蔵、京都伏見小来栖の子安地蔵、金沢加賀の延命地蔵、愛知県中島郡祖父江町地泉院の子安延命地蔵は、それぞれ単独で日本三体を称しているようだ。その他にも大阪の八尾地蔵、奈良矢田寺地蔵なども戦線に加わってくる。
 それとは別に仲間を引き連れて、われらこそが日本三体であると主張するグループもある。栃木県壬生の縄解地蔵は、京都洛西の壬生寺「縄目地蔵菩薩」、三重県名張市の「延命地蔵菩薩」と派閥を形成し、また、横浜市上永谷の日限地蔵は、三島蓮馨寺の地蔵の分身であり、長野、山梨の分身とともに日本三体地蔵であると主張する。この日限地蔵の主張が不思議なのは、それなら本家の三島の地蔵をどう位置づけるかが見えてこないことだ。
 そう言えば赤塚の乗蓮寺には日本三大大仏を名乗る阿弥陀仏があった。要するに言ったもの勝ちである。

 ついでに、「日本三大」には他にどんなものがあるか。(実にバカですね)お馴染みウィキペディアによるが、おそらくどんな地方からも必ず異論が出るに違いない。
 三大温泉は別府、湯布院、伊東。他に三名泉として、有馬温泉、榊原温泉、玉造温泉。三大温泉と名泉の違いは何か。三美人湯(美人になる湯)は川中温泉、龍神温泉、湯の川温泉。
 三名城は熊本城、姫路城、名古屋城(ただし姫路城の代わりに大阪城を入れる場合もあり)。三大祭は祇園祭、大阪天神祭、神田祭。神田の代わりに山王祭を入れることもあるようだ。しかし浅草三社祭はどうしてくれる。
 三大蕎麦は戸隠蕎麦、出雲蕎麦、わんこそば。三大うどんは、稲庭うどん、讃岐うどん、水沢うどん(又は五島うどん。これは五島出身者に貰って一度だけ食べたことがある。極く細身でなかなか旨いものです)。三大ラーメンは、札幌、喜多方、博多。こういうのも郷土愛に燃える人たちから異論続出でしょうね。
 私の無知が判明したのは明治三大義塾で、慶応義塾、同人社(中村正直)、攻玉社(近藤真琴)とある。私はこの攻玉社を知らなかった。三都は京都、大阪、神戸です。私は東京、京都、大阪だとばかり思っていた。
 三大頑固が肥後もっこす、土佐いごっそう、津軽じょっぱりと言うのはイメージ通りか。三大民謡が花笠踊り、阿波踊り、郡上踊りというのはちょっとおかしい。「民謡」というジャンルで岩手や秋田を除外してモノを語れるか。別に三大盆踊りというのもあって、こちらのほうは西馬音内の盆踊り、郡上おどり、阿波踊りになっている。
 三大漫画家は手塚治虫、長谷川町子、藤子・F・不二雄。これは社会的な影響力の大きさと言うことだと思う。しかし手塚治虫は遥かに聳え立つ巨峰である。長谷川町子は戦後の漫画家としてはほとんど唯一、手塚の影響を受けなかった作家だから、手塚と並んで評価するのも一つの考え方ではある。しかし藤子・F・不二雄は手塚の圧倒的な影響のもとに育った作家で、つまり弟子である。それに読者対象が幼年層とその親に限定され過ぎはしないか。この三人を三大漫画家として並べるのは、漫画文化を知らない人間の仕業ではないだろうか。それに戦後マンガ発達史として考えれば、劇画系(例えば白土三平)を無視するわけにはいかない。新聞マンガなら山藤章二を外すわけにはいかないだろう。
 こんな本筋と関係ないことばかりやっていてもキリがない。

 本堂の右手の奥に大きな屋根が見え、「あの高さだと三重の塔かな」と呟いた私に、マルちゃんが「他宝塔でしょ」と言いながらシノッチの同意を求めている。回り込めば見えるだろうかと、さっきの金剛蔵王菩薩の脇から回り込んでみると墓地が広がっていて、そちらからは見えない。境内に戻ってもどうやら道を隔てているようで、そこにたどり着くのは難しそうだ。
 そもそもこの満願寺はパンフレットによれば「大塔の寺」である。あれがその大塔なのだが、門を出てちょっと様子を見てみても入口が分からないので諦めた。
 「それじゃ行きましょう」少し遅れてきた宗匠に、「除名だ」と講釈師が久しぶりに宣言する。
 東急大井町線を右の方に眺めながら、それに平行に東へ向かう。最初は川の跡を遊歩道にしたらしい道を歩いていたが、それもすぐに尽き、町中に入る。尾山台を過ぎ、そこからほぼ一駅になるか。暑い。もう夏である。
 ようやく浄真寺だ。「ここは正門から入ります」「この会はいつだって裏門からなんだから」

 九品山浄真寺(浄土宗)。もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城のあった地である。小田原の役後は廃城となっていた地に、延宝六年(一六七八)、珂碩上人(かせきしょうにん)が開山した。珂碩は武蔵国の生まれ。もと町役人であったが非道な上司を斬り出家したという伝承がある。江戸霊岸寺大島村念仏堂に移り住んでから、弟子珂憶(浄真寺二世)とともに寛文七年(一六六七年)に九躯の阿弥陀如来坐像を完成させた。しかしこの地が洪水の被害にあったため、延宝六年(一六七八)、江戸幕府四代将軍徳川家綱から奥沢城跡のこの地を賜り浄真寺を創建すると、阿弥陀如来像はそこに移された。(ウィキペディア「珂碩」より)
 

 参道を入ればすぐに右脇に古めかしい石柱が立っている。普通よく見るのは「不許葷酒入山門」の石柱だが、これは「禁銃猟 警視庁」であって珍しい。明治三十二年の銘が彫られているから、その当時、この辺りは野鳥や狐狸が跋扈していたのだろう。
 長い参道を抜けると総門には「般舟場(ハンジュバ)」の扁額が掲げられている。これは何だろう。門柱に説明板が取り付けられているので読んでみる。

 般舟とは般舟三昧の事でつねに行道念仏して眼前に諸仏を見奉るを言う。般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経と共に古来より重ぜられている。当山は院号も唯在念仏院と称し念仏の道場であり参する人々に願往生の心を自然に発せんが為に書かれたものである。

 浄土三部経は斜めに読んだだけの私だが、般舟三昧経というのは初めて聞く。無学を省みず敢て言うのだが、眼前に仏を見る修行(観)と、浄土宗の称名念仏とはちょっと違うのではあるまいか。
 閻魔堂には閻魔と奪衣婆。十夜講塔の上には地蔵尊。六地蔵が並ぶ台石の一番右には「天保四癸巳年十月吉良」の文字が彫られている。一八三三年のことであるが、吉良家とのつながりを示すものだろう。今頃になって、今日のコースが世田谷吉良に所縁があるのだと気づく始末だ。
 高さ三十メートルという大きな楼門の左右には仁王像が立つ。鐘楼を左に見ながら奥に進んで行けば、中央が上品、左に下品、右に中品の三つの阿弥陀堂が並んでいる。
 ここであんみつ姫が資料を配ってくれ、「ネタ本はこれです」と見せてくれるのは、私も愛用している『図説歴史散歩事典』(山川出版社)であった。阿弥陀仏の解説に、九品の印相を図解しているものである。
 ガラス越しに阿弥陀仏を覗く。上品堂には上品上生、上品中生、上品下生それぞれを救済する阿弥陀が三体、中品堂には中品上生、中品中生、中品下生の、下品堂には下品上生、下品中生、下品下生の担当をする仏がいるのである。
 「観無量寿経」によれば、極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで九通りの段階があるとされ、「上品上生(ジョウボンジョウショウ)」から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。言い換えれば、「下品下生(ゲボンゲショウ)」の極悪人でも往生できるのである。
 上品とは、至誠心、深心(深い信心)、廻向発願心の三つを備えていなければならない。僧侶でもまず最高の位階の人、阿羅漢に相当する人であろう。中品は、五戒を受持し、八戒斎を持つひとであるから、普通の僧侶か、かなり信仰の篤い在家の人が対象となるか、それなら私なんかはそこにさえ入らず、下品と言うことになる。確かに些か品下れる者ではあるし、諸々の不善をなしてはいるが、極悪人とまでは言われたくはない。
 最低ランクの下品下生の場合、こんな風になる。

仏、阿難および韋提希に告げたもう、「下品下生とは、あるいは衆生ありて、不善業の五逆、十悪を作り、その他もろもろの不善を具す。かくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに、まさに悪道に堕し、多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなかるべし。(略)」(『観無量寿経』)

 夫婦らしい男女が覗きこんで、「なにが違うのかしら、みんな同じみたいね」と悩んでいるので、手の形が違うらしいと教えていると、「ちょっと違うんだ」如来像を丹念に観察していた宗匠が注意する。実際に見る仏の印相と解説図のものとが微妙にずれているのである。
 上品堂に鎮座する阿弥陀如来は、それぞれ臍の前で両手を組み合わせている。上品上生、上品中生、上品下生、それぞれが同じ姿勢を取っている。違うのは、指の組み合わせであって、親指と人差し指で輪をつくるか、親指と中指か、親指と薬指かという違いになっている。
 ところが美女の配ってくれた図解では、これは上生を表わす印相で、上の組み合わせに対応するのが、上品上生、中品上生、下品下生なのである。おかしいじゃないか。「まさか、堂の額が間違えてるってことはないよね」「説がいろいろあるのかもしれない」
 ところが九品印について調べてみると、眼前の阿弥陀仏を擁護する記述も発見した。

両手をへその前で組むのが上品、両手を胸の前に上げるのが中品、右手が上で左手が下     になっているのが下品であり、親指と人差し指をあわせて輪を作るのが上生、親指と中指で作るのが中生、親指と薬指で作るのが下生である。これらの手のひらの位置と指の形の組み合わせで九種の印を表わす。(上生印を定印、中生印を説法印、下生印を来迎印と呼ぶこともある。)http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/inn.htm

 『図説歴史散歩事典』と同じ説もある。

 阿弥陀如来の印相はその種類が多く呼び名も複雑ですが,上品上生から下品下生までの九種ある九品印がよく知られています。
 これは、左右の手の親指と人差し指で輪を作る上品、同じく親指と中指とで輪を作る中品、同じく親指と薬指とで輪を作る下品、の三種に、さらに、手の位置の三種、すなわち膝の上に置く上生、胸の前の中生、右手を上、左手を下にする下生の三種を組み合わせ九種にしたものです。http://www.kokuhoworld.com/bb23.html

 どうやら、どちらかが間違いというのではなく、両手の位置と指の組み合わせの、どちらを「品」にし、「生」にするかで、二つの考え方があるようなのだ。
 「向こうが本家ですから、こちらは真似をしただけです」ダンディは日本文化の根源は上方にあり、江戸のものは全て紛い物であると断定して憚らない。ダンディの言う「本家」浄瑠璃寺の九品仏では、中尊が上品下生印、残り八体が上品上生印を結んでいると説明される。絵で見ると(なにしろ実物を見たことが無いので仕方がない)中尊は、右手を上げ、左手を腰の脇におく、来迎印というう印相をとっている。これが上品下生印であるならば、浄心寺の方式とは違う方式、つまり美女が配ってくれた資料の方式になる。

 もう一度整理してみると、両手の位置に三種類、輪を作る指何であるかで三種類の形がある。
 まず、両手の位置と形に着目すれば、弥陀定印(禅定印ともいう)は釈迦が悟りを開いたときの姿であり、心の安定を表す。座禅をするときの形である。臍の前で左右の手を組み合わせる。
 説法印とは、釈迦が悟りを開いた後初めて説法をしたときの姿を表す。両手を胸の前に上げ、親指と他の指で輪を作る。
 来迎印(施無畏・与願印)は、右手を胸の部分で掌を前に向け(施無畏=人を安心させる)、左手は下げて掌を正面(与願=願いを聞き届ける)に向ける。輪は説法印と同じように親指と他の指でつくる。この三つで区分する方式を仮に「両手位置変数」と名付けてみるか。
 もう一つ、今度は指に着目しなければならない。親指と人差し指で輪を作るもの、親指と中指、親指と薬指とういう三つの区別になる。こちらは「指の輪変数」としてみる。
 両手位置変数×指の輪変数は九であり、これを九品仏に当てはめるのである。
 『図説歴史散歩事典』の説明では、弥陀定印を上生(上品・中品・下品)、説法印を中生(上品・中品・下品)、施無畏・与願印を下生(上品・中品・下品)に当てる。これは「両手位置変数=生、指の輪変数=品」系とでも言える。
 これとは別に弥陀定印を上品(上生・中生・下生)、説法印を中品(上生・中生・下生)、施無畏・与願印を下品(上生・中生・下生)に当てれば、こちらは「両手位置変数=品、指の輪変数=生」系である。これが浄真寺の九品仏である。回りくどく探索した挙句、漸く整理がついたのではないかしら。
 この九種類が確立したのは江戸時代のことらしいので、浄瑠璃寺ではこんな面倒くさいことはしていない。歴史が新しいので何かの派閥によって解釈が違うのかもしれない。
 ひとつの記事だけを信じ込むと悩んでしまうという良い例であった。こんなことを発見するのも、美女がくれたコピーと宗匠の観察力のお蔭である。それはともあれ、上品でも中品でもない私たちは堂の前に座り込んでしまう。「仏さまの救済力が一番大きいんですよ」突然ロダンが他力に目覚めたか。

  緑陰や阿弥陀の印に身を任せ 《快歩》

 墓地に菊田一夫・五島慶太・五島昇・加藤楸邨の墓があるそうだが、広い墓域で、地図でもなければとても探せそうにない。楸邨だけは見てみたかったが、仕方がないから引用する。一句だけにしようかと思ったが、二つ。季節は違うけれど。

  カフカ去れ一茶は来たれおでん酒  楸邨
  鰯雲人に告ぐべきことならず

 ミッキーが会津のリンゴ・チップという不思議なものを配ってくれる。「甘いのかな」「そんなに甘くない」それなら私も戴いてみよう。不思議な食感である。マルちゃんが金平糖を取り出し、あんみつ姫は煎餅を出す。
 庚申塔の前で、ダンディがシノッチに講釈師の姿を説明している。「四天王にも踏みにじられてましたね」あんみつ姫の言うのは、阿修羅展で一緒に展示されていた四天王のことである。
 少し休憩した後、今度は東門から出て自由が丘駅に向かう。白い花と紫の花が芳香をはなっている。「これが茉莉花よ」ミッキーが教えてくれる。
 まだ時間が早いからお茶を飲む店を探さなければならない。「こんなに大勢入れるところね」と悩みながらモリオが右手奥の方にオープンテラスのような店を発見した。SAN FARNCISCO CABLE CAR COFFEEという店である。店内と外に別れて何とか席を確保したと思ったとき、電話が鳴った。ロダンである。
 「どこにいるの」「もう座ってるよ」「そこ、どこですか」私たちは、先頭に立って店を探していたロダンを放りっぱなしにしていたのだ。実に冷たい連中である。電話を耳に当てながら表通りにでれば、そこにちょうどロダンも同じ格好で歩いてきた。なにはともあれ無事で生還できたのは喜ばしい。
 「今日は一万歩位歩いたのかい」ドクトルの見積もりは少なすぎる。宗匠の万歩計で約一万七千歩であった。およそ十キロは、いつもと同じ程度だ。
 「そろそろ生ビールの時間だぜ」珍しく講釈師の口からビールと言う言葉が出るからみんなが驚く。ダンディが駅前で解散宣言をし、我々は反省会の会場に向かうことになる。
 モリオの事前調査によって、ここから一駅の都立大前にさくら水産があることが分かっている。しかし都立大駅前についたのは四時の少し前、開店まであと八分待たなければならない。その間にダンディとチイさんは周囲を探検に出かけ、残りの人間はただひたすらビールを待ちわびている。
 「吞川がありました」定刻に戻ってきたダンディが報告する。「われわれに縁があるのかな」こういうことはドクトルに聞けばすぐに分かる。本日最後の勉強である。

東京都世田谷区桜新町の東急田園都市線桜新町駅付近を水源とし、世田谷区深沢、目黒区八雲、東急東横線都立大学駅付近(目黒区中根付近)、東京工業大学付近、大田区石川町、雪ヶ谷、久が原、池上、蒲田(JR蒲田駅付近)を流れ、糀谷を抜けて東京湾に注ぐ。
支流として世田谷区上馬付近を水源として目黒区東が丘、柿の木坂を経て都立大学駅付近で本流と合流する柿の木坂支流、駒沢オリンピック公園付近を起点とする駒沢支流、世田谷区奥沢の浄真寺(九品仏)付近を水源として東急東横線自由が丘駅南口付近を通り東急大井町線緑が丘駅・大岡山駅付近(東京工業大学付近)で合流する九品仏川がある。また、大田区清水窪を水源のひとつとする洗足池から流れ出る洗足流れも注ぎ込んでいる。(ウィキペディア「吞川」)

 時刻は良し。本日のさくら水産は「くじらデイ」である。鯨カツを食っていると、我々の世代は給食にでた鯨の竜田揚げや、新宿のゴキブリ横町で食ったゲイカツを思いだす。ゲイカツと言えば、私はまた永島慎二『フーテン』なんかも思い出してしまう。想いは芒々、もう四十年も前の話だ。しかし今の鯨カツはなんだか上品で、昔の風情ではない。

   鯨カツや茫々たりし夏宵  眞人

 定額給付金を使うと申告すれば、サントリー角瓶のハイボール一杯がサービスされる。実に下らない給付金ではあるが、貰えるものは拒否しない。川口市は一番早く支給されたから宗匠はもう手にしている。他のメンバーはまだ手元に貰えてはいないが、この店での申告は名前を書くだけのお手軽なものである。ハイボールなんて飲まなくなって随分になるが、たまには良いじゃないか。更にいつものように「さつま白波」二本。本日も二千円で良く飲んだ。

眞人