第二十四回 石神井編  平成二十一年七月十一日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.07.18

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 「えっ、リュックで良かったの」里山を歩く姿とは変わって、洒落たブラウスにショルダーバッグのマルちゃんが驚く。講釈師のいつもの冗談を真に受けてしまった人がここにいる。「だって、東京を歩くのにリュックはダメだって。それに都会を歩くんだから靴だって違うんだって言うからさ」初参加の人には必ずこうして脅かすのが講釈師の趣味である。「やっぱりリュックが楽なのに」と私のリュックを叩く。「靴だって変えてきたのよ」
 講釈師の癖を知っているあんみつ姫まで、いつもの大きなリュックではなく、街歩き専用の奇麗なリュックを背負っている。「お蔭で定額給付金がなくなってしまいましたよ」そんなに高いものを買ったのか。確かに田園調布におけるリュック姿に対する講釈師の罵倒はかなり大袈裟だったからね。里山歩きの時と全く同じ格好のドクトルは、勘違いしていたらしい。「お弁当買ってきちゃったよ」この会に何度も参加しているのにおかしい。「今日は弁当はいりません」
 それほど照りつけるわけでもなく、やや曇り勝ちな天気は、梅雨時の今の季節ではほとんど理想的とも言えるウォーキング日和ではないか。「これもひとえに、幹事の精進潔斎の賜物で」と言いかけると、即座にダンディからクレームが入る。「違いますよ、みんなのお蔭です。だって幹事は、今日の天気は皆さんの心がけ次第だって、最初から責任転嫁、リスク分散を図っていたんですからね」「私だって、ちゃんと祈ってましたよ。雨だったら講釈師が何と言うか。その時の暗い雰囲気を想像すると心配で心配で」姫もダンディに賛成する。「十回のうち、一回くらいは晴れることもあるよ」講釈師は吐き捨てるように言う。その言葉にも、実は全く精進潔斎していなかった私は返す言葉がない。

 タイトルを「石神井編」としたのは、本日のコースは全て旧石神井村の範囲にあるからだ。昭和七年、板橋区が成立(現在の板橋区と練馬区の範囲)した際、石神井村は七つの町に分立したのだが、分離以前の旧村は現在の地名では、谷原、高野台、富士見台、三原台、南田中、石神井台、上石神井、下石神井、関町、立野町に相当する。板橋区から練馬区が分離独立するのは昭和二十二年になる。
 「石神井」とは何であるか。

 石神井明神祠 石神井村にあり。三宝院奉祠す。神体は一顆の霊石にして、往昔井を穿つとて、その土中にこれを得たるとなり。(石質堅強にして銕のごとく、微しく青みを帯びたり。長さ二尺あまり、周囲太きところにて一尺ばかり。世にいふところの石剣にして、上代の古器雷槌などいへる類なり)。よつて、石神井の地名ここに起こるといへり。(『江戸名所図絵』)

 新石器時代の石剣が出たのである。最大周囲一尺といえば、直径十センチ程になるか。かなり太い。剣と言うよりも、ずんぐりとした石棒ではないかと思うのだが、私は考古学的なことに全く疎いので、この辺りのことはよく分からない。ただし石神井の地名はかなり古く、天保の頃には既に伝説と化していたということだろう。
 石神井、石神などシャクジ、シャグジを名乗る地名は結構多くて、確か柳田國男『石神問答』がその辺を議論していた筈だが、残念ながら内容をまるで覚えていない。取り敢えず手元にある山折哲雄に頼ってみると、サエノカミというものがある。

サエノカミとは塞の神と書き、外部の世界から侵入してくる邪霊や悪鬼のたぐいを防ぐため、村の境界に建てられた一種の守り神である。魔障除けの呪物のようなものであるが、一般にはそれをサエノカミという呼称と並んで道祖神と呼びならわしてきた。(中略)
ところでサエノカミというのは、さきにも記したが塞神という字があてられてきた。これはサクジンと発音されるが、訛ってシャクジすなわち石神とも記されるようになった。そこから一般には石神信仰が発生したのである。(山折哲雄『仏教民俗学』)

 一方、石剣、石棒については、考古学の立場からこんな意見もある。

 (前略)石棒が縄文中期に突然出現し、縄文晩期に消滅して、農耕社会となった弥生時代になぜ存在しなかったのであろうか。それは、具象的な造型をことさら避けていた縄文人が作ったものである。その表面的形状だけを見て連想的に推断するのは、きわめて危険である。(略)
 石棒の発生におけるもっとも初源的な形を求めると、意外にもストーン・サークルという特殊な遺構につながる。(略)
 この種のストーン・サークルは共同墓地のような性格をもち、中央の「日時計」は共同祭祀の標識のようなものであり、おそらくは血縁集団のシンボルのような意義を持っていたと思われる。(後藤和民『縄文人の知恵と生活』森浩一編「日本の古代」第四巻)

 私の学力ではこれ以上の詮索は難しいし、こんなことをしていると、なかなか今日のコースが始まらない。
 西武池袋線練馬高野台駅に十時集合である。「高野」という地名に注目しなければならない。これは紀州高野山に比して「東の高野山」の謂いである。ダンディは不満だが、詳しい説明は後で長命寺に行ったときに分かるであろう。有楽町線で事故があったようで、やや遅れる人も出たが、定刻にはちゃんと揃う。
 男性は碁聖、ダンディ、講釈師、ドクトル、麦藁帽子のチイさん、モリオ、宗匠、桃太郎、腰痛から復帰したミツグ、初参加のエーちゃん、私。女性はあんみつ姫、チロリン、クルリン、シノッチ、マルちゃん、椿姫、それに久しぶりのヨシミちゃん、江戸歩きは初めてのカズちゃん。すべて十九人が集まった。
 山登りにも良い天気だと思うが、桃太郎は山に行かずこの会に参加した。「だって欠席ばかりじゃ、忘れられてしまいますからね」ダンディの携帯電話にはハイジから欠席の連絡が入った。「なんだ、ロダンは来ないのか」講釈師は不満そうだが、ロダンからは前もって欠席届をもらっている。この頃「欠席届」が流行していて、なにやら学校のようでもある。
 北口を出てすぐに道を間違え(たのではない、どちらが近道か、ちょっと迷っただけなのだ)、案の定講釈師から声がかかる。「なんだよ、最初からこれじゃ先が思いやられる」
 バスターミナルを回り、石神井川に掛かる橋を渡ってすぐに、少し上り坂になった角に稲荷神社がある。(富士見台三―四十二)小さな稲荷だが、須賀神社を合祀している。須賀神社と言えば本来は牛頭天王社であり、スサノオを祀ったものだろうが、明治の神仏分離で改名したものだ。もうひとつ一山社が祀られているのを見るのが今日の目的だ。明治七年に一山講が奉納した水盤があるのだ。

 正面に「奉納」の文字と木曾御嶽神社の神紋が刻まれています。
 左右側面および背面の銘から、明治七年(一八七四)六月に増嶋大伝を先達、関口藤八、篠田楢次郎を世話人として、上練馬村の一部である三丁目・八丁堀・俵久保・大門山(太門山)の御嶽講の一員と思われる願主十六人により奉納されたことがわかります。
 かつて盛んであった御嶽信仰の地域的な広がりがわかる資料です。(練馬区の文化財案内)http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/bunkazai/bunkazai/b1805.html

 興味の無い人には全く関係ないだろう。富士講、大山講等と並んで、御嶽講というものがあった。(今でもあるらしい)上の記事にある増嶋大伝というのは、北條早雲の曾孫に当たる増嶋重明(後で、長命寺の由緒を尋ねるときに現れる)の末裔だと思われ、江戸期には土着の豪農として村役人も兼ねた家筋である。
 そこに背広姿で自転車に乗った男がやってきた。目の前の家の主人らしい。鳥居を潜った境内と同じ敷地の家であれば氏子総代でもあろうか。「御苦労さまです、歴史散策の会のような皆さんですか」町会長だというので、何か説明してもらえないかと頼んでみた。どうやら説明は苦手らしく、家に入って「創立四十周年記念・富士見台とき乃ながれ」(練馬区富士見台町内会)という冊子を三冊持ってきてくれた。
 「私が子供の頃は、おんたけさんって呼んでました。いつの間にかお稲荷さんになってしまって。途中で宮司さんが変わったんですよ」しかし、さっき貰った冊子を見れば、最初はやはり稲荷神社であった。

口伝によると、享保二年(一七一七)稲荷大神を奉祭し、谷原村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営、文政年間(一八一八~三〇)には御嶽一山講が設立され、崇敬者、村民が共に維持経営に当たったという。(『富士見台とき乃ながれ』)

 ドクトルが山岳信仰について尋ねようとするが、それ以上の知識はないようだ。冊子を戴いたお礼を言って境内を出ようとすると、「有難うございました」と全員に名刺を配ってくれる。なんだ、練馬区議会議員ではないか。残念ながら練馬区に選挙権をもつものは誰もいない。しかし明日は都議会議員選挙である。普通ならば、応援で忙しい最中ではないか。

 梅雨晴れや選挙も忘れ御嶽山  眞人

 「もう諦めてるんだろう」モリオが言うように、そして誰にも予想がついていたように、翌日の東京都議選で自民党は歴史的な惨敗を喫した。
 ドクトルの疑問には、練馬区議に代って御嶽教のHPから抜き出して見た。

 かくして、木曽の御嶽は、人世の安息を求める信仰厚き人々の心の故郷とされたのであったが、しかし御山それ自体は、近世中期までは厳しい戒律の山として知られ、重潔斎を終えた一部道者を除いては、一般民衆の軽々しく足を踏み入れることを許されていなかった。とくに徳川将軍家が国政を掌握してから以後、木曽谷一帯が格式の高い御三家尾張大納言の所領となってから後は、国防と山林保護の藩政上の見地から、いわゆる「御留山(おとめやま)」として支配され、それまでにもまして一般の登山を厳しく禁止したのである。
 しかし一方では、江戸時代に芽を吹いた民間信仰の新たな風習の一つとして、神道的な信仰による集団登拝のための講社結成の動きが台頭し、具体的には、伊勢参宮を目的とする伊勢講をはじめとして金比羅講、稲荷講などが結成されたが、これらと呼応して、駿河の富士登拝を目指す富士講や、相模の大山、紀伊の熊野、羽前の月山、九州の彦山などの各山に登拝するための大山講、月山講など、いわゆる登山講社も続々として誕生し、それらの山々は、いち早くこれら一般登拝者たちの入山を許したのであった。
 だが、当時のそうした趨勢の中にあっても、なお木曽の御嶽に限っては、依然として古いしきたりに従い、重潔斎を経た一部道者のみによる登拝制度が厳然として守られていたのである。
 しかし、富士に次ぐ国内指折りの名山であり、しかも古来から人々の尊崇やむところの無い神山であるので、木曽谷住民をはじめとする一般庶民の、御山解放を願う声は各地に日を追い、年を追って高まり、やがて登山講社結成の動きの急となるにつれ、その声はまさに御嶽信仰に帰依する万民の願いとして巷に満ちあふれたのであった。
 そうした世相のうちに時は流れて、世は徳川末期の天明、寛政の時代に移り、ここにいよいよ尾張の覚明、武蔵の普寛の二大行者が出現し、その難行苦行によって御山はようやくにして万民の前に開かれ、御嶽信仰はこの以後、江戸末期幕末から文明開化の明治初期にかけて、猛烈な勢いを以て全国津々浦々に広まっていったのである。(「御嶽教の歴史」より)http://www.ontakekyo.or.jp/ontakesinkounohassyou.html

 それまで百日の厳しい重潔斎を済ませて後漸く許された登山だったが、覚明が天明五年(一七八五)に、普寛が寛政四年(一七九二)年に、軽精進のみでの御嶽への登拝を可能にして以来、各地に広まっていったのである。文政年間には一山行者によって関東一円に御嶽講が広まった。

覚明と普寛の二人の行者が御嶽に登って以来、およそ二百年が経過した現在、その信仰圏は中部地域や関東地域などを中心に全国に広まっている。御嶽信仰の特徴は、御嶽に祀る御嶽大神や諸神仏、霊神などの諸神霊、これらを象徴化した神像や図像、霊神碑など、さらにそれらを祀る山や教会、霊神場などの神仏が習合化した祭壇、御嶽信仰を具体的に支える行者と信者の講組織、御嶽登拝や御座、各種の祈祷などの諸儀礼、などの神観念・象徴的施設・人的組織・儀礼体系から構成されていることである。御嶽信仰は、具体的にはこれらの諸要素を具現化した講集団によって受け継がれて、種々の活動が行われている。講集団の活動には、教会などで行う御座や祈祷、四季を通じて行う御嶽登拝などがある。なかでも、御座は中座と前座が協力して行う神降ろしの儀礼であり、その儀礼過程にはシャーマニスティックな要素をみることができる。また、夏山登拝は大抵の講社が行っており、行者に連れられた信者達は、登拝口にある黒沢と王滝の御嶽神社里宮を起点として、御嶽の空間にまつられた多数の諸神霊を巡拝する。登拝は信仰をより一層深めるための大切な儀礼となっている。(『日本民俗大辞典』吉川弘文館)

 神社を出れば、今来た坂道の途中の角に青面金剛庚申塔が立っている。目黒、練馬、板橋など、江戸近郊の農村地帯にはこの手の庚申塔が多く残る。花が供えられているのを見れば、今でもお参りする人がいるのだ。後で丸彫り青面金剛を見る予定なので、それと対照するために注意してもらう。
 角柱の塔身に、宝珠の付いた笠を載せたかなり立派な庚申塔で、惜しいことに前面にビニール紐を張っていて写真が撮りにくい。台座には邪鬼と三猿。宝永六己丑年(一七〇九)の文字がかすかに見える。日月と鶏は側面に彫られていたものか、今はよく判別がつかない。
 笹目通りに戻って順天堂大学病院との間の道に入れば、すぐに長命寺である。住所は高野台三―十―三。
 東高野山(旧谷原山)妙楽院、真言宗豊山派である。脇には白で「長命寺」と書かれた、大きな石が据えられている。「南大門」の額を掲げる山門のすぐ右脇には小さな仁王門があって、講釈師とダンディ、美女はそこから入ってくる。「駄目ですよ、横から入っちゃ」「講釈師が入るからついてきただけです」
 南大門正面の右側(東側)には増長天、左には広目天。内側から見ると、左(東側)に持国天、右に多聞天が立つ四天王門だ。
 脇の小さな仁王門の方が古く(十七世紀後半のもの)、「金剛力士はちゃんと阿吽の形をしていますね」とエーちゃんが変なことに感心する。この南大門と仁王門との位置が何か不自然なのは、たぶん、明治の神仏分離によるのではないか。『江戸名所図絵』を見れば、現在の南大門の位置に仁王門があったように見える。
 宗匠は予習をして来ていて、この仁王門の建築に注意を促す。「特に、虹梁受肘木、平三ツ斗の組物、蟇股の装飾が優れています」(練馬区の文化財案内)ということである。
 事前にダンディが調べてくれたように、長命寺は武蔵野三十三観音霊場第一番になっている。武蔵野観音霊場というのは、西武池袋線の沿線をここからずっと西に辿ることになっていて、最後の三十三番が先月精進料理を食べた飯能の竹寺(八王寺)だから、もしかしたら西武鉄道によって作られた霊場かもしれない。昭和十五年に決められた霊場だ。「武蔵野三十三観音霊場公式サイト」というのがあるので、興味のある人はそれを見れば良い。
 http://www.musashino-kannon.com/
 ついでに狭山、多摩川、児玉、入比(入間と比企)と身近なところに意外に多く三十三観音霊場があるなんていうことも、初めて知るのである。

 当寺院は、慶長十八年(一六一三)に後北条氏の一族である増島重明(北条早雲のひ孫にあたる。のちに出家して慶算阿闍梨になる)によって弘法大師像を祀る庵を作ったのが始まりといわれている。その後重明の弟・増島重俊によって観音堂・金堂などが整えられた。その後寛永十七年(一六四〇)奈良・長谷寺の小池坊秀算により十一面観音像が作られ、「長命寺」の称号を得る。その後一六四八年に徳川三代将軍・徳川家光により朱印地を賜り、朱印寺として著名になった。当初は山号は秀算により谷原山と称したが、当寺院が高野山奥の院を模して多くの石仏・石塔が作られおり、東高野山とも称されるようになり「東の高野山」として人々から信仰を得るようになった。(ウィキペディア「長命寺」)

 『江戸名所図会』には広大な境内の図が記載されているから、江戸時代でも有数の観光名所であった。
 本堂の前に「練馬の名木」と書かれているのは菩提樹である。実がなっている。大きな石灯篭は全部確認したわけではないが、増上寺のものがいくつかある。梵鐘は慶安三年(一六五〇)のもので、かなり細長い形をしている。
 その前には十三仏が整然と並ぶ。割に新しい石仏で、それぞれがネクタイのように赤い布を首に巻いている。十三仏とは何か。先月の里山ワンダリングで東村山の正福寺を訪ねたときにもお目にかかっているのだが、これを知るためにはまず十王を知らなければならない。
 十王とは、秦広王(初七日)、初江王(二七日)、宋帝王(三七日)、五官王(四七日)、閻魔王(五七日)、変成王(六七日)、泰山王(七七日)、平等王(百か日)、都市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)を言う。死んでから十回の審判を受けた後、六道の何れかに転生するのである。本来の(つまり釈迦が発明した時点での)仏教に、こんなものは勿論ない。

 仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また道教経典の中にも、『元始天尊説鄷都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。(中略)
 日本では、平安末期に末法思想と冥界思想と共に広く浸透した。
 日本では『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が作られた。『地蔵十王経』の巻首にも、『預修十王生七経』との記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきた。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。(中略)
 鎌倉時代には十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、時代が下るにつれてその数も増え、江戸時代には十三仏信仰なるものが生まれるに至った。(中略)
 没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。ただし、各審理で問題がないと判断されたら次からの審理はなく、抜けて転生していくため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。
 七回の審理で決まらない場合は、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質、救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。(ウィキペディア「十王」)

 上の記事にもあるように、十三仏は十王信仰に影響されて日本で作られた。十王に対応するように明王や菩薩、如来を本地仏として当て嵌め、更に三仏を追加したである。(追加した理由は分からない)
 不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、これで十人。さっきの十王にそれぞれが対応しているので、例えば地蔵菩薩は閻魔王の本地仏ということになる。追加されたのが阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩で、これに応じて、王のほうも三人増やさなければならなくなった。蓮華王(七回忌)、祇園王(十三回忌)、法界王(三十三回忌)となる。つまり、こちらのほうは十三仏、十三王であった。(こんなこと、他に関心を持つ人っているのだろうか。)
 「そう言えば来週はもうお盆ですよね」エーちゃんは東京人だからそう言うが、私は七月中のお盆には違和感があって仕方がない。「そうか、西の方に多いのかな」そこにダンディが強く反論する。「上方は絶対、旧暦です。七月のお盆なんて考えられない」

この奥の院は、すべて紀州高野山、大師入定の地勢を模擬するゆゑに、堂前に万灯堂あり。また御廟の橋・蛇柳は同じ前庭にありて、左右に七観音・六地蔵等の石像、その余石灯篭、五輪の石塔婆、ならびに増島氏累世の墳墓等並び建てたり。(『江戸名所図絵』)

 「右東高野山道」の石標から細い道に入って行く。とにかく石仏が多いのである。七観音は石幢七面。下見のときにはちゃんと確認していたのに、ドクトルに「どこにあるんだ」と聞かれて答えられなかったのは失敗だった。各面の上には種子、下にそれぞれの観音の名前を刻んである。
 御廟橋という石橋を渡ってずっと行けば、奥の院の裏に十王が鎮座している。「赤塚で見た」宗匠が言うのは、東京大仏で有名な乗蓮寺のことだ。あの寺では閻魔堂の中に、小さな十王が整列していた。「妹はいないの」奪衣婆は閻魔の妹と言われる。新宿太宗寺の閻魔堂には閻魔大王と奪衣婆が揃っていたものね。「この人たちを拝まなくちゃいけないのね」というのは椿姫だ。「帽子が道教風なのね」
 「徳川家光供養塔」なんていうものもあって、これは五輪塔墓の形式だ。マルちゃん、シノッチ、カズちゃんに、「この下から順番に地水火風空です」と五輪塔の説明をしていると、エーちゃんがにやにや笑っている。「私の父親のお墓がこの形なのよ。誰でも作って良いのかな」とマルちゃんが聞いてくる。別にどんな形でも本人の好みであろうと思う。
 「姿見の井戸」を覗き込めばかなり深いところに僅かに水面がある。「ちゃんと顔が映りました」とダンディは主張するが、私の顔は映らなかった。顔が映れば長寿が保証されると言うので、それでは私の長寿はおぼつかない。蚊がいるのか、肘のあたりがやけに痒い。

 奥の院参拝後は蚊に食はれ 《快歩》

 「ここは智山派ですか、豊山派ですか」エーちゃんの質問に智山派と答えてみたが、確認しなおした。「違った、豊山派だ」「やっぱり。道教の影響があるのは豊山派ですからね」おーっ、そうなのか。この男は、若い頃、西国・四国の札所を全て歩いたという不思議な人間である。こういうことにはとても詳しい(筈だ)。
 エーちゃんに指摘されて興教大師の像にも気がつかされる。「新義真言の寺に来たんだから、挨拶していかないとね」真言宗中興の祖でありながら、高野山を追われて根来に拠ったのは覚鑁とだけ覚えていて(それも、ここ数カ月で知った知識だ)、興教大師の名は知らなかった。「興教大師の方が一般的なんですけどね」いかに基礎的な知識がないかということがここで分かる。新義真言の根来寺は信長、秀吉によって徹底的に潰されたけれど、智山派も豊山派もそこから出てくるのだ。

   「もう行こうぜ」講釈師の声に急かされて東門から出る。まだ昼時にはちょっと時間があるので、氷川神社に寄って見る。境内は綺麗に整地されてしまって、見るべきものはほとんどないのだが、案内板に、もともと長命寺の境内にあったこと、長命寺が「別当寺」であったことが書かれているのを確認すれば良い。
 ここでダンディが、講釈師についての碁聖の狂歌を紹介する。

 よく見ればハンボガ張りの良い男無口なりせば身をばささげん  悟朗

 ハンフリー・ボガートと呼ばれて、講釈師は得意になって鼻を蠢かすが、但し「無口なりせば」という限定がついているのを知らなければならない。ついでに宗匠も詠んでみる。

ハンボガと呼ばれ目尻がハザカンに 《快歩》

 「ハザカン」ね。間寛一のことかしら。「だけど、いないと淋しいのよね」とクルリンの口調が何故かしみじみとしている。
 駅前に戻って「天狗」に入る。「えーっ、もう飲むのか」エーちゃんが大声を出すが、ここでは酒は飲まない。「天狗」と言って居酒屋だとばかり思ってはいけない。「和風レストラン」と名乗っているのである。つまりこの先、十九人が一度に食事のできる店がないのだ。十一時半開店。到着が二三分早くて、少し待たされたが、座敷を用意してくれたので全員が一部屋のテーブルに着くことができた。
 今日のお薦めは「旬彩御膳セット」。刺身、天麩羅(海老と烏賊)、若鶏の唐揚げ、温泉玉子、ミニサラダ、葛餅に味噌と漬物がついて八百八十円である。通常価格九百二十四円であるが、どうやら今日は割引デイなのだ。女性陣の大半がこれを注文した。私も真似をするが、こういうものを注文するとビールが飲みたくなってくる。
 「天狗に来たらビアブラウンを飲まなければ」と姫も言う。これは天狗オリジナルのビールなのだそうだ。美女が飲むのなら飲まない訳にはいかない。グラスビールが二百八十円。これは「酒」ではないからね。「清涼飲料水ですよ」とダンディと桃太郎は中ジョッキにしている。なにしろ安さが取り柄である。ミツグの頼んだサイコロステーキセットなんか、八百十九円のところ、五百五十円なのだ。ダンディとドクトルは鰻丼と蕎麦のセット、他には鯵の開き定食とか、蕎麦を註文している人もいる。
 今日は講釈師と碁聖の注文した掻揚げ蕎麦が最後になった。「席に着く前に、一番最初に注文したんですがね」と碁聖もぼやくが、蕎麦が出てくるまでの講釈師が五月蠅い。「ビールなんか飲む奴は除名だ、それに足の遅い奴も除名だ」それにチロリンが「誰もいなくなっちゃうよ」と応じている。
 やっと掻揚げ蕎麦が出てくると、とたんに静かになってしまうが、食べ終わったと思えば「もう出ようぜ」とすぐに席を立つ。十二時二十分、ちょうど良い頃だろう。

 笹目通りをそのまま南下する。石神井川を渡るところには長光寺橋公園があって、名前からすれば、ここに寺があったのかとも思われるが調べがつかない。右折するのはこの角だったろうか。地図を見直して次の信号だと分かった。「講釈師に聞かれたら、また言われてたぜ」幸い彼はずいぶん後ろのほうで椿姫たちとお喋りしながら歩いていて、気がつかないようだった。
 次の信号を右折し、実は榎本家長屋門というのがあるのだが、省略して真っ直ぐに観蔵院に行く。(南田中四―十五―二十四)細い道から少し引っ込んだ位置に門がある。
 門前には大きな地蔵を真ん中にして両脇に三体づつ立っている。これは七地蔵と呼ぶべきなのか、それとも単なる六地蔵であろうか。享保十二年(一七二七)の銘を持つ。
 門を潜れば左脇の小さな堂の中に筆子供養塔が安置してある。「筆子供って読んでしまうよ」というのはミツグである。「宝暦十二年(一七六二)・筆子中」、「文化五年(一八〇八)」の二つがあって、寺子屋の生徒が使った筆を供養するために建てたものだ。
 「初めて見ましたよ、こんなものが存在するっていうことも知らなかった」エーちゃんは確か近世史を専攻していて、私よりは江戸の歴史に詳しい筈なのに、その彼にしてそうなのか。確かに私も初めて見たのだが、とても珍しいものだとは知らなかった。

 当山は慈雲山曼荼羅寺観蔵院と称し、大聖不動明王を本尊とし、真言宗智山派に所属する。観蔵院の創建の年月は明確ではない。しかしわずかに残る資料『新編武蔵風土記稿』には「寳蔵院・新義真言宗上石神井三寳寺門徒、慈雲山と号す」とあり、さらに「稲荷社は村の鎮守なり。寳蔵院持」との記述がある。この資料には寳蔵院と記されているが、三寳寺末でほかに寳蔵院に相当する寺がないことから、これが観蔵院であり、稲荷神社を統括していたことが知られる。文明九年に太田道潅は、豊島城を本城とし、このあたりに君臨する豪族の豊島氏を滅ぼした。そして豊島氏の出城であった石神井城の跡へ、三寳寺を移転したのである。その折、三寳寺の塔頭であった観蔵院を、この南田中の地へ移築し末寺としたといわれる。時に文明九年(一四七七)四月のころである。(観蔵院パンフレット)

 庭はきれいに手入れをされていて、そちらにも関心はあるが、最初は美術館に入ることにする。玄関を入れば自動ドアのピンポンの音が喧しいが誰も出てこない。しばらくして誰かがインターフォンで声をかけると、やっと出てきた。下見の時に会ったオジョウサン(?)である。
 入館料は五百円、二十人以上の団体割引なら三百円になる。「団体にならないかな」講釈師の頼み方は特に脅迫的ではなかったが、オジョウサンが「大丈夫ですよ」と言ってくれたので、私たちは三百円で入れることになった。「たまには役にたつんだね」と口の悪い人が呟いている。
 この寺の小峰彌彦住職は大正大学の学長だ。下見の時に買ったその著書『図解・曼荼羅の見方』を片手に、曼荼羅美術館を見学するのである。曼荼羅は染川英輔画伯によるもので、この人は仏画の世界では第一人者であるらしい。金剛曼荼羅、胎蔵界曼荼羅はオーソドックスな形だが、実に細密である。ただ一見しただけでは、とても全部を理解できない。
 「つまり、これはどういうことなんでしょう」一言で説明できないエーちゃんが「ここに宇宙の全てがあるのです」と逃げてしまう。実は前もって団体として頼めば解説もしてくれるはずなのだが、解説を聞いても却って混乱してしまうだろうと、それは頼まなかった。密教には人一倍関心の強いエーちゃんでさえ、「曼荼羅は見るたびに分からなくなってしまう」と呟いている。そもそも私に密教を勉強しろと言ったのは彼であるのに。
 曼荼羅というと、両部曼荼羅の典型的なものしか頭になかったが(実は一年前にはそんなことも知らなかったのだけれど)、別尊曼荼羅という、金剛夜叉とか仁王なんかの個別の仏を中心にしたものもある。
 ネパールの仏画師ロク・チトラカール氏の不思議な曼荼羅を見ていると、やはり源流はインドなんだと納得してしまう。と言うよりもむしろ東南アジアとか、要するに南方系、熱帯系の色彩だ。「おい、ガネーシャがいるよ」象頭人身の神は歓喜天、聖天であろう。「これは狼かな、獅子かな」様々な怪物(神・天)がインド風の絵で描かれている。
 「トップレスなのね」椿姫の頓狂な言葉に、ダンディが「これは飛天です」と応じている。実は薄い羽衣を纏っているのだが、あんまり薄くて丸見えになっている。日本では天女になる。もともとはペルシアに起源をもつと言う。但し飛天については、宗匠がこんなことを調べてくれた。

飛天とは、八部衆(仏法を守護する八種の下級神)の乾闥婆(香音神)と緊那羅(音楽天)を指している。それぞれ音楽と歌舞を司る神で、仏教経典では、仏が説法する際に天から舞い下りてきて音楽を奏し、舞いながら花をまき散らして仏を讃えると記されている。

 乾闥婆や緊那羅は上野の阿修羅展で見た。そう言えば思い出したのだが、阿修羅だって、ペルシアではアフラ・マズダという光の神であった。「ヒンドゥ、バラモン、ゾロアスター、何でも混ざっているんですよ」密教は空海で完成したと言うエーちゃんが、後期密教(つまりチベット密教のことか)というものはないと断言する。

 曼荼羅に目の眩みたる夏の午後  眞人

 美術館を出てから庭を歩いてみる。庭師が座りこんで作業しているところに、「あの木は何ですか」と講釈師が声をかける。「どれですか」と腰を上げる「あの実のなっているの」「あれは、えーっと、シキミです。創価学会で使う」創価学会が関係するとは知らなかった。ダンディが辞書を引くけば、樒、梻と書く。猫の足のような形の実だ。「猛毒です」「だから悪しき実です」一応確認しておこう。

 シキミの語源は、実の形から「敷き実」、あるいは有毒なので「悪しき実」からといわれる。日本特有の香木とされるが、『真俗仏事論』二には供物儀を引いて、「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」とあり、一説に鑑真がもたらしたとも言われる。
 古代にはサカキと同様に神事に用いられたといわれるが、その後仏事に用いるようになった。そのため、神式の榊に対応させる形で梻(木偏に佛、「佛」は仏の旧字体)という国字もある。
 浄土真宗では、華瓶という仏具にシキミの枝葉を挿して、本尊前の上卓の上に供える。(小型の仏壇で、上卓が無い場合は、省いても構わないとされる。)また芳香があるため線香や抹香の材料に用いられた。一説によれば、毒性のあるこの植物を墓に供えることで、オオカミなどが墓を荒らすのを防いだのではないかという。
 また日蓮正宗などでもシキミの枝葉を仏前に供える。これはシキミが常緑樹で特有の香気を持つ日本唯一の香木であることから、常住不滅で清浄無垢である本尊を荘厳するに相応しいからとされる。またシキミの実は毒を持っていることから変毒為薬を顕しているという。(ウィキペディア「シキミ」)

 かなりのんびりしてしまった。後半のコースは少し急いだ方が良いかも知れない。山門の前の道を真っ直ぐ西に向かう。旧早稲田通りに出て右折し、ちょっと行けば石神井川に架かる豊島橋だ。後ろとの間がだいぶ開いてきた。「不思議なのよ、最初は先頭にいるのよ。だけどいつの間にか一番後ろになってるの」椿姫はいつかも同じことを言っていた。「ピッチが短いとか」ミツグが失礼なことを口にする。私はもっと悪い。「足が短いの」
 橋を渡ったところに禅定院がある。真言宗智山派、照光山無量寺。(石神井町五―十九―十)
 ここでは織部灯篭(寛文十三年十月朔日)、石幢六面地蔵(享保元年)を見る。織部灯籠はキリシタン灯籠とも呼ぶ。人型を彫ってあるのは実は裏であり、その背面を前に持って(つまり像を隠すように)設置するのだと宗匠が蘊蓄を語る。板碑が四枚、コンクリートの台座に綺麗に立てられている。ただ植え込みの間に収まっているから、全体像がよく見えないのが惜しい。茅葺の鐘楼(天保七年)は練馬区内唯一と言う。
 「智山派の本山はどこなんですか」珍しく桃太郎がこんなことに興味をもってエーちゃんに尋ねている。「智積院です」「それじゃ、京都の、あのナントカというところから上がって」「そうです」エーちゃんはともかく、桃太郎は何故こんなことを知っているのだろう。実は桃太郎は若い頃、何度も京都の寺院を歩いていたのだ。

 お金は無かったのですが時間は沢山有ったので、茨城県日立市の下宿から自転車をばらして袋に詰め込み、各駅停車に乗り継いで大津まで行き、そこで自転車を組み立てて京都、奈良の神社、仏閣は何度も訪ねました。京都、奈良間は途中一泊しましたが、それぞれのポイントでは自転車が一番便利でした。京都、奈良市内は自転車で充分回れる大きさで、バスと違って時間を気にする事無く、またマイカーと違い駐車場を探さなくとも良い・・・門前にフラッと置ける。
 京都は泉涌寺庭園、青蓮院庭園、奈良では白毫寺、秋篠寺技芸天、飛鳥では談山神社、飛鳥聖林寺十一面観音像が好きでした。

 意外と言えば失礼だが、今では山の専門家になりつつある岳人・桃太郎若き日のことである。
 ここから石神井公園の中に入っていく。「ムクゲですね」あんみつ姫が指さしたのは、濃い紫色のムクゲだ。鶴ヶ島のバス通りには、毎年夏になれば白い花を咲かせるムクゲが何本もあるが、今年はまだ花をみていない。「不思議ですよね。日本じゃ儚いものの象徴なのに、韓国では無窮花って書いて国の花になるんですから」
 最初は石神井池を右に見ながら歩く。もともと三宝寺池から周辺の田に水を引く水路だったのを堰き止めた人工の池である。池にはボートを漕いでいる若い男女が何人もいるが、私たちはそれに目もくれず、真っ直ぐに歩くのである。「どこまで行くんですか」「まっすぐ三宝寺池に向かいます」
 道路を渡れば三宝寺池になる。ポツリポツリと睡蓮(未草)の花が咲いている。どういう訳か、こちらの岸には少なく、池の真ん中より向こう側のほうが多いようだ。腹ばいになって糸を垂らしている子供もいる。講釈師幼少の砌に遊び歩いた場所である。木道を歩きながら後方ではラクウショウ、メタセコイア、辛夷、サワラなんていう樹木を見ていたようだが、先頭を歩く私にはよく聞こえない。

 三宝寺の池 回ることおよそ五百三十余歩。中に一小嶋あり。すなはち池霊弁財天の祠を建つ。この池水、冬温かに夏冷ややかなり。洪水に溢れず旱魃に涸れず、湯々汗々として数十村の耕田を侵漑し、下流は板橋・王字の辺りを廻り、荒川に落ち会へり。」(『江戸名所図絵』)

 井の頭池、善福寺池と並んで武蔵野三大湧水池と称された。

昭和十年十二月に、国の天然記念物に指定された沼沢植物群落を有する池(沼)です。水源は、武蔵野台地の湧き水であり、広さは、二万四千平方メートル、深さはさほど深くなく二メートルくらいである。湧き水が地下から湧き出している為、冬は凍らない、夏は干上がらない外の気温に影響を受けにくい池であった為、氷河期から生息しているミツガシワや、コウホネ、マコモといった植物が見られることから、これら、沼沢植物群落が、昭和十年十二月に、国の天然記念物に指定されている。また、池の周りには水辺を好む、メタセコイヤの巨木が生えていたりします。明らかに、ボート池を有する、石神井池と異なり、三宝寺池は、多くの自然が残されております。
http://parkandcats.hp.infoseek.co.jp/syakuzikouensanpouziike.html

 「初めてきたけど、なかなか良いところじゃないか」モリオが感心しながら歩いている。「私も井の頭池は良く知ってるけど、ここは初めて」世田谷の住人、碁聖も言う。木々の緑が心地よい。突き当たったところの階段を登り、右に曲がって道を間違えた。「おいおい、またかよ」「大丈夫よ、こういう所なら多少間違えたって」すぐに戻って、池を見下ろすような細道に入れば、姫塚、少し離れて殿塚に到着する。松の木の途中に小さな祠が鳥の巣か犬小屋のように置かれているのが姫塚だ。照日塚とも呼ばれる。

 太田道灌に攻め立てられた豊嶋泰経は、重代の家宝の鞍を白馬につけて、この三宝寺池に入水し、その後を追って息女の照姫も城に蓄えられた金銀財宝とともに入水した、というもの。池の底にはキラキラ光る財宝が見えるが、決してそれを取る事はできないそうです。付近にはふたりを祀った殿塚・姫塚が残ります。
 http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tokyo/Shakujii/index.htm

 「三宝っていうのはさ、その時に沈んだ金銀財宝とか、鞍とか」また適当なことを言っている。これが講釈師たる所以であるが、三宝と言えば仏法僧であろう。
 ところが、実際には泰経は石神井城落城の時には死なず、脱出して翌文明十年(一四七八)平塚城で再挙した。従って石神井落城の際に、姫が後追い自殺をする理由が無い。それに豊島氏系図には照姫に相当する人物も見当たらないというのが、どうやら定説になっている。

照日塚 (同所にあり。耆老相伝ふ、当寺(三宝寺)開山かつて在京の頃、八月十五夜雲上座外に侍して発句を奉る。
 月はなし照日のままの今夜かな
公卿雲客賞嘆して叡覧に備ふ。御感ありて照日上人の号を賜ふと云々。この塚うたがふらくは、照日上人の墓ならんといへども詳らかならず。(『江戸名所図会』)

 斉藤月岑は、三宝寺開山・照日上人の墓ではないかという説を紹介しているのだ。ここに照姫なんていうのは全く登場しない。この本が最終的に完成したのは天保七年(一八三六)だから、幕末にはまだこの伝説は生まれていなかったと言い切って良いだろう。それなのに練馬区では、毎年四月に「照姫まつり」と称するイベントを行っていて、今年は第二十二回にもなっているらしい。インターネット・サイトの見出しは、「区民が主役!照姫・豊島泰経・奥方はオーディションで決定」である。

(前略)この地に伝わる照姫伝説に因んだ時代まつりを開催しています。区民の皆さんに、郷土に伝わる文化への誇りと親しみをもっともっと深めてもらおうというのが照姫まつり開催の一番大きな目的です。地域社会への愛着とふるさと意識をはぐくみ、区民のさまざまな文化・芸術活動の発表の場を提供し、活性化を促進することもこのおまつりの大切な役割のひとつです。(http://www.hpmix.com/home/nerima60/F7.htm)

 おそらく明治以後に生まれたらしい伝説が、「郷土に伝わる文化」であり、「誇りと親しみを」持つべきものであるか。

 緑陰や風吹き抜けて古き塚  眞人

 もう一度下に下りて池の周りを歩いていく。厳島神社。弁天社である。入口は閉ざされて入ることができない。途中、自然観察をしているらしいグループを追い抜いた。今日の私たちは野草を観察している暇がない。
 山側に少し引っ込んで木道から一段下がったところに石神井城址の碑が作られている。石垣はかなり古そうだから、当時のものだろうか。

 石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘陵(台地)に築かれており、全体では九ヘクタール前後の規模であったと推定されます。当時の城は、土塁と壕で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。
 例えば、城の東側は、ここより約百メートル程の場所に幅七メートル程の壕で区画されていたと考えられ、西側は、ここより約二百二十メートル程の場所に幅九メートル程の壕と土塁で区画されていました。
 また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kanto/isikamii.html

 「豊島氏って豊島園に関係あるのかしら」勿論関係はある。武蔵国豊島郡一帯を支配していたので豊島氏と言う。かつての豊島郡のごく一部分に豊島区の名を残し、そこに作った遊園地だから豊島園と名付けた。
 それでは豊島氏についても少し勉強しておかなければならない。「武家家伝・豊島氏」から抄出してみる。

 秩父氏は子孫繁栄して広く関東の地に進出し勢力を扶植し、畠山・渋谷・河越・江戸・小山田・稲毛・葛西らの諸氏が分出した。豊島氏も秩父氏一族で、秩父二郎武常が武蔵国豊島郡に住んで豊島氏を称したことに始まる。武常は前九年の役で源頼義に従い、保元・平治の乱にも豊島氏は出陣している。(中略)
 正応二年(一二八九)、二条という漂泊の尼僧が残した『とはずがたり』という紀行文に、当時の豊島あたりのことが記されている。それには「武蔵野の秋の野には、萩・おみなえし・荻・すすきが丈余の高さに生い繁り、馬上の男の姿さえ見えないほどで、こうした風景が三日も歩いても変わらない」と述べている。このような、荒涼とした荒れ野のなかで豊島氏は平塚城・石神井城・練馬城の三城を築いて拠点とし、一帯に勢力を築いていったのである。そして、豊島氏からは、赤塚・志村・板橋・宮城氏などの諸氏が分出し、豊島氏を惣領としてその軍事力を担ったのである。(中略)
 南北朝時代は、惣領制の崩壊という一面も有し、全国的に一族が南北に分かれて争った。豊島氏もその例外ではなく、先の景村のように南朝方につく者、あるいは北朝方につく者とに分かれていたであろう。
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tosima_k.html

 その後室町時代に入ると、足利六代将軍後継問題に端を発して、鎌倉公方足利持氏が反幕府行動に出たことから、関東の戦国時代が始まる。永享十年(一四三八)、持氏は関東管領上杉憲実の諌言を退けて挙兵するも、敢え無く敗れて自害した。これが永享の乱であり、最後の合戦が結城合戦である。ちなみに馬琴の『南総里見八犬伝』はここから始まる。
 後、持氏の遺児である成氏は鎌倉府再興を許されるが、享徳三年(一四五四)、上杉憲忠を謀殺して享徳の乱が勃発する。しかし京都の幕府の介入によって成氏は下総古河に逃れ、以後「古河公方」と称される。
 一方、管領上杉家は山内・扇谷の両家に別れている。山内家の執事は長尾氏、扇谷の家宰は太田氏である。長尾景信が死んだとき、上杉顕定はその子の景春を退けて叔父にあたる忠景を執事に任命した。これに怒った景春は古河公方成氏に通じ、文明九年正月、武蔵国鉢形城に拠って兵を挙げた。たまたま豊島氏の当主勘解由左衛門泰経の妻が景春の姉(妹)であり、泰経は景春に応じた。
 泰経は平塚城・石神井城・練馬城を固めて防衛線を張り、太田道灌の川越・岩槻と江戸城を結ぶ線を分断する。こうして太田道灌と豊島泰経の戦いが始まり、石神井城は落とされるのである。ただし豊島氏の一族は、江戸時代には旗本として生き延びていたようだ。

 石碑の脇の階段を登れば、柵に囲まれた中に空濠の跡らしい光景が見える。「ここは裏口から入ります」氷川神社の裏口から入るのである。(石神井台一―十八―二十四)「ホントに裏口ね」小さな鳥居はあるのである。
 社伝によれば、本社は室町時代の応永年間(一三九四~一四二八)に、豊嶋氏が石神井城の中に、城の守護神として武蔵国一ノ宮の分霊を祀ったのが始まりである。「上下石神井村二村および田中・関・谷原等、以下五箇村の鎮守とす」と『江戸名所図会』にも書かれている。
 堂の中には、元禄年間、豊嶋氏の子孫である豊嶋泰盈・泰音によって奉納された石燈籠が納められている。享保十二年の水盤には「石神井郷鎮守社」の文字が記されている。

 表参道を通って一の鳥居を潜って外に出て、左に曲がると三宝寺だ。(石神井台一―十五―六)武蔵野三十三観音霊場第三番である。
 山門の前には「守護使不入・三寶寺」の結界石が立つ。不輸不入の権のうちのひとつであるが、特に室町時代になって守護の徴税使排除(いわば治外法権)を認められたものだ。亀頂山と号す。真言宗智山派。応永元年(一三九四)、権大僧都幸尊が開山したと伝える。もとは禅定院の当たりにあったものを、文明九年の石神井落城の後、現在地に移転した。
 門はかなり豪華な四脚門で、御成門とも呼ぶ。これは家光が鷹狩りの際に立ち寄ったことに由来するようだ。門を潜れば右手に鐘楼、左手には大黒堂が立つ。境内には大きなサルスベリが立っている。
 正面の本堂から左に向かい階段を上って行くと、立派な大塔に驚かされる。掲げられている額には二字六行で「大毘盧遮那如来法界體性塔」とある。毘盧遮那仏は密教によれば大日如来になる。その向こうには巨大な観音像が立つ。この寺にも奥の院(大師堂)がある。その途中の木立の間にはたくさんの石碑が立ち並んでいて、そのひとつひとつに、札所が彫られている。つまり、ここを歩くだけで、四国八十八か所の札所巡りをしたことになるのである。お手軽で良い。

八十の札所の碑より四葩咲く 《快歩》

 宗匠は難しい季語を使ってくれる。四葩(よひら)なんて私は初めて見る。辞書を引けば、八仙花の別名であると言うのだが、それでは八仙花とは何か。どうやら額紫陽花の中国名が八仙花と言うようだ。
 「あの額の文字が読めなくて」とクルリンが悩んでいる。私は見逃したのだが、本堂の額に、「密」それから何か分からない文字があって、「三宝」と続いていたのだそうだ。「葉みたいにも見えたんだけど」「それなら乗ですよ」姫が言うと、ダンディも、「そうそう、私もそう読んだ」と応じている。このとき私はなんだかぼんやりしていたのだが、実はこの寺は密乗院三宝寺である。
 長屋門は、かつて勝海舟邸にあったものだ。「海舟邸って、洗足のですか」エーちゃんが当然の疑問を出す。「赤坂じゃないの」「そうか、氷川ですか」私も実に好い加減だ。ちゃんと門の前に説明が書かれているじゃないか。それによれば練馬区旭町兎月園にあったのだそうである。兎月園とはどこであろう。

成増駅から五百メートルほど南西に行った所にあった「兎月園」は、東武鉄道の創設者、根津嘉一郎により大正十三年に開設されたものです。一種のヘルスセンター的な施設で、舞台のある大広間や宴会場、運動場、テニスコートや乗馬などのスポーツ施設が設置されていました。成増駅からは大した距離ではありませんが、専用のバスも運行され、東上線もかなり積極的に観光地として売り込んでいました。戦前に発行された沿線観光地地図には必ず記載され、小学生の遠足なども多かったといわれていますが、いまでは覚えている人も少なくなってしまったようです。閉鎖された時期は不明ですが、私の手元にある復刻版「大東京戦災焼失地図」(日地出版、昭和二十年刊、平成七年復刻)にはまだ兎月園の名称が記載されています。しかし戦争末期には食糧難のため農地化されてしまったということですから、昭和十九年か二十年頃には名称は残されていたものの、実質的に閉鎖されていたのでしょう。 (「東上沿線 車窓風景移り変わり」)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/konjaku-7.html#車窓no.10

 海舟が練馬に住んでいたとは知らなかった。「別荘でしょう」というのがダンディだ。この門は、両側の小部屋に今でも人が住んでいる気配が漂っていて、長屋門というのに相応しい。
 その隣にあるのが豊島山道場寺。(石神井台一―十六―七)塀の外から三重の塔が見える。武蔵野三十三観音霊場第二番、曹洞宗である。今日はずっと真言宗のお寺ばかりで、初めて曹洞宗に出会ったことになる。文中元年(一三七二)豊島輝時が豊島氏の菩提寺として建立した。境内はそんなに広くはないが、きちんと手入れされた樹木が美しい。静かな雰囲気の寺である。チイさんがこの静謐な空気に感動する。「ここの建物はいろんな時代が混ざり合ってる」エーちゃんの意見には、以下の文章を示しておこう。

 道場寺の伽藍は、日本の古典建築様式を網羅して完成されました。室町様式の「山門」に入ると、左手には鎌倉様式の「三重塔」、右手には安土桃山様式の「鐘楼」正面の「本堂」は奈良・唐招提寺の「金堂」を模した天平様式、更に京都・桂離宮を模して建てられた「客殿」は江戸時代と多岐に渡っています。ここまでの伽藍配置に至るまでに、昭和十一年の旧本堂着手から六十年の歳月を要した當山の伽藍は後代に誇れる威容となっています。
 「本堂」は、「佛殿」と「法堂」が一体となったもので本尊様を安置し各種の法要を行う場所で、寺院の最も重要な建物であり「釈尊の教え」がある場所です。「塔」は釈尊の遺骨を祀った墓所であり礼拝の対象であります。これは「釈尊の姿」に相当します。「鐘楼」は「鐘つき堂」の事で、當山では朝六時梵鐘を鳴らしますが、これは「釈尊の声」となります。これら釈尊の「教え」・「姿」・「声」の三つが揃っている寺院は、都内でも数少ない寺の一つです。(道場寺住職)

 三重の塔には人間国宝香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカから貰い受けた仏舎利が収められているという。「あれは何」とカズちゃんが聞いてくるのは、墓石や石仏を山のように積み上げたものだ。これは無縁仏の供養塔である。

 旧早稲田通りと井草通りの交差点のJAの敷地には「甘藍の碑」というものがある。下見の時には気付かなかったから、私もぼんやりしている。甘藍とはキャベツのことだそうだ。説明によれば、「東京ふるさと野菜供給事業二十五周年を記念し、練馬区の特産物キャベツを後世に伝え、生産者の労をたたえるため建立したもの」である。練馬ならば大根じゃないかと思うのは、私も含めてみんな素人だ。「この辺りはもうキャベツだらけです」と清瀬在住のミツグが証言する。東京都全体のキャベツ出荷量の五割は練馬産なのだ。
 練馬大根は元禄の頃、武蔵国北豊島郡練馬村、下練馬村で栽培が始まったのが始まりである。最盛期は明治から昭和の初期で、昭和八年の旱魃や病気の発生で次第に減少していく。また沢庵の大口納入先であった軍が解体したことも練馬大根には大きな痛手であった。練馬大根は首と下部が細く中央が太いという特徴をもつことから、引き抜くときに非常に大きな力が必要になる。農家は高齢化し、これに耐えられなくなったことも練馬大根にとっては不運なことで、次第にキャベツに駆逐されていく。現在、練馬区ではほとんど生産されていない。
 それなら練馬大根はどこへ行ったか。三浦半島に行って、その地元の大根と交雑して「三浦大根」として僅かに血脈を残しているのであった。(ウィキペディア「練馬大根」より抄出)
 「昔は、この辺りに大きな樽が並んでたんだよ、大根を漬ける樽」講釈師の思い出も、もはや練馬では通用しなくなってしまったのだ。いまや、練馬キャベツと言わなければならない。

 そこから井草通りを南に歩き、公園の前でトイレ休憩をとる。あんみつ姫が塩焼煎餅を出してくれる。椿姫は「自由が丘でしか売ってないの」となにやら甘い飴を取り出し、チイさんは冷やしたゼリーをくれる。「これは甘いけど大丈夫なの」「冷たいから良い」チイさんはリュックの中に冷蔵庫を仕込んである。
 そろそろ出発しようかと言っても、なかなか立ち上がろうとしない椿姫に「お姉さん、手をひきましょうか」と声をかけるとヨシミちゃんが笑う。
 石神井小西の交差点を左に曲がる。一丁程歩いたところの右の曲がり角に安置されているのが、丸彫青面金剛庚申塔だ。(下石神井五―七―十一)。享保十二年(一七二七)の銘をもつ。
 ひとつの石から丸彫りしたもので、私はこの形は初めて見る。丸彫りだから六臂作るのは難しかったようで、腕は二本しかない。台座の邪鬼とその下の三猿もそれほど摩滅せず、今でもちゃんと判別できるのは、よほど大事に扱われてきたのではないか。昭和四十年頃、交通事故で二つに折れてしまったが、講の努力で修復された。ということは、今でも庚申講が生きているのである。
 いつものように、踏みつけられている邪鬼を見れば、講釈師の顔と見比べる。「俺は必ずいるんだよ、セットだからさ」最近では青面金剛と言えば講釈師と、自らも認めるようになった。民家の塀の上に、真っ赤なノウゼンカズラが咲いている。

 石仏に凌霄の花燃えたちて  眞人

 そこから南にまっすぐ行けば新青梅街道だ。左折して少し行くと「ちひろ美術館」に辿りつく。(下石神井四―七―二)
 ちょうど四時だ。閉館は五時だから、じっくり見学したい人には物足りないようだ。「私たちはまた別な日に来るわ」マルちゃんたちが言い、それならいったんここで解散とする。ヨシミちゃんを反省会に誘うと「私はなんにも反省することないから」と冷たい答えが返ってきた。
 宗匠は草臥れたらしく、「もう良いよ」と心細い声を出す。彼の万歩計では一万九千歩を歩いたことになるらしい。いつもだと一歩六十センチで計算するが、今日のゆっくりしたペースでは、五十センチ程度だったのではないか。それなら九・五キロか。約八キロとみていた私の計算はまた違っていたことになる。「お寺の中を結構歩きましたからね」
 見学しない連中は中でコーヒーを飲みながら三十分待つことにした。ダンディ、講釈師と椿姫は七百円、エーちゃん、あんみつ姫、私は八百円を払って美術館の入場券を買う。

一九一八年、福井県南条郡武生町(現・越前市)に生まれ、翌年東京に移る。三人姉妹の長女。東京府立第六高等女学校卒。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。一九四六年日本共産党に入党。一九五〇年松本善明と結婚。翌年長男猛を出産。この頃より絵本画家として精力的に活動を展開するようになる。一九七四年肝ガンのため死去。享年五十五歳。
代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、『あめのひのおるすばん』『ことりのくるひ』(至光社)、『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)、画集に『ちひろ美術館』(全十二巻・別巻 講談社)、『いわさきちひろ作品集』(全七巻 岩崎書店)などがある。一九五〇年文部大臣賞、一九五六年小学館児童文化賞、一九六一年サンケイ児童出版文化賞、一九七三年ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞等を受賞。自宅のあった東京にちひろ美術館、長野県に安曇野ちひろ美術館がある。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%A4%A4%EF%A4%B5%A4%AD%A4%C1%A4%D2%A4%ED

 五十五歳で死んでいるのだ。ちひろの色彩は儚くてなんだか淋しい。復元したアトリエに見る小さな机が(我が家の子供だって、もう少し大きな机を使っていた)、貧しかった生活を表わしている。信州安曇野にも美術館があるのは、戦後ちひろの両親が住んでいた縁による。入館料八百円は少し高いような気がするのは私が吝嗇なためであろう。客の中に若い男女の姿が見られるから、今でも人気があるのが分かる。エーちゃんだって感動したのである。

「腹ペコ青虫」は娘にも読ませたことがあります。あの慌しい時代にああいう優しい心があったんですね。團伊玖磨の子守唄に付けられた詩も素敵でした。本当に久し振りに眼福を得ることが出来て幸せでした。

 売店では、ミュージアムグッズの好きな姫が物色している。「欲しいんだけどね」と言う「ちひろバッグ」は三千八百円、これはちょっと高いんじゃないか。定額給付金を使い果たした美女は、仕方がなくポストカードで我慢する。
 椿姫とエーちゃんは五時までちゃんと見ていくということなので、反省会をしなければならない連中は高田馬場の「さくら水産」に向かう。

 反省会参加者は十人である。「この一杯のために、昼は飲まずに我慢したんだぜ」モリオが生ビールを旨そうに飲む。姫とカズちゃんはいつものように御握りから始めなければならない。すぐに焼酎になる。ミツグは鯵の唐揚げの頭の部分を二匹分、骨まできちんと胃に収めて尊敬される。それに対して宗匠と桃太郎の方は骨を残している。骨の頑丈さからすれば、桃太郎と比べた時なんだか逆じゃないかと思ってしまう。
「誰も反省してないじゃないか」ドクトルの言葉に、「心の中で充分に反省してるんですよ」とダンディが応じる。いつものように楽しい反省会は二時間弱で終わり、「今日は歌おうよ」という姫のたっての希望で、ドクトル、チイさん、ミツグ、モリオ、私はカラオケになだれ込むのである。

眞人