第二十五回 駒込・王子・赤羽(日光御成道)編
平成二十一年九月十二日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.09.21

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 昨日までずっと好天に恵まれていたのに、今日だけが狙ったように雨になった。「私は晴れ女なのに」誰か強烈な雨男がいるのではないかと、リーダーの目が私を咎めているように見える。
 駒込駅である。
 駒込の地名由来の一つに、ヤマトタケルが馬を止めたと言う伝説がある。しかしヤマトタケル東征神話に馬は登場しない(筈だ)から、馬に因むとしても理由は違う。牛込、馬込などの地名と同じように、飛鳥時代の諸国牧、延喜の勅旨牧以来の牧場に関係するかも知れない。東国は馬の産地である。「高麗」由来説もあるようだが、判定できない。旧駒込村は豊島区駒込、文京区本駒込、千駄木を含む地域だった。
 「あれが、なにか由緒ありそうなんだよ」まだ全員が揃わないうちに、講釈師が通りの向こう側を指さして、横断歩道を渡って行く。遠目で見て料亭の門構えのようだと思ったのは間違いで、大国神社だった。私が持っている『大きな字の地図で東京歩こう』(人文社)には出ていないし、見た限りでは各種ガイドにも載っていない。「前から気になってたんだ」狭い境内には「甲子祭」の幟がはためいている。宗匠がすぐに辞書を引けば、これは大黒の祭りである。「ネズミは大黒の使いだからか」と宗匠が納得している。
 駅に戻ると、漸く全員が集まってくる。リーダーのあんみつ姫のもと、碁聖、住職、ダンディ、講釈師、ドクトル、チイさん、モリオ、宗匠、ロダン、桃太郎、チロリン、ハイジ、カズちゃん、私の十五人が集まった。しかし、私と宗匠はなぜか十四人と計算してしまう。
 ミツグはバレーボールの試合、ハッシーは風邪、ミッキーはオカリナの演奏会と欠席届が提出されている。いつもお神酒徳利みたいにチロリンと一緒のクルリンが来ない。「用事があるって言ってたよ」「そう言えば椿姫が来るはずなんですが」ダンディが心配そうに改札口を眺めているが、気配はない。「雨だからでしょうね」「暑いからイヤ、寒いからダメ。雨もダメなんだからな」参加しなくても批評されるのである。
 アメリカから帰ってきたばかりのダンディの今日の帽子はCHANGEである。44th PRESIDENTとも書かれているので、第四十四代合衆国大統領オバマに因む。言っちゃ何だが、年齢の割にダンディには少しミーハーの気ある。好奇心が強いのだ。カズちゃんは仙台から帰って来た。その仙台の美容院で整えたショートカット・ヘアをハイジが絶賛する。「とっても素敵」それでは私の頭はどうだろう。実に下らない質問で、ハイジは絶句してしまう。
 最初にリーダーから重要な指示が出された。昼食は飛鳥山博物館内の軽食喫茶を予約してある。ただし、館の催し物の関係でどうしても十一時半には入店しなければならず、更に予め注文もしておく必要がある。メニューは、カレーラーイス、ハヤシライス、タラコスパゲティ、スパゲティ・ミートソースの四種類である。挙手によって注文をまとめたリーダーは、店に電話をする。「だから皆さん、寄り道しないで歩いてくださいね」

 「ああ、こんなに降ってきちゃったよ」用意周到な人はポンチョや合羽を身に付ける。最初に向かったのは、今行って来たばかりの大国神社だ。リーダーはちゃんと知っているのだ。オオクニではなく、ダイコク神社と読むらしい。天明三年(一七八三)創建、祭神は大国主命。徳川家斉が鷹狩りの帰りに立ち寄り、その後十一代将軍になったことから、出世大黒(大国)とも呼ばれだそうだ。
 本郷通りから妙義神社近道と書かれた狭い路地に曲がると、その突き当りに鳥居が見えた。妙義神社(妙義大権現)である。豊島区駒込三―一六―一六。「妙義山と何かの関係がありますか」碁聖の疑問は私も感じていたことだった。鳥居を潜り、石段を上って境内に入る。

日本武尊が東征の折、陣営を構えた処と伝えられ豊島区最古の神社である。また、太田道灌が出陣に際し文明三年(一四七一年)同九年、十一年にも当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことにより勝負の神として「勝守り」を授与している。(御由緒)

 上州の妙義神社も祭神は日本武尊だから、当然それを勧請したものだと思うのだが、それらしいことがどこにも書かれていない。もともとは(いつの頃までか分からない)ヤマトタケルに因んで白鳥社と言われたらしい。それならば鷲神社、大鳥神社などと同系統ではないだろうか。
 そんなことよりも、この神社はむしろ太田道灌の戦勝祈願が強調されていて、道灌霊社という小さな祠がある。この神社に祈願するたびに勝ったのである。その頃の道灌ならば、何も祈願しなくても勝ち続けていた筈だ。勝ちたい人は「勝ち守り」を手に入れることができる。その脇には寛永十九年の庚申塔が立つ。文字だけがたくさん彫られているもので、「庚申供養」の文字に気がつかなければ、私たちが良く知っている庚申塔だとは思えない。
 もう一度石段を下りて裏側から回りこんで本郷通りに戻る途中には、女子栄養大学(大学院と短大)がある。
 表通りから左に霜降銀座という狭い商店街を見て、この道は河川だったとドクトルが断定する。「ほら、霜降橋の標識がありますよ」とダンディが交差点を指さす。なるほど、今はないが橋があったとすれば川が流れていたのである。よく分からないが、石神井川の流路はかなり変化しているから、かつてのその流れか、あるいは支流だったのだろうか。こういうことはきちんと調べなければならない。染井から流れ出て不忍池に流れ込む藍染川と言う川があったのだ。
 「新編武蔵風土記稿」によれば(と言っても私がそれを読んでいるわけがない。孫引きです)水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原村へ(つまり、ここです)、さらに、駒込村から根津谷を通って不忍池に注ぐ。その後不忍池から流れ出て上野の山の三枚橋下(公園入り口のところ)で忍川になり、三味線堀から隅田川に注ぐ。
 上流から境川、谷戸川、谷田川、藍染川などと呼ばれた。霜降橋は谷田川に架かっていたと言うから、この辺では谷田川と呼ばれていたようだ。
 古石神井川の流路だったという説もある。関東大震災の後、順次暗渠化された。染井から流れ出るからとか、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど、藍染の名の由来はいろいろある。谷中七福神を歩いたときには、ドクトルが谷田川を教えてくれた。森まゆみ『不思議の町根津』に、藍染川の源流を訪ねて自転車で探検した「藍染川が流れていた」という文章が収録されている。

 本郷通りには祭提灯が飾りつけられている。小さな祠には、赤い提灯や旗が吊り下げられ、賑やかだが、ここは「ことぶき地蔵尊」である。北区西ヶ原一―二七。もともとは無量寺にあったものだ。桃太郎を筆頭に「寿」を願う人はきちんと御参りしなければならない。
 通りに沿った長い石垣を左に大きく回り込んで行くと、旧古河庭園の入口に着く。北区西ヶ原一―二七。入園料は百五十円、高齢者は七十円になる。ジョサイア・コンドル設計の洋館には入らず(予約が必要らしい)、庭園を歩く。雨で石が滑りやすい。薔薇の名所だということで、プリンセス何某と、女性の名前を付けた名札が多いが、当然ながら今は花の季節ではない。こういうのは講釈師が得意だ。美智子妃、雅子妃やダイアナなんていうのがある。「キコ様のはないのかしら」読みは違うが同じ名前のハイジが講釈師に聞いている。マダム・サチというのを見て、「確かサチコさんもいましたよね」とダンディが首をひねっているのはおかしい。われわれの仲間にはサッチーがいるじゃないですか。
 「こんな庭のある家に住みたい」豪農チイさんがそう言うのである。七十三平米の団地に住む私は何と言えば良いか。

明治期の当地は陸奥宗光の邸宅であったが、宗光の次男潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったため、古河家に所有が移った。その後、一九一七年(大正六年)に古河財閥三代目当主の虎之助(市兵衛の実子)によって洋館と庭園が造られ現在の形となった。洋館と洋風庭園は、明治から大正期にかけて多くの洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドルにより設計された。また、日本庭園は近代日本庭園の先駆者として数多くの庭園を手掛けた小川治兵衛(植治)により作庭された。一九二六年(大正十五年)に虎之助夫妻が牛込に転居した後は、古河家の迎賓館として使用された。太平洋戦争中は陸軍に接収され、南京国民政府成立前には、汪兆銘が匿われていた事もあったという。(ウィキペディア「旧古河庭園」)

 「この時代の洋館ってみんな似たような雰囲気ですよね」と桃太郎が感心したように言う。よく分からないが、建築家の数もそんなに多い時代ではないと思う。大邸宅を設計できる人間はほとんど限定されていたんじゃないだろうか。日本庭園は京都の庭師・小狩治兵衛の設計になる。丘陵に心字池を配した、かなり広い庭だ。
 普通の説明では、この庭園の始まりは陸奥宗光からになっているが、それ以前は何だったのだろうか。これだけ広大な庭は元大名屋敷だったとしか思えない。姫が即座に「戸川播磨守下屋敷です」と答えてくれる。「戸川って有名かい」ドクトルに聞かれても私も分からない。
 ところが、ガイドを二三冊ひっくり返してみてもそんな答えは出てこないのだ。この後に寄ることになっている無量寺の風景を『江戸名所図会』で見れば、寺に隣接するこの辺の部分は樹木の茂る丘陵になっていて、大名屋敷のようではない。
 ガイド本を二三冊見てみれば、西ケ原から染井にかけて、江戸時代には植木・園芸が盛んであった。文化年間(一八〇四~一八一八)まで植木屋仁兵衛が造った植木御用庭園「西ヶ原牡丹屋敷」があったが、廃絶して明治維新を迎えた。それが、この地である。
 一方、姫の調査はこういうことだ。

「尾張屋版江戸切絵図」と呼ばれる切絵が基になっている本に書かれていたからです。
「染井王子巣鴨辺絵図」には「嘉永七寅歳新刻 戸松昌訓図之 麹町六丁目 尾張屋清七板」と書かれています。西暦だと一八五四年ですね。
絵図では、「戸川播磨守」と書かれていて●がついているので、下屋敷だと思われます。ちょっとおいて隣が無量寺、斜め前には平塚社、奥には城宮寺が、そして飛鳥山の手前には一本杉神明宮の名前も記されています。

 そう言われて私も開いてみると(私はちくま学芸文庫版『新訂江戸名所図会』別巻「江戸切絵図集」を見ている)、確かに無量寺の隣に戸川播磨守屋敷がある。『江戸名所図会』本文は天保の頃に出版された。書かれたときにはまだ戸川屋敷はないのである。その後戸川さんが住み着き、嘉永七年の切絵図に収載されたのだろう。
 いくつかネットを検索してやっと見つけた。戸川播磨守安清は天明七年(一七八一)に生まれ、明治元年に死んだ。五百石の旗本だが、天保の頃、長崎奉行から勘定奉行に栄転している。和宮降嫁の際には護衛役を務め、西の丸留守居役、本丸留守居役を歴任した。その地位で五百石のままだったかどうか分からない。書の達人として有名で、家茂、一橋時代の慶喜に書を教えた。おそらく勘定奉行になった頃に、牡丹屋敷跡を給付されたのではないだろうか。

 陸奥宗光は、維新期の大物としては珍しい紀州藩士である。明治三十年に自身を批評してこんなことを書いている。自己観察として正確だろう。

陸奥の談話好きなるは猶ほ伊藤、大隈の如し、然れども彼は動もすれば多弁に陥ゐり、又其談話中、伊藤の如きは講釈様の談話なきに非れども、彼は寧ろ議論癖ありて、往々口角沫を飛ばして他人と争論し、其勝を好むの癖あるや、勝に乗じて窮寇を追撃するを厭はず。ゆえに彼が議論は引証明晰、論旨正確対談者をして敢て反駁の言を容るゝの間隙なからしむるも、之が為時としては甚だ人をして不平不満足の念を懐かしむるを免れず。(岩波文庫『蹇蹇録』解説より)

 足尾銅山のこともあって、古河については余り書きたくない。田中正造、荒畑寒村のことを思わざるを得ないのだ。
 「陸奥宗光の奥さんって、ものすごい美人でした」「そうそう、結婚してからも陸奥は手紙を随分書いているんですよ」ダンディも知っているのか。私は知らなかったからついでに調べてしまおう。夫人の名は陸奥亮子と言う。ウィキペディアによれば、美貌と聡明さによってワシントン社交界の華と呼ばれた。なるほど三十三歳の写真を見れば美人だ。しかも当時にあっては珍しく欧風の顔立ちで、横顔には儚げな憂いがある。女優にしたいほどだ。

没落士族の旗本・金田蔀の長女として江戸に生まれる。明治の初めに東京新橋柏屋の芸妓となり小鈴(小兼)の名で通る。新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。(略)
一八七八年(明治十一)、政府転覆運動に荷担した疑いで夫の宗光が禁固五年の刑に処せられ、山形監獄(のちに宮城監獄)に収監された。亮子は、宗光の友人津田家に身を寄せて姑政子に仕え、子育てをしながら獄中の宗光を支えた。宗光は妻亮子にたくさんの手紙を書き送っており、宮城監獄収監中に相愛の夫婦の慕情を漢詩にして亮子に贈っている。
一八八二年(明治十五)宗光は特赦によって出獄を許され、翌一八八三年から伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。宗光が外遊の間亮子に宛てた書簡は五十通を越える。一八八六年(明治十九)宗光帰国して政府に出仕。社交界入りした亮子は、岩倉具視娘戸田極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。
一八八八年(明治二十一)、駐米公使となった宗光とともに渡米。その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。(ウィキペディア「陸奥亮子」)

   私は無知である。「鹿鳴館の華」と言えば大山捨松と思っていたが、「華」というには捨松は威厳がありすぎるかも知れない。ついでに、上の記事で陸奥亮子と並び賞されている戸田極子は岩倉具視の娘、美濃大垣藩の戸田氏共伯爵の妻で、伊藤博文とのスキャンダルで一躍庶民の間でも有名になった。首相官邸で仮装舞踏会が催された日に、事件は起きた。当時の新聞報道(噂話と紙一重)の下品さとしつこさについては、前田愛『幻景の明治』に詳しい。しかし、そんなことは旧古河邸とはあまり関係がなかった。
 一人で歩いていたご婦人が、リーダーを説明員だと思い込んでしまったようで、熱心にその説明を聞いている。
 時折雨脚が強くなる。ズボンの膝から下がびしょ濡れになり、脹脛が冷たい。「泰平型灯籠」と名付けられた石灯籠の中に猫が身じろぎもせず蹲っている。

 灯籠に猫隠れゐる秋の雨  眞人

 「枯滝」の前でリーダーが説明する。少し遅れて歩いてきたロダンが、「昔は水が流れてたの」と口を滑らすのを、講釈師が待ち構えていた。「枯山水を知らないのか。風流ってものがない」早速いつもの拳闘が始まる。つくづく考えてみると、この二人がいなければ私の作文は成り立たない。「よかったわ、ロダンが来てくれて」姫だってそう思うのだ。

 枯滝の水を恋して砂袋 《快歩》

 ちゃんとした滝も勿論ある。かつては自然の湧水が落ちていたのだろうが、今は人工的に循環させているらしい。灯籠が多い。池を臨むところに置かれた石灯籠は随分大きなもので、雪見灯籠と名付けられている。今年初めて見る彼岸花の赤が、雨のなかで映えている。「私も白は見たけど、赤は今年初めて」ハイジも言う。
 庭を巡って門の所に戻れば、傘をさした連中が大勢、中を歩こうかどうか、迷っているように立っている。
 外に出ると右前方に平塚神社が見えてくるが、その前に無量寺に行かなければならない。横道に入って行く。墓地の辺りで姫から注意が入る。「普通のお家の間を抜けますから、その時は静かにしてくださいね」勿論、注意を促すべき相手は決まっている。

 無量寺は真言宗豊山派、仏宝山西光院。北区西ヶ原一―三四―八。もと長福寺と号したが、吉宗の世子長福を憚って、無量寺と改名した。創建は平安時代と言う。この辺りは律令時代の武蔵国豊島郡の中心だったから、古い寺が存在してもおかしくない。
 コンクリートの門の両側には七社祭の提灯が下がっている。「江戸名所図会」を見てみると、本堂の右奥手の高台の上に「七の社」というのがあったことが分かる。それに因むのだろう。立派な山門を潜って境内に入り込む。正面入り口が分かり難いことと雨のせいもあるだろうが、静かな落ち着いた雰囲気だ。かつては広大な寺域を誇ったと思われるが、いまでは小ぢんまりとしている。
 この寺は六阿弥陀三番を名乗る。春秋の彼岸に行基作と伝える阿弥陀仏を参詣する行事を六阿弥陀仏巡りと言い、江戸人の行楽の一つであった。第一番は西福寺(北区豊島二―一四―一)、第二番は延命寺(足立区江北二―四―三)、第三番がこの無量寺、第四番は与楽寺(北区田端一―二五―一)、第五番は常楽院(調布市つつじヶ丘、江東区から移転)、第六番は常光寺(江東区亀戸四―四八―三)となる。
 『嬉遊笑覧』を見ると、六阿弥陀巡りは江戸の時代には代表的な行事であったことが推測される。

拝み巡るに、さまざまあり。高野大師を念ずる輩は、四国遍路をめぐり、一向門徒は、親鸞由所の地廿四処えり出して参詣す。(略)其外秩父坂東の札処、また一日の中に巡る処も設けて、種々あり。洛中にも三十三処のうつし、何くれの処とて多くあり。(略)江戸も亦同くあまたあれど、唯群聚して詣づるは、春秋二分の六阿弥陀なり。『俳諧種おろし』中村玉亀が高点の句、「六あみだ座つて拝む一はなし」といへるもおかし。(『嬉遊笑覧』)

 聖武天皇の頃、足立村の長者の娘が土地の領主豊島左衛門清光に見染められて嫁入りしたが、姑の嫁いびりに堪えかねて、五人の侍女とともに入水した。この娘はもとから仏道帰依の心深く、これを知った行基が供養のために六体の阿弥陀像を作ったという伝説がある。奈良時代に豊島氏が存在する筈もなく(豊島氏は秩父平氏を称している)、これは明らかに眉唾である。
 境内は狭いが樹木が良く手入れされている。赤だけでなく、白い曼珠沙華も美しい。

 雨粒へひかり配して彼岸花 《快歩》

 「ホトトギスに気が付きましたか」姫が言う。「あっ、これね」とハイジが指さすのを見れば、確かに薄紫に斑点をつけたホトトギスだ。しかし杜鵑草はいろいろ種類があって区別が難しい。これは花弁があまり反り返らず、ほぼ真っ直ぐになっているもので、以前、隊長に教えてもらったタイワンホトトギスという園芸種ではないだろうか。

 やはらかに雨降り頻り杜鵑草  眞人

 「母親の実家の菩提寺なんですよ」桃太郎が意外な事実を告白する。彼が生まれたのは千住だから、「シティボーイなんですね」と奥州生まれの美女が、不思議な感心のしかたをする。そう言えばつい最近、世田谷生まれの人間が「世田谷は山の手である」(山の手とは山手線の外側である)と頑固に主張していた。ちょっと恥ずかしいし、小林信彦ならば激怒するだろう。それからすれば、千住や西ヶ原は江戸の頃から開けているから、シティでもおかしくないか。
 リーダーが宣言していたように、ここから本当に民家との間の狭い軒下を通り抜け、もう一度本郷通りに戻って行く。信号を渡る。
 平塚神社の鳥居脇には和菓子の「平塚亭」が店を構える。普段なら必ず立ち止まるはずのリーダーが、今日は目もくれない。「珍しいね」「無理してるんじゃないの」この店は内田康彦の浅見光彦シリーズでも御馴染らしい。
 参道入り口に立てかけられた看板を見ると、九月十四日、十五日が例大祭である。境内を見学していると十一時半には間に合わないので、説明だけを読むように。関心のある人は別の機会に来るように。リーダーはしきりに時間を気にしている。私は姫の企画が発表されたあと、この辺りから王子神社までは一人で見学してみたから大丈夫だ。
 入口から鳥居まではかなりの距離があり、参道は駐車場と化している。それなら説明を読んでみる。

平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
 徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。(縁起)

 ここから飛鳥山の辺りまでが平塚城であった。と言っても範囲はかなり広いので、一定間隔で砦のようなものをいくつか置いたのではないだろうか。前回の石神井編では石神井城跡を見た。太田道灌によって石神井城が滅ぼされた後、城主の豊嶋泰経はこの平塚城に再起したのだった。しかし、ここを豊島氏に抑えられては、岩槻城と江戸城の連絡が途絶えてしまう。戦略的には実に重要な場所で、道灌としては何が何でも落とさなければならない城であった。文明十年、平塚落城とともに豊島氏は滅んだ。
 本郷通りを歩いていると気がつかないが、この神社の脇を上中里駅方面に向かう道は、谷底に向かって行くようで、つまりここは高台であると言うことが分かる。百日紅の並木が続くその道からちょっと脇に入ると城官寺がある。上の記事の山川城官に由来する、平塚神社の別当寺だ。

 紅白の街路囃して百日紅 《快歩》

 「この辺だよ、浅見光彦がいるのは」講釈師は何でも知っている。確かに北区地域振興部産業振興課で作った地図にも「名探偵★浅見光彦の住む街」と記されている。こんなページを見つけた。

 ここから西ヶ原三丁目にあるといわれています浅見家を探してみたいと思います。まず必要なデータをさまざまな浅見光彦に関する本から集めてみたいと思います。「浅見家のある北区西ヶ原へは、東大前からバスで一直線であった。東京にはめずらしく、あまり大きなビルのない古い住宅街だ。バスを降りて表通りのパン屋で訊くと、すぐに分かった。長い板塀に囲まれた瓦葦きの宏壮な二階家である。」は浅見光彦ミステリーシリーズ(作家は内田康夫)の「後鳥羽伝説殺人事件」の中に書かれています。(中略)
 その他のデータでは「滝野川警察署から五百メートル、とげ抜き地蔵までは染井霊園を通るのか最短ルート、平塚亭までは七八百メートル」とあり、西ヶ原三丁目交差点から滝野川警察署方面に少しいった所が本命の場所と考えられます。番地でいうと西ヶ原三丁目二三から三〇位と推定しました。(東京紅団「浅見光彦のミステリー紀行」)
 http://www.tokyo-kurenaidan.com/asami-mitsuhiko1.htm

 こういうことをやっている人たちもいる。内田康彦のものは初期の二三作しか読んでいないし、テレビドラマもあまり見ないから、私は浅見光彦には縁遠い。たぶん普通の人はドラマで知っているのだろうね。
 消防署の隣は防災センターを兼ねた滝野川公園だ。しかしリーダーは足を止めない。ここは御殿前遺跡で、縄文・弥生時代の遺跡が発掘された。旧石器時代から相当大規模な集落が存在したようで、武蔵国豊島郡の郡衙の中心があったとされている。
 武蔵国豊島郡は、現在の行政区画では千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、練馬区の大半の区域になる。その範囲からみれば、郡衙が置かれた場所としては、かなり北に偏っている。江戸湾が大きくこの辺りまで食い込んでいたのが理由だろうか。その後の中世以降でも、交通は河川利用が基本だと考えれば、荒川の存在が大きい。ここが最適であったかも知れない。
 東京高等蚕糸学校跡、造幣局滝野川工場を見て通る。「石神井川はこの辺りで滝野川になって、それから音無川になるんです」とダンディが言う。私が調べてきたのとは違う。「それはちょっと違うみたいですよ」「私はちゃんと予習してきました」ダンディの主張の典拠は、新潮社編『江戸東京物語』で、確かにそう書いてある。私の方は『江戸名所図会』に拠る。音無河の項にある。

音無河 王子権現の麓を流る(ゆゑに、紀伊国音無河を模してかくは名づくるとぞ)。本名を石神井川といふ。(武州石神井村三宝寺の池より発するところなり)。下流は荒川にいる(世俗、滝野河といふは誤りなり。滝野河村と号して河の号にはあらず)。

 「河の名にはあらず」とちゃんと書いているのである。ただ、天保の頃には既に一般には川の名前だと思われていたのだろうと言うことも推測できる。滝野川警察署の辺り、ここだけ道路の真ん中が中央分離帯のように島が形成されている。警察署の側にも小さな塚が向かい合っていて、この間のちょうど二車線分が、かつての街道(岩槻街道、または日光御成街道)の道幅そのままに残ってしているのだ。これが本郷追分の次、日本橋から二里にあたる一里塚である。中山道志村にも一里塚が残っていたが、あそこは道路の拡張に合わせて塚の位置を移動しているから、かつての位置そのままに一里塚が両側に残されているのは、都内でここだけということになる。渋沢栄一を中心として地元の人が保存運動を繰り広げた結果だ。
 警察署脇の大鳥居を潜って七社神社に行く。北区西ヶ原二―一一―一。

当神社は往昔の御創建ながら、寛成五年(一七九三)の火災により古文書、古記録等を焼失した為に詳ではありません。しかし、翌年九月二十三日に御社殿は再建され、故にこの日を当社の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。
当時は仏宝山無量寺の境内に祀られ、「江戸名所図会」には無量寺の高台(現・古河庭園内)に「七つの社」として描かれています。
明治時代になり、元年(一八六八)に神仏分離が行われ翌二年に一本杉神明宮の現在地に御遷座になり西ヶ原・栄町の総鎮守として奉祀されるに至りました。
また、「新編武蔵風土記稿」には、「西ヶ原村七所明神社、村の鎮守とす。紀伊国高野山四社明神をおうつし祀り、伊勢・春日・八幡の三座を合祀す故に七所明神と号す。末社に天神・稲荷あり云々」と記してあります。(御由緒)

 また新しいことを調べなければいけない。高野山四社明神とは、丹生都比売神(高野山の地主上)、高野御子神(その御子)、大食都比売神(気比神社から勧請)、市杵嶋比売神(厳島神社)のことだと言う。
 この記事でひとつ分かることがある。旧古河庭園は、かなりの部分を無量寺の敷地を奪い取って拡張されたものだということだ。
 社殿の左には男爵古河家寄進になる孔子像、孟子像が立つ。「どういう所縁なの」現在おのれの住む土地にいた神様に対する詫びかも知れない。一本杉神明宮(天祖神社)、稲荷神社、熊野神社、菅原・三峯神社、疱瘡社と並ぶ。
 武運長久の額を掲げた神楽舞台の手摺に、十二支を模った十センチほどの素焼きの土鈴がおいてあり、自由に持って行って良いと書いてある。「お賽銭上げた人は持ち帰ってもよいですよ」リーダーの言葉だから、お賽銭を上げない私は当然お持ち帰りできないことになる。宗匠の手にした辰は胴体が丸いので辰と思うには少し勇気がいる。豚のようにも見える。偶然にダンディとカズちゃんが同じ動物を手にした。「娘にね」「それじゃ御嬢さんは私と同じ歳ですか」「いや、それはちょっと」

 飛鳥山公園はすぐだった。「時間通りでした」とリーダーが安堵する。博物館に入り、柱に巻き付いたようにグルグル廻る階段を登れば、カフェ・バーチェである。予約席は狭い。既に注文していた通りのものがすぐに出される。カレーライス六百三十円、ハヤシライス六百八十円、ミートソース五百八十円、タラコスパゲティ五百八十円である。昼食をとる店にはいつも苦労する。店の広さや、立地によっては時間が限定されてしまう。これからは場合によっては、神社の境内で弁当を広げることも考えた方が良いかもしれない。
 「早く終わっても待っててくださいね。博物館には一緒に入りますから」そう言っても聞く講釈師ではない。早々と下に降りてミューアムグッズの売り場辺りを物色している。役に立つかどうかは分からないが、私は『北区の歌碑句碑』(北区教育委員会)百円也を買った。
 博物館の入館料は三百円である。高齢者割引はない。券を入手すると、「すぐに飛鳥山劇場が始まりますから」と係員が先導してくれるので、嫌とは言えない。ベンチ式の席は七八人で一杯になるから、その後ろの座敷に上がって鑑賞することにする。狭い舞台の端に黒衣人形が後ろ向いて立っているのが不気味だ。
 人形が説明し、黒衣の人形がレールを滑って舞台の背景を変えれば、そこに絵や実写が映し出される。演出自体もちゃちなもので、姫は随分無駄な時間だったと嘆くことになるが、何、それでも発見はあるのだ。まず説明役の老人が、細長い紙に目の形を描き、それをメガネのように掛けている。これは「目カツラ」というものである。新知識だ。実写の中で演技をしている中年から老年の女性が、すべて歯を黒くし、眉を剃っているのは、ここだけが実にリアリズムであって、まことに無気味だ。鉄漿をつけた人間が動いているのを見るのは初めてで、大いに啓発された。あの頃の人はこれで何の違和感も覚えなかったのだから、人間の感覚と言うのは時代と環境に大きく左右される。しかし、ダンディや宗匠は居眠りをしているみたいだ。
 「もう三十分以上も無駄にしてしまいました」姫は頻りに後のことを気にしている。これからのコースも急がなければならなくなった。博物館も急いで見学する。
 正倉を復元したものを見て、「正倉院しか知らなかった」と宗匠が正直に告白する。私は知らなかったことを口にしない。しかし知識は得ておかなければならない。本来正倉とは、律令制度のもとで国衙、郡衙、寺院などに設置された倉庫である。その倉が複数設置された大がかりなものを正倉院と呼ぶ。(へーっ、そうなのか)保存するものは穀物や財物であり、奈良の正倉院の場合には宝物を保管した。
 荒川の生態系を示した展示コーナーでは、講釈師と姫が「あれはヨシキリ、あれは何」とやかましい。私とロダンには鳥に関する関心が欠けているので、なんのことかまるで分からない。
 ざっと見ただけだったが、ここで展示説明シート十四枚を仕入れた。収穫はあった。
 次は渋沢栄一記念館である。入館料三百円は自動券売機で入手する。その機械の脇に係員が付きっきりでいるから、別に自動券売機でなくても良いように思う。

渋沢史料館は、近代日本経済社会の基礎を築いた渋沢栄一(号は「青淵」)の思想と行動を顕彰する財団法人である「渋沢青淵記念財団竜門社(現 財団法人 渋沢栄一記念財団)」の付属施設として、一九八二(昭和五十七)年、渋沢栄一の旧邸 「曖依村荘」跡(現在東京都北区飛鳥山公園の一部)に設立された登録博物館です。
当初の渋沢史料館は、旧邸内に残る大正期の二つの建物「晩香廬」と「青淵文庫」(いずれも国指定重要文化財)を施設として開館しました。

 「幕末には慶喜に付きっきりで活躍したんですよね」とロダンが感心している。私はその辺の事情には疎い。今更渋沢栄一について書くべきことはない。日本資本主義の歴史には、どのページをめくっても渋沢の名前が出てこないものはないとだけ言えば良いだろう。
 その渋沢は天保十一年二月十三日、武蔵国榛沢郡血洗島村の豪農の家に生まれた。「血洗島っていうのも凄い地名だな」モリオが笑っている。嘘か本当か知らないが、こんな話があった。

現在の埼玉県深谷市の辺りに、血洗島村、手計(手墓)村などという、不穏な名の集落があった。この血生臭い村名には、幾多の伝説が伝えられていた。その一つは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を取られ、その傷をこの地で洗ったという。また、武将の首を首実検に供える為、小川の水で洗ったともいう。
隣りの手計村には、切り落とされた武士の手ばかりが流れ着いたとも伝えられている。また、八幡太郎義家が、利根川岸の戦いで片腕を切り落とされ、その血を洗った村で、その腕を葬った所が手計(手墓)村の村名の起因だとも伝えられている。(渋沢家の人びと)
http://www.geocities.jp/kazumihome2004/1.html

 ここは簡単に見て終わる。次は晩香廬だ。渋沢栄一の喜寿を記念して合資会社清水組(現・清水建設)四代当主清水満之助が贈ったものだと言う。「贈収賄になるんじゃないか」「そんなことは超越してるでしょう」
 軸組みに栗材を用い、屋根は赤色の塩焼瓦で葺いた木造平屋建て、建坪七十二平方メートルというから、団地の私の家とほぼ同じ広さである。「家具も当時のものでしょうか」待機している係員の女性が、「このテーブルは当時のものです。ただ椅子は張り替えています」と答えてくれる。
 次は青淵文庫である。これも傘寿と子爵昇格の祝いを兼ねて、龍門社(現・財団法人渋沢記念館)の会員が贈った。なんでも贈られるのである。リーダーが厳しく言うから時間を厳守しなければならない。「だって、このあとも見るべきところがいっぱいあるんですから」
 ここにきて漸く雨も上がったようだ。「一時はどうなることかと思いましたよ。谷中の二の舞か、なんて」いつまでも雨の谷中伝説は付きまとうのである。

 公園内を歩く。飛鳥山の碑は大きな石で、あまりにも難しい漢文なので、江戸時代から誰も読めない碑として有名だ。それよりも磨滅が激しくてほとんど判読できないというのが実情だろう。私は冒頭の「惟」と「熊埜」と言う文字だけがかろうじて分かった。元文二年(一七三七)王子権現別当寺住職宥衛が建立した。碑文と書は儒官成島道筑である。後世、その家は柳北が継ぐことになる。『江戸名所図会』に読み下しが書かれている。

惟ふに南国の鎮、熊埜の山といふ。神あり、熊埜の神といふ。実に伊弉冉尊なり。伊弉諾尊・事解王子を配祀し、あるいはこれを三神となす。事解は別して飛鳥の祠たり。三狐神は副たり。語は神史中にあり、別録を蔵す。誌に曰く、「むかし元享中、武の豊島郡豊島氏、はじめて豊島郡に兆して熊埜神の坐地を為る。これを王子といひ、山これを飛鳥といふ。けだし、これより始まるなり。熊埜の川を音無川といひ、流れ象る。爾来四百有紀、土人、時をもつてこれを祀る、一日の如し」(後略)

 あんまり長いのでこの辺でやめる。漢文だから格調高いが、内容的にはそれほどだとは思えない。この後は、吉宗が花木数千株を植えて、繁盛したと言うようなことが書いてある。
 「桜賦の碑はどこかな」宗匠が呟いている。みんなよく知っているね。それは何だろう。

明治十四年佐久間象山の筆により勤皇の志を桜に託した詩を、門下生だった勝海舟、小松彰、北澤正誠らにより建碑された。この碑は初め飛鳥明神の旧地の地主山にあったが、スカイラウンジ(回転展望台)を建てるため現在地に移転させた。この工事の折、古代遺跡の多い飛鳥山なので、古墳ではないか都立王子工高の考古クラブに発掘して貰ったところ、この発掘調査で象山が暗殺された時の血染めの挿袋を納めた石を発見した。ところが空気に触れた袋は崩れたが、蓋石の石室銘に「蔵之石室 永存天壤間」と記した金石文が見つかったので、「これを書いた門 人の意志を尊重しよう」という森正らの意見により、碑の地下に丁重に埋設した。これに関してその後象山の故郷松代町(現在の長野市松代)より北区々長宛てに感謝状が送られて来た。

 「昔この辺りに、塔があったんだよ。ぐるぐる回るやつ」講釈師のいう昔は元禄時代からつい最近まで及ぶから判定が難しい。回転展望台のことか。

東京・北区の飛鳥山公園にあった回転展望塔。「スカイラウンジ」という正式名称はあまり浸透しておらず、一般にはもっぱら「飛鳥山タワー」で通じた。直径十三メートルの展望台には喫茶店や大型の双眼鏡が備えられ、回転床は四十分で一周した。展望台の標高は約四十メートルで、好天の日には東京湾まで見渡すことができたという。しかし周囲に中高層マンションが林立し、間近を新幹線の高架橋が横切るなど次第に展望は損ねられ、一九九〇(平成二)年に王子駅前に完成した十七階建ての区営公共施設「北とぴあ」最上階に展望ルームがオープンするに至ってスカイラウンジの存在価値はほとんどなくなった。一九七四(昭和四十九)年度には二十四万五千人を数えた入場者数は一九九一(平成三)年度には十一万八千人にまで落ち込み、最晩年には一日の入場者がわずか十人という日もあったという。飛鳥山公園の改修工事に合わせて平成五年九月限りで閉館し、解体された。
http://www7.plala.or.jp/tower/lost/asukayama/asukayamatower.html

 わざわざ桜賦の碑を移転させてまで作った展望台が、僅か二十三年動いただけで解体された。見通しの悪さ、役人仕事の典型ではあるまいか。
 公園を出ればすぐに歩道橋で、橋の上から路面電車の走るのが良く見える。音無橋の下を下りれば、一瞬滝の流れる音が聞こえてくるがすぐに静かになる。「滝の音は絶えて久しくなりぬれど」と姫が呟く。「名こそ流れてだっけ」「そうです。名こそ流れてなほ聞こえけれ」大納言公任である。
 コンクリートの護岸が施され、岩や石は人工的に設置されたのだと思うが、なかなか気分は良い。地上の騒音がまるで聞こえない。音無親水公園だ。さっきも触れたように、この辺りは紀州熊野を範としていて、その名を採ったのである。
 私は石神井川の流路変更は、人為的に行われたものかと思っていたが、ドクトルとロダンによれば、全く自然によるものである。自然的に、この辺りの丘陵が侵食されて、この渓谷が生まれたのだそうだ。二人はなんだか難しい専門用語を使っていたが、それは忘れてしまった。
 「横からなんですけどね」いつも聞く言葉であるが、河原から石段を上って王子神社の境内に入る。北区王子本町一―一―一二。石段を登ったすぐ脇には、王子神社のイチョウというものが立っている。東京都教育委員会の説明によれば、大正十三年の実測によると、目通り幹囲は六・三六メートル、高さは十九・六九メートルであったという。それから八十年以上経てば、もっと大きくなっているのだろう。「巨樹です」桃太郎は断言する。

社記に曰く、若一王子の社は紀伊国熊野権現を勧請す。御醍醐天皇の御宇元享年中(一三一二~二四)、豊島何がしの主とかや、新たに祠宇を建てて崇めけるが、風霜ふり、歳月深うして、朝の霧は香を焚くかとあやしみ、夜の月は灯を挑ぐるに似たり。(『江戸名所図会』)

 「王子」の地名はこの「若一王子」に由来し、熊野川に倣って石神井川のこの付近を「音無川」と呼んだ。豊島氏滅亡後、北条氏も朱印状を寄せ社領を寄進している。徳川家康は天正十九年、二百石の朱印地を寄進し、将軍家祈願所と定めた。この後代々将軍の崇拝を受け、「王子権現」の名で江戸名所の一つとなる。
 八代吉宗が元文二年に飛鳥山を寄進。桜を多く植えて、庶民遊楽地とした。これが今日の「花の飛鳥山」の初めである。
 境内には毛塚・関神社なんていうものもある。私と住職、それにそろそろ頭が涼しくなってきたモリオにも関係があるか。「家の家系じゃ俺だけなんだよ」住職が笑って報告する。

「髪の祖神」関神社由緒略記
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」 の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。

毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助とする。(境内案内板))

 モリオが折角真剣に祈っているのに申し訳ないが、ここは毛の生えてくる神社ではない。「なんだ、かつらか。早く言ってくれよ」玉垣にはかつら店、床山、理髪店の名が連ねられている。
 蝉丸は所伝不明の人物だから様々な伝説が語られた。宇多天皇の皇子敦実親王の雑色という説がある。最も有名なのは能「蝉丸」だろう。そこでは延喜帝第四皇子とされている。
 延喜の帝(醍醐天皇)の系図に蝉丸も逆髪も存在しないのは明らかだが、おそらく芸能民が伝えた伝承だと思われる。芸能や様々な職に携わる人々(道々の輩)は、天皇との繋がりを示す伝説や偽書を伝えていて、それが無縁、公界(治外法権、放浪の自由)を保証するものだったことは、網野善彦が繰り返し述べているところだ。やがて天皇の権威が衰微するに従い、かつての特権がやがて差別に変容していく。
 ただ、これがカツラや髪の毛にも関係するとは思わなかった。能『蝉丸』によれば蝉丸自身も庵にたった一人で孤独に住んでいるうえ、逆髪もまた放浪の狂女である。「侍女に命じて」なんてことがどこら出てきたのだろうか。
 ともあれ、「かつら」伝説を伝えなければならなかった事情を考えれば、理髪を業とするものもやはり差別されていたのだろう。これは大西巨人『神聖喜劇』でも触れられていたことだ。

 「その辺に玉子屋があったんだよ、鬼平に出てくる。知ってるだろう」私は鬼平ってほとんど読んでいないから知らない。厚焼きの卵らしい。しかし扇屋なら落語「王子の狐」に出てくる。人間に化けた女狐を逆に騙して、扇屋の高級料理をたらふく食ってしまう男の話だ。江戸時代には海老屋、扇屋というのが王子を代表する高級料理屋だった。海老屋はなくなったが、扇屋の玉子焼きは今でも売っている。私は勿論食べたことはないが、かなり甘いものだそうだ。
 葛餅屋「石鍋」の前を通り過ぎながら、「食べていきたいんですけど」とリーダーが呟く。「ちょっと寄ってもいいんじゃないですか」ロダンがそう言うと、案の定講釈師が噛みつく。「バッカじゃないか。リーダーがこんな店に入ったら、一時間も出てこない。最低でも三十分はかかるんだぜ、考えて言えよ」「そんな、せいぜい五分ですけどね」姫も弱々しく反論するが、誰も信じない。

 名物や後ろ髪引く秋の道  眞人

 王子稲荷神社は隣に幼稚園を併設している。「こういうの、多いよね」北区岸町一―一二。

王子稲荷の社 同(王子権現)北の方にあり。往古は岸稲荷と号けしにや。(『江戸名所図会』)

 岸稲荷である。そしてこの辺りの住所表示は岸町である。江戸の頃は岸村で、この辺はかつて荒川に面していたのではないかと思われる。「浦和にも岸町があるわ」ハイジが言う。
 「狐の穴があったはずだ」とダンディが言うものだから、赤い小さな鳥居をいくつも潜って、そちらを目指す。「お稲荷さんって何のご利益があるの」チロリンの疑問に、「お金持ちになるの」と姫が応える。「だけど油揚げ持ってこなくちゃダメだ」「そうか」穴の中には、小さな石の狐に赤い風呂敷のような布を被せた置物が二匹、正面には榊が飾られている。
 この神社には、源義家所持の兜二、面頬二、長刀二、「額面著色鬼女図の絵馬」などが伝えられているらしい。しかし何と言っても王子稲荷と言えば狐である。

毎年十二月晦日の夜、八カ国の狐此所にあつまり、狐火をともす。(「江戸砂子」)

 関八州の狐が集まるのである。しかし関東の狐を総括するのは王子神社であるとは、簡単には言えないのだ。湯島の妻恋神社は姫の好きな社だが、そことライバル関係にある。

(前略)このうち王子稲荷と妻恋稲荷は一時期、互いに関東稲荷総司を名乗ってその正当性を争ったが、寺社奉行の吟味の結果、妻恋の方に軍配があがったと妻恋側には伝えられている。確かに江戸湯島の妻恋稲荷から分霊を勧請して祀られた稲荷社が全国各地に見られ、(中略)とはいえ、今もって関東稲荷総司を自称しているのは北区の王子稲荷であって、当然そちらにも別の言い分があることと思われる。(長沢利明『江戸東京歳時記』)

 江戸の頃盛んだった様子は『江戸名所図会』に書かれている通りだ。

当社は遥かに都下をはなるるといへども、つねに詣人絶えず。月ごとの午の日にはことさら詣人群参す。二月の初午にはその賑はひ言ふもさらなり。飛鳥山のあたりより、旗亭(さかや)・貨食舗(りょうりや)、あるいは丘に対し、あるいは水に臨んで軒端を連ねたり。実にこの地の繁花は都下にゆずらず。(『江戸名所図会』)

 江戸人は行楽が大好きである。音無川の渓谷、飛鳥山の花、それに神社仏閣がそろっていれば、日本橋からせいぜい二里ちょっとの距離である。ハイキングにもってこいの場所だ。
 「狐の集まるのは、本来こことは違うんじゃなかったかな」ダンディの言うのはこういうことだろうと思う。関東中の狐は元旦に王子稲荷に参詣するのだが、その前に少し離れた榎の立つ原っぱに集まって身なりを整える。その榎は明治年間に枯死し、昭和に入ってその跡を記念して神社が建てられた。装束稲荷神社と言う。ネットを検索すると、この装束稲荷が、本来の王子の稲荷であるかのように書いてあるものもあるが、誤りであろう。『江戸名所図会』に「装束畠・衣装榎」の図が掲載されているが、もちろん装束稲荷神社はまだ生まれていない。

毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここに集り来ること恒例にして、いまにしかり。その灯せる火影によりて、土民明くる年の豊凶を卜ふとぞ。このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし。

 パンフレットを見ると、毎年大晦日の夜、装束稲荷を出発して王子稲荷へ参拝し、新年を祝う会があるようだ。「王子狐の行列の会」と言う。
 金輪寺は門前を通り過ぎるだけだった。本来、王子権現、王子稲荷の別当寺として栄えたのだろうが、今では面影もない。

江戸時代の金輪寺は、本堂が北区役所第二庁舎付近にあり、禅夷山東光院金輪寺といい、王子権現社・王子稲荷社を管理する別当寺でした。万延元年(一八六〇)十二月の火災により焼失し、そのまま明治初年の神仏分離をむかえ、廃寺になったといいます。その後、明治三十六年(一九〇九)二月真言宗霊雲寺第十五世正行が地元檀徒とはかり、残っていた藤本坊・弥陀坊のうち、藤本坊が金輪寺の名跡を継ぎ、王子山金輪寺としました。これが現在の金輪寺で、真言宗霊雲寺派に属します。
http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/history/history/da207.htm

 名主の滝公園の入り口は、武家屋敷のような門になっている。ここは王子七滝の一つ、安政年間に畑野孫八が開いたものだ。しかし王子七滝という表現はそれほど古いものではないらしい。

江戸時代、滝についての記述のある書物では、古くは「江戸惣鹿子名所大全」ほか多くあるが、これらの書物に「王子七滝」なる表現はない。時代が変わって明治になっても、明治三二年に出た「東京風俗誌」まで「七滝」という表現は出てこない。そして明治四三年刊の「東京名所図会」に初めて「王子の七滝」という表現が見られ、「名主」「稲荷」「弁天」「不動」「権現」「見晴」「大工」の七つの滝がそれであるとしている。それ以降の出版物には五滝、または六滝の紹介にとどまり「王子七滝」の紹介はどの書物にもない。従って、第二次大戦以後出版された北区誌や案内記に出てくる「王子七滝」なる表現は、「東京名所図会」からの引用であると断定してよいであろうし、同時にそのようなネーミングは、書物の内容をアピールするための手段であったともいえるであろう。(北区立郷土資料館調査報告第四号)

 住職と姫は四阿で休憩し、その間に滝を巡る。ちょっとした山道のようでもあり、さっきまでの雨でかなり滑りやすい。石段もなんだか歩きにくい造りだ。男滝、女滝。「いくつ見た」「二つ」地図によればあと二つある筈だが、そろそろ疲れてきた。
 四阿に戻ると、チイさんが葡萄とブルーベリーを出してくれる。冷たくて旨い。「さすが豪農、自分ちで採れたの」「隣から貰ったの」「私、お煎餅持ってきたけど、今日みたいな日には合わないわね」と姫は煎餅を出し惜しみしている。すぐに出発だ。
 「これからきつい上り坂になりますからね」リーダーの言葉通り、そこは三平坂と呼ばれる坂である。たしかに急な坂だが、目黒の行人坂に比べればどうってことはない。しかし住職にはきつそうだ。

名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷の住人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る道路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。平成二年三月 北区教育委員会

 坂を登りきったところで、西に向かい、十条台小学校の校庭にリーダーが入り込んでいく。「大勢なら大丈夫かと思って」一人なら入れないか。目的は「旧下十條小学校跡」碑であった。下十条という地名があったことになる。現在の東十条駅は、かつて下十条駅であった。「廃校になったんでしょうか」「統合じゃないですか」真相は次の通り。

昭和十二年に、「下十條尋常小学校」として開校いたしました。その後「下十條国民学校」と名前が変わり、昭和二十年、空襲を受けて全焼。学校も廃校になってしまったのでございます。学校があったのは、たった九年足らずの期間でした。
http://www.jujo-ginza.com/jujomura/jujomura2/jujomura2.html

 「九条とか八条っていうのはないんでしょうか」桃太郎の当然の疑問である。「憲法じゃないの」と姫が笑う。実は十条という地名にも二つの説がある。

一四四八年(文安五年)の熊野領豊嶋年貢目録に初見される。由来は新編武蔵風土記による豊島清元が熊野権現を勧請した際紀州の十条峠に因んでつけたとする説と、新修北区史による古代の条里制に基づくという説がある。(ウィキペディア「十条」)

 二番目の「条里制に基づく」というのであれば、九条や八条があっても良さそうなものだ。それで私は独断で、最初の説を支持することに決めた。
 「十条には陸軍の造兵廠があったんだよ」講釈師は軍隊に行った年代でもないのに、よく知っている。調べてみると、今の王子中央公園、自衛隊駐屯地、成徳短大、王子養護学校のあたり一帯がそうだったようだ。
 次は地福寺だ。もう一度右に曲がって行く。北区中十条二―一―二〇。門前にはそれぞれ大きさの違う地蔵が六体並んでいる。左の一番大きなものが、かつては「鎌倉街道の地蔵」と呼ばれた。
 「茶垣の参道」説明によれば、かつて王子地区は東京でも有数の茶所だったそうだ。それを記念して作られた垣根である。
 境内には入らずに出発しようとすると、中から住職らしい人が出てきて、「謹呈」の文字を押した紙封筒を二つくれた。一つはリーダーに、もう一つは勝手ながら私が頂戴した。寺の由緒沿革を記した冊子である。頂戴したからには紹介しない訳にはいかない。小学生が地域の歴史を調べる授業の一環として地福寺を訪れ、様々な好奇心に満ちた質問をしていく。それに応えるために作成したと前書きにある。子供たちが立入れば騒々しくもあり、境内を汚されることもあるだろう。その子供たちのために作ったのだ。寺院の中には立ち入り見学を拒否する寺もある。私たちも、ある寺院ではけんもほろろに追い払われたことがある。それと比べて誠に清々しい態度である。

 当山は、詳しくは十條山(古くは医王山)地福寺東光院と号し、真言宗智山派に属しています。総本山は、京都市東山区の智積院です。康平年間(一〇五八~一〇六四)、京都の三室御所仁和寺の僧、経邦上人が、伊予公の護持僧として奥州討伐に同道した折、討伐後も一人東国に残り、十條山を開き御所の秘仏(太子作、薬師如来像と伝える)を、この地に奉安したのが当山の始まりです。

 空襲で焼失した後、先代住職夫妻が様々な苦難を乗り越えて再建した。またハンセン病救済事業に力をつくしていることも書かれている。これに因んで貞明皇后像を建立した。アジアの貧しい留学生のために学生寮も建てている。私はすっかりこの寺のファンになってしまいそうだ。
 十条富士塚にも登らなければならない。北区中十条二―一四―一八。鳥居の脇には大きな石碑が立ち、「庚申第三十九度記念碑 北口登山・十条伊藤元講」と赤字で彫られている。

 十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文(めいぶん)によれば遅くとも、天保十一年(一八四〇)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳(こみたけ)神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。(北区教育委員会)

 ここからは赤羽に向かって少し距離がある。道の反対側の寺の門前に何かの石仏が見えたので、ちょっと見ようと道を横切って行くと、全員がぞろぞろと付いてくる。リーダーの目が険しい。ゴメン。石幢六面地蔵であった。すぐに戻ってリーダーの後に従う。
 三叉路の場所に、不思議な三角の木造二階建ての家を見る。真正寺坂の交番の角を曲がったところには、苔むした庚申塔が立つ。

(真正寺坂は)岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西に登る坂です。坂の北側(赤羽西二―一四―六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(一七六九)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていることがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。

 庚申塔には黄色い苔が付着していて、金剛に踏まれている邪鬼はすっかり黄色くなっている。「あーあ、俺がこんなに苔むしちゃって」庚申塔の邪鬼は、すっかり自分のことであると講釈師も観念しているのだ。「これよりいたばし」「濁りません。イタハシです」派出所の外壁には蔦が這って、なかなか雰囲気が良い。
 更に先に行けばまた路地を入ったところでリーダーが立ち止まる。「稲付の餅搗唄」の説明板が設置されているのだ。

稲付の餅搗唄は、毎年二月の初午の日に、赤羽西二丁目に所在する道観山稲荷社で行われる餅搗きの際に唄われます。唄は餅を練る時に唄う「稲付千本杵餅練唄」と餅を搗く時に唄う「稲付千本杵餅搗唄」があり、もともとは、この地域の人々がお祝いの餅を搗く時に唄われていたものでした。餅搗きは、三人ないし四人が臼を囲んで、唄に合わせて時計周りに周りながら小ぶりな杵を交互に振り下ろし餅を搗きます。最後に仕上げ搗きをして搗きあがった餅は参列した人たちにふるまわれます。(「北区の歴史と文化財・祭歳時記」)

 「あれ、なんだい」その路地の奥に見えるのは、石垣を積み上げた門の上に中国風(道教風?)の鐘楼が乗っている建物だ。「どうしても見たい人は走って行ってください。私たちは先を歩いていますから」リーダーは機嫌が悪いが、気づいてしまったのだから仕方がない。ここは勘弁してもらおう。門から中を覗き込めば樹木の向こうにインド風の仏塔も見える墓地だった。
 ここは普門院。真言宗智山派、妙覚山蓮華寺である。北区赤羽西二―一四―二〇。調べてみると、徳治二年(一三〇七)創建と伝えられるから古刹である。勿論正面の鐘楼門はそんなに古いものではなく、昭和十七、八年頃完成したものらしい。
 すぐそばに「陀枳尼天」の額を掲げた朱の鳥居を持つ小さな社があった。地図を見ればこれが道灌山稲荷のようなのだが、それにしては小さすぎる気もする。
 「お稲荷さんの祭神はなんですか」桃太郎の質問にうっかり「狐」と答えてしまったのは我ながら情けない。すぐに「狐は眷属でしょう」と余りにも正しい反論を受けてしまう。元々は山城国稲荷山の、山本体が神であった。それが豊穣を望む穀物の神に仮託され、宇迦之御魂神(うかのみたま)、御饌津神(みけつ)、倉稲魂命なんていう名になった。要するに穀物神である。
 但し、この鳥居の陀枳尼天はそれとは違う。人の死体を喰らう夜叉神であったが、狐に跨る姿から稲荷神と習合した。しかし本来狐ではなく、ハイエナに乗っているのだという説もある。豊川稲荷の本尊である。

 路地から本通りに戻れば、姫の一隊はすでに随分先を歩いている。なんとか信号待ちのところで追いついた。「誰だい、リーダーの指示に従わないで勝手に行動する奴は」そう言う夫子自身も私と同じではないか。
 かなり急な石段の下には「都旧跡・稲付城址」と記された柱が立っている。登り坂にはかなりきつそうな住職は、下で休んでもらうことにして、残りの人間は坂を登る。北区赤羽西一―二一―一七。自得山静勝寺である。

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和六二年(一九八七)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(一五五八~一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
http://www.ukima.info/meisho/kaiwai/inatuke/inatukej.htm

 砦としては申し分のない地形だろう。しかし、道灌が死んでから廃城になってしまったようだ。太田道灌公御影堂があるが、ガラスに格子戸だから中が見えない。ネットで調べてみると、坊主頭(入道だから当然)の道灌座像が鎮座しているのである。

 自得山静勝寺 曹洞派の禅宗にして稲付にあり。この地は太田道灌間エン(清浄)の居跡なり。道灌滅ぶるの後は、狐兎のふしどとなりけるを、中頃萍水浮雲の僧あつて、このところに草庵を結び、道灌寺と号す。これ当時の草創也。その後太田家より当寺を建立ありて、静勝寺と改む。(『江戸名所図会』)

 「道灌が死んだ後はすぐ北条でしたか」ロダンの質問だ。歴史はそんなに早く進まない。扇谷、山内の上杉両家の抗争が暫く続き、もちろんその間に古河公方ともややこしい戦いをしなければならない。北条氏が制覇するのはその後になる。帰りは石段ではなく、長い坂道を下りていく。石段の下で待っていた住職の隣には猫が静かに座っていた。

 赤羽駅の構内を抜けて東側に出る。赤羽の地名はこうである。

太古、厚く積もった関東ローム層の台地に秩父から下り落ちる荒川の流れがぶつかり、そこに立止まって周囲に氾濫し、やがてその水が引いて出来た土地が赤羽。したがって水が丘の裾を削ったために低地との落差が激しくローム層を縦割りにした崖が多くある。その壁面に赤い土が露見していたが、この赤土を意味する赤埴(あかはに)が地名の語源ではないかと一般的にいわれている。
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/topics002.htm

 「あと一時間ほどです」姫の宣言に「えーっ、もういいよ」と宗匠が軟弱な声を出す。珍しくドクトルも「足の裏が痛くなっちゃった」と渋い顔をしている。この辺りで姫が煎餅を出してくれた。ちょうど腹が空いてきた所だったので有難い。
 宝幢院は三叉路の突き当たりに見えるのに、横断歩道が中途半端に遠いところにある。回り込んで門前に着けば、道標が立つ。

「南江戸道」「東川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国富士道 板橋道」元文五庚申天十二月吉日

 真言宗智山派。医王山東光寺である。北区赤羽三―四―二。かつては浮間村西間にあったが、荒川の氾濫による洪水を恐れてこの地に移ったと言う。
 境内には地蔵庚申ともう一つ板碑が並んでいる。「猿二匹の庚申塔があるはずなんですよ、見つかりませんか」姫が一所懸命探しているが、もしかしたらこれではないか。真ん中の仏に向かって、二匹の猿が手を合わせているように見える。「これですよ」

板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところが二猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて造立されたようです。(北区教育委員会)

 別に庚申塔と思わなくても、山王信仰にまつわる板碑で良いのではないか。ただ、山王信仰といえば天台ではないのか。新義ではあってもここは真言宗である。それでも良いのだろうか。ほんとに、日本人の信仰というのは難しい。
 赤羽岩淵駅で、所用のある碁聖と住職が別れ、姫は我々を酒屋へと連れて行く。小山酒造である。岩淵町二六―一〇。本家は指扇の小山本家酒造だ。その次男小山新七が岩淵に秩父水系の良質な伏流水を見つけたことで、小山酒造株式会社として明治十一年に創業した。都内唯一の造り酒屋で、商標は丸眞正宗である。姫の当初の目論見では、ここで試飲をするはずだったのだが、どうしても時間の都合が付かなかったのだ。
 桃太郎は一升瓶を買い込む。ドクトルも姫もダンディも宗匠も酒を物色している。その間に講釈師に連れられて裏手の工場を見に行く。工場の壁には「愛酒報国」なんていう看板が掛けられている。「今の時代に報国かい」酒税と言うものがある以上、酒を飲む者はことごとく国に報いている。その上私はタバコの税も納めているのである。愛国者と言ってよい。
 店先には「史跡岩槻街道岩淵宿問屋場址」の碑が立っている。すぐそこに、新荒川大橋が見える。一応岩淵宿についても押さえておかなければならない。

 岩淵宿は岩槻道の初宿であって『遊暦雑記』には日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間とある。旅篭屋は若松屋大黒屋が有名で本陣は小田切氏が代々勤める。川口と合い宿として月の前半後半で宿場の役目を交代した。実際にはほとんどが日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかったようだ。と新修北区史にある。
街道の初めの宿場といえば千住板橋新宿品川などに見るように実質的にそこが旅の門口で、見送る人たちと一晩遊興してから旅立つところとされて色街的な色彩をのちの時代まで残す。だが岩淵にはそのような面影が見られない。おそらく宿泊客は少なく休憩場所的な性格が強かったのではないだろうか。
しかし宿場の機能とは旅人に宿を提供するばかりではない。むしろ江戸内外の物資の運輸や郵便通信などの問屋場業務のほうが政治的社会的には重要で、多くは本陣が直轄して運営されていた。ことに岩淵は街道交通に加えて荒川の上流下流の水運もあったのでその意味では物資が集積する賑わいのある町だったのではないだろうか。川が荒れたときや荷がたくさん届いたときなどはたびたび周辺の村から男たちが川越え人足として駆り出されたという。
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/topics011.htm

 岩淵の渡しがある筈だが、今日は行かない。対岸から見れば川口の渡しである。頼朝挙兵の報を聞いて奥州から駆け付けた義経もここを渡っていったのだ。

きづ川を打過ぎて、酒匂の宿に着いて、馬休めて、絹川の渡りして、宇都宮の大明神を伏し拝み参らせ、音に聞く室の八島を外に見て、隅田川を打渡りて、武蔵の国、足立の郡、川口に着き給ふ。御曹司の勢八十五騎にぞなりにける。(『義経記』)

 秀衡が義経のために用意した兵は三百余騎。急ぎに急いだのでそれが脱落して三分の一程度に減ったのである。
 酒を必要とする人が全て買い終わったとき、チイさんが小袋(それでも結構大きい)をいくつも取り出して分けてくれる。生姜である。「味噌を付けて食べると旨いんです」早速一切れ折ってかじってみると、さわやかな辛さが口に広がる。旨い。「もう食べちゃったんですか」姫が驚く。まだ充分に、しばらく家で酒を楽しめるだけの量がある。「善き友三つあり。一にはものくるる友」やはり豪農チイさんは友として持つべきひとである。

 海道を歩き疲れて新生姜  眞人

 赤羽駅に向かって戻り、本日最後の見学場所は正光寺である。岩淵町三二―一一。山門の前には「正光寺」「大観音」の門柱が立つ。正面には大きな観音が立っている。高さ三丈三尺。明治三年(一八七〇)、当時の住職が鏡を集めて(?)溶かして造ったと言われる。しかし境内には建物が一切無い。ただ空き地が広がっているだけなのは、昭和五十三年にホームレスの失火によって消失した後、再建されていないからだ。木造建築としては山門だけが焼け残った。
 観音は立派だが、なんとなくバランスが悪い。「顔が大きすぎるのよ」ハイジに言われると確かにそうだ。光輪を背負い左手に蓮華を持った聖観音である。私は観音像に詳しくはないが、表情はなんだか観音のようではない。ぼーっとした大仏のようではないか。

 荒れ寺や観音独り秋の風  眞人

 それにしても、この境内に観音だけが聳えている光景は無残である。北区都市計画道路にこの境内を抜けるコースがあるという説もあり、再建できない理由はそこにあるのか。可哀そうだから由緒を引用しておく。

正光院 浄土宗。芝増上寺末。天王山淵冨院と號す。本尊彌陀。長二尺五寸許。春日の作と云。相傳ふ宿内荒川邉に、往昔西光寺と號せし寺あり。開祖は宿の民仁右衞門の先祖、石渡民部輔保親と云。延慶二年四月朔日卒し、西光院祐譽道春と追號す。開山は記主禅師良忠。中興は了誉上人なりしが、後に衰廢したるを、真誉龍湛と云僧、名主嘉右衞門の祖、小田切将監重好といへるものと同意して、慶長七年今の地へ移し、建立して正光寺と改號す。正光は則重好の法謚なり。寛永元年十一月十八日死す。龍湛は元和三年十月十五日化す。墓所に記主了譽龍湛の碑石並び建。また昔は岩淵山と稱せし由。是は西光寺と云し時の山號なるべし。西光寺蹟は、明和五年九月、伊奈備前守檢地して、年貢地となし、當寺の持とす。堂内に行基作の正観音を置。頼朝子育観音とも。世継観音とも稱す。由來詳ならず。(新編武蔵風土記)

 これで本日のコースはすべて終了した。行けなかったところもあるが、なかなか充実した、見どころの多い地域だ。宗匠の万歩計では二万三千歩。意外に多い。「姫がリーダーの時はいつも長い」と言うのが宗匠のボヤキだ。
 四時半を回ったところだが、ちょうど目についた「ジョナサン」でお茶を飲むことになった。私とモリオはビール、ダンディは日本酒を飲んでいる。宗匠は、ここでアルコールを飲むと歩くのが面倒臭くなると、ドリンクバーに決め、それにあわせてドクトルも同じものにする。しかしドクトルはドリンクバーの紅茶が面倒臭いと文句を言う。講釈師がクリームあんみつを食べているのが、みんなの注目を浴びる。「いいじゃねえか、何食べたって」「このあいだなんか、パンを食べていたし」「それも二つも」喧しい限りである。
 講釈師、チロリン、ハイジとは駅前で別れ、我々は断固として反省をしなければならい。とりわけ、リーダーの指示に違反して寄り道を繰り返した私は、反省する権利がある。赤羽には「さくら水産」がないようだが、五時を過ぎているから別に「さくら水産」にこだわる理由はない。今日は「和民」だ。「ちょうど隣にカラオケもあるし」と期待しているのは姫だった。いつもよりは少し高級(そうな)ものを食べ、楽しい時間は過ぎていく。

眞人