第二十六回 玉川上水編 平成二十一年十一月十四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.11.26

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 「明日は雨がひどくなりそうだ」金曜日の朝、モリオから不安そうな声で電話が入った。その時点のヤフー天気情報では、午前中の降水確率六十パーセント、午後は五十パーセントとなっている。講釈師や碁聖は私のせいにするだろう。
 モリオ初めての企画で、四回ほど下見を重ねて万全の用意を整えていたのである。「昼飯だって十五人分予約しちゃったし」しかし、この会は台風でもない限り絶対に中止はしない。などと偉そうに言うが、なに、単純に連絡網が完全でないためなのだ。「玉川上水の遊歩道が歩けなくなるんじゃないか、相当ぬかるんでいると思うよ」普段の仕事の時でさえ、モリオはこんなに心配しないだろう。とにかく明日の状況次第で考えよう、場合によっては若干コースを変えても仕方がないねと電話を切った。
 モリオが事前に配布した資料は膨大なもので、下村湖人、高橋是清、山本有三、太宰治、森鷗外などについて克明に記してくれている。どうやら文学散歩の趣である。

 旧暦九月二十八日。武蔵小金井駅北口集合。駅は高架工事の影響で、中央線の下りから来ると北口に出るのがやや面倒になる。ただ、大半の人は武蔵野線西国分寺を経由するはずだから大丈夫だろう。相変わらずチロリンは早い。「二人の会社には雨の霊が憑いてるんじゃないか」登場早々の講釈師が私とモリオを睨みつける。姫は乗り遅れて五分遅刻したものだから「もう除名だな」といつもの言葉をかけられる。  雨で暴風も予想される中、集まったのはリーダーのモリオ、宗匠、ロダン、チイさん、碁聖、ダンディ、講釈師、あんみつ姫、チロリン、クルリン、ハッシー、ミッキー、私。十三人である。これなら予約していた店にも面目が立つ。
 今日はロダンの履いている真っ白い靴が、講釈師の攻撃の種になる。「こんな雨の日に、ドロドロになっちゃうじゃないか。考えて来いよ」おまけにショルダーバッグにも文句がつく。「バッカじゃないか。みんなリュックなのに」江戸歩きにリュックはおかしいと散々私たちを罵倒していたのは講釈師である。「やっぱりロダンが来ると違いますね」「そうそう、先日なんかロダンがいないから午前中はシュンとしていたのに」
 小金井街道を北に向かう。雨は心配したほどでもない。ときどき止むし、降ってもほんの小雨程度のようだ。「素敵ですね」とハッシーに誉められたのは、カインズホームで買った合羽だ(四百八十円也)。これを着ていれば傘もいらない。リュックには百円ショップで買ったビニール風呂敷を被せてある。「お揃いになっちゃったかもしれない」と宗匠がリュックの中から水玉模様の風呂敷を取り出して見せる。確かに似ているようだ。しかし私とお揃いになるのは嫌なので、宗匠はすぐにそれをしまいこんでしまった。
 本町二丁目交差点の角に小さな稲荷が祀られている。大松木之下稲荷という。狭い境内には、笠付きの青面金剛(寛政の年号あり)、石面がかなり風化した小さな庚申塔のほか、石灯篭二基、石の祠もある。重要な街道の分岐点だったのではないかと想像される。ここから右に曲がる。
 「こんな看板あったかな」一ヶ月ほど前にモリオの下見に付き合ったときには気付かなかった。「この一ヶ月で作ったんだよ」三光院の精進料理の看板なのだ。「皆さん、精進料理を食べて、少し精進潔斎する必要があるんじゃないですか」と姫がニヤニヤする。私は今年六月に竹寺の精進料理を食べたからもう良い。あのとき講釈師はいなかったから、彼には絶対勧めなくてはいけない。  ところが残念なことに三光院の門は閉ざされている。泰玄山三光院。小金井市本町三丁目一―三六。臨済宗の尼寺で、山岡鉄舟に所縁がある。「六十歳以下の男性がいるから閉じているんですよ」ここが尼寺だと知ったダンディが断言する。「私なんかはもう、枯れてしまっているから大丈夫なのに」ホントですかね。若者よりはるかに強靱な体力と人並み以上の好奇心をもつ彼が、「枯れた」なんて言っても誰も信じない。

 降る雨に尼寺閉ざす暮れの秋  眞人

 「こっちから見えるよ」講釈師の言葉で垣根越しに境内を覗き込んでも、山岡鉄舟の碑は見えない。赤い実をたくさんつけているのはなんだろう。ハッシーの疑問に、「タラヨウ」と私は口走り、宗匠が「それは怪しい」と首を振る。姫の判定ではイイギリであった。おっちょこちょいに、何でも口に出せば良いというものではない。
 モリオの克明な資料のお蔭で私も今日はかなり予習をしてきた。折角調べてきたから記しておこう。

 台東区谷中の全生庵は山岡鉄舟の開基になるが、ここにゆかりが深く、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を」を冊子にして売り出して当てた開成館の社長、(西野)奈良栄女史が供養の意味を込めて、小金井の土地に私財をもって建立したのが三光院である。
 初代住職には京都嵐山の曇華院から、当時まだ三十一歳の米田租栄禅尼が招かれた。檀家もなく、財政難に陥った院の窮余策として、昭和四十年からはじめられた精進料理は曇華院仕込みの本格派で、同院の別名をとって「竹の御所風精進料理」と呼ばれる。
 http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j006/j006t.htm

 私たちが谷中全生庵を訪れたのは、今でも雨が降れば必ず話題に出る、この会の第三回目のことだった。土砂降りの寒い冬の日で、震えながら鉄舟墓や円朝の墓を見た。あの日以来、雨が降れば必ず私のせいにされる。
 ところで上の記事を読んで、いくつか知らないことがあるので調べた。
 まずこの土地は鉄舟の所有地だったのだが、それを周旋したのは小金井の博徒小次郎である。小金井無宿の小次郎は幕末期、多摩一円から相模にかけて勢力を張った侠客で、子分三千人を数えたと言う。新門辰五郎の弟分で、清水次郎長からも兄貴分として立てられたと言うから、かなりの顔である。当時禁止されていた勧進相撲の興行で捕縛され、それ以前の賭博の経歴を洗い出されて三宅島に流罪になった。そのとき、流人を総動員して井戸を掘り、貯水槽を作った。貯水槽の目地留めに使う漆喰は、辰五郎によって運ばれた。このため慢性的な水不足に悩んでいた三宅島住人からは大明神と崇められたと言う。(小金井市と三宅島が姉妹都市になっているのはこの縁によると言うのである)明治維新の赦免で戻ってからは、地元の顔役として勢力を振るった。
 鉄舟は次郎長とも親交があって、侠客と呼ばれる連中とは割合隔てなく付き合っている。小次郎とは新門辰五郎の紹介で知り合ったようだ。小次郎は、もとは小金井村鴨下の名主関家の次男である。明治四年に没し、鉄舟による追悼碑が建てられた。
 (http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j005/j005t.htm小金井小次郎の碑より要約)
 もうひとつ分からないのは、全生庵に所縁が深く、私財をもって三光院を建立したという西野奈良栄である。鉄舟の土地も、その頃には既に他人の手に渡っていて、この女性が買い取って尼寺を作ったのだろう。しかし「西野奈良栄」で調べてもその背景は掴めない。キーワードは鉄道唱歌と開成館である。
 まず「開成館」で検索してみると、三木楽器店というのが出てくる。また明治大正の教科書を出している出版社がヒットしてくる。どちらも「鉄道唱歌」に相応しく思えるが、奈良栄さんは登場してこないので困ってしまう。
 今度は『鉄道唱歌』を手掛かりにしてみると、この楽譜は明治三十三年、三木書店から刊行されたと言うことが分かる。この三木書店が開成館であり、大阪と東京で出版業を営む傍ら、楽器店を経営していた。しかしその主人は三木佐助である。西野奈良栄はどこに登場するか。更にいくつか検索して漸くたどり着いたのがこの記事だ。

とにもかくにも、明治三十二年(一八九九)に『鉄道唱歌』第一集・東海道が刊行されるのです。
ところが、まだ売れる前の段階で、なんやかんやと、もと手がかかり過ぎて、元蔵さん、この時点で破産しちゃいました~。(市田元蔵という人物は演歌師で、大和田建樹に作詞を依頼したということらしい。眞人補記)
・・・で、この元蔵さんから、その『鉄道唱歌』の売れ残り本や、版権のすべてを三木佐助という人物が買い取ったのです。
この三木佐助さん・・・文明開化の時代にいち早く西洋楽器店を開店し、大儲けをした人物で、「豪商佐助」なんてニックネームで呼ばれていました。
そして、この佐助さんが、娘婿の西野虎吉の協力のもと、翌年の明治三十三年五月十日に、二度目の『鉄道唱歌』第一集を発行するのです。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/05/post_4ebc.html

 やっと「娘婿の西野虎吉」が出てきて、西野姓の謎が解けてくる。この虎吉は、いくつかの資料で「明治大正の出版業者」「開成館館主」等と記されているから、三木佐助から出版社を相続したと思われる。とすれば、奈良栄女史は三木佐助の娘(虎吉の妻)か、あるいはその娘で、三木書店(開成館)を相続したひとなのだろう。年代からすれば、虎吉の娘という蓋然性が高い。ただし、全生庵や鉄舟との関わり合いの程度は不明である。
 住宅地の狭い道を歩けば、アサガオ、サザンカ、キダチチョウセンアサガオが目に付く。アジサイは狂い咲きだろうか。柚子、蜜柑も黄色い実を付けている。チロリンは柚子を捥いではいけない。「ヒヨドリジョウゴ」赤い実をつけた植物を見つけて私は叫んでみるが、姫の鑑定は「似ているけどね、葉がどうでしょうか」という冷たいものであった。
 聖ヨハネ会桜町病院の前を通る。戦前からホスピスを実施していて、精神病を病んだ上林暁の妻が入院していたところだ。「そんなこと知りませんでした。前から知ってたんですか」英文学には滅法詳しい姫だが日本文学にはほとんど関心がない。私だってモリオに教えられなければ知らなかった。『聖ヨハネ病院にて』の舞台である。私はこの手の私小説が苦手で、敬遠していたから読んでいない。あるいはオダサクのこんな文章の影響だっただろうか。

 「可能性の文学」はつねに端の歩が突かれるべき可能性を含んでいるのである。もっとも、私は六年前処女作が文芸推薦となった時、「この小説は端の歩を突いたようなものである」という感想を書いたが、しかし、その時私の突いた端の歩は、手のない時に突く端の歩に過ぎず、日本の伝統的小説の権威を前にして、私は施すべき手がなかったのである。少しはアンチテエゼを含んでいたが、近代小説の可能性を拡大するための端の歩ではなかったのだ。当時、私の感想は「新人らしくなく、文壇ずれがしていて、顔をそむけたくなった」という上林暁の攻撃を受け、それは無理からぬことであったが、しかし、上林暁の書いている身辺小説がただ定跡を守るばかりで、手のない時に端の歩を突くなげきもなく、まして、近代小説の端の歩を突く新しさもなかったことは、私にとっては不満であった。一刀三拝式の私小説家の立場から、岡本かの子のわずかに人間の可能性を描こうとする努力のうかがわれる小説をきらいだと断言する上林暁が、近代小説への道に逆行していることは事実で、偶然を書かず虚構を書かず、生活の総決算は書くが生活の可能性は書かず、末期の眼を目標とする日本の伝統的小説の限界内に蟄居している彼こそ、文壇的ではあるまいか。(織田作之助『可能性の文学』)

 誰の評言だったか(もしかしたら奥野健男?)、織田作之助を「真情溢るる軽薄」と評していて、私はその言葉に痺れていた。私自身が充分に軽薄だったから、これは格好の言い訳になった。
 狭い道で車が交差できず、諦めた一台がバックして来て、危うく講釈師を轢きそうになった。「あいつ、絶対後ろ確認してなかった」「わざとだと思う」
 仙川にかかる小さな橋には「次郎橋」の名がついている。「歌だって知ってますよ」と姫が「ひとりぼっちの次郎はのぼる」と歌いかけたのは、昭和三十九年から四十一年までNHKで放送されたドラマ『次郎物語』の主題歌だろう。ちょうど私の中学時代に当たる。主人公が池田秀一だったのは覚えているから、ドラマを見てはいたのだろうが、歌はまるで記憶がない。調べてみると歌ったのはペギー葉山である。  ここは浴恩館公園である。小金井市緑町三丁目。小さな公園に石を敷いた小川を作っているが、下見のときには水なんか流れていなかった。敷地内には古びた建物がいくつか建っている。いきなり雨脚が強くなってきたので、文化財センターに駆け込む。
 小金井市文化財センターは浴恩館だ。昭和三年、京都御所で行われた大典(昭和天皇即位式)に際して、神官の更衣所として建てられた建物である。昭和五年、日本青年館に下賜され小金井に移築された。命名は当時青年館の理事長であった宮内大臣・一木喜徳郎による。皇恩に浴すという謂いである。
 実質的な責任者である田澤義鋪(よしはる)によって青年団講習所として計画され、昭和八年に下村湖人が初代所長として招かれた。『次郎物語』第五部の舞台は、小説の中では板橋区赤塚に設定されているが、ここをモデルにしている。設立の事情については、ほとんど事実そのままだと思われるので、『次郎物語』から引用する。

 田沼さんは、満州事変以来日本の流行のようになっている塾風教育が、人間性を無視した、強権的な鍛錬主義一点ばりの傾向にあるのを深く憂えていた際だったので、すぐそれを自分の新しい構想に基づく青年塾に利用したいと考えた。しかし、それには、自分と思想傾向を同じくし、かつ専心その指導に任じてくれる人がなければならない。自分自身でやってみたいのは山々だが、各方面に関係の多いからだでは、それが許されないし、ことに最近は自分が中心になって、憲政擁護と政治浄化の猛運動を展開している最中なので、それから手をひくわけには絶対にいけない。そんなことで、内々適任者を物色していたところだった。そこへ、たまたま朝倉先生の五・一五事件批判の舌禍事件が発生し、つづいて教職辞任となり、そのことで二人の間に二三回手紙をやりとりしている間に、どちらも願ったり叶ったりで、朝倉先生が青年塾に専念する約束が成立した。

 田沼さんというのは田澤義鋪、朝倉先生は下村湖人である。二人とも佐賀の出身で、田澤は明治十八年に生まれ熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学に進んだ。湖人は明治十七年の生まれで、やはり五高から東京帝国大学に入った。ただし湖人(内田虎六郎)は佐賀中学受験に一回失敗しているから、東京帝国大学の卒業年次はふたりとも明治四十二年である。私は理由もなく田澤のほうが湖人より数年先輩になると思い込んでいたのだが、文科と法科の違いあっても実は全く同世代の親友だった。
 宗匠の郷里の大先輩である。その宗匠ならば田澤のことを知っているかしら。「知らなかった」ウィキペディアの「佐賀出身の人物一覧」にも、湖人の名はあっても田澤の名前はない。私は佐賀県にはまるで関係はないが、これは少し問題ではあるまいか。田澤について多少なりとも宣伝しなければならない。まず、青年団運動の概要から始めてみる。

明治維新により近代国家の建設と共に自給自足的な村落が解体する中で伝統的な若者制度も消えていったが自由民権運動の影響を受ける世の中で、山本瀧之介が広島で青年会を起こす等、全国へ青年組織の結成が広まっていった。それらの組織は、大正時代には青年団および処女会(女子青年団)と称されるようになった。一九一二年(明治四十五)に明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として明治天皇を祭神とした明治神宮の建立が計画された。内務省明治神宮造営局総務課長で、山本瀧之介に影響を受けて青年講習運動を実践していた田澤義鋪は、神宮造営奉仕作業を全国の青年団に呼びかけ、日本中より二百八十団体・一万五千人の青年団員が動員された。これを契機に、全国の青年団を一つに結びつける組織、大日本連合青年団が結成された。明治神宮外苑内に現在もある日本青年館(旧館)は、東京市助役となった田澤の主唱の下、全国青年団員の一円拠金活動により一九二五年(大正十四)に建てられたものである。昭和に入り、天皇中心主義、天皇制ファシズム体制の世の中になり青年団も国策への協力を余儀なくされた。やがて戦局の悪化に伴い青年団は学徒隊に編入された。(ウィキペディア「青年団」)

 青年団運動は国家の統制の下に、田澤や湖人の本来の意図とは全く違ったものになっていった。田澤本人は、昭和九年に大日本連合青年団と日本青年館の理事長に就任したものの、昭和十一年、二二六事件の後の広田弘毅内閣の内務大臣として入閣を求められたが拒否し、同時かどうかは分からないが理事長も辞した。湖人が講習所長を辞めるのはその翌年のことになる。
 私は橋川文三『昭和維新試論』で田澤のことを知った。「田沢義鋪のこと」という一章が設けられている。
 橋川は、明治末年に若手内務官僚を中心に始まった地方改良運動と、それを担った典型としての田澤が、テント講習会、合宿形式講習会を生み出し、それが田澤の(そしてやがては湖人の)青年団運動の一貫した方法になる過程を詳述している。内務官僚とか青年団と言う言葉には、私はなんだか戦前の全体主義の匂いを感じて毛嫌いしていたが(かつての公式的唯物史観の影響かな)、マルクス主義にも強権的国家主義にも加担しなかった、戦前のリベラリズムの運命について、きちんと見直さなければいけないようだ。

だが青年団、壮年団の育成、政治教育、労務者教育など数々の偉業を体当たりでなしとげた教育思想家、田澤の歩んだ栄光の道も時流には抗し難く、彼の晩年に挫折の影を見るのである。そして太平洋戦争も深まる昭和十九年三月、四国善通寺の講演の旅にあって、敢えて敗戦を予言し、その場に卒倒した。以来わが家の敷居を踏むこともなく限りなき失意と、祖国の前途を案じながら同年十一月二十四日、旅路の善通寺で五十九歳の生涯を閉じた。成田久四郎著「社会教育者事典」より(財団法人田澤義鋪記念会)

 モリオと二人で、田澤は偉い人物らしいと話していても、他の人はたぶん全く関心がない。
 館内には昭和を彩る写真が飾られている。「あの時代の人の顔はみんな凛々しい」とモリオが呟いている。玉川上水全行程の図面を明示した壁の前では、ロダンが「スゴイですよ」と感動する。ショーケースには湖人や田澤の著書が収められている。小金井小次郎の写真と一緒に脇差が二本展示してある。帰りがけに受付で『青年団と浴恩館』という小冊子を購入する。二百円也。田澤の略歴と年譜が記されているので便利だ。
 館を出れば雨は小止みになっている。ちょうど良い雨宿りだった。空林荘という小さな建物が、湖人が住んでいた家だ。ここで『次郎物語』が書かれた。「校長宿舎ですね」しかし湖人も昭和十二年には講習所長の職を辞す。

 「とにかく、田沼先生も、友愛塾をつづけて行くことはもう断念しておいでだ。君としては、一生をかけた仕事が、わすか十回でおしまいになるのは残念だろうが、考えようでは、仕事がいっそう地についた、大きいものになったともいえる。気をおとさないようにしてくれたまえ。」
 朝倉先生がしんみりとなって言った。次郎はもう何も言うことができなかった。かれは泣きたい気持ちだったが、やっと気をとりなおして、
 「すると、先生はこれからどうなさるんです。」
 「全国行脚だね。」
 「講演をしておまわりですか。」
 「講演はしない。したいと思っても、おそらくどこでもさせてはくれないだろう。まあ、せいぜい、ここの修了生を中心に、同志の座談会をひらくぐらいなものだね。それも、できるだけ目だたない方法でやらなくてはなるまい。何だか一種の秘密結社みたようになるかもしれないが、しかたがない。しかし、辛抱づよくつづけていけば、将来の国民生活の底力にはなるよ。目だたない底力にね。」
 次郎は雲をつかむようで心ぼそい気がした。五百名の修了生があると言っても、それは全国に散らばれば無にひとしい勢力である。それに、そのなかの何人が、そうした運動に真剣に協力してくれるか、それも心もとない。これは朝倉先生の自己慰安にすぎないのではないか、とも思った。(下村湖人『次郎物語』第五部)

 田澤と湖人の講習所が閉鎖される時だった。朝倉先生の試みが戦争中の日本にどれだけのものを残したか。昭和二十九年に『次郎物語』第五部を刊行した後、第六部(戦中の次郎)、第七部(戦後の次郎を予定)は完成せずに、三十年四月二十日、湖人は七十歳で死んだから、その結末は不明である。
 「あれは籾倉だよ」小さな小屋を講釈師が指差す。正確には稗を備蓄した倉庫だが、籾倉でも間違いはないだろう。「ちょっと見ただけでもすぐに分かる」講釈師は得意そうに鼻を蠢かしている。
 公園を出て歩きだしたところでハッシーがお菓子を出してくれる。「ハイ、お煎餅よ」有難いが、もうすぐ昼飯だ。すぐに玉川上水の南側に出て、少し西に歩けば小金井橋だ。

小金井橋は小金井邑の地に傍ふて流るるところの玉川上水の素堀に架すゆゑに、この名あり。岸を夾む桜花は数千株の梢を並べ、落英繽粉たり。開花のとき、この橋上より眺望すれば、雪とちり雲とまがひて、一目千里前後尽くる際を知らず。よつて都下の騒人遠きを厭はずして、ここに遊賞するもの少なからず。橋頭、酒を煖め茶を煮るの両三店あり。遊人あるいは憩ひあるいは宿す。(『江戸名所図会』)

 小金井街道と交差する五日市街道を左に少し行くと「行幸の松」碑がある。関東随一の桜の名所ということで、明治天皇もやってきた。それで「行幸の松」があり、今の住所表示である御幸町の由来になった。
 その斜向かいにあるのが海岸寺だ。正式には瑞雲山海岸禅寺。臨済宗の寺である。小平市御幸町三一八。信号はないが、車の途切れたのを見計らって横断してしまう。入口には二本の銀杏が立っているが、天辺を大胆にカットされた姿だ。その奥にあるのが茅葺屋根の四脚門で、天明三年(一七八三)に建てられた。鎌倉様式だそうである。天井には龍が描かれていたのだが、今はうっすらと何かの影が見えるだけで、龍には見えない。脇にデジタルで復元した龍の絵が飾られている。
 茅葺屋根の上には針金が数本渡されていて、「これは何かしら」とハッシーが訊ねてくる。こういうことは豪農が詳しいのではないか。「うちの方じゃ鳥避けにしています」「そう、鳥が啄みに来るのを防いでいるんです」「そうだよ、鳥だよ」姫も講釈師も知っている。
 門前には小金井桜樹碑というものがある。
 元文二年(一七三七)、幕命によって川崎平右衛門が、玉川上水に沿っておよそ二千本の桜を植えたのが、小金井桜の始めなのだ。この碑はその由来が忘れられないように、文化七年(一八一〇)、『武野八景』を書いた漢学者大久保忠休によって建てられた。もともとは、百メートルほど離れた場所に立っていたものらしい。
 境内には有徳院(吉宗)と彫られた寛永寺の石灯籠が立っている。私は増上寺の石灯籠と寛永寺のそれとをゴッチャにしていて、下見の時に堤康次郎の仕業であると、モリオに間違った情報を伝えてしまった。寛永寺の石灯籠は、戦災にあった寛永寺復興のために寄付を行った返礼として各寺に配布されたものらしい。増上寺の場合とは違うのであった。
 私が説明していると、「だんだん講釈師みたいになってきましたね」とあんみつ姫が笑う。知ったことはほんの小さなことでも言い触らしたい。
 「あの花は何でしょうか」ダンディの言葉で、長方形の蓮池の端を見に行けばホトトギスである。境内にこの花を植えている寺は多い。私の言葉だけでは信用できないダンディは、姫にも確認をとるのを忘れない。「そうですね、ホトトギスです」当たった。静かな境内で、若い女性が二人写真を撮ったり見学をしている。樹木はきれいに手入れされ、常緑樹の中の紅葉が美しい。

  杜鵑草小雨の寺の池の端  眞人

 もう一度小金井街道に戻って都立小金井公園の中に入って行く。雨のせいか、人がほとんど歩いていない。先日の下見の時には小金井の祭りで大混雑をしていたし、それがなくても普段の週末には大勢の人が繰り出す公園である。面積七十九ヘクタールは、都立公園の中で最大規模を誇る。日比谷公園の四・八倍、上野公園の一・四倍にあたるそうだ。
 「元は大名屋敷とか、そんなものでしたか」こんな林と畑ばかりの田舎に大名屋敷は造らない。そもそも江戸から遠すぎる。紀元二千六百年記念事業として計画された小金井緑地がもとである。昭和二十一年から二十四年まで学習院中等科と東宮仮寓所が建てられた。昭和二十六年、宮内庁から七万坪が都に変換され、二十九年に都立公園として開園した。
 「あの花は何だろう」高さは三メートル程で、遠くから見ると芙蓉のようでもあるピンクの花が上の方に咲いている。近づいて立て札を見れば皇帝ダリヤである。「もっと背が高くなる」宗匠は詳しい。「私は興味ありません」園芸種だから姫の関心の対象にはならない。「それに外来種だし」
 江戸東京たてもの園は江戸東京博物館の分館である。もともと、武蔵野郷土館(光華殿)に、古代住宅や江戸時代の農家を展示していたのだが、江戸東京博物館開館に合わせて、その機能を拡充し、平成五年三月に開園した。現在、江戸時代から昭和初期までの建物二十七棟が復元され、来年中には三十棟に達する予定である。
 入園料は一般四百円、六十五歳以上二百円だが、たまたま今は天皇在位二十周年記念のお蔭で無料である。私たちが入ろうとしたとき、「いやあ、有意義な午前中だったな」と話しながら東北弁の男性が数人出てきた。
 十二時を少し回ってしまったが、昼食は食べ物処「蔵」を予約してある。主に武蔵野うどんを出す食堂なのだが、予約の場合は弁当になる。普通は七百円のところを、ちょっと奮発して八百円で作ってもらってある。
 三階に上がれば(普段は使っていないのだろう)会議用のようなテーブル三つに弁当が並べられている。チイさんとロダンがお茶を注いで回してくれる。「まあ、男のかたに淹れてもらって申し訳ないわ」「いつも家でやってるんだからたまには良いのよ」
 ご飯の片隅に、味付けをしていない刻み菜っ葉が載せられているのは何かの呪いだろうか。宗匠はこれに醤油を垂らしている。味噌汁がつかなかったのは少し残念だが、こういう場所での八百円ならば、まずまずの味だろう。
 ダンディが大福を配る。「ちょうど数があいました」と言っているのは、私を除いて二つづつ配給したから、二十四個持ってきたのだろう。「やっとリュックが軽くなった」「このことは絶対書かなくちゃダメだ。滅多にないことだから」

 食事が終わったのは十二時半、店を出れば雨はすっかりあがって、青い空に白い雲がくっきりと浮かんでいる。「これも俺の念力で」私が言い掛けるとすぐさまダンディから反論を受ける。「違いますよ、私と姫の力です。何と言っても晴れ男と晴れ女ですから」
 これから二時まで自由に見学するのである。早速「子宝湯」の女湯に入り込んで、棚から脱衣籠をおろして上着を脱ごうとしているのは講釈師だ。「出歯亀って言われていますよ」ダンディの言葉に、ちょうど出ようとしていた先客が笑っている。
 広場の片隅には、タイヤを外した自転車の車輪が数個置いてあって、ハッシーと碁聖が輪回しに挑戦する。「おかしいわ、昔はちゃんとできたのに」とハッシーは嘆いているが、碁聖は上手い。輪を回しながら走る。「私の頃にはこんな金属じゃなくて、桶のタガでしたけどね」私はこの遊びを実際には知らないが、滝田ゆう『寺島町奇譚』で、主人公キヨシが遊んでいる絵を見たことはある。調べてみれば滝田ゆうは昭和七年生まれ、ほとんど碁聖と同世代である。

 戦前の町なかは車も少なく、子供たちには伸び伸び遊べる天国だった。そんな道路遊びの一つが輪回しだ。 
 木桶のまわりにはめる竹製のタガの輪を棒で押し、倒れないようにバランスをとりながら走り回る遊び。デラックス版は、壊れた自転車の車輪のリムを使うことだった。 (木村祥刀、一九九四年十一月二十九日「京都新聞」掲載)http://yuanryan.ld.infoseek.co.jp/No023.htm

 「ほら、あそこのテントにスタンプがあるんだよ」講釈師がクルリンを誘って走っていく。スタンプの好きな人たちだ。ちょうど、そのテントの脇に喫煙所があるので一息つくことができる。
 銭湯の隣には鍵屋という居酒屋がある。品書きの文字が新しく、現代の値段とほぼ同じだから、今でも営業してるんじゃないかとダンディが覗き込む。文具の三省堂は本屋のサンセイドウではなく、サンショウドウと読む。「論語ですね」ダンディに言われるまで論語のことを思いもしなかった。無学である。

曾子曰、「吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎。」
曾子曰はく、「吾日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交はりて信ならざるか。習はざるを伝ふるか。」と。

 「習はざるを伝ふるか」は耳に痛い。知ったかぶりは私の特技である。
 吉野家(豪農)では囲炉裏に火を入れている。「こんなに煙がでるんだね」「だからいつでも燻製ができる」それにしても広い家だ。「蓮田の豪農の家と比べてどうでしょう」「問題になりません」
 「講釈師の姿が見えませんね」スタンプラリーに忙しいのだろう。「それで静かなのか」碁聖が大声を出す。この辺で、今日は参加できないハイジがダンディに託した句を披露しなければならない。

  講釈師声が追い掛け鰯雲  紀子

 高橋是清邸に入る。元々あった赤坂の場所は、今では高橋是清記念公園になっている。この屋敷の一階で以前は食事を提供していたのだが、今は廃止された。一階の食堂には空のショーケースが並んでいるだけで、資料類はすべて撤去されてしまったらしい。
 二階の寝室に上がれば、私たち貧乏人は押入れのないのが気になって仕方がない。「布団部屋があるんですよ」窓ガラスは、野田の茂木佐邸と同じような手造りのものだ。床の間には「不忘無」と是清自信が書いた軸が掛けられている。この二階で是清は殺された。「天誅」と叫んで中橋基明中尉が拳銃を三発撃ち、中島莞爾少尉が軍刀で突いた。八十八歳であった。
 是清は偉人である。「宮沢喜一が平成の是清だなんて言われたけど、とんでもない」モリオが珍しく憤慨する。気骨というものが違う。見識が違う。人間としてのスケールが違う。アメリカで奴隷として売られた経験をもつ日本人なんて、なかなかいない。二二六事件を惹き起した青年将校たちについて、その心情を弁護する論はいくつもあるが、私はそれらの論には一切加担しない。
 前川國男邸にも上がってみる。この名前はモリオと私にはなじみが深い。紀伊國屋書店新宿本店のほか、関係する施設の多くを設計した。「伊豆高原荘にそっくりじゃないか」言われてみれば切妻屋根をもつ山小屋風の建物は確かにそうだ。経費削減のために売却してしまったが、入社前の研修以来、会議や旅行で何度か泊まったことがある保養所である。
 一時半を過ぎたので、ビジターセンターに戻って展示を見ることにした。甲武鉄道(中央線の前身)と光華殿の展示が行われているのだ。光華殿というのはこの建物のことで、二千六百年記念式典会場として皇居外苑に建てられ、翌年ここに移設された。甲武鉄道の方は、私とモリオは下見のときに見ているので、今回は省略した。
 先にも書いたように、戦後の一時期、東宮仮御所と学習院中等科がここにあったから、今上天皇には所縁が深い。子宝湯の前で挨拶をしている天皇皇后の写真も飾られている。私自身は天皇制の存在には疑問を持っているが、今上の言動を見る限り、この人は個人的にはなかなかの人物であると思わざるを得ない。

 「今度はもっとゆっくり来てみたいわね」ハッシーとミッキーが囁いている。確かに、きちんと全部見て回るには半日必要だろう。私も最初の時はやはり半日掛けてゆっくり見た。「ここはどうやって来れば良いのかしら」武蔵小金井駅からバスが出ている。花小金井からもある。あるいは武蔵境から歩いても近いだろう。
 ようやく全員が揃って建物から出たとたん、講釈師が中に戻っていった。どうしたのだろう。「忘れものをしたんですって」「これは良い材料ですね」「先に行っちゃいましょうか」誰も同情しない。道は知っている筈だが、念のためモリオが待機し、その間に私たちは歩き始める。こんなのはどうでしょうとダンディが川柳を口にした。

  講釈師女湯で傘忘却し  征一

 さっき女湯で服を脱ぐ真似をした。そのときに籠の中に傘を忘れてしまったらしい。だから女湯で余計なことをしてはいけないのだ。宗匠にも詠まれてしまう。

 女湯に我を忘れて傘わすれ 《快歩》

 公園の出口でなんとか追いついてきた講釈師は、「待ってくれなんて、誰も言ってない」と強がりを言う。これからは玉川上水沿いに歩くのだ。五日市街道がすぐ隣を走っていて、川沿いの歩道は狭く、川との間は鉄柵で遮られている。不規則に生えた枝や葉が川を覆うように被さって、水面はよく見えない。「棕櫚を切って、陽が入るようにしなくちゃダメなんですよ。これじゃ下草が育たないし」生態系保護の観点から見れば、この川は落第である。

 『玉川上水起元』(一八〇三年)によれば、承応元年(一六五二年)十一月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀六千両が拠出された。
 幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは一六五三年の正月で、着工が同年四月、四谷大木戸までの本線開通が十一月十五日とされるが、一六五三年二月十日着工、翌年八月二日本線開通とする史料もある。
 羽村から四谷までの標高差が約百メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ「水喰土」(浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更。二度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第一案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み」、第二案として「羽村地内阿蘇官より渡込み」、第三案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立」を立案した。
 この第三案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応二年(一六五三)十一月に玉川上水はついに完成。翌承応三年(一六五四)六月から江戸市中への通水が開始され。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという。(ウィキペディア「玉川上水」)

 更に享保以降、多くの用水路が開削され(野火止用水、千川上水など)、それによって新田開発が促進されることになる。つまり玉川上水は江戸市内の上水道としてだけではなく、武蔵野の開発にも大きな効果をもたらしたのであった。
 予想通り、所々がぬかるんでいて滑りやすい。二人は並べないような道を時々自転車が通る。「ホントに真っ直ぐなんですね」ロダンが何度も感激する。この上水はほぼ一直線に東に向かっている。これだけの水路を、一年もかからずに完成させた江戸の土木技術はたいしたものなのだ。
 関野橋と名付けられた橋で、碁聖の歩みが少し止まる。橋の袂から川を覗き込むと、鯉が泳いでいるのが見える。緋色が二匹、黒はかなり多そうだ。こんなところに鯉かと、姫は憤慨する。よく理解できていないので、こんな記事を探してみた。エコロジストが憤慨するのはこういうことであろうか。

 中には地元の固有種とは関係の無い錦鯉等、本来自然界に存在すべきでない飼養種までもが放流されることがままある。こうした無計画な放流について、地元の固有種との交雑が起こって何万年もかけて築かれてきた固有種の絶滅を懸念する(遺伝子汚染)声もあるのだが、当事者にはまったく意識されていないのが現状である。
 このことは人間が自然を固有の歴史ある貴重な財産であることを忘れ、単にきれいならば、単に魚がいれば良いなどと考えるようになったのが原因と指摘する声もある。同様の問題はメダカや金魚に関してもいえることである。また、錦鯉の放流が原因と推測されるコイヘルペスウイルスによる感染症が地元の鯉に蔓延し大量死する事件もある。
 同じことは飼養種でないコイについても言える。コイは体が大きくて見栄えがするため、「コイが棲めるほどきれいな水域」という趣旨で自治体レベルで川やダムなどに放流されることが多い。しかしコイはもともと水質汚染に強い種であり、「コイが棲める=きれいな水域」ということは全くない。むしろコイは餌の問題からBOD値の高い(つまり、一般的な基準からすると水質が悪い)湖沼や河川を好んで住処とする為、逆に水質がよい小川の堰の内部に放流した錦鯉が大量に餓死するような例も散見される。
 市街地の汚れた河川を上から眺めれば、ボラと放流されたコイばかりが目につくということが多々ある。しかもコイは各種水生生物を貪欲に食べてしまうので、往々にして河川環境の単純化を招く。生物多様性の観点からすれば、もともとコイがいない水域にコイを放流するのは有害ですらある。(ウィキペディア「鯉」)

 なにか判読できない碑が立っている。すぐそこは独活橋だ。案内地図を調べていたモリオが「ウドの碑じゃないかな」と推定する。おおよそ、こんなことが書かれているようだ。

今から百八十年位前より、土地の人々が、薪炭をつくり、落ち葉の温熱で軟化独活を栽培し、生活していた。栽培法が改良され大量出荷されて、全国に東京独活特産地として有名になった。橋を架けるに際して、特産地の名をとどめるため、独活橋と命名した。

 講釈師の期待に反して、ロダンの白い靴はそれほど汚れてはいない。「歩き方が上手なのよ」クルリンの言葉に、「褒めちゃダメだ」と言いながら、講釈師は後ろからわざとその靴を踏みそうな振りをする。
 独歩橋を過ぎて桜橋の袂には独歩『武蔵野』六章冒頭の部分を記した碑が立てられている。ダンディは昭和三十二年増刷の文庫本(定価七十円)を開いて確認している。碑にある文は短いが、ちょっと伸ばすとこんな風になる。

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今自分、何しに来ただア」と問うたことがあった。
 自分は友と顔を見合わせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。(中略)
 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。(国木田独歩『武蔵野』)

 独歩は、二葉亭四迷訳ツルゲーネフ『あひびき』に深く影響され、その文体で『武蔵野』を書いた。「ある友」というのは佐々城信子のことである。彼女とは二十九年四月に別れ、失意の中で文体とテーマを模索していた独歩は、三十年に『源おぢ』を、そして三十一年に『武蔵野』を書いたことで、一部の熱狂的な支持を得た。やがて、島崎藤村『破戒』や田村花袋『蒲団』が現れ、自然派の盟主と見做されたが、独歩自身は花袋が拠り所にしたゾラ流の現実暴露とは一線を画していた。独歩はむしろロマンティストと言うべきで、明治文学に現れたひとりのマイナー・ポエットと考える方が、今ではふさわしい。
 茅ヶ崎の病院で死を前にした独歩を真山青果が訪れて、その病状や彼の言動を読売新聞に掲載した。これを伊藤整はかなり皮肉に書いている。

青果の独歩訪問記が「読売」に載ると、独歩の病状が文士たちの日常の話題となり、見舞客がふえた。そのために、独歩は一層安静が失われ、目に見えて疲労した。独歩は治療と安精を目的に南湖病院に入ったのであるが、この入院は彼を舞台の上に押し上げる役をした。その舞台の上で独歩は人に理解され、慰められ、尊敬され、記録されている自分を見出した。自分の咳、自分の熱、自分の悩み、自分が妻や君子を殴ること、自分の警句など、一つ一つが青果の文章で新聞の活字となり、世の注目の焦点にあった。病苦と死の不安に脅かされていることを除けば、独歩はいま最も充足した生活をしていた。彼には、その陶酔から身を守るだけの自制心はなかった。(伊藤整『日本文壇史』)

 独歩の死は明治四十一年(一九〇八)六月二十三日であった。
 一方、独歩と別れて後その子供を産んだ佐々城信子は、明治三十四年、森広と結婚するためアメリカに渡るのだが、乗船した船の事務長である武井勘三郎と恋をして、アメリカに上陸せずに帰国した。たまたま同じ船に乗り合わせていた鳩山春子(共立女子大学創始者。鳩山和男の妻、一郎の母、威一郎の祖母、由紀夫の曾祖母)が、船中での二人の振る舞いをスキャンダルとして新聞に告発した。武井の妻が離婚を承知しなかったため、信子と武井は正式には結婚できなかったが、ひとりの娘を産んだ。
 平塚明子(はるこ)より八歳の年長になるが、紛れもなく「新しき女」の先駆であった。漱石は平塚明子をモデルに『三四郎』の美禰子を描き、森広の友人だった有島武郎は信子をモデルにして『或る女』の早月葉子を書いた。
 途中のベンチで少し休憩する。今度はチロリン、クルリンからも差し入れが配られる。「甘いのはダメなのね」羊羹を取り出したチロリンが不思議そうに私の顔を見る。

桜紅葉下照る道の遊歩かな 《快歩》

 「それじゃ出発します」モリオの声に、「一度座ってしまうと根が生えたようです」とダンディが答えている。鉄人ダンディが珍しいことだ。「鉄も錆びてきたんじゃないの」チイさんが悪口を言う。
 この辺の川は底まで完全にコンクリートで覆われていて、その細い水路を水がちょろちょろと流れている。雨が続いた割には水量が少ない。玉川上水をきれいにしよう、なんていう看板が立っているが、その看板自体が薄汚れたままで、掃除をしている形跡がない。「やる気がないんじゃないか」その通り、どうも真剣味が足りないように思える。
 遊歩道を離れた道の角に、割合立派な堂を建て青面金剛が祀られている。ちょうど賽銭箱と花で隠れている部分をダンディが覗きこんで、「確かにいます」と邪鬼の存在を確認する。鈴を鳴らして丁寧に拝んだクルリンに、「お賽銭あげた?」とチロリンが尋ねる。「ううん、あげなかった」
 私は今、五来重『石の宗教』を読んでいて、蒙を啓かれている。もう少ししたら、庚申塔についてもきちんと説明できるようになる筈だが、とりあえず粗雑な要約をしてみようか。五来によれば道教の庚申信仰などは後からくっつけたもので、道教に庚申信仰はあっても、庚申塔はない。  日本人には古来シャクジ、シャグジ、塞の神など石に対する信仰があった。その対象となる石は男根状であり、もともとは祖霊信仰と同じなのだが、五穀豊穣、魔除けの結界にも変化する。将軍地蔵、勝軍地蔵なんていうのも、シャグジがショウグンに転化したもので、男根の上部を頭と
見做したコケシ型が地蔵の原型である。一方、日待ち、月待ち信仰は日を祭る、月を祭る謂いで、夜を徹する行事なのだが、これもまた祖霊信仰に繋がるものだ。こうした民間の信仰に、修験道の山伏が道教、密教、神道などをこき混ぜて理論づけして造り上げたのが青面金剛である。

 「もう三鷹駅はすぐそこです」江戸東京たてもの園からおよそ一時間半だろうというモリオの見込み通り、三時半になったところだ。
 北口の交番脇には樹木を植えたちょっとした緑地があって、そこに説明板も何も無くただ石碑が立っている。横長の大きな石で、右側には独歩の胸像が浮き彫りにされ、左に「山林に自由存す」の文字が三行に分かち書きされている。武者小路実篤の筆になるという。「この駅前の一等地に何も説明がないなんて」みんなはこの詩を知らないようなので記しておこう。高校生の私は暗記していたのだが、四十年も経てば、今では本を引っ張りださなければ写せない。

山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
嗚呼山林に自由存す
いかなればわれ山林をみすてし

あくがれて虚栄の途にのぼりしより
十年の月日塵のうちに過ぎぬ
ふりさけみれば自由の里は
すでに雲山千里の外にある心地す

眥を決して天外を望めば
をちかたの高峰の雪の朝日影
嗚呼山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処ぞや
彼処にわれは山林の児なりき
顧みれば千里江山
自由の郷は雲底に没せんとす

 地下道を潜って南口に出る。駅前からまっすぐ延びる中央通りは結構にぎやかだ。実篤「人間万歳」(地球のような形)、太宰治「斜陽」(本を開いた形)のオブジェが歩道脇に立つ。途中から右に曲がる。チロリンやハッシーが少し遅れ気味だが、「ここは知っているから」とダンディが角で待機しているあいだ、他の連中は狭い道に入り直して真っ直ぐに行く。目的の禅林寺は日没で閉ざされてしまうから、リーダーの足は速くなる。「今日は新記録ですよ」宗匠が万歩計を見ながら報告する。こういうことを言い出したとき、彼は疲れてきているのだ。私も腰が重くなってきた。しかし、今時の日没は何時なのだろう。
 二十分ほど歩いて漸く禅林寺前という標識が見えた。「私は斎場の看板を見て、着いたと思いましたよ」と言うのは姫である。参道の奥に見える山門は中国風の(絵本で見る竜宮城のような)構えだ。それもそのはずで、ここは黄檗宗、霊泉山禅林禅寺である。ちょうど葬儀の最中だが、私たちは墓地に急ぐ。

  山門は釣瓶落しの陽の中に  眞人

 「そこを左、そこを右」モリオの指示で歩いて行くと、まず目につくのが森鷗外墓である。真ん中には「森林太郎墓」左には妻しげ子、端に森家墓。右には父静雄と弟篤次郎(三木竹二)が並んでいる。母親の名前はないから、森家の墓にいるのだろう。花が供えてある。もともとは向島弘福寺(向島七福神では布袋尊)にあった。そこが関東大震災で全焼したため、墓をここに移設したのである。
 その斜向かいに太宰治、津島家墓が建つ。菊の花が供えられている。太宰治とだけ彫られた文字は井伏鱒二による。太宰と井伏との間にある種の確執があったことは、「井伏さんは悪人です」の遺書によっても知られているが、やはり井伏鱒二は太宰の師であり、仲人である。この辺りの事情は、モリオが推薦する猪瀬直樹『ピカレスク・太宰治伝』を読んでもらおう。
 「津島修治って誰ですか」太宰のことである。「美智子さんは」奥さんである。こういうことにまるで関心を持たないチイさんは憮然としている。

この寺の裏には、森鷗外の墓がある。どういうわけで、鷗外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鷗外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。(太宰治『花吹雪』)

 冗談めかしてはいるが、太宰は鷗外を尊敬していたのである。ダンディは太宰は好きだが鷗外はあまり好きではないと言う。教養人としては珍しいが、鷗外の文体には人の感情移入を拒むような冷淡なところがあるから、そのせいかもしれない。太宰と並んで川端康成、谷崎潤一郎が好きだと言うから、それなら美的愛好家のダンディには相応しいか。いずれも文章の彫琢に苦心した作家だ。ただし私は川端の文章は雑だと思っている。

その後も斜より影を慕いおり 《快歩》

 大分暗くなってきた。閉められないうちに境内に戻る。立派な銀杏の木の脇に、鷗外の遺書が石碑になって建てられている。読みやすいように改行の位置を変えてみる。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ
コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ
奈何ナル官憲威力ト雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス
宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一字モホル可ラス
書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ
手續ハソレゾレアルベシ
コレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス 
大正十一年七月六日
        森 林太郎 言(拇印)
        賀古 鶴所 書

 一葉の葬儀に騎馬での参列を望んで樋口邦子に断られた鷗外が、自身の死に臨んで一切の栄典を拒否した。賀古鶴所は鷗外終世の友人で、『舞姫』には「相沢謙吉」として登場する。その末尾。

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。

 隣の八幡神社を回りこんで、三鷹市芸術文化センターに行く。ここでは「生誕百周年記念・太宰治の肖像」という展示会を開催しているのである。姫とダンディは受付で本を買っている。チロリンもクルリンも、太宰を見て良かったと言う。みんな、そんなに太宰に関心があるなんて、私は驚いてしまう。
 「太宰の顔は好きですか」とダンディが笑いながら問いかけてくる。「チロリンは嫌いだって。クルリンは好きな顔だって言ってますよ」好きでも嫌いでもない。東北人特有の顔である。
 例の高い椅子の上で両膝を立てている写真が飾られている。この写真は、銀座「ルパン」で林忠彦が織田作之助を撮っているとき、太宰から催促して撮らせたものだ。「有名ですよね」とロダンも頷いている。和服にトンビを着ている写真を見れば、ダンディと講釈師から先日の里山歩きの話題が飛び出す。
 しかし、こんな場所で笑いながら太宰のことを話す日がくるなんて、思ってもみなかった。私にとって太宰は一大事であった。この事件から逃れるためにどれだけの年月が必要だったか。それを思って四十年近く私は太宰を避けてきた。筑摩書房版の全集は、二三冊ほど欠けたままで実家の本棚に埋もれている筈だが、もうそろそろ封印を解いても良いだろう。秋田の少年がイカレテしまったのは、こんな文章だった。『葉』(『晩年』所収)より。

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

 新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊がのろのろ這って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思うていた。しかし、その石塊は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引摺っているのだということが直ぐに判った。
 子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄が淋しかったのだ。

 兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」

 本当に、ただ一言で全てを表現できるのなら。今読んでみればちょっとしたレトリック、文体の綾にすぎないのだが、どうしてこんなもの憑かれてしまったのか。奥野健男『太宰治論』が指摘するように、太宰病に罹患すると、太宰は自分だけに話しかけている、太宰が分かるのは俺一人であると思い込む、次いで、自分はダメな人間である、この世界で生きているに値しないという思い込みが体の中に染み付いてしまう。もう四十年も昔の記憶なので曖昧だが、確かそんなことを言っていたのではなかったか。自虐の感情は自分自身を劇化すること、いわば裏返しにされたヒロイズムとでも言うようなものに違いないが、酔い痴れているうちに、閉ざされた世界から一歩も踏み出すことができなくなる。
 間の悪いことに、それは私にとって最悪の時代と重なっていた。行ってはならない下連雀のアパートに毎週のように通い続け、そのたびに後悔した。その間に発生した新しい出来事には真剣に向き合わなければならないのに、結論を引き延ばすだけで馬鹿げた行動を繰り返した。要するに山積する問題を何一つ解決しようとはせず、てんやわんやの醜態を晒していた。
 問題解決能力の欠如、これは全て太宰の故だと私は思い込んでいたのだが、実力と、現実に向かう敢闘精神が不足しているという単純な原理が分からなかった。あるいは分かりたくなかった。精神が軟弱であった。ようやく呪縛から逃れたと思い切れたのは、もう三十歳に手が届きそうな頃で、そのとき私は妻となるべき女と出会うのである。

 駅の方に戻る一方通行の狭い道は、車も自転車もひっきりなしに通るから危ない。「自転車ですよ」の声で左に避けようとしたクルリンの、そのすぐ左をスピードも落とさずにすり抜けようとする自転車がいる。クルリンは危うく転んでしまいそうになる。この頃の若いものは、速度を落とすと言うことを知らない。
 先頭と後続との差が次第に開いてくる。「遅い奴は除名だな」いつもの言葉が入ると、「でもわれわれは、傘を忘れて人を待たせたりしないもんネ」と碁聖が応じる。このことは暫くの間、格好の話題を提供してくれそうだ。
 「この近所に阿南さんのお宅があって」ハッシーは色々なところに出没しているひとだ。「死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ惟幾」の遺書を残して自決した阿南陸軍大将の家である。訪問するたびに山本有三の家にも連れて行ってもらったが、いつも閉まっていたのだと言う。
 太宰治文学サロンは、本町通りとさくら通りが斜めに交差するあたり、もとは伊勢元酒店があった場所だ。三鷹市下連雀三丁目一六―一四。それほど広くない室内には、銀座「ルパン」を模したというカウンターが置かれ、壁の周囲には写真、本、資料が並べられている。昭和十四年九月から二十三年六月に心中するまで、太宰は下連雀一一三番地に住んだ。このサロンは昨年の三月にオープンしたというから、まだ二年も経っていない。
 案内のおじさんが、どこから来たかとか、墓は行ったかとか声をかけてくる。ダンディが、津軽の生家にも行って来たと話している。とにかく室内は狭いので、十三人も長居をしては邪魔になる。早々に引き揚げて駅前で解散する。
 宗匠の万歩計で二万七千歩。十五六キロ程にもなっただろうか。「新記録ですよ」とくたびれ果てた宗匠が報告する。(しかし後で過去の記録を調べた宗匠から、第十一回「麻布・赤坂編」が二万九千歩であったと訂正が入った。新記録はお預けである。)
 本日の予定で積み残したのは、太宰と山崎富栄の心中の現場、山本有三邸。興味のある人は別の機会に来てもらおう。心中現場と思わる場所には、津軽から持ってきたと言う石が置かれている。有三邸の正面にも「路傍の石」と称する、その名前にしては巨大すぎる石が置かれている。日本人には石に対して格別な嗜好が存在するようだと思えば、前述した五来重の説に説得力を感じる。

 反省をするものは七人、さっきの地下道を歩いて線路の向こう側に戻り、「凧凧(まるかみ水産)という居酒屋に入る。姫は折角頼んだお握りが食べられない。「だって、シャケが甘いの」ちょっと摘まんでみると、確かに甘塩の鮭である。お握りの鮭は秋田のボダッコのように、しょっぱくなければ確かに旨くない。それでも充分に飲んで一人二千円は安い。 二時間で店を出て、ダンディ、宗匠と別れて五人はカラオケになだれ込むのである。

眞人