第二十七回 浅草七福神巡り編   平成二十一年一月九日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.01.17

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  去年今年ちあきなおみに胸熱し  蜻蛉

 大晦日に偶然触れた「BSまるごと大全集ちあきなおみ」(再放送)によって、私はちあきなおみに恋をした。蜻蛉というのは、佳曲『紅とんぼ』(吉田旺作詞・ 船村徹作曲)に因むのである。私は本当は繊細な人間なのだが、極楽トンボと考えてくれても良い。「音楽の好みはひと様々ですね。私の好きなのはオペラ、それにモーツァルトです」とダンディが不思議そうに言う。土台、教養と趣味のレベルが違う。歌謡曲はダンディの辞書にはないのである。歌謡曲人間の筈だったロダンでさえ、「ちあきなおみ、フーン」と言ったきりで関心を示さない。二万八千九百円を費やして、全十巻のCD全集を買ったことも、ただ笑われてしまう。世間は私に冷たい。

 旧暦では十一月二十五日。昨年の谷中七福神に引き続き、今回は浅草七福神を中心に、下谷七福神もいくつか混ぜて歩く。リーダーの桃太郎は七福神が好きだ。実は、昨年の谷中七福神巡りでは下谷も含めるのが彼の計画だったが、谷中の町は見所満載でリーダーの意思に反して寄り道が多く、下谷まで行く時間がなくなってしまったのだ。しかし彼の最終目的は「おにぎり金太郎」に御慶申し上げることだ。今日のコースも最後が鷲神社で締めくくるようになっているのが、何よりの証拠である。
 風もなく穏やかな冬の日だ。鶯谷北口には似たような格好をしたグループが三組ほどいる。間違えて私たちの後ろにくっついていた人が、仲間の顔を遠くに見かけて慌てて離れていく。
 画伯、快歩宗匠、ロダン、コバケン、チイさん、桃太郎、碁聖、住職、スナフキン・モリオン、ダンディ、ドクトル、講釈師、若旦那夫妻、あんみつ姫、イッチャン、伊野さん、チロリン、クルリン、シノッチ、ハイジ、マルちゃん、カズちゃん、ハッシー、ミッキー。二十六人が集まったのはこれまでの最高記録だ。講釈師が精力的に女性陣を誘った賜物である。しかし誘う際に、リュックは駄目、靴もきちんとしたものにしなければ駄目、と念を押すものだから、初参加の人は騙されてしまう。「リュックが楽で良いのにね」と伊野さんも呟いている。
 「スナフキンです」とヨーロッパ土産のトンガリ帽子をかぶったダンディが笑う。この「スナフキン」は姫の命名によるが、チイさんから「モリオン」という案が提出され、流浪の詩人か森の怪獣かでまだ揺れ動いている。ついでに、自己申告によって「コバケン」さん、ダンディ発案「若旦那」は本人の承諾を得て決定した。チイさんは一時、「豪農」と呼ばれたが、「豪農を豪農と呼ぶのは当たり前すぎる」という意見もあって「チイさん」に戻った。
 これだけの人数だとはぐれる恐れがある。そのため、桃太郎の携帯電話の番号が公表され、全員がメモを取る。「ケータイ持ってないひとだっているんじゃないの」「公衆電話があるでしょう」しかし公衆電話を探すのも大変な世の中になった。「もしはぐれたら、次の場所に向かってください」

  七福神祖先は唐か天竺か  午角

 角のあるべきでない馬にそれが生えているのは画伯である。密かに俳号を持っているのだから油断がならない。高麗神社に由来するという。本朝唐土天竺(こういうと『今昔物語』みたいだ)から集めてきた七福神である。とりあえず浅草七福神から今日の勉強を始めてみる。
 正しくは浅草名所(などころ)七福神と言う。浅草寺(大黒天)、浅草神社(恵比須)、本龍院(毘沙門天)、今戸神社(福禄寿)、不動院(布袋尊)、石浜神社(寿老人)、吉原神社(弁才天)、鷲神社(寿老人)、矢先稲荷神社(福禄寿)。
 七福神なのに、寿老人と福禄寿が重複して九ヶ所になるのは、「九は数の究み、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩で、これは集まるの意味の他、天地の至数、易では陽を表す」の故事によると言う。これだけで理解できる人がいれば私は尊敬する。「故事」というのはどうやら「説文解字」のことを言っているようだが、それも、もともとは陰陽道に因るらしい。

切り断った骨の形。これに刀を加えてその意を明らかにしたものが「切」。この骨を切る音の「シチ」が音義となって「七」に仮借した。「説文解字」に「陽の正なり。一に従う。微陰。中より邪(なな)めに出づる」七は聖数。七という文字で表した名称は言霊的な文学的素地があり、つまり聖数であって実数ではない。
竜の形。竜に虫形と九形があり、九は岐(枝状にわかれた)頭の形でおそらく雌。「説文解字」に「陽の変なり。その屈曲し窮蓋(突き当たって曲がるくねりそれまで来た通路を蓋してしまう)する形」七は陽の正、九はその正陽の変じたもの。陰の六正八変に対する易の省数論。九は聖数。神話や神仙に関する語に、この聖数を用いるものが多い。(「中国思想の数字」より)http://www.wind.ne.jp/khari/kenkyuu/05-08-21suuzi.html

 これも理解するのは難しい。陰陽道で奇数は陽数であるというのは知識の範囲だが、七は「聖数であって、実数ではない」とはどういうことか。「七は陽の正、九はその正陽の変じたもの」というのは、私には理解の外である。
 今更ながらではあるが、そもそも七が聖数であるのはなぜか。ネットを検索すると、オカルトや占星術の話ばかりで、まともな記事を探すのがとても難しい。そんな中で分かったことの一つは、世界中で七に特別な意味を付与している例が多いということだ。ラッキーセブンは野球からきたものだから除いておくが、旧約の神は世界の創造に七日という日数を必要とした。カトリックには七つの大罪がある。白雪姫に寄り添っているのは七人の小人である。中国にも七曜星(曜日とは関係ないが)があり、竹林の七賢人がいる。日本だって、侍は七人でなければならなかった(『七人の侍』)。唐辛子は七味だし、そもそも世界には七不思議があるのである。
 一般論として、世界の至るところで似たような信仰を発見するのは、比較神話学のお世話にならずとも、古代において、想像以上に人的交流が盛んであったと想像すれば良いだろう。特に中近東で発生した思想は東西に拡散しやすい。
 そこで七である。陰陽道や占星術では様々な理論付けを行っているが、そんなことはあとからつけた理屈であろう。おそらく北斗七星によるというのが、一番理解しやすいのではないか。航海する者、砂漠を旅する者にとって、北斗の七ツ星ほど頼りになるものはない。ここから七に対する信仰が生まれたと考えるのが自然だと思われる。
 ところが古代日本では八が聖なる数であったという説がある。これは「八雲立つ」「八百万」「八咫烏」「八十猛」などがその例になる。とすれば、日本における七に対する信仰は、その後にやってきたものか。

 八と七と言えば、リズムには関係しないだろうか。たとえば琉歌(島唄)は八八八六の三十音形式の短歌と、八を連ねて末句を六音で締めくくる長歌があるという。これが歌の古体を表すとすれば、八音のリズムは万葉以前の古代日本人のリズムでもあったかも知れない。
 ヤマトタケルの「やまとは・国のまほろば・たたなづく・青垣・山ごもれる・やまとし・うるわし」では、四七五四六四四となって安定していない。弟橘媛がヤマトタケルを偲んで歌ったとされる「さねさし相模の・小野に燃ゆる火の・火中に立ちて・問ひし君はも」は、八八七七音の構成である。
 それが五七五七七に変わるについては、何か重大な変質があったのではなかろうか。但し五七調は二音節四拍子でもある(五音の後に四分休符、七音の後に八分休符を入れて読む)。これとの関係はどうだろう。
 七福神については、密教の宿曜経の影響であるという説があるが、これも信じ難い。だって最初から七人が揃っていたわけではないからだ。最初は恵比須と大黒をセットにした信仰が始まり、徐々に数を増やしていって、室町時代中期に至って現在の七福神の構成ができあがったというのが定説である。
 仁王経にある「七難即滅七福即生」から「七」に作ったという話もあちこちに出てくる。一応、「七難即滅七福即生」の典拠も探っておこう。

 『仁王般若波羅蜜護国経受持品第七』に「其の国土の中に七つの難とすべき有り、一切の国王是の難の故に般若波羅蜜を講読為せば、七難即ち滅して七福即ち生ぜん、万姓安楽、帝王歓喜せん」とある経文を指します。(高照山 第二五五号より)
 http://www.myokoji.jp/page/menu_2/koshozan/255_01.htm

 中国の八仙がモデルであるという説もある。しかし、こんなことは全て後から付けた理屈でしかないのではないか。陰陽五行説では奇数が陽数である。三や五では(三人官女や五人囃子という組合せもあるが)なんとなく淋しい。九人では絵に描いても煩い。福々しく賑やかにするには七人くらいが適当だと考えたか。とにかく、日本人にとって安心できる、バランスのよい数が七であったということであろう。
 一方では、末広がりの八も日本人には吉数である。実際、吉祥天や福助を仲間に入れて八福神にしようという構想もあったようで、それが実現しなかったのは、やはり八よりは七が好きという民族的な嗜好があったとしか思えない。八犬伝の八は仁義八行の八だから、日本人的な感覚と言うよりは儒教になるだろうか。
 お七夜、初七日、七草と今でも日本人は七になんとなく聖なる意味を感じているようでもある。急いで言っておくと、八百屋お七はこれと直接の関係はない。父親が熱心な法華信者で、身延山久遠寺奥の院の七面山から命名したのである。

 ややこしい話はひとまず擱いて、先ず向かうのはすぐ目の前にある元三島神社である。下谷七福神としては寿老人を担当する。ラブホテルの立つ場末の駅前、一階に居酒屋やラーメン屋などが入った長屋の屋上に本殿が鎮座しているという不思議な神社だ。「電車の中らも見えてたわ」ハイジは通勤途中で見る。私は山手線のホームから、「お食事と呑み処・信濃路」「養老の滝」の看板の上に、切妻屋根と千木を見た。駅前からすぐに路地に入って鳥居をくぐる。鳥居と拝殿の位置が斜めになっているのは敷地の関係である。
 「伊豆の大三島神社でしょう」相変わらずダンディの知識は幅広い。しかしここは伊予の大三島に由来する。由緒を尋ねればなかなか奥が深いのである。

 三島神社や三島社という名前の神社は日本全国に存在する。それらは、伊予大三島の大山祇神社か伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。どちらを総本社とするかは諸説ある。
 北海道を除く日本全国に分布し、特に愛媛県・静岡県を始め、大分県・福岡県・高知県・新潟県・神奈川県・千葉県・福島県に比較的多く存在する。総数は約七百社である。
 祭神は大山祇神か事代主神で、両方を祀るものもある。大山祇神の妃神である伊古奈比咩神や御子神の木花開耶姫神・岩長姫神を配祀していることもあるほか、大山咋神を祀る三島神社もある。事代主神が祭神とされることがあるのは、三嶋大社の祭神が平田篤胤の説に従って、明治時代に大山祇神から事代主神に変更された(現在は両神を祀る)のに倣ったものとみられる。
 関東・伊豆には、源頼朝が伊豆・三嶋大社を崇敬していた関係から、鎌倉武士により三嶋大社より勧請されたと伝える三島神社が多い。愛媛県には百社を超える三島神社があり、これらは大三島神社(三島大明神)を祖神として崇敬していた村上水軍(三島水軍)の越智氏により勧請されたものである。(ウィキペディア「三島神社」)

 この三島神社は、河野通有が伊予の大山祇神社を勧請したものである。弘安四年(一二八一)の役に、必勝祈願をして叶えられたことから、上野山中の河野氏の館に勧請したというのである。ただし三島神社は何度か場所を移し、現在は下谷三丁目にある。そのため、跡地の住人がここに小さな社を立て、「元」と名付けて信仰した。

 駒形町の西二丁ばかりにあり。(中略)昔は下谷坂本にありしを、元禄年中いまの地へ遷さる(その旧地、東叡山の東の麓根岸村にあり)。(『江戸名所図会」』

 『江戸名所図会』による「その旧地」がここになるだろう。
 上野の河野氏と伊予との関係は如何。河野氏はもともと伊予水軍を統率していた一族だが、承久の乱で上皇方に加担してほとんど滅ぼされた。たまたま北条時政の娘(政子の妹)を母にもった河野通久だけが鎌倉方についたため、その系統だけが生き延びた。通有は通久の孫にあたり、元寇での活躍(蒙古軍の石弓で負傷したりもするのだが)によって伊予の旧領を回復安堵することができた。
 上野に通有の館があったのは、江戸太郎重長の娘が通有の妻であるという関係だろう。江戸氏は中世江戸を作り上げた一族である。鈴木理生によれば、江戸氏は武士というより、利根川流域と「いちば」とを結ぶ「坂東八カ国の大福長者」であった。
 私たちは江戸の歴史は太田道灌に始まるように考えがちだが、その以前、江戸重長こそが江戸の開拓者であったと言わなければならない。(私は今回初めて認識した)

 ここでいう江戸湊の運営とは、模式図的な説明をすれば、広大な利根川水系の上流部における山林・鉱山の経営、中流部での穀倉地帯の開発と維持、および採鉱された原料の冶金や加工、そして河口部における水田耕作地泰の開発などの、それぞれを結ぶ役割としての舟運業務と、鎌倉をはじめ他の地域とを結ぶ海運業務を含んだものであった。
 それだからこそ江戸湊の主は「八カ国の大福長者」だったのである。(鈴木理生『江戸はこうして造られた』)

 舅の資金力と輸送力とを背景に、河野通有は伊予水軍を再建したのだと思われる。私は伊予の水軍といえば村上水軍しか知らなかったのだが、河野水軍はそれより古い。と言うより、村上水軍は河野水軍の配下のような立場にあったのである。
 江戸氏は秩父平氏の流れを汲む。重長の父、重継のとき江戸に進出して皇居の辺に館を構えた。親子二代の間に「八カ国の大福長者」と呼ばれるほどの勢力を拡張して、その支配地は千代田区、台東区、文京区、港区、新宿区、世田谷区の辺りに及ぶ。つまり太田道灌の江戸城は、江戸氏の館を引き継いだものである。

 狭い境内の拝殿(その下は飲食店である)に上る石段の下には茅の輪が作られている。「何回目になったかしら」講釈師の言葉に従って、八の字を書いて何回も巡っているうち、マルちゃんは何度目か分からなくなってしまったらしい。しかし最後に講釈師が言う。「こうして回るのは松の内の間だけなんだ。それを過ぎたらただ真っすぐ入らなくちゃいけない」それなら最初からそう言ってくれれば良いのである。ただし、回るか真っすぐ行くかは、「松の内」ではなく、「大晦日」が期限になっているかもしれない。
 ロダンは茅の輪を初めて見たようで、しきりに首を捻っている。「どこの神社にもあるものですか、この知恵の輪は」「浦和の調神社では、知恵の輪は」思わずハイジもつられてしまう。知恵の輪ではない。茅の輪である。夏越(なごし)と年越と、年二回の悪霊祓の儀式である。ロダンは、その時期に神社に来たことがないのだろう。
 ただ茅の輪には疫病退散の意味が強い筈で、本来は夏越の祓いに用いられたものだと思われる。それが年に二回の大祓ということで、年越しの祓いにも転用されたのではないか。
 その伝説についても知らない人が多いので、以前紹介したことをもう一度書いてみる。山本ひろ子『中世の異神』からの抄録だ。

須弥山の半腹に豊饒国という国があった。一人の太子がいたが、七歳にして身長は七尺五寸、頭頂には三尺の牛頭・三尺の赤い角が生えていた。牛頭天王と呼ぶ。
妃を迎えるため竜宮に出かける途中、日が暮れたので「巨端長者」に宿を求めたが断られた。蘇民将来は貧しい家なのでいったんは辞退するが、天王には新しい茅の席を用意してもてなした。
竜宮に達した天王はここで八王子(七男一女)を設け、帰国する途中でまた蘇民将来の家を宿所とした。後、天王は八万四千の眷属を率いて「巨端長者」を滅ぼそうとするのだが、そのとき、巨端の家には将来の娘がいる。なんとか娘だけは助けてほしいという将来の願いに、「茅の輪を作って赤い絹に包み、蘇民将来の娘と書いた札を娘の腰に付けさせよ。そうすれば災難から免れるだろう」と指示した。そして、巨端長者の一族を殲滅したのである。

 牛頭天王は日本ではスサノオと習合した。またこの伝説が「八王子」にも因むことがわかるだろう。
 それはともかく、最初の神社でこんなにページを費やしてしまっては、この作文はどうなってしまうのだろう。先を急がなければならない。

 次は入谷鬼子母神である。仏立山真源寺(法華宗本門流)。万治二年(一六五九)開山である。法華宗本門流というのは知らなかった。応永二十二年(一四一五)、日隆が本能寺を建立したことから始まる一派のようだ。下谷七福神の福禄寿担当である。
 「恐れ入谷の鬼子母神」という地口は、蜀山人の狂歌によるという俗説がある。(しかし専門家は典拠が発見できないと否定的だ)同じような地口を桃太郎が探し出してきた。「びっくり下谷の広徳寺」「情け有馬の水天宮」「うそを築地の御門跡」「なんだ神田の大明神」。この中で水天宮については今では理由が分からなくなっているかも知れない。もともと久留米の有馬家の屋敷神だったからだ。宗匠は地口から江戸を偲ぶ。

  七福へ江戸を重ぬる初歩き 《快歩》

 この寺の存在が有名になったのは、この地口と朝顔市のおかげだ。『江戸名所図会』には採録されていないから、結構新しいのだ。

 この入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。(入谷朝顔まつりHP)
 http://www.kimcom.jp/asagao/rekisi.php

 大久保の百人同心は躑躅を栽培した。どうやら幕末の下級武士たちの間では、観賞用の花を育てる内職が盛んだったようだ。
 鬼の字に角がなく、「キシモジン」と読む。「雑司ケ谷のほうもキシモジンでしたか、それともキシボジン」ハッシーは難しい質問をする。私はキシボジンとばかり思っていた。そこで雑司ケ谷の法明寺のホームページをひらけばやはり「キシモジン」とルビを振っている。「母」を漢音では「ボ」、呉音では「モ」と読む。仏教では原則的に呉音を使用するので、キシモジンと読むのが正しいようだ。
 柘榴の木の後ろに隠れるように、一枚の大きな石に三句並んで記されている。木が邪魔になって写真を撮るのに苦労する。

     漱石来る
  蕣や君いかめしき文學士  子規
  入谷から出る朝顔の車哉  子規
  朝顔も入谷へ三日里帰り  当山 日東

 根岸の子規庵に漱石がやってきた。血痰は出たがまだ二十五歳で元気だった子規は、東北旅行を敢行したりしていた頃である。蕣はアサガオである。ダンディが辞書を引くと、この字はアサガオ又はムクゲを意味すると書かれている。日本では、古くムクゲのことを朝顔と呼んだのである。「ムクゲは韓国の国花ですよね」と言ってくるハッシーはもしかしたら韓流のファンなのかもしれない。韓国では無窮花と書く。(実は以前姫に教えてもらった知識だ)日本人の考える「槿花一朝」とはまるで感覚が反対になる。三句目は、この寺の住職だった人のものである。

 街路灯に「かっぱ通り商和会」の旗が取り付けられている通りを歩いて、源空寺(浄土宗)に着いたが、正面は閉ざされて入ることができない。ここにはロダンが尊敬してやまない伊能忠敬の墓がある。ロダンの無念いかばかりであろうかと思ったが、横に回ればちゃんと境内に入れる。「私も下見してますから大丈夫ですよ」やはりロダンは来ているのである。
 源空寺は明暦の大火に遭って湯島から現在地に移転してきた。「あの火事は物凄かったんだよ。何しろ一面、火の海で」講釈師の見てきたような話が始まる。「どこで見てたんですか」「松屋の屋上から」
 大きな鐘は家光の寄進によるもので、総高二・二二メートルもある。厚さは十五センチにもなるだろう。「人間がひとり入れますね」若旦那の言葉で、安珍清姫が連想される。「中に入る美男の安珍はだれですか」と姫が迫る。こういう鐘は立ち入り禁止にされている所が多いのだが、この寺ではちゃんと石段を上って触ることもできるようになっている。
 家康、秀忠の法号と家光の官職名が刻まれている筈なので、一所懸命探してみた。「これでしょう」桃太郎が見つけたところに「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」がやっと判読できた。征夷大将軍の称号だけでは武家の棟梁として認められない。秀忠は征夷大将軍に任ぜられたとき、淳和奨学両院別当職は得たが、源氏の長者はしばらく家康のもとに留まった。つまり、武家の棟梁はあくまでも家康だったのである。(こういう知識は、隆慶一郎『影武者徳川家康』による)
 家康、秀忠の法名は発見できなかったが、「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」、「台徳院殿一品大相国公」と刻まれている筈だ。
 道路を挟んで向かいにある墓地に回れば入口に近い方から「玉岡高橋景保墓」、「東岡高橋君墓」(至時)、「東河伊能先生之墓」と並ぶ。伊能忠敬は文政元年(一八一八)に亡くなったが、遺言によって師の至時の墓に並べて葬られた。当然ロダンとしては一言申さなければならないから、日本天文学の黎明期について熱心な解説を施す。
 至時(作左衛門)は麻田剛立に師事して天文・暦学を学び、幕府天文方として間重富とともに寛政暦を作った。年上の弟子の忠敬の全国測量を至時が強く支援しなければ、忠敬の旅は続かなかったかも知れない。忠敬没後に「大日本沿海輿地全図」を完成させたのはその息子の景保だが、後にシーボルト事件に連座して獄死した。無残なのは、死の後に死罪の判決が下り、塩漬けにされていた遺体の首を切られたことだ。伊能図を写させたのが原因で、あまりにも軽率すぎる行為ではあった。
 「忠敬はどうやって測量したんでしょうかね」桃太郎が疑問をもつ。井上ひさし『四千万歩の男』によれば、距離の実測は、基本的には歩幅を基準にしたのである。その結果、緯度一度は約百十一キロ、地球の外周四万キロと割り出した。現在の科学的測定による数値との誤差〇・一パーセントという。
 幡随院長兵衛夫妻之墓。「水野十郎左衛門の墓も見ただろう」あれは中野の萬昌院功運寺であった。谷文晃(本立院殿法眼生誉一如文晃居士)の墓には、何の説明も施されていないので見過ごすところだった。「あそこにあったわよ」の言葉で慌てて戻る。田安家の家臣で、渡辺崋山はその弟子にあたる。亀田鵬斎、酒井抱一と並んで「下谷の三幅対」と評された。

 合羽橋商店街を突っ切ると、住所表示は東上野になった。「この辺の町名はなんとか言ったんだよ」スナフキンが思い出そうとしていると案内板が登場した。「旧浅草北清島町」「そうだったかな」自信はなさそうだ。どうやら稲荷町ということだったらしい。
 頭上に玉を載せた河童像が道路脇に立っている。河童の顔は小島功の描く絵に似ている。ただし色っぽい大人ではなく、子供の河童だ。旧松葉町。講釈師は「カッパ黄桜カッパッパ」と歌っている。ハイジはそれを知らないらしい。
 カッパ寺。正しくは巨嶽山曹源寺(曹洞宗)である。境内に入るとすぐ右には「かっぱのぎーちゃん」という不思議な木彫像が立っている。よくよく見れば、太い胡瓜のようなその全体が、長い河童の顔なのである。

 伝承によると文化年間(一八〇四~一七)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための掘割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、掘割工事が完成した。この合羽を目撃すると商売繁盛したという。
 この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。
 当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑がある。「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。

平成十五年三月 台東区教育委員会

 実はこの最後に書かれた句の「てつへん(天辺)」が読めなかった。「後で調べればわかるでしょう」という宗匠の言葉通り、ちゃんと調べはつくのである。
 正座した男女の河童の頭にはラップで包まれた胡瓜が載せられてある。胡瓜は河童の好物であり、寿司のカッパ巻きがこれに由来することをスナフキンが知らないのには驚いた。こういうことは日本人の常識である。(エヘン)
 紫の花は何であろう。姫が「分からないわ」と悩んでいるからには園芸種なのだろう。こういうことはミッキーが詳しい。「ノボタン」よ。「そう、ノボタンでしょう」とハイジも頷く。私は買い換えたばかりのカメラで初めて花を写してみた。以前のものは接写モードに切り替えなければならなかったのに、今度のやつは全くの自動で面倒くさくなくて良い。しかもかなり近づけるから大きく撮れる。「買ったんですか」「妻が妻のお金で買った」「それって、買ってもらったって言うんですよ」と姫が笑う。
 そこからすぐに矢先稲荷神社だ。やっと浅草七福神(福禄寿)に出会ったのである。「浅草三十三間堂跡」の案内板がある。通し矢を射たことから矢先神社の名がついた。境内には、笹の枝に、七福神の絵馬がぶら下げられているものが立てかけられている。講釈師によれば、この浅草七福神では御朱印ではなく、このように、それぞれの神社で福神の絵馬を買ってぶら下げるのである。福笹というものらしい。
 合羽橋道具街から脇道に入り込めば、今日の昼食場所である「中華ダイニングいい田」に着いた。こんな大勢が大丈夫かと心配していたのだが、桃太郎に抜かりはない。店内は広く、しかもちゃんと予約を入れてあったのだ。桃太郎によれば、この店の東京ラーメンは絶品であるそうだ。ということで調べてみると、こんな記事が見つかった。

スープはあっさり醤油味だ。鶏ガラや野菜、カツオ節でとった、だしがきく。具材はもやし、メンマ、チャーシュー、ナルトに刻みネギとシンプルだ。麺は中太平打ちで、やわらかい。澄んだスープに甘みを感じるのは、野菜か魚介系のせいかもしれないが、和風である。なかなかおいしいと思うが、もっと特徴があってもいいかもしれない。平凡だが、自己主張の少ない、しっかりしたラーメンである。
http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-d3c3.html

 全員が席に着いたころを見計らって、チイさんから今朝採ってきたばかりの蕗の薹が回されてきた。広告の裏紙を短冊にして、筆で書いた句も添えてある。

 春を呼ぶ香り豊かにふきのとう  千意

 「今朝、一時間で考えてきたの」この時期にしてはかなり大きいのではないか。「大きいの選んで摘んできた」鼻に近づけると蕗の薹のほろ苦い香りがツンとくる。さすがに豪農である。句を批評する力はないので形式的なことだけを言うが、「春」と「ふきのとう」で季が重複しているのではないか。俳号「千意」は勿論チイと読むのだろう。
 ロダンが注文した四百九十円の「豚カラ丼」について、その代物が登場するまでドクトルは納得しない。「豚カラ」とは何か。そもそも桃太郎の案内には「豚辛」と書かれているが、これは文字変換のミスである。私は豚の唐揚げ丼だろうとすぐに正しく推測した。安い定食屋ではバラ肉の唐揚げは珍しいものではない。ドクトルはそんな下賤なものは食べたことがないのである。
 麺類はかなり量が多いようで、味噌ラーメンを選んだ碁聖は四苦八苦している。向こうのテーブルで住職の食べているのを見れば、二人前ほどもある固焼きそばだ。私はマーボー丼プラスミニラーメンのセットで九百八十円。これはちょっと食べすぎた。
 相変わらず早く食べ終わった講釈師は「もう行こうぜ」と席を立つ。姫の野菜炒めは一番最後に出てきたのだから、まだ食べ終わらない。「慌てることはないからね」それでもこれは相当な精神的圧力である。野菜の半分をロダンに協力してもらい、姫は必死で食べ終えた。

 商店街の途中には、右手で釣竿を立て左腋に鯉を挟んだ金ぴかの「かっぱ河太郎」と、東京合羽橋商店街振興組合による黒御影の碑が立つ一画がある。合羽橋道具街誕生九十年を記念して、平成十五年に作られたものだ。
 六区興業街を横切り、木馬館の前を過ぎる。今日は浪花節をやっているようだ。「浪曲はまるで別の世界です」と伊野さんが言う。私は昔、『浪曲傑作集』というカセットテープ十巻セットなんていう代物を買って、今でも持っている。こういう人間はあまりいないだろう。広沢虎蔵の「森の石松閻魔堂の騙し討ち」なんかは、なかなか泣かせるものです。因みに最近読んだ、兵頭裕己『声の国民国家・浪花節が創る日本近代』(講談社学術文庫)はなかなか裨益される本であった。貧民街に生まれた浪花節が、やがて桃中軒雲右衛門によって忠君愛国路線に結びつきながら、近代日本の国家形成にどんな役割を果たしたか。そんな事情が明らかになってくる。
 浅草寺には、私は仲見世通りの方からしか来たことがないので、やや風景が違って不思議な感じがする。「人混みが多くてはぐれてしまったときは、次の待乳山聖天に来てください」桃太郎が確認をする。
 本堂は外郭工事中でシートに覆われていて、私たちは大黒天を祀る影向堂に向かう。「違うよ、こっちだよ」真っすぐ歩くリーダーを捕まえて、講釈師が道案内をする。いつものことでもあるが、露店が並び人出が多い。

 本尊縁起に曰く、人皇三十四代推古天皇の御宇、土師臣中知といへる人、ゆゑありてこの地に流浪ふ。(中略)家臣檜熊浜成・武成といふ二人の兄弟附き添ひて、主従三人つねに漁猟を産業とし、ここに年月をおくりけり。(中略)同三十六年戊子(六一八)三月十八日の朝、碧洛に雲消えて蒼溟に風静かなりければ、小舟に乗じ、このところの沖に出でて網を下ろすに(浅草川むかし海にちかし、旧名を宮戸川と称す)、遊魚はさらになく、幾度も同じ観音大士の尊像のみかかりたまふ。(後略)(『江戸名所図会」』

 この観音像を本尊として安置したのが浅草寺の始まりである。身の丈一寸八分という秘仏である。浅草寺の賑わいは今に始まったわけでは勿論なく、手元の『新訂江戸名所図会』(ちくま学芸文庫)では、その記事は全図五枚を含んで四十五ページにも上る。但しこの中には三社権現も含む。要するに、浅草寺、三社権現(浅草神社)は不離一体のものであった。

 そもそも当寺は、一千百七十有余年を経るの古刹にして、実に日域無双繁盛の霊区なり。その霊験の著きことは普く世に知るところなり。つねに金鈴玉磬の響き絶えず。焼香散華の勤行怠ることなし。朝より夕に至るまで参詣の貴賤袖を連ねて場に満てり。ことさら月ごとの十七日には、通夜の緇素堂中に参籠して、終夜誦経念咒怠慢なし。また境内売り物の数多きが中にも、錦袋円・浅草餅・楊枝・珠数・五倍子・茶筌・酒中花・香煎・浮人形の類、ことに浅草海苔はその名世に芳し。手遊び・錦絵等を商ふ店、軒をならべたり。他邦の人ここに至りて、その繁盛を知るべし。(『江戸名所図会』)

 六地蔵の石燈籠の前で真剣に手を合わせている若い娘がいる。ゆっくり回れば数時間は見るべきものがあるはずだが、いつも何かのついでに来るものだから、実は全体を見たことがない。「今度は浅草寺を中心にした企画をたてましょうか」と姫も言う。「幇間の塚があるはず」と宗匠が探しているが、発見できない。後で調べてみると鎮護堂のところに建っているらしい。
 浅草神社に回ってみると、ここは長蛇の列になっているから、私たちは横から見るだけだ。「ここは神社なんですか」イッチャンが不思議そうな声を出す。今は浅草神社と名乗っているが、本来は三社権現である。三社とは、秘仏を見つけた三人、土師臣中知、檜熊浜成・武成を祀って、浅草寺の護法神としたのである。「権現」は神仏混淆の神名だから明治の神仏分離令によってその名を禁じられ、改名を強制された。「俺は三社祭の神輿を担いだことがある」とスナフキンが自慢する。
 出発しようとした時「どう数えても二十五人しかいない」とロダンが慌てている。いつの間にか碁聖の姿が見えないのだ。「俺の前で猿回しの猿を撮っていたようだったよ」と住職が教えてくれる。携帯電話に伝言を入れたが返事がないのは、バッグの中にしまいこんでいるのだろう。次は聖天と知っている筈だから、取り敢えず先に進むことにした。
 花川戸公園の姥ケ池旧蹟の碑の前に立てば、「安達が原だよ」と講釈師がのたまう。安達ケ原は奥州二本松にある。能に詳しいダンディならすぐに解説するだろう。そちらの方は鬼女伝説になってしまう。

 『回国雑記』に云く、
 この里のほとりに石の枕といへるふしぎなる石あり。そのゆゑを尋ねければ、中頃のことにやありけん、なまさぶらひ侍り、娘を一人持ちはべりき。容色おほかたよのつねなりけり。かの父母娘を遊女にしたて、道ゆきびとに出でむかひ、かの石のほとりにいざなひて、交会のふぜいを事としはべりけり。かねてよりあひずのことなれば、折をはからひて、かの父母枕のほとりに立ち寄りて、ともねしたりける男のかうべをうちくだきて、衣装以下の物を取りて、一章を送り侍りき。(後略)(『江戸名所図会』)

 やがて娘はこの生業を深く後悔し、男の代わりに自分の頭を祖の枕に載せ、父母に打ち砕かれて死ぬのである。これを悲しんで前非を悔いた老母は池に身を投げる。これが姥ケ池の伝説である。安達が原ではなく浅茅ケ原。要するに草深い田舎のことである。

 助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり  団洲

 九世市川團十郎による助六歌碑である。江戸っ子の代表のような助六だが、実はその源流は上方にある。またダンディに上方の自慢をされてしまいそうだ。

宝永三(一七〇八)年十一月、京・早雲座で『助六心中紙衣姿』、大阪・片岡座で『京助六心中』が上演された。これが助六・揚巻の心中事件の初の劇化とみられる。(中略)
同時代の史料が遺っておらず、ハッキリしないが、万屋助六と島原の遊女・揚巻の心中事件がモデルとされる(大阪の男女という説もある)。(赤坂治績『江戸っ子と助六』)

 この本によれば、助六・揚巻が江戸で初演されたのが、正徳三年(一七一三)だから、五年後ということになる。演じたのは二代團十郎である。正徳六年、二回目に上演した『式例和曽我』によって、曽我物語を世界にした現代に続く助六劇の骨格が固まった。
 「助六寿司っていうのは、どういう関係だい」スナフキンに聞かれた私は「海苔巻だからだよ」と出鱈目を答える。それでもなんとなく辻褄はあっているようで、「そうか、海苔が紫なんだな」と彼が感心する。そもそも私は助六寿司って知らないのだから仕方がない。稲荷寿司に海苔巻がセットになっているのを助六寿司と言う。稲荷寿司は「揚げ」、海苔巻は「巻き」、合わせて助六の思い人である揚巻を意味するというのが正解である。だから私が答えることは簡単に信じてはいけない。
 この辺からは建設中の東京スカイツリーがはっきりと見える。「ムサシ。六百三十四メートルの計画なんです」ロダンの知識はこういうところに及ぶ。現在、二百五十メートルほどまでできているらしい。
 待乳山聖天(本龍院)の前を少し回りこんで、最初に見るのは池波正太郎生誕碑である。煉瓦色の背景の壁に、黒い本を開いた形で、左に本人の写真、右に台東区の説明が書かれている。「浦和にも住んでたんですよ」ダンディの言葉に、「そうよ、浦和よ」と浦和の住人ハイジの答えに力が入る。
 石段を上がって境内に入り、ここでロダンからこの地形についての解説が入る。その手には、ずいぶん古い『東京の自然史』(紀伊國屋新書)が握られている。今、紀伊國屋新書はすべて絶版になり、この本は単行本として第二版が出ている。私も買ってはみたが、自然地理の本は私にはちょっと歯がたたない。
 ロダンの説明にもあったが、待乳山を『江戸名所図会』では「真土山」と表記している。

 真土山 今戸橋の南の詰にあり。また待乳に作り、あるいは信土に作る。『万葉集』に亦打とす。(中略)菊岡沾涼云く、「往古本所の辺り海面なりし頃は、当山を沖より入津の船の目当てにしける」とぞ。按ずるに、いまもこのあたりを山の宿と字し、新鳥越の地を山谷といふも、みな山に因みある名なり。(中略)
 またある人の説に、「いまの日本堤を築き立つる頃、この真土山のあたりの土を穿ち取りて、築き立てける」といひ伝へはべれば、この岡いにしへはなほ高かりしなるべし。(『江戸名所図会』

 石段には大根が描かれていて、中には「色っぽい大根」とチイさんが言うような、二本の足を交差した形のものもある。この神社で大根祭が行われるのはなぜか。

大根は清浄、淡白な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています。
私たちはそのお下がりを頂くことによって、聖天様のお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来ます。
そこで当山では昭和四十九年(一九七四)より、毎年正月七日に大根まつりを行い、元旦以来ご本尊様にお供えされた大根を、フロふきにし調理して、御神酒と共にご参詣の皆様に召し上がって頂きます。(待乳山聖天ホ-ムページより)

 「その日は大根が並んでいます」「皆様が並べば大根がなくとも大丈夫です」バカな会話がはずんでいる。築地塀は谷中観音寺や、赤坂報土寺のものと同じだ。

 哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉 戸田茂睡

 戸田茂睡は歌学の刷新を唱え、契沖とともに国学の先駆者とされる人物だ。『江戸名所図会』にも引用される『紫の一本』を書いた。この歌については、矢田挿雲の解説がある。

「夕越えて行く人」というのは、吉原通いの者へも、「奥の細道」へ志す者へも、振りわけられた言葉であろうが、この言葉には、この辺がいよいよ江戸のはずれであった心持が見える。江戸を出て、千住で一泊して、遠い旅に上ったのである。(矢田挿雲『江戸から東京へ』)

 それにしても碁聖の姿はまだ見えない。どうしたのだろうか。心配をしながらトイレに行っている間に、わが軍は私を見捨てて出発してしまった。やはり世間は私に冷たかった。今度は私が迷子になるのである。それでも桃太郎とスナフキンから、次は今戸神社だと電話が入ったから、もちろんすぐに追いつける。
 今戸神社は招き猫発祥の地を自称している。豪徳寺も同じように主張する。浅草一帯は、浅草寺の縁起で知ったように、かつては土師氏の支配する土地であった。土師氏は野見宿祢を祖とする氏族であり、古墳造営や葬送儀礼に関わった技術集団である。埴輪を焼いた集団だから、今戸焼に関係しないだろうかと思うのは、あまりに時代が離れすぎているか。そう言えば深川に野見宿祢神社があるが、これも関係があるかも知れない。もちろん勝手な想像だから信頼できることではない。私が到着すると、碁聖は既に合流していた。お互い無事で生還できたのは喜ばしいことであった。

 社記に曰く、源頼義朝臣、義家公とともに勅を奉じて、奥州安倍貞任、宗任を誅戮したまふ。よつて康平六年癸卯(一〇六三)八月、その祈願として、鎌倉由比郷およびこの今戸の地に至り、石清水八幡宮を勧請あり。(『江戸名所図会』)

 石清水八幡を勧請したので、もとは今戸八幡と称した。ここにも茅の輪が作られている。七福神は福禄寿を担当する。

 ありがたや涙満ち来る福詣 《快歩》
 拝むより歩を数へ行く福詣  蜻蛉

 私の句の方は、今年の年賀状に書いてみたものだ。宗匠は神仏の有難さに涙を流すが、私は無信心だからそういうことはない。最近涙が出たのは、ちあきなおみの歌によってである。
 露店ではコンニャクの煮つけ、甘酒を売っていて「旨いですよ」とダンディが勧めるので私も蒟蒻を食ってみる。串に刺した丸蒟蒻は唐辛子が利いていて熱くて旨い。メタボ検診で引っかかった宗匠は間食厳禁だから、詰まらなそうに見ている。伊野さんはチロリンから甘酒を勧められているが、「駄目なの」と断っている。「辛いお酒は大丈夫かな」「お酒が駄目なのよ」
 「向こうから総司が運ばれてきて」講釈が始まる。「すぐ隣に松本順庵が住んでいたんだ」沖田総司終焉の地には諸説あって、そのひとつである。「映画やなんかじゃ美男が演るけど、実際は違うんだ」その通り、絵が一枚残されているが、下膨れの、なんだかヒラメみたいな顔である。ただしこの絵は、姉ミツの孫をモデルに書かれたもののようで、遺族の間では色白で小柄な美男であったという伝承が残されているともいう。
 橋場不動尊まで、堤防を右手に見ながらちょっと歩かなければならない。メインストリートは広いが、脇に入る路地はみな狭い。「これじゃ消防車が入らないのよね」同じように狭い路地のような参道の前で、桃太郎が後続の人の案内をする。参道の両脇には赤い幟が並んでいる。正しくは砂尾山橋場寺不動院(天台宗)、布袋尊を担当する。

 砂尾不動院 橋場寺と号す。渡し場の少し南の方、道より右にあり。天台宗にして浅草寺に属せり。(中略)宝亀四年癸丑(七七三)、良弁僧都の上足寂昇上人当寺を開基し、本尊に不動明王の像を安ず。(『江戸名所図会』)

 「キティちゃんのお守りがありますよ」と姫が教えてくれた。妻がハローキティ好きだということを、以前に話したことがある。カメラのこともあるので一つ買った。六百円である。
 さて、橋場という地名がでてきたのでちょっと歴史を紐解いてみなければならない。

橋場 いま神明宮の辺りより南の方今戸を限り、橋場と称す。旧名は石浜なり。(『江戸名所図会』)

 『江戸名所図会』には、この後に『東鑑』を引いているのだが、私は『義経記』を引いてみる。知識をひけらかしているのである。(「日本古典文学全集」小学館版より)

治承四年九月十一日武蔵と下野の境なる松戸の庄、市川と云ふ所に着き給ふ。御勢十九万騎とぞ聞えける。
ここに坂東に名を得たる大川一つあり。この川の水上は、上野の国、利根の庄、藤原と言ふ処より落ちて、水上遠し。末に下りては、在五中将が隅田川とぞ名付けたる。海より潮さし上げて、水上にはかつ降りして、洪水端をきしりて流れたり。偏へに海を見るが如し。水に堰かれて五日逗留し、墨田の渡り両所に陣を取りて、櫓をかき、櫓の柱には馬を繋いで、源氏を待ち懸けたり。(江戸太郎の勢が待ち受けていたのである)
兵衛佐殿、伊勢の加藤次を遣はして追落さんとし給ふところに、櫓の柱を切り落として、急ぎ船に乗りて市川へ参る。葛西兵衛について、見参に入るべき由申したりけれども、用ひ給はず。重ねて申しければ、「如何様にも頼朝をば狙ふらん。伊勢加藤次心許すな」と仰せられける。
江戸太郎色を失ふ所に、千葉介、「近き所にありながら、如何ただはあるべき。成胤申さん」とて、御前に畏まつて、不便の事を申しければ、佐殿の仰せられけるは、「江戸太郎は八ケ國の大福長者と聞くに、頼朝が大勢、この四五日水に堰かれて渡しかねたる水の渡りに、浮橋を組んで、頼朝が十九万騎の勢を武蔵の國、王子の上、小板橋に着けよ」とぞ仰せられける。
江戸太郎承りて、「首を召さるともいかで渡すべき」と申す所に、千葉介、葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、千葉と葛西が知行の所、熊井・栗川・亀無・牛島と申す所より、海人の釣舟を数万艘上せて、石浜と申す所は、江戸太郎が知行の所なり。西国船の着きたりけるを、数千艘破りて、水の渡りに三日の内、浮橋を組んで江戸太郎に合力す。佐殿神妙なる由仰せられけり。さてこそ太日・墨田打越えて、小板橋に着き給ひけり。(『義経記』頼朝謀反の事)

 江戸重長は秩父氏宗家の畠山重忠とともに初めは平家についていたのだが、関東武士団の大半が頼朝に加担した形勢をみて、ここで頼朝に服する形で和睦したのである。葛西も千葉も秩父平氏の一族であった。
 つまり、浮橋を架けたことから「橋場」と言われるようになったというのである。白鬚橋西詰の交差点を渡れば石浜神社だ。

 朝日神明宮 橋場にあり。石浜神明とも(ある人の説に、この地に神明宮あるゆゑに上古伊勢浜と唱へしと云々)、あるいは俗に、橋場明神とも号く。祭る神、伊勢に同じく内外両皇大神宮を斎きまつる。社伝に云く、「人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀元年甲子(七二四)九月十一日鎮座」と云々。

 千葉氏が拠った石浜城については、この辺りが一つの候補になっている。もう一つの説は、さっきの待乳山である。千葉氏については、赤塚を歩いた時(第九回「赤塚編」)少し調べてみたことがある。
 コバケンと画伯が鳥居の形が違うと悩んでいるので、僭越ながら少し解説を試みる。ただ資料をもたないときの私の説明は結構いい加減だから、注意が必要だ。石造の一の鳥居は神明鳥居だが、笠木の辺が蒲鉾のように丸くなっていて珍しい。二の鳥居には、笠木と貫の間に額束があり、これも珍しいもののようだ。境内にある稲荷神社の方は典型的な明神鳥居である。私が説明していると、宗匠が資料(芝神明宮で姫がくれたもの)を取り出してさらに懇切な説明を加える。やはり、ちゃんと資料に基づかないといけない。さらに、千木、鰹木についても解説は広がり、千木の男女別にも及んでいる。良く聞いていなかったので、ウィキペディア「千木・鰹木」のお世話になってみる。

 出雲大社を始めとして出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣っているものが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。

 ここの祭神は天照大御神と豊受姫神だから、両方とも女神である。したがって千木は水平に削られている。ただしこの原則も、伊勢神宮の場合だけには当て嵌まらないらしい。

 ただし、伊勢神宮の場合、内宮の祭神天照坐皇大御神、外宮の祭神豊受大御神とともに主祭神が女神であるのにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ・十本、外宮は外削ぎ・九本である。同様に、別宮では、例えば、内宮別宮の月讀宮、外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀尊(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎ・偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎ・奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。この理由には諸説あり、外宮の祭神がもともと男神的性格を帯びたものではなかったとする議論もある。

 境内には真先稲荷神社、牛頭天王社(今では江戸神社と呼ばれる)なども祀られている。溶岩を積み上げた富士遥拝所は宝暦八年(一七五八)の建立である。亀田鵬斎詩碑はその内容を紹介する記事がなかなか見当たらないので、写真に撮ったものからできるだけ復元してみよう。判読できない(及び、今の字体になくて読めない)文字は■にしておく。当然読み間違いもある筈だ。

隅田津二首 鵬斎亀田興作弁書時年七十三歳
津控寒潮晩渡雄海天回首牙檣雙豪都■釈遷盟主天
壍新城托寓公右将軍艦乗覇力金吾詩鷁駕高風坂東
長者今何在鯨鐘空咽碧■中
中津操秖奨進舩處江門十里城鷗連中即問東■■覇
府建橋奥征年蒼花柳墳表纖骨黯澹鏡池迷■■■■
青螺西嶽雪雙峯並落水中天

 「どんな人ですか」私も儒学者、漢詩人、書家とまでは知っていても、実はよく知らない。ウィキペディアのお世話になってしまおうか。

 鵬斎は豪放磊落な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。
 寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ五十歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。
 享和二年(一八〇二)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国を旅する。この後、この三人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。(ウィキペディア「亀田鵬斎」より)

 「クチナシの実が生っていますよ」ハッシーが教えてくれた。私は実物を見るのは多分初めてのことだ。確かに碁盤の足の形に似ている。黄にオレンジが鮮やかな実である。

  梔子の実の艶やかに恋を秘め  蜻蛉

 「どのくらい歩いたのかしら」ハッシーや伊野さんは少し疲れてきたのかもしれない。「公式記録は宗匠が担当しているんですが、参考として」とダンディが一万三千歩と教える。今日のペースだと一歩五十センチとして、七キロ弱というところだろうか。住職もこの程度ならまだまだ大丈夫だろう。
 ここからまた少し戻って橋場二丁目の角を右に曲がる。吉原まではちょっと距離がある。街燈の柱に「祝アサヒ会通り・橋場交番新設」という赤い旗が取り付けられているのをロダンが見つけて笑っている。長い間、近隣住民は交番の新設を待ち兼ねていたのである。ということは、結構物騒な場所であるかも知れないということだ。
 大門の交差点を渡り、見返り柳の前に集まると、他の人は通れない。「新吉原衣紋坂・見返り柳」という石碑が立っている。柳は何代目になるのか。

  きぬぎぬの後ろ髪ひく柳かな  作者不詳

 「大門」は「おおもん」と読む。あまりにも有名で気が引けるが、私は一葉が好きなのだから、やはり引用してみる。

 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き。(樋口一葉『たけくらべ』)

 これを過ぎると、町は次第に怪しげな雰囲気になってくる。まだ三時なのだが、黒服の男たちが鋭い目で私たちを睨むように立っている。名にし負う吉原ソープランド街である。黒服に眼を合わせないように注意しながら歩かなければならない。
 「里山よりこっちの方が面白いだろう」講釈師がコバケンに向かって言っている。「なにしろリーダーがいいからさ」「あれっ、企画したこともないのにリーダーって、おかしい」実は第二回「両国編」は講釈師の企画だったのだが、二十七回の中のただ一度のことである。誰も覚えていない。と言うより、その時に参加して今日いるのは私だけだからだ。「企画なんて、そんなことは下っ端の奴がやるんだよ。俺は会長だから」いつの間にか会長になってしまった。
 所々に「東京下町八福神」の幟が立っているのをドクトルが見つけた。「吉祥天でも入っているのかな」ところがそういうものではなかった。中央区・台東区の八つの神社を巡るコースで、八方よけ、八方広がり、末広がりが強調される。構成は、月島の住吉神社、深川の小網神社(福禄寿)、水天宮(弁財天)、蔵前の第六天榊神社、下谷神社、小野照崎神社、鷲神社(寿老人)、今戸神社(福禄寿)である。たまたま七福神と重複しているのもあるが、あまり関係がなかった。
 吉原神社は小さな神社だ。もとは新吉原遊郭の四隅に稲荷が祀られていたのを、明治五年に地主神である玄徳神社と合祀した。さらに昭和に入って弁天が合祀されたのである。宗匠に注意されて万太郎句碑を確認する。

  この里におぼろふたたび濃きならむ  万太郎

 この小さな文字はたぶん万太郎の自筆だろう。「どういう意味なんだろう」チイさんの質問に、「意味を考えちゃいけない。全体の雰囲気が大事なの」と宗匠が答える。吉原は奇形的な街で、女性の立場からは当然排撃されるだろうが、江戸明治の文化のある型を作ったことは間違いない。だから万太郎の句のような沁み々々とした情感も生まれた。しかし、それも時代を過ぎて昭和となれば、そんな風情はもう懐旧の中にしか残っていなかっただろう。まして今の「風俗」産業からは何も生まれない。
 宗匠は、万太郎では「湯豆腐や命のはてのうすあかり」が好きだと言う。酷薄な感じが出ていてそれもよいが、私は「竹馬やいろはにほへとちりちりに」も好きだ。寂寥感に軽い色気が混じっているにも思える。しかし、このどちらも山本健吉『定本現代俳句』には採用されていない。山本の趣味からは、俗に過ぎるということだろうか。
 遊郭の過去現在を比較した地図が貼られていて、それに見入る人が多い。「過去と言っても明治のものようです」赤線防止法以前に辛うじて間に合ったダンディが確認する。若旦那も「昔、女房が吉原に行きたいって言うから二人で歩いたことがある」と告白した。「だけど女連れじゃ店に上がることもできないし」当然である。しかし、遊郭を歩いてみたいという若女将の勇気には敬意を表しなければならない。「新しい女」のようではないか。平塚明子、尾竹紅吉たちの「吉原登楼事件」がスキャンダルになったのは大正三年のことだったが。

 鷲神社は賑やかに飾られている。年が明けたからもう一昨年になるが、三の酉に来た時は、とても境内に入れるような状態ではなかった。しかし今日は大丈夫だ。
 その前に初めて来たとき「わし神社」と呼んで私は失笑を買った。「大鳥神社の本社は和泉国大鳥郡にあります」ダンディによれば日本文化の大本は必ず上方にあるのである。大鳥神社には必ずヤマトタケル白鳥伝説が付いて回る。しかし『江戸名所図会』にはここの鷲神社について何も触れていない。触れているのは足立区花畑のほうで。江戸のおおとり神社の本家はそちらだとされている。ついでに、鷲大明神には「わし」と読みを振っているので、江戸時代にはまだ「おおとり」とは呼ばなかったと思われる。

 正一位鷲大明神社 花亦村にあり。この地の産土神とす。祭る神、詳らかならず。(中略)
 按ずるに、当社鷲大明神は土師大明神なるべし。はとわの仮名の転じしより、謬り来れるか。当社を世俗、浅草観音の奥の院と称す。(中略)

 「わし」が「土師(はじ)」の転であれば、土師氏のもたらした神であるか。だから浅草観音の奥の院というのも納得できる説明のように思われる。
 こちらの鷲神社が有名になったのは、十八世紀後半のことらしい。『江戸東京物語・下町編』から『東都歳時記』の文を孫引きすると、こんな風である。

 世俗しん鳥といふ。(今日(酉の市)開帳あり。近来参詣群衆する者夥し。当社の賑へる事は、今天保壬辰より凡五十余年以前よりとぞ。粟餅いもがしらを商ふ事葛西に仝じ。熊手はわきて大なるを商ふ。

 つまり花畑に対して「新」だった。天保壬辰年は一八三二年であり、その五十年以上前と言えば、安永から天明のことになる。
 「樋口一葉玉梓乃碑」は、一葉の伝記作者である和田芳恵が発見した書簡である。原文は誰も読めない。隣の「樋口一葉文学碑」は『たけくらべ』の一節を木村荘八が書いたものだ。

 此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天氣に大鳥神社の賑ひすさまじく此處をかこつけに檢査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ、地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき、中之町の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町京町處々のはね橋より、さつさ押せ押せと猪牙がゝつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀づりより、優にうづ高き大籬の樓上まで、絃歌の聲のさまざまに沸き來るやうな面白さは大方の人おもひ出でゝ忘れぬ物に思すも有るべし。(『たけくらべ』)

 そう言えば、ハイジ、カズちゃんも一昨年の三の酉に来ていたのだった。この後は一葉記念館に寄った。

  雑閙や熊手押あふ酉の市  子規
  春を待つ事のはじめや酉の市  其角

 其角の方は、最初に来た時「事のはじめや」を「年のはじめや」と読んでしまったことを思い出す。これで今日のコースは恙無く終了した。宗匠の万歩計で一万八千歩。十キロ程ということか。
 来客の予定があるハイジはここで別れ、そのほかは桃太郎が予約している喫茶店「汀」に入ってお茶を飲む。最近ではあまり見かけなくなった、いわゆる純喫茶である。学生時代に私が三年間アルバイトをしたのも、こんな店だった。今日は貸し切り状態で、店からミカンや煎餅がサービスされる。それにしても桃太郎はよくこういう店を探しだしたものだ。
 「どこから歩いてきたの」マスターは、矢先神社の神主と友達だと話しかけてくる。ダンディから、若旦那が今年八十歳になると報告され、拍手が鳴り渡る。それにしても元気な傘寿である。
 思いがけず、その若旦那がみんなに紙包みを配ってくれる。何だろう。早速開けば、和閉じの俳句手帳だ。嬉しいが、なんだか申し訳ないではないか。お祝いするのはこちらの方なのに。チイさんは早速筆ペンを出して(筆ペンを持ち歩いているということは、本格的に句作に励む意気込みだ)、最初のページに昼に披露した句を書き込む。彼の字は綺麗だから良いが、私はこの頃手書きでは判読できる文字が書けないようになってしまった。メモを取っても、後で自分で読めないほどだから、この手帳は持ち歩くというより、後で記録しておくために、よほど気合いを入れて丁寧に書くようにしなければならない。
 四時を過ぎればそろそろ良い時刻である。会計をしていると「皆さんこれから何処までお帰りなの」と店のお嬢さんが尋ねてくる。「埼玉県のあちこちから」と返事をすると大袈裟に驚く。浅草の人にとっては、埼玉県ははるか遠い田舎なのである。「御気をつけて」と声をかけられ、サービスに出してくれたミカンの礼を言って店を出る。
 鴬谷方面に向かう人とは別れて、反省をするものは入谷駅から地下鉄に乗る。「えっ、金太郎じゃないんですか」姫が驚く。私もてっきり桃太郎の意思はそこにあると思っていたのだが、開店は七時、無理に開けて貰ったとしてもこの人数は入れないのは分かっている。
 向かった先は御徒町の「さくら水産」である。私が一度間違えて発見できなかったところだ。今日はハッシー、ミッキーが参加してくれ、十四人の大人数となった。これも記録であろう。血液型や年齢の話で盛りあがり、コバケンまで川柳を捻りだす。

  定期券卒業したら診察券  コバケン

 次第に、俳句川柳の会になっていきそうだ。二時間ほど飲んで一人二千四百円。ダンディ、桃太郎と、なぜかチイさんまでが「金太郎」に向かい、画伯と姫に先導されたものはビッグ・エコーに入り込む。ロダンは珍しく歌わずに、宗匠と一緒に帰って行った。私はまだウロ覚えのちあきなおみを二曲(勿論それだけではないが)歌う。姫は七曲歌う。ミッキーは歌が上手い(艶のあるアルトだ)というのが本日の発見である。二千円也。

眞人