第二十八回 水戸藩ゆかりの地を歩く
(小石川後楽園~谷中墓地)   平成二十二年三月十三日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.03.21

原稿は縦書きになっております。
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 ここ一ヶ月ほど春めいて暖かくなったかと思えば、特に週末になると天気が安定せず雨が降って気温が下がる。今週は火曜の夜に雪が降った。寒暖の変化が大き過ぎて例年より寒いような気がするが、今日は穏やかな春の日になった。最高気温は二十度にもなるらしい。
 しかし私の体調は万全ではない。昨日、昼飯を食べた直後から胃が痛くなり、痛みは次第に強くなった。幸い、午前中に四回も書き直した稟議書は、午後一番で社長の決裁を得たから特に緊急の仕事はない。午後半休にして途中で病院に寄ってはみたが、年取った院長は腹に聴診器を当てただけだった。「よく分からないが、取り敢えず胃薬を出しておこう」と貰った薬は食後に服用するものだが、私は今この痛みを除いて欲しいのである。「でも、やはり食後のほうが良いですよ」と薬局のお姉さんが気の毒そうに、しかし断固として言うからには、飯を食わねばならない。
 妻にお粥を作ってもらったものの、二口啜っただけでもう駄目だった。折角の薬はなかなか効かず、このまま死んでしまうかと思われた。私は意気地がないのである。痛みにはからっきし弱い。残念ながら明日は無理だ。第一回からの連続参加記録もこれで途絶えてしまうかと悔しい思いで、欠席予定のメールを発信した。
 胃袋を絞り上げられるような痛みに加え、何度も吐いてほとんど眠られず、明け方になった頃ようやく痛みが取れた。吐き気もない。復活。これなら大丈夫であろう。「出かける」「エーッ、大丈夫なの」妻が作ったうどんを三分の一程食べて家を出た。「普通の人は、こういう時は休むんじゃないの」と妻が呆れた声を出していた。義のためである。

 啓蟄や父が行くのは義のためと  蜻蛉

 水戸の人ロダン初めての企画は、水戸藩にゆかりある場所を訪ねるコースである。「いやー、行きたいところが一杯出てきて、範囲を広げすぎちゃったかな。あと、三四回はやれますよ」なにしろ御三家、天下の副将軍家である。藩主は江戸定府と決められているから、江戸の中心部に、関連する場所は当然多いに決まっている。
 しかしロダンの前でこんなことを言うのは申し訳ないが、御三家とは言いながら、水戸藩は他とはちょっと位置付けが違う。紀州、尾張は大納言の格であるが、水戸家は中納言でしかない。因みに「黄門」というのは中納言に相当する唐の職名である。また尾張の六十一万九千五百石、紀州の五十五万五千石に対して、水戸の当初の表高は二十八万石とかなり低い。将軍継嗣を出すのは尾張と紀州に定められていた。
 集合場所はJRの駅東口である。飯田橋の駅は降りる機会が多いのに、後楽園に来るのは初めてだ。それに私は無学にも、飯田橋というのは新宿区のような気がしていたが、飯田橋という地名自体は千代田区のものである。この駅は三つの区に跨っていて、JRと地下鉄東西線の駅は千代田区飯田橋四丁目に、有楽町線と南北線の駅は新宿区神楽坂一丁目に、大江戸線の駅は文京区後楽一丁目にある。
 集まったのはロダン、画伯、宗匠、チイさん、碁聖、スナフキン、ダンディ、講釈師、ぺこちゃん、チロリン、クルリン、ハイジ、カズちゃん、イトハン、蜻蛉の十五人である。ハイジは大きなマスクで顔を覆っている。花粉症の人はこの季節は辛いだろう。イトはんは江戸歩き初参加、ぺこちゃんは二回目である。桃太郎は八ヶ岳に行っているし、ハッシー、ミッキーからは欠席の連絡があったのだが、あんみつ姫とドクトルが来ないのはどうしてだろう。
 「良く来られましたね」とリーダーが笑う。宗匠は「ノロウィルスだったら、一日で治るからね」と言い、ダンディは「ストレス性だとは絶対に思えないし」と言う。ノロウィルスなんていう面妖なものを私はどこかで貰ってしまったのだろうか。「来なかったら作文だけ書かせようと思ってました」と碁聖も笑う。参加しないで作文が書けるなら私は作家になれる。
 チイさんがロダンに「何かあったら、これを出してください」と立派な印篭を渡した。「今朝、一時間で作ってきたの」と言うものだが、濃紺の厚紙で器用に作ってあり、葵の紋まで入っているのである。「誰かがが文句をつけたら、この紋所が目にはいらぬか、なんて」印篭の中には、助さん、格さん、風車の弥七、お銀、八兵衛に混じって、チイさんの名を記した「お助けカード」が入っていて、困ったときの切り札に使うのである。「御菓子の箱があったから」

 手作りの印籠楽し春うらら  蜻蛉

 歩道橋を渡り左に曲がって、「あれは何」と女性陣が驚くハローワーク飯田橋の不思議な建物を見る。日中友好会館の前を通ると、玄関前には中国風の大きな狛犬が鎮座している。狛犬は本来中国から来たのに決まっているが、その中でも人相(犬相)というものがあって、私は中国風と断定したのである。
 そしてすぐに大名屋敷風の白塗りの土塀が見えてくる。パンフレットには築地塀と書かれているのだが、私の持っている『図説歴史散歩事典』では、築地塀には横に筋が入っていなければならない。ただ、谷中観音寺や赤坂報土寺(雷電の墓がある)の築地塀は瓦を積み重ねた形だったし、ここにある白壁には筋も何もない綺麗なものだ。そもそも築地塀の定義は何か。

築地塀(ついじべい)とは泥土をつき固めて作った塀。単に「築地」ともいう。石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られる物が多い。塀の上には簡便な小屋組を設け、瓦や板などで葺いたものが多く見られる。(ウィキペディア「築地塀」)

 この記事で見ると、谷中観音寺や赤坂報土寺のものは含まれないように思われる。いくつか探した結果、ほぼこういうものが妥当であろうと思われるものを見つけた。

築地というのは土を練って積み重ね、瓦や檜皮(ひわだ)、板などで屋根を葺いた塀で、神社や寺院、武家屋敷の塀としてよく使われていました。
そのうち、練り土または漆喰と瓦とを交互に重ねて築いた塀を、「練塀」と呼びます。練り土には漆喰が使われることも多く、黒い瓦と白い漆喰の印象的な組合わせは、特に江戸時代の武家屋敷で見かけることが多かったようです。(「赤坂 報土寺の練塀」)
http://blog.goo.ne.jp/kalash0508/e/4dd591bdbb553f65a783ff43d7527608

 つまり報土寺や観音寺の塀は、厳密には練塀と言った方が良いのだ。勿論、築地塀はその概念も包摂するから間違いではない。
 後楽園の入園料は三百円、六十五歳以上は半額である。宗匠がひそかに女性陣を見回して、誰が六十五歳未満かを点検している。「証明書もってないのかい」講釈師は得意そうに年齢を証明するもの(これは何だろう、運転免許証ではない)を振り回し、「そんなものなくても、この顔を見てくれれば一目瞭然」と碁聖が応じる。
 後楽園は水戸藩初代藩主の徳川頼房が、寛永六年(一六二九)に水戸藩上屋敷邸内に築き、二代光圀が改修して朱舜水が命名したものだ。江戸の大名庭園の先駆けである。
 現在では岡山の後楽園と区別するため、正式には小石川後楽園と言うが、岡山の後楽園は、実は「御後園」を、何故か分からないが明治四年(一九七一)に後楽園に改め、大正十一年に名勝指定を受けたのである。翌年、本家本元の後楽園が名勝指定を受けたとき、岡山と区別するため小石川後楽園とした。庇を貸して母屋を取られたようで、おかしな話だ。水戸藩上屋敷が最大だったときの面積はおよそ八万八千坪、そのうち後楽園は二万坪強になる。「ドームも遊園地も、ゼーンブ水戸藩の上屋敷でした」間違ってはいないが、もう世界中が全て水戸藩であって欲しいとでも言いそうなロダンの口振りだ。これは愛郷心である。
 「昔中学の頃に無学な校長がいましてね。先憂後楽を、若い時に苦労すれば後になって楽しみが来ると、そんなことを書いていました。全くしょうがないですね」とダンディが笑う。言うまでもなく、治者の心構えを説いたものである。天下万民の憂いに先んじて憂い、万民の楽しみの後に楽しむのである。
 「先憂後楽」の典拠になった范仲淹の『岳陽樓記』を見つけたので引いておく。これを返り点もなく読める人は漢文の造詣が深い人である。私はとても読めないが、取り敢えず末尾の該当部分に線を引いた。

岳陽樓記     范仲淹
慶歴四年春、滕子京謫、守巴陵郡。
越明年、政通人和、百廃具興。
乃重修岳陽楼、増其旧制、刻唐賢今人之詩賦于其上、属予作文以記之。
予観夫巴陵勝状、在洞庭一湖。
銜遠山、呑長江、浩浩蕩蕩、横無際涯、朝暉夕陰、気象万千。
此則岳陽楼之大観也。前人之述備矣。
然則北通巫峡、南極瀟湘、遷客騒人、多会于此。
覧物之情、得無異乎。
若夫霪雨霏霏、連月不開、陰風怒号、濁浪排空、日星隠曜、山岳潜形、
商旅不行、檣傾楫摧、薄暮冥冥、虎嘯猿啼、登斯楼也、則有去国懐郷、
憂讒畏譏、満目蕭然、感極而悲者矣。
至若春和景明、波瀾不驚 上下天光、一碧万頃、沙鴎翔集、錦鱗游泳、岸芷汀蘭、
郁郁青青、而或長煙一空、晧月千里、浮光耀金、静影沈璧、漁歌互答、此楽何極。
登斯楼也、則有心曠神怡、寵辱皆忘、把酒臨風、其喜洋洋者矣。
嗟夫。
予嘗求古仁人之心、或異二者之為何哉。
不以物喜、不以己悲。
居廟堂之高、則憂其民、処江湖之遠、則憂其君。
是進亦憂、退亦憂。
然則何時而楽耶。
其必曰、先天下之憂而憂、後天下之楽而楽歟。
噫、微斯人、吾誰与帰。
(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8328/stu/hanchuuen_gakuyourou.htmより)

 范仲淹(九八九~一〇五二)は北宋の政治家で蘇州の人、字は希文。諡は文正公。西夏の侵入を防ぎ、その功により参知政事(副宰相)となった。(「大辞泉」より)
 岳陽樓を詠んだ詩では、杜甫『登岳陽楼』の方が私には馴染み深い。これは読み下しがある。

昔聞く 洞庭の水
今上る 岳陽楼
呉楚 東南に圻け
乾坤 日夜浮かぶ
親朋 一字無く
老病 弧舟有り
戎馬 關山の北
軒に憑れば 涕泗流る

 池を左に見て歩き始めると、あちこちには鳥の撮影のためカメラを設置して待機している男たちが一杯いる。こういうのは大体カワセミを待っているのだ。そして講釈師の足は止まって前に進まない。暫くして追いついて、「カワセミ二匹見た」と自慢する。確かに水色の羽根にオレンジの腹が綺麗な鳥だが、私はもう三回ほど見たことがある。向う岸に白いサギを見て、ぺこちゃんと講釈師が議論をしている。「嘴が黄色かった」「それじゃダイサギか」私には分からない。
 茅葺のむやみに風通しの良さそうな、九八屋という酒亭がある。「酒を飲むに昼は九分、夜は八分にすべしと酒飲みならず万事控えるを良しとする」というのであるが、これはどういうことだろうか。「昼にもそんなに飲むんでしょうか」夜よりは昼にたくさん飲めということか。それにしても腹九分も飲んでしまっては身動きが出来ないのではないかと思われる。「それに夏ならまだしも、冬は寒そうな建物ですね」

 料峭やくにに残しし恋ひとつ  快歩

 「料峭」というのは難しい季語で、私は最近知ったばかりだ。『合本俳句歳時記』(角川書店)では、「春寒」の項に一括して記載されていて、「料峭は春風が寒く感じられること」とある。故郷に残した恋人の運命や如何。「嫁にも行かずにこの俺の帰りひたすら待って」(高野公男作詞『別れの一本杉』)くれはしなかったに違いない。
 「あの花は何だい」スナフキンの質問には自信を持って「沈丁花だよ」と答える。蕾のときの赤が開いて中が白いのがあるから分かったのだが、外側も真っ白い花は初めてだ。ぺこちゃんも「珍しいわ」と言っているから、余りないものなのだろうか。
 馬酔木を見れば、画伯が「俳句の雑誌がありましたね」と思い出す。水原秋櫻子が「ホトトギス」を脱退して作ったものだ。ただ、私は馬酔木の花を見るとなんだか眠たくなるような気がして、秋櫻子の決然として新しい運動を起こすと言う雰囲気にそぐわないように思ってしまう。特に昨夜はほとんど寝ていないので、頭がボーッとしているから余計にそう思う。足元もなんだか覚束ない。

 馬酔木咲く池の巡りや弱法師   蜻蛉

 紅白のボケは花も良いが蕾が可憐だ。黄色のヒイラギ、紅梅、白梅、ヒカンザクラが咲いている。

 偕楽に後楽もあり水戸の梅    千意

 小さな田圃で、とてもまともに米が採れるとは思えないが、たまには庶民の生活を少しは味わってみようと、殿様がお遊びで造ったものがある。そして園の一番奥の端にある「藤田東湖護母致命之處」に辿り着き、ここでロダンの講釈が始まる。今日は講釈師の声は余り聞こえない。安政の大地震で水戸藩邸が大きな被害に遭った時、東湖は母を庇って圧死したという伝説がある。野口武彦『安政江戸地震』から『見聞唱義録』の一節を引用すれば、「東湖大力の人ゆえ、老母を下に囲ひ、座して両手を突き、肩に鴨居を受けながら、片手に老母を庭前に投げ出し」た。しかし、そんな情景を誰も見たわけではない。

 どんな大人物でも劇画のようにロマンチックに死ぬわけではない。山寺源大夫は、東湖が日ごろから忠孝に励んでいたので『見聞唱義録』のような風説ができたのだろうという。真相はこうだ、と源大夫は力説する。東湖はほんとうは姿の見えない老母を案じ、その場でぐずぐずためらっていたところを押し潰されたのに間違いない。老母は戸外に逃げ出して助かっており、自分が弔問に行ったときも小屏風の蔭で寝ていた。怱劇の間、そういうことも起きるのである。(野口武彦『安政江戸地震』)

 東湖は後期水戸学を代表し、尊皇攘夷派に大きな影響を与えた。向島小梅で『正気歌』の碑を見たが、あれも世間に大流行したものだ。そもそも倒幕のスローガンとなった「尊皇攘夷」という言葉は、藤田東湖の記述した『弘道館講義』に初めて登場した言葉である。水戸斉昭の一種独特な性格と、藤田幽谷・東湖に始まる極端な尊皇攘夷思想によって、幕末の水戸藩は悲劇的な運命を辿ることになる。
 『大日本史』編纂問題に端を発して(幽谷一派は言い掛りとしか思えないような難癖をつけて)主導権を握ると、過激な尊皇攘夷派が力をつける。桜田門外の変、坂下門外の変、天狗党彷徨の挙句の敗北よって、水戸藩内部は自己崩壊ともいうべき惨状を呈した。筑波山挙兵から幕府滅亡後の天狗党残党の凄惨な復讐劇に至るまでについては、山田風太郎に『魔群の通過』という傑作があり、まさに「魔」に憑かれたとしか思えない水戸人の悲劇をまざまざと浮びあがらせる。
 安政の大獄の報復として井伊直弼の暗殺から始まったテロリズムは、血で血を洗う凄惨な内部抗争に行き着き、有為な人材はほとんど死に絶えた。「維新に先駆けたのに、成果は薩長に攫われてしまったんです」水戸人ロダンは憤慨する。
 「東湖が生きていれば、なんて思いますよ」と言うのが水戸人の思いだが、私はちょっと違う。極端なファナティシズムの行き着く先はテロルであり、初期の理想とは裏腹な人間憎悪への道に繋がっていく。私たちの時代は、それを連合赤軍の事件によって手酷く知ることになったのではなかったか。
 円月橋は渡れないが、何か点検をしているような係員が二人、橋の所に座り込んでいる。みんなが写真を撮ろうとすると、邪魔になると思ったらしくて立ち上がった。なかなか気の付く人である。チイさんは片手で大きく丸を書いて、眠狂四郎の円月殺法の真似をする。
 得仁堂の前には伯夷叔斉の画像が描かれた説明板が立つ。王位継承を互いに譲り合い、殷の遺臣として周の粟を食むことを恥じ、ワラビを食って餓死した兄弟である。

 先人(光圀)十八歳、伯夷伝を読み、けつ然として其の高義を慕ふ有り。巻を撫して歎じて曰く、「書籍あらずんば、虞夏の文、得てみる可からず。史筆に由らずんば、何を以てか、後の人をして観感する所あらしめん」と。是に於いて、慨焉として修史の志を立て、(後略)

 これが大日本史編纂の動機であるというのだ。兄を差し置いて二代藩主の地位についたことが、光圀の生涯に亘るトラウマになっていた。
 ちょっと時間がかかり過ぎたようだ。こういう所はここだけを目的として、また別な機会にゆっくり遊ぶ積もりで来なければならないだろう。「それじゃ出発します」
 園を囲む築地塀の一部の石垣には、江戸城鍛冶橋門北側外堀跡から出土した石垣の石材を使っていて、表面に刻印が入っているのがはっきり見える。特に目立つのは「山」で、これは備中成羽藩、山崎家の「山」だということだ。江戸城築城の時の山崎氏は三万石であったが、寛永の頃、肥後富岡四万石に転封となっている。
 「この石の積み方、なんとか言うのよね」イトはんが思い出そうとしているが、私には知識がない。調べてみると、「打ち込みハギ」という技法である。屋根の軒丸瓦に入っている六つ葉の紋は余り見かけない形だ。六つ葉葵とでもいうものだろうか。(葵かどうかも判定ができない)それに沿うように白木蓮が咲いている。

 白壁に木蓮の花なほ白く  蜻蛉

 左の方に凸版の印刷博物館の屋根を見ながら歩いて行く。「この辺は、小さな印刷会社とか、活字を作る会社が多かったよ。鉛のハンコみたいなやつ」講釈師は古い事を知っている。小石川は、共同印刷争議を描いた徳永直『太陽のない街』の舞台である。つまり印刷業の町だったのだ。すぐそばに取次会社のトーハンがあるのは、そのためだろう。
 新坂の途中に、新しい学校のような建物が見えてきた。人気はないし、窓から見える屋内も家具がおいてある形跡がない。「何かしら」門の所に国際仏教大学院大学の看板があった。こう言うことはスナフキンが詳しくて、それによれば現在虎ノ門にある大学がこれから引っ越してくるのである。
 「この大学の母体は何なの」「霊友会だよ」「フーン」霊友会は仏教だったか。新宗教とばかりで内容は全く知らない。それで調べてみると、霊友会の目的は在家による法華経の菩薩行の実践とその普及にある。それなら確かに仏教には違いない。
 そのフェンス際に立つ「徳川慶喜終焉の地」の案内板がリーダーの目的である。文京区春日二丁目八番七号。慶喜は維新後約三十年を静岡で過ごした後、明治三十年(一八九七)に東京に戻った。最初は巣鴨で暮らし、三十四年十二月に第六天町(現在のこの場所)に移転した。慶喜は海舟を嫌っていたが、幕府瓦解後、海舟がどれほど慶喜の面倒を見たか。それは海舟の家計簿を見れば分かる筈だ。
 明治三十一年三月二日に天皇に拝謁して名誉回復がなり、翌日海舟を訪問したのが、二人の確執が溶けた時だった。亡くなったのは大正二年(一九一三)十一月二十二日、七十六歳であった。

 伝通院には脇から入る。山門は工事中で、鐘楼のところまで立ち入りができない。無量山傳通院寿経寺、所在地は文京区小石川三丁目十四番六号。
 応永二十二年(一四一五)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人の開山になる。家康の生母於大の方の死に伴って、菩提寺と定められ、於大の方の法名「傳通院殿」の院号をもらったのである。伝通院はデンヅウインと読む。「ホントに関東の人間は音が濁る。日本語じゃありませんね」ダンディ得意の日本語論が展開する。「タカバシでしょう、オオジマでしょう」
 淑徳女学校に始まる学校法人大乗淑徳学園は伝通院に由来するが、現在では、千葉市と埼玉県みずほ台にキャンパスを持つ大学、常盤台にある短大、他に中高校、専門学校を併設している。ここでは子供向けの論語塾もやっているようだ。

 春の昼ろんご読みあふ寺の中  快歩

 いまどき論語を習いに来る子どもがいること自体が不思議だ。「水戸藩にゆかりのあるのは、藤井紋太夫です」著名人の墓はいくつもあるが、ロダンの関心はただこの一点に絞られる。「俺は清河八郎を見なくちゃ」講釈師は新撰組に関係する者は見逃すわけにはいかない。
 それでも道順と言うものに従えば、当然、於大、千姫をまず見ることになる。さすがにこれらの墓所は壮大なものだ。敷地は広く、墓石の形は宝篋印塔である。「坂崎出羽が可哀想で」ダンディが、千姫は裏切ったと憤慨する。そもそも家康に縁のあるものは全て嫌いな人だ。そのことに千姫自身の意思がどれだけ反映しているか分からない。
 藤井紋太夫は小さいながら、ちゃんとした墓だ。「悪役ですね」なにしろ黄門様に殺された人物だから、悪役たらざるを得ないのだ。元禄七年十一月二十三日、小石川藩邸に諸大名を能に招待したその日、隠居の身である光圀自身が刺し殺しているのであり、尋常ではない。芝居や時代小説では、紋太夫が柳沢吉保と結託したことが理由にされているが、どんな罪があるにせよ、切腹を申しつけ、あるいは最悪でも死罪を言い渡すべきが筋である。御三家の家老が死んだのであれば幕府への届出が必要だった筈だが、それはどうしたのだろうか。公表を憚る事情があるが、全ての謎は推理作家にまかせなければならない。
 講釈師だけなく私も見たかったのは、清河八郎である。本名は斎藤元司、得体の知れないところがあって毀誉褒貶が多い。「清河八郎正明墓」を中央に、右には斎藤家之墓、左に貞女阿蓮之墓が並ぶ。出羽国東田川郡清川村の富裕な郷士(大庄屋)の家に生まれた秀才である。清川村の地名を採ったが、「川」よりは「河」の方が大きいと、清河を名乗った。江戸に出て東条一堂、安積艮斎、湯島聖堂に学び、傍ら神田お玉が池の玄武館で北辰一刀流の目録を得た。
 文久三年(一八六三)二月、松平春嶽を説いて浪士隊結成に導いた時には二百三十四人が伝通院に集まった。山岡鉄舟も八郎に心酔していた形跡があり、弁舌に優れ人間的にも一種の魅力があったに違いない。ただし、浪士隊結成の真意は尊皇攘夷にあり、意思と表面に現れた行動とに余りにも落差が大きすぎ、なかなか理解されにくい。一般的にはアジテーターとして知られている。権謀術数の人、策士と見られやすいのは、本人の性格上の問題だろうか。
 この浪士隊がやがて新撰組に変身していくのだから、清河の意思は正反対の方向に実現されたことになる。文久三年(一八六三)四月、麻布一の橋で、後に京都見廻り組を率いる佐々木只三郎等によって暗殺された。今井信郎の証言によって、佐々木は竜馬と中岡慎太郎の暗殺者としても知られる。
 「可哀想なんだ、一の橋で佐々木に殺されちゃって」となんだか講釈師の声が優しい。
 「貞女阿蓮」は八郎の妻、お蓮である。庄内湯田川温泉の女郎だったのを八郎が発見して妻にした。富裕な庄屋である八郎の実家からは大反対にあった(当たり前だと思う)が、結局八郎の意思が通って一緒になった。
 しかし彼女は八郎の町人無礼斬りに連座して投獄され、文久二年(一八六一)獄中で麻疹にかかり庄内藩邸に移されたがそのまま死んだ。八郎が主宰する虎尾会という攘夷派の秘密クラブ弾圧が幕府の目的だったが、八郎自身は逃亡し、翌年幕府への上書が認められて放免される。この間に獄中にいるお蓮を思って八郎が書いた詩がある。藤沢周平『回天の門』から書き下し文を引用する。

我に巾櫛の妾有り
毎に我が不平を慰む
十八 我に獲られ
七年 指令に供す
姿態 心と艶に
廉直 至誠を見る
未だ他の謗議を聞かず
只婦人の貞を期す(後略)

 八郎は筆まめな人で、親の反対でお蓮となかなか一緒になれなかった時代には、ラブレターを書いている。また母親を連れて伊勢参りをしたとき、母の老後の楽しみにと克明な旅日記『西遊草』を書いた(私はまだ読んでいない)。こういうものを見ると、策士とか陰謀とかいう評価とはまったく別の面を見る。
 すぐそばに佐藤春夫がいる。妻の名だと思うのだが、「秋紅」の陰刻が黒く塗りつぶされているのは、赤で入れていた文字を黒くしたものだろう。これは谷崎潤一郎元夫人千代のことか。それならば『秋刀魚の歌』と行きたいところだが、今日は『少年の日』を読み返してみたい気分だ。宗匠が「くにに残しし恋ひとつ」なんて詠むからいけない。

野ゆき山ゆき海辺ゆき
真ひるの丘べ花を敷き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し空よりも。

影おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を恋ひ
あたたかき真昼の丘べ
花を敷き、あはれ若き日。

君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。

君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰がものぞ

 映画はまるで見ないから知らないが、大林宣彦に佐藤春夫『わんぱく時代』を原作とした『野ゆき山ゆき海辺ゆき』という映画があるそうだ。
 「つぶら瞳の君ゆゑに」と読んでしまえば、色白でほっそりした、校内マラソン大会では必ずトップでテープを切る美少女を思い出す。私はいつでも最後尾に近いところを走って(歩いて)いたから眩しかった。彼女がよく真っ赤なハンカチを使っていたので、裕次郎の『赤いハンカチ』(萩原四郎作詞、上原賢六作曲)を覚えた。どうやらこの頃(中学二年生)から私の感受性は歌謡曲に染まり始めたらしい。

 春の風わが初恋はちりぬるを  蜻蛉

 伝通院を出て歩き始めると、大きな右腕のオブジェとともに浪越徳治郎の胸像のある場所を過ぎる。ここは浪越学園日本指圧専門学校である。「これって、あのひと?」チロリンが訊いてくる。「モンローを指圧したんですね」とダンディは下世話なことも詳しい。「そうだよ、指圧の心は母心だよ」講釈師が詳しいことは言うまでもない。
 そろそろ東京都水道歴史館にあんみつ姫が到着している筈なのだ。連絡を取っていたダンディによれば、風邪で数日寝込んだ後の病み上がりだという。急がなければならないが、もう十二時を過ぎ、胃に余りものが入っていない私は腹に力が入らない。「どこか体調が悪いんじゃないの」カズちゃんは敏感である。
 春日通りを歩き、中央大学理工学部のところで「この辺も水戸藩邸の範囲でした」とリーダーが力説する。本当に、世界中が水戸藩であればロダンはどんなに幸せだったろう。ちょっと先に東京都戦没者慰霊苑があった。「涙がでちゃいますよ、ほんとに」ロダンは涙もろいのである。私はここにこういうものがあることを知らなかった。由来は下記の通りである。

東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。
また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年三月に完成した。

 文京シビックセンターというのも初めて見る。要するに区役所か。この二十五階に展望レストランがあって、リーダーはそこで昼食をと考えたらしい。「それでも良かったんじゃないの」とダンディが言うが、「だけど高いんですよ」と答える。なるほど椿山荘である。ランチでも千円を下らない。区役所に椿山荘を入れる必要があるのかと疑問を持つのは貧乏人だからだろう。
 白山通りに入り講道館を横に見ると、スナフキンが「俺は通ったことがある」と言い出した。「段を取る直前に引越して通うの止めた。勿体無かったな」彼は野球の人とばかり思っていたが、柔道もやるのであれば喧嘩をしてはいけない。
 「あれっ、この木は」とイトはんが立ち止った。「ねえ、アボカドじゃなーい」ハイジは確信がもてなかったようだが、イトはんは「たぶん、そうだと思う」と言う。私は木は見たことがないから知らない。街路樹にするものであろうか。因みに私はアボガドと思い込んでいたが、アボカドが正しい。「カ」は濁らないのである。これもダンディの言う、東国人の言語感覚のせいだろうか。
 腹が減って、足も疲れてきた。「ここですよ」ロダンの声で脇道に入ると神田上水の石樋を復元した水路が流れている。「案外、水がきれいだね」チロリンは感心するが、復元した以上、汚しておくことはできないだろうね。「こんなの、あったかしら」イトはんが首を捻る。平成七年開館の施設だから、彼女の若い頃にはまだない。
 そこから建物の裏手におりて、表に回って東京都水道歴史館の玄関に入れば、マスク姿のあんみつ姫とガイド嬢(?)が迎えてくれる。ロダンは前もって館内のガイドを頼んであったのだ。文京区本郷二丁目七番一号。十二時十五分である。腹が減っているから時計ばかりが気になってしまう。
 全館の説明を聞けばたぶん一時間半ほどにもなる筈で、ロダンの判断で今日は二階だけに限定してもらう。これから一時間半もかかっては、私の腹はどうにかなってしまうだろう。二階に上がって説明を聞く。江戸の水道網がはっきり図示されていると、江戸市内の範囲が良く分かる。上野の山や新宿以西には水道がないということは、そこでは井戸が掘られたのだろう。隅田川の向こうまでは水道が通じていないから、水売りと言う商売が存在したこともよく分かる。井戸換えが市内一斉に行われる行事であったことなど、考えれば当たり前のことが説明されるまで気がつかない。水道税は間口税であったこと、大家は屎尿の売却益でその税をまかなったことなども、説明が分かりやすい。それを、イトはんは床に座り込んで聞いている。「ゴメンネ、だって疲れちゃったんだもの」
 「次回は私が玉川上水を企画します。スナフキンのコースのもっと先、羽村の取水口から。だからよく勉強して置いてください」とダンディが宣言する。これで五月のコースは決まった。
 壁には大久保主水が家康に三河餅を献上している絵が掲げられている。「大久保さんは、今ではカレー屋さんになっています。この絵を保存している家ですね」こういうことを教えてくれるのは嬉しい。大久保主水については後で墓を見る。
 「もんど」ではなく無理矢理「もんと」と読ませるのは、水は濁ってはいけないという理由だ。神田上水の開削者として知られるのだが、実は大久保主水が開いたのは小石川用水であって、神田上水とは別であると言う人もいる。しかし、別物ではあろうが神田上水の原型として、大久保主水が開いたのが江戸の上水道の始まりであることは間違いなさそうだ。
 元は三河武士であるが、一向一揆との戦いで腰に弾を受けて足が不自由になってからは、菓子司として家康に仕えた。本名は忠行、初名は藤五郎である。

 大久保藤五郎が見立て、江戸市街地に通じた上水(小石川上水)が、どの地点からどのように通じたのか、詳細は不明だが、先の注によれば、小石川を水源とし、目白台下にあった流れを利用して、神田方面まで導いたものと考えられ、その初期はごく小規模なものであったが逐次拡張し、後の神田上水にまで発展したものと考えられる。(中略)
 早速上水を調査して工事にかかり、三カ月の短期間で江戸市中へ飲料水を供給することができた。これが小石川上水で(後の神田上水)、わが国水道の嚆矢である。
 神田上水は、江戸の西部にある井の頭池を水源とし、途中永福寺池、善福寺川、井草川の水を合わせ、後には玉川上水の分水を受けながら目白台下の関口大洗堰に至った。ここで流れを二つに分け、一つは余水として江戸川へ落とし、一つは目白台下の白堀(開渠)を通って水戸邸、後楽園を抜け、懸樋で神田川を横断して猿楽町に入り、石樋で神田橋に至り江戸市中に給水した。
 一説に水源としての井の頭池を見立てたのは、武州玉川辺の百姓内田六次郎であるともいわれているが(神田上水元水役内田茂十郎書上)、いずれにしても、これらの調査をまとめて、上水を開設したのが大久保忠行であったろう。
 家康はこの功を賞し「主水」の名と「山越」という名馬を与え、水は濁りをきらうところから「モンド」を澄んで「モント」と呼ぶようといわれ、歩行が不自由なので「御くるわ内乗馬御免」の許しを与えた。(中略)
 神田今川橋~竜閑橋の北を主水河岸といったが、これは、そばに大久保主水の邸があったところから名付けられたものである。(建設省関東地方建設局京浜工事事務所・財団法人河川環境管理財団「多摩川誌」)http://www.tamariver.net/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/042121.htm

 『江戸名所図会』には「主水河岸」の説明がある。

 今川橋 本銀町の大通りより元乗物町へ渡る橋をいふ。この堀を神田堀と号く。(中略)この北詰の西の河岸を、主水河岸と字す。御菓子司、大久保主水の宅あるゆゑにしかいへり。宅の前に井あり。主水の井という。昔は御茶ノ水にも、めされしとなる。

 ガイドが終わると「世界に誇る東京の水」のペットボトルを全員にくれたので、お礼(?)に写真を撮る。「ちゃんとコレクションを作ってますね」とチイさんが笑うが、特にそういうものではない。理路整然として言語明瞭なベテランガイドで、「やっぱりガイドは経験が必要だね」という声が横から聞こえてくる。(本当はもっと違う表現で言ったのだが)
 「もう行こうぜ、一時になっちゃうよ」講釈師の催促が今日の私には有難い。カネヤスの辺りに来て、「もう全然分からなくなっちゃったわ、変わってしまって」とイトはんが嘆く。三十年見なければ、東京は別の世界である。ダンディは藤村の羊羹をカズちゃんたちに紹介している。
 赤門から東大に入る。どこかの学部の二次試験が行われているらしいが、構内に入るのに何の問題もない。「広いのね」初めての人は驚き、ロダンはマンホールの蓋に刻まれる「東京帝国大学」の文字に感激する。
 安田講堂の正面では、私より少し年上らしい男性が講堂を背にして、夫人らしい人に写真を撮らせている。あの頃の人であろうか。誰もがあの頃を思い出す。
 「あの頃はもっと高い建物だと思ってた」とロダンが言い、「テレビに釘付けにされたわね」とぺこちゃんも頷く。六十年安保世代のダンディが、「私には理由がさっぱり分からなかった」と呟く。
 そうなのだ。六十年は確実に反安保、反米の政治闘争だったから分かりやすい。左翼だって、共産党とブント(共産主義者同盟)の区別を知っていれば良いくらいだった。勿論、政治的なややこしい陰謀があって、大島渚『日本の夜と霧』なんかを見れば単純ではないのは分かる。しかしそれはあくまでも政治の世界であった。それに比べて六十年代末期の学生運動は、そうした政治闘争とは全く別の要素が多過ぎるのだ。
 ブント解体分裂以後の新左翼の歴史は、いくら図に書いてみても理解するのは容易ではなかった。たぶん同時代の誰も理解していなかっただろう。それに世界的な風俗文化の転換点に当たっていたから、当事者たちでさえ、自分の本当の意図が分かってはいなかったのではないか。そもそも六十年とは違って、七十年には安保が自動延長されるのは分かっていた。だから反安保闘争では決してなかった。七十年前後の学生は既にエリートではなく、大衆と呼ばれて良い集団で、それが全共闘に集まった。政治的な言葉は氾濫していたが、内実はそうではなかったと私は思っている。
 六十八年には私は高校二年生だが、全体的な気分を私の実感で思い出せば、なにか整理のつかない不安や不満が充満していて、行き先が破滅であっても、どこかに爆発する出口が欲しかったようである。京大の吉川幸次郎門下の俊秀として嘱望されていた高橋和巳が、わざと選んだように破滅に突き進んでいく主人公ばかり描いていたのがこの時代であり、東映やくざ映画が流行していたのは偶然ではない。私が岡林信康の『友よ』を歌いたくないのは、「夜明けは近い」という能天気なフレーズを信じていなかったからだ。そして今、改めて高橋和巳の著書がどうなっているかを調べてみると、そのほとんど全てが(一冊を除き)今では入手不能の状態になっている。時代が違ったのである。
 但し、東大入試が中止になって影響を受けた筈のスナフキンやチイさんならば、違う感想を持つかもしれない。この時代を漸く総括した(成功しているかどうかは分からないが)のは、スナフキンがちょっと言及した小熊英二『1968』である。(実は書評を読んだだけなので偉そうなことは言えない。何しろ上下二冊で税込み一万四千二百円するので躊躇している)
 「樺美智子さんって、ダンディと同世代だったんですよね」姫の口調も何か詠嘆的になってくる。今日は体調のせいもあるが、なんとなく懐旧的な気分になる。

 地下の食堂に降りて昼飯だ。もう一時十五分になっている。食堂内は結構混んでいて、全員が同じテーブルには座れない。私は五百二十円のC定食(ハンバーグライス)にした。宗匠たちが選んだ和定食は飯が赤飯だから、今日は無理だ。ハンバーグはかなり甘く、ご飯も少し残してしまったのは私にしては珍しい。やはりまだお腹が本調子ではない。イトはんは、これに焼きリンゴなるものを付け加えて、「甘いのが欲しくなるの」と言う。
 病み上がりの姫と私を見て、「大体さ、風邪とか腹痛の場合、普通は来ないよ。バッカじゃないの」と講釈師が罵倒する。
 千代田区や文京区は路上喫煙にやかましいところなので、今日は煙草の本数が少ない。早めに食堂を出て外で吸っている間に、ハイジとイトはんが帰ってしまったのは残念であった。一時五十分、三四郎池から歩き始める。ダンディが四年前の五月に来た時の写真をバッグから取り出す。つい最近のことのようだが、なんとなく懐かしい。あのとき一緒にいた姐さんは、今頃は何をしているのだろう。
 合格発表の掲示板の前で、受験番号を写真に撮っている娘がいる。「結構、番号が続いているじゃないか」というのはスナフキンだ。続いていようがいまいが、私たちはどんな番号を貰ってもまず合格する恐れはなかった。
 総合研究博物館では「命の認識」というテーマ展が開催中である。土器や石器は見ても良く分からない。奥の部屋に入れば、水槽に浮かぶマンモスの赤ん坊と、無数に並べられた骨である。骨片を拾い集めて全体を復元するのはジグゾーパズルのようなものだろうか。
 縄文時代人の頭蓋骨を見て、「みんな歯がしっかりしてますね」と碁聖が感心する。固いものばかり食っていたこと、それに平均寿命が三十歳ほどだったことを考えればよいのではないだろうか。「そうか、歯がなくなる前に死んじゃったんだ」

 「命の認識」は、博物館を快楽やサービス提供の場などと称した昨今の悪しき意思を根本から破壊して、そこに個人が命を認識するまでの根源的苦悩の場を広げることを、私が試みたものである。
 ここであなたは商業主義が唱える形式的な楽しみを得る必要など微塵もなく、ましてや科学的客観的事実や昔の学者や文化人の整った学理を受容してもらうには及ばない。何千何百の骸の形から、あなたが命を認識していく、その経過自体が私の作品である。それが、この空間が背負った、唯一の宿命である。(遠藤秀紀)
 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2009inochi.html

 骨を見て根源的に苦悩するほど、神経が繊細でも感受性が豊かでもないので、すぐに外に出てタバコを吸う。追いかけてきたロダンが、「関心の薄さと出る速度が同じですね」と笑う。全員が揃うのを待っているとチロリンがいない。「まだ見てるのかな」そう言っている所に、彼女は外から歩いてきた。以前にもこういう風景を見たことがあるような気がする。一番関心の薄いのはチロリンだったのである。
 東大グッズを売る店でチイさんは何かを買った。「頭のよくなる薬なの」泡盛である。TUという東大のロゴを知らないと講釈師が罵倒する。姫もポストカードを買ったようだ。
 次は追分の交差点で、向かい側の高崎屋という酒屋を見る。江戸時代、酒屋兼両替商を営んでいた店だ。「店は建て替えたんでしょうね」画伯が当り前の疑問を口にする。一里塚は跡かたもなく、酒屋の後ろの方に説明板が残されているだけのようだ。日本橋から一里、ここで中山道と岩槻街道(日光御成道)とに分岐する。こんな大名屋敷しかないところで、酒屋商売が上手く成り立っていたものか。姫の案内でここから一里先の西ヶ原の一里塚を見たのは、去年の九月のことだった。「農学部のところから道が分かれる。真っすぐ行けば岩槻」と、カズちゃんは一所懸命メモを取っている。「だって忘れちゃうんだもの」メモを取るのは良いことである。
 そこからもう一度東大構内に入ると、門のすぐ脇に「朱舜水先生終焉之地」の碑が立っている。
 明末清初の動乱期、台湾に拠った鄭成功(国姓爺)によって、朱舜水は日本請援使として日本に派遣されたが、南京の敗退後、万治二年(一六五九)復明運動を諦めて長崎に亡命した。初めは筑後柳川藩の安東省菴の援助を受けていたが、寛文五年(一六六五)、光圀の招聘によって江戸に移住した。
 篆刻や水墨画を伝えた独立(黄檗宗)、インゲンマメを持ってきた隠元などもやはり明末の動乱を避けて日本にやって来た人たちである。
 『大日本史』における南朝正統論に、亡国の遺臣朱舜水の明正統論がどれほど影響を与えたのかは分からない。(学問的にはたぶん解決がついていることだろう)それよりも驚くのはこういう事実だ。

 大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。
 財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子・綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。(中略)
 光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。(ウィキペディア「徳川光圀」より)

 江戸時代の通常年貢率は五公五民とか六公四民と言われる。それが八公二民と言うのは只事ではない。苛政である。その大半が「大日本史」の編纂にかかる費用の大きさに因ったとすれば、光圀というのは財政のいろはも知らない無能な藩主であった。
 年貢については、元禄期に確定された収穫高を基準とし、米以外の商品生産物には及ばなかった。従って、享保期を境にして、江戸時代後期の実質年貢率はもっとはるかに低かったとする説がある。農民は決して貧しくはなかったと言う説だ。

 江戸時代の村高は、現在の国民所得の概念からすれば、年々村民所得を貨幣のかわりに米の石高で表示したものであり、ムラにおける年間の算出高あるいは年収を意味する。つまり、村高は年々における現実の経済力そのものを意味しているわけではなく、現在の言葉で表現するならば、農民所得の捕捉率が極めて低い一種の“みなし高”ということになる。
 分母の村高はタテマエの数値であり、現実の村民所得よりも大幅に過小評価されているのである。他方の分子となる年々の年貢率は、村高に変化のない限り、前年度よりも減少することはあっても、増加することはほとんどない。
 これらの条件を考慮に入れて、江戸時代の実質的な農民負担を検討すれば、幕領や藩領における年貢の制度差、十七世紀とそれ以降の年代差、ムラの立地や農業構造などによって差異はあるものの、幕末期に近づくにつれて、実際の年貢率は二割あるいは一割という低率となるムラも少なくないのである。(佐藤常雄「貧農史観を見直す」)
 http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2474.html

 しかし藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』が明らかにした太閤検地の実態では、米以外の様々な生産資材、河川林野までが、それぞれの特質に応じた換算率によって米の石高として捕捉されている。江戸幕府の検地も当然その方針を引き継いでいただろう。「石高」という表現から、米だけにかけられた年貢だと即断するのは危険だと思われる。
 仮に佐藤常雄氏の説が正しいとしても、これは江戸時代の特に後期についての話であり、光圀の時代には及ばない。これをもって、江戸時代全体を通して農村は豊かだったとは言えない。江戸初期は商品生産物がまだそれほど多くなかったし、技術力もまだ戦国時代とそれほど大きく隔たっていたわけではない。
 それに、水戸藩では当初の石高二十八万石を元禄期の検地で三十五万石に増やしているのである。太閤検地(佐竹氏の時代)や寛永の検地で既にかなりの村高を捕捉されている筈で、僅かの期間に二十五パーセントも生産量が上がった筈はない。相当な無理を重ねた挙句の数字の操作としか思えない。それを基準にして年貢率八割というのは苛酷である。当然大規模な一揆、逃散が発生し、これによって水戸藩は統治能力なし、つまり将軍を出す資格がないと判断された。
 このことと、光圀が黄門様として伝説化することとの関係が、実は私には分からないので困ってしまう。
 朱舜水の説明が終われば、ダンディから、ここが向ケ丘であり、かつては第一高等学校があった場所であるとの説明が入る。駒場の農学校と敷地交換をしたのである。

 言問い通りを東に進むと暗闇坂をちょっと過ぎたあたりの道路脇に、真新しい説明板が立っている。「以前はなかったよね」末尾の平成二十二年二月の文字に気がつく。つい最近立てられたものだったのだ。
 もう少し行って向い側の「弥生式土器発掘ゆかりの碑」を見て、更に工学部校舎内で説明板を見る。最初の発見地がどこであったのか、正確には分からないのである。「子供が発見したのを貰ったんでしょう」と姫が言うのは、どういう事実に基づいているのか分からない。
 この工学部の辺りには広島浅野家の屋敷があったのではないかとダンディが言うのだが、「いや、水戸藩邸ですよ」ロダンには力が入る。私の持参した地図では水戸家の敷地となっていて、浅野の文字は見当たらない。浅野家の上屋敷は霞ヶ関、中屋敷は赤坂にあり、下屋敷があるとすればもっと離れた場所だと思われる。藩邸は時代によって変化するから、たまたま私の地図にないのかも知れないが、結局調べがつかない。姫はもっと詳細な切絵図を持っているはずだから調べてもらいたい。
 明治十七(一九八四)本郷区向ヶ岡弥生町の向ヶ岡貝塚で、貝や縄文土器とともに口縁を欠いただけでほぼ完全な形の壺が出土した。発見者は、後の学士院会員・海軍中将造兵総監有坂鉊蔵、理学博士・坪井正五郎、白井光太郎。いずれも当時学生である。日本考古学、人類学の黎明期であり、発見場所を特定して正確に記録するということも、なされなかったものだろうか。坪井はモースに従って大森貝塚発掘に関係しているから、その辺りの手続きに遺漏があったとは思えない。
 不明のまま時が過ぎ、東京大学文学部考古学研究室が、本郷キャンパスの一角、工学部九号館の近くで遺構の一部を確認しその周辺であることがほぼ確定的となった。一九七四年、構内で弥生土器が発見され、翌年発掘調査が行われた。その区域から環濠と考えられるV字形の溝が検出された。この調査地点が、弥生の壺の発見者である有坂鉊蔵の向ヶ丘貝塚の記述と合致し、弥生の壺発見場所はV字形環濠のうちのどこかであった可能性が高い。(ウィキペディア「弥生式土器」より)

 弥生坂の地名由来の説明板を見て、「これも水戸藩に関係するんですよ」とロダンの声が弾む。文政十一年弥生三月、水戸斉昭が歌を詠んだのである。それが弥生の地名になった。

 名にし負う春に向かふが岡なれば世にたぐひなき花の影かな  徳川斉昭

 理屈の勝った、たいした歌ではないと私は思う。むしろチイさんの句のほうが好ましい。

 水戸屋敷坂をめぐりて花つぼみ  千意

 根津の交差点の辺りでは、講釈師やあんみつ姫は何故か昔の歌声喫茶の歌を歌いながら歩いている。「歌集の第三集十二番を開いてください、なんて言うんだよ」どうやら講釈師は歌声喫茶に通いつめたことがあるようだ。私の年代は実際に歌声喫茶に通うためには、少し時代が遅れている。数年前に、新宿の「灯」が場所を変えて復活して、連れて行ってもらったことがあるが、歌声喫茶というのは今では少し恥ずかしい。やはりあの時代(五十年代末から六十年代半ばまで)特有のものだろう。
 高校に入学した年の学園祭で、どこかのクラスが歌声喫茶の模擬店をやっていたから、その頃(六十七年)までは、まだ細々と存在していたか。こんなことを思い出すと、女子高に進学していた赤いハンカチの少女を、思い切って学園祭に誘って、そこに入ったことまで思い出してしまう。それにしても歌声運動が本来は日本共産党が指揮する文化運動であったなんて、知っている人も少なくなっただろう。

 歌声のやや懐かしき春の町  蜻蛉

 善光寺坂の登りに入った辺りで、後方から停止の声がかかる。「早すぎるよ、今日のリーダーは」チロリンとクルリンが少し遅れ気味であった。「だって休憩がないんだもの」リーダーを経験すると分かるのだが、時間内に目的地を回ることに神経が集中すると、休憩をとることを忘れてしまいがちだ。これは私も反省しなければならない。講釈師自身、赤穂浪士引き上げコースを企画したときには、今よりももっと早い速度で、遅れるものは容赦なく振り捨てて行ったではないか。「そうそう、私たちなんか置き去りにされちゃって」姫が口を尖らす。「あそこのファミレス曲がればすぐですから、寺で休憩しましょう」
 うっかりして寺の名前を失念してしまったが、門前に「秦檍丸先生墓」という石柱を見た。「誰でしょうか」聞かれても私は知らなかった。世の中には知らないことが多すぎ、それが私の悩みである。「蝦夷地探検家」と肩書が付されている。調べても取り敢えずこんなことしか分からない。

 村上志摩之允(河野常吉著北海百人一首には島之亟とあり)は幼名を秦檍丸と呼んだ。此人は伊勢神宮の社家に生れたと云うが頗る健脚で日に三十里の道を易々と歩いたそうだ。それで弱年の時から好んで諸国の地理、人情、風俗等の研究をして居った。処が此事を松平定信が伊勢の山田で聞いて幕府の役人に抜擢した。そして近藤重蔵の配下に属せしめ蝦夷地の探検に従わした。
 http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hyakuchin/025.htm

 慈雲山瑞輪寺。台東区谷中四丁目二番五号。谷中で最も大きい寺院であり、延院、体仙院、正行院、久成院、本妙院の子院五箇寺をもつ。

 上野清水門の外、二、三丁北の方にあり。日蓮宗にして甲州身延山の触頭、江戸三箇寺の一なり。(『江戸名所図会』)

 家康の庇護の下に、天正十九年に日本橋馬喰町に創建された。開山の慈雲院日新上人が家康幼少の頃、学問を教えた縁だと言う。慶長六年に神田に移転、慶安二年に再び現在地に移転したのは、どちらも火災で類焼したためだ。上野戦争でも全山焼失したので、現在見る建物は全てその後の再建である。
 事前に調べたとき、ここは真田家に関係するような記事を読んではいたのだが、宗匠が指摘するまで気づかなかった。三門の前にある石塔(正面に南無妙法蓮華経、右側面に赤で慈雲山瑞輪寺と彫ったもの)の背面の一番上に六連銭が彫られているのである。真田家の寄進になるもののようだ。(http://1st.geocities.jp/tekedadesu/zuirinzi.html参照)
 寺務所前のベンチで疲れた人と墓に興味のない人が休憩している間に、墓地を見に行く。大久保主水之墓は正面から真っすぐ行ったところで、手前の通路に赤い文字で彫られた石柱が立っているのですぐに分かった。大久保家の一角で広い敷地を持っている。
 ただし、「主水忠行之墓」は囲まれた一画の左の隅に、割りに新しい小さな墓石になっている。普通は真ん中に据えられた大きなものだと思うのだが、ロダンも不思議そうだ。
 私はそぐそばにある河鍋暁斎之墓の方にも興味がある。大きな自然石にちょっと形の変わった重そうな石を載せてある。ちょうど両目にあたる部分に突起があるので蛙だと気づく仕掛けだ。手前には「河鍋」の名と名刺入れが置かれているから、いまでも遺族がきちんと守っているのだろう。自然石の脇には、新しい小さな石のカエルもおかれている。少し遅れてやって来た姫に場所を教えたが、「一人だから行けないの」と言うので一緒についていく。「不思議な絵を描くひとですよね」実は私も余り詳しくない。

 安政五年、「惺々暁斎」と号し浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を博した。この後、『狂斎画譜』『狂斎漫画』などを出版。明治元年、徳川氏転封とともに静岡へ移る。明治三年、政治批判をしたとして逮捕・投獄。翌年の出獄後は「暁斎」を名乗る。
 明治四年、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』・『西洋道中膝栗毛』などの挿絵を描く。明治五年、ウィーン万国博覧会に大幟『神功皇后武内宿禰図』を送り、日本庭園入口に立てられる。明治九年、エミール・ギメらの訪問を受ける。ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競い合った。明治十三年、新富座のために、幅十七メートル高さ四メートルの『妖怪引幕』(早稲田大学演劇博物館蔵)を四時間で描く。明治十四年、第二回内国勧業博覧会に出品した『枯木寒鴉図』(個人蔵)が「妙技二等」を受賞。暁斎はこの作品に百円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたという。建築家ジョサイア・コンドルが入門。(ウィキペディア「河鍋暁斎」より)

 「越前大岡家墓」という石柱が立てられた一画があって、墓石の大岡忠●(読めない)という名前をチイさんが判読した。忠相の一族であろうか。その場では分からなかったが、ウィキペディアで大岡忠相を検索すると、やはりこれは本人そのものであった。茅ヶ崎の浄見寺と、この瑞輪寺と二箇所にあると言う。大岡越前の墓と言えば人目を惹くと思うのだが、この寺では特に宣伝はしていないようだ。
 私は大沼沈山を探しているうちに、そんなものに出くわしたのだが、目指すものは結局見つからなかった。「それは誰ですか」姫もダンディも知らないと言う。私だって以前から知っていたわけではない。ちょうど永井荷風『下谷叢話』を半分まで読んだところなのだ。
 大沼沈山は文政元年(一八一八)に生まれ、明治二十四年(一八九一)に没した。幕末から明治にかけての漢詩人である。

 名は厚、字は子寿、通称は捨吉、枕山は号。江戸幕府西丸附御広敷添番衆で漢詩人としても知られた大沼竹渓の子。江戸下谷の生まれ。十歳で父と死別後、尾張丹羽村の叔父鷲津松隠のもとに身を寄せ、松隠の子の益斎の家塾有隣舎で漢学を学んだ。十八歳の天保六(一八三五)年江戸に戻り、大窪詩仏、菊池五山など江戸詩壇の大家たちの知遇を得、特に当時の江戸詩壇の中心であった梁川星巌の玉池吟社に出入りして遠山雲如、小野湖山、鱸松塘などと交遊、漢詩人としての地位を築いた。嘉永二(一八四九)年に開いた下谷吟社は、星巌が上洛のため玉池吟社を閉じて以後の江戸詩壇の中核的な詩社となり、明治になっても存続した。しかし時代の喧騒に背を向け江戸の遺民としての姿勢を取り続けた枕山自身の生き方もあって、次第に振るわなくなり,明治の新体制に食い込んだ森春濤の茉莉吟社に圧倒された。枕山の詩は唐、宋、元、明、清の詩風を広く取り入れたものであったが、特に陸游を中心とする南宋の詩人たちの作風に近い抒情的な詩風で,詠物詩を得意とした。(朝日日本歴史人物事典コトバンク)
 http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B2%BC%E6%9E%95%E5%B1%B1

 『下谷叢話』によれば、尾張の鷲津幽林という人物が漢学を教授していた。その長男が鷲津を継がずに江戸に出て大沼の家を継ぎ、大沼竹渓と名乗って世に知られた。沈山はその長男である。一方、尾張に残った鷲津家からは松隠、益斎と続いてその後に毅堂が出る。毅堂の娘恒と、弟子である禾原永井久一郎との間に荷風が生まれた。
 つまり、大沼家と鷲津家とは同族である。荷風は毅堂と沈山の伝を書いているのだが、荷風の同情は、祖父である毅堂よりも明らかに沈山の方に傾いている。
 鷲津毅堂は尊王攘夷に奔走して後に明治の高官になったが、七歳上の沈山はそういう世情に背を向け、市井に埋没した。

 弘化二年の夏柳川星巌が江戸を去り、菊池五山、岡本菊亭、宮沢雲山ら寛政文化の諸老が相継いで淪謝するに及び、沈山はおのずから江戸詩壇の牛耳を執るに至ったのである。しかし嘉永安政の世は文化文政の時の如く芸文に幸なる時代ではなかった。沈山が時世に対する感慨は「春懐」と題する長短七首の作に言われている。その一に曰く、「化政極盛日。才俊各馳声。果然文章貴。奎光太照明。上下財用足。交際心在誠。宇内如円月。十分善持盈。耳只聴歌管。目不見甲兵。余沢及花木。名墅争春栄。人非城郭是。我亦老丁令。」
 わたくしは沈山が尊王攘夷の輿論日に日に熾ならんとするの時、徒に化政極盛の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ら大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧時の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然たらざるを得ない。(『下谷叢話』)

 寛政以降文化文政期に頂点に達した江戸文化を理解しようと思えば、漢詩を外すわけにはいかないのだが、今はまだ私には学力が不足している。荷風の感想だけを追えば、源平争乱の世情に背を向けて、「紅旗征戎我が事に非ず」と日記に書きつけた藤原定家を思い出すが、しかしこういうことは、現代人には余り関心がないだろう。寺を出るとき、門前に沈山についての説明板があるのに姫が気づいてくれた。
 感応寺の門前に「渋江抽斎墓所」の石柱を見た。「津軽の人です」と姫に言ったのは私の間違いだった。津軽藩の儒者ではあるが、代々江戸の人である。

 三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧。これは渋江抽斎の述志の詩である。想うに天保十二年の暮に作ったものであろう。弘前の城主津軽順承の定府の医官で、当時近習詰になっていた。しかし隠居附にせられて、主に柳島にあった信順の館へ出仕することになっていた。父允成が致仕して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏縫を喪ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏徳と長男恒善、長女純、二男優善とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあった。知行は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好で、技を售ろうという念がないから、知行より外の収入は殆どなかっただろう。(森鷗外『渋江抽斎』)

 谷中は数回歩いているのに、見逃しているところがこんなに多い。鷗外の史伝について、夷斎石川淳は『渋江抽斎』と『北條霞亭』とを比べて魔術のようなレトリックを使って、『北條霞亭』を称賛しているが、私は『渋江抽斎』が好きだ。と言うよりも、石川淳の立言はそもそも無理なので、幾分でも登場人物に共感できない作品(北條霞亭は嫌なやつである)は、やはり失敗作であろう。石川淳の独特な文章は何度読んでも面白いので、ちょっと引用してみる。石川淳のレトリックである。

 「抽斎」と「霞亭」と、双方とも結構だとか、撰択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしはまた信用しない。この二者撰一に於て、撰ぶ人の文学上のプロフェッシオン・ド・フォアがあらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える、「抽斎」第一だと。そして附け加える、それはかならずしも「霞亭」を次位に貶すことではないと。(中略)
 鷗外六十歳、一世を蓋う大家として、その文学的生涯の最後に、「霞亭生涯の末一年」に至って初めて流血の文字を成した。(石川淳『鷗外覚書』)

 大雄寺では巨大なクスノキの脇に高橋泥舟之墓を見る。「前に来ましたよね」と言う姫の言葉に私はびっくりしたが、クスノキを見て思い出した。私の企画の時(第三回)だったろうか。慶喜が最も信頼した人物である。西郷への使者として海舟が最初に人選したのは泥舟であった。しかし慶喜が側から放さず、泥舟が義弟の鉄舟を推薦した。そして山岡鉄舟はただこの一事によって歴史に大きな名を残す。
 ダンディが歌碑を見つけて解読しようとしていると、「何でも聞いてくれよ」と講釈師が歌う。『灯台守』であった。

こおれる月かげ 空にさえて
ま冬の荒波 寄する小島
思えよ灯台 守る人の
尊きやさしき 愛の心

 それなら知っていると姫が歌う。私も知っている。講釈師は「唱歌だよ、知らないのか」と言うが、宗匠もチイさんもロダンも知らないようだ。ただ「愛の心」なんていうのは「唱歌」にしては新しすぎるような気もする。私はどうして知ったか、学校で習ったんじゃないか。勝承夫という訳詞者の名前が読めなかったが、これは「よしお」と読む。

勝承夫は、東洋大学に入学する前から詩人として活躍していたが、在学中の大正十年民衆詩派の井上康文らと『新詩人』を、大正十二年には東洋大学出身の赤松月船・岡村二一・岡本潤・角田竹夫らと『紀元』を創刊した。 こうした勝の大学内外での活動が若い人たちの目につき、当時詩を志す人で東洋大学を目指す人が非常に多かったという。 主な詩集には『惑星』(大十一)・『朝の微風』(大十二)・『白い馬』(昭八)・『航路』(昭二十二)などがあり、昭和五十六年には『勝承夫詩集』が刊行された。また、「灯台守」・「歌の町」の唱歌をはじめ童謡・校歌の詩作も多数にのぼる。(井上円了記念学術センター「東洋大学の文人の系譜」)http://www.toyo.ac.jp/enryo/gallery/h12/h12_7.htm

 「若山彰の灯台守だって歌えますよ」姫が「おいらミーサキの灯台もーりーよ」と歌い出す。これはさっき東大の構内で、「とうだいの校歌を知っている」と言って講釈師も歌いかけていた。勿論『喜びも悲しみも幾歳月』(木下忠司作詞曲)である。
 この『灯台守』を調べてみると、イギリス民謡で明治二十二年に刊行された唱歌集に収録されているらしいのだが、そのとき、訳詞者の勝さん(明治三十五年生まれ)はまだ生まれていない。それに堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には収録されていない。勿論全てを収録しているわけではないが、唱歌ではなく違う形で流布したものではないか。大正期から詩作を始めた人ならば、「童謡」かもしれないと思って、与田準一編『日本童謡集』(岩波文庫)も当たってみたが、ここにも出てこない。謎のまま放置しようかと思っているところに、こういう記事を見つけた。

 この歌詞は、戦後の昭和二十二年、文部省発行の教科書『五年生の音楽』に載ったものです。私もこの歌詞で覚えたのですが、同じ曲に、明治二十二年の大和田建樹による「旅泊」、大正期の佐佐木信綱による「釣船」と異なる歌詞が付けられています。
 http://14.studio-web.net/~yamahisa/todai_mori.html

 戦後の音楽教科書で私と姫が知っているのだから、チイさん、宗匠、ロダンだって知らなければいけない。「俺はウソ言わないんだから。疑っちゃダメだ」以前、万年青の歌を私が信用しなかったことを、講釈師はまだ覚えているのである。
 いよいよ残すのは谷中墓地だけになった。今日はかなり歩いた。ロダンのおよそ九キロというのは、たぶん後楽園内の散策を勘定に入れていないのではないだろうか。
 慶喜の墓所は閉ざされていて入ることができない。フェンスの前でガイドが七八人を相手に懇切に説明している。正室は慶喜に並んで中央に位置しているが、奥のほうには側室もまとめて眠っているらしい。「女房もお妾さんも一緒なんて考えられませんよ」ロダンは愛妻家である。墓は円墳の形をして、これが神式というものか。なんでも、孝明天皇の質素な陵墓に慶喜が感動したからだという。
 私は慶喜があまり好きではないから、逸話も良く知らない。「卑怯だと思います」猪苗代湖の水で産湯を浸かった姫は慶喜に同情がない。「艦長の榎本武揚を置いてっちゃったんですから」
 上方の人は、「あの時、慶喜が恭順したのは歴史的にみて正解だったんですよ」と冷静に言う。しかし、私たち奥羽の人間は何度も「しかし」と言わなければならない。鳥羽伏見の敗北は仕方がない。自分だけ逃げて恭順の意を示しても、残された者はどうすればよいか。説得すれば良かったのである。説得できなければその場で死ねばよかったのである。現実の慶喜の行動は、我が身可愛さの卑劣な敵前逃亡であった。全軍の将たるものの行動ではない。これが戊辰戦争を惹き起こす火種になったのである。
 後は日暮里に出るばかりだが、すぐ目の前に見えるのに、行き止まりのところがあったりして、リーダーが講釈師に怒られる。「俺が言うとおりに行けばいいんだよ」しかし、どこかに道は通じているのである。

 霊園やところどころに沈丁花   快歩 

 馬場辰猪、孤蝶兄弟。鳩山一郎、横山大観と知っている道に出る。小平波平の墓の前では、日立製作所の創業者だとダンディが教えてくれるが、「波平さんはサザエさんのおとうさんしか知らなかった」と碁聖がつぶやく。
 「あれが長谷川一夫だよ」という講釈師の声で、ぺこちゃんが見に行く。「また見るの」とクルリンも追いかける。「長谷川一夫さんにお参りしちゃった」とぺこちゃんは喜んでいる。駅に着けば、本日の歩数は宗匠の万歩計で二万五千歩であった。
 駅前の喫茶店「ルノワール」は満員で入れず、ラング・ウッドというホテルの一階のティールームでコーヒーを飲む。ケーキのセットを頼んだ講釈師は、並んで座った姫と一緒に、ウェイターに「奥様」「ご主人さま」と呼ばれて喜んでいる。コーヒー一杯六百五十円。反省の必要がない人たちとは別れて、八人がさくら水産に入る。画伯はカラオケの会があるから参加できない。反省しなければならないのは姫、カズちゃん、ダンディ、チイさん、スナフキン、宗匠、ロダン、蜻蛉。
 私がロダンのために持参した松本零士『男おいどん』最終巻は、ロダン以外には余り関心をひかない。落語の話題も出たが主要なテーマはロダンの愛妻物語で、それを拝聴しながら時は過ぎる。酒に関して私はまだ本格的には復活していない。今日はやや感傷に流れること多い一日であった。二千二百円也。

眞人