第二十九回 玉川上水・羽村堰から立川まで
                    平成二十二年五月八日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.05.15

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 四月は例年になく雨が多く、あんなに寒かった春は珍しいが、ゴールデン・ウィークになって気候は一変して夏の様相を帯びてきた。昨日はちょっと雨が降ったものの、今日は爽やかな五月である。半袖のシャツに、日差しが眩しいからクリップオンのサングラスをつけてきた。
 北朝霞から武蔵野線を使い西国分寺で中央線に乗り換える。人身事故の影響があったらしいが、それほど遅れたわけではなく、運よく青梅線直通の電車がすぐにやってきた。青梅線というものに私は初めて乗った。奥多摩の山へ行くらしい人も見られるが、車内は比較的空いている。暫くは街中を走るような路線で、三十分弱で羽村に着いた。
 まだ九時二十分、珍しく一番乗りになってしまった。本当は九時四十四分に到着するように家を出る積もりだったのだが、朝起きるとタバコが切れていた。仕方がないので飯を食べてすぐに出たのである。階段を下りて西口の喫煙所で一服してから改札に戻ると、今日のリーダーであるダンディが到着していた。
 講釈師、住職、チロリンは相変わらず早い。あんみつ姫からは、少し遅れるかも知れないとダンディに連絡が入ったものの、なんとか無事時間内に到着した。「また遅れたのか、もう除名だな」「ちゃんと間に合ったもん」
 集まったのはダンデイ、宗匠、チイさん、碁聖、住職、スナフキン、講釈師、お茶の水博士、あんみつ姫、チロリン、クルリン、カズちゃん、蜻蛉である。博士は第四回「本郷編」に登場して以来の二回目だ。「迷子になった方ですよね」姫は変なことを覚えている。「江戸歩きに多摩が入るのか」と驚きながら、博士は立川在住の誼で参加してくれた。
 ロダンは三月下旬に発症した腰痛からまだ立ち直れない。「なんだ、来ないのか」ロダンが来ないと講釈師は淋しくて仕方がない。早く治して欲しい。桃太郎はコバケンさんやロザリアと一緒に山に行っている。ハッシー、ミッキーからは欠席連絡があったが、ドクトルはどうしたのだろうか。
 「山じゃないんだから、杖なんか持ってくるなよ」と講釈師が住職に悪態を突く。しかし杖は住職のトレードマークだから持たないわけには行かない。先月末にいきなり坐骨神経痛を発症したというダンディも杖を突いていて、これにはちょっと違和感がある。「これを見てください」今日のダンディはペルーの帽子に、ナスカの地上絵を描いた手提げ袋を持っている。
 「下見はしてますが、もしかしたら又道を間違えるかも知れない」ダンディが最初から弁解するのは、講釈師の罵倒を事前に防ごうとする意図だが、果たして効を奏するだろうか。「田園調布じゃ散々だったからね」

 西口は閑散としていて、ほとんど他の人影もない。「ホント、良い天気だよな。空見てよ」講釈師がわざとらしく私の顔を見る。「当たり前ですよ、私は晴れ男なんですから」予想通りの展開だ。講釈師はそう言うと思ったし、ダンディもきっと自慢すると思っていた。しかし私に雨を降らせる能力が備わっている訳ではない。たまたま私が企画したある時に雨が降ったのであって、それは私の責任ではない。それを言うなら姫の企画の時だって雨が降ったではないか。「でも私の時は午後にはちゃんと晴れました」「そうそう、午前中にちょっと降ってもちゃんと止みましたからね。一緒にいる私の力です」私がどんなに科学的に正しい主張をしても聞きいれられない。
 奥多摩の山並みがずいぶん近くに感じられる。駅からまっすぐに歩き始ると、新奥多摩街道を横切ったあたりに、「旧鎌倉街道」の案内板が立てられているのを見つけた。ダンディには時間配分がありどんどん歩いていくが、数人がちょっと道を横切って見に行く。最初からリーダーに従わない連中ばかりだ。

現在地の北方へ約三キロ、青梅市新町の「六道の辻」から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って遠江坂を下り多摩川を越え、あきる野市折立を経て滝山方面に向かっています。
入間市金子付近では、竹村街道ともいわれ玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材などを運搬した道であったことを物語っています。(羽村郷土研究会)

 切通しのような下り加減の道のすぐ先には、石垣の一部を切り込んで、前を柵で塞いだ「馬の水飲み場跡」なんていうものもある。
 左に坂を少し登るように入っていけば墓地に着いた。「どこだったかな」と一瞬躊躇ったリーダーがすぐに思い出して「こっちです」と皆を集める。中里介山の墓があるのだ。墓の前面右側には「中里介山居士之墓」と記した墓標が立ち、正面には岩石を積み上げた上に五輪塔墓が建っていて、花立てには真新しい花が供えてある。

 神奈川県西多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)に精米業者の次男として生まれる。玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれたと伝えられる。生家は自由民権運動で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地であった。
 長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。明治三十一年(一八九八)西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での電話交換手や母校の代用教員の職に就き、一家を支えた。(ウィキペディア「中里介山」)

 「水車小屋で生まれたなんて、なんだかロマンチック」「あの頃は男性でも電話交換手になったんですね」
 介山中里弥之助は明治十八年(一八八五)四月四日に生まれ、昭和十九年(一九四四)四月二十八日に死んだ。「五十九歳だなんて、若いですよね」その五十九歳に私も先月なったばかりだ。そして二日後に父が(八十五歳の誕生日を迎えたばかりだった)死んで以来、人はいつか必ず死ぬということが、今までより身にしみて感じられる。
 戦前の平均寿命は男女とも五十歳に満たなかった。勿論、平均寿命の算出には幼児死亡率や軍役、結核での死亡が大きく影響するから、それをもとに判断する訳にはいかない。同じ明治十八年に生まれた人はどうだろう。大杉栄(三十八歳)は殺されたのだから別だし、尾崎放哉(四十一歳)、若山牧水(四十三歳)は放浪の果ての病によるから比較の対象にはならない。正力松太郎(八十四歳)、柳原白蓮(八十二歳)、野尻抱影(九十二歳)は今だって充分に長寿として通用するから、これも比較対象外である。何の根拠もなく思うのだが、北原白秋(五十七歳)、本居長世(六十歳)あたりが実質的な平均値であったのではないか。とすれば、介山の年齢もほぼ平均並みということになる。
 『大菩薩峠』は、大正二年(一九一三)九月に「都新聞」に連載を開始して以来昭和十六年(一九四一)まで、「毎日新聞」や「読売新聞」に断続的に書き続けて遂に完成しなかった。
 「まだ終わってなかったんだ」チロリンが不思議そうに言う。「まだ、って言っても、永遠に完成しませんよ」とダンディが答える。

 大菩薩峠は江戸を西に去る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡萩原村に入って、そのもっとも高くもっとも険しきところ、上下八里に跨る難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めておいた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に落つる水は笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。(「甲源一刀流の巻」)

 「家には途中が欠けてる端本があって。だから読めなかったの」というのは姫である。「全部で三十冊もあるんじゃないか」スナフキンが言うが、文庫本ならそうかもしれない。(調べてみると、ちくま文庫で二十巻ある)「確か七八冊だったような気がする」とダンディは記憶を辿る。「市川雷蔵を見たよ」チロリンは映画で知っている。
 私だって勿論全巻通読する筈はない。というよりも全巻揃える気力がなかった。手元にあるのは「カラー版国民の文学」(河出書房)第一巻(昭和四十四年刊)に収録されたもので、裏表紙の見返しに鉛筆で三百五十円と書きこんであるから、どこかの古本屋で買ったものだ。「甲源一刀流の巻」から「女子と小人の巻」まで、ちくま文庫なら三巻目の前半までに相当する。
 『大菩薩峠』の評価についてはいろいろ難しい議論があって、読んだ部分だけで何事かを言う資格はないが、敢えてその範囲だけで言えば、全編を通して地蔵和讃が響いてくるようだ。そして少なくとも机龍之介が日本大衆文芸におけるニヒリストの系譜の嚆矢であることは間違いない。私は知らなかったが、松岡正剛『千夜千冊』によれば、机龍之介のモデルは北一輝であるとか、その性格はスタブローギンであるとかいう説があるらしい。
 墓地を抜け石段を降りていくと、白いシャガがちょっと薄暗い中で光るように咲いている。降りたところが寺の裏手で、この石段の脇には煩悩坂と記された標柱が立っている。「講釈師に叱られますが、また裏から入ってしまいました」
 東谷山禅林寺、臨済宗建長寺派。羽村市羽東三丁目一六番二三号。「鷗外、太宰の墓のある三鷹の寺も禅林寺でしたね」あそこは黄檗宗だった。お寺には同じ名前をもつものが多い。「言った者勝ちなのかな」スナフキンが笑う。
 境内のどこかに「豊饒の碑(天明義挙記念碑)」がある筈なのだが、残念ながら見つけられなかった。あることまで調べたのだから、ちゃんと場所を事前に確認しておくべきである。やはり手抜きはいけない。天明の大飢饉の際に、困窮する農民たちの生活を守るために、食料を買い占めていた富商を羽村周辺の名主たちが襲った一揆を顕彰するもので、明治二十七年に建てられた。三多摩は自由民権の地である。
 三多摩の民権運動を考えると、色川大吉が発掘した五日市憲法草案を連想する。千葉卓三郎、タクロン・チーバと名乗って、この憲法草案を起案した仙台出身の人物のことは、昔、色川大吉の本で読んだ。介山もこれに影響を受けたかも知れない。ただ、介山には西洋的な民権思想ではない、土着の浄土教的な平等感、あるいは百姓一揆的な思想が強いような気がする。勿論こんな感想も、先に言ったように部分的に読んだだけのことだから信用できない。
 「あれは何て読みましたか」とクルリンが聞いてくるのは大きな石に彫ってある四文字だが、これが分からない。「以和致私」和を以て私に致すと読んでは見たものの、意味不明である。「私」は「ひそかに」とか読むのかも知れない。
 「これ面白いよ」スナフキンと宗匠が喜んでいるのは、掲示板に張り付けられた「人生道十訓」だ。

一、 高い積りで低いのは教養
一、 低い積りで高いのが気位
一、 深い積りで浅いのが知識
一、 浅い積りで深いのは欲の皮
一、 厚い積りで薄いのが人情
一、 薄い積りで厚いのは面の皮
一、 強い積りで弱いのは根性
一、 弱い積りで強いのが我
一、 多い積りで少ないのは分別
一、 少ない積りで多いのは無駄

 「誰かのこと言ってるみたいじゃないか」私も反省する。山門は文久年間に建てられたものだ。
 そして多摩川に出ると、水門に当たる水が白く波打っている。まず玉川兄弟の像を見なければならない。後ろに立って堰を指しているのが兄の庄右衛門で、右手に杖を持って片膝をついているのが弟の清右衛門である。「水道歴史館でも見ましたよね」
 第二十六回でスナフキンの企画によって、小金井から三鷹までの上水沿いを歩いた。第二十八回にはロダンの企画で東京都水道歴史館に立ち寄って、懇切なガイドを聞いた。だから私たちは玉川上水に関してはかなり詳しくなった(筈だ)。一応『武江年表』承応二年癸巳(一六五三)の項をおさらいしてみる。

今年、玉川の上水を都下に通して、衆庶の用に充てしめ給ふ。
○ 玉川上水は遠く西の方、甲州丹波山の幽谷に発し、同国丹波村を経て武州多摩郡に至る。甲州一の瀬より留津村迄七里余、夫より羽村迄十三里、夫より六郷迄十六里計にして、羽田浦より海に会す(凡四十里余)。承応元年の春、玉川庄右衛門並清右衛門といへるもの承りて、羽村より江戸までの水道を考へ、同十一月上水道掘割の儀を命ぜられければ、翌巳年初夏より仲秋に至り、羽村より四谷大木戸迄堀渡し、虎御門まで玉川の水を掛けられしとぞ。其後諸方武家方、市中に分水して日用とす(赤坂御門外玉川稲荷社は、この玉川庄右衛門の勧請するところなり)。

 僅か九ヶ月で羽村から四谷大木戸まで約四十三キロを通したのだから、当時の土木技術は相当のものだったと思われる。少し離れた所には牛枠というものが置かれている。木を組み合わせて、笊のようなものに石を詰め込んである。私はこの言葉も実物も初めて知る。

 (前略)治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が壊れるのを防ぐ「川倉」です。かたちが馬の背中に似ているところから「川鞍」と名付けられ、後に川倉と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、最も一般的なものは「牛枠」と言われています。
 「牛枠」は堤防に植えた河畔林を切り出して組み立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石を詰めた蛇籠で固定します。

 合掌材を前後に組み合わせて、底の部分には敷成材を三角に繋げ、竹で編んだ蛇籠を置くのである。
 橋の上から見ると、取水口からはかなりの勢いで水が流れ込んでいるのが分かる。その波が白い。上水路は川幅も広く、水量も豊かで、三鷹あたりの流れとはずいぶん印象が違う。かつてはこの勢いのまま江戸まで流れていて、暴れ川の異名をとっていたと言う。この水量、深さが続いていたのなら、三鷹で太宰治が飛び込んでも充分余裕があったに違いない。現在の三鷹付近では、とても飛び込む気にはならないだろう。
 「ここまで来たんだから陣屋跡に寄らなくちゃダメだ」ダンディの予定にはなかったのだが講釈師が強く主張する。階段を上がって道を渡った所に、東京都水道局羽村取水所の事務所があり、その左隣にかつての陣屋の茅葺の門だけを残している。玉川水神社の境内でもある。
 蛇がくねったような松が立ち、それを指差して「これがあの有名な」と講釈師が住職に話しかけている。いつもの、ちょっと得意そうな、冗談を言っている表情が浮かんでいるから、これは嘘であることが明らかだ。「当り前じゃないか。そんな有名なものなら必ず説明板が有る筈だろう。何もないじゃないか」
 鈴蘭の白い花を見れば、根に毒をもつという説明も忘れない。「マンジュシャゲもそうだよ」鈴蘭がどのくらい毒性が強いのか。いつものようにウィキペディアのお世話になってみよう。

強心配糖体のコンバラトキシン(convallatoxin)、コンバラマリン(convallamarin)、コンバロシド(convalloside)などを含む有毒植物。有毒物質は全草に持つが、特に花や根に多く含まれる。摂取した場合、嘔吐、頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などの症状を起こし、重症の場合は死に至る。
北海道などで山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ていることもあり、誤って摂取し中毒症状を起こす例が見られる。スズランを活けた水を飲んでも中毒を起こすことがあり、これらを誤飲して死亡した例もある。(ウィキペディア「スズラン」)

 片隅には、東京市長正三位勲一等男爵後藤新平題頌という石碑が立つ。末尾には従四位勲三等梅窓杉浦重剛譔とある。玉川兄弟のことから上水の始まりのこと、玉川水神社のことが書かれていていて、どうやら水道拡張工事に伴って神社を現在地に移転したときの記念碑のようだ。
 もう一度街道を渡って、上水に沿った遊歩道に入っていく。樹木の間の踏み固められた道は足に優しい。左手の上水のほうは金網で仕切られているが、その間から見る躑躅も綺麗だ。石楠花も見える。
 両岸から新緑の枝が水面に伸びて、武蔵野の雰囲気が漂う。頭上の樹の間から時折鳥の声が聞こえるが、姿も見えない。講釈師と姫だけがそれを判定する。

  新緑や迸しる水鳥の声  蜻蛉 

 少し行くと小さな墓地に出た。寺は近くには見当たらないようだが、真言宗永昌院の営業案内(?)が立てられている。各種供養の種類を記してあるのだ。「夜泣き止め」「虫封じ」なんていうのは講釈師得意の話題だが、「蟇目(ヒキメ)神事」というのが分からない。「なんでしょうか、調べなくっちゃ」と姫も言うからには調べなければならない。

 「蟇目神事」は弓矢の霊威をもって邪気を払う秘法で、民間に流布されるという事例はあまりないが、破魔矢をみても弓矢が邪気を払うという事はよく知られている。禁中では「蟇目神事」は古来より様々な応験を顕す秘法として重用され、白川天皇御不例の際に源義家が大庭に立って弓を鳴弦したところ、病がたちまち癒されたという。
 一般に武家の事をさして「弓矢の家」ともいい、「武を能くする家」と解釈されている。だがそれは蟇目神事を司り、土地の開拓者となる家の意でもある。禁中から重秘の神事とともに、それを伝授されたのが源平藤橘を初めとする十氏族とその子孫達であるからだ。
 土地の開拓者でもあった武士達は、この神事によって土地を祓い清め、自らが領主である事を宣言していたわけだ。つまり今なお伝承され続けているこれらの神事や伝説は、中世の関東武士団を理解するうえでとても貴重な存在といえるだろう。(都幾川村・弓立山の伝説)http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/tokigawa_densetu.html

 鏑矢を鳴らして魔を鎮める儀式があることは知っていたが(なんで知っていたのだろう。保元物語か平家だったろうか)、「弓矢の家」が「蟇目神事を司り、土地の開拓者となる家」の意でもあるというのは初めて知ることだ。趣旨はこういうもののようだが、それが何故蟇目と呼ばれるのか。もうひとつ記事を探さなければならない。

矢を射ち、妖魔調伏の目的で行われる。矢につけた鏑の部分がヒキガエルの目に似ている、もしくは矢の鳴る音の響き目が転化したものとも。
http://yagasane.hp.infoseek.co.jp/ha.html

 それなら、蟇目と鏑矢とは同じものを言うか。更に調べれば、結局こんな風になる。

 蟇目(引目とも書く)とは上記鏑に数カ所の穴を開けたもので、鏑と同様に矢箆を上下に貫通させ、釘上のもので固定する。正式な造りは四つ穴で、これを四目(しめ)と呼ぶ。これを先端に取り付けた矢を放つと穴に空気が流入する事で笛のように音が鳴り、鋭い音を発する。蟇目の出す音が邪を払い場を清めるとされている。蟇目鏑とも言う。(ウィキペディア「鏑矢」より)

 つまり、鏑矢の一種に「蟇目鏑」があるのであった。
 草むらには薄紫のハナダイコン(ムラサキハナナ)が咲いている。「孔明が兵隊に食わせるために植えたんだ」その伝説によって諸葛菜とも言う。父は三国志が大好きだったが、植物にはまるで関心がなかったから、この花は知らなかっただろう。しかしダイコンと言ってもいわゆる大根のようではなく、葉を食べるものらしい。
 白い六弁の花はハナニラ。「ニラバナだよ」と講釈師は主張する。ミズキの白い花、コデマリも咲いている。講釈師と姫は何かを発見するたびに植物の名を称え、それを宗匠が一所懸命確認しながら歩いて行く。

  上水の青葉そよぐ風の声  千意

 「蛇が出てもいいですよね。青大将ぐらい出てこないかな」虫愛ずる姫は蛇も好きだが、私は特に出てきて欲しいとは思わない。「嫌いですか」特に好きではない。所々に、玉川上水の大きな地図が立っていて、「今、この橋ですから、あといくつでしょうか」とダンディが確認しながら、時々は川の右岸から左岸へ進路を変えて先頭を進んでいく。
 上水から離れて住宅地に入り込むと、なんだか立派な寺が見えた。石柱には臨済宗長徳禅寺と書かれている。山門も立派だし、奥のほうの本堂の屋根を見てもなかなか格の高い寺のように思える。ちょっと寄ってみたいところだが、ダンディの計画には入っていない。
 「酒蔵がありますが、今日は時間の都合で寄りません」寺の向かいには長い黒板塀が続き、その中に白壁の土蔵がいくつも見える。文政五年創業の田村酒造だ。門の表札に田村半十郎とある。東京都福生市福生六二六。敷地内には庭園もあり、相当な広さの家だ。この田村家が檀家ならば、寺が立派なのも納得がいく。
 リーダーは寄らないと言っているのに、講釈師はどんどん敷地に入っていく。門の脇の建物の入り口には「ご自由にお入りください」とあり、事務所に声をかけて中に入ると酒が展示してある。ここでは展示してあるだけなのだろう。「嘉泉」という銘柄だ。

 九代目勘次郎が、文政五年(一八二二)に酒造業を始める。創業当時敷地内でようやく掘り当てた井戸は、酒造りに最適の水質(秩父奥多摩伏流水にして中硬水)で、しかも水量にも恵まれた名水。「正にこの水は良き泉、喜ぶべき泉なり」よって酒の名を「嘉泉(かせん)」と名付けたと伝えられる。
 屋敷内には江戸時代より、清冽な玉川上水の分水が流れ、樹齢数百年の欅の大木が、酒蔵の屋根を覆う恵まれた環境の中で、創業以来生産量にこだわらず品質第一に「丁寧に造って丁寧に売る」を信条として今日に至っているが、数々の鑑評会に於ての受賞はそれを裏付けている。http://www.seishu-kasen.com/

 「売ってくれないんでしょうか」姫が残念そうに呟くと、「事務所に行けば買えるよ」と講釈師が先に立つ。私は無駄遣いをしてはいけないと妻に言われているから買わない。姫とスナフキン、それにここには立ち寄らない筈だったダンディまで四合瓶を買い込んだようだ。幻の酒だと言う。「重いんですよ」と姫が言いながらリュックにしまい込む。まだ本日のコースの四分の一も歩いていないのだ。これから彼女の肩はこの四合瓶に苦しめられる筈だ。桃太郎がいたら一升瓶を買ったかも知れない。

 新緑の風にさそわれ酒蔵へ  千意
 酒造場へ下戸の呼び込む薄暑かな  閑舟

 宗匠は先月から俳号を閑舟に変えたのである。なかなか洒落た号で、私の蜻蛉とはえらい違いだ。
 私は何も買わないのに、そこに置いてあった「読んで安心、飲んで楽しい・健康のための日本酒読本」というのを貰ってきた。宗匠にも教えた。目次を見れば、適正飲酒は百薬の長、善玉コレステロールが増え、日本酒はガン細胞の増殖を抑制する、等々。実に都合の良いことが書かれている。酒は飲まなければならないのである。
 「予定よりだいぶ遅れてしまった」「誰だい、酒屋に入ろうなんて言った奴は」我から進んで門に侵入したのは、そう言う夫子自身である。「姫が酒を買いたいって言うからさ」彼女の言葉よりも先に講釈師は門に入っていったようなのだが。「十分だけですよ」と姫も抗弁するが、もっと時間はかかっている。
 外に出て、酒蔵から流れ出てくる溝の水に手を浸してみると冷たい。チロリンも手を出してみて、「気持ちいいよ」と言う。
 「こういうところでさ、酒粕を買うと旨いんだ。粕汁作ったりしてさ」「そう、私の田舎でも冬に粕汁作ると美味しくて」クルリンは信州のひとである。雪の降り積もる中、炬燵で粕汁を啜るのはなかなか良いだろうね。「軽く炙ってもいいんだ。酒のつまみにちょうど良い」酒を飲まない人が言う。「酒饅頭も美味しいですよね」
 この辺でいったん上水と分かれて東へ向かう。福生から電車に乗るのである。これは珍しい趣向だ。「福生は難読地名なんだよ」知らなければフッサなんて読める筈はない。福生市の公式ホームページによれば、地名の由来は「ふさぐ」または「ふた」である。

 福生は小宮氏の武蔵野方面進出最前線、もしくは北部方面防衛最前線といった軍事上、重要なポイントに位置していたわけです。
 このような歴史的背景と「ふっさ」という呼び方から「福生(ふっさ)」の地名の成り立ちを考えた研究があります。この説によると、「ふっさ」とは北方から来る敵を防ぐ土地であって、それは北方を「ふさぐ」要衝の地を意味する呼び方です。「ふさぐ」は「ふたぐ」ともいい、「ふた」は文字で書くと蓋ということになります。『地名用語語源辞典』によれば、「ふた」は動詞「ふたぐ(塞)」の語幹で、塞がれたような地形をいうか、ふた(蓋)に通ずるといわれます。そして「ふた」を発音する場合、「ふ」にアクセントがつくと「ふった」となり、「ふった」を繰り返していったり、強くいったりすると「ふっちゃ」と聞こえるようになるといわれています。
 江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』は「福生」の呼び方を土地の人は「ふっちゃと唱う」と記していますが、現在も地域の古老たちは「ふっさ」を「ふっちゃ」「ふっつぁ」などと呼んでいます。
 https://www.city.fussa.tokyo.jp/aboutfussa/aboutfussa/profile/history/88vtda0000001h7y.html

 「塞ぐ」意なら「遮る」ということで、サエノカミに通じる斎木や佐伯の方が馴染みがある。「蓋」というのは私は初めて聞く。福生駅の駅舎を通りぬけ東口に出ると、大きな西友が建っている。その五階がレストラン街になっているので、ここで昼食を採ることになった。「大戸屋」である。こんなところでこの店に出会うとは思わなかった。どちらかと言えばサラリーマンを対象にして、繁華街に展開している店かと思い込んでいたのだ。
 「俺はしょっちゅう大戸屋で食べてるよ」とスナフキンが言うのも、私の思い込みを補強する説ではあるまいか。かなり広い店内で、二箇所に分かれはしたが十三人がゆっくり座れた。店員のベレー帽が洒落ている。
 住職は高級なものを注文したかったのに、講釈師に合わせてセイロにさせられてしまったようだ。姫も同じものを注文している。宗匠はサバ焼き定食、お茶の水博士は何かの丼と饂飩のセットだ。そんなに食べられるのだろうか。カズちゃんは親子丼(但し、鳥を炭火で焼くものらしい)を頼み、私はカツ煮定食だ。(本当はロースカツの卵とじ定食というような名前だったが、要するにカツ丼のご飯と具を別々にしただけのものである。しかし、このカツ煮はやたらにしょっぱかった)
 食べ終われば十二時四十分。午後の部が始まる。「なかなか来ませんね」青梅線は山手線のように頻繁に運行しているわけではないから、十五分ほど待たされる。牛浜の次が拝島駅だ。この駅には青梅線、西武拝島線と八高線が乗り入れている。
 「拝島とか昭島、牛浜なんていうのもある。この辺りに島とか浜がつく地名があるのは何故かな」「かつては海の底だったとか」姫の意見には、「いくら昔でもこの辺が海なんてことはない」とスナフキンが却下する。しかし鯨の骨が出土しているのだから太古には海だった。勿論、日本人さえ存在しない頃のことだから地名に影響するとは思えない。「多摩川に浮かんだ島というのはどうだろう」私も出鱈目を言ってみる。「そんなことないだろう」よく分からないが、こんな記事を見つけた。

九五二年、洪水により多摩川上流の日原村の日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が玉川花井の島(大神の中州)に流れ着き、打ち上げられた尊像は村人らに拝まれるようになり、村人らは後にお堂を建てて坐像を安置した。そのため、この地域に拝島という地名が起こった。(ウィキペディア「昭島市」より)

 これで見れば、花井の島というのは多摩川の中州だったようで、つまり「島」は中州のことではないか。
 ここからはほぼ東に向かって、上水に沿って歩くのである。川幅はさっきより少し狭いだろうか。それでも水量は多い。「セグロじゃないか」講釈師の声で立ち止れば背黒鶺鴒(と教えて貰う)が歩いている。「良く見るのはハクセキレイだけど、あれは外来種なの。セグロが在来なんですよ」エコロジストの姫は、在来、外来の区別に厳しい。

 晩春の上水たどり江戸歩き  閑舟

 拝島線を横切っていくと、左手に塀で囲まれた建物が見えた。「あれ、風呂だろう。お風呂だよ、絶対」飛び上がっても塀の中が見える筈はない。ようやく看板のところに来ると、「湯楽の里」と書いてある。「やっぱりね」なにしろ女湯に傘を忘れるほどの人である。風呂が好きなのだ。時々、後方を振り返っては「疲れてないか。足が遅いんだから参加するんじゃないよ」と住職に悪態を吐いているが、誘ったのは夫子である。「大丈夫だよ、まだ疲れてないよ」住職が憮然と応える。
 右手にはゴルフ練習場が広がる。左には駅が見える。「あれは何駅でしょう」文字が書かれていることは分かるが近眼ではよく見えない。今朝リーダーが配ってくれた地図を確認すれば、西武拝島線の西武立川駅であった。この辺りは拝島線が上水と平行に走っている。
 「急がないとスーパーが閉まっちゃう。買い物できなくなるよ」講釈師は、ダンディが持つナスカの袋を買い物袋だと決めてかかっている。「買えないと奥さんに怒られちゃうよ」
 松中橋のあたりで、後方のチロリンから「少し休もうよ」と声が掛かった。橋を渡って、「砂川用水の由来」の説明板が建っている所で休憩をとる。

 砂川用水は、明暦三年(一六五七)幕府財政再建の一環として武蔵野新田開発のため玉川上水から分水され、松中橋から上水と平行に東上し、天王橋から五日市街道に沿って開通された。
 残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田(村)は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになった。
 http://www.h6.dion.ne.jp/~arc-yama/sketch/machi/doc/sunagawa.html

 用水の方は庭のような作りになっているが、立ち入りができないように柵が設けられている。仕方がないので、遊歩道の両側に適当に分かれて座り込んだ。その間を自転車が走りぬけて行くから安心はできない。
 「杖を突いているダンディに敵わないのが情けない」姫は酒の重みが応えているのではないか。「ダンディが杖を突いているのは痛々しい」とカズちゃんが嘆くが、なに、見ていると杖はほんの飾りのようだ。それに姫の言う通り先頭をどんどん歩いているのだから、この杖は水戸黄門の杖のようではないか。無礼者が出現したときに打擲するためのものではないかと姫が言う。
 チイさんは酢漬けの沢庵を出してくれる。「自分で耕して、育てて収穫して漬けたの」どのくらい大根を作ったのだろうか。「二百五十本」チロリンやカズちゃんに、この漬けものの作り方を説明している。しょっぱくなく、甘くもなく、ちょっと酸味がかった沢庵は酒のつまみに良い。塩分が少ないから身体にも良さそうで旨い。
 クルリンからはお煎餅が、チロリンから羊羹が、その他にもクッキーが提供される。私は煎餅だけを戴く。煎餅と羊羹と沢庵を手にして、「もう味が無茶苦茶になった」とスナフキンがこぼす。
 「もう行こうぜ。いつまでも根が生えたように座り込んでちゃダメだ」チイさんに沢庵を一本貰った講釈師は、もう用が済んだと言わんばかりだ。右の奥のほうにはグリコの工場が見える。
 少し歩くと祭の準備をしている連中に出会った。今頃、何の祭だろう。まだ定刻にならないのだろうか、道端には神輿が置かれている。「もう少し待っていればお酒を振舞ってくれるんじゃないか」「私たち、自前のお酒も持ってますよ」と姫が言い、「ここで飲んでしまっちゃ、家に帰ればほんとに幻の酒になってしまう」スナフキンが笑う。
 やがて天王橋のたもとに出ると、天王様と書かれた提灯を掲げ、祭礼の幕が引かれている小さな神社があった。八雲神社だが、天王様というからには牛頭天王を祀っているのだろう。それならば、疫病厄災除けとして陰暦六月(現在では七月)に行われるのが一般的だと思われる。この五月の時期というのが良く分からない。
 当初のダンディの計画では、この辺りで昼食をとることになっていたのだが、寄り道をしなかったとしても、これはちょっと無謀な計画だった。そもそも自分の脚力を基準にして計画するから、ついていけない人がでる。七掛け程度でコースを作るとちょうど良いのではないだろうか。
 もう少し行った橋で玉川上水を離れ、残堀川に沿って南下する。残堀川の由来は何だろう。「ザボンって水が流れたんだよ」勿論そんなことはない。説明板によれば、残堀川は蛇堀川だという。むかし狭山池に棲む大蛇を退治した時、大量の血がこの川に流れた。それで蛇堀川と名付けたというのである。
 これも上水から分水した用水だろうか。「玉川上水の向こう側にも通っていますから、分水ではありません」ダンディが言う。

 元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。
 一六五四年(承応三年)玉川上水開通の際繋げられ、さらに孤立していた狭山池まで掘割で繋げた。その後一八九三年(明治二十六年)から一九〇八年(明治四十一年)にかけて玉川上水の下を通って立川市富士見町へ至る工事が施され、上水から切り離された。富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川に注いでいた。
 そして一九六三年(昭和三十八年)氾濫対策として、玉川上水を越える形に変え、一九八二年(昭和五十七年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。
 しかしそれ以降、年間を通じ、降雨時およびその直後を除くと水流の見られない「瀬切れ」をおこすようになってしまった。理由としては、都市化による雨水の浸透の減少、下水道の普及による河川への排水の減少なども原因の一因ではないかと考えられたが、一定時期(短期的)を境に河川の瀬切れが起こった事(瀬切れが起こった時期に残堀川流域の地域に大きな都市化=舗装インフラの激増や下水インフラの激増などは特に顕著に無かった為)を考慮すると、表層(ローム層)を流れていた河道を、河川改修工事により礫層まで掘り下げたため、伏流しやすくなった工事のずさんさが、一番の原因だと考えられる。(ウィキペディア「残堀川」)

 「玉川上水と交差するところが見たかったね」私もお茶の水博士と同じように思う。しかし恐らくどちらかが、あるいは両方が暗渠になっていなければ交差はできない筈だ。とすれば見ても余り面白くはないかも知れない。自転車に乗った少女が二人、「こんにちは」と声をかけて行過ぎる。川の水は少ない。「いつもはほとんど流れてないよ」とスナフキンが言う。上の説明にある通りで、昨日の雨のお蔭でやっと少しの水が流れているのだろう。
 葉だけになった木にポツンと花が残っている。「行き遅れたのかな」「存在感を示してるのよ」「それじゃ俺みたいだ」

 余花見れば俺みたいだと講釈師  閑舟

 小鳥が二羽、水に降り立って水浴びをしている。「ムクだよ」「珍しいですね」ムクドリが水浴びをするのは珍しいことらしい。それを聞くまで、私はどんな鳥でも水浴びをするものだと思っていた(というより、そんなことは考えてもみなかった)。ただこの説明はよく考えてみると難しい。
 一般に椋鳥は水浴びをしないものであるが、今見ている二羽だけが特別に講釈師のように風呂好きなのだと言うことだろうか。あるいは、椋鳥は水浴びをするのだが、人のいる所では恥ずかしくてその姿を見せない。この二羽は特別に羞恥心がないと言うことか。

 椋鳥の水を弾きて風薫る  蜻蛉

 「このまま行くと行き止まりです」とダンディが対岸に渡ると、すぐに昭和記念公園の玉川上水口に着いた。昭和記念公園というのは何か。元立川基地跡の一部であり、その前は陸軍立川飛行場である。

 立川飛行場は、一九二二年に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設された。航空基地用地として立川駅北口に広大な土地があり、燃料輸送や兵員輸送に好都合だった為である。前年に岐阜県各務原で開隊した飛行第五大隊が立川へ移駐し、同隊は一九二五年(大正十四)に飛行第五連隊へと昇格した。
 また、民間空港としても一時共同利用された。一九二九年には立川と大阪を三時間で結ぶ日本初の定期航空路が開設された。神風号の出発にも利用された。一九三三年に民間機は東京飛行場(現在の羽田、東京国際空港、一九三一年開港)へ移転し、以後立川飛行場は陸軍専用となる。
 一九三八年に飛行第五連隊の戦闘中隊は飛行第五戦隊に改編され、翌年には千葉県柏へ移駐したため、太平洋戦争中は実戦部隊こそ置かれていなかったが、陸軍航空の研究・開発・製造の一大拠点として重要な地位を占めていた。立川陸軍航空廠や陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所(一九二八年移駐)、陸軍獣医資材本廠の他、周辺には軍用機を製造する立川飛行機や日立航空機、昭和飛行機工業など多くの工場が建てられ、これらは戦争末期には連合軍による爆撃の標的となった(立川爆撃)
 立川基地は一九七三年から一部の敷地が段階的に日本政府に返還されてきたが、一九七七年に全ての敷地が全面返還された。その後、広大な跡地は東部・中央部・西部の三地区に分割され、東側は陸上自衛隊立川駐屯地のほか、海上保安庁・警視庁・東京消防庁など各官公庁の施設が設けられ、立川広域防災基地となった。一九九四年には、一部がファーレ立川として再開発された。また中央部は、昭和天皇在位五十年を記念して国営昭和記念公園が造営された。(ウィキペディア「立川飛行場」)

 入園料は四百円、六十五歳以上は二百円である。お茶の水博士は年間パスポートを持っている(但し、四月で期限が切れたのをまだ更新していなかった)。高齢者の場合、一年間二千円、十回来れば元が取れると言うが、よほど近くの人でなければこれは難しい。スナフキンは犬を連れて散歩に来る。「だけどすぐ、へたばっちゃうんだ」気力に欠ける犬なのだろう。
 チロリン村のふたりは、園内散策をせずに真っすぐ駅に向かって、ここでお別れだ。私たちはちょうど対角線の先に位置する立川口を目指しながら、ゆっくり歩く。
 丘陵は自然にあったのではない。飛行場だから平坦だったものを、砂礫を入れ、土を盛って山を作ったのだ。同じ国営公園でもそれが武蔵丘陵森林公園と大きく違うところで、森林公園ならば山野草が見られるのに、ここにはそんなものはなさそうだ。
 竹藪から成長し過ぎたタケノコが何本も顔を出している。ちょっと小高い丘で一休みする。すぐそこに展望台があるらしく、探検に出かけて戻ってきた碁聖が「何も見えません。折角の展望台なのに樹が邪魔してました」と報告する。
 意外に人が少なく感じられるのは、ゴールデン・ウィークから二日しか経っていない土曜日だからだろう。連休に家族サービスをした日本の父は、皆疲れきって今日は家で寝ているのだ。
 ここからは赤いポピーが群れ咲いているのが良く見える。私は無学だから念のためにウィキペディアを開いてみて、ポピーなるものが雛罌粟であることを知った。「オッカの上、ヒンナゲシの花が」である。そして虞美人草の別名も持つなんて初めて知る。この花が項羽の想い人を連想させるのは何故か。虞美人が自決した時、その流れる血に染まったという説、彼女の墓に生えてきたという説などがあるようだ。しかし『史記』は、垓下の戦い以後の虞美人については、何も語っていない。

垓下歌  項籍
力抜山兮氣蓋世    力は山を抜き気は世を蓋う
時不利兮騅不逝    時利あらず騅逝かず
騅不逝兮可奈何    騅の逝かざるを奈何にせん
虞兮虞兮奈若何    虞や虞や若を奈何にせん

 日本庭園に向かおうと道案内の看板に従って歩くと行き止まりになった。「また迷ったのか」「だって案内通りに来たのに」「どこに行く積りなのですか」講釈師が無理に優しい声を出す。結局勝手を知ったスナフキンを先頭にして歩く。長い塀の途中に門はあるのに締め切っているのは何故だろう。大きく回りこんで漸く入り口に辿りつく。
 園内に入ればすぐに大輪のシャクヤクが目立つ。私は最初ボタンかと思ったが、芍薬であると言われた。
 芍薬はボタン科の多年草である。それならば、牡丹との違いは何か。

 牡丹が「花王」と呼ばれるのに対し、芍薬は花の宰相、「花相」と呼ばれる。ボタンが樹木であるのに対して、シャクヤクは草である。(ウィキペディア「シャクヤク」)

 白や赤紫だけでなく黄色もなかなか良い。「黄色もあるんですね」と姫が感心するから珍しいものである。しかしこの香りはちょっときつい。「あっ、これはダメ」宗匠は結構過敏だ。

 紅白黄牡丹へ人の誘はれ  閑舟

 「今日はシャクヤクが四人いますから」姫の言葉に「誰が」と言いそうになったが、勿論そんなことは口にしない。この公園はオオデマリが多い。白くて大ぶりの花の塊は、説明板にJapanese Snow Ballと書かれている。
 お茶一服五百円という茶席に、ご主人様と奥様の二人が入っていく。「それって、どこで言われたんだっけ」スナフキンが尋ね、「ラングウッド」とチイさんが応える。(意味が分からない人は第二十八回の末尾を参照のこと)

 若葉陰茶席に仮の夫婦振り  蜻蛉

 二人の邪魔をしないために、私たちはスナフキンに連れられて盆栽園に入る。「盆栽か」「いや、綺麗なんだよ」盆栽と言えば松とか梅とか、そんなものしか頭になかったが、アマドコロやコアジサイの盆栽なんていうのもある。モッコウバラもある。それを見て「国分寺を歩いた時教えて貰ったのよね」とカズちゃんも思い出す。
 それにしても広い公園だ。総面積百八十ヘクタールという。しょっちゅう散歩に訪れるお茶の水博士によれば、一周およそ二三時間かかるそうだ。
 「ちょっと寄って行くから」とチイさんが売店に入りこめば、すぐに講釈師も後を追う。チイさんはウド羊羹というものを買った。余り旨そうには思えないが、ウドはこの辺りの名産である。講釈師も何か買っている。姫が物色に時間をかけていると、「誰だい、入ろうなんて言った奴は」と聞き慣れた言葉が飛ぶ。
 出口をでても、公園のような場所が続いて駅まではまだ遠い。立川という所はかなり土地が余っているようだ。前方にモノレールが通るのが見える。「あれに乗ると新撰組の故郷に行けるんだよ」新撰組は忠臣蔵と並んで講釈師の二大テーマである。その言う通り、多摩モノレールのホームページを見れば、「多摩新撰組紀行」という記事を読むことが出来る。「今度、新撰組コースを企画して下さいよ」「ヤダよ。俺がやると、早過ぎるって文句を言う奴がいるから」確かに講釈師の企画した赤穂浪士編は余りにも早かった。遅れた人間は有無を言わさず置き去りにされる。
 駅前の一等地の空き地は、国有地だがなかなか売れそうにないと言う。つまり折角返還された基地跡の利用がまだ充分ではない。
 ビルの谷間の通路には、十人ほどの黒人が並ぶ像、原色を塗りたくったような椅子、なんだか分からないオブジェが展示されている。この一角はファーレ立川と呼び、これらのオブジェはアートコレクションなのである。「外国から買ってきたんですよ」とお茶の水博士が教えてくれる。黒人の像はサンデー・ジャック・アクパン作「オブジェ(見知らぬ人々)」、椅子はニキ・ド・サンファル作「会話」という作品らしい。三十六ケ国九十二人の作者による百九の作品が設置されているということである。

 正式名称は「立川基地跡地関連地区第一種市街地再開発事業」。
 「ファーレ」とは、イタリア語の「創造する=fare」に立川の頭文字「t」を加えて「FARET」としたものである。総数百九点のパブリック・アートが設置されており「アートの街」としても知られている。(ウィキペディア「ファーレ立川」より)

 ダンディの計画からは一時間ほど遅れて、本日の終了は四時半であった。宗匠の万歩計で二万五千歩、十五キロほどになったのではないだろうか。一時体調を崩していたお茶の水博士も問題なく歩き通したから、もう完全復活したようで良かった。
 そしてダンディから、幹事役をチイさんに交代することが宣言された。「私だけ年取っているんですよ。幹事は若い人にやってもらいます」六十歳前後は「若い」のである。そしてチイさんからも決意が表明された。

 私も先輩の皆様の協力を得て、来年リーダーデビューを果たしたいと思っています。
 よろしくお願いします。

 反省会はいつものようにさくら水産だ。地元住民のお茶の水博士とスナフキンが案内してくれる。「別名、さくら水産の会って言ったら良いんじゃないか。首都圏さくら水産制覇なんて」スナフキンの言葉は正しいようだ。さくら水産から表彰状を貰っても良いほどだと私も思う。
 「桃太郎が行ってるのはすぐ近くの山なんだから合流すればいいのに」とダンディが言っているところに、その当人から電話が入った。彼の方は向こうで反省会をしていると言う。八人で飲み、一人二千六百円也。
 反省会を終えて、ダンディ、宗匠、お茶の水博士、カズちゃんと別れ、姫、スナフキン、チイさん、私はカラオケに行く。「あそこでいいんじゃないですか」ビルの案内板を見ると、一階にNTTが入り、二階から六階までは空白、七階にカラオケ店がある。大丈夫だろうか。初めて聞く店名だが、「息子が来る店だから」というスナフキンの言葉を信じて入る。九時まで歌って一人二千六十円也。

眞人