「東京・歩く・見る・食べる会」
第三回 谷中編  一月十四日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2006.1


日暮里駅南口、十時半集合。いつものように一番乗りは三澤氏だ。池田氏は顔を見せたとたん「北口で待ってたんだよ」と不満そうに言う。「だってメールで連絡してたじゃないですか」「見ていなかった。そもそも北口からスターとするのが普通だよ」。わがままな人だ。
池田会長(会長といっても別に公式な肩書きでもないのは皆が知っている通り)、三澤講釈師、平野気象予報士はおなじみの面々だ。池田敦子越谷支部長は第一回深川編の後半で登場した。「池田さん」と呼びかけて会長と二人が返事をするのは紛らわしい。本人の申告を受けて、「あっちゃんと」呼ぶことに決める。過去二回とも参加した鈴木大人は、余儀ない事情で残念ながら今日は欠席だ。谷中のコースは是非参加したいと言っていた松下氏も、法事で関西に帰ったからなかなか参加できない。
このシリーズに今日は新たに三人が参加してくれた。新井画伯は「ふるさと」の会の中では長老の域に入る。野鳥を描かせれば、その細密で美しい絵には誰でも感動する。江口宗匠は川柳、俳句で数々の入賞暦を誇る。十七文字で世界を表現する人で、私のこの作文は長すぎると叱る。村田さんは非常に物静かな女性で、まだ得意技を見極めるまで深くお話したことがない。

全員が揃うのを待つ間、小雨がぱらつくがすぐに止む。この冬の気象は異常で、全国各地に大雪の被害をもたらしているが、東京埼玉には長い間一滴の雨も降らなかった。その雨が、何も選んだようにこの日に来なくても良いではないか。予報では低気圧が張り出し、気温の上昇と共に雨が降ることになっている。空は曇っているがこの程度なら大丈夫だろう。江口宗匠は「晴れ男」だし、あっちゃんも天気には自信がある口振りだ。二人の実力を信じようと思う。
 今回のコースは私が考えた。私がこの駅に降りるのは、実はまだ二度目でしかない。岳父が千葉に住んでおり、日暮里はそこに行くため京成電車に乗り換える連絡駅でしかなかった。はじめて降りたのが下見のための十一月だから、ほとんど見知らぬ土地に近い。それでもガイドブックを買い、かなり調べた積もりだから、気分だけはすっかり谷中専門家になっている。知ったことは言い触らしたい、知識はひけらかしたい。三澤講釈師の向こうを張って、私も今日は講釈を垂れても良いんじゃないか。宗匠にはまた叱られそうだが、今回の作文は今まで以上に長くなるのを覚悟してもらいたい。

   谷中に初めから寺が多かったわけではない。もともとこの地には鎌倉時代創建の感応寺(現・天王寺)のほかには、寛永寺の子院がいくつか存在しただけだった。慶安年間(一六四八〜五一)神田再開発によって神田の寺院が、更に明暦の大火で消失した江戸府内の寺院の多くが移転してきたことで、現在のような寺町を形成した。
 寺町だから昔から落ち着いた静かな町だっただろうと想像してはいけない。かつては江戸庶民行楽の地として賑わった。諏訪台のあたりは古く新堀村といったが、高台からの眺望は「日の暮るるを忘るる里」といわれ、日暮らしの里と称された。雪月花を愛で、薬草採取や虫の音を楽しむ庶民が多かった。
 谷中のはずれ(今の谷中六・七丁目付近)には「いろは茶屋」と呼ばれる岡場所もあった。四十七軒並んでいたからだとの説があるが、当然「色」にかけてある筈だ。茶屋といっても喫茶店のことでは勿論ない。出会い茶屋、待合茶屋などと称するが、要するに売色を専門とする。杉浦日向子が上野不忍池の出会い茶屋を描いて上手い説明をしてくれる。「玄関を入ると、細い廊下ぞいに、ヨーカンでも切るように小さな部屋が襖で仕切られている。どの部屋も池に面しており、三畳から四畳半という狭さ。違い棚には、木枕が二つ、のっかっている。要するに、そういうところなのである。」(『江戸アルキ帖』)
 「武士はいや町人すかぬいろは茶屋」「簾から衣のすそをつかまえる」。いろは茶屋の常連客は坊主だった。
そういうのではなく、喫茶店のイメージに近いのは、笠森お仙が働いていた水茶屋のほうだろう。神社仏閣の境内に店を構えて、参詣客に安い茶を出した。水茶屋は看板娘を抱える店が多く、美人を目当てに多くの江戸人が集まった。
 そして何より、寺参りは江戸人にとって最大の楽しみだった。開帳、縁日、見世物、勧進相撲。人集め(つまり金集め)のために寺院は様々な興行を催したが、最も人気の高かったのは富籤だ。『御慶』では八五郎が千両籤を引き合てるが、勿論千両なんてことはまずない。天保の改革で禁じられるまで、江戸各地の寺院で行われたものだ。特に感応寺は目黒不動、湯島天神と並んで江戸三富に数えられ、最も繁盛した。

 戊辰の上野戦争で寛永寺に立て篭もった彰義隊が、敵の圧倒的な火力の前にあっさりと負け、火を放って敗走したため、谷中の町屋、寺院の多くが焼けた。維新後、一万石を領した寛永寺はその敷地の大半を上野公園に取られ、天王寺も広大な境内を谷中霊園として供出させられ、かつての栄光を失った。しかしその他の寺院はすぐに再建された。地盤の強固な高台だから関東大震災にも無事で、空襲も免れた。戦後の大開発の波にも晒されず、江戸明治の町並みが良く残っている。
 こんな谷中は下町か。ある雑誌には「東京の下町の風情が今も息づく町として最近注目されているのが、谷中・根岸・千駄木だ」と書かれているし、私が下調べのために買ったガイドブックにも「下町散歩」として谷中が紹介されているから、谷中は「下町」だと断言して良いか。しかし、両国区日本橋に生れた小林信彦が反論する。「谷中や根津には、江戸、あるいは古い東京の匂いが残っている。だからといって、ここを〈下町〉などといわれては困る。れっきとした〈山の手〉である。」(『私説東京放浪記』)生まれ育ったわが町を空襲で永久に滅ぼされてしまった下町人は、あくまでも拘る。地方出身者の私には、それを判定する資格がない。下町は難しい。


 改札口を出て左側の紅葉坂を見上げれば「天王寺毘沙門天」の石柱が立っている。今日のコースはここから始まる。
 山門をくぐればすぐに目に付くのは丈六の釈迦仏だ。「何か喋るんだろう」と会長が促すので、私は勇んで説明する。丈六とは一丈六尺(約四・八メートル)の立像を言う。坐像の場合は、立ったときの身長は座高の二倍になる筈だとの理屈をつけて、八尺で良い。この寺の釈迦は坐像だから、実際には八尺ということになる。深川霊巌寺でお目にかかった江戸六地蔵第五番のお地蔵様も、坐像の丈六だった。「仏像の大きさは、これに比例するんだろうか」と江口さんが聞く。私は仏教の素養がないからはっきりは言えないが、お釈迦様の身長が一丈六尺だと言われ、その倍数、約数で造るのが仏像制作の基本だという話を何かで読んだことがある。
 天王寺は鎌倉時代に創建された元日蓮宗不受不施派の古刹で、長耀山感応寺と号した。日蓮宗では、他宗の信者、未信者は「謗法の人」(邪教)と見做す。これらの者からの供養・施物は一切受けず(不受)、他宗の僧には布施をせず(不施)というのが、不受不施義であり、日蓮以来の宗法になっている。近世大名権力の強大化に連れ、そんな教義は国主の支配に服さないという理屈だから、たびたび弾圧にあった。文禄四年(一五九五)、方広寺大仏建立に際し、秀吉が仏教各宗派に供養会出仕を命じたが、宗門内部は、出仕する派(受不施派)と、出仕せず派(原理主義過激派としての不受不施派)とに分かれて対立した。やがて焦点は、国主から寺領を授かることと、不受の原則とはどう折り合いがつくのかという問題に移る。身延山久遠寺派と池上本門寺派との論争を経て、ついに寛文年間(一六六一〜七二)、徳川幕府は不受不施派を禁圧し、多くの僧が流刑に処された。感応寺の一派は、寺領は国主から受けたものではなく、悲田供養(仏による慈悲)だとの解釈で延命を画策したが(これを悲田派という)、元禄十一年(一六九八)、それも弾圧される。不受不施派は明治になって公許されるまで、隠れキリシタンと同じく地下に潜った。寺は強制的に天台宗に改宗させられ、東叡山に属すことになる。更に天保四年(一八三三)、名も「護国山天王寺」と変えられて現在に至る。谷中には別に感応寺が現存するが、これは神田から移転してきたもので、「神田感応寺」と呼んで区別する。
 看板の毘沙門天は毘沙門堂に安置されている。覗き込んでみたが、暗くて良く分らない。谷中七福神のひとつだ。太田蜀山人が撰んだ隅田川七福神のほうが有名になったが、こちらの方が古い。一時廃れたが、最近また七福神はブームになっているようだ谷中七福神を数えれば、北から、田端東覚寺(福禄寿)、日暮里青雲寺(恵比須)、日暮里修性院(布袋尊)、谷中天王寺、谷中長安寺(寿老人)、上野護国院〈大黒天〉、上野不忍池(弁財天)と並ぶ。

 ところで七福神って何者か。これまでほとんど関心がなく、それで何の不都合もなかったのだが、この機会に調べてみました。漠然と、道教みたいだと思ってはいたが、これが色々あるのです。私たちが当面する谷中とは直接関係ないが、調べてしまったのだから仕方がない。
まずインドから三人(人ではなく神か)を連れて来た。毘沙門天はヒンドゥーの古代神で仏教に帰依した。多聞天とも言い四天王中最強を誇り、北方の守護に当たる。戦いの神としてわが上杉謙信も信仰した。大黒天は破壊と救済の暗黒神シバの化身だが、大国主命と習合する。「大きな袋を肩にかけダイコクサマが来かかると」と因幡の白兎も歌っている。弁財天は聖なる河の女神だから水に関係する。
中国も三人。布袋尊は後梁時代(九〇六〜九二一)の禅僧、名は契此(カイシ)と言う。放浪を好み、その袋には喜捨を入れてあるという説、堪忍袋だという説がある。寿老人と福禄寿は道教出身で南極星、老子の化身とも言うから、どうやら同一の神らしい。
残る恵比須が謎に満ちている。折れ烏帽子、狩衣指貫の姿から日本人だと推測はつく。釣竿と鯛を抱えているのはエビで鯛を釣る洒落か。岩波国語辞典では第一義に、大国主命の子で「事代主」であるとの説を掲げる。ところが異説があって「蛭子命」であるというのが第二義に挙げられている。この蛭子が怪しいのだ。大槻文彦『言海』の「えびす恵比須」の項では、事代主には一言も触れずに「イザナキ、イザナミ二尊ノ第三子ニテ、海外ニ放タレシカバ、夷(エビス)三郎ト称スルナラムトイフ。俗に摂津ノ西ノ宮ノ蛭子(ヒルコ)の神、夷三郎トイフ」。となれば関西の「戎」も同一神になるが、東夷西戎南蛮北狄と言うように、夷も戎も、中華思想では化外、人外の異族を意味する。
そして「ひるこ蛭子」の項になると、これがイザナキ、イザナミの第一子になってしまう。大槻文彦にしてこの矛盾した記事を残す。古事記では、契り終えて初めにイザナミが声を上げたので「女人先に言へるは良からず。と告げたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき」とあるから、第一子説が正しいと考える。岩波文庫版の注(倉野憲司)によれば「ひるのような骨なし子の意か」とある。これがどうして福の神に変身してしまうのか。
 不具も含め、「欠けているもの」あるいは「過剰なもの」、尋常ならざる者に神は宿る。太古、精錬に関係する種族には目を傷つけるものが多かったが、これを天目一箇神(アマノマヒトツノカミ)と畏れた。後、信仰が揺らぐ時代になれば、音読みして目一箇神(メッカチ)に転じていく。奉祝人(ホカイビト)が堕落すれば「ホイト」(乞食)になるが、乞食だって、聖なる者(ヒジリ)と呼ばれた時代もあるのだ。海のかなたに追放された神がやって来るのは、貴種流離譚かマレビト信仰でもあろうか。私の乏しい知識では想像するだけで結論は出ない。

 山門を出ればすぐに谷中霊園だ。天王寺墓地、寛永寺墓地を合わせ、明治七年東京府の公営墓地になった。幕末維新期の著名人の墓が多く、案内図がなければ到底すべてを探すことはできない。私は下見のときに霊園事務所で手に入れた。声をかけても誰も出てこないから黙って持ってきたのだ。交番でも別の案内図をくれるのは、今日、三澤さんに教えられて知った。
 ウコン桜の説明を読んで、桜通りを歩けば五重塔跡に着く。標柱を囲って案内板を出している。在りし日の写真もある。高さ十一丈二尺八寸(約三十四メートル)は関東一高い塔だったが、昭和三十二年、心中者の放火によって失われた。
 長谷川一夫の墓に花が供えてあるのを見て、「誰が供えてるんだ」と池田さんが疑問を投げる。「ファンがいるんでしょう」「もう年寄りばかりだろう。長いことないな。」この人は、自分も年寄りと呼ばれておかしくない年齢だという自覚がない。さすがに三澤さんは詳しい。甥がいるのだそうだ。

 事務所の筋向いには、雲井龍雄、川上音二郎、高橋お伝の三人が並んでいる。
「雲井龍雄君之墓」と刻まれた龍雄は米沢藩士。藤沢周平に、郷里山形県から維新に関係した二人を主人公とした作品がある。一つは清川八郎を主人公にした『回天の門』、もうひとつが龍雄を描いた『雲奔る』だ。東北戦争では列藩同盟側の情勢判断はことごとく狂った。東北人の素朴な筋論だけでは、最初から会津庄内の絶滅を企図した西軍の権謀術数の前に為す術もない。龍雄は悲憤慷慨の人だが、やはり情勢判断を誤って悔んだ一人だ。維新後反政府(というより反薩摩)の陰謀を企てたとして捕えられ、明治三年小伝馬町の牢屋敷で斬首になった。二十七歳。斬ったのは十七歳の山田浅右衛門(八代吉亮)。首は小塚原で梟された後、回向院に葬られたが、後米沢出身の山下千代雄が掘り出して頭骨はここ谷中に、毛髪は郷里米沢に、それぞれ改葬して墓が建てられた。

川上音二郎碑の脇には小さな写真が立てられている。「貞奴さんってきれいですよね」「そうそう美人だよ」「芸者だったね」。この人たちには音二郎より夫人の方の人気が高いが、「オッペケペ節」は演歌の源流のひとつだ。
自由民権運動の壮士が、演説の代わりに、パンフレットを売るための手段として歌ったのが「演歌」で、壮士節とも言われた。ただし川上は新派の祖でもあるから、その歌は政治的な主張というよりも、名を売るための手段だったような気がする。
流行歌の歴史を辿れば、レコード歌謡曲以前の明治大正の流行歌は全て「演歌」と言われる。初め政治的主張や抗議をテーマにしていたものが、やがて色恋や悲哀を歌い、後世「艶歌」と呼ばれるようなものに変質していった。なんだか、そんな歴史を私たちは同時代に知っているような気がする。フォークソングが四畳半フォーク、ニューミュージックとなり、やがて今ではJポップなどと言われている経緯に似ていないか。明治の演歌師唖然坊は、堺利彦や荒畑寒村の平民社に関係していたから、自由民権運動の最良の部分を継承したのは初期社会主義だと私が判断する根拠にもなる。

高橋お伝は明治九八月、年日本橋の古着屋後藤吉蔵を殺害。十二年一月、市谷の刑場で浅右衛門によって斬首された。
「ちょん切っちゃったんだよね。」平野さんはどうやら阿部定と勘違いしている。阿部定は二・二六事件の頃の人です。「東大に保存してあるんだ。」やっぱり三澤さんが言うと思った。異常な形状がお伝の性格と性生活に大きく影響を与え、それが犯罪の原因になったと当時の未熟な科学は考え、わざわざ解剖してホルマリンに漬けた。
江戸から続く明治のメディアの猟奇、煽情好きが、お伝をこれほど有名にした。今ではそれほど大騒ぎするほどの事件ではない。現代はなんでもありの時代で、この程度の事件ならばすぐに忘れられてしまうほど、耳を疑う事件に満ちている。仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、岡本勘造『其名茂高橋毒婦廼小伝』などの小説の他、新聞も舞文曲筆、虚実取り混ぜて報道したという。『お伝地獄の唄』(藤田まさと詞、大村能章曲)というのが昭和十一年になって作られている。こんな歌は誰も知らないだろうね。私も知りません。昭和三十五年にも京マチ子主演の映画があるというから、お伝の人気は息が長い。
花井お梅は『明治一代女』に歌われるし、もっと遡れば八百屋お七だってヒロインになっている。日本人はこうした罪を犯して刑死した女が好きなのだね。これは一種の御霊信仰ということになるか。墓の裏面には大勢の人名が刻まれている。
「稀代の毒婦にお伝を仕立て上げた仮名書魯文も、さすがに気がひけたか自ら発起人となって、お伝を芝居や講談で飯の種にした人々、守田堪弥、市川左団次、尾上菊五郎などの俳優や、講釈師・桃川燕林、田辺南鶴、人情噺の柳亭燕枝、春風亭柳枝、三遊亭円朝らから醵金を集め、それまで監獄墓地に埋められていたお伝を、その三周忌に、台東区の谷中墓地へ改葬し、小川市太郎が施主となって盛大な供養が営まれた。」この引用も含め、お伝関連は全て西沢爽『雑学艶歌の女たち』による。小川市太郎というのは、お伝の愛人だ。
ここでひとつ、保留しなければならない問題が発生した。「浅右衛門の最後の仕事だったんだよね」と三澤さんが念を押してきた時、私は西沢の著書に拠りかかって、「違うと思うよ」と答えた。西沢の上掲書では、「斬首刑が廃止されるのは明治十五年一月からである。お伝斬首が浅右衛門の最後の仕事であるとする説が多いが、お伝斬首から三年後に斬首刑廃止となるから、この説は信じ難い」と書いている。ところが、ネットで斬首刑を検索すると、あるページでは、明治十三年に刑法・治罪法の改正によって斬首刑が廃止。お伝の斬首が最後の斬首刑だと書いている。どちらも典拠を明示していないから、私には判断がつかない。私が持っている『年表日本歴史』第六巻(筑摩書簿)には何の記述もないから、とりあえず手持ちの資料では分らない。保留ということにさせてもらいたい。

徳川最後の将軍の墓所は塀で囲まれ入ることができない。私自身は、慶喜を敵前逃亡者と断定しているから興味がない。
塀の外に勝精伯爵・妻伊代の墓。慶喜の十男で海舟の養嗣子になった。海舟の息子小鹿は早く死に、その娘伊代がその妻だ。伊代が三十四歳で没した後、精は妾と心中し、勝家は絶えた。(西沢爽『雑学明治珍聞録』)

ここから交番でもらった地図を片手に、会長が先頭に立って精力的に歩き回る。しかし寒いね。すぐにトイレに行きたくなる。新井さんが前立腺肥大のことを話題にし、「尿道が圧迫されるんだよね」と平野さんも応じて、男どもが盛り上がる。泌尿器系のことは男にとっては大事な問題だ。そんな話を耳にして村田さんが困惑する。
警察が作った手書きの地図はずいぶん大ざっぱなもので、あっちゃんが「私が描いたみたい」と笑う。事務所でもらった精確な地図も参照しながら探して歩く。それぞれ収録してある人名が違っているから、両方を見なければならないのだ。ときどき雨が落ちてくるがすぐに止み、この分ならば大したことはなさそうだ。ただし気温が上がると言う予報を信じて、薄着をしてきた私は後悔している。

「大名の墓所があるんだよ」と、池田さんに連れて行かれたところは塀に囲まれ、「関係者以外立入禁止」の札が掛かっている。「大丈夫だよ」と言いながら門を開け、不法侵入したのは私と池田さんだけで、他の人は遵法精神に富んでいるから外で待っている。二百坪ほどの広さだろうか、正面に阿部正弘墓があり、奥の方は確かに阿部一族のものだが、手前半分ほどは新しく別の家の墓になっている。「金がないから売ったんだよ。」そうかなあ。
阿部正弘は日米和親条約を締結したことで、尊攘派の恨みを買ったが、既に攘夷思想は理論的に破綻している。理屈がどうあれ、幕府を困惑させ主導権を握るのが連中の目的だから、対応する幕府も大変だった。阿部正弘は当時の大名にしては傑出した人物だろう。幕府に人がいなかった訳ではない。優秀な官僚もいて、外国使節との交渉に命を削った。しかしそれぞれが孤立して存在し、有機的に機能させる組織、体制が作れなかったのだ。(綱淵謙錠に『幕臣列伝』があり、これを読むと、誠実な幕府官僚の苦労が分る)柔軟性が失われていた。もっともアンシアン・レジームが崩壊するときは、みな同じ状況になっているに違いない。
播州酒井家の墓。池田さんは前橋でも酒井の墓を見ているから、ここで発見したのが意外で、理由を追求しようとする。酒井家は、徳川氏の祖とされる松平親氏の子広家に発する。大老を輩出する名門で、上州厩橋(前橋)を所領とした。天和以来窮乏化した財政の回復を計ろうと、九代忠恭が姫路移封を幕府に請願する。上州と較べれば、商品経済も発達している播州のほうが経済的に有利なのは間違いない。寛延二年(一七四九)姫路十五万石を与えられて移封したから、これで姫路と群馬がつながった。池田さんの推測はこうだ。「九代から十五代まで墓は前橋にある。あるいは側室や死んだ子供の供養のため、前橋に墓を作ったのではないか。つまり徳川家への忠誠を表すには、徳川家の墓のある谷中墓地にも酒井の墓を作ることで二心無いことを証明させたのであろう。」この辺、私は知識がないから判断できない。
歴代将軍の側室の墓を集めたところは、再開発に入っているのだろうか。由緒有りそうな古い墓石がひとかたまりに集められていて、ブルドーザーで整地したような跡も見える。「こういう場所は歴史景観としてきちんと保存しないと駄目なんですよ」生態系越谷支部長は憤慨する。

馬場辰猪、孤蝶兄弟の墓が並んでいる。樋口一葉の日記の読者には、孤蝶の名は馴染みが深い。「坐するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたゝえられし兄君辰猪が気魂を伝へて別に詩文の別天地をたくはゆれば、優美高傑かね備へて、をしむ所は短慮小心大事のなしがたからん生まれなるべけれども歳はいま二十七、一たびおどらば山をもこゆべし」(『日記』二十八年五月十日)と一葉に評された。一葉没後、全集刊行を企図した齊藤緑雨も死んだ後、孤蝶が努力して実現させた。
獅子文六墓を見たいと言ったのは、あっちゃんだ。『悦っちゃん』(わが父親を「ロクさん」と呼ぶ少女の物語だったよね)が愛読書で今でも本棚にちゃんと入っているという。彼女の読書歴と趣味は不思議な道筋を辿っている。私がそれを読んだのは中学生の時だから、もう四十年以上前のことだ。画伯はさすがに『てんやわんや』を知っている。四国独立騒動にまつわるテンヤワンヤ。このモチーフは後の井上ひさし『吉里吉里人』に繋がっていると思うのだがどうだろうか。
実は私もここは見たかったのだが、いまどき獅子文六に興味ある人などいないだろうと、口に出しかねていた。文六が戦時中、たった一度だけ本名の岩田豊雄名義で発表した小説がある。私の名前は、その『海軍』の主人公によるのだ。谷眞人、真珠湾攻撃における特殊潜航艇の乗員で、軍神とされたものをモデルにした。体質的に軍国主義とは肌が合わないはずの文六にしては、時局便乗小説と言われても仕方がないと思うのだが、中学生私はこれを読んで感動しました。墓は思いのほか小さく、「岩田家の墓」と刻まれているだけだが、立てかけてある塔婆の一本に「獅子文六岩田豊雄」と書いてある。

甲号、乙号を行ったり来りしたから順番が分らなくなってしまった。大原重徳(私は知らなかったが、尊攘派の公卿)、稲垣浩(映画監督イナカン)、中村正直(『西国立志篇』の翻訳)、春日野(これは栃錦を探していて見つけたものだが、栃木山だった)、渋沢栄一、伊達宗城(宇和島藩主。私はムネキと思っていたが、ムネナリが正しいようだ)、鳩山一郎、横山大観、小野梓(大隈重信の盟友で早稲田大学創立に尽した)。
もう縁者もいなくなっただろう無名の人の墓は、どんなに立派な墓石でも路傍に追いやられてしまっている。こういう墓を見るのはちょっと辛いね。大事な人を失って、どれだけ記憶し思い続けることができるか。生きている者にできるのはそれしかない。
しかし、これではきりがない。こんな調子で探していれば一日かけても終わらないだろう。「二日はかかるよ」三澤さんが言う通りだ。私の作文もこれではなかなか前に進まない。時折降ってくる小雨の中をおよそ一時間半歩き、そろそろ昼を過ぎてきた。「佐佐木信綱を探そうか」と言う池田さんに、私は「いらない」と答えて皆に笑われる。三澤さんの提案で昼食は「川むら」の蕎麦と決め、駅の方に戻ることにした。雨が降る間隔が短くなっている。

通り道だから寄ってしまおう。長安寺には谷中七福神のひとつ「寿老人」と狩野芳崖翁碑がある。芳崖は天心、フェノロサと共に日本画復興に努めた。代表作に「悲母観音」がある。碑の傍らに十六羅漢。板碑に刻まれている建治二年(一二六七)、弘安八年(一二八五)などの年号は蒙古襲来の頃のものだ。「蒙古?それは弘安だよ」と三澤先生の知識は正しい。
旧町名「初音町二丁目通り」の案内板。歩いていると「花へんろ」、「薬膳カレーのじねんじょ」など、ガイドブックで紹介される店が現れる。禅寺の門前に「山門不幸」と大書された立て札を見つけ、どういう意味だろうと悩んでいると、三澤さんが中に入って聞いてくる。去年、住職が亡くなったのだそうだ。だから「喪中」の意味を表す。
朝倉彫塑記念館は食後と決め、御殿坂にある「川むら」に入る。ちょうどタイミングがよかった。私たち八人が席に就いたあと、次ぎに来た客は席が空くまで外で待たなければならなかった。ビール二本。鴨南蛮は千百円。麺が細くてツルツルしているのが特徴で、私にはちょっと物足りない。三澤さんは東京中の蕎麦屋と知り合いなのだろうか。ここでも店の女性と何か親密に語り合っている。食べ終わった会長がすぐに勘定をまとめて集めているが、まだ村田さんは食べ終わっていない。これではゆっくり食べられないだろう。六人と二人にテーブルが分れているからはっきり見えないが、どうやら途中で箸を置いてしまったようだ。可哀そうな村田さん。私たちと付き合うためには神経が太くなければいけない。
店を出ると小さな招き猫の置物を売っている店があり、ちょっと立ち止まる。三澤さんは柄にもなくこんな小物が好きだ。ここで女性二人は何か買ったのだろうか。佃煮屋を見ながら私たちが本行寺の前に辿りついてもまだ店の前にいる。

本行寺の山門の右には楷書で「本行寺」、左に草書体で「月見寺」と書かれた表札が掲げられている。蝋梅。狭い地所に群生させた細い竹。「孟宗?」「違うでしょう」。道潅物見塚碑。山頭火句碑「ほっと月がある東京にきている」、一茶句碑「陽炎や道潅どのの物見塚」。「一茶はどこにでも出没してますね」とあっちゃんが言う。
江口宗匠、何か一句をと頼むがなかなか出てこない。寒さのせいでで宗匠の感覚も少し鈍っているか。「俺はできた。」講釈師が「蝋梅や一輪ずつの暖かさ」と言った途端、宗匠は「うーん、なんと言うか、その」と苦笑いする。あっちゃん「それって本歌取りにもなってませんよ。」画伯「盗作はいけないね。」会長「ホント、酷いよ。」一羽の小鳥が舞い上がる。雀だろう。「雀じゃないよ、めじろだよ」と三澤さん。
その場で披露しなかったのは、勿体振ったのだろうか。宗匠はちゃんと自分のホームページに公開している。
「蝋梅や 句をせがまれて 狼狽し 」「山茶花や 一茶の読みし 物見塚」「寺巡る 酔狂人や 寒の雨」
経王寺の山門には上野戦争時の弾痕。大黒天もあるが、なぜか谷中七福神の仲間に入れてもらえない。「だからさ、誰が決めたか知れないが、結構好い加減なものなんだよ」と池田さんが断ずる。

朝倉彫塑記念館の入館料は四百円だ。池田さんが質問しようとしたが、老人割引はない。近代日本の芸術家は貧乏と相場が決まっているが、ここを見る限りとんでもない。とてつもない例外がいた。朝倉文夫は明治六年(一八八三)大分県竹田に生まれ、三十六年、東京美術学校に入学した。卒業後谷中に住み、八十二歳で没するまでおよそ七百点近い作品をこの地で制作した。この建物は昭和に入ってから七年かけて大改築を行い、昭和十年に完成したものだ。最初に入ったアトリエは、三階の部分まで吹き抜けになっているから天井がやたらに高い。「墓守」天王寺の墓守をモデルにしたというが、顔はバタ臭い。あの頃の日本人の顔では絶対にない。大隈重信。あっちゃんが猫を見つけて喜び、「横浜のオサラギ・・・」と言いかけると、すかさず「大仏次郎記念館にも猫が一杯いるよ」と講釈師が説明する。本当に何でも知っている。書斎には建築史や美術史の洋書が並ぶ。高そうなものはないかと、会長は昔の仕事を思い出す。ざっと一億だと断言するが、私の見たところでは精々一千万、たぶん数百万程度ではないだろうか。案内のおじさんに聞けば、これは朝倉の恩師(岩村透。北越戦争で土佐の軍監だった岩村高俊の息子)の蔵書で、その没後古本屋に売られていたものを、散逸を恐れた朝倉が買い取った。窓から見える庭。巨大な石。この石だってどれほどの金額か。池の面を雨が激しく叩いている。
二階、三階と上に上ればますます驚く。「吊るされた猫」など猫だけを並べてある部屋は、もともと蘭を栽培していた温室だったそうだ。外壁の一部に排水のための穴が開いている。朝陽の間の、一枚ケヤキから作り出した巨大な丸テーブル。天井は神代杉。本当にどれだけ金があったのだろうかと、私たちは何度も溜め息をつく。雨のために屋上に上れないのが残念だ。

雨は止みそうにないが、観音寺の築地塀を見るために、さっき来た道を少し戻る。土塀の前に立つと、ちょっと時代感覚にずれが生じる。そこだけを見ればまさに江戸時代だ。「ここを忍者が、こんな風に」と講釈師が身振りをする。瓦を積み上げ、土で固めたものだろうが、高さはそれ程ではない。台東区の公式ホームページでは、高さ約二メートルとあるが、私の見た感じでは精々一・五メートル位ではないか。いずれにしても、これなら忍者でなくても、若くて元気な頃の私だったら、よじ登ることはできただろう。
気がつくと平野さんがいない。「どうしたんだ、あの親父」と三澤さんの毒舌が始まる。「親父」と言っても、平野氏、三澤氏は同い年ではないか。さっきまでは確かに後にいた。「ちょっと立ち止まっていましたよ」と江口さんが記憶を辿る。腰が痛くなったのか、彫塑記念館に忘れ物でもしたのか。会長が彫塑記念館の方まで戻ってみる。暫く前を見たり後ろを振り返ったりしていると、やっと姿が見えた。何か小物を売る店を見つけ、ちょっと覗いているうちに、私たちが築地塀に曲がったのを見過ごして、真っ直ぐ通り過ぎてしまったのだ。「平野さん、養護ホーム行きだな」と会長も意地悪を言う。
延命院には樹齢六百年のシイの古木。地面から一メートルほどの部分を見れば、この木は既に朽ち果てているのではないかと思えるが、上をみればちゃんと緑の葉がついている。七面宮の掲額。武江年表に慶安元年(一六四八)「谷中延命院、七面宮勧請」とある。「七面宮って何だ」会長の問いには、私が既に調べてある。身延山の神体は七面大明神(七面山)で、もと修験に関係する(真言密教と関東の修験が習合したらしい)が、日蓮が久遠寺を建てて以来、法華の象徴になった。
意外なことに「八百屋お七」がここに関係する。その名は谷中七面宮に因んで名付けられたのだ(武江年表)。お七が火刑に処せられたのは天和三年(一六八三)三月二十九日。前年十二月、駒込大円寺に放火した罪による。

雨はさらに激しくなってきたが、私たちは諏方神社を目指して経王寺の土塀に沿って歩く。諏方神社は慶安二年(一六四九)造営された。「諏訪ではなく諏方で、町の者たちは、お諏方様と呼んでいた。(中略)太田道潅が社領五石を寄進して日暮里と谷中の総鎮守にした神社で、神主は日暮(ひぐらし)という姓である。」(吉村昭『東京の下町』)。
「諏方神社って、子供の頃ラジオ体操をした場所だよ」と池田さんが思い出す。しかしこの雨はどうだろう。土砂降り状態になってきた。それに寒さも厳しい。ちょっと休憩しようよと三澤さんが提案すると、運良くあっちゃんがログハウスを見つけた。村田さんは「これ以上無理です」と、ここで別れる。無理もない、私の靴もびしょ濡れで足が冷たい。女性にはきついだろう。雨の寺町も風情があるなどと、昨日の私は甘いことを思っていたのだった。今、私たちは難行苦行の世界に入っている。ここまで付き合ってもらったが、ご苦労様でした。
「シャレー・スイス・ミニ」。フランス語のようだ。カフェ・スイスとかなんとか、訳の分らない名前をつけているが、普通のホットコーヒーだ。熱いコーヒーは嬉しい。あっちゃんがケーキのようなものを注文した。「さっき蕎麦を食ったばかりじゃないか」「だって皆さんは鴨南蛮だったのに、私は山菜蕎麦だからカロリーが足りない」。私も一切れ勧められたが断った。池田さんがつまんで「旨いよ」と言いながら店内を歩き、「変わったパンを見つけた」と言って注文した。ちょっと千切って貰ったが、はっきり言って不味い。昔、小学校の給食に出たコッペパンのように、堅くてパサパサしている。それに少し粉っぽいような気がする(私は味覚に関しては全く自信がない。もしかしたら、これは大変旨いのだと言われるかも知れない。)平野さんと新井さんは今夜放映されるテレビドラマ『氷壁』の話をしている。平野氏は事件の現場に登った経験がある。二、三日前から話題になっているのだ。
一時間ほど休憩して体が温まった。少しは小降りになったかと外に出てみれば、まだ駄目だ。さて、どうしようか。私が考えたコースはまだ途中だが、とても回りきれない。計画が杜撰ですね、地図上の距離だけで、見学の所要時間を計算にいれていない。
子規庵に行きたいとあっちゃんが言うが、江口さんは笠森お仙に会いたいと言う。わざわざお仙の錦絵をプリントしてきているから、熱がこもる。「葉隠」の国に生れた美男は江戸の美女に恋をしている。今日の江口さんは風邪でもひいているのだろうか、目が潤んでいるように見え、そのせいか、江戸の若旦那のような雰囲気だ。それでは大円寺を通って子規庵に向かおう。

目の前にある浄光寺と諏方神社は止めたが、下見の後に調べたことがあるから、ここで書いておく。(知識をひけらかしたいと、最初に断っているからね)浄光寺の地蔵は江戸六地蔵の三番となっている。実は江戸六地蔵には二つの系統があった。ここにあるのは、「始めの六地蔵」と言う。あまり有名ではない。八尺の立像で、元禄四年「慈済菴空無上人、勧化して造る処の金銅立像の六地蔵尊開眼ありて、江戸六所に分つ」。「是を始の六地蔵といふ也」(『武江年表』)。一番・瑞泰寺(向丘。昭和六一年再建)、二番・専念精舎(千駄木。当初より)、ここが三番・浄光寺(西日暮里。文化十年再建)、四番・心行寺(現・府中市紅葉丘。もとは池之端にあったもの)、五番・福聚院(現・上野公園。地蔵は消滅)、六番・正智院(現・浅草。地蔵は消滅)。
そしてもうひとつ「後の六地蔵」がある。深川の沙門正元が病にあって発願し、宝永五年(一七〇八)から享保五年(一七二〇)にかけて、江戸中から寄付を募って造立した。正元の依頼で神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀(随分仰々しい名前だ)が六体の丈六金銅地蔵を造り、江戸鎮護のため六街道の出入り口に安置した。南品川品川寺(東海道)、浅草東禅寺(奥州街道)、新宿大宗寺(甲州街道)、巣鴨真正寺(中山道)、深川霊巌寺(水戸街道)、同じく永代寺(千葉街道)。
永代寺が明治になって廃寺になったため第六番目は消滅した。ところが、言問通りを挟んで寛永寺の筋向いにある浄名院が第六番を称しているのだ。日清日露の戦没者慰霊のため地蔵を造ったものだが、六街道とも関係ないし、鋳物師太田駿河守とも関係ない。笠の形も他の地蔵とは違っているようだ。これは詐称ではあるまいか。

富士見坂は通らずに経王寺まで戻って右に曲がり、夕焼けだんだんの手前から斜め左に坂を下る。そう言えば松下さんが「私は夕焼けだんだんから見る景色が好きです」と言っていた。「ここはなんという坂だ」と池田さんに聞かれ、ちょうど良い具合に説明板を見つけた。「七面坂」。日暮里に住んでいて小学生の頃空襲にあった池田さんは、この近くに逃げ込んだ。線路の東側は空襲にあったが、こっち側は、「空から見れば墓ばっかりだから、アメリカも放っておいたのさ」と池田さんが断言する。「七面堂」に突き当たって左に曲がる。
岡倉天心記念公園。旧日本美術院と天心の自宅跡だが、小さな児童公園に過ぎない。六角堂に天心坐像を覗いただけで、ここはおしまい。「よみせ通り診療所」という看板を見る。「よみせ通りって、正式な地名ですか、通称ですか」とあっちゃんが聞くが私には答えられない。ただし、よみせ通り商店街は、もう一本西側の通り、谷中と千駄木の境を区切る道になっている。

三崎坂に出ると正面には谷中小学校がある。大名屋敷風という建物で、大名時計を模した時計塔を見ながら右に曲がると大円寺の入口だ。「当年、笠森稲荷境内水茶屋の娘を笠森おせんとて、大に評判たかし」(「武江年表」安永六年(一七七七)の項)。
「女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大州に知れ渡るもの錦絵と吉原なり、笠森の茶屋かぎや阿仙春信が錦絵に面影をとどめて百五十有余年嬌名今に高し。今年都門の粋人春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。時恰も大正己未夏六月 鰹のうまい頃 荷風小史誌」
荷風撰述の碑を見ていると、「雨の中、せっかく参拝に来て戴いたから、ちょっと説明してあげましょう」とジャンパー姿の老人が現れた。住職だろうか。参拝というよりお仙への興味だけなのですが。「本堂が二つ並んでいるのは珍しいのですが、皆さんはどちらから先にお参りしますかな。」言われてみると確かにそうなっている。たぶん何も考えずに、即座に「右」と三澤さんが答えると、住職が笑って、右はカサモリ稲荷、左がこの寺の元々の本堂だと教えてくれる。稲荷は境内の片隅に小さく存在していたのだが、明治の廃仏毀釈にあって、稲荷神社を全面に押し立てれば寺は無事だと、立派な稲荷の本堂を作って、つなげたものだ。
「瘡守」の文字を示して、本来は出来物、腫れ物に効験のあるお稲荷さんだと言う。お仙の水茶屋「鍵屋」があった笠森稲荷は、この寺から三丁ほど東に行って左に曲がったあたり、感応寺の中門にあった。後、笠森稲荷は他所へ移転し、その場所は今では功徳林寺になっているとのことだ。
『江戸東京歳時記を歩く・第三十七回・谷中大円寺を歩く』(長沢利明。柏書房ホームページに連載)によれば、カサモリの本来の意味はこの大円寺で見るとおり「瘡守」で、天然痘や性病治療として信仰されたものだ。それならば「笠森」は「瘡」の字を嫌って美称にしたものに違いない。お仙が働いていたのは確かにいま功徳林寺のある場所だが、その笠森稲荷は上野養寿院に移転した。功徳林寺は明治に創建されたものだが、そこにもまた新しく笠森稲荷を祭った。つまりこの付近に三ヶ所のカサモリ稲荷があることになる。お仙の碑建立に当たっては三田村鳶魚が、功徳林寺か養寿院が適当ではないかと反対した。こういうことは普通のガイドブックには書かれていない。
「そんなややこしい事情を調べるのは面倒だから、荷風先生、同じカサモリだから良いじゃないかと決めたようですよ。」住職は笑う。
「去年のことですが、上品そうな老夫婦がお参りにいらっしゃった。その奥様がおっしゃるには、実は私はお仙の子孫ですと。驚きましたよ。二百年以上経っているわけですから、子孫は数十人いるんでしょうが、その方は正系に近いそうで、なんでも秋月藩の武士の家だったと言います。」
 お仙は明和の三美人と称揚され、春信は何枚もお仙の姿を描いた。ライバルは、浅草の楊枝屋「本柳屋」お藤、浅草二十軒茶屋「蔦屋」お芳だ。今で言えばグラビアモデル、トップアイドルだが、お仙は人気絶頂の十九歳で突然鍵屋から姿を消し、武士(お庭番、伊賀者ともいう)に嫁いだ。十数人の子を生んで七十六歳の天寿を全うしたというから、その子孫が武士の家系にいてもおかしくはない。筑前秋月藩ならば、江口宗匠の国肥前佐賀とも近いではないか。
「その奥さん、美人でしたか。」住職は門の傍らの小さなプレハブの事務所に入って、自分とその夫人が二人で並んでいる写真を取り出して見せてくれた。よく判別はできないが、とりあえず美人だとお愛想をしておく。お礼を言って引揚げようとしたとき、あっちゃんに「これは美しい方に記念として」とお仙の錦絵のコピーをくれる。坊主も洒落たことをする。三澤さんが聞きだしたところでは、稲荷神社の神官は大円寺住職が兼ねている。

大円寺を出て右に行けば団子坂に至るが、私たちは左に向かう。どうせだから全生庵にも寄ってみる。山岡鉄舟が剣禅一致の道場として開基した。私は禅の悟りについてはなんだか胡散臭いものを感じる性質で、剣禅一如とか、無刀流などと言われても困ってしまう。海舟の慫慂によって、和平交渉のため西郷の元に赴いたのが鉄舟生涯最大の業績だろう。維新後天皇侍従となる。胃癌で死を目前にした時に円朝の落語を望み、円朝は泣きながら噺を演じた。翌日の明治二十一年七月十九日没。
三遊亭円朝墓にもちゃんと進路を明示した案内板がある。円朝が鉄舟に帰依したのは倅の不行跡で苦しんだ故か。この寺には円朝所蔵の幽霊画コレクションもあるそうだ。八月には円朝祭が開かれる。「円朝は聞いたことがないな」と池田さんが言うが、当たり前です。あの時代にテープレコーダーはありません。平野さんはこの頃、枝雀を聞いているそうだ。「あれも天才だよ、早く死んじゃったけどね。」
ひときわ目立つのが金色の観音で、この俗悪な金ピカ仏像が禅とどういう関係にあるのか私にはまるで分らない。
もう四時を過ぎている。「急がないと次ぎに入れないよ」と三澤さんの声に急き立てられる。この言い方は両国でも聞いたよね。少し行って右に曲がる。西光寺(藤堂高虎が朝鮮から「貰い受けた」とされる韋駄天がある。実は「略奪」ではないのか)、自性院(川口松太郎が、寺の愛染明王と本堂前にあった桂の木から、『愛染かつら』のヒントを得たという)、大雄寺(高橋泥舟墓)にも寄らない。

言問通りに出て鶯谷方面に向かえば昔風の建物が見つかる。旧吉田屋本店で、昭和六十年まで谷中六丁目で実際の生活が営まれていた。下町風俗資料館付設展示場として、ここに移設されたもの。明治中期の建築だが、一軒だけぽつんとあっても、あまり雰囲気が出てこない。トイレを借りようとしたがない。谷中墓地の入口のトイレで少しほっとする。この間、新井さんは奥様に電話をかけ、酒を飲んでも良いかと許しを求めている。「怖いのかな」と平野さんが呟く。「誰か万歩計持ってないかい」「江口さんなら持ってるんじゃないですか」
江口さんの万歩計は一万二千歩ほどを記録している。一歩がおよそ六十から七十センチという会長の計算では、七、八キロ歩いた勘定になる。朝、江口さんに今日の行程を聞かれて六キロ程度だろうと答えたが、地図を見て検討をつけた私の目算は随分いい加減なものだった。

寛永橋を左に降りるとそこはもう根岸だ。根岸と言い鶯谷と言うからには、江戸の郊外だったに違いない。大店の寮や隠居所、妾宅などに適した場所だったが、「根岸の里の侘び住まい」からは、はるかに遠く隔たった。ラブホテルが立ち並ぶ路地の一角に、子規庵だけが時を越えてきたようにひっそりと佇んでいる。明治二十七年から子規が住み、その死後も妹の律が住んだ家は空襲で焼失した。昭和二十五年、寒川鼠骨によって再建。庭の樹木は子規が病床から眺めて楽しんだものだが、これも復元したのだろう。
時刻は四時半。しかし既に門は閉められ「本日は終了しました」の札。四時で終わりだったのだ。残念がるあっちゃんは、写真を撮る。「ひとりじゃ来られないから、誰か誘わなくちゃ」なるほど、この界隈を女性一人が歩くのはちょっと勇気がいるね。
正岡子規は慶應三年(一八六七)九月十七日(陽暦十月十四日)松山に生れ、明治三五年(一九〇二)九月十九日死去、満三十四歳十一ヶ月。子規は刻苦勉励の人であった。精神の強い人であった。死を覚悟して脊椎カリエスの痛みに数年間耐え、最後まで生きたその姿は懦夫をして立たしめる、と言ってよいか。(しかし私は立てないな。とても無理だ)それが悲しい。そう言うと、子規は悲しくなんかないと、あっちゃんが怒る。私はほとんど言うべき言葉がない。少しばかり引用をするだけだ。
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事もできない。」「人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したような苦痛が自分のこの身の上に来るとはちょっと想像せられぬ事である。」(『病床六尺』)
絶筆三句。「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」「痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず」「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」。三句目をやっと斜めに書いて、筆を放り投げた。

あっちゃんは呆然と子規庵を眺める。降りしきる雨の中、未練に立ち竦む女というのは演歌の題材にならないか。普通、演歌のヒロインはリュックを背負ってはいないと思うけれど。
「寒いから早く行こうぜ」と三澤さんが急かす。どうも情感というものがないな。「こんなラブホテル街の真ん中に大勢で立ち止まっていたら、変質者と間違えられちゃう。」新井さんも「早く笹乃雪に行こうよ」と促す。奥さんの了解を得た新井さんはすっかり酒を飲む体制に入っている。

 それじゃ行こうと会長が号令をかけ、三澤さんはここで別れて鶯谷駅に帰っていった。私たちは「笹乃雪」に入る。しかしこのままでは座敷に上がれない。靴は川底を歩いたようになっているし、靴下も酷い状態だ。式台に腰を下ろして、靴下を脱ぎ、絞る。ズボンの裾も絞るほど水が滴る。下足番のおじさん二人がタオルを貸してくれながら、「皆さんのお役に立つのが私たちの仕事です」とお愛想を言う。あっちゃんはコンビニの場所を聞いて靴下を買いに走る。「美女がビジョ濡れだね」新井さんが下手な洒落を言う。下駄箱の空き具合を見ればそれほど混んではいないようだ。こんな日に出掛けてくる人は余りいないね。
 あんかけ、湯豆腐、焼き鳥。難行苦行からの無事生還を祝って、まず生ビールで乾杯。あんかけは暖かくて旨い。やっと人心地がついてくる。有名な店にしては料理の値段はそれほど高くはない。ただ酒の値段がすこし高いようで、私たちは一番安い白鹿にした。六本飲んで三本追加したとき、江口さんが焼酎にしても良いかと遠慮がちに言い、それならと、「いゝちこ」に切り替える。(今日は安い酒ばかりだが、楽しい仲間と飲むから旨い。)
「ボカー、だいぶ強くなったですよ」と平野さんが自慢する。確かに平野さんは寝なくなったよね。散々な天気だったが酒が入れば寒さも忘れる。こうして第三回目は無事終了した。次回は「本郷編」ということになる。