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    第三十回 御府内八十八ヶ所と逸話の地を訪ねて(中野編)
                        平成二十二年七月十日

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.07.17

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     「どうもどうも」久しぶりにロダンが笑いながら現れた。「やっと治ったんだね」ただ腰にはコルセットを巻きつけているので、完治したわけではないようだ。「やっと来たか。とっくに御隠れになったと思ってた」「そう言われるから来たんですよ」今日の講釈師の機嫌がいいのは、久しぶりにロダンの顔を見たからだ。ここは丸の内線中野坂上駅である。
     つい最近まで大阪で暮していて、五月から埼玉県人になったQ太郎さんが初めて参加した。おばけのQ太郎の意味だが、先輩に対して失礼だろうか。私はだいたい失礼な言い方が多くて申し訳ないといつも思っている。
     本日の参加者は、リーダーの宗匠以下、画伯、ハコさん、ロダン、チイさん、碁聖、Q太郎、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、若旦那夫妻、あんみつ姫、チロリン、クルリン、蜻蛉の十七人である。桃太郎は山に行っている。ハイジは息子の結婚式で休暇を取ったために、仕事が溜りに溜まってしまったから土曜出勤だとダンディに連絡が入ったようだ。カズちゃんはどうしているだろう。ハッシーは体調が良くないらしい。私もここ二週間ほど咽喉の調子が悪くてなかなか痰が切れない。皆さん、健康には注意しなければならない。
     今日のダンディは、細かなダビデの星を散りばめた帽子に不思議な文字をあしらったシャツである。「ヒエログリフでしょう」ロダンは何でも言えば良いというものではない。ヘブライ文字である。「アラブの人が見たらどうしますか」すぐそばで、アラブの人のような顔をして講釈師が睨んでいる。チイさんと姫のサングラスは少し怪しい。台湾マフィアの趣がある。「台湾ですか、香港だと思ってたのに」と姫はいささか不満を漏らす。台湾と香港とで、同じマフィアでも何か違うのだろうか。しかし私のサングラスも姫によれば相当怪しいらしいから、他人のことは言えない。

       地上に出て山手通りを西南に下る。「ずいぶん綺麗になったよ」「工事期間も長かった」「昔はさ、この駅で降りる奴なんかいなかったよ」中野に詳しい人たちはそれぞれ同じようなことを口にする。駅周辺には高層ビルが立ち、宗匠の企画する「逸話の地」なんて、本当に残っているのか少し不安を感じてしまう。むしろこの辺にはスナフキンが言うように無暗に学校が多い。東京工芸大学、実践女子中高、宝仙寺短大(というものがあるのですね、私は知らなかった)がすぐそばに見える。
     よしず張りのような雰囲気で、背の高い竹を並べた塀が延々と続いているのが珍しい。「料亭があるのかい」ドクトルが言う通りどこか和風料亭の趣なのだが、その竹塀の上の方に、大きな達磨の絵が描かれているのに気がつくと、すぐに中国風の山門が現れた。竜宮門と言う様式だろうか。一階部分が漆喰塗りアーチ型の通路になった二階建ての楼門である。多寶山成願寺(曹洞宗)。中野区本町二丁目二十六番。石柱には「中野長者開基」とある。
     境内には「中野長者物語」という横長の絵巻物風のものが掲示されている。私は『江戸名所図会』から引いてみようと思う。

    (前略)鈴木九郎某、本国紀州を出でて、その妻とともにこの中野の地に移り住みたりしが、後幸福を得てその家富み栄えたり。されども宿因にやありけん、一人の娘にはかに死して蛇形を顕せしが、舂屋禅師の法化によつて畜身を解脱し、上天することを得たり(十二所権現宮の御手洗池を蛇が池と唱ふるは、かの蛇の栖みたりしゆゑに、土俗かくは号くといふ。そのときの舂屋禅師の着せし法服、いまなほ当寺に伝ふ)。ここにおいて父母しきりに菩提心を発し、法喜受戒してみずから正蓮と改む。また居宅を壊ちて精舎となし、女の法名正観の文字をもつてその寺号とす。

     最初は娘の法名に因んで正観寺であったものが、後に成願寺と呼ばれるようになったのだ。娘が蛇身になったのは、「親の因果が子に報い」の類であり、長者になった鈴木九郎が非道を重ねた結果であった。更に中野長者に由来するのは、角筈村の十二所熊野権現である。新宿から西の方、この中野一円を領していた開発名主であったと考えられる。
     本堂正面の桶に「大観通寶」が刻されていて、ロダンが疑問に思う。「なんでしょうかね」私に分かる筈はないが、心を落ち着けて中野長者伝説を読めば、やっと分かって来る。大観通寶は宋銭である。この国では中世を通じて、大陸から輸入した銭を国内で使うという、実に不思議な通貨制度が行われていた。様々な銭が輸入されたが、銭不足から勝手に私鋳する者も出た。その粗悪なものを鐚銭と呼ぶ。
     鈴木九郎がまだ貧しかった頃、馬を売りに行くに際して、代金に大観通寶が混じっていればそれを観音様に寄進するという願をたてた。大観通寶というのは質の高い銭だったと思われる。ところが実際に馬を売ってみると、その銭は全て大観通寶ばかりで、全て観音に寄進した。これが幸運を呼ぶきっかけになって、長者と呼ばれるほどの財を積むのである。
     境内には珍しい形の石仏が多い。髪を逆立てた上半身裸の神は何だろうか。四臂の後ろの手では、右手が三日月のようなものを持ち、左手は日を持っているようにも見える。裸の腰には一匹の猿が取りついている。青面金剛ではないのは明らかだが、さてそれでは何者なのかさっぱり分からない。こういうものには、ちゃんと説明をつけてくれなければいけないのではないか。馬頭観音にはちゃんと説明がついているのだから。
     しかし宗匠の目的は、故郷佐賀ゆかりの蓮池鍋島家(五万二千石)の墓所である。前面が半分欠けたような宝篋印塔が一基、五輪塔墓が数基並んでいる。

     蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永十六年(一六三九)五万二千六百石を与えられ分家したのに始まります。
     墓域に入ると十基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が四代藩主・直恒の供養碑、三番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は、寛延二年(一七四九)に麻布龍土町の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移されました。他の八基の墓は、二代直之・八代直与・九代直紀の子供達のものです。
     また墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。(中野区教育委員会境内掲示より)

     佐賀藩鍋島氏は三十五万七千石だが、蓮池、小城、鹿島の三つの支藩を持ち、その他にも鍋島諸流四家、旧領主竜造寺の分家四家などが内部で自治的な立場を得ていた。その内部抗争から化け猫騒動の伝説も生まれてくる。「化け猫ばっかり言わないで下さいよ」と宗匠が嘆く。
     初期佐賀藩の内部の複雑な勢力関係については、隆慶一郎の未完の小説『死ぬことと見つけたり』に詳しく書かれている。もともと竜造寺家の家臣だった鍋島氏だから、ある程度連立政権の形を取らざるを得なかったようだ。
     寺を出ようとしたとき、ダンディが「ちょっと待って下さい」と全員を集合させた。「今日は三十回記念ですからね」と表彰状を読み始める。つまり、この会が始まって以来、私が皆勤していることの表彰であった。有難いことである。自分が好きで参加していることだから、別に褒められるようなことではないのだけれど嬉しい。
     チイさんは「副賞もあります」と保冷バッグに大事に入れてきたサクランボを渡してくれる。表彰状はそのチイさんが作ってくれたもので、画伯がこの表彰状を見て、どうやって作ればよいかを聞いている。サクランボは後で休憩のときに皆で食べようと、またチイさんのリュックの中に仕舞われた。

     「エビバナだよ、ほら」講釈師が指をさすのは、赤く色づいた葉が海老の殻のように重なってついているものである。以前にも教えて貰ったことがあるが、正しくはコエビソウ(キツネノマゴ科)、メキシコ原産である。ベロペロネという別名がある。
     青梅街道にでると七夕飾りが立てられていて、「タナバタを新暦でやるなんて信じられない、旧暦でやるべきです」と今更ながらダンディが憤慨するのがおかしい。勿論それは正しいので、今日は旧暦で五月二十九日、梅雨まっただ中であるからだ。東京ではお盆も七月だし、明治の太陽暦採用以来、この種の行事は全て新暦でやることにしたのではないだろうか。私は秋田の人間だから、お盆も七夕(秋田では竿灯祭り)も、やはり八月にやって欲しいと思う。
     それにしても今日はよく晴れた。昨日の雨で心配していたのである。「宗匠は三勝二敗ぐらいじゃないか、誰かと違って全敗って言う筈ないよな」どうも天気の話題になると講釈師は生き生きとして私の顔を見る。何度も言わなければならないが、私だって毎回雨に祟られているわけではない。
     「一勝はしたかも知れないけどな」講釈師があんまり言うものだから、根拠を示しておきたい。第三回「谷中編」は確かに大雨であった。第四回「本郷編」は快晴、第八回「雑司ケ谷・巣鴨編」は小雨、第十四回「板橋編」はやはり雨、第十九回「目黒編」は快晴、第二十四回「石神井編」は晴れ。「谷中編」の印象が余りに強すぎた結果なのだが、つまり六回のうち半分は降っていないのである。
     私も同じことを何度も言わなければならないが、この会の人たちは、天候が全て各人のもつ運命や念力によって左右されると固く信じ込んでいる。つまりコペルニクス以前の中世迷妄の時代に生きているのである。私は、ポストモダン以後評判が落ちてしまってはいるが、近代科学が達成した論理と明晰を信じる。

     梅雨晴れや念力故と人は言ひ  蜻蛉

     それにしても暑い。予報では最高気温は三十度を超える筈で、もうそれに近いのではないだろうか。次に向かったのは明王山宝仙寺だ。中野区中央二丁目三十三番、真言宗豊山派。寛治年間(一〇八七~一〇九四)後三年の役に際して、八幡太郎が護持していた不動明王を安置したのが始まりと伝えられる。
     しかし『江戸名所図会』には「詳らかならず」とある。しかも、伝えよりもっと古いのである。

     良弁僧都(六八九~七七三)開基なりと伝ふ。(略)
     往古は大刹にして、この地より二十町ばかり北の方阿佐ヶ谷の地にありしを、足利の代に至りいまの地に遷すとなり。されど大永(一五二一~二八)の頃、兵■(セン)に罹りて仏殿・僧坊ことごとく焦土となる。よつてその頃の旧記も廃亡したりとて、開創の時世等詳らかならず。境内普門院に不動尊の霊像を安置す。良弁僧都の作とも、あるいは願行の作なりともいう。

     門を守る仁王像は、それ自体がかなりの物に思える。この頃、マンガのような仁王像にお目にかかることが多いので、本格的で迫力を感じる仁王像を見ると安心する。「立派ですよね、木彫りですよ」と若旦那やドクトルも感心している。
     割に新しい三重塔が立つ。但し、元々ここにあったものではない。「昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地に移すといへり」(『江戸名所図会』)。この「いまの地」というのは、現在の第十中学校のところであり、昭和二十年五月の大空襲で焼失してしまったものだ。平成四年、興教大師八百五十年遠忌記念として、この境内に復元されたのである。興教大師というのは新義真言の祖、覚鑁のことである。
     宗匠が、昭和七年当時の三重塔の写真と広重の絵をコピーしたものを広げて見せてくれる。

     つゆ晴れの空へ突き立つ寺の塔  閑舟

     「中野は空襲で大分やられちゃったんだ」自身は疎開に行っていて空襲を経験しなかったはずの講釈師が、いつものように見てきたような話を始める。五月二十四日の空襲では、それまで被害を受けなかった山の手地区に、四百七十機のB二九が飛来した。
     「山の手空襲のことは不戦日記にも書かれてますよね」と姫があっさりと(しかし決然と)言う。山田風太郎『戦中派不戦日記』である。この本を姫に教えたのは私なのに、まるで忘れていたから読み返してみると確かに出ている。読み方が真面目でないからすぐに忘れてしまうのだ。

     煙の中を群衆といっしょに、五反田へゆく大通りへ出た。そのとたん、ザザッ――という音がして、頭上からまた焼夷弾が撒かれていって、広い街路は見はるかす果てまで無数の大蝋燭をともしたような光の帯となった。自分たちはこの火の花を踏んで走った。
     五反田の空は真っ赤に焼けただれ、凄じい業火の海はとどろいていた。煙にかすみ、火花に浮かんで、虫の大群のように群衆は逃げる。泣く子、叫ぶ母、どなる男、ふしまろぶ老婆――まさに阿鼻叫喚だ。高射砲はまだとどろき、空に爆音は執拗につづいている。

     小さな富士塚のようなものは、実は石臼を積み上げたもので、石臼塚という。「中野蕎麦っていうのは有名なんだ」「すぐそこに、旨い蕎麦屋がある」とスナフキンも同意する。
     大消費地東京に出荷される玄蕎麦は中野に集められたのだと言う。神田川には江戸時代から水車を置いて蕎麦粉を挽いていたのである。「臼で挽くと熱が出ないから良いんだよ」と蕎麦に関して誰も反論できない知識を持つ講釈師が断言する。しかしその臼も、機械化が進んで省みられなくなり、その辺に捨てられていたのを、集めて供養したのがこの塚であった。
     「そこにあるよ、見てみな」講釈師に教えられて石臼塚を回りこむようにすると、「旧中野町役場跡」の大きな石碑が立っている。全面に焼け焦げたような茶色が沁みついているから、これも空襲の名残であろう。
     またこの宝仙寺は御府内八十八か所の第十二番札所になっている。「御府内」と言えば正確には朱引きの内でなければならないだろうが、たぶんそれでは八十八ケ所が揃わず、石神井の三宝寺などとともに仲間に組み入れられたのだと思われる。だからそれに関連した石碑や石仏も多い。
     一番下の石段に二段四人づつの僧形の像を刻んだもの、その上には二段三人づつ、その上が三人の上に二人、更に二人の上に一人、という順番で重なっている石塔がある。つまりこれで二十二人になるのだが、これが四面、全く同じようで合計すれば八十八になる。
     大きな石を、僧ひとりひとりの大きさに刳りぬいて、しかもその窪みに立体的に像を刻んでいるのだから、手が込んでいる。「そうか、八十八ヶ所、これで良いのか」「これを一回りすれば札所巡りができるんだよ」

     紫陽花や札所巡りもひとまたぎ  蜻蛉

     この僧形は弘法大師なのだろうか。それとも覚鑁だろうか。
     この寺は豊山派だから覚鑁でも良いのだが、『江戸名所図会』では、「古義の真言」と書かれているのが気にかかる。豊山派はもちろん新義真言だから、ある時代に(幕末から明治にかけて、あるいは戦後)変わったのかも知れない。
     墓域には堀江家の説明板が立っている。戦国末期の開発名主であり、江戸明治を通してこの地区に大きな影響を与えた一族である。
     「アッ、鬼がいますよ」手水舎にある鬼瓦が珍しいと姫が注意を促す。なるほど、水の出口には一般的には龍が置かれているが、そこに鬼瓦のようなものが使われているのである。「珍しいですよね」私も初めて見る。鬼が舌を出している形だ。
     この寺には象の骨がある。享保十三年(一七二八)、交趾国(ベトナム)から象二頭が贈られた。一頭は長崎で死んだが、一頭が江戸にやってきた。
     おかしいのは、江戸に来る途中、宮中で天覧のことがあった際、獣類といえども官位なくして禁裏に上がる例がないとして、象に従四位を賜ったことである。天皇が見物するためには、いろいろややこしい手続きが必要なのである。

     一日の間に、新菜二百斤、篠の葉百五十斤、青草百斤、芭蕉二株(根を省く)。大唐米八升、その内四升ほどは粥に焚きて冷やし置きてこれを飼ひ、湯水(一度に二斗ばかり)、あんなし饅頭五十、橙五十、九年母三十。また折節大豆を煮冷やして飼ふことあり。(略)(『江戸名所図会』)

     酒を好んで飲んだという記事もあっておかしい。本町二丁目の朝日が丘公園の辺りに小屋を建てて飼われた。だいたい、こんなものを食べたようだが、やがて民間に払い下げられ、寛延(一七四八~五一)の頃に死んだ。その「枯骨」があるのである。
     「初めて象がやって来たとき、学校を代表して見に行ったよ」講釈師の言葉に、「江戸時代ですか」とロダンが反応する。講釈師のことだから、暴れん坊将軍の頃でも実際に見ていたかも知れないが、たぶん見学に行ったのは、ネルーから贈られたインディラのことだろう。上野動物園に到着したのは昭和二十四年九月のことである。とすれば講釈師は小学校六年生か五年生だ。
     「クラスから二人なんだ、女の子と一緒に」「代表ってスゴイじゃない」「教室にいると煩いから、外に出したんじゃないですか」講釈師に対して失礼なことを言う人間がいるものである(私だった)。
     これとはまるで関係ないのだが、高校時代私の愛読書のひとつに、ネルーが娘インディラに贈った『父が子に語る世界歴史』がある。あの頃ネルーはヒーローだったのである。

     寺を出てリーダーが注目させたのは、小さな堂に納められた石仏である。中野区中央一丁目四十一番。「庚申」の提灯がぶら下げられていて、リーダーの説明には「中野町誌によると、宝永五年(一七〇九)戌子十月吉日の刻印があったらしい」と書かれている。空爆で形が変わってしまったのだと言う説明だが、もともと庚申塔ではないのではないか。太い棒石の上に笠を載せた形で、一見して私には男根型であると思えた。つまりこれは塞の神、サエノカミ、サイノカミ、道祖神ではないだろうか。
     「金精様でしょう、遠野を紹介する番組で見ましたよ」と姫が言う。道祖神と金精神との区別が私にはよく分かっていないが、五来重『石の宗教』から少し引用してみよう。

     信仰というものは、つねに信ずる側の方にあるので、信じられる対象物は石でも木でも動物でも人間でもよいのであるが、そこには何かひとを信じせしめるシンボルが必要である。(中略)石の場合は不思議な形が動物や人間に似ているということもあるが、もっとも普通なのは、男根、女根に似ているということである。
     そこで原始的な石の造形が、男根、女根であったということは、これが祖先のシンボルだったためである。(略)これらの石棒はそれまでみな道祖神として祀られていたのである。
     しかし多くの道祖神の信仰は、男女和合、子孫繁栄、家内富貴、五穀豊穣が主たるもので、旅の守護神というのはむしろすくない。

     こういうことであれば、道祖神と金精神とを区別する理由もなくなりそうだ。
     そのすぐそばで、金網で囲まれた小さな一画に「三重塔記念碑」という大きな石碑が立っている。これがさっき見た三重塔がもともと立っていた場所である。土台だったと思われる平らな石が残っているが、随分小さく感じられる。
     住宅地の狭い坂道の途中には、山岡鉄舟旧宅がある。中野区中央一丁目十七番。臨済宗天龍寺派鎮国山高歩院という寺で、剣禅一如を標榜した鉄舟に因んでか、剣道場と禅道場とを併設している。ただお寺のような様子はまるで見られない。
     「講釈師は禅の修行をした方が良いんじゃないですか」「無口になるように」「駄目、もう数えきれないくらい叩かれちゃうから、俺やらない」
     宗匠が狭い石段を下りて、その庭の中に進んでいく。勝手に入って良いのかしら。案の定、稽古着を身に着けた男に誰何され、玄関先で姫が見学のお願いをすると許可されたようだ。狭い庭の奥には「成趣園記」という石碑が立っていた。安積艮斎の文になる。江戸時代に加太氏という豪農の庭園だったときのものである。熊本水前寺に同じ名前の庭園があるが、これとの関連は分からない。碑面の文字も薄くて全く読めない。仕方がないので、由来を検索してみた。

     先師精拙和尚がこの土地を手に入れ、鉄舟先生の息女松子女史とともに検分したとき、女史は池の畔の雑草の生い茂った辺をしきりに探していたが「この辺にたしか弁天様があつた筈だ、父がこの弁天様は霊験あらたかだから、決して粗末にしてはならぬ、とよく言われたのを子供心に憶えている」と述懐されたそうだが、その弁天様のことも艮斉の碑文に出ているから相当古いものである。この弁天様はいまもわが高歩院の鎮守として邸内に奉祀してあるが、池の方は惜しいかな昨年埋められてしまつた。弁天様も定めし岡にあがった河童同様の身を嘆いて居られることであろう。(中略) 由緒ある邸も、星還り歳変って昭和十七年には、大阪の一老人の手に渡ってしまった。老人は以上のようないわれを知って、その中心部の池を環る一角を、当時臨済宗管長であつた関精拙禅師に寄進されたのである。
     精拙先師はここにおいて「乃ち一茎草を挿んで鎮国山高歩院と名く」る「鎮国の道場」を建立せんと発願して、広く同信同願の士に助力を求めた。即ち地中の島上に六角堂を営み、鉄舟居士の念持仏であつた聖観世音菩薩尊像及び鉄舟居士の露牌を祀り、一面「この聖蹟史跡を後世に遺し且つ鉄舟居士尽忠報国の真精神を顕揚して、やがて鎮国の霊場とも成し得ば」と考えたのである。
     しかし、昭和二十年五月の空襲によって、そのうつそうたる園林は跡方もなく消え、また先師が龍王池と称した池も潰え、紛争の結果は敷地も縮少していまはわすかに二百五十坪の地に、建坪四十一坪の見る影もない文字通りの茅庵となつた。檀家なく、基地なく、不肖の赴任した昭和二十二年の頃は、ただ焼け残りの書院あるのみで、寺財とて全く一物もなく、正にボロ鉄と言われた「高歩に傚う」にはもつてこいであつた。(大森曹玄 記  昭和三十年 鉄舟誌より)
    http://www.h2.dion.ne.jp/~teshu/engi.html

     「ビックリしちゃった、てっきり事前に了解を取ってると思ってたから」姫の白い顔がなんだか日焼けしたように紅潮している。「日焼けしたんじゃないの」「違うんですよ、急に血が上っちゃって。サングラスを取るのも忘れちゃった」姫も動揺したかもしれないが、黒メガネをかけたマフィアの美女と応対した相手も驚いただろう。

      底紅や狼狽隠す禅の庭  蜻蛉

     慎重な宗匠にしては迂闊なことであったが、石碑を見た後は、玄関先で道着を来た男性に説明を聞くことができたから(姫が一所懸命話しかけたのである)良かった。玄関の左にはすぐに剣道場があるようで、入口のところから、道着で正座している袴が見える。壁の上の方には古びた托鉢笠が数個飾られている。額には「獅子窟」とある。
     「鉄舟、海舟、それから誰だっけ」という画伯に、「泥舟です、谷中でお墓を見ました」と姫が答える。これが幕末三舟だが、「ほかには」と更に画伯が聞いてくる。「閑舟がいます。宗匠ですよ」「どういう意味なんだろうね、よっぽど閑なのかな」宗匠はこれにどう応えるか。

     桃園川緑道を歩く。「予定通りの進行でしょうか」と碁聖が宗匠に尋ねると、「一時間ほど遅れています」という返事だ。そんなにゆっくり歩いていたようでもないが、もう十一時半を回っている。そうすると、昼飯はもう少し後になりそうだ。少し腹が減ってきた。

    杉並区の天沼弁天社内にあった弁天池に源を発し一・五kmほど東へ流れる。中杉通りを越えた後に南下、杉並区立けやき公園のところで中央線より南に流れ、そこから東へ転じ、環状七号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。中野区と新宿区の境界にある末広橋脇で神田川に合流する。(ウィキペディア「桃園川」)

     全て暗渠だから魚やトンボや蝶が見られる筈がなく、仕方がないので、遊歩道の上にそれらの絵を描いている。「昔はちゃんと川が流れてたんだ」講釈師の言う昔とは昭和三十年代半ばのことだろう。高度成長の日本では、都内の小さな川はほとんど暗渠とされてしまった。世田谷の烏山緑道の雰囲気にも似ているが、結局同じような風景になってしまうのはやむを得ない。「いつか後悔するんですよ」エコロジストの姫が嘆く。
     川の名は、これも吉宗の時代に中野に作られた桃園に由来するのだろう。

     この辺りの田畝にことごとく桃樹を栽ゑしめたまひ、その頃台命によりて、このところを桃園と呼ばせたまひしといへり」(『江戸名所図会』)

     途中、太い円筒で作られた小さな滑り台を姫が滑りぬけようとする。円筒の出口は勢いがつかないように少し盛り上がっているようで、姫は着地点で抜けられずに止まってしまった。もそもそと潜り抜けてきたが、残念ながらあまり颯爽とはいかない。すぐそばの道端には『江戸名所図会』の「中野三重塔」を記した石碑も立っている。この辺りは三重塔に因んで塔の山と名付けられ、だから塔の山小学校がある。ただし三重塔だけでなく、かつては中野七塔と呼ばれる塔軍があった。これも中野長者に由来するが、『江戸名所図会』の時代には既になくなっていたようだ。ネズミモチの花が咲いていて、小道をはさんだ向かいには百日紅の花が咲いている。
     「アッ、何」白い小さな花弁が姫の頭上に舞う。「百日紅かしら」実はネズミモチの細かな花が風に揺れて散ったのだ。私は現実に囚われるが、宗匠は敢えてリアリズムを排してこんな句を詠んだ。

     ひらひらと姫へ舞ひふる百日紅  閑舟

     つまり俳句はリアリズムである必要は全くないのである。ついでに私も反リアリズムでいってみる。

      颯爽と滑りゆく姫立葵  蜻蛉

     山手通りを横断して更に進むと、宗匠が左側の建物を指差して「堀越学園だよ」と教えてくれる。「ヘーッ、そうなんだ。なんとなく、こんな住宅地の中じゃないと思ってたわ」
       やがて右に曲がれば、ただの平らなグランドが、城山の館跡である。中世の堀江氏の屋敷跡だと分かれば、さっき宝仙寺で墓地を見たと思いだす。
     小さな公園に眼もくれずにリーダーが進んでいくと、姫と講釈師が声をかける。「府立農事試験場の跡」という看板が立っていた。「ちゃんと見なくちゃ駄目だよな」
     中野の町中に入って途中の休憩では、姫だけがソフトクリームを食べている。「スプーンで食べるなんて優雅だね」と画伯が驚くが、私もソフトクリームをスプーンで食う人間を見るのは初めてのことだ。「だって、ついてたんだもん」もうすぐ昼飯だというのに、彼女の腹はどうなっているのだろう。俗に言う「別腹」か。
     いよいよ昼飯だ。中野サンプラザの辺りに到着したのはもう十二時半である。この時間では宗匠が予定した「大戸屋」には七名しか入れない。「一時二十分にここに集合してください」宗匠に捨てられた十人は路地に入り込んで店を探す。喫茶店か昔風のバーのような入口にランチメニューが掲げられているので入ってみれば中華料理屋で、二階に案内された。「もう三十人位つれてきてよ、クーラー入れるから」と主人が笑う。確かに二階は私たちの貸し切りになって、三十人はオーバーだが、二十人ほどなら充分に座れる広さだった。
     本日のランチ(卵と豚肉とキクラゲの炒め物)と冷やし中華でほぼ半々に分かれたが、ロダンだけは「ツケタン」という不思議なものを注文する。「一人だけ変なものを頼むと講釈師に叱られるよ」「ここにはいないから大丈夫」つけ麺の汁が坦々麺の汁になったものらしい。かなり辛いのではないだろうか。私は苦手だ。
     今日は「早くしろ」とせかす人間がいないから、チロリンもゆっくり食べ終わることができた。「こういうの初めてじゃないの」そうかもしれない。そう言えば、チロリンとクリンが一緒にいないのも珍しい。

     三十回記念ということがさっき話題になったせいもあって、画伯が「谷中を歩いた時は、スゴイ雨だったよね」と言い出す。これまで何度も言っているように、天候のことは話題にしたくはないのだが、本当にあの時はひどかった。一月の寒い日、一日中冷たい雨を受けながら私たちは歩いたのである。「美女がビジョビジョになってね」画伯が言うように、姫の靴下はビショ濡れになって、コンビニに駆け込んで靴下を買ったのである。あんな日は滅多にない。
     最後に寄った子規庵は既に門を閉じており、姫は雨の中でむなしく門を見つめていた。自分の作文を引用するのは気が引けるが、こんな風であった。

    あっちゃんは呆然と子規庵を眺める。降りしきる雨の中、未練に立ち竦む女というのは演歌の題材にならないか。しかし普通、演歌のヒロインはリュックを背負ってはいないと思うけれど。

     子規庵の門を閉ざすや寒の雨  蜻蛉

     ゆっくりと昼飯を終えて集合場所に戻ると、大戸屋組はガードレールに腰をかけて待っている。「揃ってますか」「揃ってます」「それでは出発します」これが事件の発端だった。
     「エビバナだよ」さっき見たコエビソウの葉の下から、白く細長い可憐な花がのぞいている。法務省矯正研修所東京支所だ。中野区新井三丁目三七番三号。「塀が低いですね」そもそも矯正研修所とは何であろうか。

    矯正研修所は法務省の施設等機関の一つ(実務上は法務省矯正局の管轄下)であり、刑務所、少年院、少年鑑別所、婦人補導院の各組織に所属する職員の研修を行うことを目的に設置された文教研修施設である。(ウィキペディア「矯正研修所」より)

     研修所であって、刑務所でも何でもないのだから、塀が高い必要はない。ただし隣接する「平和の森公園」も含めて、かつては中野刑務所だったのである。刑務所時代も今見るような塀であったかどうかは知らない。
     「網走じゃ、半日コースとか一日コースとかあるんだよ」「それは見学コースですか」「そうだよ、俺はちゃんと参加した」「一年コースとか」「俺が参加したのは三年コースだった」と講釈師が笑う。
     その公園に入れば、最初に見えるのは弥生時代の竪穴式住居を復元したものだ。ずっと奥まで入り込んで「チイさんのサクランボを食べよう」と言う宗匠の言葉で振り返ると、肝心のチイさんがいない。事件が発生したのである。
     宗匠とロダンが入口まで探しに行くがなかなか帰ってこない。そう言えば、私はチイさんの携帯電話の番号を知っている筈だったと調べてみると確かに登録してある。呼び出すすぐに出た。「どこにいるの」「置き去りにされちゃったの」と言う声が淋しい。「どこ」「公園の入り口」
     ちょうど宗匠が戻ってきたので、入口(私たちが入ってきたところではなく、もっと先のほう)まで行って貰う。ロダンはさっきの入り口で待機しているらしい。暫くしてやっとチイさんが現れた。ロダンには「発見しました。捜索終了」の報告をして戻ってきてもらう。
     聞いてみると、チイさんは大戸屋で置き去りにされたのであった。さっきロダンが「揃った」と言ったのは中華を食べた十人が揃ったということであり、大戸屋組の七人を数えたのではなかったのだ。「失敗しました」と宗匠が反省する。
     「イヤ、私もね、十六人しかいないと思ってね。おかしいなと」ハコさん、気がついたときに言って下さい。
     サクランボが到着して良かったと私は不謹慎なことを口走る。しかしチイさんは不安だったろうね。会計を済まして店を出ると誰もいないのである。コンビニで場所を聞いて、彼は走ってきたのだ。

      つゆ晴れの汗ほとぼしるチイ散歩  千意

     「ちゃんと人数を確認しないなんて信じられないよ」講釈師が嫌味を言うが、夫子自身がリーダーを務めた赤穂浪士編では、私や姫を含めて七八人が両国回向院に置き去りにされたことをお忘れだろうか。「忘れてないよ、遅い奴はおいていくんだ」
     ともあれ、ようやくサクランボが食べられる。まだ凍っている部分もあって、冷たくて甘くて旨い。「自分で作ったの」「自分で冷凍してきた」山形のサクランボを貰ったので、私たちにお裾分けしようと持ってきてくれたのだ。

      おあづけの後の桜桃えびす様  閑舟
      桜桃の苦難に耐えし甘さかな  蜻蛉

     「もう行こうぜ」食べ終われば、講釈師はもうこの公園に用はない。次は瑠璃光山禅定院である。中野区沼袋二丁目二八番。真言宗豊山派。貞治元年(一三六二)の開創と伝えられる。
     山門をくぐれば右手には六地蔵が並び、そのすぐ横に巨大な公孫樹が立っている。「巨樹だよね」「巨樹です」「だけど保護樹とかなんとか、何も書かれてない」「推定樹齢六百年です」と宗匠が宣言する。「どのくらいかしらね、五人かな」「幹周りは六人ってとこでしょうか」
     百日紅は幹の内部が空洞になってしまっている。本堂の障子が少しあいているので覗きこんでみると、はっきりはしないが本尊は不動明王のようだ。もともとは薬師瑠璃光如来を本尊としたが、現在では鎌倉時代に作られた不動明王を本尊としている。府内八十八か所のうち四十一番札所である。
     弘法大師像の後ろに白い大きな百合が咲いている。「斑点がないんだよ、だから山百合じゃないな」若旦那夫人も「何だろうね」と首を捻るが、「カサブランカだと思います」と姫が決定する。
       そこからすぐに公園に入って行く。中野区沼袋二丁目二八番。但し門には「百観音明治寺」と記してあるのでお寺なのだが、寺の境内と言うより公園の雰囲気だ。柵で囲まれた広い内部に様々な観音が並んでいる。明治四十五年、明治天皇平癒祈願のために建立された。

       「百観音」とは、近畿一円に広がる西国三十三観音と、関東地方の坂東三十三観音、それに秩父の周辺に広がる秩父三十四観音の札所を総称したものです。
     この庭園に立ち並ぶ観音石像は、その百ヶ寺におまつりしてあるそれぞれの観音様方、例えば聖観音や千手観音、十一面観音)等々のお姿をいただいて石に刻んだもので、これを「写し霊場」といいます。ここには番外の観音様も増えて、現在のところ百八十体以上になっておりますが、いずれにせよ、ここに居並ぶ観音様を一通りずーっと拝んで行きますと、百観音札所のすべてをお参りするに等しいご利益を授かることになります。あるいはこのすべての観音様と、縁結びができると言うこともできるでしょう。「百観音明治寺HP」http://www.meijidera.com/sanpo.html

     柵の中に入るためには御賽銭を上げなければならず、私たちは勿論柵の外から見るだけだ。千手観音や十一面観音が確認できる。
     その柵を回り込めば別のお寺があった。冠木門は真言宗御室派密蔵院である。中野区沼袋二丁目三三番四。
     「御室派は珍しい、我が家の宗派です」とダンディが入っていて本堂を拝む。私は拝まないが本尊を眺めてみれば地蔵尊である。リーダーの調査では勝軍地蔵だという。「確か宛て字だったと思うよ」と私はうろ覚えで宗匠に言う。以前に調べた記憶があるのだが、内容を全く忘れてしまっているのが情けない。
     道祖神(サエノカミ)をまたシャグジという。石神井の語源だと思われるが、そのシャグジと地蔵信仰が習合したのである。シャグジを訛って将軍、または勝軍と書いた。
     それにしても御室派の寺院は珍しい。たぶん私は初めて出会ったのだと思う。「総本山は仁和寺ですよ」仁和寺の法師ならば徒然草でおなじみである。以前なにかの場面で宗匠が「何事にも先達はあらまほしけれ」と言っていた記憶がある。
     「皇室にも縁が深い」ダンディは西欧派の教養人だと思うのだが、皇室にも敬意をもっているようだ。私はこの辺には疎いので、ウィキペディアのお世話になってみる。

    真言宗御室派の歴史は仁和寺の開創に始まる。真言宗の事相の流派「広沢流」の本拠として発展し、仁和寺門跡に二世性信入道親王(大御室)が就任されて以降、江戸時代末期まで門跡には法親王(皇族)を迎えた。一一六七年(仁安二)五世覚性入道親王(紫金台寺御室)が綱所の印璽を下賜され、日本総法務に任ぜられると諸宗格山を支配し、日本仏教界に君臨した。
    東寺の傘下を出入をしたが一九〇〇年(明治三三)、独立して真言宗御室派を公称。派を廃して、一九二六年(大正一五)に金剛峯寺・大覚寺とともに古義真言宗を称した。第二次世界大戦のさなか、日本政府の宗教政策により、真言宗の古義・新義両派を合同して大真言宗になったが、戦後に独立し、一九四六年(昭和二一)、真言宗御室派となった。 (ウィキペディア「真言宗御室派」)

     如意山実相院は宗匠の計画にはなかったが、なんとなく由緒ありそうな佇まいである。中野区沼袋四丁目一番一号。真言宗豊山派である。門を潜って中に入ると、本堂の屋根は立派だ。宗匠から寺院建築の屋根の見方の解説が入る。丸瓦と平らな瓦を交互に使うためには、重さに耐えるだけの基礎(というか梁)がしっかりしていなくてはいけない。建物に金がかかっているということは、有力な檀家が多いということであり、つまり格式が高い。(という説明だったかな)軒には金色の釣灯籠がいくつも下げられている。確かに金のかかっていそうな建物だ。下の記事を見つけたので引いておく。

    一三五二年に新田一族が信濃宮宗良親王を奉じて武蔵に足利軍と戦ったとき、 新田六郎左衛門政義の三男、矢島三郎信氏の子孫である矢島内匠、同図書が戦いに破れ、結城氏一族とともに沼袋村に来て 一家屋を建立したのが起源であるとされています。沼袋から江古田にかけて矢島性は多く、檀信徒も矢島姓を名乗る方が半数以上を占め、別名「矢島寺」とも呼ばれています。豊島八十八ヶ所霊場七十四番札所です。
    http://www.tesshow.jp/nakano/temple_nakano_jisso.shtml

     豊島八十八ヶ所というのが出てきた。これは御府内八十八ヶ所とはまた別のグループだろうか。
     道路の突き当たりに立つ笠付きの庚申塔は、青面金剛の顔のあたりで二つに折られてしまっている。それをセメントで修復してあるのが残念だ。たぶん車が飛び込んできたのだと思われる。三猿の上にはちゃんと踏みつけられた邪鬼もいる。「講釈師がいました」「俺はどこだっているよ」
     西武線の踏切を渡れば清谷寺だ。中野区沼袋三丁目二十一番七。正面の入口は鉄柵で閉じられているが、墓参りのような人が見えるからには中に入れるに違いない。「ここから入れます」という宗匠の声で、ちょっと脇の入り口から中に入る。幼稚園を併設していて、ジャングルジムと滑り台が一体になった構造物が立っていて、幼稚園の庭そのものだ。寺のようには見えない締め切った本堂(庫裏?)の脇に、目当ての十三仏の板碑が立っているのである。今度は宗匠が「板碑を見学させていただきます」と中に声をかけて了解をもらった。
     私はこの形は初めて見るのだが、十三仏を全て種子で表した板碑である。
     資料を見ながら参照しようとしても梵字は全く読めない。本に書かれたものと、実際に板碑で見るものとは微妙に字体が違うからだ。門の外の説明を見てようやく判明したのはこういうことである。一番上の主尊にバーンク(金剛界大日如来)、その下の右側には、アーンク(胎蔵界大日如来)、サク(勢至菩薩)、ベイ(薬師如来)、カ(地蔵菩薩)、マン(文殊菩薩)、カーン(不動明王)。左にはバーンク(金剛界大日如来)、キリーク(阿弥陀如来)、サ(観世音菩薩)、ユ(弥勒菩薩)、アン(普賢菩薩)、バク(釈迦如来)と並ぶ。応永六年(一三九九)のものだという。金剛界大日如来が主尊と左の一番上と二回出てくるのは何故なのか、よく分からない。
     井上光貞監修『図説歴史散歩事典』には、胎蔵界大日如来を主尊とした例が書かれているが、こちらの方には虚空蔵菩薩が加えられて十三仏が揃う。
     この板碑の左には、これよりは少し小型の阿弥陀三尊種子板碑があって、これは私にも分かった。上がキリーク(阿弥陀如来)、下には勢至と観音が並ぶのである。
     姫はよくよく滑り台が好きなのである。ここでも滑ってみたが、実は「園児以外は遊んではならない」と書かれているのであった。「気がつかなかったんだもの」姫の体重なら、幼稚園児とそれほど違うわけでもないから、大丈夫かも知れない。
     これで本日のコースは全て終了した。宗匠の万歩計で一万八千歩。十キロほどにもなっただろうか。それほど歩いた気はしなかったが、汗で身体がドロドロになっている。沼袋の駅前商店街に戻って、ドトールで休憩をとる。
     三時四十分に駅で解散して、反省しなければならない人は高田馬場の「さくら水産」に入るのである。今日は珍しく碁聖が参加してくれるのが嬉しい。「だって、きょうは合同慰霊祭だから」
     「慰霊祭」「それって、今日の座布団一枚ですよ」とロダンが喜ぶ。宗匠が「桂三枝の『川柳激情』」で「地」に入選したお祝いと、ロダンの快気祝い、私の三十回参加記録とをお祝いしてくれるのだそうだ。
     宗匠入選作を記録にとどめておきたい。

     立ち話していきたいな花の春

     気持ちの優しさが感じられる。私ならばこうはいかない。ダンディは、「季語が重なるのを承知で詠む」と言いながらこんな句を披露してくれた。

     五月晴れ歩いた後は五月闇(さかば)  泥美堂

     チイさんは、これまでの三十回の概要を一覧にした表を作り、綺麗な表紙をつけたものを見せてくれる。「近日公開」と書いているのは、今日の結果を付け加えて、三十回の歴史にしたいと言う意味である。
     エクセルを使った表は一覧性があって便利だし、この色鮮やかに作った表紙も素敵だ。水戸藩所縁の地を歩いた時には水戸黄門の印篭を作ってきたように、チイさんは工作が好きだ。豪農という渾名もあるが、「工作者」というのも考えられると思った途端、「工作者」は谷川雁であったと思いだした。知識人に対しては大衆の言葉で、大衆に対しては知識人の言葉で。五十年代には説得力のあったアジテーションも、「知識人」というものがなくなってしまった今では有効ではない。チイさんのような地に足をつけた「耕作者」こそが、正しい生き方であろう。四時の開店から六時まで充分に楽しんだ。一人二千円也。
     さくら水産を出てもまだ日は高く明るいから、ここで帰るわけにいかない。それに姫はカラオケに行きたいのである。碁聖がここにも付き合ってくれた。年の割にと言っては失礼だが碁聖は声量がある。二部合唱の低音部をチャンと歌うので、私は驚いてしまう。
     姫と一緒に『支那の夜』を歌って碁聖が驚く。「同級生じゃないの」知ってはいても、やはり姫のレパートリーには驚くことが多い。ドクトルは『枯葉』をフランス語で歌う。Q太郎さんは「歌わない」と言いながら、結構チイさんの歌に合わせているから、全く嫌いというのではないだろう。ロダン、スナフキン、私は相変わらずである。実はこの間に桃太郎から電話が入っていたのだが全く気付かなかった。二時間、一人千四百円は安いのではないだろうか。

    眞人