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    第三十一回 東都青山周辺「大名屋敷のまち」の変遷を辿る編
                        平成二十二年九月十一日

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.09.21

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     順番からすれば今回は私が担当しなければならないのだが、七月八月といろいろ忙しくて準備ができそうもなく、あんみつ姫に交替してもらった。この猛暑の夏、姫は何度も下見を繰り返して今日のコースを作ってくれた。感謝一杯である。
     「千駄ヶ谷に来るのは面倒なんだよ、急行が止まらないし。俺は秋葉原経由だから四谷で降りるか新宿か、悩んじゃうよ。」草加の住人講釈師は文句を垂れる。しかし新宿から二駅だから、それほど面倒な訳ではないだろう。ただ私にとっては千駄ヶ谷は余り身近な駅ではない。一度だけ、ダンディに連れられて能楽堂に来たときに降りて以来だ。
     リーダーのあんみつ姫、碁聖、講釈師、ドクトル、チイさん、スナフキン、宗匠、ハイジ、カズちゃん、イッチャン、シノッチ、マルちゃん、チロリン、クルリン、私。ここ二三日やや涼しい日が続いたものの、今日は暑さがぶり返して、最高気温は三十五度にも達しそうな予報だが、千駄ヶ谷駅には十五人が集まった。欠席のダンディはイングランドへ、ロダンはたぶん仕事(?)に行っている。桃太郎は引越しの後片付けで忙しいのだろう。チイさんのリュックがいつもに増して重そうだ。また何か収穫物をお土産として持ってきているに違いない。
     この辺り一帯は紀州徳川藩の屋敷地であった。千駄ヶ谷地名由来については、新宿御苑に発した渋谷川上流地域で萱ばかりが生える土地であったこと、それを一日に千駄も積んだことによると言う。
     駅前はただ広く、東京体育館が目立つだけで人の住んでいる町のような気がしないが、津田ホールを睨みながら能楽堂へ行く少し手前で左に曲がれば、すぐに狭い道の住宅地と商店街に入り込む。

     最初の目的である東京新詩社の跡は商店街の中の駐車場になっていて、小型のトラックが止まっている十二番の外側に、木の標柱が立っているだけだった。
     明治三十四年四月、与謝野寛は道玄坂にあった渋谷憲兵隊の幹部用住宅に住み始め、『明星』を発行する傍ら六月には鳳晶子を迎え入れた。晶子は八月に『みだれ髪』を出版する。
     九月、ふたりは当時の住所表示でいえば中渋谷三八二番地に移転した。現在の道玄坂一丁目十番地の辺りらしいと推測されている。十月に晴れて入籍。
     三十五年十月には盛岡中学を退学した石川一が上京し、翌三十六年十一月、東京新詩社同人に推薦された。啄木の筆名を使い始めるのは翌月の『明星』十二月号からである。
     そして三十七年二月、日本はロシアに宣戦布告し日露戦争が始まった。その年の五月には大和田三四一に移ったものの、半年後の十一月にここに引越した。明治書院所有の貸家であった。九月に晶子が『君死にたまふこと勿れ』を発表して大町桂月に「乱臣賊子」と罵られ、世間の大パッシングにあった。それに雷同した連中が石を投げたりするので、そこから脱出するためだったようだ。いつだって、噂に踊らされる連中というのはいる。
     「晶子は特に反戦詩人というのではないですよね」と姫が言う。「後には結構迎合的な詩も書いてますから。」私は晶子の詩の熱心な読者ではないから、詳しいことは分からない。ただ、反戦意識と言うより、女としての感情を露に出したと考えるのが自然だとは思う。この詩が批判されたのは、「すめらみことは戰ひに/おほみづからは出でまさね」のフレーズから、「不敬」と判断されたのが原因だろう。
     少し後には大塚楠緒子が『お百度詣』を発表したが、これに対して桂月は非難していない。これだって、「反戦詩」と言えば言えなくもないのであるが。
     平塚明子が森田草平と「煤煙事件」を惹き起こして一躍「新しい女」の代表になるには、まだ数年必要としているが、晶子や楠緒子たちがその誕生を用意したとも言えるだろう。「明治の女は強いよね。」「弱いひともいますよ。」
     数年後になるが、啄木が函館から上京してすぐに新詩社へ赴いたときの日記がある。四十一年四月二十八日である。これを読めば、既に啄木は単純な鉄幹崇拝者ではなくなっているのも分かってくる。船で横浜に着くと雨が降っていた。横浜から鉄道で新橋に着いた。

     三時新橋に着く。俥といふ俥は皆幌をかけて客を待つて居た。永く地方に退いて居た者が久振りで此大都の呑吐口に来て、誰しも感ずる様な一種の不安が、直ちに予の心を襲うた。電車に乗つて二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。予は遂に一台の俥に賃して、緑の雨の中を千駄ケ谷まで走らせた。四時すぎて新詩社につく。
     お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新らしい顔であつたのが目についた。
     本箱には格別新らしい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋緋とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。
     一つ少なからず驚かされたのは、電燈のついて居る事だ。月一円で、却つて経済だからと主人は説明したが、然しこれは怎しても此四畳半中の人と物と趣味とに不調和であつた。此不調和は総て此人の詩に現はれて居ると思つた。
     そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新らしく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。

     電燈を批判して「不調和」とは言いすぎではないか。啄木の感想だけでは公平ではない。昭和十七年に馬場孤蝶が書いた回想も引いてみたい。今の私たちにはなかなか分からないが、与謝野鉄幹、晶子が明治文学の輝かしい目標であった時代があった。孤蝶はかつて樋口一葉が「紅顔の美少年」と評し、晩年には西脇順三郎によって「日本のアナトール・フランス」と呼ばれたひとである。

     (与謝野寛君が)千駄ヶ谷の徳川邸の西側の方へ越したのは日露戦争の少し前ぐらいであったろうと思う。
     その時分の文学者の生活を思うと、今とは全く隔世の感がする。僕などは、とにかく外に定収入のあるみちがあったので、どうにかこうにか暮らしていたが、文学を職業にしていた人々の生活に至っては、全く奮闘の生活、背水の陣というべきであった。(略)
     新詩社の『明星』は当時の新文学の大きい、華やかな幟じるしであり、吾々若き文学者の奮戦のラリイング・ポイントであったといって宜しかろう。(略)
     与謝野君御夫婦はよくまアあのような全く惨憺たる生活苦を忍びながら『明星』の刊行を続けられたと思う。文学、詩歌に対する熱愛の然らしむるところであったことはいうまでもないのであるが、それにしてもあの忍耐と勇気は、今思い出すごとに、感嘆の念を禁じ得ない。(馬場孤蝶『明治の東京』)

     商店街を抜ければ五差路の向こうはすぐ鳩森八幡だ。(渋谷区千駄ヶ谷一丁目一番二四)。

     社記に云く、往昔この地深林のうちに、時として瑞雲生じける。またあるとき、碧空より白気降りて雲上に散ず。村民怪しんでかの林の下に至るに、忽然として白鳩数多西を指して飛びされり。よつてその霊瑞を称し、小祠を営み名づけて鳩の森といふ。(『江戸名所図会』)

     石造りの鳥居には「御祭礼」の幕が掛けられ、その奥には、あんずあめとかタコ焼きの屋台が並んでいるが、この時間ではまだ営業はしていない。まず参道に立つ御神木の大銀杏を見ることになる。樹齢推定四百年と言われている。
     スピーカーから祭り太鼓が聞こえてくる。今日明日が秋の例大祭なのだ。

     鳩森や笛や太鼓の神楽殿  千意

     新築したのだろうか。真新しい神楽殿の舞台の奥の壁には松が描かれていて、能舞台のようにもみえる。舞台の前には折り畳み椅子が並べてある。案内を見てみれば、今日は氏子による舞踊、明日は薪能が行われるようだ。「応神天皇一千七百年年式年祭」なんていう幟があっても、ヘーッ、そうなのかと思う。勿論、八幡は応神天皇だからそれに驚くのではなく、千七百年という年代に驚いているのだ。
     その脇の鳥居を潜って寛政元年(一七八九)築造といわれる富士塚に登る。かなり段が急で、気をつけないといけない。姫は山が苦手だから下で待っている。「これで富士登山したのよね」と誰かの声がする。下りは結構難しい。段差が急で岩に手を突かなければいけない所が何箇所もある。「気をつけてね」と後ろのマルちゃんに声をかけながら、私は足を踏み外しそうになってしまった。

     富士塚に響く太鼓や秋祭り  蜻蛉

     本殿の前におかれた一枚もののパンフレット(東京都神社庁)を宗匠が見つけて「ロダンに言ってみたいよ」と笑う。「多忙とは怠け者の遁辞である  蘇峰」。いつも忙しがっているロダンは、実は怠け者であろうか。そんなことはないだろう。

     当社の前路は鎌倉街道の旧跡にして、いまも鎌倉路と字せり。(『江戸名所図会』)

     北から来れば滝野川、雑司ケ谷、護国寺の裏、高田馬場、大久保、鳩森八幡、原宿を通る道である。逆に北に向かえば奥州道とも言うだろう。
     小さなマンションやアパートが並ぶ観音坂は、真言宗観谷派聖輪寺の本尊であった如意輪観音に由来する。その観音は戦災によって消失したが、行基作と伝えられる。ここで姫が如意輪観音の絵を出して説明してくれる。「六観音の一人なんですけど。」何度か見たことはあると思うのだが、正確に言えるほど私には知識がないので、いつものようにウィキペディアのお世話になってみよう。

     如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。
     如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。片膝を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は六本の手のうちの二本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っている。(ウィキペディア「如意輪観音」)

     すぐそばには、壁の塗りが大きく剥げてもう人の住むには相応しくないようなアパートが、古めかしい姿で建っている。その一室には、ちゃんと洗濯物が干してあるから人が住んでいるということだ。大丈夫なのだろうか。集合住宅に住んでいれば、十年おきにやってくる外壁塗装は建物の維持に必要不可欠の行事なのだが、こんなに塗装が剥落していては、もう躯体にまで水が沁み込んで、鉄筋も腐っているのではないか。「家賃が安いんだよ」と講釈師は断言するが、いくら家賃が安くても、崩壊の危険と隣りあわせでは、おちおち寝てもいられないだろう。
     その先をえのき坂の方に右に曲がれば瑞円寺だ。渋谷区千駄ヶ谷二丁目三十五番十一。曹洞宗。大邸宅の門前のような十段程の石段を登れば、左手に「山門禁葷酒」の結界石が立つ。「酒飲みは入っちゃいけないんだ。」「餃子を食った人もダメです。」
     鳩森八幡の別当寺で、境内に入れば右手に大きな無縁墓の山が築かれていて、ドクトルが驚く。「これはなんだい。」「無縁になった墓を集めたのです。」その頂上には石幢六面地蔵が載っている。
     リーダーお薦めの見るべきものは庚申塔である。青面金剛を刻んだ庚申塔は享保五年のものだというのに、ほとんど風化していない綺麗なものだ。「俺がちゃんといるじゃないか。」講釈師は、金剛に踏みつけられた邪鬼の腰の辺りを撫でながら、自慢する。すっかり自分自身のことだと思い込んでいるのである。「顔もそっくりね、歪んでいるし」とハイジが笑う。
     三日月も日もくっきり浮き彫りになっているのは少ない。戒名が彫られていると言うので、墓石として作られたものらしい。「街道沿いじゃないから風化しなかったんだよ」と講釈師が断言する。しかし姫が「珍しい」というのは、もっと違うものだ。側面に狐が稲穂を銜えた像が彫られているのである。庚申塔と狐との組合せの理由は何か。庭には石の羊が置かれている。石の羊は高麗の若光王廟の前で見たことがある。

     法雲山千寿院は家康の側室お万の方によって、紀州徳川家屋敷内に寛永五年(一六二八)に草庵が建てられたのが始まりである。お万からは紀伊徳川家の祖、頼宣が生まれている。その後現在地に移転したが、「新日暮(ひぐらし)の里」と言われる程、風光明媚な寺だった。「『江戸名所図会』に出ていませんか」と姫が尋ねてくるが、「発見できないよ」と返事をした。実は『江戸名所図会』の記載の順番はややこしくて、探し出すのが結構難しかったのだ。

     この辺の地勢および寺院の林泉の趣、谷中日暮里に似てすこぶる美観たり。ゆゑに日暮里に相対して、仮初に新日暮と字せり。弥生の頃、爛漫たる花の盛りにはおほひに群衆せり。(『江戸名所図会』)

     絵を見れば川に沿った道に面して惣門があり、中門を備えた広大な寺域で、本堂の後ろには広い林が広がっている。その林に「日暮里」と書かれている。しかし今では全く面影もない。塀際には石を組み合わせて岩窟のようなものを作って布袋像を安置してある。この千寿院の墓地の下を千駄ヶ谷トンネルが通っているというのは結構有名な話らしいのだが、私は知らなかった。東京オリンピックのためである。
     本堂正面の桶に葵の紋が入っているから、格式が高いということだろう。「アッ、珍しいよ。」宗匠が屋根を指差すので見上げると、獅子が鯱鉾のように身を反らして逆立ちしている。
     ここを出れば勢揃坂に入る。(神宮前二丁目)八幡太義家が、ここで軍勢を揃えて奥州へ向かったという伝説がある。つまり、かつては奥州街道だったということだ。
     そして熊野神社に着く。もと紀州家の鎮守だったものを、ここに勧請した。
     本殿を見ていた講釈師が「富岡八幡に似ているんだよ」と言い出した。「深川の」とハイジが問い返す。「そうなんだ、屋根の形とかさ。」私はよく覚えていないが、唐破風の辺りがそうだろうか。
     狛犬の形が珍しい。片方の頭には鹿の角のようなものが、もう一方には宝珠のようなものをつけている。「あれは、なんだい。」なんだったろうか。確か芝神明宮で教えてもらった記憶があるのだ。獅子と犬との区別だったのではないだろうか。折角教えてもらっても身についた知識になっていないのが悔しい。仕方がないのでウィキペディアを開いてみると、ちゃんと載っている。

     飛鳥時代に日本に伝わった当初は左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、やがて二頭の外見上の違いが少なくなって、現在では左右いずれの像も狛犬と呼ぶのが一般化している。(中略)
     また、獅子と狛犬の配置については、禁秘抄と類聚雑要抄に共通して獅子を左、狛犬を右に置くとの記述があり、類聚雑要抄ではさらにそれぞれの特徴を「獅子は色黄にして口を開き、胡摩犬は色白く口を開かず、角あり」と描いている。(ウィキペディア「狛犬」)

     つまり角のあるのが犬であり、角のないのが獅子であった。確かに角のない方が口を開けている。獅子である。それにしても暑い。ちょっとした日陰で息をつくと、飴、煎餅、ゼリーが配られてくる。

     炎帝の残力かはし江戸歩き  閑舟

     妙圓寺(日蓮宗)、渋谷区神宮前三丁目八番九。左門柱の脇に「隠原小学校跡」の標識が立ち、境内に入れば、「原宿発祥の地」碑が立つ。

     江戸時代は草深い寒村であって、明治神宮も表参道ももちろんまだなかった。そこはかつて鎌倉から奥州へと至る道筋にあたり、小規模な宿駅がここに置かれて「原宿」と呼ばれるようになったと、『新編武蔵風土記稿』には記されている。当地を流れる清水川という小川にちなんで、「清水の郷」と呼ばれることもあった。当時の原宿の中心は今の神宮前三丁目のあたりで、そこには日蓮宗の名刹、蓮光山妙円寺があり、同寺境内には「原宿発祥之地」の記念碑が立っている。(長沢利明『江戸東京歳時記をあるく』http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r03-25.html)

     本堂の右には白い百日紅が綺麗に咲いている。「白いのは素敵よね。」「紫のもあるよ。」講釈師はそういうが、紫色のサルスベリなんて私は見たことがない。「私も知らないわ」とハイジも答える。「紫というか、ワインレッドみたいなやつなんだ。」
     「これは何かしら。」細長い葉の形からして蘭系の植物のようだが、ハイジが知らない白い花を私が知っているわけがない。講釈師も首を捻りながら、それでも適当な名前を口にする。「本当ですかね。」「口から出任せじゃないの。」「どうして俺の言うこと信じないんだ、ヤになっちゃうよ。」
     この寺では狸汁粉供養と言う行事が行われるらしい。子どもに苛められている子狸を日蓮が救ったのを徳として、狸が日蓮に汁子を振舞ったという伝説に基づく。「どこに掛ければ良いのかしら。」「悪い所に掛けるんだよ、頭とか。」水掛け観音の前で、ひとしきり賑やかになる。第七代横綱・稲妻雷五郎の墓があるらしいが、「墓地の中は探していません。だって怖いでしょ」と姫が言う。それにそんな横綱は誰も知らないから、あえて探そうとする人もいない。

     商店街に出ると、小さなビルのブティックの前の車道寄りのところに「徳富蘆花旧居」の標柱が立っている。渋谷区神宮前四丁目九番。蘆花が明治三十三年十月から三十九年八月まで住んだ場所である。『おもひでの記』を書いた。
     「私のご近所にあるのはなんでしょうか」と世田谷の住人碁聖が質問する。明治三十六年には、兄蘇峰への「告別の辞」を発表して絶縁状態となるのだが、蘆花はこの後、青山高樹町の借家を経て、明治四十年に現在蘆花恒春園となっている場所に引っ越した。そこで昭和二年の死まで約二十年間を過ごすのである。
     蘆花は明治二十三年、二十七歳で発表した『不如帰』で有名になった。ここに住んでいたのは三十七歳から四十三歳までということになる。
     今では蘆花を読む人なんかいないだろう。私は最初に『謀反論』を読んだ。大逆事件の真っ只中で幸徳秋水に対する弁護論を展開するというのは、並大抵ではない。そのお蔭でその後数冊を読んでみる気になったものだ。今は読む人も少ないと思うので、ちょっとだけ引用してみたい。大逆事件被告の死刑が行われた僅か八日後、一高大講義室での準公開講演である。

     しかし最も責むべきは当局者である。総じて幸徳らに対する政府の遣口は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追立て、引かかるが最期網をしめる。陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。(中略)死の判決で国民を嚇して、十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の十二名はほとんど不意打ちの死刑――否、死刑ではない、暗殺――暗殺である。(中略)
     しかしながら徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平の四十四年に十二名という陛下の赤子、しかのみならず為すところあるべき者どもを虐めぬいて激さして謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じてこれが責任を負わなければならぬ。(中略)
     諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と看做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となることを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。(徳富蘆花『謀叛論草稿』)

     主観的には非常に真面目なひとだったのだろう。それが、思い込みが激しすぎ、時に過激になったから世間との折り合いが付けられなかった。自ら敗残の人生だったと覚悟した。タイプは違うが、二葉亭四迷も同じようなひとりだったのではないだろうか。明治の文学は命懸けだった。

     昼食はロイヤルホストである。蘆花旧居跡から十メートルもない。「十一時二十分だから大丈夫でしょう」と姫は(そして私も)簡単に考えていたが、結構混んでいる。なんとか席を作ってもらったが、メニューを見ると、この店はオムライスとパスタを専門にしているようだ。どちらも私には苦手のものだ。大体、何が悲しくてご飯にトマトソースを塗して不味くしなければならないのか。それにパスタとは何であるか。細長いものを食べたいのなら蕎麦か饂飩を食えば良いのである。なんて事を言うのは、時代遅れの人間のたわごとだ。案外、国粋主義とかナショナリズムというものは、こういう馬鹿馬鹿しい好悪の感情から発生するのではないだろうか。
     ほとんどがオムライスとパスタを注文した中で、私は白いご飯が食べたいのでチキンのグリル焼きを頼み、姫は生姜焼きを注文した。平日ではないので日替わり定食なんていうものはないので、結構高い。九百六十円に、ライスとスープのセット四百五十円をプラスしなければならない。
     それにしても、姫が注文するものはいつも必ず最後になってしまうのは何故だろう。「食べ終わってもすぐに出ないでくださいね」と講釈師に何度も言わなければならない。
     この店のトイレは珍しい。形が珍しいのではなく、レジでコインを貰わなければドアが開かないのである。共同ビルで、ロイヤルホストだけが使用するものではないから、浮浪者対策であろうか。そしてこう言う方式は誰も知らない。
     「コインだって言ってるじゃないか。」「聞いたけどさ、いつもの冗談、嘘だとおもってたからね。」これは講釈師とマルちゃんの会話である。続いてカズちゃんに攻撃の矛先が向けられる。「二度も往復して。」「だって分からなかったんだもの。」講釈師だって始めから知っていたわけではない。

     店を出ればすぐに表参道に出て、右に曲がって同潤会アパートを見る。渋谷区神宮前四丁目二十番。私はこのアパートは全て取り壊されてしまったと思い込んでいたが、表参道ヒルズの中でこうして一棟だけが残っているのは、安藤忠雄の設計で復元再生されたものなのだった。建築当初の外観を保っていると言う。この三階建ての外観が当時そのものなら、随分洒落た雰囲気だ。青々とした蔦を這わせた建物の中には、私にはまるで関係のない雑貨やファッション関係の店が入っているようだ。
     同潤会というのは、関東大震災の被害復興のために内務省に設立された財団法人で、住宅公団(という言い方も古くなってしまった。現在の住宅都市整備公団)の原型になる。

     同潤会は単なる仮設住宅を造ろうとしたのではなく、様々な機能を備えた最新鋭のアパートを造ろうとしました。こうして完成したのが、これら同潤会アパート群で、当時は「東洋一」との評判もありました。それは、約八十年も生活空間として使用され続けたことからも実証済(なお、一部は商業施設となり、外観が大きく変えられています)。
     しかし、老朽化は如何ともしがたく、この同潤会青山アパートは二〇〇三年に取り壊され、跡地には商業施設と住宅を兼ね備えた「表参道ヒルズ」が誕生しています。なお、この「表参道ヒルズ」も同潤会青山アパートの雰囲気を引き継ごうと、高さを大幅に抑え、さらに青山アパートのうち一棟を復元し、歴史を今後とも伝えていきます。
    http://www.uraken.net/rail/travel-urabe31.html

     公団住宅を建てたほどだから、当時のこの辺りの光景は今とは全く違った静かな住宅地だっただろう。若い男女や外人が多く、生活には余り関係ないような店ばかり並んでいるこういう道は、私は苦手だ。「向こうに見えるのは新潟県のサテライトショップだよ」と宗匠が指差す。新潟県と宗匠とは何の所縁があるのか。「酒が色々手に入るんだ。」
     通りを横断して向こう側に行く。「ここはスカートが盛んなんだ。」スカートではない、スカウトである。確かにちょっと可愛らしい娘に声をかけている者がいる。「みんな、声を掛けられても注意しなくっちゃだめだ。」「私ならついて行っちゃう。」「この頃そんなことないもんね。」
     「すみません、リーダーより先に行かないでくださいね。」気がつくとドクトルが先頭を歩いていた。「ナマ足に見惚れて、どんどん行っちゃうんじゃないよ。」どんなことでも罵倒の種を見つけるのが講釈師の特技だ。
     「今度は大きい案内板がありますからね。」表通りからちょっと外れた路地で、姫が案内してくれたのは大山史前学研究所跡である。渋谷区神宮前五丁目五番四。マンションの角地のちょっとした緑のある空き地に、縦一メートル、横一・五メートルほどの案内板が立っていた。左半分が解説、右半分が研究所に関係した人たちの写真である。私は考古学に疎いからまるで知らないひとばかりだ。
     「史前学」という用語は古い。プレ・ヒストリーの訳語だが、この言葉の前提になっているのは、文字で記録されたものだけが「歴史」であり、それ以前は「歴史以前」であるという発想だろう。高校生私も実はそんな風に思っていて、だから考古学の勉強を全くしなかった。
     但し、用語はそれとして、現在で言う考古学の先駆者として大山巌の次男がこんなことをしていたのは全く知らなかった。とりあえずウィキペディアから、適当に抜書きしてみる。

     大山柏は華族、陸軍軍人、考古学者、公爵、貴族院議員、文学博士(慶應義塾大学)、戊辰戦争研究家。階級は陸軍少佐。父は元帥陸軍大将:大山巌、母捨松。妻は近衛文麿妹の武子。
     父の遺命で軍人となったが、第一次世界大戦後、陸軍大学校への進学を拒絶して考古学研究へ傾斜していく。
     昭和三年には志願して予備役編入となった。渋谷区穏田の自邸内(つまり、私たちが今立っているこの場所であろう)に「史前学研究所」を設立し、慶應義塾大学講師となる。
     それまでの日本の発掘が単なる遺跡発掘に留まった「宝探し」だったのに対し、ドイツ最新の系統だった発掘方法を持ち込み、主に縄文時代の研究において著しい成果を上げた。特に昭和元年から昭和六年にかけて甲野勇らと行なった関東地方の貝塚の発掘調査で、貝塚を構成する貝類や層位学的研究法による土器型式の新旧にまで留意した研究を行ない、昭和八年には関東における縄文土器の編年をほぼ完成させた。同時に当時日本には存在しないとされていた旧石器文化にも着目し、『史前学雑誌 第一巻』第五・六号で「日本旧石器文化存否研究」として発表した。
     東京大空襲で大山邸と隣接する史前学研究所が、蔵書や所蔵する縄文土器、旧石器もろとも全焼し、更に戦後の華族制度廃止と農地解放、公職追放により財産の過半を没収され、研究所を再興することができず、以後は穏田に子息を残し牧場と父母の別荘のあった西那須野町(現在の那須塩原市)に隠棲する。
     晩年は戊辰戦争の研究に身を捧げ、今日でも戊辰戦争研究の基本資料とされる『戊辰役戦史』を出版した。(ウィキペディア「大山柏」より抄出)

     戊辰戦争の研究を志したのは、母捨松の影響だったかも知れない。蘆花の『不如帰』では意地悪な継母として描かれた捨松だが、軍人の家庭には珍しくリベラルな雰囲気を作り出したのは彼女の功績ではないか。大山柏がいったんは軍人になりながら研究者の道を歩んだのも、会津藩山川家の血の影響もあるかも知れない。そもそも戦前において考古学は、もしかしたら皇国史観に抵触するかもしれない、実に危うい学問だった。
     青山通りに出て向う側に国連大学と子どもの館を見る。その辺りは山城淀藩稲葉家の下屋敷の跡である。左手の青山学院は伊予西条藩松平家の上屋敷だ。つまりこの辺りはかつて大名屋敷の並ぶ地域だった。
     金王八幡は渋谷青山の総鎮守である。渋谷区渋谷三丁目五番十二。この辺り一帯の高台が渋谷氏の居館(城)であった。南に鎌倉街道(現在の八幡通り)、北に大山道(青山通り)のある交通の要衝である。
     鳥居の後ろに朱塗り格子造りの門が建っているのが珍しい。建立年代について、明和六年(一七六九)と享和元年(一八〇一)と二つの説がある。

     源義家が、後三年役の勝利は河崎基家(渋谷の祖)の崇拝する八幡神の加護なりと渋谷城内に寛治六年(一〇九二)に勧請した。基家の子、重家は堀河帝より渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の発祥とされる。重家の子、渋谷金王丸は武勇に勝れ源義朝・頼朝に仕えた。境内の金王桜は、頼朝が金王丸の誠忠を偲び名付け植えた。(御由緒より)

     リーダーが前もって宝物館の中を見学させてもらえるよう頼んでいる。紺のTシャツに膝丈のズボン、ゴム草履のたくましい中年男性が、宝物館の扉を開けてくれ、中央に鎮座した神輿の全体が見えるように、余計なものを取り除いてくれた。宝物館の隣には工事中の幕が掛けられているから、この人は大工の棟梁だろうか。
     「それじゃ、リーダーに説明してもらいましょう、私もここで聞いているから。」「エーッ、そんな。資料に書いたこと程度しか分かりませんよ。」と姫は困惑する。「それじゃ、私が説明しましょう。時間はどのくらいあるのかな。」「十分か二十分でお願いします。」
     「金王麿は秩父平氏の一族です」これは『江戸名所図会』にも書かれているから、私も予習してきた。秩父平氏は、髙望王より五代の裔村岡五郎良文に始まるが、その後裔にあたる。

     金王麿は左馬頭源義朝に仕へし童にして、たびたび手柄をあらはしすこぶる大功の者なり。義朝、平治元年に大納言藤原信頼にくみしてむほんを起こし、待賢門の軍に打ち負け、尾張国野間の内海にありし御家人、長田庄司忠宗がもとに落ちのびたまひしを、長田心がはりして、浴室に義朝を弑し奉る。金王麿くちをしく思ひ走り廻り、むかふ者どもをきりふせて、その後都に登り、義朝の妾常盤がもとに参り、そのありさまをかたりて後、義朝の跡をとぶらひまゐらせんがため、出家して諸国を修行し、その終はるところをしらずとなり。(『江戸名所図会』)

     『江戸名所図会』では渋谷八幡として記載されている。もとは渋谷八幡と称したが、後に金王八幡と呼ばれた。「江戸の人にとっては渋谷なんていうのは、とてつもない田舎で誰も知らない。金王様の渋谷と言えばやっと分かってもらえたんですよ。」確かに、近江屋版切絵図を見れば、東側に諏訪稲葉守、鎌倉道を挟んで南側に松平美濃守の屋敷地はあるものの、その他は「田地」「畑」ばかりで、何もない。田舎、在郷である
     「この神輿は普通に見られるものより胴が太い。鎌倉末期のものと推定される。本来、輿は人間が乗るもので、それなりの広さが必要だったのに、今の神輿は女性のようにスマートに、腰がくびれている」と笑う。本来これは鎌倉八幡宮七神輿の一である。「当時は、この辺りの武士もこぞって神輿担ぎにでたのです。そのついでに持って来ちゃった。つまり盗んだということです。」
     月輪旗はレプリカだが、写した時代が古いからこれでも相当価値がある。本来はご神体であった。

     寛治六年(一〇九二)正月義家朝臣凱陣のとき、谷盛庄へ立ち寄らせたまひ、月の御旗をば当社にとどめたまふ。されでもこの御旗をみだりに拝する者あるときは、必ず祟りありといふをもつて、能証阿闍梨深く社檀にひめ置きて、写しを出し置けり。(『江戸名所図会』)

     算額は冲方丁『天地明察』に登場したもので、「本屋大賞」なんて紙がぶら下げられている。「本屋大賞」というのは業界人以外知らないのではないか。「全国書店員が一番売りたい本」であり、投票は書店員に限られる。第一回受賞作品は小川洋子『博士の愛した数式』であり、『天地明察』は第七回受賞作である。
     残念ながら読んでいないが、この算額は十五宿星の問題だと言う。こういうものだ。まるで理解できないから、図は省略する。

     今有如圓宿名一十五球只云角亢二球周寸相併一十六寸又云心尾箕三球周寸相併三十寸重云虚危室壁奎五球周寸相併六十三寸問角球周寸幾何
    http://kiten.blog.ocn.ne.jp/kisouan/2010/04/post_2d8f.html

     源頼光鬼退治の錦絵を描いた絵馬が二枚、「六孫王の笄」というものもある。「六孫王というのは源経基のことで」ここは秩父平氏の一族にまつわる神社である。「平ではないんですか」と尋ねると「源です」と返事が返ってくる。経基は清和天皇第六皇子貞純親王の子、従って清和天皇の孫であることから六孫王と呼ばれた。
     「この経基が使用した笄、つまり簪ですね。冠を頭に固定するのに、私なんかも今は紐で結わえるけれど、昔は、笄を髷に差して止めたものなんです。」経基は武家の清和源氏の租であり、子孫の八幡太郎義家が所持していてもおかしくはない。義家がこの笄を寄進したのであった。
     この「私なんかも紐で結える」という言葉で、この人は大工の棟梁ではなく、神職なのだということが分かる。そして杜甫のあれは、そういうことだったのだねと今更ながら感心してしまう。どうも頭脳が鈍い。

     白頭掻更短   白頭掻けば更に短く
     渾欲不勝簪   すべて簪にたえざらんと欲す(『春望』)

     「それじゃ御本殿のほうに。」竹千代(家光)が三代将軍に決定したお礼として乳母の春日局と教育役の青山伯耆守忠俊が奉納したものである。慶長十七年(一六一二)造営というから古い。江戸時代初期の建築様式をとどめる都内でも代表的な建築物であるという。
     「こういうのは珍しいものです」と言いながら、「左壁にあるのは虎ですよね、右はなんだと思いますか」と笑う。龍ではないのだろうか。鼻が長いから象か。「これはバクです」なんでも獏は鉄を好むと信じられた。戦乱が起きれば鉄が払底してバクの食料が不足する。だから平安を祈念するための象徴がバクなのである。
     外壁の漆は二十年に一度塗り替えることになっている。「どのくらいかかると思いますか。」難しい質問である。「一千万ほどですか。」「一億円です。」「エーッ、そんなに。」平成二十三年に御鎮座九百二十年・金王丸生誕八百七十年・春日局御社殿御造営四百年を迎えるため、社務所改築、擁壁改修、境内整備を計画中である。総工費は四億五千万円を見込む。「ですから皆さん、ご協力宜しくお願いします。」「なんだ、一億ですか」と言いながら私は財布を広げ、小銭を集めて三十二円を賽銭箱に投げ込んだ。
     本殿から白い着物に黒い袴を着け、にこやかに笑いながら白髪の老人がでてきたので、この人が宮司だろう。説明してくれたひとは、その息子さんにあたるだろうか。
     本殿の脇にあるのが金王桜である。一本の木に一重と八重とが同時に咲くのだが、説明によれば、ガクが肥大して花弁状になったものが八重に見えるということだ。
     説明が終わるとチイさんがリュックに詰め込んできたサツマイモと柚子を女性陣に配布した。「これで随分軽くなった」と笑っているが、いつも有難いことである。本殿の左の方には「渋谷城 砦の石」が置かれている。綺麗に切り取った石で、中世の城に使われたもののようには見えない。
     
     隣の東福寺も計画にあったのだが、時間が延びてしまったせいもあって、リーダーはカットした。
     「この辺に宮様のお屋敷があったんだけどな。」講釈師が言っているところに、その屋敷が現れた。常盤松御用邸と言われる常陸宮邸である。渋谷区東四丁目九番。「そうだよ、これだよ。」何でも良く知っているひとだ。
     この辺りから國學院大學まで、およそ一万八千坪の広大な地域が薩摩藩下屋敷であった。三田の薩摩藩邸が安政大地震で被害にあったのと、海に近ければ黒船の攻撃が予想されることもあって、篤姫はいったんこの渋谷の屋敷に落ち着いた後、輿入れしたのである。赤坂東宮御所ができるまでのあいだ、東宮仮御所として今上天皇が住んだ場所でもある。常盤松の碑が立っている。
     道路を渡った向かい側にあるのが、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館だった。渋谷区東四丁目九番一号。玄関脇に珍しい木が立っている。「白松です。」白っぽい幹の松だ。
     「団体扱いになる人数です。」リーダーを先頭に入ると、六十歳未満の人間だけが挙手を求められる。私を含めて五人である。「それでは五人の方は八十円です。」高齢者は無料になる。本来は一人百円である。
     二階には過去現在の渋谷の様子を展示し、地下二階に渋谷に所縁の文学者たちを展示してある。独歩、蘆花、与謝野鉄幹・晶子、花袋、白秋、高野辰之、釈迢空(折口信夫)、夢二、大岡昇平、獅子文六、三島由紀夫、馬場孤蝶、志賀直哉。そして奥野健男の書斎が復元してある。奥野の書斎といっても、小さな机(私たちの事務机より狭い)と本棚だけだ。印象としては学生の勉強部屋に似ている。
     見学が終わって一階で休憩していると、係員が冷たい水をサービスしてくれるのが有難い。よほど暇なようで、講釈師や碁聖を交えて釣りの話や何かに興じている。窓の外に子供神輿が通るのが見えた。「付き添いの親のほうが多いんじゃないか。」「孫の運動会を見に行くおじいちゃんたちもいるんじゃないの。」「私だって孫の運動会のために群馬まで行きますよ」と碁聖の声が大きくなる。

     國學院大學を回りこむように歩いて行くと温故学会・塙保己一資料館にたどり着く。建物は登録有形文化財である。学会のHPから引用すればこんな建物になる。

    鉄筋コンクリート二階建で、正面からは鳳凰が両翼を広げたような形をしており、玄関向かって右側は、一階・二階ともが版木倉庫、左側は、一階が事務室などで二階が講堂となっている。講堂は二十七畳と床の間を配置し、和洋折衷の珍しい構造となっている。

     本来土曜日は人を入れないのだが、リーダーが事前にお願いして見学が許された。説明してくれたのは斎藤幸一理事長だ。すぐに書庫の中に通してくれた。棚には群書類従の版木が整然と並べられている。保己一は幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、古書を収集・編纂した。古代から江戸時代初期までの史書や文学作品について、異本を廃して正本を定め、寛政五年(一七九三)から文政二年(一八一九)に『群書類従』として木版で刊行した。計千二百七十三種、六百六十六冊に及ぶ。その版木が全て、この書庫に納められているのである。それを考えるだけも身が引き締まる。
     「さて皆さん、国語の教科書で習ったことを覚えているでしょうか。蝋燭の火が消えた話ですが。」誰も返事をしない。年恰好から見て先生は私より少し年下に見えるが、少なくとも私は記憶がない。碁聖なら知っているだろうかと顔を窺うが、反応がない。諦めて説明を始めた。
     「ある晩、保己一が弟子を集めて源氏物語を講義しているとき、蝋燭の火が消えたんですね。弟子たちは慌てましたが、保己一はちっとも慌てず、なんと目明きと言うものは不自由なものよのう、と言ったそうです。」
     この人の説明は、子どもたちに説明するような丁寧な口調だ。保存してある版木は今でも現役として活躍していると言う。希望する者には、和紙に刷り立てて頒布する。
     塙保己一について、まず私には考えられないのだ。盲人が本文の正異を判定するためには、千二百七十三冊の全ての本文を記憶していなければならない。この能力は只事ではない。ヘレン・ケラーは母親から保己一のことを聞き続け、尊敬していたと言う。
     「江戸に出てきて暫くは全く覚えが悪かったそうです。それが学問の道に進ませてくれと願い出て許されてからは驚異的な進歩でした。」
     盲人を統括するのは当道座で、もともと中世平家琵琶の職能集団から生まれた組織である。幕府による農工商以外の制外身分の統制管理強化のためではあったが、音曲だけでなく按摩鍼灸を含めて、当道座というのは一種の職業訓練所でもあり、結果として社会福祉政策にもなっている。但しすべての盲人に音楽的才能があるわけではなく、保己一がまるっきりの劣等生であったというのも、おそらくそうした理由ではないか。凡庸と判断されれば按摩鍼灸の道に進むべきところを学問に進むことを得たのは、師である雨富須賀一検校の慧眼であろう。
     「二代目は伊藤博文と山尾庸三に暗殺されました。」二代目と言うのは保己一の四男、忠宝である。
     忠宝は『史料』、『武家名目抄』、『続群書類従』などの編纂に携わり、『南朝編年稿』、『近世武家名目一覧』、『集古文書』などを編著した人である。ちなみ保己一に始まる史料類の編纂事業は後に東大史料編纂所に引き継がれて、『大日本史料』として現在に至っている。
     文久二年(一八六二)、老中安藤信正の命で忠宝が幕府の外国人処遇の例を調査しているとき、「廃帝の典故」について調査しているのだと誤伝され、尊王攘夷派を刺激した。当時、幕府のやること全てに悪意をもって反対したのが攘夷派だから、「誤伝」というよりも意図的な捏造だと思われる。
     暗殺者が伊藤博文と山尾庸三であったことは、大正十年になって渋沢栄一が発表した。「三代目、四代目は文部省などの役人になっています。おそらく伊藤博文が後悔して登用したんじゃないでしょうか。」
     「暑いんだよ」講釈師がブツブツ言い始めた。冷房がないから確かに暑いが、今、先生が説明しているのである。何度か文句を垂れた後に、「たまんねえ、出るよ」と言って外に出ようとしたとき、先生が気づいて「暑いですよね」と話し始めた。私はこういう歴史的な貴重な資料を保存するには、空調を完備した部屋でなければいけないと思っていたが、実は違うのであった。「木は生きているんですよ。だからできるだけ自然の状態で保存した方が良いんです。」
     「版木の文字数はどのくらいですか」と碁聖が尋ねた。一行二十字、十行を見開きで二十行、合計四百文字である。「そうか、これが原稿用紙の起源になるんだね」と納得する。
     「材質はなんでしょうか。」「桜です。」温故学会のHPによれば、山桜は切削りが容易で、文字行面がきれいに仕上がることや、墨との着色性に優れ、時間が経つに従って硬く丈夫になることで狂いが少なく、なおかつ耐久性がある。したがって、江戸時代の浮世絵や書籍印刷用の版木にはこの山桜が主に使用された。「暑いんだから、余計な質問するんじゃないよ」とブツブツ文句を垂れる人がいる。
     全てを二十五の部門に分類して本文六百六十五冊、目録一冊を含めて合計六百六十六冊。版木枚数は一万七千二百二十四枚。昭和三十二年国の重要文化財に指定された。
     説明が全て終わると、「感動した」とマルちゃんが叫ぶ。「児玉の人だとは知ってたけど、こんなに偉い人だったなんて。連れてきてもらって有難うね」と姫にお礼を言う。

     出てすぐの角に「服部南郭別邸」の標柱を見つけた。「偶然です。下見のときには一所懸命探して見つけられなかったの。」柳澤吉保に認められて仕えたが、吉保死後、跡を継いだ吉里とは肌が合わず職を辞した。徂徠学には漢詩文を中心とする面と経学の面とふたつあり、漢詩文の面で荻生徂徠を継いだのが南郭であり、経学の面を代表するのは太宰春台だ。
     渋谷区立広尾小学校。渋谷区東三丁目三番三号。昭和七年、関東大震災後の復興建築のひとつとして、耐震・耐火の鉄筋コンクリート造りの校舎が上智の丘に建設された。インターナショナル・スタイル(国際建築様式)で機能主義的な校舎であること、表現主義デザインの施された校舎であること、コの字型の校舎配置の東北隅部に高い塔をあげていることが特徴とされる。この塔は、昭和二十二年まで、渋谷消防署上智出張所の望楼として使用された。平成十二年、国の登録有形文化財になった。
     ここで用事があると言うマルちゃんや女性陣たちはお別れする。いつもは必ず反省会まで付き合ってくれるカズちゃんも、「なんだか疲れちゃって」と帰っていった。女性の中で残ったのはリーダーである姫とハイジである。「残念でしょう。」「いや、姫とハイジがいれば」と私は一所懸命お世辞を言う。「嬉しいわ。」「でも相当無理して言ったみたい。」

     一人去り二三六と法師蝉  閑舟

     住宅地の狭い道を歩いて行くと、タチキチョウセンアサガオが例のように長い花を下に向けて咲いている。好きな花ではない。隣にはノウゼンカズラが勢いも失わずに咲いている。「長く持つわね」とハイジが感心するように言う。真夏の花がこんなに長く咲いているから暑いのである。

     江戸の寺燃え立つやうに凌霄花  蜻蛉

     祥雲寺は臨済宗である。渋谷区広尾五丁目一番。大徳寺龍楽和尚に帰依した黒田長政によって、赤坂溜池の黒田家中屋敷内に開かれた寺だが、火災のために現在地に移転した。祥雲禅寺と彫られた門を入ると、敷地の中に民家のように見える塔頭の門がいくつも建っている。寺町のような雰囲気になってくる。
     山門近くの鼠塚を説明しただけで、リーダーは「皆さん、それじゃ見てきてください」と言う。「だって怖いんだもの。」鼠塚は、明治三十三、四年のペスト流行の際に殺された鼠を供養するものだという。こんなものでも供養の対象になるのか。
     有名人の墓の場所を示した地図は、前もって姫から渡されてある。それを見ると最も広い範囲を占めるのが福岡黒田家で、その他、松平家(どこの?)、有馬家、織田家、草郷家などの名前が並んでいる。
     最初に見たのは日本で初めてカルテを作成したと言う曲直瀬玄朔(二代道三)の墓だ。

     初代道三の妹の子として京都に生まれる。幼くして両親を失い道三に養育され、天正九(一五八一)年にその孫娘を娶って養嗣子となり道三流医学を皆伝された。豊臣秀吉の番医制に組み込まれて関白秀次の診療にも当たった。徳川家康・秀忠に仕え江戸邸と麻生(港区)に薬園地を与えられた。初代道三の選した著作を校訂増補して道三流医学の普及をはかり、野間玄琢、井上玄徹、饗庭東庵らのすぐれた門弟を輩出させて初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。(『朝日日本歴史人物事典』から抄出)

     渡辺プロの渡辺ミサが曲直瀬姓だった筈だ。珍しい姓なので、もしかしたら一族だろうか。調べてみると、確かにそう言う記事を見つけた。

     渡邊美佐は曲直瀬正雄花子夫妻の長女として横浜に生まれ、四人の妹、二人の弟がいる。家祖は日本医学に大きな足跡を残し、室町末期から安土桃山時代に活躍した曲直瀬道三である。http://www.a8k.jp/ito/guest/07watanabe.html

     岡本玄冶の墓は見つけられなかった。幕府お抱え医師としての岡本玄冶法印には誰も関心がないが、拝領屋敷跡が玄冶店と呼ばれることになって、後世に名を残した。お富与三郎である。
     黒田家の墓域は分かったが、長政のものが分からない。黒々とした背の高い墓石が並んでいる。たぶん一番奥の方だろうと思って辿ってみると、あった。「お家の中に入っている。」チイさんの感想が面白い。高さは五メートルほどにもなる大きな墓石の周りを、小屋で覆っているのである。その下二メートルほどが跳ね上げ式の戸で開けられていて、中の墓石を見ることができる。
     「院殿・大居士があるかい」とドクトルが覗き込む。法名は、興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道卜大居士。筑州都督という表現が面白い。寺の山門まで戻ると、「大きな黒い甲冑が並んでいるようでしょう」と姫が言う。そう言われれば、黒い墓群はそう見えないこともない。「だから怖いんですよ。」

     蜩や黙し佇む武者の列  蜻蛉

     「黒田長政はキリシタン大名だったのに、後には棄教するんですよね。」姫は、信仰がそんなに簡単に捨てられるのかと真剣に考えているようだ。しかし、キリシタン大名、特に九州の大名がキリシタンになったのは、むしろ南蛮貿易や新知識の吸収に利益があると考えたからではないだろうか。一向一揆や法華一揆への対抗手段だったとも考えられる。キリスト教に完全に帰依していたとは考えにくい。それに殉教さえも厭わずデウスのみを信仰する信者の存在は支配者にとっては実に厄介で、権力基盤が揺るがされる恐れが充分にある。高山右近は特異な例ではないか。
     ハイジは四時までに恵比寿駅まで行かなければいけないので急ぐ。「広尾の水車跡があるはずなんですが、下見の時に発見できなかったので、やめます。」この辺りの水車については、大岡昇平の回想にも現れる。

     この堰はちょうど私の家の位置にあった水車のためのものだった。道玄坂の「伊勢万」という乾物屋の持っていた精米水車で、堰の上から取水し、私の家の位置まで溝で導いて水車を回したのである。明治年間渋谷川宇田川にはこの種の水車が十数個あったが、明治四十一年の水害で全滅した。そろそろ電力精米が普及し出していたので、次第に廃止になったようである。(大岡昇平『少年』)

     左手に見える「えびす橋」を首を捻りながら通りすぎようとした姫だが、「やっぱりここでした」と左に曲がる。「また道間違えたのか、リーダーなんだから、ちゃんと頭に入れておかなくちゃいけない。」「だって、ビール橋って覚えてたんだもの。」もとは恵比寿ビールを搬出するために作られた橋で、赤レンガのアーチ型のものだった。下の細い流れは渋谷川だ。
     ハイジと別れ、恵比寿麦酒記念館に入る。渋谷区恵比寿四丁目二十番一。二十分ほど自由にしろと姫が宣言した。五百円の見学ツァーに参加すれば、生ビール二杯が飲めることになっているが、特にツァーに参加するほどではない。取り敢えず何がしか払えば飲めるだろうと、うろうろしていると、四百円で四種類のうちから一杯飲めることが分かった。カウンターにコインを出すと、細めのグラスに注いでくれる。最後に泡だけを注ぎ足すようだ。ビールを手にしたが、座る所はない。仕方がないので、ドクトル、チイさん、宗匠と立ち飲みのカウンターで飲む。
     何を置いてもビールに手を伸ばすはずのスナフキンはどうしたのだろう。戻ってみると、姫と座り込んで話をしている。「どこかで飲めないのかな。」この言葉は彼にしては迂闊ではないか。「あそこで飲めるよ」と二人を連れて行くと、「あと五分しかないんですよね」と姫が悔しそうに呟いた。自分が決めた集合時間だが、自ら破るわけにはいかず、五分では飲めないと彼女は断念した。スナフキンは勿論大急ぎで一杯飲む。「あんまり冷えてなかったな。」
     ここで一度帰ったはずのカズちゃんから電話が入り、疲れがとれたので反省会に参加したいと言うので、恵比寿駅で待ってもらうことにした。それでは急がなければならない。
     「軟弱ですよ、動く歩道を使うなんて。それに若い娘と一緒に。」歩く歩道でボンヤリ立っている宗匠とスナフキンを、碁聖が写真に撮った。画像を見せて貰えば、隣に立つ若い娘の方に目を集中させた中年男性の顔である。

     ウォーキングビール飲んだらウォッチング  閑舟
     弁天に動く心に止る足  篤姫
     汗しとど歩きし果てに目の保養  悟朗

     そんなに綺麗な娘だったのか。私は動く歩道を脇目もふらずに歩いてしまったから、まるで気付かなかったのが惜しまれる。
     本日、宗匠の万歩計で一万八千歩。カズちゃんと合流していつものさくら水産に入る。「こっちのビールの方が旨いんじゃないか。」スナフキンは(そして私も)、この季節ならビールは冷えすぎる程冷えていた方が旨いと思う。専門家ならば、ビールは冷やし過ぎてはいけないと言うのだろう。さっきの程度が適温なのだろうか。結局スナフキンも私も、本当のビールの味は知らないということだろう。
     そう言えば三十年も昔、気難しそうなバーテンダーのいるバーで飲んだことがある。そこでもやはり、ビールは冷やし過ぎてはいけないと、外側が木製の、昔ながらの氷で冷却する冷蔵庫を使っていた。
     ともあれ、歩いた後のビールは旨い。講釈師と別れて反省会に参加したのは八人だ。刺身のサゴシはなにものか。誰も知らなかったが実はサワラの子供であった。二千二百円なり。
     そして恒例のようになったカラオケへ続いて行く。

    眞人