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    第三十二回 江戸の坂と神田上水
                        平成二十二年十一月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.11.20

    原稿は縦書きになっております。
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     旧暦十月八日丁卯。集合場所は後楽園駅4b出口だ。丸ノ内線が一番便利だが、南北線もあり、また都営三田線の春日駅とも地下通路が繫がっているからややこしい。計画を送った時に「みんなには丸ノ内線で来るように連絡しとくよ」と講釈師が言ってくれた。出口はすぐに礫川公園と繫がっていてベンチもあるから待ち合わせには丁度良い。礫川はレキセンと読むが、礫は小石だからコイシカワと読んでも良い筈だ。通りの向い側には文京シビックセンターの大きな建物が建っている。APECのせいで、やたらに警官の姿が目に付く。
     今日のコースは、下記の記事に記載された範囲に含まれる。台地と谷が交互に現れるから当然坂が多い。「文京区の坂道」(文京区作成)によれば、区内には名前のつけられた坂が百十五あり、これは東京全体の坂の三分の一になる。

     西から流れる江戸川(神田川)は、かつて平川と呼ばれ、江戸の中心を流れる代表的河川であった。北から流れる谷端川は、小石川植物園の北にある簸川神社から南を小石川といい、また上流で千川上水と結ばれたので、千川とも呼ばれていた。この二つの河川に刻まれて、残った台地が、小石川台地と北側の白山台地である。  小石川台地の南、江戸川に沿って関口から神田上水が現在の水道端道路の部分を流れていた。後楽園のある水戸屋敷の中を通り水道橋の東で神田川を立体交差し江戸中心部に水を供給していた。水道端地区は日当たりのよい南斜面で小日向と呼ばれる。中央に大きな谷、茗荷谷や小さな谷、鶯谷がある。  谷端川沿いの谷は、二股に分かれ指のようなので指ケ谷と呼ばれたのではないか。http://www.imai-aud.co.jp/koishikawatopology.htmlより

     この近辺は第四回「本郷編」、第七回「駒込・小石川・高田・三ノ輪編」、第二十八回「水戸藩所縁の地を歩く編」などでお馴染みで、そこから外れた場所を選んだから、今日のコースだけを見ればなんだか不思議な計画に思われるかも知れない。
     今回は常連の欠席が多いのが残念だ。用事のある人は良いが、体調が思わしくない人は早く良くなって欲しい。結局本日の参加者は、住職、碁聖、画伯、講釈師、ドクトル、Q太郎、スナフキン、蜻蛉、クルリン、シノッチ、マルチャン、ハイジの十二人である。「あんみつ姫は来ないのかしら」とハイジが訊いてくる。彼女は午前中の用事を終えて、途中から参加する筈だ。
     空は薄曇りで寒くも暑くもなく、ちょうど良い散策日和になった。「どうしたの」と私の顔を見て講釈師が空を指差す。「俺の企画だもの、必ず晴れるに決まってますよ。」「エーッ。」ハイジや碁聖が笑っている。

     白山通りの一つ西側、現在地から富坂下交差点を通って真っ直ぐ伸びる道は千川通りだ。千川(小石川)の流路で、昭和九年に暗渠化された。講釈師やマルチャンは川があったなんて知らないと不思議そうにするが、生まれる前のことだから当たり前の話だ。
     川は千川上水の長崎村分水から、椎名町駅付近、板橋駅直下、大塚駅付近、小石川植物園の脇、シビックホール敷地内を通って水道橋付近で神田川に注ぐ。文京区内では小石川・礫川・千川・西大下水などとも呼ばれた。
     こんにゃく閻魔はこれを行けば良いのだが、その前に左に曲がって、一本西側の路地を歩いて見たい。ここを通ると、なんとなく「場末」とか「昭和」の匂いが漂ってくる。
     「ほら、トランペットフラワーが」とハイジが指差す方には、確かにキダチチョウセンアサガオが咲いている。「これって夏から秋の花じゃないか。」「そうなのよ、でも今年の夏は暑すぎて、却って咲けなかったそうよ。」そんな話をしながら先頭を歩いていると、「三十キロじゃないんだから、もう少しゆっくり歩いて貰いたい」とドクトルに指導を受けてしまった。なるほど、無意識に速度が上がっていたか。
     「この辺は空襲で焼けなかったからね。」マルチャンの声に、「そうそう」と講釈師も声を出す。「だから古い建物が残ってるのよ。」木造モルタル二階建ての古い小さな家が三四軒並んでいて、それぞれの壁がちゃんと垂直に揃っていない。歪んでいるのではないか。「所詮、木造だからさ」とドクトルが言う。川沿いの低地で地盤が弱いに違いない。
     右に曲がって千川通りを少し戻れば「こんにゃくゑんま」の参道だ。文京区小石川二丁目二十三番十四号。浄土宗、常光山源覚寺である。
     寛永元年(一六二四)、伝通院三世定誉上人が秀忠から隠居地として千三百四十四坪を拝領して開山した。本尊は阿弥陀三尊。四度の大火に見舞われ、特に天保十五年(一八四八)には本堂などがほとんど焼失したものの、閻魔像や本尊(阿弥陀如来)は難を逃れた。  正面が閻魔堂だ。閻魔は鎌倉時代の作で、寛文十二年(一六七二)に修復された記録があり、右目が濁っているのが「こんにゃく」の由来だ。
     宝暦年間(一七五一~六三)、眼病を患った老婆が好物の蒟蒻を断って、平癒祈願のため閻魔に祈り続けていると、三七日祈願満願の日に夢中に現れた閻魔が、自分の片目と引き換えに治してやると約束した。約束通り老婆の目は治り、お礼として蒟蒻を閻魔に供えた。これが噂を呼んで蒟蒻閻魔の名が広まったという。  しかし落ち葉を掃いていたひとが閻魔堂の戸を開けてくれたのに、一番奥の閻魔の顔が良く見えない。「ほら、左目だけが少し光っているよ。」「あっ、そうよね、片目だわ」とシノッチも納得している。碁聖は「だけどこれじゃよく撮れないよ」と言いながら一所懸命カメラを構える。  「蒟蒻を供えるって珍しいんじゃないの、ねえ。」マルチャンの言う通り、確かに私も他では見たことがない。しかし蒟蒻に限らず、ひとは結構いろんなものをあげるのである。

     淫祠は大抵その縁起と又はその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の赴を伴わすものである。
     聖天様には油揚のお饅頭をあげ、大黒様には二股大根、お稲荷様には油揚を献げるのは誰も皆知つている処である。芝日蔭町には鯖をあげるお稲荷様があるかと思へば駒込には焙烙をあげる焙烙地蔵といふものがある。頭痛を祈つてそれが癒れば御礼として焙烙をお地蔵さまの頭の上に載せるのである。御厩河岸の榧寺には虫歯に効験のある飴甞地蔵があり、金龍山の境内には塩をあげる塩地蔵といふのがある。小石川富坂の源覚寺にあるお閻魔様には蒟蒻をあげ、大久保百人町の鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる、向島の弘福寺にある「石の媼様」には子どもの百日咳を祈つて煎豆を供えるとか聞いている。(永井荷風『日和下駄』)

     「これだよ、これ。悪い所に塩をなすりつけると治るんだ。頭とかさ。」閻魔堂の右脇隅の小さなお堂で塩の山に半分埋もれたように、二体の地蔵が並んでいる。「講釈師は口になすりつけてください。」この塩の山は江戸の頃から堆積しているのだろうか。しかし「さあ、どうでしょうか」と掃除をしているひとが首を捻るから違うのか。  鐘楼に吊るされているのは「汎太平洋の鐘」だ。元禄三年鋳造のもので、昭和十二年、当時日本領だったサイパンの南洋寺に送られた。戦後行方不明になっていて漸くテキサス州で発見され、昭和四十九年に返還された。「何故サイパンなんかに。」「占領地域には寺や神社を造ったんですよ。」「そうそう、サイパンには日本人が大勢いたんだ。」「それにしても、こんな重い物をよくテキサスまで持って行ったよな。」占領軍は何でも持って行く。

     次は樋口一葉だ。「前に来たことがあるんじゃないか」とスナフキンは疑わしそうだが、この会ではまだ来ていない。この近所では、東大赤門向いの法真寺(桜木の宿)、本郷菊坂の井戸のある家、伊勢屋質店がこれまでに見学した一葉関連の場所だ。「好きなのね。」「一葉は大好きだから。」「そっか、大がつくのか」とハイジが笑う。  閻魔を背にして交差点を渡り白山通りに出て少し北に行くと、紳士服のコナカのビル脇に立っているのが「一葉樋口夏子碑」だ。当時の町名は本郷区丸山福山町四番地、現在は文京区西片町一丁目十七番八号である。脇にアルミの四角い缶が置いてあり、碑の説明を記した小さなパンフレットが入っていた。ビルのオーナー興陽社が作ったもので、野田宇太郎「一葉碑について」、碑文の写真とその説明、一葉略年譜等を載せているのは親切だ。
     「今度は三ノ輪の一葉記念館に行けばいいじゃないか。」あれっ、あのとき講釈師はいなかったのか。「私たち見学したわよね」とハイジも首を傾げるうちに気付いた。あれは一昨年の三の酉のついでに寄ったので、講釈師はいなかった。第七回「駒込・小石川・高田・三ノ輪編」の時点では記念館はまだ完成していない。「そうだよ、俺、入ってないもん。」  菊坂から下谷区竜泉寺(平塚らいてうの言い草では「吉原近きとある乞食町」)に移転して小商いをした生活は十ヶ月で終わり、一家がここに転居してきたのが明治二十七年五月一日だった。鰻屋「守喜」の離れで、六畳二間に四畳半、三坪ほどの庭には隣家と共通ながら裏の崖(阿部邸の山)から湧き出す水を溜める池もあり、家賃は三円である。

    花ははやく咲て散がたはやかりけり。あやにくに雨風のみつゞきたるにかぢ町の方上都合ならず、からくして十五円持参いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず。家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也。
    五月一日。小雨成しかど転宅、手伝は伊三郎を呼ぶ。

     昭和二十七年に建てられた碑は、野田宇太郎が日記から文章を選び、題字は平塚らいてうが書いた。これは野田宇太郎の人選だが、他にいなかっただろうか。らいてうは大正元年の『青鞜』に「矢張り彼女は『過去の日本の女』である」と書いた。「新しき女」には、一葉は理解できない。そもそも一葉と『青鞜』の連中とではまるで世界が違う。

     巣鴨線の小石川柳町の停留所からほんの少し北行すると、右側に狭い横町があつて、その角に活動小屋がある。それからもう少し行くと、矢張右側の角に小さい西洋建の銀行のある少し広い横町がある。で、その横町を入つて福山町の通りへ出ると、その角から北へ殆ど筋向位に当る所に大溝の彼方に道へ武者窓とでも云ひさうな窓を向けた平家があつて、その平家とその隣りの薪屋との間に大溝を渡る橋があつて、それから路次のやうになつて居るのであるが、その突き当りにあつた家が、一葉女史が住つて居、又その後になつて森田草平君が住つて居たことのある家であつた。(馬場孤蝶『明治文壇の人々』)

     孤蝶の回想は大正の頃だから現在の様子と比較するのは難しい。巣鴨線という市電は明治四十三年に白山通りに敷設されたので、勿論一葉は乗っていない。孤蝶の言う「福山町の通り」や、その間の細い路地、空き地は広い白山通りの中に含まれてしまったのだろうか。「白山通りはもっと狭い道だったんだ」と講釈師は証言する。  隣家の鈴木亭を含めて、銘酒屋や安待合が立ち並ぶ新開地の色街である。銘酒屋は、銘酒を飲ませるという看板を掲げるものの、実は並べてある酒はほとんど空壜で、私娼を抱える店だ。明治二十年頃に発生して四十年代に盛んになった。公許の遊郭ではなく私娼窟である。「アッ、そういうお店でしたか」とハイジが声を出す。  東京最大の銘酒屋街、浅草十二階(凌雲閣)下は魔窟と呼ばれたが、関東大震災後の区画整理で取り払われて玉の井に移転する。そちらは荷風でお馴染みだが、滝田ゆう『寺島町奇譚』の舞台でもある。
     この色町で、手紙の代筆から人生相談まで、一葉は娼婦たちとかなり親密に付き合った。かつて萩の舎で「ものつつみの君」と呼ばれ内気を装った少女は既にいない。

    となりに酒うる店あり、女子あまた居て客のとぎをする事うたひめのごとく遊びめに似たり、つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来る、ぬしはいつもかはりてそのかずはかりがたし(『日記』)

     特に銘酒屋「浦島」で働いていた小林愛には余ほど親身になって、「狭けれども此袖のかげにかくれてとかくの時節をお待ちなされ」と啖呵を切って奔走し、その甲斐もあって愛は銘酒屋から足を洗って神戸の実家に戻ることになる。こうした体験から『にごりえ』は生まれた。「菊の井でしたか。」この頃Qちゃんも一葉を読んでいるらしい。「菊の井」は主人公お力の働く店の名だ。

    店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り鹽景氣よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる處も見ゆ、勝手元には七輪を煽ぐ音折々に騷がしく、女主が手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理、表にかゝげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたゝめける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客樣は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商賣がらを心得て口取り燒肴とあつらへに來る田舍ものもあらざりき、お力といふは此家の一枚看板、年は隨一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい處があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面ざしが何處となく冴へて見へるは彼の子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ(『にごりえ』)

     『にごりえ』の他、『やみ夜』『おおつごもり』『たけくらべ』『わかれ道』などを矢継ぎ早に発表した。「奇跡の十四ヶ月」(和田芳恵)と言われる期間である。
     しかし二十九年の四月頃から肺結核の症状が現れ、七月二十一日の日付で斎藤緑雨のことを書きつけて中断したのを最後に日記は途絶えた。真夏なのに綿入れを着ても震えが止まらないほどの高熱が続いた。八月上旬に診察を受けて手遅れと言われ、十月には緑雨が鷗外に依頼し、その紹介で青山胤通の往診を受けたが、やはり絶望であると告げられる。そして二十九年(一八九六)十一月二十三日死。二十四歳七ヶ月だった。
     通夜には緑雨、川上眉山、戸川秋骨らが集まった。本来なら必ずいる筈の馬場孤蝶は、彦根中学の教員をしていて間に合わず、三週間ほど前に上京した際に見舞ったのが最後になった。緑雨が取り仕切った翌日の葬儀に、鷗外が騎馬での随行を申し出たが邦子は丁重に断った。葬列は水道橋、三崎町、猿楽町、錦町、一ツ橋、丸の内、霞ヶ関、有楽町、銀座街を通って築地本願寺まで歩いた。

    早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯一対、位牌次に女史の妹くに子。次に伊東夏子及婦人二三名腕車に乗ず。四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。(中略)
    余は道々思へらく今此葬儀中担夫、人足、車夫等の営業者を除く時は真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅かに十有余名に過ぎず。洵に寂々寥々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず。(「副島八十六の日記」 http://www5a.biglobe.ne.jp/~takeko/ichiyou.htmより)

     「貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず」と評される貧しい葬儀は邦子の意思でもあったが、こういう葬列に仮に軍装で騎乗の鷗外が随行したとしたら、その場違いはむしろ滑稽だろう。鷗外は貧困ということに鈍感だったのではないか。  一葉の全ての原稿を反故紙に至るまで整理保管したのは、姉の文業を丸ごと刊行したいという邦子の強い意思だ。邦子から一葉の原稿や日記を預けられた緑雨は、校訂して『一葉全集』を世に出したものの、三十七年(一九〇四)四月十三日に三十六歳で死ぬ。  死の二日前に、孤蝶を呼び出して一葉日記を託すとともに、死亡広告を口述筆記させた。「僕本日目出度死去致候間、此段広告仕候也。緑雨斎藤賢」。「萬朝報」に掲載させる積りで緑雨は幸徳秋水をも呼んでいたが、万一秋水が間に合わない場合に備えて同じものを二通書かせた。「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」と書いた緑雨は自ら喝破した通り、鋭い批評眼を持ちながら衆寡敵せず、貧窮のうちに死んだ。露伴のつけた戒名は「春暁院緑雨醒客」である。
     やがて一葉日記は孤蝶の努力で刊行された。様々な反対(鷗外も全文公開には反対したようだ)や文壇内での感情的なもつれもあり、「それを押しきって、完全な形で世におくりだすことができたのは、馬場孤蝶の誠実な政治力と友情の結果だと考えられる」と和田芳恵は言っている(『一葉の日記』)。  一葉と孤蝶の間には恋ではないにしろ、それに非常に良く似た友情が存在した。彦根の孤蝶に宛てた一葉の手紙を見ると、これは恋文ではないかと疑ってしまう程だ。一葉の読者にとって、緑雨、孤蝶の二人は邦子とともに忘れてならない存在だろう。  なお樋口家の戸主となった邦子は明治三十一年に吉江政次を婿養子に迎え、西村釧之助から買い取った「礫川堂文具」を営んで大正十五年まで生きた。六男四女を儲けたという。文具店とは言いながら本も扱った。一葉より美人だと言われた邦子については、幸田文の証言がある。

     私は畠をやらされたおかげで一人の知己を得た。一葉女史の妹、故樋口邦子さんである。このかたは一葉以来の交際であるから古い人で、母が死んだのも継母が来たのも知っている。色白にすらりとして、高い鼻と鮮やかに赤い口をもった西洋人のような美しい人、半襟は男物の黒八を重ね、下駄は糸柾の両ぐりに白鼻緒、地味は粋のつきあたりといったすっきりした様子で、盆暮には礼儀正しい挨拶と多分な贈り物をもって来訪する。(幸田文『こんなこと』)

     「才錐の如く鋭いところがあって」とも書いている。幸田文はかなり伝法な物言いをする人だが、「地味は粋のつきあたり」なんて洒落ている。
     信号で白山通りを横切り、魚屋の角から柳町仲通という小さな商店街に入る。「昔はもっと、小さな店が並んでいたんだ。」「道だってもっと狭かったわよ、路地みたいだったもの。」
     ここを抜ければまた千川通りだ。「小学校があったでしょう。」「その右ですよ。」講釈師とマルちゃんが異常に詳しい。「よく知ってますね。」「だって、おばあちゃんがすぐそこに住んでたんだもの。」
     セツルメント菊坂診療所の看板を見て、今でもセツルメントと言う言葉が生きているんだと感心していると、「ここで食べたことがある」とマルチャンが言い出した。割烹料理「岡埜荘」が兼ねる和菓子屋「岡埜栄泉」だ。「有名なんだ。」「昔からあるわよね。」

     慶応、明治初期に浅草の駒形「岡埜栄泉」から親戚筋の五軒に暖簾分けされたうちの一軒が上野駅前岡埜栄泉である。明治六年、上野駅ができる十年前に当地にて、「岡野ちよ」によって創業され百三十余年の歴史を経て現在に至る。暖簾分けされた五軒は、上野、根岸、本郷三丁目、森川、竹早町にあり、本家を含み、いずれも岡埜(岡野)姓であったが、弊店を除きいずれも閉店してしまっている。本家・岡埜筋としては最も古い歴史を持つ弊店が、岡埜栄泉総本家を継承している。(「上野駅前岡埜栄泉総本家」http://www.okanoeisen.com/)

     総本家から暖簾分けしたのがこの店らしい。本業は割烹で、店頭で売る豆大福(二百十円)が有名だが、特に寄ってみたいというひとはいない。「あんみつ姫がいないから、素通りしましたね」と碁聖が笑う。
     そんなことに気を取られてうっかり行き過ぎてしまった。次の路地を右に入ると、工事中の車が路地を塞ぐように停っている。「どうもすみません」と謝る誘導員に、「みんな痩せてますから」と言いながら車の脇をすり抜けた。角を回り込めば、念速寺に着く。クルリンに「迷路みたい」と言っているシノッチの声が聞こえる。一つ前で曲がればそんな感じはしなかった。文京区白山二丁目九番十二号。浄土真宗・瑞雲山念速寺である。
     目的は「美幾女の墓」だ。下見の時には通路が工事中で場所は確認していなかったが、本堂の裏に回ると塀際にすぐに見つかった。透明のプラスチック容器で覆われた墓の表面の文字「美幾」ははっきりしているが、「女」から下は磨り減ってほとんど判読できない。「なんて読むんですか。」「ミキ女です。ミキ。」右の脇面には釈妙倖信女とある。  駒込追分町の彦四郎の娘で、貧困のために吉原に売られて遊女になった。結核あるいは梅毒に罹患して不治と知り、病理解剖の献体となることを「自ら」申し出たことになっている。特志解剖第一号として日本医学史に名を残す。
     明治二年八月十二日、三十四歳で死ぬと、下谷和泉町の旧医学所跡の仮小屋で、八月十四、十五の二日に亘って解剖が行なわれた。江戸時代の腑分けは内臓しか見なかったが、このとき初めて四肢手足の筋肉まで細部にわたって解剖された。執刀者は北川辺出身の田口和美、後に日本解剖学会の初代会頭を務める人である。  読んでいないので偉そうなことは言えないが、渡辺淳一『白き旅立ち』というのがあって、渡辺は「自ら腑分けで愛を訴えるとは、これほど華麗な死への旅立ちがあるだろうか」と書いているらしい。冗談ではない。どんな物語をでっち上げようが、遊女の不幸な死に「華麗」なんてものはない。それに、この献体には綺麗ごとではない事情がある。

     現在ではそのように、ミキというのは立派な心がけを持った人だ、として持ち上げられてはいるのですが、これまではどうであったか、ということを振り返ると、その評価が反転していることにすぐ気付きます。たとえば、ミキの解剖に実際に関わった石黒忠悳の書いた随筆では、遊女であるにもかかわらず「心がけが殊勝である」というような、上からものを言うような言い方がなされています。歴史家も何人か「ミキ女」の解剖を記述しているのですが、「明治初頭、有志解剖―自ら進んで自分の体を解剖される―なんてことは、よほどの変人かキチガイの行いである」というようなことを書いています。
     では、「ミキ女」の解剖当時の資料ではどうかということで探してみましたら、記録が残っておりました。これは、明治元年から十四年にかけて書かれた『解剖紀(ママ)事』といい、解剖教室の日誌みたいなものなのですが、これをぱらぱらと見ていると、ミキ女の解剖が明治二年の項に載っていました。そして、現在流通しているミキ女の話ですと、自ら進んで無償で提供したということが言われていますが、そこには「周囲が勧めた」であるとか、「金銭の授受」があったような記述がありました。(中略)
     「ミキ女」の話は明治二年以降、忘れられていたんですね。では、なぜ「ミキ女」が発掘されたかというと、東大が百周年を迎えたときに『百年史』を書こうということで、解剖学教室でその系譜を調べたときに、ご紹介した『解剖紀事』が見つかったんですね。ですから、今回はひとまず「ミキ女」を特志解剖第一号ということで挙げましたが、特志解剖第一号というのは不思議なことに何人もいます。当時の解剖学の小金井教授は、別の人物を挙げて第一号だと言っています。
     わたくしの論文の抜き刷り(「解剖台と社会」)を持っておられる方は、そちらを参照いただきたいのですが、他にも社会的地位の高い方の奥さんが献体をされたことが新聞に載って、これがわが国の献体第一号だと言われたりもしている。つまり、ミキ女というのは本当に忘れられていた状態だったのです。(香西豊子「ドネーション言説の存立様態」報告 http://homepage2.nifty.com/tsukaken/jintai/kouai.htm)

     解剖用の遺体が確保できない時代だ。死の迫った遊女を寄ってたかって説得したに違いない。父と兄の同意書があるから、親への金銭提供があったとしてもおかしくない。当時、吉原の遊女が死ねば三ノ輪の浄関寺に埋められた。「生まれては苦界死しては浄関寺」(花又花酔)。特に墓を建てて供養するからという説得もなされただろう。  この世界に何の希望も残されていない彼女にとって、墓を建てて貰い丁重な供養を受ければ浄土に往生できるかも知れない。それが儚い希望ではなかったか。そして長い間忘れられた存在になったのは、彼女が遊女だったからではあるまいか。

     また車の脇をすり抜けるのが面倒だからそのまま寺の前の道を行ってみる。すぐに左折できると思ったのに曲がるべき路地がないではないか。講釈師に見つからないよう地図を確認すると、このままでも行ける。並んで歩いていたスナフキンが「さりげなく行こうぜ」と笑う。御殿坂に入って小石川植物園の壁に沿って歩き、適当なところで左に曲がると、ちょうど斜め向かいの角に共同印刷のビルが見えた。
     千川通りに出たのだが、この辺は共同印刷通りと言っても良いだろう。「太陽のない街」だとすぐに思ってしまうが、実は私はこの小説を読んでいない。小説のモデルになった共同印刷争議とは何だったか。

     大正十五年(一九二六)操業の短縮と短縮分賃金カット発表に端を発して、日本労働組合評議会の指導の下に、関東出版労働組合加盟の労働者がストライキに突入したが、会社側は、暴力団や臨時職工を工場に引き入れて操業を再開。全国の支援を受けて六十日間続けられ、三月十八日終結したが、約千七百人の労働者が職を失い、労働者側の敗北に終わった。(ウィキペディア「共同印刷争議」)

     当時の従業員二千三百人のうち七割が解雇され、徳永直はそのうちの一人であった。共同印刷はもともと大出版社博文館の印刷工場として出発し、後に独立した会社である。
     そもそもこの大争議は組合潰しが目的だった。組合側は二年前(そのときは博文館印刷所)にもストを起こして、賃金三割増などかなりの成果を挙げた。それをみた従業員全員が組合に加入し、強気の組合は日本労働組合評議会(共産党系)に参加して戦闘的姿勢を強めていたのである。これを潰すため、社長の大橋新太郎は精美堂を合併して十二月に共同印刷を設立した上で、年が明けてから大幅な時短と賃金カットを発表したのである。
     前年四月に公布された治安維持法に基づき、検察と特高は十五年一月から京都学連事件(最初の治安維持法適用事件)を惹き起こし、岩田義道、野呂栄太郎、河上肇、鈴木安蔵、石田英一郎などを検挙した。そういう時期に共産党系の組織を潰すのは国家権力の意向である。組合の敗北は最初から予定されていた。
     植物園前交差点で千川通りから二股に分かれるような道が伸び、その右側の広い道に入る。この道は戦後の区画整理で出来たもので、もともとは松平播磨守(常陸府中藩・水戸家の支藩)上屋敷と田圃が広がっていた場所だ。播磨坂と名付けられた通り、なだらかな登りになっていて、住職の脚が重くなる。「もう少しですからね。」  最初の信号を右に曲がって、ひとつ裏に回ると宇津木マンションという小さなマンションに着く。その入り口の壁に、啄木終焉の地を示す文京区の作ったプレートが埋め込まれている。文京区小石川五丁目十一番七号。以前は標柱が立っていたのに、なくなっている。シノッチがお煎餅を配ってくれたので休憩を兼ねることにした。  啄木一家が宮崎郁雨の援助を受けて、喜之床二階からここに移ったのは、明治四十四年八月七日だった。病人だらけの石川家に喜之床の家主新井かうが恐れをなし、出て行ってくれと迫られたためだ。小石川区久堅町七十四ノ四十六号。宇津木盛重方の貸し家となっているから、つまり当時の家主が今でも現在地でマンションを営んでいることが分かる。  「門構へ、玄関の三畳、八畳、六畳、外に勝手。庭あり、附近に木多し。夜は立木の上にまともに月出でたり。」(啄木日記より)
     数ヶ月前から死後の家族までを追ってみると、何度読んでも慄然とする。貧困と病は明治文学の最大の足枷だが、特に啄木の場合は一家全員が結核で死に絶えるのである。

     明治四十四年一月二十七日の日記に「五六日前から腹が張つてしやうがない。飯も食へるし、通じもある。それでゐて腹一帯が堅く張つて坐つたり立つたりする時多少の不自由を感ずる」と書いたのが自覚症状の始まりで、まだ啄木はタカを括っている。しかし、腹は膨れ上がるばかりで、慢性腹膜炎と診断された。「医者は少なくとも三ヶ月かかると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活が急に変るといふことだけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。」
     二月七日、「下腹に穴をあけて水をとるのである。護謨の管を伝つて落つるウヰスキイ色の液体が一升五合許りになつた時、予は一時に非常な空腹に襲はれたやうに感じて、冗談をいひながら気を遠くした。手術はそれで中止、すぐ仰向に寝せられてまた苦しい冗談をいひながら赤酒を一口のんだ。あとはいい気持だつたが、腹にはまるで力がなかつた。」  三月六日、肋膜から水をとる二回目の手術を行い、三月十五日、快気しないままに退院許可が下り自宅療養に入った。この頃、病状は既に肺結核に移行していた。
     七月二十八日、「せつ子青山内科の有馬学士の診察をうけ肺尖加答児と診察さる、処方は三浦内科のと同じ、伝染の危険ありと認めらる。」
     八月五日、節子は熱があるにも拘わらず、夏の暑いさなか二時間も歩きまわって小石川久堅町に借家を見つけた。「新井にては明日引越に付先月分及今月分の家賃をまけてくれる事になりたり。」
     八月二十四日、母カツが腸カタルと診断される。
     九月三日、父が家出した。「その時父はもうゐなかつた。待つても待つても帰らなかつた。調べると単衣二枚袷二枚の外に帽子、煙草入、光子の金一円五十銭、家計の方の金五十銭だけ不足してゐた。その外にいくらか持つていたかも知れない。父は今迄にも何度もその素振りのあつた家出をとうとう決行した。」  この頃、土岐哀果(善麿)と雑誌刊行の計画を進めていたが、結局それはだめになった。
     四十五年(一九一二)一月十九日、「母が二三日前から時々痰と一しよに血を吐くやうになつた。それでもせつ子は、自分は薬を怠けて飲まずにゐたりする癖に、水まで母にくませてゐた。あまり顔色がよくないので、今夜熱を計つたところが、三十八度二分、脈搏百〇二あつた。医者に見せたくても金がない。兎も角二三日は寝てゐて貰ふことにした。」  一月二十二日、森田草平が夏目鏡子の見舞金十円と征露丸百五十粒を持ってきた。「私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。」
     一月二十三日、母カツが肺結核と診断され、啄木一家の結核の感染源は母カツにあると分かったのである。「母の病気が分つたと同時に、現在私の家を包んでゐる不幸な原因も分つたやうなものである。私は今日といふ今日こそ自分が全く絶望の境にゐることを承認せざるを得なかつた。私には母をなるべく長く生かしたいといふ希望と、長く生きられては困るといふ心とが、同時に働いてゐる……」
     二月二十日、「さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。母の容態は昨今少し可いやうに見える。併し食慾は減じた。」啄木日記はここで終わる。
     三月七日朝、母カツ死去、享年六十六。
     三月三十一日、金田一京助が見舞いに来て十円をくれた。四月九日、善麿の奔走で第二歌集の出版契約がなって原稿料二十円が届けられた。
     四月十三日(土)早朝、節子が迎えにやった人力車で金田一京助と若山牧水が駆けつけた。ふたりが来た時には、やや持ち直したかに見えた。

     『遅くなりませんか、どうぞ学校へ』など言われるにつれ、又、節子さんも、『此の分なら大丈夫でしようから、どうぞ』と言うので『今危篤だから、離れられないのだ』と勘附かせるのもいけないし、病人の心に随って、『では一寸行って来ます』と私が起ったとき、軽く目で会釈をしてくれたのが、此の世のすべての最後のものとなってしまった。(金田一京助『晩年の石川啄木』)

     金田一が國學院に向った直後、容態は急変して昏睡状態に陥った。

     とかくして私は危篤の電報を打ちに郵便局まで走って、帰って来てもその昏睡状態は続いてゐた。細君たちは口うつしに薬を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしたが、甲斐あるやうに思はれなかった。
     私はふとその場に彼の長女の---六歳だったと思ふ---ゐないのに気がついて、それを探しに急いで戸外に出た。
     そして引返した時には、老父と細君とが、一緒に石川を抱きあげて低いながら声を立てて泣いてゐた。私はその時あはただしく其処に立入つたのを烈しく苦痛に感じて立ちすくんだ。老父は私を見ると、かたちを改めて、「もうとても駄目です。臨終のやうです」と云った。そしてそばにあった置時計を手にとって、「九時半か」と眩くやうに云った。時計は正に九時三十分であつた。(若山牧水『啄木臨終の記』)

     啄木二十六歳二ヶ月。節子は妊娠二ヶ月だった。
     葬儀は浄土真宗等光寺(松清町、現台東区西浅草一丁目)で行なわれた。啄木晩年の盟友、土岐善麿の生家で兄が住職をしていたのである。会葬者は五十名。
     第二歌集『悲しき玩具』は六月に出版された。その後『啄木遺稿』『啄木全集』の出版は全て善麿の力によったようで、この印税が残された家族のために使われた。私は土岐哀果のことは殆ど知らなかったが、啄木に因む歌がいくつかある。

    いまぞわれら柩のなかにをさむるか、まけずぎらひのかれの体を。
    かれ遂にこのひと壷のしろき骨、たったこれだけになりにけるかも。
    人のよの不平をわれにをしえつるかれ今あらずひとりわが悲し。
    あのころのわが貧しさに、いたましく、悲しく友を死なしめしかな。(歌集『雑音の中』)

     六月、次女房江誕生。九月、妻節子は娘京子、房江とともに、前年に函館に移住していた実家を頼って北海道に渡った。そして翌大正二年(一九一三)五月五日午前六時四十分「皆さんさようなら」と呟いて死んだ。二十六歳六ヶ月。遺児二人は節子の父が養育したが、昭和五年に京子二十四歳、房江十九歳で二人とも亡くなって啄木の血は絶えた。  一葉も緑雨も啄木も、みんな結核で死んだ。

     初冬や明治のひとの肺の音  蜻蛉

     播磨坂に戻り春日通りを横切ると、正面に狭くて急な坂道が現れる。そこを降りきった左が曹洞宗伝明寺で、藤寺と言われたたことから坂の名も藤坂と呼ばれた。その名の通り、門前には藤寺と書かれた板が掲げられ、小さな境内には一面に藤棚が設けられている。  門前の地蔵の脇に立つ庚申塔は、上に日月が並び、真ん中には「奉■庚申為諸願■■」の文字、下に三猿がいて、寛文(一六六一~七二年)の年号が読める。
     「住職、そこに座ってちょっと休みましょう。」「本堂に尻向けたらお寺さんに怒られちゃうよ。」義理堅いひとだ。「それじゃ」と言ってマルチャンが細い縁台のようなベンチに座ってくれたので、これで住職も座ることができる。
     かつて観音水と呼ばれる名水を出したと言う井戸には蓋がしてある。私は植え込みに空蝉を見つけてハイジの掌に載せた。「なんの蝉かしら。油蝉かな。」「そうだよ、今頃の蝉は油蝉だ」と講釈師が断言する。油蝉が今頃いるのか。「形で分かる筈なんだけどね」と画伯が観察するが、その特徴が判別できないようだ。折角座った住職がすぐに立ち上がったので、出発する。

     丸ノ内線が地上に出ている下を潜ると正面に拓殖大学(美濃大垣新田藩戸田淡路守下屋敷跡)の門が見え、道を挟んで手前の右手の角に浄土宗、清水山松林院深光寺がある。文京区小日向四丁目九番五号。拓大との間の道が茗荷谷坂で、登っていけば地下鉄茗荷谷駅に着く。  参道はちょっと急な坂になっているので、もう上りたくない住職は入り口で待っている。境内に入れば本堂の手前左側、墓域の一番目立つところに馬琴の墓が建っている。「ちゃんと真正面に持ってきてるんだな」とドクトルが変に感心する。さっき線香を上げたばかりのような灰が残り、花も供えられている。  台座は三段、笠の部分には八本矢車の家紋が浮き彫りになっている。「これ何かしら。」「八角じゃないの、中華で使う。」誰が置いたのか、八本足のヒトデのような茶色の実がひとつ、墓に載せられているのは八本矢車に因む趣向だろうか。
     竿石の上部には滝澤氏墓表とあって、その下に「著作堂隠譽簑笠居士」「黙譽静舟到岸大姉」が並ぶ。「これは何だい。」台座に描かれている、四本柱に屋根をつけた家が四角の枠で囲まれている絵をドクトルが指差した。「四阿だろう」と画伯が言う。下見をしても私は全く気付いていない。調べてみるとこの家型模様は馬琴の蔵書印である。

    よく見ると家のデザインの上下には独特の彫り物。私の全くの想像だが儒教「六十四卦」の方位図ではないかと思慮。家の上には「天」を現す坤「☰」、家の下には「地」を現す乾「☷」が彫られている。(http://blog.takuzousuinari.com/?eid=1077350)

     なるほど、確かに上下の模様は乾坤を思わせる。しかし折角の発想なのに、残念なことにこの記事では「乾」(陽が三本並ぶ、天である)と「坤」(陰が三本並ぶ、地である)が逆になっている。そして、わざわざ儒教「六十四卦」と言わずとも、八卦と同じことだ。  その数基後ろに「滝澤家」の墓があり、路女は「操譽順節霜路大姉」として一番左端に書かれている。その右隣に並んでいるのが宗伯だろう。もうひとつ奥にある、地蔵座像を載せた「瀧澤氏祖先之墓」は、墓誌末尾に「文政六年癸未春二月 末孫瀧澤解謹識」とあるから馬琴の建てたものと分かる。この形は馬琴自身のデザインによるそうだ。  ところで案内板にも「滝澤馬琴」と書かれているが、正しくは曲亭馬琴と言う方が良い。本名で呼ぶなら滝澤興邦、後には解(トク)。但し高田衛によれば、馬琴生前から滝澤馬琴という呼び方も普通にされていたと言うから、それほど神経質になる必要はないかもしれない。  馬琴は明和四年六月九日(一七六七年七月四日)に生まれ、嘉永元年十一月六日(一八四八年十二月一日)に死んだ。

    辞世 世の中の役をのかれてもとのまヽかへすそ雨と土の人形。

     一葉も啄木も原稿料では暮らせなかったが、馬琴は日本文芸史上初めて原稿料で生計を立てた人であった。つまり初めての職業作家だ。生涯に著した戯作は三百種を超える。『南総里見八犬伝』は二十八年かけて天保十三年(一八四二)にやっと完結した。山田風太郎は「世界伝奇小説の烽火、アレキサンドル・デュマの『三銃士』に先立つこと三年」と書いた。(山田風太郎『八犬伝』)
     晩年に失明して嫁のお路に口述筆記させたことは誰でも知っているだろう。『南総里見八犬伝』の最終回に付けた『回外剰筆』に、失明の状況を自ら述べている部分があって、内田魯庵はこれを読み、さらに八犬伝の原稿をつき合わせてみた。

    何という凄惻の悲史であろう。同じ操觚に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正が水軍全滅し僅かに身を以て遁れてもなお陸上で追い詰められ、漸く助友に助けられて河鯉へ落ち行く条にて、「其馬をしも船に乗せて隊兵――」という丁の終りまではシドロモドロながらも自筆であるが、その次の丁からは馬琴の嫁の宗伯未亡人おミチの筆で続けられてる。この最終の自筆はシドロモドロで読み辛いが、手捜りにしては形も整って七行に書かれている。(視力の完全な時は十一行、このアトを続けたおミチのは十行。)中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、偏と旁が重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭かれるのもある。中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。(内田魯庵『八犬伝談余』)

     お路のことを、「てにをは」も弁えず、偏と旁も知らないなんて馬琴は言っているが簡単に信じる訳にはいかない。
     馬琴特有の漢字遣いやルビ、それに博引傍証される膨大な資料群を、いくら教えられたって無学な者が文字に出来るはずがない。
     お路は紀州藩家老三浦長門守の医師・土岐村元立の娘である。初め松平忠誨邸に仕え、その後江戸城に勤めたこともあるという経歴をみれば、それなりの教養がないと思うほうがおかしいだろう。文政十年(一八二七)、二十二歳で滝澤宗伯に嫁したが、天保六年(一八三五)宗伯が三十八歳で死んだ後、馬琴家に同居した。安政五年八月十七日(一八五八年九月二十三日)、詳細な日記を残して五十三歳で死んだ。日記は家の記録である。滝澤家を守る者の義務として馬琴(路は蓑笠様と書いている)に命じられたのである。

     「住職、どうする。茗荷谷から帰るかい、それとも昼飯食ってからにするか」と講釈師が訊ね、「昼飯食ってから」と住職が答えている。
     隣には縛られ地蔵の林泉寺もあるが、今日は予定に入れていない。もう一度、丸ノ内線の高架のところまで戻って、トンネルは潜らずに宗四郎稲荷のある細い路地を曲がりこむ。
     そこに貞静学園短大という短大があり、直角に曲がる急坂が蛙坂だ。

    「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
    『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。

     「もう上り坂はないって言ってたのに。嘘つきだよな」と講釈師が聞えよがしに住職に話している。この坂のことをすっかり忘れていた。「もう、そこが頂上ですからね。」
     「蛙合戦って何かな。泣き声を競わせるんだろうか。」私がうっかり見落として調べてもいないことをドクトルは的確に突いてくる。科学者と言うやつは油断がならない。わざわざ蛙を飼って声を競わせるのではないだろう。鈴虫なんかとは違う。
     「デジタル大辞泉」によると、「群れ集まった蛙が先を争って交尾するさま。かわずいくさ。かわず合戦」ということだ。カワズガッセンと読み、蛙軍(カワズイクサ)とも言う。そうすると、「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」は、単に二匹が喧嘩している場面ではなさそうだ。  坂を上って住宅地に入った。車がやっとすれ違う程度の道で、切支丹屋敷跡の石碑は路地の角に立つ。文京区小日向一丁目二十四番八号。裏手はすぐに崖が落ち込むような狭い住宅地で、そんな屋敷があったような雰囲気はまるで感じられない。
     島原の乱(寛永十四~十五)の五年後というから寛永二十年(一六四三)のことだろう。イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら十人が筑前に漂着して捕らえられ、すぐに江戸送りとなって伝馬町の牢に入れられた。その後、正保三年(一六四六)、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てたのが切支丹屋敷の起こりであり、寛政四年(一七九二)の宗門改役の廃止まで続いた。
     標柱の横の四角い石碑の表面は磨耗して文字は全く読めない。「シドッチを記念した文章のようです」と説明しながら、B5版縦書きをコピーしたものが置いてあるのに気付いた。この碑面から拓本は作れない。碑文を手書きで写したものなのだ。それを手にしたところに、「この家の者ですが」とご婦人が声を掛けてきた。「悲しくなるような文章が書かれていますでしょう。」「わざわざこの資料を作ってくれたんですか。」「もう何度もコピーして少し汚れてますけど。」折角だから全文を書き写す。(原文のママ)

    此の所は切支丹屋敷の跡でこの古い石は八兵衛の夜泣石といってこヽで殉教した人々を記念するものであります。この牢窟は一六四六年出来たもので一七九年(ママ)までこの地では多くのカトリック信者が殉教者となって死んでおります。
    中でも一六六八年バレルモに生まれたヂォワニパブチスタンシトッチ神父は大変に熱心な学者でローマからデトルノン枢機卿と一緒にマニラへ行って居られましたが日本の迫害された切支丹の救霊の為めに秘密で一七〇八年十月十日九州の屋久島へ着き間もなく捉まりました。長崎から江戸へ連れて行かれ此の屋敷に閉じこめられ、新井白石の訊問を受けましたが彼はシドッチ神父の答えを西洋紀聞の中に書きました。神父は二人の番人夫婦に洗礼を授けてから眞との神様の教えを現わす為めに殉教者として正徳四年十月二十一日「一七五一年」歿くなりました。大勢の切支丹日本人外国人の雄々しい死を記念するようにこの碑を立てました。
    昭和三十一年三月十七日 ウェルウイルゲン神父誌

     この大きな碑の横に、割れた小さな石が三段重ねで置いてある。「もともとはお地蔵さんだったんですよ。それが割れてしまって、こうして重ねてありますの。」そうだったのか。「もうひとつ何かがあったんですけど、分からなくなってしまって。」  しかし調べてみるとちょっと違うようだ。在りし日の八兵衛石の写真を見つけて、この三段重ねが主人公であると分かった。もともとは少し大型の石を台にして、その上に載っていた小さな石が八兵衛夜泣石である。大きな石が二つに割れてしまったから三段重ねにしてあるのだろう。つまり碑文の中で「この古い石」と言っているのが一番上に載せられた小さな石だ。八兵衛の伝説も引用されているので、ついでに孫引きしてしまおう。

    その頃牢獄の番卒に八兵衛と云ふ若者があつた。多くの邪宗徒に接してゐる間に熱心なる信仰を持つ様になり、牢見廻りにかこつけて、宗徒と密会し、外部の宗徒と連絡を取つてゐるうちに、宗徒の女と共鳴して恋に陥つて終つた、八兵衛はそれのみならず番所の機密を探つて伴天連共に洩したと云ふ廉で、おのれ猪小才な番卒、目に物見せてくれんと許りに、延宝七年七月十二日に無残や、八兵衛は穴の中に逆さ埋めにされ、その上に一塊の石を置いて目標にしたのが、この八兵衛石である。(佐藤隆三『江戸の口碑と伝説』http://okab.web.infoseek.co.jp/edokaii20050604.html。)

     シドッチSidotti, Giovanni Battistaはシチリア島出身の宣教師である。宝永五年(一七〇八)屋久島に上陸して捕らえられたとき、月代を剃って和服に二刀を帯びた武士の姿だったが、イタリア人がこの格好をしても武士に間違えられる筈がない。言葉も通じず長崎で一年入牢した後、小石川養生所で新井白石の尋問を受けた。  白石と話が通じ合ったというのは奇跡的なことに思えるが、どうやらシドッチは室町から戦国期の日本語を学んできたようだ。キリシタン版の日葡辞書や日本文典が渡っていたのだろう。役人たちの誰もそれに気づかなかったのに、白石だけがそれに気づいた。その結果が『西洋紀聞』『采覧異言』になる。  ふたりは互いにその知識教養を認め合ったものの、しかしキリスト教に関してだけは一切認められなかった。白石にしてみればその教説は世迷言としか思えない。法規を厳密に適用すれば、キリシタンは拷問の上「転び」を強要し、そうでなければ処刑するのが原則だが、白石は、上策は母国へ送還すること、中策は生涯牢に閉じ込めること、下策は処刑することの三案を具申した。この結果幕府が採用したのは中策であり、シドッチは切支丹屋敷に幽閉されることになる。上中下とあれば、役人というのは大体「中」を採ることに決まっている。
     布教は絶対に禁止された。軟禁状態で屋敷内では自由に起居していたが、やがて牢番の夫婦がキリシタンに入信したことを自白したため地下牢に移され、正徳四年(一七一四)四十六歳で死んだ。

     シドッチ以前に知られているのはジュゼッペ・キアラGiuseppe Chiaraである。イタリア出身のイエズス会宣教師で、遠藤周作『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルとなった人物だ。
     寛永の鎖国令は十年から十六年まで、島原の乱を挟んで五次に亘って布告された。ダンディがいれば、徳川幕府の鎖国政策こそが日本近代化を遅らせた元凶だと、必ず力説するだろう。「だから徳川っていう奴は」という声が聞こえそうだ。
     キアラが日本に潜入したのは寛永二十年(一六四三)五月のことで、筑前国で捕えられ長崎に送られた。と言うことは、ペトロ・マルクエズら十人と同じ時期か。七月には江戸の宗門改奉行井上政重の邸に預けられ、転びバテレンのフェレイラ(沢野忠庵)のもとで詮議が行われた。同じ時に入国を企てた仲間と共に、正保三年(一六四六)切支丹屋敷に収容され、拷問によってその全員が改宗した。
     キアラは幕命により死刑囚の後家を妻として、その死刑囚岡本三右衛門の名を受け継いだ。幕府からは十人扶持を与えられたが屋敷から出ることは許されず、貞享二年(一六八五)八十三歳で死ぬまで四十年以上も幽閉されていた。
     「昔、読んだわよ。踏み絵でしょう。どうして沈黙しているのかって。」マルチャンの言葉で思い出した。神は何故沈黙しているのかということが遠藤周作の立てた問題だった。踏絵を強要されたロドリゴにイエスが語りかける。

    その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
    私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。(遠藤周作『沈黙』)

     このイエスから、私はむしろ『歎異抄』の「善人猶以て往生を遂ぐ如何に況んや悪人をや」を連想してしまった。心ならずも悪を犯してしまう人間、それを許し救済する神と言えば、親鸞の言う弥陀の本願の匂いが漂うのである。
     「遠藤周作なら『深い河』を是非読んでください。」ハイジが熱を込めて言う。その本は知らない。内容紹介ではこのようなものである。

    愛を求めて、人生の意味を求めてインドへと向う人々。自らの生きてきた時間をふり仰ぎ、母なる河ガンジスのほとりにたたずむとき、大いなる水の流れは人間たちを次の世に運ぶように包みこむ。人と人とのふれ合いの声を力強い沈黙で受けとめ河は流れる。

     内容紹介だけで何かを言うのは危険だが、これはアジア的汎神論と言うべきではないか。遠藤はカトリシズムとはまるで違う世界に到達してしまったのだろうか。しかし信仰を持たない私がこれ以上言うべきではない。
     ご婦人にお礼を言って出発する。荒木坂(「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」)の下りに入ると、正面にトーハンのビル、左手の方には凸版印刷の高いビルが見える。
     「あそこで食事ですから。もう少しですよ。」住職に声を掛けていると、五分ほどで到着すると姫から連絡があった。私たちより少し早いかも知れない。坂を降りきりって十分ほど歩いて凸版小石川ビルに着いた。実は少し行き過ぎて遠回りをしてしまったが、誰も気付かなかったようだ。  文京区水道一丁目三番三号。二十一階建、高さ九十五メートルの凸版小石川ビルは、この界隈ではかなり目立つ。私はここが本社かと思っていたが、本社は神田和泉町にある。大日本印刷と並ぶ印刷業界の雄であり、年商は単体で一兆円、連結では一兆五千億円を超える大企業だ。  二階のレストラン「ラ・ステラ」(ニュートーキョー)が今日の昼食場所になる筈だった。ちょうどあんみつ姫が到着したばかりのようで、「貸切りで予約したんですか」と不思議なことを訊いてくる。そんなことはしていない。「だってそう書いてますよ。」確かにエスカレーターの前に「本日貸切り」の断りが張ってある。どうやら百人ほどの団体の貸切りで、黒い服を身に着けた連中が入って行く。さて、どうするか。
     ロビーで迷っていると、守衛が「どうしましたか」と声を掛けてきた。「この辺でお食事できるお店はありませんか」と姫が訊ねても、「ありませんね。コンビニでお弁当を買ったらどうでしょうか」と言うばかりだ。私の記憶でも店は余りなかったような気がする。  スナフキンが「トーハンの社員食堂はどうかな。Kの電話番号知らないか」と言いだした。番号は知っているが、なんぼなんでもそれはまずいだろう。「それじゃ近くに蕎麦屋があった筈だから偵察してくる。」
     結果が分かるまで全員座り込んで待つしかない。守衛も「こんなことは滅多にないんですよ」と気の毒そうに私たちを見ている。下見の時だって、「コンサートでもない限り土曜は暇ですから」とレストランの男が断言していたのだ。月に一回ほどホールでコンサートがあり、その日程は調べて安心していた私が迂闊である。  暫くしてスナフキンから「蕎麦屋は閉まっていた」と連絡があった。「それじゃコンビニにしましょう。」神田川を渡った正面にファミリーマートがある。普通の弁当はなく、お握りかサンドイッチ位しかないが仕方がない。
     ビルの裏手が小さな公園風になっていて、花壇を囲む丸いベンチで買ってきたものを広げる。「これからは弁当も考えなくっちゃいけないな」と講釈師も言う。毎度企画する人間が一番苦労するのが、昼飯の店を探すことだ。大人数が入れるような店を中心に考えるとコース設定にやや無理が出る。当日になるまで人数も到着時刻も確定しないから予約が難しい。今後は場合によっては弁当持参を提案したい。
     「ほら、遠野物語の作者の家だよ」と講釈師が指をさす。見ると私たちが座っているすぐそばに、かなり大きな案内板が立っていた。「知らなかったのかい。調査が不充分じゃないか。」佐々木喜善旧居跡である。全く気付かなかった。「駄目だな、それじゃリーダー失格だ。」しかし案内板の日付をよくよく見れば、平成二十二年十一月、つまり今月になって立てられたものだから、それなら先月の下見で気付かなかったのは当たり前だ。

     この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思ふに遠野郷にはこの類の物語なほ数百件あるならん。われわれはより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。(柳田國男『遠野物語』初版序文)

     佐々木鏡石というのが喜善である。早稲田在学中にこの凸版敷地内にあった下宿に住んでいたのだった。
     柳田は「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と高らかに宣言したが、柳田自身はその方向を追及することはなく、いつの間にか中断された。柳田は、山人はヤマト王権によって追いやられた原日本人だと推定した筈で、これを追及すると記紀神話に抵触する危険があった。  三角寛『サンカの研究』は、真偽いずれとも未だに結論が出ていないんじゃなかったろうか。こういう話は通俗的な関心を呼ぶもので、多くの伝奇小説では、原日本人である縄文人と征服者弥生人の対立、縄文人の子孫の戦いなんていう物語になって流通する。
     クルリンと姫から配られた煎餅も食べ終わり、もう一度ビルに戻ってエスカレーターを降りる。一般三百円、六十五歳以上は無料である。受付カウンターから、中は既に大勢の団体で埋まっているのが見える。リュックを背負っているから、レストランを借り切った連中とは明らかに違う団体で、おそらく印刷博物館始って以来の入場者ではなかろうか。  係員が出てきて「本当に珍しいんです」と言い訳しながら、私たちを誘導して出口の方から中に入れてくれた。それぞれの展示物の前にはディスプレイが設置されていて、説明が分かるようになっている。「ごゆっくりどうぞ。このビデオを全部見ていると五時間ほどかかります。」  そんなに時間はかけられない。現在時刻は一時十分。二時に一階ロビー集合と決めて自由に見て貰う。団体が集まっていた入り口付近は、ロゼッタストーンから現代まで、文字や印刷に関するレプリカを時代順に壁に展示してあるコーナーだ。私たちが入れてもらったのはオリジナルを展示しているところだから、この方が手っ取り早くて良かった。  百万陀塔羅尼の前では、「この中に、このお経を入れて」と講釈師が説明を始める。聖武天皇の頃木版印刷され、この二十センチほどの塔に納めて配布したのである。細長いお経は少なくとも日本最古の印刷物だ。「これって木製なの。」「そうだよ、見れば分かるじゃないか。」  『グーテンベルク四十二行聖書』、『ターヘルアナトミア』と『解体新書』ほか、見るべきものは多い。
     駿河版という慶長の頃の活字印刷本もある。江戸初期には活字印刷が試みられたにもかかわらず、近代まで活字印刷は普及しなかった。人間の労働力がいかに安く使われていたか。活字を作るより版木刷り職人の手間賃のほうが遥かに安かったのだろうと、私は単純に思っていた。しかし、これは当時の活版技術の抱える問題でもあった。

     日本文学におけるテキストが写本から古活字版を経て整版に落ち着いたのには、それなりの合理的な理由が存した。長い伝統を経て洗練され発達してきた木版という板木を彫って製版する技術は、とりわけ連綿体である日本語の仮名漢字混じり文や、絵入り本にとって木版は好都合の技術であったと思われる。またジャンルごとに独自のタイプフェイスが用いられているのも木版ゆえであった。象嵌による訂正や改変も比較的容易であるし、場合によっては摺ったものを板下にすれば、手軽に覆刻も可能であった。とりわけ重ね摺りの技法は、色板を用いた多色摺りを可能にし、錦絵などを生み出すことになる。だが一番大きな特性は、一度板木を作ってしまえばあとは摺るだけで本ができるわけで、板木自体が金を生み出す財産として扱われたことである。(略)
     しかし活版にとっての問題は、紙型が一般化するまで、摺る度に何度も活字を組み直すことを余儀なくされた点にあった。この非能率きわまりない新技術は、明治初期の活字本に実に多くの異版を生じることになった。だから明治初期の活字本に比べれば、むしろ江戸時代の板本の方が安定した静的な本文を維持しているのである。(高木元「江戸の出版事情」http://www.fumikura.net/other/kotuu.html)

     但し技術改良、機械発明へ向うのではなく、労働力でなんとかしてしまうことは、江戸時代を通じて日本の科学技術が停滞した大きな原因でもある。勿論それによって職人技、名人技が磨かれ継承されたこともあって、この辺をどう評価するかは難しい。  「ダメだよ、ゆっくり入れなきゃズレてしまうだろ。」気が付くと大勢の中で説明しているのは講釈師だ。ハガキ大の紙に四つのスタンプを押すと、彩色されたカレンダーが出来上がるようになっているのだが、さっきの団体さんがその機械を操るのを見て、口出ししているのである。「こうして、ゆっくり押す。このままじゃインクで汚れちゃうから、これで優しく吸い取るんだよ。」
     「係の人ですか」と声を掛けると、「なんで、俺が教えなくちゃいけないんだ。ヤになっちゃうよ」と口を尖らすものの、内心は得意である。
     「私、今度は一人で来てみるよ。教えて貰ったから。」マルチャンは随分気にいったらしい。Qちゃんも碁聖もまた来てみたいと言っている。企画した者としては喜んで貰えると嬉しい。余り知られていないと思うが、ここはお勧めの場所である。  ロビーに戻ると、ちょうど団体の出発時間とも重なってしまって、人が溢れている。四五班に分かれているようで、それぞれ集合したのを確認してから、旗を先頭に一班から順に出て行った。
     ミュージアムショップで買い物をするひとを待って私たちも出発する。橋のところで住職は別れて江戸川橋駅で有楽町線に乗る。「ここを渡って右に行くんですよ。」
     「こんな所で何してるんですか」という声で振り返ると、FとIの二人がいた。偶然にしても不思議なことだ。「仕事かい。」「そうですよ、それにしても何を。」面倒な説明はスナフキンに任せて私は先頭に戻るが、「働いている社員と遊んでいる社員が路上でハチアワセ」なんて碁聖が茶化す。  新目白通りと音羽通りが分岐するところから、川に沿った遊歩道は江戸川公園になる。入り口付近に大井玄洞の胸像があるが、良く知らないので説明もせずに通り過ぎると、大洗堰跡を復元した水路がある。

    大洗堰 目白の涯下にあり。承応年間(一六五二~五五)、厳命により、当国多摩郡牟礼村井頭の池水をして、江戸大城の下に通ぜしむ。その頃この地に堰を築かせられ、その上水の余水を分けらるる。天明六年丙午(一七八六)の洪水に堰崩れたり。ここにおいて再び堅固に築かせられ、古より一尺ばかりその高さを減ず。ゆゑに水嵩むときは、その上を越えて流れ落つるゆゑに、損ずる患ひなしといへり。(『江戸名所図会』

     「だから町名が関口なんですよ。」少し行ったところにその解説板があり、数人に囲まれテレビカメラを前に説明している男性がいる。日曜日の関口宏の番組で見かける、環境問題に詳しいコメンテーターだ。顔は知っているのだが誰も名前を思い出さない。(後で調べて思い出した。涌井雅之氏である。)  彼らを追い抜いて歩き出すと、五六十センチ程の黄色い亀を散歩させている男がやって来た。亀はゆっくりと辺りを睥睨するように歩き、後ろ脚には靴を履いている。靴を履く亀というものを私は初めて見た。「リクガメかしら。」どうやらこれはケヅメリクガメという種類らしい。リクガメの科によってはワシントン条約に記載されているが、ペット用に輸入されているものだろう。確かに甲羅の色の綺麗な亀だが、それにしてもこういうものをペットとして飼うとはどういうことなのか、私にはまるで分からない。

     天高く亀堂々と歩みたり  蜻蛉

     椿山荘の長い塀が過ぎると関口芭蕉庵の塀になる。文京区関口二丁目十一番三。神田川沿いの門は鎖されていて「ここは入れません」と私が言うと、「エーッ、入れないの」とマルチャンが驚く。この門からは入れないと言っただけだ。胸突坂の通用門から入るようになっている。「ビックリしちゃったわよ。」  文京区作成の説明によれば、神田上水改修工事の際に延宝五年(一六六七)~延宝八年までの四年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に芭蕉が住んだ。但しこの期間については違う説もある。享保十一年(一七二六)芭蕉の三十三回忌にあたる年に芭蕉やその弟子の像などを祀った「芭蕉堂」が作られ、寛延三年(一七五〇)には、芭蕉真筆の短冊「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」を埋めて「さみだれ塚」が建立されたことで、「竜隠庵」は「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。

    龍隠庵 同所(目白)(前略)庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり。
    昔上水開発の頃芭蕉翁(芭蕉翁通称松尾甚七郎といい、藤堂家の侍たり。この上水掘割の時、藤堂家へ普請のことを命ぜられしに、甚七郎この事を司りし故、その頃この地に日々遊ばれしといへり)この地に遊ばれしにより後世その旧跡を失わんことを嘆き、白兎園宗瑞および馬光なといへる俳師、この地の光景江州瀬田の義仲寺にほうふつたるをもって「五月雨に隠れぬものよ瀬田の橋」といへる翁の短冊を塚に築き、五月雨塚と号す。(『江戸名所図会』)

     芭蕉は藤堂藩の武士だったくらいに私は思っていた。藤堂高虎に始まる藤堂家(津藩三十二万石)は土木技術で名高い家だから、芭蕉が神田上水の工事に携わったのもあり得ることだろう。しかしこの機会に少し辿ってみると、そんなことはまるで正しくなかった。  寛永二十一年(一六四四)芭蕉は伊賀の郷士松尾与左衛門の次男として生まれた。ウィキペディアによれば幼名は金作、蓑笠庵梨一『奥の細道菅菰抄』によれば半七である。松尾家は苗字の名乗りは許されるが実質的には百姓だ。
     十三歳で父が死に兄が家督を継ぐと、金作(通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎)は、藤堂家侍大将である藤堂新七郎良清(五千石)の嗣子良忠(俳号蝉吟)に仕えた。台所用人という名目だったようで、一般には中間とか足軽と言われる身分だと思う。  良忠は北村季吟門下であった。俳諧に関しては良忠のほうが先輩で、身分が違ってもかなり親密な関係になったようだ。土木技術を習得する暇なんかなかった筈だ。
     寛文六年(一六六六)二歳年上の良忠が死ぬと奉公を辞め、京都で喜多村季吟について直接指導を受けた。

     季吟は山城粟田口の人、普通には、江州北村の人、三條山伏町に住す、と伝へられて居る、寛文六年には四十三歳、国学を公卿西三條実枝と細川幽斎に学び、連歌俳諧を松永貞徳に受けたが、国学が専務で俳諧は余力であった。芭蕉が入門した頃は、季吟は五條の新玉津島社の俗別当(今の社司)を勤めて、社内に居住して居たと伝へられるけれども、季吟が社内に移ったのは天和三年二月のことだとあるから、寛文六年にはまだ社内には移って居ない時である、季吟の其頃の住所は粟田口か山伏町か判らない。
     芭蕉が、季吟から受けた貞徳流の俳諧とは如何なる風体か。
     貞徳流の古風の俳諧といふのは、一口に云へば「おかしみ」を言ふ流儀であって、俗語を使ひ滑稽を言って、面白くおかしく人を笑はせるに在った、卑下た滑稽、諧 はいけない、上品で風流であるを要し、又教訓に害あるものは避けるといふ流儀であった。  其上作句に故事や証歌を使ってあるので、一層窮屈の「おかしみ」で、詠句の範囲が狭いものであった。季吟は斯ういふ流派の俳諧学者であった、殊に季吟は貞徳の門人中でも古臭い方の傾があった。(山崎藤吉『芭蕉全伝』)

     寛文十二年、二十九歳。たまたま季吟同門で日本橋本舟町の名主(またはその息子とも)だった小澤卜尺が帰郷するのに同道して江戸にやって来て、その縁で日本橋に住み桃青と名乗る。それ以前は宗房(本名)を名乗っていた。但し、住んだのが本舟町の卜尺の持ち家なのか杉山杉風の魚問屋「鯉屋」がある日本橋小田原町かは、説が分かれるようだ。  この頃、後に寿貞尼と呼ばれることになる妻あるいは妾がいたようなのだが、詳しいことは分からない。私はこれまで芭蕉に妻または愛人がいたなんて想像したこともなかった。甥桃印の嫁とする説もある。

     寿貞尼 判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。彼女は、一男(次郎兵衛)二女(まさ・おふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる。
     寿貞は、芭蕉が次郎兵衛を伴って最後に上方に上った元禄七年六月二日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。(中略)寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり」が残っていることによる。(Weblio辞書「寿貞尼」より)  http://www.weblio.jp/content/%E5%AF%BF%E8%B2%9E%E5%B0%BC

     芭蕉が愛情を感じていたのは間違いなさそうだ。それならばどうして彼女が尼にならなければならなかったかが分からない。
     芭蕉は延宝二年には剃髪して俳諧師となった。つまり俳諧を生業として生きると宣言したということだろう。これは武江年表の延宝二年の項にも記されている。

     ○松尾忠左衛門、今年薙髪して風羅坊、深川に庵を結びて住す。芭蕉一株を栽(世人、芭蕉庵といふ)(『江戸名所図会』)

     ただし、深川に移ったのがこの年だったかどうか、就職期間問題とも合わせてはっきりしない。通説では延宝五年(一六七七)、神田上水改修工事に就いた。しかし山崎藤吉『芭蕉全伝』(明治三十六年刊)では、この就職期間を延宝二年の剃髪以前(つまり俳諧師として名乗りを挙げる前)としている。山崎は明治の歴史家だから、その後新しい史料が発見されたのかもしれないが、延宝五年の就職が正しければ、俳諧師と掛け持ちをしていた訳でちょっとおかしなことだし、山崎の説は武江年表と矛盾しない。
     そしてネットで検索した記事のほとんどが、神田上水改修工事は延宝五年に始まるように書いていて、それに基づけば延宝二年の就職は無理になる。ところが『東京市史稿 上水篇』(目次だけがネットで見られる)収録の「町触」によれば、芭蕉が江戸に来てからでも、寛文十二年「神田上水大洗堰其他修理」、「神田上水石垣石蓋修理」、延宝二年「神田上水大洗堰附近石垣其他修理」があって、上水工事は頻繁に行われていたのである。
     (http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0601jousui01.htm)
     だから工事自体のことは就職期間を決定する根拠にはならない。
     更に、先に引用した『江戸名所図会』には「昔上水開発の頃」「藤堂家へ普請のこと命ぜられ」としていて、文京区のホームページでもこれを踏襲しているようだが、藤堂家が普請を命ぜられたのは慶長十一年(一六〇六)に始まった江戸城天下普請であり、時代が違う。延宝の改修は大名普請ではなく、入札によって民間業者が行なったらしい。(「関口芭蕉庵」(http://kkubota.cool.ne.jp/sekiguchibashouan.htmより)。
     『奥の細道菅菰抄』には、卜尺の息子が父から聞いた話として、「縁を求めて水方の官吏とせしに」とある。つまり卜尺が芭蕉を就職させてやったということだろう。
     現場監督だったとか人事管理や工程管理だったとか説は様々あるが、実際にどういう仕事についたかは分からない。江戸に来て間もない足軽程度の浪人に、大きな仕事が任されたとは思えない。そして住まいは日本橋にある。史実としては余り信用できないと分かった『江戸名所図会』でも、ここに居住したとは一言も言っていないのである。残業して遅くなってしまったとき、夜道を日本橋まで帰るのは結構大変だ。この場所は単に時々寝泊りした場所と言うことではないだろうか。
     しかし「風人の習ひ俗事にうとく、其任に勝へざる故に、職を捨て深川といふ所に隠れ」た(『奥の細道菅菰抄』)。
     「芭蕉はさ、全然仕事しないんだよ」と、見てきたような講釈が始まる。「ホント、ヤになっちゃうんだ。」「見てたのね。」「石も運べないんだ。芭蕉、ちゃんと力を入れて働け、なんてさ。」
     そして延宝二年(『武江年表』及び山崎説)または八年(文京区説)、杉風所有の生簀の番小屋に弟子に貰った芭蕉を植えて、それに因んで号を芭蕉(はせを)と称するようになったものの、天和二年(一六八二)駒込大円寺に発した火事に遭って芭蕉庵は全焼する。

     深川の芭蕉庵、急火にかこまれ、翁も湖にひたり烟中をのがれしといふは、此時の事なるべし(『武江年表』)

     江戸の頃に火事は珍しいことではないが、お七火事とも言われた大火と芭蕉に関係があるのも面白い。翌年、弟子たちによって庵は再建された。小さいながら回遊式泉水庭園になっている。
     入り口付近には「古池や」の句碑がたつ。ただしこの句は深川で詠んだものだというのが定説だ。池の周りを歩い始めると「ツワブキが綺麗」と姫がカメラを向ける。朱楽菅江の狂歌は説明板を見なければまるで読めない。「執着の心や娑婆に残るらん吉野の桜さらしなの月」。さみだれ塚「芭蕉翁之墓」はちょっと登った所にある。更に少し上の方の芭蕉堂には、芭蕉、其角、嵐雪、去来、文草の像が納めてあるが、南京錠がかけられて中に入れない。池の周りの木はやや紅葉がかった色が綺麗だ。
     「スダジイですよ。生でも食べられます」と姫が言い、碁聖も「シイノミなんか、昔は飽きるほど食べた」と保証するので、後学のために拾って食べて見た。食べられないこともない。子供だったら喜んで食ったろう。

     小春日に椎の実噛むや芭蕉庵  蜻蛉

     池の畔に講釈師が立つと鯉が集まって来る。人が来れば餌をくれると思うのか、それとも人恋しいか。講釈師は煎餅を与えているが、その横には「動物に餌をやるな」という看板が立てられている。「塩分強すぎるんじゃないかしら。」「生態系の観点から如何なものでしょう。」「そうよね。餌付しちゃいけないのよ。」  一周した後は全員が休憩所に座り込んだ。作業台のような机の上には、番人のオジサン手作りの、草で作ったバッタ、竹トンボ、ブン回しなどのほかに、黄色のカリンが二つ置かれている。「食べられるのか。」「お酒にするのよ」と言うのはクルリンである。  「カリンの歌、知ってるかい。」予想した通り、「カーリンカカリンカカリンカマヤ」(「カリンカ」)と、講釈師はちょっとおかしな節で歌い始めた。暫くじっと考えていた画伯まで「カリンのお菓子って知ってるかな」と言いだすからおかしい。「カリントウだろう。そんなこと一所懸命考えてたのか。」番人のオジサンまで大声で笑い出す。
     「それじゃそろそろ行きましょう。」
     坂を隔てて向い側は水神社だ。鳥居の脇の三猿は藤寺にあったものと同じ形で、猿の上の部分はほとんど磨滅してしまっていて、何も読めない。お堂は小さくて境内も狭いが、神田上水の守護神である。鳥居を潜った石段の上には巨大な公孫樹が入口を守るように、二本立っている。「立派ね。」「これは巨樹かい。」「そうでしょう。」
     太った黒猫が蹲っていて、そばで女性が見守っている。碁聖がそのほとんど動かない猫を撫でながら女性に話しかける。「何歳なの。」「十七歳です。」勿論それは女性ではなく猫の年齢だ。「家にも十五歳のがいるんですよ。」碁聖が猫好きとは知らなかった。
     「まだここにいるよね。」何だろう。「ちょっと坂の上まで登ってみるからさ。待っててよ。」マルちゃんが坂の方に走って行くので、シノッチやクルリン、ドクトルも後を追う。東京でも有名な坂だと講釈師が言ったからに違いない。坂は階段になっていて、中央に手摺が設置されている。勿論、江戸の頃に階段も手摺もある筈がない。

    胸突き坂 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川家下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」とも呼ばれる。東は関口芭蕉庵である。
    坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければならないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。

     川沿いに色づいた木が見えて綺麗だ。「夕焼けに紅葉が映えるよ。」遊歩道はまだ続いているが、川から離れて塀に沿って右に曲がると新江戸川公園だ。旧細川家下屋敷跡である。文京区目白台一丁目。約三万八千坪で、上の説明にある永青文庫も従ってその敷地内にある。ただ、細川家の屋敷になったのは幕末の頃で、それ以前は幕臣の屋敷地だったようだ。明治以後、細川家の本邸となり、昭和三十五年に東京都が買い取って翌年に公園としたものである。
     門を潜って中に入ると回遊式泉水庭園になっている。樹木が多く、紅葉が池に映える。後楽園ほど広くはないが、落ち着いていてなかなか良い庭園だ。ほかに人も見えず、静かな池を一回りして戻ってくると三時をちょっと過ぎた頃だった。

     「これで、今日のコースは完了しました。」「ご苦労様でした。」「ここで解散されると駅まで行けない。」「勿論、駅まで一緒に行きますよ。」
     江戸川橋か護国寺かと迷っていると「お茶を飲もうぜ」と講釈師が主張する。それなら江戸川橋近辺にはない。「護国寺のそばならあるんじゃないの」と言うハイジの意見もあって、それではそちらに向かうことになる。
     公園の壁に沿って坂を登る。「昔は舗装されてないから大変だったよな。」右側にアパートのような建物が見えてきた。「女子寮じゃないか。」学生寮だが男子しか入れない。ここも勿論、旧細川屋敷の敷地である。
     目白通りに出ると、入口前に「和敬塾」の説明がある。財団法人和敬塾が運営する学生寮で、入寮には選抜試験がある。「どんな学生を選抜するのかしら。」それも書いてある。「社会の中核となり、指導者となるべき人材」「日常の共同生活を通じて、優れた社会人となるに必要な知性と徳性を兼ね備えた人材」を選抜するのだ。
     和敬は、十七条憲法の「一曰。以和為貴。二曰。篤敬三宝」に由来する。「三宝ってなんだい。」「三宝は仏法僧なり。」創立者は前川喜作。前川製作所創立者で早稲田大学評議員もしたひとだ。
     ここで「私たち目白駅に向かうから」とマルチャン、シノッチ、クルリン、ハイジは左に別れて行った。残りは通りを横断して細い路地を北上する。「たぶん行けるよね。」銭湯がある。「百円だぜ。」たぶんそれは安いが区民限定価格だ。
     更に道は狭くなって、「大丈夫かな」と言っているうちに突き当たってしまった。「左に曲がるとなんとか行けそうだよ。」ドクトルが先頭に立って行くと、また右に曲がってすぐに不忍通りに出た。
     護国寺の仁王門が見え、それを背にして音羽通りの左側にあるジョナサンに入る。姫が持ってきてくれた『至福の歌謡曲黄金時代』CD七枚組を肴に、ひとしきり歌謡曲や歌声喫茶の話題で騒いだ後、講釈師が中国、韓国に於ける酒の飲み方について詳細な解説を始めた。「目上の人の前じゃ、面と向かって飲んじゃいけないんだ、こうやって」と横を向いて左手で鼻を隠すように飲む格好をする。本当かね。これが中国の風習なのか韓国のものなのか、聞きそびれてしまった。

     賑やかな休憩が終わったのは四時半だ。姫はこれから研修会に参加しなければならず、反省せずに戻ることになっている。「忘年会では絶対歌いますからね。画伯も一緒に歌いましょう。」「喜んで。」
     反省する者はドクトル、Q太郎、スナフキン、蜻蛉の四人だ。店を探しているところに電話が鳴った。相手はロダンだ。「いま押上です。」「来るかい。」「勿論。」しかし入ろうとした店はまだ開いていない。「取り敢えず時間調整ということで、護国寺にお参りしてみますか。」Qちゃんは「時間調整」と言う言葉に苦笑する。「良いのかな。」良いのである。仁王門を潜り、石段を登って不老門、本堂(観音堂)。私以外はみんなちゃんと手を合わせているから偉い。
     大仏を見てもう一度外に出れば、さっき閉まっていた店の向うに白木屋の灯りが見えた。「あっちの方が安いよな。」当然安い方が望ましいから白木屋に入る。「押上からなら三十五分ほどだから、もうすぐ来るだろう。」スナフキンは携帯電話でこんな情報を検索する。私が知らない先進的な技能である。
     さっきの講釈師の説に従えば、私たちはドクトルの顔を正面に見て飲んではいけないのだが、この会には長幼の序という観念が欠けている。どんなに年の差があろうが、平気で友達付き合いしてしまう。実に無礼な若造どもである(と年長のひとたちは思っているだろうか)。
     ビール一杯を空けた頃にロダンがやって来た。江戸歩きの公開講座で本所深川界隈を歩いて来たそうだ。「飲む仲間がいないと淋しいんですよ。」
     ドクトルから台地と川が交互に出てくる江戸の地形の講義を受け、珍しく本当の反省会になった。スナフキンは次回企画の横浜を語って熱くなる。飲むほどに喋るほどにロダンのピッチが早まり、「いやあ、仲間と呑むのは嬉しいな」と声が大きくなっていく。焼酎が二本空いたところでお開きだ。ひとり二千五百円也。

    眞人