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    第三十三回 横浜・桜木町~関内・馬車道へ(幕末・明治を巡る)編
                        平成二十三年一月十五日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.1.22

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     旧暦十二月十二日庚午。この冬はいつもよりも寒く、関東を除いて全国的に大雪となっている。東京埼玉の気温も平年より一二度低く、一度穿いてしまったタイツが離せない。それでも今日は薄曇りとは言え、時々陽も差す風もない穏やかな日になった。
     今年最初のコースは横浜だ。江戸東京歩きの会で何故横浜かと言えば、スナフキンには「青春」の地として強い思い入れがある。それに江戸東京を何も地理的条件に限定することはない。江戸時代から東京時代と考えてみる。彼に言わせれば、江戸から東京に変わるためには横浜が開港しなければならず、横浜を知らずして江戸東京を語ることはできないのだ。四回も下見を繰り返して、「日本の夜明けなんだよ」と言う口調は鞍馬天狗のようではないか。つまり今日のテーマは開国、文明開化である。
     今更言うまでもなく、幕末明治の文明開化は歴史の必然で、それがなければ近代日本は成立しなかった。そもそも鎖国政策は徳川幕府最大の誤りで、そのために日本の近代化が二百年も遅れたとダンディはいつものように断罪する。それはその通りなのだ。それでも私には「しかし」と言いたい気分が残ってしまう。開国、開化によって失われたもの、滅びたものもまた大きかった。渡辺京二『逝きし世の面影』は、「雑多と充溢」「簡素とゆたかさ」「親和と礼節」などのキーワードで、失われた江戸文明を懐かしく丁寧に描いていて、読んでいるとなんだか涙が出そうになってくる。
     私はこの頃の時代の変化、余りに「便利さ」を追及しすぎる時代の変化について行きたくない気分を感じている。多少の不便さがあって、人の知性や身体は鍛えられるのではないか。電車の中や歩行中でも、二六時中携帯端末を手放せないような時代が文明開化の成れの果てであるなら、私は文明開化が好きではない。今の若い連中の知力の貧弱はどうだろうと古老のようなことを言うのは、荷風や柳北に影響されたためだろうか。あるいは精神が老化に向かっているのだろうか。

     それはともあれ横浜には来たことがなかったから、ちょうど良い機会だった。桜木町駅に降りたのも勿論初めてだ。「横浜に来たことないなんて、そんな人いるのか」とスナフキンは驚くが、画伯も初めてだと言っている。鶴ヶ島を七時五十一分に出て、池袋から直通で横浜まで、そこで乗り換えて九時二十六分に着いたから、新宿湘南ラインのお蔭でそんなに遠いと言う程でもない。
     「俺は幹事だから早めに来たのに、それより早い人がいるんだよ。驚いちゃう。」それは講釈師とチロリンのことだろう。彼らは大体一時間も前にやって来るものね。たぶん子供の頃から、遠足になるとソワソワして、いつもより早く起きてしまう人たちに違いない。
     幹事スナフキン、碁聖、画伯、講釈師、ダンディ、ドクトル、Q太郎、チイさん、宗匠、ロダン、桃太郎、蜻蛉、あんみつ姫、イッチャン、チロリン、クルリン、シノッチ、ハイジ、マルチャン、マリー、それに今回は本庄小町と中将夫妻が初めて参加した。遠かったでしょうと訊くと「ウチは二時間で来たよ」と小町が答える。総勢二十二人は団体割引が適用される人数である。チイさんは年末に痛めた足をかばいながら、やや無理をしてやって来た。大丈夫だろうか。「途中でリタイアするかも知れない」と気弱なことを口にする。

     スナフキンは事前に実に克明な解説を作ってくれていた。それで初めて知ったのだが、桜木町駅は実は最初の横浜駅だった。明治五年(一八七二)五月七日(太陽暦では六月十二日。太陽暦が採用されるのは翌年のことになる)、品川・横浜間に鉄道が開通した時、その横浜駅が現在の桜木町駅だ。
     初日は一日二往復、翌日からは六往復に増便したものの、まだテスト運行の仮営業だった。正式には新橋駅(後の汐留駅)の開業を待って、九月十二日(太陽暦十月十四日)に天皇のお召し列車が往復したのをもって鉄道開通とする。重陽の節句を目処としたのだが若干手間取って遅れてしまった。これに基づき太陽暦の十月十四日が鉄道記念日とされた。
     正式開通後は一日九往復、新橋停車場から横浜停車場(現桜木町)まで所要時間五十三分。全区間の運賃は上等が一円十二銭五厘、中等が七十五銭、下等が三十七銭五厘であった。明治七年の記録だがアンパン五厘、日本酒一升(特級酒)四銭の時代である。下等運賃でも米が五升半買えた。特級酒なら一斗弱飲める。当然ほとんどの庶民は相変わらず歩いていただろう。
     この駅が「桜木町駅」になったのは、大正四年(一九一五)八月十五日、現在の横浜駅が開業したためである。駅前広場の鉄道発祥記念碑には斜め後ろから陽が当たり、説明するスナフキンの頭が光っている。
     「それじゃ地下街を通って野毛山方面に向かいます。」その地下道に下りると、既にこの時間から開いている飲み屋が並ぶ不思議な光景に出会う。桜木町は朝から酒を飲む町であった。
     日本ガス事業発祥の地。本町小学校前に記念碑が立っている。伊勢山下石炭蔵、横浜市中区花咲町三丁目八十六。明治三年(一八七〇)、ドイツ資本に対抗して高島嘉右衛門が設立した「日本社中」(横浜瓦斯会社)跡地である。明治五年(一八七二)九月二十九日(太陽暦十月三十一日)このガス会社によって、神奈川県庁の表門両側及び本町一丁目から四丁目までの間に、ガス灯二十数基が設置されたのが都市ガス事業の始まりだ。年末には県庁から本町、馬車道、大江橋を経てガス会社までの区間に三百基に達した。
     事業ではなく試験的なものならば、明治四年、大阪造幣局周辺で機械の燃料のガスを流用して工場内および近隣街路に灯したという記録が残っている。私は銀座が最初かとなんとなく思い込んでいたが、横浜に二年遅れている。
     ところで、日本社中の高島嘉右衛門は「易聖」とも呼ばれている。伊藤博文暗殺を事前に、安重根の名前も含めて予測したという伝説がある。ただし現在「高島易断」を名乗る団体は、嘉右衛門の名声に倣って勝手に称しているものらしい。鉄道敷設についても嘉右衛門が、伊藤博文と大隈重信に必要性を強調したことで実現した。最短距離を通すために海を埋め立てたのも嘉右衛門であり、それが高島町の名に残る。横浜開発の功労者だ。
     「嘉右衛門さんは松井今朝子さんの小説にも登場しますね」と姫が言い出し、ダンディも頷いているのが不思議だ。いつの間に読んでいるのだろう。私はこの頃小説と言うものを読まなくなってしまったので分からない。調べてみたが、『銀座開化事件帖』というものだろうか。
     「どのくらいの明るさだったんですかね。」それは桃太郎でなくても気になるところだ。電灯とは比べ物にならないのは分かっている。たぶん、ガスコンロの火をイメージすれば良いのではないか。

    この頃のガス灯は、黄色い炎が燃えているだけで、今の電球だと十五ワットくらいの明るさしかありませんでした。けれども、当時はちょうちんを持たなければ暗くて外が歩けなかったので、遠くから見物人が大勢集まり、お祭り騒ぎになりました。
    そして、この年(明治五年)の末には、横浜のガス灯は二百四十基にもなり、一八七四年(明治七)には、東京の京橋と金杉橋の間に八十五基のガス灯が輝くようになりました。
    夕方には、はっぴ姿で長い竿の先に火をともした点灯夫と呼ばれる人がやってきて、次々とガス灯に火をつけて回りました。(東京ガス「ピピッと!ガス百科」より)
    http://www.tokyo-gas.co.jp/encyclopedia/dictionary/dictionary30.php

     「クロガネモチが綺麗。」姫の言葉で見上げると、コンクリート塀の内側から伸びている枝に赤い実が綺麗になっている。幹には確かに「クロガネモチ」の名札が掛っていた。
     岩亀横町と言う地名は当然「岩亀楼」に所縁する。岩亀稲荷はその横町の、花屋とテーラー(兼喫茶店)との間のすれ違うこともできない、勝手口のような狭い路地にある。横浜市西区戸部町四丁目一五二番。開港当時最大規模を誇った「岩亀楼」の遊女たちが静養した寮内の稲荷で、豊川陀枳尼真天とある。
     「陀枳尼天って鬼子母神のようなものですよね」と桃太郎もかなり詳しくなっている。荼吉尼天とも書くが、元々は人間の肝や心臓を食う鬼女である。白狐に跨る姿によって稲荷神と習合したのである。明治の神仏分離で、伏見稲荷(宇迦之御魂神)系統は神社になったが、豊川稲荷(陀枳尼天)系統は寺院として現在に至っている。
     突き当たった場所の祠には一升壜が二本とビールが供えられ、その脇には「露をだに」の歌が書かれた立札が立つ。

    花街の路地裏に咲く白八つ手  ハイジ
    山茶花や息を殺して路地の裏  蜻蛉

     まず横浜の遊郭の歴史から始めていきたい。
     修好通商条約で開港場所は神奈川村と定められたが、神奈川宿は東海道の要衝であり、それを避けて横浜村に設けたために外国人の不満が強かった。それを懐柔する必要に迫られていたこと、またオランダ公使から要請があったこともあり、遊郭設置が決められた。新開地に色町が出来るのは自然の流れだが、これは幕府公許である。外国人を懐柔し慰安するため、政府公認の遊郭を作ったのだ。
     同じようなことは太平洋戦争直後にも発生した。「日本女性の防波堤」のために、内務省が占領軍向けの娼婦を募集した。「特殊慰安施設協会」と言う。エレノア・ルーズベルト夫人の反対もあって約半年で廃止されたが、最盛期で約七万人の女性が従事し、協会廃止の後、そのほとんどはパンパンと呼ばれる街娼に転じることになる。
     遊郭が作られたのは、横浜スタジアムのある現在の横浜公園一帯の泥地(太田屋新田)だった。ここに一万五千坪の貸与を受け、埋め立てから町づくりまで実質的に請負ったのが品川宿の岩槻屋佐吉だ。武州岩槻の人、品川宿の飯盛旅籠で財をなし一代苗字を許されて佐藤佐吉と名乗った。遊郭が完成すると町名主になるとともに、岩亀楼を経営した。
     安政六年(一八五九)に開業した町は港崎(ミヨザキ)町と名付けられ、遊女屋十五軒、遊女三百人(五百人とも言う)を擁した。
     外国人専用遊女(ラシャメン)は鑑札制にして、その管理も岩槻屋佐吉に託された。ラシャメンの中からは特定個人の「妾」になるものも出た。実入りが良いから鑑札を持たずに「妾」になるものもいた。慶応二年にはラシャメンが二千五百人にもなったと言われている。
     但し港崎遊郭は、慶応二年(一八六七)の大火のために焼失して吉田新田北一ツ目(吉原町と改称。伊勢佐木町二丁目、羽衣町三丁目、末広町三丁目)に移り、明治四年(一八七二)には高島町に移転した。更に三度目の火事にあって明治十三年(一八八〇)吉田新田三ツ目(永真遊郭街。真金町、永楽町)に移転してやっと落ち着き、戦後の赤線廃止まで続いた。

     「岩亀が岩槻の音読みに由来するっていうのは知らなかったな」とダンディが感心したように言う。私も知らなかったが、これはスナフキンが二ヶ月も前から調べてくれていた。その岩亀楼は港崎町でも一二を争う大楼で、昼間は見物料をとって見物させた程だと言う。

    露をだにいとふ倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ

     作者とされる喜遊(有吉佐和子の小説では亀遊。私は読んでいません)も、品川宿岩槻屋から岩亀楼に移ってきた遊女であった。アメリカ軍人(商人という説もある)の妾になることを拒んで自害し、その死後「攘夷女郎」と持て囃されることになる。

    凛とした遊女偲ぶか寒椿   午角(画伯)
    紅梅に遊女の涙みつけたり  ハイジ
    路地裏の稲荷に残る霜柱  蜻蛉

     しかしこれは史実ではなく、どうやら攘夷派の創作になるらしい。三田村鳶魚によれば、「露をだに」の歌が別の二人の名前で年代も違って登場すると言う。

    文久二年に書いたものですが、丹波篠山の藩士菱田氏の随筆「伝聞叢語集」というものがあります。その中に「東都松葉や花園太夫和歌」として例の歌を挙げ(中略)
    「嘉永明治年間録」の安政六年八月のところには、
    江戸新吉原ノ娼婦桜木、墨夷某ヲ斥テ詠ルノ歌一首
    桜木は江戸新吉原の娼婦なり、是年八月墨夷某これを聘す、桜木斥けて応ぜず、夷望みを欠く、而して執政某に語る、執政某、夷意を重んじ、意を其主に属す、桜木固く聴かず、国風を詠じて其意を述ぶ。
    露をだにいとふやまとの女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ
    とあって(後略)(三田村鳶魚『異人嫌いの喜遊』)

     つまり喜遊の前に、花園太夫、桜木の二人の逸話として残されていた。勿論これだって事実かどうかは分からないが、こうなれば喜遊についても明らかに創作だと判断できるだろう。鳶魚の推定では犯人は大橋訥庵だ。
     安政の大獄で刑死した頼三樹三郎の死体を葬り、ペリー来航時には幕府に攘夷実行の上書を呈し、和宮降嫁に反対し、輪王寺宮を擁立した挙兵計画を策し、安藤信正暗殺計画に加担するなど、もう無茶苦茶な過激派の朱子学者である。攘夷気分を盛り上げるための創作だったに違いない。
     文久二年一月十二日に捕らえられ、三日後には同志によって坂下門外の変が起こされる。しかし安藤は負傷しただけで、実行犯の水戸浪士六人は全てその場で斬殺された。訥庵は、安藤信正暗殺後は朝廷から攘夷の勅書を貰い、一橋慶喜を擁して挙兵することを計画していた。輪王寺宮にしても慶喜にしても、擁立されて立ち上がるなんて本当に信じていたのだろうか。妄想に取り付かれていたとしか思えないし、私はこの頃の尊皇攘夷派にほとんど同情しない。

     住宅地を抜けて掃部山公園の頂上に着けば、衣冠束帯を身につけた井伊直弼の大きな銅像が立っている。「ずいぶん大きいわね。」「最初はもっと大きかったようです。」台座を含めて十一メートルになる。
     銅像の前の広場でキャッチボールをしている男たちの球が逸れ、拾った講釈師が投げ返すと却って変な方に転がった。「ゴメン、ゴメン。」「ワザとやったでしょう。」ワザとやって良い。そもそも大勢がいるのが分かっていて、こちらに向かって球を投げるのが悪い。球が逸れてぶつかったらどうするか。私はそばでキャッチボールをしていると実は怖い。

    初春や像と眺むる横浜港  閑舟

     江戸時代には不動山、明治になって鉄道山と呼ばれていた土地が、明治十七年に旧彦根藩士によって買い取られ井伊家の所有となった。明治四十二年(一九〇九)横浜開港五十年を記念して、正四位上左近衛権中将兼掃部頭井伊直弼の像が建立された。建設委員総代は彦根藩士の子で、横浜正金銀行頭取をしながら専修大学の初代学長となった相馬永胤だ。そこから掃部山と呼ばれるようになった。
     一丈二尺(三・六メートル)あった最初の像は昭和十八年に金属回収令にあって撤去され、昭和二十九年に再建されたのが現在の像である。
     「ここは井伊直弼とまるで関係ないのにおかしい」と、これも上方人ダンディの不満の種になる。徳川幕府に関係するものは全て嫌いなひとである。確かに最初は日比谷公園に建立する計画だったらしい。歴代内務大臣(山縣有朋、西郷従道、品川弥次郎、松方正義)の反対にあって頓挫して、結局、内務大臣の管轄から外れた神奈川県のこの地に決められた。除幕式にも大隈重信を除いて、伊藤、山縣、井上など松陰門下の政府高官は誰も出席しなかった。(阿部安成『直弼/象山/忠震・競争する記念碑』より)当り前だよね。彼らにしてみれば直弼は不倶戴天の敵である。
     しかし井伊直弼の決断がなければ開国の実現はもっと遅れた筈で、その港を見下ろす場所に銅像を建てること自体は理屈に合っている。毀誉褒貶はあるが、やはり一代の英雄であったと私が言えば、「私だって舟橋聖一の『花の生涯』を読んで、なかなかの人物とは思いましたがね。だけどあの弾圧はいけない」と余りにも正しい意見で応えられてしまう。それは私もそうだと思う。安政の大獄によって、橋本佐内や吉田松陰を殺したことも勿論そうだが、開明派若手官僚を大量に追放してしまったことが、徳川幕府のその後の命運に大きな影響を及ぼした。
     ところで日米修好通商条約は安政五年六月十九日(一八五八年七月二十九日)に勅許を得ずに締結された。幕府法的にみれば本来は勅許なんか必要ない。その後、英仏露蘭と相次いで結ばれた条約を含めて、安政五カ国条約と呼ばれる。後に鹿鳴館を作って西洋人(ピエール・ロティ等)にバカにされながら、苦労して改正することになる不平等条約である。
     領事裁判権を認めたこと、関税自主権がなかったことと同時に、実際問題として生活に最も影響が大きかったのが、ハリスに押し切られて銀を通貨交換基準とするのを飲んでしまったことだった。当時の日本の金銀交換比率は金一に対して銀が四・六五、それに対して欧米諸国では金一対銀十五・三と遥かに銀の価値が低い。つまり外国の銀を日本に持ち込んで金と交換すれば、それだけで三倍以上の利益が出るのである。この結果、金の大量流出と凄まじいインフレが幕末日本を襲うことになる。実は高島嘉右衛門も、この金銀の為替差を利用してぼろ儲けをした一人だ。
     「当時の幕府官僚はこういう基本的なことさえ知らなかったんですからね。鎖国の罪ですよ。」ダンディはあくまでも徳川の鎖国政策に文句を付けなければ気が済まない。

     そのためか、いきなり「菊は栄える葵は枯れる」と歌い出す。「知りませんか。」私は知らない。姫も講釈師も知らない歌というのは珍しい。「勘太郎月夜ですよ。」「誰の歌かな。」それなら小畑実だ。正しくは『勘太郎月夜唄』(昭和十八年。佐伯孝夫作詞、清水保雄作曲)。影か柳かカンタロウサンカという例の歌で(私はうっかり間違って「月か柳か」なんて歌ってしまった。恥ずかしい)、確かにダンディの言う通り第三連の冒頭にある。クラシック愛好家で歌謡曲は嫌いなダンディが、反徳川となればこんな歌まで知っているのか。
     私は一番の歌詞だけ知っていて、勘太郎と明治維新が関係あったなんて思いもしなかった。そもそも伊那の勘太郎ってどういう話か、知っているひとがいるだろうか。調べてみれば、どうやらただのヤクザ物では戦時中の検閲が通らず、勘太郎が水戸天狗党を手助けしたことにして、やっと公開に漕ぎつけたものらしい。
     それに対抗するように講釈師は『大利根月夜』(昭和十四年。藤田まさと作詞)を歌い出した。維新とも井伊直弼ともまるで関係がないが、ついでだから言えば天保水滸伝、笹川繁蔵と飯岡助五郎との利根川を舞台にした大喧嘩で、笹川方の死者は平手造酒一人だったと言われている。「止めて下さるな妙心殿、落ちぶれ果てても平手は武士じゃ。」それに続けて私も「行かねばならぬ」とうっかり言ってしまったのは、ちょっとおかしかった。これでは三波春夫の『大利根無情』(昭和三十四年。猪俣良作詞)になってしまう。
     ロダンは「人を斬るのが侍ならば」と声を出す。『侍ニッポン』は昭和六年公開の映画の主題歌で、原作は郡司次郎正。途中で大胆な転調が入る、古いようなモダンなような不思議な曲だ。
     「それって戦前の歌ですか」とハイジが笑いながら首を傾げ、マリーも「全然知らないわよ」と呆れたように私たちを見る。それなら歌詞を掲げておかなければならない。第二連だけ。西條八十作詞・松平信博作曲。

    きのう勤皇 あしたは佐幕
    その日その日の 出来心
    どうせおいらは 裏切り者よ
    野暮な大小 落とし差し

     時代を考えれば、翌七年にはスパイM(飯塚盈延)の指揮下にあった日本共産党による大森ギャング事件が起こり、八年には佐野学、鍋山貞親の転向声明が出される。そうした特高による共産主義者の弾圧、スパイ、裏切りの時代に流行した歌で、これなら井伊大老と桜田門外の変に大いに関係がある。主人公、新納(ニイロ)鶴千代が大老の落胤であった。余計なことを付け加えれば、この歌を歌った徳山璉が「新納(ニイロ)」を「シンノウ」と間違えて歌ったことも、歌謡曲の歴史にはちゃんと書かれている。

     「お腹が空いちゃったよ。」画伯の声に笑い声が起きる。まだ昼にはかなり時間がありますよ。公園内には横浜能楽堂が建っている。東京根岸の旧加賀藩主前田斉泰邸に建てられ、後に染井の松平頼寿邸に移築された「染井能舞台」を移築復元したものである。「染井の能楽堂だろう、知ってるよ。」ドクトルが能楽に詳しいとは、申し訳ないが今まで知らなかった。
     それを過ぎて山を下りる。県立図書館、青少年センターを過ぎて道路(紅葉坂と言うらしい)を渡ると、すぐに鳥居の前に出た。「裏口からですが、コースの都合で」とスナフキンが言い訳するのを耳にして「気を遣ってるわね」と小町が囁く。講釈師は石段の途中に道祖神が据えられているのに気付いて、「可愛いじゃないか」とわざわざ近くに寄って写真を撮っている。
     石段を登りきって頂上に着けば伊勢山皇大神宮だ。戸部村海岸伊勢の森の山上にあったものを、明治四年に現在地に遷した。外来文化が凄まじい勢いで流れ込んでくる横浜である。神奈川県知事井関盛艮(旧宇和島藩士)は、それに対する日本人の精神的支柱が必要だと考えた。外国事務局判事の経験があり、岸田吟香らと横浜毎日新聞創刊を企画し、ガス灯敷設にも尽力した人物だから、ガチガチの神道主義者と言うわけでもない。太政官と神祇官に建白書を提出し、伊勢神宮遥拝所として県内総社に整備することを願い出て許可された。伊勢神宮は建白書に依らなければ勝手に勧請することができないらしい。
     「お伊勢様に行って来たばっかりだからさ、あんまり感動しないわ」とマルチャンが(大きな声で)呟いている。ダンディは、関東の伊勢神宮なんてマガイモノだと断定する。
     黒い御影石に「石激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子」を彫った碑を見る。
     珍しいのは「蒋公頌徳碑」だ。こんなところに蒋介石が何故いるのか。「日本の士官学校を出たからさ。」一般には確かにそう言われているが、実は東京振武学校卒で高田連隊野砲隊の将校になったというのが正確なところらしい。碑文を読めばもっと驚いてしまう。
     中国大陸の日本将兵が早期復員できたのも、日本が分割占領されなかったのも、蒋介石の「以徳報怨」政策のお蔭である。これは親台湾派の政治家が良く口にする論法だから、それほど珍しいものではない。問題は次だ。「我が国の天皇制を擁護し国体の護持に努めてくれました」そのために「蒋公が守護なさいました天皇の御先祖を奉祀する伊勢山の地に」頌徳碑を建て、顕彰する。由緒の署名は「神奈川県日華親善協会理事長・聖心女子大学名誉教授の助野健太郎」となっている。
     蒋介石が日本天皇制の護持者であるとは初めて知った。既に共産党軍が国民党軍を圧倒していた。日本兵をいつまでも中国大陸に留めておけば、武器弾薬が共産党に流れる恐れがあり、場合によっては共産党軍に参加する日本兵も出てくる。蒋介石はそれを危惧したというのが一般的な理解ではないだろうか。そして、この由緒を書いた助野健太郎は、統一教会、日本勝共連合に関係する人物であった。
     因みに「以徳報怨」の典拠は論語にあった。

    或曰。以徳報怨。何如。子曰。何以報徳。以直報怨。以徳報徳。
    或ひと曰く、徳を以て怨みに報いたらば何如。子曰く、何を以て徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報いん。

     「以徳報怨」は孔子に対する質問で、それに対して、怨みに報いるには直をもってせよと言っている。「直」は素直にとかか率直にだろうか。蒋介石の言い方とはちょっと違う。
     正面の石段を降りてまた坂を登ると、すぐ隣には成田山横浜別院・延命院がある。かつては野毛山不動尊とも呼ばれた。正式に成田山の別院になるためには、例の高島嘉衛門の力が預かっている。桃太郎やチイさんが丁寧に拝むのはいつものことだ。
     見下ろせば、随分高いところまで登って来たことが分かる。横浜がこんなに坂の多い町とは知らなかった。ダンディは大師像を見つけて「弘法大師だから」と頭を下げる。
     ここから狭い坂道を下って住宅を過ぎ、野毛坂の交差点を越えれば野毛山公園だ。まずリーダーは中村汀女句碑の前に立ち止まって説明する。夫が横浜税関長になった昭和七年から四年間、横浜に住んだことがあるという縁である。

     蕗のたうおもひおもひの夕汽笛  汀女

     大きな自然石に自筆で書かれているのがこの句だ。その横の立て札に、板短冊が何枚か掲げられている。

     横浜に住みなれ夜ごと夜霧かな  汀女
     噴水の真白にのぼる夜霧かな
     船影がつつじの上にふとくなる

     汀女の句は今まで全く知らなかった。今回少し読んで見たものの、ここにあるのは余り出来の良い方とは思えなかった。私の鑑識だから勿論信用しなくて良い。ただこれを見て、横浜と言えば夜霧なのかと無学な私は変なことに感心した。それならば渡邊白泉の有名な句の方が良いんじゃないか。

     街燈は夜霧にぬれるためにある  白泉

     年末に渡邊白泉、高屋窓風、富沢赤黄男等の新興俳句を少しだけ読んでみたが、無季俳句にもなかなか面白いものがある。但し季語に頼らないから、かなりの想像力と構成力が必要で私には無理だと思われる。(季があるから簡単だというわけでは勿論ない。)
     更に上に登って「横浜開国の先覚者 佐久間象山先生顕彰碑」を見る。象山は佐藤一斎に学んだ儒者であった。たまたま松代藩主眞田幸貫が海防掛に任ぜられたために洋学研究を命ぜられ、江川英龍や高嶋秋帆の指導を受けたのが運命を決めた。門弟に吉田松陰、橋本佐内、勝海舟、河合継之助、小林虎三郎などがいる。松陰が密航を企てた事件に連座して松代に九年間蟄居し、許されて後は慶喜に招聘されて開国論を主張した。
     「象山はショウザンですか、ゾウザンですか。私はショウザンと覚えていましたが」と言うダンディに、ロダンも「私もショウザンって習いましたが、最近はゾウザンって読むらしいですよ」と応えている。そうなのか。私の記憶では象山自身がショウザンと読んで欲しいと書いていた筈だと言ってしまったが、不安になってきた。探してみると、「松本本誓寺三部経縮軸添記」という文書に行き当たる。そこに、象山自身が「もしもそれ後人我が名を呼ばば、応に知るべし。象は所蔵の反、山は参なりと。」と書いてあり、これが「ショウザン」を証明しているのだ。しかし「反」なんて書くから素人には分かり難い。嫌な性格だ。幸い解説してくるひとがいる。

     さて、「『象』は『所』『蔵』の反」とは何を言おうとしているのかというと、「象」の発音は「所」(sho)の頭部子音(sh)と「蔵」(sou)の尾部韻(ou)とを合成して「しょう」(shou)と作るべし、と指示しているのである。
    (高橋宏『佐久間象山呼称の決め手:恵明寺山号「ぞうざん」から山名「ぞうざん」へそして雅号「しょうざん」へ』)https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/4524/1/Liberal_arts29-02.pdf

     象山は確かに先覚者であるには違いないが、私にはいまひとつ分からない。「天下の師」と自称するほど傲岸不遜な人物だった。「傲岸不遜って、蜻蛉さんが言うとオカシイ。」姫が笑う理由が私には謎である。勝海舟にとっては師であり妹婿にも当たるが、その象山評価もそれほど高くない。私は海舟贔屓なので、その評価に引き摺られているかも知れない。

    佐久間象山は、物知りだつたヨ。学問も博し、見識も多少持つて居たよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたらどうだろうか・・・。何とも保証は出来ないノー。あれは、あれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られたからでもあろう。(勝海舟『氷川清話』)

     そろそろ私も腹が減って来た。野毛山配水池の「近代水道発祥の地」碑を見ながら公園を抜ける。霜柱が解けた土が靴にへばりついて歩き難い。

     霜解けの坂踏みしめる港町  蜻蛉

     住宅地を通って日ノ出町、初音町の辺りにやって来ると、「この辺は飲み屋が一杯あって、結構怖かったんだよ」と中将の口調がなんだか詠嘆的になってくる。中将は若い頃いろんなところを遊び歩いていたひとだろうか。
     黄金橋を渡れば伊勢佐木町はすぐそばだ。伊勢佐木町命名の由来に二つの説がある。ひとつは道路建設費用を寄付した三名(伊勢屋中川次郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎)に因むというもので、もうひとつはこの地に興行場を開場した伊勢文蔵・佐々木次年の両名に因むというものだ。

    枇杷の花開国の街に咲き匂う  ハイジ

     その伊勢佐木町四丁目の駐車場に、コートの襟を立てた青江三奈の大きな絵看板があり、その前に「伊勢佐木町ブルース記念碑」が立っている。平成十三年七月一日、青江三奈の一周忌に合わせ、伊勢佐木町商店街創立五十周年記念事業として建立された。グランドピアノを横に倒した形のさくら石に、青江三奈の青銅製レリーフと黄銅板の楽譜が埋め込まれていて、ボタンを押すと一分間曲が流れる仕組だ。更に裏面には横浜に因む歌五十曲の曲名を刻んでいる。

    伊勢佐木町の名は、故青江三奈(平成十二年七月二日没)さん歌唱の「伊勢佐木町ブルース」によって、全国の人々に知られることになりました。当組合では、青江さんに深く感謝し、記念として、この地に歌碑を建立いたしました。
    協同組合 伊勢佐木町商店街

     「好きだったの」とマリーに訊かれても返答に困ってしまう。昭和四十一年(一九六六)、青江三奈が『恍惚のブルース』で、森進一が『女のためいき』でデビューしたとき、なんて不気味な連中だと思ったのは、中学生私の感受性がいかに幼かったかということだ。その後演歌の歴史を勉強した結果、いわゆる「演歌」は森進一と青江三奈で「現代演歌」としての頂点に達した。それ以後の今の「演歌」は、折角二人が獲得した「現代」さえ忘れて、滅亡の道を歩んでいるというのが今の私の見解だ。ただし急いで言っておかなければならないが、これは演歌に限った話であって、流行歌一般を考えれば、美空ひばり以後にその最高峰に登りつめたのはちあきなおみである。
     講釈師は何度もボタンを押して、歌に合わせて「アッ、アッ」とおかしな声を出す。物真似の積りだろうか。

     伊勢佐木は溜息の出る冬日和  蜻蛉

     歌のイメージとは違って、この辺りはそれほど「不健康な」街には見えない。そんなことに関心のないイッチャンやシノッチは碑を離れて、向かいにある「へびや」のウィンドウに飾られている蛇(コブラかな)を見つめている。蛇が三匹、首から上半身(と言うのだろうか)を持ち上げて飾られているのは、余り嬉しいものではない。ロダンはブキミ悪いだろう。漢方薬としての蛇の粉末を売る店らしい。
     さて、いよいよ昼飯だ。ちょっと横道に曲がりこむ。
     「士農工商老若男女。賢愚貧福おしなべて。牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」というのは仮名垣魯文『牛店雑談・安愚楽鍋』(明治四年)だ。
     折角横浜に来たからには牛肉を食わねばならぬ。スナフキンはそう考えて、牛鍋処「荒井屋」のすきやき重千七百円也を予約した。横浜市中区曙町二丁目十七。明治二十八年創業のこの店で、たぶん最も安いメニューだろう。それでも私たちにとっては珍しく豪勢な昼食だ。文明開化ならば牛鍋だろうと言われても、それはもっと高いから手が出ない。昼限定の「開化牛鍋膳」だって二千八百円するのである。
     店に入ると二階奥の床の間付きの座敷に通された。実は座敷を予約するためにはサービス料が一割取られるのだが、交渉によって割引してもらった。さすがに幹事は営業マンである。
     ダンディがワインを注文し、中将夫妻と桃太郎のいるテーブルでは瓶ビールを注文しているのを見て、姫はグラス・ビールを注文した。昼間から酒を飲むなんて信じられない。「そうだよな、お茶が一番旨いよ、気取っちゃってさ」と講釈師がダンディに嫌味を言う。「お茶は体脂肪改善に良いんですよ」とチイさんが言い出し、「そうだってね」と相槌が打たれる。結構みんな同じ番組を見ているんですね。掛川のお茶が一番良いという話であった。(NHK「ためしてガッテン」)
     運ばれてきた重箱の上段にはスキヤキ、下段にご飯が詰められていて、シジミの味噌汁と漬け物、生卵がつく。「あったかい内に召しあがって下さい」と言われたが、蓋を取ればすでにもう少し冷めてしまっていた。
     私は三十五年ほど前に新宿で食って(実は食わずに)後悔して以来、外でスキヤキを食ったことがない。相棒と二人で、たまには豪勢に飲もうとスキヤキ屋に入ったのだが、肉が隠れる程大量の砂糖を仲居が投入するのを見て、私たちは茫然としてしまった。結局肉には箸を付けずに突き出しと漬物だけで酒を飲んだ。金をただで捨てるような結果になったのは、貧しい青年にとって実に悔しい出来事であった。
     我が家ではすき焼に砂糖を入れない。いわゆる「スキヤキのタレ」という奴もほとんど使わない。甘みはタマネギと酒から自然に出てくる。そんなものは「すき焼」ではないと言われても仕方がないが、子供の頃からそうして食べてきた。
     今はどうか知らないが、小学校の頃に秋田では「鍋っこ遠足」と言うものがあった。七八人の班に別れて鍋や食材を背負い、昼にはカレーライス、スキヤキ、切りたんぽ鍋などを作るピクニックで、山形なら(と私は思い込んでいたが、今では全国的か)芋煮会に当たるだろうか。
     私の入ったスキヤキ班の班長は、醤油味の出汁を鍋に満たして(砂糖は入っていなかった)、豚肉、豆腐、白菜、葱を放り込んでこれがスキヤキだと断言した。私はちょっと変だなと思ったが、誰も異議申し立てをしなかったから、大抵の家ではそういう物だったのだろう。しかしこれは秋田で「肉かやき」と呼ぶべきものではなかったか。
     「かやき」とは貝焼きの訛りで、元々は大きな貝殻を鍋の代わりにしたものだろうが、一般に寄せ鍋風のものを「かやき」と言っていたようだ。ハタハタを入れれば「しょっつるかやき」、肉を入れれば「肉かやき」と言うように。

    俗に関東風、関西風と申しますが、
    関東風とは、砂糖、しょう油にみりん・酒などをまぜた割下(タレ)をお鍋に注ぎ、肉、野菜をグツグツ。これが牛鍋でございます。
    一方、関西では、牛脂をとかしてお肉をあぶる。そこへ砂糖、しょう油などを 次つぎ加えてジュージュー。お好みに味つけをいたします。この焼きものが「すきやき」でございます。

     これが荒井屋の説明する牛鍋とスキヤキの違いだ。そして、ここで言う「牛鍋」が関東風のスキヤキと言うようだ。どちらも砂糖を加えることは変わらず、どっちに転んでも我が家で食べているのは「スキヤキ」ではない。それでも、この店の肉は予想したほどは甘過ぎず、私にも食べられた。肉が柔らかい。

     初春や開化の肉の柔らかさ  蜻蛉

     牛鍋は文久二年(一八六二)、横浜入舟町「伊勢熊」に発祥すると言われているが、そうではなく神戸や京都が早かったという説もあるらしい。福沢諭吉が大阪適塾時代を回想した中に肉鍋のことが出てくる。初期の頃は実に下賎で不潔な食い物であったようだ。

    最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身だらけの町の破落戸と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やら、そんなことには頓着なし。一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。(『福翁自伝』)

     明治元年(一八六八)伊勢佐木町「太田なわのれん」が味噌煮込み風の牛鍋を考案して、これが関東一円に流行したと言う。それなら「太田なわのれん」の宣伝も見てみよう。

    当時行われていた牡丹鍋(山猪鍋)にヒントを得て、醤油または味噌をタレにして葱で臭みを消すなどの工夫を凝らし、浅い鉄鍋を用いることを考え出してほぼ今日の牛鍋の形を備えるようになり店に牛鍋(うしなべ)の看板を出しました。
    当店の牛鍋は肉を焼かずに味噌で煮て、その風味と葱で肉の臭みを消し、炭火の七輪にかけた浅い鉄鍋の火回しで独特の仕上りを工夫するというものでした。
    http://www.ohtanawanoren.jp/profile/data2.htm

     肉の他には葱しか入れない。臭みを消すために山椒をまぶしたとも言う。牡丹鍋がヒントになったことから分かるように、江戸時代に肉食が全く禁じられていたわけではない。畑を荒らす猪や鹿は殺さなければならず、その肉はももんじい屋に売られた。「ももんじい」は「百獣」である。両国橋の袂には今でも享保から続く猪料理の老舗「ももんじや」があるが、文化文政の頃になると都市にはこうした店が何軒も出来て、猪、鹿、熊、狼、狐、狸などを食わせ、または売った。ただし表面上は「薬喰い」と称して、猪は牡丹あるいは山鯨、鹿は紅葉、馬は桜に譬えられた。広重(二代か?)の「びくにはし雪中」に「やまくじら」の看板が見える。
     「坊主が食いに来たんだよ。酒は般若湯ってごまかしたりしてさ。」彦根藩では元禄の頃から既に牛肉の味噌漬けを特産として製造している。金さえ払えば江戸の食生活は意外に変化に富んでいたのである。
     そして「スキヤキ」の名称は関西に発祥した。歴史的には、鴨などの肉を鋤の刃に載せて火で炙って食ったものを言ったから、猟師や農民の簡単料理である。文明開化で牛肉を食うようになってからも、鍋で肉を焼いて、その上に予め焼いたタマネギの輪切りを載せて醤油かソースで食べたなんて言うから、神戸開港によって外国人が齎したステーキが原型かも知れない。そして昔からある「鋤焼き」をその名称にしたのだろう。
     そういうものと牛鍋とが出合って適当に妥協した結果、現在のようなスキヤキに変化した。妥協の程度によって様々な味付けや作り方の違いが出てくるのは当然だ。関東では、関東大震災後に「スキヤキ」の名称が一般に普及した。
     「ゆっくり時間をかけて食べなくちゃ。」千七百円の元を取らねばならないと宗匠は力説する。今日は全員が同じ物を食べているから、姫の注文だけが遅くなって講釈師に急かされると言うこともない。「久しぶりに穏やかな昼食になったよね。」宗匠の言葉に「ホント、ホント」と誰もが賛成する。「俺だけが急かしてるんじゃないよ、碁聖だって早く出たくてウズウズしてる。」「そんなことありません。昼寝していきたいぐらいだ。」
     私ものんびりしたいのだが、部屋の中ではタバコは吸えない。玄関先に灰皿が置かれているのを知っていたから、早く食べ終わってすぐに外に出る。「神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例」という悪法が、昨年年四月に施行され、飲食店は全面禁煙か分煙かを選ばなければならなくなった。小さな店では分煙基準に適う設備を造れる筈がないから、事実上これは全面禁煙に等しい。
     タバコを吸い終わって戻って来ると、集金した金の勘定にスナフキンが苦労していた。小町が集金を手伝い、Qちゃんが一所懸命電卓を叩き、スナフキンが百円玉を積み上げる。事前に「お釣りがないように」と連絡があったものだから、百円玉が多過ぎて却って勘定に手間取っている。
     隣の部屋を覗いて来た講釈師が、「向こうは茶碗蒸しがついてたから、こっちより高そうだった」と嬉しそうに姫に報告したが、「茶碗蒸し嫌いだから、イイモン」と姫が応えている。
     そろそろ出ようと言うときに、「アッ、バッグがないわ」とハイジが慌てた声を上げた。さっき仲居が部屋の隅に片付けたんじゃないか。「そうよね、ありました。」ダンディはカピバラの帽子を忘れて部屋を出た。「そんな大きな帽子忘れるなんておかしいじゃないか」と待っていたように講釈師は悪態を吐き、チイさんは川柳を詠んでしまう。

    牛鍋屋帽子忘れしカウボーイ  千意

     店を出て歩き始めると、怪しげな店やホテルがチラホラと現れた。十八歳未満お断りの標示を見て、「六十歳未満お断りの店を作って貰いたい」とダンディが不思議なことを口走る。「八十歳未満不可も面白いですね」と姫が笑いこける。(笑いこける?これは正しい日本語であろうか)しかしそれはどういう店になるだろう。同年代の優しいオネエサマを相手に、歯が悪くなっているから煎餅は食えず、あんころ餅に渋茶を飲みながら昔を語り合うのである。神経痛の痛みにはお灸を据えてくれたりするだろう。
     午前中は比較的暖かかったのに、大通り公園に入る頃から太陽が隠れて風が冷たくなってきた。「アッ、アルファロメオよ。さすがに横浜だわね」と言うマルチャンの声には驚かされた。「どうして。」「だって、埼玉じゃアルファロメオなんて見ないもの。それに一番高級なやつだったよ。」私は車の種類なんかまるで分からない。「私も知らない。」宗匠も車には余り興味がなさそうだ。
     スナフキンが最初に昼食場所に考えた「じゃのめや」の前を通ると、本日休業の張り紙がしてある。「良かったじゃないか、ここにしなくて。」「そうだよ、下手したらコンビニ弁当買って、歩行者天国にビニールシートを広げる羽目になっていた。」そう言って講釈師はわざとらしく私の顔を見る。そうです。十一月のコースでコンビニ弁当を買う羽目になったのは、確かに私の責任です。この会始って以来の不祥事でありました。
     横浜橋通商店街に入ると、「下町の雰囲気」とスナフキンが案内する通り、小さな店がいくつも並ぶアーケード商店街だ。活気があって懐かしい気分になってくる。「安いよね。「確かに安い。」小売だけでなく仲卸もするから安いのだ。三百五十メートルに約百三十の店舗がひしめいていると言う。
     「途中で寄り道していると迷子になってしまうので、買い物はしないように」とリーダーに釘をさされているから、姫は駄菓子屋の前を恨めしそうに見詰めている。「その眼はなんですか。」「眼がどうしても向いてしまう。」リーダーはすぐに途中で左に曲がって商店街を抜けてしまったから、確かに駄菓子屋なんかに寄っていればはぐれてしまっただろう。

    アーケード昭和の香り漂流す  ハイジ
    駄菓子屋に釘付けになる寒の町  蜻蛉

     商店街を出てすぐ金刀比羅・大鷲神社は稲荷も合祀していて、「こんな小さなお宮に三つも同居している」とダンディは笑う。横浜市南区真金町一丁目十三。岩槻屋佐吉が讃岐の金比羅大権現を港崎遊郭に勧請したのが最初である。大火によって遊郭が移転した際に金比羅さんをこの地に持って来ると同時に、吉原に倣って大鷲神社も勧請した。住所から判断すれば、この辺は永真遊郭ということか。それなら戦後の赤線地帯だ。
     「それじゃ、イセブラします。」イセブラという言葉があるのか。伊勢佐木町一丁目二丁目を特にイセザキモールと称しているのだ。アーチの上に、ミラーボールのような金属の玉の塊が載っているのは何故だろう。
     「イセブラするのに、こんな格好で良かったのかしら。」「ハマトラとか」「そういうの、あったわね」「私たちの時代よね」と比較的若い方の女性陣がはしゃいでいる。
     大正十年(一九二一)建築の松坂屋は解体工事の最中で白いシートで覆われている。その向かいは有隣堂だ。その他にも、かつては映画館、劇場もあって「ハマの銀座」と言われた商店街だったとスナフキンが説明する。
     イセザキモールを抜ければ目の前が吉田橋(伊勢佐木町一丁目)だ。明治二年に建てられた日本最初のトラス鉄橋である。この「日本最初」にリーダーが拘って調べた結果、「日本最初の鉄の橋」は明治元年の長崎「くろがね橋」だと分かった。「凸版印刷博物館で本木昌三を見ましたが、彼によって造られたんですよ。」本木昌三は長崎製鉄所の頭取として、日本近代印刷の祖であると同時に鉄橋の祖にもなった。
     但し「トラス鉄橋」というのが分からない。もしかしたら「日本初」は鉄ではなく、このトラスにかかるのではないか。貞秀画「横浜鉄橋之図」を見ながら、「知らないのか、この三角の部分だよ」と講釈師が断定する。こんなことまで知っているのである。

    トラス橋は、桁部分にトラス構造を使った橋である。トラスは細長い部材を両端で三角形に繋いだ構造でありそれを繰り返して桁を構成する。トラス橋は桁橋の一種に分類される。(ウィキペディア「トラス橋」)

     これによって橋脚が不要になる構造なので、日本最初の「無橋脚橋」という記事もある。ただ日本最初というのはややこしくて、他にも富岡八幡の東に残されている八幡橋(弾正橋を移設したもの。明治十一年、赤羽根製作所製造)には「国産第一号鉄橋」という称号がつく。つまり、日本最初でも、「鉄の橋」「トラスト鉄橋」「国産」と三つの橋がある。
     安政六年の開港以来、この吉田橋(そのときは勿論木の橋だ)に関門を設けて外国人保護と取締りを行ったため、関門を境に馬車道側を「関内」、伊勢佐木側を「関外」と呼んだ。
     「ここから関内に入っていきます。」外国人居留区と開港場を結ぶ道が馬車道と呼ばれた。異人や輸出入商品が馬車で通ったことから言われたわけだが、そのせいもあって、この道沿いに日本初のものがいくつも生まれた。最初に見るのは近代街路樹発祥之地だ。慶応三年、松と柳を交互に植えたと言う。「松は珍しいね。」街路樹については柴田宵曲が書いている。

     街路を人道と車道とに分ち、人道の端に木を植ゑるといふことは、西洋から輸入された明治の新風景である。今の人は「昔恋しい銀座の柳」などと云つて、柳と切り離せぬように思ふけれど、最初は柳桜をこきまぜ、のみならず松とか槇とかいふやうなものまで試験的に植ゑたらしい。(柴田宵曲『明治風物誌』)

     講釈師と画伯が例の如くに何か言い合いをして、ダンディが分かる人だけに分かる川柳を詠んだ。(つまり分からないひとには永遠に分からないのである。)

    一本の柳張り合い画家と釈  泥美堂

     「ここのお稲荷さんが最初だよ」と講釈師がのたまうのは「泉平」、天保十年(一八三九)創業の看板がある。二代目が高野山参詣の際に稲荷寿司の作り方を伝授され、横浜に帰ってから工夫を重ねて、一般大衆の口に合うように甘くしたと言う。それなら本来の稲荷寿司はそんなに甘くなかったと言うことか。甘くなければ、油揚げは好きだから私だって食べられるのに。
     勝烈(カツレツ)庵の店頭には、「ハマの街灯点火の地」の石柱と獅子の顔を持つ消火栓。その隣は馬車道十番館というステーキ屋。また神奈川縣動物愛護協會と社團法人帝國競馬協會によるタイル貼りの牛馬飲水場。「日比谷公園でも見ただろう。」あれは、上が人間用で、下が馬のためと言う風に造られていた。アイスクリームは明治二年六月、松田房造の氷水店によって「あいすくりん」の名称で販売された。
     日本写真の開祖・下岡蓮杖顕彰碑。「下田の人ですね」とダンディが知識を披露する。円錐形の金属は初期の写真機を模している。蓮杖は上野彦馬と並んで幕末から明治初期の写真術を確立したひとだ。「上野の方は有名人の肖像を残してるけど、蓮杖は商売人だから、そんなのは余りない」と言うのがスナフキンの説明だ。「写していないのは西郷隆盛だけだって言われてる。」ただ下岡蓮杖だって門下から有名写真家を出しているらしい。確か横浜毎日新聞の創設にも関わっていた筈だと言ってしまったが、どうやらそれは私の勘違いだった。岸田吟香と混同してしまったらしい。
     日本初のガス灯記念碑。馬車道通りには現在八十一基のガス灯が設置されている。その他にも乗合馬車(明治二年。二頭立て六人乗り、東京まで四時間)だとか、馬車道で初めて起こったもの全て書いていては、この作文が終わらない。

    ガス灯のともる馬車道旅始  閑舟

     神奈川県立歴史博物館の建物は旧横浜正金銀行であった。横浜市中区南仲通五丁目六十。明治十三年、国立銀行条例によって横浜正金銀行の営業が始った。「正金ってなんだい」とドクトルが訊いてくる。

    当時は、輸出品として生糸・茶、輸入は綿織物、毛織物が主であり、取引は、日本の商人と外国商人との間で行われていました。そのため、外国商人との取引の不便さや紙幣と正貨の差価に悩まされたことから、正金(現金)による堅実な金融と取引の円滑化、さらに貿易の増進を促すために、福沢諭吉と大隅重信大蔵卿の力添えにより、横浜正金銀行は国立銀行条例に準拠し、中村道太を初代頭取として明治十三年(一八八〇)二月二十八日に現在地で開業したのです。(歴史博物館HP)

     大正七年には世界三大為替銀行の一つと称された。昭和二十一年には普通銀行としての東京銀行が創設され、その横浜支店となった。

     明治三十七年(一九〇四)七月、旧横浜正金銀行本店が竣工しました。明治三十二年三月二十五日から五年もの歳月をかけたものです。横浜正金銀行だった旧館と、一九六七(昭和四十二)年建設で現在の正面玄関にあたる新館部分からなり、旧館はネオ・バロック様式の本格的な西洋建築です。
     設計者は明治時代を代表する建築家の一人である工学博士妻木頼黄(つまきよりなか)、現場監督は技師工学士遠藤於菟(えんどうおと)です。
     http://ch.kanagawa-museum.jp/tate/honkan.html

     ドームは関東大震災で焼け落ち、昭和三十九年に復元したものだ。入館料三百円のところ、団体割引のお蔭で六十五歳以上は百円そのままで、「一般の方」は二百五十円になった。最初に六十五歳以上のひとが受付するのを見て、「こんなにいたんだ」とロダンが驚いているが、約半数というのは私には予想通りだ。こういう割引のあるところでは早く六十五歳になりたいとも思ってしまう。「私はもうすぐだよ」と小町がなんだか嬉しそうに言っている。
     古代から近代まで展示資料はかなり充実しているが、土器などが並ぶ古代の区域は私にはあまり面白くはない。「土器なんてどこにでもありますからね」とダンディや講釈師は早々とロビーで休憩に入ってしまう。中世の宋銭各種が私には面白かった。理屈では知っていても、輸入した銭がそのまま流通できるというのが、なかなか実感として湧いてこなかったのだ。サシでまとめられた銭の束を見れば、種類に関係なく一枚一文で通用したのだろうということが、理屈抜きで分かるようになっている。
     男女二人連れが、「関内って、どこかに関所があったのかな」「箱根みたいだったのかしら」と無学な会話をしているのを耳にすると、嬉しくなって教えてやりたい位だ。

     「ここが東京芸大」と言うリーダーの言葉で建物を見れば、確かに東京藝術大学のプレートが埋め込まれている。大学院があるらしい。旧富士銀行横浜支店だ。横浜市中区本町四丁目四十五。「安田銀行ですね。」「そうです。」昭和四年の建物だ。私は建築様式に疎いので、ただ説明だけを引いておく。

     イタリア・ルネサンスのパラッツォ建築を想起させる粗い石積み(ルスティカ)の外壁をもち、二つのファサードのそれぞれ中央に柱礎を持たないドリス式と覚しき大オーダーの円柱を備え、二階の窓を半円窓としています。フリーズやコーニスの細部意匠も精巧で、正統的な古典主義建築の骨格と細部を有しています。また内部も、周囲にギャラリーを巡らし、大円柱で支えられた吹き抜け空間をもつなど、当初のクラシックな意匠をきわめてよくとどめています。http://maskweb.jp/b_fujiyokohama_1_1.html

     少し手前から横浜税関の塔を指して、「あれがクイーンって呼ばれてます」とリーダーが説明すると、講釈師も「横浜には三塔があるんだよ。キングとジャックもある」と補足してくれる。「ほら、形が優しい感じだろう。」ドームの形はイスラム寺院を思わせる。「昔は船から目印になったんだよ。」入港する船の外国人船員達が名付けたと言われている。
     塔(昭和九年)の高さは五十一メートル。日本の表玄関である横浜税関ならば県庁より高くなければならないと、当時の金子横浜税関長が決めた。横浜市中区海岸通一丁目一番。
     展示室は無料だ。入るとすぐに麻薬のサンプル(勿論模造品)が置かれ、偽ブランド商品(私にはとても見分けられない)が置かれている。「分からないわね」「全く区別がつかない。」輸入禁止の動物も展示室されている。床下にはガラス越しに麻薬の袋のようなものが保管してあるのが見える。「本物かしら。」まさかそんなことはないだろう。
     初期の税関長の肖像が並ぶ中に第八代・有島武を見つけた。旧薩摩藩士、大蔵官僚で武郎の父親である。明治十五年、武郎の四歳から十三歳頃まで九年間在任した。武郎はちょうど四歳から横浜英和学校に通っているから、『一房の葡萄』はその時代の雰囲気か。

     僕は小さい時に絵を描くことが好きでした。僕の通っていた学校は横浜の山の手という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでいる町で、僕の学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえりにはいつでもホテルや西洋人の会社などがならんでいる海岸の通りを通るのでした。通りの海添いに立って見ると、真青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、檣から檣へ万国旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように綺麗でした。

     ちょっと驚いたのは受付で配られている「戦後、海外から引き揚げられた皆様へ」と言うチラシだ。戦後の引揚者は日本に上陸したときに通貨、証券を各税関で取り上げられたらしいのだ。私はこれを全く知らなかった。「お返ししたいのに、まだ名乗り出てこないひとがいるんです。満州が多いようですよ」と係員が言う。「知り合いがいたら声をかけてください。」  見本に並べられた紙幣は藤原鎌足の二百円札から武内宿禰の一円札まで。「大体、二千倍すれば現在の貨幣価値になります。」それならば、二百円札は現在の四十万円であり、まず一般の庶民は見たこともなかったろう。しかし今になってこれを返すと言われても、既に該当者はほとんど死んでいるだろう。大半のひとは虎の子の財産を取り上げられ放しで終わったに違いない。そうした庶民と違って、一方では大陸で不法に取得した資産で右翼の黒幕になった連中もいる。児玉とか笹川とか言う連中のことだ。
     要するにインフレ防止のため、GHQの指令で貨幣の持込が制限されたのである。一般邦人・軍属が千円、将校は五百円、下士官以下二百円で、基準を超える現金・軍票・預金通帳・株券などがそれぞれの税関に預けられた。昭和二十八年八月三十一日、外国為替及び外国貿易管理法の改正によって輸入禁止が解除され、返還業務が始った。
     しかし現在でも、神戸税関ではまだ返還できていないものが三十三%、大阪税関では六十%残っている。横浜税関では五万人に返還して尚残りが十三万人。長崎、門司でも同様である。(まだ「戦後」は終わっていない!外地からの引揚者への保管紙幣返還業務
      http://sans-culotte.seesaa.net/article/159281043.htmlより)

     神奈川県庁のキングの塔(四十九メートル)は、濃い焦げ茶色のタイル貼りで、重厚な建物だ。
     横浜市開港記念館(大正六年)の塔がジャックと呼ばれている。横浜市中区本町一丁目六番。「ほら、すっと細長く建っているだろう。あれがジャックの形だよ。」ここは高さ三十六メートル。三塔の中では一番低い。赤煉瓦の建物の外には「町会所跡」の説明板に並んで、岡倉天心生誕の地碑もある。なんとなく天心は茨城の人かと思っていたのは、五浦に住みついたからの連想だろう。
     説明板によれば、幕末には越前福井藩の生糸売込店「石川屋」があった場所で、天心の父親がその支配人をしていた。明治七年からは町政を担う町会所となり、明治二十二年の横浜市制施行に伴って横浜貿易商組合会館に変わった。三十九年、類焼によって建物は焼失し、大正六年に現在の建物が建てられた。現在でも公会堂として現役で使われている。
     計画には入っていなかったが、「無料だし折角だから」とリーダーが中に入る。ボランティアが待機していて、私たちに説明してくれるオジサンは二十二人を相手に張り切ってしまった。最初に十五分と言っているのに、なかなか説明が止まらない。普段は入れない講堂や二階のステンドグラスを丁寧に解説してくれたのは有難いが、余計な事も言いすぎる。

    気がつけば無料ガイドの餌となり  閑舟

     「ガス事業を開始した高島は易断で有名。」それは私が朝一番で説明した。「この建物も含めて三塔、キング、クイーン、ジャック。」これもスナフキンと講釈師によって既に説明されている。今の私たちは全くの素人とは違うのだ。また天心の移り住んだ茨城県五浦を「イヅウラ」と言ってしまったのも、ダンディの失笑をかってしまう。「イヅラですよね。」
     しかし、ステンドグラス修復の過程を示した何枚かの写真は興味深いものだし、ポーハッタン号を描いたステンドグラスも珍しい。また窓からキングの塔を指差して、和風の屋根を乗せた帝冠様式が珍しいと説明してくれるのも有難かった。熱心な説明にはお礼を言わなければならない。時間がなかったことと、私たちが全くの白紙状態で来たのではなかったことが、オジサンにとっては残念なことであった。
     続いてリーダーは横浜情報文化センターに入って行く。横浜市中区日本大通十一番地。これも計画にはない所だ。「折角だからさ。」アメリカ領事館の跡地で昭和五十年まで横浜商工会議所だった建物だ。中に入ると巨大な輪転機に驚く。ここは日本新聞博物館であった。
     各種新聞が並べてあるのは今月のイベントらしい。日本新聞協会に所属する全国百二十七の新聞と、海外三十四紙の元日号が集められているのだ。「福島民報ありましたよ。秋田のはありますか」と姫が喜んでいる。ないわけはないだろう。「秋田魁新報」は自由民権以来の由緒を持つ新聞である。「茨城新聞もあるな」と桃太郎が安心する。「売ってくれれば良いのに」と姫は未練たっぷりに言う。「だって出身地の新聞なんか、普段なかなか手に入らないでしょう。」横浜には何度も来ている筈の姫も、ここが博物館になっているのは知らなかったようだ。
     次は横浜開港資料館だ。横浜市中区日本大通三。記念館やら資料館やら紛らわしいが、安政元年(一八五四)日米和親条約がこの辺りで締結されたのだ。旧館は一九三一年建築の元英国領事館で、一九七二年まで実際に領事館として使われていた。その旧館ではなく、道を回り込んだ新館の方が入口になっていて、正面には幹が何本にも分かれて、高さは二階ほどになる大きな木が立っている。

    中庭に植えられているタマクスの木はマシュー・ペリー来航時の記録画にも描かれており(当時の木は一八六六年の大火や関東大震災にて焼失したが、その度に根元から再び芽を出して元の美しい樹木に育っていった。

     植物学的にはタブノキと言うようだ。クスノキ科タブノキ属。「生えて来たんですか。鶴岡八幡宮の銀杏みたいだ」とダンディが言う。私はその銀杏を去年の十一月に見た。樹木というのは意外に生命力が強い。
     しかしみんな、かなり疲れた様子をしている。「私たち外で待ってるよ」とマルチャンが言うが、それでは二十人の団体に満たない。「それじゃ仕方がないね。ワガママ言ってゴメンね。」これで二百円(高齢者割引はない)のところ、団体扱いで百五十円なり。ただし時間も遅くなってきたので、見学時間は三十分と決められた。
     確かにペリー来航の絵には大きな木が描かれている。これが玄関にあった木の親なのだろう。駆け足で一回りしたが、本当ならもっとゆっくり見学しておきたい場所だ。「なにしろ、あのオジサンのところで時間を食ってしまったから」とスナフキンも苦笑いする。姫は企画展示「ときめきのイセザキ百四十年」だけに目を奪われて、他は見られなかったとぼやいている。

    開国のなごり巡りしハマの春  千意

     「ここまで来たんだから、予定通り山下公園で海を見ようぜ。」みんなはかなり疲れているようだが、それから関内駅に向かうというリーダーの意見に従う。「すぐそこだよ。」
     山下公園は関東大震災の復興事業として瓦礫で海を埋め立てて造成された。「日本初の臨海公園」とも言われるが、海に面していた公園が既に存在していたと反対する意見もある。「日本初の洋式公園」と言う主張もある。
     インド水塔の近くで海を見ながら「霧笛が俺を呼んでるぜ」と格好をつける人が一人いる。それでは講釈師のために歌詞を一番だけ引いておく。水木かおる作詞、藤原秀行作曲『無敵が俺を呼んでいる』。赤木圭一郎が残した唯一のヒット曲だ。講釈師やダンディが同時代として一番親しんだ年代だろう。その頃のダンディはこんなことに関心がなかったかも知れない。

    霧の波止場に帰って来たが
    待っていたのは悲しいうわさ
    波がさらった港の夢を
    むせび泣くよに岬のはずれ
    霧笛が俺 呼んでいる

     「氷川丸は昔からいるね。」「そうです。」昭和三十五年(船齢三十年)以来ここにいるのだ。「五十年も経つのに昔から大きさが変わらない。」そう言ってドクトルがニヤリと笑う。「チャップリンも乗ったんだぜ。戦争中は病院船になったんだよ。」

    冬の海青春の影浮かばせて     ハイジ
    氷川丸二人で見つめたイブの夜   ハイジ

     「マリンタワーは再開したのかな。」フーン。横浜について、従ってマリンタワーについても全く無知な私にはその話が分からない。もしかしたら私には一般常識というものが欠けているのではあるまいか。仕方がないので調べてみる。
     マリンタワーは、そもそも開港百年記念事業として計画され、昭和三十六年(一九六一)に横浜展望塔灯台が。高さ百六メートル、名前の通り灯台としての機能を備えたが、実際にそれを頼りにする船はなかった。それなら何故こんなものを造ったのだろう。バカと煙は高いところに上ると日本人を見くびったか。ピーク時には年間入場者数百五万人を数えたが、平成十七年には年間二十七万人に減少し、翌年経営悪化を理由に営業を終了した。買い取った横浜市の再生事業として、平成二十一年に再オープンした。展望フロアのほか、レストラン、バー、ショップなどがあるらしい。(こういうことは、普通の人なら当たり前に知っていることなんだろうね。)
     「じゃ、行こうか。」やっと「赤い靴はいてた女の子像」を見ることが出来た。麻布十番の「きみちゃん像」は立像だったが、ここのものは腰かけて海を眺めている姿だ。「アメリカに行けなかったんだから、海を見つめる場所にいるのが一番ですよね。」姫が珍しく感傷的なことを言う。他にも、横浜駅、静岡県日本平、北海道留寿都村、小樽市、函館市、青森県鯵ヶ沢町などにも像がある。なかなか人気があるらしい。
     「赤い靴が色褪せちゃって可哀想」と言うクルリンは以前に来たことがあるんだね。その時はまだ靴の色が赤かったのだろう。「講釈師が毎晩擦って色を落としたんじゃないの。」「絶対そうだよね。」講釈師に靴を擦られてしまった少女は可哀想だ。

    冬の海少女の靴の色は褪せ  蜻蛉

     モデルになった少女の名は岩崎きみ。母岩崎かよが社会主義者の鈴木志郎と一緒になり、きみが三歳のとき北海道の平民農場に入植する。明治三十八年、札幌農学校で新渡戸稲造の影響を受け、『平民新聞』を購読している卒業生を中心にして、羊蹄山麓(現・後志管内留寿都村近郊)に設立された農場だ。計画を立案したのは原子基、渡辺政太郎、深尾韶の三人で、屯田事業をしながら社会主義伝道を図るというものだったが、開拓に追われて伝道活動は充分には果たせず、結局僅か二年半で解散することになる。
     親子三人で入植したものの、この過酷な環境に幼児は堪えられないと見極め、鈴木とかよは函館の教会の宣教師ヒュエット夫妻にきみを託した。宣教師夫妻は近々アメリカに帰国することになっており、母親は、娘はアメリカに渡って幸せな人生を送っているものと死ぬまで思い込んでいた。
     社会主義詩人だった野口雨情が札幌の新聞社に勤めていた頃、鈴木志郎と懇意になってその話を聞いたことから、童謡『赤い靴』が誕生した。これが定説である。
     しかし、親の手を離れたきみは既に結核に罹患しており、アメリカには連れて行けないと判断したヒュエット夫妻によって麻布鳥居坂教会の孤児院に預けられ、やがて九歳で死んだ。託された子供を孤児院に置き去りにし、実の親に連絡もしないというのは不思議な話ではないか。なんだか辻褄があわないような気がしないでもない。

      冬の浜かもめも知るや赤い靴  午角

     これから中華街を抜けて関内駅に向かうことになる。中華街には一度だけ妻と来たことがあったが、どの店に入って何を食ったのかまるで覚えていない。あちこちで甘栗を配る者がいる。「昼にスキヤキ食っちゃったからさ、フカヒレは次回にしようぜ。」次回フカヒレを食うと言う講釈師は崎陽軒でシュウマイを買う。Q太郎も一緒に買っている。
     そこを抜けると横浜スタジアムの見える横浜公園だ。慶応二年の大火(豚小屋火事)で港崎遊郭が焼失した後、在留外国人の要望で明治九年(一八七六)に公園が造られた。かつて公園の一角には外人居留地運動場があり、明治二十九年(一八九六)、一高ベースボール部と外国人倶楽部との間で野球試合が行なわれた。これが日本最初の野球国際試合とされている。
     スナフキンが立ち止ったのは日本庭園の中で、棹に岩亀楼と彫られた灯籠が立っていた。なるほど、ここが最初の遊郭だったのだ。ただし、この灯籠は昔からここにあったのではない。灯籠は妙音寺から寄贈されたものと言う。これで今回のコースは全て終了した。初めての横浜は見所満載であった。
     宗匠の万歩計で二万歩は十二キロ程になっただろうか。リーダーの計画では九キロということだったが、博物館や公園の中を歩けば、直線距離で測ったよりは長めになるのがいつもの例だ。心配していたチイさんもなんとか歩き通した。
     関内駅でそのまま帰る人達と別れ、反省会組十一人はさくら水産を目指す。ところが残念なことにさくら水産は満席で入れない。仕方がないので近くのビル七階にある「魚民」に行く積りが、エレベーターを降りると何故かそこは「千年の宴」であった。ここでも良いか。二時間程飲んで二千八百円也。
     今回は賑やかな句会のような趣になった。

    眞人