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    第三十四回 神田川遡上編(一)
                        平成二十三年五月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.5.21

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     このコースは三月十二日、あの未曾有の震災の翌日に予定されていた。企画した桃太郎が随分前から写真入りの丁寧な案内を作ってくれていたのに、残念ながら中止せざるを得なかった。四月にはあんみつ姫企画の「大山街道編 其の一」が入っていたため、本編は今日に繰越して漸く実現したのである。
     週の前半は雨が続いて肌寒かったが今日は暑くなりそうで、いつもの作業用ベストの下は半袖Tシャツにした。旧暦四月二十二日、初夏である。浅草橋駅東口に着くともう十人以上が集まっている。「今日は二十人を超えそうですね。」桃太郎の言葉通り定刻の十時には、桃太郎リーダー、画伯、宗匠、中将、ロダン、チイさん、碁聖、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヨッシー、あんみつ姫、チロリン、クルリン、小町、シノッチ、ハイジ、マリー、マルちゃん、蜻蛉の二十一人が揃った。
     ヨッシーと言うのは取り敢えずの仮称だ。得意技などが分かってくれば、もうちょっと上手い名前に変えさせてもらおう。ダンディの小学校時代の同級生で、初参加の挨拶にと一口サイズの羊羹をみんなに配ってくれる。有難いことである。
     ダンディが私や宗匠、ロダン、桃太郎、スナフキン、チイさんを指して、「彼らが若者」と紹介しているのを聞いて、「いつまで経っても若手なんですからね」とロダンはぼやく。本当の若者を勧誘しないと、いつまでも私たちは「若手」「下っ端」で、だから頭を下げて大人しくしている。
     ハイジは会った早々「還暦おめでとう」と大きな声を掛けてくるが、諸々の面倒くさい手続きが重なって、今のところ余りおめでたいような事にはなっていない。
     チイさんがいつもよりニコニコしながら登場したのには訳があった。朝の電車で美しい和服女性と乗り合わせ、気分が高揚していたのである。おまけにあんみつ姫に写楽の本を貰って、嬉しさが倍増しているらしい。 

         浮世絵の美人と乗りし山手線  千意

     桃太郎に今日の解説文を貰ったマルちゃんは、「これからは小さくならなくちゃ」とおどける。「どうして?今まで態度がでかかったのかな。」「そうなのよ、今まで大きな態度だったから反省してるの。こんな立派な資料を作って貰ったからね。」マルちゃんなら、どんなに態度が大きくても誰も文句は言わない筈だ。
     「アレッ、若旦那じゃないの。」若旦那夫妻が参加する筈だと小町が言っていたから、てっきりそうだと思って改札の向うに見える人に手を振ったのに、まるで知らぬ顔をして去って行く。「違いますよ。」しかし確かに似ていたのだ。
     「今日は暑くなりそうですから水分は充分に採ってください。日焼け止めもあります。」リーダーの言葉でチイさんが顔に日焼け止めクリームを塗りたくり、それを見たシノッチに「イヤネエ、塗りすぎじゃないの」と笑われてしまう。確かに、そんなに白くしては、白粉をつけすぎた旅役者のようではあるまいか。チイ散歩に白粉は似合わない。宗匠は珍しく怪しげなサングラスを掛けている。ダンディの帽子はチベット旅行で手に入れたヤク革のものだ。
     駅前の通り(江戸前通り)には久月、秀月などの人形店の大きなビルが目立つ。「人形は岩槻が有名だよね」の声が多いのは、昨年末に里山ワンダリングの会で岩槻を歩いているからだろう。
     浅草橋の人形は正徳元年(一七一一)、三河出身の「吉徳」初代次郎兵衛が開いた人形・玩具の店を発祥とする。それ以来一大問屋街を形成して、現在では東京の人形問屋の七十パーセントがこの界隈に集中しているらしい。一方岩槻の人形は寛永年間(一六三四~一六四七)に始まるというから実はもっと古かった。但し流通の点から考えれば、浅草橋の方が世に知られやすかっただろうと想像できる。
     桃太郎の計画にはなかったが、講釈師の提案で銀杏岡八幡神社に寄ってみることになった。駅前から一本裏の道に入ってすぐ、小さな店を講釈師が指さす。「田中屋だよ、知ってるだろう。」そう言われたって私は知らない。和紙の田中屋だ。台東区浅草橋三丁目三十三番六号。手漉きの和紙や和紙の工芸品を扱っているらしい。
     銀杏岡八幡神社はこの路地を少し行った所にある。台東区浅草橋一丁目二十九番十一号。八幡太郎義家によって康平五年(一〇六二)創祀されたと言う伝説を持つ。当時の奥州道は江戸時代の街道とは違うが、隅田川をもう少し北に行けば「あれなむ都鳥」と業平が泣いた場所があるから、北に向かう者はこの辺りを通った可能性はある。義家が枝を地面に刺してやがて大木となったというイチョウは勿論ない。講釈師は目敏く御朱印を見つけて、いつも持ち歩いているスタンプ帳に押している。神文は三つ葉銀杏。

     「それでは川に向かいます」とリーダーは歩き始める。東京の川を知るにはまず露伴の『水の東京』を読まなければいけない。なんて偉そうに言うが、実は「青空文庫」に収録されていて、たまたま私は初めて読んだのだ

    上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時より近き頃まで何人もこれを説かぬに似たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、潮のさしひきするところ、船の上り下りするところ、一ト条二タ条のことならずして極めて広大繁多なれば、詳しく記し尽さんことは一人の力一枝の筆もて一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時の月をいひけん、今は八百八町に家々立ちつゞきて四里四方に門々相望めば、東京の月は真に家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし。(幸田露伴『水の東京』)

     今ではほとんど感じられないが、かつて江戸が水の都だったことはいくら強調してもし過ぎることはないだろう。そしてそのほとんどが江戸幕府によって開削や流路変更された川だった。神田川も勿論その重要なひとつである。
     徳川氏入府以前、日比谷は江戸城本丸の辺りまで大きく海が入りこんで入江を形成し(日比谷入江)、その東側が半島のように突き出ていた。それが江戸前島である。太田道灌の「我が庵は松原遠く海近し富士の高嶺を軒端にぞ見る」と言うのは嘘ではなく、本当に江戸城のすぐそばまで海が来ていたのだ。この江戸前島の付け根を東西に開削して道三堀を日本橋に流した。

    海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。(ウィキペディア「神田川」)

     上水の余水を利用しながら、飯田橋の辺りで平川の南を断ち切って流れを東に変え、それまで日比谷入江(江戸前島の西の付け根)に流れ込んでいた小石川を吸収した。以前は少し南で小石川も平川に合流して日比谷入江に流れ込んでいたのである。平川は道三掘と江戸前島を南北に貫通する流路(外濠)に流れるよう改修した。
     小石川を吸収した後は更に神田台地を切り開き、不忍池から流れて来た旧石神井川を吸収する。旧石神井川はこの南の方でお玉が池から流れる水を合流して、江戸前島の東側の付け根に注いでいたのだが、それもここで断ち切られた。そして秋葉原から更に東へ通して隅田川(当時は入間川と呼んだ)に注いだのである。
     昭和四十年の河川法によって、井の頭池から隅田川に至る二十五・四キロが「神田川」と正式に定められた。しかし江戸時代から昭和初期までは、一般に飯田橋より下流を神田川、そこから江戸川橋までの中流を江戸川、更に上流を神田上水と呼んでいたらしい。
     川沿いには田中屋、あみ新、井筒屋などの船宿が並び、岸には大きな屋形船が何艘も舫っている。私はこういう船を「屋根船」と言うのかと思っていたが、数人が乗る小型のものを「屋根船」、大型のものを「屋形船」と呼ぶようだ。
     慶長の頃には長さ十間(十八メートル)、十一間の屋形船が登場したと言うが、やがて大きさが規制され、「天和二年(一六八二)七月御定」で「屋形舟寸尺」が定められた。

     屋形舟寸尺、舟長さみよしより戸だて迄四間三尺(八・一メートル)、表梁間四尺六寸、胴の間梁間六尺五寸但中敷居に致仕切可申候。鞆之梁間五尺三寸、表之小間長四尺八寸、胴の間長さ壱間三尺、後略。(『嬉遊笑覧』より)

     ややこしい規定で、要するに船は小さくされたのだが、享保の頃でも屋形船は百艘もあったらしい。時代劇でよく見かける屋根の付いた(悪代官と悪商人が密談するような)舟は屋根舟であり、屋根がつかず二三人を乗せたものを猪牙舟と呼んだ。これは当時の高速タクシーのようなもので、吉原通いに良く利用されたため「勘当舟」とも呼ばれたと言う。
     小松屋(昭和二年創業)の屋号の入った屋形船は真っ赤に塗られ、まるで消防の船みたいだ。

      舟宿の幟はためく初夏の河岸   午角
      鴨一羽浮いて事なし柳橋     午角

     画伯は「事ある」ことを期待したのかも知れないが、かつては隆盛を誇った柳橋も、一九九九年には芸者組合が解散してしまい、僅かに料亭が数軒残っているだけらしい。みんなは当たり前のように屋形船と言い、「野崎参りは屋形船で参ろう」なんて歌が飛び出てくる。「美空ひばりだよね」と小町が念を押すが、しかし元は東海林太郎である。今中楓渓作詞、大村能章作曲『野崎小唄』だ。島倉千代子の歌も聴いた記憶がある。
     「いつか船に乗りましょうよ。」「いくら位するのかな。」「高いんじゃないの。」屋形船東京都協同組合によれば、浅草橋エリアに船宿は小松屋を含めて八軒あって、相場は税込一万円五百円である。小松屋の屋形船メニューを見ると、和風おつまみ盛り合わせ、枝豆、貝串焼き、川海老唐揚、江戸前天ぷら、御飯、新香の組み合わせだ。そしてビール、日本酒、ジュース、ウーロン茶であれば飲み放題だ。ちょっと贅沢をする積りになれば、そんなに高過ぎると言うわけではないだろう。但し隅田川の花火大会などの時はこれが倍になる。ロダンや宗匠のために付け加えると、コンパニオンは一人一万八千円程度、和装洋装を選択して呼ぶことができる。
     神田川最初の橋は、元禄十一年(一六九八)に架けられた柳橋だ。明治二十年に鉄鋼の橋に架け替えられたが関東大震災で焼け落ち、昭和四年(一九二九)現在の橋になった。
     左手の路地を覗き込んでいたロダンが「花街みたいだ」と声を上げる。柳橋は花街である、と言うよりも正確には花街であった。

      夏兆し三味も聞こえぬ柳橋   蜻蛉

     明治維新後、政府高官は新橋で遊び、江戸以来の商人や昔の旗本は柳橋で遊んだと言われる。天保の改革で深川の色街が徹底的に弾圧され、多くの芸者が移動してきたのが柳橋芸者の始まりである。辰巳芸者の粋を継承して、柳橋芸者は芸で立つ、つまり遊女とは違うと誇った。柳橋を説明する碑には子規の句が二つ記されていた。

     春の夜や女見返る柳橋  子規
     贅沢な人の涼みや柳橋  子規

     かつて柳橋がどれだけ栄えた土地だったか、成島柳北『柳橋新誌』が哀惜と皮肉を籠めて詳細に書いている。繁華の理由の第一は川によって説明される。水の都である江戸においては、船の利便が最も大切だった。

    夫れ柳橋の地は乃ち神田川の咽喉也。而して両国橋と相ひ距る僅かに数十間のみ。故に江都舟楫の利、其の地を以て第一と為して、遊舫(やすふね)飛舸(ちょき)最も多しと為す矣。其の南日本橋八町渠芝浦品川に赴く者、北浅草千住墨陀橋場に向ふ者、東は即ち本所深川柳島亀井戸の来往、西は即ち下谷本郷牛籠番街の出入、皆此を過ぎざるは無く、五街の娼肆に遊び、三塲の演劇(しばい)を観、及び探花泛月納涼賞雲の客も亦水路を此に取る。(成島柳北『柳橋新誌』)

     遊舫を「やすふね」、飛舸を「ちょき」、「演劇」を「しばい」とヨミを振るのも江戸の文章の楽しさだ。こういうルビの振り方は『新青年』から始まったものかと思っていたが、実は伝統はあったのである。
     「五街の娼肆」は、吉原に加えて品川、新宿、板橋、千住宿の遊郭であり、「三塲の演劇」は、中村座・市村座・森田座の江戸三座のことだ。
     南は日本橋八丁堀芝浦品川、北は浅草千住墨田橋場、東は本所深川柳島亀戸、西は下谷本郷牛込番町、どこにも通ずる柳橋こそが交通の要衝だったのである。その証拠に、牛込馬場下(喜久井町)の夏目家では芝居見物に行くにも神田川を屋根船で下っている。

     その頃の芝居小屋はみんな猿若町にあった。電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半に起きて支度をした。途中が物騒だというので、用心のため、下男がきっと供をして行ったそうである。
     彼らは筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。
     大川へ出た船は、流を溯って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍に着けたものだという。姉達はそこから上って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。(夏目漱石『硝子戸の中』)

     両国橋西詰めまで歩いて神田川が隅田川に流れ込むところを確認して、神田川遡上の旅が始まる。「赤穂浪士はこの辺で止められたんでしたか。」ロダンは何を勘違いしたのだろうか。「本所松坂町は川の向こうだよ」とマルちゃんにも窘められてしまう。赤穂浪士は永代橋を渡ったのであり、最初から両国橋を渡る積りはない。「そうか、そうですよね。」
     現在の両国橋は昭和七年(一九三二)に建設された。「これって何かしら。」親柱の上部に取り付けられた大きな球体は何だろう。照明具だとは分かっても、この形には何か由来があるのだろうか。「調べて頂戴ね」とハイジに言われるまでもなく、疑問は解消しなければならないが真相は結局分からなかった。建築家の伊東忠太が円・球への思想を投影したと言う説、地球儀であって日本の位置から世界を照らすという説、旧国技館の丸屋根を模したものという説、こんな風に三つの説がある。伊東忠太は築地本願寺の建築を見ても分かるように、不可思議なものを作るのを得意にしたひとだ。
     ここからはスカイツリーがよく見える。
     もう一度柳橋を過ぎて川沿いに浅草橋に出て、橋を渡り北詰の袂に立つ浅草見附跡碑を見る。そばにはホームレス(こういう言い方は嫌だけれど仕方がない)が茫然と佇んでいる。浅草見附門が出来たのは寛永十三年(一六三六)。先月の赤坂見附に続いて、ここでも三十六見附の話題が出る。現在の浅草橋は昭和五年(一九三〇)に当時最新の技術を使って建設された。
     「この辺の水の量や色をよく覚えておいてください。遡ると色々変化してきます。」川の水は黒くてお世辞にも綺麗とは言えない。
     左衛門橋の袂には旧町名由来案内「浅草上平右衛門町、浅草左衛門町」の看板が立っている。江戸時代には開発名主である平右衛門の名で呼ばれていたが、明治二十三年になって左衛門町が起立した。その名の由来は、庄内藩酒井左衛門尉屋敷があったためだと分かってみると、明治になって初めて庄内藩の名を称えたのは何故だろうかと不思議に思う。
     ここから暫くは右岸を歩く。川を塵運搬の船がゆっくり上っていく。
     次は美倉橋。江戸時代には柳原新シ(あたらし)橋と呼ばれていたらしい。つまりこの辺りは柳原である。慶長年間の神田川工事で川の南側には土手が築かれ、柳原土手と呼ばれた。橋の南詰には白壁の土蔵が三つ程並んでいてなかなか風情がある。私がカメラを向けていると、「でもトイレなんですよね」と姫が苦笑いをする。ここから暫くは川から少し離れて歩かなければならない。
     和泉橋南東児童遊園の所に「既製服問屋発祥の地」の案内板が立っている。それによれば、この辺りの土手沿い(柳原土手)には江戸の頃から古着屋を扱う露天商が集まった。江戸はリサイクルの都市であり、古着は貴重な資源だった。
     明治になっても引き継がれて岩本町古着市場が形成されたものの、関東大震災で壊滅的な打撃を受けて取り払われた。日本資本主義もそろそろリサイクルを喜ばない段階に入って来たのかも知れない。しかしこの土地には衣服に対する愛着が地霊のように深く生きていたらしい。第一次大戦後には既製服を扱う問屋街として生まれ変わるのだ。
     和泉橋の南詰から昭和通りの歩道橋を渡ると、「柳原土手跡」の案内板が立つ。ほとんどのビルのシャッターが下された通り(土曜日だからだろうか)に、関東大震災後に流行した「看板建築」そのままの建物が三軒並んで建っているのが珍しい。左端の家は「海老原商店」だ。三階建てか二階建てか。そこから少し先の「岡昌裏地ボタン店」も同じ様式の建物だ。「一着分千円って何かしらね?」「裏地じゃないかしら。」店頭に張り出された広告を見てマルちゃんとクルリンが首を捻っている。
     ところで「看板建築」とは藤森照信の命名になる建築様式である。

     看板建築とは、主に東京や関東周辺で関東大震災後の昭和二、三年ころに建築された、主に商店などで用いられた建築様式です。この看板建築という言葉は、路上観察学会員で東京大学生産技術研究所教授の建築史家、藤森照信氏が命名しました。
     具体的には、木造二階建てで屋根裏部屋があり、店と住まいが一緒になった併用店舗となっているもので、前面の壁面は垂直にたちあがって、銅面やモルタル、タイル張りとなっているものです。
     建物は通りに面していることが多いため、軒が前面に出ているということはありません。この、前面の平たんな壁を利用して、自由なデザインを試みたところから、看板建築という名称がつけられました。http://www.freestyleworlds2006.com/kanaban-kentiku.html

     モルタルや銅板で仕上げたのは震災の反省に基づく防火のためである。それに加えて関東大震災後の東京では、道路上に軒を張り出すのは違法とされた。つまり軒を出すならば、その分建物を奥に引っ込ませなければならないので、道路拡張政策の影響で敷地を削減させられた商店にとっては負担が大きい。そのために軒を張り出さない、表側が平面の壁になる様式が流行った。屋根裏部屋を作ったのも同じ理屈だ。
     小金井の江戸東京たてもの園に、武居三省堂、村上精華堂、丸二商店などの看板建築が移築されているのを見たことはあったが、現実の路上に見るのは珍しい。
     「この辺は空襲にはあわなかったのかしら?」こういうことを知っているのは一人しかいないから、ハイジがすぐに講釈師に尋ねる。「風向きによって違ったんだよ。通り一つ隔てて残ったところと焼けたところとあるんだ。」

     やがて右手に小さな神社が現れた。柳森神社である。千代田区神田須田町二丁目二十五番一号。おかしなことに鳥居の前に扉が付けられ、そこから玉垣の一面が鉄条網で覆われている。「この鉄条網は何の意味でしょうか。」ダンディに限らず誰だって不審に思う。
     狭い境内は道路から一段低くなっていて、石段を降りると、樹木の間にタヌキの像、富士講石碑群、金毘羅宮などが所狭しと並んでいる。力石がこんなに沢山置かれているのは初めて見る。
     富士講の碑があるのは納得できる。大山講や富士講に出かける前には両国橋の向こう側(本所)辺りで水垢離をしたのだから、それに関する碑が多いのは当然だろう。芥川龍之介が子供の頃にその辺りで泳ぎを覚えたんじゃなかったかな。(何で読んだものか、その典拠を忘れてしまった。)
     綱吉の母桂昌院が信仰した「おたぬき様」で有名なところで、かつては新橋の烏森神社、日本橋堀留町の椙森神社と並んで、「江戸三森」と称された。桂昌院はドラマや時代小説の中では余り好意的に描かれたことがないんじゃないか。私もそれらに影響されて、怪しげなものを信仰した親バカというイメージを持ってしまう。犬公方の母親なら犬が好きなのかと思っていたが、タヌキも好きな女性であった。
     福寿たぬき尊像の前で、本日の講釈が始まる。「タヌキは、他に抜きんでるって言うことなんだよ。」それはちゃんと桃太郎の案内にも書かれてある。京都堀川の八百屋の娘が将軍生母に成り上がった。その桂昌院が信心したからには、それにあやかろうと、つまり他人を出し抜いても出世したいと奥女中たちがこぞって信仰したと言われている。
     「徳利に八を書いているのは末広がり、それを丸で囲んでいるのは福徳円満を表すの。」それにしてもこのタヌキはずいぶん大きなモノを抱え込んでいる。「八畳敷きも末広がりの意味なんだ。」

      声高に狸を語る若葉陰  蜻蛉

     「皆さん、見学は終わりましたか?」ここでチイさんがリュックから大きな蕗を取り出して全員に配ってくれた。かなり長くて、二つ折りにしてやっとバッグにしまい込む程のものだ。それにしても、いつも実に有難いことである。「蓮田の豪農だから」とダンディがヨッシーに説明している。
     「チイさんは久しぶりに参加したから復帰(蕗)祝いだって。」嬉しそうに言うロダンの言葉に、私の頭の回転は鈍くてすぐに反応できなかった。「面白くないですか。今日の座布団一枚だと思ったんだけどな」とロダンは頻りにぼやいてしまう。

    古跡にて蕗の香りを贈る人    午角

     JRの高架に沿った神田ふれあい橋は歩道橋で、次の橋が万世橋になる。「マンセイバシって言うけどさ、本当はヨロズヨバシだろう」とスナフキンが笑う。もともと寛文十六年(一六七六)に架けられた「筋違橋」がこの橋の先祖になる。将軍家が上野寛永寺に参る時に使う橋で、場所は現在の「昌平橋」と「万世橋」の中間にあった。明治五年に取り壊されてから、その廃材を利用してアーチ二連の石造りの橋を造り、その際に大久保忠寛東京府知事が「萬世橋(ヨロズヨバシ)」と命名したのである。しかしヨロズヨバシよりはマンセイバシのほうが言いやすい。言葉は発音しやすいほうに変わるのが言語学の常識である。そして往々にして悪貨が良貨を駆逐する。
     橋の西側に赤煉瓦が見えるのが旧万世橋駅(マンセイバシエキ)の名残である。明治四十五年(一九一二)四月一日、甲武鉄道(中央線)の終着駅として開業した。つまり中央線は東京駅に接続していない。そしてその時すでに万世橋はマンセイバシと呼ばれていたことも分かる。大久保忠寛は明治二十一年に没していて、本人はこの呼称の変化を知らなかったのが幸いだった。
     駅舎の設計は辰野金吾というから豪華なものだ。しかし神田駅や秋葉原駅の開業で乗客が激減し、昭和十一年に東京駅から鉄道博物館を移転、昭和十八年(一九四三)には駅機能は事実上廃止された。
     その駅舎に鉄道博物館(後、交通博物館)が設置されたものらしい。幼かった桃太郎は御尊父に連れられてよく来たそうだ。「私だって来ましたよ」とあんみつ姫も言う。桃太郎にとって残念なことに、平成十八年に閉鎖された。
     「駅前に広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があったのよ。」小町は古いことを言う。写真を見ると随分大きな像だ。調べてみると像が撤去されたのは昭和二十二年のことで、私が知らないのは当たり前だ。「スギノハイズコとか言うんだけどね。」なかなか歌を思い出せない小町のために歌った。「トドロークツツオート トビクールダーンガーン」「良く思い出せたわね。」

    轟く砲音、飛来る弾丸。
    荒波洗ふ デッキの上に、
    闇を貫く 中佐の叫び。
    「杉野は何処、杉野は居ずや」。(『広瀬中佐の歌』明治四十五年尋常小学唱歌)

     ついでに乃木大将の歌と言われて(小町は日露戦争が気になるのだろうか)、「旅順開城約成りて」と一連全部を歌ってしまい、聞いていたマリーが「何歳なの?」と笑う。「私は歌わないよ、トシがバレチャウからね。」マルちゃん、心配いりません。姫だって歌える筈だから。しかし乃木大将の歌(『水師営の会見』)のことは、どこかでも話題になったことがあったんじゃないか。

      風薫る万世橋に古き歌   蜻蛉

     橋の上から上流を眺めると、両岸には小さなビルが密集しているが、先の方でそれが途切れて緑が広がっているようだ。「あそこのさ、建物が途切れた右の土手の辺りが『自由学校』のモデルになったんだよ。」知っているだろうと講釈師に相槌を求められても、中学の頃に読んだだけだから記憶がほとんど残っていない。
     画伯は「映画は見たよ」と言う。昭和二十六年に松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)の競作で公開されている。私は見ることができなかったが、確か、妻に「出ていけ」と言われて家出をした夫の数ヶ月間の冒険譚ではなかっただろうか。その期間にルンペンの仲間入りをしたのだったかな。「あそこにルンペンが住んでたんだ。」
     昌平橋を渡って左岸に出る。「昌平館があったからだよ。」「昌平黌です。」「そうそう、ショウヘイコウ。」もともとは芋洗い橋(一口橋)と呼ばれたようだが、綱吉によって昌平橋と命名された。
     商店はほとんどがシャッターを下ろしたままだ。そのひとつの建物の前で、「これがビリヤードの台を作ってた店だ」と講釈師が声を上げる。「日本で最初の工場なんだよ。」実にいろんなことを知っているひとだ。
     感心して歩き出した私たちだったのに、そのすぐ先にビリヤードの看板が見えてきた。「もしかして、本当はあれじゃないの?」「黙ってましょうよ、講釈師が傷つくから」とロダンが囁く。しかし講釈師もすぐに気付いた。「間違えた、あれだった。」玉台家具製作所・株式会社淡路亭である。千代田区神田須田町一丁目二十四番。これも看板建築の建物だ。
     「流行ったのは昭和四十年代だよね。」画伯が記憶を確かめるように言う。ごく少ない経験だが私がビリヤードに接したのも昭和四十五六年のことだった。あの頃は四つ玉ばかりで、ポケットに入れる奴はやったことがない。「下手な奴がやると、羅紗に穴あけたりしてね。」そうだった。だからマッセは初心者には禁止されていた。そもそもキューを立てて打つのはかなり高度な技術が必要で、初心者の癖に恰好をつけて試みる連中もいた。実は私も何度かやってみて(つまり恰好をつけてみたのだ)、やはり上手くできなかった。

     次は湯島聖堂に入る。
     「時間が押してますからサラッと見ます。」昼食を予約しているので桃太郎は時間を気にし出した。「だけど孔子様の像は見なくちゃね。」ダンディの言葉に、桃太郎も「それは勿論です」と答えて先導する。大きな孔子像は台北のライオンズクラブから寄贈されたもので、世界最大の大きさだ。
     「人徳門って、人徳のない人でも入って良いのかしら。」姫が私の顔を見る。真黒く光る漆に金の文字が入る。私に人徳(及び仁徳)はないが、人徳を涵養するために入るということもあるだろう。しかし実は「人徳門」ではなく「入徳門」であった。湯島聖堂のHPから引用すれば次の通りである。

    入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学・朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。

     「子程子(していし)曰く、大学は孔氏の遺書にして、初学の徳に入るの門なり」と読むようだ。「大学」は「中庸」「論語」「孟子」とともに四書のひとつである。初学者が徳に入るためには「大学」を読まなければならない。私はそんなものを読むつもりはないので、徳に入ることは出来なさそうだ。
     そしてこの門が唯一の木造建築ということは、他はすべて違うのである。

    現在のものは、関東大震災により罹災、入徳門・水屋を残し全て焼失、これを斯文会が復興計画を立て、昭和十年(一九三五)に再建したものである。復興聖堂の規模結構すべて寛政九年当時の旧聖堂に拠り、木造であったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りとした。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたものを御下賜された御物である。

     朱舜水が持ってきた孔子像ならば、水戸の人ロダンは丁重に拝まなければならない。しかし大成殿は入場料が要るので入らない。
     「あれは何なの?」大成殿の屋根の上には、鯱鉾とはちょっと形が違う動物の他に、数頭のネコ科の動物が瓦の上で狛犬のように正面を睨んでいるのである。私と姫は龍と虎だと考えた。ロダンは「虎っていうより、ピューマとかに近いんじゃないかな」と首を捻る。シノッチは龍にしては胴体が短いと言う。

     霊獣を見上げし空に若葉風  蜻蛉

     シノッチの疑問に対してダンディは「鯉が龍に化成する途中ですよ」と主張する。なるほど、ダンディの言うように龍になる途上だとすれば竜鯉(リョウリ)と言うものだろうか。姿は龍頭魚尾だから、まだ下半身がうまく変身していないのである。

    可愛がられていた鯉の死後の姿といわれる。牛の角を一対と鯉の顔、尾を持ち合わせる。体色は生前と同じ。死後しばらくすると、徳の向上にともない、黒い竜玉を首に下げる。飼い主を守り、年を経るごとに成長し、ついには竜になってゆく。(ウィキペディア「竜鯉」)

     徳の向上に伴って龍になるとは、徳を磨く場所に相応しいではないか。ところが折角ここまで調べたのに、正体はまるで違っていた。
     宗匠がちゃんと正しい解答を探し出してくれたから、その結果を戴いておく。龍頭魚尾のものは二脚双角を持つ鬼犾頭(きぎんとう)、猫か虎かと悩んだのは鬼龍子(きりゅうし)である。初めて知る言葉だ。

    鬼龍子は、聖堂の大成殿屋根、流れ棟の四隅角に鎮座。寛政十一年(一七九九)聖堂の規模が史上最大当時の鋳造であり、大正十二年の関東大震災歳羅災し焼けおちたもので鋳銅製。形態は、猫型蛇腹で牙がある。狛犬に似た姿で、顔は猫科の動物に似ている。想像上の霊獣だそうです。鬼犾頭は、聖堂の大成殿屋根、棟の両端に鎮座。形態は、一種の鯱(しゃち)で龍頭魚尾、二脚双角、頭より潮を吹き上げ外側を向いて取り付けられる。想像上の神魚で、水の神として火災を防ぎ建物を守る為に祀られるそうです。(http://blogs.yahoo.co.jp/yoake2/19391408.html)

     鬼犾頭の頭から伸びている白い熊手のようなものは、潮を噴き上げている形であったか。「鯱」が文字通り虎頭魚尾であるのに対して鬼犾頭は龍頭魚尾で、シャチホコの代わりをしているのも納得できる。しかし鬼龍子の「蛇腹」は、どう見ても確認できなかった。
     水戸市HP(水戸藩の学問・教育遺産群を歩く)によれば水戸藩弘道館の孔子廟の屋根にも載っており、朱舜水が好んだ様式だということだ。それならロダンは知っていなければいけない。会津日新館の大成殿にも載っていたらしい。
     「ここって、宗教じゃないですよね。」いつも神社や寺院で必ず礼拝を欠かさない桃太郎が、礼拝すべきかどうか迷っている。儒教が宗教であるかどうかは実に難しい問題だ。特に日本では治者の政治倫理や道徳として、政治や思想史の分野で扱われることが多い。そして現代の私たちにはほとんど縁がないと思われている。
     しかし「儒」は元来葬送儀礼に携わった巫祝に始まる。人の死に深く関わる以上、それは宗教と言って良いに違いない。加地伸行『儒教とは何か』によれば、儒教の本質は祭祀による祖先の現世再生であり、その招魂儀礼として「礼」や「孝」が生まれた。私たちは意識していないが、一般的にイメージする墓石も実は儒教の位牌を石にしたもので、意外に儒教は日本人の死生観に影響しているのだ。
     「私、来たことなかったんです。こんなに広いところだなんて知らなくて。緑も多いんですね。」姫にも知らない場所があったのか。
     聖堂を出て、東京医科歯科大学病院、順天堂病院を横目で睨みながら、道を回り込んでお茶の水橋に出る。

    ○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
    ○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水蹙りて、樹木鬱蒼、幽邃閑雅の佳趣なきにあらず。往時聖堂文人によりて茗渓と呼ばれたるは即ち此地なり。(幸田露伴『水の東京』)

     外堀通りの左の崖の斜面は樹木の茂る遊歩道になっているようだが、どこからも降りて行くことができない。本当なら土手を下りて、かつての「茗渓」を偲びたいところだ。

    神田川土手にぽつぽつヤマボウシ  閑舟
    茗渓も茂りの壁に遮られ      蜻蛉

     外堀通りの向かいに看板建築が一軒建っているのが見える。その横に公園らしき緑の一角があるが、遠くて案内板の文字が見えない。後で確認すると「お茶の水坂」の説明であった。
     神田上水懸樋(掛樋)跡の説明によれば、明治三十四年(一九〇一)まで上水として使われていたと言う。近代水道というのはまだ精々百年の歴史しかないのだ。
     外堀通りと白山通りが交差する都立工芸高校の一帯は、かつて吉祥寺があった場所だ。明暦の大火(一六五七)で焼失して寺は駒込に移転したが、吉祥寺の檀家だった町屋は別の場所に移された。往時を偲んで名付けられたのが現在の中央線沿線の吉祥寺である。
     水道橋。右前方では後楽園の観覧車が回っている。「そろそろお腹が減ってきましたね。」「お昼はまだでしょうか。」凸版印刷まではまだ三十分ほど掛かるんじゃないだろうか。十二時に予約を入れている桃太郎が、十五分から二十分ほど遅れるとレストランに連絡を入れた。
     市兵衛河岸の案内板がある。文京区後楽と新宿区揚場町の間で「外堀通り」が「神田川を渡る橋が船河原橋で、そこから上流は、昔から「江戸川」と呼ばれていたのは冒頭に書いた通りだ。そして水道橋からこの船河原橋の間の一帯が市兵衛河岸と呼ばれたのである。岩瀬市兵衛の屋敷があったことに由来する。

    明眸が交番横で地図眺め 話掛けたし掛けたくもなし  閑舟

     宗匠は、リクルートスーツ姿の女学生が交番で道を尋ねていたのを目敏く発見したのである。こういうことにまるで気がつかない私は反省しなければならない。しかし女学生の「明眸」なんて私はここ三十年以上見たことがない。(四十年前には確かに「明眸皓歯」は生息していた)。
     飯田橋から外堀通りを離れ、ほとんど直角に右に曲がって目白通りに入って行く。首都高速池袋線も一緒についてくる。「旧新諏訪町」の旧町名案内。「旧・新っていうのがおかしい。」地図を見るとすぐ東側に諏訪神社があるので、それに因むものだろう。「旧江戸川町」。
     白鳥橋を過ぎた辺りに同人社跡地の案内が立っていた。文京区水道一丁目二番八号。同人社は中村正直(敬宇)の私塾である。中村敬宇については『西国立志編』を書いた(訳した)人としか知らないので、『朝日日本歴史人物事典』のお世話になってしまう。

    当時禁止されていたキリスト教の宣教の自由を主張し、明治六年(一八七三)キリスト教の黙許を政府から引き出すのに貢献し、(略)八年東京女子師範学校長となり、さらに東京の小石川に私塾同人社を開校し社内でキリスト教の礼拝を行い、また女子教育課程を加えた。また盲人教育にも力を尽くした。

     説明板では中村正直に教えを受けた人物として、岡倉天心、嘉納治五郎、井上哲次郎の名を挙げている。その他にも私の関心で探してみれば、池辺三山、内田魯庵、竹越三叉(与三郎)などが同人社に学んでいた。明治初期の教科書に採用されたためもあるが、『西国立志編』は発行部数百万部を超えたと言われている。
     やっと凸版ビルが見えてきた。あの中にレストラン「ラ・ステラ(ニュートーキョー)」がある。そろそろ疲れが見え始めた中将と小町に「もうすぐですよ」と声を掛ける。「見えても実際は遠いんじゃないの?」「あと三百メートルです。」
     「あの時はコンビニ弁当でさ。」講釈師の大きな声が後ろから聞こえてくる。「お兄さん、何か言ってますよ。」そんなに言わなくても良いではないか。昨年十一月(第三十二回「江戸の坂と神田上水」)のコースでは、このレストランで昼飯にする積りだった。ところが思いもよらぬ貸切満員で入ることができず、コンビニ弁当を買う始末になったのは、実に無様な仕儀であった。しかし講釈師みたいに何度も言わなくてもよい。
     桃太郎は私のようにズボラではなく、ちゃんと予約を入れてくれたので全員が入ることができる。二百人ほどが入れる広い店内には、七八人の団体がひと組の他は二三人連れが三組ほど散らばっているだけで、実に閑散としている。普段はこんな調子なので、まさか貸し切りになってしまうとは夢にも思わないではないかと、つい愚痴が出てしまう。
     その広々とした場所ではなく個室に案内されると、すでに十八人分のハンバーグのセットは用意され、まだ何も載っていない盆が三組並べてある。肉が食えない人たちのものだ。全員が座るとすぐにその三人分も用意が出来た。ネギトロ丼である。「それを注文したのは痩せてるひとばっかりだな。」

    痩せ組はネギトロ丼でエコ示し  閑舟

     ネギトロ丼とエコとの関係が私には理解できていない。土曜日はメニュー数が少なく、このほかにはパスタくらいしかなかったんじゃないだろうか。「味噌汁がないな」とスナフキンが不満を漏らした途端に、「お待たせしました」と味噌汁が出てきた。
     ドリンクバーがついて千百円を高いと思うかどうかで評価は分かれるだろう。私はコーヒーを二杯飲んだ。クラシックやジャズが流れ、静かに食事をしようと思うとなかなか雰囲気は良い店だ。夜はバーにもなる。

     午後の部は一時に始まる。凸版ビルを出て正面の中ノ橋を渡ると、「ここだよ、この店で弁当買ったんだ」とまた講釈師の声が大きくなる。ここからは右岸を通って行く。小桜橋のところに建つのはトーハンだ。西江戸川橋、石切橋、掃部橋。「掃部って井伊掃部頭に関係あるのかな。」水戸人はどうしても連想がそこに行く。「違う。だれか旗本だったと思う。」私はいい加減なことを言い、調べればやはりこれも嘘である。吉岡掃部という蕎麦屋があったらしい。
     華水橋の辺りで川を眺めると川底の石が見えるから、下流に比べて水はずいぶん綺麗になっているのだ。音羽通りを横切る時にも講釈師の声が響く。「たけしが殴り込みをかけたんだ。」講談社のことを言っているのだろう。「フライデーでしょ。」
     ここから左岸一帯に広がる江戸川公園の遊歩道に入って行く。両岸には桜並木が続く。「上水の堰はどこにあったんだい。」ドクトルの疑問だ。「大洗堰の跡がありますよ。」堰は残っていないが、大滝橋の辺りに説明板が立っている。この辺りで上水に使う水を分流させ、余った水を川に流した。

    大洗堰 目白の崖下にあり。承応年間(一六五二~一六五五)、厳命により、当国多摩郡牟礼村井頭の池水をして、江戸大城の下に通ぜしむ。その頃この地に堰を築かせられ、その上水の余水を分けらるる。天明六年丙午(一七八六)の洪水に堰崩れたり。ここにおいて再び堅固に築かせられ、古より一尺ばかりその高さを減ず。ゆゑに水嵩むときは、その上を越えて流れて落つるゆゑに損ずる患ひなしといへり。(『江戸名所図会』)

     「すみだ川から六・五キロ、みなもと十八・一キロ」という四五十センチの標柱が立っていた。「まだそんなものですか。」画伯が少し疲れたような声を出す。そして椿山荘の庭園に入る。「前回は来ていませんよね」と桃太郎に念を押されたが、ここに無料で入れることを実は私は知らなかった。
     椿山荘についてはウィキペディアから適当に要約してみる。
     武蔵野台地東縁部に当たる関口台地に位置するこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地で「つばきやま」と呼ばれていた。明治十一年(一八七八)、山縣有朋が購入して「椿山荘」と命名した。大正七年(一九一八)藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、昭和二十三年(一九四八)に藤田興業の所有地となり、その後一万余の樹木が移植され、昭和二十七年(一九五二)から結婚式場として営業を開始した。平成四年敷地内にフォーシーズンズホテル椿山荘東京が開業した。
     ロダンは、ここと目黒の雅叙園とをいつも勘違いしてしまうと頭を掻いている。我が社もかつてはここで創立記念パーティを毎年やっていたなんて、はるか昔のことのようだ。
     「ここもだれか大名屋敷だったんでしょうね。」「いや、この辺りは旗本屋敷だったんじゃないか。隣の新江戸川公園だって、幕末に細川家の屋敷になるまでは旗本屋敷だったと思う。」私がいい加減なことを言うものだから、姫がちゃんと切絵図で調べてくれた。それによれば、上総国久留里藩黒田豊前守の下屋敷である。今日の私は嘘ばっかり言っているようで反省しなければならない。なるほど切絵図を見ると確かにそうである。この黒田藩は、九州の黒田藩(黒田如水・長政父子の一族)とは別で、徳川綱吉の家臣で元は館林藩家老の黒田用綱につながる家だ。この先の胸突坂の東側、今の芭蕉庵の辺りには小さな旗本屋敷がいくつか並んでいるので、私はそれと勘違いをしていたのだろう。
     金魚葉椿という木がある。「これだよ、この形が金魚みたいなんだ。この一本しかない。」葉先に切れ目が入って三つに分かれているのが、ちょうど金魚の尾のように見えるのである。「これ一本しかないなんてことはないだろう。」スナフキンは疑う。説明が不足なのである。日本にこれ一本ということは勿論ないので、この椿山荘には一本しかないということだろう。藪椿の園芸種だそうだ。
     寛文九年(一六六九)銘の庚申塔には、三面六臂の青面金剛はいても邪鬼がいない。それに三猿ではなく、一匹の猿(?)の両側に鳥がいるのも珍しい。「講釈師はどこですか?」「これじゃないかな」と芝生に転がっている顔を彫った丸石を指さしてみたが、「違いますよ、これは羅漢です」とすぐにダンディに訂正された。「そんなに偉い筈はありませんよ。」「そうだよ、俺だってまだそんなに出世してない。」本人も不思議に殊勝な口を利く。自然の丸石を武骨に彫っただけの簡単なものだが、案内によれば、伊藤若冲の下絵による五百羅漢のうちの二十体だと言う。
     ちょうど結婚式の最中で、女性陣はブーケが投げられるかと期待して急いで近くに走って行ってみるが、その前に儀式は終わってしまった。小高い丘に三重塔があるのは知らなかった。小町は息を切らせながら登って行く。

    その建築様式から、六百年前に建立したとされる文京区の椿山荘三重塔の改修工事が完了。十三日、全体を覆っていた工事シートが外された。都内に現存する塔では、上野公園の旧寛永寺五重塔(台東区)、池上本門寺五重塔(大田区)と並ぶ古塔の一つ。屋根は真新しい銅板で葺かれ、赤銅色に輝く姿が新緑に映えている。
    椿山荘三重塔の成り立ちは諸説あるが、平安時代の歌人、小野篁が、現在の広島県にある竹林寺に建立したとの説が一番古く、有力とされる。一九二五年、藤田観光の前身・藤田組が譲り受け、椿山荘庭園内に移築した。関東大震災、東京大空襲、今年三月の東日本大震災も乗り越えた。改修工事は昨年九月に開始。長年の風雪にさらされて傷んだ屋根の銅板を葺き替え、一部部材を組み直した。傷みの少ない部材は洗って再利用した。(「東京新聞」五月十四日)

     滝の見える場所で桃太郎が全員の記念写真を撮り、その後で碁聖が難しそうなカメラを取りしだして、ちょうど通りかかった男性に託して撮って貰った。男は得意そうに「もう一枚」なんか言う。かなりカメラには煩い人なのだろう。
     駆け足でごく一部だけを歩き出口に戻る途中、園内の蕎麦屋の前でメニューの値段を確認すると高い。「貧乏人は入っちゃだめだ。」「私は接待されて来たことがある」と宗匠は接待される身分であることを白状し、優雅なダンディは自分でちゃんと払ったと言う。
     椿山荘を出れば隣は芭蕉庵。胸突坂の反対側にあるのが駒塚橋で、坂側の芭蕉庵入り口には休庵の板が掛けられている。幸い今日のコースには含まれていない。「なんだか疲れちゃったよ。」小町は街中を歩くのに慣れていないのだ。
     水神神社でひと休みした後、新江戸川公園の方には行かずに、左に回り込むように川に沿って行く。狭い道の右側は民家が続いていて、「静かに歩いてくださいね」と桃太郎の注意が入る。たまたま立ち話をしていた住人が、謎の集団を不思議そうに眺めている。
     豊橋から川を見下ろせば緋鯉が一尾悠々と浮かび、その周りを守るように黒い鯉が大勢浮かんでいるのが見えた。「紅一点だね。」「お姫様だよ。」軍団に守られる姫であった。

     軍団を率いて涼し姫の鯉  蜻蛉

     豊橋の名は、少し先に豊川稲荷の祠があることに由来するらしい。この辺まで来れば水は綺麗だ。桜の枝が川面を覆い、花の季節ならばもっと良かったに違いない。三島橋で、隅田川から七・五キロ地点になる。

     雨上がり緑したたる神田川 声と笑いがせせらぎ渡る  千意

     最後尾を歩いていると、犬を散歩させるご婦人に声を掛けられた。「どういう会なんですか?」ロダンは一所懸命、江戸歩きの趣旨やスケジュールを説明する。参加したいのかと思って私も連絡先を書こうかと思ったが、考えてみるとこの会には代表者とか事務局というものが存在しない。連絡先はどこにすれば良いか。しかし彼女の質問の意図はまるで違っていた。「うちは蕎麦屋なんですけどね。皆さんのような恰好のひとが良くお出でになるので。お昼の予定があれば是非来て戴きたくて。」ロダンは蕎麦が好きだ。それを見破ってわざわざ声をかけたのであろうか。しかし私たちはいつも同じコースを歩くわけではないから、その願いを叶えるのは難しい。
     変なことで遅れてしまった。気がつくと皆はもう面影橋に着いていて、ロダンと二人で急いで追いかけると、皆は橋の袂の「山吹之里」碑を覗きこんでいる。以前にも来たことがあるのだが、石碑の下半分には如意輪観音らしい像も刻まれていて、こんな碑だったか記憶が怪しくなっている。説明によれば、もともとは貞享三年(一六八六)の供養塔だったものを、いつの時点にか誰かが表面に「山吹之里」と彫って転用したものらしい。字体の感じでは、江戸時代ではなく新しそうに見える。
     「山吹の里って越生じゃないんですかね。」ロダンの疑問も無理はない。どこが本物だったかまるで分らなくなっているので、他にも横浜市六浦、荒川区町屋が名乗りを上げている。「やっぱり越生で決まりでしょう。」太田道灌に義理がある訳ではないが、埼玉県人ロダンとしてはどうしても越生に決めたい気分なのだろう。
     しかし、と私も考えてみる。大久保の大聖院で紅皿の碑を見たことを覚えているだろうか(宗匠企画・第六回「大久保・余丁町編」)。あれは、道灌に山吹を差し出した娘が後に尼となって暮らした場所だとされていた。そこから連想すれば、距離的にはここが最も近くて相応しいような気がする。

    面影橋の由来
    目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、
    高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、
    鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、
    近くにいた和田靭負の娘であった於戸姫が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げたときにうたった和歌から名付けられたという説
    などが知られています なお姿見橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。(案内板の説明)

     美貌ゆえに悲劇を招いて自殺した於戸姫は、真間の手児奈伝説にも似ていて、明らかに作り話だろう。この説明の一番下の姿見橋の部分を主張しているのが『江戸名所図会』だ。今はないようだが、絵図には近くの小川にもう少し小さい姿見橋というのが描かれていて別の橋だと記されている。
     考えてみれば、面影も姿見も、特に何かの由緒があるというよりは水が美しいということの形容だったに違いない。秋田にだって面影橋と言うのがあったなと、突然私は思い出した。秋田の方は、処刑される罪人が最後に自分の姿を川に映すという話になる。鳥取にも面影橋があるようだが、そちらの詳細は分からない。
     「オモカゲーバシカラー テンマバーシ。これは違いましたか?」ロダンが口を開く。
     私はこの歌を余り良く知らなかった。「違うんじゃないの」と一蹴してしまい、彼も「そうか、天満橋は大阪だもんね」と納得したのだが、話の筋はおかしなことになる。

    面影橋から 天満橋
       天満橋から 日影橋
    季節はずれの 風にのり
    季節はずれの 赤とんぼ
    流してあげよか 大淀に
    切って捨てよか 大淀に(及川恒平『面影橋から』)

     作詞をした及川恒平は面影橋がどこにあるか知らなかったと言うのである。知らなかったが、東京にあるらしいという予感は持っていたようだ。そして日影橋は全くの虚構だそうだ。(http://sawyer.exblog.jp/6570409/より)
     よく分からない歌だが、要するに流離った挙句に大阪に辿り着き、過去を振り棄てるという趣旨ではあるまいか。ところで、ここまで歩いてきて誰もかぐや姫の『神田川』を連想する人がいなかったのは幸いである。私はあの頃の軟弱なフォークソング(四畳半フォークと呼ばれた)が好きではない。
     曙橋の辺りから川底を覗き込んでいたドクトルが、「ここが長瀞の岩畳かい」と笑う。桃太郎の案内に「さながら長瀞のようです(ちょっと無理がありますが)」と書かれていたからだ。確かに巨大な一枚岩のようなものが底に見える。これは江戸時代から有名なものらしい。

    一枚岩 落合の近傍、神田上水の白堀通りにありて、一堆の巨巌水面に彰れ、藍水巌頭にふれて飛灑(ひさい)す。この水流に、鳥居が淵、犀が淵等、その余小名多し。この辺はすべて月の名所にて、秋夜幽趣あり。(『江戸名所図会』)

     高戸橋の手前に神田川の魚道がある。川底に段が作られていて、水が白く音を立てて流れている。「見ろって言われても背が低いから見えないわ。」ちょうど壁になっているのである。「ここなら見えますよ。」見学のためでもないだろうが、塀の下の部分に斜めの段差が作られていて、そこに立つとよく見える。

     以前このあたりには、川幅全体に川の流れを弱めるための段差(落差工一メートルほどの落差が三段)が設けてありました。これは治水の観点から必要なものでしたが、一方で魚の遡上の妨げにもなっていました。
    東京都は、河川改修に合わせてこうした段差を解消し、魚などの移動経路と生息空間としての機能を合わせ持つ魚道を、平成九年度に設置しました。
    一度は姿を消していたアユが、再び神田川で確認されるようになったのは、平成四年頃からです。
    この魚道の設置によって、上流側の高田橋付近までアユの遡上が確認されるようになりました。(案内板より)

     こんなところに鮎がやって来れば、すぐ塩焼きにして食われてしまうだろうと言うのが桃太郎の感想だ。私は鮎と言うのは山間地域の川に生息するものだと思い込んでいて、「遡上」というのが不思議だった。実に無学というものは恐ろしい。鮎というのは海と川を回遊する魚なのですね。しかしそれなら海で鮎は獲れるものだろうか。私はそういう鮎を食ったことがない。
     都電の線路を横切るのが髙戸橋だ。「高」田と「戸」塚に由来すると言われる。小町やチロリンが少し遅れて踏切に差し掛かったところに、鬼子母神方面から電車がやってきた。「まだ渡っちゃダメだよ、電車が来るから。」声を掛けていると電車は徐々に速度を落として彼女たちの前で止まった。親切なことだ。小町たちも運転席に頭を下げて線路を渡って来たが、実はこれは親切でも何でもない。信号によって止まっていただけだった。「ナーンダ。」分かり難い信号だ。

      新緑や都電に礼をして通り  蜻蛉

     高田橋を過ぎると住宅街の細い道に入る。水量は少ないが結構綺麗だ。源水橋の柱には水車の模様が飾られているから、この辺りは田園だったのだろう。
     「これってベニカナメモチじゃないの。花は珍しわね」とハイジが声を上げ、シノッチも頷いている。「生垣によくあるんだけどね。」花がそんなに珍しいものなのか。白い小さな花の周りに雄蕊(?)が針のように開いている。葉の端はやや赤みを帯びて、茎が赤い。紅要黐、バラ科である。時おり見かけるジャスミンの香りが強い。

     茉莉花や風も優しき神田川  蜻蛉

     戸田平橋。「バシって濁りませんね。トダヒラハシです。」さっきから「橋」を「バシ」と読んでダンディに何度も注意されていたのである。高塚橋、神高橋。高田馬場駅で中将・小町夫妻が帰って行った。
     さかえ通り商店街に入り田島橋を渡ると東京富士大学のキャンパスがある。「どんな学校ですか。」ダンディに訊かれて「確か、ビジネス系ですね」と答えた。岩手県花巻には富士大学がある。元は奥州大学と名乗っていたが、一九七六年に富士大学に改名した。「岩手にあって富士なんておかしいよな」とスナフキンが言うが、こういうのは名乗ったもの勝ちである。「知らない大学が多すぎる」とダンディが歎くのも無理はない。
     一方こちらには元々昭和二十六年創立の富士短大があった。二〇〇二年に四年制大学を作った際、普通なら富士大学を名乗りたいのに花巻の学校に先を越されてしまったため、やむなく頭に東京の文字をつけたのだ(と思う)。
     地図を開いて位置を確認しながら歩いていると、それぞれが自分の地図を取り出して自慢する。スナフキンは「これが一番みやすいんだ」と主張するし、ハイジも姫もそれぞれ別の地図を取り出した。マルちゃんとクルリンが見比べた結果、私の持っているものが活字が大きくて見やすいという結論になった。「年寄り向きなんだよ。」「ひとこと余計なのよね。」そう言いながらマルちゃんは書名と出版社、金額をメモしている。参考までに書いておけば、『大きな活字の地図で東京を歩こう』(人文社)だ。
     落合橋、新堀橋を過ぎ、「せせらぎの里」で休憩する。落合水再生センターの水処理施設上の人工的な地盤に作られた公園で、狭いながらも樹木が多い。小さなプールで子供を遊ばせたり、お握りを食べている家族の姿が多い。
     「この木はなんでしょう」と桃太郎に訊かれたって私に分る筈がない。桃太郎が姫を呼びに言っている間に、ヨッシーが「ソロノキ」の札を見つけた。姫はシデだと言う。ソロノキとシデとの関係は何か。「シデ科の木をソロって言うんです。」枝先に葉が十二単のように重なり合った塊がいくつもついているのである。しかし葉はちゃんと別に開いた大きいのがあるから、この塊は葉ではなく種のようだ。「これはクマシデだと思います」というのが姫の鑑定である。
     「林芙美子の家はこの近くだったんじゃないか?」スナフキンの言葉で地図を確認する。西武線の下落合駅がすぐそこだから、もう少し西に行かなければならない。西武線にほぼ沿って妙正寺川が流れ、中落合駅からちょっと北の方に芙美子の家がある。神田川はこの辺りから大きく南に上って行く。
     久保前橋、小滝橋。標柱によると、この辺で隅田川からちょうど十キロ地点らしい。亀齢橋。「お目出度いですね、千年生きるように」と言うダンディに「亀は万年です」とすかさず姫から訂正が入る。「うっかり間違えちゃった。」この辺は神田上水公園という遊歩道になっている。
     南小滝橋、大東橋。日本閣を回りこんで東中野に着いた。湯島聖堂と椿山荘のちょっとした散策を加えれば、今日は十二キロほど歩いたことになるだろう。宗匠の万歩計で二万二千歩、画伯の万歩計では距離が表示されて十二キロ。ちょうど一致した。つまり今日は神田川の半分近くを歩いたことになる。

     早く帰らなければならないハイジがここで別れ、残った人は駅前の喫茶店に入る。講釈師と画伯が注文するクリームソーダは五百円。ドクトルのコーヒーフロートも五百円で、ビール(中瓶)が四百八十円ならビールを飲むしかないではないか。
     席は三ヶ所に分かれたが、それでも二十人が入れたのだから良かった。ところが私たちの席は七人なのに、注文を取りに来たオジサンに「ビール四つと」と言った途端に、カウンターに戻って何か他の仕事をし始めた。不思議な行動だ。「注文しても良いですか」と訊いても無視される。何か深く悩むことでもあったのだろうか。暫く待って女性が追加の注文を取りに来て、なんとか七人分の注文が受けられたのだが、なかなか現物が出てこない。
     「お水飲んじゃったら、もうビールを飲みたい気分じゃなくなってしまったわ。」姫はまだ人生経験が浅い。ビールを注文していて水を飲んではいけない。「だって咽が渇いていたんだもの。」そのビールが登場したのは、注文してから十分以上経った頃だ。普通、ビールには柿のタネとか煎餅とか、ちょっとしたツマミが付いてくると思うのだが、ここでは何も出ない。中瓶がちょっと負担に思えて来た。
     ロダンのアイスコーヒーには、ストローの他にマドラーが二本差してある。どういう謎だろうか。それにガムシロップのピッチャーがやけに大きいのに、ミルクピッチャーはないのである。私が飲むのではないから良いけれど、どうも不思議なことの多い店である。
     なんとかビールも飲み終え、店を出る。講釈師と女性陣はここでお別れだ。「それじゃ次回はここから出発ですね」とダンディが確認する。「次回って、いつなの?」「一年後かな。いや、もうちょっと先。」「来年のことなんか言わないの。生きてるかどうか分からないんだからさ。」
     二か月に一回持ち回りで企画しているから、桃太郎企画の「神田川遡上編(二)」は来年になるだろう。来月は姫の「大山街道を歩く 其の二」、そして本編次回(七月)のロダン企画は愛宕山を中心としたコースらしい。「原点ですから。」憲政会館の所にあるのは日本水準原点だ。そのことかと思えばそうではなく、愛宕山こそはロダン命名由来の地であり、つまりロダンにとっての原点であった。知らない人にそれを説明するには寛永三馬術から始めなければならず、実にややこしいことになってしまう。
     ヨッシーも別れて行った。「本当は飲めるんだけど、今日は用事があるらしい」とダンディが説明する。それなら次回は是非とも一緒に反省してもらわなければならない。反省すべき十二人は新宿に出て、西口の「さくら水産」に入り込む。私やスナフキンはもうビールは要らないから最初から焼酎を頼む。「お湯割りでいいんだろう。」「勿論。焼酎は一年中お湯割りだよ。」「だけどさ、夏は汗かいちゃうぜ。」最初はビールのひとも、結局はいつもの通り焼酎になる。二本空けたのだろうか。一人二千五百円也。
     さくら水産を出て解散した後、桃太郎とダンディは入谷の「金太郎」に向かった。あんみつ姫、マリー、碁聖、画伯、チイさん、ロダン、蜻蛉の七人はカラオケ「ビッグエコー」に行った。カードを忘れたようで、探していると「お名前と電話番号でも良いですよ」と言われる。検索してちゃんとメンバーとして認識された。こんなところに私の個人情報が存在するのである。
     なんだか眠くなってしまったが、今日も二時間、充分に歌った。私は碁聖と初めてデュエット(二部合唱)をした。

    眞人