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    第三十五回 日本の測量原点を訪ねて編(神谷町から永田町まで)
                          平成二十三年七月九日(土)

    〜日本経緯度原点・日本水準原点・三角点・几号水準点〜

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.7.16

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     今回のタイトルは長い。私が勝手に付けてしまったのでリーダーのロダンのせいではないのだが、この暑さのせいかも知れない。今日は旧暦六月九日。帰宅してから、関東地方では今日梅雨明け宣言が出されたことを知った。昨年に比べて八日も早く、暑さが前倒しで来ている。この調子で涼しさも前倒しになってくれれば有り難いが、余り期待できそうもない。七月になったばかりだというのに、私はもうこの暑さにうんざりして、気持ちがめげている。
     集合場所は地下鉄神谷町駅、飯倉方面出口だ。ロダン、画伯、宗匠、蜻蛉、チイさん、桃太郎、碁聖、スナフキン、ダンディ、講釈師、ヨッシー、あんみつ姫、チロリン、クルリン、シノッチ、マリー、マルちゃん、カズちゃん、椿姫、ヨシミちゃんが集まってきた。椿姫とヨシミちゃんは一年振りだろうか。七夕みたいな人たちだ。
     本庄小町と中将夫妻も来る筈なのに、定刻の十時になっても姿を表わさないのはどうしたのだろう。東京の地下鉄に慣れていないひとだから、どこかで迷っているのではないか。メールを送ってみた途端、ロダンの携帯電話が鳴った。二人は虎ノ門方面口に出てしまったようだ。実はスナフキンも一度はそちらに行ってしまい、誰もいないのでこちらに来たと言う。
     「蜻蛉さん、すぐに救出に向かって下さい。」「了解しました。」階段を上がって桜田通りを北に向かうと、前方に二人の姿が見えた。どういうわけか、まるで反対方向を向いていて、声を掛けても届かない。正面まで行ってやっと気がついてくれた。「だってさ、出口が二つあるなんて思いもしないからね。」「ちゃんとロダンの案内に書いていますよ。」今日の中将はいつもの重そうなリュックではなく、小型のショルダーバッグを肩にかけている。無事生存者を確保し、信号を渡って集団に追い付いた。総員二十二名である。

     「ここは国道一号線なんですね。」桃太郎が道路標識を見上げて感心している。そうなのか、私も知らなかった。桜田通りとも書いてある。向う側には大阪経済法科大学の看板が見える。「サテライトキャンパスですか。」セミナーハウスとアジア太平洋センター図書館というのがあるらしい。
     飯倉の五叉路の交差点は、工事中で通り難いのに加えて音が喧しい。それを少し避けてロダンの今日最初の講義が始まる。難しい理屈は分からないが、ここは尾根である。都会の真ん中でこんな地形に出会うのは珍しい(と言ったのかな)。ただ騒音の中だから、折角の説明も聞き取れなかった人が多いのではないだろうか。台地と谷が複雑に入り組んでいて、私にはうまく説明できない。谷の部分はかつての日比谷入江に関係しているのだろうか。うまい具合に、その辺りの珍しさを説明している記事に出会ったので引いておく。

    まず、この交差点、地形が異様です。桜田通りを通る者にとってはこの交差点がちょうど「峠」になるのですが、外苑東通りを通る者にとっては「谷底」になります(さらに、地図を見ればお分かりと思いますが、桜田通りはこの交差点で急カーブになっており、外苑東通りはこの交差点でS字カーブを描いています)。これが異様だというのがお分かり頂けますか? 同じ場所が峠であると同時に谷底でもあるという地形は、ちょっと一筋縄ではいきません。私は、この交差点の周囲の地形を頭の中で把握しようとしても、中々できないんですよ(強いて言えば、「鞍の上部」の形ですかね?)。で、実際にこの交差点に立つと、眩暈がします。ここだけ時空が歪んでいるような感じがします。自分の平衡感覚がおかしくなったような気分になります。坂が多く、複雑な地形を作り出している麻布が生み出した傑作です。
    http://blog.livedoor.jp/ts2000/archives/29531582.html

     「ロシア大使館のそばを通りますからね。怪しげな振る舞いはしないでください。」「それは講釈師に言って下さい。」しかし今日の講釈師は、そのまま会社に行っても良さそうな、きちんとした格好をしている。怪しげなのは、私も含めてサングラスをしている人間であった。
     「ロシア大使館って狸穴にあるんじゃなかったか」とスナフキンが言い出した。地図を確認すると確かに麻布狸穴町というのがすぐそばにある。ロダンはその狸穴坂の標柱まで歩いて行った。標柱によれば、「マミ」とは雌ダヌキ、ムササビまたはアナグマの類である。また採鉱の跡だとも言う。マミについて、曲亭馬琴は『八犬伝』の中でやたら難しい考証を試みているのだが、前に書いたからここでは触れない。「江戸時代にはずいぶん淋しいところだったんだろうね。」「『御宿かわせみ』の神林東吾が師範代として通っていた道場が狸穴にありました。」これはあんみつ姫の証言である。
     もう一度引き返してロシア大使館の前を通る。ここは住居表示の変更で、麻布狸穴町から麻布台二丁目に変わってしまっていた。この暑さの中で立哨している警官は辛いだろうね。誰何されないように、ひっそりと通り過ぎる。

     狸穴に息を潜めてサングラス  蜻蛉

     右の脇道に入ると左には真浄寺という寺がある。大使館の裏手の高台は空き地が広がっていて、アフガニスタン大使館の旗が見えるすぐ手前に、ロダン最初の目的である「日本経緯度原点」があった。港区麻布台二丁目十八番一号。国土交通省国土地理院による看板が立っている。
     東経一三九度四四分二八秒八七五九、北緯三五度三九分二九秒一五七二。ロダンの資料によれば、明治二十五年(一八九二)に測定した数値である。経度について言うなら明石(東経一三五度)が原点かと思っていた。実はここから西に計測していって、丁度よい数値が得られたのが明石だったということだ。
     原点なのだから、もう少しキリの良い数値にすれば良いのにと思うのは私のような素人である。たまたま天文台の子午環が置かれていて、その中心で測定した値を原点としただけのことだ。そうか、麻布の天文台というのはここだったのですね。
     天文台が江戸時代からここにあったわけではない。
     渋川春海の貞享暦の採用が決まり、春海が天文方二百五十石に就いたのは貞享元年(一六八四)のことだった。これで天文観測の必要性を幕府が認めたためだろう。翌貞享二年に牛込藁町に司天台が設置された。元禄二年(一六八九)には本所、同十四年(一七〇一)には神田駿河台に移転する。春海の没後、延享三年(一七四六)に神田佐久間町、明和二年(一七六五)に牛込袋町に移り、更に天明二年(一七八二)に浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。「天文台」という呼称が初めて採用されたのはこの時である。
     高橋至時や間重富が、西洋天文学を取り入れた寛政の改暦(一七九八)に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、その浅草天文台では、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んでいる。その後、天保十三年(一八四二)に渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう一つの天文台が設置された。しかし明治二年(一八六九)、天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止される事になる。
     明治七年(一八七四)、ここに海軍観象台が置かれたのが近代天文台の始まりだった。後、天文は文部省(帝国大学理科大学天象台)に、気象は内務省(地理局天象台)にと所管が分割されたものの、明治二十一年(一八八八)にもう一度合併して東京帝国大学付属東京天文台となったのである。天文台は大正十二年に三鷹に移転したが、子午環跡は国土地理院にそのまま引き継がれ、現在に至っている。
     この原点は、ただ歴史的な遺跡としての価値をもつというだけでなく、現在も法的に生きている。測量法第十一条第三項に明記されているのだ。

    (測量の基準) 第十一条  基本測量及び公共測量は、次に掲げる測量の基準に従って行わなければならない。
    一  位置は、地理学的経緯度及び平均海面からの高さで表示する。ただし、場合により、直角座標及び平均海面からの高さ、極座標及び平均海面からの高さ又は地心直交座標で表示することができる。
    二  距離及び面積は、第三項に規定する回転楕円体の表面上の値で表示する。
    三  測量の原点は、日本経緯度原点及び日本水準原点とする。ただし、離島の測量その他特別の事情がある場合において、国土地理院の長の承認を得たときは、この限りでない。

     もう一度飯倉交差点を通って、東京タワー方面に向かう。「テレビ電波が、風の影響を受けても関東全域をカバーできる最低限の高さが三百三十三メートルでした。」「なにか語呂合わせがあったんじゃないの。」「スカイツリーのムサシみたいにね。」三三三と言うのが、当時の人の心を掴んだに違いない。エッフェル塔より少し高く、当時の世界一の高さを誇った。
     廻り込んでいくと、タワーの入り口近くに「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念」と称する、十頭ばかり(実は十五頭)の犬の像が散らばっているのに出会った。看板を見なければ犬屋敷の跡かとも誤解してしまいそうだ。確か中野の犬屋敷跡がこんな雰囲気ではなかったろうか。これはタロー、ジローと共に観測隊に率いられたカラフト犬である。タロー、ジローは奇跡的に生還したが、他の十三頭はおそらく餓死したと推定されている。東京タワーには二度ほど来ている筈だが、これは初めて見るような気がする。東京タワーと南極観測との関係については分からない。
     萬年山(ばんねんざん)青松寺。港区愛宕二丁目四番七号。「ここには入りませんよ、時間がなくなっちゃうから」とリーダーが宣言するのが少し惜しい。ずいぶん立派な四天門ではないか。マルちゃんも「ここはいろいろ見るものがあるよ」と言うからなおさら惜しい。仕方がないので調べてみると、確かに由緒のある寺院であった。もとは貝塚(麹町)にあったが、江戸城拡張に際して現在地に移転した。曹洞宗江戸三箇寺のひとつである。境内に「獅子窟学寮」があり、高輪泉岳寺の学寮、駒込吉祥寺の「旃檀林」と統合して、現在の駒沢大学の母体になった。

    南向亭云く、青松甲斐といふ人、草創す。その旧跡は、糀町の貝塚、玉虫八左衛門といへる屋敷にありて、かの墓を甲斐塚といふと。(『江戸名所図会』)

     「爆弾三勇士の銅像があったのよ。」マルちゃんが言っているが、「探したけど見つからなかったんです」とロダンが答えている。「供出されたようですね。」爆弾だったか肉弾だったか。
     調べてみると、「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞、東京日日新聞の用語であり、東京朝日新聞と大阪朝日新聞は「肉弾三勇士」と称した。朝日の方が扇情的気分を煽る気配が濃厚にみえる。しかしどちらも事実を確認しないまま、現地からの第一報をもとに、センショーショナルに戦争気分を煽ったことでは同罪だ。
     「爆弾三勇士なんて言うと年がばれちゃうからさ」とマルちゃんはこっそり言うが、大丈夫だ。この会ではどんな古い話題を持ち出しても良い。講釈師なんか、松の廊下から日露戦争まで、あらゆる歴史的現場に出没している。
     主人公は、独立工兵第一八大隊(久留米)の一等兵、江下武二、北川丞、作江伊之助の三人である。昭和七年(一九三二)の上海事変で、廟行鎮の鉄条網に対して強硬爆破を試み、自らも爆死したのである。昭和に入って最初の軍神とされた。
     愚劣な作戦と無謀な命令による死に対して、戦術的な反省をするのではなく軍神と讃えて死を美化した。日本陸軍の体質であるが、朝日・毎日をはじめとするマスコミが挙って大宣伝合戦を繰り広げたことが大きな影響を与えた。報道内容と実際の事件とにかなりの違いがあったことが現在では明らかになっている。
     ところで、像が取り払われたのは供出ではなかった。

    昭和九年、全国からの寄金で青松寺前に銅像が建てられた。銅像のなかには、三勇士の遺骨が納められた。この銅像はお墓なのであった。ところが戦後、三勇士の像は奉賛会の手で撤去されてしまう。占領軍を恐れての行為と思われる。現在ここには石碑と、江下一等兵(死後伍長)の像がお墓として残っている。
    http://homepage3.nifty.com/ki43/sonota/nikudan/nikudan.html

     これによれば、占領軍を恐れてのことだったというのだが、別に、占領軍に破却されたという記事もあった。(http://taroyama.ueda.ne.jp/3yushi.htm)真偽の判断はできない。
     次は愛宕山である。「足の悪い人はエレベーターがあるよ」と今日の講釈師はなんだか優しい。女性陣の大半がそちらに向かい、あんみつ姫とマリーは女坂へ、その他の男たちは男坂を登る。八十六段はちょっときついが、なんとか立ち止まらずに登ることが出来る。

     愛宕山八十六段息上がる  午角

     上りきるとハイジの笑顔が待っていた。「みなさんに会いたくて。」忙しい中を無理して来たのではないだろうか。嬉しいことである。

     愛宕山噴き出す汗に待つ笑顔  蜻蛉

     愛宕山と寛永三馬術の話はロダン命名の原点である。測量原点を訪ねる今回のコースでも、外してしまうわけにはいかない所だ。曲垣平九郎に因んで男坂は出世の石段とも呼ばれる。「この仲間でまだ出世が期待できるのは、五十代の人だけでしょかかね。」ダンディの言葉にも、「もう五十代も半ばになれば先は見えてますよ」と桃太郎は憮然としている。
     曲垣平九郎のほかにも三人がこの坂を馬で登った。まず明治十五年(一八八二)、仙台藩馬術指南役だった石川清馬が成功させた。これによって、徳川慶喜より葵の紋の使用を許されている。次いで大正十四年(一九二五)十一月八日、参謀本部馬丁の岩木利夫は一分ほどで駆け上がり、四十五分かけて下った。下りの方が怖いのである。この時は東京放送局が実況中継した。三人目は昭和五十七年(一九八二)、日本テレビの特別番組「史実に挑戦」で、スタントマン渡辺隆馬が三十二秒で登りきっている。
     櫻田烈士愛宕山遺跡碑を前に、リーダーの説明が入る。井伊直弼襲撃の前にここに集結して襲撃の成功を祈願した。愛宕の神は勝軍地蔵を本地として、武士の信仰が厚かったためだと思われる。また勝海舟と西郷隆盛がここで江戸の街を見下ろしながら会談した。自然地形の「山」と呼ばれるなかで、東京都内最高点である。今のようにビルがなければ、江戸じゅうが見渡せたに違いない。

    そもそも、当山は懸岸壁立して空を凌ぎ、八十六級の石階は、畳々として雲を挿むがごとく慫然たり。山頂は松柏鬱茂し、夏日といへども、ここに登れば、涼風凛々として、さながら炎暑をわする。見落ろせば、三条九陌の万戸千門は、甍をつらねて所せく、海水は渺焉とひらけて、千里の風光を貯へ、もつとも美景の地なり。月ごとの二十四日は、縁日と称して参詣多く、とりわけ六月二十四日は、千日参りと号けて、貴賤の群参稲麻のごとし(縁日ごとに植え木の市立ちて、四時の花木をここに出だす。もつとも壮観なり)。(『江戸名所図会』)

     「これが三等三角点です。」標高二十五・七メートルである。但し、「三角点」の文字は、ロダンによれば南側に刻される筈なのに、ここはそうなっていない。「南向きにすると、文字が隠れてしまうからでしょうかね。」割に新しい石柱で作られているから、元のものが壊れた後、誰かが復元したのではないだろうか。それも文字の向きなんか知らない素人の仕業に違いない。
     船が浮かび鯉が泳ぐ池は実に不思議なのだ。この船で何をしようと言うのだろう。そして私も二三当ってみたが、ここに池のある不思議についてうまく説明してくれる解説にまだ出会っていない。「ドクトルの推測では、六千万年前にここは海であった。その海水が伏流水として取り残されたのではないかと言っていました。」
     この説明に椿姫から指摘が入る。「六千万年前。六千年じゃないんですか。縄文海進とは違いますか。」どうやらロダンの言い間違いのようで、正しくは椿姫の指摘の通り、六千年前のことだったらしい。「縄文海進」なんて言われても、地学を真面目に勉強しなかった者には何のことかよく分からない。(地学の教師は確かデンスケと呼ばれていたような気がする。)知らないことが多すぎていけない。

    縄文海進とは、有楽町海進、完新世海進、また後氷期海進とも呼ばれる。今から約 一万年前の地球では、それまで氷期と間氷期を繰り返してしていた更新世が終結に向かい、後氷期である完新世へと移行した。これとほぼ同時に温暖化に伴う世界的海面上昇(海進)があり、縄文時代の日本列島でも縄文海進として現れ、海岸景観に大きな変化をもたらした。その最盛期は約六千年前で、海水準は現在より+二~五メートル の位置に達した。http://earthorganization.blog25.fc2.com/blog-entry-62.html

     「この池は江戸時代からあったんでしょうか。」碁聖がロダンに質問する。勿論あったのだと私は簡単に言ってしまったが、念のために『江戸名所図会』を見ると、この池の事は何一つ書かれていないのが気にかかる。こんな山の上に池があれば、天保の頃だって不思議に思うだろうし、あれば必ず書いていた筈だ。『江戸砂子』や『江戸名所記』も当たってみたが、やはり記述はない。私やロダンの勘違いで、そもそも池なんかなかったんじゃないか。
     池畔に設置してある説明板によれば、承平の頃に名水が湧き出ていたという。

    昔この愛宕の地に児盤水(又は小判水)と云う霊験あらたかな名水が湧き出ていました。承平三年平将門の乱の時、源経基と云う人がこの児盤水で水垢離をとり愛宕様に祈誓をこめ神の加護により乱を鎮めたと云うことが旧記にのっています。然し現在では昔を偲ぶものとてありません。幸い都心に聳え立つ緑の名跡愛宕山にゆかりも深い児盤水の名をとどめ昔を偲び東京の新名所としてご参詣の皆様に神のお恵みと心の安らぎを得ていただければ幸いと存じます。

     本当に水が湧き出していたなら、さっきのロダンの説明(ドクトルの推測)が合っているだろう。しかしこれを読んでも江戸時代のことは何も分からない。それに少しおかしなところがある。愛宕神社をここに勧請したのは徳川家康である(ということになっている)。それならば承平三年(九三三)にはまだ愛宕の神はここにはいないわけで、「愛宕様に祈誓をこめ」という話はおかしいではないか。どうやら伝説の世界である。結局この池は近代になって造られた人造池であると私は判断した。
     境内を抜けて放送博物館に入ると、冷房のお蔭で生き返るようだ。迎えてくれたのは野上さんである。「どうやっても最低一時間はかかるんですが、三十分ということなので」とやや不満を隠さない。「ポイントを絞ってご説明します。」「お願いします。」
     「この写真は誰だか分りますか。」ラジオドラマでも、当時はすべて役に扮して実際に演技するようにやっていたのだという。私はすぐに分かった。林長二郎である。「エーッ、こんなに若い長谷川一夫なんて見たことがない」と小町が驚いている。「じゃ、この女性は。」これは分らなかった。「田中絹代です。」他に若き日の黒柳徹子の顔も見える。
     玉音放送の原盤、二二六事件の「兵に告ぐ」の原稿など歴史的な展示物も多い。「兵隊たちはまるで理由が分からずに出動させられたんだよ。」「柳家小さんが有名ですね。」文を揚げておこうか。( )の部分は元の原稿にはあっても削除されたところだ。

          「兵に告ぐ」
    敕命が發せられたのである。
    既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。
    お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從を
    して、誠心誠意活動して來たのであろうが、
    (お前たちの上官のした行爲は間違っていたのである。)
    既に(敕命)天皇陛下の御命令によって
    お前達は皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。
    此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは
    敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。
    正しいことをしてゐると信じてゐたのに、それが間違って
    居ったと知ったならば、徒らに今迄の行がゝりや、義理
    上からいつまでも反抗的態度をとって
    天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を
    永久に受ける樣なことがあってはならない。
    今からでも決して遲くはないから
    直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。
    そうしたら今迄の罪も許されるのである。
    お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを
    心から祈ってゐるのである。
    速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。

    戒嚴司令官 香椎中將    

     これよりも、飛行機から散布された伝単の方がもっと直接的で威圧的だ。私は何故かこの「下士官兵ニ告グ」の方を覚えていた。

          下士官兵ニ告グ
    一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ歸レ
    二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
    三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ

    二月二十九日   戒嚴司令部    

     前にも書いたことがあるが、二二六事件首謀者に対する同情論はあるが、私は一切同情しないことに決めている。
     取り敢えず放送局の歴史を押さえておきたい。大正十四年(一九二五)三月一日、東京放送局は芝浦の東京高等工芸学校の仮施設で試験放送を実施した。東京高等工芸学校は後に東京工業専門学校と改称したが、空襲で後者を焼失して千葉県松戸に移転した。戦後の学制改革で千葉大学工学部の母体となった学校である。三月二十二日に中波での仮放送を開始した。これによって、この大正十四年三月二十二日が日本における放送開始の日と定められた。
     「大正十四年三月二十二日九時三十分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れました。アナウンサーは、ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイと遠くに呼びかけるように読み上げたんです。」野上さんによれば、JはJapan、Aは一番。OとKはそれが聞き取り易いように挿入したものである。ついでに言えば大阪放送局はJOBKとなる。
     七月十二日、愛宕山での本放送開始によって、ここから愛宕山の新しい歴史が始まった。高い建物がない時代、電波を飛ばすには格好の場所だっただろう。
     昭和十五年(一九四〇)に予定されていた東京オリンピックに合わせ、本格的なテレビジョン放送を行うため、昭和十年には麹町区内幸町に大規模な放送会館が建築され移転した。「今では何も残っていません。」そして現在は代々木に移っている。
     「これは石段の上の鳥居のところから撮影したものです。」慶応元年にフェリーチェ・ベアトが撮影した江戸の町並みの写真が見ものだ。「今はみんなビルになってしまって。でも周りはマンションじゃないんですよ。」マンションじゃないとすれば何か特殊な建物という意味だろうか。「億ションです。」どうもつまらない洒落を言う人だ。武家屋敷が広がる中に、築地本願寺、浜離宮、増上寺などが点々と存在する。

    西郷と勝のまみえし愛宕山江戸の息吹をパノラマに見る  閑舟

     ラジオ時代の効果音を出す道具が懐かしくて面白い。それぞれ手作りで工夫したのが良く分かる。「懐かしいな、これは。」ダンディは子供の頃に児童劇団に入っていて、「JOBKに通いましたよ」と言う。
     枕のようなものを拳で押すと、砂浜を歩いているような音が出る。「何が入っているか分かりますか。」私は分からなかった。「粉かしら」とマリーが言うと、「そうです、片栗粉ですよ」という返事だ。講釈師は小豆の入った笊を動かして波音を出し、ダンディは碗を持って馬の蹄の音を出す。ラジオドラマで私が思い出すのは、北村寿夫原作の『新諸国物語』シリーズだ。『笛吹童子』、『紅孔雀』。夕飯前のワクワクする時間だった。
     テレビの歴史になると、私たちの世代ではそのまま子供時代からの成長過程と繋がってくる。「そうよね、テレビが初めて来た日は感激だったわ」とハイジも言う。我が家にテレビが来た(テレビは買ったのではなく、「来た」のである)のは、昭和三十五年(一九六〇)の夏だったと思う。長年の社宅住まいを解消して、田んぼを潰した新開の住宅地に父が小さな一軒家を立てたのがこの年だった。父は三十五歳、私は九歳だった。洗濯機も冷蔵庫(但し最初は氷で冷やす方式だったが)も同じ時にやって来た。「黄金の六十年代」が我が家にも訪れようとしていた。
     「うちは月賦で買ったって言ってたわ。」私は父に聞いたことがなかったが、みんな似たようなものだったろう。昭和三十五年、大卒平均初任給は一万三千三十円、日雇いの日当は四百九十四円であった。(http://choko22.blog54.fc2.com/blog-entry-84.htmlより)。そしてこの年、サンヨー電機が発売した十四インチのテレビ(但しレコードプレーヤー付き)は現金正貨七万五千円である。大雑把に比較すれば、現代の価値で百三四十万円にもなるだろう。現金一括で払える家なんかほとんどなかったに違いない。それにしても、この値段でよく普及したものだ。
     年表を見れば、この年九月にカラーテレビの本放送が始まっているのだが、そんなものはまるで別の世界だった。それも当り前で、昭和三十五年当時の白黒テレビ普及率は四四・七パーセント、三十六年になって六二・五パーセントと、漸く普及してきた段階である。それに比べてカラーテレビは昭和四十一年になってもまだ〇・三パーセントに過ぎないのである。(http://confab.blog7.fc2.com/?tag=%C7%F2%B9%F5%A5%C6%A5%EC%A5%D3より。)私は少なくとも四十二年の高校卒業まで、カラー放送なんて見たことがない。
     『ひょっこりひょうたん島』の人形たちは意外に大きなものだった。「ドン・ガバチョがいるじゃないか。」講釈師の年代でこれを知っているのは珍しいのではないだろうか。私が中学から高校にかけて夢中で見た人形劇である。これによって井上ひさしと山元護久の名前を知り、井上ひさしは天才だと思った。放映期間は昭和三十九年から四十四年まで、まるっきり私の中学高校時代に重なっていて、高校二三年にもなると、夕方六時前に必ず家に帰るなんてできる筈がなかった。だから後半になるとほとんど見ていない。
     ドン・ガバチョの藤村有広、サンデー先生の楠トシエ、トラヒゲの熊倉一雄。マシンガン・ダンディの小林恭治。博士の中山千夏。死んでしまった人も多い。ちくま文庫で、オリジナル台本から復元したものが全十三巻で出ている。私は途中で買いそびれて八巻までしか持っていない。

     夏空や我が懐かしきドン・ガバチョ  蜻蛉

     今回調べていて、作者は舞台を死後の世界として設定していたのだと初めて知った。ドラマの発端になった火山爆発で、サンデー先生も博士もみんな死んでしまっていたのである。こんなことを、みんなは知っていただろうか。

    作者井上ひさしが、故郷である山形県川西町で開かれた「ひょうたん島」を語り合う講座の席上で、井上はスタッフにも伝えていなかった衝撃的な事実の秘密を明かしたそうです。
    その背景とは、こういうものです(読売新聞からの抜粋):
    井上、共作者で七十八年になくなった山元護久、竹井ディレクターの三人とも、家庭の事情で親に頼れない少年時代を過ごした。
    「大人たちに徹底的に絶望した」少年たちが、ユートピアとして考えた「ひょうたん島」は、「親も大人も存在しない、我々が新しい生き方を作って行かなくてはならない場所」になっていったという。
    そして、そんな「どこでもない場所」の物語にリアリティーを持たせ、作者の二人が自分自身を納得させるために出した結論が、死者の物語という設定だった。
    劇中に「御詠歌」や「四国霊場物語」を出したのはそのためだが、二人だけの秘密だった。http://ww51.tiki.ne.jp/~hatch/essay_hyotanjima.html

     『三銃士』は私は知らない。姫が知っているのは納得するが、講釈師が知っているのが不思議だ。「ずいぶん長く続いたんだよ。」いつ見ていたのだろう。それに今日は気付かなかったが、『チロリン村とクルミの木』の人形はあるのだろうか。
     「最後にこれだけ聴いていってください」と野上さんがボタンを押したのは、並木路子「リンゴの唄」である。「誰でも歌えるでしょう」と言われれば、歌わないわけにはいかない。「赤いリンゴに口びるよせてー」と時ならぬ合唱が起こってしまう。

     少女よリンゴの歌を口ずさみ  千意

     「カラオケに行かなくても、ここで一日楽しめるんじゃないの」と小町が笑う。歌うだけでなく、本当にもう一度ゆっくり来てみたいところだ。
     入り口前の売店をみんなが覗いている間、煙草を吸おうと外に出ると、喫煙所にはキンシバイの黄色い花が咲いていた。吸い終わってもう一度戻って、全員の数を確認して出発する。野上さんがまだ待っていて、「最後にここを見てください」と外に出て左の角地に行った。向こうに東京タワーが見える。「先端が曲がっているのが分るでしょう。」確かに先端が左に曲がっているのがよく見える。三月の地震の影響である。「スカイツリーができてからも、ラジオは東京タワーに残ります。」

     赤坂はタワーも曲がる炎暑かな  午角
     震災の痕跡刻む夏の空   蜻蛉

    博物館を出ると桜田通りの一本東側の道に出た。「なんだ、そんな団扇を持ってるのか。」ヨシミちゃんの団扇を見て、講釈師が携帯用の扇風機を見せびらかしている。「駅で配ってたんだろう、田舎者だな。」「良いじゃない、小さくて使いやすいのよ。」私は、ただの丸いボール紙で柄がなく、手の部分に穴が開いているのを持っていて、「もっと田舎者じゃないか、山奥だな」と嘲られてしまう。実際これは余り涼しくない。同じ貰ったものでも、ちゃんと団扇の形になっていないといけない。

     自慢する掌に載す扇風機  蜻蛉

     榮閑院(浄土宗)。港区虎ノ門三丁目十番十号。門は冠木門か、但し控柱があって、貫に屋根がかかった形だ。「さる寺って書いてある。」表札にそう書いてあるし、狭い境内に入れば、狛犬の代わりに猿が鎮座している。「コマザルって言うんでしょうか。」そうは言わないだろう。神社であれば神使あるいは眷属と言う。猿は山王の使いだから比叡山(天台宗系)なら分るが、ここは浄土宗で、そういう関連ではなさそうだ。
     右手には猿塚、その後ろに福禄寿。本堂は唐破風の堂々としたもので、欄干にはやはり猿が彫られている。若い僧侶が出てきたので猿寺の謂れを訊いてみた。
     「詳しくは分りませんが、昔、猿回しの芸人が食うに困ってこの寺に駆け込み、救ってもらったそうです。そのお礼に、境内で猿回しの芸を披露することになりました。それが評判を呼んで群衆が集まり、いつか猿寺と呼ぶようになったということです。」寺の境内は見世物を見せる場所でもある。人が集まれば金が落ちる。寺は相当潤った筈だ。
     しかし、ロダンの案内文ではちょっと違っていて、猿回しに扮した盗賊が、住職に諭され改心して置いて行った猿が後に芸をしたことになっている。WEBで検索すると、二つの説が出てくる。盗人説の方が羽振りが良いが、猿が自発的に芸をしたとは考えにくい。
     本堂の右脇の狭い通路の行き止まりの場所に杉田玄白の墓がある。「檆田先生之墓」と難しい字を使っている。木+炎+占の文字「檆」はサンと読み、訓は「すぎ」である。どうして、わざわざこんな難しい字を使うのか、私には良く分からない。千住小塚原で「解体新書の碑」を見た。江戸の科学史にとって、玄白や良沢の業績は実に重大な事件だったのである。
     玄白は、若狭小浜藩医の子として享保十八年(一七三三)に江戸牛込の小浜藩下屋敷に生まれた。父の死後、藩医を継ぎ、宝暦七年(一七五七)日本橋に開業した。やがて蘭学者のグループとの交流が始まり、ターヘルアナトミアの翻訳に苦心したのは誰もが知っている。文化十四年(一八一七)に没した。先覚者である。『蘭学事始』はあまりにも有名で、引用するのも気が引けるからやめておく。

     石田琵琶店は小さな店だ。港区虎ノ門三丁目八番四号。閉じられたガラス戸越しに、狭い店内を覗いてみる。しかし琵琶というのはどうなのだろう。歌舞伎や能で使われる楽器ならば市場は小さくても確実にプロがいて生き延びるだろう。琵琶のことはよく知らないが、そういうプロの働く伝統芸能には使われない。滅びていくしかないのではないか。実際、この店が全国唯一の琵琶専門店なのである。

     全国で唯一の琵琶の専門店として多くの琵琶愛好家の信頼を集めている「石田琵琶店」。百三十年の歴史を持つ虎ノ門の老舗だ(平成十八年度文化庁選定保存技術認定)。
     「昔からの名器といわれる音に近付けるのは並大抵のことではありません。いまだに出来上がった琵琶に弦を張って音を出すときには緊張します」という四代目石田不識さん。「理想の音」を求め研鑚を積んできた匠の技で、琵琶の製作と修理をすべて作りでこなす。薩摩琵琶のほかに平家・筑前・雅楽の琵琶全般を手がける。現在、琵琶奏者でもある息子の克佳さんが、五代目として店を支える。

     変なところに金刀比羅宮の案内板が立っている。「前に探したんですけど、場所が分からないんですよ」と姫が言う。案内板はその場に在るべきだと思うが、これは違う所に立っていた。ところで、金刀比羅宮というのは勿論明治の廃仏毀釈以後によるもので、本来は金毘羅大権現であることは間違いない。(昼食の後でヨッシーは一人で探検して、場所を確認してきたようだ。地図を確認すると、桜田通りの西側、虎ノ門琴平タワーと虎ノ門三井ビルに挟まれたところのようだ。)
     日本基督教団の教会がちょっとモダンで気にかかる。港区虎ノ門一丁目二十番十五号。「ステンドグラスでしょうか。」この日盛りの中では良く分からない。
     もう十二時を過ぎてしまった。心配した通り、リーダーの目指す「大戸屋」は満員で入れない。港区虎ノ門一丁目六番六号。「蜻蛉さんの時みたいに、コンビニ弁当ですか。それでも良いですよ」と碁聖がおどける。それはないだろう。「すみません、近所にいくつかお店がありますから、分散してお願いします。」
     路地に入るとラーメン屋があり、混んではいたがなんとか六人ほどは入ることができた。小町と中将は隣のカレー屋に入った。宗匠やチイさんは長崎ちゃんぽん、他にはパスタ屋とか、何とか大戸屋に入り込んだひとなど様々だが、なんとか全員が何かは食えたようだ。
     私、スナフキン、画伯が通された奥のテーブルには、大林組の作業員が三人座っていた。やがて彼らに出されてきたのは、ちょうど私たちが注文したものと似たようなもので、「チャーハンが不味い」と文句を垂れている。失敗しただろうか。
     満員の店内の向こうの方で、ダンディと桃太郎がビールを飲んでいるのが見える。少し経って目の前の三人が食べ終わって出て行ったので、彼らを呼んだ。「アレッ、飲んでないんですか。」ビール瓶を片手にしたダンディが不思議そうな声を出す。昼からビールを飲むなんて、私にはとても信じられないことである。
     画伯が注文したのはラーメンと半チャーハンだったが、何を間違えられたか、チャーハンが隣の席の若者に渡されてしまった。「すみません、すぐに作りますから」と画伯には詫びをし、チャーハン一人前を頼んで半チャーハンに口をつけてしまった若者には、「それはただで上げる、もう一つ作るから待ってて」と店の親父も忙しい。
     ダンディと桃太郎の五目焼き蕎麦が出来上がり、スナフキンの肉野菜炒め定食ができ、最後に私のレバニラ炒め定食(七百円)もできてきた。思ったほど不味くはなかったから良かった。ただ飯がやや柔らかめだったから、チャーハンには向かなかったかも知れない。食べ終われば結構良い時間になっている。
     待ち合わせ場所の大戸屋の前の舗道には、もう数人が座り込んで待っている。少し待つと、大戸屋に入り込んでいた椿姫、ヨシミちゃん、姫、カズちゃん、ハイジも出てくる。「だって、ご飯を食べたかったからね。」私だってご飯が喰いたかったから中華屋に入ったのであったが。
     「全員揃いましたか。みなさん、相方がいるかどうか確認してください。」誰が誰の相方だろうか。たぶん全員揃っている筈だ。歩き始めた椿姫を見ると、ジーパンの裾を捲りあげ、びっしょり汗をかいた背中にリュックを背負っている。「お姉さん、東京を歩く恰好ではありませんよ。」「良いのよ。」「そうね、どうだって良いんだもの」とヨシミちゃんまでが言う。そんなに捨て鉢にならなくても良いではないか。「だって暑いんだもの。こんなに暑くなるなんて。」確かに暑い。チイさんはサングラスで、頭に手拭を巻きつけているから、これはもう明らかに都会を歩く恰好ではない。

    団扇持ちリュックを背負ふ虎ノ門  蜻蛉

     気がつくとダンディはあんみつ姫のバッグを肩にしている。「私は徹底的に世之介をやりますから」なんて言う。ヨッシーの鳥打帽には、首筋を保護する布が垂れ下がっている。「良いですね、鳥打帽には珍しい。」しかしこれは別売りのもので、布だけを付けるのである。便利なものですね。スナフキンの帽子にも同じような布が垂れ下がっているが、これは最初から帽子に縫い付けてある。
     銀座線の入り口には虎ノ門遺跡が立ち、その石碑の上には虎が吠えている。舗道の側から碑文を読んでもなかなか読めるものではない。「読めないよね。」確かに正確に読むのは難しい。写真で確認しても完全には読めない。不明部分は■にしてみた。

    此地ハ往昔の虎ノ門の旧蹟なり乃ち慶長年間江戸城増築の砌りの内外廓三十六門の一として嵎■負■■■■■慴伏する虎ノ門乃名は全国に顕赫■■■滄葉變じて往時を偲ぶ一片の石すらここに止めず因つて地元有志旧史を按じて慈に斯石を鎮めて永く史蹟保存の意を表すと云ふ
    昭和二十七年九月 町名改称三周年に■りて
             虎ノ門会

    青山 石勝 刻    
      

     「どうして虎なの。」チロリンの質問に、「青龍とか白虎とか言うだろう、玄武とか。あれだよ。」と講釈師が正しそうなことを答えている。しかし四神思想では西を守るのが白虎である。現実の虎ノ門は江戸城の南に位置しているわけで、ちょっとおかしくはないか。探してみると、やはりいくつかの説がある。

    ・「千里ゆくとも無事にて千里を帰る」といわれる虎にちなんだ説(新説大江戸志)
    ・昔朝鮮から虎をもってきたとき、その檻が大きくては入れないので門柱を大きく改造して名づけた説
    ・門内の内藤邸辺に虎の尾という種類の桜の木があり、虎の尾門が略されたとする説(画報)
    ・四神思想にちなむ城郭の設計上、右白虎に相当する方角なので、虎ノ門となったとする説(備考・画報)(http://トラユメ.jp/history/index.htmlより)

     そもそも四神思想に因むのなら、青龍、朱雀、玄武の門も造るはずだ。虎だけがあるなら、それはこの思想には何の関係もないと判断して良いだろう。「右白虎に相当する方角」というのも何のことか分からない。二番目の朝鮮から虎を持って来たと言う説が本当なら、それは加藤清正のことだろうか。案外、特別に奇を衒わない三番目の桜に因むというあたりが正解ではないだろうか。虎の尾と言う桜は知らないけれど。
     「ここから少し何もない所を歩きます。」霞が関の官庁街に入っていくのだ。経済産業省、向こうに見えるのが文部科学省、こちらには林野庁、農林水産省。

     ストレスに官僚たちの暑き夏  千意

     官僚が悪いのか、それとも政治主導を散々言揚げしながら何もできない民主党が悪いのか。政治に関して、私たちは史上最低の時代に生きているようだ。高等裁判所。法務省の赤レンガ。「映画じゃ海軍省になるんだよ。」赤レンガの官衙なんて、他ではなかなかモデルにすべきものがないだろう。
     ここは上杉家上屋敷跡である。角を曲がりこむと、ちゃんと案内板が設置されている。「ここからさ、本所の吉良邸まで駆けつけようとしたけど、駄目だったんだ。」左の角にあるのが警視庁だ。
     濠を渡って桜田門を潜ると、内側の石垣の下のほうに刻まれた「不」の記号は、草加の神明宮で見たのと同じだ。「何て言ったっけ。」せっかく思い出しても名称が出てこない。「几号水準点」である。

    内務省では一八七六年(明治九)頃から高低測量(水準測量)を開始しました。この測量で用いられた標石が各地に残存しています。
    「几」は「几帳面」の「几」で「き」と読みます。広辞苑によれば几は机の意味があります。この標石に彫られた記号が三脚のついた机に似ており、こう呼ぶのかもしれません。高低几号、几号高低標または漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれています。いずれにしても明治初期に内務省(内務卿:大久保利通)が地図つくりを試みていた当時の水準点標石で独立した標石のほかに建物、鳥居などの永久構築物に刻印された場合もあります。http://uenishi.on.coocan.jp/j584kigousuijun.html

     桃太郎は、石垣の切断面が綺麗に揃っていることに感動する。「江戸の職人の技は大したものですね。」
     桜田門を出たところで、講釈師の見て来たような話が始まる。「そうだよ、俺はあそこで見てたんだ。」「ピストルで撃たれたんですよね。」「違うよ、小銃だよ。」しかし、どうやら正解はピストルである。ウィキペディアによれば、黒澤忠三郎が使ったピストルは、ペリー艦隊が幕府に贈呈した最新型のコルトM一八五一を、水戸斉昭が藩内で模造したものだという。襲撃者のうち五人がこれを携行していた。斉昭はこんなこともしていたのである。
     「とにかくさ、腰のあたりに弾丸が入って、動けなくなっちゃったんだ。」だから結局井伊直弼は引き摺りだされたのだと講釈師が言い、「現場からの実況でした」と姫が笑う。
     安政七年(一八六〇)三月三日のことであった。襲撃した側、された側、どちらにとっても不幸な事件で、たまたま事件では死ななかった者も、自決を強いられ、あるいは親族諸共に死罪となって家名断絶の憂き目にあった。
     「赤穂浪士は報復したけど、井伊家の人はどうして復讐しなかったのかな。」小町は素朴な疑問を出す。公式には井伊直弼の死は病死とされた。病死に復讐の相手のいようはずがない。勿論、事件の内容は江戸中に知れ渡っていた。正式に死が発表される前、「病気見舞い」として各大名から見舞いが届いたのは茶番だが、中でも水戸藩の見舞いには、彦根の連中は怒り心頭に発したことであった。
     三月十八日に万延と改元したから、この年は万延元年でもある。ところでこの年閏三月九日(井伊大老が襲撃されてから三十六日後のこと)、出羽国由利郡亀田の東海林家では待望の男子が誕生した。それまで七代続いて男子に恵まれず、養子を迎えて家を継続してきたのだった。家中が喜びに包まれたに違いない。生まれたのは東海林別家第十二代当主となる東海林利頴で、蜻蛉やマリーにとっては母方の曽祖父に当たる人であった。「ヘーッ、そうだったの。」中央から遠く離れた亀田では、もうすぐに幕府が瓦解し、当然亀田岩城藩もなくなり家禄も失うことになるなんて、想像もしなかったに違いない。明治維新以降、家禄を失った東海林家の貧困と苦闘はまた別の物語になる。
     江戸の名水「櫻の井」は井伊家表門の西側にある。コンクリートで枠を作り、蓋をしている。もともと加藤清正が掘ったとされている。江戸は湿地帯を埋め立てた場所が大半だから、井戸は極端に少ない町だ。通行人のために三連の釣瓶も用意されていたという。

    桜が井 井伊候の藩邸表門の前、石垣のもとにあり。亘り九尺ばかり、石に畳し大井なり。釣瓶の車三つかけならべたり。あるいはいふ、『事績合考』に、「井伊家中屋敷、四ツ谷喰違の屋敷」ともあり。若葉井は同所御堀端番屋の裏にあり、柳の木をうゑしゆゑに柳の水ともいへり。いづれも清冷たる甘泉なり。(『江戸名所図会』)

     そこから公園の中に入って行く。水準点と刻まれた小さな石柱は、上面に瘤のような突起があって、この瘤の頂点が水準を表すらしい。更に裏から見ると、古めかしい倉庫が立っているとしか思えないのが日本水準原点標庫である。

    正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンタブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられる。石造による小規模な作品であるがローマ風神殿建築に倣い、ドーリア式オーダー(配列形式)をもつ本格的な様式建築で明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重なものである。

     と言うのだが、この建屋(標庫)はあまり立派なようには見えない。工部大学校第一期生の佐立七次郎の設計である。工部大学校第一期生と言えば、ジョサイア・コンドルの教えを受けた四人であり、最も名を挙げたのが辰野金吾だろう。その他に曾禰達蔵、片山東熊がいる。
     水準点のことも、法律にちゃんと書いてある。

    一  地点 東京都千代田区永田町一丁目一番地内水準点標石の水晶板の零分画線の中点
    二  原点数値 東京湾平均海面上二十四・四一四〇メートル

     但し、当初は二十四・五メートルであった。明治二十四年五月に建てられたとき、その数字に合わせて台座の位置を調節したと考えられる。折角合わせたのに、関東大震災によって地盤が沈下してしまって、おかしな端数が出てしまったのは残念なことだった。それだって、台座を少し調節しさえすれば何とかなっていたのではないか。こんなことを言うのは科学の厳密さを知らないからだろうか。それに、この三月の地震の影響はなかったのだろうか。

    水準点我が家の生活水準は  午角

     佐立が設計して現存するのは、この水準原点標庫と旧日本郵船小樽支店だけである。みんながベンチに座って休憩しているとき、ちょうど水道を見つけたので頭に水を浴びる。よくぞ男に生まれけり。生き返る。
     「蜻蛉さん、駄目じゃないの。」洗濯洗髪してはいけないと掲示されているのであった。しかし私は髪を洗ったのではない。自慢ではないが、洗わなければならないほど毛は長くないゾ。私は頭に水をかぶったのである。三角の時計塔があり、池がある。

    ゆうゆうと都心を遊ぶ水黽  閑舟

     ハナミズキの木が目立つ。姫は「ナンジャモンジャの木ですよ」と注意を促す。前にも見たことがある。憲政記念館の敷地にあるのはナンジャモンジャ、正式にはヒトツバタゴ(モクセイ科)である。
     「私は入ったことないって言いましたけど、入ったことがありました。その頃はあまり関心がなかったから忘れてた。」姫は言う。私は記念館の中に初めて入る。

    一九六〇年に建てられた尾崎行雄(衆議院名誉議員)を記念する「尾崎記念会館」を母体に一九七〇年の日本における議会政治八十周年を記念して設立され、二年後の一九七二年に開館した。(ウィキペディア「憲政記念館」)

     入口を入るとすぐに、プールの上に立った尾崎行雄の像に出会う仕組みだ。咢堂尾崎行雄について私はほとんど知らなかった。明治二十三年(一八九〇)第一回衆議院議員選挙で当選して以来、連続二十五回当選してその議員生活は六十三年に及ぶ。昭和二十八年、第二十六回衆議院議員選挙で初めて落選したというのだから驚いてしまう。
     「三重の人ですよね。」ダンディと同じように私も三重県選出の議員だと漠然と思っていたが、実は相模国津久井郡又野村の人である。後北条の滅亡後に移り住んだというから実に古い名家である。弾正台の役人だった父が神風連の乱にあって辛くも生き残り、晩年に伊勢宇治山田で余生を送っていたため、三重県が選挙母体となった。
     更に衆議院議員であり続ける間、明治三十六年(一九〇三)~大正元年(一九一二)には官選の東京市長を二期九年務めた。こういうこともあったのですね。それに、当時は東京府知事と東京市長と二人がいたというのも私は初めて知る。
     市長時代にはワシントンのポトマック河畔に桜を贈り、代わりにハナミズキを贈られている。日露戦争当時の米国の対応に感謝していたのがその理由だ。アメリカから渡ってきたので、ハナミズキはアメリカ山法師とも呼ばれる。

    大正元年十二月、第二次西園寺公望内閣の陸軍大臣・上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言する。しかし西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否した。すると上原は単独で陸相を辞任してしまう。軍部大臣現役武官制により、後任の陸相を据えることができなかった西園寺内閣は、こうして内閣総辞職を余儀なくされてしまった。
    西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が第三次桂内閣を組閣することとなった。民衆はこれを、山県の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、国民も議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次)が起こったのである。(ウィキペディア「護憲運動」)

     この時、尾崎行雄と木堂犬養毅とは憲政擁護会を結成し、大正二年桂内閣不信任案を提出する。

    彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手販売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執つて居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。

     桂太郎は陸軍大将というよりも、ことがあれば内大臣として天皇の詔勅を取り付けることでも有名だった。これが尾崎の演説にいう「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて」という文章になるのだ。
     苦し紛れに議会を五日間停止する間に、尾崎等の懐柔を図った。詔勅を盾にして不信任案の撤回を求めたのである。文字通り、「詔勅を以て弾丸に代へ」たのであったが、しかし過激な憲政擁護派が桂内閣批判集会を開き、一部が国会に押し掛ける事件を惹き起した。
     桂は国会の解散を狙ったが衆議院議長の大岡育造が解散に猛反対したために解散させることができず、桂はひとまず、議の三日間停止を命じるだけであった。一方、桂への反対運動は全国に広まり、各地で暴動が相次ぎ、二月十一日、ついに内閣総辞職となった。これが第一次護憲運動、大正政変と呼ばれるものである。

     順路は尾崎メモリアルホールから始まる。ガラスケースに展示された文書類を見て、「みんな字がうまいよな」とスナフキンが溜息をつく。悪筆の見本のような私が言うことではないが、毛筆だからではないか。
     議場体験コーナーという小さな部屋がある。二階に上がれば坂本竜馬の船中八策、伊藤博文の自註による憲法草案など見るべきものは多い。しかし、私は今日の暑さにめげてしまって、真剣に見ている気力がない。但し厭になるほど見せつけられてしまった今の政治家連中の程度の低さに比べて、善悪は別としても昔の政治家の大きさだけは感心してしまう。「田中角栄の演説は上手かった、今とは全然違う」とスナフキンも言う。
     一階のロビーに戻ると、もう大部分がソファで休憩しているではないか。気力が湧かないのは私だけではなかった。暫くするうち、「この辺じゃ喫茶店がないから、国会図書館の喫茶室に行こうぜ」と講釈師が言い出した。なるほど、確かにあそこには喫茶室がある。広い店内のわりに客も少ない筈だから全員が座れるだろう。
     忙しいハイジはここでお別れだ。「遅く来たのに早く帰るのは申し訳ないわ。」そんなことはない。
     信号を待つ間も小さな日陰を見つけては固まってしまう。ロダンはずっと先に行ってしまい、私の前を行くヨッシーが曲がり角で立ち止まる。「そこを右に曲がってください。正面入り口がある筈ですから。」去年の八月から今年三月まで、国会図書館にはほぼ毎週のように来ていたのに、通用口からしか入ったことがない。正面から入るのは初めてだ。
     入り口で、先に到着して交渉していたロダンと合流した。結構面倒くさい手続きが必要なのだが、全員が集まったところで、係員が新館に連れて行ってくれた。受付カウンターには、私たちのために「図書館を利用せず飲食だけを希望する団体の方に」という印刷物が用意されていて、バッジをもらう。そういう団体が頻繁に来るのだろう。そして荷物はロッカーに預けなければならない。
     階段を下りて左に曲がりこんだところが喫茶室だ。この店にも三度ほど来たことがある。「トマトジュースが一番安いよ。」宗匠が言うからそれにする。たぶん一番早く出てくるだろう。
     カズちゃんと講釈師は同じクリームソーダにした。「真似するんじゃないよ。」「またそういう意地悪言って。」別に真似した訳ではないだろう。

    痴話げんかしつつ二人でソーダ水  閑舟

     「俺、こんなもの頼んでないよ。」スナフキンを悲劇が襲った。スナフキンに運ばれてきたのは、抹茶パフェと称する背の高い、たぶんかなり甘い食いものである。確かに普通ならば注文する筈はないが、注文した現場は私も見ている。スナフキンと一緒に小町と中将も同じものを頼んで、三つはないと言われて小町中将はコーヒーゼリーに変えた筈だった。
     スナフキンの言い分をよくよく聞いてみると、彼は「抹茶カフェ」を頼んだつもりだったのだ。正確には「小豆抹茶カフェ」である。小町は最初から「抹茶パフェ」と思い込んで、自分たちも同じだと主張した。注文を受けた店員も、何も疑わずにパフェが三つと信じ込んでしまったのだが、カフェとパフェ、こんなに紛らわしい名称だと事件がおきてしまう。「これじゃビールが不味くなってしまう。」六十一年の人生で初めてパフェを口にしたスナフキンは、目を白黒させながら不味そうにスプーンを舐めている。結局半分も食べられなかったようだ。「単純にコーヒーにしておけばよかったよ。」当たり前だ。私はパフェなんか一度も口にしたことがないし、これからも絶対食わない筈だ。

    顔歪めパフェに苦しむ夏の午後  蜻蛉
    抹茶カフェの代わりに来たる抹茶パフェひとさじ毎にビールの泡消ゆ  閑舟

     悲劇は突然にやって来る。井伊直弼だってタカを括っていたのである。このことを私たちは肝に銘じて、日常坐臥、危機に備えていなければいけない。(そのために私が何かをしているかと訊かれれば、何もしていない。)
     帰り際には守衛が「百円を忘れないようにしてください」と注意を促してくれる。なんと親切なのだろう。と言うより、私たちは東京見物にやってきた田舎者だと思われたに違いない。そう言えば、愚息は最近勤務先のロッカーを使うのに、金が戻ってくることを知らずに、これから毎日百円とられてしまうとぼやいていた。(翌日、そうではないことを初めて知ったらしい。)そういう無知な人間もいるのだから、注意を促してくれるのは実に有難いことである。
     永田町駅の手前から民主党の看板が見えるところでロダンは立ち止まり、最後の挨拶を行う。宗匠の万歩計で本日の歩行は一万三千歩。七キロか八キロか。熱中症にもならず無事ゴールに到着したのも、要所々々で休憩を入れてくれたコース設定のお蔭である。次いで、九月幹事のチイサンからは自由が丘方面を予定していると報告があり、あんみつ姫からは八月第一土曜の佐倉散策予定の案内がされた。

     「どこにする。」「池袋でしょうか。」「市谷はどうかな。」ロダンとダンディがそれぞれ「さくら水産」のパンフレットを取り出して確認すると、市谷には「さくら水産」が存在するのである。それなら迷うことはない。反省をするもの十二名は市谷で下りた。「出口はどこでしょうか。」「だいたいJRの方に出れば良いんじゃないのかな。」A一番の出口と一番出口と紛らわしいが、階段を上がれば目の前に看板が見えた。
     今日は碁聖八十歳のお祝いだ。本当の誕生日は来週なのだが、満八十歳とは思えないほど若くて元気だ。「傘寿だろう。」傘寿と言えば本来は旧暦で数える約束だから去年なのだが、この会では満年齢で祝うことにしている。仲間内では、長老、若旦那に続いて三人目になる。
     「我々もあと七年頑張ればお祝いしてもらえる」とダンディがヨッシーに笑いかける。私はあと二十年か。二十年後にこんなに元気でいられるかどうか。気が遠くなりそうでもある。碁聖は人の出会いの尊さを言ってくれるが、それは私にしても同じことだ。こんなに年齢も経歴も違う人たちと仲良くなって、一緒に遊べるのは実に嬉しいことである。二時間ほど楽しんで一人三千円也。
     碁聖、あんみつ姫、ヨッシー、ロダン、私がカラオケを探してウロウロしているうち、去る人は去って行く。「エーッ、チイさん、スナフキンは行かないんですか。マリーさんも行かないなんて。」ショックですと姫が言っているところにダンディが戻ってきた。「ヨッシーが行くのにダンディが行かないのはおかしいって、マリーに言われた。」ダンディだってちゃんと歌うのである。
     途中、入谷「金太郎」の女将からダンディに「来ないのか」と電話があったから、桃太郎はそちらに行っているのだろう。二時間、一人千五十円というのは極端に安くはないだろうか。有名店ではなく、何という店名だったかも知らない。

    眞人