文字サイズ

    第三十六回 自由が丘~西小山編(村祭りと残暑の緑道・緑陰を往く)
                          平成二十三年九月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.9.17

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     台風十二号は規模が大きく、その上極端に速度が遅かったため、ほとんど日本列島全域に及んで雨を一週間も降らせた。その揚句、特に紀伊半島では記録的な豪雨となって大きな災害を齎した。「記録的」という言葉がこんなにも頻発された年はないのではないか。海は津波、山は崩れ川は氾濫する。地球全体が病んでいる。台風の後は湿度が高く気温も上がった。今日は旧暦八月十三日。また長い残暑になりそうだ。
     自由が丘駅正面改札を出ると、講釈師と今回のリーダーのチイさんが待機していて、女神像の方に行くようにと指示される。「出口が分かり難いからさ。」東横線と大井町線が交差しているので、確かに出口は探しにくかった。
     集合場所にはもう五六人が来ていた。バッグから杖を取り出し、「使い方がわからない」と声をあげると、「桃太郎が来たら教えてくれますよ」とロダンが答える。どうやらロダンも宗匠もスナフキンも杖の使い方を知らないらしい。三か所で伸縮できるようになっているのだが、延ばすと締められなくなってしまうのだ。しかし「ちょっと貸してください」とヨッシーが取り上げてくれ、十分ほど触っている内に、ちゃんと直った。「初期の設定ができていなかったみたいですね。」一年ほど前にホームセンターで買って一度も使っていない。最初に設定が必要だなんてまるで知らなかった。
     今回はいつもより十五分早い九時四十五分が集合時刻になっている。やがて総勢十四人が集まった。チイさん、碁聖、講釈師、ダンディ、ヨッシー、チロリン、クルリン、あんみつ姫、マリー、スナフキン、宗匠、ロダン、桃太郎、蜻蛉だ。桃太郎は珍しく短パン姿で現れた。ダンディの今日の帽子はアイルランド製らしい。
     「どうしたんだい、杖なんか持っちゃって。」「足が痛いの。」来る人来る人が不思議そうに声を掛けてくる。実は木曜日に書庫を整理していて腰を痛めた。昨日の昼過ぎまでは、とても今日は参加できると思えなかったが、奇跡の復活を遂げたのである。しかし「杖がないと歩けない年齢になっちゃったのね」とマリーは軽蔑したような声を出す。悔しいが仕方がない。

     杖つけば妹笑ふ残暑かな  蜻蛉

     女神像がある駅前ロータリーはそれほど広くない。像は正確には澤田政廣作「蒼穹」(あをぞら)だ。背中につけているのは天使の羽根だろうか。台座の文字は石井獏によると言う。地名としての「自由が丘」命名の張本人の一人が石井獏だからだ。
     そしてそれは、昭和五年(一九三〇)手塚岸衛によって創設された自由ヶ丘学園に由来する。チイさんの案内を読むまでこんなことも知らなかった。自由が丘なんて、なんとなく戦後に作られた地名だと私は思い込んでいたのではないだろうか。

     現在の緑が丘地域とともに、江戸時代以来の字名「谷畑(やばた)」の名で呼ばれていたこの地に東横線が開通したのは、昭和二年八月のこと。開業した駅は、現在は隣り駅の名、「九品仏駅」と名付けられたが、それまで畑と水田と林に覆われた田園地帯であったこの辺りには、以後、にわかに商店や住宅が建ち始め、同年十一月には「谷畑」の大根畑の丘の上に、私立の学園も建設された。これが、「自由が丘」の地名の発端として知られる「自由ヶ丘学園」で、自由教育を旗印に手塚岸衛氏が創立したもの。
     さて、その二年後の昭和四年、大井町線が大岡山から二子玉川まで延長されるに際して、「九品仏駅」が同線上の実際の寺の表参道口に設けられることになり、先の駅名を改称する必要が起こってきた。そこで、新駅名採用に当たって熱心な要望活動を行ったのが、舞踊家石井漠氏をはじめとする先駆移住の文化人。電鉄側では既に新駅名を「衾(ふすま)駅」と内定していたが、結局、大井町線開通の直前、「自由ヶ丘」を駅名として採用することとなった。(「目黒区の地名」より)
     http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/chimei/seibu/jiyugaoka/index.html

     衾駅になっていたら、この街のイメージはまるで違ったものになっていただろう。「衾」は江戸時代の村の名である。
     折角だから手塚岸衛と自由教育についても調べてみたい。こういう風にまるで関係ないことに興味をもってしまうから作文が長くなる。

    手塚岸衛  栃木県生まれ。栃木師範学校を経て、東京高等師範学校卒業。福井、群馬、京都女子の各師範学校の教師を経て、一九一九年に千葉師範学校附属小学校の主事に任ぜられる。同校では教育の画一性を廃し、子どもの自発性、自主性を最大限に発揮させるという自由教育を提唱し、その名を全国に知られるようになる。一九二一年八月、東京師範学校の講堂で開かれた八大教育主張の大会で、「自由教育論」の演題で講壇に上った。その後、一九二六年、千葉県大多喜中学校校長となるが、配属将校の扇動によって校長排斥運動を生徒らが起こしたことが原因となり、辞職に追い込まれる。一九二八年、東京で、自由ヶ丘学園を創立するが、道半ばで病没する。(ウィキペディア「手塚岸衛」)

     昭和十年(一九三五)に手塚が死んで学園は経営難に陥った。昭和十一年(一九三六)、中学校部門は藤田喜作に引き取られて再出発し、「質実剛健の野草的教育」を目標に、青少年の教育に専念することを打ち出した。これが現在の自由ヶ丘学園高校につながっている。藤田喜作は社会政治学者で、法政大学などの講師を勤める傍ら、信濃自由大学にも関係している。
     幼稚園と小学校は小林宗作が引き受けてトモエ学園として活動した。黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』を読んだ人はトモエ学園を知っているだろう。日本で初めてリトミック教育の実践を行ったことでも有名だ。しかし戦災と小林の死によって廃校になった。
     日露戦争後から形作られる大正デモクラシーの潮流の中で、大正新教育運動(自由教育運動)が起こった。手塚はその論客の一人で、上の記事にもあるように、大正十年(一九二一)八月に行われた大日本学術協会主催の講演会で、「自由教育論」を講演した。演者八人によるこの講演は後に『八大教育主張』として玉川学園から刊行された。
     ほかの七人の演題を見れば、樋口長市「自学教育論」、河野清丸「自動教育論」、千葉命吉「一切衝動皆満足論」、稲毛金七「創造教育論」、及川平吉「動的教育論」、小原国芳「全人教育論」、片上伸「文芸教育論」という風になる。この中では片上伸だけが変わり種で、教育畑でない文芸評論家として登場している。
     世界的にも、イギリスのパブリックスクール改革、アメリカのドルトン・プランなど、ほぼ世界同時多発的に児童中心主義の教育思想が広まっていた。鈴木三重吉の「赤い鳥」、山本鼎の自由画運動、それに生活綴方運動も当然その影響を受けたものだろう。生活綴り方はプロレタリア芸術運動とも関係が深い。信州では特に『白樺』に影響された教員による改革運動が起こった。
     画一的な詰め込み教育を廃し、子供の自主性と創造性に基づく教育を目指すという点では基本的に変わらないが、論者それぞれに方法論の上で若干の違いがでてくる。手塚のキーワードは子供自身の「自治」と「自学」にあった。主著に『自由教育真義』がある。

    われ等は、知識技芸に対する自学自習、道徳訓練に対する自律自治、身体養護に対する自彊自育と、つとめて児童の自覚すなわち自由なる自己実現を本体として全教科に渉つて否単に教授の方面ばかりでなく、訓練も養護も、如何なる処に於いても眼光教育の全教育面に渉つて、何処を切つても血の出るような自学主義にまで改造すべきことを主張するのである。(手塚岸衛『自由教育真義』)

     澤柳政太郎の成城小学校、小原国芳の玉川学園、中村春二の成蹊小学校、羽仁もと子の自由学園、赤井米吉の明星学園、西村伊作の文化学院、あるいは土田杏村等による信濃自由大学など、それぞれの立場からさまざまな「新教育」が試みられたが、やがて昭和の軍国主義体制強化とともに、国家権力の圧倒的な干渉と弾圧によって敗れていった。但しそれが単に軍国主義に敗れただけだったのか、内容自体に問題がなかったかどうか、最近の「ゆとり教育」の失敗(と私は断定している)と比べて気になるところだ。
     私は子供の「独創性」だとか「自覚」なんて、実は信じていないのである。私自身は作文や読書感想文では酷く苦労した。夏休みの「自由研究」に至ってはまるでお手上げだった。私には独創性も自由な発想も全くなかったということなのだが、それを子供全体に押し広げるのは強引だろうか。独創も発想も、基礎的な学力なくしてどこに生まれるだろう。そして基礎学力を身につけるためには徹底的な反復訓練が必要ではないか。
     マッカーサー占領下では多くの教育改革が行われた。ちゃんと確認していないが、おそらく大正自由教育の流れの多くは、これによって復活したはずだ。ダンディが小学校時代、吉岡たすく教頭の指導で熱中していた児童演劇も、かつて成城小学校などで実践された「学校劇」運動(大正十三年、文部省通達により禁止)の復興だったと思われる。

     歩き出す前に余計なことを長々と考え過ぎた。住宅地の道は狭い。煙草を吸いながら歩いている男が結構目につくのは私だけの特殊な観察だろうか。梅沢富美男の株式会社富美男企画の会社の前には、女形の梅沢の写真を掲げた看板があって講釈師が賑やかになる。「自由が丘は目を瞑っても歩けるよ。」「口も噤んで欲しいけどね。」
     九品仏川緑道を過ぎると、やがて祭囃子と太鼓の音が聞こえてきた。最初の目的地の奥沢神社だ。世田谷区奥沢五丁目二十二番地一号。鳥居の前の道路には大蛇お練りの行列が待機しているので、まずそちらを見なければならない。藁で作った十メートルほどの大蛇を男たちが担ぎ、定刻になるのを待っている。神輿担ぎではなく、こうした大蛇を担いで練り歩くというのは初めて見るが、実は全国的に見ればそれほど珍しい祭ではなさそうだ。吉野裕子『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰』によれば、広島・鳥取地方の荒神祭では藁蛇が祭の中心で、それを担いで森まで練り歩き、定められた神木に巻きつけると言うから、似たようなものだろう。行列が待機しているあたりのビルの一階には、菰樽の上にとぐろを巻いた大蛇を載せた神輿も鎮座している。

    江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行して、病に倒れる者が多かったとき、ある夜この村の名主の夢枕に八幡大神が現われ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良い」というお告げがあったという。早速新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、たちまちに流行疫病が治ったという言い伝えがあり、これが厄除の大蛇として鳥居にからまり、大蛇お練りとして現在に伝えられている。蛇の形のものを作ってかつぎ歩く祭りは、全国的にあるが、都内では珍しい祭りである。蛇の形(水神の意)をかつぎ歩くことによって農耕に必要な水の確保や生産の順調なることを予祝する行事にほかならない。
    奥沢神社では毎年九月の第一日曜日に氏子が集まり、大蛇づくりが行われる。これは社殿に安置され、社殿にあった昨年の大蛇を鳥居にかけられる。そして九月十四日の大祭に大蛇お練りが行われる。(世田谷区教育委員会掲示)

     漸く大蛇が動き始めたので神社に入る。「エーッ、もう出ちゃったんですか。鳥居から出ていくかと思って待っていたのに。」今日の集合時刻がいつもより早かったのは、十時に始まるお練りを見るためだったのだが、チイさんが懸念していた通り姫にとっては「後の祭り」になってしまった。

     藁蛇のお練り見過ごす秋祭  蜻蛉

     鳥居の貫にも藁の大蛇を這わせ、長い尾は柱に垂らしてある。貫から出している頭は、お河童頭に大きな目玉をつけ、鼻の穴をひろげたように可愛らしい顔だ。顔はたぶん龍のつもりに違いない。狭い境内では露天商が幾組か準備を始めているし、手持無沙汰げに茫然と座り込んで煙草を吸っている連中もいる。神社の境内は禁煙かと思っていたが、テキヤならばそんな制限はないらしい。

     祭神誉田別命宇賀魂命
     世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したと伝えられる。(中略)
     社殿は昭和十五年に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。(世田谷区教育委員会掲示)

     誉田別命(応神天皇)は八幡神、宇賀魂命は稲荷神だから、もともとお稲荷さんだったところに、後から八幡を勧請してきたのだと思われる。稲荷神を祀った初めは分からない。また宇賀魂命は宇賀神(蛇神)として弁天と習合するので、岩を重ねて作った小さな洞窟に弁才天も祀られている。八幡小学校発祥の地碑がある。
     神楽殿では笛太鼓の練習の真っ最中だ。祭りの笛は賑やかでなんだか物淋しい。隅には獅子舞の獅子も控えている。先週頃からここ二三週間の間に、この辺の神社は秋の例祭を繰り広げる。桃太郎は縁起物の藁を数本手に入れて、リュックに差し込んだ。彼は実に信心深いひとなのだ。しかし短パンに大きなリュックを背負い、そこから藁が二三本伸びていると、なんだかおかしい。

     二三本わら刺すリュック秋祭  閑舟

     商店街を抜けると前方に亀屋万年堂のビルが見えてきた。目黒区自由ヶ丘一丁目一五番地一二号。「昔さ、巨人に国松って選手がいただろう。あれの嫁さんの実家なんだ。だからその縁で王さんがコマーシャルに出た。」講釈師はなんでも知っている。「王と国松は仲が良かったから、出演料は普通の半分位だったんだ。」「自由が丘なら私はナボナよりモンブランが好きだな」とダンディが主張する。私はどちらにも関係ない。

     今度は北に向かい、もう一度九品仏川緑道を横切て東横線を過ぎると熊野神社に着く。目黒区自由が丘一丁目二四番地一二号。「また自由が丘に戻ってきたのね。」この辺は目黒区、世田谷区が入り組んでいる。一の鳥居からかなり長い参道が続く。三の鳥居は朱塗りの両部鳥居。奥に見える拝殿も朱塗りだ。
     境内に入ってすぐ右側には栗山久次郎翁顕彰碑と銅像が建っている。この人は碑衾村長だった。碑衾村は明治二十二年の市町村制施行によって碑文谷と衾を合併してできた村だ。やがて衾西部耕地整理組合の組合長を勤め、自由ケ丘高校の誘致を決め、更に地名の変更まで決断したのである。

    だが、大正末期の地図で確認できるように、この地域はまともな道路もなく、あっても曲がりくねった農道があるだけで、このままではスプロール開発されてしまい、良好な住宅地とはならなくなってしまう。しかし、幸いなことにこの地域には良好な住宅地の見本ともいうべき存在があった。田園都市株式会社の展開する洗足住宅地、多摩川台住宅地(現、田園調布)である。先行するこれら良好な住宅地は、この周辺の地主達の区画整理事業の模範となったのである。
    その中の一つに、衾西部耕地整理組合があった。大正十五年(一九二六)一月七日に設立されたことからもわかるように、田園都市株式会社の成功を受けてのものである。組合長は、栗山久次郎。長年、碑衾村の村長を務め、当時は引退していたが、地域に顔の利く人物であった。彼の像が熊野神社内にある。
    http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2007/01/3_19f8.html

     「それじゃ地名を変えた悪人だ。」ダンディは地名変更には断固として反対する。私も基本的には同じことを考える。関東大震災後、西に膨張する東京府の人口を抱えるため、宅地化を進めるのはやむを得ない。しかし地名まで変えなくても良いではないか。埼玉県には男衾という地名がある。「そうそう、男衾。最初は読めなかった」とロダンが思い出す。「衾」はおそらくなだらかな丘陵地帯を意味するのだと思われる。
     実は同じ事情が隣でも起きていた。荏原郡衾村の耕地整理組合は理由は分からないが、東西に分かれて活動した。西部は栗山久次郎組合長によって自由が丘と改名された。東部の耕地整理組合長は岡田衛、やはり当時の大地主だと思われる。こちらもやはり衾を捨てて緑が丘の名を選んだ。
     手水舎には盆に懐紙が置かれ、飛び散らないように子を背負った蛙の文鎮で押さえてある。懐紙を用意している神社なんて初めて見る。それは良いのだが、蛙の子はオタマジャクシではないか。残念なことに、私はオタマジャクシを背負った蛙というのは見たことがない。神社のお守りには蛙が描かれているそうだ。称して「無事カエルお守り」と言う。「ロダンやスナフキンは買った方がいいんじゃないですか。」
     例大祭は九月第一日曜日に行われたようだ。神楽殿の周りにヨシズが何枚も乾かすように立て掛けられているのは、祭に使ったものではないだろうか。
     創建の時期は不明だ。鎌倉時代とも江戸時代とも言うというのは、実にいい加減で良い。谷畑の権現とも呼ばれるが、境内社に伏見稲荷が祀られてあるから、これも元は稲荷だったのではないだろうか。農村地帯だから五穀豊穣を司る稲荷を祀ったと考えたほうが自然だ。それに後から勧請した神が大きな顔をして、本来の祭神が小さな境内社になっている例は多い。
     ここでチイさんが今日の昼食の注文をまとめた。席は予約していてあるが、おそらく混雑が予想されるので事前に決めてくれと店に言われていたのだ。パスタの専門店らしいがご飯もあるので安心した。海鮮パスタはトマトソースかどうかなんて、チイさんが用意していない難しい質問が姫から出されたが、なんとか決まった。
     「そうだよな、こうやってちゃんと予約しなくちゃ。あの時なんかさ。」講釈師はいつになったら忘れるのだろうか。「一生忘れないわよ。五年経っても言われるからね。」マリーは講釈師と知り合ってまだ間もないのに、もう完全にその性格を把握している。それにしてもコンビニ弁当は一生の不覚であったと言わなければならない。

     自由ケ丘学園の東側の住宅地を歩きながら、「この辺は坪あたりどのくらいでしょうか。二百万位かな」と桃太郎がしきりにスナフキンに問いかけている。自由が丘に家を建てようというのだろうか。それにしてもスナフキンが土地の価格に詳しいとは思えない。代わりに調べてみると(http://jutaku-chishiki.com/soba/30693.htmlより)、自由が丘一丁目が坪当たり四百十六万円、二丁目が三百二十万円、三丁目が二百九十六万円であった。桃太郎は自由が丘に家を持つ事が出来るだろうか。
     大きな目印になるような建物がなく、住宅街だからどこを歩いても同じような景色に見えてしまう。道を覚えるのが難しそうな町だ。「教会が随分あるぜ。」スナフキンに言われて気がついた。確かに小さな教会がよく目につくのがこの町の特徴かも知れない。
     「あの交番、カワイイ。」目黒通りに入った角の白壁の小さなマンションの一階が、壁をピンクに塗った交番になっている。碑文谷警察署中根交番である。「あそこにいるのは警官じゃないんだ。」駐車違反摘発に外注業者が参入しているのは知っているが、交番までそうだとは初耳である。「人手が足りないから警察OBをパートで雇ってる。」この件については、本当なのか、それとも「講釈師見てきたような」話なのか、真偽は不明だ。

     「これが呑川本道緑道です。」「皆さんの道ですね。」そこから北に少し行ったところが八雲氷川神社だ。目黒区八雲二丁目四番地一六。旧衾村(現在の柿の木坂・東が丘・八雲・平町・中根・緑が丘・自由が丘・大岡山)の鎮守である。創建時期は不明で、「文化十八年(一八一七)よりかなり古い」と言っている。この辺りの神社は誕生時期が分からないものが多いらしい。
     「八雲って小泉八雲に関係ありますか。」「違います。」「『八雲立つ出雲八重垣妻籠みに』ですよ。」相変わらずダンディは詳しい。氷川神社に因んで地名を八雲にしたのだ。

     八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

     これは素戔嗚が歌って和歌の起原となったとされている。氷川神社の祭神は勿論素戔嗚尊、稲田姫(奇稲田姫、櫛名田姫)、大己貴命(大国主)。私たちは氷川神社については随分詳しくなっている筈だ。そして、小泉八雲とは「関係ない」と断言してしまったが、ハーンは出雲が好きで八雲の名前を付けたのだろうから、まるで見当違いと言う訳でもない。
     毎年九月十九日には剣の舞が奉納される。これは八岐大蛇の腹中から出た天村雲剣を象徴する。
     鳥居を潜ったすぐ左の地蔵堂には、やせ細った地像が立っている。石が溶け崩れたように、胴体が薄くなり、襞のように垂れ下がっているのだ。顔もまるで凹凸がなくなっているから幽霊のようでもある。信心のために多くの人が擦ったためだと説明されているが、石がこんな風に変形するものだろうか。
     「境内に講釈師がいます」とチイさんが言うので探していると、「これでしょう」とダンディが呼んでくれた。四隅を四人が担いでいる手水鉢だ。「これが天の邪鬼でしょう。」「違うよ、俺じゃない。」「チイさん、天の邪鬼の根拠はなんですか。」ロダンが訊いている。
     「目黒の名所旧跡」(http://meguroku-net.com/meisyo/jinja3/F8-1hikawajinja.htm)に、「あまのじゃくが四隅をかついでいる彫刻の水鉢等がある」とちゃんと書かれているので、チイさんが勝手に言ったのではない。「俺はこんな力仕事なんかしないよ。」講釈師はおかしな自慢をする。彼の役目はやはり青面金剛に踏みつけられる方らしい。
     垂髪にした童子のように、あるいは力士のようにも見える。頭で支えているから角は見えない。これは天の邪鬼かどうか。以前どこかで唐子四人が担ぐものを見たことがあったが、それと同じように、子供あるいは童子が担いでいる姿かも知れない。
     童子は人に非ざるものであり、より神に近い存在であった。世俗の倫理道徳に従わないことから、逆に言えば鬼にもなるし非人にもつながる。中世の絵巻物で神人(じにん)の姿を見れば、髷を結わない垂れ髪の童形をしているのが良く分かる。このことは宮本常一や網野義彦が頻りに言っていたことだが、簡単な解説が見つかったので引いてみる。

     「ケ」という日常の空間以外の「ケガレ」の空間に住居する人々は平安時代に寺社、貴族に従って都とその周辺に集まるようになってきた山僧、神人、駕輿丁、娼婦など非農業的生産(狩猟、漁労、商工業、金融など)にも携わっている人々である。
     彼らはまた「童子」と呼ばれ共通して童形であり、「童」の語源や歴史的なこの言葉の見解を考察することも必要である。さてそれでは、童形をした「童子」とはどのような人々で、社会のなかでどのような役割を担っていたのであろうか。
     「童子」は垂髪、乱髪で表されており、「京童」、「鬼童子」、「穢多童」などの他、「八瀬童子」、牛車を扱う「牛飼童」、寺院、神社やなどの下働きをする「堂子(「童子」、「童男」または「堂童子」)」、「神人(寄人)」なども童形である。(中略)
     「神人」は律令制のもとで「神奴、神賤」と呼ばれた人々で、平安時代末期から現れ、本社に属する「神人」を「本社神人」、末社に属する「神人」を「散所神人」という。彼らの役割もまた「堂子」と同じく社内外の掃除、警備、管理、保全、生活に関わる必需品の確保、神事の際の雑役なども役割として務めており、勿論、領地や領民の管理や把握なども行った。京都の祇園社の「犬神人」などが特に有名である。(伊藤信弘『穢れと結界に関する一考察』)
     (http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/24-1/itoh.pdf)

     しかし講釈師は「確か、ガマンとか言うんだよ」と頻りに首を捻っている。正確には思い出せないようだが、何か別のことを知っているらしい。これを宗匠が調べてくれた。

    『がまんさま』手水鉢をささえる四方の支柱になっている鬼の石像のことで、寛政年間に築かれたと伝えられる。
    この「がまんさま」は、長い年月苦難に耐え、同じ仕事に飽きる事なく手水鉢をささえているそのがまん強い姿から、人の道も努力・忍耐こそが開運を招く基であると論している。(http://www.kikunajinja.jp/gaman.htmlより)

     これは寛政年間に造られたという菊名神社の手水鉢のことなのだが、講釈師はどうしてこんなことまで知っているのだろう。その知識には驚いてしまう。やはり鬼であったか。しかし鬼に担がせて努力・忍耐による開運招福を教えるというのもおかしな話で、この説明には何か不自然なところがある。
     更に武州柿生(川崎市麻生区)の琴平神社にも「がまんさん」と呼ばれる同様のものがある。こちらは鬼ではなく山伏だと言うのだ。

    本殿の手水舎は「がまんさん」と呼ばれる四人の山伏が手水舎を支えています。これは我慢することによって物事の貫徹を願うもので、法悦の世界を意味しています。
    重い手水鉢を肩で支え、重圧に耐え忍ぶ、忍耐の尊さを諭しているのです。
    (http://www.kotohirajinja.com/sanpo.html#05)

     開運招福と、重圧に耐え忍ぶことの法悦(なんというマゾヒズム!)とは随分違った解釈だ。本当の由来は分からなくなっているのではないだろうか。鬼か山伏か、はたまた私の考える童子かは別にして、水鉢を支える四人組は「がまんさま」「がまんさん」と呼ばれることは確かなようだ。
     手水鉢の裏面左下には「芝伊皿子(寿)町 石工五兵衛」と彫られていた。( )内は良く分からないので推定した文字だ。明治十年代、伊皿子に和田五兵衛という石工がいて、馬込八幡の狛犬、万福寺の石塔、南馬込神明社の狛犬など、大田区のいくつかの寺社ものを作っているようだ
     拝殿の右に伸びる二階の渡り廊下の一部が、潜り抜けられるようになっている。しゃがむのは辛いので、心持首を横に傾げながら通って見る。奥にはかつての神木アカガシしか見るべきものはないのですぐに戻ると、後ろでドーンという大きな音がした。同じように潜ったはずのロダンが、戻る時にはすっかり忘れて頭をぶつけたのだ。それにしても大きな音だった。よほど痛かったろう。「頭上注意の字が読めなかったんでしょう」と碁聖が笑う。

     身を賭した『頭上注意』や秋暑し  閑舟

     「却って頭が冴えるかも知れない」なんて悪いことを言う人もいる。この時は誰も気づかなかったが、実は姫も頭をぶつけて、こっそり泣いていたのである。「だって資料を見ながら歩いていたから気付かなかったんだもの。」
     頭を押さえるロダンを見ながら、チイさんが秋の収穫物を配ってくれた。ユズが全員に、大きなサツマイモが女性陣に、それに山椒の実。ダンディも最中を配る。「最中を貰ってない人はいますか。」私は口を噤んでいるのに、「蜻蛉が貰ってない」と碁聖がわざわざ声をあげた。「そうか、無理やり押さえつけて口に押し込めばいいんじゃないか。」無茶苦茶なことを言うのは講釈師だ。
     桃太郎は頻りに短パンからはみ出た脛や脹脛の辺りを気にしている。蚊に食われたらしい。「カッコつけて短パンなんかで来るからだよ。」短パンがカッコつけたものか。「汗が好きなんですよ。」「酒の匂いに誘われるんじゃないの。」長袖シャツの宗匠は、「半袖も危ないよ」と笑っている。私も一か所刺されてしまったようだ。

     東光寺(曹洞宗)には吉良家菩提所の案内板が立っている。目黒区八雲一丁目九番地一一号。貞治四年(一三六五)に、吉良治家が子息祖朝の菩提を弔うために建立したのが始まりとされている。世田谷吉良については以前書いたことがあるので、ここでは繰り返さない。
     山門は新しくて立派だ。乳鋲のある扉に取り付けられた丸に二ツ引両の紋は足利氏のもので、吉良は足利庶流だから使っても良い。境内には七福神やモダンな道祖神などの石像が並ぶ。本堂の前には風神雷神が立ち、二宮金次郎までいるのだから賑やかなものだ。駒形の板石には、一番上に少し大きな像、その下に三人づつ四段に座像が彫られている。風化が激しくて判然しないが十三王だろうか。
     二十センチ程の高さの井戸枠には大きな四角い石の蓋が載せられ、ライオン(だと思う)が浮き彫りされていつ。蓋から外れた石枠のところに蛇口が付いているのがチイさんには不満だ。「できればライオンの口から水を出して欲しかった。だって外国じゃライオンの口から水が流たりするじゃないですか。」しかし、このライオンは平面だから、ちょっと難しいだろう。
     吉良家の墓所を探してみようと思ったが分からない。チイさんもそこまでは調べていなかった。私は途中まで行って諦めてしまったが、もっと奥まで行けば良かったのだ。下記の記事によれば一番奥にあったらしい。

    本堂左手に広がる墓地の奥に、吉良家墓所があった。古びた宝篋印塔が建っている。祖朝、七代城主頼貞、八代城主氏朝娘のものと伝えられるそうだが、刻まれた年号は江戸時代のものであるという。それでも、吉良氏に関わりの深い宝篋印塔であることに変わりはないだろう。http://ebarahist.exblog.jp/6482165/

     隣は常圓寺だ。目黒区八雲一丁目二番地一〇号。

    天正十八年(一五九〇)の創立。開山真乗院日信。開基檀越は小杉甚七(法号本理常圓信士)といい、姓と法号に因んで小杉山常圓寺となる。創立当初は碑文谷法華寺末であったが、不受不施派に対する幕府の弾圧が激しくなり、拠点となっていた法華寺が天台宗に改宗されたため、身延山久遠寺の直末として新しく出発する。
    http://www.tokyonanbushumusho.com/kobetsu/110.html

     日蓮宗不受不施派は江戸期を通じて隠れキリシタンのようにして生き延びる。しかしそれについては、第三回「谷中編」で感應寺(現天王寺)のところで調べておいたから、今日は繰り返さない。元の本寺だった法華寺というのは、後で行くことになっている圓融寺だ。身延山久遠寺は、法門を守るために(?)妥協した結果、受布施派として幕府に認められていたのである。
     妙見菩薩、七面大明神が祀られているのは日蓮宗の特徴でもある。七面の方は七面観音とも言う。観音であって明神でもある。まさに神仏習合の見本のようなものだ。八百屋お七は確か谷中の七面大明神にあやかって名付けられた筈だ。
     本堂からは題目を唱える声が聞こえる。声の調子からして僧侶の声に間違いはないが、経文を読むのではなく、ただ「南無妙法蓮華経」の題目を繰り返しているだけだ。「これだけ覚えれば良いんなら楽だね」とチイさんが笑う。それなら一向宗の「南無阿弥陀仏」の六字名号の方がもっと簡単だ。

     右手の角に北野天神を見ながら「めぐろ区民キャンパス」に入っていく。入り口脇に「天神坂」の標柱があるのは、そこの北野天神に因むのだろう。ここは元東京都立大学のキャンパスだったところだ。大学自体は平成三年に八王子に移転した後も、都立大学駅は隣の学芸大学駅とともに大学の名を残している。「府立東京高校ですね。公立の旧制高校は少ないんですよ。」こういう事情はダンディが一番詳しい。良い機会だから整理してみた。
     官立の高等学校は、第一から第八までのナンバースクールに、山口から富山まで地名を採用したものを加えて全部で十九校になる。旅順高校を除いてすべて新制国立大学に移行した。これらは三年制の学校である。
     七年制(尋常科四年、高等科三年)、つまり中高一貫の学校が、官立で東京高校(新制の東京大学に吸収)、台北高校の二校、公立では富山県立高校、大阪府立浪速高校、府立東京高校の三校あって、この府立東京が都立大学の前身である。私立では武蔵(根津財閥)、甲南(阪神地区財界)、成城(澤柳政太郎)、成蹊(三菱)の四校を数えた。これに宮内省直轄の学習院(中等科五年、高等科三年)を加えたものが、戦前の高等学校の全体像になる。
     実はこのほかに戦後特設高校というものが八校あった。旧制の医専、歯専のうち、GHQの要求する大学昇格の基準に満たないB級校と判定され、しかし新制高校にする訳にもいかないため、在校生が卒業するまで一時的に旧制高校に変換したものだ。
     その中に秋田女子医専があり、旧制秋田県立秋田高校になっていたというのも初めて知った。そもそも秋田に女子医専があったことさえ知らなかったが、昭和二十年四月開校というから戦争末期の医師不足への泥縄式の対応だったことが分かる。秋田県関係者は県立医大への昇格を期待したが叶わなかった。旧制と新制とが入り混じった時代で、旧制秋田中学が新制高校として発足したとき、秋田高校を名乗れず秋田南高校にならなければならなかったのは、そのせいだった。戦後特設高校としての旧制秋田高校が昭和二十五年に廃止され、ようやく現在の秋田高校に変更できたのであった。
     時代は下り、行財政改革の流れに沿って国立大学が独立行政法人に変わると、都立の四大学(都立大学、都立科学技術大学、都立保健科学大学、都立短大)も整理統合を迫られた。私はこの「独立行政法人化」についても反対の意見をもっているが、ここでは言わない。大学関係者によって大学改革構想の議論が積み重ねられてきたが、石原慎太郎が都知事に就任すると、それを一方的に破棄して首都大学東京を作った。
     慎太郎によって「役に立たない」と見なされた学科は潰され、教員の多くが流出した。経済学系教員は二十五名中、六割が外に出た。人文学部からは三十五名が転出あるいは新大学への就任拒否をした。文学なんて何の役に立たないのである。『太陽の季節』で衝撃的なデビューを果たした作家の、実際の頭脳の中身はこれであった。旧制七年制府立高校以来の伝統をもった大学は、慎太郎によって破壊されたのである。

     それはともあれ、都立大学の旧キャンパスが今では区民に開放されていて、私たちが目指すのはパーシモンホールである。八雲中央図書館、八雲体育館、大ホール、小ホールで構成される目黒区の文化施設だ。チイさんその中のレストラン「コミューンナチュレ」を予約してくれていた。十二時少し前だというのに、私たちが入ると小さな店内は満席になってしまった。
     注文はすでにリーダーから連絡を入れてある。「新鮮な野菜をふんだんに取り入れたイタリアンです」と言うのが店の謳い文句だが、私はご飯を食わなければならないからハンバーグランチ(千二百円)にした。カレー(千百円)が五人ほど、千百円のパスタAと千三百円のパスタB(海鮮)が半々ほどだろうか。これはすべてドリンク付きの値段である。それにダンディは白ワイン、桃太郎は赤ワイン、姫はカンパリ(?)をつけた。昼から酒を飲む人がいるのは信じられない。
     レタスのサラダが最初に出され、どの料理にもゴーヤ、ピーマンなどの夏野菜があしらってある。パスタにはパン(バゲットと言うものらしい)が一切れついていて、碁聖、チロリン、クルリンはパンで満腹になってしまって肝心のパスタを大量に食べ残してしまった。「このパンが余計でした。」
     出る順序がおかしいのである。最初にレタスが出て来た。少ししてパンが出る。腹の空いた人はパンを食べてしまうのは当然だ。パスタが出て来くるまでには更に暫く時間がかかった。つまり、メインの料理が出るまでに腹が膨れてしまうのである。私はパスタを喰う者ではないから正式な手順というものを知らないが、こういう出し方は如何なものだろうか。
     但し「パスタはまあまあの味で満足だ。セットのフランスパンも好みのからっとした味だった」という宗匠の証言を書いておかなければ片手落ちだろう。カレーもかなり辛いが美味いという証言もあった。
     出発は一時と決められたので、食後はホールで開かれている津軽三味線と民謡の大会をちょっと覗いてみた。ちょっとだけだが、イメージにある津軽三味線の豪快なバチさばきとは違って、ごく普通の民謡の伴奏をしていた。たぶん、もっと時間が経たないと本格的な演奏には入らないのだろう。

     この辺りは柿の木坂一丁目だ。「柿の木坂は駅まで三里。どこの駅でしょう。」ロダンが講釈師に尋ねて知らないと言われた。「知らないよ、二郎さんに聞いた方が良い。」坂上二郎は青木光一の付き人だった。私は渋谷ではないかと言い、ダンディが目黒じゃないかなと言う。
     「どんな曲だったかしら。」「私はそんな歌は知らないな。」昭和三十年代は歌謡曲の黄金時代だったが、ダンディの関心範囲には全く入っていない。碁聖も何も口にしないから知らないだろうか。碁聖の関心はおそらくプレスリー以前のポピュラーソングにあっただろう。ヨッシーは知っていた。

      春には柿の花が咲き
      秋には柿の実が熟れる
      柿の木坂は駅まで三里
      思い出すなア ふる里のヨ
      乗合バスの悲しい別れ (石本美由起作詞、船村徹作曲『柿の木坂の家』)

     昭和三十二年に青木光一が歌った歌である。「アッ、そうでしたね。同じ青木光一の『早く帰ってコ』と勘違いしてました。」。
     「駅まで三里って、どこの駅ですか。」今それを議論していたばっかりなのに、追いついてきた桃太郎が同じことを訊いてくるのがおかしい。柿の木坂は、東京ではないどこかの田舎ではないかというのが姫の意見である。

     昼下がり三里の道に汗拭ふ  蜻蛉

     ちょっと考えれば東京ではないことは明らかだった。「乗合バスの悲しい別れ」である。たかがバスに乗るのに「悲しい別れ」はない。恋人を残して男は三里離れた駅から東京行きの列車に乗り込んだのである。敗残の(と断言するのは強引すぎるが)東京生活で望郷に身を焦がすのは、春日八郎『別れの一本杉』(高野公男作詞、船村徹作曲)でお馴染みの、昭和三十年代特有の心情だった。歌謡曲黄金時代は、同時に「ふるさと歌謡」全盛時代とも言える。日本の高度成長を支えた陰の心情でもある。「嫁にも行かずにこの俺の帰りひたすら待っている」(『別れの一本杉』)と思いたいが、その彼女は既に他人の嫁になっているに違いない。
     こんなことは余計なことだったが、疑問はひとつづつ解決していかなければならない。柿の木坂が東京の地名ではないという証拠が見つかった。

    広島県大竹市出身の作詞家、石本美由起さんが亡くなられ、中国新聞にこんな記事が出ていました。
    柿木は大竹市の石本美由起さんの家の木、坂道は広島県廿日市市から旧佐伯町への汐見坂、明石峠(津和野街道)をイメージされたものだそうです。そういえばちょうど「駅まで三里」くらいです。(明石峠からJR廿日市駅まで)
    http://tsuwano.sblo.jp/article/30046280.html

     呑川柿の木坂支流緑道を経由して西に向かう。それ程緑の多い道というわけではない。それほど広くない範囲に緑道(つまり暗渠化された川)がいくつもあるのは、農業用水が張り巡らされていた農村地帯だったということだ。「排水路ですよね。」「違います。農業用水路です。」
     環七を横切り少し行くと竹藪が見えてきた。左手正面にはサレジオ教会の塔が見えるが、そこに行くのはまだ後になる。竹藪は「すずめのお宿緑地公園」だった。目黒区碑文谷三丁目一一番二二号。小さな女の子が両手で雀を抱き、足元に五羽の雀が集まっている銅像が建っている。

    この付近は昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群をなして帰ってくることから、いつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。
    この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。
    その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区がこれを国から借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として、使用することができるようになったものです。

     「セイさんは良い人ですね。吉本せいもそうだし、私もセイさんですからね。」ダンディがおかしな自慢をする。それにしてもダンディが「セイさん」ですか。吉本せいは山崎豊子『花のれん』のモデルだが、単純に「良い人」だったとは思えない。「私、そのひと知りません。」「吉本興業ですよ。」姫が吉本興業創立者を知らないのは意外だった。
     吉本せいが遣り手の興行主であったのは確かだろう。立志伝中の人物だと言っても良いが、私の知っているのは笠置シズ子と吉本せいとの確執である。後継者と定めていた長男が年上の女芸人風情と結婚するのをせいは絶対に許さなかった。せいの断固たる反対にあって笠置シズ子は吉本頴右(せいの息子)と結婚できず、頴右が二十四歳で急死した数日後に子を出産し、苦労して育てたのは有名な話だ。

    妊娠中の舞台『ジャズ・カルメン』を最後に、一旦は引退を考えたものの、服部良一や榎本健一をはじめとした周囲の励ましもあり、歌手生活の続行を決意。乳飲み子を抱えて舞台を努める姿は、当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれた生活のために止むを得ず売春を行う女性たちに深い共感を与え、笠置の後援会はほとんどがそうした女性たちによって固められていた。(ウィキペディア「笠置シズ子」より)

     移築復元されている古民家は栗山家の母屋だ。栗山と言うのは、午前中に銅像を見た碑衾村長の一族であろう。「悪人の家ですね」と言うひともいる。桁行七間半、梁間五間、広間型平面、寄棟造り。江戸時代中期の建造で、安政四年(一八五七)に大きな改築が行われた記録が残る。屋根は消防法の規制によって本来の茅葺を銅板葺きに変えてある。これは佐倉の武家屋敷でも同じだった。元からある家なら良いが、移築する場合には茅葺は許可されないということだろうか。
     土間に据えられたかまどを見て、ロダンが「かまど」と「へっつい」の違いは何かと言いだした。「水戸の方じゃ、持ち運べるものをへっついと言いましたが。」私は同じものを言う方言の違いではないかと思っていたのに、改めて言われると不安になってくる。
     「三木助の『へっつい幽霊』はご存じでしょう。」碁聖も落語の愛好者であったか。ロダンが嬉しそうに、「そうです、三代目の、芝浜の三木助ですよね」と相槌を打つ。三百両だったかな、その大金をへっついに埋め込むのだから、簡単に持ち運びできるものではないだろう。正解は下記の記事になるのではないか。

    カマドは漢字では「竈」と書き、上にお鍋や釜を載せ食べ物などを煮炊きするときに使う施設(道具)のことをいいます。また、カマドの他に「へっつい」や「くど」とも呼ばれています。カマドは釜を載せる所という意味(釜所=かまどころ)で、「へっつい」とは、へつい「竈(へ)つ霊(ひ)」(かまどを護る神様)という言葉が促音(そくおん)化したものでです。また「くど」はもともとカマドに取り付けられている煙の排出部分のこと指す用語でした。これは「竈」という字を分解してみると良くわかりますが、穴+土+黽(べん=カエル)となり、土の部分にあけられたカエルの(巣穴のような)穴、まさしく煙道(えんどう)の姿がうかがえます。「へっつい」「くど」のどちらの言葉も、どういうわけかもともとの意味はさておいて、カマドそのものを指す呼び名として使われるようになっていったようです。
    http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/knowledge/detail.php?seq=33

     「真っすぐ伸びてるだろう。」竹林は間引きが充分に行われているから、広々とした空間に竹がまっすぐ伸びている。こういうのは気持ち良い。「この筍は旨くない。堅いんだよ。」講釈師が断言するから本当なのだろう。私は目黒が筍で有名だったと言うのも知らなかった。戦前までは練馬の大根と並び称されたと言う。

     目黒なる筍飯も昔かな  虚子

     竹林の間を竹の柵で仕切って歩道を通してある。その柵を触っていたヨッシーが「コンクリでした」と笑う。残念なことだ。竹林の奥の方には簡単なアスレチックコースもあって、子供たちが遊んでいる。ツクツクボウシが盛んに鳴いている。

      真直ぐに伸びる竹林法師蝉  蜻蛉

     公園を出ればすぐに碑文谷八幡宮がある。目黒区碑文谷三丁目七番三号。畠山重忠の守護神を祀ったのが始まりと言われている。拝殿の正面はガラス戸で中が見える仕掛けになっている。欄間には七福神が彫られている。その右隣りには、「碑文石」が展示されているのだが、ガラスの向こうだから良く見えない。「神社なのに仏教に関係することがいっぱい書いてある」とチイさんが不思議そうな顔をする。

     この碑文石は、碑文谷の地名の起こりとなったともいわれ、当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として、大切に保存に努めてまいりました。 碑文を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。碑文石の近くの呑川の川床に露出いていた上総(三浦)層群の砂岩で、普通、沢丸石とよばれる石を材料としています。の上方には、中央に大日如来(バン)、左に熱至菩薩(サク)、右に観音菩薩(サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子の板碑の一種とみられます。高さ七五センチ、横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、下部が下脹れのやや角張った形をしております。碑文石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたものと伝えられ、大日と異系の二種子を会わせて表わしているので、恐らく、室町時代のものとみられます。江戸時代の名著「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。

     桃太郎が、砂岩はどうして出来るのかなんて難しい質問をロダンにしている。緑泥片岩の板碑はお馴染みだが、砂岩の板碑は珍しい。それにしても大日如来の板碑を「信仰の遺物として」八幡宮が大切にしていたのは不思議ではない。そもそも八幡大菩薩の名がある通り、もっとも早い時期に仏教と習合した神格である。「総本社は九州ですよ。」ダンディの言う通り、豊前国宇佐八幡である。
     東大寺の大仏建立事業はなかなか進展しなかった。莫大な経費と人夫の調達に苦労し、それまで反国家的な存在と見做していた行基の力をも借りなければならなかったが、その時、八幡神は仏教護持のためにわざわざ九州からやってきた。

    われ天神地祇を率しいざなひて、成し奉つて事立て有らず。銅の湯を水と成すがごとくならん。我が身を草木土に交へて、障へる事なく成なさん。

     日本中の神々を率い、全力をあげて大仏建立に協力すると言うのだ。宇佐地方は余程財力が豊富だったか、あるいは鋳造技術に秀でた技術集団がいたのではないか。大仏が完成した時、八幡神は(実は八幡を祀る禰宜尼)、天皇皇后が載るのと同じ神輿に載って、大仏を参拝するのである。これが祭における神輿の始めとされている。
     「八幡様はどこにでもありますね。一番多いんじゃないでしょうか。」「数から言えばお稲荷さんかな。」私も稲荷神社が最も多いだろうと思っていた。しかし神社本庁の調査(平成二年から七年)によれば、一位は八幡信仰(七千八百十七社)、二位は伊勢信仰(四千四百二十五社)、三位は天神信仰(三千九百五十三社)、四位は稲荷信仰(二千九百七十社)と、意外な数値になる(http://naka-se.com/yogumi/sight/jinja/kazu.htmlより)。しかしお稲荷さんなんか、正式に神社本庁に届けないものも多いだろうから、小さなものまで含めればこの何倍にもなると思われる。
     「ここにも小学校の碑がありますね」と姫が注意してくれた。なる程、「碑小学校創立の地」碑が立つ。これは「イシブミ小学校」と読む。
     「お待ちかねのサレジオ教会です。」目黒区碑文谷一丁目二六番地二四。カトリック碑文谷教会。正式には江戸のサンタ・マリア聖堂と呼ぶらしい。

     一九四八年三月、サレジオ修道会がこの地に宣教拠点を置き、完成した二階建て司祭館の一階を聖堂にして、着任した故ダルフィオル神父によるミサ聖祭が始まった。
     翌年に幼稚園が併設され、一九五四年 現在の教会堂が建設された。建設途中、東京国立博物館のキリシタン遺物の中に最後の潜入宣教師シドッティ師(一七〇八年屋久島に渡来)の所持品である聖母画が発見された。この聖母画を「江戸のサンタマリア」と名づけ、教会をこの聖母に捧げ、保護者とした。聖母画は献堂式にあたり、四ケ月間当教会に特別展示され、現在はそのレプリカが教会入りロに掲げられている。
     聖堂はロマネスク様式で、イタリア産の大理石が荘厳な落ち着いた雰囲気をかもしだしている。教会建設のためにイタリアの多くの人々の協力支援がなされた。故フェラリ修道士の力作である壁画や天井画は祈りの雰囲気を作り上げ、近年入れられたステンドグラスはキリストの生涯や、聖書や教会のシンボルなどを見事に映し出している。http://www.tokyo.catholic.jp/text/shokyoku/himonya.htm

     この説明を読む限り、掲げられているマリア像はシドッチが持参したものである。しかし不審なことがある。ウィキペディアにも、カルロ・ドルチのマリア像「悲しみの聖母」(江戸のサンタ・マリア)が内部に掲げられていると書かれている。
     シドッチが所持したマリア像は新井白石の眼にも当然触れていて、『西洋紀聞』にそのスケッチが描かれ、「異国人に相尋候處、さんたまりやと申宗門之本尊之由申候」と注記してある。袖から左手を出し、指は五本ちゃんと見えるので、「悲しみの聖母」と呼ばれるものに間違いない。四十代程の女性の像で、限りない憂いに満ちた表情だと白石は観察した。
     ところがサレジオ教会にあるのは、袖から親指一本だけを出す「親指の聖母」と呼ばれるもので、「悲しみの聖母」のヴァリエーションである。この辺の事情はどうなっているのだろう。シドッチが二種類のマリア像を所持していたのなら、『西洋紀聞』にも二種類のスケッチが残されていなければならないのではないか。
     バザーが開催されているようで、教会の奥の方には人が集まっている。私は教会というのが簡単に中に入れるとは知らなかった。入口を入ったところに「親指の聖母」が掲げられている。教会の中をじっくり見学するのは初めてのことだ。スナフキンはカトリック教会で結婚式を挙げているから珍しくもないらしい。ステンドグラスが美しい。ただ私はこういう宗教的な雰囲気はあまり得意ではない。どういう行動をしたらよいのか分からない。
     「カトリックでも新約聖書を読むんですか。」桃太郎がプロテスタントの姫に不思議な質問をしている。カトリックとプロテスタントは、新約旧約の区別ではないのだけれど。「カトリックの堕落ですよ」と姫が簡単に答えている。
     ルネサンス時代のローマ法王庁の堕落腐敗については、塩野七生のいくつかの作品を読んでみれば良い。実に無茶苦茶である。これは改革しなければいけないと改革派は考え、プロテスタントが生まれた。しかしその実現のためには、印刷された聖書が出現したことが大きかったのである。これによって、直接聖書を読む層が生まれた。それまで聖書は教会の聖職者しか読んではいけなかったのである。「直接と間接の違いです」とも姫が応えている。ひとは神と直接契約するに耐えるほど強くはない、そのために仲介者としての教会があるというのがカトリシズムの言い分だった。(遠藤周作で読んだのだったかな。)
     出て歩き始めると、すぐそばにエホバの証人の教会があった。「あれもキリスト教ですか。」桃太郎の質問を「私は違うと思います」と姫は一言の下に撥ねつける。ここから思いがけずに宗教論議が始まった。
     聖書を教義に採用しているからには、キリスト教系の新宗教であると言えなくもない。モルモン教もそうだろう。「統一教会はどうなんでしょうか。」正当なクリスチャンなら、これらの新宗教をキリスト教系と言うだけでも嫌がるだろう。私自身も、勿論これらの新宗教は怪しいものだと判断しているのだが、それではその判定基準はなんだろうか。
     新旧の宗教について、それが怪しいかどうかの判定をどこにも求めればよいか、実は私にはまだ基準がない。キリスト教自体が、多神教世界であるローマ帝国で初めて唱えられた時は怪しいものと思われたのである。日本でも鎌倉新仏教までは認めても、天理教などの幕末維新期の新宗教は認めないと言う人も多い。歴史に耐えたものが正当で、歴史が浅ければいかがわしいか。しかしどんなものにも始まりというものはあるのである。
     取りあえず、少なくとも、終末論を盾に恐怖を煽り、他者への容赦ない敵愾心を産みつけるようなものはヤバイ。信仰と言うものを持たない私には今のところこれしか言えないようだ。
     新井白石は、シドッチ(白石は「シロウテ」と書いている)の説明する、神による天地創造を荒唐無稽だと断じた。神が世界を作ったのなら、その神はだれが作ったのか。要するにバカバカしくて話にならないと言っているのだ。そして私も白石と同じことを言っても良い。
     「宗教は人民の阿片です。マルクスは経済学では零点でしたが、思想家としては大したものです。」これはダンディの判断である。

    宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片である。(マルクス『ヘーゲル法哲学批判論序説』)

     マルクスの言うのが正しければ、世界には「現実的悲惨」が満ち溢れ、「現実的悲惨にたいする抗議」が必要なのである。これは日本人の、特に神仏混淆時代の日本人の感覚とはちょっと違うようでもある。ただ日本歴史に当て嵌めれば、中世の一向一揆に結集した民衆の状態は、これに近かったかも知れない。そしてイスラム。マルクス主義はこの状態を解決できなかった。

     天台宗圓融寺。目黒区碑文谷一丁目二二番地二二号。山門をくぐって境内に入ると大きな仁王門が建つ。三間一戸、八脚、入母屋造り、茅葺。金剛力士は「碑文谷の黒仁王」として親しまれた。

    この仁王像の作者や作成年代が判明したのは、実はごく最近になってのことです。長きにわたって庶民の篤い信仰を得ていた理由から、仁王像の修復はずっと躊躇われてきましたが、昭和四十二年(一九六七)についに解体修理の決断が下され、碑文谷仁王修復協会が設立されました。
    その翌年、撥遣式(御魂をぬく儀式)の後に解体作業を行なうと、なんと吽形尊の体内から、圭頭形をした木札が出てきたのです。その木札は、長さ七十二センチ、上部幅十センチ、下部幅十・五センチ、厚さ〇・五センチで、表と裏に銘文が記されていました。そこには、この仁王尊像が日蓮宗時代の法華寺(現、圓融寺)第八世の日厳上人が願主となって永禄二年(一五五九)鎌倉扇谷住の権大僧都大蔵法眼によって作られたことがはっきりと記されており、長い間の疑問は一時にして氷解されたのです。http://www.enyuu-ji.com/aboutus/kuronioson.html

     寺は仁寿三年(八五三)、慈覚大師の創建になるという。目黒には、目黒不動やその周辺の小さな寺院も含めて、慈覚大師(円仁)創建の由緒を持つ寺院が多い。弘安六年(一二八三)、日源上人によって日蓮宗に改宗し法華寺を名乗って四百年続いた。弘安六年と言えば蒙古襲来の二年後である。国家的な危機感が充満していた時期だろう。
     不受不施派の弾圧によって元禄十一年(一六九八)再び天台宗に改められた。寺の名は法華寺のままだったが、天保五年(一八三四)に現在の圓融寺に改められた。だから『江戸名所図会』や『武江年表』には法華寺として書かれている。

    仁王門 金剛・密迹の二像は仏工安阿弥の柵なりといへり(霊威もつとも著きがゆゑに、世人尊信す。いかなるゆゑにや、寛政紀元の己酉(一七八九)の頃より、後十二年ばかりの間霊験著しとて、しきりに都下の人郡参して道もさりあへざりしが、いつしかそのこと止みたり(『江戸名所図会』)

     一時はかなり流行ったらしい。山東京伝『碑文谷利生四竹節』は、醜男の艶太郎が碑文谷の仁王に祈願して、美男子の仮面を授かるという話である。但し流行った期間は十二年ほどだというから、江戸の流行神の寿命は意外に短いのである。
     仁王門から真っすぐ突き当たったところが釈迦堂だ。室町時代初期に建てられた釈迦堂は都区内最古、少し広げて「都内」では二番目に古い。その奥には、これも立派な阿弥陀堂が建っている。梵鐘は寛永二十年鋳造のものである。なかなか立派な、さすがに古刹と言うべき寺である。
     日源上人五重石塔というものも立っている。高さ一丈余り。寛永十三年(一六三六)の建立で、文化十一年(一八一四)の再興と言う。おそらく不受不施派の弾圧でいったんは破壊されたのではないだろうか。文化の頃にはその禁制が緩んできたものか。
     仁王門を出るとき、草鞋や草履がいくつもぶら下げられているのにロダンが気付いた。「あれは何のためですか。」「脚が丈夫になるんだよ。」講釈師は一言の下に断定する。「大きな草鞋が掛けられているのを見たことないかな。」「そう言えばありますね。」

     すぐにチイさんが立ち止ったのが正泉寺だ。碑文谷一丁目八番一四号。門前には「名墓式亭三馬・羽倉簡堂」標柱が建つ。羽倉簡堂は知らなかった。天保の改革で水野忠邦に重用されたようだ。
     三馬は安永五年(一七七六)に生まれ、文政五年閏一月六日(一八二二)に没した。

     辞世  善もせず悪も作らず死ぬる身は 地蔵も笑わず閻魔叱らず   三馬

     チイさんは下見のときに偶然に見つけたらしい。もともとは深川の長源寺にあったもので、関東大震災で被災してここに移された。「式亭三馬墓」の台座に「本町庵」と赤く彫られているのは、三馬の別号である。その上には赤でひらがなの「る」のような記号(文字?)がある。梵字かと思ったが、「馬」の略字かも知れない。

     三馬の碑話題の尽きて鉦叩  閑舟

     三馬なんて『浮世風呂』を書いたと教科書で知るだけで、実際には良く知らない。出だしだけでもちょっと読んでみようか。文化六年(一八〇九)から十年(一八一三)にかけて刊行された四編九冊の滑稽本である。

    熟監るに、銭湯ほど捷径の教諭なるはなし。其故如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴んとて裸形になるは、天地自然の道理、釈迦も孔子も於三も権助も、産れたまゝの容にて、惜い欲いも西の海、さらりと無欲の形なり。
    欲垢と梵悩と洗清めて浄湯を浴れば、旦那さまも折助も、孰が孰やら一般裸体。
    是乃ち生れた時の産湯から死だ時の葬潅にて、暮に紅顔の酔客も、朝湯に醒的となるが如く、生死一重が嗚呼まゝならぬ哉。
    されば仏嫌の老人も風呂へ入れば吾しらず念仏をまうし、色好の壮夫も裸になれば前をおさへて己から恥を知り、猛き武士の頸から湯をかけられても、人込じやと堪忍をまもり、目に見えぬ鬼神を隻腕に雕たる侠客も、御免なさいと石榴口に屈むは銭湯の徳ならずや。
    心ある人に私あれども、心なき湯に私なし。譬へば、人密に湯の中にて撒屁をすれば、湯はぶくぶくと鳴て、忽ち泡を浮み出す。
    嘗聞、薮の中の矢二郎はしらず、湯の中の人として、湯のおもはくをも恥ざらめや。
    惣て銭湯に五常の道あり。湯を以て身を温め、垢を落し、病を治し、草臥を休むるたぐひ則仁なり。

     「やっと江戸歩きの面目が立ちました。」自動販売機でお茶を買っていて遅れてしまった。宗匠が振り向いて「少しゆっくりにしようか」と声を掛けてくれるが、疲れているわけではない。立会川緑道は、両側の車道より一段高くなって、道路の真ん中を通っている。かつては道の真ん中を川が流れていたのだ。それにしても一段高くしてあるのは何故だろう。「不思議ですよね。」姫も不思議そうにする。
     右に曲がれば商店街だ。街路灯には祭提灯がぶら下げられている。「あそこから町が変わるんですね、街灯の形が変わります。」左に曲がると更に活気のある長い商店街だ。「にこま通り商店街」と書かれている。「いいですね。アッ、お魚も焼いてくれるんですね。」小さな店が延々と続いていて、しかもそのどれにも客が入っている。こういう商店街はなかなかお目にかかれない。駅前まで真っすぐ続き、更に先にはアーケードが続いている。

     賑はひの商店街に秋日射し  蜻蛉

     まだ三時だ。リーダーの予定より一時間も早いが、見るべきものは見ただろう。駅ビル三階のサイゼリヤで時間調整を兼ねてお茶を飲む。階段を上がれば、四五人が先に入って交渉している。空いていないのだろうか。「喫煙席しかありませんが。」「勿論OKです。」「いいタイミングで来るわね。」ドリンクバー二百七十円なり。
     ここでチイさんが、事前に配布してくれた案内文を取り出して絵解きを始める。タイトルの左端に王様の絵の切手のイラストが貼られている。「江戸歩きに相応しくないと思うでしょう。実は深い意味があるんです。」そのココロは、王はキングである。「オーキング、ウォーキング、ネッ。」「なんだ、それは。」「苦しすぎる。」「座布団二枚になりませんか。」「ダメダメ。」チイさんは今日のために五回も下見を繰り返した。その努力には感謝しなければならないが、それと座布団は別のことだ。
     今日のコースは、ロダンと宗匠の万歩計で一万五千歩である。腰が痛い私が余り疲れていないからには、十キロには程遠く、せいぜい八キロ程度ではないだろうか。

     さて今日はどこに行くべきか。恵比寿ならさくら水産がある。目黒にはないと思うのだが、桃太郎が携帯電話で検索して目黒にもあると言う。それなら目黒の方が何かと便利だ。講釈師、チロリン、クルリン、マリーは目黒で別れた。まだ四時にはちょっと時間がある。「大丈夫かな。」「四時前だって開いているだろう。」
     しかし、ケイタイ画面の地図の通りに歩いてもさくら水産は現れない。「おかしいな」と戻りながら桃太郎が商店で訊ねると、もう閉店してしまったそうだ。なんだ。しかしそれが未だにネット情報に載っているのでは、そのサイトの信頼性に欠ける。やはりロダンはさくら水産の店舗一覧表を常に携帯していなければならない。「すみません、今日は忘れちゃって。」
     たまたま目に着いたのがサンマを目玉にした居酒屋「酒蔵駒八」である。「何といっても目黒のサンマですからね。」それなら入らずにはいられない。「私はサンマはダメです。」姫はなかなか難しい。
     九月四日のさんま祭りには、例年通り宮古からサンマが届いたとニュースで見た。ところで、「目黒のさんま祭り」を企画実行しているのは、品川区「目黒駅前商店街振興組合青年部」である。目黒駅は品川区上大崎にあったのだ。
     サンマの塩焼きは六百五十円、少し高いがこのご時世ではやむを得まい。ヨッシーは器用にサンマの身をほぐして中骨を抜き取る。男四人が一匹のサンマの身を食べ尽くし、ダンディは残った頭まで食ってしまうから、一本の細い骨しか残らない。サンマの食べ方の模範である。こういう風に食べていると、佐藤春夫「秋刀魚の歌」のような物思いをしている暇がない。ひとり二千八百円なり。

     江戸歩き秋は目黒のサンマかな  千意
     品川の「目黒のサンマ」骨一本  蜻蛉

    眞人