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    第三十七回 三田・芝の浦編
                      平成二十三年十一月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.11.19

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     昨日は終日雨が降って寒い日だったが、うって変って小春日和になった。そのせいもあるだろうが、田町駅西口には二十人が集まった。「最高記録じゃないかな、ねえ」と碁聖が話しかけてくるが、確か二十三四人集まった会もあったと思う。「宗匠の企画だから晴れた。蜻蛉だったら絶対雨だったね」と画伯がいつもの科学的根拠の全くない冗談を言う。
     集まったのは、今日のリーダー宗匠、画伯、ロダン、チイさん、桃太郎、碁聖、トミー、スナフキン、ダンディ、講釈師、ヨッシー、あんみつ姫、チロリン、クルリン、シノッチ、マルちゃん、ハイジ、椿姫、若紫、蜻蛉である。
     初登場の若紫はスナフキンと高校が一緒で、三年間同じクラスだったそうだ。彼女をどう呼ぶべきか。「気にいらなかったら全部却下するからね。」初参加の割に物怖じせずにはっきり言う。宗匠は「シバちゃん」でどうかと考えた。シバも私の言う紫も、彼女とどう関係するかはちょっとややこしい説明が必要になってくるので省略する。なんとなく紫にこだわりを持っているのではないかしらというのが私の印象だった。紫は武蔵野とりわけ江戸を象徴する色である。
     その上着は印半纏をリフォームしたものだ。晒したネズの地に、背中の白い大紋が裏返しになっているのも計算されていて、なかなか洒落ている。チイさんは江戸歩きに相応しいと感心してしまった。

     颯爽と 半被スタイル 江戸の秋  千意

     背筋を伸ばして大股で素早く歩く。「大股がヒップアップに効くのよね。」ハイジがそう言うならば、私もヒップアップのために大股で歩こうと思う。ハイジも大股でしっかり歩く人だ。
     ダンディはディアストーカー・ハットにグレイのブレザーで、「シャーロックホームズみたいだね」と画伯が感心する。前にも一度見ているが、ロンドンで買ってきた帽子だ。「ダメだよ、イギリスのことなんて聞いちゃ。煩いからさ。」講釈師の科白もいつもと同じだ。ハイジは七月の愛宕山以来、椿姫は六月の行田以来になるか。雨が降ると絶対に出てこないトミーも、今日はその心配がないからやって来た。シノッチも江戸歩きで会うのは久しぶりだ。
     スナフキンは相変わらず飲み疲れた顔をしている。三日間パシフィコ横浜で図書館総合展が開かれていて、昨日は会場で出会った会社の人間と飲んでいたのである。私も行く積りだったが、風邪気味で腰に違和感がり、雨の降る寒さに心挫けてしまった。五時頃に「飲みに行くぞ、どこにいるんだい」とスナフキンから電話がかかり、「家にいる」と答えると彼は絶句した。今日は念のために腰にコルセットを巻いてきた。
     講釈師は、先週あんみつ姫が企画した本郷散策のことを頻りに吹聴する。平日だから私も含めて仕事のある人間は参加できなかったが、十人集まり、地元のヨッシーが活躍したようだ。「入っちゃだめだって言ってるのに庭に下りる奴がいるんだよ。」これは徳田秋声旧居の庭のことで、そう言う講釈師自身が真っ先に庭に下りたのに決まっている。「江戸歩き平日の会を作るんだ。第二江戸歩き。静かでいいよ。」いつも煩いのは誰だったろう。
     姫は喜之床から啄木が追われたことがどうしても納得できないと言う。「事情はわかりますけど、でもね。」しかし、結核性腹膜炎で動けない啄木と、血を吐くようになった母カツ、寝込みがちな妻節子を下宿人にしてしまった新井かうの気持も分かるではないか。そのまま啄木一家を下宿させていれば、新井一家も死んでしまう。家賃二か月分を棒引きにしてくれただけでも有難い。その本郷の記録は番外編として後日あんみつ姫が書いてくれる筈だ。

     出発しようとした時、「モザイクは見ないんですか」と姫から声がかかり、横を見るとエスカレーター脇の壁に、「西郷南洲・勝海舟会見の図」が掲げられていた。その声より先に若紫は近くに寄ってカメラを構えている。小さな色タイルで背景を描き、左には西郷と勝、右側には咸臨丸らしい船が貼り付けてある。リーダーは「二十年も歩いているのに気付かなかった」と苦笑いする。
     最初に行くのはお馴染み、三菱ビル前の「江戸開城 西郷南州勝海舟會見之地」だ。港区芝五丁目三十三番一号。薩摩藩蔵屋敷の跡である。厚みのある円盤型の石に「西郷吉之助書」とあるのがおかしいとロダンが笑う。勿論南洲自身がこんなことを書く筈はなく、吉之助は隆盛の嫡子寅太郎の三男だから孫に当たる。佐藤栄作内閣で法務大臣に就いた人物だ。因みに寅太郎は西南戦争後に逼塞していたが、海舟の働きかけもあって明治天皇にドイツ留学を命じられた。後に憲法発布の恩赦で隆盛が名誉回復すると、父の功績によって侯爵となる。
     「この辺りは良く歩くのに、まるで気付かなかった。」トミーは長い間浜松町に勤務していた癖に、これを知らなかったそうだ。関心がないと気付かないのは、かつての私も同様で、この数年で漸くいろんなものに気付くようになってきたばかりだ。
     蔵屋敷があったということは、この辺が海に面していたということである。第一京浜の外側はすぐ海で、突き出る形で蔵屋敷が建っていたようだ。「私はここが下屋敷かと思っていました」とロダンが言う。
     ダンディは下田を旅行して来たばかりで、「海舟は下田で山内容堂と会っているんですよ」と教えてくれる。それは知らなかった。年表を見ると、文久三年(一八六三)一月十五日、海舟は下田の宝福寺で容堂と会って、坂本竜馬の脱藩罪を免除するよう頼んでいた。
     「何度か会見したんですよね。」水戸人ロダンも幕末史には煩い。勿論予備交渉は何度か持たれた。まず慶応四年(一八六八)三月九日、海舟が山岡鉄舟を駿府に派遣して西郷と会わせた。同じ日に海舟は英国公使館通訳官のアーネスト・サトウと会った。このことはサトウの日記にあるが、なぜか海舟の日記や『氷川清話』には出てこない。サトウとの会見が東征軍にどれだけの影響を与えたか。『遠い崖』の萩原延寿は否定的だが、決して無駄な動きではない。しかし後は腹の探り合いによる細部の調整とセレモニーであろう。

    三月十一日(陽暦四月三日)。西郷が江戸に到着した。
    三月十二日(陽暦四月四日)。前日の十一日と、この日の「海舟日記」は空白である。
    三月十三日(陽暦四月五日)。第一回の西郷と勝との会談が、高輪の薩摩藩邸でおこなわれた。勝は静寛院宮(和宮、第十四代将軍家茂夫人)のことにふれただけで、和戦の決定は翌日の会談にもちこされた。(萩原延寿『遠い崖』)

     この後、二人で愛宕山に登ったことになっているのだが、そのことは記録としては残ってはいない。そして翌十四日にこの蔵屋敷で会談を行って、江戸無血開城が正式に決められた。
     「西郷隆盛の立場はどんなものでしたか。」東征大総督府(有栖川宮総督)参謀である。「そうか、宮さんを除けば実務面のトップということね」と桃太郎が納得する。海舟は陸軍総裁で、本来の幕府職制上では全権を握るような立場ではないが、他に人がいなかった。
     「芝地区旧町名由来板」という案内板を、若紫が一所懸命写真に撮っている。こういうことに興味があるのだろうか。「歴史は全般に好きなの。一番は縄文時代だけどね。」放送大学で勉強しているそうだ。ウーン。考古学は私が最も苦手な分野である。
     ここから京浜東北線の方に向かい、路地を通って雑魚場跡に行く。ここはロダンの好きな三代目三木助『芝浜』の舞台でもある。勿論そんな面影は全くなく、小さな公園になっているだけだ。最後まで残った海岸線だったが、昭和四十三年に埋め立てられた。「アレッ、あんな噴水ありましたか」と姫がびっくりしたような声を上げる。平成十九年の九月、残暑厳しい日に一緒に歩いた時のことだが、噴水の飛沫で生き返ったような気分になったではないか。あの時はダンディ、桃太郎、ドクトルも一緒だった。

     芝浜に飛沫の光る小春かな  蜻蛉

     日本橋の魚河岸は遠近の漁場から揚げられた魚を商い、この雑魚場では獲れたての小魚を扱った。ウナギ、アナゴ、キス、ハゼ、カレイ、シャコ、スズキ、アジ、海老、蛤、アサリ等で、これを江戸前と称した。「芝エビって、芝のエビだからかな。」ロダンの疑問に「そうです」と姫が断言する。

    芝浦 本芝町の東の海浜をいふ。芝口新橋より南、田町辺までの惣名なり。上古は、芝を竹柴の里といひしを、後世省略して柴とのみ呼び来たれり。また、文字も芝に書き改めたりとぞ。(中略)この地を雑魚場と号け、漁猟の地たり。この海より産するを芝肴と称して、都下に賞せり。(「江戸名所図会」)

     住宅地を歩いて浄土宗西應寺に着く。港区芝二丁目二十五番六号。みなと幼稚園が併設されていて、今日はちょうど父兄参観に当たったようだ。柵があって中には入れそうもない。仕方がないから小さな蔵造りの稲荷の脇を通り、柵の外から「最初のオランダ公使館跡」の碑を眺める。
     この寺が歴史に登場するのは、安政五年(一八五八)七月八日、日英修好通商条約締結のため英国使節エルギンが滞在してからである。同じ月に日蘭修好通商条約も締結され、安政六年九月一日、オランダ公使館として初代公使クルチウスが駐在した。後、慶應三年の薩摩屋敷焼き討ちで類焼したため、オランダ公使館は伊皿子の長応寺に移転した。
     その向こうに高い石碑が立ち、長い文が記されているのだが、辛うじて冒頭の「応安元年(一三六八)明賢上人創敞寺」の文字が読めた。寺の由緒が書いてあるに違いない。園内に入ってちゃんと見たいと思っていると、ちょうど園長(住職か)らしい人にロダンが交渉してくれたお蔭で入ることができた。なかなか親切な人で、「とき姫に所縁の寺です」と教えてくれる。とき姫とは誰であろうか。「北条高時の娘ですよ。」
     高時は鎌倉幕府最後の得宗家執権である。高時辞任の後に、傍流の金澤貞顕、赤橋守時が執権に就いたが、実質的な権限は相変わらず得宗家の高時が握っていた。『太平記』では暗愚の見本のように描かれるが、これは亡ぼされた政権の宿命だろう。
     新田義貞に攻め込まれ、正慶二年(南朝元号では元弘三年、一三三三)五月二十二日、東勝寺で一族諸共に自刃した。高時の系図を見ると確かに一女がいたらしいが、時姫と呼んだかどうかは分からない。そして石碑の「明賢上人」という文字は石工の間違いだと思われる。

    起立之儀而人皇九十九代後光厳院御宇応安元戊申年草創開山光蓮社照誉明寶上人応永五戊寅年十月十日寂北條家之末孫田中右衛門尉殿姉明寶上人尼与茂申傳候(『御府内寺社備考』(http://www.tesshow.jp/minato/temple_shiba_saio.htmlより孫引き)。

     開山は光蓮社照誉明寶上人であり、その時期が応安元戊申年だというのは確かなことらしい。そしてそれが、北条の子孫である田中右衛門尉の姉の「明寶上人尼とも申し伝え候」と言うことだ。もし高時の娘なら、田中右衛門尉も当然同じ高時の息子になる筈だ。しかし高時の男子については、邦時(鎌倉で処刑、九歳)、時行(後に中先代の乱を起こす)、治時(高時の猶子、京都で処刑、十六歳)がいると分かっていて、これでは田中右衛門尉が登場する暇がない。
     それに新田義貞の家人に田中右衛門尉という人名も出てきてややこしい。おそらく、明寶上人は高時の娘ではないが、北条に多少の縁のある女人だったのではないかと言うのが私の想像だ。
     「そこに北条の紋がありますよ。」どこだろう、堂に掲げられているのは葵の紋としか見えない。葵の紋があるのは、家康から朱印状を貰ったためだろうか。若紫が追及してくれたお蔭で、屋根から少し引っ込んだ扉の上のガラスに、金で描かれた紋をちゃんと見ることができた。「北条鱗」と言うそうだ。

     小春日や堂の扉に三鱗  閑舟

     「普通は正三角形が多いですけどね、これは直角二等辺三角形なんですよ。」なるほど、確かにそうである。

    鱗は魚のウロコの意味もあるが、もともとは三角形の連続模様のことで、その幾何学模様が魚やヘビの鱗の連なりに似ていることに由来する。単純な三角だけではない、神秘的な要素も隠されているようだ。能の蛇体の衣装にも取り入れられている。桓武平氏の流れを汲む鎌倉北条氏一門の「三つ鱗」紋が有名。これは、初代執権・北条時政が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むという。(中略)
    北条氏の代表紋だけに他氏ではほとんど使用しておらず、関係氏族に一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗もあるが大部分三つ鱗である。ただし、北条氏主流は底辺が少し長い二等辺三角形で、北条氏ゆかりの鎌倉の建長寺、円覚寺の幕紋をみても正三角形ではない。(http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/uroko.html)
     

     「そこの奥ですよ」と教えられて「時姫」の墓を見に行く。狭い通路を突き当たって右に曲がったところに建つ古い無縫塔だ。新しい白い花が供えてある。台座の文字は辛うじて「開創明寶上人」と読めた。
     境内に戻れば、秀吉が小田原攻めの際に使用したという、直径五六十センチの手水鉢なんていう代物がある。「真偽不明ですが」と説明する人も笑う。遅れて来て「何なの」と訊くチロリンに、講釈師は「秀吉がオシッコした後に手を洗ったんだよ」と答える。
     夏ミカンかと思うのはレモンの木だと言う。こんなに大きなレモンがあるのか。ツワブキとホトトギスが咲いている。「ああ、綺麗だ」と声を上げるロダンに、「昔はこの花が苦手だったの」とハイジが小さな声で言う。杜鵑草の斑点模様が嫌いなひともいるらしい。

     秀吉の水鉢ですか杜鵑草  蜻蛉

     東京女子学園、戸板女子短大を見ながら日比谷通りを渡ると、NEC本社の塀の外の植え込みの中に、「薩摩屋敷跡」の石標がひっそりと置かれている。これも揮毫は西郷吉之助だ。慶應三年(一八六八)十二月の焼き討ち事件の舞台となった場所であり、その事件を契機にして、倒幕の「名分」が生まれ、やがて会津庄内討伐を名目とする戊辰戦争に繋がることになる。歴史的には重要な場所なのに、それを説明するものは何もない。
     大政奉還によって倒幕の名分がなくなった西郷は益満休之助を使い、撹乱工作を行って幕府を挑発する。「御用盗」と称する浪士によって江戸市中に火付け暴行略奪が繰り返された。被害に遭ったのは江戸市民である。そして事態は西郷の筋書通りに運ぶ。慶応三年十二月二十五日、庄内藩を中心とする幕府方が薩摩屋敷を襲撃した。薩摩藩邸使用人や浪士六十四人が死に、百十二人が捕縛された。幕府側では上山藩九人、庄内藩二人が死んだ。このとき相楽総三は辛くも逃げ延びたが、それが幸いだったかどうか。後に偽官軍として処刑されることになるとは、この時の総三には思いもよらない。
     「西郷さん」と呼べば、犬を連れて上野に立つ茫洋とした人物像が浮かんでくるが、益満の背後には、明らかに冷徹非情な政治的リアリスト西郷の姿が見える。後の相楽総三(赤報隊)の悲劇だって、西郷が承知していない筈がない。それに比べて幕府側はなんとナイーブであったことだろう。これでは権謀術数にたけた西軍に負けるのも当然だった。後に最後まで庄内藩が目の敵にされたのも、この焼き討ち事件のためだった。新撰組のファンである講釈師は勿論薩摩とは対立する。そして、あんみつ姫と蜻蛉も心情的には幕府方に与するものである。

     幕末を生きてきたのか講釈師  午角

     鹿児島からやってきた篤姫が最初に入った屋敷でもある。但し安政二年(一八五五)の大地震で被害を受けたため、渋谷の下屋敷に移転する。常陸宮邸から國學院大学のあたりまでの広大な敷地であった。
     「チイさんがいる」と声が上がった。目の前にちょうど芝五丁目のバス停があって、そのバスが「ちいばす」なのだ。正式には港区コミュニティバスで、公募によって「ちいばす」の愛称が決められたそうだ。
     通りを渡ると地図が掲示されていた。NECを背にして真っ直ぐ、中央三井信託と芝パークタワーの間を通る道が「芝さつまの道」とされている。
     桜田通りに出ると真正面に東京タワーが見えた。「こんなに綺麗に見えるなんて。」先端が右に少し曲がっているのがよく分かる。「曲がっているのはあの先端ですね」と若紫が写真を撮る。

     冬晴れやタワーの曲がる青き空  蜻蛉

     三田一丁目交差点から左に曲がるのが綱の手引坂だ。坂の名前は渡辺綱に由来する。「あの鬼の腕を斬ったひとですか。」そう、源頼光四天王の筆頭である。この付近に生まれたという説があるのだ。「それは嘘ですね。」ダンディはあっさりと断定する。「渡邊綱は上方の人間です。摂津国に渡辺という地名がありますよ。それにあの当時、源氏がこんな東国にいた筈がない。」上方についてはダンディの知識に敵う筈もないが、一概に切り捨ててしまう訳にもいかない。一応ウィキペディアを引いておく。

    武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべのつな)、あるいは渡辺源次綱(わたなべのげんじ つな)、源次綱(げんじつな)と称し、渡辺氏の祖となる。(ウィキペディア「渡辺綱」)

     この記事では綱は鴻巣に生まれたことになる。一方、『江戸名所図会』三田の項には、「三田あるいは御田、および箕多に作ると」とある。

    ある人いふ、この地は三田家の旧領にして、三田氏、累世ここに居住す。『三田家譜』に「三田三河守、その子駿河守綱勝、武州三田に住す」。代々綱といふ字を名とす。よつて後人、渡辺綱と混じ交へて誤れるかと云々。『渡辺系図』にいふ、「源氏充、武蔵国足立郡箕田郷に配せらる」とありて、三田とすることなし。三田・箕田同訓なるゆゑに、混雑してかかる附会の説をばまうけたりしなるべし。(『江戸名所図会』)

     綱の父が鴻巣を領し、渡辺綱がそこで生まれたのも間違いはなさそうだ。そして、この三田の地が渡辺綱とは関係ないというのも明らかになったと思われる。ダンディの断定は半分当たっていたことになる。もうひとつ、こんな記事を見つけた。

    (源)信は相模や武蔵などの守や介を歴任して、子孫は東国に広まった。融の子昇は正三位、大納言、民部卿に上り、子仕は、武蔵守として武蔵に下向し、足立郡箕田郷を開墾して居住、箕田を称した。仕の子宛は平忠常と武勇を競って、勝負がつかず引き分けたことが『今昔物語』に記されている。宛の子が、源頼光四天王の一人として、今日の一条戻り橋で鬼同丸という悪漢を退治したことで有名な渡辺綱である。
    綱は源満仲の婿であった源敦の養子となり、父宛の死後、摂津西成郡渡辺に移って渡辺を名乗った。渡辺の地は淀川の下流難波江の渡し口で、いまの中央区渡辺町付近にあたる。かつて、対岸へ渡る渡船口で渡しの舟守り渡部が居住していたことから渡辺と呼ばれるようになったところだ。いまも渡辺橋があり、最近、京阪電車の延伸で渡辺橋駅も生まれた。「姓氏と家紋 渡邊(渡辺・渡部)氏」
    (http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/watanabe.html)

     この記事で、「宛は平忠常と武勇を競って、勝負がつかず引き分けたことが『今昔物語』に記されている」とあるのは、「今昔、東国に源充、平良文と云二人の兵有けり」の部分だ。名が「充」とされているが「宛」であることは各種資料で間違いないとされる。一騎打ちの場所は村岡河原(熊谷市榎町)だ。
     嵯峨源氏は東国に住んでいたのである。但し、坂東平氏を名乗る大半が本当に桓武平氏の裔かどうか怪しいように、嵯峨源氏を仮冒していた可能性もあるかも知れない。
     ところで頼光四天王や酒呑童子、大江山の鬼退治というのは、今でも一般常識の範囲にあるのだろうか。『今昔物語』や室町期のお伽草紙から始まった伝説で、頼光四天王はいわば妖怪退治の請負集団である。四天王の中には金太郎がいるのだから、鬼退治なら桃太郎も入れて欲しかった。それに酒呑童子もなかなか興味深い存在で、国文学や民俗学で様々な議論がある。

     坂の頂上付近から左に曲がるのが綱坂だ。これも勿論渡辺綱に因むとされるのは、同じ事情だ。その角の広大な敷地に建つ建物が綱町三井倶楽部だ。港区三田二丁目三番七号。敷地には入れないので、綱坂に入る前に、通りを隔てて外から建物を眺めるだけになる。大正二年、ジョサイア・コンドルの設計によって建てられたバロック建築である。姫がくれた資料を参照すると、本館の位置するのは薩摩の支藩の佐土原藩上屋敷、本館南側の日本庭園は会津藩下屋敷であった。最初は團琢磨が所有していたが、三井財閥が迎賓館を必要としたため三井家に移された。煉瓦造二階建、スレート瓦葺屋根の建物は関東大震災で被害を受け、昭和三年に大改修を施して復旧したものである。
     「これも立派な建物じゃないか」とスナフキンが後ろを振り返る。なるほど、私たちが立っている背後の建物も立派だ。しかし表札も看板もなく、何なのかは全く分からない。学校のようでもある。教えてもらおうとスナフキンとロダンが玄関を入って行ったが、すぐに警備員に追い出された。一般の会社だから入ってはいけない、写真もだめ、見てもいけないと言うのである。どういう建物かも教えてくれない。早く出て行けと言わんばかりの態度が憎い。写真もダメとは言われたが、通りの向こうからちゃんと碁聖が写真を撮っている。少し歩いた所でヨッシーが案内板を見つけて、簡易保険の事務センターだと分かった。歴史的建造物に間違いはなく、むしろ堂々と世間に広めてこそ簡保の名も挙がるのではないか。小役人的発想である。「頭にくるよな」とスナフキンは後まで膨れているし、ハイジまでが「そうよね、社員教育がなってないわ」と憤慨する。

    逓信局の設計により昭和四年に竣工したものです。なお東京都内では数少ない戦前築の逓信建築でもあります。なお前回の旧貯金局は麻布台の高台にありましたが、こちらもやはり三田の高台に鎮座しています。立地的なこと、昭和初期に建てられたということもあるのでしょうか、どことなく似た雰囲気を漂わす建物です。
    あとこの建物を見るたび気にかかるのが、玄関車寄せ上に備え付けられた照明器具。1920年代らしい色とりどりの配色が施されたモダンなものです。ティファニー社の製品にもこのようなデザインのものがありますので、もしかしたら当時の舶来品がそのまま使われているのも知れません。http://farwestto.exblog.jp/8615996/

     綱坂を南に下りていくと、向かいの三井倶楽部の敷地は延々と続く塀で囲まれている。その辺りが会津藩下屋敷だったのだろう。イタリア大使館の角には「大石主税以下切腹跡」の説明があった。港区三田二丁目五番四号。ここはどこの藩邸だったか、講釈師なら知っている筈だ。「何だったかな、どこかだったよ。」忠臣蔵マニアにしては珍しく歯切れが悪い。姫も度忘れしてしまったようだ。調べれば伊予松山藩主松平壱岐守の中屋敷で、明治以後は松方正義の邸宅となっていた。
     慶応のキャンパスを左に見ながら坂を下りて回り込むと、明治二十六年(一八九三)に酒屋として建てられた津国屋である。港区三田二丁目十六番八号。横書きの看板の屋号の下には「電話 芝二〇七二番」とある。古びた建物の二階の戸袋は緑色の銅板貼りで木の欄干が窓を覆っている。軒下の太い梁、垂木にも年代を感じる。
     今も居酒屋としてちゃんと生きている店だ。「福沢諭吉も贔屓にしてました」と宗匠が説明しているところへ、女将さんが外から帰ってきて、「どうぞ、ご覧になって下さい」と店を開けてくれる。さっきの西應寺と言い、三田の人は親切だ。簡保の警備員は余所者だったんだろう。
     「このカウンターも昔のものですか」と桃太郎が訊ねるが、「これは新しく作りました」と返事が返ってくる。天井の梁は昔そのままの状態に見える。平成十三年に補強と若干の改修を施して居酒屋にしたようだ。「ここに金庫があるんです」と椅子をどけてくれると、表面の塗りが少し剥がれた古い金庫が鎮座していた。「そこにあるのは、昔配達に使った樽です。」壁際の棚には、陶器の白い一斗樽が飾られていた。「醤油もこんな樽じゃなかったかな。」そう言われるとそんな風だったかも知れない。冷蔵庫の上の壁には「鹽小賣所」と白く書かれた黒い琺瑯の看板が掛けられている。天井からぶら下がるのは白色電球だ。
     「ここで飲んでいきたいくらいね」と若紫が私の顔を見る。品書を見ていた桃太郎は「八海山が七百円、そんなに高くないですね」と頷く。彼のことだから、今度飲みに来るのではないだろうか。メニューを見ると、いかと里芋の煮物が五百六十円、牛すじ豆腐が六百五十円、手作り特大メンチが五百八十円、刺身単品が五百円からなどである。普通に飲めばひとり三千円ちょっとで収まるだろう。

     居酒屋で酒も飲めずに小春かな  蜻蛉

     女将にお礼を言って店に出る。斜向かいの角の建物に若者が大勢並んでいるのが不思議だ。なんだ、これは。「ラーメン屋だよ。ラーメン二郎って有名な店なんだ。」スナフキンが詳しい。

     提供するラーメンのボリュームと味付け、山田の性格が学生に受けたことから店は繁盛した。ところが、一九九〇年代に三田通りの拡幅計画が実施される見通しとなり、これによって二郎も影響を受けることが判明したため、山田は店を閉めることを考えた。
     しかし、常連客は店の継続を望み、地元慶應義塾大学の学生有志は当時改装が予定されていた慶應義塾大学西校舎学生食堂へ誘致の署名活動を一九九〇年代前半に行ったが、これは「学内の食堂に(塾生以外の外部の客の)行列ができるのはまずい」など諸般の事情で実現に至らなかった。結局、三田通りの店舗は一九九六年(平成八年)二月末に閉店したが、同年六月から桜田通り沿い(慶応大学正門近く)に移転し、営業を再開した。二〇〇三年には「ラーメン二郎」の名称が山田により商標登録された。(ウィキペデイア「ラーメン二郎」より)

     行列のできるラーメン屋というのはテレビで時々見るが、私にはまるで理解できないことだ。ラーメンの好きなロダンは池袋かどこかの支店で食ったことがあるらしい。「まあ、それなりにですよ。」桜田通りに出て振り返ると、狭い角地に建つ細長い三角形のビルだった。「面白い。」「空から見るっていう番組に。」「クモジイ。」「そうそう。」若紫、ハイジ、ダンディが同じ番組を見ていることが分かった。
     横断歩道を渡ったところが慶應義塾大学正門だ。「こういう風だったかしら、なんだかまるで違ってしまったよ」とマルちゃんががっかりしたような声を上げる。ダンディも二十年以上前に子息の入学時に来たことがあるらしい。「やっぱり雰囲気が違っていますね。」宗匠が守衛所で何かを記入し終って、七階建ての南校舎の真ん中の階段をのぼって構内に入る。平成二十一年に取り壊され、今年三月に新しくなったようだから、マルちゃんもダンディも記憶にないのは当然だった。
     三田演説館は木造瓦葺、なまこ壁を持つ蔵のような建物だ。明治八年(一八七五)五月一日に建てられ、大正十三年に現在地に移築した。一部二階を合せて総面積八十七・九坪。四、五百名の聴衆が収容できる。
     右手に建つ図書館の蔵書数は二百六十万冊という。「みんな休みたいってさ、今日のリーダーは休憩しないって不満が出てるよ。」講釈師の催促で、まだ十一時半頃だが食堂に入ることになった。西校舎の地下が生協食堂になっている。
     カフェテリア方式と言えば恰好良いが、昔の定食屋だって同じ方式でやっていた。好きなものを取って会計する仕組だ。「ついつい取り過ぎちゃうんだよね」と言うチイさんとスナフキンに続く。
     豚生姜焼きと唐揚げ、秋のバランス惣菜、ほうれん草と麩の味噌汁、ご飯で税込五百十四円。スナフキンは秋刀魚の塩焼きにトン汁。その他の人は坦々麺、蕎麦、鳥照り焼き、豚カツなど様々だ。私は城西大学で四百四十円の日替り定食を毎日食べているが、それよりは洒落ているしメニューが豊富だ。だだっ広い食堂の一角は椅子やテーブルが片付けられているので、この後なにかの行事が行われるのだろう。
     そこに高校生の団体が学生に引率されて入ってきた。オープンキャンパスなのだろう。「この間の東大でも高校生の団体がいましたよ」とトミーが話す。本郷を歩いた時の昼食は東大の学食と決まったようだ。
     どこの大学もオープンキャンパスに力を入れているのだが、こんなものが本当に受験に影響するのだろうか。それに、オープンキャンパスに家族総出でやって来る連中もいるのだから驚く。城西の場合、オープンキャンパス参加者には、父兄も含めて食堂無料の券を配っているから、それに釣られて来るのだろうか。
     食べ終わった頃、「歯磨き代わりに」とハイジが飴をくれた。「辛いわよ。」確かに辛い。ダンディはイタリア土産の菓子を配る。勿論私の分はない。ダンディが学食の人気ランキングが載っていると、日本経済新聞を広げる。それによれば、関東の一位は東洋大学、二位は立教だという。女子学生を集めるためには学食を小綺麗にしなければいけないのである。

     関東一位の東洋大・白山キャンパスは、六号館地下一階食堂が和食、中華、洋食がそろうフードコートのよう。二位立教大・池袋キャンパスの第一食堂は大正時代の建造物で、雰囲気がいい。中央大・多摩キャンパスの学食棟は四階建ての「学食デパート」だ。

     こんなランキングは誰が決めるのか。

     学食に関するガイド本の著者や愛好家への取材を基に学食で定評のある大学・キャンパスを関東、関西で二十ずつリストアップ。一般利用が可能な関東十九、関西十八の大学・キャンパスを対象に、全国で四十カ所、または関東か関西で二十カ所以上利用したことがある愛好家ら十一人に選考を依頼。両地域で八つまで選び、さらにおすすめ順に一~五位まで順位付けしてもらい、その結果を点数化してランキングを作成。

     選者には「学食愛好家」なる肩書が付けられている。暇な人間もいる。「今度は学食巡りをしましょう。次は立教かしら」と姫が期待する。
     「タバコ吸ってくる。」「喫煙所なんかないんじゃないか。」スナフキンは慶応にはずいぶん通った筈だから、こういう大事なことはちゃんと押さえておかなければならない。「早稲田にはあったよ。」建物を出れば、ちゃんと正面のベンチのところが喫煙所になっていた。
     吸い終わって食堂に戻り、十二時十五分まで休憩して外に出る。大公孫樹を見ながら次は旧図書館だ。「あっちですよね。」「そこの赤煉瓦の。」明治四十五年(一九一二)、創立五十周年を記念して建てられた建物である。設計はコンドルの弟子の曽禰達蔵。玄関の左側には諭吉の胸像が立っている。

     初冬に何を見詰むる諭吉像  閑舟

     玄関ホールに入ると、正面の階段を上った突き当たりにステンドグラスがあった。甲冑姿で馬を曳く老武者(たぶん畠山重忠をイメージしている)と、左手にペンの徽章を手にした女神が対面している不思議な絵だ。原画は和田英作、施工は小川三知。和田英作は与謝野寛・晶子の『明星』に関係し、その後継誌の『スバル』の表紙を描いた。小川三知は鳩山会館、安藤記念教会、聴潮閣高橋記念館などのステンドグラスを作製した。
     説明によれば、封建社会が文明を受け入れる図である。「Calamvs Gladio Fortior」(ペンは剣よりも強し。)
     ホールには両腕のない、半裸の手古奈像も展示されているが、万葉の女人には見えない。北村四海作。寂しそうな表情は、入水する前の悩みを表現しているのだろうか。市川真間の手児奈堂にも行ったことが話題になる。慶應と手古奈との関係は何か。

    《手古奈》は、一九〇九年の第三回文展に出品された大作で、近代日本最大規模の大理石彫刻です。旧図書館の建設にあわせ、北村四海が慶應義塾に寄贈し、旧図書館一階の階段ホールに設置されましたが、一九四五年の空襲で、両腕を失うなど大きく破損しました。(http://d.hatena.ne.jp/rcaaa-a/20110715/1310698440)

     私はミロのヴィーナスの模倣かと思ったが、両腕は空襲で破壊されたものだった。「不思議なことに根岸に手児奈せんべいがあるのよ。」ハイジが面白そうに教えてくれる。「息子に手古奈のことを訊かれて、蘊蓄を披露しちゃったわ。」根岸と手古奈の関係は不思議だ。念のために調べてみると、もともと市川真間に店を出していた煎餅屋のようだ。

     腕折られ疲れし手古奈の像あわれ  午角

     画伯はこの表情を「疲れし」と見たのだ。外に出るとロダンがマンホールの蓋を探し始めた。「これですね、これ。」円形の蓋の真ん中にペンマークがある。「これって、ここにしかないのかしら。」たった一つの物なら撮影の価値があると若紫は思ったらしい。「東大は帝国大学だったし、ペンマークは慶應独自のものですからね。」ロダンはマンホールが好きだ。銀杏の臭いがきつい。裏手に回ると文学の丘だ。「丘」と言っても実に小さな区画だ。

     図書館の前に沈丁咲くころは恋も試験も苦しかりにき  吉野秀雄

     守衛所で貰ったパンフレットには「義塾卒業の歌人」とあるが、吉野秀雄は経済学部を中退している。試験に落第したせいかと思うような歌だが、大正十三年(一九二四)、二十二歳で結核を発病して高崎に帰郷したのだ。その後会津八一に師事したと言う吉野秀雄を私はよく知らなかった。この機会だから少し探してみた。

    うつし身の孤心の極まれば歎異の鈔に縋らまくすも
    真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ
    これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹
    ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす
    今生のつひのわかれを告げあひぬうつろに迫る時のしづもり
    たなうらにみ墓をさすりつつゐたり堪へねばわれはかくのごとしつ
    死を厭ひ生をも懼れ人間の揺れさだまらぬ心知るのみ
    わが庭に今咲く芙蓉紅蜀葵眼にとめて世を去らむとす
    青葉木菟夜更けになくを冥々の彼土の声とし聞くはわれのみか

     佐藤春夫の碑は高さ九十五センチ、幅百九十センチもある白い御影石を屏風のように立ててある。『殉情詩集』の中の「断片」。

    さまよひ来れば 秋草の
    ひとつ残りて咲きにけり
    おもかげ見えてなつかしく
    手折ればくるし花散りぬ

     『殉情詩集』ならば、初版を近代文学館が復刻したものを、ブックオフが百円で売っていたので買って持っている。布装で六十七ページの小さな本だ。

    聴き給へ、われ今日人生の途なかばにして愛戀の小暗き森かげに到り、わが思ひは轉た落莫たり。わが胸は輞の下に砕かれたる薔薇の如く呻く。心中の事、眼中の涙、意中の人。児女の情われに極まりては偶成の詩歌乃ちまた多少あり。げに事に依りてわが身には切なくもあるかな、わがこの歌。(殉情詩集自序より)

     これが大正のロマンチシズムというものである。現代では少々赤面しないでは読むことができないだろう。
     高さ百十センチの大理石にほぼ正方形の黒御影が貼り付けられて、小さな文字が書かれているのは久保田万太郎だ。ときどき句碑を見かけるが、全く万太郎の字は読み難い。字が踊るのである。

        小山内先生をおもい
     しぐるゝや大講堂の赤れんが  万太郎

     小山内薫の胸像もある。「どうして小山内薫がここに関係しているのかな。」薫の出身は第一高等学校、東京帝国大学だった筈で、慶應と直接の関係はないのではないか。と思ったのは私の教養が足りない。こういうことは伊藤整『日本文壇史』を読めば分かる。事情は第十六巻に書いてあった。

     荷風永井壮吉が慶応義塾大学教授になったのは、明治四十三年(一九一〇年)の四月であった。彼は月給百二十円の外に、「三田文学」の編輯手当てとして三十円を塾からもらうことに義理を感じ、当分原則として「三田文学」以外には自作を発表しないこととした。(略)
     このとき慶応義塾では、荷風と同時に、演劇界に新風をまき起こしていた小山内薫を招いた。その外に美術史の岩村透、ドイツ文学の向軍治、シナ文学の宇野哲人、英文学の野口米次郎と戸川秋骨と馬場孤蝶、歴史の幸田成友と山路愛山などがいた。(略)
     このとき、文科の予科二年生に久保田万太郎という数え二十二歳の学生がいた。久保田の生家は浅草の広小路の田原町の袋物屋であった。(中略)万太郎は四年生(府立第三中学)に進級するときに、代数の試験が足りなくて落第した。それを機会に慶応義塾に転校して、普通部の三年に入った。(略)
     この年の九月、「三田文学」がその第五号を出した頃、数え年十九歳の佐藤春夫と堀口大学が慶応義塾の予科に入学した。

     春夫と大学は一高の入学試験に失敗した後、慶応の文科が荷風と小山内薫を新教授に迎えたことを知って、形だけのような入試を受けて入学したのである。戸川秋骨と馬場孤蝶は一葉日記の読者にはお馴染みだ。これで人物は出そろった。しかし、初期『三田文学』を主導した荷風に関するものはこの丘にはない。荷風には弟子というものがいないのが理由だろうか。
     一時半から戦没者追悼会が行われるらしい。「学徒出陣だよ」と講釈師が断定した。平成二十一年に行われたのを最初に、今年は三回目になるようだ。以下はその二十一年の時の呼び掛けである。

    大東亜戦争で散華した慶應の塾員(卒業生)、塾生その他慶應の関係者の総数は2,223名にのぼり、これは大学では早稲田の4千数百名に次ぐ数である。
    昨年慶應義塾が創立150周年を迎えたのを機に、我ら慶應義塾卒業生(塾員)有志が発起して今秋11月14日(土)午後2時から慶應三田キャンパスにおいて「慶應義塾創立150周年・学徒出陣66周年慶應義塾戦没者追悼会」を開する運びとなった。

     開戦日でも終戦記念日でもない。明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われたのは、昭和十八年十月二十一日であった。追悼会がこの十一月に行われるというはどういう理由からだろうか。
     そして何故か購買部に行くことになる。どうやら講釈師が行きたいと主張したらしい。グッズが大好きなのである。キャンパスマップを見ても場所がよく分からない。「なんだい、宗匠。下見をしてたんじゃなかったのか。」講釈師が大きな声を出して囃したてる。スナフキンに聞いても「俺は購買部には行ったことがないから」と言う返事だ。「しようがないな、俺が学生に聞いてくるよ」と講釈師が食堂の建物に入っていった。こういう機会を捉えて女子学生に話しかけようという魂胆が見えた。
     暫くして戻って来て、「この建物の向こうだよ」と先に歩き始めた。坂道を下ると西門を出てしまいそうだが、その手前の建物の二階が購買部であった。姫は慶應特製のキティちゃんを買って来た。講釈師は何を買ったのだろう。
     これで慶応のキャンパス巡りは終り、西門を出て回り込む。ラーメン二郎の前に並ぶのは、さっきより大勢になったようだ。正門の前に戻った。「何だ、遠回りさせる。」「だって、坂を登るのは嫌だから。」

     正門前の横断歩道を渡り左に歩くと、すぐ左手の路地に「安全寺坂」の標柱が立っている。素通りするのかと思っていたら、この坂を行くのだった。地図を見ても、この辺にその名の寺はない。「安全なんて近代の名前じゃないですか、本当は安珍とか言うんじゃないの」とロダンが口を尖らせるが、寛永元年(一六二四)に創建されたその名前の寺があったのである。家綱の時代に元麻布に移転したと言う。
     「こんなに坂道が多かったのね。」若紫が驚いている。かなり列が長くなって後ろが見えなくなる。「リーダー、早すぎるよ。今日は若者が多いんだから、もっとゆっくり歩いてくれよ」と講釈師から声がかかる。「私もね、先頭を歩こうと思うのよ。でも気がつくと後ろになってるの。」椿姫は前にも聞いたセリフを口走る。「暑いわね。」もう半袖になってしまった。気がつくとハイジも半袖で、「無理するんじゃないよ」と講釈師がちょっかいを出している。
     曲がりくねった坂道を行くと、道の両側に普連土学園の敷地が続いている。港区三田四丁目十四番十六号。この辺りの台地は江戸時代には月の岬と呼ばれたらしい。広重にも「月の岬」があるが、それは品川八つ山になる。海が見える月の名所の台地ならば、同様の名前はあちこちにあるのかも知れない。
     ちょうどバザーの最中で、生徒だけでなく大人の姿も大勢見える。ところでフレンドとは何だろう。ミッションスクールだろうとは見当がつくが、詳しいことが分からない。

    当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設した。現在でも日本国唯一のキリスト友会の教育機関である。校名の「普連土」(戦前は「普聯土學園」と書いた)は、津田仙(津田塾大学の創立者津田梅子の父)が、「普(あまねく)世界の土地に連なる」、転じて「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いから命名したとされる。(ウィキペディア「普連土学園中学校・高等学校」)

     クエーカー教徒の学校であった。私は良心的兵役拒否などの運動の他、クエーカーについてはほとんど知らないので、取り敢えずウィキペディアを参照してみよう。

    キリスト友会(ゆうかい)は一般にクエーカーまたは友会徒として知られ、十七世紀にイングランドで作られた宗教団体である。クエーカーは平和教会のひとつとされ、世界各地に集会がある。イングランドで始まり、クエーカーの教義は、主にアメリカ合衆国、ケニア、ボリビアといった国々に広まっていった。クエーカー教徒が集中しているアメリカ合衆国東部ペンシルベニア州フィラデルフィアのようなところがあるが、相対的に信者の数は少ない(全世界で約六十万人、内北米約十二万、英国約四万)。
    友会には全信者に向けた経典や正式な教義箇条のようなものはないが、信者間にある一定範囲の教義的な合意はみられる。最も中心にある考えは、内なる光である。この内なる光はそれぞれの信者に力を導き、数通りの方法で理解されているものであるが、教団内の様々な分派に受け入れられている。

     津田仙、新渡戸稲造がクエーカーだというのも初めて知るのだから無学である。そして潮見坂の標柱に出会う。

    潮見坂 聖坂の南、伊皿子台町より、田町九丁目へ下る坂をいふ(ある人いふ、潮見坂、旧名は潮見崎と呼びたりしといふ。古へは、すべてこの辺に七崎ありといふ。按ずるに、潮見坂、月の岬、袖が崎、大崎、荒藺崎、千代が崎、長南が崎、これらを合はせて七崎といひしか。)(『江戸名所図会』)

     この辺りも海に面していて、「七崎」と呼ばれたのは海に突き出した場所だったのだろう。
     宗匠が地図を確認するのを見て、「なんだい、下見をしていないのか」と相変わらずの声がかかるが、目的の場所はすぐに見つかる。聖坂の途中に亀塚稲荷という小さな神社があった。港区三田四丁目十四番十八号。
     「上がったところにあります。」鳥居を潜り石段を四段上がった右側に、ホトトギスの花に半分隠れて、板碑が五基並んでいるのである。全て阿弥陀一尊種子で、緑泥片岩の上部が三角に切られ、その首のところに二条の線が引かれている。典型的な武蔵型板碑だ。説明によれば、そのうち三基には、文永三年(一二六六)、正和二年(一三一三)、延文六年(一三六一)の年紀が確認されているようだ。
     月の岬に出現した亀が一夜のうちに石になり、それを祀ったという伝説がある。しかし稲荷の名にもなっている「亀塚」は、古墳時代の塚と推定されていて、その場所が次に行く済海寺とその隣の亀塚公園の辺りだ。三田の台地は縄文の貝層断面が見られる所で、三田台公園(港区三田四丁目十七番二十八号)には縄文の住居模型や、貝塚の地層の断面が展示してある。(平成十九年に見たのだった。)
     その浄土宗済海寺はすぐそばだった。港区三田四丁目十六番二十三号。向かいの家に外車が駐車しているのを目敏く見つけた若紫が「アルファロメオかしら」と声をかけてくる。車のことを私に訊いても無駄である。スナフキンならどうだろう。「ダメ、知らない。」ロダンも知らない。結局男は誰も知らなかった。マルちゃんなら車の雑誌を出す出版社に勤めていたから知っているかもしれないと思っていると、その彼女が小走りで車に寄って行った。「マークがアルファロメオだわね。だけど、あんな場所についているかしら。」私には謎である。
     この寺は安政六年八月、最初のフランス総領事館になり、ド・ベルクールが駐在したところだ。塀の向こうの墓域を見ていたロダンが「大きな墓石がありますよ、何でしょうか」と首を捻っている。近づけないからよく見えないが、墓誌を読んでみた。伊予松山藩とあるから大名墓である。スナフキンは表面の戒名を読んでみたが、戒名だけでは分かる筈がない。この寺は越後長岡藩の牧野氏、伊予松山藩の松平氏の菩提寺だったようだ。しかし境内にはそんなことを記した案内は何もない。「フランス公使館のことばっかりですよ」とダンディが笑う。
     かつては『江戸名所図会』にも書かれた名所であった。こういうことも、もっと宣伝して良いのではないか。

    当寺の庭中の眺望は、実に絶景なり。房総の群山、眼下にありて、雅趣すくなからず。朝夕に漂ふ釣舟は、沖に小さく、暮れて数点の漁火、波を焼くかと疑はる。群芳発して、緑陰深く、風露爽やかにして、氷霜潔し。四時に観をあらためて、風人の眼を凝らしめる一勝地なり。月の岬といふも、この辺の惣名なり。

     姫の事前の調べでは、『更級日記』の竹芝伝説の竹芝寺の跡地とされている。「でも、竹芝伝説が分からないの。」私だって『更級日記』は持っているがまだ読んでいなかった。大急ぎで読んでみると、菅原孝標女が、武蔵国のある荒れ果てた竹芝という寺を訪れて、その謂れを尋ねたと言うのである。答はこうだ。衛士に徴発されて都に勤務していた男が愚痴を言うのだ。

    などやくるしきめを見るらむ。わがくにに七つ三つつくりすゑたるさかつぼに、さしわたしたるひたえのひさごの、みなみ風ふけばきたになびき、北風ふけば南になびき、にしふけば東になびき、東ふけば西になびくを見て、かくてあるよ。

     帝の姫がそれを聞きつけ、その国に行ってみたいと言ったので、男は姫を連れて武蔵国竹芝に戻った。途中で追手が早く追いつけないように瀬田の橋を半分焼いた。やがて追手も武蔵国にやってきたが、姫の意思は固かった。最終的には帝にも許されて、姫はここで一生を送る。亡くなってからその家を寺にしたのがその寺であった。それにしても、ここが竹芝寺の跡だと誰が判断したのだろうか。
     これについても『江戸名所図会』は考察して、こんな所だった筈がないと言っている。

    山岡明阿いふ、按ずるに、いまの地は海辺にて、しかも岡の上なれば、『更級日記』にいへるところに、かなはず。もし、いよいよこの寺にてあらば、昔は外にありしを、後にこのところへうつせしなるべしと云々。

     「ここからエレベーターに乗ります。七人乗りですから。」はて、エレベーターでどこに行くのだろうか。向こうに見えるビルにでも入るのだろうかと、寺の脇を通って細い道を辿って行く。露天のエレベーターというのを私は初めて見た。ここから下りるのである。下を眺めると庭園のようだ。「大丈夫かしら、乗れるかしら。」「大丈夫よ。」「これはどこが管理してるんだろうか。」
     下に降りると、なんだか見覚えのある景色だ。そうか、ここに出るとは思わなかった。「そこをまっすぐ行けばいいんだよ。」「こっちかい。」庭の中を歩いて行けば元和切支丹殉難碑があるのだ。港区三田三丁目七番八号。国道の方から来たことはあるが、こんなエレベーターが続いているとは思わなかった。
     底面が畳一枚ほどもある大きな石が横たわる脇に、「都旧蹟 元和キリシタン遺跡」の標石が立つ。この大きな石は、高輪大木戸の石垣の一部だったらしい。元和九年(一六二三)、切支丹五十人が処刑された跡だ。名を挙げられているのは、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、ジョアン原主水。高札場に近い小高い丘で、人の多く集まる場所だったから見せしめに都合が良かった。
     住友不動産三田ツインビル敷地内の丘である。ここでチイさんから干し柿が配られた。先月のお約束である。思わず私も手にとって口にしてしまったが、気付くと桃太郎の分が足りなくなっていた。桃太郎はしょんぼりと階段の途中に座り込んでいる。「おかしいな、ちょうど人数分あると思ったんだけど」とチイさんが首を捻り、「あっ、朝、私が食べてしまったんです」と思い出した。私も全員に行き渡るのを確認してからにすればよかった。干し柿は私より桃太郎の方が好きな筈だ。チロリンも菓子を配ってくれたので、やっと桃太郎も安堵した。

     第一京浜を歩いて札の辻の交差点に着く。「人相書きが張り出されたんだよ。ロダンなんてさ。」そういうことなら講釈師の方が相応しくはあるまいか。「嘘八百をまくしたて女人を泣かす罪」というのはどうだろう。「今日は誰を泣かそうかな」なんて嘯いている。
     札の辻橋で京浜東北選の上を渡りながら、「向こうに見えるのが藻塩橋です」と宗匠が指をさす。新芝運河に架かる橋で、宗匠の調べでは、『廻国雑記』に因むと言う。『江戸名所図会』から孫引きしてみる。

     芝の浦といへるところに、いたりければ、塩屋のけぶり、うちなびきてもの淋しさに、塩木はこぶ舟どもを見て、
     やかぬよりもしほの煙名にぞたつ船にこりつむ芝の浦人  道興准后

     『廻国雑記』は、左大臣近衛房嗣の子で京都聖護院門跡などをつとめた道興の紀行文である。文明十八年(一四八六)六月に北陸路から関東へ入って各地を巡って駿河甲斐にも足を延ばし、更に奥州松島までの約十ケ月の間の記録だ。
     勿論その時代にこの橋があった訳ではない。当時は海の真ん中である。藻塩と聞けば百人一首しか思いつかなかった。「焼くや藻塩の身も焦がれつつ。」さて、上の句は何だったろう、どうしても浮かんでこない。姫も悩み始めた。「何だったかしらね。」若紫も「別れてもじゃないわよね」と考え込んだ。こういうのは変なきっかけで浮かんでくることがある。案の定、帰りの電車の中で思い出した。

     権中納言定家
     来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ

     札の辻橋を渡って左に曲がったところのバス停も藻塩橋だ。左手は東京高等工芸学校創設の地だ。現在は東京工業大学付属科学技術高等学校になっている。港区芝三丁目三番六号。標柱に「高等教育機関発祥の地 東京高等工藝学校」とあるのが不思議だ。これでは、東京高等工芸学校が日本で初めての「高等教育機関」ということになってしまう。港区教育委員会によると思われるが、表現には注意してもらいたい。

     キャンパスの落ち葉夕日に輝いて  午角

     塀越しに面白い格好の碑が建っているのが見えるのだが、竹格子と植木が邪魔になって良く見えない。先に写真を撮った若紫に場所を譲ってもらって、枝をかき分ければなんとか写せる。この学校が千葉大学工学部の前身であるというのは、余り知られていないのではあるまいか。

     東京高等工芸学校は、工業製品を美しく、かつ機能的に創造する技術を学ぶ高等教育機関として、大正十年十二月この地に創設され、 戦時下の昭和十九年三月東京工業専門学校と改称されました。
     常に日本の工芸産業教育の指導的地位にあり、 また多くの留学生を教育するなど、工芸技術の発展に貢献し、その出身者は「芝浦の出身」という愛称で重用されました。
     また、 東京高等工芸学校は、 わが国ラジオ放送発祥の地でもあります。大正十四年三月には、その図書室から日本で最初のラジオ電波が送り出され、日本放送協会は当地に「放送記念碑」を建立しております。
     しかし、昭和二十年五月の空襲により、校舎、工場等が灰塵に帰したため、 戦後同年十月、学校当局は当地での再建を断念し千葉県松戸市に移転、 昭和二十四年の学制改革により新制大学の千葉大学工芸学部となりました。昭和二十六年、工学部と改組、昭和三十九年千葉市弥生町に移転しましたが、当地に根ざした「実利と美とを一体に」という建学の精神は、脈々と受け継がれています。
     後方に見える青銅と黒御影石の碑は、当地にあった東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)を記念し、工芸産業教育発祥の地として同窓生有志が建立したものです。
     聖火を中心にマーキュリーの羽根をあしらい、 それにハンマーと筆を組み合わせた校章をかたどっています。
        平成十七年十月
                    港区教育委員会

     田町駅東口の方に曲がって行くと、塀を幅一メートル程へこませて放送記念碑が立っている。「愛宕山の放送会館でも聞きましたね。」ロダンの企画で行ったところである。ここに仮送信所が設けられていたのだ。「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します。」アナウンサーは京田武男。これが大正十四年三月二十二日であり、出力は二百二十ワット。東京放送局が一キロワットの送信機を購入して愛宕山から本放送を始めるのは七月十二日である。
     「休憩が必要だよ」という声に催促されて、区立芝浦公園で小休止をとる。今日の講釈師はずっと後ろの方を歩いているから、余り声が聞こえない。椿姫はベンチに座り込んで、我慢していたタバコを吸う。「さあ、出発します。」
     今度は新芝運河に出る。屋形船が数艘浮かぶ中に、どう考えても橋を潜れそうにない船が浮かんでいるのが不思議だ。「上の部分が折れ曲がったりするのかしら。」あるいは引き潮で水面が下がるのを待つのか。
     運河に沿って遊歩道が続く。水は黒い深緑に濁って汚い。「運河ってこんなものよ」とマルちゃんがチロリン、クルリンに教えている。「霧笛が俺を呼んでるぜ。」講釈師はこれが得意である。遊歩道の中ほどにはガス灯が十基並んでいる。ベンチには、ジャズを演奏しているような三人組のモニュメント「リバーサイドトリオ」(黒川晃彦作)がある。
     遊歩道を離れたところで、朱塗りの鳥居の背後に、仏舎利塔に鎮座するブロンズの仏像が見えた。なんだろうか。近づいてみれば芝浦妙法稲荷大明神、昭和四十八年の創建になるものだった。港区芝浦一丁目十三番。
     「あれってお釈迦様ですか。」椿姫はオペラや能には詳しくても、こういうものにはほとんど関心がない。「お稲荷さんって神様だったんですか。」こうひとも珍しいのではなかろうか。ここは神仏混淆の見本みたいだ。

     竹芝橋稲荷は法華経有縁の稲荷であり、姫稲荷である。昔からの御神木は柘榴の木である。仏の金言に曰く「神は正直を以て頭となし、法華経を以って食となす」と。柘榴の木は鬼子母神のご神木として知られ、鬼子母神は十羅刹女と共に法華経有縁の神々の内の女神の代表である。故にこの稲荷のご本体は正に女神であり、法華経守護請願の鬼子母神かその一類であり、「妙法稲荷」の名称を冠す神意と感得する。かつて繁栄を誇った木挽町妙法稲荷は既になく、そのご本体は鉄砲州稲荷に移管又芝浦妙法稲荷も戦後一信者の家庭稲荷と化し、妙法稲荷の命脈正に絶えなんとする時、偶然にもこの地芝浦にその継承と復興が実現、妙法稲荷の本山となる。(中略)
     昭和57年(1982)8月、ブロンズ製金色の釈尊座像を祀り、神仏混交を具体的に表現。これ法華経見宝塔視の宝塔湧現であり、日蓮御聖人のお曼陀羅本尊の実現である。

     もともと小さな稲荷社だったところに、無理やり法華信仰を継ぎ接ぎしたということか。妙法稲荷神社というのは各地にあるが、それとは関係なさそうだ。大明神と称し、「妙法稲荷の本山」と言うのは、神社ではないという主張だ。これは法華系の新興宗教だと思われる。「御祭神仏 本佛釈尊」とある。「祭神仏」なんて初めて見る。
     すぐそばに不思議な形の花が咲いていた。「ハマユウですよ。」「そうさ、浜木綿だよ。」これがそうなのか。私は初めて見る。茎は太いが、ヒガンバナ科と言われると納得できる花の形だ。丸く太っているのが実だ。花期は夏とされているので返り花かも知れない。
     やがて東芝の敷地を曲がりこんでいくと、東京ガスの敷地が見えて来た。港区海岸一丁目五番二十号。先頭に立った私と若紫が変わる寸前の信号を渡った。植え込みの辺りから中に入れる所を見つけて入ろうとしていると、後ろで信号待ちをしている宗匠からダメがかかった。私は正しく生きなければならないので、仕方なく戻って迂回したのに、若紫とスナフキンはとっくに中に入っていた。「ここからすぐ入れたのに。」

     リーダーの一声戀を引き離す  午角
     年経れば恋路に槍の不粋者   閑舟

     光栄である。画伯はわざわざ難しい本字を持ちだして来た。イトシイトシトイウココロ。
     モヤイ像と言うものがある。「これがモアイかい。」石に浮き彫りにされているのは、球のようなものと、太陽が笑っているようなものである。実は宗匠も皆も誤解していた。モアイではなく、モヤイであった。説明によれば新島方言で寄り合って共同すると言うような意味である。それなら結(ユイ)ではないか。「そうですよ、結です」と姫も力を込めて応える。
     宗匠が広辞苑を引くと「舫う」の他に「催合う」という表記が出た。「福島じゃ使ってましたよ。」秋田ではそんな風には言わないと思う。「そうか、田舎でもモヤウって言ってたな」と宗匠が佐賀の言葉を思い出す。「方言じゃなかったんだ。」
     全員が歩き出しても椿姫とロダンは石の鑑定に熱中している。ハンマーを取り出して割ってしまいそうな勢いだが、それはやめた方が良い。これは新島産出の抗火石というものらしい。軽石の一種で、スポンジ状の構造のガラス質だから、加工が簡単なのだという。

    この石を材料として作られたオブジェが「モヤイ像」である。地元のアーティスト大後友市が考案したもので、新島の「モヤイの丘」など島の各地には多数のモヤイ像が存在する。デザインも、イースター島のモアイ像を真似た形だけではなく、さまざまな形状のものがある。
    「モヤイ」はモアイを真似た名前であるが、同時に、日本語の動詞「舫う」(船を綱で繋ぎ留める)「催合う、最合う」(力を合わせる、助け合う、共同作業をする、共同で使用する)の意もあり、後者は日本の多くの地方では今では使われなくなった言葉だが、新島では使われているという。新島は昭和五十年代には、盛んに日本各地にモヤイ像を制作して寄贈した。(ウィキペディア「モヤイ像」)

     渋谷駅にもあると姫やスナフキンが言っているが、それもここと同じで、新島から渋谷区に寄贈されたものだ。
     創業記念碑の碑文は長いので前半だけ引いておく。

    帝都瓦斯事業ハ其初メ官営トシテ計画セラレ此地芝浜崎町ニ瓦斯製造所ノ建設セラレタルハ明治六年十二月ニシテ瓦斯供給ヲ開始シ銀座街灯ニ瓦斯燈ヲ点火シ行人ヲシテ驚異ノ眼ヲ瞠ラシメシハ其翌年ノ事ナリ

     横浜のガス灯に二年遅れて銀座に灯が点ったのである。ここで宗匠からいったん解散の宣言が出された。「一万五千歩かな。」ロダンの言葉に宗匠も万歩計を確認して了承した。十キロ弱というところか。宗匠の計画の八キロよりちょっと長い。「疲れちゃったよ。」今日の宗匠は少し軟弱だ。距離よりも、色々気を使わなければならないことが多かったのだろう。
     次回一月は私の番だ。まだ細部を詰めていないが、谷塚から花又大鷲神社を経て西新井大師に行く案は、全員から「それは長すぎる」と却下された。組み立てを考え直さなければならない。その前に、今月二十六日にはあんみつ姫が案内する里山ワンダリング、十二月十日には同じく姫が主催する大山街道がある。「是非いらっして下さいね」と姫が声を掛ける。
     浜松町駅構内に入ると窓越しに芝離宮が良く見える。姫は「ここで写真撮ってたら怒られちゃいました」と言うのだが、撮影禁止なんてどこにも書いていない。
     TEMPSのコーヒータイムには全員が参加した。長い大きなテーブルの角に荷物を置いて、「お誕生席みたいね」と若紫が笑っていると、「それなら私の席だ」とチイさんが座った。「えっ、今日がお誕生日なの。」「昨日です。」「私は今日よ。」なんと、チイさんと若紫は一日違いで生まれたのだ。お誕生席に二人が並んだ。ダンディは講釈師を含めてこれで寅年が五人揃ったと喜ぶ。
     「お姉さんだね。」「いつなの。」「四月。」「半年しか違わないじゃないの。」たとえ半年でも年長者には敬意をもって接しなければならない。長幼の序を守り、年長者を敬うのはこの会の基本方針である。(私の態度や言葉遣いを見て、それはウソだと言ってはいけない。)
     チイさんは自分で誕生日を祝うためにシュークリームを食べる。「ケーキを食べたらビールが飲めなくなっちゃう。」若紫の意見は正しい。

     シューケーキ 一個で祝う バースデイ  千意

     孫がお祝いをしてくれなかったのだろうか。「私も食べてますよ。」あんみつ姫がケーキを食べるのは、一週間後の誕生日を祝っている訳ではない。ビールの前だろうが構わずに甘いものを食べるから、あんみつ姫なのだ。それにしても椿姫は煙草を吸い過ぎだ。「蜻蛉さんにだけは言われたくないわ。」若紫は出欠票を見ながら二十人の名前を確認している。「十九人しかいない。」自分が抜けているのではないか。「アッ、スナフキンを数えてなかった。」
     この店を四時前に出て、反省会組はお馴染み「さくら水産」に向かう。ハイジは行かないのか。「ごめんね、私はシンデレラだから。時間に縛られてるのよ。」銀行に金を引き出しに言ったチイさんを見て、若紫はどれほど高い店に行くのかと思ったらしい。「お金引き出す程のお店なの。」普通の女性は「さくら水産」なんか知らないのだろうね。安い店だとだけ言っておく。
     反省会参加者は十三人で、「歩留まり最高ですね」とロダンが喜ぶ。この店は四時開店である。開店早々でまだ他に客はいない。案内をしてくれた中国人らしい娘に「誕生日なんとかはないの」と訊いてみた。「お誕生ワインありますよ。」しかも三日の間なら有効だと言う。それはスゴイ。それなら二人が該当する。
     せいぜいグラスワインかと思っていたのに、なんと白ワインの瓶が二本、それに人数分のグラスが用意された。これで焼酎が節約できるかと期待したが、折角の誕生ワインも「サイダーみたい」と姫が言う通り、フルーツワインという、ただ甘ったるいだけの代物であった。

     N君と旧友を呼ぶその声に高校生かといつまでも  千意

     スナフキンが若紫に「クン」付けで呼ばれるのが、チイさんには初々しく懐かしく感じられたらしい。「ボクラ、フォークダンスの手をとれば(『高校三年生』)」である。ロダンは安達明の『女学生』を歌いたいような顔をしている。考えてみると、呼び方にも地域差があるようだ。私の高校時代には「さん」と呼ばれた。横の会(同期会)の女性は今でもそう呼ぶ。それとは違って、大学ゼミの同窓生は昔も今も「クン」付けで私を呼ぶ。秋田と東京との文化の差があった。
     今日は椿姫が食べ物に我儘だということが知れ渡ってしまった。珍しく最後に握り寿司が出てきたが、青魚が嫌いだと、白身魚とタコを選んで醤油皿にシャリの方から沈めた。更に切り身に醤油を付ける。シャリが崩れてしまうし、塩分取り過ぎだ。「そんなに醤油をかけたら魚の味がなくなっちゃうでしょう」と周囲からも非難の声が上がる。「だって。」それに青魚が嫌いとは不幸なことである。所用がある筈の若紫も最後まで付き合ってくれて、一人二千七百円。
     まだ六時なので、あんみつ姫、碁聖、スナフキン、チイさん、ロダン、蜻蛉はビッグ・エコーに行く。私のレパートリーであった筈の『空に星があるように』(荒木一郎)はすっかりスナフキンに奪われてしまった。

    蜻蛉