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    第三十八回 足立区編(竹の塚から西新井大師)
                      平成二十四年一月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.01.23

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     旧暦十二月二十一日甲戌。去年の暮れから東北北海道ではずっと大雪模様だが、関東は雨が全く降らず、今日で三十日も連続して乾燥注意報が出されている。快晴だが風が冷たい。後一週間で大寒だから当り前のことながら一番寒い時期だ。
     集合場所は東武伊勢崎線竹ノ塚駅だ。住所表示は「竹の塚」なのに、何故か駅名表示は片仮名の「ノ」を使う。足立区が公式にはタケノツカと濁らない読み方を採用しているのは、ダンディに「関東はなんでも濁音になる」とバカにされないためだろう。
     今日は講釈師より遅れる訳にはいかない。七時四十分、NHKのドラマ『カーネーション』の途中で家を出て、鶴ヶ島駅を八時三分に出発する電車に乗った。朝霞台到着が二十五分。武蔵野線北朝霞を二十八分に出て南越谷には五十一分に着く。ここまでは予定通りだ。しかし東武伊勢崎線新越谷駅を五十六分に出る各駅停車に乗り換えると、松原団地駅を出た途端に急停車した。車内放送によれば、竹ノ塚駅でホーム下に転落した人があり、その救出作業中だと言う。土曜だからラッシュアワーで押された訳でもないだろうし、何故落ちる必要があるのか。他人に理解できる行動を取って欲しいものだ。この影響でかなり遅れるかと心配したが三分程で動き出し、竹ノ塚駅には九時十五分頃に到着した。交通費は九百二十円也。
     講釈師は次の電車でやって来た。「電車が詰まってさ。」新年の挨拶を交わしている所に、転落したらしい男がタンカで運ばれてきた。意外に若い男で首をカラーで固定している。「頭から落ちたのかな。」
     次いで宗匠も現れた。宗匠は電車の遅れに気付かなかったようだから、もうすっかり回復したのだろう。「出足が遅いじゃないか。今日は三人で歩くことになるぞ。」しかし定刻にはまだ三十分以上ある。「今日もコンビニ弁当になるんだな。」同じ失敗を繰り返すのはアホである。ちゃんと去年の内に予約を入れてある。「何人で予約したの。」宗匠も私を信用していないな。「十七八人で。」「今日は寒いし、そんなにならないと思うよ。」
     スナフキンはセンター入試のため欠席だ。今日と明日、大学職員はその応援に駆り出される。「江戸歩きに参加してから一回も休んでいないのに」と随分悔しがっていたが、大学に再就職したのだから仕方がない。ダンディも法事で休んでいて淋しい。
     改札口で待っていると寒い。それでも次第に人はやって来る。姫は午後から重要な会議があるのに、午前中だけでもと参加してくれた。十時ちょっと前に最後のチイさんが登場して、本日の参加者は十六人と決まった。画伯、宗匠、ロダン、チイさん、桃太郎、碁聖、トミー、ドクトル、講釈師、ヨッシー、あんみつ姫、若紫、クルリン、ハイジ、マリー、蜻蛉である。
     いつもチロリンと一緒のクルリンが今日は一人で淋しそうだ。チイさんはリュックではなく、小さなバッグを肩に掛けている。「なんだ、お土産はないのかい。」チイさんだって、いつも講釈師を喜ばせる訳にはいかない。その代わりと言ってはおかしいが、ヨッシーのリュックが何故か膨らんでいる。

     桃太郎の企画で千住宿は歩いた(第十回)ものの、足立区という所には馴染みがなかった。周囲の誰彼に訊いてみても「足立区って何があるのか」という反応ばかりで、伊勢崎線沿線の住人を除けば余り知られていない。(足立区の人がいたらゴメンナサイ。)
     その名が武蔵国足立郡に由来するのは言うまでもないが、何故そう呼ばれたのかは良く分からない。万葉仮名で「阿太知」と書いたと言うから地名は古い。「葦立ち」という説、ヤマトタケル(または坂上田村麻呂)の足が立ったという説のいずれも決定的ではない。ヤマトタケルや田村麻呂の話は論外だろう。古代には湿地帯が広がっていたと想像されるので、私としては「葦立ち」説に加担したい。但し武蔵国足立郡の中で、足立区はその南端のごく一部の地域に過ぎず、鴻巣から草加までの大半は埼玉県内に属している。
     今日のコースは日光道中千住宿と草加宿との間に位置する農村地帯で、江戸時代には田圃の他には将軍家鷹場となった原野が広がるだけだっただろう。団地やマンションが建ち、かつての面影はほとんどないし派手な見ものはないが、それなりに面白いものもある。

     西口に降りて商店街を抜けると赤山街道に出る。それを右に行き更に右に曲がれば尾竹橋通りだ。「ちょっと早過ぎるんじゃないの。私は大丈夫だけど。」若紫に注意されて振り返ると、後ろとはだいぶ間隔が開いてしまった。追いついて来るのを待ちながらゆっくり歩いている内に、信号を渡るタイミングを逸した。すぐ向かいが目的の場所だ。「ここで渡ります」と横断歩道もない所で横切って、「エーッ、こんな所を」、「なんだよ、そこに横断歩道があるじゃないか」と後ろから非難の声を浴びる。確かに私の失敗だった。
     東岳寺は五階建てマンションの隣にある。足立区伊興町前沼一丁目二一一番地。曹洞宗、南昌山。元は浅草北松山町にあった寺だ。「昭和三十六年に移転してきたんですよね」と姫が補足してくれる。関東大震災と東京大空襲で被害を受けて浅草を脱出した寺は多い。この辺りから西の方には伊興寺町が形成されていて、その大部分は移転してきたものだろう。
     門前に「初代安藤広重墓」の標柱が立つ。しかしこれは歌川広重、又は一立斎広重と書く方が良い。「どうして、安藤広重じゃダメなのかい。」ドクトルが不思議そうな声を出す。茗荷谷の深光寺でも説明した積りだが、滝澤馬琴でなく正しくは曲亭馬琴と呼ぶのと同じ理屈だ。変な譬えになるが、立川談志を松岡談志とは言わないでしょう。
     狭い境内は寺というより良く手入れされた庭と言ったほうが良い。山門を入ってすぐ左の突き当たりが「一立齋廣重墓」で、関東大震災と空襲で破壊され、昭和三十三年の百回忌に再建されたものだ。広重の顔のレリーフに辞世の歌を記した大きな碑も建っていて、こちらは大正十三年建立とある。
     知識がないので、いつものようにウィキペディアその他のお世話になった。初代広重は寛政九年(一七九七)、八代洲(八重洲)河岸の定火消屋敷で、同心安藤源右衛門の子として生まれた。三十俵二人扶持の典型的な貧乏同心の家だろう。「あの辺には何の案内板もないんですよ。」姫は以前あの近辺のコースを企画して随分探した筈だから詳しい。定火消は明暦の大火の翌年、万治元年(一六五八)に設置された幕府直轄の消防組織である。当初は四ヶ所に置かれたが、後に十ヶ所に拡大して定員千二百八十人となった。
     幼名徳太郎、後に重右衛門と称す。文化六年(一八〇九)に母を亡くし、父が隠居したため十三歳で家督を継ぐと、その年の末に父も亡くなった。十五歳の頃、歌川豊国の門に入ろうとしたが定員超過と断られ、豊国同門の豊広の弟子となって歌川広重の名を与えられる。豊広の「広」と重右衛門の「重」を繋げたものだろう。
     文政六年(一八二三)には家督を譲って同心を辞め、画業に専念する。天保三年(一八三二)、一立齋廣重と改め、天保四年『東海道五十三次』を描いて名声を決定的にした。安政五年(一八五八)九月六日、コレラで歿。享年六十二。
     ついでだからコレラについても調べてみた。コレラが日本で初めて流行した文政五年(一八二二)には主に西日本を中心に広がって、箱根の関を越えて江戸に入ることはなかった。コレラの世界的流行(パンデミー)の第一回目として知られるもので、一八一七年にカルカッタで発生して、一八二三年まで世界中を席巻した。本来インドの風土病であったコレラが世界に蔓延したのは、西欧帝国主義による世界拡大の結果である。
     安政五年五月、米艦ミシシッピー号の乗員が中国から持ち込んだコレラは長崎で発生した後、凄まじい勢いで日本列島に広がり、七月には江戸に達し、更に奥州まで及んだ。これも開国の影響のひとつだ。江戸では十万とも二十六万とも言われる人が死んだ。数値にこれだけの差があるのは、町方で把握できる人口以外の、人別に載らない武家方、寺社奉行管轄(例えば遊郭や被差別民)の人口が分からないためだろう。
     緒方洪庵も各種の治療書を翻訳して『虎狼痢治準』を配布したが、阿片やキニーネを使うもので効果があったとは思えない。「南方仁」も「橘咲」(綾瀬はるかチャン)もいなかったし、明治十六年(一八八三)にコッホがコレラ菌を発見するまで、有効な治療法なんかなかった。
     江戸時代を「エコ」の時代と持ち上げる傾向もあるが、相次ぐ飢饉や感染病が蔓延しやすい環境によって、乳幼児死亡率が高く、平均余命は三十歳代であったことを考慮した上での意見なのか、慎重に見極める必要がある。
     その大変な災難のさ中に、斎藤月岑は日本語の「コロリ」と「コレラ」の音が似ているとおかしなことに感心している。

    此の病、暴瀉、又暴痧など号し、俗諺に「コロリ」と云へり。西洋には「コレラ」、又「アジア」「テイカ」など唱ふるよし(東都の俗ころりといふは、頓死をさしてころりと死したりといふ俗言に出て、文政二年痢病行はれしよりしかいへり。しかるに西洋にコレラといふよしを思へば、おのづから通音なるもをかし)」(『武江年表』)

     徳川家定、山東京山、渋江抽齋もコレラで死んだ。島津斉彬の死もコレラが原因かという説がある。広重は自分が死んだ後の安藤家の経済状態を頻りに心配して遺言を残した。

    古歌  我死なば焼くなうめるな野に捨てて 飢ゑたる犬の腹をこやせよ
    この心持にて手軽く野辺送りいたし申すべし。江戸市中の住居ゆえ近傍に捨てるような野もなきゆえ寺へやり埋めてもらうばかり、必ず見栄や飾りは無用なり。湯灌もいらぬことなれども真似事ばかりさつと水をかけおくべし、手数をかけるはまことに無駄な骨折りゆえ決して御無用なり。吝嗇は悪し、無駄ははぶくべし。通夜のお人には御馳走いたすべし。
      東路の筆を残して旅の空 西のお国の名どころを見ん
      (http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20110318/1300396007より)

     ところで、初代広重と言うからには二代目以降もいた。(勿論、私は初めて知った)。二代目は初代広重の門人で、養女辰の婿となった重宣(森田鎮平)。その二代目が辰と離縁になり、同門の重政(後藤寅吉)が辰と再婚して三代目を襲う。辰が重政と浮気をしたのではないかとの説もある。そこで一旦途絶えたが、四代目(二代広重の門人、菊池貴一郎)が名前だけを継ぎ、五代目(四代目の子、菊池寅三)までいる。但し明治になれば浮世絵は過去のものだ。四代目は墓守のために頼まれて襲名したようで、書道塾を家業とした。
     こんなことは余計な話で、すぐ左脇には「柳多留版元花屋久次郎遺跡」の細長い石碑も立っている。「遺跡って、ここに住んでいたの。」そうではなく、東岳寺は花久の菩提寺なのだ。過去帳が発見されたために建てられた碑だから、元々浅草にあったものをここに移設したのだろう。『誹風柳多留』や『誹風末摘花』の版元、上野山下にあった「星運堂」主人である。柄井川柳の選句を呉陵軒可有が編集し(初編から二十二篇まで)、初代花久がスポンサーになって『柳多留』が刊行された。

    五月雨の徒然に、あそこの隅、ここの棚より、ふるとしの前句附けのすりものをさがし出し、机のうへに詠る折ふし、書肆何某来たりて、此儘に反古になさんも本意なしといへるにまかせ、一句にて、句意のわかり安きを挙て一帖となしね。なかんづく、当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す。干時、明和二酉仲夏、浅下の麓、呉陵軒可有述。(『誹風柳多留』序)

     明和二年(一七六五)から天保十一年(一八四〇)まで百六十七篇が出された内、柄井川柳が選句した二十四篇までの評価が高い。それ以降のものは単なる謎かけ、判じ物、卑猥に堕した「狂句」「雑俳」に過ぎないというのが現代の一般的な評価だ。この三人による『誹風柳多留』がなければ、川柳はただ詠み捨てられるだけのもので終わり、歴史的に認知されることもなかったに違いない。特に出版を勧めて資金を出した花久の功績が大きい。川柳人協会では花屋久次郎の功績を顕彰して、毎年二月十一日に花久忌を執り行う。勿論、川柳忌(九月二十三日)、可有忌(五月三日)もある。
     江戸の川柳はかなり手強くて、理解するためにはそれなりの教養が要る。『末摘花』はほとんどお手上げだが、『柳多留』なら少しは私に分かるものもある。

    愛想のよいをほれられたと思ひ(若い頃の私はしょっちゅう誤解していた)
    蠅は逃げたのに静かに手を開き(蚊なら同じことをする)
    知れて居るものを数える泉岳寺(確かに私たちも墓石の数を数えた)
    うつむけばいひわけよりも美しき(今頃はこんな風情はどこにも見えません)

     外に出る時、山門の扁額が気になった人がいる。「何て読むんだろうか。」誰も読めない。山号でも寺号でもなく、二文字ある左の方は「関」だと思うのだが右が分からない。「調べて頂戴。」若紫の宿題を宗匠が調べて、「蘆関」であると分かった。由緒をちゃんと読めば、東岳寺の開山である門解蘆関和尚の名だと気付かなければいけない。この人物は泉岳寺四世でもある。そう言われてみれば、右の文字は確かに蘆の略字であった。
     北に向かっていると正面から強い風が吹きつけてくる。文字通りの北風だ。「『春は名のみの』って良く言ったもんですね」と碁聖が風に負けないように大きな声を挙げる。手袋をしていても指の先が冷たい。「風さえなければ大丈夫なんですけどね。」
     左に東武バス車庫を見て交差点を右折し、五分も歩けば伊勢崎線の高架手前の白旗塚史跡公園に着く。足立区東伊興三丁目十番十四号。毛長川の自然堤防上に点在する伊興古墳群の一つで、宅地化によって古墳群の大半が消滅した中、唯一公園として復元されたものだ。長さ十二メートル、高さ二・五メートルで、六世紀後半の円墳と推定されている。江戸時代には田圃の真中に塚が盛り上がり、松が二本植えられていた。

    「白旗塚 東ノ方ニアリ。此塚アルヲ以テ白旗耕地ト字セリ。塚ノ除地二十二歩。百姓持ナリ。上代八幡太郎義家奥州征伐ノ時、此所ニ旗ヲナビカシ、軍勝利アリシトテ、此名ヲ伝ヘシ由。元来社地ニシテ祠モアリシナレド、此塚ニ近寄バ咎アリトテ、村民畏テ近ヅカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ。又塚上ニ古松アリシガ、後立枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器共数多出タリ。時ニ村民来リ見テ、件ノ兵器ノ中ヨリ、未鉄性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン。家挙リテ大病ヲナヤメリ。畏レテ元ノ如ク塚下ヘ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由。今塚上ノ両株是ナリト云。今土人コノ松ヲ二本松ト号ス。太サ一囲半許。」(「新編武蔵風土記稿」)

     白旗塚の名は源氏の白旗に由来し、チイさんが冗談で言うような降参の印では勿論ない。古墳の周りには堀が巡らされ(これは歴史的に正しいものかどうか分からない)、園内には武人や馬や家の埴輪のレプリカが、ポツリポツリと置かれている。埴輪の空洞の眼は、あっけらかんと何も考えていないようにも見えるし、何か悠久の時を見詰めているようでもあり、つくづくと見ていると聊か不気味な気分になってくる。

     寒風や埴輪の眼窩を吹き抜けり  蜻蛉

     埴輪というものは一般的にこの程度の大きさなのだろうか。「色々あるわ。でもこれって、子供が遊ぶために作ったんじゃないのかな。」馬は本当に子供の遊具に手頃な大きさだ。本物の出土品は、ここから十五分程歩いた伊興遺跡公園に保存しているようだ。
     気が付くと若紫がどこかのオジサンと親密そうに語り合っている。「仲間のひとかと思ったの。」どうやら散歩の途中らしいが、小さなメモ帳のようなものを持っているので、俳句でも捻ろうという人かも知れない。「遺跡公園には行きましたか。」「行きません。」それならどこに行くのかと尋ねられて今日のコースを教えると、「わざわざご苦労さま」と言われてしまった。
     少し北を毛長川が東西に流れている。川口市安行に発して、草加市と足立区の境界をなして足立区花畑で綾瀬川に合流する。しかし古墳時代には古入間川の最下流部であって、現代の地名で言えば熊谷から東松山・川越付近・大宮西部、浦和の大久保・文蔵地区・川口市の芝・鳩ヶ谷市の辻・里地区・三ツ和を経て、現在の毛長川となって千住付近で東京湾に注いだ。武蔵国と上野国を結ぶ関東の大動脈である。

    (前略)伊興遺跡近辺には港(津)があり、東京湾から関東平野内陸部へ人や物を輸送する為の中継地点として交通の要衝を為していたのではないかと推測されます。
    伊興遺跡では、出土した祭器の多くは当時の川辺と思われる地域から多く出土していますので、豊漁や水上交通の安全を祈る祭祀が頻繁に行われていたのではないかと言われております。
    古墳時代の畿内と関東とを結ぶ交易路には、東海道の海岸沿いを行く海路と、中部山岳地帯を抜ける東山道を行く陸路とがありました。この内、海路の方は東海道沿岸沿いに東京湾へ入り、これを北上して伊興に至り、ここから目的地別に旧入間川、元荒川、古利根川(中川)ルートに分かれ内陸各地へ至ったと推測されています。(「伊興古墳群について」 http://homepage3.nifty.com/kofun/ikou/index.html)

     「海路の方は東海道沿岸沿いに東京湾へ入り、これを北上して」という部分が気になる。繰り返すが古代史が苦手な私の言うことだ。信じなくても良いけれど、律令の定める「東海道」は、三浦半島から東京湾を横断して上総に出て、外房を通って香取・鹿島に向かうルートである。ヤマトタケルとオトタチバナの物語を思い出すまでもなく、古くから東京湾内部の河口付近には入らずに、真っ直ぐ東に横断する航路が自然だった。それが上総と下総の名称に表れているのは以前にも何度か話題になった。東京湾はおそらく遠浅の多島海であり、座礁の危険が多すぎたと思われる。
     香取鹿島から武蔵へは、香取海(霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼)、毛野川(鬼怒川)、渡良瀬川、古利根川、元荒川などいくつかの水系を利用して入間川へ至る。それが古代史の常識だろう。東京湾内が自由に航行できるようになり、江戸が商業の中心地に昇格するのは、中世の江戸氏台頭以後のことではなかろうか。
     園内には万葉の歌が記された標識がいくつも取り付けられていて、姫が喜ぶ。「板橋(赤塚)の万葉植物園にもありましたね。」万葉集は苦手で良く観察もしなかったが、宗匠は紀女郎の歌を発見したらしい。
     姫とハイジは水溜りに張った薄氷を割って、煎餅のように持って喜んでいる。冷たいではないか。「これは何ですかね。」東西南北を示すモニュメントに、絵文字のような不思議な形が記されているのだ。「梵字でしょうか。」違うね。ロダンの意見は採用しない。「象形文字かしら」と姫は考える。卯(東)と酉(西)は漢字だと分かり、「そうすると、ネウシトラウタツミでしょう」と画伯が指を折って考えた。数えてみれば他の二つは子(北)と午(南)なのだが、そう決めた後でも到底読めるものではない。

     薄ら氷を突いてをりぬ女子二人  閑舟
     氷割る指で数へて子丑寅     蜻蛉

     公園を出て伊勢崎線の下を潜り、都営竹の塚七丁目アパートの東の三叉路を右に行く。セブンイレブンの向かいを左に入れば延命寺だ。真言宗豊山派、如意山。足立区竹の塚五丁目二十六番十四号。脇に通用口があるが境内には入らず、ここは山門を見るだけで良い。

    昭和五十一年、新潟県佐渡より移建されたもので、宝暦四年(一七五四)、飛騨高山の名工梶原某の創建と伝えられる。一門一戸の薬医門で総欅造、屋根は切妻造、正面に軒唐破風が付く。複雑に組み上げられた構架と随所に施された装飾彫刻は見事である。特に欄間の迦陵頻伽・内法貫の龍・木鼻の獅子や獏などは秀逸である。
    移築にあたり門の主要部、彫刻などすべてが旧態のまま復元され、江戸中期の古建築として貴重な文化財である。(足立区教育委員会)

     説明にある通り彫刻が実に見事だ。「あれは天女でもないし。」「飛天かしら。」「そうじゃないのよ。」これは上の説明にある迦陵頻伽(かりょうびんが)のことだろう。上半身が人で下半身が鳥である。極楽浄土にいて美しい声で法を説く。「あれは象じゃないの。」左右の木鼻にある、長い鼻に牙を持った動物は獏である。「悪夢を食うんだ。知らないのか。」以前教えて貰ったことがあるので(渋谷の金王八幡だったか)、宗匠も講釈師も知っている。
     住宅地を抜けて旧日光街道に向かう。「こんな住宅地の中の道、地図も見ずによく歩けますね」と碁聖が言ってくれるが、実は適当に歩いてしまったので案の定間違えた。この辺に十三仏堂がある筈なのに、街道へ出た場所が悪かったようで見つからない。旧道からちょっと引っ込んだ場所で、下見の時も苦心した。仕方がないのでここは割愛して先に行く。どうせ堂は鍵が掛っていて十三仏は見えないのだ。(こういう言い訳の心理状態を「酸っぱい葡萄」、「防衛機制」と言うのだったかしら。)
     渕江小学校の信号を左折して少し行くと、氷川神社入口の看板が掲げられていて、そこを左に入る。保木間氷川神社だ。足立区西保木間一丁目十一番四号。隣は真言宗豊山派の宝積院で神社の別当寺である。
     ここでは何と言っても第一番に、田中正造の「保木間の誓い」を記憶しなければならない。三十年以上も前に荒畑寒村『谷中村滅亡史』を読んで以来、足尾鉱毒事件と聞くと私は血が騒ぐのです。三年前の一月に、旧谷中村跡を訪れたことも思い出す。枯れ芒と枯草の中に立つ延命院跡の鐘、共同墓地に取り残された卒塔婆や庚申塔が北風に吹き晒されて、実に蕭条たる光景であった。
     明治十年(一八七七)、経営不振の足尾銅山を政府が古河市兵衛に売り渡したのが発端である。事業の進展とともに、銅山から出る煙が山の樹木を枯死させ、川には硫酸銅が流れ込んだ。
     十四年、渡良瀬川では硫酸銅の汚染が進み、渡良瀬川で獲った魚類の販売が禁止された。二十一年の大洪水で汚染水が田圃に流れ込んで毒素が沈澱し、渡良瀬川、利根川流域の稲が全滅した。田中正造は二十四年第二回帝国議会で鉱業停止を要求したが、陸奥宗光農商務大臣は、稲作被害の原因は鉱毒によるとは断定できない、最新機械の導入によって鉱毒被害は解消すると回答した。陸奥の二男順吉は古川市兵衛の養子になっていた。
     この頃、政府と古河財閥は被害農民との間に強制的に永久示談の交渉を進めていた。端金と引替えに永久に文句を言うなということであり、つまり既に政府側も被害の原因は分かっていたのである。二十九年三月、田中正造は第九議会で永久示談の不当性を追求する。七月から九月にかけて渡良瀬川は三度大洪水を引き起こし、鉱毒被害は東京府のほか五県に広がった。
     三十年、榎本武揚農商務大臣は政府に責任なしと言明した。三月二日、被害農民による第一回押し出し(大挙請願行動)の結果、榎本農商務大臣の現地視察が実現したが、その視察が余りにもおざなりだと感じた被害民は、三月二十三日に第二回押し出しを決行する。しかし総代のうち三人が農商務省に辿り着いたものの大臣への面会は叶わない。当時、こういう行動をどう呼んだら良いのか分からず、やむを得ず「押し出し」と称した。しかし被害民はいきなりこうした行動に出たのではない。その前に何度も手順を踏んで請願書を提出して効果がないための行動である。
     更に三十一年(一八九八)九月二十六日に渡良瀬川が大洪水を引き起こし、群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の鉱毒被害民一万人が三回目の押し出しに出発した。しかし途中で警官隊に阻まれ、ここ保木間氷川神社に到着したときは三千人に減っていた。私たちが今いるこの場所である。紛糾を避けるために必死で説得した田中正造の演説に、被害農民は涙を流し、総代五十人を残して帰郷した。その時に正造が被害民と約束したのが「保木間の誓い」である。この時点で正造は、代表が農商務大臣と直接交渉すればある程度の回答が引き出されると思っていたのではないか。正造は政治家ではなかった。義人である。私は日本史上に、この人ほど「義人」と呼ぶに相応しい人物を知らない。
     大石正巳大臣への面会は叶ったものの、直後に政権が崩壊してしまったから、折角の「誓い」も結局は全く無駄なことに終わった。その後三十三年(一九〇〇)二月、第四回押し出し(川俣事件)が起きた。もう正造は反対せず、この動きに合わせて国会質問を行うことになっていた。

     前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した二千五百名の被害民は、翌朝九時頃大挙上京請願のために同寺を出発した。途中、警察官と小競り合いを演じながら正午頃邑楽郡佐貫村大佐貫(現群馬県明和町)に到着、ここで馬舟各一隻を積んだ二台の大八車を先頭に利根川に向かった。その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ちうけた三百名の警官隊に阻まれ、多くの犠牲者を出して四散した。この事態を重くみた佐貫村(現明和町)の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は、村医を呼んで負傷者に応急手当を施し、炊き出しを行い、にぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた。この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し、これを後世に伝えている。これが川俣事件である。
     この事件で負傷し、現場及び付近で捕縛された被害民十五名は、近くの真如院に連行された。翌日以降の捜査で総数百名余がさらに逮捕され、うち五十一名が兇徒聚衆罪で起訴された。(群馬県邑楽郡明和町「川俣事件記念碑」より)

     この事件が田中正造の議員辞職への引き金になった。議会活動の範囲では鉱毒被害民は救済できない。

    凶徒嘯集!ああこれ彼らが熱血と、紅涙とを傾け尽して、僅かにかち得たる報酬なりき。ああ自己の権利を擁らんがために、自己の生命を保全せんがために、自己の窮状を訴えんがために、病躯を提し老躯を支えて、大挙東上せんとする者は、これ凶徒か悪漢か、そもそもまた農民か。(『谷中村滅亡史』)

     そして明治三十四年(一九〇一)十二月十日、幸徳秋水に草案を貰った直訴状を懐に、正造は天皇の馬車に突進するのである。しかし政府は既に遊水地を作って谷中村を滅ぼすことに決定していた。農民が堤防の修復をしても政府と古川財閥に雇われた人間がそれを破壊した。

     明治三十五年、赤麻沼大に氾濫して、谷中村の堤防を破るや、県庁は即ち奇貨措くべしとみなし、これが復旧工事の名の下に、二ケ年拾万円の巨額を費して、かへつて更に堤防を破壊したりき。爾来村民いかに懇願強請するも断じて修築せず、あるひは警察の権力を藉り来つて脅喝し、あるひは法律の威力を以て圧迫し、以て村民を他郷に追放するに努め、時に硬骨剛直の者あれば、啗はすに黄白を以てし、誘ふに酒食を以てして巧みに買収し、かくして二十年の昔、已に陸奥宗光に因りて企てられし陰謀は、機運漸く熟して爰に原敬の手によりて、遂に今日の実行となり、数十年の大疑案、一朝にして雲霧の如く消滅せしめ終れり。(『谷中村滅亡史』)

     参道の左側に、天鈿女命(アメノウズメ)の像が祀られているのは珍しい。古事記では天宇受賣命と書かれる。「確かにおっぱいを出してますね。」ロダンや画伯が顔を見合わせて笑っている。

    天宇受売命、天の香山の天の日影を手次にかけて、天の真拆を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸に槽伏せて蹈み轟こし、神懸りして、胸乳をかき出で裳緒を陰に押し垂れき。ここに高天の原動みて、八百万の神共に咲ひき。(倉野憲司校注『古事記』)

     不審に思って外を覗いたアマテラスは手力男によって岩戸から引き出される。猿田彦と出会った時もウズメは同じことをするから、よほど裸になりたがる女だ。「誰かが、日本ストリップの開祖だって言ってました」と姫も言う。滑稽と卑猥は演劇の原点である。
     その奥には高さ四メートルほどの小さな富士塚がある。しかし鳥居の扁額にも頂上の石祠にも榛名神社とある。「変ですね、どうしてでしょうか。」「手近な榛名富士で代用したんじゃないか。」山腹の石碑もほとんどが富士講に関係しているようだ。元々は榛名神社だったのではないか、後から富士塚を築いたのではないかと想像しながら、その場では「不思議」で終わったが、後で宗匠が調べてくれた。明治九年(一八七六)築造の「榛名塚」を、昭和十一年(一九三六)に改造したものらしい。
     知らなかったが「榛名塚」というものがあるのですね。と言うことは、榛名講があったということだ。榛名山の神は雹除け、嵐除け、火災除け、五穀豊穣に験能があり、農民の信仰を集めたと言う。それを富士塚に改造したからには、この辺りでは昭和になって榛名講が寂れてしまったのだろうか。
     危ないので登り遊びをしてはいけないとの注意書きを無視して登ってみようとしたが、溶岩がグラグラするので止めた。「そうですよ、壊しちゃったら大変です。」姫と私は諦めたのに、なんだ、若紫とハイジが登っているではないか。「エーッ、ダメですよ。」「だって桃太郎が、遊ばなければ大丈夫だって言ったのよ。」

     松明くや保木間の富士に登るひと  蜻蛉

     ここにはかつて千葉氏の陣屋があり、その守護神である妙見社が祀られていた。

     享徳三(一四五四)年に享徳の乱がおこると千葉氏内部で家督争いが起こり、千葉実胤が武蔵国石浜(現荒川区・台東区)、自胤が武蔵国赤塚(現板橋区)に逃れました(武蔵千葉氏の誕生)。さらに自胤は渕江郷(現足立区域)に移りました。
     戦国時代になると小田原の後北条氏に従い、渕江郷を中心に十三か所四百七十五貫文の土地を所領としました。渕江郷は、隣接する舎人郷(足立区舎人付近)に北条氏と対立する岩槻太田氏配下の舎人氏がいたことから、両勢力の最前線に位置しました。天正十八(一五九〇)年に後北条氏が滅ぶと武蔵千葉氏もこの地を去りました。武蔵千葉氏は、現在の本木にあった渕江城を拠点としました。
     江戸時代になると城があったことは伝説となり、武蔵千葉氏の守り神であった妙見社だけが残りました。(http://www.city.adachi.tokyo.jp/003/d10100061.html)

     後で行く国土安穏寺でも確認しなければならないので、ちょっと記憶に留めておきたい。武蔵千葉氏が武蔵国足立郡渕江を領有するのは自胤以降である。つまり、武蔵千葉氏と下総千葉氏とが分裂する以前に、千葉氏と足立には関係はないと判断できる。念のため『足立区史』(昭和三十年)を覗いてみたが、やはり結果は同じだった。
     竹の塚第一団地横の南北に続く歩道(竹の塚三丁目七番から四丁目三番)が「竹の塚彫刻の道」になっている。「こんなところでしたか。」
     立木の枝を払って青い色を塗ったようなオブジェが最初に途上する。題して「CHIMNEY」である。「コート掛けかと思っちゃったわ。」枝を払った跡の瘤のような部分がそう見えるので、煙突のようには全く見えない。「現代彫刻って分からないですよね。」こんなものが七つある筈だ。
     次々に現れる彫刻に、ひとつずつ講釈を始めるひとがいる。「芸術だよ、分かんないかな。」「石の風」を見ても私にはどうしも風を連想することができない。ティンパニの端っこに、狼のような獣の首だけがくっついているのは「泉」だ。「太鼓かと思いましたよ。」私だってロダンと同じだ。「バッカだな、これは泉だよ。水を飲もうとしてるんだ。」先に説明を読んでいるのではないか。姫は「空を眺めながら」に「何も裸体である必要はないじゃないの」と反応する。
     なんだか大根のような、貝の足のようなものが数本ぶら下がった不気味な形のものがある。私とロダンが説明を隠して、「これは何だ」と講釈師を試してみた。「これは地面の中の根っこだ、地球を意味しているんじゃないか。」なるほど、「地殻より」というタイトルがついていた。講釈師は現代芸術が分かるのである。「自我-その確立」。どこが自我なのだろう、私はまるで分からない。「これが自我の確立なんて、ナルシストの思い込みじゃないですか。」姫も厳しい。

     「そろそろ時間じゃないの。」十一時半に予約を入れてあると最初に宣言していたので、宗匠は間に合うかと心配しているのだ。大丈夫、丁度良い時間だ。保木間小学校の校庭には子どもたちが大勢集まって何かをやっている。「この時期に運動会じゃないよね。」通り過ぎて右折すると、増田橋の五叉路の角がジョナサン竹の塚店だ。ピタリ十一時半だ。店内に入ると、何も言わない先に「御予約の方ですね」と店員がにこやかに案内してくれる。二十人分の座席を確保してくれていたが、私たちは行儀が良いので人数分の席に詰めて座り、四人掛けのボックス席がひとつ要らなくなった。
     私は女性ばかりが集まった席の片隅に座ってしまった。「黒一点だね」とチイさんが指さし、ロダンは悔しそうにこちらを眺めている。私は既に学習しているので、釣銭が要らないようにサタデーランチのハンバーグにドリンクバーを付けた。これで千円である。
     しかし料理はなかなか出てこない。他のテーブルでは既に食べ始めているのに、私たちはそれを眺めているだけだ。やがてマリー(ドリア)に次いで姫の注文したものが(料理は忘れた)出てきた。「良かった、ビケになるかと覚悟してたのに。」
     「ビケ」とは何であるか。「知らないわ、どこの言葉なの」と若紫は不思議そうな顔をする。ハイジも知らない。ビケあるいはビッケと言っていたかどうか忘れてしまったが、意味は通じたから私も知っているらしい。「それなら茨城以北の言葉でしょうか」と姫が首を傾げる。しかし各種方言辞典を探してみてもビケは見当たらない。語源は不明で勝手に推測すると、ビリッケツの省略形ではあるまいか。秋田ではゲッパ、あるいはケッパとも言ったなと思いだした。
     やがて若紫とクルリンのドリアがやってきた。他のテーブルでとっくに食べ終わった連中がこちらを眺めている。そして私とハイジのハンバーグが最後になった。
     「さあ、出ようか。」まだ食べ終わっていない姫とハイジに、講釈師がわざとらしく声をかけた。毎度お馴染みのギャクに、女性陣は一斉に「どうぞ」と反撃する。「エーッ、三人で来るのか。ハイジとあんみつ姫だけかと思ってたよ。」
     私たちのテーブルの会計は若紫が全員分を取りまとめたが、講釈師たちはレジでひとりずつ支払っている。「お蔭で五分も待たされちゃった。」若紫は少々ご機嫌斜めだ。「これは反省しなくちゃいけないわよ。」

     外に出ると風も止んで、穏やかな日差しになってきた。それで気を抜いた訳ではないが、ひとつ早く曲がってしまった。「間違えた。」しかし「講釈師に気付かれないように行きましょう」というロダンの指示には従わなければならない。狭い地域だから何とかなるだろう。「三回も下見したんじゃないの。道が一本違うのよ。」地図を手にした若紫が私を責める。大通りに出て一瞬考えたが、すぐに分かった。「こっちじゃないか」とドクトルも声をかけてくるが、私だって言われる前に分かった。この通り沿いにあるのだから南に行けば良い。その先の信号に出てくる筈だったのだ。
     真言宗豊山派の寺が三つ固まっていて、いずれも西新井大師総持寺の末寺になる。足立区の寺院の一覧を見ると、真言宗豊山派の数が他宗を圧倒して多いのは、西新井大師があるためだろう。因みに智山派は一院しかない。
     最初は万福寺だ。足立区竹の塚一丁目一番十五号。明治九年、公立竹嶋小学校が設置された。それ以外は特に見るべき物はないと思われる。但し、私はうっかりネットの記事を確認もしないまま、「弘法大師道」の道標のことを案内文に書いていたものだから、若紫に追及されてしまう。「これってどういうこと。」「分からない。」「調査が足りないのよ。」
     山門の掲示板には十善戒が貼り出されていて、こういうものを見ると必ず講釈師が対象になる。

     十戒を守れず拝す満福寺  午角

     常楽寺。足立区竹の塚一丁目十番十六号。六地蔵は万福寺のものと似ている。竹塚東子の墓がある筈だが、下見の時には見つけられなかった。だから期待もせず、場合によっては割愛しても良いかと思っていたが、予定通り寄ってみて良かった。門を入ると、ちょうど掃除が終わって竹箒を片付けているらしい坊守さんがいるので教えを乞うと、「そこの谷古宇さんですよ」と案内してくれた。濃紺の作務衣が凛々しいひとである。
     竹塚東子は本名が谷古宇四郎左衛門。寛政から文化にかけて俳句や戯作を作ったが、実は私は初めて知る。「谷古宇橋があるじゃないか。」草加の人の言うことは信用しなければならない。谷古宇は川口市東南部から草加にかけての郷名だから、中世にはその領主だったと思われる。ほぼ正方形の墓石の真ん中には枠で囲んで「喬雲醍醐居士」とあり、その右に上五中七、左に下五と辞世を三行に彫ってある。

     冬川や瀬ぶみもしらず南無阿弥陀仏 竹翁

     谷古宇家墓誌は最近作られたものらしく、文化十二年(一八一五)十一月十三日の東子から始まって平成二十二年まで八人の名が刻まれている。
     墓石を見ればロダンは必ず院殿居士の戒名を話題にする。「真宗は簡単なのよね」とハイジが言うのは、菩提寺がそうなのだろうか。我が家の宗旨も真宗大谷派で、父の戒名はたった三文字の実にシンプルなものを付けて貰った。
     境内に戻ると、坊守さんが「竹塚東子の『俳画帳』と彼の全生涯」という冊子を配ってくれている。全く思いがけないことでとても嬉しい。

     早梅や坊守の手に竹箒   蜻蛉

     頂戴したのは『足立区文化財調査報告書No.14』に掲載されたものの別刷で、早速参考にさせて貰う。

     千住の宿を離れて奥州街道をほぼ一里余で西北に赤山街道を分岐する所に増田橋があり、その分岐点に鎌倉時代から続いて、徳川時代になって帰農していた谷古宇家があった。その何代目かははっきりしないが四郎左衛門とて常楽寺の檀家で、文才に秀で、竹塚東子と称して千住関屋の巣兆に兄事し、俳諧に戯作に多くの著作をものし、しかも家業の農業を、活花の師匠を、時には落語界にまで進出した足立区には稀な活動家であった。(「竹塚東子の『俳画帳』と彼の全生涯」)

     増田橋の分岐点というのは、さっきのジョナサンがあった五叉路の辺りだろう。この小冊子でも、「傑作と呼ばれる程のものはなかったらしいが」と断りながら、『田舎談義』ほか二十九編の戯作名を挙げている。豪農の余技であろうか。冊子の言う「俳画帳」は享和三年に東子が奥州を旅したときのものだ。
     次は西光院だ。竹の塚一丁目三番十六号。本堂前には大きな金剛界大日如来坐像が鎮座する。正確な大きさは分からないが、丈六よりは小さいようだ。蓮弁に元禄十二年九月の銘と、河内喜衛門・同久蔵・母かく・河内久左衛門などの名が彫られているらしい。開基は河内与兵衛胤盛、もと北条氏の家臣で天正十八年(一五九〇)小田原落城後竹塚村に土着し、以後代々名主を務めた。
     大仏の脇には、享保十一年銘の青面金剛庚申塔と元禄十一年銘の地蔵庚申が並んでいる。年号は立札に書いてあり、実際にそうなのか、ハイジが背面に回って確認しようとしたが判別できなかった。「ほら、講釈師がちゃんといるよ。」「俺も有名人になっちゃってさ。どこにでも顔を出さなくちゃいけないから忙しいよ。」若紫は余り見たことがないらしい。青面金剛に踏まれる邪鬼を見て、「必ずこういう者がいるの」と訊かれる。講釈師は必ず踏まれなければいけないのだ。

     きんかんの実も寒々し西光院  午角

     「あれは十三段って決まっているのかしら。何の意味がある。」十三層石塔を見上げた若紫の疑問である。考えたこともなかったが、「十三仏信仰に関係するだろうか」と、私は適当なことを言ってみた。宗匠は慎重だから好い加減なことは言わない。私は多重塔と言ったが多層塔とも言う。宗匠に調べて貰った結果、私の推測は間違っていなかったようだ。

    元来、仏陀を祀るものとして建てられた塔がやがて死者の霊を祀るものとなり、同時に三重、五重、七重の塔等が建てられるようになり、十三仏の信仰と重なり十三層塔ができました。(http://www.seiryuji.com/worship/09/body.html)

     いつも忘れてしまうので、記録のために十三仏も挙げておこう。不動(初七日)・釈迦(二七日)・文殊(三七日)・普賢(四七日)・地蔵(五七日)・弥勒(六七日)・薬師(四十九日)・観音(百か日)・勢至(一周忌)・阿弥陀(三回忌)・阿閦(七回忌)・大日(十三回忌)・虚空蔵(三十三回忌)。
     あんみつ姫は某協会の新年交流会に出席するため、「午後の方が面白そうなのに」と、泣きながら駅に向かって別れて行った。協会公式行事らしいので引きとめる訳にはいかない。
     そして私たちは次の目的地に向かう。うっかり変な方向に歩きだそうとして「違うんじゃないの」と若紫から声が掛る。「そうだった、あそこだよ。」「全く。」
     八幡神社と炎天寺(真言宗豊山派)は同じ敷地に隣り合っている。足立区六月三丁目十三番二十号。八幡の鳥居を潜ってすぐに炎天寺に回る。

    八幡宮 六月村にあり。別当を炎天寺と号す。伝へいう、八幡太郎義家朝臣奥州征伐のとき、この国の野武士ども道を遮る。そのとき六月炎天なりければ、味方の勢労れて、戦はんとする気色もなかりしにより、義家朝臣心中に鎌倉八幡宮を祈念ありしかば、不思議に太陽繞るがごとく光を背に受けければ、敵の野武士ら日にむかふゆゑに眼くらみ、おほいに敗北しぬ。よつて、この地に八幡宮を勧請ありしとぞ。このゆゑに村を六月といひ、寺を炎天と称し、また幡正山と号すとなり。(『江戸名所図会』)

     正式には幡正山成就院炎天寺と称す。この話が本当なら前九年の役が永承六年(一〇五一)、後三年の役の時としても永保三年(一〇八三)のことで、開基は古い。
     この寺で一茶が「痩せ蛙」の句を詠んだ縁で、それに因んで毎年十一月に「一茶まつり全国小中学生俳句大会」を開催している。全国から二十五万句も投句されるというから相当な規模だ。
     一茶は宝暦十三年(一七六三)五月五日、信州柏原に生まれ十五歳で江戸に出て、生涯のほとんどを仮住まいや旅で暮らした。異腹の弟との長年に亘る相続争いは文化十年(一八一三)になって漸く和解し、壁で仕切ったものではあっても、初めて自分の家というもの持った。「是がまあつひの棲家か雪五尺」。翌年にはキクと五十二歳にして初めて結婚した。四人の子供を儲けたがいずれも夭逝し、キクも文政六年(一八二四)に死んだ。後妻ユキとは離縁し、文政十年(一八二八)三度目の妻やをを娶った。しかし閏六月一日の大火で家が焼け、辛うじて土蔵だけが焼け残り、十一月十九日、一茶はその土蔵で死んだ。翌年四月、やをは娘やたを生んだ。この娘は無事に成人し、越後高田の農民の子と結婚して一茶の血を伝えた。
     生涯に残した句は二万以上と言われ、芭蕉の千句、蕪村の三千句と比べてみると、一茶の特徴が浮かび上がる。推敲を重ねて芸術的完成を目指すよりも即興で詠み捨てたような句が多く、従って類句が多い。芭蕉以前の軽みや滑稽を意識している気配がある。また感情を剥き出しにしたような句が見られるのは、近代的な意識の表れと言って良いのではないか。芭蕉(一六四四~一六九四)の時代には、こんなものが俳句になるとは思いもよらないことだったに違いない。十九世紀、化政期に至って爛熟する時代精神でもあっただろう。

     武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる、四月二十日なりける
     やせ蛙負けるな一茶是にあり  一茶

     竹塚東子を訪ねた時のことだろう。池の中には大きな蛙と痩せた小さな蛙が相撲をとっている像が置かれているが、一茶が応援したのはこれではない。「蛙合戦」(かわずがっせん)、「蛙軍」(かえるいくさ)とも呼ばれ、繁殖期に雌が少ないため、雄が群がりあって争奪戦を繰り広げるのだ。玄関の前に布袋のような大きな福蛙が鎮座する。一茶の句碑はもうひとつある。

     蝉鳴くや六月村の炎天寺    一茶

     これには「むら雨や六月村の炎天寺」の類句がある。「一茶は俳句だけで食っていけたのかい。」ドクトルは疑問に感じている。俳諧のネットワークというものが存在した。俳諧は連歌から発生し、全国にさまざまなサークルを生み出した。そして芭蕉以前に、既に貞門派の俳諧は全国に会所・取次所を持って、地方のサークルを結び付ける俳諧組織を作り上げた(山本優子『江戸の想像力』)。全国で俳諧作りを楽しむ連中が、会所や取次所を経由して中央に投稿する。それを判定するのが点者であり、職業として成り立つようになっていたのである。
     十七音に過ぎないとは言え、何事かを表現して発表したいと考える層は、かなりの数に上っていた。単なる識字率の問題ではないだろう。江戸時代の庶民の文化程度は、世界史的に見ても相当なレベルに達していたのである。江戸に奉公に出された信州の農家の子が点者になれる時代だった。「そうか、かなり文化程度が高かったんだな。」
     点者だけで余裕のある生活が出来る訳ではない。しかし有名な宗匠ならば各地の旦那衆の家を泊り歩けばなんとかなった。芭蕉が奥の細道を旅したのも、そうしたネットワークによったのである。一茶も寛政四年(一七九二)から寛政十年まで丸六年もの間、京阪、四国九州の旅をしている。「一茶の田舎巡りは続いていた。生きるために、と言ってよかろう。」(黄色瑞華『一茶入門』)。竹塚東子のもとを頻繁に訪れたのも同じ事情だと思われる。
     一茶の他には、こんな句碑がある。

     日洩れては急ぐ落葉や炎天寺  石田波郷
     施餓鬼会の背に極楽の余り風   石鍋静穂
     蝉声降りしきれ寺領に子どもらに    楠本憲吉
     黄銀杏の一茶まつりの子にあまねし  吉本忠之

     「黄銀杏」をギンナンと読んではいけない。黄金色に色づいたイチョウの葉のことだろう。一茶祭は十一月二十三日である。「この忠之ってどういう人なの。」時々可憐清楚な句を作るハイジも知らないようで、勿論私も知らなかった。一茶まつり「全国小中学生俳句大会」の二代目審査委員長だということくらいしか分からない。石鍋静穂と言う人も知らない。とにかく俳人というのはやたらに多いのです。私たちも小学生に負けないように頑張ってみた。

     蒼き空風も肌さす炎天寺   午角
     北吹くや句作に悩む炎天寺  閑舟
     初春やあつけらかんと石蛙  蜻蛉

     山門近くの塀際には石仏が多く並び、その中で丸彫りの如意輪観音は珍しいように思う。「そうだね、珍しい」と宗匠も頷いているから、余り見ないものだ。山門を出る時、門に掲げられた暖簾のようなものに関心が集まる。これは単なる暖簾ではないのか。「違う、幕だよ」と講釈師が断言する。調べてみると山門幕と言うものだ。

     住宅地の間の道で庚申塔を祀った祠を見る。年代は分からない。右は青面金剛、左は(文字が光って読めないのだが文字庚申だと思われる。民家のブロック塀の上に、小さな林檎をいくつも貼りつけてあるのは何の意味があるのだろう。触ってみると本物のリンゴだ。不思議なことである。
     旧日光街道に出たところで、「ちょっと待って」と後ろから声が掛った。「どうしたの。」急いで戻ってみると、クルリンが血の出ている片手を押さえている。曲がり角で転んでしまったのだ。「段差があったからね。」手で支えたから大したことにはなっていないようだが、眼鏡は片方のレンズがとれてしまっている。「大丈夫。遠視のだから、なくても歩けるよ。」桃太郎はちゃんとバンドエイドを持っているのが偉い。
     少し行って右に曲がり込めば島根鷲神社に着く。「島根って、島根県と関係があるの。」関係ない。この辺の地名である。島根四丁目二十五番一号。私はかつて浅草の鷲神社を「わし」と読んでダンディに笑われた。しかしここは「おおとり」ではなく「わし」と読む。

    往古入江の景勝地なり。伝えて白すに諸神舟にて上陸したる処とて社の淵源は古く日本武尊東国を鎮護せられ、此の地を祀られる尊を稱へ、大鷲尊、又浮島明神とも号す。時へだて源頼義公(源氏旗上げ)崇敬厚く関東一円に奉斎す。当時武蔵国足立郡淵江郷島根と称し、亦島畑多きが故に七祠祭祀あり。元禄八年の検地により全く一村となり、七祠の内二柱大神を合祀し八幡社、誉田別命、明神社国常立命の三神明神の社となす。(由緒)

     つまり海岸線がここまで来ていて、諸神が上陸したと言うのである。ただこの説明には少しおかしな所がある。「八幡社、誉田別命、明神社国常立命の三神明神」とは何だろう。誉田別命(応神天皇)はつまり八幡であり、重複して書く意味がない。たぶん日本武尊を書き入れるところを間違えたのではないかしら。
     立派な拝殿で十二弁菊花紋を飾る。神社建築の様式が良く分からないので用語が合っているのかどうか自信がないが、切妻平入りの正面に大きな破風が付き、妻にも破風にも外削ぎの千木を備えている。
     明治二十七年二月あるいは三月に、子規が虚子と共に千住から草加まで歩いた際、この村にやって来ると辺り一面に梅が咲いていた。「そうなの、子規はまだ元気だったのね」とハイジが溜息を吐く。村の名を尋ねて梅島村だと応えられて面白く思った。「そう言えば、この先に梅島駅がありますね」とヨッシーがすぐに反応した。当時は梅島村島根と言ったのだ。

     市場のあとを過ぎて散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつゝ行くに固より目的もなき旅一日の行程霞みて限りなき此街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問へば面白の名や。

     鶯の梅島村に笠買はん  子規

     神社の説明板には「傘かわく」となっているが、誤読と思われる。「かはん」を「乾く」と読んだのだろうが、子規は傘を買おうと言ったのだと思う。この時の探梅行で出来た句は、草加の札場河岸公園で句碑になっていたから覚えている人もいるだろう。
     昭和六十三年に復元された富士塚には、「昭和七年七月納之 開山記念」の石碑が立つ。中腹には「島根十三夜同行」の石碑もあり、頂上には木花開耶姫の石祠が置かれているから、こちらは正真正銘の富士塚だ。注意書きもなく簡単に登れそうなのに、今度は誰も登らない。
     巨大な石燈籠(長寿山灯籠)には講釈師も驚く。「三十五トンもあるんだってさ。」「ちょっと傾いてないかしら。」クルリンの指摘で、「そうだな、ロダン、ちょっとそこに立ってみなよ」と言いだした。「地震が起きてロダンに崩れ落ちるんだ。」「なんで私がそんな目にあわなくちゃいけないの。」高さは十五尺、筑波の御影石である。

     旧日光道に戻ってセブンイレブンの角の信号を右に曲がる。蠟梅が咲いている。割に広い道路を二三分ほど行くと、道路に面して大きな赤羽家長屋門が見える。島根四丁目十八番五号。現在は赤羽家の所有になっているのでこう呼ばれるが、本来は島根村の名主、牛込家の門である。屋号を金武と称していたので、「金武の長屋門」とも言われる。さっき案内資料を読んでいた若紫から「金武」はどう読むのか訊かれて答えられなかったが、案内板にはちゃんとルビが振ってあった。「キンブ」である。牛込氏と言えば戦国時代に神楽坂の辺りに城を構えた一族で、その系統かも知れない。
     説明板を丸写ししてしまうが、屋根は寄せ棟作り瓦葺き。桁行が十八・五メートル、梁間が六・七メートルの一重二階建て、外壁の上部一・七メートルが漆喰の大壁で、下部二・七メートルが簓子(下見板の押縁として、縦に打ちつける細長い材)下見板張となっている。正面左右の上下に数個の与力窓がある。両開きの欅の扉には乳鋲が打たれている。講釈師が大好きな話題だから、クルリンとハイジに「ちちびょうだよ」と得意そうに説明をしている。饅頭金具、鐶甲、鋪首等とも言う。釘を隠すための装飾である。

     蠟梅の香り幽かに長屋門  蜻蛉

     目の前の角を左に曲がり、長い塀を回り込むと国土安穏寺(日蓮宗)に着く。島根四丁目四番一号。天下長久山と号す。将軍の日光参詣や鷹狩りの際の休憩所となった程だから格式は高い。元は妙覚寺を名乗っていたが、寛永元年(一六二四)家光によって現在の名を与えられ、葵の紋の使用を許された。朱の御成門の閉ざされた扉には金の三つ葉葵が燦然と輝き、軒丸瓦も全て葵の紋だ。仁王門は入れないように柵で囲ってあるので、その脇の駐車場の所から境内に入ることになる。
     この寺は宇都宮の釣り天井事件に関係があると主張している。こんな所で釣天井事件に出会うとは思わなかった。「その根拠はなんだい。」「坊主が予言したって言ってる。」

    三代将軍家光が日光参詣に向かう途中、当寺に立ち寄ったときのこと。住職の日芸上人より、不吉な予感がするので道中気をつけるよう、特に宇都宮では警備を厳重にするようにと忠告された。そこで家光は帰路一泊する予定だった宇都宮城に立ち寄ることをやめ、さらに公儀目付方を送り込んで城内をくまなく調査させた。すると家光が泊まるはずであった寝所に、就寝中の将軍を押しつぶすべく、釣天井が仕掛けられていることが発覚した。当時の宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役であった本多正純。正純は、家光を亡きものにして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。http://e-sampo.co.jp/column-takenotuka1.htm

     そもそも年代がおかしい。寛永十三年(一六三六)の家康七回忌法要のための日光参詣の時という俗説(フィクション)をそのまま踏襲している。しかし本田正純が失脚して出羽に配流されたのは元和八年(一六二二)、家光が将軍職を継ぐのは翌年のことである。従って「三代将軍家光」と書かれるだけで、一気にこの話は嘘になってしまうのだ。仮に事件があったとしても、それは秀忠と正純の物語でなければならない。
     しかしおそらく事件はなかった。そもそも将軍暗殺を企てて発覚したのなら、改易配流で済む筈がない。間違いなく死罪、よくて切腹であろう。そこまでいかず出羽に配流になったのだから、事情は別にある。正純は家康の側近ではあったが秀忠には嫌われていたようだし、秀忠側近の土井利勝との権力闘争の気配が強い。政権中枢にいた筈の本多正純がいきなり改易されたことで、世間は様々な憶測をしたのだろう。
     どうやら伝説の出所は、文政の頃(?)に出た『大久保武蔵鐙・宇都宮騒動之記』にある。『大久保武蔵鐙』は大久保彦左衛門の伝説や一心助の話を広めた本で、当時の「実録」小説である。国会図書館の近代デジタルライブラリーで明治の印刷本を読むことが出来る。ところで、あるサイトでは、これを「大久保武蔵鐙という人が書いた宇都宮騒動記」と記していて、ちょっと恥ずかしい。私もこういう間違いを仕出かす可能性は高く、自戒しなければならない。

     先ず新しく仮屋の御殿を五間四方にして片傍に湯殿を付、其湯殿を一丈四方に造営、陥穽は露見為安しとて深く謀略を運し、天井を釣其上へ大盤石を乗せ置きて、将軍家御湯浴ある際、四方の釣縄を切て落し、御側廻りの人々諸共に圧殺す工に仕掛けれども、(略)
     将軍家光日光御社参として、今日既に下野宇都宮に着御有べき御定めにて御先供大半到着す、御乗物も逸近付今二里ばかりにて宇都宮に到らせ給ふ所に、江戸の方より早打と見えて騎馬の武士鞭を揚げて将軍家の御行列に近付、御注進の儀候と高らかに呼はり、下馬するや否や、江戸御留守老中寄りの書簡を呈し奉るに、途中の事なれば御輿添の役人方是を言上あれば、(中略)本多正純は我謀計十分成就の心地にて有りし所、案の外なる大御所の御病気故、将軍途中より御帰還ありしし、本意なく思ひしかど(後略)

     これが講談や歌舞伎に脚色されて伝説化された。それにしても、この寺をその事件に関わらせるのは、どういう事情があるのか分からない。
     大きな五輪塔も見て貰わなければならないので、墓地の入り口の掃除小僧と居眠り小僧の像の間を真っすぐ行く。かなり大きな黒っぽい五輪塔で、それほど風化もしていない綺麗なものだ。地輪には「千葉太郎満胤尊儀」、水輪に「開基壇越」とある。

    創建は、応永十七年(一四一〇)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。(足立区教育委員会)

     説明版によれば「足立の領主」だった満胤がこの寺を開基したことになっている。しかしこれは信じ難い。満胤は正平十四年(一三五九)に生まれ、応永三十三年(一四二六)に没した。千葉氏第十四代当主。第十三代当主・千葉氏胤の子で母は新田義貞の娘である。
     保木間氷川神社のところでも触れたように、満胤の孫・胤賢のとき、享徳の乱(一四五四)に際して千葉氏の内紛が起きた。胤賢は戦死し、その子である実胤は石浜に、自胤は赤塚に逃れた。これが武蔵千葉氏の始まりであった。一方、満胤の孫輔胤につながる一族は下総佐倉に残る。
     そして自胤以前に武蔵千葉氏が足立区に関係した形跡がないのは、先に記した通りだ。後の時代になって、武蔵千葉氏が千葉氏の正統であることを主張するため、分裂前の満胤を持ち出したのではないだろうか。

       本堂の前には寛永寺の灯籠が対で置かれ、左に回ると家光手植えの松がある。「皆さん、高村光雲の日蓮像は見たのかしら。」さっき若紫が一人で御成門の裏の方に回って行ったのは、それを見るためだったのか。私は日蓮には興味がないので下見の時にも見ていないが、高村光雲と言うので見る気になった。宗匠も「どこにあるの」とついてくる。四メートルほどもある立像で、外からも肩から上が見えていた。恰幅の良い日蓮は左手で経巻と数珠を抱え、右手は前に差し伸べている。ネットで検索してみると、どうやら鎌倉長勝寺のものと同じもののように見える。同じ鋳型を使ったのだろうか。どういう訳か、この寺はこの日蓮像のことを余り宣伝していない。
     ここでヨッシーがリュックから大きな箱を取り出した。開ければどら焼きが並んでいて、皆から歓声が上がった。そうか、途中で休憩はどこでするのかと訊かれたのはこのためだったのですね。感度の鈍い私はまるで気付かなかった。丁度良いので手頃な石に座りこんで休憩する。ちゃんと全員に行きわたって二つ三つ余ったようだから、参加者数の見込みも概ね正しい。碁聖は湯たんぽ代わりに朝買った缶入りのお茶が役に立ったと喜んでいる。
     食べ終わったトミーが「あれは兼六園の灯籠と同じ形ですね」と石灯籠を指さした。「行ったことはありますか。」私は無学な上に旅行と言うものをしないので兼六園にも行ったことがない(と書いていて、結婚前に妻と金沢に旅行したこと思い出した。それなら兼六園にも行ったかも知れない)。しかしこの灯篭のことなんかまるで知らなかった。講釈師も「兼六だよ、知らないのか」と威張る。
     「琴のつめだよ。」「琴って、生田流とかですか」ロダンの反応に講釈師が攻撃する。「生田流も何も関係ないよ。爪だよ。」しかし良く聞いていると弦を支える台のことであり、それならば「爪」ではなく「柱」ではないか。つまり灯籠の足が二本になっているのが徽軫(ことじ)に似ているのである。(この字を初めて知った)。徽軫灯篭、または琴柱灯篭と言う。勉強になるね。

     日が傾いて少し寒くなって来た。寺を出て道路が二股に分岐する前に横断したのに、若紫が元の側に大きな松を見つけてしまった。「あれは何なの。」倒れかかる幹を突っ支い棒で二等辺三角形のように支えていて、その下に車が止めてある。説明板が設置してあるようで、ドクトルと若紫が車を縫ってもう一度探検に出かけた。実に好奇心の旺盛なふたりだ。戻ってきたところで訊いてみると樹齢三百年の松だと言う。それなら、さっきの家光手植えの松の方が古いことになる。
     通学路を右に入りマンションが並ぶ間を抜け、島根小学校を通り過ぎた角に猿仏塚がある。栗原一丁目四番二十五号。下見の時には探し当てるのに苦労した。私が参考にしたサイトには、小学校の東側のマンションとの間の道にあると書いてあって、何度も歩いて見つけられず、近所の人に尋ねても分からない。「そこの学童保育の先生なら知っているかも知れません」と言われて訪ねたが、不思議そうな顔をするばかりだ。実に無学である。何度か歩き回ってやっと発見したのがこの場所だ。小学校の西側になる。理由は分からないが移設したことになる。昭和三十年代の写真を見ると、田圃の片隅に小さな祠が建っているのが分かる。高度成長が始まるまでは、この辺りも一面の田圃だったのだろう。まるでその面影はない。
     祠の中には板碑型の供養塔が三基並び、その前に供物台が置かれている。右端は阿弥陀三尊の種子(だと思う)を彫った寛永十四年(一六三七)の念仏供養塔、残りの二つは寛永八年(一六三一)と延宝八年(一六八〇)の庚申塔だ。
     足立区教育委員会の案内板には「土地の人はこれを猿仏塚と呼んで、それにまつわる美しい民話を今に伝えている」と、赤ん坊を熱湯に漬けてしまった猿の哀話を紹介している。猿の浅知恵によって赤ん坊を死なせ、後悔した猿は自殺するのである。哀れに思った村人が塚を築いて菩提を弔った。
     こんな話だが、実は西鶴『懐硯』の中の「人真似は猿の行水」が出所である。遥か後に太宰治が『新釈諸国噺』に「猿塚」として書き直した。『お伽草紙』と同じく戦争中の作品で、太宰の精神が最も安定し充実していた頃に書かれた。教育委員会の説明よりは太宰の方が良い。

     むかし筑前の国、太宰府の町に、白坂徳右衛門とて代々酒屋を営み太宰府一の長者、その息女お蘭の美形ならびなく、七つ八つの頃から見る人すべて瞠若し、おのれの鼻垂れの娘の顔を思い出してやけ酒を飲み、町内は明るく浮き浮きして、ことし十に六つ七つ余り、骨細く振袖も重げに、春光ほのかに身辺をつつみ、生みの母親もわが娘に話かけて、ふと口を噤んで見とれ、名花の誉は国中にかぐわしく、見ぬ人も見ぬ恋に沈むという有様であった。

     このお蘭が宗旨違いで親の許さぬ次郎右衛門と駆け落ちして、貧乏所帯の中で待望の男児を儲けた。猿の吉兵衛はお蘭が子供の頃から可愛がっていた忠実な家来である。

     その頃、近所のお百姓から耳よりのもうけ話ありという事を聞き、夫婦は勇んで、或る秋晴れの日、二人そろってその者の家へ行ってくわしく話の内容を尋ね問いなどしている留守に、猿の吉兵衛、そろそろお坊ちゃんの入浴の時刻と心得顔で立ち上り、かねて奥様の仕方を見覚えていたとおりに、まず竈の下を焚きつけてお湯をわかし、湯玉の沸き立つを見て、その熱湯を盥にちょうど一ぱいとり、何の加減も見る迄も無く、子供を丸裸にして仔細らしく抱き上げ、奥様の真似して子供の顔をのぞき込んでやさしく二、三度うなずき、いきなりずぶりと盥に入れた。
     喚という声ばかりに菊之助の息絶え、異様の叫びを聞いて夫婦は顔を見合せて家に駈け戻れば、吉兵衛うろうろ、子供は盥の中に沈んで、取り上げて見ればはや茹海老の如く、二目と見られぬむざんの死骸、お蘭はこけまろびて、わが身に代えても今一度もとの可愛い面影を見たしと狂ったように泣き叫ぶも道理、呆然たる猿を捕えて、とかく汝は我が子の敵、いま打殺すと女だてらに薪を振上げ、次郎右衛門も胸つぶれ涙とどまらぬながら、ここは男の度量、よしこれも因果の生れ合せと観念して、お蘭の手から薪を取上げ、吉兵衛を打ち殺したく思うも尤もながら、もはや返らぬ事に殺生するは、かえって菊之助が菩提のため悪し、吉兵衛もあさましや我等への奉公と思いてしたるべけれども、さすが畜生の智慧浅きは詮方なし、と泣き泣き諭せば、猿の吉兵衛も部屋の隅で涙を流して手を合せ、夫婦はその様を見るにつけいよいよつらく、いかなる前生の悪業ありてかかる憂目に遭うかと生きる望も消えて、菊之助を葬った後には共にわずらい寝たきりになって、猿の吉兵衛は夜も眠らずまめまめしく二人を看護し、また七日々々にお坊ちゃんの墓所へ参り、折々の草花を手折って供え、夫婦すこしく恢復せし百日に当る朝、吉兵衛しょんぼりお墓に参って水心静かに手向け、竹の鉾にてみずから喉笛を突き通して相果てた。(太宰治『新釈諸国噺』「猿塚」)

     こういう出所の明らかな話が、「美しい民話」とされているのである。だから案外、古老の話なんかを聞いてもそのまま信用する訳にはいかない。足立区教育委員会は調べなかったのだろうか。
     いつ頃から伝えられたものか分からないが、おそらく庚申待ちの夜の世間話の合間に、ちょっと気が利いて西鶴なんかも読んでいた者が始めたのではないか。月待・日待や庚申講、念仏講等の寄り合いの際に「珍談奇談に興ずることはそうした席での大きな楽しみであった。」(日野龍夫『江戸人とユートピア』)。そして本来は遠い国の珍しい話だったものが、何度も繰り返され、いつの間にか我が村の出来事のように語り継がれた(と思う)。

     後は西新井大師に向かうだけだ。しかしその前にトイレ休憩をしたい。ギャラクシティ(子ども科学館)は工事中で入れなかった。地図を見ていたヨッシーが「環七に出ればイオンがあります」と言うのでそのまま行ってみたが、横断する場所がない。「そうだ、ハウジングがあるよ、そこなら大丈夫だ。」講釈師は何度も利用したことがあると言う。伊勢崎線の跨線橋の袂に確かに住宅展示場がある。しかし一戸建てばかりで入れそうなトイレはないぞ。「あるよ。」駐車場整理員に訊くと、トイレは曲がりこんだ所にあった。
     ここからは環七を西にまっすぐ行けば十分ほどで着く。正式には五智山偏照院總持寺と言う。真言宗豊山派。まだ初詣が続いているのだろうか、参道はかなりの人混みだ。こんなに人が大勢いる場所に来るのは久しぶりだ。人だかりのしている所を覗きこめば、若い男の猿回しが口上を述べながら猿に芸をさせている。団子屋、煎餅屋、葛餅屋にも人が群がり、若者は何かを喰いながら歩いている。物を喰いながら歩くのは美しくないと頑迷固陋の私は言う。
     昭和四十一年の火災で唯一焼け残った楼門を潜って境内に入る。この門は江戸後期の建立で、素木造、楼上に五智如来を安置し両脇に金剛力士像を配している。中に入れば大草鞋が吊るされている。
     関東の「厄除け三大師」は西新井大師 、川崎大師、観福寺大師堂(千葉県香取市)を言う。(私が言うのではない。)「それじゃ、あの有名な佐野厄除け大師はどうしてくれる」とロダンが憤るのも当然だが、これは「関東の三大師」の方に入っていて、青柳大師(前橋市)、川越大師、佐野厄除け大師の三つを言う。勿論、うちの寺が入っていないぞという異論は多いから、別の説もある。大体、「三大ナントカ」には必ず複数の説があると決まったものだ。
     「大師って誰のことですか。」信心深い桃太郎はそれが気になる。「厄除け三大師」は弘法大師を祀り、「関東の三大師」の方は元三大師良源を祀る。つまり、真言宗と天台宗との争いであった。天台宗なら伝教大師最澄ではないかと思うのだが、何故か元三大師が代表している。「元三大師ですか、なるほど。」私が元三大師のことを知ったのは深大寺に行った一昨年のことだから、簡単に「なるほど」と反応されると参ってしまう。無知なのは私だけだったか。
     本堂の西側に、弘法大師によって湧き出した井戸があり、それが西新井大師の名の由来になっている。つまり西側にある新しい井戸である。因みに中野区の新井薬師も同じように、弘法大師によって齎された新しい井戸を意味する。

     境内にも露店がびっしりと並んで、焼きそばやお好み焼きの匂いが漂ってくる。人が多くて迷子になりそうだが、取り敢えずお参りをして貰ってから境内を一周することにした。「ここに戻ってきてください。」桃太郎は線香を買って火を付ける。「人のお線香で煙を貰います」とヨッシーが笑っているので、私も真似してみた。
     ここは講釈師が詳しそうだから、後は彼に任せてしまおう。「塩地蔵だよ、悪い所になすり付けると治るんだ。」「それじゃ私は足が丈夫になるように。」画伯は心が真っ直ぐな人だからこう反応するが、講釈師は口になすり付けてみたらどうだろうと、もっと口の悪い人間は言ってみる。
     宗匠が三匝堂(栄螺堂)を見たいと言うので行ってみたが、残念ながら鍵が掛っていて中には入れない。多分建物の維持が難しいのだ。三匝堂は、江戸時代後期に関東から東北地方の寺院に建てられた。外見は三重塔のようだが、内部に入ると右回りに一層から三層まで斜めに登って行き、同じ道を通らずに下に降りてくる二重螺旋構造になっている。かつて江戸で有名なのは本所羅漢寺の栄螺堂だったが、現存するのは全国でも六ヶ所しかないらしい。弘前市の長勝寺蘭庭院、会津若松市の旧正宗寺(国の重要文化財)、太田市の曹源寺、児玉町の成身院(百体観音堂)、取手市の長禅寺、そして西新井大師である。
     稚児大師、十三層塔、池を見ながら奥の院まで行く。「これが奥の院ですか。」裏門のすぐ脇のところで、余り「奥」という感じがしない。「分かったわ。」若紫はこの奥の院を見て、万福寺境内の「弘法大師道」の道標の謎が解けたと言う。奥の院に通じる道、すなわち弘法大師道である。「そう思います。」なるほど説得力のある説明だ。「奥の院」まで考えなくても、西新井大師へ続く道と考えて問題なさそうだ。
     「喜多方ラーメン・バーガー」なんていうものを焼いている露店が二軒もある。「何かしらね。」ハイジは初めて見るらしい。勿論私が知る訳がない。鉄板の上で焼きそばを固めているようだ。食べようとは思わないが、知識は得る必要がある。

    喜多方ラーメンに次ぐ新しいご当地グルメとして道の駅喜多の郷が開発。喜多方ラーメンの麺を円盤状に焼き固めてバンズ代わりとし、豚の角煮、或いは地鶏、メンマ、ナルトなどが具として挟まっている。しょうゆ味のラーメンスープにとろみをつけたソースで味付けをしている。(ウィキペディア「喜多方ラーメン・バーガー」)

     何故ラーメンをわざわざハンバーガー状にしなければならないのか、さっぱり理解できない。私は食に関しては保守反動と言っても良いので、最近流行りの「ご当地グルメ」、「B級グルメ」も一向縁がない。居酒屋でも創作料理と称して、冷奴にわざわざおかしな調味料をかけたり、笊豆腐なんて言うものを出す店が増えて来たのは嘆かわしい。私は普通の冷奴が食いたいのだ。因循固陋と言わば言え。「時世時節は変わろとままよ、吉良の仁吉は男じゃないか」が私の主題である。
     草団子を買うのは「俺はいつもここだよ」と言う講釈師が推薦する清水屋である。「講釈師の名前を言えば安くしてくれるのかな。」「逆じゃないの。却って割り増し取られたりして。」しかし若紫は葛餅を買いたいし、チイさんも葛餅だと言っている。「葛餅はどこなの。」「あっちだよ。」参道の角の店が専門店のようだ。今日は草団子派よりも圧倒的に葛餅派が多い。
     碁聖がお土産を買うのも珍しい。ロダンは買おうという素振りも見せない。「どうしたの、アリバイはいらないの。」「アリバイなんて。愛があればそんなものは要らないんです。」オーッ、ロダン一家に何が起こったのだろう。私も妻に土産を催促されたらその台詞を言ってみよう。しかしロダンは面と向かって愛妻に言えるだろうか。ロダン一家の平和を祈るのみだ。

     愛あれば土産もいらぬ初詣    蜻蛉

     クルリンは葛餅を食べたことがないと言う。「食べたことないものを、なんで買うんだよ。」未経験だからこそ食べたいと言うこともあるだろう。どうやら丸い物を想像していたようで、板状のものを見て驚いているらしい。「こっちに来てみな。」講釈師がウィンドウの中を見せながら、「こうやって切って食べるんだよ」と教える。「中にキナコと黒蜜が入ってるからさ。」「お好みでマヨネーズでもソースでも構いません」とウソを教えるのは碁聖である。口には出さなかったが、実は私も初めて知った。クルリンのお蔭でひとつ知恵がついた。

     草団子眺めつつ行く大師詣    閑舟
     山茶花の花に吹かれて大師様   千意
     振り向けば大師ほほ笑む西新井  午角

     「ここが空いてないかな。見てきてよ。」参道を抜けた正面の喫茶店セジュールが空いていた。「反省会はしないの。」若紫はどうしても反省したくて仕方がない。「だって、反省会しないと終われないわよ。」勿論それは私たちも同じである。
     大方の人はコーヒーにしたようだが、私とドクトルは昆布茶を選んだ。一番簡単だからすぐに出てくる。これでコーヒーと同じ四百五十円は高いような気もするが、場所代と思えば仕方がない。昆布茶を啜っていると何やら古老になった気分がしてくるが、茶碗ではなくコーヒーカップで出されたのが残念だ。

     大師前昆布茶啜れば冬は暮れ  蜻蛉

     四時を過ぎればもう良いだろう。「エーッ、もう行くの。まだ呑み終わっていないのに」という女性陣を無視して会計をする。大師線に乗ろうかと言う講釈師に「歩く会ですから歩きましょう」とトミーが力強く主張し、私も当然その積りだった。「だけど一度は体験してみたかったな」と桃太郎はやや未練な気持ちを残している。一駅だけの路線というのも珍しいからね。十分程で西新井駅に到着して、解散を宣言する。ちょっとした事故はあったが、大事にはならず良かった。皆は今日のコースを面白く思ってくれただろうか。
     宗匠とロダンが確認し合って本日の行程は二万歩、十二キロと決まった。八九キロ程度と見込んでいた私の予想はまた外れてしまった。
     トミーとヨッシーは「遠くなるから」と東京方面に向かい、講釈師は途中で降りて行った。新越谷で電車に残るクルリンに声を掛けて降りる。「私はシンデレラ、カボチャの馬車が待ってるの」といつもの台詞を口にしながらハイジも武蔵野線の改札口に入って行った。
     「あそこでいいよね。」「あそこでしょう。」固有名詞がなかなか出てこない私とロダンが他人には通じないことを言いながら「一源」に入ると、予約客で満席だと断られてしまった。新年会か。それにしてもこの広い店が一杯になる程の予約とは驚いてしまう。
     「こんな駅裏じゃなくて、もうちょっと明るい所はないの」とマリーが変なことを言う。勿論他にも店はたくさんあるが、ここが一番安いと踏んでいたのである。仕方がないので駅前ロータリーの方に回り、以前にも行ったことのある「はちや」にした。「関宿の帰りもここでした」とチイさんが思い出す。さくら水産よりこの店のほうが美味しいと言う。
     反省しなければならない人間は、若紫、マリー、碁聖、画伯、ドクトル、チイさん、宗匠、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十人である。ちょうど五時になったばかりなのに個室は予約で満席だと、掘り炬燵形式のテーブルが二列並ぶ相部屋に案内された。隣のテーブルに酔っ払いのオヤジや学生が座ると喧しく堪らないのだが、今日は女性ばかりの静かな連中で良かった。(実は私たちもそんな風に見られているかも知れないのだ。)
     若紫が煙草を嫌うので、彼女から二十億光年も離れた場所に座り直して最初の一本に火を点けた。しかし私には分からない理由でフィルターが燃えた。「クルリンに続いて事故が発生しましたね」とチイさんが指摘する。「中毒じゃないの。」「そうなのよね、全く。」女性二人が私の悪口を言っている。「二十億光年の孤独」(谷川俊太郎)。
     今日は黒霧島(芋)と鍛高譚(紫蘇)に加え、正月だから日本酒を飲みたいと言うチイさんに釣られて八海山も飲んでしまい、いつもよりは少し高くなった。それでも二時間飲んでひとり三千三百円なのだから、貧乏人の集まりである。(皆さんゴメン。)
     その後、桃太郎は「金太郎」に向かい、碁聖、画伯、ドクトル、チイさん、ロダン、蜻蛉はカラオケに入る。碁聖はデュエット相手のあんみつ姫がいなくて淋しいだろうが、いつものように英語の歌を歌う。歌謡曲にしか興味のないロダンは「バテレンの歌だな」と聞き慣れた文句をつける。ドクトルは「枯葉」と「雪が降る」をフランス語で歌う。画伯の歌は相変わらず丁寧だし、教室で習っているチイさんも正しく歌う。ロダンは途中で少し眠り込んでしまったようだ。二時間でひとり千三百円は何かの間違いに違いないが、眠りから覚めたロダンに「いいから早く出ましょう」と急かされて、皆は慌ててエレベーターに飛び乗った。

    蜻蛉