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    第三十九回 元祖「銀ブラ」と時代のターニングポイントを辿る
                      平成二十四年三月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.03.20

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     旧暦二月十八庚午日。降り続けている雨の音で夜中に二三度目が覚めた。
     昭和二十年の今日、東京の下町は大空襲に見舞われた。一般市民に対する無差別大量殺戮を目的として、米軍は木造家屋が燃えやすいように焼夷弾を発明していた。これによって被災家屋は二十六万、被災者は百万を超えて下町は壊滅し、十万人以上の人が亡くなり又は行方不明になった。
     また昨年の明日のことも忘れるわけにはいかない。未曾有の大震災によって未だに行方不明の人を含めて二万に近い人命が失われた。原発事故による影響も、完全回復に至るまでの道筋は依然として見えてこない。私にできることは何もないが、せめて記憶だけは持ち続けていたい。
     「雪が降ってます。」朝飯を終えた頃、あんみつ姫から電話が入った。姫は今日のリーダーだ。窓を開けて外を見ても、こちらはそんな気配は全く感じられない。越谷はかなり田舎だから雪は降るだろう。「エーッ、鶴ヶ島の方が田舎でしょう。」お互いに田舎比べをやっても生産的ではないネ。「中止した方がいいかしら。誰も来なかったらどうしよう。」珍しく声が弱気になっている。今日明日は大災害を思い苦難に耐える日である。多少の雨や雪が何であろう。「花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道」である。「とにかく行きましょう。」冒頭でエラソウなことを言った割には、なんだかおかしな具合になってしまう。後で聞くと、草加や東川口でも雪が降っていたらしい。

     集合は田町駅三田口である。池袋で山手線に乗った途端、埼京線渋谷駅の人身事故で運転を停止するというアナウンスが入った。「人身事故」は頻繁に起こり、その都度電車が止まる。五分程待ってみたが再開の目処はたたないと言うので、仕方なく丸ノ内線に回った。さて東京まで行って京浜東北線に乗り換えるか、それとも大手町で三田線に乗り換えて三田で降りるか。山手線が動かなければ京浜東北線にも影響が出るかも知れないと三田線経由を選択したのは正しかったかどうか。大手町駅の乗り換え通路は長い。初めて降りた三田駅も分かり難くて、田町駅の改札に着いた時には定刻を一分ほど過ぎていた。
     「他の人はちゃんと来てるのに」とダンディが私を責める。ダンディは普段だったら埼京線で大崎まで出る筈が、なんとなく赤羽で降りて京浜東北に回ったので影響がなかったと自慢する。若旦那の話では、池袋で山手線に座りこんでそのまま待っていると十五分程で動き出したそうだ。いずれも運である。「碁聖はまだ来てないのかな。」休む時には必ず連絡をくれる人だ。電話を入れると三田線の中で、もう一駅で着きますと言う。渋谷から大回りを重ねて三田線に乗ったらしい。
     その碁聖がやって来てメンバーが決まった。あんみつ姫、チロリン、クルリン、マリー、若旦那夫妻、宗匠、チイさん、碁聖、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヨッシー、蜻蛉の十五人だ。姫の心配は杞憂に終わり案外大勢が集まった。ただロダンは病み上がりのため欠席だ。一二ヶ月はゆっくり休んでまた元気な顔を見せて欲しい。講釈師だって「あれが見納めだったか」なんて相変わらず悪口を言ってはいるが、本心は表情にすぐ現れる。宗匠に「早く治って出てくるように言ってくれ」と、こっそり頼んでいる。

     相方の無くて口撃力なし    閑舟
     寂しさも中の上なりあれが春  閑舟
     君待てばまだ来ぬ春の雨頻り  蜻蛉

     宗匠の「寂しさも」の句は一茶「めでたさもちう位なりおらが春」の本歌取りだろう。寒さは続いているが、木の芽や梅を見れば少しずつ春が近づいているのは確かだ。
     定刻を二十分程遅れて出発となった。今日は銀座を歩くのである。「みんな洒落た恰好で来てますね」とチイさんが指摘する。ドクトルとヨッシーはいつもと違ってコートを着込んでいる。「だってさ、銀座を歩くんだよ。」小さなバッグを肩にかけ、珍しく毛糸の帽子を被ったドクトルが言う。ヨッシーのコートはカシミヤだ。ダンディはカピバラのハットで、ジーンズの裾を折り返している。「脚が短いからですよ」なんて言うが、実は相当意識した恰好に違いない。

      ジーパンの裾折り返し銀ブラよ 若き日思い我がダンディズム  千意

     私は洒落た積りはないが、そろそろ毛糸の帽子もおかしいかと、通勤用の黒革の帽子にしてきた。「東京を歩くのにリュックはダメだ、田舎者だっていつも罵倒している人が、今日はリュックですよ。」なるほど講釈師はリュックを背負っている。「ちゃんと記録しておいてください。」ダンディが躍起になっても、本人は何を言われても平気な顔だ。「たかが銀座じゃないか。オレンチの庭とおんなじだよ。」
     私は銀座を知らない。ほんの数回、何かの会合があってその目的の店に来ただけで、銀座の街そのものは殆ど歩いたことがないのだ。今日のメンバーの中で最も田舎者のお上りさんは私だろう。
     「本来のコースは、慶應の裏門をスタート。芝公園弁天池から増上寺境内、三門、大門を左折、新橋駅前を通り、カフェーパウリスタへ行くものだったそうです」と言うのが、姫の案内の惹句である。それにしても元祖「銀ブラ」とは何か、こういうものに「本来のコース」というものがあるのか。

     「銀ブラ」の元々の意味は「銀座をブラブラすること」ではなく、『銀座でカフェーパウリスタの「ブラジルコーヒー」を飲むこと』の略である。(ウィキペディア「銀座」)

     こういう説があることは私も二三ヶ月前に初めて聞いた。姫は「私は読売新聞のコラムを見たんです」と言う。「でも、ダンディか蜻蛉が必ず何か言うだろうなって思ってましたよ。別の説がありますか。」別の説がある訳ではない。私が便利に利用しているのは新潮社編『江戸東京物語』で、元々大成建設のPR誌に掲載されていたものだが、調査が行き届き、きちんと典拠も挙げているから信頼性が高い。そこにはこんな説は書かれていないので気になったのだ。
     ウィキペディアが参考文献に挙げているのは、長谷川泰三『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェーパウリスタ物語』である。本題に入る前に、「日本で最初の喫茶店」という表現に引っ掛かってしまって、先行きが不安になってくる。
     日本最初の喫茶店は、上野黒門町に鄭永慶が始めた可否茶館だというのが定説だ。以前、偶然にその跡地の案内板を見たことがあった。可否茶館は明治二十一年四月に開店し、パウリスタが京橋区南鍋町(現銀座六丁目)に開店したのは明治四十四年(一九一一)十二月だから、二十年の開きがある。可否茶館以前にも、明治七年に神戸元町の「放香堂」、明治十九年に東京日本橋の「洗愁亭」が開業してコーヒーを飲ませたらしいが、「本格的」喫茶店としては可否茶館を挙げるのが順当のようだ。
     それなら「カフェー」としての最初かと言えばこれも違う。画家の松山省三が「カフェー・プランタン」(名付けは小山内薫)を京橋区日吉町(現銀座八丁目)に開いたのが四十四年三月、築地精養軒(後、大日本麦酒の経営)の「ライオン」が尾張町新地(銀座五丁目)に開店したのが同じ年の八月だから、これもパウリスタよりは早い。両方とも女給を置いて酒と洋食を提供する店だ。

    そもそも僕が始て都下にカッフェーというもののある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を掲げてプランタンという屋号をつけた際であった。僕は開店と言わずして特に創設という語を用いた。如何となれば巴里風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を以て嚆矢となすが故である。当時都下に洋酒と洋食とを鬻ぐ店舗はいくらもあった。又カウンターに倚りかかって火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在ったようであるが、然し之を呼ぶにカッフェーの名を以てしたものは一軒もなかった。カッフェーの名の行われる以前、この種類の飲食店は皆ビヤーホールと呼ばれていた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を担わしめるには足りないかも知れぬが、其の名に於ては確に流布の功があった。(永井荷風『申訳』)

     パウリスタは酒ではなく本格的なコーヒーを飲ませる店だった。巌谷大四『東京文壇事始』には、「酒を飲まない文士の常連が多かった」と書いてある。大正十年五月には中里介山『大菩薩峠』の出版記念会がパウリスタで開かれたとも言う。
     ついでに遡れば、明治三十五年(一九〇二)資生堂ソーダファウンテン(現資生堂パーラー)が出雲町(現銀座八丁目)に開設された。資生堂は早い例だが、カフェーの誕生は大正モダニズムの幕開けである。明治四十三年には同人雑誌『白樺』が創刊されていた。
     そろそろ本題に入って、銀ブラの由来を確認してみたい。長谷川泰三は日東珈琲の社長をした人物であり、日東珈琲は、カフェーパウリスタが戦中のカタカナ語禁止にあって改称した会社だ。そして現在の株式会社カフェーパウリスタは、日東珈琲株式会社の子会社である。種々ネットを検索してみても、この銀ブラ説を載せている記事は、全て長谷川氏の著書かパウリスタのホームページをそのまま引用していて、他の根拠を挙げている人はいない。銀ブラ語源新説の出所は「パウリスタ」にあると決まったので、それでは株式会社カフェーパウリスタのホームページを開いてみなければなるまい。

    語源は銀座パウリスタに一杯五銭のコーヒーを飲みに行くこと。
    一般には「銀座通りをブラブラ散歩する事」(広辞苑)と信じられていますが銀座の銀とブラジルコーヒーのブラを取った新語で、大正二年(大正四年説もある)に慶應大学の学生たち(小泉信三、久保田万太郎、佐藤春夫、堀口大学、水上滝太郎、小島政二郎)が作った言葉です。
    上記の「銀ブラ」は大正の文化人によって書かれた下記の文章に由来しています。
    いくつかご紹介しましょう。(http://www.morinocoffee.com/ginbura/)

     そして紹介されているのが下記の三つである。ちゃんと根拠を示してくれれば私も安心できる。取り敢えず掲載順にそのまま引用してみる。但し◎印と発表年度は私が入れて見た。年度を入れたのは、時間が経ち過ぎると記憶の混乱もあるかも知れないからだ。

    ◎「銀ブラ」という言葉は其最初、三田の学生の間で唱えられた。(水島爾保布『新東京繁盛記』大正十三年)
    ◎慶應で相手がつかまると別に相談するまでもなく、足は自然と先ず一斉に新橋の方面に向かい、駅の待合室で一休みしつつ旅客たちを眺めたのち、「パウリスタ」に行ってコーヒー一杯にドーナツでいつまでも雑誌に時をうつしていると、学校の仲間が追々とふえて来る。みな正規の授業をすませた上級生たちである。芝公園を出て新橋駅待合室経由パウリスタというのが我々の(銀ブラ)定期行路となっていた。(佐藤春夫『詩文半世紀』昭和三十八年)
    ◎銀座を特別な目的なしに、銀座という街の雰囲気を享楽するために散歩することを「銀ブラ」というようになったのは大正四年頃からで虎の門の「虎狩り」などと一緒に、都会生活に対して、特別警技な才能を持っている慶應義塾の学生たちから生れてきた言葉だ。(安藤更生『銀座細見』昭和六年)

     一読してがっかりしてしまった。この三つの文を読んで、「銀座」と「ブラジル」とを結びつける人がいれば余程の天才かアホである。
     水島爾保布と安藤更生からは、慶応の学生の間で生まれた言葉だと分かるだけだ。こういう略語を作るのは学生とみて良いかも知れない。そして安藤の文は、むしろ一般に考えられている「銀ブラ」の定義そのものである。それにパウリスタにとっては運の悪いことに、私は『新東京繁盛記』の原文を見つけてしまった。

    『銀ぶら』といふ言葉は其最初、三田の学生の間で唱へられたものだともいふし、玄文社の某君の偶語に出たものだともいふ。勿論文献の徴すべき何ものもないが、これでも十数年乃至数十年の後にはいろんな内容いろんな伝説なども府会されて、随筆家の飯の種にもなり考証家のヨタの材料にもなり、百年二百年の後には博士論文の題材にもなり、天ぷらの起源に山東京伝が参加したやうに、夏目漱石先生でも関係するといふことにならうかも知れない。

     「・・・・唱えられたものだとも言うし、・・・・とも言う。」この前段だけを恣意的に切り取って「唱えられた。」と終止形に変えて引用するのはルール違反であり、はっきり言えばペテンである。なんだか変だゾ。大正十三年の時点で水島は、文献もないし銀ブラの言葉の由来ははっきりしないと言っているのだ。
     佐藤春夫の回想にだけ「パウリスタ」が登場する。しかし「我々の(銀ブラ)定期行路となっていた」と言う表現から、これが銀ブラの由来だと判断するのは私にはできない。素直に読めば、「我々の」定期航路はパウリスタに行くことだったと言っているに過ぎないではないか。
     宗匠はパウリスタのホームページとは別の記事を探してくれた。

    久保田万太郎も『三田から銀座カフェーパウリスタに、一杯五銭のブラジルコーヒーを飲みに行くことが“銀ブラ”の語源である』と明確に書いている。
    (http://www.echirashi.com/column/column.cgi?view=241より)

     記事の全体もっと長いものだが、典拠も示さずにパウリスタのホームページの記事を無条件に転載しているだけだ。そしてここに引用した部分にも、それが万太郎のどの文章にあるのか明示されていない。
     通説に異を立てて別の説を主張するなら、きちんと根拠を明示しなければ人を説得することはできない。それに、仮に万太郎が「明確に」書いているのなら、パウリスタは何故その文章を持ち出してこないのだろう。
     こんなものをいくら示されても私には到底納得できない。おそらくカフェーパウリスタの客引き宣伝文句と断定して間違いないだろう。
     たまたま磯田光一『鹿鳴館の系譜』を読んでいて、吉井勇『幸ある夜』という詩が「明星」明治四十年十月号に載っているのを教えられたので、その一部だけ孫引きしてみる。

     恋に勝ちたる凱歌か
     銀座通りのにぎはひに
     わかうどづれは歌ひゆく

     明治四十年、つまり銀座にカフェーが出現する以前から、若者たちが銀座通りを闊歩する姿は目立っていたのである。また漱石『それから』の主人公は、明治四十二年に銀座散策をした。

     代助は電車に乗って、銀座まで来た。ほがらかに風の往来を渡る午後であった。新橋の勧工場を一回りして、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。その時代助の目には、向こう側の家が、芝居の書割りのように平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗りつけられていた。
     代助は二、三の唐物屋をひやかして、入り用の品を調えた。その中に、比較的高い香水があった。資生堂で練り歯磨を買おうとしたら、若いものが、ほしくないというのに自家製のものを出して、しきりに勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。紙包を腋の下にかかえたまま、銀座のはずれまでやって来て、そこから大根河岸を回って、鍛冶橋を丸の内へ志した。あてもなく西の方へ歩きながら、これも簡単な旅行と言えるかもしれないと考えたあげく、くたびれて車をと思ったが、どこにも見当たらなかったのでまた電車にのって帰った。

     「新橋の勧工場」は現在の銀座八丁目にあったもので、デパートあるいはアーケード商店街の元祖と言えるから、代助はウィンドウショッピングを楽しんだのである。また大根河岸は八重洲六丁目にあった地名だ。「銀ブラ」という言葉はなくても、実態としての銀座散策は随分前からあったのである。磯田光一は、明治三十八年の市電網の敷設整備によって市内のどこからも近くなったことで銀座に人が集まるようになったと言っている。周辺には新聞社が集中していたから、もともと文士が集まる土地柄でもあった。
     もっと早い例があった。巌谷大四『東京文壇事始』に、明治二十年一月十二日の巌谷小波の日記が引かれている。孫引きしてみよう。小波は銀座をブラブラしているのである。

     曇風 六時ニ起キ副島氏ト同車 新橋ステーションヘ行ク(中略) 七時半ステーションヲ出テ深谷、副島、瀧川、荒木、小高、高階、小山氏等ト銀座、八官町ブラブラアルキ幸橋ヲ入リ練兵場ヲヌケテ帰ル(踊り字はカナに改めた。蜻蛉)

     もうひとつの証言を出しておこう。明治七年頃、服部時計店のところに成島柳北の朝野新聞社があった頃の話だ。

     成島柳北は幕府の外国奉行、会計副総裁などを歴任したレッキとした幕臣。銀座通りには古道具、古本などを扱う露店がにぎやかに並んだ時代だが、ある夜、柳北が露店をひやかしていると、年齢十一、二歳の少年講釈師が幼いながらも朗々と馬琴の『八犬伝』を弁じ立てている。(『江戸東京物語』)

     これも実態としての銀ブラではないか。銀座通りの露店は戦前までずっと続いていたようだ。
     確かにパウリスタには当時の若い文学青年が集まっただろう。一般の値段の三分の一程度の、一杯五銭という破格の値段は貧しい若者には有難かったし、コーヒーの普及に大きな力になっただろうことは間違いない。安藤更正も「日本人がコーヒーについてカレコレいえるようになったのは、何といってもこのパウリスタのお蔭である」と言っている(『銀座細見』但し『東京文壇事始』から孫引き)。しかし、そのことと銀ブラ語源を主張することは別の話だ。
     銀座は東京に初めて出現した煉瓦街であり、珍しい物を売る露店が犇めいていた。新聞社も集中していたから、明治初期の頃から銀座をぶらついて暇をつぶす人は多く、三十八年の市電網の整備によって更に拍車がかかった。カフェーの誕生もそれに輪をかけただろう。そして大正の始め頃、誰が言ったか分からないが、こうした銀座散策を「銀ブラ」と称し始め、それが学生の間に広まった。結論として言えるのはこんなことだ。

     ついでに銀ブラではないが、もうひとつ、これはどうかと思えるものも見つけた。今日のテーマが「時代のターニングポイントを辿る」ことにあるならば、書いておいて悪くはないだろう。
     「モボモガ」を説明して、エノケンや二村定一が歌った『洒落男』(坂井透訳詞)の歌詞(一番)を引き、「大正モダンの中心地銀座でカフェーパウリスタのコーヒーを飲むモダンボーイの粋な姿がうかがえます」と書いているのは誤解を招く。
     まず『洒落男』のモボが「吾輩の見染めた彼女」のカフェで飲むのは酒である。「カクテルにウィスキーどちらにしましょう 遠慮するなんて水臭いわ」「言われるままに二三杯 笑顔につられてもう一杯。」コーヒーなんて飲んでいない。
     原曲は昭和三年にアメリカで発売され、日本語版レコードは五年に発売された。エノケンがカジノフォーリーで歌い始めたのは昭和四年頃ではないだろうか。関東大震災によって既に「大正モダン」は終わりを告げ、昭和モダン、言い換えれば「エログロナンセンス」の時代に突入していた。この頃からカフェーは、後のキャバレーに近い風俗営業の店に変質して行くのである。(因みに、そういう店と区別するために、やがて「純喫茶」という名称が生まれる。)
     後でも触れるが、パウリスタは関東大震災で銀座本店が倒壊した後、大正十三年までに全国の支店を売り渡してカフェー経営から手を引いていた。従って昭和初期のモボがパウリスタでコーヒーを飲むことはあり得ないのだ。これは歴史の捏造に近い。
     もうひとつブラジルコーヒーについても触れておきたい。パウリスタは「ブラジル移民の父」とも呼ばれる水野龍が国策に沿って創業したカフェーだったからだ。それまで国内に入っていたのはジャワコーヒーである。

    第一回ブラジル移民がブラジルに到着した明治四一年(一九〇八))は、ブラジルコーヒー不作の年。
    しかし翌明治四二年五月、ブラジル・サンパウロ州政府は、コーヒーの販路拡張のため、今後三年間にわたり七十キログラム入りのコーヒー七千二百十五袋を水野龍に無償供与し、同時に水野が東京・横浜をはじめ、日本各地にコーヒー店を開店するという契約がなされた。
    (「ブラジル移民の百年」http://www.ndl.go.jp/brasil/column/coffee.htmlより)

     無償供与によって水野龍が齎したコーヒーの量は、当時の年間輸入量の七倍に達したと言う。それまでは高価で一般的な飲みものではなかったコーヒーを広めるため、水野は銀座に本店を構えて店舗を広げ、最盛期には全国に二十店舗を越えた。初めてレディース・ルームを設けたことで、パウリスタには「新しい女」が集った。『青鞜』創刊号は明治四十四年九月に出されたばかりだったから、意気軒昂とパウリスタで議論を重ねていたと想像しても良い。
     しかし大正十二年(一九二三)の関東大震災によって銀座の本店は倒壊する。経営内容は悪く、大正十三年までに各地の支店も全て売却して、僅かに資産として残った焙煎工場と焙煎機によって、会社は焙煎卸売業に転身した。これが現在に続く日東珈琲である。
     カフェーパウリスタは、大正モダンと共に生まれて死んだのである。僅か十四五年の短い期間であり、カフェーが再開されるには昭和四十四年まで待たなければならない。
     ついでだから初期ブラジル移民と水野龍のことも調べてみた。カリフォルニアの日本人排斥運動が高まって他の移民先を求めていた日本政府と、僅か二十年ほど前に奴隷制度を廃止したばかりで労働力不足に悩むブラジル政府との間で、移民送り出しと受け入れの意思が噛み合ったのである。当時の国内生産力と社会システムでは、国民全てが安穏に暮して行くことは出来なかった。
     移民を推進したい日本政府の積極的な介入もあって、明治四十一年に水野龍の皇国殖民会社とサンパウロ州政府との間で、三年間で三千人を就労させるという移民導入契約が結ばれた。そして第一回移民七百八十一人(七百九十三人とも言う)が、笠戸丸でブラジルに渡った。三分の一が沖縄県民であったことも特に記憶して良い。これがブラジル移民の最初である。
     しかし移民の現実は厳しかった。サンパウロ州の六つの農場に配置(配耕というらしい)されたものの、余りに劣悪な条件で逃亡するものが後を絶たず、一年後には、当初の契約農場に残ったものは二百人に満たなかった。実質的に奴隷同様の扱いを受けることも多かったと言う。

     日本人移民たちが直面した労働条件の悪さとは、コーヒーが老樹で収穫量が少なく、重要な収入源であるコーヒーの実の収穫賃金が移民会社で聞いたものより大幅に少ないというのが大きな原因であった。その他にも住居や食事の事情が想像以上に劣悪なものであったとか、言語習慣の違いから農場側との意思の疎通を欠いたなどという理由も脱耕、退耕の原因であったと思われる。
     笠戸丸移民の失敗原因は、殖民会社の経験不足、誇大宣伝、資金不足、それに不誠実さであった。笠戸丸移民の悲劇は詳しく日本政府にも伝わり、このため、第二回移民の送り出しは政府から拒否され、皇国殖民会社は倒産した。
     http://metamorphosesislands.web.fc2.com/brazil_imin/brazil_imin.html

     サンパウロ側では家族構成で永住する移民を求めていたが、実際には出稼ぎ気分の単身者も多く、乗船の時点で初対面の相手と仮に結婚して書面を整える者もいたらしい。皇国殖民会社の募集広告にはこんな宣伝文句が掲げられていた。

    移民は少なくとも一日に総収入壱円五拾銭以上壱円八拾銭を獲得することを得るなり而して一日の費用は一日付三拾銭にて足る故に差引純収入は壱円二拾銭以上壱円五拾銭なり。http://nihonbrazil.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/0512_d3ab.html

     一日の純収入が一円二十銭ならば、二十五日働けば一ヶ月三十円になる。親子三人で働けば九十円だ。既に経費は差し引いているから、一年に千円貯めるのも夢ではないと思われた。啄木が朝日新聞社から夜勤手当を含んで三十円になるかどうかの月給を貰って、貯金どころか借金に喘いでいた時代である。しかしこれは誇大宣伝も甚だしかった。
     「移民」ではなく「棄民」政策だと怒りの声が上がった。皇国殖民会社が日本政府に支払うべき保証金を払えずに、移民から預かった金銭をそれに充当したことも、背信行為として怒りを買った。上の記事で「不誠実」を言われるように、水野を単純に「移民の父」と呼ぶにはいささか躊躇いがある。資金不足の実態は、水野本人が次のように語っている。

     会社が特に苦心した処は財政上の問題と船会社との契約に関してであつた。従来「ハワイ」の例では、移民取扱人が政府に対して用意すべき保証金は一万円であつたが、我々の場合には、種々の理由からこの保証金が五万円に引上げられた。創立間もない貧乏会社にとつては由々しき金額である。そんな金など保証金として遊ばせて置く様な余裕などあり様訳もなく、交渉交渉を重ねた末やつと三万円に値切ることに成功して「ホツト」した。ところが、実際に移民を募集してみると、前述の如く、募集期間が短く加ふるに家族構成を条件としてゐた為、一千人を集めるのは容易でなく、結局神戸に集つた移民の数は七百八十一名で、予定よりも二百十九名の減少である。
     当初移民輸送に関しては、東洋汽船会社と交渉して一千名送出に必要な準備を行はしめたのである。之に付て東洋汽船会社では、嘗て「ロシア」の病院船であつた笠戸丸を選定し、一名の輸送費百六十円、一千名で十六万円と言ふ計算で契約を取り決めてゐたので、皇国植民としては二百十九名分の輸送費が欠損になる訳である。さきに、思はぬ保証金の増額で貧乏し、更に四万円程の損失を蒙つたのであるから会社としては相当な痛手であつた。その結果会社は一時非常な窮境に陥り、之が打開は非常な苦労を伴つた。(水野龍「海外移民事業ト私」http://www.ndl.go.jp/brasil/text/t016.html)

     最初から杜撰な計画だったのだ。倒産した皇国殖民会社に代わって竹村殖民商館が第二回移民を送り出すのは二年後の明治四十三年のことだ。多少の紛擾は起こったものの、九百八人中、一年後に六百八十一人が残っているから、待遇は改善されてきたのだろうか。そしてこの竹村殖民商館は、大正四年に水野が譲り受けて移民事業を継続することになる。水野という人物も浮き沈みの激しい人物だ。山師とも見えるし、移民事業に賭ける情熱を見る場合もあり、簡単に評価するのは難しい。
     関東大震災後、水野は会社を実弟邁朗に譲って大正十三年に家族と共にブラジルに渡った。昭和十六年、農場経営の金策のために単身帰国したが、太平洋戦争勃発によってブラジルに戻ることが出来なくなってしまった。ブラジルに残された妻と息子は、水野を非難する現地移民の間で苦労する。昭和二十五年になって漸くブラジルに戻ったものの、翌二十六年サンパウロで九十二歳の生涯を終えた。波乱万丈、毀誉褒貶の多い一生であった。

     銀ブラ語源からブラジル移民まで考えていては、読む人は既にうんざりしているだろう。これでは肝心の「銀ブラ」前に疲れ果ててしまう。もう歩き出さなければいけない。雨に加えて時折強くなる風が鬱陶しい。
     「通り道ですから寄ってみます。案内文には書いていません。」慶応仲通商店街に入ってすぐ右手の居酒屋が並ぶ路地の角が水野監物屋敷跡だ。港区芝五丁目二十番二十。ここに来るのは三度目になるだろうか。「細川(細川越中守)の水の(水野監物)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」を引いて姫が説明する。赤穂浪士を分担して預かった四家であり、細川越中守は肥後、水野監物は三河岡崎藩、毛利甲斐守は長府藩、松平隠岐は伊勢桑名藩久松家である。雨が降り頻る路地の塀際に紅梅が色鮮やかに咲いている。ロダンがいないせいか、講釈師お得意の忠臣蔵の演目も精彩がない。

     紅梅や忠臣蔵も湿る雨  蜻蛉

     桜田通りに出れば左側に慶應義塾の東門が見えた。姫の「銀ブラ」コースはここから始まる訳だ。雲の中で、東京タワーのテッペンの細い部分が曲がっているのがはっきり見える。東京タワーには殆ど関心もなかったのに、スカイツリーが主役に躍り出て盛んに喧伝されていると、われら昭和の子としては何だか哀れで、愛おしくもなってくる。説明不能な不思議な感情だ。(業平橋駅が「とうきょうスカイツリー駅」に改名したというニュースを知った。こうして歴史が失われていく。)赤羽橋の交差点の前には伏見三寶稲荷という小さな祠もある。
     芝公園の弁天池の畔にあるのは宝珠院だ。閻魔堂には「閻魔大王坐像及び司録・司命半跏像」がある筈だが、ガラスから覗き込んでも良く見えない。若旦那は最初に弁天堂の方を覗いていて、「こっちでしたか」と慌ててやって来た。肉眼では見え難いが、カメラのレンズをガラスに接するようにすると液晶画面に写る。閻魔の前には「三界萬霊」の札が立ち、後ろには人頭杖も立ててある。「大丈夫、写りましたね」と若旦那も安心している。ただ、司録・司命の姿は花の陰になってしまっている。
     「司録とか司命とか、追及されると困るところでした」と姫が笑う。私も知らなかったから姫に代わって調べてみると、閻魔の判決に従って、その判決文を(あるいは罪状を)読み上げるのが司命、判決を記録するのが司録の役である。閻魔像は寄木造りで高さ二メートル、貞享二年(一六八五)の作とされる。元は増上寺柵門(やらいもん)を入った左手に閻魔王を安置してあったと言う。
     「これって何て読むんだろうね。」朱塗りの弁天堂に掲げられている額の字が読めないのだ。「真ん中は才だよね」と言うチイさんの傍で、クルリンが「手じゃないの。右は箱だわね」と言い出した。なるほど、それなら玉手箱か。なんだか俗っぽいが、金銀財宝を夢見る連中が弁天を信奉したのだから仕方がない。碁聖は宝珠院の玄関の磨りガラスを覗きこむ。「開けられますか。」「ダメです。それに磨りガラスでまるで見えない。」

     白梅や小雨に黒き増上寺  閑舟

     スタートが遅かったので増上寺境内には入らない。なにしろ姫は実に盛沢山のコースを考えているのだ。東側から正面に回り込んで、三門前の交差点を渡ると「落語首提灯」を説明する立て札と木灯篭が立っていた。以前歩いた時は気付かなかった。

     落語「首提灯」
     江戸時代、芝三内と呼ばれた増上寺の境内は、暗がりで、落語「首提灯」の舞台となりました。侍と喧嘩した職人が、首を切られても、あまりの切れ味の良さに気がつかずそのまま首を提灯代にして、火事場見物に行くという話は架空のことですが、当時のありさまをよく示しています。(説明板)

     落語を説明して、わざわざ「架空の話」と書くのは役人の感覚か。説明を読んで木灯籠の写真を撮っていて少し遅れると、前の方では姫が古い築地塀(練塀)を残す門前で立ち止って何か説明している。「何だって。」「あそこに浅野家の紋があるんだよ。」なるほど黒い表門の蟇股に「違い鷹の羽」の紋があった。増上寺子院第一の廣度院である。「何百回も歩いてるのに、見残しているのがまだ一杯あるね」と宗匠がびっくりしたように言っている。私は二三度しか歩いていないから、知らないものはもっと一杯ある。
     おそらく日本で一番ポピュラーな紋ではないだろうか。我が家の家紋でもあり、父の墓を建てた霊園にも同じ紋をいくつも見る。父や伯父達は「鷹の羽のぶっ違い」と言っていた。門にこれがあるのは、この寺を宿坊とする大名の筆頭が安芸浅野家であったからだと説明されても、私にはそれが分からない。宿坊は宿泊施設であろう。浅野家に限らず江戸藩邸はちゃんとあるのに、なぜ大名は宿坊を必要としたのだろう。知るべきことは多すぎるが、今の所は調べがつかない。
     この表門と塀は国の文化財に指定されている。瓦葺木造一間一戸薬医門で、柱間は二・八メートル、高さ四・六メートル。練塀の左右総延長は四十一・六メートルに及ぶ。
     脇の入り口から中に入った人もいるが、中には何もないと姫が断言するので、私は止めにした。傘が邪魔になって、今日は狭いところには入りたくない。「こういう塀が並んでいた情景を想像してみてください。」大門から三門まで、道の両側に練塀が続いているのは壮観だったろう。
     「空襲でも、ちょうどこの辺で火が止まったんですね。だから三門も残りました。」微妙な風の加減で運不運が分けられた。「俺はこの近くで焼け出されたんだ。」講釈師は芝で生まれて空襲に遭った人である。
     大門(総門)に着き、「吉原はオオモン、ここはダイモン」とダンディが言う。私はここもオオモンと思っていたのだから驚いた。オオトリ神社をワシ神社と読んだ時と同じくらい恥ずかしいが、そんな素振りは見せなかった筈だから、誰も気付かなかったに違いない。
     「所有者が分からなくて、修理しようにもできないんだよ」と、スナフキンが不思議なことを教えてくれる。この門は増上寺のものではないのか。「違うんだ。それに都でも国でもないんだ。」参道を供出して道路にされてしまったなら、そこにある門も道路管理者の帰属になるのではないのか。おかしなことだ。
     「ここで待ち合わせましたよね。」碁聖が言うのは、姫が初めて企画した第五回「芝・東京編」の時のことだ。そう言えばあの時も雨だった。意地を張って決して認めようとしないが、姫は実は雨女である。「雪女にならなくて良かったよ」と宗匠は笑う。

     雪女にはなれなくて春の雨  閑舟

     芝神明宮に立ち寄るのもその時以来だ。「狛犬に注目してください。犬と獅子がいます」と私が声を出す。「そうでしたね、ここで初めて見たんですよね」と姫も思い出したようだ。「エッ、どっちがどっちなのかしら。」若女将の声に、角のあるのが犬で、ないのが獅子だと教える。その後、別の所でも目にすることになるのだが、私たちが最初に教えられたのはここだった。「こっちがオスで、こっちがメス」なんて言う講釈師の言葉は聞かなくても良い。め組寄進を示す台座を見て、若旦那は「め組の喧嘩ですよね」と反応する。

     狛犬の角を濡らして春の雨  蜻蛉

     「五拾貫余」と朱で書かれた力石を見れば、ダンディは何キロになるか計算する。「星野立子・椿・高士三代句碑」なんていうものもある。こういう句碑があることも気づかなかった。「知ってますか。」「立子は虚子の娘だよ。」「そうなんですか。」

     そよりとも風はなけれど夜涼かな 立子
     千年の神燈絶えず去年今年    椿
     界隈のたらだら祭なる人出    高士

     高士は虚子の曾孫になるわけだ。虚子の一族には、長男の高濱年尾とその娘の稲畑汀子、次女の立子と娘と孫、四女の高木晴子、五女の上野章子とその娘の松田美子などの俳人が輩出している。世襲の家元制度みたいだ。随分前のことになるが、俳句の番組でホトトギス直系の稲畑汀子(日本伝統俳句協会会長)と、天衣無縫の金子兜太(現代俳句協会会長)とが同席して、まるで正反対の議論で対立していたのがおかしかった。
     路地に入りこむと、港区立エコプラザの入口に「福沢近藤・両翁学塾跡」碑が立っている。港区浜松町一丁目十三番一号。
     福沢は言うまでもなく諭吉である。安政五年(一八五八)、諭吉は藩命によって鉄砲州の中津藩の長屋に学塾を開いた。塾生が増えて手狭になり、芝新銭座の久留米藩有馬家中屋敷(つまりこの場所である)を三百五十五両で買ったのが慶応三年(一八六七)十二月二十五日で、ちょうど庄内藩の薩摩屋敷焼き打ちの当日に当たった。翌慶応四年四月に校舎が完成して移転し、年号を採って慶応義塾と命名した。更に三田に移転するのは明治三年になる。ここは低湿地で諭吉の体調が悪くなったのが理由らしい。
     そして諭吉からこの地を譲り受けたのが、築地の海軍操練所内で攻玉社を開いていた近藤真琴である。攻玉社はこういう学校だった。

    和魂洋漢才、質実剛健、礼儀を重んじ誠意を旨とするを理想とし、中壮年部では英漢数学の三科を主とし海軍兵学校入学志願者を養成し、又他の上級学校進学希望者の為に歴史、地理、物理、化学の諸科を教授した。(碑文より)

     私は知識がないので、ウィキペディアのお世話になるしかない。近藤は「明治六大教育家」のひとりであり、攻玉社は三大義塾のひとつである。
     明治四十年(一九〇七)、帝國教育會、東京府教育會、東京市教育会の連合集会が開かれた際、「明治六大教育家」を顕彰したのだ。近藤真琴(攻玉社)、中村正直(同人社)、新島襄(同志社)、福澤諭吉(慶應義塾)は私学創立者で、加えて学制改革に力を奮ったという理由で大木喬任(初代文部卿)、森有礼(初代文部大臣)が選ばれた。そしてこの私学の内、東京にある攻玉塾、慶應義塾、同人社が「三大義塾」と呼ばれたと言う。
     近藤真琴は文久三年(一八六三)に幕府軍艦操練所翻訳方に出仕し、明治になってからは築地海軍操練所で兵学校教育に当たった。海軍における最終職階は海軍中佐である。

     近藤真琴は国語学者として先駆者の一人に数えられる業績を残している。明治維新後最も早く学校で文法を教授したのは攻玉社である。西南戦争のころには近藤真琴は自ら教授していた。 またかなのくわいの会員で『ことばのその』の筆者でもある。その他、近藤真琴の「ふみまなびのまき」「まゆみのおちば」「かんいせうがくけうくわしょ」及び文法書「文字篇」「助用言」の二種の稿本が攻玉社学園に保存されているが、「文字篇」「助用言」は真琴の直筆か否か確定されていない。「文字篇」は仮名の発生と発音の理を、「助用言」では助動詞について、それぞれ説いている。なお、語の類別、性質、用法などを説明しているという「言語篇」の存在は未確認である。(ウィキペディア「近藤真琴」)より)

     「かなのくわい」は仮名の会である。明治初期には仮名文字論者、ローマ字採用論者などの漢字廃止論に加えて、甚だしくは森有礼のような国語英語化論まで出現した。『明六雑誌』を見るとその頃の議論内容が良く分かる。それだけ危機意識が強かったとも言えるのだが、日本人の漢字能力を余りに低く見積もりすぎていた。こうした意見が採用されなかったのは日本語にとって幸いであった。
     「かなの会」と言えば、同じ会員の大槻文彦が、文部省の西村茂樹の指示によって国語辞書編集を志したのが明治七年(一八七五)のことだ。そして漸く『言海』が成って自費刊行するのはそれから十五年後、明治二十二年(一八八九)から二十四年(一八九一)になる。これによって日本文法の基礎と日本語辞書が確立した。但しこの時代には英文法を参考にせざるを得ず、現代の文法学者からは問題視されることになってしまうのは時代の制約である。
     余計な話だが(それでなくても余計なことが多すぎる)、『象は鼻が長い』(三上章)や『ボクはウナギだ』(三上)の文法をご存じだろうか。日本語における「主語」概念を巡った議論で、日本文には英文法におけるS・Vはないとするものだ。
     しかし大槻文彦やその他の論者にとって、西欧文明に伍して日本文明が生き延びるためには、何よりも国語をどうするかということこそが緊急を要する課題であった。そのために英文法を利用したとしても責めることはできない。日本語を科学的に説明するものなんか他になかったのだ。太平洋戦争後に、フランス語を国語にしたら良いなんて耄碌した意見を吐いた志賀直哉とは、危機意識がまるで違うのだ。その努力の上に立って、やがて二葉亭四迷の『あひびき』が生まれ、現代日本文の骨格が定まっていく。言葉の運命を考えれば、いろんな先覚者の苦闘が思い起こされる。
     私たちが碑を覗き込んでいるのを、エコプラザの中の人が笑いながら眺めている。

     第一京浜に入ると「これは東海道かい」とドクトルが確認を求めてくる。そして新しいビルが立ち並ぶ街に出た。
     「この辺はイタリア街って言う。」そうか、宗匠の勤務先に近いから良く知っている筈だ。ビルの外見がローマの石造建築を模しているようにも見える。正式には汐留シオサイト五区イタリア街と言うらしい。「建築・街並み・街路・広場・・・街すべてがイタリア・デザイン」というのが謳い文句だ。私は「イタリア街」という名付けには賛成しない。
     「最新の街だから人には優しくありません。車優先です」と姫は言いながら東海道線を越える歩道橋を上って行く。「方向が分からなくなっちゃう。」この辺をテリトリーにしている宗匠でもそうなのか。歩道橋を歩くとなんだか方向感覚が失われてしまう。汐留操車場跡の再開発地域である。
     ゆりかもめの汐留駅が見えてきた。ビル風が強く吹き付ける。「飛ばされそうになっちゃうよ」とチロリンが小さな傘を体の正面に押し付けるように歩いている。街路樹のマンサクは枝にへばり付くように咲いている。

     満作や新しき街に風強く  蜻蛉

     「なんですか、あれは。」SIO―SITE。「いい加減な言葉だよな。」ダンディやスナフキンが笑うように、汐留だからシオサイトとは実におかしな言葉を作ってくれるものだ。一国の言葉の運命に思いを馳せたばかりなのに、こんな言葉を見せられてはがっかりしてしまう。現代人の知能は明らかに退化している。

    新橋停車場跡一帯は、新橋駅が移ったあとも汐留操車場として機能していた。しかし、国鉄が民営化される際に、汐留操車場は旧国鉄清算事業団により民間に売却されることになった。その再開発のテーマは「シティフロント」。旧市街に隣接する新都市として、業務、文化、住宅等の街が整備された。
    汐留の街づくりで特徴的なのは、ビルデザインに海外建築家を起用したこと。ジャンヌーベル(仏)、リチャードロジャース(英)、ケビンローチ(米)、など、日本の設計事務所とのコラボレーションが目立った。そのせいか、時代の趨勢からか、透明ガラスを多用したスカイスクレーパーが多い。
    http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/tokyo_data/shiodome/shiodome_file.htm

     「新橋ステンションを見てから食事する予定でしたが、変更して最初に食事をします。」十二時十五分前だからちょうど良い。ビジネス街の土曜日で、この時間なら店は空いているだろう。実は私は十一時過ぎから空腹を感じていたのです。
     汐留シティーセンター入口の自動回転ドアの前で、姫はじっと立ち止まっている。どうしたのか。「後ろの人を待ってたんです。」ドアが途中で何度も引っかかる。「後ろの誰かが触ってるんじゃないか。」「難しいわね。」実は一度に入れるのは三人なのに、七八人もが入ってしまったのが原因だったようだ。
     エスカレーターで地下のレストラン街に降りる。「適当に好きなお店を選んでください。十二時半にここに集まること。」姫の号令で一斉に別れた。目の前にトンカツ屋があるが、トンカツは昨日食べたばかりなので、スナフキンと一緒に紅虎餃子房に入った。誰も続いて来ないから、フロア全体を探検しているのだろう。私たちのようにお手軽に、すぐ目に着いた店に入るような人は少ないのである。
     私はレバニラ炒め定食、スナフキンは回鍋肉定食、それに「これを付ければちょうど千円できりがいいよ」とスナフキンが言うので、三個百円の餃子も注文した。そこに宗匠が一人で入って来た。「みんなはどうしたの。」「ラーメン屋に行ったみたいだよ。」宗匠は麻婆豆腐定食を選んだ。「餃子はどうする。」「要らない。」
     かなり辛いのは四川料理だからだ。「まだ四分の一しか歩いてないね。」姫の案内文には見学場所が二十五ヶ所書かれていて、そのうちまだ四か所しか行っていない。「もう七千歩になっちゃった。最高記録を超えるんじゃないの」と宗匠が万歩計を見ながら溜息を吐いている。ここが四分の一とすれば三万歩に近づくだろうか。「今までの最高記録も姫の企画だからね。」
     集合時刻の十分前に店を出てもまだ誰も集まっていない。そこにチイさんがやってきた。「何を食べた。」「トンカツ。誰もいなくなっちゃったから、私ひとりだけ。」次にやって来た講釈師は、隣のベトナム料理屋やシンガポール料理屋のメニューを熱心に点検している。やがて皆も集まって、予定通り出発する。
     食事中に雨は止んだかと思ったのに、外に出るとまた降ってきた。「希代の雨男がいるからですよ」とダンディが私を睨む。何度説明したら分かってくれるのだろう。それでは私も、今まで遠慮して秘めていた真実をついに公表しなければならない。私がいるからこそ、この程度で済んでいるのである。そうでなければ姫はとっくに雪女になっていた。「雪も見たかったよね」なんてチイさんがのんびり言っている。
     シティセンターとパナソニックの間が新橋ステーションの復元地だ。「停車場だよ。」講釈師の言葉で思い出した。ロダンは石橋正次の『夜明けの停車場』(丹古晴己作詞・叶弦大作曲)が好きだ。この歌が昭和四十七年(一九七二)、「落葉の舞い散る停車場は」で始まる奥村チヨの『終着駅』(千家和也作詞・浜圭介作曲)が前年の暮れに発売されている。既に「テイシャバ」という言葉はレトロな感じだったが、あの頃の雰囲気に合っていたのだろうか。
     プラモデルを作る講釈師はこういう所が大好きだ。ダンディも鉄道廃線に興味があるから熱心に覗きこんでいる。「ずいぶん広いじゃないの。」復元された線路は広軌になっている。ゼロ哩標識もある。プラットホームは立ち入り禁止になっていて上がれない。それでは復元された駅舎に向かおう。

     この建物は、一八七二(明治五)年十月十四日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を, 当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。
     新橋停車場駅舎は、 アメリカ人 R・P・プリジェンスの設計により、一八七一(明治四)年に着工、 同年十二月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、 鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。(略)  文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、一九二三(大正十二)年九月一日の関東大震災に際して火災のため焼失し、一九三四(昭和九)年から始まった汐留駅改良工事のため、 残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
     一九八六(昭和六十一)年、 汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立ち埋蔵文化財発掘調査が一九九一(平成三)年から行われた結果、 旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。一九九六(平成八)年十二月十日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け, この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の地を偲ぶために, 駅舎を再建することになったものです。(碑文より)

     薄いグレーを基調にした駅舎は東京駅より古いのに、むしろモダンを感じさせる。新橋駅はアメリカ人の設計になり、東京駅はイギリス人ジョサイア・コンドルに学んだ辰野金吾が設計した。イギリスとアメリカの美的感覚の違いによるだろうか。
     「中に入りましょう。」二階に上がると、鉄道とはあまり関係なさそうな現代アートばかりが陳列されていた。どうやら企画展示期間になっているようだ。しかし折角ここに来て私たちが見たいのはこれではない。もっと具体的な歴史を教えてくれるものが見たい。
     結局ここではパンフレットを貰っただけで、すぐに外に出る。「ライオンでビール飲むんじゃないのか。」自分では飲まない癖に、講釈師はこんなことを言う。建物の一角にライオンが入っているのだ。白梅と紅梅が咲いている。

     停車場の風に震へる梅の花  蜻蛉

     三原通り、御門通りの標識を見ながら芝口御門跡に着いた。銅板に彫られた御門の図は随分立派なものだ。

    所在地 中央区銀座八―八・九・十付近
    ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
    城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
    昭和五十二年十月  中央区教育委員会

     「そこに美味いてんぷら屋があるんですよ。友人にテンゴクって読んだやつがいるけどね。」ダンディの視線の先には「天國」という店の看板が見えた。中央区銀座八丁目九番十一。明治十八年、銀座三丁目に創業した店である。

    大正十三年(一九二四)二月、銀座八丁目の現在の場所へ出店。当時の町名では南八金町といいました。すぐ先に新橋がかかっていることから、「新橋天國」とも呼ばれました。(http://www.tenkuni.com/history.html)

     天國のホームページには、散策する数人の足元に「ギンブラニテンプラ・テンクニノテンプラ」の文字が記されるマッチ箱が載っている。ここにも銀ブラが出て来た。「博品館のところが勧工場でした」と姫が指さす。

    明治三十二年(一八九九)に開業した博品館勧工場は、明治時代に東京市内に在った著名な勧工場の一つ。新橋橋際角地に建ち、煉瓦造り三階建の正面に向かって屋上左端にモダンなモスク風の鐘塔付きの時計塔が設置されていた。
    http://www.kodokei.com/ot_014_f.html

     首都高速の入り口脇には大きな石が置かれて、三十間堀跡の説明がある。中央区銀座八丁目十一番。江戸の船入堀を整備するため、慶長十七年(一六一二)西国大名に命じて掘らせたものだ。当初は堀幅が三十間あったものの、後に十九間に狭められと言う。

    三十間堀は戦後灰燼の山を処理するために、昭和二十三年(一九四八)から埋め立てが進められ、同二十七年七月に完了してその姿を消しました。

     「銀座九丁目は水の上だよ。」講釈師の声に「そうでしたね」とダンディとヨッシーも頷いている。それは知らなかったナ。姫も「知りません、フランク永井ですか」なんて訊いている。「知らないんですか、神戸一郎ですよ。」歌謡曲に関心のない筈のダンディが笑う。首都高速が走るところは汐留川であり、遊覧船が浮かんでいたらしい。銀座八丁目の向こう側という意味で俗に九丁目と言われたと言う。

    夢の光よシャンデリア
    粋なカクテル マンハッタン
    欧州通いの夢乗せて
    銀座九丁目は水の上
    今宵は船で過ごしましょう(藤浦洸作詞、上原げんと作曲『銀座九丁目は水の上』)

     神戸一郎と言われて、私は何故か三浦洸一と勘違いしてしまった。「井上ひろしと同時代ですね。」姫の言葉に反対して「そんな筈はないよ、もっと古い」なんて無学なことを言ってしまったのが恥ずかしい。昭和三十三年の歌であり、姫の言う通り神戸一郎はアイドルのハシリであった。『十代の恋よさようなら』なんて歌があったが私は歌えない。
     それにしても遊覧船の上で、「欧州通いの夢乗せて」と言うのは言い過ぎではないか。しかしこの歌によって、三十三年までは船が通っていたと知ることができ、それならば歴史的な意味がある。首都高速によって埋め立てられるまで、東京は水の都だったのである。

     「そして、今改めて、『東京の水』という角度から銀座を眺めてみると、わたしの育った銀座の町は、まわりを水に囲まれた、いわば『島』のような土地であった。どこへ行くのにも、銀座の外へ出ようとすれば、道は必ず水に行きあたって、橋を渡らなければならなかった。」
     故池田弥三郎氏の『銀座十二章』(朝日文庫)の中の一文で、銀座は周囲を川、厳密に言えば堀で囲まれていたのである。北は京橋川、南は汐留川、東の境は三十間堀川、西の縁は外堀で区切られていた。(『江戸東京物語』)

     今、橋はあっても川も堀もない。全て埋め立てられて高速道路が走っている。堀が残っていれば景観は随分違ったものになっていただろう。
     「銀座はもともと四丁目までしかなかったんです。」いつから八丁目までになったのか、念のために知っておきたい。明治二年(一八六九)五月、新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から銀座四丁目が生まれた。町名としての銀座の誕生である。
     そして昭和五年(一九三〇)三月四日、晴海通り北側の四町域を銀座一丁目から銀座四丁目に編入すると同時に、晴海通り南側の九町域を統合して銀座五丁目から銀座八丁目とした。更にこの「銀座」と外堀に挟まれた十八町域を統合して銀座西一丁目から銀座西八丁目に改称した。
     つまり、銀座五丁目から八丁目が生まれたのは昭和五年であった。しかし遅くとも大正の初めには、パウリスタの京橋南鍋町や、プランタンのあった京橋日吉町も含めて現在の銀座八丁にあたる部分は、一般的には銀座の範囲と考えられていたらしい。そうでなければ、京橋南鍋町にあったパウリスタが「銀座」を自称することができない。
     更に昭和二十六年(一九五一)八月一日、三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになったため、木挽町を銀座東一丁目から銀座東八丁目と改名した。以降、銀座西と銀座東は時期をずらしながら「銀座」に統合されていく。

     「銀座の柳二世」の立て札が立っているのは明らかに違う木の前だ。「これが柳じゃないだろう。」「どう見ても椿だよね。」薄紅色の椿の花が一輪咲いているのがはっきり見える。いくら私でも椿と柳の区別はつく。おかしいではないか。「あれですよ。」宗匠の言葉に目を向ければ、五メートルほど横に、確かに痩せ細った柳が立っていた。立て札の場所が違うではないか。
     明治十年に銀座煉瓦街が生まれたとき、最初の街路樹として桜・松・楓が植えられた。しかし元々水捌けの悪い土地で根腐れを起こしたため、三年後に柳に植え替えられた。これが「銀座の柳」の始まりである。それが後藤新平の都市計画による車道拡幅に邪魔になったために大正十年には一掃され、銀杏に替えられたのである。しかしこれも二年後の関東大震災で全滅する。
     五十年に満たない命であったが懐かしむ人は多かった。昭和四年、佐藤千夜子が「昔恋しい銀座の柳」(西条八十作詞、中山晋平作曲『東京行進曲』)と歌ってヒットしたことを受けて、昭和六年に柳並木は復活する。
     藤山一郎が「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で」と歌った『東京ラプソディー』(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)は昭和十一年(一九三六)である。この年一月には日劇ダンシングチームが初公演を行い、シャリアピンが来日して独唱会が開かれた。一方では天皇機関説の美濃部達吉が撃たれて負傷し、二・二六事件が起こった。昭和モダニズムに暗い影が近づいてきている。そしてモダニズムに浮かれる都会と、飢饉にあえぐ農村との乖離は余りに大きかった。
     その柳も東京大空襲で再び全滅し、戦後に復活したものの、昭和四十三年の銀座通り大改修によって、またまた柳並木は取り払われた。消滅と復活を三度繰り返していたのだから、銀座と柳とは余程相性が悪いのではないか。

     昭和通りを行くと、銀座東七丁目交差点付近のリコー本社前歩道橋の下に、「汐留遺跡」として、龍野藩脇坂家上屋敷内の祠の参道にあった手水鉢が置かれている。羽団扇紋と奉献の文字が分かる。中央区銀座八丁目十三番先。
     歩道橋のもう一方の階段下には「間知石(けんちいし)と切り石」も置かれている。中央区銀座七丁目十三番十号先。これは何かと思えば、「四角錐の形をした間知石と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(排水溝)に使われていたものです」と説明されている。汐留には龍野脇坂藩の他、会津、伊達の屋敷があり、その遺構を調査発掘したのが「汐留遺跡」である。この辺も汐留だったのだろうか。
     銀座東五丁目で昭和通りを横断してみゆき通りに曲がると、Jパワービル(電源開発)の前に、佐久間象山塾跡の説明板が設置されていた。中央区銀座六丁目十五番一(旧木挽町五丁目)。

    嘉永四年(一八五一)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に兵学塾を開きました。嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。(後略)(中央区教育委員会)

     「蜻蛉の嫌いな人物でしょう。」嫌いと言った記憶はないよ。ただ傲岸不遜な人物だったらしいと言っただけで、先覚者の一人であることは間違いない。海舟は自身がその教えを受け、妹を嫁がせていたから関係は相当深いのに、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの男」という評価をしている。
     読売新聞社仮社屋、新橋演舞場を見て采女橋を渡る。「この字はウネメって読むのね。間違えちゃいけないわよ」と若女将がクルリンに言っている。「たぶん、なんとか采女の屋敷があったんだろうね。」

    木挽町四丁目より東の方、このところに馬場あり。つねに賑はしく、講釈師・浄瑠璃の類、軒を並べて、行人の足をとどむ。享保九年(一七二四)まで、この地に、松平采女正定基のやしきありしゆゑ也となり。(『江戸名所図会』)

     東劇の看板を見ながら万年橋を渡ると、松竹大谷図書館の看板が立っている。ADK松竹スクエアというビルである。中央区築地一丁目十三番地一号。「一度行ってみたいと思って、なかなか行けないんですよ。」演劇映画に関する資料が充実しているそうで、映画の好きな姫が行きたくなる図書館だ。
     「早く行こうぜ、面倒だから。」築地署の前を過ぎる時、講釈師はわざとらしく顔を伏せる。「だって煩いじゃないか。」「このごろの警察は優しいですよ」とダンディが言っても芝居をやめない。「顔を見られるとまずいからさ。」「アッ、その指名手配の写真。」
     「ここは安くて美味いんだ。築地市場が近いからさ。」警察の隣が中央区役所で、その食堂のことを言っているのだ。「知っている人は食べに来るよ」と講釈師が言う。中央区築地一丁目一番一号。中央区の中心は築地にあったのか。
     右に曲がれば地下鉄新富町駅の入口で、そこに土佐藩築地藩邸跡の説明板が立っていた。中屋敷とも下屋敷とも言う。「武市半平太はここから士学館に通っていました。」士学館は桃井春蔵の鏡新明智流の道場である。「キョウメイシンチ、アレッ、メイシンキョウチ。ダメだわ、口が回らない。」士学館は千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館と並んで幕末の三大道場と称された。「あそこです。キャピタルシティホテルの看板が見えませんか。」百メートルほどのところに見えた。藩邸からこんなに近くてはあんまり遊べない。「岡田以蔵も通っていました。」半平太が通うなら以蔵も行かなければならない。
     「春雨じゃ、濡れて参ろうって言うのは武市半平太でしたか」とダンディが不思議なことを口にする。私はあんまり吃驚したものだから、「違うんじゃないですか」としか口から出てこない。その台詞は原理主義者の武市には似合いそうにない。すかさず講釈師が「月形半平太だよ」と解答を出してくれた。
     「私が言ったのはその積りだった。月形半平太は武市半平太をモデルにしたんでしょう。」確かにウィキペディアにもそう書いてある。しかし、「月さま、雨が」なんていうのが似合うのは、むしろ幾松と桂小五郎の二人ではないだろうか。新国劇には疎いので本当の所は知らないが、行友李風は名前だけを借りたのではあるまいか。
     但し幕末から明治にかけての人物像について、我々のイメージは、ほとんど司馬遼太郎に影響されているから注意が必要だ。その文明論にはある程度頷ける部分もあるが、文明論を言い過ぎると実際の歴史感覚とずれてしまうことがある。実は、ほとんど批判に晒されない司馬遼太郎(曽野綾子は、現代マスコミの言論統制の例として挙げている)と、フィクションとしての時代小説しか書かなかった山田風太郎とを対照する議論がある。私の判断では、決して大袈裟な文明論を言い立てなかった風太郎の明治物にこそ、歴史の現実が宿っている。(『警視庁草紙』『エドの舞踏会』等々を参照のこと。)

     右側に何かの説明碑があるので、道を渡ってみると、三吉橋の説明に三島由紀夫の『橋づくし』の一節が彫られていた。「何でしたか。」戻って合流するとヨッシーに訊かれた。確か七つだったか八つの橋を、一言も喋らずに渡り終えれば願い事がかなうというような話ではなかったかな。調べてみると三吉橋、築地橋、入船橋、堺橋、暁橋、備前橋の六つだが、三吉橋は三叉になっているので二回数えて七つになると言う。

     程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架けられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角に中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。(三島由紀夫『橋づくし』)

     三吉橋には確かに鈴蘭燈が立っている。橋を渡ると、ビルの合間に古めかしい三階建の建物が目についた。窓からは乱雑に積み上げられた書籍の山が見える。美術書などを扱う閑々堂という古書店のようだ。
     京橋にやってきたところで、小さな公園で休憩をとる。「皆さんのエトの前で休んでくださいね。」園内を囲むように立つ街灯には、十二支の動物が描かれているのである。「でも、未はトイレのそばだからね」とマリーがぼやく。「可愛いウサギですよ」と姫が笑うが、まず煙草を吸わなければならない。喫煙所で若い男がひとりで葉巻を吸っているのが珍しい。吸い終わって戻ると飴がいくつも配られた。
     次は京橋の親柱を見る。「きやうはし」と彫られた柱を見て、ダンディは頻りに、「きやうはし、きやうはし」と呟いている。

     京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。昭和三十四年(一九五九)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。
     橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治八年(一八七五)当時の石造り橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木枝陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正十一年(一九二二)に架けられた橋のものです。石及びコンクリート造りで、照明設備を備えたものです。京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
    (http://www.ee-tokyo.com/kenzoubutsu-2/tyuuouku%20/kyoubashi-oyabashira/oyabashira.html)

     切絵図を手にした団体が、リーダーらしい人の講義を熱心に聴いているので、その邪魔をしないように気を付けなければならない。江戸歩きは最新流行なのだ。「煉瓦銀座之碑」が立っている。

    明治五年(一八七二)、和田倉門から出火した火事は、銀座一帯を焼きつくし、築地ホテル館にまで及ぶ大火になりました。これを機に、時の東京府知事由利公正は不燃性の都市を建設することを主張し、銀座煉瓦街の誕生となりました。彼の功績を讃えて造られたのが「煉瓦銀座之碑」です。

     当初の計画では、それまでの八間余りの道幅を二十五間に広げ、表通りに面する建物は全て煉瓦造りにするというものだったが、できあがった道路は十五間幅(約二十七メートル)である。

     しかし、銀座通りの煉瓦建築はあまり評判はよくなかったようである。しかも、表通りは「一等煉瓦」、他の大通りは「二等煉瓦」、横丁や新道は「三等煉瓦」という風に、どういうわけか煉瓦の質に等級をつけた。不可解な話である。ことにその「三等煉瓦」というのは粗末なものだったらしい。(巌谷大四『東京文壇事始』)

     大火の前まで住んでいた住民は、煉瓦街が完成するまで住居の建築を許されず、街が完成した後には払下げ価格が高すぎて殆ど入居できなかった。煉瓦街の家に住めば病気になるという噂も広まり、政府の思うようには払下げは順調に進まなかった。さっき山田風太郎に触れたので思い出した。『警視庁草紙』の中に、政府の無茶苦茶なやり方と、出来たばかりの煉瓦街の怪しさを描いた「幻燈煉瓦街」という章がある。
     すぐそばには警察博物館がある。中央区京橋三丁目五番一。「面白いよ、警察官の格好もできるんだ。」そう言うからには実際に経験したのだろうか。「おまわりさん なりきり体験」が出来るのは子供用の制服であり、大人向けにはそういうサービスはしていない。講釈師に警官の制服を着せるのは問題が多すぎる。
     「向こうに歌舞伎発祥地の碑がありますが、今日は行けません。」「あっそう、残念だな。」ダンディと若旦那は本当に残念そうだ。今日のコースは実に盛沢山で、簡単に寄り道をする訳にはいかないのである。
     銀座通り口の交差点を横断すると、目の前に建っているのはおかしな屋根をした交番だ。銀座一丁目交番である。中央区銀座一丁目二番四号。赤レンガの直方体に、細長い正ちゃん帽をかぶせたような格好をしている。京橋の袂にあったガス塔のイメージだと言う。
     漸く銀座の中心に入って来て、歩行者天国の中央通りを行く。「歩道じゃなくて真ん中通ればいいじゃないか。」「見るものがあるんです。」そう言って歩きながら、姫は「この風景の中に日本で最初のものがあるんです。気がつきますか」と笑う。はて何だろう。
     暫く歩いて、カルティエ銀座の前で立ち止まった。「これですよ。」言われてみれば、周囲の街灯に比べてかなり背の高いものが一本立っている。形も細い。「日本最初の電気街灯建設の地」のプレートが貼り付けられていた。

     明治十五年十一月こヽに始めてアーク灯をつけ不夜城を現出した 当時の錦絵を彫刻してその記念とする
            昭和三十一年十月一日
            銀座通聯合会 照明学会 関東電気協会 東京電力株式会社

     「ガス灯は横浜が最初だよ」と横浜案内を企画したスナフキンが主張する。それは知っているし、彼の案内でその跡地は見学している。アークは弓形(弧状)のことで、二つの電極の間で光が弓型に放電することによるらしい。「光が強すぎて家庭では使えなかったようですね。」「コストもかかり過ぎたしね。」

     一般庶民が初めて電灯を見たのは明治十五年十一月一日。銀座二丁目の大倉組の前で、午後七時三十分に点灯されました。電柱の高さ五丈(十五メートル)、ローソク四千本分の明るさだったそうです。このときには一時間点灯するのに二十銭必要でした。(「電灯ともる」http://www.tanken.com/dento.html)

     歩行者天国を横切って斜向かいに行くと、ティファニーの前の歩道に「銀座発祥の地 銀座役所址」碑が建っている。

    慶長十七年(紀元二二七二年 西暦一六一二年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す 当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ 明治二年逐に銀座を町名とする事に公示さる
              昭和三十年四月一日建之      銀座通連合会

     「俺はティファニーでコーヒーを飲んだ。」銀座発祥の地より、後ろの店が気になる人たちである。「ティファニーで朝食をじゃないの。」世界を歩いているダンディは「私はニューヨークで行ったことがある」と自慢し、映画ファンの姫は「ヘップバーンですよね、綺麗だったわ。」と溜息を吐く。
     「銀座には日本最初のものがいくつもありますよ。三越のエレベーターとか。」それはどうだろうか。日本最初のエレベーターは明治二九年(一八九六)、浅草の凌雲閣に設置された。エスカレーターなら、大正三年(一九一四)に三越日本橋本店に設置されたのが最初になる。三越銀座店が開店したのは昭和五年(一九三〇)だから、これも違うのだ。
     「木村屋のアンパンがそうですよ。」「酒饅頭にヒントを得たんですね。」「ヘソに桜をつけたんだよ。」皆なかなか詳しい。明治七年(一八七四)に売り出した。それに「あんみつ」も銀座の発祥であった。若松が昭和五年頃に売りだしたらしい。
     アーク灯の前で動こうともしない連中は何をしているのだろう。眺めていると、リーダーがいないのに気付いて左右を見回しているのがおかしい。こっちだよと手を振ると漸く気付き、道を渡ってやってきた。「カルティエの時計を見ていたものだからね」とマリーが弁解する。カルティエの時計なんか誰も買わないだろうが、これも「銀ブラ」だ。漸く雨も止んだようだ。

     かっこつけ雨風ぬるむ銀ブラよ  千意

     「教文館はちゃんとあるんですね。」ダンディの言葉に、「でもイエナ書店はなくなってしまいました」と姫が淋しそうに応えている。イエナは映画関連の本が充実していた。平成十四年にそれが潰れたのは明かにアマゾン進出の影響だった。洋書店というものが成り立たなくなったのである。(勿論洋書ばかりではない。アマゾン以外にも原因はあるが、地場の書店が成り立たなくなったのだ。)
     プランタンの辺りにやって来ると、雨が止んだせいか、若者の姿が多く見られるようになってきた。このプランタンは、松山省三のカフェープランタンとは勿論違う店だ。
     いつの間にか有楽町駅前に来ていた。交通会館ビルの一階には三省堂書店が入っている。この辺はずいぶん変わった。イトシアなんていうのは知らなかったが、平成十九年に開業しているのだから、それ以前から有楽町に来ていないことになるか。
     南町奉行所跡の碑が、地上すれすれの随分低い所に設置されている。「もちろん大岡越前ですよね。」「講釈師は同心でしょうか。」「岡っ引きじゃないですよね。」まず与力でないことは間違いない。空気が変わった町だが、それでも昔懐かしい飲み屋が並ぶ横町も生き残っている。
     「ここでトイレ休憩をします。」姫の号令で東京国際フォーラムの地下に降りる。東証IRフェスタと称する催しがあるようで、各ブースには投資を学ぶために結構人が集まっている。若い顔も目立つが、こういう連中が投資をするほど資金を持っているのか。博打のような感じがして私は嫌いだ。「そうですよね」とチイさんも同意してくれる。これでは資本主義の社会に生きて行けないかも知れないが、それが健全な市民感覚であると私は固く信じている。
     講釈師とダンディは熱いコーヒーを持って飲んでいる。「俺は飲みたくなかったんだけどさ、ダンディが飲もうって言うから。」「最初に飲みたいっていたのは講釈師じゃないですか。」熱いから講釈師は紙カップを二枚重ねている。
     ここは土佐藩上屋敷跡でもある。外に出ると東京府廳舎の古い石柱が立っているのに気付いた。「難しい字だよね、とても書けない。」「最初は読み方も一定してませんでした。トウキョウか、トウケイか。」「京の間に一本入る字だよね。」

     明治元年(一八八六)五月江戸は江戸府となり、七月には東京府(とうけい)と改称され、翌八月大和郡山藩上屋敷を接収して東京府庁が開庁した。明治四年には廃藩置県により東京府は京都府、大阪府と共に三府(首都あるいはその代替地)の一つとされた。明治二十二年に東京府内十五区を東京府から分立して市制を施行し東京市とした。
     同年にようやく新府庁舎の新築が始まり、二十七年麹町区有楽二丁目一番地(高知藩主山内土佐守屋敷跡)にフランス近世ルネッサンス様式の二階建て煉瓦館の出現を見た。設計者は妻木頼黄工学博士で欧州各国の市庁舎を実査研究の後の苦心の設計になる代表的な明治官庁建築の一つで有る。(http://www.kodokei.com/ot_014_n.html)

     鍛冶橋跡を過ぎれば、その先に千葉定吉道場跡がある。中央区八重洲二丁目八番先。桶町千葉と呼ばれた。坂本龍馬が通ったのはここだったと思えば、私はどうしても千葉さな子を思わない訳にはいかない。維新後、さな子は学習院女子部の舎監を務めた後、千住で家伝の灸を業とした。一生独身を保ったと思われていたが、どうやら明治になって一度は結婚したらしい。

     坂本龍馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉さな(一八三八~九六年)が、龍馬の暗殺後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治時代の新聞記事が、三日までに見つかった。(中略)
     記事は明治期に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が一九〇三年八~十一月に連載した「千葉の名灸」。さなが晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描く内容で、さなの親族に取材して書かれた。
     十月四~五日の記事によると、一八七三(明治六)年に横浜に移り住んださなが、定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、龍馬の七回忌も済んだことから受諾した。
     しかし家格の低さもあり定吉が反対。「おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたものではなかったのか」などと怒ってさなを切ろうとしたため、近くの商家が仲裁に入り、翌年七月に結婚した。
     菊次郎の身持ちの悪さなどから、十年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。(http://erinkoryo.blog48.fc2.com/blog-entry-240.html)

     甲府にある墓の裏面には「坂本龍馬室」と記されているというのが哀れだ。龍馬は確かに彼女と約束したのである。さな子は甲府出身の自由民権家の小田切謙明と交友があった。身寄りのないまま死に、谷中で無縁仏になるところを小田切の妻が哀れんで、小田切家の墓地に墓碑を建立したから彼女の墓が甲府にある。甲府市朝日五丁目にある日蓮宗妙清山清運寺である。
     もう一度戻って東京駅に向かう。旅行会社の旗の後ろから大勢の人がやって来る。「明日の追悼会に参加する人でしょうか。」どうやら高速バスで来たものらしい。高速バスの発着所を過ぎて行けば、丸の内トラストタワーN館の東の外壁に沿って、江戸城外堀の石垣が復元されていた。前に三人組の男女が説明板を読んでいたが、私たちが近づくと慌てたように行ってしまう。
     「ここです。前は別のところにあったんですけど。」北町奉行所跡の碑は、以前は八重洲北口の辺りにあったようだが、今は移されてN館のほぼ外れの辺りに立っている。「随分探してしまいましたよ。どんな資料を見ても、八重洲北口なんですからね。」
     ただ南北奉行とも、火事や町割りの変更で外堀の内側を何度か移転している。少し正確なところを調べておこう。

    慶長九年(一六〇四)八代洲河岸内と呉服橋御門内に初めて設けられ、両所の位置関係により八代洲河岸内の役所を北町奉行所、呉服橋御門内の役所を南町奉行所と呼称するようになった。元禄十五年(一七〇二)に奉行が一名増員され中町奉行所が出来た。宝永四年(一七〇七)北町奉行所が数寄屋橋御門内に移転、南町奉行所となり、他の二奉行所もそれぞれの位置により名称を変えた。享保二年(一七一七)には北町奉行所が常盤橋御門内に移転。同四年には中町奉行所を廃止し奉行二人体勢となる。文化三年(一八〇六)北町奉行所が呉服橋御門内に移転し、以降北・南両町奉行所の位置は固定し幕末に至った。(『日本歴史地名大系』「東京都の地名」より)

     つまり北町奉行所がここにあったのは江戸初期の百年間ということだ。残念ながら遠山の金さんはここではなかった。それに、なんとなく北町と南町とはもっと離れていたように漠然と思っていたが、実は案外近い所で共存していたのである。管轄範囲を分けた訳ではなく月替わりで担当していたのだから、近くにあった方が便利なことは考えるまでもなく当たり前のことだった。私には想像力が欠けている。
     外堀通りに出れば呉服橋跡である。

     「御府内備考」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
     古くは後藤橋といへり。〔寛永中江戸絵図〕呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。〔江戸紀聞〕今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼名なるべし。(後略)
     これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(一六二四~一六四三)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。なお、外堀が昭和二十九年(一九五四)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含めて外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。
      平成九年(一九九七)三月 千代田区教育委員会

     そばに金色の像が立っているのが不思議だ。「プロメテウスですよ。」「火を盗んだ男。」「そうです。」「両手に持っているのは松明ですね。」プロメテウスが何故呉服橋袂にあるのか。これは日本石油創立百年を記念して作られたものだ。タイトルは「希望」、製作は富永直樹である。西新橋の旧新日本石油ビル前にあったものを移設した。何故ここに移したのかは分からない。
     正面向こうには常盤橋がある筈だ。「渋沢栄一さんの像の方が立派ですよね。」プロメテウスと較べるのもなんだかおかしい。
     永代通りから丸の内側に出る。「引き取り手がいなくて、岩崎が一人で買い取ったんです。三菱ヶ原とも言われました。」丸の内一帯を政府が払い下げた時、渋沢、大倉、三井が引き受けず、結局坪十円強で三菱が引き受けた(ことになっている)。当時、銀座の地価が三十円から五十円の時である。政府に無理やり押し付けられたという噂も流れたが、岩崎弥之助が計算しない筈はない。上手い事をやったのだ。下記の記事も、オフィス街造成のために激しい競争をした結果、岩崎が勝ったと判断している。

     明治二十三年三月、かつての大名小路一帯は岩崎の一人占めとなり、身の丈ほどもある雑草の生い茂る荒れ野のまま、三菱ヶ原と呼ばれた。だがしかし、岩崎は本当に政府に押し付けられたのだろうか。 
     そこには、矢田挿雲も触れているように、渋沢栄一、大倉喜八郎といった明治財界の巨頭たちがずらりと登場している。渋沢や大倉に丸の内の洋々たる未来が読めないはずはない。
     事実、丸の内を民間オフィス街にと根回ししたのは渋沢等で、激しい争奪戦の末に岩崎の手に落ちたのである。(新潮社編『江戸東京物語』)

     但し先にも言ったように、この『江戸東京物語』は大成建設のPR誌に掲載されたものである。大成建設は大倉土木組の後身だから、そこで負けたことに対する悔しさがあるかも知れない。
     「日本歯科大学発祥の地」碑が立っている。千代田区大手町一丁目五番一。「魚籃坂にも歯科大学がありませんでしたか。」確かに、伊皿子交差点付近に「歯科医学教育発祥之地」碑があったのは覚えている。「医科歯科大学だったかな。」そうではなく、あれは東京歯科大学であった。ここにあるのは日本歯科大学である。「歯科大学はもう全然ダメなんだよ」とスナフキンは言う。
     NTTデータの辺りが越前福井藩の江戸屋敷跡になる。千代田区大手町二丁目。幕末の藩主松平春嶽は明君の誉れが高かったが、それは橋本左内のお蔭だろう。
     地下鉄大手町駅を過ぎて大手門の信号に着いた。姫の計画ではこの後、竹橋御門から旧近衛師団司令部庁舎(国立近代美術館工藝館)を見て、九段下で解散する予定だったが、ここで計画を変更して終わることになった。工藝館までは一キロちょっとだろうか。若女将やチロリンの足取りがかなり重く、だいぶ疲れているようだ。三時半である。「九段下のさくら水産を調べて来たのに。」宗匠が調べていたし、私はクーポン券まで印刷してきた。
     姫が終了を宣言した途端、日が照って来た。ここでチイさんが荷物を広げた。フキノトウと芋ガラだ。フキノトウを貰って、「油で炒めるんでしょう」と言うマリーに、その前にちょっと茹でた方が良いと教える。芋ガラの方は、水で戻して油揚げなどと一緒に炒めれば良いとチイさんが教えてくれた。これも酒のつまみに旨そうだ。宗匠は都内の博物館巡りのチケット「ぐるっとパス」を貰った。
     若旦那夫妻は工藝館まで行くと、ここで別れて行った。疲れていると思ったが元気な夫婦である。講釈師は喫茶店にきたいのだが、このあたりに店はなさそうだ。ビルの中の店は高いに決まっている。東京駅に行けばあるんじゃないか。結局今日の行程は一万八千歩となった。十キロちょっとになるだろうか。最高記録の達成はお預けである。

     東京駅構内の通路を通って八重洲口に出る途中、地下に喫茶店があるのを見つけた。講釈師、チロリン、クルリンはここで喫茶店に行き、残った十人は居酒屋を探す。こういうことはスナフキンに任せておけば良い。外に出て彼の嗅覚に従って歩いて行くと、この辺はカラオケ屋がやたらに多いことが分かり「二次会も決まりですね」とチイさんが嬉しそうな声を出す。
     「居酒屋あいてますよ」と誘う客引きが二人も近づいて来ても、それは無視することに決めている。「渋谷で失敗したものね。」「失敗って言うほどボラレタ訳じゃないけどな。」路地に入りこむと、「さかなや道場」があった。「はなの舞」と同系列のチェーン店だ。四時開店だから、ちょうど店を開けたばかりだろう。「ここならそんなに高くないよ。」
     席について落ち着いて見ると、名刺を出せば「企業割引」の特典として十パーセント引きになるという案内が壁に貼ってある。「俺は企業じゃないからな、蜻蛉も名刺は持ってるだろう」とスナフキンが私を促す。安くなるなら何枚でも出して良い。十枚出せばタダになるだろうか。ビールを運んできた店員に訊くと、会計の時に出せと言う。
     そのうち、ダンディがキリタンポのグラタンなんていう妙なものを注文した。キリタンポは鍋に決まったものである。男鹿半島などの観光地ではタンポに味噌ダレや醤油ダレを塗りたくって売っているが、地元の人間は誰もあんなものは食わないのではないか。何も知らない観光客を騙しているのである。試しに一口だけ食ってみたが、わざわざキリタンポをグラタンにする意味は全く分からなかった。(私はそもそもグラタンなんか食わないからね。)秋田原理主義者のYが聞けば、「バカ喋りすな。誰がそんたもん、食うってか」と怒り心頭に発するだろう。
     さくら水産よりはちょっと高めだが、ひとり三千百円は一割引きのお蔭と言うべきか。
     姫、碁聖、チイさん、スナフキン、マリー、蜻蛉はカラオケ館に移動する。ロダンがいないと矢張り盛り上がりに少し欠ける。七時三十七分終了。二千二百五十円なり。

    蜻蛉