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    第四十回 横浜編(続編)
     三渓園・山手西洋館・大佛次郎記念館・元町を巡る
    平成二十四年五月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.05.23

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     横浜はスナフキンが特に思い入れの深い土地で、前回(第三十三回)だけでは到底回り切れずに続編が計画された。おそらくこの分では更に続々編も行われるに違いない。私は横浜をほとんど知らないからこの企画は有難い。
     集合場所の根岸駅は私にとっては初めての所だ。池袋を八時三十八分に出る湘南新宿ラインに乗れば横浜には九時十七分に着く。横浜も随分近くなったと毎度同じことを思うのは、精神がやや老耄しかかっているせいだろうか。初めて乗る根岸線で九時三十四分に根岸駅に到着すると、もうスナフキン、チロリン、講釈師、ダンディが改札口で待っていた。相変わらず早い連中だ。
     久しぶりに顔を見せたハイジが「私は京浜東北一本で来たわ」と笑うと、「私もそうよ」とマリーも頷く。根岸線と言っても京浜東北線の延長だというのを、私は初めて知った。「その方が良かったのかな、私は教えられた通り湘南新宿で来たわよ。」自分が間違えてしまったかのようにマルちゃんが慌てて訊くのがおかしい。ハイジやマリーの場合、赤羽駅のホームの端から端まで乗り換える面倒を考えると、多少時間はかかっても京浜東北線の方が良いという判断だろう。マルちゃんは最寄駅が埼京線沿線だから、湘南新宿ラインで来て正解なのだ。
     心配していた姫は体調が回復してきたようだ。しかしまだ薬が必要らしいから無理は禁物である。「私もね、同じだったの。」ハイジも同じ症状で苦しんでいたと言うのには驚いた。「最初は腰が痛くてね、皮膚科なんて思いもつかなかったわ。」帯状疱疹というのに私は馴染みがないが、何かこの季節特有のものなのだろうか。
     宗匠も腰の痛みはなくなったようだが、「まだ顔を洗う時は片手で」と言うから、完治した訳ではなさそうだ。腰に不安を抱えるのは私も同じでいつ発症するか分からないから、片手で顔を洗うと「水がダラダラ垂れちゃって」と言うのが実感として分かる。
     十時五十三分を回れば、参加者はもうこれで決まりだろう。スナフキン、ダンディ、講釈師、宗匠、桃太郎、小町・中将夫妻、あんみつ姫、イッチャン、チロリン、クルリン、ハイジ、マリー、マルちゃん、蜻蛉。男性七人、女性八人の構成である。
     それでもスナフキンは念のためにもう一本電車を待つことにした。「バス乗り場に行っててくれよ。十分発のバスだから。」「七番乗り場だね。」
     バス停に着くとすぐにバスが来た。先に並んでいた人に続いて乗り込もうとするのは気が早い。「まだですよ、十分発ですからね。」しかし先頭にいた人は、車掌(?)からこのバスで良いと言われたようだ。「じゃ、乗ってましょうよ。」
     しかし全員が乗り終わった頃、「十時に出発します」とドアが閉められてしまったから慌ててしまう。それは何だ。「ちょっと待ってよ。十分発じゃなかったの。」車掌とすったもんだの議論をした挙句、取り敢えず私だけ下りて改札口に走った。「もう出発するよ。」「十分発だぜ。どうして。」「もうみんな乗っちゃたんだよ。」納得がいかないスナフキンを無理やり拉致して大急ぎでバスに戻った。「それでは出発します。」
     「どうしたんだよ。」斯く々々しかじか。私は少し頭にきて車掌と強く言い合ってしまったが、車掌の言葉を私が正確に聞いていた訳ではない。又聞きしただけで言い張ったのは大人としての節度が足りなかった。先頭集団と車掌の間に、どちらの責任というよりも何か勘違い、言葉の行き違いがあったのだ。

     運賃二百十円は前払いの均一料金である。目的の本牧三渓園入口には十分もしないで到着した。
     「この辺りまですぐ海だったんですよ。」地図を見ればすぐそこの首都高速湾岸線の南は横浜港だし、前方の断崖も海岸だった頃の様子を窺わせる。「子供の頃に潮干狩りしましたよ。」「そう言えば船橋だってそうだよね。」東京湾はほとんど埋め立てられた。ここもかつては風光明美な土地だったのだろうが、湾岸線に遮られて、そんな光景はまるで見られなくなってしまった。

    本牧の海岸はすべて埋め立てられ、根岸湾周辺には石油化学工場が並ぶ。北側の本牧埠頭は、AからDまでのナンバーが振られた突堤を持つ、広大なコンテナ埠頭であり、ガントリークレーンや各種工場が立ち並ぶ、横浜港の貨物取り扱いの中心となっている。また、沖合いには新たなコンテナ埠頭である「南本牧埠頭」が完成している。(ウィキペディア「本牧」)

     広い池には白い睡蓮が咲いている。埋め立て以前には海だった場所である。「アオサギがいるよ。」相変わらず講釈師は目敏く鳥を見つける。かなり向うの、スイレンの葉が広がっている上にアオサギが立っていたのだ。「若いな、あれはワカサギだ。」若いアオサギをワカサギと言うのは講釈師だけである。普通の人はこんなことを言ってはいけない。「それにしてもあんなところに良く立てますね。」「鳥は軽いからでしょうね。」
     白い土壁に中国風の門が立つのは上海横浜友好園の入口だが、建物が老朽化して中に入ることはできないらしい。池に伸びる橋の先には湖心亭という建物が建っている。その二層になった屋根の六隅は、カタクリの花のように極端に上に反り返っている。
     「あそこでさ、楊貴妃が玄宗皇帝と恋を語るんだぜ。」講釈師は得意げに怪しい中国語を喋り捲る。「良くそんなに口が回るわね。」「来ないと淋しいけど、いると煩いね。」「ホント、ホント。」「俺は次回から来られないんだ、心臓が悪くてさ。イタタ。」そんなことは誰も信じない。今日の講釈師はなんだか気分が高揚しているみたいだ。「今日はイッチャンがいるから、はしゃいでいるんですよ。」ダンディの言葉は謎である。
     「こっちからは孫悟空が出てきそうじゃないか。」ハクモクレンに因んだ玉蘭庁という建物もある。それにしても平成元年に作られた公園が、わずか二十四年で「老朽化」とは、管理が甘いのではないか。
     三渓園南口入口ではボランティアのガイドが数人待機していた。スナフキンが前もって頼んでいたのである。「五人は回数券を買って下さい。」「どうしたら良いの、意味が良く分からないわ。」「私はどっち。」「クルリンもマルちゃんも三百円ですよ。」六十五歳以上は三百円だから悩む必要はない。
     普通は入園料五百円のところ、五枚つづりの回数券が二千円になって、つまり一人四百円で収まる。今日は六十五歳未満が八人いるので、三人が五百円、五人が四百円を払ったことになる。
     「三渓って、人の名前だとは知らなかったよ」と宗匠が笑って言うが、私はそもそも三渓園というものを知らなかった。

    三溪園は、横浜市中区にある庭園。一七.五ヘクタールの敷地に十七棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって作られた。名称の三渓園は原の号である三渓から。二〇〇六年十一月十七日に国の名勝に指定された。
    三渓園は、国の重要文化財建造物十件十二棟(移築元:京都五棟、和歌山三棟、神奈川二棟、岐阜一棟、東京一棟)、横浜市指定有形文化財建造物三棟を含め、十七棟の建築物を有する。単に各地の建物を寄せ集めただけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。園内にある国の重要文化財建造物十件十二棟は、全て京都など他都市から移築した古建築であり、移築自体に本来の価値に対する評価を投げかける意見もあるが、中には現地で荒廃していた建築物を修復して移築したものも含まれている。(ウィキペディア「三渓園」より)

     これほどの庭園を造った三渓原富三郎についても知識を得て置かなければならない。ホントに嫌になるほど私は何も知らない。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市)の青木家に生まれ、原家の婿になった人である。本名は原富太郎、三渓は号である。

     青木久衛の長男として生まれる。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。一八九二年、横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。
     また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。一九一五年に帝国蚕糸の社長、一九二〇年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。一九二三年の関東大震災後には、横浜市復興会の会長を務めた。しかし関東大震災後の復興支援のため私財を投じ衰微。
     美術品の収集家として知られ、小林古径、前田青邨らを援助した。横浜本牧に三渓園を作り、全国の古建築の建物を移築した。三渓園は戦前より一部公開されていたが、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。(ウィキペディア「原富太郎」より)

     なかなかの人物ではないか。「義理祖父の原善三郎は神川の出身でした。」「あそこに生家があるよね」と言う中将に「私も一度行ったことがあります」とガイドも頷いている。児玉郡神川町は武蔵国渡瀬村である。そうか、中将は地元の人だから詳しいのだ。それなら序でに、三渓の義理の祖父になる善三郎についてもチェックしなければならない。これもウィキペディア「原善三郎」からの抜き書きになる。

     原善三郎 文政十年(一八二七)~明治三二年(一八九九)は、江戸後期から明治の実業家、政治家。
     明治初期に急速に発展し日本の主要貿易品となった生糸の取扱いで財を成した。一八七三年から一八七四年にかけては小野善三郎、三越得右衛門、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛と善三郎を含めた五家で横浜の生糸取扱い量の七四%を占めていた。
     また、自らの故郷渡瀬と群馬県下仁田に近代的製糸工場を建設し、後に原財閥が生糸売込商のみならず、大製糸家ともなる基礎を作った。
     その後も、原財閥は昭和初期まで横浜を拠点とする有力財閥として影響力を保った。

     名主クラスの豪農だったようで、善三郎は文久二年(一八六一)横浜に出て生糸売込問屋「亀屋」を開業して成功した。第二国立銀行(後の横浜銀行)初代頭取、横浜商法会議所(横浜商工会議所)初代会頭、横浜市市議会初代議長、衆議院議員(埼玉県選出)などを歴任している。神川町の邸宅には「天神山」と呼ばれる庭園があるらしい。

     一度に十五人を案内するのは大変だというので、二組に分かれる。「年齢別も考えたけど、色々面倒くさいし男女別にします」とスナフキンが決定し、それぞれ逆のコースを通って行くことになった。十二時に昼食場所の「待春軒」で合流する手筈だ。
     こういう時、一番心配なのは講釈師だ。そもそも他人の解説を聞くのが嫌いな人で、自分だけが聞かないならまだしも、露骨に嫌がってみせることが多いから、気が気ではない。
     高齢のガイドには助手のような男性もついてくる。見事な竹林や松、梅などの林の中の回遊路を通って行く。海岸門(京都・西方寺にあったもの)を通って最初にガイドが案内してくれたのは蓮華院だ。大正六年に建てられたもので、板葺きの屋根は杮葺きではなく「木賊葺き」というものだと教えてくれる。
     薄い板で葺いた屋根はすべて杮葺きと言うのかと思っていた。どう違うのか。「杮は厚さ一分程度、木賊葺きの板はそれより厚くて、一分五厘から二分ほどになります。」勉強になるね。茶室も珍しいものらしい。「その端の小さな部屋です。茶室の間取りは普通三畳、五畳、七畳と奇数で作るんですが、ここは二畳なんですよ。」私は茶室についてもまるで知ることがない。二枚の畳の間に一尺五寸の中板を入れて亭主と客が対する。「二畳中板と言う形式です。」要するに非常に狭い茶室である。「静寂の中、一対一で応接する。利休が究極的に目指したものでした。」土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があるという。
     「これはイチョウです。」しかし葉っぱは楓みたいではないか。「それは別の木ですよ。」そうだったか。「寄生したんじゃないか。」「このイチョウは樹齢何年程だと思いますか。」それなら桃太郎の出番であろう。「どう思う。」「巨樹ですね。」それは見れば分かる。「三四百年かしら」と私も言ってみた。「明治まで、この辺りは水田と畑が広がっていました。」元々この場所には何もなかったので、全ての樹木は三渓園の造成以後に植えられた。「ですからせいぜい百年というところですよ。」「そうか、イチョウは成長が早いんだ」と桃太郎が納得する。
     春草廬は窓が九つあるので九窓亭とも呼ばれた。「京都の三室戸寺にあった月華殿に付属した茶室です。」織田有楽斎の作とされる茶室は三畳台目と言われても、これも何のことなのか分からない。今日は自分の無学の程度を徹底的に試されている按配だ。

     茶室の間取は、畳の数と敷き方と炉の切り方で決まります。
     畳は、亭主が点前をする点前座と客が座る客座とからなり、点前座の畳を点前畳、客座の畳を客畳といいます。
     点前座は、畳一畳の大きさの丸畳か、畳一畳の四分の三の長さの台目畳の大きさに限られます。客座は、何畳であってもかまいません。この点前座と客座に、どのように炉を切るかで、茶室の基本的な平面構成が決まります。
     炉の切り方には、「入炉」 と「出炉」 とがあります。
     「入炉」は、点前畳に切った炉のことです。点前をする畳の中に炉を切ってあるので、「入炉」と呼ばれます。「出炉」は、点前畳に接する畳に切った炉のことです。点前をする畳の外に炉が切ってあるので、「出炉」と呼ばれます。

     「入炉」には、客畳に寄せて切る「向炉」と、客畳と反対の方向に切る「隅炉」があります。「出炉」には、「四畳半切」と「台目切」があります。
     「四畳半切」は、広間切ともいわれ、いちばん一般的な切り方です。点前畳が丸畳(一畳まるまるの大きさ)で、炉の位置は畳の長辺を二等分した位置から下座側に切られます。
     「台目切」は、点前畳が台目畳で、炉の位置は畳の長辺を二等分した位置から上座側に切られます。http://verdure.tyanoyu.net/cyasitu02.html

     三畳台目とは台目畳を三枚敷いたということだろうか。これを読んでも実際の構造が目に浮かばない。仮に茶が日本文化を代表するとすれば、私は日本文化をほとんど知らないことになる。自慢する訳ではないが私はごく平均的な日本人だと思うし、その私が全く知らないのだから茶は日本文化を代表しない。(と言いたくなるが、私だけが無学だという可能性もある。)
     聴秋閣は元和九年(一六二三)の建築である。「二条城内にあったものを、春日局がおねだりして拝領したんですね。後に稲葉家の江戸屋敷に移設されました。」明治維新後は公爵二条基弘邸に移されていたものを、大正十一年に原三渓が買い取った。

     徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。

     「三重塔が見える。」「ここからが良く見えるよ。」建物から離れて東の方を眺めると、丘の上に塔が見えた。ここも高台になっているが、向うの丘はもっと高い。但し樹木の緑に隠れて二層しか見えないから、パンフレットで三重塔と知るのである。読まない人は五重塔と思うかも知れない。こちら側では石灯籠が立つ前に躑躅が鮮やかに赤く咲き、その背後の新緑の上に三重塔が良く映える。それにしても実に広い庭園だ。「東京ドームの四倍ありますからね。」

     新緑を三重塔突き抜けり  閑舟
     三重塔を見上げて紅躑躅  蜻蛉

     懸念していた通り講釈師が飽きてきた。「もう良いよ。ノロノロ歩くから疲れちゃう。」だんだん声が大きくなって、「説明なんか要らないよ」と言い出してはガイドに失礼になる。「先に行って待ってて下さいよ。」スナフキンの説得で講釈師は去って行った。
     「ガイドなんか要らないんだよ」と言われては、長幼の序は重々承知の上で、講釈師には敢えて諫言しなければならない。今日は金を払って雇っているのではない。こちらからボランティアのガイドを頼んでいるのである。多少の不満はあっても謹んで拝聴するのが人としての礼節であろう。とは言いながら、私も謹んで拝聴する態度ではなかった。
     天授院。慶安四年(一六五一)の建造で、鎌倉心平寺(建長寺の塔頭)の地蔵堂である。障子は開け放たれているが、勿論中に入ることはできない。
     金毛窟(一畳台目の茶室)に掛かる扁額は三井の益田孝の筆になるそうだ。こんなことはパンフレットに書いていないから有難い。鈍翁益田孝は三井物産を創設した三井財閥草創期の経営者である。三井内部では、工業化路線を重視する中上川彦次郎と真っ向から対立したとされるが、中上川の死によって実権は益田に集中した。対立の原因は中上川の慶應閥優先に対する反感があったという説が専らだ。
     因みに三渓、鈍翁、耳庵松永安左エ門の三人を「近代三茶人」と呼ぶことがあるらしい。

     月華殿は家康によって伏見城内に建てられたもので、後に三室戸寺に移されていた。「あちこちから持ってきたんだね。」ここで女性陣と一緒になった。
     「そこの板が珍しいんですよ。」こういうことも教えて貰わなければ気付かない。縁の外枠の板の目が波打っていて、面に凹凸があるように見えるのだ。「私も触ってみたけどまっすぐでした」と姫が証言する。「板目、杢目じゃないですよね、それじゃ柾目でしょうか。」柾目がこんなに波打っている筈がない。何だろうか。「実はこれも柾目なんですよ。」説明の内容は忘れてしまったが、何かの加減で歪むのである。フーン、そうなのか。
     気がつくと、途中から後ろについてきた若い女性が、建物の図面が描かれた本を開いて説明を熱心に聴いている。「それ、いいね。」「記念館で販売しております。よろしかったらどうぞお買い求めください。」一般の人かと思っていたらガイド見習いらしい。「やられちゃったね」と宗匠に笑われた。幅一間以上もあるという階段の入口はカトウの形になっている。これも珍しいものだ。「カトウって花の頭だっけ。」「そうだよ。」宗匠の確認が得られれば間違いない。
     女性陣はまた別れて行った。地図で確認すると、この辺は臨春閣の裏庭のような場所になる。身代わり灯籠というのは、利休が刺客に襲われた時、体をかわすと刀が流れて灯篭に当たって傷がついたというものだ。「こういうのはあまり信じなくてもいいよ」と私が言うと、「そう伝えられています」とガイドが応える。何故か宗匠が慌てたような素振りをするのは、私の態度を礼節に欠けると判断したからだ。それに「光明皇后が使った手水鉢」のところでも、信じなくて良いと口走っていたからね。私も他人の気持を忖度できる人間ではなさそうだ。

     ボランティアガイドに間の手の受難  閑舟

     書院の縁先には、秀吉が掛け替えた五条大橋の橋杭を転用したという手水鉢もある。「天正の年号が彫られています。」見ると確かに天正拾七の文字が確認できた。「橋杭にいちいち年号を彫りますかね」とダンディは疑わしそうに言う。そもそも橋杭ってなんだろう。柱を立てる土台のことだろうか。「親柱みたいなものだったら、銘記するかもしれない」と言ってはみたが、私も自分で信じていない。因みに天正十七年と言えば、茶々に鶴松(天正十九年没)が生まれて秀吉が狂喜した年であり、また北条氏直を惣無事令違反として小田原征伐を決めた年である。
     瓢箪文手水鉢というのも秀吉愛用のもので、藤堂高虎に与えられて伊賀上野の城に置かれていたものだ。伊賀上野と言えば、荒木又右衛門、鍵屋の辻の決闘である。
     「高虎は伊予の領主でしたが、家康によって伊勢に移されました。」この言葉に、「伊勢と伊賀とは違う国ですよ」とダンディがこっそり指摘する。私も高虎と言えば伊賀上野と何となく思っていたが正確にはそうではなかった。高虎は家康によって伊勢国の内十万石と伊賀一国十万石及び旧領の伊予今治の周辺二万石を与えられた。伊勢国津藩主として津に常住したから、伊賀上野藩という独立した藩はなくなった。伊賀上野の城は有事の際の防衛拠点として城代が置かれた。ガイドの説明は正しかったのである。
     裏庭を出ると、橋の途中には唐破風の屋根を持つ門(休憩所?)が建っている。「五七の桐の紋が見えますね。」中将はこれを知っていたようだ。五三桐は知っていても、五七桐は見たことがなかった。「秀吉が朝廷から賜ったものですから、一般のひとは無暗に使えません。」これもウィキペディアで確認しておこう。

     もともと桐は、鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも、一説には嵯峨天皇の頃から、天皇の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、菊紋章に次ぐ格式のある紋とされた。また、足利幕府以後は、武家が望んだ家紋とされ、足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っている。このため、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。ただし、征夷大将軍に任命された徳川家康のように、これを断り、紋章として桐を使用しなかった者もいる(ただし、家康個人は大御所時代になってからは桐紋も用いるようになっている)。
     一八七二年には、明治政府が大礼服を定め、勅任官は、その上着に「五七桐」を用いることとされた。明治政府が皇室の菊紋章を多用したのに対して、日本国憲法により国民主権となった日本国政府(首相・内閣)は桐紋章を用いている。

     旧天瑞寺寿塔覆堂。「豊臣秀吉が母ナカのために建てた寿塔を覆うための建物で、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。」大政所ナカの法名が天瑞院春岩である。スナフキンが扉の彫刻にカメラを向けていると、「それ、何か分かりますか」と声がかかる。「欄間の上にいるのは鳳凰だと言う人もいますが、鳳はオス、凰はメスですからね。番いでなければいけないのに、一羽しかいない。」こんなことも知らなかった。念のためにウィキペディアで確認した。

    凰はメス、鳳はオスを指し、『本草綱目』によれば、羽ある生物の王であるとされる。「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつで、『礼記』では麒麟・霊亀・応竜とともに「四霊」と総称されている。

     ひとつ知るとまた謎が生まれる。「応竜」とは何だろう。これもウィキペディアによる。

    中国神話では、帝王である黄帝に直属していた竜。四本足で蝙蝠ないし鷹のような翼があり、足には三本の指がある。天地を行き来することができる。また、水を蓄えて雨を降らせる能力があり、黄帝と蚩尤が争った時は、嵐を起こして黄帝の軍の応援をした。しかし蚩尤との争いで殺生を行ったため邪気を帯び、神々の住む天へ登ることができなくなり、以降は中国南方の地に棲んだという。このため、応竜のいる南方の地には雨が多いのに、それ以外の場所は旱魃に悩むようになったという。
    『述異記』には、「泥水で育った蝮は五百年にして蛟(雨竜)となり、蛟は千年にして竜(成竜)となり、竜は五百年にして角竜となり、角竜は千年にして応竜になり、年老いた応竜は黄竜と呼ばれる」とある。

     ある説によれば、蛇は長い年月を経るとやがて虺(キ)となり、それが五百年経てば蛟(ミズチ)、更に千年経つと竜になる。この龍が五百年を経て角龍となり、更に千年で応竜になる。つまり竜のなかの最高ランクに上り詰めたものである。
     また、翼のある竜が応竜だという説もある。そんなことにまるで気付かなかったが、一般に東洋の竜は翼がないのである。
     「扉にあるのは天女だという人もいましたが、羽が生えてるでしょう。」そう言われれば思い出す。あれではないか。「足は鳥の脚になっていて。」そうか、迦陵頻伽だ。「そうです、迦陵頻伽ですよ。」やっと知っているものがでてきた。唐破風の上の鬼瓦にも五七桐紋がちゃんと彫られていた。

     新緑や迦陵頻伽に五七桐  蜻蛉

     臨春閣。数奇屋風書院造りで、桂離宮と共に別荘建築を代表する建物として、国の重要文化財に指定されている。三つの建物が池に面して繋がっている形だ。「これは紀州紀ノ川にあった巌出御殿を移したものです。」ここでダンディから、紀ノ川のアクセントがおかしいとクレームがつく。ガイドは平板にキノカワと言ったが、キにアクセントを置くのだという。上方の人はなかなか面倒臭い
     「慶安二年(一六四九)に、紀州頼宣によって造営されたと言われています。慶安と言えば。」「由比正雪の事件ですね。」「そうです、頼宣はその黒幕かと疑われました。」嬉しくなってしまう。正雪が頼宣の印章を偽造していたことから頼宣に疑いが掛けられ、それが晴れるまで十年間、紀州に帰ることを許されなかった。
     「あれは何だと思いますか。」天楽の間と名付けられた部屋の欄間に、何か太いものと細長いものが縦に組み込まれているのだ。まるで見当もつかない。「太いのは笙、細いのは篳篥(ヒチリキ)ですよ。」それは珍しい。「だけど、ヒチリキの吸い口がなくなっていましてね、散々探したけど見つからない。最後に宮内庁にお願いしました。」それは不思議な話だ。雅楽の楽器は珍しいとは言え、今だって製作者はいる。そこに頼めば作ってくれるのではないだろうか。それに龍笛(横笛)もある。
     壁には伝狩野永徳・伝山楽・探幽などの絵が描かれているようだが、正面に見える墨絵はかなり劣化しているようだ。「こんなところにおいていたら、もっと劣化してしまうんじゃありませんか。」「ここにあるのはコピーです。本物は記念館で保存していますから。」そうだろうね。「コピーするのに三億円だったか掛かりました。」コピーといってもコピー機を使う筈はない。劣化した状態そのままに忠実に模写したのだろうから、それなりの画家に依頼したに違いない。
     それにしても随分金がかかった庭である。昔の金持ちというのはスケールが違う。実はこの時はまだ原三渓のことを知らなかったから、維新から廃仏毀釈の混乱期に、二束三文で買い叩いて集めたものではないかと私は疑っていたが、どうやらそうではない。大半の建物を買い取って移設したのは大正の頃である。

    ……生糸貿易が過去のものとなってしまった現在、よほど経済史や郷土史でも勉強しない限り、関心外となるのはやむをえまい。ましてや彼が美術(日本画、古建築)への深い関心から、同時代の多くの画壇人および周辺の文化人と積極的に交わり、援助を行ったこと、本牧の地形を生かした大庭園をつくって、京都その他から国の重要文化財級の建築物(現在十件十二棟が保存)を移築したこと、彼自身がかなり絵筆をとったことなど、十分に知られているとはいえまい。
    三渓園を開いて間もない一九〇六(明治三九)年、三渓は全園を無料で一般に公開する挙に出た。当然、周囲からの反対もあったようだが、彼は「たしかにこの庭は自分のものではあるが、風景や自然はみんなのものだ。だからみんなで愛でようではないか」といい、方針を貫いた。三渓の人間性をあらわすエピソードであるが、私はこの一言で三渓が好きになった。
    (紀田順一郎http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/012703/

     ダンディは元にあった場所から移すべきではないと主張する。基本的には私もそうあって欲しいと願うものだが、現実に元の場所で保存もできないものは、移築しても良いだろう。私たちがこうして珍しい建物を見ることができるのも、ここに移築されたからなのだ。
     その他にも見るべきものはいくつもある。「これは、まともに見学しようと思うと丸一日はかかりますね。」桃太郎の言う通りだ。しかしそろそろ昼が気になってきた。
     「それじゃ最後に、旧矢箆原家住宅を見て食事にしましょう。」今まで見た建物は庭園の西側にある内苑と呼ばれる範囲にあったが、それは外苑の東南隅にある。スナフキンお薦めの建物なのだ。やがて見えてきたのは大きな茅葺屋根だ。「見事だね。」宝暦年間に建てられた建物で、合掌造りになっている。「合掌造りと言うと白川郷が有名で、一般には切妻ですが、ここは入母屋造りになっています。」

    岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、一九六〇年(昭和三五年)に移築されました。 屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は注目されます。
    (http://www.sankeien.or.jp/kokenchiku/yanoharake.html)

     「アッ。」雨にしてはおかしな感触だ。頭に手をやると鳥のフンではないか。大急ぎでティッシュペーパーで拭き取ったが気持ち悪い。
     この家の持ち主であった矢箆原(岩瀬)佐助は、飛騨三長者の一人だったと言う。「横に回るとカトウマドが見られます。」妻の高い部分に確かにカトウマドが見えた。私も宗匠も「花頭」と思い込んでいたが、念のために調べてみると「火灯」とも書かれるようだ。

    【火灯窓】上部が尖頭アーチ状の窓。唐様建築に初めて使われた。源氏窓。花頭窓。(デジタル大辞泉)

     スナフキンによれば内部も一見の価値があるらしいのだが、もう昼時である。待春軒まで案内してくれたガイドにお礼を言って店内に入る。説明が丁寧すぎたせいもあって回り切れなかったところもあった。しかしパンフレットにも載っていないことを随分教えてくれたし、私にとっては有益なガイドであった。
     女性陣と講釈師はもう席についている。スナフキンが予約していたのは「桃山御膳」という千二百円の弁当である。筍ご飯にシイタケや野菜の煮物、しゅうまい、卵焼きなどがついたもので、味はかなり淡白でヘルシーだから女性陣には好評だろう。私はちょっと物足りなかったが仕方がない。
     「この店の主人は会津松平家の人なんだ。」言われてみれば、どことなく上品そうな面相である。しかし会津松平の殿様が、なぜこんな所で店を開いているのだろうか。そう言えばさっきガイドが、縁戚関係があると言っていたのを思い出した。三渓の次男良三郎が、松平会津子(容保の次男健雄の娘)と結婚した。また会津子の兄松平勇雄は三渓の長女春子の長女玲子と結婚した。この待春軒の主人はそのどちらかの系統になるのだろうか。
     「アレッ、もう食べちゃったの。」チロリンの声で気がつくと、私は一番早く食べ終わっていた。歯ごたえのある食材が少なかったことにもよる。

     食事を終って三渓記念館に入る。一時まで自由に周辺を歩いても良いことになったので、喫煙所を探してうろうろしたが、結局見つからずに記念館に舞い戻った。三渓の年譜や自筆の書画、美術工芸品、臨春閣の障壁画等が展示されている。姫やハイジは一服五百円の抹茶を飲んできたらしい。「美味しかったですよ。」売店では、さっき女性ガイド見習いが持っていた本『三渓園』も確かに売っていた。私の小遣いでは買えないので諦めた。
     一時ちょっと前に外に集合すると宗匠の姿がない。「駄目だな、時間を守らないんなら今度から参加しないでもらおう。」まだ定刻にはなっていないじゃないか。そう言っているうち、定刻一分前に宗匠が現れた。「三重塔を見てきた。結構大変だったよ。」そうか、一緒に行けば良かった。「行ったんじゃなかったの。後ろ姿が見えたから、てっきり行ったものだと思ってた。」私は喫煙所を探しただけで無駄な時間を費やしてしまった。その三重塔は木更津の燈明寺(廃寺)にあったもので、康正三年(一四五七)の建造は関東の木造の塔としては最古のものだった。

     正門を出てバス停に向かう。住所表示を見ると本牧三之谷だ。三渓だから三之谷か。あるいは逆か。リーダーは途中で小さな神社で立ち止まった。「別に大したモンじゃないけど、誰かが見つけるだろうから。」横浜市中区本牧三之三七番六。
     「亀の子様」と言う。道路からちょっと引っこんだところに赤い鳥居が建ち、道とほぼ平行に細い参道があって、五メートル程で民家の塀際に突き当たる。大ぶりの平べったい石の上に「亀乃子石」の碑が建っている。石の上には亀の子束子がたくさん置かれている。由来を読めば、漁師の網に掛った亀が大石に変じたもので、百日咳に利益があると言う。奉納された束子を持ち帰り、喉をなでると咳が止まる。治ったら代わりの束子を奉納するのである。
     鳥居はあっても祠はなく、「神社」と言うべきかどうか。「本来の神道かもしれませんね。」そういう考えもある。「神道」というより原始的な信仰では、山や巨樹、大石それ自体が神体または依代であって、建物を必要としなかった。建物を作るようになったのは仏教の影響である。
     亀や束子は別にしても、大石に対する信仰というのは、以前から何度も繰り返しているように非常にプリミティブなものだ。亀から亀の子束子に行きつくのも、例によって日本人が好きな語呂合わせによっている。
     「亀の子束子の工場に行ったことがあります。」姫はおかしな所に行っているね。「親切に、工場見学もさせてくれたんですよ。」北区滝野川の西尾商店のことだろうか。
     「ここが本牧ですよ。」大通りに出てスナフキンが説明する。「向かって右手一帯は嘗て米軍住宅があって、ジャズなどアメリカ文化の発信地でした。」戦後米軍に接収されたことから、一種特有なアメリカ風文化が生まれたらしい。
     「一日で立ち退きさせられたって言いますよ。」「酷い。」この米軍住宅地区が返還されたのは昭和五十七年(一九八二)のことだから、私の感覚ではつい最近だと言ってよい。

    ベースがあった五十年代から七十年代はじめ頃、本牧界隈のどの店も多国籍の外国人であふれ、R&Bやロックやジャズが流れ、派手なネオン管が夜を彩っていた。元町方面から麦田トンネルを抜けると、そこはさながらリトルアメリカだった。
    http://www5.ocn.ne.jp/~matida/gallery2.htm

     「歌があったんじゃないかしら。」調べてみると、ゴールデンカップス『本牧ブルース』(昭和四十四年)があるが私は知らない。昭和四十七年には鹿内孝『本牧メルヘン』が出た。これは知っている。

    本牧で死んだ娘は鴎になったよ
    ペットのブルースに送られて
    踊るのが大好きと言ってたあの娘が
    さびしさに耐えかぬて死んだのさ(阿久悠作詞・井上忠夫作曲)

     戦後すぐのこの辺を舞台にした青春を、小林信彦が『背中合わせのハードブレイク』で描いている。私は小林信彦のファンの癖に、映画や音楽などのアメリカに影響されたり憧れたりすることが全くなかった。
     逆に本牧チャブ屋という言葉も思い出したから、異国風な怪しげな雰囲気は開化期から始まっていた筈だ。どうも私は戦後のアメリカ文化より、明治の風景の方に興味があるらしい。チャブ屋とは何か。

     異人館は公娼だが、元居留地とその近接した街にあるチャブ屋と、本牧辺のチャブ屋は外国人向きの私娼です。ぐっと高級なものは俗称山手の百番といって、外国人墓地に近いところにあったものです。チャブ屋のチャブ屋らしいのは元居留地のもの、本牧のもそうです。どちらも経営者は下級船員あがりの外国人が多く、日本の女名義になっているものは、そのほとんどが外国人の街の紳士がそのうしろ楯に控えていた。(略)随って新コなどがチャブ屋と聞いて描くともなく描くチャブ屋は、本牧チャブ屋の名によって、日本人相手のずっと後期のものしか知らない人とは、牛乳と粥ぐらいに違います。チャブ屋のチャブはChop houseから出たチョップの略だというが、横浜開港前後の土木工事が盛んなころから口にされたらしく、関東の土工の間にチャブとは食事のこと、金魚チャブとは水ばかり飲むこと、ノウチャブ又はサランパンチャブは飯にありつけないことと、かなり広まっていて新コもつかったものだが、だいぶ古い前からだれの口にもされなくなっています。(長谷川伸『ある市井の徒』)

     本牧と聞いて私が最初にイメージしたのはこんな風だった。どうも感覚が古すぎるか。思い出してしまったので、序でだから長谷川伸についても触れておきたい。若き「新コ」(長谷川伸)は、チャブ屋に勤めるラシャメンの「自由廃業」を助けて、危険を冒して足抜きを繰り返した。ヤクザとほとんど見分けがつかないほど無茶苦茶な青春であるが、しかしその努力は惨めな結果に終わった。

    新コが経過はどうであろうとも、恐喝取材に該当しそうなことまで、出来あがらせたこの一件の十三人の女のうち、文次とクウ公と新コが一人ずつ引き取ったうち、一人は自殺し、一人は病死、一人は立去り、満足な結果は遂にない。(略)自廃の結果、三人の自殺者を出しなどしたことと併せて、わが負債(おいめ)の重さを忘れかねています。

     こうして長谷川伸は「わが負債の重さ」を知り、それが後の長谷川の作品に大きな影響を与えたことは間違いない。例えば『瞼の母』『一本刀土俵入り』『沓掛時次郎』等は日本大衆文藝の中の最良のものである。「おきぬ」(『沓掛時次郎』)に対する時次郎、「お蔦」(『一本刀土俵入』)に対する駒形茂兵衛、そして他にも長谷川伸の造形した遊侠の徒は誰でもが、「負債」を背負っているのであり、それが独特の倫理観を形成する。また後に、赤報隊の埋もれた事績を調べ(『相楽相三とその同志』)、捕虜取り扱いの変遷を調べる(『日本捕虜志』)ことになるのも、維新から近代日本に至る間に日本人が背負った「負債の重さ」を我が身の重さとして感じていたからである。

     さて、新コはそれから長い間、二度と自廃をやりません。自廃をやる必要のないことこそが必要だと考え、又、自廃をやるなら、やった後の受入が完く用意されない限り悲劇だとするようになったのです。その用意とは機構や設備や議論や理由の外に、或る意味では本当の教育者であるかの如きものを心にもつ、然るべき男が女一人につき一人ずつ必要だということです。

     またまた余計な感慨に耽ってしまった。バス停に着いて周りを見回していた講釈師が「あれは何だい、教会かな。それにしても3って何だろう」と言い出した。指さす方を眺めると、高い塔の壁面に数字の3が描かれている。「教会じゃないでしょう。十字架がないから」とダンディは冷静な判断を下す。探検に行った講釈師が戻ってきて、ショッピングセンターだったと言っているが、その前にダンディがイオンの看板を見つけていた。
     桜木町行のバスに乗って十分程で元町石川町に着いた。「ここは女子高が四校もあって、女子高生がウジャウジャいます。」「講釈師が好きな街ね。」「だから充分注意して、怪しい行動は慎んで下さい。」フェリス女学院、横浜女学院、横浜雙葉、横浜共立学園、横浜山手女子(これは中央大学に買収されて、頭に中央大学と冠をつけている)。アレッ、五つになってしまった。
     石川町の駅を左に見て川沿いに歩くと、街灯に取り付けられた商店街の看板が目についた。「何でしょうか。」「ひらがな商店街」と書かれていたのだ。「何がひらがななのかな。」誰も分からないが実は下らない理由だった。

    石川町駅南口を出ると目の前は川に沿って商店街があります・・・が
    ここの商店街、名前が変わっているんです!その名も「ひらがな商店街」 
    ひらがなを使った商店街ではなくて、「ひらがな商店街」が名称なんです。変わってますよね~。この由来は子供達でも読めるようにと前商店街の会長さんが付けたんだそうです。なるほど・・・確かにこれなら子供達も商店街の名前を覚えてくれますね。
    (http://www.homeguide.co.jp/report/isikawachou.html)

     亀の橋交差点で商店街を離れ、道なりに南に延びるのが地蔵坂と言うらしい。その途中で、左手からかなり上の方まで巾の広い石段が続いている。「ちょっときつい上りですが、ここだけですから。」降りてくる三人の女子高校生をやり過ごしてから登り始めた。
     ちょっと登っただけでイッチャンもあんみつ姫も「膝がガクガクしちゃった」と弱音を吐く。まだそんなに登っていないぞ。それにしてもこの斜面沿いに建つ家の人は毎日この坂を歩いているのである。
     「百七段あった。」宗匠の声に「百六段でしたよ」とダンディが訂正する。許容範囲の誤差だが、私は数を数えようなんて、まるで思いつかなかった。ここからが山手町である。「ヤマノテではありません、ヤマテです。」相変わらずダンディは厳密だ。
     イタリア山庭園にはベニバナトチノキの花がきれいに咲いている。「マロニエですね」というダンディに、講釈師は「違うよ、ベニバナだよ」と言い張り、係員らしい女性も近づいてきて「ベニバナトチノキです」と念を押す。しかし、これがマロニエの一種であることは間違いない。アメリカから齎されたのではなかったかな。「ヨーロッパでしょう。何といってもマロニエですからね。」ウィキペディアによれば、マロニエとアメリカ産アカバナトチノキを交配させたのがベニバナトチノキである。このごろ良く見かける。「国士舘の前で見たじゃない」と言うと、「そうだよね、あれは見事だった」と宗匠もちゃんと覚えていた。

     マロニエと知らずに入る西洋館  蜻蛉

     「ここからは時間を決めて、適当に見学してもらいます。どこにでも、この案内がおいてありますから。」スナフキンの言う「案内」は、『巡るガイドブック山手西洋館マップ』である。制限時間は二十分だ。最初に入ったのは「外交官の家」である。横浜市中区山手町一六番。

     明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、東京渋谷の南平台に明治四三(一九一〇)年に建てられました。 設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ・M・ガーディナーです。建物は木造二階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。室内は一階に食堂や大小の客間など重厚な部屋が、二階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、アーツ・アンド・クラフツ(一九世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動)のアメリカにおける影響も見られます。

     スナフキンの言う通り、玄関ロビーには『西洋館マップ』が置かれていたが、それは二百円出して買うべきものであった。室内では女性が演奏をしている。「あの楽器はなんだっけ。」形は木琴だが何だったかな、ヴィオラだったか、ちょっと違う、何だろう。聞けばすぐ分かる。「マリンバとヴィヴラフォンよ。」そうだった。
     坂を下ったところにあるのがブラフ一八番舘という。

    イタリア山庭園の一郭に移築されたブラフ一八番館は、関東大震災後に山手町四五番地に建てられた外国人住宅です。戦後は天主公教横浜地区(現カトリック横浜司教区)の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として平成三(一九九一)年まで使用されてきました。

     良く分からない風景画がいくつも展示されていたが、それほど見るべき物とは思えない。一番熱心に見るのはやはり姫である。大半の人が二つ見終わった頃に外交官の家を出てきてブラフ一八番館に入って行った。「だって、時間まで外交官の家を見られると思ったんだもの。」「誰か数人には言って置いたんだけどね。」
     その姫も戻ってきて出発だ。中央大学横浜山手中・高等学校、フェリス女学院中・高等学校の前には女子高校生がゾロゾロ歩いている。講釈師は女子高生が大好きだが、私はこの年代の娘はどうも苦手だ。集団でいると、何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、さっぱり分からない。

      新緑や女子高生の群れる坂  蜻蛉

     「汐汲坂」の表示を見つけて私と桃太郎が、こんな坂の上で汐汲みはおかしいと首を捻っていると、「汐を汲んで、この坂道を上ってきたんでしょう」とダンディが断言した。なるほど、その通りだった。

     市制施行の頃は汐汲坂という町名がありました。製塩を副業とした農家の人たちが塩を運ぶのに通行した坂ともいわれています。かつて坂下にあった横浜高等女学校では、作家の中島敦が教鞭を執っていました。
     (http://m.city.yokohama.lg.jp/na/navi/2/jpg/y04.html)

     さっきの中央大学に買収された高校には中島敦がいたのである。それならもっときちんと見るのであった。『李陵』の格調高い漢文脈は私が憧れる文体だが、勿論模倣できる筈もない。『悟浄出世』や『悟浄歎異』などの酷薄なユーモアも好きだ。もっと長生きさせたかった。
     かなり暑くなってきて、ハイジは半袖になってしまった。「これはキリスト教の教会でしょうね。」また桃太郎と私が首を捻っていると、「末日聖徒」の文字を見て、「モルモン教ですね」とダンディがあっさり教えてくれる。「モルモン教っていうのは胡散臭い。」キリスト教を名乗っていても全く別物だと私は思っている。ダンディが不思議な喩えを持ち出した。「ユダヤ教は天台宗、キリスト教は日蓮宗、モルモン教は創価学会ですね。」無茶苦茶な比喩だが、言いたいことは分かるような気がする。

    「モルモン書」古代アメリカ大陸に実在したとされる預言者モロナイの示現を受け、ジョセフ・スミス・ジュニアが実際に掘り起こしたという金の版でできた書物を翻訳したものとされている。
    一八三〇年三月二六日に最初の版が出版された。
    それは古代ヘブライ語(改良エジプト文字)であり、三分の一が神の力の助けにより英語に「翻訳」されたとされ、「モルモン書」と名づけられた。そして、その金板はモロナイに戻され、天に保管されているという。 (ウィキペディアより)

     「古代アメリカ大陸に実在した預言者」「ヘブライ語(改良エジプト文字)」。紀元前六百年頃、エルサレムからアメリカ大陸に渡った家族がいた。やがてその子孫は対立して滅んでしまったのだが、罪のために肌の色が黒くなってしまったのが、ネイティブ・アメリカンである。
     淫祠邪教だと私は断定する。近代以前の人々が荒唐無稽を信じるのは、自然に対する恐れが宗教を生み出したのだから仕方がない。しかし十九世紀アメリカでこんな与太話を主張をするのは、私には山師としか思えない。こういうものが現在でも全世界に伝道者を派遣して布教活動をしている。「ケント・ギルバートもその一人でしたね。」そして共和党のアメリカ大統領候補もまたモルモン教信者である。「ソルトレイクは綺麗な街です」と言われても、私は根本にあるものを信じない。

     元町公園の角のベーリック・ホールは結婚式の最中で、控室などに使用されているため、内部の部屋を全部見ることはできない。こういう洋館で式を挙げたい連中と言うのがいるのだね。夫人の寝室とある表示を見て、「旦那はどこで寝たんだろう」と気になるのはダンディだ。寝なかったんじゃないか。あるいは書斎のソファに寝転ぶだけだったのだろう。
     私はこういう洋館を見ても感動しないしすぐに飽きてしまう。早々に見学し終わって、次のエリスマン邸も簡単に一周してしまった。スナフキンのコースにはもう一軒、山手二三四番も入っているのだが、もう充分だ。スナフキンとダンディはベンチに腰を下しているので私も休憩する。見学し終わった人が集まって来た所で、クルリンがお煎餅を配ってくれた。嬉しい。チロリンは甘い物を配る。「今度はお煎餅にしてね。」「その日にあるものを持ってくるだけだから分からないよ。」
     洋館はこの位にして歩き出す。やがて外国人墓地の前にやって来ると「募金をお願いします」と声がかかった。二百円の寄付をすれば、普段見られない墓地も見学できると言うのだが、もうそんな時間はなさそうだ。「じゃ、二百円寄付して資料館だけ見ましょう。」私は外国人墓地についても何も知らないので、資料館を見られるだけでも有難い。

    翌、一八五四年ペリーは開国交渉のため七隻の艦隊を組織して再び来日しました。 このとき艦隊の中の一隻ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという二四歳の二等水兵が墜死し、この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地をペリーは幕府に要求しました。
    協議の後、幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが大震災で全焼した)の境内の一部を提供することにしました。 ペリーの要求した「海の見える地」という条件にも合い、ウィリアムズはここに埋葬されました。 これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなります。http://www.yfgc-japan.com/history.html

     パンフレットを見ても知っている人名は出てこないから、墓地については感情移入がし難い。「知らない人ばっかりだものね」とチロリンもマルちゃんに言っている。こういう墓地が観光名所となっているのは何故なのだろうか。
     姫はワーグマンの墓を見たかったらしい。「でも、パンフレットには書かれていないんですよ。」最初は誰のことか分からなかったが、「幕末の新聞の漫画」と言われて分かった。「ジャパン・パンチ」のチャールズ・ワーグマンである。資料館にはその絵が何枚か展示されていた。高橋由一がワーグマンに入門していたなんて知らなかった。『ワーグマン日本素描集』は買ってあった筈だが、本棚に埋もれて発見できない。ウィキペディアから抜き書きしておこう。

    一八五七年に「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者兼挿絵画家として広東にアロー戦争の取材のため来訪。一八六一年には長崎を訪れ、その後イギリス公使オールコックの一行に伴って、陸路を通り江戸まで旅行するが、七月五日(文久元年五月二八日)にイギリス公使館となっていた東禅寺にて水戸藩浪士の襲撃を受ける。この時ワーグマンは、縁の下に避難しながら事件の一部始終を記録し、これを記事とスケッチにして横浜から発信している。
    一八六二年には居留外国人向けの雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊。一八六三年、日本人女性の小沢カネと結婚。この年薩英戦争が勃発、ワーグマンも取材のために写真家フェリーチェ・ベアトとイギリス艦隊に同行し記事などを書いている。また同年から翌一八六四年にかけて、下関戦争についても記事や挿絵をロンドンに送っている。
    一八六五年に五姓田義松がワーグマンの許に入門、翌一八六六年には高橋由一が入門する。また一八七四年には小林清親が入門しようと尋ねた。
    一八六七年、ハリー・パークスやアーネスト・サトウに伴い、徳川慶喜との会見に臨むため大坂に出立。このとき大坂の風景スケッチとともに、慶喜の肖像画も描いている。その後、江戸に向かう途中の掛川宿で例幣使の襲撃を受けるが、かろうじて難を避けることができた。

     「あれがゲーテ座でした。」スナフキンが指差すのは赤煉瓦の岩崎ミュージアムである。「ゲーテって言ってもあのゲーテじゃないですよ。」gaiety、つまり陽気と言う意味らしい。私は知っているようなふりをして黙って見ていたが、実は知識がなかった。明治二十四年(一八九一)、このゲーテ座で、坪内逍遥と北村透谷が本邦初演のハムレットを見た。

     この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、一九〇八年(明治四一年)十二月以降の事であり、演劇・音楽会・講演会など、多種多様な目的に利用されたのである。当時の観客は、やはり外国人が主体であり、日本人は少なかった。しかし、その少ない日本人観客の中には著名人が多く、滝廉太郎や坪内逍遥、北村透谷に芥川龍之介、そして横浜ではお馴染みの大佛次郎など、後の日本文化に大きな影響を与える人物が ここゲーテ座に通い詰めたのである。
     その後に起きた一九二三年(大正一二年)の関東大震災によって、一旦は建物が崩壊してしまったが、一九八〇年(昭和五五年)、岩崎学園によって復元され、衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、 ゲーテ座にまつわる資料が収められている。尚、ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、 詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という言葉がその命名の由来となっている。
     http://www.timeslip-y.jp/motomachi/ge-te.html

     港の見える丘公園に着いたからには港を見るのがルールである。「あれがスカイツリーじゃないか。」はるか遠くに見えるのは確かにスカイツリーのようだ。「写真、後でくださいね。」姫のカメラは充電が切れてしまったのだ。フェンスの前に集まって港を眺めていると、桃太郎が全員を集合させて写真を撮る。彼と交代して今度は私が撮る。
     「私たちの若い頃は、デートコースの定番だったわね。」ハイジは山下公園でもご主人の想い出に浸っていたからな。この辺りは記憶が充満しているに違いない。横浜はスナフキンだけでなく、ハイジにとっても青春の地であった。私は気付かなかったが、宗匠は燕が飛ぶのを見た。

      つばくらめ過る港の見える丘  閑舟

     皆はまだ港を見ているが、歌碑があるようなので行ってみた。そこでは私より少し年上らしい夫婦が歌詞を見ながら、どういう歌だったかと悩んでいる。お節介だが「色褪せた桜ただひとつ淋しく咲いていた」の部分を歌って見せた。バカですね。さっきから講釈師が「色あせた桜だよ」と何度も言っていたから、つい口に出てしまったのだ。「誰の歌でしょうか。」教養(?)というものがない夫婦だ。しかし私たちの年代でこんなことを知っているのは、ロダンと姫位のものか。「平野愛子です。」「是非続けてお願いします。」それほどバカではない。
     「もう行くよ」と小町から声が掛かったので皆と合流すると、「何してたの」と宗匠に訊かれた。「ちょっとね。」一番は誰でも知っている(と思う)から三番を掲げておこう。「ウツラトロリと見る夢」である。

    三、 あなたを想うて 来る丘は
       港が見える丘
       葉桜をソヨロ 訪ずれる
       しお風 浜の風
       船の汽笛 遠く聞いて
       ウツラトロリと 見る夢
       あなたの口許 あの笑顔
       淡い夢でした (東辰三作詞作曲『港が見える丘公園』)

     私は平野愛子が好きで、特に『君待てども』は私のレパートリーに入っている。前田愛(愛と言う名だが男性である)も『港が見える丘公園』が好きだったようだ。国文学者にしては珍しく「文学」の分かる学者だったのに、惜しいことに若くして死んだ。学生時代に前田の「文学概論」だったかの講義を聞いたことがある筈だが、当時はそんな偉い人だとは知らず、私にとっては馬耳東風、豚に真珠だったのが悔やまれる。

    一九六二年につくられたこの公園が、東辰三作詞・作曲の「港が見える丘」のゆかりをうつしていることは誰でも知っている。甘酸っぱさと暗い翳りがひとつにとけあっている歌詞を口ずさむと、いたるところ占領軍に接収されていた敗戦直後の横浜の風景が夢のように浮かんでくるが、(後略)(前田愛『幻景の街』)

     因みに『幻景の街』の最初の章は、大佛次郎『幻燈』を題材に横浜を描いている。大佛次郎記念館は姫や講釈師が好きな場所で、何度か話を聞いていた。横浜市中区山手町一一三。入館料は二百円だ。大佛次郎は鎌倉に住んでいたのに、この記念館はどうして出来たのか私は知らなかった。(しかし下記の文章は読んでいた筈だから、いかに読み方が好い加減だったかが分かる。)

     大佛次郎(本名、野尻清彦)は、明治三十年に横浜で生まれた。
     昭和四十八年に、約五十年にわたる作家生活と七十五年の生涯を終えるにあたり、若い時から収集してきた蔵書や愛蔵品の全てを、愛する郷土である横浜の地に寄贈しようと思ったのである。
     このようにして、約三万五千冊の単行本と、二万冊の雑誌、数万点におよぶ草稿、書簡、パンフレットを含む愛蔵品が、死後、ダンボール箱に収納され、鎌倉の自宅から横浜に移されて、市役所裏の一時保管所に積み上げられた。
     その後、昭和五十三年に、酉子未亡人の希望と飛鳥田一雄市長の尽力によって、横浜の史跡の一つである“港の見える丘公園”の一画に大佛次郎記念館が設立された。(福島行一『大佛次郎終戦日記』解題)

     鎌倉の自宅から移した書斎には、大きな黒いテーブルに布団を敷いたようなベッドが設えてある。晩年になってのことだろうか。
     全著作を並べた書棚の前に来ると、こんなに書いたのかと人は驚く。実は私も驚いた。書棚三連程になるか。しかし時代小説(大衆文藝)の大半は、はっきり言ってそれほど評価できるものではないと思う。そもそも大正から昭和戦前にかけての大衆文藝運動は、白井喬二の意気込みにも関わらず、それほど見るべきものを多くは生み出さなかった。
     一世を風靡した直木三十五『南国太平記』だって、二三年前に読み直してみて、再読に値しないと私は判断した。文章が荒い上に、歴史的な知識が余りにも貧弱なのだ。隆慶一郎や藤沢周平を知ってしまった後では、とても通用しない。芥川賞と並んで直木賞が大きな賞になったのは、菊池寛(文春)の文壇的政治力と出版界の販売戦略でしかない。それに林不忘、三上於菟吉、国枝完二等、昭和初期の作家を思い浮かべて今読めるものは殆どないだろう。
     後に通俗小説と混じり合って「大衆小説」と称されることになるが、時代小説に限って言えば、今でも読むに堪えるのは岡本綺堂の『半七捕物帳』、野村胡堂の『銭形平次』と、さっき触れた長谷川伸(小説ではなく戯曲だが)くらいではないだろうか。中里介山『大菩薩峠』(本人は「大衆文藝」とは思っていなかった)、白井喬二『富士に立つ影』は、そのスケールの大きさで一定の意義を有しているが、その他に何があるだろうか。伝奇小説が好きならば国枝史郎の未完の小説『神州纐纈城』があるかも知れないと言っては見る。但し私はこの手のおどろおどろしいものは苦手だ。戦後の五味康祐、柴田錬三郎を経て、時代小説が本当に読むに足るものになるには、隆慶一郎や藤沢周平を待たなければならなかった。
     小町は『帰郷』を読んだことがあるらしい。私は読んでいないが、こういうものを読んで記憶しているひとは珍しいと思う。かつてNHKでやった『三姉妹』の栗原小巻を思い出して、「綺麗だったよね」と言う人もいる。私は大佛次郎の良い読者ではないから、開化期の横浜を舞台にした『霧笛』も読んでいない。
     『鞍馬天狗』や『赤穂浪士』についても、それほどのものとは思えない。ただ父の本棚から引っ張り出して『赤穂浪士』(昭和四年)を読んだのは中学に上がる前だったから、大した記憶があるわけではない。三田村鳶魚『大衆文藝評判記』は、時代考証の面から散々けなしている。主人公(狂言回し)の堀田隼人は、『大菩薩峠』の机龍之介に始まり、郡司次郎正『侍ニッポン』(小説は昭和六年)の新納鶴千代、後の柴田錬三郎の眠狂四郎等に連なる時代小説中のニヒリストの系譜に数えられる。同時に竹中労『傾向映画の時代』も参照すれば、昭和初期の転向知識人の運命にも通じている筈だ。つまりニヒリストは流行っていたのだ。
     鞍馬天狗はアラカンの映画が普及したから有名になっただけで、大佛次郎の文学的な功績ではない。『鞍馬天狗』を四巻にまとめたセットは二十年ほど前に古本屋で買って読んだものの、余り感心しなかった。鞍馬天狗の性格は明る過ぎるのだ。これはフランス文学を好んだ大佛次郎の近代的知性によるだろう。昭和二十年五月の日記に次のような言葉が見える。

    アランの文学論を拾い読みする。何ものにも驚かぬ明るい人間精神、これを養い得た仏文人伝統とはいえ羨ましいのである。

     しかしこうした感覚は大衆文芸には向いていないのではないだろうか。幕末維新期の人間が、あんなに明るく生きられた筈はない。膨大な著作のごく一部分だけしか読んでいないが、大佛の本領は時代小説よりもノンフィクション(歴史小説)にあったのではないか。『パリ燃ゆ』『ドレフュス事件』『天皇の世紀』は質の高い歴史小説だと思う。「歴史小説」については大岡昇平の厳格な概念規定があるのだが、大岡の規定は余り厳密すぎて、そのまま適用すると歴史研究との差がなくなってしまう。『堺港攘夷始末』になると普通の小説読者はついてこないのではないか。大佛次郎の本なら一般にも充分普及したと思われる。
     ちょうどテーマ展示「フランス一九世紀末の“事件”と近代日本―大佛次郎四部作をめぐって―」が開催されていた。

     大佛次郎四部作とは、一九三〇年(昭和五)から一九六三年(昭和三八)の間に発表されたノンフィクション小説、「ドレフュス事件」「ブゥランジェ将軍の悲劇」「パナマ事件」「パリ燃ゆ」を指します。一連の作品は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてフランスでおこった四つの“事件”(ドレフュス事件、ブーランジェ事件、パナマ事件、パリ・コミューン)をモデルにしています。
     これらの“事件”は、いずれも第三共和政フランスを騒然とさせ、国論を二分するほどの、国家的な“危機”でした。当時、明治という新しい時代を迎え、「先進国」フランスを憧れのまなざしで見ていた同時代の日本人は、この海の向こうの“危機”をどのようにとらえていたのでしょうか?
     本展では大佛次郎が作品執筆の際に収集した豊富な資料により“事件”当時の空気を伝えるとともに、同時代の日本人に“事件”がどのように伝えられ、認識されていったのかを探ります。そして、大佛次郎の作品執筆にいたる経緯や時代背景を当時の知識人との書簡や文学作品の中にたどります。

     『ブゥランジェ将軍の悲劇』『パナマ事件』は読んでいないから、なんとも言えない。ただドレフュス事件は日本文学史にとって重要で、意外なことに永井荷風に強い影響を与えた。大逆事件に接して荷風はそれを思い出した。滔々たる全国家的な反ユダヤ主義の風潮の中で、エミール・ゾラはドレフュス弁護に奮闘し、そのために一時亡命を余儀なくされる。荷風にとって日本に起きた大逆事件は、まさにドレフュス事件を髣髴させるものだった。

    わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程いうにいわれない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何もいわなかった。わたしは何となく良心の苦痛はたえられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。(『花火』)

     荷風にとって「文学者」とは、国家の弾圧をものともせずに思想問題について勇敢に表現できる者でなければならなかった。荷風の言い訳に過ぎないという見方もあるかも知れないが、少なくとも「文学者」としての「責任」について、大逆事件の当時こんなにはっきり言ったのは、徳富蘆花(『謀叛論』)を除いていなかったのではないだろうか。
     ところで次郎は兄の野尻抱影とは喧嘩ばかりしていたんじゃなかったかな。「そんなことはないでしょう、仲は良かった筈です。」確か『終戦日記』に兄貴の悪口が描かれていたように記憶していたからだが、しかし私の勘違いだった。読み返してみても、喧嘩の記事はどこにも出てこない。ただ老いた長兄にややうんざりしたような感想を漏らした所が数ヶ所あった。抱影の若くして死んだ四女みか子には随分たくさんの手紙を書いているし、大佛の晩年の介護を同じく抱影の娘政子がしたことで養女にしている位だから、家族としての付き合いは深かったのだ。
     「その抱影の著書も並んでいますよ。」次郎の膨大な著書群の隣の一連には、参考文献として関係者の著書が並んでいる。その中に『星の民俗学』もあった。私がこんな本を読んだのは、ギリシア神話を理解しなければならないと思ったせいだったろうか。
     姫はここで何かを買ったらしい。猫に関するものだろうか。大佛次郎が猫好きというのは良く知られたことらしい。生涯に飼った目子は五百匹以上になると言う。「朝倉さんと一緒ですよ。」谷中の朝倉彫塑舘も見ているからね。私はケダモノを可愛がるという神経がまるで理解できない人間だが、猫好きの弁も聞いておく必要はある。

    猫は僕の趣味ではない。いつの間にか生活になくてはならない優しい伴侶になっているのだ。猫は冷淡で薄情だとされる。そう云われるのは、猫の性質が正直すぎるからなのだ。猫は決して自分の心に染まぬことをしない。そのために孤独になりながら強く自分を守っている。用がなければ媚びもせず、我儘に黙り込んでいる。それでいて、これだけ感覚的に美しくなる動物はいない。冷淡になればなるだけ美しいのである。贅沢で我儘で他人につめたくすることは、どんな人間の女のヴァンパイアより遥かに上だろう。だから猫を可愛がるのには、そういう女に溺れているような心持になることで、それでいて決してこちらの心を乱さずにいられるのだから有難い。(『猫のいる日々』)

     受付で、講釈師がなぜか真剣になってバス亭の場所を訊いている。イッチャンが所用のために急いで帰らなければならなくなり、それを聞きつけた講釈師が一所懸命に活躍しているのである。「そこからバスに乗ってさ。」しかし地図を見れば歩いて地下鉄の駅に行く方がはるかに速い。しかしそんなことに耳を貸す講釈師ではない。「バス停はさっきの交番のところだから。」スナフキンも、「地下鉄で行けばすぐだよ」と言うのだが、彼女は講釈師の指示に従って帰って行った。全員が外に出たのはちょうど四時になった頃だ。
     「すぐそこに神奈川県近代文学館もありますが。」スナフキンの言葉に、「また貧乏になっちゃう」と姫は嘆く。文学館に入る度に必ず何かを買っていては、とてもお小遣いがもたない。「今日は寄りません。」「アッ、そうなの。」姫の財布にとっては良かったことになる。大佛次郎も勿論だが、神奈川県に所縁のある文学者は山ほどいるはずだから、その文学館はかなり充実したものだろう。鎌倉文士と言えば小林秀雄を筆頭にする人もいるかもしれないが、私は第一番に林達夫を思い浮かべる。
     石川町駅を目指す途中でアメリカ山公園に立ち寄って、スナフキンから解散宣言が出された。ここは平成二十一年に開かれた公園だからまだ新しい。「駅からエレベーターで直結しているから便利なんですよ。」植え込みの木の幹はまだ細い。「自由にショッピングを楽しんだり、お茶を飲んだりするのもお任せします。」
     講釈師とチロリンたちは当然お茶を飲みに行くだろう。この時間になると、昼間とはうって変わって少し寒くなって来た。今日は途中でまっ黒な雲に覆われる瞬間もあったが、雨が降らなかったのは良かった。
     ところで「元町」とは何だろうと、余りにも無学な疑問を感じてしまった。ここが横浜の本来の中心地なのだろうか。

    一八五九年の横浜開港までは半農半漁の村落であったが、一八六〇年二月の横浜開港に伴って立ち退いた旧横浜村住民がこの地に移住したことで横浜本村と呼ばれるようになる。明治維新の頃には外国人向けの商店街として栄え、「元町」と改称された。
    開港後の山下町に外国人居留地が、山手に山手居留地がそれぞれ設けられ、両地区を結ぶ場所にあった元町通りは、居留者らが日常的に多く行き交うところとなり、外国人を相手にした商売が盛んに行われるようになる。明治が始まってしばらく経つ頃には居留者がさらに増え、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジなどのインターナショナルスクールの開校や、当時は日本には珍しい喫茶店やベーカリー、洋服店、洋風家具店などが軒を連ね、文明開化を支えた。これが今の元町商店街の原型となる。
    一九七〇年代には、当時流行していたファッションスタイル「ニュートラ」に対抗する「ハマトラ」(横浜トラディショナルの略)というスタイルが同商店街のキタムラ、ミハマ、フクゾーなどにより生み出されるなど、独自の文化を色濃く残すエリアの一つである。(ウィキィペディア「元町」)

     文明開化の町でありファッションの町であるようだ。どうやら私には縁の薄い町である。「ウチキ」というパン屋はさっきスナフキンが言及していた店だ。横浜市中区元町一丁目三三番。古い伝統のある店らしいが、「味はどうってことない、って言うか、今じゃ旨いパンは一杯あるから。」そう言っていたのに、スナフキンは早速店に入って何かを買っている。

    ウチキパンは、初代打木彦太郎が明治二十一年、元町にて『横浜ベーカリー宇千喜商店』として創業を開始した、
    長年皆様に愛されている老舗のおいしいパン屋です。
    ホップ種から作った『イングランド』は創業以来百二十四年作り続けている伝統の味です。ぜひ一度お試し下さい(http://www.uchikipan.com/)

     窓越しに眺めていると、宗匠が食パンを買っているのが見えたし、姫も何か買っているようだ。戻って来たスナフキンに訊くと餡パンを買ったと言う。こんなところで餡パンを買うのは理解できない。「今日は証拠が必要な人がいないからね。ロダンがいたら必ずお土産を買ったに違いない。」宗匠はこの店お薦めの「イングランド」を買ったらしい。「明日の朝飯ですか。」「そうじゃないけど、パンは私が買うことになっている。」パンというものを殆ど食わない私が普通ではないのだろう。
     姫もイングランドを買って出てくると、もう喫茶店組の姿は見えなくなっていた。「もう行っちゃったの、一緒にお茶飲もうと思っていたのに。」普通であれば一緒に反省する筈の姫は、薬のせいでまだ酒を飲んではいけない。残念だが仕方がない。ここでお別れである。今日は宗匠の万歩計で一万四千歩となった。八キロほどになっただろうか。

     「笑笑があるんだ。」「この時間でやってるかな。」「やってなかったら関内に出てさくら水産にしよう。」その「笑笑」の看板には明かりが点いていた。四時開店である。反省するのはダンディ、宗匠、桃太郎、スナフキン、マリー、蜻蛉の六人だ。
     メニューにモツ鍋があるので注文すると、今日はモツがなく鳥になると言うし、焼酎の黒霧島を注文するとこれもないという。何だかやる気のない店だ。メニューを見ていたダンディがロシアン・コロッケというものに固執する。六個中のひとつがむやみに辛そうなのだ。ロシアン・ルーレットである。「ハバネロが入っているようだわよ。」「面白いから是非注文しましょう。」
     当たってしまったら食わなければ良いだけだ。それにしても「激辛」を求める行動は、どこかおかしいのではないか。体に良いわけがないし、そもそも日本人の家庭の食事に、そんな辛いものは使われていなかった筈だ。「西洋文化の影響を信じないひとなのね。」
     そんなことを言っている訳ではない。必要もないのに敢えて過剰に強い刺激を求めるメンタリティとは如何なものかと思うだけだ。頑迷固陋の私のこういう感覚はなかなか分かって貰えない。幸い、その辛いコロッケはダンディに当たったから平和であった。

    蜻蛉