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    第四十一回 神田川遡上編(二)  平成二十四年七月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.07.25

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     旧暦五月二十五日。昨年五月に続いて神田川を源流まで遡る。集合場所は東中野駅東口だ。早目に着いた筈なのに、チロリンはもう来ている。「一時間前に来ちゃったよ。」なんぼなんでも早過ぎる。「どうぞ、使ってください。」リーダーの桃太郎はどうやって仕入れたものか、カレー屋の団扇を十枚以上も持参して、皆に配ってくれる。
     定刻まで待つ間に煙草を吸いに外に出ると、小雨がぱらついて傘をさしている人がいる。このまま雨になってしまうかと心配したがすぐに止んだ。昨夜は随分激しく降ったものの、鶴ヶ島では朝には止んでいた。湿度は高く既に気温もかなり上がって、じっとしていても汗が滲んでくる。
     「あれっ、おひとりですか。」珍しく若旦那の隣に若女将の姿が見えない。「ちょっと用事でね。」「なんだ、今日はラブラブじゃないのか。」講釈師は揄う材料がなくなって口を膨らますが、シノッチとマルちゃんから、横浜でイッチャンに親切にバス停を教えたことを褒められて気を良くしている。「俺の言う通りだったろう。あのとき画伯は来なかったからさ。羨ましいだろう。」「私はシノッチに変えたから。」七十歳をはるかに過ぎた人たちが、中学生の初恋談義のような会話をしている。
     ダンディがオサムに「あなたの年齢の倍も生きている人です」と若旦那を紹介するのでオサムは驚いてしまう。倍は言い過ぎだ。「それに近いっていうことですよ。」「それでもスゴイですね。」若旦那は確かにスゴイ。歩いていて音を上げるのを聞いたことがない。
     定刻までに集まったのは、リーダーの桃太郎、画伯、チイさん、ダンディ、講釈師、若旦那、オサム、あんみつ姫、チロリン、クルリン、シノッチ、マルちゃん、マリー、カズちゃん、蜻蛉の十五人だ。暑さの中でこの人数だと、およそ十四キロの行程はかなり時間がかかってしまいそうだ。

     駅の南側から行くのかと思っていたが、桃太郎は北側に出て、ユニゾンスクエアのエスカレーターを利用して下に降りる。この辺りと神田川では高低差が十メートル程になるので、長距離の行程の中で少しでも省力したいのだ。ここは日本閣を再開発した建物で、west53rd日本閣を中心に、京王ストア「キッチンコート」やフィットネスクラブなどが同居している。
     この辺では新宿区と中野区との境界を神田川が流れる。大東橋を渡ると、中央線の高架下の護岸壁に沿って寝ている男の裸足が見えた。すぐに万亀橋。左のマンション群と川の間が遊歩道として整備されている。昨夜の雨のせいか、水の流れが速いような気がする。今日は親柱を全部撮ってやろうと思っていたのに、新海橋の親柱の前で若者がしゃがんで煙草を吸っていたので、早くも計画は挫折した。若者は煙草を吸うべきではない。
     「あれ、なんでしょうね、洪水対策でしょうか。」オサムの声で左岸を見ると、護岸に大きな穴が開いて水が流れ込んでいた。私は今日も予習をしてきたから、ちゃんと知っている。「暗渠になった桃園川が合流しているんだ。」川の名は、享保の頃この辺りの田畝に桃を植え桃園と呼んだ名残である。

    桃園川 東京都杉並区の天沼弁天社内にあった弁天池に源を発し一・五キロ東へ流れる。中杉通りを越えた後に南下、杉並区立けやき公園のところで中央線より南に流れ、そこから東へ転じ、環状七号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。中野区と新宿区の境界にある末広橋脇で神田川に合流する。
    現在は、すべて暗渠化され桃園川幹線という下水道となっており、上部は桃園川緑道などの遊歩道が整備されている。 神田川の末広橋には神田川に合流する開口部があるが、桃園川汚水幹線からの分水であり、本来の川の水とは言い難い。(ウィキペディアより)

     西に阿佐ヶ谷まで桃園川緑道が続く筈で、大久保通りに架かる末広橋がスタートになる。「この辺にあるんじゃないかな。」「下見の時は探せなかったんですけどね。」「あれがそうだと思うよ。」
     橋を渡って左岸上流側の小さな公園に入ると、南こうせつとかぐや姫の『神田川』(喜多条忠作詞、南こうせつ作曲・昭和四十八年)歌碑があるのだ。私たちの世代以降、神田川と言えばこの歌を思い出すのが通り相場になってしまった。「これは蜻蛉が得意そうな歌だね」とダンディが笑って言うが、実はそうではない。こういうのが好きなのは、あの頃に同級生同士で恋をしてそのまま結婚したロダンだろう。
     「辛気臭い歌でしたよね。同じ頃にユーミンが出てきて、私はどっちを目指せばよいのか悩んでしまいました」と姫が言う。昔の女子高校生はおかしなことに悩むものだが、最終的にユーミン路線を選んだのだろう。私はどちらの方にも向かなかった。
     当時大学四年の私はテレビもラジオも持たず、暫く後までこれを知らなかった。就職も決まらないまま、飲み屋や喫茶店の有線放送から流れる歌謡曲を聴き、おまけに昭和初期から四十五年頃までの歌謡曲を一から覚えようなんてバカなことをしていたから、こうした「四畳半フォーク」にも、ユーミンのような都会派の曲にも縁がなかった。
     「同棲が流行ってたのよね、『同棲時代』とかさ」とマリーも証言する。私の周囲では、喫茶店のマスターが看護婦と一緒に暮らしていただけで他には見当たらず、あくまでもメディアの上での話だった。喜多条忠作詞、南こうせつ作曲『赤ちょうちん』、伊勢正三作詞作曲の『なごり雪』、『二十二歳の別れ』その他にも同棲と別れを歌った曲はいくらでも見つかる。
     「同棲」という言葉が世間に流行ったのは、マリーが言うように上村一夫が昭和四十七年から『同棲時代』を「漫画アクション」に連載して以来だろう。映画になった時は、由美かおるのヌードも随分騒がれた。言葉が流行れば真似をする人間は現れ、そして歌になる。
     しかしこれより早く、昭和四十五年に林静一が「ガロ」に『赤色エレジー』を連載していた。「同棲」という言葉は出てこないが、こんな男女の生活を漫画に描いたのはこれが初めてではないだろうか。「ガロ」の連載だから一般に普及したとは思えないが、上村一夫はおそらくこれに影響を受けたのだ。四十七年には、この作品をテーマにしてあがた森魚が『赤色エレジー』を歌った。私は、『同棲時代』から恐らく後のトレンディドラマに続く流れや、『神田川』『赤ちょうちん』からユーミン路線と合流してニューミュージックへ変質していくメジャーな流れより、『赤色エレジー』の世界の方が気にかかってしまう。
     『赤色エレジー』は漫画も歌も傑作です。上村一夫の艶麗とも言うべき絵とは違って、林静一は背景も大胆に省略した単純な線と、明暗の強いコントラストで、貧しい若者の哀切を表現した。今度読み返してみて、当時は気付かなかったが、テーマは貧困状態において愛は持続するかという問題だったのではないかと思い当った。実際問題として二人が衝突するのは貧しさのゆえであり、別れたのも同じ理由だ。あがた森魚は、八嶋秀章『あざみの歌』に似た旋律を大正ロマンの彩色で歌ったから、ニュアンスはやや違う。

    愛は愛とて 何になる
    男一郎 まこととて
    幸子の幸は どこにある
    男一郎 ままよとて
    昭和余年は 春も宵
    桜吹雪けば 蝶も舞う

     学歴も才能もない貧しい男女が一緒になっただけである。マイナスを寄せ合ってもプラスには転じない道理で、一郎と幸子の不幸は最初から分かり切っていた。「はだか電球 舞踏会 踊りし日々は 走馬燈」であり、「お布団もうひとつ欲しいわね」である。

     同棲と別れを歌うのは実は新しいことではない。既に昭和三十四年には平岡精二作詞・作曲『爪』があったが、シャンソン風の曲には生活臭は微塵も感じられず、都会の、少し年上のお洒落で生活に余裕のある女と若い男の関係が連想された。たぶん昭和三十年代には、貧しい人間は「同棲」なんかしている暇がなかった。
     便宜上西暦で表記した方が分かりやすいかも知れない。その後、大衆文化のテーマにカタギの男女の「同棲」は現れなかったが(と思う)、七十年代になって突然登場した。(ただ私は「ガロ」の熱心な読者ではなかったから、あるいは他にもあったかも知れないと、保留しておく。)

     私は「赤色エレジー」で、一人の男か女がゆける所は、「棲む」と言う所で、そのような男女の一時期に精液でべたべたした時間がある、それを「魔」として描きたかった。(小学館文庫版『赤色エレジー』あとがき)

     林静一自身はこんな風に語っているが、「べたべたした」ものよりも私は痛切な抒情を受け取った。後年、現代の竹久夢二とも称される林静一も、この頃はまだそれ程洗練されてはいず、荒々しい図柄も目立つ。そして私はどうしても幸子と一郎の貧しさが気になってしまう。一九七〇年という時に貧しさがテーマになり得たのは何故なのだろう。『同棲時代』の今日子と次郎には、モラトリアムとも言うべき、まだ進路を探しあぐねている若い男女がたまたま一緒に暮らし始めたという趣があったが、幸子と一郎の暮らしはもっと切迫している。
     そして荒井由美に「四畳半フォーク」と揶揄された『神田川』を始めとする一連の歌も、『赤色エレジー』の世界とは違う。風呂のない、西日の当る狭いアパートなんて地方出身学生一般の生活であって、そんなものは就職してしまえばすぐに解決する。卒業と就職が同棲を解消し、貧しさからオサラバする筈だ。
     ひとつ不思議なのは、三畳一間で果たして本当に男女が暮らせるものなのかということだ。二人がいれば当然家財道具もあって、それに一畳分は取られるだろう。すると二人が実際に生活できる空間は僅か二畳しかない。二日もいれば息苦しくなってしまわないか。貧しさを強調するフィクションではないだろうか。確かに三畳間の下宿はあったが、主流は四畳半である。
     少し社会学的に(?)考察してみようか。一九七〇年の大学進学率は、男子二十五パーセント、女子二十三・五パーセント、平均して二十四・二パーセントであった。この頃から進学率は上昇を続け、四十年後には高校卒業生の半数を超える数が大学生になる社会がやって来る。但し七十年頃であっても大学生の幼稚化、教養の崩壊は言われていたのであり、大学は決して「高学歴」の証明ではなかった。にも関わらず、大学を出ていれば、就職しようと思えばどこかには潜り込めた。私だって就職できた。それに当時は商業高校や工業高校からも金融機関や大手メーカーに就職できた。高度経済成長によって、この国に貧しさは消滅している筈だった。
     しかし七〇年代前半は決して明るい時代ではなかった。六九年には東大安田講堂占拠事件が起こったが、振り返ってみれば戦術的な思想はかけらもなく、ただ英雄気取りの自己満足があるだけだった。七〇年の三島由紀夫割腹も同じように成功を目的にせず、人目を引くだけの自己満足でしかないのは同じメンタリティによるのではないか。七一年には全共闘運動にまともに関わることで全身を消耗し尽して高橋和巳が死んだ。
     ブント解体によって派生した新左翼各派、そしてそれを止揚する筈だった全共闘運動は果てしもない内ゲバを続け、やがて七十二年の連合赤軍事件に帰結する。「革命」を標榜する陣営の精神的知的頽廃はもはや救いようがなかった。
     これらは、相対的には恵まれた階層である大学生によって惹き起されたことを忘れてはならない。四畳半フォークと呼ばれた同棲ソングもまた、大学生(及び大卒者)によって作られ、大学生の間で流行した(と思う)。同棲イコール全共闘と言ってもそれ程間違ってはいない筈だ。
     『同棲時代』の今日子と次郎は大学生ではないが、今日子が広告代理店に勤めていることもあってか、貧しさの臭いは感じられなかった。上村の女の恨みの背景には、後のトレンディドラマやわたせせいぞうに繋がる都会的な生活がある。それに裕福ではなくても帰れる実家がある。
     これに対して『赤色エレジー』の世界は根本的に違う。緑川アコ『夢は夜ひらく』(六六年)、ザ・モッブス『朝まで待てない』(六七年)、ザ・スパイダーズ『風が泣いている』(六七年)、岸洋子『希望』(七〇年)などの歌詞が、いくつかのコマに歌手名も曲名もないまま叫ぶように引用される。
     帰るべき実家は既にほとんど崩壊した。自殺未遂常習者の父親が死んでも、一郎には故郷に帰る金もないのだ。
     漫画家志望のアニメーターとトレーサーと言えば、その実態は最低賃金で長時間労働を強いられる底辺の労働者である。現在の調査でも、アニメーターの年収は出来高払いで百万円程度とされ、これで暮らしていける筈がない。仮に物価指数でスライドしてみると、七〇年時点で年収は三十万から四十万円程度になるか。当時私は喫茶店のアルバイトで月に四、五万貰っていたから、年間では五十万円を超えていたことになる。必死に働く一郎より、遊び半分の学生アルバイトの収入が多いのである。
     さっきは大学進学率を見たが、高校進学率はどうだろうか。高校進学率が九十パーセントを超えるのは、ようやく七十四年のことである。統計でみると、六十五年の高校進学率が七十・七パーセント、六七年に七四・五パーセント、七十年が八十二・一パーセントと上昇している。(www.stat.go.jp/data/chouki/zuhyou/25-12.xls)その時代に高校に進学しないのは殆ど経済的な理由である。
     幸子と一郎の二人もまた中卒である。(今回読み直すと、「中卒」「者が」「成功」「する」「条件」というコマがちゃんとあった。)私と同年齢とすれば、二十五・五パーセントの層に含まれる。
     そして進学率の上昇は、そこから弾き出された人間を少数者の立場に追い込み、貧しさを際立たせる。幸子に去られて自棄酒に酔った一郎が、頭と腹を抱えて倒れ込む。見開き五コマに分割された「でも・・・・・明日になれば、朝がくれば・・・・・苦しいことなんか忘れられる。昨日もそう思った」というモノローグで物語は終わる。
     そしてロダンなら、同じ時代のもうひとりの貧しい若者を思い出すに違いない。松本零士『男おいどん』の大山昇太である。七十一年に「少年マガジン」で連載を始め、七十三年に唐突とも言えるような最終回を迎え私は泣いた。大山昇太は貧しさのゆえに夜間高校へも行けない。いつか夜間高校に復学する時のために、押入の隅には学生服を大事にぶら下げている。最大の楽しみはラーメンライスを腹一杯食うことであった。美食とかグルメとかほざいて行列している連中は、大山昇太の前で慙愧すべきである。
     もう一度確認すると、七十年に大学に入った私たちの世代の背後には、ほぼ同数の中卒で社会に放り出された層が存在したのである。しかしそれが文学や漫画、フォークソングのテーマになることはなく、『赤色エレジー』と『男おいどん』だけが中卒者の生活を描いた。当時の私はそんなことにまるで気付きもしなかったが、貧困は同時に低学歴者、少数者の問題でもあり、充分語るべきテーマであったのだ。

     余計なことを語りすぎた。伏見橋の袂で姫の足が止まった。「ブキミ。」「なんだい。」橋の真ん中あたりの歩道と車道との境界に、地面からマグロの頭が突き出したような不思議なオブジェがあったのだ。鯉の積りだろうか。どうやらこれは車止めで、調べてみると室津公園、品川水族館、湯の浜温泉ほか全国あちこちに似たようなものがあるらしい。しかし意味は不明だ。

     五月晴れ魚頭突き出す橋の上  蜻蛉

     橋の名は明治時代、左岸の台地に伏見宮の別邸があったことに由来するようだ。そこに伏見宮が入る以前は山岡鉄舟の屋敷だった。それなら一昨年七月の第三十回で、中野坂上を起点として歩いた時に立ち寄った臨済宗天龍寺派鎮国山高歩院、鉄舟会禅道場のある場所だ。無断で庭に入ろうとして誰何された。
     右の白い壁には「中野の地名の由来」「淀橋水車」などを説明した案内板が掲げられていた。「この辺で蕎麦を挽いてたんだ。」蕎麦のことなら講釈師が黙っている筈がない。「水車があったって書いてるわね。」「石臼を水車で回したんだ。」宝仙寺では石臼の供養塔も見ている。「中野の蕎麦は有名なんだよ。」

    中野の蕎麦について東京都麺類協同組合昭和三十四年『麺業史』の中で石森製粉所・石森安太郎氏が紹介している項を引用すると「徳川時代蕎麦切りにして、江戸庶民に親しまれていた頃の蕎麦は現在の荻窪、高井戸、吉祥寺、連雀、小金井、神代等江戸西北部のものに依存し、馬の背に依りこれを中野、淀橋、練馬方面に輸送、粉屋の手により江戸に供給されていたものと考えられる。・・・・
    更に昭和の初期「食味の神髄を探る」という波多野承五郎氏の筆による書物の中での中野のそば屋の紹介は「東京郊外の中野には、専業の蕎麦粉製造工場が五箇所ある。今日、東京の蕎麦粉は主としてこれらの工場から供給されている。・・・・
    http://www.ishimori-seifun.co.jp/soba-iroiro/0211.htm

     ここは青梅街道とともに舟運にも恵まれていた筈で、しかも内藤新宿に近いという地理的な強みもあったに違いない。
     栄橋を過ぎて少し行くと淀橋だ。「この通りは。」「青梅街道です。」橋は新しいが、石の親柱は大正十四年のもので風格がある。三重の円のように見えるのは、水車をイメージしたものらしい。

    淀橋 成子宿と中野村との間に架す。大小二つの橋ありて、橋よりこなたに水車あり。昔大将軍家(家光)このところに御放鷹の頃、山城の淀に準擬へ、この橋を淀橋と唱ふべき旨上意あり。よつて号とすといへり(ある人いふ、淀橋は余戸橋ならん。『和名抄』に「武蔵国豊島郡に余戸といへる村あり。この地は豊島郡と多摩郡の中間にて、上古のあまりべなりしゆゑに、余戸橋と唱へたりしならんか」と。しかれどもその是非をしらず)。旧名は面影の橋、姿見ずの橋なども呼びたりしとなり。(『江戸名所図会』)

     『江戸名所図会』には「淀橋水車」という図も描かれているから、淀橋と言えば水車というイメージは定着していたのだろう。成子宿という立て場があったのだろうか。西新宿八丁目の東半分が柏木、西半分が成子だ。成子天神もある。
     「余戸」(あまりべ、あまるべ)は、律令制で五十戸を一里としたとき、それに満たない小さな集落を言った。また『和名類聚抄』に豊島郡は日頭、占方(白方)、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家の七郷を管轄したとあるそうで、その余戸であろうか。この辺りが豊島郡なのか多摩郡なのかは判然しなかったが、『江戸名所図会』には「淀橋の下を流るる上水川をもつて、豊島郡と多摩郡の郡界とす」とある。それならば川のこちら側だから豊島郡と考えて良いだろう。尚、五十戸一里の「里」は霊亀元年(七一五)に「郷」と改称されている。
     「姿見ずの橋」の名は中野長者伝説に由来する。多寶山成願寺で中野長者、鈴木九郎の物語を知った。あの時参加した人は覚えているだろう。

     ・・・・山と積まれた財宝を手元に置いては、いつ盗賊に襲われるかわからない。不安に襲われた長者はそれらを人目のつかぬところに隠そうと考えた。そこで長者は夜毎、下僕をひとり連れ、橋を渡ってはどこかへ財宝を埋めに行っていた。ところが、帰りはいつも長者ひとりだけであった。
    長者は気が付かなかったが、橋を渡る長者たちを何度も見かける者がいた。下僕たちの往きの姿は見かけるが、帰りの姿は見たことがない。いつとなくそれは人の口の端にのぼるようになり、橋は『姿見ずの橋』と呼ばれるようになった。
    長者は下僕に財宝を背負わせ、(おそらく熊野神社辺りに)大きな穴を掘らせてはそれらを埋め、その場所をさらに守るため、使役した下僕を殺しては神田川に捨てていたのだった――。http://page.freett.com/elirin/kaidan/yodobasi.html

     「昔は淀橋区というものがあった。」ダンディはこういうことに煩い。昭和七年(一九三二)に拡張した大東京市三十五区時代の話である。昭和二十二年(一九四七)に、淀橋区、四谷区、牛込区が合併して新宿区ができた。「淀橋浄水場なら知っています。」姫も結構古いことを知っているね。浄水場は昭和四十年に廃止されているから、その頃に私はまだ東京を知らない。
     明治維新以後、神田上水、玉川上水の水質は極端に悪化した。江戸期に上水を管理していた分水組合が解散し、所轄官庁もめまぐるしく変わるなど、維新期特有の管理不足に始まったと思われる。大量に流入した地方人は、江戸人がどれほど上水道を大切にしていたかなんて、気づきもしなかったに違いない。明治十年から十五年、十九年とコレラが大流行し、近代水道の整備が緊急に求められていたのである。神田上水は薄めた尿のような状態になっていたらしい。そして南豊島郡淀橋町大字角筈に浄水場が造られ、明治三十一年十二月一日に通水した。
     新宿副都心はその跡地である。都庁、京王プラザホテル、住友ビル、KDDビル、三井ビル、安田火災、全てその中に含まれるから、浄水場の広さは相当なものだったことが分かる。
     「ヨドバシカメラの社名の由来になってる。」「そうなんですか。」昭和四十二年、新宿区淀橋に会社を構えて淀橋写真商会を名乗ったのが始まりで。現在の西口本店の場所である。
     マンションとの間に煉瓦を敷き詰めた遊歩道が続き、左手の空を見れば新宿の高層ビルが立ち並ぶ。空が真っ青になってきた。「今日は一日中曇りじゃなかったんですか。」姫は帽子を忘れて来たと言うし、オサムは似合わないから帽子は被らないと言う。
     豊水橋で右岸に渡る。相生橋、菖蒲橋、宝橋。山手通りに出ると、右手が首都高速の中野長者橋ランプだ。流石にここは信号を渡らなければならないので、少し南の横断歩道を渡って長者橋に着く。この名前も鈴木九郎に因むのは言うまでもない。
     東郷橋、桔梗橋。「あれが、スナフキンの大学ですね」とオサムが指さした。桔梗橋の正面奥に「KOGEI」のシンボルマークを掲げた薄水色のビルが建っているのが見える。中野区本郷二丁目。スナフキンは今頃仕事をしているだろう。
     遊歩道には煉瓦が敷き詰められ、そこに「神田川1/1000」のプレートが貼られているのに気がついた。「千分の一って何でしょう。」隅田川から始まり、少し離れて白山通り、東京ドームなどが描かれて、この距離感覚が千分の一になっているのだ。「オサムちゃんの会社はその辺だね。」本社は中野にあり、オサム自身が勤務する場所は東五軒町の神田川沿いにある。
     現在地は隅田川から十二・六キロ、みなもとから十二キロとある。中間点を少し過ぎた訳だ。「あと十二キロですか。」若旦那と画伯が溜息を吐く。
     皐月橋の親柱は赤煉瓦だ。すぐ向かいの左岸に美術館のような不思議な建物が見えた。台形状のコンクリート造り五六階建てで、一階入口に石造りの神明鳥居が設置されているのだ。建物全体が神社なのだろう。宝生山八津御嶽神社と称す。「青梅の御嶽神社の分社ですね」とダンディが断言するが、どうも違うようだ。
     本宮は山梨県南巨摩郡南部町にあり、古くは甲州東河内領谷都村岡田乃郷字八津と称したことから、八津の名を冠していると言う。ただ、山梨県にあるという本宮については、ネットで調べてもほとんど情報はなく、この中野にある神社の「本宮由緒書」にしか出てこない。

    八津御嶽神社の歴史は古く、そもそも後鳥羽天皇の御代・文治元年(一一八五年)までさかのぼります。
    当時は、後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝公によって全国に守護・地頭を置くことが定められ、甲州東河内領谷津村岡田乃郷字八津にも、八津多聞左ェ門藤原時種という人物が地頭職として着任します。
    この甲州東河内領谷都村岡田乃郷字八津とは、現在でいえば山梨県の南西部、富士川沿いに広がる南巨摩郡南部町あたりであり、宝生山というなだらかな山をしたがえた誠に風光明媚なところです。
    彼(八津多聞左ェ門藤原時種)は、この地に構えた地頭屋敷の北側に「民心の統一と所領安穏・五穀豊穣」を祈念して小さな祠(御嶽神社)を建立して鎮守としますが、これこそが八津御嶽神社の起源とされています。
    以降、代々の地頭職が御嶽神社の斉主としてこれを守り、時は流れ、守護・地頭職制度が廃止された後も御嶽神社だけはこの地の鎮守として残り、その時々の人々の暮らしを静かに見守りながら歴史を刻み、今に至っています。http://www.yatsumitake.com/historic/

     これが由緒であり、おそらく村の鎮守程度の小さな神社だったに違いないが、その「本宮」が今でも存在しているのかどうか、さっぱり分からない。

    当神社は八百余年の歴史を有する八津御嶽神社の分社として、大正十年に本宮(現在の山梨県南巨摩郡南部町)より、一人の神主が東京(現在の地ではなく、当初は現在の浅草橋界隈)に出てきたことがはじまりです。http://www.yatsumitake.com/

     八百年という歴史が欲しくて名前だけを取ったのではないか。「宝生敬神会」というのがその正体らしい。
     中ノ橋、月見橋、花見橋。狭い遊歩道の左はすぐに住宅が迫ってくる。「昔はこんな道はなかったんです。今歩いているところ、ここまで家が建っていて、すぐに川でしたから。」オサムはこの辺で生まれて育ったのである。
     「ここから二本北に行くと貴乃花部屋があります。」「そう言えば、関取誕生お祝いの幟が立っていましたね」と姫も言う。私は見損なってしまった。五月場所で幕下筆頭の貴ノ岩(モンゴル・ウランバートル出身)が勝ち越して、貴乃花親方になって初めての十両力士が生まれたのである。平成十六年二月に貴乃花が二子山部屋を継承してから八年かかった。
     月見、花見と橋の名が粋になってきたのは、かつて花街があったからだろう。「子供の頃には芸者さんがいましたね。」関東大震災後に三業地として発展して、昭和四十年頃には料亭が四十一軒、芸者は百三十人いたと言う。五十年代になって消滅したが、まだ料亭は何軒か残っているようだ。赤い高欄の中野新橋の親柱には擬宝珠が載せられている。「近くに神社でもあるんでしょうか。」そうではなく、花柳街のかつての華やかさを表すのではないか。

     高欄に下駄音聞きし花日傘  蜻蛉

     橋を渡って左岸の脇の小さな公園で休憩する。十一時。水飲み場があるのが嬉しい。桃太郎が顔を洗った後で、私は頭から水をかぶる。「あら、服がそんなに濡れちゃって。」マルちゃんが笑うが、この暑さならすぐに乾いてしまうから心配ない。水道の栓の調整が難しくて、若旦那もズボンを濡らしてしまった。「あっ、カミさんに叱られちゃうぞ」と講釈師が囃したてる。「すぐ乾きますよ。」道路工事中の逞しい男がヘルメットに水を満たす。確かにヘルメットは熱くなりそうだ。残念なことに、この公園には日陰がまるでない。チイさんは、向かいのバー・アクアの日陰に一人入って休んでいる。その姿が少し淋しそうだ。片隅には、昭和三十六年から去年の八月まで親柱に取り付けられていた擬宝珠が記念に置かれている。

     ここで川とは一旦少し離れて、一本北側の静かな住宅地の道を行く。暑さのせいなのか、そもそもそういう所なのか、歩く人の姿がほとんど見えない。「あら、素敵な建物が。」和風の二階建てで、二階のベランダの柵は格子でできている。「倶楽部千代田会館。」中野区の地域包括支援センターにもなっている。「介護施設ですね、いいわ。ここに住みたい。」姫はおかしなことを言う。「だって、越谷にはこんな介護施設はありませんよ。川口にはありますか。」急に訊かれたマリーも戸惑ってしまう。
     社会福祉法人ケアネットが運営する小規模多機能型居宅介護施設であった。これは平成十八年四月の介護保険制度改正によって創設されたサービス施設である。登録定員二十五名、通い定員十五名、宿泊定員九名、訪問介護要員一名と定められている。

    「小規模多機能型居宅介護」とは、居宅要介護者について、その者の心身の状況、その置かれている環境等に応じて、その者の選択に基づき、その者の居宅において、又は厚生労働省令で定めるサービスの拠点に通わせ、若しくは短期間宿泊させ、当該拠点において、入浴、排せつ、食事等の介護その他の日常生活上の世話であって厚生労働省令で定めるもの及び機能訓練を行うことをいう。
    http://www.city.yokohama.lg.jp/kenko/kourei/jigyousya/shinsei/shitei/syoukibo/kijun-gaiyou-syoukibo.pdf

     「これがわが母校です。」オサムの通った中野区立第二中学校だ。「すぐ近くが俳優の実家ですよ。カッコイイ、シブイ。」誰のことだろうか。「中学の先輩かい。」「思いだした。岩城滉一ですよ。」
     立正佼成会の第一団参会館は建て替え中らしく、白い壁で覆われている。そこを過ぎた角の団子屋でオサムが振り返った。「この団子屋は生まれた時からありました。」それなら記念に写真を撮っておこう。それを見て「和菓子屋さんですか、寄ってみたい」という反応をするのは勿論あんみつ姫である。和菓子司(有)丸中であった。杉並区和田一丁目十九番三号。
     富士見橋西の信号を渡ると「区整碑」という大きな碑が建っていた。正三位勲一等牛塚虎太郎閣下題額とある。牛塚虎太郎は昭和四年から六年まで東京府知事、八年から十六年まで東京市長を務めた人物で、後に衆議院議員にもなった。この顕彰碑は、和田堀町第一土地区画整理組合の活動によって区画整理が完成した事を記念して、昭和十八年に建てられたものだ。

     ・・・・組合地区ハ旧神田上水善福寺川ト合流シテ三叉形ヲ成ス低地ニ位ス関東大震災後近郷ノ逐年大小住宅地化セントスルノ際時ノ和田掘町助役横尾亮太郎氏ハ同志ト共ニ本地区ノ将来ヲ慮リ区画整理ノ緊要ナルヲ痛感シ更ニ当時東京府奨励ニ係ル荻窪区画整理地ヲ視察シテ・・・・爾来十有余年昭和十七年十二月竣工セリ・・・・之ニ要シタル総経費二十万二千八百円内工事費八万円ナリ・・・・
     幾多ノ困難ニ遭遇セシモ幸ニシテ組合員一同ノ協心■力ニ依リ遂ニ所期ノ目的ヲ達成スルコトヲ得タリ 茲ニ敬ミテ神明ニ拝謝シ併セテ本事業ニ尽瘁セラレタル物故評議員顧問及前組合長等ノ功労ヲ追頌ス(後略)

     漸く神田川に戻って来た。富士見橋を渡り、地下鉄の入り口で休憩をとる。地下鉄駅構内にトイレがあるためだ。立正佼成会付属病院が見える。
     「立正佼成会の学校でした」とダンディがわざわざ確認してくれたのは、芳澍女学院情報国際専門学校である。杉並区和田一丁目三番二十。「この字は何と読みますか。」「樹」のキヘンの代わりにサンズイになっている文字だ。「分からない。」ホウジュと読むのは間違いないのだが、意味が分からないのだ。調べてみると、「うるおう」と訓読みする。
     その北側には佼成看護専門学校があり、その奥が立正佼成会発祥の地である。私は立正佼成会のことは法華系であることしか知らなかった。

     日中戦争下の一九三八(昭和一三)年、霊友会の内争が激化して、霊友会きっての法華経学者といわれた新井助信の教えを受けていた庭野日敬(一九〇六~九九)と長沼妙佼(一八八九~一九五七)が、国柱会の村山景造(日襄)らの協力を得て分立し、大日本立正佼成会(のちの立正佼成会)を結成した。(中略)
     同会の教義の源流には、霊友会の先祖供養、懺悔滅罪の法華信仰をはじめ、不動明王、金神、七神、荒神等の信仰、九字、九星、六曜、姓名学、気学、天理教、国柱会等々の多彩な宗教、民間信仰を数えることができる。(村上重信『新宗教』)

     これによれば、単純な在家法華信者の会ではなく、もっと怪しい感じがしてくる。産みの親とも言うべき霊友会は、インナートリップとかいう怪しげなことを提唱していたんじゃないか。霊感とか霊能者なんてものを信じるのは、どういうメンタリティによるのか、私にはさっぱり分からない。金神と言えば大本教の艮の金神を思い出す。七神とは何だろう。七福神のことかしら。そんなことを調べている内に、戦前戦中の国粋主義的法華団体である国柱会が今でも生き残っていることも知った。
     右岸を歩いていると、すぐ前で桃太郎とシノッチが「ビヨウヤナギだね」と話しあっているのが聞こえた。違うじゃないか。「これはキンシバイ。」「そうだっけ。」「ビヨウヤナギはもっと雄蕊が長いの。」それを聞きながら姫とオサムが笑っている。「あれ以来、近所でビヨウヤナギに気がつくようになりましたよ。」
     「雄蕊が長いことが一番の違いですか。」姫に追及されると困ってしまう。どちらもオトギリソウ科オトギリソウ属であるが、私にはちっとも似ているとは思えないのだ。雄蕊の長さもそうだが、キンシバイの花の形は正に梅鉢のようで、ビヨウヤナギの切れ込みの深い花弁とはまるで違う。時々川から吹き付ける風が心地良い。
     対岸のコンクリート壁の、ちょうど地面と同じ程の高さに、金属製の何かの蓋のようなものが等間隔で並んでいるのが見えた。「なんだろうね。」ASAHIと浮き彫りになっていて、ビール樽の蓋のようにも見える。
     「分かりました、あそこから道路に溢れた水を流すんですね」と若旦那が真相に思い当った。成程そう言われればその通りだろう。
     「あそこに、オブジェが。近くで見たいですよね。」姫の言葉で左岸を見ると、コンクリート護岸壁の上に、蝸牛、蛙、蛇、ナマズなどのオブジェが飾ってある。その声に促された訳ではないが、先頭の桃太郎は和田見橋を渡って対岸に出る。今度は蜻蛉や蝉も登場した。「ここからは鳥ですね。」壁が身長程の高さになっているのは転落防止の意味だろう。ただ高くするだけでは風情がないので、こんな細工をしているのである。上だけでなく、壁自体にも同じような生物の彫刻が施されている。
     やがて善福寺川との合流点にやってきた。三十度ほどの角度で合流していて、私たちのいる側が善福寺川、源流である遅野井の滝から十一・三キロ地点である。そこには今年一月の里山ワンダリングで行った。向こうから流れてくるのが神田川だ。
     和田廣橋で善福寺川を渡り、その先を左に曲がれば神田川だ。右岸は青々とした樹木に覆われている。

     梅雨晴れの 散歩で流す 玉の汗 涼風連れて 神田川流る  千意

     「地下鉄の車庫だね。」チイさんの声で対岸を見ると、樹木の陰に電車が止まっているのが見えた。中野車両基地である。中野区弥生町五丁目。

    営団地下鉄では銀座線において上野・渋谷に設置されていた車両基地は用地が狭く、その後の車両運用面において大きく不便を強いられていた。
    このため、営団地下鉄創立直後の一九四四年(昭和十九年)に地下鉄四号線(現在の丸ノ内線。なお、現行のルートは戦後に決定されたものである。)の延伸を予想して、中野富士見町地区に用地を確保していたものである。
    本検車区は銀座線・丸ノ内線の将来の車両動向を総合的に判断し、計画されたものである。既存の小石川検車区(当時)だけでは収容数に不満があることや、銀座線においては渋谷と上野の工場を廃止して中野工場に統合することで、それらの車両基地を拡張させて留置能力を向上させた。なお、小石川検車区は二〇一一年度に中野検車区に統合され、同区は中野検車区小石川分室となった。(ウィキペディアより)

     住宅地の間の細い道を進み、方南通りにかかる栄橋を渡る。島忠家具センターの脇からは、歩道は左岸だけになる。角田橋で右岸に渡る。神田橋、向田橋。民家の玄関先にノウゼンカズラが鮮やかに咲いている。クルリンの疑問に、「ノウゼンカズラ」と応えた声が姫の声と重なってしまった。「かぶってしまいましたね。」自信を持って言える数少ない花だから、力が入ってしまう。

     凌霄の花燃え立つや神田川  蜻蛉

     それにしても暑い。腕が大分赤く焼けてきて、少しヒリヒリする。姫の頬が少し赤く染まっているのも日焼けのせいに違いない。こういう日に帽子を被らないと日射病になると、子どもの頃に言われなかったろか。「日本脳炎になるって言われたわね。」そう言う風にも言ったような気もするが、日本脳炎はウィルス感染が惹き起すものだ。熱中症なんて言う言葉はまだなかった。
     たつみ橋、上水橋を過ぎる。環状七号線を渡ると、神田川・環状七号線地下調節池の取水施設がある。環状七号線の地下三四メートルから四三メートルの位置に、内径十二・五メートルのトンネルが延長四・五キロに亘って伸びている。大雨の際は川から水を流し込んで、洪水を防ぐのである。
     この辺は底に砂利が敷き詰められているようで、水はかなり澄んでいる。「きれいね。」「ウワベに騙されてはいけません。水には何が含まれてるか分かりませんからね。」かなり大きな鯉が泳いでいる。「あっ、カモですよ。」「カルガモですね。」大きな鯉も泳いでいる。
     方南第一橋から右岸の左手は学校になっているのだろうか。歩道に樹木が覆いかぶさってくるようだ。弁天橋、和泉橋。ここで先が行き止まりになっているので、左に迂回して中井橋に出る。
     宮前橋から先は、両岸桜並木の木陰になっていて林の中を歩く気分だ。「桜の季節はいいでしょうね。」左岸には熊野神社があるようだ。

      木漏日や川を吹き行く皐月風  蜻蛉

     栄泉橋の高欄と親柱は黒塗りの木造だ。「サギだ。」「コサギだよ。」見下ろすと川の真ん中にコサギが佇んでいる。画伯が大きなカメラを向けようとすると、とたんに羽ばたいて上流に飛んで行った。「大声出すからだよ。」両岸とも静かな住宅地だ。水は濁っているが、川底に石がごろごろしているのが見える。ところどころに段差を造ってあって、そこだけ白く飛沫があがる。「腹減っちゃったよ、まだか。」そろそろ我慢できなくなったらしい。講釈師の口から頻りに文句がでてくる。

     井の頭線を潜り、明風橋(みょうふうばし)でいったん神田川から離れる。「もうすぐだろう。」「まだグランドの脇を回り込まなくちゃいけないから。」グランドの脇を通り、第一校舎の階段を三階程上ってキャンパスに入る。「階段がきついですね」と若旦那が苦笑いする。関係者以外無用の者は立ち入り禁止の貼り紙がしてあるが大丈夫だろうか。「事前に確認してます。学食を利用するだけなら届もいりません。」
     明治大学和泉キャンパスだ。ここには、法学部・商学部・政治経済学部・文学部・経営学部・情報コミュニケーション学部の一・二年生と、国際日本学部の全学生が通う。
     学食は「和泉の杜」と名付けられている。十二時半だから一番混みあう時間帯で、ビュッフェ方式のカウンターにはもう学生がずいぶん並んでいる。勝手が分からずウロウロしている私たちに、前に立つ学生が教えてくれる。「学生さんの言う通り、ここに並んでればいいんだよ。チョロチョロしちゃダメだ。」
     土曜日にしては随分ひとが多い。「昔は土曜日の授業はできるだけ取らないようにしてたけどね。」桃太郎の時代でもそうだったか。「最近の大学生は忙しいんだよ。資格も取らなくちゃいけないし、土曜日に休むなんてわがまま言えないんだから。」単位認定の時間数が文科省によってかなり厳しくなったことも原因だと思う。夏休みも短くなっている筈だ。
     定食窓口の手前のカレーの窓口は空いている。並ぶのが面倒になったダンディは、そっちの窓口に逸れていった。学生に出された大盛りカレーを見ると、大きな皿にかなりの量が盛られている。カレー大盛は二百九十円、千キロカロリーだというから貧乏人にはうってつけだ。
     十分ほど並んで、コロッケとハンバーグの定食を手に入れた。これで三百二十円は安い。城西大学の定食は四百四十円する。「私はご飯を少なくしてもらったら、五十円引いてくれましたよ」と姫も感激する。明治大学は貧乏人の味方であった。
     「これで六大学の学食は四つ制覇しましたね。」東大、早稲田、慶應、明治とダンディが数える。「どこが美味かったですか。」味は分からないが、ここが一番安いのは間違いない。ダンディは早く立教の学食に案内しろとうるさい。チイさんは九月の企画で東洋大学の学食を計画していると言う。食い終わったところで、朝入れてきたお茶がなくなったので、二本目を補給する。
     学食を出る前に用便を済ませると、トイレ前で急に警報機が鳴りだした。「どうしたの。」「火災報知機かな。」「気分の悪くなったひとじゃないの。」そこに食堂の店員が駆け付け、「だれか押しませんでしたか」と訊く。「誰も押してないんじゃないの。」そこにシノッチが恥ずかしそうに「だって、押すって書いてあるんだもの」と出てきた。少し遅れてクルリンも「ゴメンナサイ」と言いながら出てきた。二人が同時に非常ボタンを押したのだろうか。

     一時十分を過ぎた頃だ。ここで桃太郎から緊急動議が出された。桃太郎が一人で下見をした際も、ここからゴールまでは二時間半かかった。今日はこの暑さに加えて十五人の大所帯である。三時間以上はかかってしまうと思われるので、残念ではあるが明大前から久我山までは電車を利用することにしたい。
     「電車だって聞いて若旦那は急に元気になったな。」どうやら講釈師のアドバイスによったものらしい。誰からも異議はなく、桃太郎の提案は受け入れられた。何度も繰り返すが、それにしても暑い日だ。発表されてはいないが、もう梅雨は明けたんじゃなかろうか。(正式に梅雨明けが発表されたのは二日後である。)
     正門を出て、甲州街道を渡って駅に入る。この駅は初めてだ。こんな日でなければ、大学隣の築地本願寺和田堀廟所にも寄ってみたかった。樋口一葉の墓がある筈で、いつか来なければならない。
     各駅停車に乗って十五分程で久我山駅に着く。これで三キロ程を短縮した勘定になるだろうか。この駅に降りるのは三度目だから勝手は知っている。南口に降りるとすぐに井の頭線に沿って神田川が流れる。さっきまでと比べると川幅はかなり狭いし、水草の量も多い。駅前の道をまっすぐ南に行けば玉川上水の遊歩道もあり、散策を楽しみ静かに住むための環境は良い。
     「そう言えばさ、碁聖は大丈夫なのかい。」講釈師が訊いてきて、チロリンも心配そうな顔をする。もうとっくに退院して、今頃はリハビリに専念しているだろう。住所は世田谷区烏山だが、ここには歩いて来られる所だ。リハビリのための散策コースとして最適だろう。「でもこの暑さではね。」「早朝とか、涼しいときならね。」
     「この辺にさ、高射砲陣地があったんだよ。B29対策で。」講釈師はこんなことを知っている。調べてみると、当時世界最大の五式十五糎高射砲が二門、現在の久我山運動場の辺り(杉並区久我山二丁目一八番一八)に配備されていた。ドイツ・テレフンケン社の対空射撃用測距装置ウルツブルグ・レーダーと連動してB29を撃墜することを目的としたもので、昭和二〇年五月に完成していた。ただ、実際に役にたっていたのかどうか良く分からない。東京空襲に高射砲が活躍したなんていうことは私の知識には全く入っていない。ウィキペデイァには両論併記されているが、その効果についてはどうやら否定的である。

     広く流布されている戦果としては昭和二〇年八月一日午後一時三〇分、上空を飛ぶB29の編隊に向かって発砲し、一発で二機を撃墜したというものである。(弾体の破片は半径三十メートルまで有効で、一万メートル上空で炸裂した時の黒煙は、後楽園の高射砲第一師団司令部からも観測できたほどであり、またその衝撃は半径六〇〇メートル以内の住宅に振動を与えた。)これには米軍も驚き久我山一帯を飛行禁止としたという。これは高射砲第一一二連隊大島知義中佐の回想に基づくものである。
     しかし、この戦果については米軍記録に該当するものが存在しないこと、一発の射撃で二機撃墜という戦果はきわめて考えにくく、神話に過ぎないとする意見もある。 日本の公刊戦史にも「その威力を十分に発揮するに至らずして終戦になった」と書かれている。 もともと第二次世界大戦時の高射砲は、危害半径と発射弾数による確率論的な効果で敵航空機の撃墜を狙うものであり、高速で移動する航空機に対して初弾から命中を期待することは不可能に近い。これは日本に限らず連合国でも同様である。近接信管をいち早く実用化した米軍でさえも、必中には程遠かったことが実戦記録から示されている。
     ただし、昭和二〇年八月二日のアメリカ陸軍315BWの一二八機(通常爆弾搭載)が川崎の三菱石油川崎製油所を空襲の際、久我山付近にて二機が撃墜(一部アメリカ側資料では高速戦闘機かロケット砲による攻撃とされている)されている、これはこの砲による戦果と見られるという説もある。(ウィキペディア「五式十五糎高射砲」より)

     「近くに中島飛行機があったからさ。米軍はそれを狙って来てたんだよ。」私は適当に合槌を打ってしまったが、こんなところに中島飛行機があったことも初耳だった。杉並区桃井三丁目が中島飛行機東京工場跡である。ここからだと北東に三キロほどの距離になる。

     その中島飛行機が東京進出第一号として創設したのが荻窪の東京工場である。一九二三年(大正十二年)の関東大震災で交通、通信機関が断絶し太田工場の生産ラインが停滞してしまう経験を受けて、東京進出を模索することになる。また陸海軍からの受注増加に応じるためエンジンの本格的生産が必要となっていた。一九二五年(大正一四年)十一月、敷地三千八百坪、建物五百五十坪、従業員八十名の中島飛行機東京工場が始動した。http://www.suginamigaku.org/content_disp.php?c=4c1717b4b0fd0

     それに久我山には岩崎通信機(現在の本社は杉並区久我山一丁目七番四一号)があってレーダーを作っていたから、軍事的には重要な地域だった。ただ、中島飛行機武蔵野製作所(現武蔵野中央公園)は十数回の爆撃を受けて廃墟となったが、この東京工場が空襲に遭った記録が見つからない。
     「すみだがわ 二二・五キロ  みなもと 二・〇キロ」もう少しだ。緑橋、みすぎ橋(三鷹市と杉並区をつなぐ意)。「あれは面白い。」石を組んで花壇のように葦を植えたものが、両岸から互い違いに川の中に造られている。この御蔭で水が蛇行するように流れるのだが、それが何故必要なのか、私には理解できていない。
     三鷹台駅。「立教女学院だ。」こんな所にあったのか。小中高と短大があるらしい。神田上水橋を過ぎて井の頭公園の敷地に入った。渓流のような景色になってきた。夕やけ橋。遊歩道は土になって川のすぐそばを通っている。所々、昨夜の雨の泥濘が残っているので、注意が必要だ。水はかなり汚れているのに、子供たちが水に入って何かを漁っている。手を伸ばせば水に触れることはできるが、汚いからやらない。
     トイレの傍で少し休憩する。公園の外には自動販売機が並んでいて、ここで本日三本目のお茶を補給する。
     「今日はちゃんとオセンベもってきたよ」とチロリンが出してくれる。「私もあるよ」とクルリンも煎餅をくれる。ようやく私の嗜好が周知徹底されてきて嬉しい。しかし、醤油味の利いた煎餅を食べるとまたお茶が欲しくなる。今日は少し疲れた。画伯もかなり疲れたような顔をしている。「暑かったからね。」オサムも草臥れた様子だ。電車を利用したのは正解だった。
     「珍しく名所旧跡のないコースでしたね。」「お寺がひとつもなかった。」「石仏もありませんでしたね。」神田川のコースで名所旧跡が辿れるのは江戸府内から精々中野辺りまでだろう。それより西は畑が広がっていたばかりと思われる。

     もうひと踏ん張りと歩き出せば、十分もしないうちに水門橋に着いてしまった。「もう着いちゃいましたね。」人工的なものだが、小さな橋の下には自然石を配置して、いかにも源流らしい風情を出す。水の勢いは意外に強く、飛沫を上げている。ここが神田川の始まりである。「アッ、そうだったの。じゃ、よく観察しなくちゃ。」簡単に通り過ぎようとしたマルちゃんが慌てて戻って来る。「そこも川じゃないんですか。」カズちゃんの疑問には、「そこは池、ここからが川です」と桃太郎が丁寧に説明する。「分かりました。」
     人ごみで賑わう園内を通り抜ける。「また大声の紙芝居のオジサンがいましたね。」現在の紙芝居は、スケッチブックの頁をめくりながら講釈するのである。アベックが真剣に聞いている。
     お茶の水に辿り着けば本日の行程は終わりだ。「家康がお茶を立てたんだよ。」講釈師の言葉に、「家康みたいなガサツな男がお茶をたてるなんて信じられない」とダンディはいつもの徳川嫌いを発揮する。しかし茶は戦国武将の重要な交際術のひとつだから、家康だって当然お茶を立てた筈だ。

    ・・・・相伝ふ、慶長十一年(一六〇六)大紳君(徳川家康)たまたまここに至らせたまひ、池水清冷にして味はひの完備なるを賞揚したまひ、御茶の水に汲ませる。(『江戸名所図会』)

     「どこから湧いてくるのかな」と画伯が不思議そうに言う。「伏流水だろうか。」ここは武蔵野台地、かつてはそこらじゅうから湧水が出たに違いないが、現在は水は湧いてこない。ポンプで循環させているのである。
     全行程が十四キロ程で、途中三キロ端折ったとすれば、十一キロを歩いたことになる。暑さの中では良く歩いた方ではなかろうか。私はすっかり日焼けしてしまった。
     野口雨情の詩碑は初めて気がついた。石に彫られたものは判読が難しいので、そばの立札を読む。

     鳴いてさわいで日の暮れごろは 葦に行々子(ヨシキリ)はなりゃせぬ
     これだけ見れば都々逸ですね。雨情が地元に頼まれて作った井の頭音頭の一節である。森義八郎作曲、榎本美佐江の歌で確認してみると第五連の歌詞であり、この後に「池に浮草浮いてはいるが いくら眺めても根はきれぬ」のルフランが続く。
     「雨情さんって、この辺に住んでたんですか。」姫が知らないことを私が知っている筈がない。確か雑司ヶ谷墓地の近くに住んでいたのではなかったかしら。「当時の人は頻繁に引っ越すから、あちこちに旧居跡がありますね。」
     雨情は茨城県多賀郡磯原町出身であり、大正十三年から二十年間、現在の吉祥寺北町一丁目に住み、朝夕この公園を散策していたと言う。雑司ヶ谷に住んでいたというのは私の記憶違いであった。記憶に混線があったのは、第八回で雑司ケ谷を歩いた時に「赤い鳥」を調べたせいかもしれない。

     「そこに行列のできる居酒屋みたいなのがありますよね。」「焼き鳥のいせやだろう。有名店らしいよ。一本八十円。」ここではないが、駅前の本店の方には先月入った。「美味かったですか。」大騒ぎする程とは思えない。こういう店が人気になって行列が絶えないというのは、私には実に不思議だ。その「いせや」公園店は建て替えのため休業中だった。

     「いせや」は一九二八(昭和三)年の創業。当初は精肉店だった。立ち飲みを中心とした焼き鳥屋に衣替えしたのは五八年のこと。安くてうまいと評判を呼び、「総本店」(同市御殿山一丁目)に続く二号店として六〇年四月、「公園店」が営業を始めた。
     一階にカウンター、二階に座敷の木造二階建て。間口二間ほどの小さな店内は増築を重ね、現在は約三百席に。焼き鳥一本八十円という価格は消費税が導入された八九年から変わらない。
     建て替えの理由について、いせやの清宮五郎社長は「老朽化が激しいうえ、昨年の東日本大震災もあり、タイミングだと思った」と説明する。井の頭公園に続く店舗前の七井橋通りを拡張するという市の計画もあり、決めた。
     現店舗を取り壊したうえで、現在地に地下一階地上二階建ての店舗を建設。現店舗の面影は残しつつ、公園側をガラス張りにした「小ぎれい」(清宮社長)な店を計画している。その間、吉祥寺駅北口側に仮店舗を設け、営業は継続する予定という。
     http://www.asahi.com/national/update/0515/TKY201205140692.html

     「ここは吉祥寺の原宿って呼ばれるんだ。」講釈師の声が聞こえる。七井橋通りと言うらしい。「年寄りが集団で歩く道じゃないよ。アベックで来なくちゃだめだ。」「講釈師は誰と来るんですか。」「いいじゃないか、誰でも。煩いな。」
     吉祥寺駅前でお茶組と別れ、反省会組七人はさくら水産に向かう。ダンディは今日も帰って行った。まだ本調子ではないのだろうか。「確かあっちだよね。」「そうだったかな。」花ちゃんに以前教えてもらった記憶は正しかった。さくら水産はJRの線路沿いの北側にある。
     三時半を過ぎた頃だが勿論店は開いている。案内されたのは奥の席だ。「あの時と同じ席ですね。」まず着替えなければならない。ビールを頼んで順番にトイレに向かう。ティーシャツとベストが水浸しのようになっている。ポロシャツに着替えると気持ちがよい。
     一人づつ着替えに行くから全員が揃わないうちにビールが来てしまった。「取り敢えず始めようぜ。」ぬるくなってはいけないからね。「まだ来てないじゃないの。」マリーが咎めるように言うが、いいのである。やがて全員が揃い、いつもように賑やかな反省会が二時間程続いた。
     最後に焼うどんが食べたかった姫を、「それはカラオケで注文しましょう」とチイさんが制して一次会は終わった。姫も道を思い出して、「こっちですよ」と先導し、カラオケ館に到着した。オサムも初めて参加して七時半過ぎまで。

    蜻蛉