文字サイズ

    第四十二回 本郷台地の神々・お側用人の栄華の跡・染井の花の下を巡る
    平成二十四年九月十五日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.09.24

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     旧暦七月二十九日。新暦九月も中旬だというのに日中は三十度を下回ることがなく、残暑は厳しい。それでも朝晩はやや涼しさを感じるようになってきた。暑さ寒さも彼岸までならば、あと一週間ほどで秋になってくれるだろうか。
     チイさんの付けたタイトルはこれまで最も長いものになった。テーマが三つもあるのである。コース案内の他に江戸時代の年表まで作ってくれたので、チイさんは江戸時代に関してはかなりの権威になったと思われる。但し「染井の花」はちょっと季節外れだ。
     秋葉原駅電気街口の改札口に出ると、もうチイさんが待機していた。「向こうで待ってます」の言葉で少し離れた所に行けば、既に本庄の夫妻、ダンディ、ドクトル、チロリン、スナフキンがいる。そして仲間は続々と集まってきて、どうやら久しぶりに大人数になりそうな気配だ。
     碁聖が元気な顔を見せてくれたのが嬉しい。それでも少し痩せたようだから無理はしないで欲しい。折角ロダンと碁聖が回復したと思ったら、それに代わって講釈師が骨折してしまう。仲間にとっては多事多難な年になったが、そもそも、あの年齢で野球をしてはいけないというのが全員の一致した意見だ。若い頃と同じようには体が動かないことを自覚しなければならない。「声帯は骨折してないんでしょうネ。」碁聖の一言は相変わらず切れ味が鋭い。宗匠も勉強が一段落したので久しぶりに顔を見せた。
     最近では珍しく二十人も集まった。リーダーのチイさん、画伯、宗匠、中将、小町、ロダン、桃太郎、碁聖、スナフキン、ダンディ、ドクトル、ヨッシー、あんみつ姫、チロリン、クルリン、シノッチ、ハイジ、マリー、マルちゃん、蜻蛉である。画伯はシノッチが来てくれたので嬉しい。
     ここでチイさんが配ってくれた地図には、AKB48のメンバー十六人の集合写真を印刷し、更に何かから切り取った一人の写真が貼られていた。これではメールに添付できないのも無理はない。私は前田敦子という名前を聞いたことがあるだけで顔は知らないし、他にどんなメンバーがいるかも知らないから、貼り付けられた娘の名前も皆目見当がつかない。(翌日、妻に訊いてみたが妻も知らなかった。)「アレッ、みんな顔が違うんじゃないか。」「どれどれ。」確かに、それぞれに配られたものは、ひとりひとり違う娘の顔だ。「手が込んでるな。」チイさんは図画工作の得意な人である。
     「どういう連中ですか。」ダンディが名前も聞いたことがないというのが不思議だ。「関心ありませんからね。」関心はなくても、ちょっとテレビを付ければ毎日のように名前や映像は登場している。電車の中吊り広告でもそうである。私だって関心はないが、「総選挙」とか「ジャンケン大会」なんていう現象を耳にしたことがある。勿論、完璧に知っているのは講釈師だけだとは思うけれど。
     あんみつ姫は指折り数えて六人の名前を知っていると自慢し、「俺のは誰だい」というスナフキンに、カシワギユキコだと教えている。「彼女はメジャーな方です。」「じゃ、当たりか。」柏木由紀子なら九ちゃんの奥さんの名前ではないか。「字が違うんです。」念のために調べてみると、AKBの方は柏木由紀であり、「子」がつかない。私たちの知識の程度はこんなものである。宗匠は、自分の貰ったものが大島優子で「当たり」と喜んでいるから、この中では知識のある方だ。
     AKBとはアキバの意味らしいが、「アッカンベー」と読みたいくらいだ。ダンディはやっと正しく「アキバ」になったと喜んでいる。「アキハバラなんて、実にいい加減な呼び方でしたからね。」アキハバラの呼称は旧国鉄の無学のせいである。アキバガハラ、あるいはアキバハラと昔風に言ってみようか。
     江戸歩きの冒頭でこんな話をしなければならないのは、秋葉原がこういうものに代表される街に変わってしまったからだ。すぐ目の前にはAKB48の名を冠したカフェもある。
     「昔は青果市場があった。」「あれはどこに移ったんでしょうか。」「蒲田でしょう。」昔を知っている人はこんなことを覚えていた。平成元年五月に、駅前にあった青果市場は大田市場に移転したのである。それならつい最近のことではないかと、二十年以上も前のことをそう感じるのは、私の年齢のせいだ。
     「ガキの頃にはよく来たんだけどな」と言うスナフキンは、ジャンク品を買いに来ていたのだろうか。ガキと言っても高校生の頃だろう。部品を買ってラジオなんかを組み立てていたのかもしれない。つまり秋葉原は青果物の商人や電気・電子部品を買い求めるプロ集団が集まる街だったのである。
     古老になった気分で神田明神に向かおう。私たちの目的は江戸歩きである。最初にチイさんのテーマの一つ、本郷台地について確認しておきたい。

    東京西部から続く武蔵野台地の東縁部に位置し、東京湾に続く低地にいくつかの台地と谷により形成されている。
    武蔵野台地の東縁部は『豊島台地』と呼ばれているが、さらにその先を『本郷台地』、『白山台地』、『小石川台地』、『小日向台地』、『目白台地(関口台地)』と呼び、指を広げたように台地と谷を形成している。
    本郷台地の東側は、不忍池をはさんで『上野台地(上野のお山・・・西郷さんの銅像がある上野公園)』となる。(東京の坂と橋・四方山話http://kotarobs.blog.so-net.ne.jp/2009-01-02

     文京区を構成するいくつかの台地の中で、本郷台地はお茶の水、神田から、湯島を通って東大キャンパスをひっくるめた地域と思えばよいだろう。

     綿菓子と見まがう程の雲のみね   午角

     中央通りを渡り、明神下の交差点を過ぎれば湯島聖堂の塀が現れ、神田明神の鳥居が見えてきた。千代田区外神田二丁目十六番二号。本郷台地の東のはずれに位置する。明治維新以後、神田神社となって鳥居の額にもそう記されているが、誰もそんな風には呼ばない。銭形平次が「神田神社下」の長屋に住んでいたなんておかしな言い方はしないからネ。
     「そこの甘酒屋で甘酒を飲みましたよね。」天野屋である。神田明神に来たら甘酒を飲むのが掟だと講釈師が言い張り、誰もその言葉に逆らえなかった。「俺は甘酒は苦手だな。」あの頃、スナフキンはまだメンバーに入っていなかった。
     神田明神の祭神は大己貴命、少彦名命、平将門である。天平二年(七三〇)、出雲系の移住者が大己貴命(オオクニヌシ)を柴崎村(大手町)に祀ったのが始めとされている。伊勢神宮の御田(みた)、つまり神田があり、その鎮めのために神田の宮と呼ばれたのである。しかし最も重要なのは言わずと知れた平将門である。
     承平五年(九三五)、将門の首を京都から持ち帰った者がいて、神田の宮の近くに葬った。伝説では首が飛んできた。これが将門塚(首塚)である。延慶二年(一三〇九)には、将門の怨霊を鎮めるため天台宗日輪寺を時宗柴崎道場に改宗し、神田明神の別当として将門信仰を伝承した。関東武士団の中で、将門に対する信仰が根強かったとみるべきだろう。怨霊に対する怖れとともに、京都へ反逆した英雄としての崇拝の面もあったに違いない。
     江戸城の増築に伴って慶長八年には神田台へ、更に元和二年に現在地に移転し、江戸時代を通じて江戸の総鎮守として尊崇された。しかし明治七年、明治天皇巡幸に当たって将門は逆臣であると祭神から外され、大洗磯前神社から少彦名が勧請された。これはオオクニヌシとの関係によるのだろう。将門が本社祭神に復活するのは昭和五十九年(一九八四)のことであった。
     社殿の前には赤い絨毯が敷かれている。「アカデミー賞を貰った気分になるね。」「ダメですよ、結婚式用ですから踏んじゃいけません」とロダンから注意が入る。本殿では結婚式の最中であった。「参列者は留袖着てますね。」「面倒なんだよね。」姫と小町がそんなことを話している。「静かにしましょう」とチイさんも声をかける。今日は講釈師がいないから大丈夫だ。

     講釈のない江戸歩き静かなり 午角

     さっき鳥居を潜るときに、「国学発祥碑」があると案内されていたのを思い出し、一人離れて社殿の東側に回ってみた。銭形平次の碑があるのは知っている。その隣に「国学発祥之地」碑が立っていたのに、前に来た時に気付かなかったのは関心が薄いためである。

    国学発祥の地の碑 今東光撰文
     荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真淵もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に至れり然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽痺し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真淵 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺蹟に記して以て国学の為に伝ふ

     荷田東丸は、普通には荷田春満と書く。弟子に賀茂真淵がいる。その弟子に本居宣長、そしてその弟子に平田篤胤と続いて国学の四大人(うし)と呼ばれる。私は国学というやつがどうにも分からない。元々は契沖による万葉の実証的な研究から始まった筈なのに、篤胤流に至って荒唐無稽な神学に陥ってしまうのは、記紀を疑うべくもない大前提とした姿勢のためではないか。
     その隣には句碑が立っている。

      山茶花の散るや己の影の中  阿部筲人

     この人物を全く知らなかった。阿部筲人(しょうじん)は明治三十三年に生まれ昭和四十三年に没した。句誌「好日」を主催したひとで、この句は筲人の代表作ということである。
     やがて皆が集まってきた。目当てはもちろん銭形平次であって、国学発祥なんて誰も関心がない。「小説のひとだよね」とチロリンが自信なさそうに訊いてくる。もっと自信を持ってよい。野村胡堂が昭和六年、「文藝春秋オール読み物号」に「金色の処女」を発表したのが平次の誕生で、昭和三十二年までの間に三百八十三編生み出された。胡堂は盛岡中学で金田一京助と同級で、下級生の啄木に俳句や短歌の手ほどきをしたと言われている。
     「大川博は東映、永田雅一は大映だね。」建立発起人一覧の中にこの名前を見つけて小町が言う。参考までにあげておこうか。文藝春秋・池島信平、中央公論社・嶋中鵬二、講談社・野間省一、桃源社・矢貴東司、春陽堂・和田欣之介、大映・永田雅一、東映・大川博、長谷川一夫、大川橋蔵、フジテレビ、関西テレビ、土師清二、川口松太郎、山手樹一郎、山岡荘八、村上元三、角田喜久雄、城昌幸、志村立美、銀座銭形、神田のれん会。
     小町によれば、高嶺秀子の自伝的エッセイに池島信平がよく登場する。高嶺秀子の周りには映画人ばかりでなく、作家編集者が綺羅星のごとく集まった。そして最も信頼された数人の中の一人が池島であった。池島は「文藝春秋」編集長であり、昭和の名編集者のひとりでもある。佐佐木茂索の跡を継いで、第三代文藝春秋社長を務めた。
     ここに登場する作家は「日本作家クラブ」の面々である。この名称からすると日本の小説家全てのクラブのように思われてしまうが、前身は「捕物作家クラブ」である。昭和二十二年、探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)が結成された際、木々高太郎の反対にあって参加できなかった捕物帳作家が集り、胡堂を会長にして結成した会である。つまり捕物帳作家は差別されていたのだ。しかし、木々高太郎の推理小説が現在どれほど読まれているだろう。少なくとも知名度において半七や平次より遥かに下にあることは間違いないだろう。
     「映画の頃は知らないわ。」私だってハイジと同様である。「エーッ、知らないの」とダンディがびっくりしたように言うが、長谷川一夫の平次を観ている人は、小町より年上のひとたちだろう。私たちが知っているのは大川橋蔵が主演したテレビドラマである。昭和四十一年から五十九年まで長く続き、舟木一夫が主題歌を歌った。「そうよね、知ってるわ。」ハイジは私と同世代だから知っているのは当たり前だ。
     「銭高組の看板から思いついたんですよね。」姫はこんなことを良く知っている。野村胡堂が構想中に建築現場で銭高組の看板を観て、銭形の名を思いついたと言われている。子供の頃の私たちは、銭を拾い集めるのは大変だ、八五郎はそのためにいるのではないかと馬鹿なことを考えていた。
     新妻恋坂に出ると「旧妻恋町」の立て札があった。「こういうのは本字で書いてもらわないといけない。」こういうことを言うのはダンディだ「戀、イトシイトシトイウココロ」である。「ヘンスイ、ヘンスイ新子様ですよ」とダンディは笑う。そこに「この町名はどういう意味ですか」と桃太郎が尋ねてくる。桃太郎だって行ったことがある筈だが、妻恋稲荷に由来すると言っておこう。姫が好きな神社である。
     オトタチバナが走り水の海に身を投げた後、ヤマトタケルはこの地でオトタチバナを偲んだ。小さいながら稲荷の関東惣司を名乗る。但し関東の稲荷をどこが束ねたかについては王子稲荷と本家本元を争う。そこに寄るのかと思っていると、チイさんは見向きもせずに清水坂を上っていく。これも本郷台地の神ではあるのだが。
     「イテテ。」振り向くとロダンが歩道脇のポールに頭をぶつけていた。「愛妻のことを考えて歩いてたんでしょう。」「妻恋で思い出したのよね。寄りたかったんじゃないの。」姫やハイジの言葉に、ロダンはただ「恥ずかしい」と頭を押さえるのみだ。実際に愛妻あるいは恐妻のことを考えていたに違いない。

     妻戀へば柱も見えぬ残暑かな  蜻蛉

     「あっ、不思議な看板が。緬羊ですよ」と姫が声をあげた。この下町に緬羊は確かに不思議だ。「面妖ですね」と姫はダジャレも忘れない。「緬羊会館」の看板が取り付けられた三階建ての小さなビルである。正面を見ると「畜産技術協会」の看板が掲げられている。調べてみると畜産技術連盟を中心に統合を繰り返してきた組織で、吸収されたのは馬事技術協会、日本緬羊協会、全日本初生雛鑑別協会である。設立目的は「畜産に関する技術の向上発達、国際協力及び国際交流の増進、緬羊及び山羊の改良増殖の促進並びに技術者、団体相互の連絡等を図る」ことだ。
     右側が坂になって随分高低差があるのを見ると、この辺はやはり台地だと気づく。急な石段が下る坂には「実盛坂」の案内が立っていた。勿論、斎藤別当実盛のことなのだが、何故こんなところにその名があるのか。「また嘘ばっかりって言わないで下さいネ。」姫は三田の綱坂(渡辺綱との関連)のことを思いだして、そんなことを言う。しかし、ここが実盛と関係があるとは思えない。

    『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。

     しかし長井庄は埼玉県大里郡妻沼にあり、妻沼の聖天境内に実盛の像が建っている。そもそも、こんなところで実盛の首を洗う筈もない。この説明看板にも、「実盛の心意気にうたれた土地の人々が実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。」とあるから、信じてはいないのである。

    落ち行く勢の中に、武蔵の国の住人、長井の斎藤別当実盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に、萌黄おどしの鎧着て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持って連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗たりけるが、御方の勢は落ち行けども、ただ一騎、返し合わせて防ぎ戦ふ。(『平家物語』)

     「白髪を染めたんですね。」木曽義仲軍に攻め立てられて平家は総崩れとなった。その中でただひとり、戦い続ける武者がいた。そして義仲軍からは手塚光盛が進み出る。

    木曽殿の方より、手塚太郎進み出でて、「あなやさし、いかなる人にて渡らせ給へば、御方の御勢は皆落ち行き候ふに、ただ一騎残らせ給ひたるこそ優に覚へ候へ。名のらせ給へ」と詞をかけければ、「先づ、かう云ふわ殿こそ」。「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名のったれ。

     手塚に討たれた実盛の首を見て、義仲は実盛に相違ないとは思うものの、髪が真黒であることが不審であった。試みに洗わせてみると白髪が現れた。

    昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ。

     そうするうちに湯島天神に到着した。梅の時期には身動きできないほどの人がいるのに、この時期は閑散としている。修学旅行らしい中学生の二十人ほどの集団が目立つだけだ。班に分かれて都内各地に散らばっているのだろう。

     湯島天神は雄略天皇二年(四五八)一月勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(一三五五)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明十年(一四七八)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(一五九〇)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。(縁起)

     「縁起」ではこうなっているが、タヂカラオの件は余り信じなくても良いかも知れない。雄略天皇の頃に、この東国に勅命をもって神を祀るなんてことがあったとは到底思えない。ただ、行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)と読んで雄略に比定するなら、その権力が東国に及んでいたことも考えられるから、一方的に私の言うことを信じてはいけない。
     涎掛けを何枚も首にかけられた臥牛を前にして、ハイジと画伯が不思議そうな顔をしている。「この牛はどうしているの。」臥牛はここだけでなく、天神様ならあちこちで見ている筈だが。「道真のお伴をしたんだよ。」しかし画伯もハイジも余り納得した風ではない。

     天神の牛も寝そべる残暑なり 午角

     私の説明を疑わしそうに聞いていた宗匠は、一人社務所に行って確認している。「どうだった。」「天神様のお連れということだけ。」それではウィキペディアから引用してみよう。

    菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。(天神信仰と牛))

     「『湯島の白梅』を小畑実で初めて知りました。いい歌ですよね。」今頃そんなことを言うのは姫にしては迂闊ではあるまいか。「湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気。」「知るや白梅 玉垣に のところが難しくて。」実は湯島境内の場面は原作にはない。新派の舞台に載せたときに創作されたものだ。
     「お蔦と主税ってどういう人ですか。」桃太郎も案外なことを訊いてくる。もはや国民的常識からは外れてしまったのか。「早瀬主税はもともと掏りだった。ドイツ文学者の酒井先生に拾われて、今や新進の学者の卵。お蔦は芸者。酒井先生に反対されたんだ。」
     鏡花自身が芸者桃太郎との仲を紅葉に反対されていた。紅葉に折檻を受けて、師の生存中は同棲していることを隠し通し、紅葉が死んでかなり後に漸く桃太郎(伊藤すず)を正式に入籍するのである。
     ところで、『婦系図』は後半になっておかしな風に展開する。お蔦と別れた後、ある事件があって学界から追放された主税は、酒井先生の娘に横恋慕した河野英吉を執拗に付け狙い、河野財閥を破滅にまで追い込んでいく。この復讐に賭ける主税の執念が余りにも唐突で狂気じみているし、財閥婦人を色仕掛けで籠絡する手口も卑劣陰惨である。何故そこまでする必要があるのかさっぱり分からない。前半までの性格とまるで違ってしまうのである。
     ドクトルは「新派」碑を真剣に見詰めている。

    新派碑 この「新派」の記念碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和五十二年(一九七七)十一月一日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。
                 新派の始まりは明治二十一年(一八八八)十二月自由党壮司角藤定憲が同志を集め大阪の新町庄で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。風雪はげしい九十年ではありましたが、今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの苦労を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。
    そして新橋演舞場の改築にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当天神様のご境内に移させていただいたものです。(略)

     この記事では(そして一般にも)角藤定憲をもって新派の祖としているが、大流行させたのは明治二十四年三月に堺で旗揚げした川上音二郎である。新派も演歌も、自由民権運動から生まれてきたことは知っておいて良いだろう。新派は、旧派つまり歌舞伎に対する新興演劇運動であった。鏡花の筆塚もある。都々逸碑もある。

    都々逸は日本語の優雅さ言葉の綾言回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六字(七・七・七・五)で綴る大衆の詩である古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及しわれわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する
    平成二十年(二〇〇八)十二月吉日 世話人谷口安閑坊 吉住義之助

     「短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り・・・・」とあるが、現代でその伝統を維持するだけでも大変だろう。最も有名なのは、高杉晋作の作とされる「三千世界の鴉を殺しぬしと添い寝がしてみたい」だろうか。ダンチョネ節も入るか。私の好きなのは、「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」である。
     合格祈願の絵馬が大量に掲げられている。「孫がさ、目指せ国立って書いてぶら下げてるのよ。」マルちゃんが言う。「エライって思ったんだけどさ。国立競技場だって言うの。呆れちゃったわよ。」「皆さん御参りはしないんですか。」「今更学問の神様にネエ。」そこに「勉強は一生よ」と小町が断言したので笑いがおこる。その通りだ。

     絵馬に夢のせることなき残暑かな  閑舟

     「スポーツに御利益のある神様っていないのか。」それはないだろうね。剣術なら鹿島神宮、香取神宮、相撲なら富岡八幡か野見宿禰神社か。しかしこれは御利益を願うというより、誓いを立てるのだろう。「スポーツ全般に効くっていうのがあってもいいじゃないか。」そんなものはないと私は断言したが、無学な故であった。現代日本には何でもあった。スナフキンと同じ発想をして金儲けに励む神社がある。

     古来より日本には八百万神と呼ばれるように、たくさんの神様がいらっしゃり、それぞれに御神徳がおありになります。
     古事記の中では、天手力男命が、天岩戸にお隠れになった天照大神(あまてらすおおみかみ)を、その力で一気に岩戸を開け放ちてお出しし、二度とお入りになれぬよう、岩戸を天上より下界に投げ捨てた怪力の神とされており、現在ではスポーツの守護神として信仰されています。長野県の戸隠神社には、その怪力を伝える伝承もあるようです。
     日本書紀には、怪力同士の野見宿禰と当麻蹶速の対決の話しがあり、相撲の原点と見なされるこの対決に勝った野見宿禰は、相撲の神とされています。
     京都の白峯神社には、蹴鞠の神としての精大明神がお祀りされています。現在ではボールを使うスポーツ全般の神として、特にサッカーの守護神としてサポーターから絶大な人気を得ているようです。http://ak8mans.com/supo-tu.html

     サッカーの神様がいるなんて、私は全く知らなかった。それならマルちゃんの孫は白峯神宮にお参りした方が良い。しかし白峯神宮は慶応四年(一八六八)、日本最大の怨霊である崇徳院の霊を、讃岐の白峯陵から遷して祀った神社である。命じたのは孝明天皇で、実行したのは明治天皇だ。孝明天皇は幕末のこの国の混乱の原因は崇徳院の御霊によるものと思ったのである。話は逸れてしまうが、「雨月物語・白峯」から、西行が出会った崇徳院の霊の姿を引いてみる。

    西行いふ。君かくまで魔界の惡業につながれて。佛土に億萬里を隔玉へばふたたびいはじとて。只默してむかひ居たりける。時に峯谷ゆすり動きて。風叢林を倒すがごとく。沙石を空に卷上る。見る見る一段の陰火君が膝の下より燃上りて。山も谷も晝のごとくあきらかなり。光の中につらつら御景色を見たてまつるに。朱をそゝぎたる竜顏に。荊の髮膝にかゝるまで亂れ。白眼を吊あげ。熱き嘘をくるしげにつがせ玉ふ。御衣は柿色のいたうすゝびたるに。手足の爪は獸のごろく生のびて。さながら魔王の形あさましくもおそろし。

     それがなぜ蹴鞠と関係するかと言えば、白峯神宮は蹴鞠の宗家である飛鳥井氏の別邸跡地に建てられたからだ。飛鳥井氏は平安時代から邸内に精大明神を祀っていたのである。精大明神にしてみれば、自分の方が昔からここに居座っているのだと言いたいかも知れない。

     池之端から旧岩崎邸庭園の横を過ぎ、不忍通りの一本西側の細い道を東大の塀に沿って歩く。池之端門の辺りに境稲荷神社があり、弁慶鏡ケ井戸の説明が建っていた。台東区池之端 一丁目六番三号。義経一行が奥州へ向かうとき、弁慶が見つけて一行の渇きを潤したと伝える。しかし京都を追われて北陸を経由して(安宅の関は加賀である)出羽に向かうのだから、義経がこの辺りを通ることはない筈だ。

    境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸
     境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(一四六九 〜一四八六)に室町幕府第九代足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端一、二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
     社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和一五年に再び掘り出し、とくに昭和二〇年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。
     平成六年三月     台東区教育委員会

     覚性寺と東淵寺の間の道を曲がると、大正寺(日蓮宗)の前に川路聖謨墓の説明板を見つけた。台東区池之端二丁目一番二十一号。川路聖謨は幕末に輩出した有能な幕府官僚の一人である。豊後国日田代官所の家臣の子として生まれ、勘定奉行所支配勘定出役という下級の幕吏として出発し、奈良奉行、大阪東町奉行、江戸町奉行、勘定奉行を歴任した。
     海岸防御御用掛に任命され、ロシア使節プチャーチンとの間で粘り強く交渉を進め、嘉永七年の日露和親条約の締結にこぎつける。プチャーチンに随行したゴンチヤロフの『日本渡航記』では、川路をこのように評価している。

    川路は非常に聡明であつた。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法をもつて、その知力を示すのであつたが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかつた。その一語一語が、眼差の一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウイツトと、燗敏と、練達を示してゐた。

     しかし安政の大獄によって蟄居を命じられたことで彼の実質上のキャリアは終わる。江戸開城を知って拳銃で自殺した。六十七歳であった。
     「左と右って、右の方が偉いんですか。」また桃太郎が不思議な質問をする。「そんなことはないだろう」とスナフキンが答え、私も「左大臣、右大臣と言えば左大臣が上だからね」と答える。「そうなんですけど、さっきの川路聖謨の説明に左遷されたって書いてあったんですよ。」左遷ネエ。そんなことは考えたこともなかった。
     「敢えて左って言ったんじゃないかな。可哀想だから」というのがスナフキンの第一感である。果たしてどうだろうか。調べてみると、「昔の中国では右を尊び左を卑しんだ」(デジタル大辞林)らしい。「昔」というのは、戦国・秦・漢時代である。それならば、左遷は文字通り理解できる。
     因みに、左大臣が右大臣より上に位置するのは、天子南面すれば、天子から見て左は東(日が昇る方角)に当たるからである。
     斜向かいの正慶寺には北村季吟墓の案内が立っている。台東区池之端二丁目四番二十二号。季吟その人よりも。弟子に芭蕉や素堂を出したことで功績がある。特に立ち寄る必要はなさそうだ。
     今度は「渡辺綱」・「槍の半蔵」由縁の寺という看板を立てた寺が現れた。忠綱寺。台東区池之端二丁目五番四十三号。「また渡辺の綱ですか。三田の綱坂と同じで、これも眉唾だったりしてね。」私もよく確認せぬままいい加減なものに違いないと思ったが、ちゃんと説明を読んでから感想を言うべきだった。
     「槍の半蔵」渡辺半蔵守綱は徳川十六神将のひとりである。渡辺綱の裔と称したが、これは疑っても良いかも知れない。半蔵の死後、孫の吉綱が兄の忠綱の菩提を弔うために神田台に渡邉院忠綱寺を建立したのに始まり、その後現在地に移転したとされる。こういう関係を「渡辺綱」・「槍の半蔵」「由縁」と言うのだろうか。やや誇大ではあるまいか。
     こんなことをしていてはキリがない。この辺の寺を巡れば、何かしら歴史に名を留めるものとの近縁が出てくるだろう。

     言問い通りを渡って、ほぼ道なりに行くと根津権現に出る。今日、明日と例大祭神賑行事に当たっているため、境内には露店がビッシリと並んでいる。鳥居の前でチイさんから一言案内がある。「祭りが始まるのは午後ですから、まだそれほど混んでいる訳ではありません。自由に見学して向こうの門で集合しましょう。」
     「かき氷が食べたい。」食べれば良いではないか。「だって子供が並んでいるんだもの。時間がかかる。」「もう一軒あるよ。」「いいです。」
     子のできない綱吉は、兄綱重の子の綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎと決めていた。千駄木村にあった権現を甲府宰相根津屋敷(現在地)に移し、宝永三年(一七〇六)に社殿を建立した。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている。
     「ここは花で有名ですよね。」「躑躅だよ。」「私は入園料を二回も払ってしまったことがあります。」姫は不思議なことを言う。私は下から眺めるだけだったから入園料なんか払ったことがない。「私もないな」とダンディも言う。「入園料払って歩いていたら、またあったんですよ。別の場所かと思って支払ったら、同じところでした。」
     西門を出ると、山の上には乙女稲荷が建っている。チイさんは寄る積りはないが、「乙女だけで行きましょうか」と昔の乙女たちが階段を上り始めたので、私もついて行った。宗匠も乙女が好きだから後を追ってきた。私は「昔の乙女」と言ったが、画伯は「もと乙女」と言う。印象はどちらが良いだろうか。

     願かける乙女神社にもと乙女 午角

     土手に、石垣に使うような大きな割り石が積み重ねられているのが、六代将軍家宣胞衣塚である。さっき下でドクトルが案内看板を見て首を捻っていたのだから、一緒に来ればよかった。胞衣は、民俗的には屋敷内の隅に埋める例が多いが、こうして塚を築いて埋めるものもある。
     家宣は将軍位につくと柳沢吉保を更迭し、間部栓房と新井白石を登用した。また荻原重秀に命じて財政改革を試みる。
     かつて荻原重秀の貨幣改鋳は、金銀貨の品質を低下させ無から有を生じる悪魔の政策のように言われていたが、最近ではむしろ緩やかなインフレ政策が好景気を招いたとみなされている。更にそれまで、貨幣は金や銀と同価値であると誰も疑わなかったが、政府が保証するのであれば、金と同価値である必要はない。つまり現在の信用貨幣に通じる先見性を持っていたのだった。そもそも幕府の財政悪化の大きな原因は綱吉の生母桂昌院の乱費にあった。
     間部栓房は猿楽師喜多七太夫の弟子であったが、側用人として老中に次ぐ地位に上った。芸能出身者がこれほどの地位に上るのは前代未聞のことである。新井白石は親子二代の浪人であった。荻原重秀も二百俵の旗本の子として生まれて勘定奉行に上り詰める。江戸時代全般が固定化した身分制度の時代だったのではないことが、これらの例でも明らかに分かる。人材を登用し幕政を改革しようとした家宣は、しかし在職わずか三年で死ぬ。
     その跡は家宣の実子である四歳の家継が継ぎ、正徳の治を継続したが僅か四年で亡くなり、政権は吉宗へ移っていくのである。吉宗は間部栓房、新井白石を罷免し側用人政治を廃止した。
     乙女稲荷の祭神は倉稲魂命であり、稲荷として特に珍しいものではない。しかし何故「乙女」なのかは不明だ。典拠は記されていないが、洞の中に深い穴があるからだという説がネットに載っている。深い穴は女性器の象徴である。いくつ並んでいるか分からないが、並ぶ赤い鳥居は背が低い。頭をぶつけそうで、猫背になって歩かなければならない。そこを過ぎれば、下を行っていたリーダーたちと合流する。

     「ここから一キロほどで東洋大学です。二十分でしょうかね。そこでお昼にします。」裏門坂に出ると神輿が練り歩いている。日本医科大学の前を通り、坊っちゃん通り商栄会から本郷通りに入る。
     京北学園白山高校は工事中だったが、ここが東洋大に附属だとは知らなかった。去年、学校法人東洋大学に合併したばかりだ。東洋大学の正門を入るとすぐに井上円了の銅像が建っていた。今日はオープンキャンパスの日で、構内には高校生が大勢歩いている。父兄らしい姿も見える。東洋大学のオープンキャンパスともなると、城西大学とは規模が違う。
     「今十二時半ですから、一時半にここに集合してください。ここが井上円了記念博物館になっていますから、食事が終わった方は自由に見学してください。」チイさんの声で六号館に入り、地下に降りる。この時間では食券売り場の前には既に学生が大勢並んでいる。
     店がいくつも分散しているようだが勝手が分からないので、一番近くて行列の少ない食券販売機の前に並んでみた。A定食とB定食のいずれも五百円である。隣の食券販売機の前に張り出してあるメニューは五六種類ある。選択を間違えたか。
     Bの石焼きビビンバは食えないから、Aのスタミナ焼き肉にする。スナフキン、ハイジも同じものを選んだ。はっきり言えば失敗だった。
     今から知っても後の祭りではあるが、各店の内容を確認しておくと、こんな具合だ。
     CURRY MANTRAは、本格インドカレーの店である。釜で焼く焼きたてナンと自家製ラッシーが自慢だが、これは私が苦手なものである。Deli&CAFEはサラダと本格料理が楽しめるカフェであり、おすすめメニューはチキンの鉄板焼き照り焼きクリームソース。
     Ciao!A Domaniはパスタ屋だから私には関係がない。「素材から丹念に仕込んだパスタソースから全て手作り」というのが売りである。 東京食堂ORIENTAL KITCHENはオムライスと多彩なメニューとボリュームが自慢の洋食屋。とろとろ半熟オムライスがお薦めだ。オムライスも私が食べるものではない。
     ら~めん西海は、あごだしとんこつを使った長崎ら~めん店である。チャーハンとのセットで五百円。これが良かったかもしれないが、何しろラーメン屋は最も人が並ぶところである。結(MUSUBI)はお握りとうどんのセットを勧めている。学食に来てわざわざお握りというのもネ。
     そして私、スナフキン、ハイジが選んだのが鉄鍋屋TOKYO KITCHENである。鉄鍋を使った新感覚あつあつ鉄鍋ごはん専門店で、おすすめが鍋焼きビビンバごはんとなっている。どの店のメニューも一律五百円だ。
     あいているテーブルを探していると、姫とマリーが席についたので、そこにする。彼女たちはハンバーグにトマトソースを掛けた定食を選んでいた。ダンディやロダンや小町は予め別の場所に荷物を置いていたらしい。こちらの顔を見ながらすぐに離れて行ってしまった。
     「味がないの。お塩が欲しい。」トマトソースは殆どトマトそのままの味だったらしい。そもそもトマトソースが苦手な姫が何故、嫌いなものを選んだのか。勝手が分からず、しかも混みあっていると、ゆっくり選択している余裕がないのは私も同じだ。
     焼き肉はやたらに脂っこい。しかもキムチが大量に載せてある。私がキムチを食わないことは知っていて欲しいが、これも自分で選んでしまったのだから仕方がない。スナフキンも「鉄鍋が熱くて食いにくし、覚めると不味そうだし。これじゃ全部は食えないよ」と顔を顰める。ハイジはどうだっただろう。ここは私が入りたい学食ではない。私は普通の定食が食いたかった。但し、スナフキン、姫、私は選択が悪かったのかも知れず、他の人はみな満足していたようであった。
     「東大の学食が一番好きです」と姫も言う。私も東大で食ったような、普通のトンカツとかコロッケとか焼き魚の定食が好きだ。城西大学の四百五十円の定食が私にはあっているようだ。味は不味いし品数も少なく、夏の盛りだというのに熱々の豚汁に白身魚のフライなんかをつける。創意工夫というものの全く感じられない食堂だけれど。
     すぐそばでは、オープンキャンパスのための生演奏が喧しい。トランペットは肺活量不足のせいで音が伸びていない。「折角ソロを吹いてるのに、余り上手くないな」とスナフキンが批評する。食べ終わってからスナフキンは来月大山登山の計画を広げて説明しようとするのだが、その音量の中では聞き取りにくいので、途中で諦めた。
     早々に切り上げて円了記念博物館に入る。平成十七年(二〇〇五)四月に設置された博物館だ。しかし、記念博物館という割に展示品は大したことがない。円了ならもっと他に展示すべきものがあるのではないか。「哲学堂の方にあるんじゃないかな。」そうかも知れない。企画に困ったのか、マンガや雑誌類を並べてある。「アラーの使者」なんて冊子もあるから驚いてしまう。「苦し紛れだよな。」

    東洋大学アジア文化研究所 企画展「日本人のイスラーム世界像」
    主催:東洋大学アジア文化研究所
    共催:日本中東学会
    書籍・マンガ・音楽などの資料を通して、日本や欧米などでイメージされてきたイスラーム世界像について紹介します。あわせて、イスラーム地域において実際に使用されている生活用品等を展示することで、現実のイスラーム世界と日本などでイメージされてきたイスラーム世界像との関連性・乖離性について検証します。(特別展のおしらせ)

     缶入りのお茶やジュースがサービスされた。オープンキャンパス来校者のためのものだろうから、私とスナフキンは一瞬躊躇したが、桃太郎が遠慮もなしに貰っているので追随する。「あれ欲しい」と小町が言うのは、オープンキャンパス参加者に配られるバッグだ。「あの横縞がいいよ。」私は貰う勇気はない。
     それより魔法瓶に入れてきたお茶がなくなったので補充しなければならないのだが、自動販売機が見当たらない。スナフキンも同じことを考えていたようで、「向こうに生協があるんだよ」と歩きだした。こういう時、かつて東京営業本部大学第一営業部長として都内の大学を知り尽くしている人間がいると心強い。
     四号館に入ると生協があった。「こんなものかい。」大学の規模に比べて余りにも貧弱な生協だった。書籍の棚は三本ほど、文具が並べてある棚の後ろには菓子類が少し、そして余り冷えていないペットボトルが置いてあるだけだ。「前はもっと広かったよ。分散していた学部を集めたから部屋がなくなってきたんじゃないかな。」
     取り敢えず百円のペットボトルを買って戻るともう皆は集まっていた。「東洋大学って駅伝で優勝したんですか。」ロダンがとんでもない質問をするのは、笑いを取るためのギャグだったろうか。「柏原じゃないか。」「そうか、そうでしたね。」「やっぱりロダンだ。」気がつくと、中将、小町、ヨッシーがさっきのバッグを手にしている。「孫が受験するからって言ったの。」

     本郷通りの手前を左に曲がって少し行くと、かなり大きな建物が見えてきた。これは何だろう。「地下にピーコックがあります」と地元の住民ヨッシーが教えてくれる。「科研の跡地ですよ」と言うのはチイさんだ。私はそれが分かっていないので、ウィキペディアで確認する。

     文京グリーンコートとは、東京都文京区にある、一棟の高層オフィスビル、二棟の高層住宅、商業ビル、フィットネス施設などからなる複合施設である。旧理化学研究所・科研製薬工場の跡地に建てられており、センターオフィス棟には現在も科研製薬の本社、関連会社、労働組合が入居している。管理は大星ビル管理が行っている。

     姫は資料をコピーするためにコンビニに入って行った。待っている間に日陰に入れば、時折風が吹き抜けて汗が一瞬引く。「ビル風でしょうか。」出発しようとするとき、ヨッシーから棒アイスが差し入れられた。有難いことであると全員が喜ぶ。しかし私は戴けない。
     皆、歩きながら食べている。子供の頃、物を食いながら歩いてはいけないと教えられなかったか。
     不忍通りに出ると日本医師会の建物がある。駒込署前で通りを渡って右に曲がればもう六義園入口だ。入園料は一般三百円、六十五歳以上百五十円になる。ヨッシーが年間通用のパスを窓口に見せた後、私が六十一歳ですと叫ぶと、何人ですかと質問が帰って来た。「二十人。」「皆さん六十歳以上でしょうか。」「そうです。」「それならパンフレットを取ってお通り下さい。」
     今日は六十歳以上無料の日であった。「とうとう高齢者割引を受ける年齢になってしまった」と今年還暦を迎えた宗匠が嘆く。私は安くなるなら八十歳でも良いと思う。何人かは年齢詐称の罪に問われる可能性がある。その場合、罪は私一身にあることはここで記録しておく。「まっ、あと数カ月ですからね、許してもらいましょう。」ロダンはそれで良い。数歳の差は許容範囲だろうか。「四捨五入ですね。」

     敬老日無料の側の仲間とや  閑舟

     六義園は当時川越藩主であった柳沢吉保が、元禄十五年(一七〇二)に築園した回遊式築山泉水の庭園である。周囲には武家屋敷が広がっていた。て、染井側の隣には藤堂家下屋敷があった。まず柳沢吉保から始めることにしよう。チイさんの今日の二番目のテーマ、側用人である。
     忠臣蔵以来、柳沢は悪役の典型とされてきたが、それは小身から成り上がって権力を握った者への、門閥側からの反感によるものであった。忠臣蔵史観と言っても良い。綱吉のヒキがあったにせよ、そしてそれはあるいは男色に関係するにしても、吉保自身は有能な人物であったと考えられる。譜代門閥層出身の老中支配を嫌って側用人を登用したのは綱吉の意向であるが、有能な人材を門閥身分に関わらず登用するシステムとして働いたことは間違いない。
     まず生涯を振り返ってみる。ウィキペディアからの要約である。
     吉保は万治元年(一六五八)、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれた。長男ではあったが父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫である柳沢信花が養嗣子となって継いだ。
     延宝八年(一六八〇)、館林藩主だった綱吉が四代将軍家綱の後継として江戸城に入ると館林家臣である吉保も幕臣となって小納戸役に任ぜられた。綱吉の寵愛を受けて頻繁に加増され、貞享二年(一六八五)、従五位下出羽守、元禄元年(一六八八)十一月、将軍親政のために新設された側用人に就任し、上総国佐貫藩一万二千石を与えられた。元禄三年(一六九〇)二万石を加増され、従四位下に昇叙する。元禄五年(一六九二)三万石を加増、元禄七年(一六九四)武蔵川越藩主七万二千石とされた。同年に老中格と侍従を兼帯。同十一年(一六九八)左近衛権少将に転任する。元禄七年(一六九四)更に一万石を加増。翌元禄八年に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領した。後にこれが六義園となる。
     元禄十四年(一七〇一)息子の吉里とともに綱吉から松平姓および吉の一字を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した。  宝永元年(一七〇四)、綱吉の後継に甲府徳川家の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲斐国甲府藩・甲府城と駿河国内に所領を与えられ、十五万石の藩主となる。宝永三年(一七〇六)大老格に上り詰めた。
     しかし宝永六年(一七〇九)二月十九日、綱吉の死とともに状況は一変した。新将軍家宣とその儒者新井白石が実権を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年六月三日、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。
     隠居後は江戸本駒込(東京都文京区本駒込六丁目)で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園の造営などを行った。正徳四年(一七一四)十一月二日、死去。享年五十七。
     吉保が有能な民政家だったことは間違いない。川越藩主時代には三富新田の開発を行った。

     東京駒込の六義園を営んだ柳沢吉保は、川越藩主になったとき荻生徂徠の建議を容れ、現在の所沢市、三芳町にまたがる約三千二百ha(町歩)の三富開発をおこなっている。北宋の王安石の説を参考にしたという間口四十 間、奥行三百七十五間の短冊状の敷地(五 町歩)を一 戸の農家の所有とし、農家・屋敷林・農地・防風林(落ち葉かき、薪炭林、雑木の萌葉更新)がワンセットの循環農法の計画農村である。川越イモや有機野菜の農業の持続のみならず、開拓農民の連帯と拠り所の多福寺や毘沙門社も新田開発と同時の元禄九(一六九六)年に落成させている。
     http://www.watarium.co.jp/exhibition/1111shigemori/tour/nounoniwa.pdf

     また甲斐の藩主としても城下町を整備し、「是ぞ甲府の花盛り」と評判が立つほどの繁栄をもたらしている。(山梨県立博物館)
     芝増上寺前で儒学の講釈をしていた荻生徂徠を見出して取り立てたのも吉保である。徂徠について何事かを云々する学力は私にはないが、時代を突き抜けた思想家であったことは間違いない。

     荻生徂徠が終始見すえていたのは「現代」の問題であった。いかなる思想家も当時としての「現代」――つまりは「同時代」――に規定されていたという程度の意味でいっているのではない。それに正面から立ち向かったという意味である。時あたかも江戸時代の元禄から享保、花見踊りから倹約政策へ、インフレからデフレへ、彩りが対照的に入れ替わった濃縮された二十五年間が徂徠の活動時期である。貨幣経済である。徂徠が立っていたのは、貨幣が世界を制覇してゆく過程のその入口であった。(野口武彦『荻生徂徠』)

     従来の儒者とは全く異なるこの徂徠を登用したことを見ても、吉保が凡庸な大名ではなかったことが分かる。
     ところで、野口の文にも「貨幣経済」という言葉が出てくる。実は貨幣経済へどう対応するかというのが、江戸幕府の統治の根本に関わる大きな問題であった。そもそも貨幣経済は理念としての農本主義と矛盾するのである。荻原重秀や田沼意次に代表されるような、身分制度の下から這いあがって来た層は、一般的に産業を育成して富を増やして増収を図ることを目的とした。当然貨幣経済の進展が前提となる。これに反して松平定信に代表される門閥層は、増収ではなく経済が縮小する中で節約を旨とする。基本的な考え方は農本主義である。つまり二つのイデオロギーの対決でもあったのだ。
     さて、六義園に戻らなければならない。元は加賀藩下屋敷の地であった。吉保が拝領して、約二万七千坪の平坦な地に土を盛り、千川上水を引いて池を作った。完成までに七年かかったとされている。

     「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。(ウィキペディア)

     吉保自身は「むくさのその」と呼んでいたようだが、現在では「りくぎえん」と言う。幕末まで柳沢家の下屋敷として使われていたが、明治になって岩崎彌太郎が手に入れた。宮内庁から下賜されたのである。更に岩崎は六義園を中心に周辺の大名屋敷も合わせて十一万坪もの土地を手に入れ、そのまま放置していたから、一帯は雑木林が広がるばかりだった。
     この辺からは姫が用意してくれた資料を参考にさせてもらう。大正中期、東京市の人口増加による住宅不足解消のため、資本家が所有する別邸や庭園の開放が求められた。そして当時の岩崎家の当主である岩崎久弥が、十一万坪の内、柳沢家の三万坪を除いた八万坪を住宅地として開放することに決めた。
     解放された住宅地は大和郷と呼ばれ、三菱系のサラリーマンの他、帝国大学の教授が多く住んだことから学者村とも呼ばれた。一区画は百五十坪から二百坪、建物は二階建て以下で広い庭を設けることが条件だった。
     そして残った三万坪を整備したのが六義園である。周囲を赤煉瓦の塀で囲んだ。昭和十三年(一九三八)に東京市に寄贈され、一般公開されることになり現在に続く。
     「昔の財閥はとんでもない財力があったんだね。」特に岩崎は明治国家と一体であったと言っても良い。国家がその成長を後押ししていたのである。岩崎彌太郎は土佐の地下浪人の子として生まれ、幼児から才を発揮した。後藤象二郎に引き立てられて、土佐藩の商務組織である土佐商会の主任を任せられ、坂本龍馬が海援隊を組織するとその経理を担当した。

     最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。(ウィキペディアより)

     前置きが長くなりすぎた。それでは庭園を散策することにしよう。内庭大門を潜るとすぐに見事な枝垂れ桜が立っている。「その季節になると入場制限がされます。特にライトアップした夜桜が見事ですね。」ヨッシーはご近所だからしょっちゅうここに来ているのだ。
     六義園八景の石碑が置かれている。若浦春曙、筑波陰霧、吟花夕照、東叡幽鐘、軒端山月、蘆辺水禽、紀川涼風、士峯晴雪である。宝永三年(一七〇六)、霊元上皇が六義園の景勝地十二境八景を選び、公家の和歌を添えて吉保に下したという。寛政四年(一七九二)以降ほとんど利用されずに荒れ果てていたが、文化六年(一八〇九)四代保光が復旧工事を実施し、その際に建てた碑である。かつては園内各所にあった筈の十二境八景の碑は、その時点で既に失われていたという。
     池の周りを時計回りに歩きだした途端、皆はすぐにベンチに座りこんでしまった。かなり暑い日だから高齢者は堪えたかも知れない。休憩の間に煎餅や飴が提供される。座りこんで池を眺めるだけでも気持がよい。リュックを下そうとしてカメラの紐が引っ掛かってしまった。取り外そうとしていると、「撮ってくれるの」と小町が笑う。ちょうどシノッチと並んで座っているから一緒に撮ろうか。しかしシノッチは顔をそむける。わざと正面に立ってカメラを向ける。「イヤよ。」それでは仕方がない。
     池の真ん中には妹山、背山が突き出る。蓬莱島、臥龍岩。指南(しるべ)の岡。滝見茶屋の東屋は先着の高齢者グループが占拠している。滝と言っても小さなものだ。尋芳径は「はなとふこみち」と読む。「誰も読めませんよね。」吹上茶屋では和菓子付きの抹茶が五百円で飲める。姫はここに寄るのではないか。「飲みません。」抹茶の気分ではなさそうだ。
     池を眺めると、真鯉の近くには少し小型の魚が群れている。「ブルーギルですね。」ヨッシーが簡単に判断した。「私、この魚を初めて見ました。特定外来生物ですよ」と姫は言う。

     日本への移入は、一九六〇年に当時の皇太子明仁親王(今上天皇)が外遊の際、シカゴ市長から寄贈されたアイオワ州グッテンバーグで捕獲されたミシシッピ川水系原産の十五尾を日本に持ち帰り、水産庁淡水区水産研究所が食用研究対象として飼育したのち、一九六六年に静岡県伊東市の一碧湖に放流したのが最初とされていた。二〇〇九年に三重大学生物資源学部が発表したミトコンドリアDNAの解析結果により、全都道府県の五十六ヶ所で採取した千三百九十八体全ての標本の塩基配列が、米国十三地点で採取したサンプルのうちグッテンバーグで採取したものと完全に一致したことでこの事実が証明された。こうした経緯もあって、「おめでたいプリンスフィッシュ」と称されて各地に放流されたという記録がある。
     このブルーギルが今や外来種として深刻な問題を起こしていることについて、天皇即位後の二〇〇七年第二十七回全国豊かな海づくり大会において今上天皇は「ブルーギルは五十年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と発言した。
     当初は食用として養殖試験なども行われ、各地の試験場にも配布されたが、成長が遅く養殖には適さないことが判明した。(ウィキペディア「ブルーギル」より)

     「あのカメはなんだい。」「ミドリガメだよ。」その亀の泳ぎ方がおかしい。左半身を沈ませるようにぎこちなく動く。「怪我をしてるのかしら。」「古式泳法だな」とスナフキンが笑わせる。

     秋の日や古式泳ぎの緑亀  閑舟
     六義園湖畔に佳人佇める  午角

     縁日でミドリガメと称して売っているのはアカミミガメの子供である。小さいと思っているとたちまち成長し、始末に困って捨てるヤカラがいるので、どんどん繁殖するのである。「要注意外来生物です。」
     気がつくと、上の方でチイさんたちが手を振っているのが見える。藤代峠だ。園内最高峰で標高は三十五メートルある。「素晴らしいわね」とハイジが喜ぶ。頂上から見る景色は素晴らしい。宗匠は綱吉になった気分だ。
     左が本郷通りに沿った塀で仕切られた広い道は、両側から枝が覆いかぶさって木陰を作っている。風が吹けば程良い心持になってくる。「ここは馬場でした。」千里場(馬場跡)の看板が立っている。「千里は大袈裟だよな。」

     木漏れ日や晩夏の道に騎馬の影  蜻蛉

     「これでほぼ一周しましたね。」ヨッシーの保証を貰ってベンチで休憩していると、ロングヘアで薄物のロングスカートの女性がひっそりと過ぎて行く。後ろ姿を眺めていたドクトルが、「あれが羽衣」と声を出す。ちょうど枝振りの良い松に感心していたところだったのだが、まさかスカートを枝にかけてしまう訳にはいかない。
     「あれ、ヒガンバナじゃないか。」中将の言葉で池の対岸を眺めると、確かにヒガンバナが見える。暑いようでも秋は確実にすぐそこまで来ている。今年初めて見た。「そう言えば蝉の声が聞こえなくなりましたね。」「ホントね。」一時は喧しいほど鳴いていた蝉も、すっかり聞こえなくなった。

     羽衣の後ろ姿や彼岸花  蜻蛉

     チイさんはブルーベリーを取り出して毒見をし、「大きいのは大丈夫、小さいのは酸っぱい」と言いながら配ってくれる。
     満足して六義園を出る。画伯、マルちゃん、チロリン、中将、小町は駒込駅を目指して別れて行く。この後は染井霊園に行くことになっているので、墓地に興味のないひとは詰まらないのであろう。シノッチとクルリンは私たちと一緒に残った。北西に斜めに伸びる細い道が染井通りだ。
     「ここが北島康介が通っていた高校です。」中高一貫の本郷中学校・高等学校であった。豊島区駒込四丁目十一番一号。「こんな所に温泉がある。」染井温泉とある。講釈師がいたら、必ず何事かを講釈したに違いない。「お風呂が好きですからね。」入館料は千二百六十円、その他にタオル等を借りるには別料金が発生する。
     東京スイミングセンターの外壁にはロンドン・オリンピックの受賞者の名前が大きく張り出されている。寺川綾(背泳ぎ)、加藤ゆか(バタフライ)、上田春佳(自由形)、それに北島康介である。これだけの選手がこのスクールから輩出したのであれば、広告効果は何にもまして大きい。生徒が殺到することだろう。
     その斜向かいの二股に分かれた角には、舟型石に六地蔵を二段に浮き彫りにした石仏が建っていた。十二地蔵尊である。チイさんの調べでは、享保十五年(一七三〇)の大火による犠牲者の冥福を祈るために建立された。地蔵像の上部には火炎か煙のようなものが彫られているようだ。ただ十二地蔵というのは珍しい。どういう謂れがあるかと訊かれても分かる筈がない。
     チイさんは染井霊園の事務所でパンフレットを貰って戻って来た。カラー印刷の霊園マップは珍しい。谷中霊園では交番で手製の地図を貰ったものネ。私たちはチイさんの言う「墓マイラー」になるのである。チイさんの造語かと思ったが、そうではないようだ。

    歴史上の人物や著名人の墓を巡って、故人の足跡に思いをはせる人を「墓マイラー」と言います。歴史好きの女子「レキジョ(歴女)」やウオーキングブームにも後押しされ、楽しむ人が増えています。(中略)
    「墓マイラーの名づけ親」を自認するのは文芸研究家、カジポン・マルコ・残月さんです。大学二回生の時、ロシア・サンクトペテルブルクで文豪ドストエフスキーの墓を訪問した時、「土の下にドストエフスキーがいる」と強烈な感動がこみ上げたといいます。
    (増える「墓マイラー」http://www.kyoeikasai.co.jp/kpa/agent/monosiri2009-20.htm)

     こういう記事もあるくらいで、知らないうちに新しい言葉が生まれていた。いつの間にか私たちは流行に乗っていたのである。
     最初は二葉亭四迷である。ここには前にも来たことがある。「名前はなんでしたっけ」とチイさんが確認している。長谷川辰之助である。大きな石で、右肩に小さく二葉亭四迷、中央に長谷川辰之助墓と彫られている。十三回忌の後、東京外国語学校時代の同窓生によって建てられた墓だ。ロシアで病んで帰国の途次、ベンガル湾上で死んだ二葉亭は、死を覚悟してロシアの病院で遺言を書いていた。一家離散の宣告である。後半の「遺族善後策」を引いておく。

            遺族善後策
    これは遺言ではなけれど余死したる跡にて家族の者差当り自分の処分に迷うべし
    仍て余の意見を左に記す
    一 玄太郎せつの両人は即時学校をやめ奉公に出ずべし
    一 母上は後藤家の厄介にならせらるるを順当とす
    一 玄太郎、せつの所得金は母上の保管を乞うべし
    一 富継健三の養育は柳子殿ニ頼む
    一 柳子殿は両人を連れて実家へ帰らるべし
    一 富継健三の所得金は柳子殿に於て保管あるべし
    一 柳子殿は時機を見て再婚然るべし
     一時の感情に任せ前後の考もなく薙髪などするは愚の極なり忘れてもさる軽挙を為すべからず

     死んだのは五月十日。満で四十五歳であった。十三日にシンガポールで荼毘に付し、遺骨は三十日に日本に到着した。すぐに坪内逍遥、池辺三山によって二葉亭の全集発刊が企てられた。印税をもって遺族を養うためである。「啄木がその校正係をしたんですよね。」
     明治四十三年四月七日の啄木日記に、「社で池辺主筆から、二葉亭全集に関する引継を西村君から受けて、そして第二巻の原稿を印刷所へ渡すやうに言いつかつた。」とある。そして十二月、「半期末賞与五十四円を貰ふ。またこの月より俸給二十八円となれり。二葉亭全集第二巻また予の労によりて市に出でたり。」
     明治二十年(一八八七)に第一篇を発表した『浮雲』で絶賛された後、三篇の途中で己の才能に絶望して、無理やり完結した。その後長く小説は書かず、時折ロシア文学の翻訳をした。明治二十九年(一八九六)に春陽堂から出した『かた恋』(かた恋、めぐりあひ、あひヾき)は国木田独歩に重大な影響を与えた。
     作家と呼ばれることを酷く嫌がり、志はロシア問題解決にあったが、生活安定のため朝日新聞に入社して、志と反して小説を書かざるを得ず、『其面影』『平凡』を発表した。しかし本人の意識と関わらず、近代人の苦悩を初めて文学として定着させた功績は余りにも大きい。
     次は岡倉天心だ。石室のような形で、台の上には土が敷き詰められている。その下の扉には「釈天心」とあるから、宗旨は浄土真宗であろう。五浦にある天心の墓は、ここから分骨したものだ。「長谷川さんと同じ発想でしょうか。」姫が言うのは、谷中墓地の長谷川一夫の墓のことだ。墓石の前に白砂を敷き詰めてあり、骨はそこに撒いたということだった。墓域の真ん中には、「永久の平和 岡倉」の四角の碑があり、右端には五輪塔が立っている。
     巖本善治・若松賤子夫妻の墓は、石垣の上に五輪塔を載せたもので、ふたつ並んでいる。左の五輪塔の火輪には「如雲」(善治の号)、右の火輪には「賤子」と彫られている。「巖本善治は明治女学校の創設者でしたか。」違う。しかし創設者の名前が思い出せない。「島崎藤村の先生です。信州の」としか答えられないのが恥ずかしい。ダンディは一所懸命電子辞書を引いているが出てこない。創設者は木村熊二である。「藤村の先生」と言ったのは、明治女学校を辞めてから小諸で始めた小諸義塾に、若き日の藤村がいたからである。
     若松賤子は会津の生まれだから「若松」、本名は嘉志子だが神の僕の意味で「賤子」と名乗る。フェリス女学院第一期生であり、その英語教師をしていて巌本と知り合った。

     ・・・・その学校(フェリス)には英語の教師として、第一回のフェリス女学校の卒業生である大川嘉志子という才媛がいた。彼女は美しく、豊かな頬と物の真実を知らねばやまぬというような明眸を持ち、その動作は静かで威厳があった。外人の女教師たちもその才能を極めて尊重した。彼女は世良田という海軍省第一回のアメリカ留学生であった将校と婚約していたが、精神的な不調和を感じて十九年頃破約した。その後で、二十年頃東京の明治女学校の教頭であり、かつ「女学雑誌」の主催者だった巌本善治が、彼と同じ宗派のミッション・スクールであるこの学校を訪れ、大川嘉志子を知った。(伊藤整『日本文壇史』)

     二十一年に二人は婚約し、二十二年に結婚した。婚約中に嘉志子は肺を冒され血を吐いていた。『小公子』の翻訳が名訳とされたが、今ではとても読めないだろう。口語体の文末表現が煮詰まっていない時代で、文末をどう始末をつけるかは、二葉亭にとっても山田美妙にとっても重大な問題だった。若松賤子は「有ませんかった」「ゐませんかった」などとしてみた。『小公子』の冒頭を引いておこう。

    セドリツクには誰も云ふて聞せる人が有ませんかつたから、何も知らないでゐたのでした。
    おとつさんは、イギリス人だつたと云ふこと丈は、おつかさんに聞ゐて、知つてゐましたが、おとつさんの没したのは、極く少さいうちでしたから、よく記臆して居ませんで、たゞ大きな人で、眼が浅黄色で、頬髯が長くつて、時々肩へ乗せて坐敷中を連れ廻られたことの面白かつたこと丈しか、ハツキリとは記臆てゐませんかつた。
    おとつさんがおなくなりなさつてからは、おつかさんに余りおとつさんのことを云ぬ方が好と云ことは子供ごヽろにも分りました。
    おとつさんの御病気の時、セドリツクは他処へ遣られてゐて、帰つて来た時には、モウ何も彼もおしまいになつてゐて、大層お煩なすつたおつかさんも漸く窓の側の椅子に起き直つて入つしやる頃でしたが、其時おつかさんのお顔はまだ青ざめてゐて、奇麗なお顔の笑靨がスツカリなくなつて、お眼は大きく、悲しそうで、そしておめしは真ツ黒な喪服でした。

     巖本は二代校長となる傍ら「女学雑誌」も引き継いでいたので、その寄稿者たち(星野天知、北村透谷、馬場孤蝶、島崎藤村、戸川秋骨)が教壇に立った。伊藤整は、巖本について余り同情的でない。

     巖本善治は風采が立派で談話が上手なので、人を引き付ける強い力があって、女学生たちは殆ど神のように崇拝していたが、彼には、事業家に特有の偽善的で山師的な性質があった。事業の運営のためには詐欺的なことまでやった。巖本が失敗する度に、この教育事業に熱心に協力している財産家の息子である星野天知がそれを償ってやっていた。そして星野は、そういう時、二年ほど前、巖本夫人の若松賤子に初めて逢った時、賤子が真剣な面持ちで、「星野さん、巖本を買いかぶってはいけません。後悔している私の実験があります」と言ったことを思い出した。・・・・
     星野はこの学校では教務部長のような立場にあったので、島崎を高等科の教室に連れて行って紹介した。二十二三歳のものも混っていた妙齢の女性たちの前で教壇に立った島崎は、射すくめられたように固くなって当惑した。紹介が済んで教室から出る時、星野は、この青年はまともな授業をやって行けるかしらと、危ぶんだ。(伊藤整『日本文壇史』)

     夫妻の墓の隣の区画には、巌本真理の墓がある。「孫だよね。」真理は善治の長男である荘民とマーグリトの間に生まれた。ヴァイオリニストである。一枚の墓石に両親と真理の名前が並んでいる。
     先祖代々之墓・高村氏。光雲・光太郎は住居からすれば谷中墓地の方が近いのではないかと思うのだが、どういう関係だったろうか。左側面に戒名が並んでいて、右から五番目が光雲(善照院心誉勲徹光雲大居士)、十一番目に智恵子(遍照院念誉智光大姉)、十二番目に光太郞(光珠院殿顕誉智照居士)がある筈だ。
     正寿山慈眼寺の墓地に移る。豊島区巣鴨五丁目三十五番三十三。芥川龍之介之墓。司馬江漢(江漢司馬峻之墓)。少し探して谷崎潤一郎墓も見つけた。ここは谷崎家の菩提寺で、京都法然院から分骨したものである。
     別に門前の案内によれば小林平八郎、浦里時次郎の比翼塚もあることになっているが、「全く知りません」とチイさんは言う。
     小林平八郎は上杉の家臣だった筈だが、なぜこんな所に墓があるのだろうかと不思議だったが謎は簡単だった。この寺はもともと深川六間掘猿子橋に創建され、元禄六年(一六九三)本所猿江に移転したものだった。それなら本所一つ目の吉良邸で死んだ小林が葬られてもおかしくない。明治四十五年(一九一二)谷中妙伝寺と合併してこの地へ移転、山号を正寿山と改号した。
     浦里時次郎については私も詳しくないので簡単に調べてみた。

    初代鶴賀若狭掾の新内節「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」の主人公。
    吉原の遊女浦里になじんだ時次郎は、借金をかさねる。雪の庭で妓楼の主人に責められる浦里をたすけ、明け烏のなく淡雪のなかをふたりの道行きがはじまる。明和六年(一七六九)江戸三河島でおきた心中事件を題材にしたもので、のち人情本、歌舞伎などにもとりあげられた。(「デジタル版日本人名大辞典」)

     昔の日本人はこうした物語が好きで、あちこちに様々な比翼塚を造った。目黒不動の門前に「白井権八・小紫比翼塚」、本駒込吉祥寺境内にはお七・吉三比翼塚」、南千住の浄閑寺に「新比翼塚」などを見ている。
     霊園を出て狭い道を行くと、ちょうど神輿の行列が通るのに出くわした。この辺りは細い道が縦横に走り、迷路を歩いているようだ。「遠山金四郎はあっちの方です。」法華宗別院徳栄山總持院本妙寺(豊島区巣鴨五丁目三十五番六)には金さんのほかに千葉周作、本因坊家歴代、関宿藩久世大和守、将棋の天野宗歩等が眠っているのだが、今日は割愛することになった。「別の機会に絶対来ます」と姫は張り切る。金さんが好きなのか、千葉周作が好きなのかは不明だ。
     本妙寺は例の振袖火事(明暦の大火)を出した火元で、元は本郷丸山にあった。ただこの大火については別の説もある。ひとつは江戸の都市改造を図った幕府の放火説である。もうひとつは老中阿部忠秋屋敷から出火したのを、老中の出火では幕府の面目がないため本妙寺が肩代わりしたというものだ。真偽は不明である。

     萬年山勝林寺(臨済宗妙心寺派)の門のインターホンを押し、チイさんが見学の許可を取った。門前には何の案内も書かれていないが、墓地に入って真っ直ぐに行くと、立派な墓が見えた。田沼意次墓である。三重の台石に載った笠塔婆形の大名墓で、「隆興院殿従四位侍耆山良英大居士」の他に意次であることを示す文字は何も見えない。背後に田沼家先祖代々の墓という板塔婆が数本立っているので分かる。「院殿大居士。スゴイ」とロダンは感心しているが、大名ならば普通であろう。
     これがチイさんの言う側用人の二人目である。三番町の大妻通りの佐野善左衛門屋敷跡でも記したことだが、田沼意次が悪人のように言われたのは、松平定信に代表される譜代門閥層の捏造によることが明らかになった。紀州藩の足軽の子に生まれた人間が相良藩五万七千石の大名、しかも老中首座となって国政を動かすことに、定信は我慢ならなかったのである。
     天明六年、将軍家治の死とともに失脚し、二万石を没収された。更に相良城は打ち壊され、僅か一万石に減封して孫に家督を継ぐことだけが認められた。天明八年(一七八八)六月二十四日、無念のうちに死んだ。享年七十。柳沢吉保が全く処罰を受けなかったことと比べて、定信一派の苛烈残酷は譬えようもない。私は昔から保守反動の権化として定信が嫌いだった。
     寺を出て、姫の真似をして染井稲荷(豊島区駒込六丁目十一番五)の写真を撮っている内に最後尾になってしまったが、真言宗西福寺(豊島区駒込六丁目十一番四)の門前に「都史跡 伊藤政武墓」の標柱を見つけた。後で調べる積りで標柱の写真を撮っていると、門の内側を覗きこんでいた姫が、自然石に「染井吉野の里」と彫られた碑を発見した。「染井吉野の里ですよ。」傍らには案内板が立っているので確認しよう。集団は既にかなり前に行ってしまったようだが仕方がない。
     伊藤政武とは、「江都第一の植木屋」と呼ばれた樹仙伊藤伊兵衛のことであった。「忘れてました。一番有名な植木職人ですよ」と姫が思い出す。それなら墓マイラーとならなければならないではないか。姫、スナフキンと一緒に墓地に入り、案内矢印に従って行く。墓は質素なものだ。「樹仙浄観信士」宝暦七丑年十月二日とある。(実はチイさんの資料にはちゃんと記載されていた。今回私は全く予習をして来なかったので気付かなかったのである。)

    この地の植木屋の名を上げたのは、伊藤伊兵衛政武である。伊藤家は伊勢津藩の藤堂家出入りで城内の庭樹の世話をしていたが、藤堂家下屋敷が駒込村染井に移って伊兵衛一家も染井に居を構えるようになった。代々伊兵衛を名乗るが、十六世紀末の政武の父三之丞のころから広く名を知られるようになった。彼は「きりしま伊兵衛」を自称するほどにツツジ、サツキの新種開発、普及に努め『花壇地錦抄』を著した。政武は父の研究をさらに深めた『増補地錦抄』のほか、『広益地錦抄』など一連の『地錦抄』ものを著して、花卉の分類なども手がけ、また特にカエデの開発、普及に努め、翻紅軒、樹仙を名乗る園芸学者であり実務家であった。
    http://www.toshima-mirai.jp/80/history_03.html

     後で確認するとこの寺には辻潤の墓もあったのだが、予習をしていないから後の祭りだ。ちょっと惜しいことをした。辻潤は伊藤野枝の前夫で、辻まことの父である。関東大震災で大杉栄と野枝が虐殺された後、辻は野枝の思い出を書いた。染井についても少し触れているので引いておこう。

     夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた。
     妹の家に預けてあるまこと君のことを考えて僕は途方にくれた。
     それから新聞を見ることが恐ろしく不愉快になりだした。だから不愉快になりたい時はいつでも新聞を見ることにきめた。・・・・
     僕は野枝さんから惚れられていたといった方が適切だったかも知れない。眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などというものはとかく危険な境遇におかれがちだ。・・・・
     僕はその頃染井に住んでいた。僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。だから今でもそこにオヤジの墓地がある。森の中の崖の上の見晴らしのいい家であった。田圃には家が殆どなかった。あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだったが今は駄目だ。日暮里も僕がいた十七、八の頃はなかなかよかったものだ。すべてもう駄目になってしまった。全体、誰がそんな風にしてしまったのか、なぜそんな風になってしまったのか? 僕は東京の郊外のことをちょっと話しているのだ。染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。(辻潤『ふもれすく』)

     一時は印税のお蔭で、まことを伴ってパリに長期滞在したこともある。パリの街を自転車で颯爽と走るまことの姿を、同じ頃に武林無想庵に連れられてパリに滞在していた山本夏彦が目撃している。その後、放浪生活をした挙句、昭和十九年に知人の経営する上落合のアパートで餓死した。
     寺を出るともう皆の姿は見えない。おまけに神輿の行列に前を塞がれてしまって、なかなか進めない。自転車がやってきたのを幸いに、その後ろについて漸く行列の前に出た。「道は知ってるんですよね。」私はスナフキンが知っていると思っていた。地図はリュックにしまってあるから面倒だ。「取り敢えず行ってみようぜ。」「皆は旧丹羽家の蔵と門を見に行っている筈ですよね。」丹羽茂右衛門は明治を代表する染井の植木職人だそうだ。
     そもそも私たちが今どこにいるのかが分からない。「仕方がないから駅に行こう。」賑やかな方に行けば良いだろう。そこにダンディから電話が入った。「丹羽家のところで待ってるんですが。」「すみません。駅で落ち合いましょう。」私たちは一本北側の霜降銀座商店街に入ってしまったのであった。「感じの良い商店街ですね。」雰囲気はちょっと谷中銀座にも似ている。谷田川を暗渠にして成立した商店街である。狭い道に小さな店舗が密集している。
     谷田川は、北区西ヶ原の旧外東京語大学敷地と染井霊園にあった長池を水源とし、上野飛鳥山台地と本郷台地との間の谷を南東に流れて上野の不忍池に注いでいた川だ。下流域の谷中の辺りでは藍染川とも呼ばれた。
     本郷通りに出るともうすぐ駅だ。子育て地蔵の前に設置された灰皿の前で一服していると、ロダンから「ただいま到着」の連絡があった。「あと三分。」こうして道にはぐれた三人は漸く本隊に合流したのである。
     久し振りに宗匠が公式歩数を発表した。二万歩である。およそ十二キロというところか。クリン、シノッチ、ハイジとはここで別れる。

     駅構内を通って南口に出ると目の前に和民があった。「やってるかな。」「四時開店ですよ。」現在時刻は四時半、丁度良いではないか。
     碁聖も含めて常連が揃い、しかも十二人での反省会というのも久しぶりだ。ビールを二杯飲んだのは私としては珍しいことで、それだけ汗をかいていたのだろう。ダンディはビール二杯の後、ノンアルコールに切り替えた。「ノンアルコール」と言って、店員がビールかカクテルかと聞くのがおかしい。ノンアルコールのカクテルとは単なるジュースのことではないのか。
     ここでノンアルコールビールの歴史が話題になる。「最初はホッピーじゃないか」と私が言ったことに、皆から反論が入ったのは案外なことだ。中瓶程の大きさの茶色の瓶を知らないのだろうか。
     ホッピーとはビール風味の炭酸清涼飲料水であり、コクカ飲料株式会社(現ホッピービバレッジ株式会社)の登録商標である。しかし、これだけを飲んでもちっとも旨くない。大衆酒場で「ホッピー」というのは、焼酎をこの「ホッピー」で割った物を言う。つまり酎ハイの元祖のようなものだ。ビールが高価だったので、安い焼酎をこれで割ってビールの代用品としたのが始まりである。要するに下層労働者、貧乏人の飲み物であった。

     「本物のホップを使った本物のノンビア」との意味をこめてホッビーと名付けようとしたが、発音しづらいため、ホッピーとなった。
     (「ホッピー物語」http://www.hoppy-happy.com/products/hoppy_ichiran.html)

     やがて大衆居酒屋チェーンが生まれ、女性が大量に進出して柑橘系の炭酸で焼酎を割るようになって、ホッピーは廃れてしまった。
     二時間飲んで三千円也。桃太郎はスナフキンと一緒に「金太郎」に行く積りだったようだが、スナフキンはカラオケ組に拉致された。入ったカラオケ屋で料金を訊くと説明が分かりにくい。怪しいと睨んだか、姫は別の店にしようとさっさと出てしまう。
     「だけど駒込にはここしかありませんよ。」「巣鴨ならあります。」それでは山手線に乗って巣鴨に出よう。駒込の住人ヨッシーも付き合ってくれるから有難い。碁聖も久し振りに張り切っている。カラオケ館ならメンバーズカードがある。
     二時間。碁聖の声が以前と変わらないことに安心した。ヨッシーもレパートリーが広い。そしてカラオケには、絶対にロダンがいなければならないことが、改めて確認させられた。

    蜻蛉