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    第四十三回 武蔵国府・府中と大人の社会科見学
    平成二十四年十一月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.11.18

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     旧暦九月二十七日、晩秋。先月後半から朝晩の気温が一気に下がってきた。一ヶ月前にはまだ百日紅が咲き残り、金木犀の香りが高かったのに、もうそれらはなくなって日に日に紅葉が濃くなってくる。今となってはあの夏の暑さが懐かしい。
     今日は府中を歩く。府中とは国府所在地であり、従って全国にいくつも同じ名前の町がある。晩年の家康が根拠にした駿府は言うまでもなく駿河国府中であった。ここは武蔵国府、国衙は大国魂神社付近にあった。古代からの要衝の地で、甲州街道の宿場としては、内藤新宿・高井戸宿・布田五宿(国領・下布田・上布田・下石原・上石原)に続く四番目の宿駅でもある。
     競馬場(府中市日吉町)、競艇場(府中市是政)のあるギャンブルタウンであり、三億円事件の現場になった府中刑務所(府中市晴見町)もある。「府中の五Kとか言うんだよ。あとの二つが思い出せない」とスナフキンが何度も首を捻っているが、私はそんなことは聞いたこともなかった。
     集合は多磨霊園駅だ。新宿で準特急に乗ると明大前に停まっただけですぐに調布に着く。各駅停車に乗り換えて新宿から三十分も掛からないのだから思った以上に近い。但し料金的には、乗り換えが面倒だが武蔵野線を使った方が安い。今日は霊園には寄らないが、内田魯庵、狩野享吉、中島敦、大岡昇平等の墓所は気にかかっている。
     今回はチイさんと若紫のジョイント企画である。「メールだけで連絡を取り合いました」と言うチイさんが珍しく渋い上着にハンチングを被っているのは、相変わらず華やかな彩りの若紫に対抗するためだったらしい。「ユニクロとヨーカドーで買ったの。」ハンチングのせいで、本当に地井武男に似てきた。
     サントリーのビール工場見学のため、今回は事前申し込み制がとられた。申しこんだのは二十六人だったが、実際に集まったのは二十三人だ。それでもこれだけの人が集まるのは珍しく、よっぽど関心を惹いたのだ。両リーダーの他に、画伯、宗匠、中将・小町、ロダン、オサム、コバケン、碁聖、スナフキン、隊長、ダンディ、ドクトル、講釈師、若旦那(珍しく独りで)、あんみつ姫、チロリン、クルリン、ロザリア、ハイジ、マリー、蜻蛉。ロザリアが江戸歩きに参加するのは初めてではないだろうか。隊長が参加するのも何年振りになるだろう。
     実は桃太郎も参加したかったのだ。しかし工場見学の限度は二十五人と決められ、桃太郎は一足違いで申しこめなかった。そのため彼は泣く泣く今日は山に柴刈りに行っている筈だが、来ていればちゃんと参加できたのであり、残念なことをした。そして私は実に感度が鈍い。宗匠に教えられてやっと気がつく始末だが、ダンディがギネスの帽子を被っているのは、今日のビール工場見学に合わせていたのである。
     「もう完全に治ったの。」久々に顔を見せた講釈師に皆から質問が飛び交う。「まだちょっとね。鎖骨の付け根だから、なかなか治りにくいんだってさ。真ん中の骨だったら早いらしい。」「それじゃ、煩くしたら右肩をちょっと叩いてやればいいね。」「間違ったフリしてね」とハイジも調子を合わせる。
     「鎖骨じゃなく口が折れればいいなんて言ってただろう。」「聞こえないように小さな声で言ったけどね。」「病院にいる時も碁聖の声がちゃんと聞こえてたよ。」ほぼ同じ時期にリハビリに専念していた二人が、以前と変わらぬ様子で遣り合っている。意外にこの二人は仲が良い。

       リハビリも要らぬ口なり講釈師  あんみつ姫

     「あの一番若い人は誰。」若紫がオサムを見つけて声を掛ける。この中ではオサムの若さは目立つ。宗匠もロダンもオサムとは初めてだから挨拶を交わす。「どういう字ですか。」ダンディも「難しい字だ」と言うように、余り見かけない苗字だ。あるサイトによれば、全国に九十軒ほどあり、そのうち四十パーセントが広島にいると言う。彼のルーツはどこだろう。隊長が若紫に挨拶しているので「エライひとです」と付け加えた。「別にエラカないけどね。」隊長はてれている。
     「飲みすぎてるんじゃないの。」ハイジが心配そうに声をかけてくれるのが嬉しい。しかし飲みすぎはスナフキンと桃太郎であり、私はそれほど飲んではいない。「でも休肝日はないんでしょう。」確かにそんなものはないが、適量を飲んでいるだけだ。
     「笠間にカラオケ山がありました。蜻蛉の話題で持ちきりでしたよ。」私は欠席したが、里山ワンダリングでは先月の末に茨城県笠間を歩いたのである。「どんな字を書くんですか。」「唐桶。」私ではなく、画伯かチイさんのようにきちんと習っている人に薦めたい。「蜻蛉はどんな歌を歌うのかしら。」ハイジはまだ私が歌うのを聞いたことがなかったネ。「なんでも。リクエストに応じます。」こういうことを言うから私は嫌われる。

     北口に降りたところでリーダーの挨拶が始まった。若紫を知らない人のために、チイさんは広告の裏紙に描いた彼女の似顔絵(?)を広げる。絵は横顔の美人で、それに「さそり座の女」のコメントがつく。「目尻の皺は塗り潰しました」の言葉には、若紫は苦笑せざるを得ない。自分の方は手が大きなハサミになったバルタン星人の絵だ。これもサソリに似ているのだろう。二人は僅か一日違いで生まれている。「今日は競馬場に行きますが、スリ、置き引き、忘れものにはくれぐれも注意してください。」
     これだけの人数が集まると、遅れたり迷子になったりする事件が必ず起きる。中野ではチイさん置き去り事件が発生したし、私も待乳山聖天で置いてけぼりを食ったことがある。そのため、用意周到なチイさんは二班に分けてそれぞれサブリーダーを決めてきた。私は若紫が率いる第二班に編成された。サブリーダーは宗匠である。「何人になったのかしら。」十一人だ。
     「それじゃ出発しましょう。」リーダーはさっきのチラシを筒状に丸めて左手に高く掲げて歩き出す。もっと寒くなるかと思ったが、それほどでもなく日射しが結構強い日だ。
     「アッ、忘れた。」チイさんが声を上げたのは、狭い路地に入って百メートル程行ったところだ。駅前にリュックを忘れてしまったのである。「どうも身が軽いと思った。」さそり座の女の絵を出すために、リュックを下に置いてしまったのがいけなかったのだ。チイ・トラベル会社の前途は多難だ。「最初から話のタネができたね」とコバケンが笑う。チイさんのユーモア感覚には独特なものがあるが、まさか話題を提供するためにわざと忘れた訳ではないだろう。

     小春日や蠍座ゆゑに荷を忘れ  蜻蛉

     宗匠が曲がり角まで戻って様子を窺っているのに、暫くしてチイさんは予想もしない場所から現れた。宗匠は駅の方向を見詰めていてなかなか気付かない。「こっち、こっち。前から来たよ。」セブンイレブンの角を左に曲がると、旧甲州街道の一本南側を東西に走る品川道である。「大国魂神社の大祭に使う清めの水を汲むのに、品川の海まで通ったそうなの。それで品川街道の名前があるらしいわ。今でも実際に汐汲み行事が続いているの。」確かに、品川区のホームページを見てもそう書いてある。

     この府中、調布に残る「品川道」は現在でも、大國魂神社の祭礼に先だって行われる「汐汲み・お浜降り」行事のため利用されています。
     毎年五月五日に行われる大國魂神社の祭礼は「くらやみ祭り」と呼ばれ、四月三〇日に行われる「お浜降り」行事に始まります。
     「お浜降り」行事は、「品川海上禊祓式」といい、神職および役所が荏原神社わきの目黒川から注連縄を張った船を漕ぎ出し、お台場をすぎたあたりで禊をしたあと、長柄の柄杓で汐水を汲み上げ、樽に入れて持ち帰り、この汐水で大祭中、禊ぎをするというものです。
     「汐汲み・お浜降り」行事の起源は、康平五年(一〇六二)源頼義、義家親子が安倍貞任を討つために奥州へ遠征した時に、品川の海から海水を汲んできて府中明神に戦勝を祈願したのが始まりとされています。
     江戸時代には、毎年四月二五日に神官、神馬の一行が早朝、府中を立ち、現在の荏原神社に来て、天王洲の海で禊ぎをして汐を汲み、その日のうちに府中に戻っています。
     それでは府中から品川まで、どのような道筋を通っていたのか、大国魂神社の神主の日記「六所宮神主日記」から推測してみましょう。
       安永八年(一七七九)四月二五日に、府中を発って、「金子」「馬引沢」「目黒」で休息しながら品川宿に着いたと書いてあります。
     「金子」は現在の調布市西つつじが丘付近、「馬引沢」は世田谷区の上馬、下馬付近、目黒は目黒不動ですから、府中から甲州街道を通って調布へ、そこから豪徳寺付近を抜け、品川用水路沿いに目黒区に入り、目黒不動門前の茶屋で休み、氷川神社、安楽寺の前を通って目黒川に沿って下り、居木橋の付近から南馬場に抜けて、荏原神社へというルートが、大國魂神社の祭礼の「品川道」の道筋ではないかと考えられます。
     http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000006700/hpg000006637.htm

     繰り返すが、これは府中市ではなく品川区のホームページである。知らなかったが、府中と品川には深い繋がりがあったのだ。
     江戸は火事の町で、常に材木を必要とした。奥多摩の材木は青梅に集積され、筏を組んで多摩川を流した。河口の六郷には材木問屋が集まり、そこで筏を引き渡した後、筏師たちは戻りにこの道を利用したので、そのために特に筏道とも呼ばれた。ウィキペディアでは、品川道の由来をここから採用している。たぶん、材木問屋に筏を引き渡した後、筏師たちは品川遊郭で遊んで帰って来たのだろう。筏乗りは危険な仕事で、賃金もかなり高かったらしい。
     江戸幕府によって甲州街道が整備される以前の街道であった。古代の奥州街道のひとつだったと思われる。
     「遅れないようにして下さいね。時間が決まってますから。」のんびり歩いていると若紫から注意が入る。「あのひとは大丈夫かしら。」クルリンは意外に足腰が丈夫だ。チロリンも最後尾ではあるがちゃんとついてくる。
     品川道を二三分歩くと、道の左側に「史蹟一里塚」の大きな石碑が建っていた。府中市清水が丘三丁目十五番二十六。常久の一里塚と呼ばれ、江戸日本橋から七里の塚である。江戸から「ナナリです」と言うチイさんに、「シチリと言わなくちゃいけない」とダンディから早速クレームが入った。「七里なのになぜ一里塚って言うんですか。」こう言って首を捻る人もいる。
     不思議なのは、ここが甲州街道ではなく品川道であることだ。旧甲州街道とは二百メートルも離れていないが、甲州街道ではなく脇往還に一里塚を設けたのは何故だろう。そして案内板には「市史蹟 甲州街道常久一里塚跡」とされているが、すぐ脇に立つ標柱には「しながわ道の一里塚」とある。同じ場所に設置しているのだから表記は統一して欲しい。ここは甲州街道か品川道か。
     調べてみると、多摩川の洪水で街道が付け替えられたとき、塚だけ取り残されたという記事を見つけた。(http://www.geocities.jp/iromyh/hpyosibee2/k-sono1-2.htmより)。それならば、元々の甲州街道だったのであり、こういうことは教育委員会の説明に書いてくれなければいけない。甲州街道は多摩川の流路変更に伴って何度も付け替えが行われたらしい。
     講釈師からと地蔵飴なるものが配られた。珍しいことであるが有難い。「蜻蛉は要らないんでしょう。」飴は大丈夫だ。街路樹のハナミズキの実はもう真っ赤だ。「これは食べられませんからね。」「余り紅葉してませんね。」「ボロボロみたいな色だね。」もう少しすれば葉ももっと真っ赤になるだろう。
     更に少し先を左に入り、京王線を横切って住宅地の間を抜けると、雑木林の中に古びた鳥居が立っていた。この鳥居がちょっと珍しい。反りのない笠木も、転びのない柱も丸材で、神明鳥居に似ていて、貫が貫通しているところが違う。林の中でやや急な下りの石段を下りる。
     ここは瀧神社だ。府中市清水が丘二丁目三十七番。大国魂神社の境外末社で、祭神は賀茂別雷命、玉依姫命、賀茂健角身命である。賀茂別雷は、丹塗矢に変身した大山咋神と玉依姫命の間に生まれた神であり、上賀茂神社の祭神である。賀茂健角身は玉依姫の父である。あまり滝に関係するようには思えないが、玉依姫が綿多津見(わだつみ)神の娘であれば水に関係することは考えられる。小さな神社だが『江戸名所図会』にも「滝の宮」として紹介されている。

    滝の宮 当社も六所の宮の末社にして、八幡宮より東南の方にあり。祭神倉稲魂大神なり。者の傍らに少しばかりの飛泉(たき)あり、六所の宮の御手洗池と称す。毎年五月五日の大祭のとき、神幸供奉の輩は、五月朔日よりこの滝に浸りて身を清め、神事にたづさはれりといふ。(『江戸名所図会』)

     「祭神稲倉魂(うがのみたま)大神なり」とあるから、元は稲荷神社だったのだ。現在の祭神は明治以後に決められたものだろう。
     崖の中腹が境内になっていて、小さな祠を壁のない建物が覆い、その壁に騎手が奉納した色紙が十枚ほど、台紙に貼られて張り出されていた。色紙の上部には赤の左馬の文字が印刷されている。私が知っているのは武豊だけだ。ハイジと小町は三浦皇成という名を知っていたらしい。なんでも、ほしのあきと結婚したのだそうだ。ほしのあきは、おっぱいだけを売り物にするグラビア・アイドルではなかったかしら。
     それはともあれ、左馬が招福のシンボルなのは承知していても、その由来は知らなかったので、ついでに調べておく。理由は三つほどあるようだ。

    その由来は、馬には右から乗ると転ぶという習性があるため、必ず左側から乗ることからきている。つまり「左馬は倒れない」として、人生を大過なく過ごせるという意味が込められている。
    左馬の文字の下の部分が巾着の形に似ていることから金運のお守りにも使われたり、普通は人が馬をひいていくところを、逆に馬が人をひいてくる(=招き入れる)ということから商売繁盛に繋がるとされている。
    また、「うま」を逆さから読んだ「まう」が、祝宴での「舞い」を連想させるので縁起がいいという説もある。(日高振興局「馬文化ひだか」)
    http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/05-manabu/04-zatsugaku/05/index.htm

     そこから更に下に降りると、石段の途中にある白木の鳥居は、島木の上に反りのある笠木をもつ典型的な明神鳥居であった。最初の鳥居からはかなりの段差を降りてきたことになるが、石段を降りた脇に、細々と流れる落ちる湧水がある。大国魂神社の例大祭(くらやみ祭り)では、神職、神人、神馬がこの滝で身を清める。「今でも実際にここで身を清めるそうです。」「馬もかい。」「そうです。」

     冬隣騎手も禊の滝の音  蜻蛉

     ここは府中崖線である。案内板を読みながら隊長とロダンが不思議そうに囁きあっているので、府中崖線というのは学術的には馴染みのない呼称なのかも知れない。立川崖線の中で、特にこの辺をそう呼ぶようだ。もう少し東に行くと布田崖線とも呼ばれるらしい。

    立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線(によって多摩川の沖積低地と分けられていて、国立市谷保から青柳にかけて、および昭島市付近や青梅市付近にさらに低位の面を抱えている。それらを青柳面、拝島面、千ヶ瀬面として区別する研究者もいる。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、JR中央線の多摩川鉄橋の付近から東に向かい、立川市役所の南を通って、南武線と甲州街道の間をさらに東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入る。ここに谷保天満宮が崖線を利用した形で置かれている。そこからは甲州街道のおよそ五百メートルほど南を東に進み、狛江市元和泉付近まで続いている。立川崖線は府中崖線や布田崖線呼ばれる。(ウィキペディアより)

     府中市はその北部を国分寺崖線が東西に走り、市域の中央からやや南にこの府中崖線が通り、さらに南を多摩川が流れている。「『東京の自然史』を読み直さなくちゃ。忘れてしまった」とロダンが笑う。私は地学の知識はないが、古代の多摩川が削りだしたハケであろうと思うばかりだ。
     崖線はこの辺から西に行くと、競馬場の北の端から府中本町駅を通り、その先は南武線に沿って分倍河原へ続いているようだ。
     チイさんはもう一度石段を登っていく。「チイさん、そっちに行くの。」「景色がいいから。」しかし階段を登りたくない連中はハケに沿って下の道を行く。一班二班が既にやや入り乱れてきた。競馬場通りに合流するところで、上を行った連中と一緒になる。「競馬場通りっていうのね。」「あっ、本当ね。」
     東京競馬場には東門から入る。入場料は二百円だが、窓口の案内を見ていた若紫が発見した。「回数券を買えば良いのよ。」エライ。八枚綴りの回数券が千円だから三枚買えば良い。「あとで清算しますから、勝手に買わないで下さい。」
     はるか昔に一度だけ来た記憶があるが、競馬場ってこんなに綺麗なものだったろうか。もっと薄汚れていたような気がする。入口に立つ係員も愛想の良い中年女性ばかりだ。入るとすぐに、子供向けの大きな遊具がおかれていて、子ども連れやアベックの姿が目立つ。この競馬場では、「実際に馬たちとふれあえる様々なイベントを行っています。また、お子様向け遊具(サービス)など、ご家族で楽しめる施設が盛りだくさんです!皆様のご来場をお待ちしています!」と言って、子供を誘っているのである。
     「博物館もありますが、今日は寄りません。」ビール工場見学に遅れるわけにはいかないのだ。コースの地図を見れば、まだ見るべき場所は結構残っている。チイさんはちゃんと行程表を作る人だから大丈夫だと思うが、リーダーの話を聞かない人ばかりだから、ちょっと心配だ。
     東京競馬場は明治四十年(一九〇七)に目黒に設置されたのが始まりである。目黒地区の住宅街が拡大して地価が高騰した。大半が借地だったために地主から値上げ要求が激しくなったこと、馬の飲料水の確保が難しくなったこと、敷地六万坪が手狭であったこと等によって、昭和八年(一九三三)十一月にここに移転してきたものだ。重賞レースの名に「目黒記念」が残っているのは、目黒競馬場の記憶を失わせないためである。平成になって大規模な改築工事がなされたので、この建物を私は初めて見ている訳だ。広さは二十四坪、収容人員二十万人の規模だ。
     チイさんに先導されてスタンドに登る。正面右手の方がゴール地点になる場所だ。十一時二十五分まで自由行動と決まった。「ここが三十番ですからね、迷子にならないように。」姫は生まれて初めて馬券を買う積りでワクワクしている。「どうやって買うんですか、教えて下さい。」宗匠だけが買い方を知っている。昔は窓口で連番を叫んだように記憶しているが、今では自動券売機でマークシートを利用するのだ。「ドキドキするわね。」
     今日は大きなレースはないから場内は比較的閑散としている。喫煙場所も制限されていて、こういう日は子供連れでも来やすいだろう。「私はギャンブルはやったことがないな。」ダンディはパチンコも競馬も、もちろん競艇や競輪もしないと自慢する。「ただ一度、ラスベガスに行ったとき、二十ドル限度でスロットマシンをやりました。」私はマージャンしかやらなかった。小町と中将は競艇に詳しかったんじゃなかったろうか。
     姫は十一時二十分発走の四レース(サラブレット系二歳)を買った。芝二千メートル。「何番を買ったの。」「お誕生日です。」「ビギナーズラックっていうものがあるからな。」「当てたら奢ってネ。」姫の買った馬券は当たれば万馬券だ。しかし、こうしてスタンドにいても、大きなモニターを見なければ、実際にはどの馬が勝ったかなんてよくわからない。
     「馬の名前はみんなカタカナだね。漢字じゃダメなのかな。」ダンディが面白いことに気がついた。「そういえば漢字の名前は見たことがない。」私はそんな疑問を持ったこともなく、なんとなく父母の系統を示すのにカタナカが便利なのかと思っていたが、実はちゃんと決められていた。
     競走馬は、馬名登録実施基準に従って名前を登録しなければならない。そして一九二八年以後、カタカナで二文字以上九文字以内と決められた。それ以前には漢字使用も認められていたようだ。しかも現代仮名遣いに限るので、「ヰ」や「ヱ」はダメである。文字数についていえば、外国で登録された場合には十文字を超えても許される。また同時に「競馬と生産に関する国際条約」(パリ条約)によって、アルファベット十八文字以内の表記も登録しなければならない。外国で走る場合に備えているのだろう。
     右手の空に真っ白になった富士山が随分近くに見えて、「鳥肌が立つ」とハイジが感動する。日射しが強く汗が出るほどの陽気だ。こんなに暑くなるとは思わなかった。サングラスを持ってくれば良かった。チイさん自作の干し柿を出してくれた。人数分持って来たのだから重かったろう。「まだ良く熟れていない」と謙遜するがそんなことはない。「蜻蛉は甘いのはダメでしょう」とダンディが咎めるように言うが、何度も言っているように果物と飴は大丈夫なのだ。「あっ、始まりました。」

     干し柿の甘さ嬉しや 千意散歩  ハイジ
     冬うらら姫のしあわせすぐ近く  閑舟
     天高く馬券一枚握りしめ  蜻蛉
     富士光る小春の中の競馬場  蜻蛉

     大スクリーンには馬の群れが映っているが、実際にはどこからスタートしたのだろう。「画面の裏側じゃないか。」「アッ、もっと左だ。」スタンドの右の端がスタート地点だったようで、まだ画面の手前を走っていた。
     肉眼ではどの馬がどう走っているかわからないから、画面と比べながら目を凝らす。一頭が抜け出し、すぐに六馬身程先行する。しかし後続は特に焦って追いかける様子もない。これは最後までもたないんじゃないか。素人の癖に勝手に想像していると、案の定、正面の辺りで数頭に追い抜かれた。「どうだった。」「ダメです。でも楽しかった。」
     「みんな、あんなに叫ぶものなのね。」ゴール地点で見ていたロザリアが笑う。「行けーッ」とか叫んでいたのだろう。ちゃんと観察していた宗匠の報告によれば、姫の買った馬券は三着と五着の組み合わせになったらしい。追い込みが足りなかったというのが宗匠の批評である。

     駆ける馬歓声上がり天高し  午角

     建物を出てパドックを見学する。こんな風になっているのか。先頭を引かれて来るのが白馬だった。「素敵ね。王子様が乗ってくるのよ。」そんな歌があったな。「夢に見た王子様白い馬に乗って宮殿の森を抜け迎えに来たの。」(安井かずみ訳詞『すてきな王子様』)。若い頃の中尾ミエがカバーしていた。しかし私たちの世代では(特にロダンは)白い馬と言えば山城新伍の『白馬童子』を思い出す。
     「数が少ないんじゃないか。障害かな。」確かに七頭しかいない。腹に巻いた番号表示には第二十九回模擬レースと書いてある。「模擬レースだから、新人研修じゃないかな。」
     大半が競馬場初体験だったから、この企画は良かった。姫は初の馬券体験に感激しているし、若紫も今度は一人でも来てみたいと言っている。

     愛想のいい女性係員が並ぶ出口から正門を出ると、石碑が並べられた一画があった。「死んだ馬の墓だよ。」墓石にはサクラメイヂ号、タケノクニオー号なんていう名前が読めた。その隣の斜面には石段を造り、鉄扉を設けた玉垣の中に馬頭観音が祀られていた。近くまで行かなかったから確かではないが、風化の度合いから江戸後期のものではないだろうか。鉄の扉には馬の顔のオブジェが取り付けられている。
     隣には小さな覆殿があった。中に入ってみると木で造られた小さな祠がおかれ、その正面に稚拙な文字で「妙見山妙顕大善神」と書かれた白い札をたてていた。妙顕大善神とは初めて聞く名だが、妙見菩薩なら北斗信仰、神仏習合の神である。日蓮宗にも縁が深い。縁にハローキティが置かれているのもおかしい。ここは妙顕神社であった。府中市宮町三丁目二十一番。
     その先の坂が天神坂だ。その名は当然天神社に由来するのだが、地図を見ても天神社は発見できない。実はすぐ右手の石段を上ったところにある日吉神社(宮町三丁目二十一番)境内にあるらしい。今日は立ち寄る暇もないが、石の標識に嵌めこまれた説明を読んで新しい知識を得た。

    天神社は普通「てんじんしゃ」と呼ばれ、菅原道真を祭神とする天満宮と混同されていますが、本来は、「あまつかみのやしろ」と呼ぶのが正しいようです。そのため、この神社の祭神は菅原道真ではなく少彦名命です。

     私も「普通」のひとなので、天神は天満宮とばかり思っていた。天津神だったか。なるほど調べてみると各地に少彦名を祭神とする天神社がある。京都の五條天神社が最も有名だろうか。この近辺では調布の布田天神社、稲城の穴澤天神社が該当する。ただ少彦名を以て「あまつかみ」の代表とするのはどうしてなのだろう。
     少彦名は神皇産霊神(カミムスビ)、または高皇産霊神(タカムスビ)の子とされるが、一般的には大国主の国造りに協力した小さな神を思い出す。常世から来て常世に戻る神である。常世は海の彼方の理想郷であり、そこからやってくる神が折口信夫のマレビトである。高天原に住んでいたのではないのだから、少彦名はいわゆる天津神とはちょっと違うのではないだろうか。
     「急いで下さいね。」若紫が何度も頻りに気にするの、サントリー工場に二時十五分までに着かなければいけないからだ。第一班だった筈のダンディや画伯がいつの間にか第二班に紛れ込んでいたりして、結局二班制は崩れてしまった。人の話を聞かない人ばかりだからリーダーは大変なのである。
     「なんだか今日は静かじゃないですか。昨日の酒ですか。」ロダンが変なことを訊いてくる。「俺はいつだって静かで、深く反省しながら生きてるよ。」「ハッハッハ。」
     左が住宅地、右が雑木林になっている坂を登りきって綺麗に舗装された道に出ると、「京所通」の綺麗な標識が目に入った。「ここに説明があるわよ。」本を開いた形の石で、右ページに説明、左ページには国衙を描いたらしいレリーフが二枚嵌め込まれている。
     京所は「きょうづ」と読んで、「経所」が転訛したと考えられ、国府の写経所があったとの伝承がある。また、国府所在地には「京」の字がつく地名が多くあるとも言う。国府中心地のメインストリートなのであろう。
     左に大国魂神社を眺めながら武蔵国府跡に入る。百坪ほどの土地を囲んで朱色に塗った掘立柱のレプリカを等間隔に並べ、敷地の奥にコンクリート造りの平屋の建物が建っている。柱の直径は二十センチ程だろうか。「国府跡というのはおかしいね。国衙跡と言うべきじゃないか。」「国衙は役所、それを中心にした地域が国府ね。」敷地に入ると、ちゃんと「国衙跡」とも記されていた。国衙の中でも中心を占める国庁の正殿跡だと推定されている。

    武蔵国の国府は、『和名類聚抄』に「多麻郡に在り」との記載があるものの、所在地は特定されていませんでした。
    江戸時代以降、五説が提起されていましたが、昭和五十年以降の調査により、京所説の旧甲州街道に平行する二条の東西大溝と大國魂神社境内から確認された南北溝に囲まれた南北約三〇〇メートル、東西約二〇〇メートルの範囲が国衙(=国府の中心にある役所区画)と判明しました。
    国衙域内では、掘立柱から礎石建ち建物に変遷する大型建物跡や、瓦やセンの多量出土がみられます。センとは、漢字でツチ編に専門の「専」と書き、古代のレンガのことです。
    武蔵国二十一郡中十九郡の郡名瓦やセンが出土しており、武蔵国の総力をあげた国衙・国庁(=国衙のさらに中心にある中心区画)の造営の姿を現しているものと考えられます。国衙の存続期間は、出土土器等から八世紀前半から十世紀後半までとみられ、他国の国府跡と共通性があります。
    さらに、国衙域内において確認された溝により、東西・南北約百メートルの区画が推定され、この中から確認された大型建物跡二棟が国庁の「正殿」に匹敵する国衙中枢建物跡と考えられています。
    国衙西側部分に相当する大國魂神社境内域と、上記国衙中枢建物跡の保存箇所が指定範囲ですが、大型建物跡部分は整備され公開されています。
    (府中市http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurasu/bunka/maizo/kokuga/index.html)

     本来、武蔵国の中心はさきたま古墳群のある辺りから開発が始まり、出雲系の武蔵国造によって氷川神社が祀られていた。その中心を外れて武蔵国の南端に近いこの辺に国府が置かれたのは何故か。これについては下記の記事が参考になる。

    武蔵国府が設置されたのは七世紀末~八世紀前半と考えられ、以後府中は武蔵国の中心都市として繁栄したものと推定される。しかし市域においては古墳時代のまとまった集落遺跡は現在確認されておらず、強大な豪族の存在を示す大古墳もみられない。武蔵国の中心からかなり南に偏したこの地に国府が設置されたのは、ここが北部の埼玉古墳群(埼玉県行田市)に象徴される旧国造等の勢力圏から外れており、また比較的早くから屯倉が設置され中央の勢力が浸透していたためと考えられている。」(『日本歴史地名大系13 東京都の地名』)

     つまり大和王権の東国進出以前の土着勢力範囲を避けたのである。建物の中はミニ展示室になっているが大したものが置かれている訳でもない。ただ、掘立柱や穴を掘った模型があるだけだ。「こんなに深く掘るんだね」と講釈師が感心している。これだけの太さの柱と深い穴を考えれば、この上に建った建物の規模が想像される。
     けやき通りに出て、馬場大門ケヤキ並木の案内板の前でチイさんは立ち止まる。大国魂神社の参道で、全長五百メートルに約百五十本のケヤキが植えられているのだ。国の天然記念物に指定されているのは起原がかなり古いからだ。

    馬場大門ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、ケヤキ並木南端から五五〇m余北)に大国魂神社の木製の一之鳥居が建立されていました。現在では昭和二十六年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に建立されています。
    ケヤキ並木の起源は源頼義・義家父子が奥州・安倍氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承六年から康平五年までの乱)の平定の途中、大国魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してケヤキの苗千本を奉植したのが始まりと伝えられています。

     府中市の「馬場大門のケヤキ並木 保護管理計画」によれば、その起源について四つの説があるが、いずれも決め手になる証拠がない。
     国府の街路(武蔵国府の街路樹として植栽)、源頼義・義家の奥州行(祈願成就の御礼として苗木千本の寄付、徳川家康の馬場寄進(馬場寄進と社殿造営に際しての植樹)、寛文の造営(幕府による社殿造営に際しての植樹である。
     しかし一九八二年に調査した結果、樹齢は最も古いもので九百年以上と鑑定された。それならば八幡太郎の伝承が信憑性を帯びてくる。源頼義・義家が戦勝を祈願した神社は、武蔵国には珍しくないが、ケヤキの苗木を植えたというのは他では余り聞かない。武蔵国総社に敬意を表したものだろうか。「もう少し駅の方に源なんとかの像が立ってます。」八幡太郎義家の像である。
     この並木は馬場中道とされた道である。かつては境内の東西の外れにも馬場があり、そこにも並木があったようだ。「紅葉が遅れてますね。」確かにそうだ。
     馬場には馬市が立った。古代の勅旨牧に小野の牧がある。小野の県(あがた)は府中から多摩に及ぶ古名で、この辺りは全国でも有数の駒の産地だったのである。

    東馬場、西馬場の馬市は江戸幕府の保護下にあった。毎年の馬市のたびに、幕府は御厩方の役人を府中に派遣し馬を買い上げた。この恒例行事を「府中御馬御買上げの儀」と呼ぶ。幕府の保護の下、大名、旗本、御家人が盛んに府中馬市へ馬を求めたという。
    この馬場の状況が一七二二年(享保七年)に一変する。一七二二年、「御馬御買上げの儀」は江戸城西ノ丸下で開催されることになり、府中馬市への幕府の保護が終焉した。平和になり軍馬の需要が落ち込んだこと、江戸の都市化が進み浅草藪の内や麻布十番に馬市が立ったため府中まで出向いて馬を購入する意義が失われたことが背景にあると考えられている。(ウィキペディア)

     「だから競馬場を持ってきたのかい。」それは分からない。「それでは昼食にします。十二時四十五分にここに集まってください。」府中フォーリスという専門店街に入ってみたが、十二時ちょっと前だから混み合っている。「伊勢丹の九階にレストラン街がある。」「混んでるんじゃないか。」伊勢丹の店内にはそのまま繋がっているので、取り敢えずエレベーターで上ってみた。
     確かにどの店も混んでいるが、一軒だけひとりも客のいない店があった。うどん屋の「まつずみ」である。最初に八人、次いでダンディや宗匠たち四人、碁聖もやってきて、店は私たちの貸し切り状態になってしまった。
     「食べ過ぎると後でビールが飲めないからね。」「ビールは何時だっけ。」「二時半頃じゃなかったか。」ご飯ものもないわけではないが、私は親子うどんにした。七百六十六円也。実はご飯ものにすると千円を超えてしまうのである。
     この時間帯で客が誰もいないのは、相当不味いからではないかと思われたが、極端に不味いと言うほどでもない。そして旨いと感心する程でもない。しかしキツネウドンを食べた宗匠は「味は関西風で合格」と言う。佐賀の人と東国の人とでは味の感覚が違う。「これなら競馬場で食った方が良かったんじゃないか。」「競馬場にそんなものがあるのかい。」ドクトルだけでなく、なにしろ私たちは競馬場については詳しくない。「だって、一日中いるんですよ、飯食う場所がないわけがない」とスナフキンは断言する。
     碁聖から先月の大山から大磯を歩いた時の写真を戴いた。「適当に配ってよ。」写っている人数分だからかなりの枚数になる。「この八咫烏は画伯のために撮ってきました。」勿論本物なんかいる筈がないから作りものである。「足が三本あるんですよね。」姫の言葉に、「ちゃんとここに三本見えますよ」と教える。桃太郎とヨッシーの写真は私が預かることになった。
     全て一円単位の端数が出る。これは結構面倒くさいと思っていると、「おひとり様づつでよろしいですか」と店員が訊いてくる。忙しい店だとこうはいかないから、結局この店を選んだのは正解だったかもしれない。
     十二時半に店を出てトイレに寄っているともう時間がない。前に入っている子供がなかなか出て来なかったのだ。慌ててエレベーターを降りると方角が分からなくなってしまう。暇そうな店員にけやき通り側の出口を訊いき、皆の集まる場所に着いたのは一分遅れたところだった。チロリンとクルリンがまだ来ていないが、チイさんが二人を待つことにして、残りは若紫に先導されて出発する。
     甲州街道を西に向かう。和紙類や小物を商う店がある。「可愛い。」「寄ってみたいわね。」女性はどうしてこういう店が好きなのだろう。「紙よしむら」という店だ。府中市宮西町二丁目十七番二。江戸時代の創業は間違いないらしい。但しある紹介記事に書かれている「十一代将軍家斉の嘉永年間には創業」というのは時代が合わない。家斉が将軍職に就いていたのは天明七年(一七八七)から天保八年(一八三七)のことで、大御所になっても天保十二年(一八四一)には死んでいる。一方嘉永年間は一八四八年から一八五四年である。
     洋服屋の前に「神戸(ごうと)」の地名を説明する石碑が建っている。説明では、郡家(ごほと)の転訛と推定している。郡家は郡衙の意味である。つまり、武蔵国多摩郡の役所があったと推定されているのだ。さっきの国衙とは、いわば県庁と市役所との関係になるか。しかし当然六所明神社に関係すると考えた方が分かりやすくないだろうか。
     ちょっと行くと、交差点の斜め右に由緒ありそうな黒壁の酒屋があった。「国府鶴」醸造元の野口酒造中久本店である。府中市宮西町四丁目二番一。講釈師によれば新撰組の面々が出稽古の帰りに酒を買った店だと言う。店の前の紺の暖簾には、「創業一八六〇年」とあるから万延元年になる。しかし色々調べてみたが、新撰組との直接の因縁は分からなかった。
     その真向かいのこちら側には大きな門構えがある。これが高札場だ。江戸時代のものがそのまま残っているのは珍しい。甲州街道と府中街道(相州街道)が交差する地点である。府中宿は江戸から七里二十六町に位置し、番場宿(宮西町)、本町宿、新宿(宮町)で構成されていて、ここは番場宿のあったところだ。
     江戸から七里半。府中宿全体では、天保十四年(一八四三)時点で本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠二十九軒を含む商店百四十二軒、人口三千人というから、相当に大きな宿場であった。高札に因んで、この辺りは札の辻、鍵屋の辻とも呼ばれる。信号を渡って高札場の前に立つ。

    法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(一八七〇)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六箇所の大高札場をはじめ三十五箇所に高札場があったという。
    府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交叉する所、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに六枚ぐらいの高札が掛けられていた。(案内板)

     「大高場札ってなんだろう。普通の高札場と違うんでしょうかね。高札の種類が違うとか。」ロダンは難しいことを訊いてくれる。確かにこの高札場は大きい。高さ四メートル程で屋根があり、そこに四本の柱が立ち横木が渡されている。高札が六枚掲げられる大きさだ。これまで高札場を復元したものは何カ所か見ているが、これほど大きなものは初めて見る。
     高札場には、幕府の定める基本法の他に、時機に応じて出される様々な町触れが掲示される。「大高札場」自体を説明するものは発見できなかったが、江戸府内の六箇所の大高札場は、日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外、芝車町(高輪)に設置されたと分かった。
     大高札とは、「忠孝親子御札」(日常の生活規範)・「切支丹御札」「毒薬御札」・「御朱印伝馬御札」・「火の元御札」(放火、火事場泥棒の禁止)の五種類を言うらしい。「伝馬」の代わりに「駄賃御札」を数える場合もあったようだ。幕府法制の最も重要なものであり常時掲げられなければならない。本来は将軍の代替わりに当たって書き換えられたが、正徳以来幕末まで書き換えは行われなかった。従って正徳の年号があれば最も新しいものだ。
     それならば、この五枚を常時掲げる場所が大高札場なのではないかと思い当る。つまり、大高札場とは、大「高札場」ではなく、「大高札」場ではあるまいか。専門的に調べた訳ではないから、簡単に信じないように。

     不義密通 恋のおとがめ 高札場  ハイジ
     小春日やお七吉三の噂して  蜻蛉

     高札場と塀に囲まれ、立派な銅葺の切妻屋根の門が立つ。中は「御旅所」である。「お神輿が泊るところです。」

    六所明神より一丁半ばかり西の方、府中番場宿の中ほど、相模街道への岐道、札の辻の傍らにあり。毎歳五月五日大祭の辰、その夜六所の宮の神輿をここに遷し奉る。(『江戸名所図会』)

     五月五日の夜六時、八基の神輿が本殿を出て、七基は参道から甲州街道へ、一基は西鳥居から府中街道へ出てこの旅所へ向かう。最後の一基がここに到着するのが午後九時十五分となっている。そして「野口仮屋の儀」となる。大国主が府中に降臨した際、野口家に一夜を求めた故事に因むというのだが、それが向かいの野口酒造の先祖であろう。神輿は翌六日朝の四時に出発し、各町内を巡った後に神社に帰る。
     格子の隙間から中を覗いて見るとただの空き地だ。戻ろうと信号待ちをしていると、やっとチイさん、ダンディ、チロリン、クルリンが向こうからやって来た。「資料館で会いましょう。」私たちは大国魂神社に向かう。大鳥居を潜ると、参道に露店が並んでいるのは七五三のせいだろう。着物を着た子供、写真を撮る親子の姿が多い。
     今は大国魂神社と呼ぶが、『江戸名所図会』では「武蔵国総社六所明神社」の名で呼ばれている。ここまで引用したいくつかの記事でも「六所明神」の名が出てきたように、明治以前には誰も「大国魂」なんて呼ばなかった。

    本社祭神、大己貴命(おおなむち)。相殿、素戔嗚尊(すさのお)、伊弉冉尊(いざなみ)、瓊々杵尊(ににぎ)、大宮女大神、布留大神(以上六神、これを俗に六所明神と称せり)、天下春命、瀬織津比咩命、倉稲魂大神(以上三神、これを客来三所の御神と称せり。すべて九神、合はせてとも六所の宮と称す。・・・・)

     ちょっと不思議なことがある。『江戸名所図会』によれば、「延喜式内、大麻止乃豆乃(おおまとのつの)天神の社これなり」と書いているのだ。ある説では、大麻止乃豆乃は多摩川の「大真門の津」に由来する。それならばこの地方の地主神であろう。しかし大麻止乃豆乃天神社は論社で、大国魂神社のほかに稲城市大丸の旧称丸宮明神と青梅市の御岳神社が式内社であると主張しており、議論の決着がついていない。そして稲城、青梅ともに主祭神は櫛真知命である。卜占の神のようだが、現在の大国魂神社にその名前がないのも不思議だ。
     『江戸名所図会』では大麻止乃豆乃を大国魂と同一視するが、それは違うのではないか。国司が派遣され国衙ができた時点で、地主神としての大麻止乃豆乃天神は廃されて、代わりに大国魂神が祀られたと考える方が自然だと思われる。
     実は大国魂神についても良く分からない。倭(やまと)大国魂神という神がいた。かつて宮中には天照大神と倭大国魂神を祀っていたが、余りに祟りが強いので崇神天皇のとき宮中から外に出した。天照大神は放浪の末に伊勢神宮内宮に鎮座したが、倭大国魂神の行方は良く分からない。最終的には天理市の大和神社に祀られたようだ。
     これがいつの時点かで大国主の荒魂だと考えられた。ただ一般名詞として、国の霊であり国土を守る神を国魂神と呼ぶ。国魂は国霊である。そして武蔵の国土を守る神に敬意を表して大をつけた。それがいつしか大国主に習合したのではないか。素人の言うことだから、適当に聞き流してもらいたい。祭神筆頭に挙げられている大己貴命は大国主のことだ。
     やがて、広い武蔵国内の神社を回るのはとても大変なので、国内の主な神を国衙のそばに勧請してきたのである。なぜ六かと言えば、六は東西南北天地を現わすからである。「六合」と書いて「くに」と読む地名があるのはそのためだ。
     以前にも武蔵国一之宮はどこかと話題になったことがある。埼玉県の住人としては大宮の氷川神社を推したいところだが、この大国魂神社では次のようになっている。
     一之宮は多摩市の小野大神(小野神社)である。これは先にも触れたように、小野はこの辺り一帯の古名だからその地主神である。二之宮はあきるの市の小河大神(二宮神社)、そして三之宮が氷川大神(氷川神社)だ。以下、四之宮が秩父大神(秩父神社)、五之宮が児玉郡神川町の金佐奈大神(金鑚神社)、六之宮が横浜市緑区の杉山大神(杉山神社)となる。但し室町時代以後の文献では氷川大神を武蔵国一之宮とするものもある。
     まず随身門の手前右手にある「ふるさと府中歴史館」に入る。「特に府中御殿から出土した遺跡に注目してください。三葉葵紋の鬼瓦があります。」考古学を専攻している若紫から注意が入る。家康の府中御殿は国司館跡とされているから、平安期の遺物が多く出土されているのだろう。私は考古学が苦手で、瓦や土器を見ても感動しない性質である。
     小町が感動しているのは、展示ケースに並べられた様々な形をした小さなガラス瓶だ。勿論古代のものである筈はない。大正から昭和初期のもので、飛行機や人形などの形をしている。ジュースやニッキを容れたという。「こういう目薬の瓶があったよ。」私もなんとなく記憶がありそうな気もする。
     若紫の言っていた「三葉葵の鬼瓦」は、四分の一程に欠けている。講釈師は国衙のバーチャルツーリングのコーナーで遊んでいる。「今度は空から見てみるかい。」俯瞰の角度が変えられるのだ。さっき遅れた四人もやってきて全員が揃った。展示品に関心のない人たちは、玄関前のロビーでソファに腰かけている。
     武蔵府中郷土かるたもある。「いちばんはじめに武蔵の国府」、「六所明神武蔵の総社」、「馬場大門の馬の市」から始まるものだ。
     「それじゃ神社に回りましょう。」この時、ドクトルは二階に一人で置き去りにされてしまった。実はドクトルは「こうもり土偶」なんていうものに夢中になっていたのだ。釣手土器の一種だが、蝙蝠の形は珍しいものらしい。大英博物館の土偶展に貸し出されたことがあるそうだ。ただ蝙蝠といっても顔は豚に似ている。

    府中市の武蔵台東遺跡から中期後半のコウモリ形の釣手土器が出土した。出土した釣手土器は口径十五センチ、高さ二十センチで竪穴住居跡の床から見つかった。コウモリをモチーフにした土器は珍しく、土器上部に頭を取っ手に羽と手を現している。(縄文の風景http://www.ne.jp/asahi/landscape/jomon/news.fol/news1997.html

     しばらく自由に散策し、隋身門の外で待ち合わせることになった。随分新しくて金ぴかの門だと思ったら、この門は去年、「鎮座一千九百年記念事業」として完成したばかりだった。一千九百年というの、神社創建とされる景行天皇四十一年を西暦百十一年としているからで、歴史的には全く根拠はない。第十二代景行天皇はヤマトタケルの父であるが、実在は疑わしい。古事記の景行天皇記は、ほとんどヤマトタケルの記事で埋め尽くされているからだ。しかしこれは余計なことであった。

    門は高さ八m幅二十五m、門扉は高さ四m幅四・五m。扉一枚は畳五畳分程。国産の檜で製作され、屋根は銅板葺き、木造の門としても希に見る大きさです。正面には随神像、後面には恵比寿大國が納められています。
    納められている随神像は大國魂神社氏子青年崇敬会が独自に浄財を集め、東京工芸大学で製作されました。俗に右大臣左大臣と呼ばれる「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」という門の神様です。
    享保二十年(一七三六)に是政出身の代官川崎定孝により奉納された「随神像」に倣い製作されました。製作には古くから伝わる顔料、材料を使用し、江戸時代に作られたであろう行程で製作された近年では類を見ない「随神像」です。
    (大国魂神社HP http://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/)

     スナフキンは何も言わなかったから、東京工芸大学で作ったなんて知らなかったんじゃないか。知っていたらもっと自慢したと思う。随身門は随神門と書く場合もあって、どちらでも良さそうだ。磐間戸は岩門(石門)と書かれることもあるように、門を守る神である。門前に着物の女の子を立たせて写真を撮る家族も多い。
     獅子山の獅子は「阿吽が左右逆だって言うのよ」と若紫が言うが、左右逆になるのは特に珍しいことではない。それよりも面白いのは、大国魂神社七不思議の中の松に纏わる話だ。境内には松が一本もない。植えても枯れてしまう。また府中では正月の門松にも松を使わないと言う。はるかな昔、大国主と八幡神が武蔵野を散策していた。途中で別のコースに別れた八幡を、大国主は待ち続けたがいつまでたっても八幡は現れない。「待つのはいやだ」と大国主が呟いたので、それ以来松が生えなくなったというのである。
     伝説はどうでもよいが、門松に松を使わないというのが面白い。代わりに杉の葉を使うそうだ。それでは門松とは言えないではないか。念のために調べてみると、他に神戸の生田神社(杉の枝)、千葉県市原の姉崎神社(榊を使う)も同様に松を使わない。但しこの二か所の伝承には大国主も八幡も登場しない。
     「東京の地酒」の酒樽が積み上げられている。当然のように国府鶴がある。「丸眞正宗があるじゃないか。」講釈師は自分では飲まない癖によく知っている。岩淵の小山酒造が造る酒だ。「行ったじゃないか。」その前を通ったことがあったかも知れない。その他には、嘉泉、多満自慢、喜正等。「東京都唯一のビール工場」としてサントリーのビールケースも並んでいる。菊の花もの展示されている。
     七五三のお祓いを受ける連中で混雑している。スナフキンも子供の七五三ではここに来たという。「五千円も払ったのにさ、ちゃちゃっと済んじゃうんだ。」大量に処理するためには仕方がないだろう。

     ゆらゆらと参道歩む七五三  閑舟
     幼子が 落ち葉かさこそ 晴れ姿  ハイジ

     「こっちから本殿が見えるんだけど。」。長い行列を掻い潜るように若紫が連れて行ってくれたのだが、塀の内部は幕で覆われていて見ることができない。本殿と拝殿との間の白州に特設の祈願所を設けているのだ「珍しい構造なのよ。」説明を読むと、「神社構造としては、三殿一棟は特異である。構造は九間社流造、向拝五間、銅板葺、三間社流造の社殿三棟を横に連絡した相殿造」とある。
     三殿一棟というのは、拝殿と本殿ともう一つ何かを繋いでいるのかと思ったが全く違って、一番奥にある本殿のことだった。あるサイトで写真を見つけたので確認してみた。横に広がった一棟の本殿が、向かって左から東殿、中殿、西殿と区画されている。「横に連結した」というようなイメージではない。
     一之宮から三之宮が、西殿には四之宮から六の宮、中殿には御魂大神・大国魂大神・ 国内諸神が祀られている。東殿と中殿の間の空間には金の獅子、中殿と西殿の間には銀の獅子が背伸びをするような格好で鎮座している。
     (http://kodairanoyama.wordpress.com/2011/05/16/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE-2/を参照した)
     また流造(ながれづくり)とはこんなものだ。

    流造の構造は、切妻造・平入であるが、側面から見た屋根形状は対称形ではなく、正面側の屋根を長く伸ばす。屋根には大社造同様の優美な曲線が与えられる。この点で直線的な外観の神明造と異なる。・・・・
    桁行(正面)の柱間が一間(柱が二本)であれば一間社流造、三間(柱が四本)であれば三間社流造という。(ウィキペディア)

     つまり三間社流造を三棟横に並べたので九間社流造になるのだ。
     「醸造の神様ですよ。今日ビールを飲む人は拝まなくちゃいけません。」姫が呼ぶのは松尾神社である。巽神社は市杵嶋姫命(弁財天)を祀る。水神社。そのまま本殿の裏を回っていくと、林の中には見事な大木が何本も立っている。「巨樹だね。」中将が感心するまでもなく、巨樹、巨木、なんと言ってもよい。根はぼろぼろになっているのに、ちゃんと生きて立っているのもある。私たちの先を行く若い娘は、ところどころに設けられた末社に一々立ち止まって拝礼している。「エライわね。」
     「東照宮よ。」西側を通り抜けようとした私たちを若紫が引き止める。確かに、小さな表札に小学生の書道の手本のような文字で「東照宮」とある。「家康の棺を久能山から日光に遷すときに、ここに泊ったんですよ。」大国魂神社のホームページでは国府の斎場に泊ったとあり、別の記事では府中御殿に泊ったとある。いずれにしても、それを記念するために秀忠によって元和四年(一六一八)に造営された。言われなければなかなか気づきにくい、小さな社だ。
     家康の棺は元和三年(一六一七)三月十五日に久能山を発ち、その日は善徳寺(富士市)に泊った。以後、三島(二泊)、小田原(二泊)、中原、府中(二泊)、仙波(川越・四泊)、忍、佐野、鹿沼(六泊)と辿って四月四日に日光に到着した。それなら、この宿泊地全部に東照宮を造営しても良いと思われるが、そうでもない。昔はあったのだろうか。江戸時代には全国に五百以上の東照宮があったものの、明治以後は廃社や合祀によって数が減り、現在では百三十社ほどになっているようだ。
     住吉神社、大鷲神社を過ぎて中朱雀門に戻ると雅楽の音が近づいてきた。錫杖を持った白い水干(?)の二人に先導され、朱の狩衣の神職、松葉色(?)に装った三人の伶人(笙、篳篥、龍笛)、桜色の衣装の二人の巫女が続く。その後ろから白無垢綿帽子の花嫁、黒紋付の花婿が社殿に向かってゆっくりと歩いて来たのである。篳篥の音が素敵だ。

     菊日和 花嫁御寮の うなじかな   ハイジ
     篳篥と笙に静まる秋の宮  蜻蛉

     「わっ、嬉しい。」「最近じゃ綿帽子は珍しいよ」と小町が囁く。こういう大きな神社で、まるで関係のない大勢の人を前にして式を挙げるのはどんな気持ちなのだろう。二人には縁も所縁も全くない連中が一所懸命カメラを向けている。勿論私もそうである。
     「あれが鼓楼ですよ。」姫に言われた建物は私も気が付いていた。鐘楼と同じように下の層が末広がりの袴腰の形式だ。鐘がないし、背が低くてずんぐりしている。鐘ではなく太鼓を鳴らすのである。結婚式の列が途切れるのを待って近づいてみる。

     鼓楼は、太鼓を懸け時刻を報ずるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられた。そして江戸時代になると鐘楼と相対して造られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知られている。
     大国魂神社では慶長年間の造営の祭に、三重塔と相対して建てられたが、正保三年(一六四六)の大火で焼失、二〇〇年余たった嘉永七年(一八五四)に再建されたのがこの鼓楼である。・・・・
     その後、三回程修理が加えられているが、よく当初の原形を保っており、神社では数少ない貴重な建築物である。
    http://www.ee-tokyo.com/tokyo-100/ookunitama-jinjya/ookunitama.html

     宗匠が神社本庁の「生命の言葉 十一月」を貰ってきて配った。若山牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」である。「良いじゃないの。蜻蛉にぴったりだね」と小町が笑う。「牧水はあちこちに出没してるよね。」おそらく日本全国に歌碑がある。しかし、この歌と神社本庁との関係は謎だ。
     鶴石、亀石というのもあるようだが、特に説明は書かれていない。手水舎の龍の彫刻が見事だ。本当なら随身門を潜る前にここで清めなければならないのだが、私たちはそういうことを完全に無視していた。
     「ここの社格はなんですか」とロダンはいつも難しい質問をしてくれる。適当に官幣中社かなと口走ったが、実は官幣小社であった。「こんなに大きいのに小社ですか。」こういうものは明治以降に適当に決められたもので、要するに政府が出す補助金(供進金)の額に依るのではないか。多額の補助金を貰いたければ必死になって運動した筈だ。
     因みに大宮の氷川神社は官幣大社だが、武蔵一之宮とされる小野神社は郷社である。そして武蔵二之宮あるいは五之宮とされる金鑚神社は官幣中社なのだから、好い加減なものだ。神社の「格」を考えるなら、今でも延喜式を持ち出した方が良いかも知れない。また官幣社と国弊社は菊花紋の使用が認められている。
     西の鳥居を潜って、府中街道を突っ切ると悲願山善明寺だ。天台宗。府中市本町一丁目五番四。国の重要文化財「鉄造阿弥陀如来座像」を所持しているが見られる訳ではない。手入れが良く施された静かな庭を見るだけだ。講釈師のいない青面金剛の板碑が立っている。やや西に傾き始めた太陽が庭木の間から洩れて来る。

     武蔵野の寺に絡まる烏瓜   ハイジ

     山門前に立つ大黒天の石碑に「依田伊織居士感得」の文字があるのだが、この人物が分からない。『朝日人物事典』によれば、天和元年(一六八一)から明和元年(一七六四)にかけての人である。本名は依田貞鎮という。

    江戸中期の神道家。『旧事大成経』の研究者で儒仏にも通じた。江戸時代の墓碑銘・行状類の集成『事実文編』の「依田伊織墓碑銘」によると、武蔵国(東京)府中出身で、諱は貞鎮、字は伊織、号は偏無為、氏は母方の五十嵐だったが、のちに依田と改めたとある。父母を亡くしたあと江戸谷中に住し、神学者となり門人は沙弥証海をはじめ四百人を数えたという。また、京、大坂にも出向き、当時、叡山末寺であった四天王寺に、山王一実神道流の神事作法を伝えている。(『朝日人物事典』)

     この寺の開基は古いが、中世の戦乱で荒れ果てて由緒は全く分からなくなっていた。それを再興したのが依田伊織である。ところで山王神は延暦寺の守り神であり、祭神は大山咋神と大物主(または大国主)とされた。それを天海僧正が発展させたのが山王一実神道である。天海によれば、山王権現は大日如来であり、かつ天照大神である。元々、大日如来と天照大神が同一視されるようになったのは真言密教によるのだが、天海はそれを天台の山王信仰に結び付けたのである。
     「時間は大丈夫なの。」「ちょうど良い時間。ぴったり予定通り。」府中本町跨線橋を降り府中本町駅の東側に出ると、駅前のマンション建築予定地のような空き地に「家康府中御殿」の看板が建っていた。

    二〇〇八年(平成二〇年)十月から二〇一〇年(平成二二年)にかけて、JR府中本町駅東側に位置するイトーヨーカドー府中店の立体駐車場跡では、イトーヨーカドー府中店の開発計画に伴う発掘調査が実施されました。
    その発掘調査の結果、国内でも類例のない初期の国司館(こくしのたち)と考えられる国府の重要な施設跡と、徳川家康府中御殿関連の遺構が発見されました。
    この場所は、地元の人たちがハケと呼んでいる府中崖線(段丘崖)の緑辺部に位置します。
    現在でも多摩丘陵を一望することができますが、昔は富士山や多摩川の流れも一望することができた府中有数の景勝地でした。
    このようなことが理由で、ここに国司館が置かれたと考えられています。(府中市の史跡 http://members3.jcom.home.ne.jp/tokyo.fuchu/fuchu-siseki.htm)

       さっきは大国魂神社の東に国衙の跡を見たのだが、ここが国司館だとすれば歩いて十分ほどの距離であり、通勤圏内としてはちょうど良い距離だ。ただ国司といっても、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)、目(さかん)の四等官があって、武蔵国には九人前後いたようだ。守の屋敷だと言って良いのだろうか。国司の制が始まる以前の支配者の館ではないかとの説もあり、謎はすっかり解明された訳ではなさそうだ。
     家康御殿にしても、天保の『江戸名所図会』の時代には跡形もなくなっていて、詳細は分からない。

    妙光院の前の岡をいふ。上古、国造居館の地なり。御入国の後、この旧跡に省耕の御殿を建てさせられしより、大樹(将軍)しばしばここに入らせられたりしかども、正保三年丙戌(一六四六)十月十二日、府中本町より出荷してこの御殿焼失せり。その後は御再興もなきにより、享保年間(一七一六~三六)、里民の乞ふに任せ陸田となし下さるるとなり。ゆゑに土人は御殿地と称せり。このところの眺望、もつとも勝れたり。

     跨線橋を戻って線路の反対側に出る。少し行くと「旧観月橋」という標柱が現れた。『江戸名所図会』に言う「このところの眺望、もつとも勝れたり」という説に合致する。

    ここに、妙観堀に架かる観月橋がありました。
    橋の名は、橋が小高い位置に架かっていたため、月を観賞するのに格好な橋だったことに由来するようです。

     妙観堀はこの辺では暗渠になってしまったから、その面影はない。国立市の辺で多摩川から引いた府中用水である。「ここからは若紫が先導します。」「だって入口が分からないわよ。」「大丈夫。そのまま行けば良いのです。」矢崎町防災公園では、ジャージ姿の若者が数人芝生に座って何かの指示を受けている。入口前では中年の女性がひとり、「ウォーキングの方ですか。あとで寄って下さい」と声をかけてくれるが、それが何を意味しているのか不明である。防災訓練か何かの行事だろうか。かつて東京競馬場前駅(国鉄下河原線)があったところだ。
     地図を見ると、この西側に「三千人塚」があるようだ。分倍河原の戦闘の死者を祀ったものらしい。そしてすぐにサントリー武蔵野工場の入り口に着いた。府中市矢崎町三丁目一。

    右に見える競馬場 左はビール工場 この道はまるで滑走路 夜空に続く・・・・(荒井由美『中央フリーウェイ』)

     姫はやハイジ、マリーはこの歌が懐かしいと頻りに口にする。不思議なのは、チイさんがこれを自身の「青春」に重ねていることだ。

     秀麗や ユーミンハミング フリーウェイ  ハイジ
     青春の中央フリーウェイ 熟年は歴史散歩と馬い麦酒よ  千意

     しかし私はユーミン的世界にはついていけない。もっと言えば反感さえ覚えるのは、私の料簡が狭いのである。これは昭和五十一年(一九七六)の歌である。ちょうど私が府中営業所に在籍していた頃だが、私にはまるで縁がなかった。歌の世界はアイドルに占領され、一方でユーミンや中島みゆきに代表されるニューミュージックが次第に勢力を増してきていた。しかし私は分倍河原の四畳半のアパートに住み、テレビを持っていなかったから、飲み屋に流れる有線放送で古い歌謡曲だけを聴いていた。
     時々は自動車教習所に通っていた。しかし、会社の命令で免許を取らなければならないのに、仕事が終われば酒や麻雀に誘われる。誘われれば断ることなんか思いもよらず、教習所にはほとんど行かないままで、六か月の期限はあっと言う間に過ぎてしまった。まだ第二段階に進んだばかりで、つまりこのとき免許は取れなかった。呆れ果てた所長は私を放逐することに決めた。正しい判断である。翌年、千葉営業に転勤になって、心を入れ替えたから漸く免許を取得した。
     また詰まらないことを思いだしてしまった。ある時、給料日に先輩と一緒に飲んでいた。なんとなく物足りない気分で歩いていると、凄愴とも言うべき美女にキャッチされた。バカな二人は彼女に従って怪しいバーに入り込む。東府中は米軍基地の町でもあったから、所々にいかがわしいバーが存在していたのである。暗い店内に入って眼が慣れると、そこに屯していたのは人三化七とも言うべき恐るべき物体たちである。いつの間にかその美女はいない。「気がつかなかったのかい。あれは男よ。」翌朝、折角貰った給料は一万円も残っていなかった。
     私は何をしていたのだろう。要するにユーミンが明るく軽快に歌った昭和五十一年は私にとってどん底の時代だった。つまり私は嫉妬していたのであろう。

     しかしそんなことはサントリー工場には関係ない。玄関傍の壁にはユーミンの色紙が飾られている。
     思うように行動してくれない連中を引率して、若紫は相当疲れてしまったようだ。二時三十分が見学開始だから、十五分程時間があるので売店で土産を物色する。学習させて貰って、しかもただでビールを飲ませてくれるのである。多少なりとも何か買わなくては申し訳がない。ビールうどんなんていう代物がある。お土産人気ナンバーワンと書かれているが食指は動かない。鮭トバの燻製が旨そうだ。「ウィスキーの香りがするんじゃないですか」と姫が買っている。ウィスキーの樽材をチップにして燻製したものだと言うので一つ買った。「時間があり過ぎる」と言いながらダンディは何度もレジに足を運ぶ。
     二十五分になってエレベーターの前に並ばされた。私たち二十三人のほか、グループや親子、若いアベックなどが加わって見学が始まる。今日中に運転する予定がある人には、目印の名札が渡される。「スタッフが間違えてビールをお薦めしないようにするためです。ご協力ください。」可愛らしい案内嬢が丁寧に説明してくれる。「中将は児玉に着いてから運転するんじゃないの。」「今日は車じゃないからね。」
     昭和三十八年(一九六三)、サントリー初のビール工場として建設されたのである。大手三社の寡占状態から、麒麟がガリバー企業に向かって急速にシェアを伸ばしている時代である。ウィスキーとは違って、営業としては辛かったに違いない。昭和三十八年の麒麟のシェアは四十六・六%、十年後の四十八年には六十一・四%となっている。
     映像で概要を学習してから、いよいよ製造工程の見学に入る。汚れた空気を持ちこまないように、エアカーテンを通らなければならない。小学生の子供がふたり、そのなかの小さな方がちょろちょろと動いて喧しい。案内嬢の前に行ってはいけないというのに、すぐに前に出ようとする。先を行く母親は何も言わないから私が「静かにしろ」と注意する。母親は楽しいかも知れないが、子供はちっとも面白くないのは当然だ。しかし母親は振り向きもしない。
     コバケンは若い営業マンの頃、お客を連れて何十回となく来た工場だ。しかしその頃の面影は全くないと言う。「案内嬢に昔のことをちょっと言ったけど、彼女達の生まれる前の話だからね。キョトンとしてた。」
     この工場ではザ・プレミアム・モルツを製造している。必ず「ザ」を付けて呼ばなければいけないらしい。最初は原材料について学習する。麦芽を食うというのは初めての経験だ。香ばしくてなかなか良い。これは二条大麦である。「二条大麦って麦茶にするやつですか。」姫が思いついて質問するが、どうやら違った。酒の原料になるのは二条大麦なのだが、六条大麦というものがあって、これが雑穀や麦茶になるらしい。
     それにチェコで栽培されるダイヤモンド麦芽を加えるのである。「チェコはビールの故郷です。」ダンディはなんでも詳しい。ピルスナータイプと言うものらしい。また知らない言葉が出てきてしまった。
     そもそも(と偉そうに言っても初めて知ることであるが)、ビールは製造上では上面発酵のエールと下面発酵のラガーの二種類に大別される。そして日本で販売されるビールの大半はラガーの中のピルスナータイプになる。ホップの苦みが利いてすっきりした飲み口になることが特徴だという。
     ビールの原料には更にホップがなければならない。「匂いを嗅いでみてください」と二つの容器を鼻先に突きつけられる。ビターホップとアロマホップでは、ビターは香りがきつい。ザ・プレミアム・モルツは良質なアロマホップ、その中でもザーツホップ(チェコ)とハラタウホップ(ドイツ)を使用しているのだそうだ。そもそもホップとは何であるかが、無学な私には分かっていない。

    ホップ(学名:Humulus lupulus)はアサ科のつる性多年草。雌雄異株。和名はセイヨウカラハナソウ(西洋唐花草)。ホップという名は、ベルギーのポペリンゲ(Poperinge)という町で植樹されたことに由来している。
    毬花はビールの原料の一つで、苦味、香り、泡に重要であり、また雑菌の繁殖を抑え、ビールの保存性を高める働きがある。
    全国の山地に自生する非常によく似た植物にカラハナソウ(H.lupulus var. cordifolius)があり、しばしばホップと混同される。これはホップの変種であり、ホップに比べて苦み成分が少ないのが特徴である。本来のホップは、日本国内では北海道の一部にのみ自生する。(ウィキペディア)

     「ビールには必ずホップを使うのかい。」「そうですよ。」「古代のエジプトもそうだったのかな。」ドクトルはあくまで追求するが、コバケンが「古代は知らないけど、近代ビールはみんなそうですよ」と応えている。
     水は深層地下水百パーセントを使用する。大勢だから必死に前にでないと良く見えない。仕込室の大きなタンクを見て次の場所に行く。壁際の天井にプロジェクターが仕込んであって、案内嬢がリモコンを操作すると、壁に画面が映し出される。「スゴイわネ。どこでも映るんだもの。」「最近はこんな風になってるのね。」実際の設備を見せたくない、あるいは見せるのが難しいものは、こうして映像に映してくれるのだ。
     発酵・貯酒・濾過と製造工程に従って進んでいく。廊下の突き当たりで、今まで映像を映していた壁が左右に開いた。「オーッ。」中は銀色に輝く円筒状のトンネルになっていて、エスエフ映画に入ったみたいだ。かつて実際に使われていた貯蔵タンクのようだ。
     缶詰、箱詰めの工程も窓から覗き込む。この工場は基本的に撮影が許されているのが珍しい。「フラッシュを切った方が良かったんじゃないの。最後のはダメね。」仰せのとおりである。無精をしてはいけない。

     説明はいいから早く飲ませてよ  午角

     画伯も案外せっかちだ。そしてお待ちかねの試飲タイムになり、テーブルがいくつも置かれた広い部屋に案内された。三時十五分。アルコールの飲めないひとにはジュースやノンアルコール飲料も用意されている。グラスは二百四十ミリのものらしいから、三杯飲んで缶ビール二杯分になる。ナッツやオカキを詰めた特製の小袋が容器に入れてある。
     カウンターには数杯分のグラスが用意されているのに、新しく注いでくれる方に手が伸びるのは自然の感情である。しかし「こちらもどうぞ」とお嬢さんが何度も言うので、私は既に注いであるグラスを手にした。ザ・プレミアム・モルツである。
     居酒屋でアルバイト店員が注ぐビールとは全然違う。泡が実にクルーミーで優しい。ビールの美味い不味いは、案外注ぎ方で決まるかも知れない。
     「あれもつまみかい。」スナフキンの言葉でダンディの方を見ると、テーブルには空になったポテトチップスの缶が転がっている。小町の前にもある。「違うんじゃないの。持ち込みだよ。」こういうところで持ち込みのつまみは拙いだろう。「すぐに仕舞うようにって注意されちゃった」と小町が首をすくめている。
     ダンディや宗匠は予想通りきっちり三杯飲んでいるが、私は二杯で終わりにした。二杯目は単なるモルツにする。ビールの味が分からない私はこっちの方が美味いように感じた。ハイジは一杯のビールでほんのり赤くなっている。制限時間はあと五分もないのにクルリンが二杯目を取って来たのには驚いた。そんなに飲む人だったのか。「私が半分貰いました。」ダンディが言うけれど、それにしてもエライ。若紫は「あと五分欲しかった」と嘆いている。二杯目は半分しか飲めなかったらしい。

     銘柄は気にせず旨し生ビール  午角
     冬隣泡の優しき酒に酔ふ  蜻蛉

     ビールの上手い注ぎ方を聞くとためになる。グラスを真っ直ぐ立てて、なるべく高いところから勢いよく半分ほどを注ぐ。暫くして泡が落ち着いたところで、グラスを斜めにして、今度は静かに注いでやれば良い。(後日、姫は自宅で試してみたが同じようにはならなかったと報告してきた。簡単そうだが熟練が必要か。)三時半になった。試飲はこれでおしまいである。
     「リュック忘れてますよ。」皆が席を立ったあと、ひとつ残されたのは誰のだろうか。「ここは若旦那が座ってたよ。」私が持って歩き始めると、片付けに来たオバサンたちが不審そうに、「同じグループかしら」「知らないわ」等と囁いている。「仲間ですから。」
     若旦那は少し赤くなった顔でのんびり土産物を物色していた。「あっ、忘れてましたか。ダメだね。」シャトルバスが出るまで少し時間がある。ロダンはアリバイ作りのためにマドレーヌを買う。宗匠は三杯のビールですっかり幸せな気分になって、サントリーレディに「シアワセ」を連呼する。

     小春日やしあわせなりに笑みもらひ  閑舟

     宗匠は今日の句で二回も「しあわせ」と言った。五十分発のシャトルバスに乗り込む。さっきの子供連れの母親が慌てて車を降り、しばらくして戻ってきた。今度は大きなキャリーバッグを引いている。こんな大きなものを忘れるのか。生意気な子供を忘れなかったのは幸いである。「このバスが府中本町まで行ってくれればいいんだよ」と小町は無理なことを言う。
     五分ほどで分倍河原駅に着いた。「これから新田義貞を見に行くんじゃないの。」「そこに像がありますよ。」前脚を挙げた馬に跨り、剣を振りかざす新田義貞の像がロータリーに立っていた。「そうか、ここからまた歩くのかと思ったよ。」コバケンはまだ歩き足りないのである。

     身の丈を知る生きざまや草紅葉  午角

     新田義貞が身の丈を知っていたかどうかは議論が分かれるだろう。小手指の戦いで敗北した鎌倉方は、分倍河原で新田軍を待ち受けた。元弘三年(一三三三)五月十五日の戦いでは鎌倉方が勝ち、新田軍は国分寺辺まで敗走した。国分寺が焼亡したのはこの時である。翌日新田軍は未明に急襲して大勝利を収める。これは太平記でお馴染みだが、その後も享徳の乱で鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏が戦うなど、多くの戦闘が分倍河原で戦われた。鎌倉を守る最後の防衛線が多摩川だった。「分倍河原古戦場の碑」は、ここと中河原駅とのちょうど中間辺りに建っている。

     宗匠の万歩計で一万四千歩。八キロ弱というところだろうか。反省会は府中で行われるが、参加しないひととはここで別れる。しかし地理関係が良く分かっていない人が多い。南武線と京王線の乗り換え駅だから、帰る人は南武線で一駅の府中本町で武蔵野線に乗り換えればよい。「スナフキン、案内してよ。」「エーッ、俺がか。」仕方がないではないか。スナフキンと若紫は高校の同級会で立川まで行くのだから。
     ホームに降りると既に電車は待っている。「次にするのかい。」「それに乗って下さい。」乗りこむとすぐに出発する。ヤレヤレ。ところが府中駅に着く間際に姫から電話が入った。そう言えば車両に姿が見えない。「どこですか。」府中本町でJRの方に行ってしまって乗り遅れたのである。「改札で待っている。新宿方面に乗って一駅だからね。」本日最後になって姫置き去り事件が発生したのである。
     参加者は十三人で、チイさんが「土間土間」の飲み放題を予約してくれている。店内に入った途端、未成年者はいないかと質問された。「顔を見てくれれば分かるよ。」「すみません、規則ですから。」テーブルが四つある一部屋が貸切状態になった。
     今日はもう最初から焼酎を飲みたい。メニューを見れば、芋焼酎はただ一種類「なんこ」というのだけがある。「どういう焼酎ですか。」ロダンに訊かれても私だって知らない。店員は「イモ焼酎です」と答える。芋焼酎がこれしかないから注文しているのだ。「若い人に人気があります。」要するに何なのかまるで分かっていない。後で調べてみると、甲類乙類混和のサントリー製品であった。そうか、府中はサントリーの街である。しかし比率(甲類七十五%、乙類二十五%)を見れば殆ど甲類に近い。ホワイトリカーに香りを付けたというようなものではないか。
     そもそも「なんこ」とは何であろうと調べてみると、薩摩拳という酒席の遊びにいきついた。これに由来するのだという。

     薩摩拳とは、鹿児島県と宮崎県南部に残る酒席の遊び。向かい合った二人が、それぞれ象牙製の籌(かずとり)や杉箸などの三本のナンコ珠(長さ十センチ程の箸などを使う)を持ち、うち何本かを拳の中に隠して出し合い、相手が持っている本数を言い当てたり、双方合計の本数を言い当てる拳遊び。
     ナンコ遊びともいう。負けた方は焼酎を飲む。勝った方も「花」と称して献杯をすることもある。地域によって本数の呼び方に独特の用語がある(ウィキペディア)

     麦焼酎には「わんこ」なんていうものもある。これも甲乙混和(甲類八十%)だが、「日本ならではのお椀で飲む楽しい宴席シーンのイメージを込めました」というものだ。どうもね。コバケンには申し訳ないが、私はこういう命名法が好きではない。大の男が「わんこ」なんて注文出来るものか。そもそも「日本ならではのお椀で飲む」なんて風習はいつの時代のことを言っているのだろう。
     「テーブルがすぐに一杯になりますから、できるだけすぐに取り分けて皿を片づけて下さい。」コース料理はこういう苦労がある。特に若者向けの店では、これでもかと言うほど皿が出てくるのだ。鍋は三つ出てくる筈だが、「宗匠が鶏肉を食べられないので、一つはモツにしました」とチイさんが気を利かせている。
     注文の手間がないのは良いが、冷奴がないのが惜しい。鶏鍋にも豆腐は入っていなかった。宗匠はいつもと違って、かなり饒舌になっている。よほどサントリーが気に入ったようだ。最近は能楽鑑賞を始めたらしい。「能楽堂で若旦那にバッタリ出会ってしまった」と言う。
     チイさんが、朝と同じようにチラシの裏に描いた絵を開き出した。最初の一枚には鳥が三羽描いてある。「これは何でしょう。」「八咫烏じゃないの。」全然違うネ。サントリーじゃないか。「正解です。それじゃ次。」今度は鳥が二羽の絵だ。これは分からなかったがニトリであると言う。「ニトリって札幌だよね。」そうなのか。ニトリとは聞いたことがあるようだが、それが何なのか私はまるで分かっていない。「それじゃこれ。」一羽になった。隣のオサムはまるで見当がつかないという顔をしているが、私はすぐに分かった。「ヒトリだよ。」「そうです。」もしかしたら私は天才かも知れない。
     六時半近くなってお開きとなる。チイさんの作品は、オサムが今度会社の宴会で使うように託された。ひとり二千八百円なり。

     なんだか眠くなってしまったが、しかしカラオケに行かねばならぬ。「行きませんよ」なんてロダンは言い張るが、それも一瞬のポーズである。すぐに先頭に立って、「そこにビッグエコーがあるじゃないですか」と張り切る。ここで帰る人のためにチイさんが府中本町まで案内する。
     受付しているところでチイさんが追いついた。部屋に着けばまずドリンクを注文しなければならないが、姫はその間も惜しそうにすぐに機械を操作して歌い始めた。「とにかく注文してよ。」チイさんも歌う。マリーも歌う。碁聖と姫がデュエットを始めると、「バテレンの歌だな」とロダンが聞き慣れたセリフを喚く。
     暫く静かにしていたオサムが沢田研二の『勝手にしやがれ』を歌うと、「ジュリー大好き」と姫から声がかかる。私たちの中ではこういう歌は今まで歌われたことがない。年齢の故である。しかしオサムがこの歌をリアルタイムで知っている筈はないので、年上の連中とばかり飲んでいるせいだ。おまけに『女の操』なんて歌も歌ってしまう。
     私が折角選んだのに、『怪傑ハリマオの歌』も『エイトマン』も『美しい十代』も、みんなロダンに歌われてしまった。隊長が『瀬戸の花嫁』を歌い始めたので心配になった。「泣くわよ」とロザリアが口にした瞬間、案の定涙声になる。不思議なことだ。ロザリアの『琵琶湖周航の歌』はなかなか良い。
     チイさんは随分上手くなった。これも学習のお蔭であり、全く学習しないロダンは少し反省しなければならない。
     二時間でひとり千八百円なり。最初の見積通りだからロダンは感激して、受付の若い女性に握手を求める。
     また大国魂神社の脇を通って府中本町駅まで歩き、武蔵野線に乗る。私はかなり酔っているようで少し頭が痛い。北朝霞でオサムと一緒に降り、朝霞台で上り下りに別れた。

    蜻蛉