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    第四十四回 大名屋敷跡を訪ねて
      平成二十五年一月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.01.20

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     旧暦十二月一日、晴天。朝は寒いが、予報では昼頃には少し気温が上がる筈だ。ここ数日で、団地の傍の民家の庭から伸びる蠟梅の蕾がずいぶん綻んできた。正に蠟月に咲く花だ。しかし今年は東北の大雪が気にかかる。雪下ろしが大変だろうな。
     それを思えば、今年最初の江戸歩きは晴天に恵まれて良かった。雪国の人には申し訳ないが、全員に何事もなく平穏な一年であることを願いたい。年が明けると言うことは、それだけメンバーの年齢が上がることだから。
     今回は閑舟宗匠の企画で、中心テーマは屋根や瓦を中心に建築様式を確認することだ。私は何冊か本を読んでも、すぐに忘れてしまってなかなか覚えられないでいるから有難い企画だ。但しコースは馴染みのある場所だ。集合場所は上野駅公園口である。
     「ダンディの姿が見えませんね。」「奥さんがさ、入院するんで付き添ってるんだってさ。だから昼頃に合流する。誰かの携帯電話に連絡があるから、ちゃんと電源を入れておかなくちゃダメだ。」昨日、ダンディから講釈師に連絡があったらしい。しかし、そんな大事な日ならば無理して来ることもないのではないか。「娘さんと交代するんだって。」
     ハイジも昼頃に合流することになっている。一昨日のこと、ハイジは当日連絡を取るためにリーダーに番号を訊いたのに、携帯電話を持たない宗匠は私の番号をハイジに教えている。宗匠もそろそろ携帯電話を持ってくれれば便利になるのだが、ITの専門家にしては不思議な態度だ。講釈師だってちゃんと持っているのだ。
     宗匠、あんみつ姫、チロリン、マリー、カズちゃん、画伯、ロダン、千意(チイさん改め)、桃太郎、碁聖、トミー、スナフキン、ドクトル、講釈師、ヨッシー、蜻蛉の十六人が集まった。午後には十八人になるわけで、久しぶりに大勢になった。
     トミーはゴルフが忙しくてなかなか参加できなかったと弁解する。「月に二回くらいですか。」「全然。去年は六十二回行きましたよ。」それでは江戸歩きに参加する暇はない。カズちゃんは正月休みに集中的に家事をこなしたせいか、体調が良いと言う。「やっぱり、身体を動かさないとダメなんですね。」
     「オサムちゃんはどうしたんだい。」「三月まで無茶苦茶忙しいらしい。春になったら参加するって言ってる。」「年度末だからな。それから、セットの片方がいないぜ。」チロリン村にはクルミの木が必要だが、いつも御神酒徳利のようにチロリンと一緒に歩いているクルリンがいない。「歯が痛いんだってさ。」
     宗匠の挨拶には、千意さんが作った宝船の年賀ポスターが花を添える。江戸歩きと日光街道の無事平穏が祈られているのである。「素敵じゃない。」「自分で作ったの。」図画工作は千意さんの得意にするところだ。

     「この辺は子供の頃に散々遊んだ場所だよ。」スナフキンは芸大構内の官舎で生まれたから、正にここが故郷である。「今日はエラくダンディじゃないですか」と千意さんがスナフキンに笑いかける。なるほど、珍しくハンチングを被っている。ハンチングはヨッシーのトレードマークだが。「二千円で買った。」「それにジャケットも恰好良い。」「故郷に帰ってきたからね。」故郷に錦を飾る訳か。
     同じような姿の団体に混じって、お喋りしながらなんとなく歩いているとリーダーの姿が見えない。「こっちですよ。」他の団体に引き摺られて、動物園の方に向かってしまった。「新年早々、ボケてるんじゃないか」と今年最初の講釈師の罵言が飛んでくる。反省する。「目立つように黄色のジャンバーにしてきたんですよ。」これからは姫のレモン色を目印にして歩かなければならない。

     キリキリと 寒気引き裂く モズの声  午角

     画伯は鳥の絵を描くひとである。モズの声なんて私は全く気付かなかった。「昔はイラン人が多かった。全くいなくなっちゃったな。」上野公園はずいぶん印象が変わって広々としている。「噴水が小さくなったんですよ。」確かにそうだ。「上野恩賜公園再生基本計画の概要」というものを見ると、公園口周辺エリアの再生コンセプトは、「『文化の森』に相応しい入口広場の整備」である。

     ・JR上野駅からの来園者をスムーズに公園内に誘導し、催し等に関する情報・サービスを提供する広がりのある空間の確保
     ・ 恩賜上野動物園正門や国立西洋美術館本館への見通しの確保 など

     確かに見通しが良くなって、整然としたようだ。この他にも、「江戸図絵等に描かれた寛永寺清水堂から不忍池方面への眺望景観を再現する」とか、「寛永寺清水堂と弁天堂を結ぶ軸線を中心として、歴史的な景観の再現を図る」などの計画が実行されているらしい。これは近い内に一回り歩いてみなければならない。「私はしょっちゅう来てます。」姫は美術館や博物館が好きだからね。
     「ここから見えるんだよ。」講釈師の言葉で右手前方を眺めると、木立の上からスカイツリーの先端部分が見えた。

     霜の朝 スカイツリ―の 紅化粧  午角

     最初は鳥取藩池田家表門を見なければならない。台東区上野公園一三番九号(国立博物館内)。姫の案内でも以前来たことはあるのだが(第二十回「上野から日本橋編」)、あの頃は細部まできちんと確認しなかった。風格のある黒門だ。

    この門は、もと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内三丁目)に建てられていたが、明治二五年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和二九年三月、さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。昭和二六年九月、重要文化財に指定。(説明板)

     「向唐破風って、左右に向かい合っているってことかい。」ドクトルの質問に「そうじゃなくて、出窓みたいに出っ張っているんですよ」と宗匠が答えている。これは宗匠が作ってくれた資料にちゃんと書いてある。屋根の構造とは関係なく、装飾的に独立し作られるものだ。「そこにさ、菊の紋があるのは何故だろう。」唐破風の頂上の瓦(鬼板と呼ぶだろうか)だ。東宮御所として使われたためだろう。「江戸時代そのままの瓦じゃないだろう。」「何度か葺き替えてる筈だよね。」
     以前来た時に姫が作ってくれた資料を引っ張り出してみると、両番所突き出し、屋根唐破風の長屋門は十万石以上の国持ち大名に許された形式である。漸く思い出した。あの時は、大名の格によって門の形式が違うと言う説明を受けていたのだった。
     「池田って言うと輝政の血筋かい。」ドクトルは普段あまり歴史のことは言わないが、こういうことは知っている。「そうですよ。家康の娘が嫁に入ったから、松平の名乗りを許されてます。」輝政と家康の次女(督姫)の間に生まれた三男(実は六男という)忠雄の、嫡男である光仲から続く家系である。家康の孫可愛さによって、外様でありながら親藩としての格を与えられた。因みに池田忠雄といえば、荒木又衛門の鍵屋の辻の決闘に関係する、というより大本の原因を作った人物だ。寵愛する小姓の渡辺源太夫を、横恋慕した河合又五郎に殺されたのであった。
     輝政の後、池田氏は備前と因幡に分かれた。宗家の備前岡山藩は三十一万五千石の大藩である。これは輝政の長男利隆(母は中川氏)の系統だ。分家の因幡の方は、因幡と伯耆の二カ国三十二万石を領した。本家より若干石高が高いのは、家康の血が入っていることによるものだろう。
     「うちの先祖は播州だよ。」これは何度か聞いている。播州三木の別所長治が羽柴秀吉軍に敗れて後、三木を離れて移住した一族だったよね。播州と備前はご近所だから、ドクトルも池田輝政を知っているのである。以前松平冠山と娘の露姫の話題が何度かでたが、冠山はこの鳥取藩の支藩である若桜藩の第五代藩主であった。

     ちょうど信号待ちで博物館動物園駅跡に立ち止まった。台東区上野公園一三番地二三号。特に予定されていたわけではないが、たまたまコース上にあったのである。「この建物が好きなんですよ」と姫は一所懸命カメラを構える。駅と言うより議事堂のようにも見えるし、円柱を使った石造の建物はローマ建築をも連想させる。ただ非常に小さい。
     京成上野駅から九百メートル地点になる。「跡って言うから、以前は使われていたんだよね。」「ありましたよ。」昭和八年(一九三三)に京成本線が開通した時に開業し、平成九年(一九九七)に営業を停止した。廃業が平成九年なら、それより前に京成本線を何度も利用しているのに、この駅に気づかなかったのは、各駅停車しか停まらない駅だからだ。ホームの長さが短くて、四両編成でも先頭部分がホームからはみ出たそうだ。昭和五十六年以降、六両編成の車両が主流になって、この駅は使い難くなっていたのである。地下の壁面には東京芸大の学生が描いたゾウやキリンの絵があったと言う。
     「この花は何だろう、椿かな、山茶花かな。」画伯が呟いているので「山茶花でしょう」と言った時、ロダンが驚いたように「良く知ってるじゃないですか」と振り向いた。区別は簡単だ。花弁が散って落ちていれば山茶花、花が根元から丸ごと落ちていれば椿である。赤い花弁がいっぱい落ちているではないか。「スゴイですね。」「ごく一般的な常識だけどね。」しかしこの判別方法には重大な難点がある。地面が綺麗になって何も落ちていなければ区別がつかないのだ。
     動物園の脇を通りながら何の気なしに中を見ると、パンダの前には人だかりがしているようだ。「やっぱりパンダは人気なんだよ。」私は入ったことがない。「エッ、動物園に来ないのか。」スナフキンがそんなに驚くとは思わなかった。
     子供が小さい頃にはどこかの動物園に連れて行ったことはあるが、子供たちは余り感動しなかった。それに私も獣の臭いが得意ではないので、動物園というものに関心はない。わが系統はケダモノが好きではないらしい。「そうなのか。多摩動物園もなかなかのものだぜ。」画伯や宗匠はワシやタカの場所を眺めていた。

     止まり木より有料だよと園の鷲  閑舟

     次は上野東照宮だ。「こんなに綺麗だったかしら。」ここも再生計画に入ったものだろうか。鳥居を潜って参道に入ると、綺麗に整理されたように感じる。「前は、五重塔があんなにはっきり見えなかったんじゃなかったかな。」「それは葉が落ちて、木が裸になっているからでしょうね。」それにしても、この五重塔が動物園の中に入っているのは何とかならないものか、境界をちょっと変更すればよいのにと思う。

     冬枯れの空は真青に五重塔   蜻蛉

     参道の両側には石燈籠が整然と並んでいる。各大名から寄進されたもので、寛永年間に十七基、社殿が建造された慶安四年(一六五一)に約二百基、享保期と文化文政期に二十五基という。参道の途中で左にある大きな銅灯篭をじっくり眺めていると、「ほら、ここに」と声がかかる。竿の部分に「伊賀少将藤原朝臣 高虎」の文字が綺麗な楷書で彫られていた。寛永五年(一六二八)、家康の十三回忌に藤堂高虎が寄進したものである。
     ここは元々藤堂高虎の屋敷地であった。おそらく俗説だが、ここ上野の地名は高虎の領国である伊賀上野に由来すると言う説がある。またここに東照宮が建てられたのは、臨終間際の家康が、天海僧正、藤堂高虎とともに三人一緒に祀られる場所を望んだからだと言う。「そんなに仲が良かったのかな。」私も知らなかった。
     高虎は時代小説では余り人気がない。主君を何度も替えて変節漢と見られたせいに違いない。しかし二君にまみえずというのは、江戸時代も安定してからの朱子学による倫理だろう。戦国時代の武士なら、自分を評価してくれる主君を探して仕官先を変えるのは珍しいことではない。特に高虎は「武士たるもの七度主君をかえなければ武士とは言えぬ」と家訓を残したほどだ。それでも家康の信頼は篤かったようで、外様ながら譜代大名に準ずる格を与え、死を目前にしてわざわざ枕元に呼ぶ程親密だった。
     「戦争中によく供出されなかったよね。」ロダンは変なことを考える。金属類の供出は、昭和十六年の勅令第八三五号「金属回収令」によって実施されたが、歴史的、美術的価値を有するものについては各寺社からリストを提出させて審査し、承認されたものは供出の対象から除外された。「お国のため」と馬鹿正直に全てを供出した寺社もあるだろうが、少し知恵が回れば、なんとか除外に持ち込もうと努力もした筈だ。寛政以前のものは除外されたという記事を見つけたが、私はまだ確認できていない。
     牡丹苑では冬牡丹展の最中だ。「入園料が取られるんだよ。」「六百円もするんだぜ。」二十人の団体でも五百円と言うのは随分高くないか。だから私は入ったことがないし、今日も誰も入ろうとはしない。牡丹を愛でる趣味のある者は一人もいないということか。碁聖は入り口の隙間からカメラを構えている。ちょっと覗いてみると白い花が多いようだ。「牡丹って今頃でしたっけ。」「冬牡丹だよ。」
     牡丹自体は初夏の季語であり、普通の種類は四、五月頃に開花する。この時期のもなら寒牡丹と言うのかと思ったら、それは素人の間違いであった。春と秋の二度開花する種類があって、春の蕾は摘み取って冬だけ咲かせるのを寒牡丹と言う。それとは全く別に、春牡丹を素人には分からないややこしい方法で調整して、今どきだけ咲かせるのを冬牡丹と呼ぶのだ。放って置くと春牡丹に戻ってしまう。

     富貴には遠し年々牡丹見る 鉄之介

     松崎鉄之介と言う人の句碑で、五重塔を見上げる位置にあった。前半部分は私の境遇と同じである。他に川柳句碑もある。

     乱世を酌まむ 酌む友あまたあり  尾藤三柳
     盃を 挙げて天下は 廻りもち  村田周魚

     正面に東照宮の唐門が色鮮やかに見えた。「前に来た時は工事中でしたからね。」それにしてもきれいな建物だ。しかし近付くと正体が分かってくる。これは工事現場を隠す幕にプリントされたものだった。「なんだ、絵だよ。」ちょっとがっかりした。工事は今年十二月までの予定だ。宗匠は去年の暮れに完成するものと思い込んでいたようで「ごめんなさい、一年ずれてた」と謝る。唐門の柱にある昇竜降竜(伝左甚五郎作)他、見るべきものは多い筈で、今日のテーマにはもってこいの建物なのだ。
     「少将って彫ってあるよ。」石燈籠を熱心に見ていた講釈師が声をあげた。「中将とか中納言とかさ。」「中納言なら水戸ですよ。大変なもんだ」「そうだな、普通の大名は少将が多いよ。」詳しいではないか。
     唐門の前には御三家が奉納した銅灯篭が立っている。紀伊國主従二位権大納言源頼宜、正三位権中納言源頼房(水戸)、尾張國主参議従三位兼右近衛権中将源光義(義直)。この義直の官位はまだ若い頃のもので、最終的には紀州と同じ従二位権大納言になる。
     序だから武家官位を調べてみた。紀伊と尾張の従二位権大納言、水戸の正三位権中納言を筆頭として、その次に加賀前田家が従三位参議(宰相)になる。武家官位は京都とは別に独立したものでそのまま朝廷で通用するものではないが、三位参議以上が朝政を担う高官で、公卿と呼ばれる。その最高官位に任ぜられるのが御三家と加賀だけであった。
     その他は近衛中将(従四位相当)、近衛少将(正五位相当)、侍従(従五位相当)に任じられた。中将は会津、島津、伊達。少将は親藩、連枝、一部の国持ち大名。それ以下の大名は侍従である。勿論これは極官で、若い時にはもう少し下から始まる。五位以上が昇殿を許されるのは誰でも知っているだろう。
     更に序でに言うと黄門は中納言の唐名・黄門侍郎だ。大納言は亜相、大臣は丞相、特に太政大臣は相国或いは司空である。だから菅原道真(右大臣)は管丞相、平清盛は平相国と呼ばれる。征夷大将軍を大樹と呼ぶのもそうだ。
     「英語が多いですよ。」絵馬の中にアルファベットで書いたものが多いことにロダンが気づいた。なるほど、確かにそうだ。外人観光客に人気がある場所だったか。私も何年か前に、外人観光客に五重塔を背景に写真を撮ってくれと頼まれたことがある。
     「ホラ、鈴だよ」と講釈師が指をさした水舎には、大きな鈴が吊られていた。これには気づかなかった。鈴が吊るされている理由は分からない。
     「あれがお化け灯籠。」高さ六メートルの石燈籠は、京都南禅寺、熱田神宮のものと併せて日本三大灯籠と呼ばれている。全て佐久間勝之という人物が寄進したものだ。余程大きな灯籠が好きな人物だったようだ。

     一六三一(寛永八)年佐久間大膳亮平朝臣勝之の奉納です。
     しかし、上野東照宮へ石灯籠を納めるには十万石以上の大名に限られていました。一万八千石の大膳は当然奉納を許されませんでしたから、無理をして勝手に特大の灯籠を奉納して切腹となってしまいました。
     ただ大きいからだけでなく、その大膳が夜な夜な灯籠の陰に現れたので、この名があるとも言われています。http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/uenokoen/obaketoro.htm

     これはちょっとおかしい。佐久間勝之が死んだのは寛永十一年(一六三四)であり、この石燈籠の問題とは関係がなさそうだ。それに調べてみると、北条氏重(掛川藩三万石)が寄進した灯篭もあるのだから、十万石以上に限った訳でもない。そもそも二百を超える石燈籠である。三百諸侯と言うが、寛永に近い元禄期で藩の数は二百五十程度である。時代が違うから正確な比較はできないが、幕末期に十万石以上の藩は五十弱あった。十万石以上と限定したなら、一大名が四、五基を寄進しなければならない訳だが、そんなことはなさそうだ。
     勝之は佐久間盛次の四男で兄に盛政がいる。最初は柴田勝家の養子になり、佐々成政の娘を妻にして婿養子になった。成政が秀吉に降伏したとき、妻を離縁して後北条に走ったこともある。後、佐久間姓に復し蒲生氏郷に仕えたが、その死後、秀吉から信州長沼城主とされた。関ヶ原では東軍に属し、長沼藩一万八千石を領した。戦国の武将が生き延びるためにはいろいろのことをしなければならない。
     勝之の死後、信州長沼藩は次男の勝友が継ぎ、さらに四代続いている。仮に大名が切腹したとなれば、まず改易は免れないだろう。従って死因は切腹ではない。なぜこうした伝説が生まれたのか。

     東照宮を出て精養軒の脇を通ると、「蜻蛉の結婚式はここだっただろう」と、スナフキンは何度も同じ間違いを繰り返す。来てくれたではないか。「文化センターですよね。」この問答を過去にもしているから、姫の方が余程良く覚えている。
     「文化センターとは何か繋がりがあったんですか」とロダンが訊いてくるので、「食中毒があったんだよ」と答えた。池の端文化センターでは半年ほど前に食中毒事件を起こし、営業回復のために通常よりかなり格安で式場を提供していたのだ。「そうなんですか、ハッハッハ。」私は知らなかったが、平成二十二年の四月に累積赤字十六億円、借入残高九十五億円に達して営業を終了していた。
     「モノレールは今でも動いているんでしょうかね。」ロダンが言った途端に、そのモノレールがやってきた。「動いてるんだ。」このモノレールの正式名称が東京都交通局上野懸垂線というのを知っている人はいるだろうか。営業距離は僅かに三百メートルしかないが、動物園内の遊戯施設ではなく、鉄道事業法に基づくれっきとした公共交通機関である。昭和三十二年の開業は、モノレールとして日本で最も古い。
     先頭と後続の間が少し離れて、リーダーは水月ホテル鷗外荘の所で待っている。「そう言えば千駄木の観潮楼が開いただろう。」そうか、平成十八年の第三回「谷中編」の時点で既に休館中だったから、随分長くかかったものだ。確認しておこう。

     一九六二(昭和三七)年、鴎外生誕一〇〇年の年、「鴎外記念室」を併設した「文京区立鴎外記念本郷図書館」(設計:谷口吉郎)が開館。このとき、薮下通り側の鴎外記念室入口の門標として、佐佐木信綱の筆による「観潮楼址」碑が設置され、また鴎外記念室入口近くの壁には、佐藤春夫寄贈、高田博厚制作の「森鴎外レリーフ」が取付けられました。
     二〇〇六(平成一八)年、図書館移転に伴い(現本郷図書館)、記念室は独立して「本郷図書館鴎外記念室」となりました。二〇〇八(平成二〇)年、遺品資料の保存環境改善のため、改築が決まり、鴎外記念室は休室となり、庭園のみの開放となりました。
     二〇〇九(平成二一)年、森鴎外記念館(当時仮称)の建設に向けて、森鴎外基金を設立、翌年から工事着工。一年半の建設工事を経て二〇一二(平成二四)年六月竣工。二〇一二(平成二四)年一一月一日、「文京区立森鴎外記念館」として開館しました。http://moriogai-kinenkan.jp/modules/contents/index.php?content_id=1

     不忍通りに入った辺りで講釈師の携帯電話が鳴った。ダンディが今上野駅に着いたそうだ。「どこで待ち合わせようか。」まだ十一時前でちょっと中途半端な場所だ。昼は十一時四十五分と宗匠が言っていたので、赤門前で合流するのが良いんじゃないか。「それじゃ十一時半に赤門で。」根津一丁目の交差点で言問通りに曲がる。
     「ダンディが来る前に裏口から入ってさ、食堂に入っちゃおうぜ。待ちぼうけを食わせちゃう。」「何故そんな発想が出てくるのかな。」「どうして講釈師に連絡したんでしょうね、ホントに。」

     ミサワ節元気一番風を吹く  千意

     吹くのは風ではなく法螺ではあるまいか。「私はそんなことは言えません。」弥生式土器発掘ゆかりの碑。「ここで見つけたっていうんじゃないですよね。」正確な発掘場所は分からなくなっているのである。
     因みに、かつては縄文式土器、弥生式土器と呼んでいたが、今では「式」を除いて縄文土器、弥生土器と呼ぶのが一般的になっている。これは縄文時代晩期の加曾利B式、弥生時代前期の遠賀川式などと、細分化するときに「式」を付けるという学界の約束事による。
     「その辺に美術館があったろう。美人画の。」「夢二だろう。そこの暗闇坂を曲がったところだよ。」東大には弥生門から入るのが近いが、まだ待ち合わせ時間には間がある。宗匠はそのまま進み、本郷通りを右に曲がり、地下鉄東大前の入口のところから右の細い道に入る。「ここが東大前なんて、一番外れじゃないか。知らない人は騙されちゃうぞ。」農学部を目指す人だけが便利だ。

     路地を突き当たって直角に曲がる角が西教寺である。浄土真宗本願寺派の寺で涅槃山と称す。文京区向丘二丁目一番十号。喪服の男女が門の外で何かを待つように立ち止っている。宗匠は皆を集めて講釈を始めるが、公衆トイレで先に用を済ませてから戻る。この寺の主役は朱塗りの表門である。
     姫路藩酒井雅楽頭の上屋敷の門を明治七年に移築したものだ。宗匠の資料では庄内藩とされているが、正しくは姫路藩十五万石である。酒井家は広親の長男氏忠に始まる左衛門尉家(庄内)と、次男家忠に始まる雅楽頭家(播州酒井氏本流)と二家に分かれているのだ。
     十一代将軍徳川家斉の二十五女の喜代姫が、姫路藩五代藩主の酒井忠学に輿入れの際に建てられた門だ。「将軍の娘を貰ったから赤門を造るんだよ。」これを朱殿門という。大手町の将門塚の辺りが堺家上屋敷の中庭になる。この門はその中庭に作られたものらしい。移築当時は瓦屋根だったものを、関東大震災の後に銅板葺きに補修したと言う。
     宗匠の説明のポイントは薬医門だ。「中心がずれているでしょう。」なるほど、屋根の棟が中心から外れているのだ。

     基本は前方(外側)に二本、後ろ(内側)に二本の四本の柱で屋根を支えます。
     特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の二本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。
     http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/kokenchiku/mon/yakuimon/yakuimon.htm

     更に宗匠は瓦の説明を続ける。鐘楼の屋根を見ると、大棟から破風のラインに沿って降りているのが降棟(くだりむね)、その下の部分から屋根の端に向かって分かれているのが隅棟(すみむね)である。宗匠の作ってくれた資料は分かりやすい。本堂の向拝部分の屋根でも降棟が確認できる。
     姫は『図説歴史散歩事典』(山川出版社)を開きながら確認している。「蜻蛉さんも持ってるでしょう。」「これって余り詳しくないからね。」実は忘れて来たのだが、持って来なかった言い訳をする。「でも入門としては良いです。」鳥衾、軒丸瓦(鐙瓦とも言う)。
       塀の軒丸瓦に三つ巴の紋が入る。宗匠は「左三つ巴」と言う。「巴の左右って、どっち巻きを言うんでしたっけ」と姫が訊くがすぐには答えられない。私は簡単に、丸い部分から尾の方に流れる向きを考えたが、実はこれは非常に難しい問題だった。

     家紋における巴紋の左右呼称問題は長い間、家紋研究において最大の論点である。巴紋には細い部分(仮に尾)から円い部分(仮に頭)に至る進行方向が時計回りのものと、その逆の反時計回りのものがあり、用法などにおいて区別がされることも多い。家紋に関する現在の著書などではそれらに右と左の名を与えた名称が用いられるがそれがどちら向きのものを意味するかは時代や文献などにもより、必ずしも一定していない。
     家紋を描く上絵師は、その技法上の理由から尾が流れてゆく方向に従って名称としており、簡単な見分け方として親指を外に出して拳を握った時、左巴は左手の親指が指し示す方向、右巴は右手の親指が指し示す方向を参考とする。歴史的にはこの使用例が多い。(ウィキペディア「巴」)

     「巴紋」(http://www.genbu.net/sinmon/tomoe.htm)というサイトで図を見ると、私が考えたように、丸から時計回りと逆に回って細くなるのを「左三つ巴」としている。しかし「家紋の由来 巴紋」(http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/tomoe.html)というサイトでは同じ図柄を「右三つ巴」と書いてある。全く逆であって確かに難しい。つまり、頭(丸い方)から尾へ回るのか、尾から頭へ回るのかという根本的な前提が違うのである。
     それはともあれ、酒井家(雅楽頭家)の家紋は剣片喰だから(左衛門尉家は片喰)、これは寺のものだ。あるいは寺紋でもなく、単に普通の民家でも良く見るような火災予防のものかもしれない。
     本堂にお参りしてきたヨッシーが、「そこにありました」と「西教寺新報」を持ってきてくれた。「門のことも書いてますよ。」
     そろそろダンディとの待ち合わせ時間が近くなった。本郷通りに戻り、追分を過ぎた辺りでハイジから電話があった。「今、赤門でダンディと一緒になったの。」「あと一分で着きます。そこで待っててください。」
     このやり取りを桃太郎は聞いていなかった。赤門に到着すると、「遠くから見てたら、どこかのお爺さんと孫娘かと思っちゃいました」とハイジに笑う。しかし、これはダンディには内緒だ。今日のダンディがどことなく雰囲気が違うのも原因ではなかろうか。「帽子がないじゃないの。」そうか。いつも帽子を自慢にしているダンディが、今日は無帽だ。

     冬晴れの待つことも良き二人かな  閑舟

     ダンディはハイジと二人きりでで仲良く時間を過ごしたのである。「取りあえず食堂に行きましょう。」お馴染みの安田講堂地下にある中央食堂に向かう。「僕のときには、例の事件で入試が中止になったんだよ」とスナフキンが姫に話しかけている。昭和四十四年(一九六九)はそういう年だった。スナフキン自身は東大を受験するなんて思ってもいなかったろうから(勝手な想像で、もしかしたら目指していたかも知れない)影響はないか。「あの嘉田さんが同学年だよ。」あの未来の党のか。「そうだよ、彼女は川越高校で、普通だったら東大に行っていたのに、京都に行かざるをえなかったんだ。」調べてみるとこれはちょっと違って、熊谷女子高である。
     今日の東大キャンパスは比較的閑散としているが、それでも学校見学に来たらしい母親と娘の姿もある。学食もすいているのは時間が少し早いせいだろう。レバニラ炒めの定食が五百六十円で、私はこれに決めた。千意さん、桃太郎も同じだ。レバニラ炒めの他に春巻きが二本付く。
     「ご飯がこんなに少ないの」と嘆くのは姫である。レバニラにしようか迷った挙句に、何かの定食に半チャーハを付けてしまったようだ。「スナフキンも同じですね。」「俺はご飯はあんまり食わないから。」スナフキンの肉じゃが定食の方は白いご飯だが、やはり半分の量になっている。
     珍しく桃太郎がレバニラを四分の一ほど残してしまった。「この頃はお弁当を作って、ご飯は百六十グラムって決めてる。」「ダイエットしてるんですか。」「食堂が遠いから。」話が噛み合っていない。「百六十グラムって言うからダイエットかなって思ったんですよ。」
     ご飯の量をグラムで考えたことなんかなかったが、コンビニのお握りがだいたい百十グラムから百二十グラムになるらしい。妻はあれよりももっと固めに作るから、大体百六十グラム程度になるのではないか。それが一つだとすれば、かなり少ない。私は二個食べる。
     ダンディはダイエットなんて全く関心がなく、味噌ラーメンの大盛りを食べている。汁が見えないほど麺の量が多い。「後ろに並んだ学生の特盛りはもっと多かった。たぶん二杯分くらいあるんじゃないかな。」普通七十歳を超えた人は、大盛りは食べないのではあるまいか。
     味噌汁は煮干しの出汁がきつくて、お世辞にも美味いとは言えないが、この学食はメニューが豊富で嬉しい。「東洋大学は良かったな」とダンディが声を出す。あそこは外食産業の店が何軒も入っていたのだが、私はここのように普通の定食を出す学食が好きだ。
     「東京出身の谷崎潤一郎が、東京の食いものは不味いって言ってますよ」とダンディが、ニヤニヤしながら川本三郎の書いた記事のコピーをくれた。私の趣味に対する警告であろう。日本橋の商家に生まれながら関西に定住した谷崎である。その記事を見ると、谷崎は「これらの(東京の)食べ物を見渡したところ、うまいまづいは別にして、なんと不思議に寒気のするような、あぢきない物の多いことよ」と言っているのである。
     私は別に東京の食いものを擁護するつもりはない。食い物の味なんか、男にとって大事ではないと言いたいだけだ。飽食の挙句に人生の大目的を見失った日本人が、他に言うべきことがなくて料理の味を言い始めた。
     序でに言ってしまえば、たかがラーメン一杯を食うのに行列を作る連中は何を考えているのだろう。そんなに並ぶのが好きならば、戦中戦後の日本にタイムスリップして、配給品を手に入れるために苦労してみるがよい。テレビをつければ、頭の悪そうな芸能人が、霜降りの牛肉や鮪の大トロを口にして「うまい、とろけるような」と競い合うように声を上げる番組ばかりだ。肉は豚肉が美味いし、鮪の刺身は赤身が一番ではないか。高級料理指向とB級グルメの大流行は、ベクトルの向きが反対になっているだけで、根っこにある態度は全く同じだ。
     さくら水産を贔屓にする我々は、こうした惰弱な精神とは無縁である。そして、実はダンディがくれた川本三郎の記事のタイトルは、「『哀れな食ひ物』がおいしい」というものであった。

     ところで困ったことに、東京で生まれ育った私は、ここで谷崎純一郎が、情けない食べ物として挙げているものが、みんな好きなのである。納豆はいうまでもなく、佃煮もタタミイワシも塩サケも、サンマやイワシといった「下魚」も。・・・・
     ・・・・味覚などどうでもいい。ただ腹が満たされれば、それでいい。いちばんの御馳走は、アジノヒラキと塩サケ。とりわけ白い塩を吹いている塩サケの切り身を香ばしく焼いたのが極上品。

     十二時半に食堂を出て赤門に戻る。これも薬医門である。左右に唐破風の番所を置いた。三位以上の大名が将軍の娘を迎えた場合に許される。加賀前田家十二代斉泰が、将軍家斉の二十一女の溶姫を迎えるために造られた門で、御守殿門とも呼ぶ。宗匠が、鬼瓦に「學」の紋があるというので皆が驚いたが、確かにあった。
     「梅鉢の上に葵の紋が並んでるだろう。葵の紋の上につけちゃいけないんだ。」本郷通りの方から屋根を眺めていた講釈師が言う。確かに葵は大棟の上段に並び、その下に加賀梅鉢の紋が並んでいる。「梅鉢は何の印かな。」「前田家の家紋だよ。」
     赤門の真正面は法真寺だ。「行きますか。」「行きましょう。見ていない人も多いでしょうから。」第四回「本郷編」で立ち寄っているが、あの頃は今のメンバーの半分も参加していない。姫が独自で本郷の文学散歩をした時も人数は少なかったようだ。
     浄土宗。明治九年(一八七六)樋口一葉が四歳から、十四年に九歳で下谷御徒町に転居するまで、この寺の隣に住んだ。樋口家の経済が最も安定していた時期で、一葉はこの家を「桜木の宿」と呼んだ。寺の桜が見事だった。夏子はここから池之端にあった私立青海小学校に通った。「向こうの家がある辺りかな。」宗匠の疑問に適当に相槌を打ったのは私の間違いだ。家は本郷通り側の今は駐車場になっている場所に建っていた。
     明治六年十二月の太政官布告によって士族の無期限家禄は廃され、一時的な有期公債とする目的で秩禄公債が発行されることに決まり、明治七年八月、父の則義は四百七十円を受け取った。家禄十三石の六年分で米七十八石とする計算で、二百二十円は現金で、二百五十円は公債証書である。これに以前からの貯えを合わせ、二百三十坪、建坪四十五坪の家を五百五十円で買ったのだ。
     この家を買った年の十二月、則義は東京府の最下級の官吏を依願免職になって不動産業を始めた。実は明治六年頃から官吏を続けながら金融業を始めている。商売の才に自信があったのだろうか。遡れば、慶応三年に三十俵二人扶持の浅井竹蔵の同心株を買った時に、則義は相当な借金をした。同心株は百両だが浅井竹蔵の負債三百両も肩代わりしているから合計四百両である。甲州から駆け落ち同然で江戸に出てきた則義が即金で支払える筈はなく、大半は借金をして工面したものだろう。その払いも続けなければいけないのだから、堅実な人間ならこんな贅沢はできない筈なのだ。その後、金融業も不動産業もうまく行かず、結局借金を残したまま則義は死に、一葉は死ぬまで貧困に喘ぐことになる。
     それでも一葉にとっては大切な思い出の家である。明治二十八年五月の「太陽」に発表した『ゆく雲』に法真寺が登場する。

     上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内廣々と桃櫻いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの觀音さま濡れ佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて前に供へし樒の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢卷の上へ、しばしやどかせ春のゆく衞と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの朧月よに人顏ほのぼのと暗く成りて、風少しそふ寺内の花をば去歳も一昨年も其まへの年も、桂次此處に大方は宿を定めて、ぶらぶらあるきに立ならしたる處なれば、今歳この度とりわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん春はとても立かへり蹈べき地にあらずと思ふに、こゝの濡れ佛さまにも中々の名殘をしまれて、夕げ終りての宵々家を出ては御寺參り殊勝に、觀音さまには合掌を申して、我が戀人のゆく末を守り玉へと、お志しのほどいつまでも消えねば宜いが。(『ゆく雲』)

     本堂軒下の左で、一葉塚の左後ろに鎮座するのが腰衣観音だ。観音座像の周りを、如意輪観音を始めとする石仏が取り囲んでいる。

     境内にある腰衣観音は本多候が夢のお告げを受け、当山に安置したと伝えられる。腰腹足の水火剣難疾病等を快癒し、婦人は安産等の御利益がある。明治時代には、柳原二位局が、大正天皇御安産の祈願に参詣されていたという。また、樋口一葉の「ゆく雲」にも登場する一葉ゆかりの観音様でもあります。(法真寺http://www.hoshinji.jp/guide/)

     この縁で、法真寺は毎年十一月二十三日に一葉忌を行っている。講釈師にはそんなことは関係ない。なぜか置かれている大八車の解説に忙しい。「坂道になると大変なんだ。坂の下に必ず押し屋がいたよ。」無職の連中が、車を坂の上まで押して僅かの報酬を得るために立ちん棒をしているのだ。関川夏央・谷口ジロー『秋の舞姫』に、幼い長谷川伸が九段坂の下で、ガキはダメだと断られベソをかいている情景が描かれている。尤も実際にあったことかどうかは分からない。しかし実際には下りが大変なんだと、講釈師は実際に大八車を引いたことのあるような口振りだ。
     もう一度赤門から東大構内に戻る。「ローソンがある。さっきもあったね。」安田講堂の脇にもあった。「店の造りが違うじゃないか。」スナフキンはよく見ている。ローソンは店のイメージを絶対に変えないのだそうだ。「東大には勝てないんだな。」本富士警察署前で春日通りに出る。
     「昔、麟祥院の隣に営業所があったんだよ。」私は赤門の向かいの方にあったのしか知らなかった。通りの向こう側に南江堂、こちらに南山堂。その隣が麟祥院だ。臨済宗妙心寺派。春日局のために家光が建てさせた寺である。正式な名は天沢山麟祥院で、麟祥院は春日局の法号である。周囲に枳殻(からたち)の垣を巡らせていたので、枳殻寺と呼ばれた。
     「前は来てないよね。入れなかったんじゃなかったかな。」そうです。第四回「本郷編」では、ここに到着した頃には門が閉ざされていたのであった。山門は午後三時には閉ざされてしまうから早めに来なければいけない。ただ私はその後にもう一度来ている。
     山門を入ってすぐ左手に「東洋大学発祥之地」碑が建っている。「知らなかった。初めて見ます。」卒業生の千意さんでも知らないことはある。私だって築地が立教大学発祥地だったなんて、碑を見るまで知らなかった。

    明治二十年(一八八七年)九月一六日 井上円了は民衆に教育の機会を開放し かつ哲学を中心とする教育を行うことを目的として、 東洋大学の前身である哲学館を この地に創立した
       昭和六二年九月一六日
           東洋大学創立百周年記念建立

     井上円了というのは不思議なひとで、私は未だにどう評価すべきか分からないでいる。大正八年(一九一九)に施行された大学令によって、慶応、早稲田、國學院等はすぐに大学になったが、哲学館が認可されて東洋大学となるのは昭和三年(一九二八)のだ。これだけ遅れたのは「哲学館事件」が尾を引いたのであり、教育内容に問題がある訳ではなかった。
     哲学館事件とは何であるか。井上円了は慶応義塾、國學院、東京専門学校(早稲田)と共同で、私立学校の卒業生に無試験で教員免許を与えようと申請し、それが成功して明治三十二年(一八九九)中等学校教員免許が与えられることに決まった。それまで、無試験で教員免許が与えられるのは国立大学卒業生に限られていたのである。そして明治三十五年に最初の卒業試験が行われた。

     ・・・・哲学館の卒業試験を検定した視学官・隈本有尚が中島徳蔵の出題した内容を問題視した。この内容はミュアヘッド(John H. Muirhead)の書物の一節からとられたもので「動機が善ならば弑逆(親など目上の人を殺すこと)も許されるであろうか」という課題である。これに対して学生が「許される」とした。この考え方は当時の法理哲学においては学会の標準的な考え方であったが、隈本は哲学館の教育方針について「目上を殺してよいということは天皇も殺してよいということだ。この思想は国体を危うくする恐れがある」という見解をまとめた。その結果、文部省は哲学館の廃校も前提に教育方針の変更を迫ることとなった。
     この事件は私立学校における教育の自由や学問の自由に関する議論となった。当時の新聞紙上では私学の自由を犯すものであるという見解が出る一方で、そもそもこの思想を教授した方法に問題があったのではないかという擁護論も交わされた。こうした状況は帝国議会でも問題となった。ミュアヘッドも文部省の見解に対してイギリスから反論するなど、日英間の国際問題となりかけた。そのため、文部省は廃校勧告を取り消し、哲学館の教員免許無試験認可を取り消すこととした。・・・・
     公文書の開示結果、一九二〇年(大正九年)に既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。(ウィキペディア)

     墓地の中を板塔婆に簡単に書かれた矢印に従って行くと、春日局の墓がある。玉垣は震災で崩れてしまったのだろうか。コンクリートで新しく造ってある。「前はこんなに綺麗じゃなかったよ。」石段の上の扉は錠で閉ざされている。「中に入れたような気がする。」「そうですね、入れましたよ」とロダンも主張するから私の勘違いではないだろう。
     無縫塔の四方に穴が貫通しているのは、死後も黄泉の国から天下の政道を見渡せるようにとの遺言による。「自信過剰のひとだったんだな。」自分がいなければ世の中は治まらないと信じていたに違いない。

     蝋梅や無縫塔にて見詰められ  閑舟

     なお無縫塔はその形から卵塔とも呼び、主に僧侶の墓として造られる。「三」を囲んだ紋(折敷きに三文字)と五三桐が並んでいるのが良く分からない。「折敷きに三文字」は「隅切角に三文字」とも言う。
     「隣のが分からないんだ。」宗匠が調べて分からなかった隣の墓所にも五三桐があるから、同じ一族に違いない。どうやら稲葉家のものではないか。「ほら、稲葉って名前が見えるよ。」「どういうひと。」春日局が嫁いだ家が稲葉だから、その一族に違いない。この時私は五三桐が稲葉家の紋ではないかと思ってしまった。しかし調べてみると、稲葉家の紋は折敷きに「三文字」である。これは元々伊予の大三島神社の神紋で、稲葉家がそれを家紋にしたもののようだ。それなら五三桐はなんだろう。
     法名は正厳院とある。これは毛利秀元の娘万菊、稲葉正則の室である。寛永二(一六二五)年五月生。寛文一四(一六七四)年五月二〇日卒。稲葉正則は春日局の嫡孫だから、これは春日局の孫の嫁の墓であった。ただ五三桐の正体は依然として分からない。毛利氏の紋は一文字三ツ星だからそれでもない。

     麟祥院を出て通りを渡る。リーダーは湯島天神には入らずどんどん前に歩き、天神の下で立ち止まった。狭い舗道に湯島切通し坂の説明があったのだ。湯島の台地から御徒町方面に抜けるために切り開かれた道である。

     青い瓦斯灯 境内を 出れば本郷切通 (佐伯孝夫作詞『湯島の白梅』)

     そして啄木の歌碑があり、五六人が固まってそれを見ていると他の通行者の邪魔になる。「ダメじゃないか。他の人の邪魔になるだろう」と講釈師が口を尖らせる。最初は「歌」とは気付かなかった。

     二晩おきに
     夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
     勤めなればかな

     『悲しき玩具』の中にある。朝日新聞社から弓町の喜の床までの帰り路だ。京橋から上野広小路の辺りまでは市電の最終に間に合ったが、そこからはもう遅くて電車がなくなってしまったようだ。

     啄木も咳込み歩む切通  蜻蛉

     「だって朝日新聞はすぐ辞めたんでしょう。」「二年くらいじゃないかな、死ぬまで在籍したよ。」二年というのは私の記憶違いで、在籍年数は約三年に及ぶ。「そうなの。半年ぐらいかと思ってた。私の中では啄木はチョットネ。奥さんに散々迷惑をかけたんでしょう。」
     ハイジは啄木が嫌いであった。私だって身近に啄木のような男がいたら、とても堪らないと思う。自信過剰の見栄っ張りで浪費家で、人の顔を見れば借金をした。宮崎郁雨や金田一京助の献身的な支えがなければ、もっと早く野垂れ死にしていた筈だ。人格的には全く尊敬できないが、それでも作品は残る。小説はものにならなかったが、残された膨大な日記は傑作だ。公表を予定せず、死後焼き捨てるように言い残したが、節子が守り通した。
     明治四十二年(一九〇九)三月一日、朝日新聞社社会部長の佐藤北江によって校正係に採用された。その年の六月に函館から母カツと妻の節子が上京し、喜の床に移転して同居した。四十三年三月、『二葉亭全集』の校正を終える。九月に「朝日歌壇」が設けられて、その選者となった。啄木はおそらく生まれて初めて真面目に働いた。

     京橋の滝山町の
     新聞社
     灯ともる頃のいそがしさかな(『一握の砂』より)

     十二月、第一歌集『一握の砂』を出版した。節子が肺尖カタルと診断された。四十四年二月、啄木は慢性腹膜炎で入院。この頃から微熱が続き出勤できなくなった。病人だらけの借家人に怖れをなした家主新井かうの求めに応じて、八月に小石川区久堅町に移転する。四五年一月二十二日、夏目鏡子が見舞金として十円を届けてくれた。漱石の配慮によるだろうが、啄木は恐縮した。

     (四十五年)二月二〇日
     日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
     さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
     母の容態は昨今少し可いやうに見える。併し食慾は減じた。

     日記はこれが最後になった。この時の啄木の月給は二十七円。一日に九十銭だから、収入の半分近くが薬代に消えていた。もはや借金と言うより、他人の情けに縋らなければ生きて行けない。三月、母カツが肺結核で死去。そして四月十三日、満二十六歳二ヶ月で啄木は死んだ。一年以上も出社しなかったのに、佐藤北江の尽力の御蔭で、朝日は啄木に給料を支払い続けていた。郁雨、京助、北江。彼らがこうまで啄木を庇ったのは、やはり啄木にそれなりの魅力があったということだろう。

    四月十三日に香典が百二十円集まった。翌日には二十六円きた。合計百四十六円は啄木の生涯最後にして最大の収入だが、合計二千円ほどの借金を考えるならば、彼の人生の家計簿はついに大赤字のままで終わった。(関川夏央『ただの人の人生』)

     ごく大雑把に言えば、年収三百万円の人間が二千万円の借金を抱えていたのである。住宅ローンではない。ほとんどが浪費だったから、これは生活破綻者と言って良い。
     ビルの間を抜けると男坂の下に天台宗心城院があった。文京区湯島三丁目三二番四。小さな寺で、ここも私は初めて来る。大聖歓喜天を祀り、「湯島の聖天さま」と親しまれたという。元は喜見院であるが、明治の神仏分離で廃寺になり、宝珠弁才堂を心城院と改めた。
     菅原道真が聖天を殊に信仰していたことに由るというのだが、そんなことは初めて聞く話だ。大宰府に流され、冤罪を雪ぐために聖天に祈ったというのである。

     当山はもと宝珠弁財天堂と称し、湯島天神の一堂宇であった。湯島天神は菅原道真公を祭神としているが、道真公は、藤原時平公の讒言により九州へ流されたとき、その冤罪をそそぐため聖天(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)様に祈念され、その信仰が篤く、ために「天満大自在天」ともいわれた。
     ときに江戸の元禄七(一六九四)年、湯島天神別当職の天台宗喜見院第三世宥海大僧都が、道真公と因縁浅からざる大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため開基されたのが当山のはじめで、この聖天様は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられている。

     しかし聖天は、象頭人身で男女抱擁の形をもつ歓喜仏である。もとはガネーシャだ。現世利益、夫婦和合、欲望全面肯定の神である。あの菅原道真が信仰したなんて、私の中ではどうにも繋がって来ない。もしこれが本当なら、各地の天神境内に聖天が祀ってあってもおかしくないが、そんな話は聞いたことがない。
     「柳の井戸」は髪の毛に効験があると言う。「そう言ってますよ」とダンディが私の顔を覗きこむが、私は別に御利益を得ようとは思わない。却って面倒臭いではないか。
     「アッ、水琴窟がある。」これは音を聴かなければならない。順番に並んで竹筒に耳を当てると講釈師が一所懸命水を掛ける。そんなに掛けなくてもちゃんと聞こえるから大丈夫だ。耳ではなく、直接脳髄に沁み入るような音だ。昔の日本人はなんというものを発明してくれたのだろう。「水琴窟ってなんだろうね。」後ろのアベックが囁いているが教えてやらない。

     鎮まるや ビルの谷間の 歓喜天  午角
     山茶花や水琴窟の音静か  蜻蛉

     湯島天神には寄らないのかと思っていたが、やはり寄ることになって男坂を上る。女坂の下では何かの撮影をしていたからだ。「トイレがありますから。その入口で集合してください。」「ロダンがコケた方向でしょう。」ハイジに言われるまで忘れていた。妻恋坂でロダンは電柱に頭をぶつけたんだったね。
     「湯島通れば思い出す。ここに来ると歌っちゃいますね」と姫が口ずさむ。来週の土日はセンター試験だから、最後の駆け込みで受験生がうじゃうじゃいるかと思ったが、思った程の混雑ではない。梅の時期の方が多いだろう。ただまだ松の内だから境内には露店が犇めいている。「湯島通れば思い出す。来ると必ず歌っちゃうわ。」
     鳥居の前に集まって定刻を待っていると、「ホラ、女はより取り見取りだってさ」と講釈師が得意そうに口を膨らませる。御神籤を引いて喜んでいるのだ。「恋みくじですか。」「普通のだよ。」見せてくれる御神籤には、「縁談多し、よく考えること」と書かれていた。「困っちゃうよな、モテスギテ。」古来稀なる年齢をとっくに過ぎた人が、こう浮かれているのである。皆が呆れ果てている時、画伯は一人静かに達観していた。大人として、あらまほしき姿である。

     喧騒の 中ひとり 瞑目す  午角

     「ちょっと待っててね。まだ時間は大丈夫よね。」しばらくして戻って来た姫は大きな綿菓子を持っていた。「摘まんでください」の声で、八方から手が伸びて千切っては口にする。ロダンやスナフキンも手を伸ばしている。さっきは達観していた画伯までが手を伸ばすから、人生と言うやつは、なかなか難しい。「冷たい目で見てるね」と画伯が私の顔を見て笑う。
     「大阪では綿菓子っていいますよ。綿飴って何のことかと思った。」cotton candyを綿飴と訳したんだろう。ウィキペディアによれば、東日本では綿飴、西日本で綿菓子と呼ぶようだ。

     綿飴をてんでに千切る初詣  蜻蛉

     湯島中坂上。「この辺はこの間、歩いたな。」「逆から来たんだ。」ダンディは一人で実盛坂の説明板を見に行った。先日も見ているんじゃないか。綿羊会館も覚えている。
     三組坂上の辺りでロダンが別れて行った。今日も半日券の定刻になったのだ。「可哀そうじゃないか、奥さんに嘆願しようぜ。」「そうよね、一日周遊券を上げて欲しい。」「皆で嘆願書を書きますか。」これではロダン夫人が意地悪しているみたいだが、そうではないのだ。夫を愛する余り、せめて休日はずっと一緒に過ごしたいと夫人は熱烈に思う。しかし夫の趣味も叶えてやりたい。そのロダン夫人の心の葛藤が、紆余曲折して半日券に辿りつくのである。私なんか、いつどこに出かけようが妻はまるで関心を示さない。

     半日券 使い果たして 帰る友  午角

     西に曲がって郵便局を過ぎた所にあるのが霊雲寺だ。文京区湯島二丁目二一番六。「初めて来ます。」この辺には詳しい姫もそう言う。湯島天神からだと、妻恋神社に行くか、真っ直ぐ神田明神に行くかだったから私も初めてだ。真言宗霊雲寺派総本山とある。「霊雲寺派なんて聞いたことないな。」真言宗御室派のダンディが鼻先で笑う。「この寺だけじゃないですかね。」

     霊雲寺は、徳川幕府の永代祈願所として設けられた。天皇家に次ぐ、実質的な為政者として最高位の幕府の祈願の対象は、国家の鎮護であった。徳川家は五代目の綱吉の時代で、幕府の体制は堅固になっており、これを子々孫々まで維持することも祈りの対象であった。さらに、江戸城から見て北東(艮)の方角は鬼門でもあり鬼門を鎮めねばならなかった。これらのため幕府直轄の寺院を建立する必要性が認識されており、時期と人が渇望されていたのである。
     その渇望された人物こそ当山の開基、浄嚴律師である。(以下浄嚴和尚と申しあげることとする。)時の権力者柳沢吉保を通じ、将軍綱吉の篤い信任を得た浄嚴和尚が、元禄四年(一六九一)幕命により創建した。
     (霊雲寺HP http://www.reiunji.or.jp/rekishi/index.html)

     幕府直轄の寺院なんて知らない。眉唾ではないか。それに江戸城の鬼門「艮」を守るのは東叡山寛永寺である。敢えて湯島に寺を創る必要があったとは思えない。浄嚴律師と言うのは、浄厳(じょうごん)、字は覚彦(かくげん)である。戒律を重んじて真言律宗を名乗った。明治政府の諸宗派整理統合の方針で真言宗に組み入れられたものの、戦後にそこから離れて独立したのであった。
     「これって大日如来じゃないかな。」宗匠が指をさしたのは、塀の軒丸瓦に刻まれた種字だ。「多分そうだと思う。アークかな。」しかし私の返答は実にいい加減だった。後で調べてみると、大日如来は間違っていないのだが、これは金剛界大日如来を表す「バン」だった。「アーク」は胎蔵界大日如来の方である。知識が中途半端だ。「そんなことも勉強するのかい。」ドクトルが不思議そうに訊いてくるが、これは良く見かける形で、真言宗だから大日如来を連想した。本堂の屋根で稚児棟を確認する。
     ヨッシーとスナフキンはちゃんと賽銭を上げているから偉い。「あっちの仏様はなんでしょか。」姫の言葉でコンクリート二階建ての本堂の左手に回ってみる。百度石の上に地蔵尊が載っているのは珍しいのではないだろうか。塀際には宝筐印塔が二基、その傍に立つ僧形の石像には厄除け大師と書いてある。三鈷を手にしてはいるが、弘法大師ではなさそうだ。『江戸名所図会』を見ると、境内の隅に宝筐印塔は確かに二基あるが、この像は描かれていないから江戸時代からあったものではない。
     本尊は綱吉が描いた太元帥明王(たいげんみょうおう)であったが関東大震災で焼失した。余り聞かない名前だが、明王の総帥であり鎮護国家の本尊とされているらしい。ただ八大明王の中にもその名前は出てこないので、私には謎である。

     大元帥明王は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴァカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」、「森林鬼神」と漢訳される。直訳すると「林に住む者」、「林の主」の意味となる。 毘沙門天の眷属である八大夜叉大将の一尊に数えられ、無比力夜叉、阿吒縛迦夜叉大将、阿吒縛迦鬼神元帥、車鉢羅婆、婆那利神、千人長とも呼ばれる。
     このようなアータヴァカは、インド神話において弱者を襲って喰らう悪鬼神とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じ、その慰撫しがたい大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化させ、明王の総帥となった。 大元帥明王は大元帥の名が示すとおり、明王の最高尊である不動明王に匹敵する霊験を有するとされ、一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われる。(ウィキペディアより)

     「明神下で甘酒を飲もうぜ。」そんなことは宗匠の計画に入っていない。「バッカだな。正月に甘酒飲まなくちゃ東京の人になれないぞ。」大半は埼玉県民である。しかし江戸時代には甘酒は夏のものである。
     一軒の店の松飾りの前で宗匠が立ち止まって首を捻っている。「これって逆じゃないかな。」私はこういうことに全く疎いのだが、長さも太さも違う三本の竹を結えてある。その最も長い方が外側を向いているのがおかしいと言うのである。二つ並べた時に、中央が高く山形になっている方が美しいというのが宗匠の判断だった。千意さんはこういうことに詳しそうだが、知らないようだ。
     明神下に着くと天野屋の店頭では鍋を出して甘酒を売っていて、大勢が立ったまま飲んでいる。講釈師、姫、チロリンたちは早速並んで財布を広げる。ここにも門松が飾ってある。こちらはさっきのものとは反対で、宗匠の主張する通りの配列になっていた。「さっきは左右の置き方を間違えてたんじゃないのかな。」しかし、こんな記事を見つけた。

     玄関の前に左右一対に並べます。三本の竹のうち一番高い竹が外側に来るのを内こぼれといい、福を入れるという意味になることから、商売繁盛を願ってお店や会社などがこの飾り方をします。逆に一番高い竹が内側に来るのを外こぼれといい、悪いことを外へ追い払うという意味から一般家庭でよく飾られます。 (丸紅ホームギャラリー)
     http://www.marubeni-sumai.com/club/column/ejy_17_01.html

     商家と一般家庭とで逆の置き方になるという説だ。左右をくっつければ、真ん中が高い山形になるか、それとも逆に真ん中が窪んだ形になるか、その違いだ。それなら、この天野屋の方が逆を行っていることになる。しかし、反対のことを言うサイトもある。
     門松なんて真剣に観察したことがなかったが、色々な門松の写真を見ると、真ん中後ろに長い竹を組むものもあり、その場合にはこの理屈が通らない。またこれとは違うことを言っているサイトもある。

     三本組の場合は、二番目に長い竹がそれぞれ外側になるように置きましょう。(日本の角松http://kadomatsu-japan.com/placement/)

     これは、一番長いものではなく、二番目に長いものに注目する方式である。このサイトの写真を見ると、長い竹が外側になっている。なんだか、地方によってもいろいろありそうで、自分たちがやっている方法に、それぞれ後付けで理由をつけているような気がする。
     大体こういう形式的なことを喧しく言うようになったのは、高度経済成長以後のことではあるまいか。昔はもっとおおらかで、様々な形があったと思われる。

     今日では、門松の形が全国的に略きまつてしまひましたが、以前は、いろいろ違つた形のものがあつたのです。今日の様な形に固定したのは、江戸時代に、諸国の大名が江戸に集つた為に、自然と或一つの形に近づいて行つたのだと思ひます。或は、今日の形は、当時最勢力のあつたものの模倣であつたかも知れません。
     絵で見ますと、江戸時代のものにも、葉のついたまゝの竹が、松よりも高く立てられてゐるのもあり、松だけのものもあり、更に変つた形のものもあつたらしいので、「松枯れで、武田首なきあした哉」の句は、松平と武田とを諷したのでせうが、形が、略今日東京で立てるのと似てゐた様に思はれます。
     今日東京で立てますのは、削いだ竹が中心になつて、それに松があしらはれてゐるのが本式とされてゐます。今では、此形が全国的にまねられてゐるのですが、それでも、古い習慣を守つてゐる地方には、尚、お国風と見られる、松が主になつて、その根元に笹の葉が挿されてゐるもの、松だけが柱に結ひつけられてゐるもの、その他色々違つた形のものがあります。此らを見ますと、一体門松は、竹が中心なのか、松が中心なのか、と考へて見なければなりません。(中略)
     日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。・・・・
     山人が持つて来た土産には、寄生木・羊歯の葉、その他いろいろなものがあつたので、今も正月の飾りものになつてゐますが、削りかけ・削り花なども、その一種だつたのです。太宰府その他で行はれる鷽替への神事は、その交易の形を残したのでせう。鷽も、削りかけの一種と見られるからです。里の人達は、これらのものを山人から受けて、これを、山人の祓ひをうけたしるしとして家の内外に飾つたのでした。
     これから考へて見ますと、門松も、やはり山人のもつて来た山づとの一種であつたに相違ないのですが、其木は必しも一種ではなかつたかと思ひます。(折口信夫『門松のはなし』)

     既に皆が飲み終わったのに、姫の甘酒はなかなか終わらない。「猫舌なんですよ。」「どんな舌だい。」それでも何とか飲み終わって、「お腹からポカポカしてきちゃった」と満足そうに言う。それでは行こう。

     甘酒を手で温める松の内  蜻蛉

     「あんこう鍋がある。」「いせ源ですね。」千代田区神田須田町一丁目十一番一。天保元年創業、都内唯一の鮟鱇料理専門店を名乗る。「アンコウは美味いよ。」「そうだよ美味いよ、アンコは。俺は餡蜜がいいな。」講釈師とは話がまるで噛み合っていない。すぐ傍に甘味処があったのだが、これでは老人会になってしまう。「今は三時かな。」「違いますよ、三時です。」「そうか、三時だと思った。」マリーがこんな小咄を口にして笑っている。
     「今日は鮟鱇鍋と洒落ましょうか。」店の前の看板を見ると、鮟鱇鍋一人前が三千四百円だ。これは意外に安い。「さくら水産だって三千円弱なんだから、頑張れば入れますよ」と千意さんが言うが、これに酒がプラスされるし、他にツマミも頼むだろう。どうしても五千円は超える筈だ。「そうか。」
     旧万世橋の名残の赤煉瓦に、「御成道」の立札が立っていた。江戸城から神田御門(今の神田橋)を渡り、本郷通りを北に進み、やや北東に針路変えて淡路町交差点付近を抜ける。淡路町交差点の北側を通って、北東へ進み、外堀通りに沿って神田川に至る。昌平橋と現在の万世橋の中間にあった筋違橋を渡り、秋葉原から上野に至る道である。
     「来月もこの辺を通るのかな。」「そうなりますね。」来月から偶数月に開催される日光例幣使街道も、丸の内からこの辺を通り、ほぼ今日歩いたコースを辿って本郷追分に向かうのである。残念ながら来月の第一回に私は参加できない。横の会とぶつかってしまったのである。
     淡路町交差点の少し東、靖国通りの裏の道に「神田青果市場発祥之地」碑があった。千代田区神田須田町一丁目八番。江戸草創期の草分け名主で神田多町に住む河津五郎太夫が、現在の多町二丁目付近で野菜の市を開いたのが始まりと言われている。更に明暦の大火(一六五七)後の市街再編で青物商が集められたために、巨大な市場が形成され、駒込、千住と共に江戸三大市場と称された。
     「ここから秋葉に移転したんですね。」「それから今は蒲田だよ。」「大田区ですね。」秋葉原に移転したのが昭和三年のことである。
     「ヤッチャバってどういう意味なんだい。」ドクトルが講釈師に尋ねているのが聞こえた。私も知りたいが、講釈師も正確に知っている訳ではなさそうだ。「符丁じゃないかな。」競りの掛け声が「ヤッチャヤッチャ」と聞こえたことによるらしい。
     「二十二代庄之助」という和菓子屋があった。千代田区神田須田町一丁目八番五。「この店の最中が美味いんだよ。」講釈師は何でも知っている。ウィンドウには昭和三十年代の番付表が飾られている。「栃錦、若乃花、朝汐ですよ」ときちんと確認するのはダンディだ。朝汐は張出横綱である。大関には琴ヶ浜、若羽黒の名前も見える。
     この庄之助は、木村金八、信之助、木村錦太夫、初代木村林之助、初代木村容堂、十二代玉之助、十八代式守伊之助と進んで立行司に上りつめた人である。百四歳まで生きた。女性陣は余り行司のことに詳しくないようなので、ちょっと説明しておこう。木村家と式守家の二家がある。
     結びの一番を裁くのは木村庄之助、腰に短刀を差し、白足袋、草履を履き、軍配の房は総紫と決められている。第二位が式守伊之助、これも短刀、白足袋、草履は変わらず、紫白房の軍配を持つ。この二人を立行司と呼ぶ。東西の横綱のようなものだ。
     三役格は白足袋、草履を履くことができるが短刀はなし。軍配は朱房である。現在、十六代木村玉光、四代木村正直、十一代式守錦太夫がいる。ここから上を草履行司と呼ぶこともある。更にその下に幕内格(草履なし、紅白の房)、十両格(青白房)、幕下格以下序の口格(素足)まで続く。幕下格の真ん中辺りまでは木村(式守)の下は本名を名乗ることが多いようだ。昇進するに従って先輩や由緒ある名跡を襲名する。
     「ここにある式守伊之助はヒゲの伊之助でしょうね。」しかしダンディは「ちょっと時代が前じゃないか」と言う。私も実際の姿は以前テレビで放映した名場面集で見ただけだが、『若羽黒物語』なんていう子供向けの物語があったのだ。ヒゲの伊之助は若羽黒を可愛がっていた。久保田万太郎に「初場所やかの伊之助の白き髭」の句がある。
     しかし、その第十九代式守伊之助は若羽黒が関脇で初優勝した翌場所かに引退しているので、この番付にあるのは第二十代伊之助の方らしい。ダンディの記憶が正しかった。
     それにしても二十二代木村庄之助がどうして最中に関係するのか。調べて分かった。木村庄之助の息子が開業した和菓子屋だ。軍配を象った最中が売り物になっているらしい。そう言えば明日から初場所が始まる。「買ってもいいよ。」「いいです。」姫は無理をしている。

     初場所を待つて我慢の最中かな  蜻蛉

     「コーヒーはさ、ご主人様、御帰りなさいませっていう所に行こうぜ。」「何のことかな。」「メイド喫茶じゃないの。」「そうか。」しかし講釈師は口先だけである。「俺、想像しちゃった。ハイジがそういう店にいるんだ。」「フリフリのミニでね。」「自分でギョッとしちゃうわ。」
     しかし宗匠が連れて行ってくれたのはVEROCEである。全員がまとまって座ることはできず、私が座ったのは偶然にも喫煙席の一画だった。「分煙が明確じゃありませんね。」この店のコーヒーはカップが大きい。時間潰しのためで、特にコーヒーを飲みたい訳ではないのだから、こんな大きさは要らないのだけれど。
     三時半を過ぎた頃に店を出る。宗匠はここで解散を宣言したが、どうせみんな秋葉原駅まで行くのである。講釈師の好きなメイドが数人、通行人にビラを配っている。「貰わないの。」そんな度胸はないのだろう。講釈師は視線も合わさない。チロリンとハイジはJRの改札に向かった。講釈師は別の方に行こうとする。「メイド喫茶に行くんだな。」「違うよ、千代田線に乗るから。」本日の行程歩行距離は一万四千歩。八キロから九キロになった。

     構内を抜けて東口に出ると、ヨドバシカメラの向かいにさくら水産の看板が見えた。小さなビルの地下と二階にあるらしいが、看板に電気が入っているのは地下の方だ。宗匠が偵察に行くと、あと十五分待てと言われたようだ。「中途半端だな。」「ヨドバシカメラにでも行きましょうか。」「それじゃ終わらなくなっちゃう。」
     「ダンディは帰らなくていいんですか。」入院ではなく、奥さんは自宅に帰っているというではないか。「大丈夫ですよ、娘がいるから。」「一生言われるんじゃないですか。あの時、私を置いて遊びに行ったって。」同級生の家庭の平和を心配してヨッシーも笑う。
     五分もしないうちに入って良いと呼ばれて、狭くて急な階段を下りる。どうやらランチタイムの最終時刻のようで、ちょうど我々が座れそうなテーブルでは、三四人が飯を食っているところだ。その隣の中央に人が入れる大きな楕円形のカウンターに座って待機する。
     しかし、四時を過ぎても一人だけ飯を食い終わらずに粘る客が残っているため、結局この席に落ち着くことになった。向かい合った人との間が遠くて不便だが仕方がない。十四人の反省会だ。「久しぶりに多いね。」「新年会だからね。」
     今日は焼酎ボトルを最初から二本頼む。向かい側とこちらの両方で作る作戦だ。それにしても桃太郎が注文係を担当すると、これでもかと言うほど料理が出てくる。「こんなに多いのかい。」「とても食えないよ。」焼酎も、それぞれ一センチほど余してお開きとなる。三千百円也。
     カラオケ館に行くのは、姫、マリー、碁聖、画伯、千意さん、蜻蛉の六人だ。皆相変わらずだが、千意さんの進歩には驚いてしまう。やはりちゃんと習うと違うものらしい。逆に今日の私は全くダメだ。息が続かず高音が出ない。「どうしちゃったんですか、珍しい」と姫は言ってくれるが、「もうダメになっちゃったんじゃないの」とマリーは厳しい。これでは完全に千意さんに追い越されてしまった。

     東北の雪を心配したばかりなのに、十四日(火)には関東にも大雪が降った。都内に比べると我家の周辺の雪はそれ程でもなかったが、首都圏は雪に対して全く無防備である。

    蜻蛉